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はじめて逮捕されました 横堀幸司
ワープロ筆談・第2弾 高橋悠治 八巻美恵
私のベスト10――九八六年下半期 津野海太郎
キリコのコリクツ 玖保キリコ
山がない(3) 巻上公一
料理がすべて 田川律
「カフカ」ノート 高橋悠治
走る・その十一 デイヴィッド・グッドマン
編集後記
はじめて逮捕されました 横堀幸司 あー、ほンとに凄く国際化して来た時代だな。水牛のはちまきさんはフィリピンだと言うし、日教組の小夜子さんは有給休暇使い捨て丈の為ベネチア を散策すると言うし、渾大防は腰の下重いにもめげず衛星とかに打ちまたがって世界をかけめぐるかの勢いだし、ぼくはと言えば荒寥たる日本映画創りに真底倦 んで、“肉体が嫌がる事やると精神が歪む”とか言ってニューヨーク映画祭へ逃避行をして来たし、そんな秋の夜長、前記三嬢と青山で酒ば飲んだとです。なん か受ける話ばせんとこの人達すぐ帰っちゃいそうでそれが悲しく、“ね、ネッ、オレ、この春逮捕された話知ってる? 二泊三日”と言ったら“ナニ? ナ ニ?”と乗り出して来た。――で、結果、その一部始終をここに書かざるを得ない破目に陥ったという訳です。乞秘密保持。
事件は東京サミットが行われていた四月一日の早暁(と言うても午前一時頃)発生致しました。何故日時にこだわるかと言えば、後にぼくを取調べた刑事が“お 前の話はエプリルフールだろ?”と洒落た事言うたからです。この話も、だから全くの出鱈目、エプリルフールだと思って聞いて下さい。
その夜、ぼくは、ぼくのボス木下恵介監督が当時撮影中の映画“新・喜びも悲しみも幾歳月”の宣伝にまつわる松竹社報誌の打合せに消耗困憊しておりました。 理由は簡単。その編集長は古き良き映画時代への郷愁切なる方でわがボスの新作を、旧作のイメージで売る事こそが大ヒットへつながる道と信じて疑わない、ヌ エのような松竹体質の典型的人物でした。そもそもぼくはこの映画の企画自体に反対でした。東宝が市川昆で“ビルマの竪琴”をあてたから、松竹は木下で“二 十四の瞳”を、という発想がまずあって、勝算なきを理由に木下が断ると、それなら“喜びも悲しみも”で、と作品をスライドさせただけなんです。え? 灯台 守の話を今? と、ぼくは、わがボスもついにぼけたかと思ったものです。今結果から言えば、木下さんはこの新作で、自己の遺言まがいの、悲痛な老人問題の 秀作を世に贈りましたが、このミーティングの時は撮影の真最中、ぼくは“花のチーフ助手”(?)として決して勝つ事のない戦いに参戦を強いられていたので す。「大ヒット間違いないですよ。なんてったって、題名がいいもんねえ。リメイク、新作、関係なし。歌がいい、オイラ岬の……」会社伝票処理故にビルの喫 茶店で彼が得意気にオーダーしたのは、一番安いスコッチボトル、つまみはチーズクラッカーとおしんこ。「木下組って皆さんオシンコ上んないんですってね え。今日は先生いらっしゃらないから召し上がれるンでしょ? ホホ……」――この如何とも為し難き湿り、衆愚、歯抜けで口を抑える仕草、そして隠れてス コッチを啜る貧しさ! まるでわが社の映画のようだッ!――五〇才の新鋭映画作家にとって(ぼくの事ですが)この酒席が悪酔いの源泉であった事は明白で す。
「今から帰る」と愛しの妻香代子さんに電話したのは、都営浅草線の終電発車の頃でした。地軸が遊動円木のように揺れ、中延で乗換える筈が終点東馬込迄寝過 しました。時は春、日は早暁、馬込でタクシーをつかまえんと必死のぼくでしたが、なにせ強烈な千鳥足。止まる車は次々と他人を乗せて発進してしまうので す。――ぼくはひどくフラストレートしました。
ふと眺めやれば第二京浜国道は深夜の春ガスミ、街灯にほんのり浮きたって、なんと沿道にはルイルイと警察官の人形達が、七、八メートルおきに並んでいるで はありませんか。ふうむ、東京サミットで警視庁は、地方の街道に立っているゴム製、木製の全ての人形を羽田周辺に運び込んで来たのか……大した移動力だな ア、とつくづく感心致しました。同時にひどく腹も立ちました。先刻からぼくは、ここでタクシーを止めようと手をしきりにあげ、止まったタクシーに乗り込も うと試みているのに、後から来た人々が次々と乗り込んで発進してしまうこの種の不公正(アンフェア)は、日本では警察官が取締まるべきものではないの かッ!――でぼくは、一番近くに安置しますオマワリさんの人形(五、六メートルしか離れておりませなんだが)にツカツカと歩み寄り、“なんがポリ公が じゃ!”と叫んで、平手で思いっきりその人形の横ッ面をはったのです。ピシャン! ととても良い音がして、瞬間掌に暖かい肉感がありました?!――しまっ たッ! と思ったのと「ナニスッカァ!!」とのオマワリの声が同時でした。あっという間に道路にたたきのめされ、七、八メートルずつ先の、ゴム人形とばか り思っていたオマワリ達が二、三人走り寄って来て、暗がりでドスンバタン、蹴られ殴られ、「ゴメンナサイ! ゴメン! 人形と思ったんだよオー!」との叫 びも空しく、気づけば手錠かけられてパトカーの中、ふっと意識が戻った時は、深夜の取調べ室の中でした。
弱い犬は吠えると言うのか、殴られた腹いせもあってか、ぼくは取調べの刑事にこうまくし立てていたようです。「本物だと思ったら殴る訳ないじゃない……と に角拘留して調べるんだったら、ぼくも弁護士を申請しますよ。芝法律事務所に葉山水樹って人が居るから、その人呼んで下さいよ。一切の弁護を彼に委任しま す!」――アメリカ映画の見過ぎなのです。後から分った事なのですが、まずまずいのがこの池上警察署。大田区では公安関係に最も強く、ぼくの調書を取った のが、腕きき叩き上げの公安専門刑事、おまけに軽々しく名前をあげたわが友葉山水樹氏とは、マスコミ反戦など盛んな折、わが盟友味岡亨のNET闘争の弁護 を一手に引受けて、その後所謂新左翼の需要ひきも切らず、公安なら知らぬ者なき逸材なのでした。それとホラ、われら固有のストレンジ・ヴォキャブラリイ ――つまり当局はサミット開催中、一寸でも体制に楯つきそうな人物は、全て幽閉したい意気込みだったようです。飛んで火に入る夏の虫、とはこの事です。そ うとは露知らぬ可哀相なこの映画作家は、さながらチャップリン映画の主役もどきに、「マスコミに知れたら困るんだよ」とか「明日迄はいいけど、あさってか ら撮影があんだからね、俺がいないと撮影絶対止まっちゃうんだからア」とか虚勢のはりっ放し。それでも鉄格子前のカウンターの高台で、パンツ一丁の裸にさ れ、それもぬげと言われて膝迄さげて、どこにも身体に外傷なきを確認された後、今からあんたは廿六番としか呼ばれないからね、とアイデンティティも剥奪さ れて、同房、白髪五分刈りの、頭だけがちょこんと見える小男の、隣りのせんべ布団にくるまって、足をちぢめて眠ることとなったのです。あー、俺もたいした もんだ、とうとう留置場に泊る体験を得たぞ、これで味岡たちにも肩身が広い……だが、女房殿心配してるかなア、していないな、キット……と一寸悲しく、後 は白河夜舟となりました。
同房の男は前科七犯のペテン師で、手形パクりの専門、眼光烱烱たる六〇位のおもしろい男でした。「いやア、いい方と一緒になったなア……そうですか(大き く頷き)映画監督ねえ。でも愉快だなア、人形と思ってオマワリを張る、漫画チックでいいじゃないの。すきだなあそういうの……(声を低め)でも、そのオマ ワリ、あんなより、もっとびっくりしたろうね! アッハッハッ(と身をよじる)」
「軽い軽い。一寸お灸すえられて、今日の午後には釈放ですよ。警察の事ならなんでもあたしに聞いて下さい。そいっちゃ悪いけど、ここに入ってる奴等とは月 とスッポンですよ。丁度あんたみたいなもんです」
――仲々うまいのです。
「いいかなア? ひとつだけ甘えても。あのね、午後に釈放されたら、出たとこにスーパーがありますから、そこで週刊ベースボール差し入れてくださいな。長 いこと入ってっと、ホント活字文化に飢えますよ。この週刊明星ね、今日も一回読めば六度目ですけどネ……飽きるねえ。週刊誌ってのは、六度も読むもんじゃ ないスねえ」
――古本なら安いからと、松本清張から司馬遼太郎迄、オッサンの知ってる作家の本を全部差し入れる約束をして意気揚々、取調べ室に引き出されたのはお昼 過ぎ。「謝っちゃいなさいよ、素直に。それしきゃないですからね」とのマイ・バディの忠告を胸に「お早ようございます。昨夜は御迷惑をおかけしました」と 明朗に振まうぼくに、担当官は澄んだ目を決してそらさず、“葉山弁護士を頼むように今朝奥さんに電話しといたからね”とふわっとのたもうたのです。瞬間、 あれ? となって、そんな弁護士頼む程の大事件じゃねえだろうによッ、と思う表情をつと抑えて「そうですか。で女房は何て?」「がっかりしてたよ。いい薬 だから反省する迄いれといて下さいってサ」――でじっと人の眼を見ている。「昨夜の事は話してくれたんでしょ?」「うん、酔って警官に暴行を働いたから泊 めてあるってね」「暴行じゃないですよ、人形と思ったんだもの」「さ、そこさ、問題は。君は人形と思ったと言う。なぐられた警察官は、はじめから君の挙動 の一部始終を見ていたそうだ」「はあ」「君は確かにタクシーを止めてはいたが、車が止まると何故か後ろに下がって乗ろうとしないって言うんだよ」「?!」 「その間に人が乗る。すると又君が手をあげて車を止める。又乗ろうとしない。そのうち向きを変えて急に警察官に近ずいて来た。“どうかしましたか?”って そのオマワリさんは親切に君に尋ねたそうだ。そしたらいきなり“なにがポリ公だッ!”って叫んで殴ったって言うんだよ」「何も抑言いませんでしたよ。黙っ て顔、こうつき出してたから、てっきり人形と思って――」「相手は心配してて呉れてたんだゾ」「……悪い事したなア、心配して呉れた人ぶっちゃったりし て。すみませんでしたってホントに謝っといて下さいよ」「彼は怒ってるよ。取り抑えようとしたら、今度はすごい眼むいて掴みかかって来たそうじゃないか」 「そんな!! ぼくはすぐゴメンナサイって言いましたよ。でも地面に押し倒されて……」「自分で転んだそうだよ、尻餅ついて」「そうかなア……」不満なの で痛む顎をなでた。「どっか痛むのか?」「ゆうべオマワリさんにぶたれたみたい」「(呵々大笑して)オマワリさんはぶったりせんよ。君はオマワリがぶつと 思うの?」「え? ぶたれたと思うけど、ぶたれなかったのかなア……」――全然眼をそらさないので思わず眼を落としました。偽証者は眼をそらすとか言うけ ど、男女だってずっと見つめてたら照れ臭いんだゾオ。と、刑事殿はこう申しました。「今から公務執行妨害という事で取調べますからね。自分の不利になる事 は答えなくても結構です」彼は几帳面に供述調書の下にカーボンを差し込みました。
結局取調べは七時間にわたりました。彼が自筆でどんどん供述調書を作文して行く。出生、本籍、経歴、家族関係。生まれが満洲は何故? 中国には何故行って いたのか?(君イ、二才から三才の時ですぞオ!)いつの間に取りよせたのか、机上にぼくの戸籍謄本から交通違反のカード迄ちゃんと積んである。はじめ戸籍 や学歴は、本人が嘘をつくかどうかの参考資料にするのだろう位に思っていました。だから退屈せぬように、心証良きようにと冗舌とさえ思える程自由に話しま した。どうせ夕方釈放なら、この刑事さんを退屈させても可哀相やし、お互い時間は楽しく過しましょうやとの思いで。だが途中からなんだか変だなと思い出し ました。彼はどんどん彼流に作文を書くのです。曰く「私はこれ迄一度もオマワリさんに敵意を抱いた事もなければ、反感を持った事もありません。警ら中の巡 査をみても、御苦労サンと思うことが多かったと思うのです。ですから制服を着て、非常警戒中の警察官をなぐるなど、私としてはとんでもない事です」――そ うだね? 書いてから念を押すのです。ウイ、オア、アグリー……だってそうじゃありませんなどと言える立場にいないのですもの。「公務執行妨害ってどうい う罪か知ってるね」「知りません」「知らなイー?」「公務を執行中の人をなぐったりすることでしょ? 駅員なんかをなぐっても公務執行妨害ですか?……で すね」――われながら間の抜けた応答だと思いました。でもイノセントな表情のまま、アット・ユア・サービスです。でもほンとにその時、ぼくは公妨の量刑を 知らなかったのです。今公妨には罰金刑はなく、懲役三年迄の実刑あるのみです。勿論確定すれば前科です。米国への観光ビザはおろか、パスポートも発行され ません。水牛周辺の国際化の波にも立遅れてしまうのです。――「君はいい友達を沢山持っているみたいだねえ」さり気なくそう言った刑事のひと言に一瞬ぼく は背筋が寒くなりました。彼は明らかに何かを意図している。ふっとそう思った時、彼の机の上の結構厚手の書類が気になりました。そう言えば先刻、わが息子 のことを述べていた時、チラとその書類をくって、「子は親に似るっていうけど、君んとこもそうだなア」と皮肉な目をしたのを思い出しました。マイ・サンは 中学の折、ボーリング場の靴をはいたまま逃げたりして、この警察署で補導されたことがあるのでした。と共に、あ奴こ奴――何度も家迄彼等とのかかわりを聞 きに来た公安の顔や、あ奴こ奴の為差し入れに行ったいろんな警察署で、無理矢理住所氏名を奪われた事やが走馬灯の如く戻って来ました。つまり驚異的な日本 警察は、いつの頃からかどこかでオーバーラップしてくる人物達の資料を着実に取り揃えていると思えたのです。現に共同通信のわが兄は、翌朝から弟の解放の 為眼のさめるような暗躍をしましたが、その時警察は“警察権力への彼独特の反感”を調査するのだと言ったそうです。“いつ迄も泊め置くよう”指差した妻 は、翌朝六時から車で署をはっており、護送車につながれる夫を見て、“大事な夫を帰して下さい”と撫子の如く哀訴懇願したようです。何人かの友人の工作に 対しても“その左翼的傾向が問題”との返事が返って来たそうです。そうとはしらぬわがイワンの馬鹿は、警官を人形と思ったか否かの一点を立証しようと、刑 事殿の供述調書の記載に悪戦苦闘していたのです。一言で言えば、担当官はぼくの供述書を全く体制的供述で埋めつくして、ぼくの資料と対置矛盾するよう心血 そそいだ名文を書いたのです。結果は何か? 彼の過去のデーターと照応する限り、この供述は出鱈目である。よって本物の警官を人形と思ったとの彼の申し立 ては全くの虚偽である。彼は敵意に満ちて真正の警察官を殴打したのだ。
いかなる方便で検察庁内で釈放をかち得たかは飲んだ時にでもお話しましょう。検事は“映画じゃないんだゾ!”と叫びましたし、ぼくの捕縄を握っていた警察 官はぷっと吹き出しました。公妨は外れて五万の罰金刑になりました。晴れて自由となり差し入れの本を大量に買い入れて池上警察署に戻りました。「困るよ困 るよ。同房の出し入れは受付けないんだけどなア」看守は困った顔を向けました。担当刑事が出て来て“判決文はコピーするからね。ファイルしといてやるよ” と人の肩をドンと叩きました。
高橋 またワープロ筆談、今度は家庭版です。11月17日から4泊5日でフィリピンに行 きました。といっても、マニラのはずれ、ケソン市のフィリピン大学周辺をほとんどはなれなかったわけだけど、作曲家で音楽学者のホセ・マセダの論文集を来 年日本で出版する話が決ったので、一応着手と打ち合わせ、ということで、でも本当のところは、もう5年も日本をはなれていないので、どこかちがうところへ 行きたい、ある晩マセダに電話をかけて、来月行きたいがマニラにいるか、とたずねてみたところからはじまった旅行でした。同行者はフィリピンははじめてだ そうです、まずは感想をきいてみることにしましょう。どうぞ。
八巻 マニラ空港は、いつだったか大阪からタイに行ったときトランジットで休憩したこと があった。その飛行機に乗りあわせたフィリピンの人たちは飛行機の車輪がマニラ空港の滑走路にふれた衝撃を感じたとたん、やんやの拍手、ほかのお客もつら れて笑ってしまうのだった。今回もそっくりおんなじで、またわたしはつられて笑ってしまった。空港のビルを出ると、体中にまとわりつく暑い空気、車の排気 ガス、ひっきりなしのクラクションの音、タガログ語のひびきなんかが一気におそいかかってきて、ああ、よそのくにだとおもう。マニラ空港のビルはバンコク の空港ビルとくらべると立派だけれど、そこを一歩出れば似た風景がひろがっていたから、たぶんフィリピンの方が落差が大きいとこなんだろう、と推しはか る。フィリピンも島国だけどなにかひろびろとした印象。大通りに面したおおきなビルのいくつかは、ガラスが割られたりしたままだれもいないみたいだった。 二月の政変と関係あるのかな、とまた推しはかってみる。
高橋 空港にむかえにきてくれた人となかなか会えなかったりで、大学のすぐそばのホテル に着くまでに3時間もかかってしまった。そのホテルは大学の施設なんだけど、へやのそれぞれに有名ホテルの名前がついていて、インテリアを似せてあるらし い。へやごとに内部がちがうんだ。カフェテリアは「マニラで一番おいしいコーヒー」をホットプレートであたためている。これがインスタントでね、豆を挽い たコーヒーはその後どこでも見なかった。
「たいへんな日にきたね」と、みんなに言われた。クーデターのうわさもあったし、人民党のオラリア議長の暗殺、日本のビジネスマンの誘拐事件が起こったば かりで、その日はオラリア暗殺に抗議するゼネストが予定されていた。もう一つみんなが知りたがったのが、その前の週に日本に行ったばかりのアキノ大統領が どのようにむかえられたか、ということね。いままで政治の話を、すくなくとも人前では、したことがなかった人たちが、こういうことを議論しているのを見 て、時代が変わったと思った。同時に、日本にずっとくらしているおかげで、ぞっとするくらいシニカルになっている自分に気づく。人の希望も手ばなしでよろ こべない、という風になっているのね。オラリアの遺体は大学の礼拝堂、これが円形で壁のない建物なんだけど、そこにずっと安置してあって、いつも人があつ まっている。
八巻 着いた日の夜その礼拝堂の前を通ったら、まわりには屋台がいっぱい出て、ほんとに あふれるほどの人だった。帰る前の日が葬儀。フィリピン大学の構内にすんでいるマセダ先生から朝電話で、すごい人だから見にきてごらんと言われて、ジプ ニーを乗りついで行ってみた。わたしたちが着いたときは、ミサも終わり、オラリアとかれの運転手のふたつのひつぎを先頭にマニラ市内を縦断するデモに出発 するところ。見渡すかぎり、たくさんの人で、先頭が出発したあとも、どこからか歩いて礼拝堂に到着する小グループはあとをたたず、いったいどれだけの人が いたのだろう。全体を知るには夜のテレビニュースを見るにかぎる。夜は不穏だから八時にはホテルに帰るようにと心配性のマセダ先生が言うし、言うだけでな く毎夜九時にはチェックの電話がかかってくるので、夜はおとなしく、もっぱらテレビを見てすごす。その夜はとにかくオラリアの葬儀デモを見るのを楽しみに していたが、ニュースの時間にはまだ時間がある。チャンネルをガチャガチャとまわしていると、ソニア・ブラガが出ている。あれ? とおもって(ソニア・ブ ラガとは「蜘蛛女のキス」という映画に出たブラジルの女優)見ていると、これはコズビー・ショウというホームドラマで、かのじょは、いわば「今夜のゲス ト」として出ているらしい。コズビー氏は産婦人科の医者。その息子のコワーイ教師がゲストの役で、妊娠したためコズビー家をおとずれたついでに、息子に勉 強に対する意欲もわかせてしまうという単純な、しかしうらやましいおはなしで、つい終りまで見てしまって、肝腎のニュースを見逃したのだった。家に帰って から水牛の前の号を読むと、デイヴィッド・グッドマンがこのコズビー・ショウのことを書いているではないか。わたしがこの番組をフィリピンで見たなんて、 さすがのかれも想像しなかっただろう。テレビはほかにもおかしいのがあったよね。
高橋 身の上相談番組。和解した中年の夫婦が愛の二重唱をミュージカル調にうたっている そばで、その娘が手話で「愛してる」などとやっている。その後でカウンセラーのおばさんが二人、「かのじょは夫を責めなかった。かれのいいところだけを見 ていた。神さまのおみちびきで、あくまにかって、家庭は救われたのです」と、唾をとばして論じている。迫力あった。だいたい英語番組を見たわけだけど、そ こでもタガログ語の部分はあるし、タガログ語のコメディーの合間に英語のフレーズがでてくるし、ことばについてはまったくちがう感覚をもっているのだろう ね。フィリピンのなかにはタガログ語では通じない地方だっておおいんだから、くにという感覚だってちがうはずだ。マニラの下町キアポの教会では黒いキリス ト像の前で祈っている人たちがいる。死ぬことについても、ちがう風に感じているだろう。オラリアは拷問されて殺された。それが政治的に意味のある事件だっ た、という以外に、そんなひどい死にかたでも、ふつうの人がふつうに死ぬのとおなじだけの意味をもっているのではないか、と逆にかんがえた。われわれの社 会ではこんなことはないだろう。死は事件でありうるが、意味はなくて利用価値があるだけだ。生きることもおなじだな。
八巻 ことばがふたつあるのは、うらやましいという気持も含めて、いいなあとおもった ね。でも、町のなかできこえてくる、つまり機能しているのはやはりタガログ語なのだった。ニュース番組を見ていても、事件の説明は英語だけど、それにたい するちょっとしたコメントなんかはだいたいタガログ語だった。ということは、わたしたちには一番おもしろそうなことがわからなかったわけです。
はじめにマニラはひろびろとした印象だといったけれど、この印象がますます強くなったのは、シューマートというチェーンのスーパーマーケットに行ってみ て。大学のそばに新しくできたやつで、とにかくだだっぴろい。なんでもあるよ、とマセダ先生が言うとおり、やたらにひろい売場に、ほとんど、なんでも売っ てはいるが、買いたいものはなにもない。二階の両端には映画館が四館づつ、計八館もある(もちろんシューマート内の同じ屋根の下に)。あ、このスーパーで 時限爆弾が爆発したのも、われわれがいたときのこと。まったく「わざわざこの週を選んで来たのか?」と言われてもしかたない。ところでいろいろめんどうを みてくださったマセダ先生とはいつからの知り合いなんですか? かれの愛車、緑色のヒルマンはすごかったな。マニラで一番ふるい車だ、といばっていただけ のことはある。乗ってバッタンと力まかせにドアをしめると、その振動で鉄の粉が上のほうからふってくる。雨がふると足元に水がたまる。ワイパーがないの で、タオルでフロントグラスをふきふき走る。暑いから窓をあけようとしても、マセダ先生以外のいうことをきかない、という調子。なんだかその頑固さが持主 と似ているみたいでさ。
高橋 マセダと知りあったのは一九六六年だった。ユネスコ東西音楽会議の時。長い指揮棒 で現代音楽アンサンブルを指揮していた。おどろいたのは、その時のかれの作品「アグンガン」で、60個もゴングを使った曲なんだけど、風がさらさら吹きす ぎるような音がしていた。フランスやアメリカに留学していたし、ピアニストだった時期もあるらしいけど、いまはぜったいに西洋楽器を使わない。竹筒とゴン グばかりで、それも何百人もの演奏者が必要だったりして、それぞれの楽器がかってなことを、しかもむつかしいリズムでやっている。それを学生がかなりいい かげんに演奏しているんだけど、それでいて全体はふしぎにデリケートなんだよね。中国やインドともちがうし、もちろん日本的な感覚とはまったくちがって、 たぶんあれが東南アジアの感性なんだろう。こんな音はコンピューターではできないだろう、とすぐ言うわけ。たしかに何百人がすきかってにやってる音は、ど んな機械よりも複雑な味がある。マセダにしては例外的に少ない人数、といっても30人のための曲の譜面は、やっと製図机にのるくらいの大きさだったので、 それをだしてきて、くわしく説明してくれた。「スリンスリン」という曲で、10本の笛は全部調子がはずれている。それがおなじことをずれながらやってい く。それだけでへんな気分になってくる。
今度の目的のひとつは、鼻笛のレッスンだった。週一回、音楽学校にカリンガ族の講師がくる。これがすごいハンサムな人で、目と髪がきれいだとおもった な。生徒はアメリカ人の音楽学者と、北京からきた中国人の音楽学者だけで、アメリカ人の方は自分でつくった笛をもってきた。それはよくできているけど、模 様がない。その模様に意味があって、だいじらしい。でも、笛はむつかしかった。管を頬にあてて音のでる位置をさがすんだけど、高い頬骨をもたない人はどう するんだろう。この人たちは今頃は台湾に行っているはずだ。音楽会議でアイヌと高山族とカリンガ族が出会うんだって。
八巻 カリンガの音楽の生徒はそのふたりだけではなくて、もっとたくさんいた。名簿が あったもの。だからかれが二時から五時までいるあいだに、生徒は好きなときにレッスンを受けにいく、というシステムなのだとおもう。かれはほんとに美形 だった。褐色の膚も印象的だった。カリンガの男たちはそれぞれ自分でつくった鼻笛をもっていて、夜になるとそれを吹いてすきな女のひとを呼ぶのだそうだ。 世界にひとつしかない笛の音をきけば、あのひとが呼んでいる、と女のひとにはわかるのだ。鼻で吹くと息の量が口の半分になるから、音量もちいさなものにな る。でも静かなカリンガの村ではよく通って聞こえるということだった。
そうした山岳地帯に暮らす少数民族でマニラのスラムの住人になってしまったひとたちも、またたくさんいるらしい。交差点で止まる車に寄ってきてお金をく れと手を差し出す、見るからに疲れきった女のひとに、マセダ先生はコインを手渡したことがあった。顔をみれば山から来たひとだとわかるのだ、と言って。
高橋 有名なマニラ湾の夕日を見られる高級ホテルのならぶ通りにも、くずれかけたビルや 草のしげった空き地があって、洗濯物がほしてあるから見ると、空き地に住んでいる一家がいる。小さなこどもが手をだして、どこまでもついてくる。交差点ご とに、新聞や花やキャンディーを車に売りつけようとするこどもやおとながいる。圧倒的に貧しい。あらゆる入口に銃をもったガードがいる。人口の何割が警官 や兵士なのか。これだけの人間を国がやしなうのと、あらゆる品物をただにするのと、どっちが経済的なのかわからない。マセダは、人間が安いのはいいこと だ、という意見で、これもよくわからない。安ければ大勢が働くから、創造的になる、機械が人間より安くて、人間をいらなくしてしまう文明には反対だ、とい うわけ。安い人間の方がしっかり生きているように見えるのは、おもしろいことだ、とはおもったね。
八巻 マニラの町は高級ホテルも高層ビルもたくさんあって都会の顔をしているけれど、そ れらがなんだか色あせて見えたのは、しっかり生きている人たちとそぐわないからということもあるだろうけど、実際にきたないのね。具合わるくなりそうなほ どものすごい排気ガスを四六時中あびているから、もとはピッカピカのまっしろいビルもみんなほこりの色になってしまって、みじめなこと。古い石の建物や教 会、それとしっかり生きている人たちの住んでいるうちは、排気ガスにびくともしない。
高橋 交差点で少年たちが売っているキャンディー四百二十個入りの大袋をスーパーで買っ たのが、一番の記念になりました。ほんのすこしのものをみただけで、いそがしく歩きまわったりしなかった。もともと観光にもそれほど興味はなかったし、ち がう風景があるだけで充分だった。時間がちがう流れかたをしている。世界中のものは、東京でも見られるし、それなりにわかるような気がしているけど、この 時間感覚はない。その流れにはいってみると、わからないものがすぐそばをうごいていくのが感じられる。そんな場所に、また行きたいよ。
八巻 会いたいひとをたずねてとおくまでも行くというのが、わたしは好き。もっとも「た ずねる」のは人に限らないね。帰りの飛行機にも行くときと同じほどのフィリピン人(それも多くは若い女の人だった)が乗っていたけど、日本の地に無事着陸 しても、だれも拍手はしなかった。
心残りは、公開されているというマラカニアン宮殿に行く時間がなかったこと。イメルダの残していった三千足の靴を見るといい、といわれたのに。
下半期では、9月の第3週というのが特別のときだったみたいだな。ベスト10のうち3つまでが、この週に集中してる。
1 伊豆の長八美術館を中心とする松崎町めぐり――9月15日〜16日。
2 高橋悠治ソロ・コンサート「夜の時間」――9月19日。草月ホール。
3 時々自動「ローテク・コンベンションPtメタル」――9月20日。中野テルプシコール。
このうち1については、もう「水牛通信」で報告を書いてしまったから省略するとして、まず2 ね。
聞いていて、ある瞬間に肩や背中の凝りが「スポン!」と抜けるのがわかる。そういうコンサートというのが、おれにとってのいいコンサートなのね。ほんとに 「スポン!」と小さな音がするんだぜ。悠治のコンサートで、ひさしぶりに、その音を聴いた。
やっぱり水牛楽団のつづきという感じがしたんだけど、どう? 以前のアジアの民族楽器も気持よかった。でも、「スポン!」は聴けなかった。エキゾチシズム というと大袈裟だけど、別の土地、別の伝統にたいするこっちの好奇心が邪魔をするのね。シンセサイザーの場合は、それがない。そのせいかどうか、意外なこ とに、カウベルや竹笛なんかより、もっと徹底的に小さいんだよ。悠治がはじめに、
「ええっとさ、自分の家で音楽をつくってるのを、そばでみんなが見ているというふうにしたいのね」
というようなことをしゃべっていたけど、シンセサイザーだと、それができる。ピアノだと、聴く側は演奏者に気押しされちゃう。「カフカ」――あのぼそぼそ した語りも、なかなかよかったんじゃないの。うん。
その晩の打ち上げで飲んで、翌日は二日酔い。ところが、その日の午後2時が3の開演時間なわけよ。しんどいな、でも、古い友人がやってることだしなと、荻 窪から中野まで、のそのそと中央線ででかけていった。ところが、これがなかなかのものだったね。時々自動というのは、朝比奈尚行という男が中心になって やっている劇団なの。で、その朝比奈というのは、おれより10歳ぐらい若いのかな、昔から、ふだん街にいるのと同じように自然に舞台にいることができると いう、ふしぎな力をもったやつなの。悠治が自分の部屋にいるみたいにして舞台にいるしかたも好きだけど、そうね、あそこから「てれ」をなくしたみたいな感 じかな。
へんに間のぬけたエピソードをかさねて、世界とか都市の終わりみたいなイメージをつくっていく。その点では如月小春さんたちNOISEの「DAILY」と も似てるんだけど、如月さんとこみたいに、俳優たちの集団的なアクションでエピソードをつないでいくんじゃなく、それを俳優たちのブラスバンドがやるわ け。朝比奈のセンスなんだろうけど、若い俳優たちが、みんな、けっこう自由な感じで舞台にいたからね。演じるというより、そこにいる。かれらが「舞台にい るしかた」を見るのがたのしい、というような芝居なの。おれは、いまいちばん好きな集団だね。いまのところはね。
しかし、こう挙げてみると、どれも小品だな。小さい作品とかエピソードをあつめて、ひと晩のだしものにするというやり方。そういえば石山修武だって、伊豆 の長八美術館こそ大作だったけど、それと同時に、今年は、建築会社を排除して、猫の額みたいな土地に自力でつくる小住宅「笑う建築」モデルを発表したわけ だしね。その他その他、おれの知人たちは、いまいっせいに小品にむかって走りだしたみたいだ。滝口修造さんを思いだした。あの人、晩年は手紙とか友人の個 展パンフレットとかいった私的な場所でしか、作品や文章を発表しなくなっちゃったんだよね。たまにだしたエッセイ集に「点」なんて題をつけちゃったりさ。 みんな、あのころの滝口さんに似てきたというか。まったく関係ないのかもしれないけど。
ついでに、ここで究極の小品を一つ挙げておきます。
4 林のり子「乾燥エノキダケ」――11月9日。林家で試食。
この日の夕刻、田園調布の林家(パテ屋)を訪ねると、のり子さんが「これなんだと思います?」というのね。「はあ?」とテーブルの上を見ると、大皿に、な んか磯の珍味みたいな、長さ5、6センチ、細い毛糸みたいな物体がショーユ色して盛られてた。おれ、すぐわかったからね。高級料理には弱いけど、中級以下 の食品については自信があるんだよ。
「エノキダケでしょう」
当たりだった。乾燥機で乾燥させて、数日、天日で干しただけのエノキダケもあったけど、「ふーん、エノキダケって、こんなに甘いの」というくらい、ふんわ りした、いい甘味がでてるのね。びっくりした。林さん、東北のどっかの町から、エノキダケをつかった保存食を工夫してくれと委嘱されて、それで、こんなの をつくってみたんだってさ。マツタケ、シイタケ、シメジ、ナメコ等々じゃなく、なんたってエノキダケだからね。たよりないというか、しまらないというか、 思いがけない品のいい甘さをふくめて、その意外性がおかしかった。な、究極の小品だろ?
5 フランチェスコ・ロージーの「カルメン」――11月22日。佐藤信家のビデオで。
西荻窪に越してきた佐藤の新居をはじめて訪ねた。かれも小品派に移行しつつあるみたいだな。
「もうやりたいことはみんなやっちゃったよ。あとやりたいのは、ふつうの家みたいなスペースを確保して、5日ぐらいで小さい芝居をつくって、いそいで観客 を電話であつめるのね。30人か40人ぐらいだったら大丈夫でしょう。そういうのがやりたい」
そんな話をしながら、「あっ、海ちゃん、これすごいんだよ」と見せてくれたのが5の大作オペラ映画なんだからさ、なんかムチャクチャなんだ。ロージーだか らね、どこもかしこも、くっきり焦点のあった細部がいっぱい詰まったドキュメンタリー・タッチの「カルメン」なの。で、これは舞台じゃなくて映画なんだぞ とばかりに、俯瞰と縦に深い構図でグイグイ押しまくるんだよね。きわどい大股開きでホセを誘うカルメンとかさ。あまり一所懸命に見すぎて、ぐったり疲れ た。いまやオペラは映画のものなんだね。そのことがよくわかった。
6 アモス・オズ「イスラエルに生きる人々」――晶文社刊。10月19日読了。
7 橋本治「恋愛論」――講談社文庫。11月23日読了。
この秋はユダヤ主義にかんする本をいろいろ読んだ。デイヴィッド・グッドマンが帰国する前に、おれの以前の演劇論を、ゲルショム・ショーレムやマルティ ン・ブーバーとくらべて論じる面白い文章を書いてったのね。それに刺激されて読みはじめて、そのつながりで、晶文社でだしたまま読みそこねていた6を読ん だの。
オズはイスラエルの小説家。「ピース・ナウ」という労働党左派系の運動の活動家でもある。でも、もう労働党はやめちゃってるらしいけどね。一九八二年九 月、ベイルートの難民キャンプで一五〇〇人のパレスチナ難民が殺された。オズは苦しむ。そしてイスラエルに生きるさまざまな人々の場所をまわって歩く旅に でるのね。すごいのは、かれと同じ考えの人たちじゃなく、おもに、現ペギン政権支持の右派の連中を訪ねて歩いていること。しかも、かれらは主として貧乏な スペイン・東洋系ユダヤ人で、オズたちドイツ・東欧系ユダヤ人には、いわば階級的な憎悪をいだいている。だから、かれらの意見をきき、かれらと論争するオ ズの立場は、なかなか単純ではないわけさ。いま世界中でいちばん複雑な場所におかれたインテリといってもいいと思う。そして、オズはといえば、いっさいの 迂回作戦を排して、この複雑奇怪な場所で、信じられないような正面突破をこころみるんだからね。すさまじい倫理的腕力だよ。要約不能。おれの方法ではな い。それはわかってる。でも、たいしたもんだ。もろもろのノンフィクションは吹っとんじゃう。
肩に力がはいった。でも、その点にかんしては7もかなりのものなんだぜ。はじめて橋本治の本を読んで、あっけにとられ、かつ感嘆した。この「恋愛論」とい う長い講演で、かれは自分の高校時代の初恋を語ってるんだけど、その相手っていうのが男なのね。だから「仮面の告白」の一九八〇年代版――でも、三島より はるかに複雑でおとなっぽい。男は女みたいに、自分の個人生活のうらおもてについて、こまごま綿々としゃべる能力をもってない。と信じていたんだけど、橋 本治はそれを楽々とやっちゃうんだよね。他人の気持の裏の裏の、また裏を読むとかさ、そういう女性の領域に平然と住みこんじゃう。しかも理屈っぽい。 ちょっとやそっとでは情緒にながされない。男のシングル・ライフ論としては、同じころにでた海老坂武のものより、はるかに面白かった。私など及びもつかな い。この本には死せる有吉佐和子擁護論が屏録されてるが、近年の「怒りの文章」として傑出している。
建築、音楽、演劇、映画、食べもの、本ときて、つぎは集会。パーティとくれば、やっぱりこれにとどめをさすわけですよ。
8 津野海太郎「歩く書物」出版記念会――7月18日。神田バラライカ。
6月の藤本和子「ブルースだってただの唄」出版記念パーティが大いにもりあがって、そのおまけみたいに、したしい女性の方々があつまってくださった。たの しかった。ありがとうございました、でした。ただ、どういう面子になるのか、幹事の方々が、まったくおしえてくれなかったんだよね。で、はじまるまえこ そ、ちょっと緊張したけど、はじまっちゃえば、まわりにいるのが女性だけだなんてこと、ぜんぜん意識しなかった。いつもの水牛関係の飲み会とまったくおな じ。あたりまえか。ま、そういうこと。新宿チリンボーの二次会まで、いつはてるともないおしゃべりの渦にまかれて、ちょっとだけ橋本治の境涯に近づけた気 がしないでもない。
9 本橋成一「魚河岸の人々」だったかな? 6月5日所見。新宿オリンパスギャラリー。
10 TBS「熱風街道1万キロ・戸井十月バイクで走るシルクロード」――10月10日。自宅で。
次は写真とTV。おれの記録は8月から精密になるのね。9のデータがあやふやなのはそのせい。てっきり7月だったと思っていたので、上半期のものが一つま ぎれこんじゃった。
ある意味では筑豊もそうだったけど、サーカスでも上野駅でも、本橋さんは、おおぜいの普通の人たちが集まり散じる場所を、長い時間をかけて撮る人なんだ ね。こんどの築地の魚河岸もそう。で、そういうものって写真集のよさはよさとして、大画面で、どんな細部もきちんと見える、そういうものの集積がもつ迫力 にはとてもかなわない。大きな道路をおびただしい数の男たちが、リヤカーで、トラックで、自転車で、こっちに向かって押しよせてくる。それをやや上方から 撮った写真があった。「アラヨーッ! どいた、どいた!」という一心太助のかけ声が聞こえてくるみたいだった。
身近かな人の旅のなかには、おれの旅もすこしだけまじってるんだよ。だから、おれは旅をしなくたって旅をすることができる。10のように、わざわざテレビ で放映してもらったりすれば、なおさらだ。50日、一万キロのシルクロードを走るうちに、疲れはてた戸井の顔が、いつのまにか、まぎれもないモンゴリアン の顔になっている。仕掛けこそハデハデしいが、それを地味に地味につくっていた。人々が馬で走るべき土地をバイクで走る。なぜ? 走りたいから。「身勝手 と知りながら、はた迷惑を承知の上で」――その気持がつよくあって、ああいう地味なつくりになったのだろう。オシマイ。最後は駆け足になってしまったね。
私にとって、「笑い」が純粋に「笑い」としてだけ存在していたのは、はるかかなたの昔のことである。
何故なら、それが私が漫画家だからである。
「笑い」は常に私にまとわりついているのだが、同時に、非常に遠くにある。一瞬、「ん?」と思われるかもしれない。普通、漫画家というと(しかも私は、 ギャグ漫画家だ)「笑い」と手をつないでスキップしているような印象があるかもしれない。
しかし、漫画家というのはやはり職業だから、「笑い」と遊んではいけないのだ。「笑い」に対して、なるべく客観的な態度で臨まなければならない、という意 識が常についてまわるのである。つまり、今、私が「何か」に対して心から「おかしい」と思って笑っていたとしても、必ず、この余計な意識が頭のすみっこに 貼りついているということになる。余計な、というのは、やはり、私は笑っているという行為においては、人は主観的立場にある方が、客観的立場にあるより も、ずっといい――それが良いと悪いとか、正しいとか正しくないとかではなく、ずっと気分的に楽しい――と思っているからである。
もちろん、「笑う」という行為のスタートの時点においては、単に「おかしい」と思う気持ちのみが存在している。スタートの時点から余計なものがあったのな ら、それは本当の笑いではなく、「笑うフリ」にすぎない。しかし、スタート時点では純粋なものであった「おかしい」という気持ちがいったん「笑い」を誘発 すると、笑い終わったとき、もしくは、笑っている最中に、はたまたひどい時は、笑い出した次の瞬間には、この意識が自動的に働き出し、その笑いの構造を分 析しようとするのである。
途中で分析が始まってしまったことに気づくと、行動は「笑って」いても気持は「笑っていない」わけであるから、非常にシラける。そらぞらしさはぬぐいきれ ないし、なんといっても「笑い」に対する自分が不純であると思われる。それでは、私の意識が何のためにそんな分析をしようとするのかといういうとそれはあ る一つの判断を下そうとするからである。
使えるか。
使えないか。
もちろん、思った瞬間にそれを自分の漫画に使おうというのではない。使おう、という意識はないのだが、使える質の「笑い」であるかは考えてしまう。「笑 い」といっても大ざっぱに3つに分けられると思う。
1 聞いても読んでも笑えるもの。
2 聞くと笑えるが、読むと笑えないもの。
3 聞くよりも読んだ方が笑えるもの。
私の言う、「使える質の『笑い』」とは1と3を指す。聞いておかしい話が、そのまま、読むとおかしい話になるとは限らないのだ。つまり、おかしい話がすべ て漫画になるとは限らないのだ。口で説明したときは非常におもしろくても、いざ漫画にしてみると、あまりおもしろくならなかった、なんていう「おかしな 話」はたくさんある。だから私は、それらを判断しなければならないのだ。
こういった判断が、ほとんど無意識下において習慣化されてしまったのも、ただただ私が「笑い」を職業にしてしまったためであると思う。私にとって、気軽に 笑うということは、難しい。
何も考えずにのどかに笑っている人を横目で眺めては、笑えば何かを必ず考えてしまうわが身がセコく思われ、情なくなる。これでは、ほとんど職業病である。
ときどき、自分の商売がつらくなるときがある。楽しい気分のときに「笑い」について描くことは、全く問題ない。しかし、そうでない状態、たとえばめちゃく ちゃ悲しいとき、ほんとうなら、布団を頭からかぶって寝てしまいたいような悲しい気分のときに、それでもやはり、お仕事をしなければ、と机に向かっている と、何か、こう、奇妙な感覚に襲われるのである。
私がかわいがっていた犬のポチが死んでしまったとする。(玖保は生まれてから今まで犬も猫も飼ったことはないけれど)失恋でもいい。とにかく、そういう悲 しい気分の自分が現実にいる、とする。しかし、そういうときでも「仕事」はしなければならない。どうするか。悲しい気持でおかしなことは考えられない。だ から気持を切り離すのである。仕事のときは『仕事』に没頭する。そして、ふと手を休めたときに、
「ポチが死んでしまった!」と『悲しみ』の方に没頭し、ある程度めそめそ泣いて一息つけて、再び仕事に戻るのである。
この『悲しい』と『おかしい』という気持を混ぜてしまってはいけない。シラけてしまって、どちらも未消化のまま、胸の奥でくすぶることになるからである。 『悲しい』ものは純粋に悲しく、『おかしい』ものは純粋におかしく、発散させなければならない。はたから見ると、「けけけ」と「めそめそめそ」を交互に続 ける私の姿というのは、異様に映るかもしれないが、結局、これが私にとって一番いい方法なのだと思う。
もちろん、悲しいときに、「ツネコがどうした、キリコがどうした」といったたわいもない話で読者の笑いを取ろうと四苦八苦していると、どうして自分がこん なに悲しい気分のときにこんなことをしなければならないのだろうかと考えてしまい、より悲しくなってしまう。しかし、『悲しい』と『おかしい』を同時にか かえて、意識的に、それらが交互に出てくるようにコントロールしようとする自分というのは、『悲しい』を通り越して、『おかしい』ものに思えてくるのであ る。そうなると、もう卑屈に「へへへ……」と笑ってしまうかもしれない。このうすらバカ笑いをバカにしてはいけない。この中には、大いなる悲しみが内包さ れているのである。
数日後、県土木課の石川さんという人がわが家に来た。現場を視察して、行政指導をしたそうだ。内容は、わが家の横の側溝を深く広くするとの事で あるらしい。あいにくぼくは仕事で東京にいたため、詳しい事を聞けなかったので残念だった。行政指導とやらを目撃してみたかったし、エーッ、たったそれだ けェーっ! と、目を丸くしてみせたかった。山をいきなりなくして、沢を埋めつくしてしまった責任は、たったそれだけの事で埋まるのだろうか。
若い大成建設の現場監督が図面を持ってやって来た。
「このようになりますので、よろしくお願いします」
だいたい、最初からキチンとすればいいものを、今頃になって、よろしくもクソもないと思う。常識とか良識とかいう言葉はそれ程好きな言葉ではないが、少な くともぼくの方が、ちっとはマシな常識を持っているのだと感じてしまった。
それで、今度は側溝部分の測量などが始まった。で、思う束の間。側溝部分の土地の持ち主が、ここは水はいっさい流させないと言い始めた。
「という訳で、しばらく側溝の工事はできません」
と、再び若い現場監督が訪れた。当り前である。なにしろ、はじまりの順序が逆転しているのだ。子供が砂山を作るのとは訳が違う。しかし、それは意外に簡単 に、一週間後、お金でケリがついてしまった。側溝部分の土地を県が買ったのである。まあ、これは土地の持ち主故の、ひとつのかけひきであったのかもしれな いのだが……。
そして、この頃の真夜中、なにやら巨大なトラックがひんぱんに行き来する。地響きのような、大地震の前ぶれような、気持ちの悪い振動である。ある日など、 水道管を破裂させ、断水にもなった。ヒカシューのメンバーたちが、リハーサルのためわが家に来た。ぼくが急になくなった山の事で憤慨しているのを知ってい るので、「なくなった山ってどこなの?」と、皆興味津々。
「テニスコートが出来たら、タダでプレイできるとかの特権をくれればいいのにね」
「無理だと思うよ。なにしろ、会員になるのに200万とか、300万とか言ってるし」
「高いね」
「高すぎるよ」
「それに、テニスコートだけだったらいいけどね。看板を見ると宅地分譲と書いてあったし」
「宅地になるの?」
「よくわからないけど……ほら、よく別荘地で売って、いざ買ってみると、山林分譲で家を建てられない土地とかあるし」
「でたらめだね」
「でたらめすぎるよ」
と、ぼくの中の疑惑は、すっかり巨大化してしまったようだ。むこうがでたらめなら、こっちだってどんどんいたずらにでたらめな想像をしてやるゾって感じ だ。
「ねえ、これ危ないね」
メンバーのひとり、井上くんが、側溝のフタがあけっぱなしになっているのを発見した。それは、もう44も前からあけっぱなしで、深さは2メートルほどあ る。
「子供が落ちたらケガするよ」
さすが、井上くんは幼稚園の先生である。ぼくも気がついていたが、ひとりではとても重くて動かせなかった。井上くんと一緒にフタをする事にした。
それにしても、とぼくは思う。果して側溝を深くするだけで、問題は解決したのだろうか。浸水を防ぐ役割は確かに果すだろうけど、最初に心配した大量の土砂 の流出や法律上の問題は、まったく消えてしまったとは言えないはずだ。しかし、ぼくの心の中には、意外な落ちつきと安心感が芽ばえはじめている。実をいう と、件の側溝でさえ、工事を始めて、もう三ケ月になろうとしているのに、いっこうに完成していない。にもかかわらず、恐しいかな安心感があるのだ。例え ば、その昔、ロッキード事件の疑惑議員たちが、平気で事件後も政治を続けていたのにもかかわらず、だんだんとその事が過去の小さな点のように消失してし まった気がしたものだ。生活にタテとヨコがあるとして、タテが個人と時間の生活、ヨコが共有と空間の生活と考えれば、ぼくは急速にタテの生活の急がしさの 中で、ヨコのありようをわすれてしまいそうになっている。
そんな平凡な午後。なにはともあれ三原山が大噴火した。
〈味がない〉
とうとう病院へ入った。十月の中旬に血尿が出たので、国立東京第二病院へ行ったら、前立腺がはれているから手術しなくては、といわれ、一カ月後の十一月末 に入院した。ちょっとした食べすぎで「めだか診療所」で寝込んだことを除けば、なんと二十年ぶりの入院だ。もっとも、ちょうど十年前に、友だちが大病に なったのを看護するために百何十日病院通いをしたことはあるが自分がベッドの上の人になるとは――。
まだ、たった二日くらいなのに、病人食(それでも常食)の味のなさには驚いた。塩気が少ないのはもちろん、刺激物はいっさいない。生ま物もない。その癖、 これまでとった四回の食事のうち二回に、わさび漬が出てきた。これらは刺激物でも別扱いなのか。それならキムチが食べたい。そうか。でも考えてみると、わ さび漬は塩分がないがキムチは結構塩っ辛いな。ぼくが入院した翌日退院して行った林さんは「味覚が一番いい加減だと思った」と話す。かれは口の中にはれ物 が出来て、その手術で二週間入院してたそうだが「すっかり病院食に馴れてうちへ帰って食べるものすべてが“から”すぎる。漬物におしょう油かけるのはもち ろんのこと、おでんの辛子もちょっとつけただけで、もう涙が出て来た」そうだ。ぼくも一月近く入院するから、そうなてしまうのかなあ。
〈生ガキとゆで豚〉
入院した途端に、自宅に外泊しに戻った。週末は検査はないし、手術は一週間以上もあとだし。そこでパックにされてはいるものの、生ガキを思いきり食べた。 豚は、そのまま湯通しをして、もやしもそのあと湯通しをして、ナンプラー、酢、一味唐辛子を合わせたものをつけて食べた。シゲキブツのなんとおいしいこと か。生シイタケはバタでさっと焼いて、これもそうして食べた。思うに、病院では、何百人もの給食なのだから、こうした「こまわり」がきかない。煮物一辺倒 になるのもしょうがない。なにもおいしいもの食べに入院してるんじゃないしな。つまりは、病気にならないようにするのが一番か。
〈二万円の会席〉
田園調布のお惣菜屋さん、林のり子さんの家で、金沢から来たおいしいカニやエビをご馳走になった時「来年、フードピアによろしく」といわれていうるちに、 あっという間に一年が経ってしまい、津野さんといっしょに出かけてきた。ふたりとも「ようわからんうちに」金沢まで行ってしまったのだ。少しずつわかって くるにつけ、これはどうしてなかなか大がかりなものだという気がしてきた。金沢市内の料亭やレストランや飲み屋、三十軒ほどを借り切って、一軒一軒にゲス トを招き何十人かで飯を食いながら話す「食談会」をやる。ゲストは小沢遼子から北方謙三まで、「呉越同舟」の極地のような人選。なぜか、ぼくと津野さん は、そうした責任がいっさいない、ただそこへ参加してればいいという「結構な」身分。二日にわたって行われるのだが、一日目は、金茶寮という、市内でも有 数の会席料亭へ出席した。ここは参加費二万円である。ゲストは大庭みな子。こちとらは、ただのかわりに選択権もない。八日市市の会席の話を思いだしながら (以前ここで紹介した、柿の葉や紅葉の葉を探しにいく人件費がついてるのではないか、という二万八千円の会席)おずおずと坐っていた。しかし、魚やカニの 類の多いこの地のこと、会席の方も、そうしたものを素材に使ったものが多くて、少なくとも精進料理、普茶料理よりおいしかった。でも、やっぱし、向いてな いなあ。
〈クマとシカとタヌキ〉
次の日、朝からバスで造り酒屋とお菓子屋さんを訪問。途中、剣町の吉田屋という料亭でまた会席料理。クマとシカとタヌキの肉を食べさせて貰った。シカは、 北海道でルイベで食べたことがあるが、「タヌキ汁」もクマもはじめて。どちらも硬い、という以上の印象はなかった。それよりその場で焼いてくれたイワナが とてもおいしかった。造り酒屋では「お酒ができるまで」という大層なビデオを見せてくれた。誰が台本を書いて、誰がナレーターで、音楽は誰なのか、と思っ たが、そんなクレジットはいっさいなかった。これぞPR映画の見本、というような映画で(もちろん、ビデオになっているが)こういうのを作って稼いでいる 人たちが健在なのだと妙なことに感心していた。ただし、そのどこにも、そしてそのあと見せてもらった工場のどこでも、しばしば問題になる「防腐剤」を添加 するシーンはどこにも出てこない。でも、大きなドラム一本から一升瓶六千本もとれるのが六本も並んでいる規模の造り酒屋だから、どっかで使っていると思う けど。
〈大野港の朝市〉
金沢の市内で有名なのは近江町市場だが、日曜日は休み。しかしその日曜日に港の方の魚河岸の倉庫で市が立っているというので、林さん一家や津野さんと帰る 日の朝に出かけた。カニもなにもなるほど安い。大きな紅いカニが一匹四百円! しかし、持って帰るための発泡スチロールの箱が六百五十円。タクシー代が割 勘でひとり二千円。中味よりそれに必要な経費の方がうんと高い、というのもおかしかった。大阪の「主治医」のところへ寄って昼間からひとりで二匹ぐらい食 べてしもた。あとで聞いたらその時いっしょに持っていった生まの蛸がゆでて食べたらすごくおいしかったとのこと。市の立っていた倉庫は、六月に釧路で大塚 まさじがうたった魚市場跡と同じような建物で、そうか、あそこもかつてはこんな活況を呈していたかと、いささか感慨深かった。
〈雪、また雪〉
北陸路は寒かったが、まだ雨だった。たまたままたまた黒テント公演と同時期だった。(もっとも今回は黒テントではなく、もっと少人数の赤いキャバレー「プ ロレタリア哀愁劇場」という演し物だったが)それから一週間して北海道へ行ったら、さすがにもう雪だった。そういえばちょうど一年前も北海道で、雪の中を ワゴン車で札幌の周辺をうろうろして、その時から「おしっこが近かった」のを思い出した。持病だったのだ。
帯広では、最近引越した「ふるさと十勝」の編集部で、寝泊りさせて貰ったが、このタウン誌の事務所、なんと十年間で九回引越しているという。なんでそんな 話になったか、というと、「エルパソ」のママの優子さんが「わたし、これまでに十八回も引越したわ」といい出したからだ。同じところに二年ぐらいしかいな いわけだから、なかなかの「引越魔」だ。ぼくなんかも東京へ来てからずい分うろうろしたし、戦災で焼け出されてからうろうろしているのに、勘定してみたら 十五回しかなかった。一番長いのが、生家の寺で十年と少々。もうすぐ今住んでいる上野毛が十年になる。次いで八尾の公団が十年そこそこだから、残りの三十 年で十二回、というのは結構引越している方か。
帯広は北海道でも雪が少ないところ。西の日高山脈が日本海の雪を防いでいるそうだが、それでも十一月二十五日には粉雪がしんしんと降った。いや、二十四日 から降ったのか? 東京と違って一度降ると、そんなにすぐには溶けないで、見る見る風景が変ってしまう。それでも、国鉄以外に公共の鉄道はないから、車の スピードが出せないくらいで、あまり市民生活に突然の影響はない。もっともそこで暮していたら、野菜なんかできめんに値上がりするだろうが。
〈「料理のすべて」が本に〉
ここで宣伝をひとつ。晶文社の“日常術シリーズ”の四回目に「男の炊事術」というのをぼくが書くことになって、その多くの部分にこの連載を使うことにし た。料理としないで炊事としたのは、その方がずっと「日常」的だからだ。
ベッドの上で、校正をしたり、レシピを書いたりしていると、二十年前を思い出す。いや違った、二十七年前だ。その時も同じ時期に、結核の疑いで四十九日入 院した。大学の五年生で、あとは卒論だけという時に、原因不明の発熱に苦しめられて、その大学の病院に入って、パヴロフの犬のように、いろんな検査をさせ られて、その揚句に「気管支拡張症」という病名をつけられたが、その時ベッドの上で卒論を書いていたのだ。提出が年明け早々だ、ということで、さすがに 焦って、いろんな――といってもわずかの――資料を持ち込んで、まさに「でっち上げて」しまった。「明治初期小学唱歌の研究」というのがそのタイトルだ が、すぐあとで、東大で同じような研究をしている人がいるのを知った。それが山住正巳さんで、かれの方はのちにそれが立派な本になった。ぼくの方は「音楽 をやっていたら、先生もあまりわからないだろう」とたかをくくってのことでだけどでき上って諮問の時には、しっかりといじめられて、結局「可」しか貰えな かった。それでも、なんのかんのといってもぼくの場合は、それがなんからの形でついてまわっている。日教組の「国歌を考える会」では、悠治さんのピアノ で、北田カオルの歌という組合せで唱歌をやったりしたのだから。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしてるようで、それでいて結局、ひとつところをぐるぐ るまわってきているのだろうか。
それにしたら、これまたもうひとつ宣伝になる十二月中旬に出るミステリーのほん訳、ジョセフ・ハンセンのデイヴ・ブランドステッターのシリーズ「砂漠の天 使」は、それこそ二十七年前のベッドの上では、夢想だにしなかったことだ。今から二十七年たった時――七十八歳! 生きてるかなあ――今度はどんなことし てるかな。やっぱりベッドの上で原稿書いてたりして。病人食だけは相変らず、塩分も刺激物もない、味のないものだろうな。そういう意味では、いつも変らな いもの、は根強く生きのびていくのかもしれない。
11月の末に銀座の画廊で「カフカ」を再演するまえに、手直しする。これが何日もかかって、やってみると、ほとんど全面的改定になる。しかも結果には満足 できない。この曲は「進行中の作品」という悪夢になりつつある。
シェーンベルク以来のヨーロッパ風現代音楽の音から手を切りたい、と思っている。すくない音数のなかで、一瞬のうちに影と光が移ろうような、ただよう音色 の波を手にしたい、と思っている。それらを紙の上でなく、音として直接つくりたい。書くことは、結局のところ一番経済的な伝達手段ではあっても、そこから はじめることは身につかないような気がする。ただ、何かが手につく、ということは、即興的にできる範囲にはないようだ。厳密な作法による訓練の段階を通ら ないと、自己流のいいかげんになってしまう。とは言っても、既成の型があるわけでもなく、そんなことにいまさら何年もかけてはいられない。
出口なしの状態で、突然ひとつの解決に思いいたった。セットになっている各曲を解体して、ひとつのファンタジーの不連続な夢のなかに、物語とは無関係に、 構成要素としてモンタージュする。あたらしい結合のなかで、具象的な意味づけはこわれて抽象化すると同時に、手仕事から距離をおいて、展望を回復する可能 性もある。この、自家製リサイクルの結果は、またいずれ。
今年も終わりに近い。ここで決算表をつくっておこう。一月の病気と、半年間のしごとの中断のなかでかんがえたことは、しごとを再開してみると、あまり生か されなかった。また流されはじめている。他人のためのしごとが、自由な時間を埋めていく。だれでもが似たようなことをやり、同じレベルで仕事をしている時 代に、孤立していることはむつかしい。ポストモダンも反体制も左翼も、山谷にはいることでさえ、おなじことばづかい、おなじ顔つき、集団と流行の、国家主 義の装飾としてのありかたを出ることができない。このなかで、どうやって自分ひとりでいられるか、自分をくりかえさずに、ますます自分になっていきながら (老子の意味で)無名性にいたるか、想像がつかない。そして、想像して済ましてしまうこと自体、まちがっているのだろう。
この十年間、音楽をすこしずつ放棄してきた。一方で、現実世界については、たくさんのことを知った。水牛の活動のなかで、ともだちと敵をつくった。水牛楽 団をほとんど七年やった。三年前から三宅榛名とデュオを組んだ。即興演奏が、またできるようになった。ジャズのプレーヤーたち、ニューヨークからきたイン プロヴァイザーたちといっしょのしごとをした。その頃から、いまレコードになっている、あらゆる種類の音楽をきいた。世界のどこで、だれがどんな音楽を やっているかを知った。たいしたことは起こっていない。みんな自分をくりかえしている、ますます声高に。おもしろい音楽もたくさんあるが、やりたいこと は、そのなかにはない。
ヨーロッパやアメリカには十年以上行っていない。アジアにもしばらく行っていなかった。東京にいれば、何でも輸入される。だが、バランスはどこか狂ってく る。十一月にフィリピンに行って、それがわかった。ちがう風景とちがう時間、これらは輸入できないものだ。
いまやりたい音楽は、以前からやっていたことと別なものではない。一九六四年ベルリンで、ピアノ曲「クロマモルフ2」の確率計算の結果としての気まぐれな メロディー、4つのヴァイオリンのための「6つの要素」のゲームのなかでのドローンとメロディー、リズム・パターンの連鎖反応。一九六八年ニューヨーク で、オーボエのための「オペレーション・オイラー」のグラフ理論によるモードの再構成と音のスクリーン。「きみたちにこの歌を」(一九七六年)のヘテロ フォニーと、歌のメロディーの変形。「七つのバラがやぶにさく」(一九七九年)の十八世紀ヴァイオリン奏法での、自作のメロディーのラーガとしての展開。 こうした獲得物のカタログから、理論や計算の足場をはずし、伝統文化の成果を利用するかわりにその起原の極を通過して、構成の次元から夢の自由な使用法に 移ること。これが、今後数年の課題だ、と言っておこう。
現実問題として、あれこれのコンサートの企画をたてることに時間をとられている。これからはバンドやデュオではなく、まずひとりだけで何ができるか整理し てみなければならない。その上で一時的な共同作業も可能だ。出会いから何かあたらしいものが生まれることは、ほとんどない。いろいろなことをやって時間が なくなってしまうよりは、目標をはっきり見さだめて、よけいなことはやらないようにしたいが、なかなかそうはできないだろう。とりあえず、東南アジア音楽 についてのマセダの論文集の翻訳と、ピアノのコンサートが3回できるだけのレパートリーの準備が最優先する。
はさまれて走っている。背後はミズーリ州、向こうはイリノイ州。鉄橋はミシシッピ河にかかっていて、その二つの州を結んでいる。三〇年代に公共事業として 建設されたこの橋は二車線しかない、歩道もない、せまいものだ。トレーラートラックがイリノイから煙を吐きながらびゅんびゅんやってくると、ぼくは蝉のよ うに青緑色の鉄骨にしがみつくほかない。錆ついた鉄骨、ひびわれたアスファルト。
モーテルを出たとき、河を渡るつもりはべつになかった。が、幅が二キロもある大河にかかっているこの橋を見たとき、足は自ずと河のほうに向いた。橋はやや 険しい傾斜になって、向こう岸まで走るのをしんどく思ったが、水面に光る朝の日ざしも見たいと思ったので、ついに橋の斜面をのぼりはじめた。真下に、渦を 巻きながら、大河はゆっくり流れている。沈殿物でどろどろのミシシッピが「ビッグ・マディー」(大泥)というあだなで知られている所以がわかる。風が髪を 乱す。イリノイのほうに下りはじめる。
十五、六のとき、ぼくは船大工になったつもりで、うちの車庫で五メートルのモーターボートを造り、ミシシッピをくだる計画をたてた。ミシシッピの河川管理 を担当する陸軍工兵科に手紙まで書いて、航行チャートを送ってもらった。ウィスコンシンの西の州境を画するミシシッピにモーターボートを進水させて、 ニューオリーンズまで、河を二〇〇〇キロくだるつもりだったのだが……
と思いだしながらイリノイにたどりつく。イリノイ側は殺風景。イースト・ハニバルという交通標識はあるが、町などどこにも見当たらない。高い断崖がつづく ミズーリ側とちがって、ここは氾濫原。雪解けのときとか豪雨のとき、水位が四メートルも高くなることもあるそうだ。背の高い樹木は少なく、ひくい草木が一 面にはびこっている。しばらく走ってみるが、風情がなさすぎるから、引き返して、いま一度鉄橋に向かう。
まだ朝の八時だが、すでに暑い。黒い舗装のうえで陽炎が燃えている。カーブを速く曲がりすぎて傾いているぽんこつ車がやってくる。ぼくはしかたなく路肩に おりる。運動靴の下で砂利はぎしぎしいうし、すなぼこりもたつ。橋をおりてきたときには気がつかなかったが、ここからだと、こわれた洗濯機、古いタイヤの 山などに囲まれた家が一軒見える。洪水のとき、どうするのかなと考える。
鉄橋にさしかかる。向こう側にはハニバルの町が見える。埠頭には外車汽船のようにしつらえたジーゼル船が付いている。きのうその船に乗って、ミシシッピを 一時間半ほど観覧した。上甲板で日射を浴びながら、ホットドックを頬ばって、ポップコーンをばりばり食べていたヤエルとカイは、汽笛に驚いて耳をおさえる のだった。河畔に「インディアン」が現れて船にむかって矢を放ったときも、キャーと悲鳴をあげて喜んだ。
埠頭のむこうには、ハニバルの町の中心になっているマーク・トエーンの家が見える。『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリ・フィンの冒険』にも出てく るその家は今や博物館として保存されている名所である。きのう「外車汽船」をおりてから、全員でいってみて、意外におもしろかったが、マーク・トエーンの 作品を一冊もよんだことがないぼくは恥ずかしくなって、向かい側の本屋に駆けつけて『トム・ソーヤー』と『ハックルベリ・フィン』のペーパーバックを一冊 ずつ購入し、ヤエルには『トム・ソーヤー』の絵本を買ってやった。
いまぼくが走っているこの橋をくぐって南方に河をくだったところにトム・ソーヤーと彼の幼い恋人のベッキー・サッチャーが迷子になった洞窟がある。きょう はこれから子供たちをつれて、一時ジェシー・ジェームズの強盗団の隠れ家でもあったその巨大な洞窟の中を見ることになっている。
鉄橋の上から広大なミシシッピが左右に広がっているのを眺める。ハック・フィンが奴隷のジムとともにいかだに乗って、自由を求めてくだったのはこの河だ。 ドレイか。南北戦争のときマーク・トエーンは北軍ではなく南軍に志願したそうだ――わずか二週間で退役したらしいが。『ハックルベリ・フィン』を書いた マーク・トエーン、南軍に志願したマーク・トエーン、「アメリカ文学界のリンカーン」と呼ばれた国民的作家トエーンはいったいどういう人間だったのだろ う。だが、新学年がはじまるまえの、夏休み最後の、せっかくの遠足だ。あまりむずかしいことは考えないでおこう。ぼくはどうやらこのせまい橋を無事に往復 できそうだし。
編集後記
十二月。ことしは高橋悠治の前立腺炎ではじまり、田川律の前立腺肥大手術でくれることになってしまいました。でも田川さんの手術はおもったよりは軽くすむ ようで、これが発行されるときにはすでに退院している可能性も高いのですが、来るべき年はぜひとも元気になって迎えてほしいものだとおもいます。
「キリコのコリクツ」は今月でおしまい。ファンの方々、がっかりなさいますな。来年はマンガが登場するかもしれませぬゆえ、むしろ、より一層のご支援を。 書きためたコリクツは一冊の書物となって世に送りだされることになっています。今年中にその編集を終える予定だと聞きましたから、来年はじめには完成する のでしょう。
ほんとに来るのかどうかと一方的に気をもんでいたカラワンは、3日に突然のごとく到着して元気な顔を見せてくれました。ヤキモキしながら、結局一年に一度 はこうして会って、もう5年になりました。今回はアメリカとフィリピンでのコンサートのかえりなので、東京にいるあいだに、そのあたらしい体験のはなしを 聞くのを楽しみにしています。
キリよく、来年いっぱい、つまり通巻百一号まで発行して終刊とします。そう決心してみると、これからの丸一年はわりあい長いものに感じられてくる。おわり の年のはじめの一号は、藤本和子さんの「動物取り締まり官」。一号分ぜんぶが藤本さんのお話で埋まります。水牛にとってはひさしぶりの長い物語。いつもと 趣向を変えて、刺激的に最終年のスタートをきる。(八巻)