人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年1月号 通巻90号
        
入力 桝井孝則


動物取り締まり官  藤本和子
編集後記



動物取り締まり官  藤本和子

 キャロルのカーキ色の制服の上着のほうは、彼女の寸法をとって仕立てられたものであるのだろうに、からだにぴったり合っていない印象だった。 肩がわずかに大きすぎるし、袖丈も長すぎて、手首がふかく隠れている。袖の先からでている彼女の手は、からだの大きさにやや不釣り合いに小さい。カーキの 制服はズボンで、シャツも薄いカーキ色だった。それはシャンペン市の動物取り締まり官の制服だった。
 キャロルは金髪で、それは染めたように黄色っぽい金色なのだが、染めているわけではないのかもしれない。化粧のファンデーションの色が彼女自身の膚より ずっとピンクがかっているので、薄い桃色の面をつけているみたいでもある。背丈はきっと百六十センチほどだろう。体重は五十五キロくらいだと思う。痩せて もいないし、ふとってもいない。そして彼女はまだ二十代のわかい女性だ。結婚しているが、子供はいない。
 キャロルに会ったきっかけは栗鼠だった。まだ地面にじめついた雪がのこっていた、一昨年の冬のことだった。ガレージに入るたびに、壁の中でごそごそいう 音がした。ちいさなけものの音だと、すぐにわかるような音だった。しばらくすると、ガレージの戸の、地面についている下の部分に半円形の穴があきはじめ た。歯形があった。黒のペンキをぬった戸のそこだけ、なまなましく白い木の地肌がみえた。そして、間もなく、その穴をくぐって出たり入ったりしている栗鼠 の姿も目撃されるようになった。壁のなかから、かりかりと何かを齧っている音もきこえてきたし、ガレージには栗鼠の尿のにおいがみちみちた。
 破壊的な栗鼠を退治するといっても、毒薬を使ったりしたら、ちいさい子供たちは衝撃をうけるだろうし、わたしたちもいやな気分になるだろう。荒物屋で罠 でもさがそうか、という話になって、でかけてたずねると、栗鼠をとる罠は市販されていない、という答えだった。赤いジャケットの店員はいった。
「市の動物取り締まり課に連絡したら、罠をかけてくれるんじゃないかな。それなら無料だしね。税金払ってるんだから、利用したらいいんだよ」
 動物取り締まり課には、警察の緊急番号をつかって連絡する。日本でいえば、ヒャクトウバンだ。動物取り締まり課、といったところで、課員はキャロルひと りきりなのだ。つまり、キャロルが「課」そのものなのである。そしてその彼女はワゴン車でたえず移動中であるわけだから、その「課」と連絡をとりたい場合 は、ヒャクトウバンに電話して、警察のパトロール車の配車係に、「課」すなわちキャロル・スミスに無線連絡をしてもらうことになる。
 だから、わたしもヒャクトウバンして、無線連絡をうけた動物取り締まり官がこちらに電話してくれるのを待った。
 玄関の呼鈴をおした「課」に、わたしはうったえた。
「ガレージの壁のなかに栗鼠が巣をつくってしまったようなのですよ。ガレージのなかはひどく臭いし、壁の内側を齧っている音さえして、退治しないといけな いと思うのだけれど。栗鼠は動物取り締まり課の管轄ですか」
「退治してほしいといわれれば、罠をお貸しするんですよ。市が一日二十五セントで罠を貸すのです。ちゃんと、わたしがしかけてあげます。餌はパンにピーナ ツバターをぬったものがいいですが、パンとピーナツバターはありますか」
「あります。罠を借りることにしたいです。なぜ、ピーナツバターなのですか」
「栗鼠はナッツが好きなのですから」
「うっかりしてました。そりゃあ、そうですね。ところで、罠にかかった栗鼠はどうするのですか。殺してしまうのですか」
「わたしのトラックにのせて、町の外まで連れていきます。森のあるところまで連れていって、放してやります」
「栗鼠のほかに、どういう動物を捕まえるの、あなたは?」
「あらいぐまはしょっちゅうよ、野犬もね」
「あらいぐま! どうやって、捕まえるの?」
「罠を使うこともあるけど、あらいぐまは賢いので、なかなか罠にかからないの。住宅の屋根裏部屋に住みついてしまったような場合は、あたしが屋根裏への ぼっていって、追いまわして、手で捕まえるの。この界隈はね、オッポサムが多い。オッポサムは追いつめられると、歯をむきだして、歯のあいだからシュー シューと音をだすのよ」
 自分の住んでいるあたりに、オッポサムがいるなど、ちっとも知らなかった。
 わたしはパンにピーナツバターを塗って、キャロルにわたした。彼女がそれを横長の金属製の罠のなかにしかけて帰っていくと、夜のあいだに栗鼠が一匹か かった。餌のピーナツバターが凍る以前の時間にかかったのだろう。わたしはキャロルにいわれていたとおり、栗鼠のかかった罠に古い毛布を折ってかけた。罠 を暗くしてやらないと、栗鼠は逃げたがって、罠のなかで闇雲にあばれまわる、そして金網に体をぶつけて傷つく、暗くしてやると、静かにじっとしているもの だから、と彼女はいっていたのだったから。
 警察に電話すると、栗鼠を引き取るために、ふたたびキャロルがやってきた。
 彼女は生け捕りの栗鼠のはいった罠をワゴン車に乗せた。わたしは罠の賃貸料金の二十五セントをはらいながら、キャロルにたずねた。
「きょうの獲物はなに?」
「犬が二頭と、野良猫一匹とアライグマが二匹。見たい?」
「見たい」
 トラックは有蓋で、トラックというよりワゴン車だが、キャロルはトラックと呼んでいた。なかには、大小いくつもの檻がおかれている。犬と猫とアライグマ が、それぞれ檻のなかにいた。犬たちは首輪も鑑札もつけているのだから、野犬ではなく、放し飼いにされていたところを捕まってしまった連中なのだろう。猫 は山猫のような大きな、つやのないぼうぼうで、背中には円形の禿がある。あきらかに野良猫だ。それもきわめて野良歴のながそうなやつ。アライグマは檻の ずっと奥に、体を檻におしつけるような恰好でじっとうずくまり、黒ビーダマの目で、こちらをみつめている。
「ずいぶん大きなアライグマねえ」
「大きくはないわよ、まだほんの子供よ」
 さきほどキャロルが、アライグマ二匹、といったのを忘れていた。大きなアライグマだとわたしが思ったのは、子供のアライグマが二匹、おびえて、折り重な りからみあって、一匹の大きなアライグマのように見えたのだった。眼鏡をかけたみたいな顔が警戒心をむきだしにしている。
 わたしのちいさな娘が保育園にいっていて、まだ帰宅していないことは残念だった。五歳の娘は動物にたいするおそれの感情のまったくない子で、猛々しい ドーベルマン・ピンシェルに向かってさえ、一目散に駆けよる。この犬は子供が好きですかと、犬を連れている人にたずねるんだよ、犬を連れている人が、子供 は好きだ、といってから、撫ぜてやるんだよ。子供のことは嫌いな犬もいて、そういう犬のことを、突然撫ぜたりすると、噛まれることだってあるんだからね と、わたしはしつこくいい聞かせているが、いっこうに効目はない。彼女はこれまで犬に噛まれたこともなく、おそろしいと思う理由もないので、犬の姿をみか けたら、遠くからでも一目散に駆けていく。
「わたしの娘がこのアライグマたちをみたら、きっと喜んだと思うの。彼女は動物園の飼育係になりたいといっているから」
「大賛成。それなら、わたしの後継者として、動物取り締まり官になることだってありうるわね」
 成人した娘がこの町に住むことになるだろうとは、わたしにはとても思えないが、それをわざわざキャロルにいうこともないから、わたしはいわない。
「将来の希望はくるくると変るひとだから。去年は医者になりたいといっていたけど、今年はおかあさんになるとか、カウガールになるとか、ついに消防士にな ると決意した、とかいってるわ」
「いずれにしろ、ちいさな子供が動物にたいして愛情を示すことは、よろこばしいことよ」
「あなたも子供のころ、動物が好きだったの?」
「好きだった、とても。高校のときにね、半分働いて半分学習するというプログラムにはいってね、一年間、靴屋で働いたことがあったの。靴屋の店員になっ て、靴を売ったの。つまらなくて、つまらなくて。店員とか、そういう仕事はわたしには全然むいてないとわかったから、高校を卒業してからは、動物愛護協会 に就職したの。そして、それいらいずっと動物――」
「動物取り締まり官になってから、何年になるの?」
「七年よ。その前の一年半は、動物愛護協会のなかで働いていたの」
 それなら、キャロルは二十六歳ぐらいだ。
「大蛇をつかまえたこともあるのよ。長さ三メートルもあった」
「危険な仕事ねえ」
「動物は危険じゃないのよ。危険なのはニンゲンよ」
 キャロルのワゴン車に一日同乗させてもらえないかたずねると、彼女はかまわないけれど、警察の許可がいるといった。わたしの栗鼠を連れて帰った彼女から 電話があって、警察はわたしの同乗を許可するといっているといった。そこで日取りをきめて、わたしがその日の朝に警察へいって、彼女とおちあうことになっ た。

 シャンペン市の動物取り締まりは、他の市とおなじように、警察の管轄だ。しかし、その業務は普通の警察が担当しているのではなく、動物愛護協 会の職員が警察へ出向くかたちで担当している。給料は市警がはらう。キャロルは朝の六時から出勤する日もある。週に一度だけ、動物愛護協会の職員である若 い男性が彼女と交替するが、あとは全部キャロルの責任だ。
 約束の朝、警察署の受付の窓へいくと、係の女性がいった。
 「ああ、ドッグ・キャッチャーと待ち合わせているのは、あんたね」
 彼女はわたしが口をひらいて用件をつげる暇もなく、そういったのだった。ドッグ・キャッチャーという古めかしい言葉をつかって――。わたしは子供のこ ろ、イヌゴロシという言葉を耳にしたことがあった。ドッグ・キャッチャーという用語はそのイヌゴロシにあたるといっていいだろう。キャロルの責任は野犬を 捕獲することだけではないのに、警察の窓口自身がイヌゴロシにあたるような言葉をつかうのは、まずいのではないか。
 すぐにキャロルがあらわれて、でかける前に、わたしは書類に署名する必要があるといった。
「これ読んで、条件を承諾できると思ったら署名してね。それからでかけましょう」
 その書類というのは、勤務中の警察官の運転する車両に同乗して、警察業務の遂行を観察することは、負傷もしくは死亡する危険をおかすことであることをわ たしは完全に承知しておりますという供述書だった。わたしは負傷も死亡もいやだったが、早起きしていったことが無駄になるのは、もっといやだったから、署 名した。
「何か事故があっても、警察を訴えることはできない、という意味よ」
 狂犬に噛まれるだろうか? 野犬追跡の大疾走において、ワゴン車が電柱に激突して大破するだろうか? ふと思いついてやることで、死亡したらたまらない な、と思いながらも、わたしはワゴン車にむかうキャロルの後をついていく。
 ワゴン車は、なるほど彼女がいうとおり、恰好はワゴン車だが、トラックだ。高い助手席にすわると、罐いりのコカコーラが目にはいった。ダッシュボードに ボンドではりつけたコースターにのせてある。わたしがそのコカコーラを見ていることに気がつくと、キャロルはいった。
「朝、一罐買ってね、一日かかってちびちび呑むのよ」
「ぬるくなってしまうでしょう?」
「そうね。では、でかけましょう。野犬が二頭うろついている、という通報があったから」
 ダウンタウンにある警察署の駐車場をでて、わたしたちは町の北東部の住宅街に向かっていた。朝の陽光があかるい。勤めにでかける人々の車がまだ行き交っ ている時間。人口六万のこの町では、ラッシュアワーとよばれる時間でも、車の渋滞はほとんどない。ちょっと道路が混むとラッシュだ、ラッシュだとラジオが 騒いだりする。
「あなたは高校のときには、半分働いて、半分勉強するというプログラムにはいっていたといったけど、どういう生徒たちがそういう方法を選ぶの?」
「勉強ばかりしているのは嫌だ、という生徒たち。そういう生徒には、何らかの技術をならわせたほうがいいだろう、という考えからよ。美容師の養成所へいく ようなことが多いの。あたしの場合は靴屋で働いてみなさい、ということになった。
 あたしは男ふたり、女ふたりの四人きょうだいの家庭にそだったの。あたしは三番め。両親は『ジム・ジョーンズ』という倉庫会社で働いている。祖父は航空 機の製造工場の工員をやっていたの。母方の祖父は酪農場をやっていたのだけれど、それもこの近くにあったのよ。ヨーロッパからやってきた先祖のことは、あ まりわからないのだけれど、母方のほうはドイツからきた人たちらしいのね。ドイツから追い出された、というんだけど、どういう事情で追い出されたのか、あ たしは知らないの」
 七、八分も走ると、野犬がいる、と通報された地域にもう接近していた。
「今朝、まず捕まえる犬は、どういう犬なんですって?」
「ドーバーマンと雑犬だという話よ」
「ひゃ、こわい。こわくないの、ドーバーマンでも?」
「こわくない。ドーバーマンはちっとも悪い犬じゃない。こわいと感じる人はね、体からあるにおいを発散させるのよ。犬はそれを嗅ぎつけて、あっ、こいつ、 こわがっているな、と感づくの」
 角をまがると、どうだ、ちゃんと褐色の大きな犬が二頭みえた。せかせかと歩道を走っている。明確な目的をもって、そうしているような印象をあたえる走り かた。トラックを徐行させて近づくと、犬たちはさっと芝生ににげた。トラックをとめて、わたしたちは降りた。すると、犬たちはこちらに駆けよってきたが、 途中でとまった。キャロルがその犬たちにちかよる。
「おはよう、犬たち。ご機嫌いかが? 逃げないでもいいんだよ。ほうら、こっちへおいで。あれ、首輪もしてるんだね、こっちのあんたは。で、あんたのほう は? 首輪、ないんだねえ。どれ、どれ、車に乗ってみようか? ねえ、いこうよ」
 犬たちにむかって、口をひらいたキャロルは、赤ん坊をあやすような口調になる。声音もかわる。犬たちはさかんに尾をふっていたが、首に縄をかけられたと たんに、はげしく頭を左右に動かした。一頭は縄の結び目がほどけてしまうほど、はげしく抵抗した。もう一頭は車に乗りこんでから暴れはじめて、するりと首 を縄からぬいた。はじめからやりなおしだ。犬たちは逃げるだろうと、わたしは予感したが、逃げごしになっているのに、逃げない。キャロルが「よし、よし、 さあ、でかけよう」というと、じっと耳をかたむけるようなふうをして、それから擦りよってきた。そして、キャロルがふたたび縄をかけようとすると、今度は たいした困難もなくはこんだのだ。車には引きずりあげるようにして乗せたが、猛然と抵抗することはもうなくて、犬たちはそれぞれの檻におさまった。
 運転席にもどったキャロルの息があらい。煙草をたくさん吸うから、ちょっと動いただけで、そうなるのではないだろうか。右手の薬指から血がながれてい る。
「血がでてるわよ」
「犬があらがったとき、車のドアで擦りむいてしまった」
「手当てをしたら?」
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
「せめて、ちりがみでふいたら?」
「そうね。ああ、ありがとう」
「手袋しないの?」
「しない」
「犬に噛まれたことある?」
「二度。最初のときは、とてもやさしい犬でね。尾をふって、さかんにあまえて。でも、おかしな犬で、尾をふってあまえながら、噛みついたの。二度めは、ブ ルドーザーに轢かれた犬を助けようとしていたときだった。担架がなかったので、轡をはめようとしたら、噛みついたの。そのまま抱いて、トラックまで運んで ね。あたしはセントバーナードでも、グレートデンでも捕まえるけど、危険な場合は、ほら、この長い棒をつかって、犬とあたしの距離をたもつようにしてやる の」
 そういって、彼女はトラックのなかの金属の長い棒をしめした。
「狂犬病の予防注射はしてあるの?」
「三度した」
「おなかにぶすりとやられたの?」
「予防注射の場合は腕にするのよ。狂犬病にかかっている犬に噛まれたときの手当てよ、腹にぶすりとやるのは」
「動物取り締まり官になるための訓練は、どこでうけたの?」
「アラバマ大学にね、『動物取り締まりアカデミー』というのがあるの。全米動物愛護協会とアラバマ州警察が共同で運営している。そこへいったのよ」
「二年ぐらい?」
「三週間よ。そこへいくと、動物の病気の見分けかたとか、犬の行動を観察して、その犬の言語を読みとる方法とか、いろいろ教えてくれる。でも、実際にどう やって動物を捕まえるかについては、教えてくれない。これは自分で考えて工夫して、経験をつむことで学ぶしかないのよ。
 動物取り締まり官になってから、あたしは狼の行動形態について勉強してみたの。それを通して、犬の行動形態がわかるのだから。狼について学ぶと、恐怖に かられて噛みつくタイプの犬とか、社会化されていない、攻撃的な犬の扱いかたがわかってくる。動物取り締まり官の仕事は、ひとから教えてもらうだけじゃで きない。自分でいろいろ工夫してみないと、つまらない」
 つけっぱなしになっている無線ラジオから、警官どうしの会話が聞こえてくる。
 警官1の声「で、問題の建物のなかには現在、マリワナを吸っている者たちのいるようだがね……」
 警官2の声「逮捕すべきかな?」
 警官1の声「まあ、いいんじゃないかな」
 ガー。そこで無線は切れた。
「給料は? そんなこと、訊ねたらいや?」とわたしはたずねた。
「いやじゃない。よその町では、時間給十ドルとか、二十ドルとかいう話をきいてるけど、わたしは五ドル」
「ずいぶん少ないのね、たいへんな仕事なのに」
「そう。給料のことだけじゃない、問題なのは。動物取り締まり官の仕事は、ひどく誤解されている。動物愛護協会は資金がたりなくなると犬を捕まえるんだ、 なんていうことを言い触らす人たちもいるのね。そんな誤解が生じるのは、もし野犬狩りをしなかったら、どんなことになるか、たいがいの人には想像もできな いからよ。もし野犬をほっておいたら、彼らはやがて群れをなして行動するようになるの。町じゅうを大集団となって駆けめぐり、ごみの罐をひっくりかえした り、人間を襲ったりするようになる。危険きわまりなし、街路は不潔になる。
 あたしのこと、『ヒトラーの娘!』といって罵る連中もいるのよ。『犬狩りして、殺して、きさまはうれしいのか?』なんて。いちばんつらいのは、子供たち に『イヌゴロシ!』なんて怒鳴られるとき。『あんた、ほんとにその手で犬を殺すのか』なんていうのよね。
 あたしは動物が好きだから、この仕事をしている。緊張の多い仕事よ。誤解がいちばんつらい。苦しい気持ちになる。親友みたいな連中だって、よくもまあ、 あんた、そんな仕事をやれるわね、あんた、動物好きなんだとばかり思ってたわ、なんていうの。
 さびしい。なんでこんな仕事を続けているんだろう、と自分でもわからなくなることある。ペットを放し飼いにしている飼い主に、大声でわめきたてられ、罵 られる……あるとき、大きなレンチをふりかざして、追いかけてきた男もいた。危険よ、ニンゲンて。うんざりしてしまう。
 でもね、すっかり悄気ているところへ、立派な仕事をしている、と投書してくれたりする人もいるのね。車から降りたあたしのところへ、わざわざ寄ってき て、自分の飼っている犬がどんなにすばらしいか、そんな話をしてくれる人だっている」
「凶暴なニンゲンには、どうやって対抗するの?」
「パトロール警官の応援をたのむのよ」
「サイレンならして、いっせいに、何台ものパトカーが応援にくるのね!」
 無線ラジオがキャロルのトラックを呼んでいる。騒々しく吠えたてる犬について、警察に苦情がはいっている、ということだった。現在走行中の地域から二キ ロほどの、中流の住宅地からの通報だ。
 いま走っている場所は、公式にそう呼ばれているわけではないが、いわばゲットーのような地域だ。草ぼうぼうの庭や、壊れた階段や、崩れおちそうなポーチ がある。窓に板を打ちつけた廃屋。黒ずんだ緑いろのペンキが剥げおちて、無惨な皮膚病に苦しんでいるような二階建ての家。
 青色の荒涼とした、大きな建物を、出たり入ったりしている人々の姿がみえた。
「あれ、なに?」
「ブルー・アイランド。バーよ。ブルー・アイランド……。先週ね、ピストルの撃ちあいがあった。新聞にもでていた。知らない?」
 昼間から酒をのまずにいられない人々のブルー・アイランド。青い島。そのまわりには建物はなくて、ブルー・アイランドはむきだしだ。陽光のなか、ささく れだった夢の島。
 わたしたちはそこから中流住宅地のほうへ向かっていた。
 さっき収容した犬たちが、トラックの後部の檻のなかで、まるで人間のそれに聞こえるような深い溜息をつく。そして、放屁する。わたしたちは窓をあける が、においのもの凄さに気がとおくなりそう。
「ごみ箱をあさって、腐ったものでも食べたのね」とキャロルがいう。
 また溜息をついている。
「この二頭はずいぶんおとなしいわ。何時間もがんがんと吠えつづける犬もいるし、車に酔って、吐く犬もいるのよ」
 たしかに人間まがいの溜息のほかには啼声もあげずおとなしいが、放出しているガスのにおいは控え目ではない。
 だらだらと冬がつづいていた。街路の並木は芽をふく気配さえみせず、さかさ吊るしの巨大な箒の列のようだ。スプリングフィールドという大通りをしばらく 西へ走って、それから南へ折れた。そこはホリデイタウンという名の分譲住宅地だ。そこの住宅はみすぼらしくもないし、うつくしくもない。完全に中間的なた たずまいの一画。やかましい犬がいて、近所迷惑だ、と通報された家の前にトラックをとめた。そこへちょうど玄関の扉をあけて、白人の中肉中背の若い女性が 出てきた。彼女はドライブウェイにとめてあった二台の乗用車のうちの、道路に近いほうのトランクをあけて、紙包みをしまった。キャロルが近づいていった。
「失礼ですが」と彼女はいった。彼女が口にしたのは、その言葉だけだった。
「あんた、どこかよその犬とまちがえてるのよ!」
 キャロルはだまっている。
「誰だかしらないけど、この家の犬のことで、警察にしつこく苦情をいっている人がいるらしいけどね、ここの家の犬は吠えもしないし、外に出ることもないん ですからね」
「そうですか」とキャロルはとても静かな声でいう。「ちょっと、お話をうかがいたいんですけれど」
「あたしはここに住んでるわけじゃないの。親類の者にすぎないのよ。あたしに話したって無駄よ。だいいち、あたしはでかけるところですからね」
「そうですか。この家の人たちの苗字は何というのですか? 犬はどういう種類の犬ですか?」
「そんなこと、あんたにおしえてあげる必要もないと思うのよ。ここの犬はおとなしいんだから」
「それでは、騒々しく吠えたてる犬の扱いについて書いてあるパンフレットだけ、郵便受けにいれていきますから」
「勝手にいれてきなさいよ」
 赤い車のドアをばたんと閉めて、乱暴にバックして、親類の者だという女性は走りさった。
「キャロル、苗字は郵便受けに書いてあるわ」
「あたしも気がついていた」
 キャロルは玄関の脇の郵便受けにパンフレットをいれた。
「玄関に足音がしたら、犬は吠えるものなのに、吠え声は聞こえない。へんね」とキャロルは不審そうだった。わたしたちはトラックにもどった。
「あのひと、失礼だったでしょう?」
「ああいうこと、しょっちゅなの?」
「しょっちゅうよ。『おれの地所をどけ!』とかね。いつか、体重が十キロもあるような猫が、子供たちをひっかいて怪我させている、いろいろ悪さもして困っ ているという苦情があったから、その猫を収容しにでかけたの。そしたら飼い主がでてきて、『おまえは猫族の敵だ』といってね、告訴したのよ。
 いつだって、おかしいのは人間たち。狂犬病に感染してしまっているんじゃないかと疑いたくなるような連中も多い。
 居留守をつかう、というのは常套手段。何度もたずねていってて、そういう手をつかう家だとわかってる場合は、トラックをずっと離れた場所にとめておく の。制服姿だと、家のなかからわかってしまうから、扉を開けないだろうと見当のつくようなときは、わざわざ平服に着替えていくことだってあるの」
「扉を開けさせるところまでは成功しても、該当するような動物はいないね、といわれたらどうするの? 押し入って、しらべるの?」
「捜査令状がないかぎり、それはできない」
 無線ラジオがピーピーと音をたてる。そしてキャロルの番号をいった。
「D七十四。はい、はい」
「シュルトン・トレーラーハウス用地の住宅七百四十一号のミセス・タックソンが、猫捕りの罠をしかけてほしいといってますよ。オーバー」
「はい、了解。D七十四。オーバー」
「オーケー。オーバー・アンド・アウト」
「猫の罠をしかけてくれって?」
「そう。このタックソンというおばあさんはね、毎年きまってこの時期になると、野良猫を捕まえにこい、と連絡してくるの。彼女は自分でも二十匹ぐらいの猫 をトレーラーのなかで飼っているのね。そして、トレーラーの外にも、無数の野良猫がうろついているの。野良猫たちは完全に野生化していて、二度とふたたび 飼いならすことは不可能な連中だけど、おばあさんが餌を外においておくので、トレーラーに寄ってくる。そのくせ、野良猫がうるさくしてしょうがないとい う。罠をかけてくれというから、罠をもっていって仕掛けてくる、すると、腹をたてて、仕掛けておいた罠を、道路のまんなかに放りだしたりするのよ。
 今月になってから、あたしはもう十四匹もつかまえたのだけれど、まだ三匹のこっているの。
 おばあさんはひとり暮らしで寂しいのだと思う。だから、猫をたくさん飼っている。でも、彼女の猫たちは親近交配で繁殖してきたものだから、いろんな異常 があるの」
 わたしたちは町の北にあるトレーラーパークに向かった。
 そのトレーラー用地には、およそ二百戸のトレーラーハウスがある。なかには正面にアルミ製の円柱を立てたポーチまでつけた大きなのもあるが、おおかたは 小さな家。列車の客車よりも細い家たちだ。これらの移動住宅を、人々はトレーラー用地に指定されている場所において暮らす。トレーラーパークとよばれてい て、電気や水道がひかれている。都市ガスはなくて、プロパンをつかう。
 トレーラーに住むのは、移動しやすいからではない。トレーラーハウスが住宅としてはもっとも安いから、それしか買えない場合にそうするのだ。住んでいる 者たちの暮らしの感情をあらわすように、ペンキもはげ、荒涼としたたたずまいのトレーラーもあるし、せいいっぱいの工夫をこらして、扉のまえにポーチをつ くったり、植木を植えてみたりしている家もある。そういうトレーラーは、ペンキもきれいに塗ってある。
 トレーラーパークにはいってから、くねくねとトラックを走らせて、目ざす家に到着した。
 トラックのエンジンの音を聞きつけたのだろう。年老いた女性が扉を半開きにして、首をつきだした。
「きたね」
「ええ、また罠をしかけてほしいんですね」
「そう。またぞろ、野良どもがうるさくてね。さかりがついてるね。夜もろくろく眠れないよ」
 老女の髪は暑い日の畑のとうもろこしの毛のように、輝きを失い、ぐったりとなって、頭にへばりついている。色のあせたプリントの、化粧着のようなものを 着て、素足にスリッパをはいているのだが、スリッパの爪先はおおきく破れている。関節炎なのだろうか、破れ目からつきでた爪先は瘤だらけの木の根っこのよ うだ。親指が第二指をおさえこむような恰好で、二本の指先がかさなりあっている。老女が口をひらくと、歯が上に三本、下に二本だけ生えのこっているのが見 えた。
「罠はどこにしかけるんかね、きょうは?」
「家の裏がいいでしょう」
 キャロルはトラックから罠をふたつおろしてきた。わたしの家のガレージのなかに仕掛けたのと同じ種類のものだった。餌につかうために、キャットフッドを 二罐だした。罐切りをまわしながら、キャロルがいった。
「無印のキャットフッドは全然だめなのよ。一匹も捕まらないの」
 彼女は餌をしかけて、猫捕りの罠を家の裏手にそっと置いた。
「ほかのところに猫の餌をだしてやっちゃだめですからね」
「なぜだい」
「だって、あなたにもらう餌で満腹してしまって、こっちのは食べようとしなくなります。そしたら、捕まえられないですからね」
「ふうん」
「かかったら、電話くださいね」
「わかってるよ」
 わたしたちはトラックにのって、猫のおばあさんに手をふる。扉の前の段々のうえで、彼女も手をふっている。
「彼女、きょうは機嫌がいい」とキャロルはいった。
「あれで? ところで、昼食はどうするの?」
「あたしは食べたくないから、あなたのしたいようにしましょう。あたしはコカコーラなんかを呑むだけなの。どこでもいいの。でも、昼休みする前に、犬たち を動物愛護協会につれていって、車からおろさなければならない。シェルターにいれるのよ」
「シェルターにいれられた動物はどうなるの?」
「七日間は協会においておくの。鑑札をつけている場合は、飼い主に連絡しても、もういらないんだ、という人たちは多いのよ。ぬいぐるみの動物でも買うよう にして犬や猫を買って、あきたらポイと棄ててしまう。引き取るつもりはない、といわれた犬や猫たちと、野良の犬や猫は、健康であれば、あたらしい飼い主に 引き取られるのを待つの」
「七日間?」
「そう。七日がすぎたら……殺さなければならないの」
 いまトラックに積まれているドーバーマンたちはどうなるのか。一頭は鑑札をつけていて、クランシーという名が刻まれている。犬の名だろうか、それとも飼 い主の名だろうか。クランシー。
「D七十四号車。動物愛護協会へむかいます」
「はい、了解」

 協会はシャンペンの町のなかではなくて、市道を南へ十五分ほどいったボンズヴィルという村にある。シャンペン郡のちいさな農村のひとつだ。
 シェルターの裏口から入って、キャロルは二頭の犬を檻にいれた。
 大小さまざまの犬が一頭ずつ檻にはいっていて、檻のまえには、犬の種類、名前(わかっている場合)、年齢などが記入された札がさがっている。飼い主がわ かっているのに、あたらしい飼い主を求めている場合は、その理由も記入されている。

 理由・引越しときまった。
 理由・予想より、犬が大きく育ちすぎた。
 理由・赤ん坊がうまれた。
 理由・もう餌を買ってやる金がない。

 猫たちの檻のならぶ部屋も三つあった。
 医師や化学実験室で実験をしている人たちが着るような白衣をつけた女性がふたり、犬と猫の体重をはかって、食べた餌の量も記録している。
「日に二度、体温をはかるのよ。寄生虫がいる場合は駆除するし、予防注射も全部して、引き取りたいという人たちがすぐに連れていけるようにしてあるの」と キャロルがいった。
「病気がひどいような場合はどうするの?」
「眠らせてしまう……」
 わたしたちはトラックにもどった。
「D七十四号車、昼休みです」
「はい、了解」
 わたしたちは町へもどって、グリーン・ストリートの、「ホワイトホース」へいった。大学の学生たちがやってるレストランだが、がらんとしている。一時半 だった。まがいもののプラスチックの薪のなかには電球がはいっていて、夜になったら、その電球をともす。すると、薪が中から照らされて、燃えているように 見える。今はまだ暗いその暖炉の前のテーブルに腰をおろして、キャロルがいった。
「ああ、きょうはほんとに暇だこと。せっかく一緒にきてくれたのだから、何かエキゾチックな動物がつかまればいいのにねえ。
 もう二年も前のことになるけど、庭にコヨーテがいる! 捕まえてくれ! という連絡がはいったの。まさか、とあたしは思った。きっと、野犬をコヨーテと 見まちがえているんだろうとたかをくくって行ってみたら、ほんとの話だったのよ。コヨーテがいたの。いったいどこからきたのか、わからない。あたしはそい つを追いまわしてね。そしたら、ホイと垣根をとびこえて、道路へ出てしまった。それをトラックで追って、町の外へ追い出したわけ。
 町のなかを、鹿がうろついていたりすることもあるのよ。毎年この時期になると、アラートン森林公園からやってくるらしいの。五、六頭で群れをなして。庭 に鹿がいます! という連絡がときどきはいるのよ。鹿はね、追いまわさない。ほうっておけば、やってきた道をたどって帰っていくもの。
 二年ほど前になるかしら。大蛇がいる、どうにかしろ、という連絡があった。いわれた場所へいってトラックをとめて降りていくと、待っていた人たちという のは、ランニングシャツだけしか着ていない、半裸の大男たちだった。彼らはあたしを見ると、なんだ、女か、女に蛇を捕まえることができるかなんて、わめい てね。
 蛇はどこですか、とあたしはたずねた。男たちは一本の胡桃の木を指した。なるほど、胡桃の大枝によく肥えた青い大蛇がまきついていたの。四メートルくら いあってね。
 あたしはその胡桃の木にのぼって、大蛇を木からはがすようにして抱きとって、そのまま降ろした。図体が大きいけど、毒はないもの。男たちは、ヒャーとか 声をあげて、いっせいに駆けて逃げたの。あたしが蛇をトラックに積みこんでいると、すぐ近くに一台の車がとまってね。男のふたりづれがおりてきて、そいつ はおれたちの蛇だ、おれたちのペットの蛇だっていうのね。今朝、家から逃げだしたんで、ずっと探してたんだ、見つかってよかった、といってね。
 毒蛇を捕まえたこともあるのよ。外から屋根裏へはいってしまった蛇だった。あたしがそれを捕まえて、屋根裏からおりてくると、その家の主人が斧を手にし て、近づいてくるじゃないの。『斧なんかもって、どうしたんですか』とあたしがたずねると、『毒蛇じゃないか、ぶっころしてくれる!』というのよ。『よし てください。べつに誰かを噛んだというわけでもないんですから。わたしがトラックにのせて、町の外へつれだして、林のなかにでも放してやりますから』とあ たしがいうと、かれはその憎しみにみちた表情をかえることはなく、『なぜ、そんなばかなことをするんだ。ぜったいにぶったぎってやる』といったのよ。人間 てほんとにおそろしい。
 人間てほんとにおそろしい。あたしはずいぶんいろいろの動物虐待の例を見てきたわ。
 動物を虐待しているらしい、という通報があったら、あたしがまずいってみることになっている。あたしは、家のなかにはいって虐待の事実があるかどうか調 べたいというの。おおかた、とんでもない、虐待している事実などあるものか、さっさと帰れというわね。そうしたら、郡庁の動物虐待取り締まり官に連絡し て、捜査令状をとりつけて、それから出なおして、家宅捜査するの。
 ついこのあいだ捜査したケースはね、犬の首輪が首の肉にくいこんでいた事件だった。犬は鎖の首輪をさせられていたのだけれだ、子犬のときにはめられたま ま、成長につれて首輪がちいさくなったのを、そのままほっておかれたの。鎖が深く肉にくいこんで、肉にはりついてしまったのよ。手術して鎖をとったの。肉 から切りとったの。
 去年のちょうど今ごろだった。一軒の家から、合計四十一匹の猫を収容する事件があったのは。おばあさんが独りで住んでいる家だった。隣の住人から、おば あさんの家が、なんともひどい悪臭がする、調べてもらえないかという要請があってね。
 行ってみたら、家のなかは猫だらけ。ここも猫、あそこも猫、猫ばかり四十一匹。そして床には十センチぐらい糞便がつもっている。おばあさんのベッドに も、糞便がつもっている。それはマットレスむきだしのベッドでね。
 猫たちはみんな、それはひどいようすだった。頭にわずかに毛がのこっているだけで、あとはすっかり毛の抜けおちている猫……冷蔵庫の裏に、やせこけた猫 の死骸があって、そのまわり、そのうえを、ごきぶりがうじゃうじゃと這いまわっていた。かろうじて生きている猫たちも、のこらず骨と皮ばかり。台所には牛 乳とクラッカーしかみあたらなかったの。おばあさんも猫たちも、それしか食べていないようだった。
 家の床には猫の糞便がうずたかつつもっていただけでなく、床という床、すべてごみとがらくたで覆われていて、まったく文字どおり足の踏み場もなかった の。衣類、古箱、古靴、ごみ、ごみ、ごみ……。
 猫たち四十一匹、収容してね。のこらずひどい状態で、健康なのは一匹もいなかった。全部安楽死させるよりほかなかった。
 あたしが四十一匹の猫をつぎつぎにトラックに運びいれているあいだ、おばあさんは外へ出てね、玄関の階段に腰をおろして、肩をおとし背中をまるめて、 じっとうつむいていた。しばらくしてから立ちあがって、台所の電話から誰かに電話をしていた。『たすけておくれよ。誰だかわからないんだけど、トラックで やってきて、あたしの猫を一匹のこらず連れていくっていうんだよお。あたしは猫たちにひどい仕打ちなどしていないのに、なんで、こんなむごいことするんだ ろうねえ』そういって、泣いていたの。
 あとでわかったのだけれど、電話の相手はおばあさんの息子だった。この町に住んでるのに、結局その日、おばあさんを訪ねてきたものはいなかったのよ」
「ひどい臭いだったでしょうね」
「ひどかった」
「気分が悪くなることはなかった?」
「途中、一度だけ、肺がおかしくなってしまって、息がつまりそうになったの。これはいけないと思って、外へでて、しばらく休んだ。でも、またもどって行っ た。あとで調査に行った人たちはガスマスクをつけて入ったのよ。
 あたしにとってもっとも辛かったのは、おばあさんの猫たちを奪っていかなければならないことだった。あたしには動物をあつかう権限しかない……猫たちを 収容することしかできない。四十一匹の猫を収容して、あたしはそのおばあさんをたった独りきり、その家に置きざりにして帰ってしまうしか、できなかった。 かわいそうで、かわいそうで。
 その夜、仕事をおえてシャワーをあびた。一度あびても、汚れはちっとも落ちてないように感じて、またあびた。もう一度、もう一度と。何度も、くりかえし あびた。床にはいっても眠れなくて。とりわけ、おばあさんの寂しさを想像していると、つらくて、気の毒で、とうとう眠れないまま朝になってしまった。服を きがえて、ふたたび仕事にでて。
 おばあさんはその後養老院にはいったの。動物虐待のかどで裁判にかけられて、あたしも証言しろといわれたのだったけれど、そのとき、おばあさんの子供た ちは、自分たちの母親がどういう暮らしをしていたか承知していた、ということがわかったのね。
 市が彼女の住んでいた家の清掃を命じた。借家だったのね。ところが、いくら金をもらったって、こんな不潔きわまりない家屋の掃除は請け負えないといっ て、清掃を請け負う会社もなかったの。そこで、市はとうとうその家の取り壊しを命じたの。先週、取り壊しがはじまった」

 そういう話を聞きながら昼食をおえて、わたしたちはトラックにもどった。無線のラジオのスイッチをいれると、まもなく警察本部が、うろついて いた犬を捕まえてあるという通報が二件あった、とつたえてきた。キャロルは所番地をたずね、ただちにそっちへ向かうと返答した。
 そのあたりはひどく貧しくもないし、たいして裕福でもない住宅地で、町の北にあった。捕まえてあった犬の一頭はエアデルテリアで、もう一頭はビーグルと コリーの雑種のように見えた。エアデルが庭をうろついているのを発見して捕まえた主婦は、飼い主が名乗りでないようだったら、その犬を自分のところで飼い たいのだが、といった。だから飼い主が名乗りでるまで、自分の庭につないでおいてもいいだろうか、とたずねた。かまわないが、それでも手続きは一応必要だ からといって、キャロルは報告の書類に記入していた。雑種のほうは、捕まえた人にほしがられることもなく、トラックにのせられた。目ばかり大きな小型の犬 で、開けられたトラックの扉口へ、うながされることもなしに、ひょいと跳びのった。
「それにしても、暇な日だわ」とキャロルはなげいた。かえって疲れる、というのだった。暇でも、トラックを乗りまわしているのがキャロルの任務だから、わ たしたちはあちこち走ってみる。気温があがっていて、トラックのなかも暑くなった。わたしたちはちょうどわたしの家のそばを通過していた。その日そこを通 過するのは、もう三度目だった。小さな町だから、何度もおなじところを通るのだ。キャロルがまた話していた。
「動物虐待の件で、長期にわたって交渉のあったひとりの女性がいてね。そのひとも猫をたくさん飼っていたのだけれど、餌をじゅうぶんにやらないので、猫た ちは飢えて病気になっていた。彼女は強姦される目にあったあと、家から一歩もでないようになって、猫とだけ暮らしていたの。猫たちのようすがあまりにも酷 かったのでついに収容に踏みきったのだけれど、猫たちを奪われてまもなく、彼女は死んでしまったの。
 あたしは今でも、その彼女の死は自分がひきおこしたことのように感じているのよ。あたしが猫たちを奪ったから、彼女は死んでしまったのだ、と思えてなら ないの」
 そういって、キャロルはしばらく口をつぐんでいた。それから、またいった。
「こんな小さな町なのに、動物虐待事件はあとをたたない。十三頭の犬が収容された話、新聞で読まなかった?」
「読まなかった」
「去年の夏のこと。パーク・ストリートの廃屋に、死にかけの犬がたくさんいる、という通報があった。調べてみたら、赤い廃屋に、十九頭の犬がいた。飢え て、瀕死の犬ばかり十九頭。すでに死んでいるのもいた。死んでいた犬の首には穴があいてて、無数の蛆虫が出たり入ったりしていたの。虫の息ながら、まだ生 きていた犬たちは骨と皮ばかり。床に横たわって、ほそぼそと息をしていた。
 犬たちは闘犬だった。ある人物が闘犬賭博につかっていた犬たちだった。闘犬賭博は非合法よ。それにしても、なぜ廃屋にとじこめて飢えさせるようなことを したのだろうか、と調査官が犯人の友人にたずねると、『もう犬には飽きたんとちがうか』と答えたというのね。
 こんなこと、あなたにいうべきたどうか、迷ったんだけど……あのね、犬たちの周囲には糞便が見あたらなかったの。生きのびるために、犬たちは糞まで食べ ていたのでしょうね。ああ、なんてこと、とあたしは思った」
 トラックは赤信号でとまる。
 無線がぴーぴーと鳴って、午前中にしかけた罠に野良猫が一匹かかったから引きとりにこいと、例のトレーラーハウスの女性から連絡がはいった、と知らせ た。
 そこでわたしたちは目当てのないパトロールを中止して、トレーラーパークをめざした。
 家の裏へまわって罠を見ると、灰色の猫がかかっていた。わたしたちが近よると、灰猫は長い毛をぼおぼおと逆立てて、歯をむきだし、しゅーっしゅーっと唾 をはいた。ところどころ楕円形に毛が抜けおちている。
「罠で毛がぬけちまったんだね」とトレーラーハウスの住人はいった。「罠で、すりむけちゃったんだ」
「そうじゃないですよ。皮膚病なんですよ」とキャロルはいった。「ほら、ここも。ここも。この罠でけがぬけおちるなんていうことはないですよ」
「罠で毛がぬけた」
「ちがうの。皮膚病なの」
「そうかねえ。あたしゃ罠のせいだと思うがね」
 猫を罠にいれたまま、トラックにのせる。まだ毛を逆立てて、唾をはいている。毛には艶というものの影もない。痩せこけているから、長い体毛は寸法のあわ ない、巨大な古コートのように見える。生涯を野良の身分ですごしてきた強気の痩せ猫だ。
「あと一匹、妊娠している黒猫を捕まえれば、だいたいおわりですね」とキャロルがいった。
「のこらず捕まえるつもりかね」
「そのほうがいいでしょう。二、三日したら、またきてみましょうか?」
「あたしのほうから連絡するまでこないでおくれ」
「でも、もう間もなく子を産みますよ、あの黒猫は」
「へえ」
「きょうのところは、これでさよなら」
「ああ、さよなら」
 老婆はまた今度も階段の上でトラックを見送る。朝の化粧着のようなのから、縞模様のセーターとスラックスに着替えていた。靴も履きかえていたが、それも やはり爪先がぱくりと口をあけている。爪先は山芋のようでもあるし、靴のふしぎな舌のようにも見える。頭にかぶった毛糸の帽子は、すっかり暑くなっている 陽光のなかで、きたるべき災難にそなえる保護帽だ。
 トレーラーパークからトラックを出しながら、キャロルはそこからサウスウッドへいくといった。一年がかりで追っている野良犬がいるのだという。シェパー ドだが、どうしても捕まえることができない。彼女がいくと、かならずちらりと姿を見せるが、保護できる距離にちかづくと、疾走して去るのだという。
「あたしのトラックのにおいを嗅ぎつけて、逃げるのだと思う」
 それは一年がかりの鬼ごっこというわけだった。捕まえることもできないが、犬がサウスウッドという西南の分譲地を去ることもない。犬とキャロルのあいだ には確固たる関係ができあがっている。
 トレーラーパークからそのサウスウッドへ行くには、町を斜につっきるように道路をえらんで走ればいいが、わたしたちはジグザグに進路をとることにした。 かつてひとりの老婆が瀕死の黒猫四十一匹と同居していた家、清掃を請け負う会社もないので、取り壊しときまった例の糞便とごみの家のあとを見ることにした からだった、それはヒーリー・ストリートにあって、わたしの家からもそれほど遠くはないのだ。
 適当に手入れのいきとどいた二軒の白い家にはさまれて、壊された家の残骸が山になって盛上がっていた。それはそのぐしゃぐしゃに潰された腕のなかに、膨 大な量の猫の糞をだいているはずだった。糞便地獄だったのだから。病みさらばえた猫四十一匹と孤独な老婆が異様にして凄惨な日をおくっていた家はついに崩 れ落ちた。
 わたしたちはその家の残骸のまえでトラックをとめることはしなかった。徐行して通過していった。
 その日、サウスウッドにはキャロルが追いつづけている犬はいなかった。「こんな暇な日、はじめて」とくりかえしていうキャロルは、たちならぶ中流住宅の あいだを縫うように、ゆっくりと走っていた。
 わたしの目に黒い犬が映った。
「あれ、あの黒い犬! 鎖につながれていないのと違う?」
 わたしもすでにいっぱしのドッグ・キャッチャー気分。
「どれ? ああ、あれ……なんだ、飼い主がひっぱってる。残念。」
「あははは。あれ! あの飼い主、わたしの知り合いじゃないかと思う。あの犬、そう、彼女のレトリバー」
「近くまでいってみる?」
「そうしようか」
 わたしは窓から顔をだして呼んだ。
「マギー! あなたの犬、捕まえそこなった、きょうのところは」
 マギーはとつぜん背後の車からこえをかけられてぎくりとして、ふりむいた。おさない二人の娘をつれている。
「どうしたの、そんなトラックに乗って?」
「動物の取り締まりをやってるわけよ。あなたの犬、遠くからみたら繋いでないように見えたから、追ってきたのよ。おおいに残念。きょうは獲物がひどくすく ないから」
「そう、気のどくに。あたしはこれから、この犬にたむしの予防注射をしてもらいに、獣医のところへいくから」
「じゃ、また」
「じゃ、また。こんなトラックが巡回してること、全然しらなかった」
「おおいに巡回してるのよ」
 サウスウッド分譲地を出て、目抜き通りのひとつニール・ストリートへむかう途中の交差点でキャロルはいった。
「二年前に事故にあったのが、この交差点。停止の座標を無視して走ってきた乗用車が、あたしのトラックの横腹にもろに衝突してね。トラックは三十メートル も飛んだ。横転したトラックのなかのあたしも、檻もなんかにぶちあたりながら、転がっていた。ころがりながら、ああ、こんなにくりかえし転がっていたら、 気分がわるくなってしまうな、と思ってた。トラックがようやく草原で静止したので、あたしは這いだして、乗用車に乗っていた人たちのようすを見にいこうと していたの。そこへ男の人がやってきて、あんた怪我してる、血だらけじゃないか、動いちゃいけないよ、そのままじっとしてなさい、ぼくがようすは見てくる から、といってね。乗用車には若い母親と赤ん坊が乗っていたんですって。そして、ふたりには怪我はまったくなかったって。
 あたしの兄はいつも短波放送をきいているの。それであたしのトラックが事故にあったことを知って、おおいそぎで現場に駆けつけてきた。あたしはもうその ときには病院へ運ばれていったあとで、大破したトラックを見て、妹は死んでしまった、と考えたのね。病院へ駆けつけてきた両親も、血まみれのあたしを見 て、やっぱりそう思ったらしい。
 あたしは死にはしなかったけれど、事故のあとしばらくは車を運転するのがおそろしくて、ノイローゼみたいになってしまった。夫がたすけてくれて、ようや く恐怖感を克服して仕事にもどったの」
「動物取り締まり官をやめて、愛護協会の内勤にかえてもらうことは考えなかったのね?」
「考えなかった」
「なぜ?」
「そもそも内勤をやめて、動物取り締まり官になったわけは、内勤の仕事にたえられなかったからだった。内勤で、毎日動物たちを安楽死させなければならない ことがつらかった。たえられなかった。ひどい病気の犬や猫たち。そして七日の猶予期間がすぎても引き取り手のない犬や猫たちは安楽死させるから。注射し て……」
「一日平均、何匹ぐらい眠らせたの?」
「二十匹」
「そんなに?」
「棄てられて、飢えて、傷ついて、ぼろぼろになって野垂れ死にするより、人間の腕にだかれて、じっと見守られて眠りにつくほうがしあわせだ、という気もし たけれど、でももうこれ以上は続けられない、と思ってね。内勤をやめる方法はないかと考えたのよ。
 いよいよ取り締まり官になってみたら、女だから、いろいろ困難があった。女にできるしごとか、といわれて、真面目に相手にしてくれないとかね。警察と一 緒の職場というのも、わけもなく恐ろしくてね。あたしは内気だから、はじめは警官と口もきけなくて、ずいぶん緊張していたの。
 ある日のこと、巡回していたら、ダウンタウンにすごく大きな犬がうろついてる、いって捕まえろという連落がはいったの。さっそく行ってみたら、犬の扮装 した人間が駆けまわっているのよ! 警官たちのしわざだった。あたしをからかってやろうと。それ以来、警官たちはあたしを受け入れてくれるようになって、 彼らに守られるかたちで仕事ができるようになった」
「じゃあ、まだしばらくは、この仕事をつづけるわね?」
「そのつもり。人々の敵意も誤解もつらいけれど、あたしにはあっている仕事だもの。トラックにいつも独りきりで乗っているのも、とても寂しいのだけれど、 好きでやってる仕事だから我慢する」
 交通量が増えていた。四時に勤めがおわる人々が帰りはじめていた。わたしたちはトラックを警察の駐車場にいれた。降りたところへ、あちこちに傷や凹みの ある白い乗用車をそのトラックのとなりに停めた若い男がよってきた。金色の不精髭がうっとうしい。着古してかちかちに固くなった皮のジャンパーをきていた が、擦り切れて、ほつれもある。ジーンズはすっかり色があせているだけでなく、ひどく汚れていた。
「あのよう」と男はキャロルにいった。「おれの近所のやつらが、おれの犬が吠えて、うるさくてしょうがねえ、とかいうんだけどさ、犬は家のなかで飼ってる んだよ。おれの住んでいるあたりは、おっそろしく物騒だからな。番犬おかなかったら、おれは安心できない。麻薬中毒や、麻薬の密売やってる連中なんかばっ かりのところだからね。そういうやつらがおれの庭を横切って行ったりきたりするから、犬が吠えるんだ」
「そうですか」とキャロルは応答した。「過度に吠える犬のしつけ方について書いたパンフレットがあるますから、それをあげましょう。犬は従順なほうです か?」
「いや、飼い主のおれのいうことさえ、あんまりきかない。おれが虐待なんかしてるわけじゃないよ。でも、きかないんだ。ときには、おれ自身の命もあぶない んじゃないかと不安になることだってあるよ。うーっと唸って、襲いかかるような恰好するからね」
「そういうとき、あなたはどうします?」
「一歩跳びのくね」
「そんなことしたら、だめです。犬はあなたが恐れていると知って、あなたの主人になってしまうんですからね。従順になるように、犬を訓練することが必要で す。訓練所にいれなくてはだめですよ」
「金がかかるからな、そんなことしたら。犬が横柄な態度にでるときには、おれは煉瓦でそいつの頭をがんとなぐってやることもあるよ。そうやって、誰が主人 かおしえてるんだ。べつに虐待してるわけじゃない」
「やはり訓練所にいれたほうがいいですよ」
「そうかねえ。ま、考えてみるよ、きょうはべつの用で警察にきたんだ」
 若者はそういうと、警察の建物のなかへ入っていった。わたしたちもその後から入っていった。
 受付でキャロルを待っていたひとりの黒人の男性がちかよってきた。作業着をきた、六十歳ぐらいに見える男だった。
 かれはポケットから、くしゃくしゃになった一枚の紙きれをとりだした。
「わたしの犬をあんたが捕まえたそうだが、引き取りたいんだ。これがその通知の葉書――」
「通知がきたのは、いつでしたか?」
「だいたい三ヵ月ぐらい前だった」
「三ヵ月……どうなっているか、調べてみないとわからないですよ。この番号に電話して、問い合わせてごらんになりますか?」とキャロルは動物愛護協会の電 話番号を書いた紙をわたした。
「すぐに引き取りたいんだが、」
「ともかく電話してみてくださいね」
 男は口のなかでぶつぶつ音を立てて、通知書だというくしゃくしゃのかみを紙片をふたたびポケットにおさめて、正面の重い扉を全身で押すように出ていっ た。
「あなたは随分おだやかね。慌てたりすることもないのね」とわたしはいった。
「そうなのよね。夫の友人で、自転車で箱をひいて、アイスクリームの行商をやっていた人がいたの。その友だちを、夫とあたしで手伝ったことがあったのだけ れど、倉庫でアイスクリームを箱に詰めていたら、強盗がきたの。売り上げ金があることを知っていて、それを狙ったのね。『有り金のこらず出せ!』と強盗は 拳銃をつきつけてきたの、あたしに。ふつうなら、金切り声をあげるとか、泣きわめくとかするものなのに、あたしはそのとき、『ああ、そうですか』といっ て、自分の財布からお金をとりだして渡したの。『有り金全部といってんだ!』と強盗がいうから、『これで全部ですよ』と答えてね。夫は『キャロル、議論し てる場合じゃない、全部わたすんだよ』なんて慌てているの。『だって、ほんとにこれで全部なのよ』とあたしはいったの。平然としているというか、昂ること がないというか、ともかくそういうたちなのね。どういうのかしら? 柔道ならったんだけど、投げられても、投げられても、どうという気持ちにならない、攻 める気持ちが湧いてこない。先生が、そんなふうじゃだめだ、あんた、柔道やめなさいといったくらいよ。どういうことかしら? でも、そんなふうだから、こ の仕事七年も続けてこられたんだと思うの」
 警察のガラスをはりめぐらした受付の前で、わたしはキャロルとわかれた。子供たちが保育園で迎えをまっていたのだったから。
 翌日、わたしは葉書でキャロルに、彼女のトラックに乗せてもらったことの礼をいった。それから二日たつと、彼女から電話があって、あたしこそ、ありがと うをいいたいといった。「だって、あたしのこと、書いてくれるんですもの」といった。そして、わたしは彼女のことをこんなふうに書いてみた。
 いまでも、車を運転していると、キャロルの有蓋トラックとすれちがうことがある。交差点で停車しているのを見かけることもある。運転台の彼女は、まだす こしぶかぶかのカーキー色の制服だ。この町にただ一着しかない「動物取り締まり官」の制服だ。二十六歳、女性のアニマル・コントロール・オフィサー、キャ ロル・スミスの制服。



編集後記

皆さんにいろいろとご心配をおかけしましたが、去年の十二月十九日に、無事退院しました。出てくるなり、レーガンや金丸信がぼくとおんなじ病気で、話題に なっていると知って、いささか妙な気になった。
入院したなによりもの収穫は、ワープロを練習できたことだろう。この通信が、ワープロで作られるようになってから、常連執筆者の殆どが自分でワープロを打 つものだから、手書きで原稿を出す者としては、どっかにうしろめたい気持ちがあったことは否めない。
「水牛通信」が、誰もその労働によって報酬を貰っていないという原則で成り立っているだけに、ぼくもまた今こうして直接原稿を作成出来るようになれて一安 心というところだ。もっともそうなった途端にこの一年で、これもオシマイになってしまうのだが。
新年だからといって「一年の計は」なんてのは、これまであまり考えなかった人だが、それでは一年というのがあまりにも、あっけなく過ぎてしまうような気が して、ここ数年は一応「今年はこれとこれをしよう」と計画だけは立てるようになった。それでも年の瀬になると、大抵計画通りにいったためしはない。せめて 予め他人に話しておけば、プレッシャーになっていいかなあ、と思ったりしたが、たいして効果があるわけでもない。それでも何年かのレンジでみてみれば、少 しは変っているのがわかる。で、今年はどうしよう。と、実はまだ歳も新たならない内に考えてるので、実感がわかないというのが本音である。「病気だけはカ ンニンや」(田川)




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