人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年3月号 通巻92号
        
入力 桝井孝則


走る・その12 デイヴィッド・グッドマン
水牛通信100号記念コンサートのおしらせ
玖保キリコ「キリコのコリクツ」の書評
 コリクツ 細川周平
 不思議な本やなあ、ぶつぶつ。 田川律
田川律〔台所〕術・なにが男の料理だ! の書評
 生活の本として楽しい 矢野顕子
 これが料理だ! 玖保キリコ
ブレードランナー ジョ ン・ゾーン
律とまち子のふぁっしょん読本
うれないうらない 木島始
犀と水牛 津野海太郎
可不可(番外)夜の時間 高橋悠治
編集後記



走る・その13  デイヴィッド・グッドマン


親展

親愛なるカイ、

十八歳の誕生日、おめでとう! きみが東京にいて、一緒にお祝いできないのはとても残念だが、お父さん、お母さんは、きみのような素晴らしい息子に恵まれ て、ほんとにうれしいよと、それだけいっておきたい。直接大学に進学しないで、一年間東京で浪人生活をしてみるというきみのアイディアはとてもよかった が、しかしこのようにきみの誕生日がまわってくると、お父さんたちは、やっぱりさびしい。あと六ヵ月したらまた会えるわけだけど、再会を楽しみにしている よ。

さて、年末の長い手紙を受け取りながら、まだ返事をかいていない、どう答えたらいいかな、と考えているうちに、時間がどんどん過ぎてしまった。すまない。 きみがとても辛い時期にきていることはよくわかるが、そんなに落胆しないでほしい。

「どこへいってもぼくは異邦人だ。母は日本人。でもぼくは日本語ができても、日本人ではない。ユダヤ人だけど、たまに教会にいくと、かならず変なことをい われる。韓国に生まれたし、韓国人として誇りをもつようにと、お父さんたちにいわれてきたけど、アメリカ国籍だし、韓国について、ほとんど何もわからな い。お父さん、ぼくはいったい何者なのか、教えてくれ!」

きみがいつか必ずこういう手紙を書いてくるだろうことはわかっていた。恐れていたわけではない。むしろ、きみの気がすむような答え方が果たしてできるだろ うかと、不安だった。

自分のアイデンティティがはっきりつかめないので、きみは苦しんでいる。あるいは、アイデンティティの様々な要素を統合する何かを求めて苦しんでいると いったほうがいいかもしれない。どちらにしても、苦しいのは当然だと思う。きみに与えられた人生の条件は、きわめて複雑だからね。

お父さんはきみが今ぶつかっている問題を、ある程度予想できていた。韓国人の子供がユダヤ系アメリカ人の父と日本人の母に育てられたというのだから、問題 は多少起こらない方がむしろおかしいだろう。

もう大昔のことになってしまったんだけど、きみが東京のユダヤ教会でユダヤ人になった日のことを思いだす。昨日のようにはっきり覚えているよ。あれは、お 父さんにとって、またとない、特別な日だったからな。きみが養子ではなく、ほんとうの息子になったのは、あの日からだった、といっていいぐらいだよ。

あの日を問題なく迎えたわけではない。まず、うちにきた時、きみはすでに一歳半だった。割礼というのは、普通、生後八日目に家で行う儀式だけど、きみは病 院で手術を受けなければならなかった。

お父さんが小児泌尿器科医のところへいって、手術を頼んだ時のこと、まだ話してないよね。医者がすぐ同意しなかったから、お父さんはびっくりした。同意す るどころか、手術の不必要性を説いた。

「医学の観点からいって包茎切除の必要はない」と医者はいった。「六〇年代のアメリカでは、新生男児の九〇%が包茎切除手術を受けていた。現在は、手術を 受けている新生児は七〇%ぐらいに減っているが、特別な理由がないかぎり手術の必要はない、というのが医学会の一般見解になっている」

医者はお父さんの眼をじっと見つめた。「だから、包茎切除は医学の問題ではなく、文化の問題だ。唯一医学の観点からいえるのは、この手術には心理的な意味 があるらしい、ということだ。男の子は、自分の陰茎が父親のそれと同じでない場合、その差異を意識して劣等感を覚えたりすることがある、ということです」

お父さんは、はじめから、医学的な必要性からではなく、文化的な意味があるからこそ手術を頼んでいたので動じなかった。そしてその翌週、きみは手術を受け た。あとで、きみのかかりつけの小児科医に見てもらったが、「すばらしい腕前」とほめられたっけ。

割礼に抵抗したのは、医者だけではなかった。ラビにまでいろんなこといわれたよ。あの頃はイリノイ州に住んでいたが、町のラビのところに割礼のをことを相 談しにいっても、なかなか納得してくれなかった。「赤ん坊はともかくとして、少し大きくなれば、意識がはっきりしているから、陰茎をいじくりまわせば心に 傷が残る恐れがある。大学の心理学者と相談してOKをとらないかぎり、割礼を施すわけにはいかない」とラビはいった。ところが、本気で心理学者と相談する 様子はなかった。あれはただ、割礼を棚上げするための口実だった。あのラビはアウシュビッツの生存者だった。お父さんにはよく理解できない面があった。ラ ビでありながら、ユダヤ主義に対して、すごいアンビヴァレンスを感じていたようだ。それに、彼はユダヤ教の革新派のラビだった。革新派というのは十九世紀 にできて、ユダヤ人をヨーロッパ社会に同化させようと努めた運動だが、“未開の風習”として、割礼にも反対したことで有名だ。現在は大分違うようだが、あ のラビは昔のその思想をどことなく受け継いでいたんじゃないかという気がする。

とにかく、儀式はわたしたちが京都に一年間滞在する予定でイリノイを発った一九八五年の七月には間に合わなかったわけだ。

京都について間もない頃、お父さんは東京のラビと交渉をはじめた。東京のラビは保守派だったが、彼もやはりきみの割礼に抵抗していた。理由はまったく違っ ていたけど。東京のラビの場合、イスラエルの状況を意識していたのだ。割礼を施し、浸礼をおこなっても、イスラエルではそれを正当に行われた儀式として認 められるかどうかを心配していたわけだ。つまり、かなりの政治的権力を握っている右派のラビたちが、はたしてきみをユダヤ人として受け入れてくれるかどう か、ということを気にしていた。きみがイスラエルに住みたいと決めた場合、あるいはユダヤ人に対する迫害が再発して、イスラエルに逃げることを余儀なくさ れた場合、イスラエルのユダヤ教会が、イスラエルに住む権利を持っているユダヤ人としてきみを認め、問題なく“帰国”させてくれるかどうかを案じていたわ けだ。それで、疑問がはさまれないように彼は、割礼、浸礼のしきたりを遵守することに決めた。とりわけ、儀式に立ち合う三人の証人を厳選することにした。 儀式に立ち合う証人が敬虔派のユダヤ人であれば、きみのユダヤ人としての資格も問われないだろう、という計算だった。証人はラビ、できれば敬虔派のラビが いちばん望ましいと、東京のラビは考えていたが、そういう人はなかなか東京に現れなかったし、現れても、証人になってくれることを引き受けなかった場合も あった。

どんどん遅くなって、アメリカに帰る八六年の六月にはいった。お父さんはよっぽど諦めようかと思っていたが、しかし、イリノイに帰ってからどうにかなると も思えなかったので、最後まで頑張ることにした。ラビはお父さんの気持ちを理解してくれて、適当な証人を集めてくれたが、今度は、その年は空梅雨で、沐浴 場には浸礼のための雨水が溜らない。どうしようと考えているうちに、やっと雨が降って、アメリカに帰国する前の日に儀式が行われた。

長い手紙になったが、以上の話でわかるように、きみをユダヤ人として育てようと思って、さまざまな問題、いろいろな抵抗に出会った。無論、お父さん自身 も、自信満々だったというわけではない。無垢の外国人の子供、しかも孤児を捕まえて、アウシュビッツにいく候補者にする気か、ひどいじゃないか、と思って みたりもした。だが、後悔はしていない。むしろ、すっかり立派になったきみの姿を見る度に、あの時筋を通してよかったと思っている。

きみが悩んでいる、アイデンティティの問題について書こうと思っていたが、なぜか割礼についての手紙になってしまった。筆を置く前に、そのわけを説明しよ う。

うちの家族に加わったとき、きみは余所の子供だった。あたりまえだけど、きみは余所からきた余所者だったのだ。ところが、お父さん、お母さんは立派なこと がしたくてきみを引き取ったのではなかった。恵まれない、可愛そうな孤児を引受けて育てる慈善事業のために、きみを引き取ったのではなかった。わたしたち はきみを息子としてのぞみ迎えた。

問題は、どうやって、余所の子供を息子に替えるか、ということだ。それには一種の錬金術が必要だったが、割礼はその錬金術だった。考えてもごらん。人種も 違う、背景もわからない子供の命を預かって、その子供を育てるということがいったいどういうことなのか。全面的にひとりの人間を受け入れる。条件をつけて 引き受ける仕事ではないのだ。わが家は、ホテルではないからね。お父さんたちは、人間一時預かり所を営んでるわけではない。わたしたちは家族だ。互いにコ ミットしている者たち。親として、きみの人生を形作っていく責任を引き受けていた。子供の人生を形作る場合、子供に傷をつけることだってある。子供を育て るためには、その人生に介入するからね。もちろん、わけもなく傷つけたりしてはいけないが、人間が密接に付き合う場合、互いに傷をつけ合うことがある。だ から、親としては、問題は、こどもに傷がつくかどうか、ということではなく、子供の人生に介入する用意があるかどうか、ということであり、介入したために 生じた責任を無条件に引き受ける覚悟があるかどうか、ということだ。

割礼を施すことによって、お父さんたちは確かにきみの人生に介入した、干渉した。そしてその結果、きみは傷を負った。だが、育てる者、育てられる者は、一 見不合理に見えるあの儀式によって結ばれた。

きみはあの日、ユダヤ人になった。ユダヤ人の伝統、ユダヤ人の歴史に参加する者になった。その伝統はもちろんきみが今直面している問題を解決してくれる魔 法ではない。だが、それは解決への手掛かりになる可能性をもっている。お父さんはきみをユダヤ人にした。だが、そうすることによってはっきりした、まっす ぐな道をきみに与えたのではない。きみはカイ・グッドマン、韓国に生まれ、アメリカ人の父と日本人の母に育てられた複雑な人。きみに単純明解な道を与えよ うと思っても、とうてい、無理な相談さ。お父さんにもし与えられるものがあったとすれば、それは轍程度のものだっただろう。つまり、前にここを通った人た ちが残した足跡だ。そのぐらいは教えられると思った。轍を追っていけば、きみが目指している目的地に必ずたどりつく、という保証はないが、轍があれば、自 分の道を拓くことはできる、とお父さんはかたく信じている。

では、また手紙を書きます。でっかいちゃんによろしく。美恵さんに、あんまり迷惑をかけないように。

お父さんより

二〇〇一年一月一〇日



玖保キリコ「キリコのコリクツ」の書評
コリクツ  細川周平


私はこどものころからリクツが嫌いだった。

今でも人は私の文章をかなりリクツっぽいというけれど、本当の私はそんなんではない、と自分では思っている。親しい友だちもたいていはそう思っているだろ う。

私がリクツを好まない、ということは、かんたんにいって、
「主張がない」
ということである。これははっきりいって、今の職業にとって致命的だと思うのだが、どうしようもない。そして特に悩むことなく、どうしようもない、なんて さじを投げてしまうのだからますます不適性だと思うようになる。

それでふだんの生活に困ることはないのだが、強く欠点として感じることがある。対談とかレクチャーである。まさか対人恐怖症でも内気でもあろうはずがない のに、
「今は正式に何かを話す時である」
という意識が現れると、私はうろたえてしまうのである。

いろいろなことを考えている人がいて、何も考えていない人がいて、それでたいていはうまくいく、こういう場あたり的な私をはっきりいって今の仕事に向いて いないと思う。

それなのに、どうしてリクツっぽい文章をかいているのか、と思われるかもしれないけど、あれは文章の方が勝手に走ってしまうんであって、「書く人」として の私は一切関知していないのである。

わあ、無責任。

そうはいっても書く時にはやはり何かを考えている。それでも私の脳とワープロを打つ指先だけに関係したことで、私のその他の部分はそれにあまり関心を持っ ていないようなのだ。
「うちの右半球ったら、勝手にやって何をしてるのかしら、ほほほー」
ととぼけて、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
「どっちが本当のあなたなのか」
などと問いつめられると、それこそ、
「今、『水牛』に書評書いてんだけどさぁ」
とかいって話をそらして、にたにたとしてしまう……


というわけで玖保キリコの『キリコのコリクツ』(本本堂)はすごい本だ。マンガのままの文章、なんてそう書けるものではない。昔、悠治さんの『ことばを もって音をたちきれ』を読んだ時、あの音楽にしてこの文体、とコーフンして以来のことだ。あのマンガにしてこの文体、これはよい。

ぼくはマンガというものをほとんど一切受付けない体質で、レジデンツのコンサートで紹介されるまでは玖保キリコの名前も知らず、その後も彼女以外のマンガ は一切読まない、一切知らないという徹底ぶり、というか愚か者ぶり。PTA的にマンガがなくなればよい、と思っているのでは全くないが、他人が読むもの、 とこの十五年決めつけている。比較の対象がないだけにいったん惚れ込むと思い込みが激しい。

彼女のマンガで驚くのは、実に細かな観察力で、その目配りに素敵な知性(コリクツ)を感じる。大袈裟にいえば、「見られている私」から見た「見ている私」 の評価という、日常生活の隠れた大問題を提起しているのである。そういえば先月号の『コスモポリタン』は「見られているあなたが本当のあなた」という実に キリコ的な特集であった。

「本当の私」と「本当ではないが、やはり他人というよりも私」の闘いが日夜くりひろげられていることが、彼女のマンガや文章(や人柄)からわかる。この 「本当ではない私」が現代生活にとっては大いなるクセモノだ。単純に否定できないし(そうすると「本当の私」も変ってしまう)、肯定もできないし、なしで 済ませることもできない。この居心地の悪さにどう対処するか。じっと観察するのである。なんで私、こんなことしているのかしら、こんなことしてる私はこう 見られているはず、いうようなことをさりげなく(ここがポイント)観察するのである。彼女のマンガや文章を読んでいる時に何だか嬉しくなってしまうのは、 そうしたさりげなく、しかも鋭い世界とのつきあい方の発見である。

最後に率直な感想。
1) タイトルがすてき。彼女の名前と同じく、か行の音が一つおきに四つ並んで、その硬質な響きにどきどき、わくわく。
2)菊地信義さんの装丁はすてき。ややざらざらした表紙で伏兵、一郎・みちこのアップで迫るなんて、今頃ツネコがやきもちを焼いている?
3)巻末の坂本龍一・矢野顕子夫妻との鼎談ははっきりいって低調。キリコ・ミーツ・憧れの人みたいで、キリコちゃんがののちゃん化している! 本本堂から 出す口実なのかもしれないけれど、月報のように扱うとかすれば面白かったかもしれない。


玖保キリコ「キリコのコリクツ」の書評
不思議な本やなあ、ぶつぶつ。  田川律

玖保キリコ体験は、ぼくの中では次の順序で始まった。キリコの文章、キリコの漫画、キリコ本人。もっとも、当のキリコにすれば、最後の本人の所 は、『私』ということになるのかもしれないが。たいして熱心な少女漫画のファンでもないぼくだから本誌に連載「キリコのコリクツ」が始まるまではキリコの キの字も知らなかった。それが、連載が始まって、なかなか面白いなと思うようになって、慌てて「シニカル・ヒステリー・アワー」なんかを渋谷の漫画専門店 へ行って買い求めて読みだした。

それから、ある夜、悠治さんのうちを訪ねると、先客がいた。もうあらかた片づいた鍋を前に、ひとり今まで見たこともない女の人が座っていた。その人は、ま さに女の人、で、それが玖保キリコだとはその時夢にも思わなかった。(ゴメンネ、キリコちゃん)なにしろ想像してたより、ずっと地味な感じで、しかもずっ と年寄り(?)に見えた。(ほんとは、ここでこそ謝るべきなのだ)

その時はほかにも大勢の人が同席してたので、紹介もされず、遅れてきたぼくとしては、その場の話題についていった。「このあまり物をいわずにただニコニコ 笑っているオバサンはいったい誰なんだ?」やっとしばらくして、美恵さんが、いつものように、ややそっけなく「玖保キリコさん」と紹介してくれた。

「不思議な人やなあ」
あの文章にあの漫画、なるほど、こういう人が書いてたのか。そうこうしているうちに、どんどん玖保キリコはぼくの中で結構な比重を占めるようになってし まった。そのあと、よくコンサートでも会うようになったし。だいたいぼくが出掛けていくコンサートというのは、どっか、まあいうならクセがあるやつで、そ こで、二度も三度も同じ人に会うと、これはもうその人もクセがあるとしか考えられない。そんな時、かの女は、いつもニコニコしていて、とても爽やかな印象 なのだ。

どうして初対面の時、オバサンの印象を受けたのだろう? 今でもこの謎は解けない。

そして気がつくと新宿の「バンタイ」で出来上ったばかりの「キリコのコリクツ」を手にしているばかりか、その書評まで引き受けてしまっているのだ。本文の 中にもあるが、かの女も、会って喋っているのと、文章がかなり違う人だ。さすがストーリー漫画を描く人。話のもっていきようが、実に論理的なのだ。論理の 展開に矢印なんかつけたりして。これはもう、ぼくとはえらい違いだ。それでいて、突然「ブツブツ」とかを、文末につけて、終わったような終わらないよう な、もっていきかたをする。そのアンバランスこそが、玖保キリコの漫画の特色でもあるのだろう。ぼくが仕事をしている「週刊朝日」の前の「担当さん」が、 玖保キリコの大ファンで、なにかというと「ぶつぶつ」と語尾を濁すが、あれは玖保キリコの影響なのか、それとも巷ではそれが流行っていて、キリコの方が、 それを文章に取り入れているのか。それもいまもって、はっきりしていない。

もうひとつ、かの女の文章の特徴は、それが文章なのに、とても絵画的なことだ。本人は漫画家なのだから、漫画的というべきか。しかし日本語でこう書くと、 碌なイメージがないからな。つまり、場面がはっきりしているし、情景描写が巧みなのだ。お母さんが出てきたり、苺のショートケーキが出てきたり、あるいは また、不動産屋が登場したりするたびに、それが目の前にいるかのような気になるほど、うまく書かれている。

さらにもうひとつ、「おまけ」のようについている坂本龍一、矢野顕子と三人の鼎談がなかなか面白い。坂本夫妻は音楽について喋るのは、あちこちで読んでい るけれど、漫画について喋るなんて、滅多にないことで、それがかれらの「時代」みたいなものを、よくあらわしていて、面白かった。またキリコの漫画の特徴 についても、鋭くかつ的確にいいあてていて、「そうか、そういう風にいえばいいのか」と大いに参考になった。

こういうことを面白いと思うのは、キリコという人を知っているからかなあ、と考えたりする。もし、キリコも知らん、かの女の漫画も読んだことのない人が、 一切の先入観なしに、この本を読んでどう思うのやろ、と考えるのは、今さらぼくには出来ないことだから、意味のない設問かもしれないが、それはつまり、あ る種の客観的とでもいうべきもので、それでも、やっぱり面白いねんやろな。

けど、この人は、年はどのぐらいやろか、とかを、たとえば想像したら、なかなかわかりにくいだろうな。だけど、ここに出て来るコリクツは、明快で、漫画か らしっかり独立して、ひとり歩きをしている。やっぱり不思議な人やわ。


田川律〔台所〕術・なにが男の料理だ! の書評
生活の本として楽しい  矢野顕子


長い間「物書き」の仕事をしてきたが、自分が書いた本について、自分で他人にインタビューするなんてはじめてのことだ。ホントは書いて貰いたかったのだ が、「インタビューなら」というので、結局一番相手をよく知っているぼくがする、という羽目になってしまったのだ。その相手は、矢野顕子さん。さて、どう なったか。

――自分の本につて、あなたに聞くなんて、すごく照れ臭いけど、よろしくお願いします。なるべく客観的に見られるように、「田川律の本ですけど……」とか いう風にやろか。
「自分でやるのも面白いんじゃないの、かえって」

――そのう、まず、面白かった?
「大変に面白かったわ。『水牛』にのってた時から読んではいましたけど、いわゆる『料理の本』というのじゃないし。生活の本、という感じかな。視線が同じ ところにある、というのか。普通いわゆる『料理の本』というのは読んでいて、たとえば『魚菜』の本とかいうのは『あ、これは大変だ』とか思うところがある でしょ。この本にはそういうところがない。高い技術を持っている人が、低い人に教えるとか。そういうところが全然ないから『これ、嬉しい!』と読めるのよ ね」

――本の作り方、出来上がりはどう。写真が暗いという声もあるんだけどその分イラストを楽しいものにしたり基本のいろをピンクにして明るくしてあるってい うんだけど。
「そうね。だけど、調味料の棚なんかすごく綺麗に写ってるじゃない」

――キタナイ写真て意外に撮りにくいのよね。ところで、あの本の中の料理は作った?
「作りたいと思うのは、いっぱいあったわよ。あの本の中に書かれているのと、わたしが作るのと、作り方がおんなじって感じなの。たとえば、お好み焼きが のってるでしょう。トロロの入ったお好み焼きとか、豆腐を入れるのとか。わたしのところでもそういうお好み焼きを作るわ。同じでしょう」

――へえぇ、ホント。だけど、顕子ちゃんとこは、二人とも東の方の人でしょう。お好み焼きなんかするの?
「友だちに教えて貰って。トロロ入れると軽くなるでしょ。上品な感じに出来上るしね。それと、お好み焼きって坂本龍一さんの唯一のレパートリーになってる のよ。お客さんなんかが来たら、トロロを大量に擦らなくちゃならないでしょ。そういう時に張り切ってやってくれるのよね。それと、この本の中で、献立は前 もって考えないで、その場で考えるって書いてあるでしょ。そうなのよ。料理は自尊心だと思うの。私なんか、うまくいく時あるし、失敗のときもいっぱいあっ て、失敗した時なんか、すごく落ち込むわ。おとといは、うまくいったけど」

――何作ったの?
「トリの酒蒸し。トリを時間かけて、蒸しておくでしょ。そこへ大根おろし、わけぎの刻んだもの、しめじをさっと茹でたもの、それとトンブリ。これらをトリ の上にのせて、酢醤油をかけて食べるの。すごくおいしかったわよ」

――わけぎとトンブリね。おいしそ。
「あの本の中の料理は、ひとりのためとか、あと大勢のとかに限られているでしょ。だけど、うちなんかのように、『オナカすいた』という子供がいる時どうい うもの作ればいいとか、寝たきりの老人がいる時はどうすればいいとか、そういう料理ものっていればいいなとは思う」

――そうだね。ぼくが作るのは、まわりがみんな、ミュージシャンとか芝居やってるとか、そういう人に、ぼくが出来ることと思って料理してることがあるか ら。
「だけど、食べるということは、一番大事でしょ。音楽も生活の糧だけど、食べないとピアノ弾けないもの。だから、料理が出来るというのは『たまもの』だと 思うの」

――そうか。「たべもののたまもの」
「そうよ。やっぱり才能だと思うけどね。たとえば、レシピを見て作るというのは簡単だけど、ここにヒラメが一匹あったとして、それをどうやって料理する か、と考えて出来るというは才能だと思う。田川さんの料理ってそういうとこがある。私はそういうのって、全然ないわ」

――そうかなあ。
「そうよ。ひらめかないのよ、どうやればいいかって」

――ぼくだって、ひらめきはしない。才能があるなんて思えないし。ただ、どうすればいいのだろうって、一生懸命考えるだけ。
ホントに今日はどうも有り難う。
そういえば、もう随分前にあげた、オシメ入れるバッグあるじゃない。あれについている漏れたオシメ入れる小袋、渡さなくちゃ。
「あのバッグは愛用してるわよ。でもそんなのがついてるなんて知らなかったわ。じゃあ、ちょうだい。三人目の時にしっかり使わせて貰うわ」



田川律〔台所〕術・なにが男の料理だ! の書評
これが料理だ!  玖保キリコ


グルメブームの昨今、巷には料理関係の本が多数出回っている。当然、食物にかんするうん蓄を傾けたものも多い。

私は、本来うん蓄というものが決して嫌いなわけではない。嫌いなわけではにが、それらがあまりにもまん延していると、うんざりしてしまう。うん蓄というも のは濃度の濃いものなのだ。一度にたくさん摂れば、厭になるのもそれだけ速い。フォアグラだってあん肝だってちょっとだからおいしいが、どっさりあるとげ んなりしてしまうのだ。

この〔《台所》術〕は、そんな中にあってスコーンと突き抜けている。
そうだ。そうなのだ。
手間、暇、お金をかければ、おいしくできてあたりまえなのだ。〔ある程度は〕
安い、早い、簡単、しかもおいしい、というのがうれしい。

食物の話は大好きなのだが、それを作る過程が複雑だったり、難しかったり、長かったり、或いは、材料が手に入りにくいものだったりすると、もうそれは私に とって料理の本ではなくなってしまう。それは物理や数学の本のように私の前に立ちはだかり、私を拒絶するのだ。どういうことかというと、私はその箇所を読 みとばしている自分に気づくのである。要するに面倒くさいのはいやなのだ。

この〔《台所》術〕は読みとばすところがまったくなかった。
レシピも短いのがいい。
この長さだったら暗記できる。作るときにいちいち本を見なくてもいいのだ。それに短いといっても、書かれているのは高校生の女の子が小指を立てて作るよう なチャチなものではない。

私は料理に関して見ためのきれいさよりも実際のおいしさを優先する。素材の組み合わせがそそられるかそそられないかで決まる。
長さが短くてもこのレシピにはそそられる。
それと、少しくらい材料を変えたりしても怒られない気がするのだ。もちろん私はいつでも勝手に本に載っている作り方を変えて作ってしまったりするのだが、 『変えるのは勝手だがどんなになっても知らないよ』という本の冷たい視線は否めない。

しかし、この本は読み手が創造する余地があるのだ。読み手の勝手を受け入れてくれる寛大さがあるのだ。律儀にレシピ通りに作ってその料理をa・la・ TAGWAにしようと、大きくはずれてメチャクチャなものを作ろうと、それはたいして重要なことではない。

この本が私たちに語っているのは、もっと根本的なことだ。それは料理を通じて生活を楽しむということである。この本を読んでいると田川さんがいかにも楽し んで料理を作っている姿が目に浮かぶようだ。

これが田川律という人の日常術なのだ。私的なことだが、後片づけをしないくせに料理が好きな兄を持つ妹の立場としては声を大にして言いたい。
後片づけもしないくせに料理通ぶらないでほしい。
うん蓄傾けるんだったらお皿洗ってからにしてね。

田川さんはお皿洗うからエライ。
お皿を洗うのは料理で、洗わないのは料理ではない。遊びである。

とにかく、この本は私の好みの一冊であることには間違いない。
私は田川さんの弟子にしてもらおう。で、後継者になる。そのうちに変な方向にそれて、まわりの人に「それは邪道だ」と指さされたりして。
「でも、でも、私は田川さんの“心”は曲げてないつもりです!」
と反論しても誰も聞いてくれず孤立して人生を終わるのだ。
ああ、いけない。私のこの本に対する解釈はもしかしたら、大いなる誤解なのかもしれない。
「これはりっぱな料理の本です。勝手に作り方とか変えないで」
なんて言われてしまうかもしれない。
それでも、その誤解(?)を楽しんでヘラヘラしてしまう私であった。

田川さん、弟子にしてくれなくてもいいから、チキン・ア・ラ・田川を作りに来てね。待ってます。





ブレードランナー  ジョン・ゾーン


1 スピード

赤ん坊はこわいよ。赤ん坊は自由すぎる。その元気には勝てない。赤ん坊は60秒間で情緒の極端から極端へとびうつることができる(涙から笑い へ、それからヒステリー、それからポカンと宙をみつめて)。そういうのを何回も見た。そのパワーに比べられるものは狂人だけだ。大きくなるにつれて、われ われの情緒の活力はゆっくりと平均化されていく。それは社会のしめつけが、たえず強まるというだけではない。たぶん生物学的に体が変るとともに防衛メカニ ズムが発動されて、自分の情緒から生理的に自分を保護するようになるのだろう。あのように熱狂した状態をつづけるということは、ぼくたちの生命を確実に早 い暴力的な最期にみちびくことだろう。ぼくたちの行動し反応する能力は減少するかもしれない。だが、知覚についてはどうなのか。

ニュー・エイジ・ミュージックの人気と成功はぼくには理解できない。もちろんどんな局面にもその先駆者がいて、突破口となるミュージシャンの才能はそれだ けでそのジャンル自体をこえてしまうものなのだが、ニュー・エイジ・ミュージックのカタログにはまだそんな天才はみあたらない。ぼくはまだ待っている。だ が、このゆったりとしたスタティックな音楽がひろく受け入れられているにもかかわらず、これがぼくたちのスピードを増していくロケットの、終わりをしらな い運動のうえでの、ちょっと疲れてひとやすみ、というものにすぎないことははっきりしている。じっさい時代とともに情報処理能力はどんどん速くなっていく ようだ。とりのこされたニュー・エイジ・ミュージックのファンは系統学上の先祖返りに似ていなくもない。精神的・肉体的石器時代人だ。スピードの増大にと もなって、注意力の持続は短くなる。以前には一分間の情報ブロックが必要だったことも、今は10秒間で充分になった。最近では、イギリス映画「ブラジル」 のなかに、このことが基本的前提としてしめされていた。いくらか不自然でやりすぎではあったが、そのなかに見られるいくつかの予見は、ジュール・ヴェル ヌ、H・G・ウェルズ、アーサー・C・クラークのような作家たちの予言した宇宙旅行やロボットや人工知能のように説得力をもっている。ブリップ・ヴァーツ のアイディア――1分間の広告を、実時間3秒間で見せてしまう、というようなものが決定的重要性をもっている。スピードと圧縮の組み合わせが問題なのだ。 集中力の増大なしのスピードは無効だ。ニュー・エイジ・ミュージックのレコードを33回転のかわりに45回転でかけるのと変らない。いくら速くしても、そ こにはなんの情報も含まれていない。

ここでいっているのはスピードのためのスピードのことではない。「時間」を限定する方法――頭脳の内部で知覚と情報処理を増大させるあたらしいやり方につ いて語っているのだ。
 あきらかにバランスをとらなければならない。ひとつひとつの部分に情緒的・知的内容を印象づけるひまがないほど速く、一連のできごとを提示することは まったく意味がない。だが、プログラマー=作曲者は、同時に自分自身よりはすくなくとも一歩先に出ていなければならない。むずかしいところだ。「ブラジ ル」では、これらの実験のおそるべき結果として、ブリップ・ヴァーツはある人たちの心に強力に作用するので、かれらの頭は文字通り爆発してしまう。これら の犠牲者は情報を感知するだけの進歩した心をもっているが、それを処理する能力は充分でないので、情報はただ蓄積されるばかりで、ついに頭が風船のように 破裂してしまうのだ。まあ、こんな爆発以前に、自然の進化がぼくたちの体のなかで二つの間のバランスをとってくれることを希望しよう。だが、偏差は大き い。光のスピードは宇宙の定数なのだろうかと、ぼくはときどき疑ってみる。

アメリカの中央の湖水地帯の不毛で凍りついた地域に、二つの市がシャム双生児のようにつながっている。ミネアポリス=セントポール(姉妹都市)。ほとんど が厳しい荒地だが、近年になって、そこにたくさんの熱狂的な若いバンドが生まれ、それらはレコード史上もっとも速く、もっとも強力な音楽にふけっている。 イギー・ポップとヘビメタから始まり、パンクとハードコアを通って、80年代のはじめにはミネソタの州境に沿って若い世代はスケート・ロック、スピード・ コア、スラッシュ・ミュージックを他に先駆けて始めることとなった。15分のみじかいステージを10曲ほどに分ける。(一曲40秒から2分ぐらいまで)、 という特徴をもったかれらの音楽は、今日のアメリカのティーン・エイジャーの音楽の指導原理としてのスピードと圧縮の典型なのだ。

ミネアポリスのスラッシュ・シーンから出てきた最初の、そしておそらく最良のバンド(疑いもなく、いちばん速い)であるフスカドゥーは、80年代のはじめ に何枚かのアルバムを作ったが、それはみんな現代アメリカのロック・ミュージックのまちがいなしの名作ばかりだ。歌はみんな短いが、情報がぎっしりつまっ ている。1981年ニュー・アライアンスから出た「ランド・スピード・レコード」はミネアポリスの小さなクラブでのライブ録音だが、若者の疲れをしらない エネルギーのもっとも極端な実例としては、今日にいたるまでそれに比べるものをもたない。1982年、SSDレコードから出された「メタル・サーカス」 は、そのなまなましい音質からバンドのもつ精密さの真の能力をしめしてい(どんな意味でも完全なレコードだ)、1983年には二枚組のLPの名作「ゼン・ アーケード」が出た。
 時がたち、三人のメンバーが年をとるにつれ、テンポは毎年遅くなった。今日、ワーナー・ブラザーズと契約したフスカドゥーは、見たところ、ふつうのロッ クバンドにすぎない。だが、かれらの初期の作品は不滅だ。そしてかれらの過去の仕事の記憶は、最近の一番あたりまえの作品にさえ、かすかにただよう無気味 さを感じさせるのだ。それらはいつ内側から破裂するかわからないし、ドアが蝶番からむしりとられ、目玉がポンととびだすかもわからない。

2 オーケストレイション

創造性はしばしば個人が情報を処理する方法の結果である。あたらしい情報がなければ、同じ素材をくりかえし再生しながら行くところまで行くより ない。インスピレーションを探し見出すこと――研究と思慮は創造過程において決定的な役割をする。しかし、「あたらしいもの」を受け入れる能力なしには、 そして大胆に実験し、変えていくことなしには、それらもやがていきづまってしまうだろう。

ストラヴィンスキーはアカデミックな世界のなかで、いくつかのまったく違うスタイル(ロシア時代、新古典主義、十二音)によって大量の音楽を書きのこし た。マイルス・デイヴィスはおなじように苦痛にみちたレコード業界で数多くの名盤をのこしたが、それはリズム・アンド・ブルースとバップ初期からクール ジャズを通ってハード・バップに至り、ギル・エヴァンスとの仕事を経て、60年代末から70年代に至る先駆的なロックの実験に及んでいる。かれらの音楽作 品は、小人たちが自分たちとその価値を守ろうとして行使する圧力に偉大な精神がどのよにして勝つことができるか、ということの証明だ。公式――小人の価値 は結局は金の問題だ。警告――信用するな。

前世紀から今世紀にかけて、多くの大作曲家たちがあたらしい音響を得るためにオーケストラのなかにあたらしい楽器を持ち込んできた。ベルリオーズ、ワーグ ナー、ヴァレーズ、メシアン。いくらかの進歩はあったものの、現在のオーケストラは百年あるいは二百年前とほとんど変らない状態だ。1960年代にはシン フォニー・オーケストラの楽器法の上で、たくさんの実験がおこなわれた。ジョージ・クラム、クセナキス、ベリオ、ケージ、リゲティ。それらの作品は演奏さ れたが、もちろんレパートリーにのこったものはほんのわずかだ。ユニオン問題、プログラム問題、お金の問題などが口実になっていることが多い。しかし、実 際にはオーケストラ組織は硬直し、閉鎖的で、すでに長いこと今日の世界に対する現実感覚をうしなっているのだ。テクノロジーはオーケストラ・マネージャー のデスクの上で書類がやりとりされるよりも速く進む。創造的な芸術家の精神はそれよりさらに速い。

今日のオーケストラの概念自体が創造的思考の上での障害物になってしまった。この組織のもっているたくさんの時間、たくさんのお金、多数の演奏家、長い歴 史、は作曲家であろうと素人であろうと目をくらまされ、ついにはひきこまれるには充分だ。しかしその歴史はち密で、自分の重みでブラックホールのなかにめ りこみ、その傍でもうすこしよく見ようとしている無邪気な傍観者もそのなかに吸いこんでしまう。

たとえばフィリップ・グラスの場合だ。60年代のなかばから末にかけて、ナディア・ブーランジェにクラシックの訓練を受け、かれはオルガンとサクソフォン の革命的なバンド・サウンドを開発して、エレクトリックうっとり音楽の開祖となった。それは東洋音楽の伝統やジャズといっしょに、西洋クラシック・アカデ ミーの影響もうけていた。かれはライブでも録音スタジオでも「ミキサー」といっしょだったが、これがカート・マンケイシで、グループの音づくりには欠くこ とのできない協力者となった。音楽はロック・バンド風の協同作業のなかでつくられ、練習のなかでねりなおされた。ところが、成功と人気の頂点で、かれは革 命的なコンセプトをすてて、もっと安定したオペラやオーケストラからの委嘱に応じて、また伝統定な形式で書きはじめた。かれが開発した音が実際の音符と切 り離せないのを忘れて、かれのオーケストレーションは信じられないほどの技術と想像力の欠如をしめすばかりか、オーケストラをどう扱えばいいかも知らない のがわかるほどなのだから、ピアノ・スコアをヘンリー・マンシーニかジョン・バリーにオーケストラに編曲してもらえば、みんなの時間をむだにしないで済ん だだろう。

スティーヴ・ライヒのオーケストラはいくらかましだが、それでも初期の作品につきものだったマレット楽器の早いパッセージは、オーケストラでやると区切り のないぼやけたものになってしまう。かれは、1960年代なかばにガーナ中部のエウェ族のマスター・ドラマーから学んだことを身につけた。オーケストラと 仕事をしたいのなら、それにあわせて考え方をすこし変えなければ、過去八年間と同様の骨なし音楽に終わってしまうだろう。

オーケストレーションとは、大きなグループのうごきのなかで、あたらしい音を発見し、バランスをとることだ。グループの大きさも、その編成もさまざまだ が、こつは、今日では最新のエレクトリック・テクノロジーとアコースティック楽器のバランスをとることにある。

この分野ではポップ・ミュージック(ぼくにとっては、特に日本のポップ)がすぐれている。映画のサントラはもっとすごい。過去三十年間におけるオーケスト レーションの進歩は、エンニオ・モリコーネ、ヘンリー・マンシーニ、ジョン・バリー、ジェリー・ゴールドスミス、バーナード・ハーマンのような作曲家―― 映画音楽の知らぬ者のない名手たち――によるところが最も大きい。

これらの作曲家は、望んでいる効果のためなら、何をつかってもかまわない、というやりかたで、それぞれの音に特徴をだし、現代の音楽のパレットに貢献し た。
 きくべき音楽のリスト――エンニオ・モリコーネ「ウエスタン」、「殺人捜査」。ジョン・バリー「国際情報局」、「女王陛下の007」、「ボディ・ヒー ト」。ヘンリー・マンシーニ「闇夜でドッキリ」、「ピンクの豹」、「白いドレスの女」。バーナード・ハーマン「悪魔のシスター」、「地球の静止した日」、 「地底探検」、「タクシー・ドライバー」。ジェリー・ゴールドスミス「猿の惑星」、「電撃フリントGO!GO!作戦」、「トワイライト・ゾーン」。

かれらの音楽で目立っている三つの楽器は、今世紀前半の音楽概念を革命化したエレキ・ギター、サックス、ドラムス(パーカッション)だ。ヴァレーズやオル フのようなクラシックの作曲家が打楽器の使用に熟達し、打楽器郡は伝統的オーケストラから大黒柱になったとは言え、クラシックの作曲家やいままでの編曲家 は、世間の風潮には疎く、エレキ・ギターとサックスの革命性を理解しなかった。ただ音量を点だけでなく、これらの楽器はおどろくべきサウンドとパワーの源 となる。クラシックの作曲家の無理解は、根本的にはかれらが五線譜に頼り切っていることによる。特にギターでは、特定のピッチは出発点にすぎない。五線記 譜法が役にたたないわけは、各プレーヤーがみんなちがうやりかたで楽器に対していることにある。そこには、きまりはなく、個人の創造性がすべてだ。記譜は もちろんあっていい(ことばの説明といっしょなら、なおいい)が、正確な記録は録音テープによってのみ達成される。ここで今世紀後半の音楽の音を革命化し た楽器の話になるが、エレクトリック・キーボード、サンプラー、コンピューター・ソフト、ターンテーブル、8ミリテープがあふれていることに加えて、圧倒 的な影響力をもつのは、録音スタジオそれ自体なのだ。絶えず改良される機材、卓、エフェクターなどのつきることを知らない源。ぼくにとって、スタジオは、 ピアノに代わって作曲家の基本の道具になるだろう。

バリーやモリコーネの才能は、スタジオ・ワークのなかで発揮され、あるがままに変化をうけいれ、時にはその発明の推進力となった。今日の作曲家や編曲者に とって、スタジオの機材を知り、最新の電子楽器や機材の性能を知ることは、モーツァルト時代の作曲家がクラリネットやヴァイオリンの音域を知っていたこと とおなじ重要性をもつ。

きたるべき新しい音楽は、子供の時からレコードやテープにしたしんで、世界中の音楽にくわしい若いミュージシャンのものだ。同時代の価値や手段を無視すれ ば、すぐに限界がくる。堂々めぐりか、いきづまりか、だ。

オーケストラが今日のもの(百年前とおなじ)にとどまり、社会のなかで最も閉鎖的で停滞した組織と、そのメンバーとなって、援助をうけているかぎり、出口 はない。今日の作曲家は、オーケストラに代表されるような、うわべばかりぴかぴかしたりっぱなご体裁によわい。オーケストラは教会みたいなものになった。 よわい精神とせまい心のための宗教だ。


律とまち子のふぁっしょん読本
文・田川律 え・柳生まち子


「何をきるのか」は、ぼくたちのような年代の人には意外に悩みなのだ。いや別に普通に背広にネクタイという服装をしている人なら、そんな悩み はないだろう。そして、このこの国ではそれが「制服」のように国中に蔓延しているだけに、そんなんはイヤと思った途端にほんなら何を着るか悩むことにな る。それとこの悩みに追い撃ちをかけるのが、モデルがないことだ。というか、見習うべき先輩がいまへんね。

しやぁないので、いろいろ試行錯誤することになる。ぼくのこれまでの服装の変遷は、それを如実に表しているように思える。もっとも、小学校から大学まで は、ごく人並みの制服を着てたから(といっても母の手作りだったから、どこか普通ではないけれど)悩みはなかった。それはそのまま、制服についてなんの疑 問も抱かなかったという証拠でもある。

大学を出てからはアイヴィー・スタイルになったようだ。ようだというのは、当時はそんなことを意識してなかったのが、今その頃の写真を見るとまさにそれふ うのスタイルをしているからだ。ボタンダウンのワイシャツに細いネクタイ。ズボンはグレイ・フラノそして上着はツイードの替え上着。当時のものはもう何も 残っていないが、僅かに襟が擦り切れたワイシャツが一枚ぐらいある。背広もズボンも全部「黒テント」に寄付(?)してしまった。かれらが、それを芝居で 使ってくれたこともある。「さらばアイヴィーよ!」だ。

東京に出てきて、ロックの雑誌を作るようになって、ヒッピー・スタイルになった。もっともこれは、その頃古い友だちに「あんたはいつもスタイルから入るか らなあ」とからかわれたのがあたってたのではなく、半分以上はずぼらと超多忙の結果だった。そのうち意識的に、髪を伸ばし、髭も伸ばすようになり、ジーン ズにTシャツというスタイルになった。七十年も半ばになると、髪を伸ばしている方が、むさくるしいだけというようになってきたので、少しずつ短くなり、そ うこうしているうちに、そもそも髪の毛そのものが少なくなってきたので、いっそ思い切り短くと、まるで他人から見たらモヒカンに見えるような頭になってし まった。

着るものも、どういうわけか、派手になっていった。アイビーの頃は、「渋い」のがいいと考えていた節がある。その頃の新聞漫画に柳原良平が、ビヤ樽のよう なオジサンを主人公にした漫画を連載していて、その中で、ほんとのお洒落は、同じものを沢山持っていて、それもみんな黒一色で、それを毎日着替える、とい うのがあって、成るほどと思ったりしてた。当時の友だちの中には、今でもそんな服装をしている人もいる。

ぼくは、自分で毛糸編みをやるようになってから、派手な色の方が似合うのではないかと、思い込んで、赤、黄色、緑、青、それにピンク、と原色っぽい色を好 んで身に付けるようになった。洗濯物を干している時など「これを全部男が着てるとは、誰もおもわないやろな」と、自分でも妙な気になることがあるくらい だ。複数の人と駅なんかで、待ち合わせる時に、旗も余分な目印も持っていかなくてもいいし、こんな便利なことはないと思うけど……



うれないうらない  木島始


うりが
うれるか
うれないか
うりうりが
うらないしに
うれゆき
うらないたのむと
うらないし
うらないしないで
うりは
うれるが
うらないは
うれんねという

うりが
うれていても
うれていなくても
うりうりは
うりうりたくて
うらないしに
うりうろうとする

うらないしに
うりひとつでも
うろうとして
うりうりは
うらないしまねて
うりうりを
うらない
うれてない
うりうれるのか
うれないのか
うらなおうとするが
うらないしなみに
うらなえない

うり
うりつけられる
うらないし
うりうりの
うりうりつけを
うらないして
うりうりは
うれてない
うりを
うれるわけないと
うらなえたので
うりうりは
うりひとつ
うれず
うらないしは
うらない
うれんかったってさ




犀と水牛  津野海太郎


平野甲賀が『思想の科学』2月号で以下のように語っているのを読んで、ナルホドと思った。

ちょっと前に気がついたんだけど、晶文社のマークの犀ね、あの犀っていう字はね、あれはシカバネカンムリの中に水牛って書くんだよね。だか ら、水牛が鎧みたいなのを着るとさ、ああいうふうになるっていうことなんだろうね。本当かどうかはわかんないけど。(笑)

長いこと犀のマークの出版社に籍をおき、同時に『水牛通信』にもかかわってきたのに、そんなこと、いちども考えたことがなかった。水牛がヨロイ を着ると犀になるのか。そして、犀がヨロイを脱ぐと水牛になっちゃうのか。ふーん、おれはずいぶん分かりやすい生き方をしてきたんだなと思うと、なんとな く気分がよかった。

ただ、最後の「本当かどうかわかんないけど」が気になる。念のために白川静の『字統』にあたってみたが、犀の字は尾と牛との組合せとしか記されていない。 図書館で辞書を何冊もひっくりかえし、ようやく諸橋大漢和に以下のような記述を見つけた。

犀 さい。水牛ににている動物。

この犀の字のほかに、まさしく水牛の二字にシカバネカンムリをかぶせた字もあり、犀と同義、となっている。また、犀牛(サイギュウ)という語も あって、これも犀を意味する。「犀牛望月」――犀が月を見ると、月が角のあいだに入るというのである。ちょっとしたアンリ・ルソーじゃないか。ほっとし た。平野がああいうには、それなりの理由があったのだ。

私としては、いまのところ、犀と水牛がトレードオフの関係にあるとは思っていない。

つまり、矛盾はしても背反はしない二律の関係というあたりでやっていきたいとムシのいいことを考えているのだが、それにしても、シカバネカンムリとは強烈 だよなア。シカバネは唸で、単独で使われたときは死んだ人間の体を意味する。とすると、水牛通信に死体のヨロイを着せると晶文社になるのかい?


可不可(番外)夜の時間  高橋悠治


夜の時間
カール・クラウス
(曲――高橋悠治)


ぼくからこぼれる夜の時間
考えくらべ、測る間もなく
この夜はもう終わりに近い
鳥が外で朝を告げる


ぼくからこぼれる夜の時間
考えくらべ、測る間もなく
冬はもう終わりに近い
鳥が外で春を告げる


ぼくからこぼれる夜の時間
考えくらべ、測る間もなく
いのちはもう終わりに近い
鳥が外で死を告げる

Naechtliche Stunde
Karl Kraus


Naechtlich Stunde, die mir vergeht,
da ich's ersinne, bedenke und wende,
und diese Nacht geht schon zu Ende.
Draussen ein Vogel sagt: es ist Tag.


Naechtlich Stunde, die mir vergeht,
da ich's ersinne, bedenke und wende,
und dieser Winter geht schon zu Ende.
Draussen ein Vogel sagt: es ist Fruehling.


Naechtlich Stunde, die mir vergeht,
da ich's ersinne, bedenke und wende,
und dieses Leben geht schon zu Ende.
Draussen ein Vogel sagt: es ist Tod.




編集後記

まず、お知らせから。
4月11日(土)6時半、早稲田奉仕園セミナーハウス・ロビーでコーヒー・ブレイク第96回「僕たちの暮らし・僕のデザイン」平野甲賀さんと針生一郎さん の対談。コーヒー付きで五百円。問い合わせはTel 202・6039か6040、または200・3138。
カセット「夢の一日/カフカ」が発売されました。夢の一日は三宅榛名さんの曲。カフカは高橋悠治さんの曲。二曲とも「夜の時間」で初演されたものですが、 カセットに収録されているのは改訂版。申し込みは振替で「イスカ」まで。口座番号・東京1・116236。二千円に送料二百円をそえて申し込んでくださ い。通信販売のみです。
田川さんの料理哲学はめでたく一冊の本にまとめられたので、つぎは独特の服装に関する哲学に目と耳をかたむけることにしました。
今月号に印刷されている文字は、四カ所から集まっています。ここ、編集委員会のワープロの文字、田川さんのワープロの文字、グッドマンさんのワープロの文 字、そして細川周平さんのワープロの文字、という具合です。玖保キリコさんの原稿はワープロで打たれていたのに、横書きで印刷されていたのは残念なことで した。
楽しみに待っていてくださった方も多いかとおもいますが、ロバート・リケットさんの「逮捕された」物語のつづきは、来月号に掲載することになりました。ま た「可不可」本番のつづきも来月号に再開します。著者は両名ともそのように決意しているようなので、期待したいとおもいます。(八巻)




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