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ショートな初体 験ぼくも逮捕されたその二 R・リケット
がまんするうた 木島始
まりちゃんへ 小泉美代
ジョン・ゾーン インタヴュー「め ちゃくちゃね」 義江邦夫
律とまち子のファッション 読本2
東南アジア音楽における古典主義 ホセ・マセダ
可不可(そのニ) 高橋悠治
編集後記
一見して、渋谷警察署の奥は「しゃばの風があたらないよう」(「三里塚農民の詩」拓植書房一九七八年)な別世界にみえる。しかし、よく見ると、私服・制服 警官、指紋を採る専門職員、看守など、機能別に分けられた小規模なたて社会にすぎない。警官はたとえ、おどし、強制し嘘をついても、職場でやるかぎり、そ れは単なる法的手続き、要するに仕事になるわけで、彼らはまじめな職業人たちだ。仕事をうまくやれば、「容疑者」はそこで確定犯罪者に変身することにな る。
「職場」が変わると、規則、作法の違うもう一つの世界に入る。たとえば、はじめて取り調べ室から拘留所へ護送された時、特殊な儀式が行われた。まず、足ま で裸にされ、体重、身長をはかられ、それから洋服以外の所持品を押収され、名前も番号(三九番)に変えられた。たった十分間で、自分が自分でなくなって、 洋服を着たあとも、拘留所のじめじめした垢が染み込んでくるようだった。
さて、第二幕『仁義の終焉』をここで再演しよう。
警察はずるい。指先が暴力的にねじ曲げられても、担当刑事N警部補は指紋狩りの現場にいなかった。その狂騒劇が終って、取り調べ室にもどったら、彼が知ら ん顔をして座っていた。「あなたは体が大きいから、恐い人だと思ったが、実はおとなしいんだな」と、彼が先に口を切った。「さあ、ゆっくり話そう」と言っ たところで、アザだらけの腕をもみながら、苦い表情をしているぼくにとって、さらに奇妙なことが起こった。いきなりドアがあいて、真白いワイシャツを着 た、N警部補の上官にあたる背の高い刑事が部屋に顔を突き出した。Nを見向きもしないで、「リケットー、キミ大好き」と歯を見せてニタっと笑いながら大声 で言い放って、さっと姿を消した。それから本格的な取り調べがはじまった。
取り調べ職場の製品は、自白、取り調べを材料とした調書である(三里塚の友人の話によると、自供を作成する職場もあるそうだが)。とにかくちゃんとしたも のをつくらなければ、事件を送検する時に、検事に対して担当刑事の面子が立たない。落ち着いた、小太りの中年男N警部補は調書に一生懸命取り組んだ。けれ ども、乱暴されてきた容疑者には協力する気持ちは一切ない。年金(?)、配偶者や両親との関係の善し悪し、小学校から現在に至るまでの経歴、友人関係、趣 味など、質問はどれもぼくとしては「プライベートなことだから、警察が知る必要はないだろう」とか、「質問の根拠がわからないので、答えられない」とか、 回答せざるをえない。N警部補が丁重に聴いても、強気に出ても、答えは変わらない。ついに、二日目、「おれの立場を考えてくれ」とN警部補が言い出した。 手錠とそれについた青いナイロン製の細なわでぼくを押さえつけたはずの彼が、まるでぼくにいじめられているような懇願の声だった。「どうもすみません」と 思わず口から出た。
去る十一月に、東京都庁で、抗議デモの時にパクられた中国人Cさんは一日十時間、二十時間もたえまなく訊問された。それに比べて、ぼくの取り調べは丁重で 短時間だった。むしろ、お客さん扱いだったといってもいい。おまけに漫才も味わえた。たとえば、月給はいくらとかいう話の中で、「相当とっているはずなの に、キミの洋服はみすぼらしい」しんとした長い沈黙の後、「おかげさまで」と、指ごっこの苦闘で裂けた唯一のナウイぶかぶかズボンをひね回しながらぼくは 言った。「今日の服は先々週の時のデモの時と同じだろう」と担当警部補の抜け目のない観察。「でも、その後、一回ぐらいはちゃんと洗ったよ」
まじめなやりとりもあった。第二次世界大戦中、米国は十九世紀以来のアジア人排除政策のクライマックスとして、日系アメリカ人の市民権、所有物を剥奪し、 十万人以上を強制収容所に送り込んだ。N警部補のいとこがたまたまアメリカに移住し、それに巻き込まれた。「だから、アメリカでも差別問題があるんだ」と いうのは彼の殺し文句のように聴こえた。が、「強制収容所はアメリカ人の恥だ」というぼくに対して、彼の応答は意外だった。「でも、最近、アメリカは国と して謝罪したね」日本政府も在日朝鮮人・中国人に対してそれぐらいすればいい。
捕まった時、ぼくは、渋谷区役所が警察に押捺拒否の事実を確定するために必要な「外国人登録原票」の写しを、渋谷署に渡していないと思っていた。区の担当 部長が朝鮮人Pさんに対して、六カ月の間原票照会に応じないと約束し、三月以来頑張っていたからだ。彼は六カ月の約束を守ったが、警察は、十二月十日に大 阪で、十二日に東京で、自治権を無視して、捜索令状で威嚇し、拒否者の書類を各区から強引に手に入れた。この時渋谷区も、事実を隠しながら、照会に応じ た。二日目の取り調べが終った時点で、不押捺事実に関して、それまで完全黙秘していたぼくは、渋谷区がすでに落ちていることを担当警察から聞かされ、落胆 した。結局、ぼくも落ちて、八十五年三月十五日に渋谷区で指紋押捺を拒否したことを認めた。
昼、夜と取り調べが終ると、改めて手錠をかけられ、拘留所へ護送される。「起床」「点呼」「調べだ」「就寝」等々、耳慣れない命令の言葉で動かされる房の 生活には、なかなかなじめない。渋谷警察署の文化的用語の中で一番印象的なのは「ロング」と「ショート」だった。これは距離ではなく、時間をはかる専門用 語である。独房は大体三畳間ほどで、その四分の一をでかいトイレが占めている。拘留所は完璧な管理社会なので、そこで水を流すためには「○○房ショート (小)、あるいはロング(大)、お願いします」と看守に大声で言わなければならない。
こうして、徹底的に管理されている容疑者たちは身体の自由がきかず、物心両面において無力状態にさらされているからこそ、お互いのことを知りたがる。「青 い目の外人」は珍しい。朝早く、護送される時、あるいは運動の時間に、ぼくの房の前を通る一人か二人は必ず、「おじん、どうしたの?」と真剣な顔で聞く。 自分は政治犯だと言っても手短かには説明しきれないので、左手の人さし指を見せて、「これで会社をやめました」と言う調子で「これを拒否した」と答えた。 びっくりした表情はいまだにはっきりおぼえている。「スリと間違えられたんじゃないか」と後で友人にからかわれた。
逮捕されたあと、十八、十九、二十日、「渋谷外登法をたたかう市民の会」や多くの友人が渋谷警察署の前に結集し、不当逮捕に対する抗議デモを行った。デモ 隊の中に、六十七歳の台湾出身の中国人、林歳徳さんがいた。林さんは日本に徴兵されて、一九三七年に、南京大虐殺の現場で脱走し、日本に潜入したまま終戦 を迎えた。戦争が終ったところで、林さんをはじめ多くの在日朝鮮人と中国人を治安の対象にしたからである。たとえば、一九四六年七月十六日、警察が渋谷駅 の近くにあった在日朝鮮人・中国人の生活基盤を「闇市」として潰そうとしたところで多くの住民が蜂起した。その結果は、死者五人、大量の逮捕。渋谷で立ち 上がった人たちの中に林さんもいた。彼らに加えられた弾圧を、アメリカ占領軍が許した。
外国人登録法が制定された一九五二年以来、屈辱に耐えながら、林さんはおそらく十回くらいは指紋を押してきたはずだ。ついに彼は八五年二万数千人の在日外 国人とともに指紋押捺を拒否した。しかし八五年八月、台湾にいる妹さんが危篤におちいり、九月にはお姉さんが亡くなった。お見舞いやお葬式のために台湾に 帰りたい林さんは帰ることができなかった。日本の法務省が拒否者に対して再入国許可を却下したからだ。去る十二月、渋谷警察署の前まで来た林さんは四十年 を振り返って、どういう思いがしただろう。
その時寄り集まった人たちの中には在日朝鮮人も欧米人もいたが、圧倒的に多かったのは日本人であった。この四十年間、政府の在日外国人に対する基本的考え 方は一貫している。多少の変化があったとすれば、それは日本の民衆の一部、特に若い人たちの、アジアの中の日本近代史や在日外国人の人権に対しての新しい 関心だろう。(つづく)
眠れないのに うんざりする
うつら うつら うつら
夢にまで 入りこんでくる
他人の目に うんざりする
ありがたすぎるくらいな
つきあいに うんざるする
そっと けおとしている
いじわるに うんざりする
他人の目に とらえられない
じぶんらしさにも
他人の目がないときに
うろうろする じぶんのなさにも
こんりんざい うんざりする
いまのじぶんから
いちばん遠いじぶんは
異国でのひとり歩き
凍りつく寒さのなか
孤独の街マンハッタンでは
だれひとり ぼくなどに
目を向けてくれることはなく
シベリアの雪ふりしきる
ハバロフスクの街灯のもと
少女たちが ぼくの丸帽子
みかけるなり フイ フイと
くすくす笑いを伝えあう
じぶんの内部フィルムに映ってくる
他人の目の矢印もつ光の切っさきが
かりそめに空に描くじぶんの姿に
どのくらいじぶんらしさが入りうるものか
とくるくる渦巻きだしたら止らない
答えられない問いまた問いを
数多く抱いたまま佇むぼくを
視野に呑みこんでおれるのかい
きみは? 平然とそしらぬ顔で
視野を重ねあわせる気もなく
きみは 問いのすべてを受けながし
きみの内部の渦巻きを
ときにぼくのと同じ弾みで
回らせだしさえすれば
めっけものかも
一日くらい季節をかえる
奇蹟が一回のキッスで起る
と信じられないものだろうか
呪いにのろう核実験ひとつ
止めさせられないのに うんざりする
青い海のオセアニアに
行こうともしないのに うんざりする
注 江川卓氏にきいたところ、フイはфуй(ロシア語の卑語)だろうとのこと。
まりちゃん、お手紙ありがとう。まりちゃんから頼まれたスラチャイへの手紙、私の友達から、その友達に、そしてタイ語に訳されて今頃はきっとス ラチャイの手元に届いていると思う。返事くるといいね。二十四日は、最高裁前の路上で雨に濡れながら機動隊にこずかれてた。あの石の塊の中で「人を殺せ」 と言ったのが人間だったなんてとても信じられないよ。この手紙、もう届けられないんだね。体に気をつけて、緑にかこまれた三里塚で会える日まで。 美代
*
こんにちは、スラチャイ、お元気ですか。
スラチャイから本をプレゼントしていただいてから、ずーっと長いこと、ありがとうの気持ちを伝えられないことをくやしがっていたのですが、先日、美代さん が面会にきて下さって、やっと、それが実現できることになりました。とても遅くなってしまったけれど、どうもありがとうございました。とてもうれしかった です。
『メイド・イン・ジャパン』も読みました。本の中でとくに印象的だったのは、スラチャイの少年時代を思わせる短編です。おじいさんと海のお話をするところ がとても美しくて、私の幼かった頃のことを思い出しました。幼い子供の心は、タイでも日本でもみんな同じなのですね。それなのに、私たちは大人になって、 『メイド・イン・ジャパン』の加害者と被害者にひきさかれてしまう。本当に悲しいことです。今、一番胸を痛めていることは、タイやフィリピン、マレーシア などで、日本の企業が、森や海、大地を破壊し、ダムをつくり、自然とともにくらしてきた人々の生活を破壊していることです。
それをやめさせようとして闘ったのが反日武装戦線の彼らでした。そして、今、彼らは日本国家によって殺されようとしています。私は彼らのやろうとしたこと を、人と人との連帯の輪をつないでいくことで少しでも現実したいと思っています。
七六年十月の血の水曜日の時、私はすでにこの鉄の家にいました。虐殺された学生達の写真を新聞で見ました。胸の中は痛みと悲しみで燃えるようでした。も し、あの時、あそこにいたなら、私もきっとジャングルに入ったと思います。だから森へ入った人々へあついまなざしを送り、注目していました。その後、森に おける闘いが、教条主義的な党の壁にはばまれて、喜びでなくなっていた過程についても知りました。その気持ちも理解できると思いました。「水牛の歌」や 「しろいはと」は、獄中でおぼえました。ここでは歌うことも口笛をふくことも禁じられているのですが、私は看守に聞こえないような小さな声で歌っていまし たよ。何にもない独房に一日中坐っていなければならない懲罰のときなど、歌はとても私を勇気づけてくれました。スラチャイの歌を聞ける日が一日も早く来る ようにと思っています。
どうか元気でいて下さい。お会いできる日が来ることを信じています。感謝をこめて。荒井まり子
*
荒井まり子さんのこと
一九七五年五月、東アジア反日武装戦線の一員として、爆発物取締罰則違反で逮捕される。彼女自身は、連続企業爆破には、計画、実行共一切関与し ていないが本人の強い希望で他のメンバーと共に統一公判で裁判を続ける。公判で彼女の無実が立証されているにもかかわらず、東京地裁は一九七九年十一月 「精神的無形的ほう助罪」で懲役八年の判決。一九八二年十月高裁は控訴棄却。この間彼女は未決因として東京拘置所内で男子懲役監の保安房に隔離されたり軽 屏禁などの懲罰を繰り返し受ける。すでに七年五カ月拘留されていながら、地裁で七百日、高裁で五百日しか、未決日数が算入されていない。さる三月二十四日 最高裁判所は上告を棄却。八年の刑に対して、十二年もの間拘留された上に、確定後は即決因として下獄を強いられる。最高裁が未決千五百日を加算したので十 月頃出獄のみこみ。同じ裁判で二名に死刑、一名に無期。
『子ねこチビンケと地しばりの花』(経書房 千八百円)彼女の少女時代、彼ら(反日武装戦線)との出会い、逮捕、拘留が彼女自身の言葉で、獄中結婚した夫 の彰さん宛の手紙の形で書かれている本です。
――日本に興味を持った一番最初ってなにか具体的なことはありますか?
J ウフフフフ。ヘヘヘヘヘ。
――みんなに聞かれるのね。同じ質問で悪いんだけどね……。
J 子供の時がね、いろんな日本人の友達がいて、6歳とか、7歳とかね。14歳とか日本の映画にものすごく興味があった。
――どんなのが記憶にありますか。
J 「用心棒」とか、三船敏郎とか、黒澤、最初多いね。黒澤好かなかったけどね、あの時。20年前、小津もあったし、篠田正浩、小林正 樹、あと……。
――そういうのって普通のニューヨークの映画館でやってるんですか。
J 特別な映画館。フェスティバルとか、近代美術館とか。よく行った、子供の時。
――その頃、そんな映画を見ているアメリカ人はすごく少なくないですか。
J 少ないよ、ガラガラだよ、それで日本語勉強しだして。
――え、勉強してたんですか。僕は日本に来て日本語覚えたって聞いてたの。ちゃんと勉強してたんだ。
J でも、自分でね。
――なんで?
J 一緒に住んでたから、モリ・イクエさんと、昔ね。5年前からね。
――映画で思い描いてた日本を確かめにくるような感じですか?
J うーん、メイビー、多分ね。
――ジョンさんのアメリカ人の仲間でジョンさんみたいな人ほかにいますか。
J わかんない。友達のミュージシャンで行ったり来たりする人はいるけど、住んでいたりするわけじゃないから、みんな長くて一カ月とか で、ちょっと違うね。一年で一回とか、そういう人がいっぱいいるけど、他の友達で、こっちに長く住んで伝統音楽とか勉強してる人達は住んでるけど、そうい う人達とはコンタクトしてない。興味がないから。趣味がちがうから。
――友達は日本人ばっかり。
J いっぱいいるよ。知り合いだからね。日本人ばっかりだね。
――なんで日本とそんなにウマが合っちゃったと自分で考えます?
J わかんないな。
――体が合っちゃったのかな。
J そんな感じだな。
――最初からこのアパートに住んでたんですか?
J 二年前に最初に来たときは友達のアパートを借りて、ここのアパートは去年に来たときね。
――で、借りっぱなしだと聞いていますけど。日本とアメリカはどんな比率で住んでいるんですか。
J 三カ月、二カ月行ったり来たり、ワーク・ビザが二カ月しかないから、日本に来て、香港行ってビザ変わって、また来るとかね。アメリ カは自分のアパート持ってるから、行ったり来たりだから、これのほうが便利。安いよ、毎月2万円。
――でも、帰ってる時も払わなければいけないんでしょ。
J だから、1年間に2回、全部払っちゃう。12万ずつ、その方が便利よ。
――そうすると、ここにあるレコードとか本は。
J 全部もって帰る。ニューヨークのほうがすごいコレクションがあるから、ニューヨークの方には1万3千枚あるから。
――へえー、1万3千枚! 子供の時からのレコードコレクションがすごいってライナー・ノートに書いてあったけど、本当にそうなんだ。
J 最初はクラシック・ミュージックだった。
―― もともとはどんな感じで音楽に入っていったんですか。
J わかんない。質問わかるけど、そういうわけわかんない。わけないね、気に入ったから。
――いくつぐらいから始まったんですか、例えば楽器は。
J 楽器は8歳から、作曲は14歳から。
――学校に入ったんですか。
J 最初は自分で、14歳から学校で。
――ということは14歳の時に、ミュージシャンになろうと思った。
J そうそうそうそう。
――それで学校に入って、作曲勉強して、レコード収集もいろいろして、のめり込んで今は1万枚になっちゃった。
J そうそうそう。
――ぼくはジョンさんのレコードたくさん聴いてないけど、一番最初に感動したのがハル・ウィルナーのクルト・ワイルとゴダールのレコードなんです。ジョン さんの音楽っていろんな種類の音楽がたくさんあつまってるでしょ。いっぱい音楽が引き出しに入っていて、その引き出しを自由に次々と、開けては閉め、開け ては閉めしているでしょ、僕が聴くと。そういう曲の作り方をしていて、なおかつ明るいというのが、僕には不思議なんです。
J 不思議? なに、どうして?
――なにが不思議なのかな(笑)
J 普通でしょ。この世はメチャクチャだからね、メチャクチャな音楽になるんじゃない。
――自分でもメチャクチャだと思います?
J うん。
――レコードのライナーにはゲーム理論に従って、次々とあてはめて作曲すると書いてあったんですけど、そういうことなのかな。
J うん。
――メチャクチャなほうがおもしろいから?
J 気持ちいい、メチャクチャなほうが安心する。
――でも、聴いていると、気持ちいいだけで、いわゆるメチャクチャな感じじゃないんです。
J 僕の場合は、メチャクチャと気持ちいいは同じ。だから日本が好き。日本はメチャクチャだからね。例えば言葉。ローマ字があるで しょ、漢字、カタカナ、ヒラガナもあるでしょ。日本語すごいメチャクチャよ。あとカルチャーがメチャクチャでしょ。ニューヨークも同じ感じ。
――でも、ジョンさんみたいな感じのメチャクチャ感性の人はなかなか日本にはいないと思う。
J 日本に? いるかもね(笑)いるよー。アーチストはいるね、近藤等則とか……普通の人じゃないけどね。
――でも、ほとんどいないと思うの。
J アメリカもいないよ。どこでもいないよ。普通の人は普通だよ。
――でも、ニューヨークは人種の坩堝と言われるように、ジョンさんの音楽聴くように、街を歩けば、いろんな国の言葉が次々に近づいては消えていくわけで しょ。僕らがジョンさんの音楽を気持ちよく感ずるのは、ニューヨークにいると、この音楽を聴くのと同じ感じが持てるんじゃないかなと思うからなんです。 ニューヨークという都市のメチャクチャさというか、日本の場合はそういうメチャクチャ感とちょっとちがう気がする。このメチャクチャ感のある音楽って日本 だと高橋悠治さんに近いと思うの。日本という土壌からあんな人が出てきたということが、また不思議なのね。
J でも、どこにもいないよ。めずらしいよ。アメリカは広いよ、日本は狭いよ。パーセンテージは同じよ。日本人はアメリカというと ニューヨークでしょ。ニューヨーク、アメリカじゃない。全然関係ないよ。
――僕なんか、とくに日本人的なものの考え方しかできないから、メチャクチャになれない。
J でも、なかなかメチャクチャだよ、フハハハハハ。
――それはしゃべり方がね(笑)。ジョンさんを見ると、そういう日本人のものの考え方を破ってくれるって感じるんです。
J そうかな。そういうことできないかもね。日本人は強いからね。
――なかなかできない。
J なかなかできない。
――それは感じますか。
J スルスル。いつも考えてるよ。
――ズルイでしょ、日本人。
J むずかしいよー。すごいプレッシャーがあるよ。偏見があるし。でも、むずかしいけど、なんかスクラッチできればうれしい。僕はとに かく違うやり方を見せることしかできない。それで、キズでもできればね。
――歌謡曲あつめてるんですよね、いつ頃からですか。
J 最近。日本で歌謡曲は一番メチャクチャなカルチャー、音楽でしょ。
――日本人からすると演歌とか単調だけどね。
J 歌謡曲はもっと、演歌とかウエスタンとか、ロックとか、広い意味でね。
――最初はなにが気になったんですか。
J 最初は真理れい子の60年代のサイケデリックっぽいの。びっくりしちゃった。それで興味持つようになって、青山ミチ、小林旭、カル メン・マキ、平山三紀とか弘田三枝子、伊東ゆかり、山本リンダ、松島明とか、もうファナティックに集めだした。
――自分で探しだすんですか。
J そうそう、東京だったら、いっぱいあるけど、蒲田の「エトセトラ」。あそこへ行ったら8万円買うよ。この間小坂一也の「ウェイ・ ワールド・ウインド」探してみつけたよ。12,800円だった、買ったよ。うれしかったゾ。
――シングル盤に12,800円払う日本人はほとんどいないよ。
J いないよ、シングル盤だよ。でも、レコード屋で働いている友達から聞いたけど、鹿児島の受験生で、23万円でセックス・ピストルズ のレコード一枚買っていった男の子がいたって。
――その人の気持ちとジョンさんの気持ちと同じですか。
J 同じだよ。コレクターだからね。ドラッグみたいだよ。ジャンキーだよ。みつけたら絶対自分のものにしないとダメ。買ったあと、ハイ になるよ。
――買ってもそこで聞かないでしょ。電車にのって想像してる。
J そうそう。あとで聴いてダメだったら自殺できるよ、へへへへへ。
――どうして聴かないで買えるんだろう。
J ジャケットとか、でも小坂一也知ってたから、小林旭でも、なんでもいいみたい、昔のものなら。青山ミチも、なんでもいい。
――でも、そういうのは、音のライブラリーに行けば聴けますよね。
J うん、多分ね、でもダメダメ。ハフト・オーネット。自分のものにしないとダメ。
――それじゃ、お金がいくらあってもやっていけないじゃないですか。
J へへへへ。でもタバコも喫わないし、お酒も飲まないし、ドラッグもやらないし、レコードだけみたい。あと食べ物だけ。
――へえー、12,800円、一回聴いて終わりですか。
J 全然終らないよ。テープ作るからね。
――テープの編集の仕方とかあるんですか。
J もちろん。時間かかるよ。最初選んで、考えて、順序決めて、入れるの。今、18番までのテープでした。歌謡曲だけでね。25年前か らのだけどね。
――そうか、これはジョンさんのディクショナリーなんだ。これは作曲の時の索引に使うんですか。
J 何回も聴いているから、影響するけど、直接そこからとるんじゃなくて、雰囲気がね。
――このやり方は1万枚のレコードのコレクションの時から同じやり方なんですか。
J そうそう。
――14歳のときから。
J いやいや、あの時カセット・テープなかったから、すごく不便でしょ。レコード持って一曲聴いて、次のレコードかけて、いつも順序か わってるよ。でも我慢できないから、一曲聴いて少したつと、すぐ次のレコードに、変えちゃうの。
――レコードドラッガーと呼ぼう(笑)。
J 僕の音楽のように、ずうーっとひとつの曲をやっているのはできなくて、どんどんチェンジしてないとダメなの。だから、僕の音楽もそ うなった。
――レコードのチェーン・スモーカー。じゃあ、日本にいる最大の目的はこのテープを作ること。
J 多分ね、なるほどね。ワッハハハハハハ。
――ジョンさんみたいな生活環境にいる人が、アルコールも、ドラッグもやらないのは非常にめずらしいよね。
J 多分ね。
――そうするとアメリカ人では、アウト・ローかな、アウト・ローからもアウト・ローだね。
J そうそうそうそう。日本でも僕アウト・ローだけどね。アメリカ人だから入れないよ、実は。
――どこか日本で入っていきたいと思うところはありますか。
J 思わないね、外にいる方がいいね、フリーな感じがあるからね。何でもできるみたいなね。
――日本の場合だとアウトサイダーというと暗い、メランコリックなエトランゼっていうイメージが強いけど、暗さないよね。
J 僕、違うよ、そんなに暗くないよ。普通の不良外人じゃないよ。
――これから日本にはどのくらい行ったり来たりするつもりですか。
J 死ぬまで。
――え、死ぬまで!
J 多分ね、わかんないけど。
――日本以外で住んでみたいところないですか。
J あとない。ヨーロッパも死んじゃったから興味ない。何回も行ったことあるから。死んじゃったよ。
――日本は死んでないですか?
J 生きてるよ! ニューヨークみたい、生きてるよ!
――でも、普通だと、バリとかインドとか、エスニックへっていうのあるでしょ。
J 僕は旅あまり好きじゃないからね。レコード買ったり、映画見たりとか、そういうカルチャーがないからね。都市のビッグ・カルチャー じゃないと住めない。
――ジョンさんの頭の中よりもっと複雑な都市じゃないとダメなんだ。
J ウヘヘヘヘ、そうそう。
――バリは単純すぎちゃう。
J そう、つまんない、すぐ疲れちゃう。きれいだけどね、カリフォルニアも同じだよ。すぐつまんなくなる。ニューヨークと東京、あとな いよ。(1987・2・20。高円寺のジョンの四畳半のアパート。会話は日本語で、たまにモリ・イクエさんの通訳に 助けられて)
「どんなふうに住むか」というのもこれまたなかなか難しい。古い友人、といってもその殆どは大学時代の友人に限られているが、の家を訪ねた時に「ああ、な んとぼくのうちと違うことか」と慨嘆する。慨嘆するのはちとオーバーかもしれないが、ともかく違っていることだけは確かだ。それが、ぼくの暮らしがひとり のせいか、それとも先月書いたような服装に共通するある種のモデルのなさかは、あまり深く考えたことはないのだが、ともかく違っている。うちへ来た友人、 これは大学時代の友人ではないが、のひとりが「まるで大学のサークル室みたいだな」と言っていた。なるほど、当たっているかもしれない。
この十年間、奇妙な間借り生活をしているが、部屋の中は明らかに普通の人のうちとは違っているみたい。(どういうのを普通というかは、これまた難しいのだ が)
なにせ、「住まい」らしくない。きっと「ヒッピーの時代」にソローとかいう人の考えの影響を受け、それでいてかれほど、それを貫けず、いろんな物が雑然と あるせいではないか。窓にはカーテンはない。よく見るとそれらしきものの残骸は残ってはいるのだが一度たりとも使用された形跡がない。レコードは今も細々 と続いているような「職業」のせいで、普通の人に比べれば随分沢山あるのだが、これが三匹いる猫の爪研ぎに使われて、背中がぼろぼろになってしまってい る。「猫を選ぶか、綺麗なレコードを選ぶか」といささか大層に考えた末に「まあ、いいか」とほったらかしにしている。
箪笥がない。本棚はあるのだが、これがまた機能優先のものだから、どこかオフィスを思わせる。おまけに、そこに収められている本が支離滅裂である。なんと か百科とか、なんとか全集とかいうものはいっさいなくて、ただ脈絡もなく並べられてある。「居間」らしきところに、とうとうファックスをレンタルで入れた ものだから、いよいよ「住まい」からは遠く離れるようになった。おまけに、背の低い机があったのを「こんなものがないほうが、部屋が広く見える」とばかり 片づけてしまった。それでそのまま暮らせば、これはナウイ今風に少しは近づくのだが、やっぱりなにもないとご飯を食べるのに少々不便かとファックスを入れ てあった段ボール箱を食卓代わりに使っているものだから、どこか妙だ。
このあいだも、れいの料理の本が縁で「主婦の友」とかいうぼくから一番遠いところにありそうな雑誌の取材があって、料理を作ったはいいが、どこへ並べるか で、はたと困った。「みかん箱」のイメージで、件の箱を使おうかと思ったけれど結局妥協して、机を出してきた。それでも、白く塗ったのが所々剥げている。 カメラマン氏は「かねて用意の」とばかり、綺麗な木目模様に塗ったベニヤ板を持ってきて、それを机の上に敷き、その上に料理を並べた。だけど、うちに来た ことのある人がこの写真を見たら、「あんな綺麗な机があるはずがない」といぶかるに違いない。
それでも充分に優雅すぎるのではないか、と反省する。本もレコードもばっさり捨てた時、また生き方も変わるかな、と思ってみたりもする。今はまだ「?」の 段階だが……
二〇世紀の西洋では、音楽における古典主義の重要性は、ギリシャ・ローマの古典時代に根ざし、くりかえしそこへ回帰するヨーロッパ思想史の流れのなかにあ ると見ることができる。最近では、クロード・レヴィ=ストロースは、「構造II」のなかで三つの人文主義について語っている。一つは古代ギリシャ・ローマ の再発見のためのギリシャ語とラテン語の研究をおこなうもの、もう一つはインドと中国の文明を理解するための言語学研究、第三は全世界の文化を理解できる ための民俗学の研究だ。
この観点にしたがえば、古典時代とされるものは、いくつもある。アジアだけでも、古典主義や人文主義は唐朝の詩、美術、音楽に、あるいはパガン、アユッタ ヤー、スコータイ、アンコール・ワット、ボロブドゥール、ブランバナンなど東南アジアの大陸部や島々の寺院、仏舎利塔、彫刻にも見ることができる。これら 東南アジアの中心地における建築、彫刻、美術はヒンズー教や仏教の思想表現であるとすれば、これら中心地のあたりの文化に影響されたゴング・オーケストラ の音楽は、この思想のもう一つの現れだ。建築ではヒンズー教や仏教の思想は石のなかに凍結されるが、音楽は青銅楽器の音によって流れる。東南アジアの大陸 部分でも島々でも青銅楽器のオーケストラ編成や音楽組織は似たものだった。儀式や行事での青銅の使用がはじまって以来、青銅のゴングは楽器としてもてはや され、竹や土着の素材による楽器以上に特権的で高価なものとなった。
東南アジアの中世の宮廷でゴングの音楽がますます洗練の度を加えていったのにたいして、竹や木やほかの植物素材による音楽は村の文化のなかで活躍するにま かされ、独自の性格と美意識を保ってきた。これらの村の文化は広大な地域にわたり、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、ラオス、ベトナム、カン プチア、ビルマのいなか全体におよぶ。土着の楽器はさまざまな音をつくりだすが、これらは「スリン」(竹笛)のようなゴングでないいくつかの楽器をのぞい ては、ガムラン(ゴング・オーケストラ)には存在しないものだ。これらの土着楽器をいくつかあげるだけでも、青銅楽器よりもはるかに多彩で多様な音質をう かがわせるだろう。それらは、単管の鉢巻型フルート、双管、三重管の鉢巻型フルート、刻み目付きフルート、通気孔付きフルート、鼻笛、パンパイプ、スリッ ト・ドラム(割れ目太鼓)、スクレイパー(擦り楽器)、うなり楽器、クラッパー(打ち合わせ楽器)、筒、舌付き筒、口琴、たたき棒、角材、天秤型の横棒、 丸太太鼓、木琴、脚棒付きフィドル、二弦と三弦の弓奏リュート(胡弓)、撥弦リュート、笙、貝殻トランペット、水牛の角笛、さまざまな型の太鼓とシロフォ ン類だ。このリストの中で特に、打楽器による音楽は、一定の音高をもつ楽器では出せない音色をつくりだす。スリットドラムのさまざまな大きさと素材は、こ のタイプの楽器だけからでも、得られる倍音構造の範囲をさらに拡大する。スクレイパー、うなり楽器、クラッパー、搗き筒、横棒、角材は、電気的に再現しに くい音の多彩な音階をつくる。スラウェシ島、ニアス島、ルソーン島に見られるうなり竹は、これらの地域にしかない波形をつくりだす。この打楽器音楽全体 が、東南アジアの高度に洗練された宮廷や諸王国から歴史的に無視されたきた音の風景を物語っている。
声楽の領域では、ゴング・オーケストラの伴奏で上演される仮面劇や影絵芝居のために特に開発された歌唱スタイルとは対照的に、いなかでは多数の声楽技術と 形式が発展をつづけた。たとえば、吟遊詩人によって幾夜にもわたって長時間うたわれる叙事詩的規模の物語、村の首長におくりものをする時のゆっくりした長 いしぐさに伴うヌリスマ的な歌、収穫感謝祭の開始と終了を祝う掛け合いの歌、行事と平和協定締結に特有なシラビックでレシタティーフ風の朗唱、病気治療の 儀式での女性の霊媒の高い裏声唱法、村のなかで男女がうたう韻文の恋歌の独唱など。
東南アジアのこれら、宮廷音楽といなかの音楽の二種類を比較してみると、どちらの場合も――多数の青銅のゴングやメタロフォン(金属板のシロフォン)の集 中的使用による第一の場合も、竹やさまざまな楽器と唱歌技法による第二の場合ひとしく――古典的な音楽スタイルの記述が可能であり、それはもちろんギリ シャ・ローマ的視点とは異なるが、たとえばジャン・ジャック・ルソーの自然人の概念や、もっと最近では、レヴィ=ストロースが『野生の思考』のなかで描い た、さまざまな先住民グループの間での科学や論理や思想体系のような視点の探究とはかかわりをもっている。
東南アジアの宮廷音楽と村の音楽における古典主義は、著作家や音楽家たちがヨーロッパ古典音楽をギリシャ思想におけるバランスとシンメトリーと同一視させ るように示唆したものとは異なる秩序感覚に根ざしている。東南アジアでは、このバランスは、土着、ヒンズー、仏教、イスラームといったいくつかの文化の綜 合のなかにみられるものだ。これら諸文化に共通なのは、自然に対する、また人間と自然との均衡への深い配慮であり、この均衡は勝手に変えるべきではなく、 人びとは自分の生活、必要、保護、幸福のために、それにしたがい、それと協調すべきものとされている。この均衡は何百年もの間、今のようなテクノロジーの 攻撃によってめちゃくちゃにかきまわされなかった生活のなかでの、継続する関心でありつづけた。生活と自然のしたしい関係は、山や川や植物のような自然物 への信仰、霊の住処としての石柱、仏舎利塔、神社への信仰、アジアの多くの神々や超人的精霊と交信するための複雑な儀式や行事などのなかにあきらかだ。自 然、精霊、儀式はアジア人の変わらぬ関心の的だった。それは、ギリシャ思想における理性、論理、科学の使用が人間の物質面への注目を示すのにたいして、人 間の精神面への専心を物語る。ここに、人間のこれら二つの視点のちがいがあり、それはアジアとヨーロッパの根源的音楽観に影響している。
東南アジアのゴング音楽では、音楽のいくつかの要素は、精霊の世界の価値観を示すものとみなされている。一つの要素はゴングのつくりだす音の質にかかわる ものだが、シンフォニー・オーケストラの弦や管のつくりだす音が、弓によって弦が、あるいは吹奏によって管が振動させられる間だけ続くとは対照的に、ゴン グは一度打たれるとそれぞれの音が、指や手や、人間の意志による制御なしに、それ自体で自由に振動することになる。弓奏や吹奏を止めると音も止まるという 場合は、それは人間の意志の直接で継続的な制御の下にある。この対立する技法は、音表現にたいする二つの態度、自然にたいする二つの対処法を反映してい る。
音楽のもう一つの要素は、時間の概念にもとずいている。東南アジアのゴング音楽では、時間は一種の無時間性によって考えられる。ガムランでは、それぞれの ゴングの規則的な拍は、長時間続けることが可能なので、それ自体が連続体と考えることもできる。それぞれのゴングは、8拍、4拍、2拍で割り切れる一定の 間隔で鳴らされるなかで、特定の時間を担当しているが、この規則性と連続性は無限を象徴すると考えられる。そのために、音楽はいつまでもつづくような印象 を受ける。時間はまた、拍によらずとも、ゴングの音高の主要音、副次音といったハイラーキーにより、これらの音の相互関係で設定される終止形にしたがって 時間が測られるというかたちで、限定され、分割されることもできる。規則的な拍が無限を内包するのにたいして、音高レベルのシステムは時間の限界を指示す るが、西洋音楽の主音と属音の関係のなかに集約される時間よりは、このシステムの方が柔軟性に富んでいる。
もう一つの時間概念は、オスティナートやドローンのかたちでの音の反復のなかにある。ジャワ島のガムランでは、ほかの東南アジアの多くの島々のゴング合奏 と同様に、ゴング・オーケストラ全体がそれぞれのゴングがつくりだす同じ音の反復になるように、それぞれのゴングの音が一定のやりかたでくりかえされる。 例外は鍵盤楽器で、それらは限定された音の選択によるフレーズを一定の時間間隔で反復する。この構造は、全体としての反復概念のなかでもう一つの時間の知 覚にいたる。上述のオスティナートやドローンによる反復の使用は、連続性のもう一つの尺度とみなすこともできる。このような時間使用法とは対照的に、西洋 音楽の主音と属音の関係は、時間を不協和音と協和音によって測り、一つを頂点とし、もう一つを底辺として、時間を多数の有限な部分――7度や9度や、増音 程、減音程、音階の度の関係――に分割し、時間を複雑な測定のなかに押し込むが、これは和声や協和・不協和の関係をもたない規則的な拍や音の反復とは反対 のものだ。
東南アジアのゴング音楽の基礎となる音楽技法のまた別な要素には、交互に噛み合う音の使用があるが、これは数人から、ロンボグ島では二〇人以上にも達する 人数がそれぞれメロディーの一部を演奏することによって、全体としてメロディーをかたちづくるものだ。ミンダナオ島のティルーライ族の間では、五人の演奏 による音楽のつくりだすメロディーは、グループ全体の調整によってのみ可能で、一人ではできない。集団作業と調整の概念は重要で、それは音楽というものが 多数の人々の協力の結果と考えられていることを意味するが、これは、同じ結果を一人でつくりだした方が経済的だという見方とは正反対だ。経済の概念もこの ように、文化による偏差がある。一方では経済を、力を節約することによって測る。他方では、それは力をあわせることだとみなされる。
東南アジア音楽における古典主義のもう一つの考えかたは、「クリンタン」のメロディーのようなメロディーの展開に見られる。「クリンタン」の独奏の場合、 音楽形式は、一度に2音、3音、4音をつかう断片の、置き換えや反復、規則性、拡張、おどろきなど、きき手の注意をひきつけ、音楽の深みに誘いこむために は、演奏者の側に制御と均衡の内的感覚を要求する技法による演奏にもとずいている。
東南アジア音楽の要素として最後に、音階形成の概念をあげよう。ガムランの「ペロッグ」音階と「スレンドロ」音階では、音高の組み合わせは固定された正確 なものではなく、ガムランによって変動する。音階を形成する音程の聴覚上のこの弾力性には、物の見方のしなやかさがあり、和声的な音楽や現代的な思考の正 確さや精密とは反対に、あいまいと非精密に向かう。
要約すれば、アジアでは、音がそれ自体で振動するのに任せることによる音の、人間の制御からの自由、メロディー・ラインを演奏する多数の人びとの協力、ゴ ング・メロディーの演奏におけるバランスと制御の尺度、竹からつくられる楽器の音の多様性、音階のなかの音程についての弾力的な考えかた――と、これらの 音楽概念は、東南アジアの宮廷音楽といなかの音楽の両方に共通する音楽思想を表現する重要な音楽的特質と考えることができる。ギリシャ古典時代が、ヨー ロッパの哲学者、作家、音楽家にとってインスピレーションの源だったように、アジア思想における古典主義も、伝統的なアイディアを今日の思想家の領域にも たらすための研究と参照点として使うことができるだろう。
最後に、現代の世界における変化の概念は、アバンギャルドの道具やアイディアにもとずくだけでなく、古い諸文化の思想の尺度にもとずくこともできる。それ らの文化の地球上での生命の長さはゆっくりした変化を表しているが、これは、科学学習の侵入とともに出現した速い変化とは反対の価値をもっている。古い伝 統は、自然の属性への伝統的な配慮と、地球上の何世紀にもわたる生活から生まれた知識や経験によって、宇宙を理解する。宇宙を制御しようという欲望がそれ を理解するのではない。
民族音楽学への増大する関心によって、やがては世界中のほとんどの音楽文化が理解されるようになるかもしれないが、そのような知識がただ印刷されたページ のうえにとどまって、実生活に生かされることがないならば、この知識は「博学者の」学習の結果としての単なる対象物になるだけだ。クロード・レヴィ=スト ロースのことばによれば、危険なのは「紙の上でそれを理解すれば、たちどころに問題がなくなるとする理想主義の精神とその癒しがたい確信」(『悲しき南回 帰線』)なのだ。
東南アジアでは、印刷されたページの上での組織された論理とは別なところで、精神・信仰・儀式の世界が、生活にともなっている。ドローン、反復、バラン ス、弾力性、時間といった音楽要素は、人間のなかの神秘と霊性の外的な現れにすぎない。それらをもたないでは、人間はただ、論理・理性・言語がすべての必 要を管理し、充足する、広大で複雑な人間機械のなかの、限定され、確認済みの対象物になってしまうのだ。
…………階段をかけあがり、うしろから突然ひきもどされたかのように、棒立ちになる。階段はもう階段ではない。橋だ。往来のざわめきが、地平線の向こうか ら高まってくる。かれは振り向いた。両耳をおさえて、口を大きくあける。(ムンクの絵の、あのポーズを思い出して。)耐えがたいほどの騒音にかき消された 最後のことばを、机の男が代わりに叫ぶ。「おとうさん、おかあさん、ぼくだって、いつも愛していたんだよ。」
そして階段をのりこえ、両手でぶらさがり、時を測るように、しばらく揺れている。旧式のバスの重たい響きが近づく。
手をはなして落ちた死体が転がるのと同時に、ベッドの男は恐ろしい勢いではね起きると、片手で両目の上をさっと払う。夢を追いはらうように、または書かれ た行の下に区切りの線を引くように。
机の男「水のなかを歩いた後みたいだ。物語が目の前でうごいていく。脚がこわばって、立つのもやっとだった。背中に全身の重みがかかっているんだ。火が燃 えている。そこをくぐりぬけて、ことばがでてくる。どんなにききなれないものだっていい。窓の外がうす青くなって、車が通る。だれかが橋をわたってい く。」
ドアのところに置き去りにされていた若い女中は、今は掃除ばあさんに変わって、死体を、おそるおそるのぞきこみ、ほうきの先でつついてみる。うごかないこ とをたしかめると、毛布をベッドからとってその上にかけ、ちょっとはなれて――
「ほら、こっちだよ、タマコロガシさん。ここまでおいで。」
毛布の塊はのろのろと向きを変え、背を高くまるめてシューシュー音を立てる。ばあさんは近くの椅子を(オーケストラからでも、観客からでもうばいとって) ふりあげ、口を大きくあいて身構える。しばらく無言。やがて毛虫は床のうえにのびて、もとの毛布の塊になり、ばあさんは「なんだ、そこまでかい」と、掃除 にかかる。
第二の歌――
秋の道
掃いても掃いても
枯れ葉がつもる
鳥かごが鳥をさがして
旅にでた
掃除ばあさんがのぞきこむ。ほうきの先で、ちょっとつついてみるが、毛布はうごかない。ぐいっと押してみる。反応なし。目をむいて振り向いたばあさんの鋭 い口笛。死体をぐいぐい掃き出す。ベッドの男に遠くから呼びかけて――
「ねえ、見てくださいよ。くたばっちまって。そこに転がってますよ。完全にくたばってます。」
「しんだか。やれやれ」と、目を閉じ、頭をたれて。しばらくして頭をあげると、掃除ばあさんは目の前に立っている。帽子の羽飾りがくるくるまわる。
「どうしたんだ?」
「あのですね。」と、にっこり笑って「気にすることはありませんよ。もう片付けましたからね。」
ベッドの男は、立ち上がり、片手で両眼の上を払う。ばあさんは後ろ向きのまま、目に見えない力に押されて、ドアの方へ。
第三の歌――
どこへいくのかわからない
それでもいくんだ
ここからとおくどこまでも
はなれていけばたどりつく
それがどこだけしらないけれどきこえないかい
とおくでラッパが鳴っている
なんの合図かしらないが
なにももたずにでかけよう
ながいながいたびだから
準備したってまにあわない
はなれていけばたどりつく
そこがどこだかしらないけれど
(ここで、みんなつかれたから、休むことにしよう。バンドのメンバーが音楽をやってくれる。曲のタイトルはスライドで。)
ベッドの男は、いつか頭をたれている。戸をたたく音。とびあがるが、おちついて、大声でいう。「何でもない。窓にあたる風さ。」また、とんとん。「もちろ んさ。ただの風だ。」三度目には、たたく音と、「入れてください」と頼む声。「いや、やっぱり風だ。」
第四の歌――
まだ泣いているの
すてられた魂が
いつまで家のまわりを羽ばたいて
縁のきれたいのちにしがみつくの
遠くをごらんよ
手のなかで死にかけてもがく雀より
屋根の上の生きてる鳩になりなさい
ベッドの男は立っていって、明かりをつける。すると、部屋の中がガタガタ鳴り、ドアがゆっくり開いていく。「だれだ。なにをするんだ。気をつけろ。あぶな い。」かれは、どこかから飛んできた棒が背中にあたって投げ倒され、床の上で、頭を上げ、両腕をひらいて、うめき声を立てる。
ベッドの横をすりぬけて、若い男がはいってくる。顔を伏せて、さぐるような目付き。せまい部屋の中でできるだけ遠くをまわって、窓の下の暗がりに立つ。
床の男は、よろめきながら立ち上がり、疲れた声で言う。「おれは、いったいだれだっけ。」
若い男「失礼します。」
「だれだ。」
「失礼します。」
「どうしたんだね。」
「帰ります。」
「来たばかりじゃないか。」
「間違いだったんです。」
「いや、間違いじゃない。ここに来ているんだから。」
「具合もわるいんです。」
「そうかい?」
「そうなんです。」
「からだが、かい?」
「からだって?」
近づいて、若い男の腕をつかむ。こちらは微笑んでうなずき、「じゃ、ためしてみてください。」
若い男の身体や服をつかんで、ひっぱったり、ゆすったりしているうち、ボタンを引きちぎってしまう。
若い男は何も言わず、ちぎれた個所を合わせようとするが、できないので、それを示しながら、「何をするんです。」
「だまってろ」と、おどしておいて、もう一人は部屋の中を回りはじめる。だんだん速く、駆け足になり、やがて全速力。若い男の前を通るたびに、こぶしをふ りあげるが、かれはそれを見ようともせず、破れた服を直そうとしている。走る男は、だんだん開放的になり、胸いっぱいに呼吸しながら走りつづける。
第五の歌――
走れ子馬
砂漠のなかへ
街は沈む 村も沈む すてきな川も
学校もない 酒場もないよ
娘たちの顔も沈んでいく
東の嵐にはこばれて
さあ、役割交換だ。いままでの若い男はベッドに行き、壁の方を向いて寝る。戸をたたく音。身動きしない。もっと強くたたく。びっくりして起き上がって、 「どうぞ。」
女中「おはようございます。」
「なんだい。まだよるだよ。」
「すみません。男のかたがおたずねです。」
「ぼくに?(言いよどんで)ばかな! どこにいるの?」
「台所でお待ちです。」
「どんなひと?」
(笑いながら)「さあ、まだ若いかたですけど、ハンサムじゃなくて、きっとユダヤ人でしょう。」
「それがこんな夜に? 第一、ぼくのお客について、あーだこーだ言ってもらいたくないからね。こちらへお通ししてよ。早くして。」
ドアのところに男が立って、なかをうかがう。
「そこで何をしてるんですか。こっちへおはいりになってください。御用件をうかがいましょう。お名前は? ご用件は? 早く、早く。」
「ひとつお知らせすることがありましてね。わたしがだれか、ということはここではどうでもいいことなんですね、自分ではまったくかかわりのないことを、た だお知らせに来ただけなんですから。」
「ぼくは、知らせを受けるようなことは、何ひとつ覚えがありません」と言って、床の方を斜めに見る。
「それはそうかもしれませんね。」
「それに、こんな夜中には、どんなお知らせも聞きたくないですからね。お知らせがこなければ、それだけ安心できるわけですよ。いや、そんなことを知りたく はないな。帰ってください。早く帰ってよ。」と、相手の服をつかんで、外へ押しだす。「おやすみ。」
しばらくして、そっとドアをたたく音。部屋のなかで耳をすまし、腕を組んで「しつこいやつだ。」
また。しかも、だんだんつよく、ドア全体をたたきまわり、木を打つにぶい音やガラスのところをたたく明るい響きが入り乱れて。
飛び起きると、上唇を噛みながら、じっとドアを見つめる。「また静になった。そのまま、ずっと静かにさせてやるかなら」と、ドアのところへ。
「まだいるのかい?」
「いますよ。あけてください。」
「よしあけるぞ。」
「なぐらないで」と、相手は一歩さがる。
「じゃ、帰れ。」
「そうはいかない。それじゃ。」と、客は不意に駆け寄ってきた。しばらく格闘。組み敷かれたほうが、「このやろう」とうなり、「いくぞ」と不意打ちを食 らわせる以外は無言(ヴィトゲンシュタイン的言語ゲーム)。「もういい」と言ったあとも、しばらくもみあっている。客はドアのところから部屋のなかにまた 飛び込んできて、一撃で若い男をベッドに投げ倒す。それから部屋の外で大声であいさつする。
「おやすみ。」(つづく)
編集後記
お待ちかね、リケットさんの再登場です。予想外の大作になって、次号堂々完結(かな?)の予定。引き続き乞御期待。
「まりちゃんへ」の絵は、荒井まり子さんです。
ジョン・ゾーンインタヴューは、月刊カドカワ内月刊勇気編集長からの投稿でした。
今月の連載は休みでしたが、デイヴィッド・グッドマンも来月は、また元気に走っていることでしょう。
ホセ・マセダの論文は、今年中に新宿書房から刊行予定(これは訳者のはたらき次第)の「東南アジア音楽の思想」のなかの一篇。
今月も大幅におくれています。だれのせいかなあ?
四月八日、花まつり。「笑う水牛」のスタッフはつれだって、会場である築地本願寺の下見にでかけ、そのあと銀座で花のない花見酒をしたのだった。その結 果、およびスタッフ・キャストなどの詳細は次号で。
その築地本願寺境内で5月28日から31日まで、富山妙子+高橋悠治+68/71黒色テントによる「海鳴り花寄せ」の公演がある。佐藤信の構成・演出で、 テントは絵の展覧会場から、シャーマン・道化・炎・影によるアジアの精霊会議の場に変わる。「わたしは原初の女 地母神のむすめ わたしは東西南北を吹く 風にのり天空を馳せめぐる」会場は毎夕6時半、開演は7時。前売り二千五百円、当日三千円、全席自由。問い合わせと入場整理番号予約は、黒色テントま で。(高橋)