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マイ・ホビー・その(2) 高橋茅香子
メーチー暮らし 佐々木ゆう子
ぼけとぼけうた 木島始
外国人登録制度を裁く――公判に臨んでの所信2 R・リケット
律とまち子のふぁっしょん読本5
空梅雨日記 津野海太郎
走る・その十六 デイヴィッド・グッドマン
編集後記
人生、マイ・ホビー、今日も午前七時に始まる。
鳴りつづける時計をとめて隣にねている娘を起こす。ようやく起きた娘がシャワーをあびている十分間、私はまたつかの間の眠りをたのしむ。それから布団を抜 け出し、歯ブラシをつかいながら、玄関のドアについた新聞受けから朝日新聞とインターナショナル・ヘラルド・トリビューンをひっぱりだす。娘が布団を押し 入れに片づけている間に私が朝食の支度。娘はマフィンで私はベーグル。娘はミルクで私は紅茶。新聞の見出しに目を通しながら話す。「あたしの席、廊下側で 寒いの」「長袖のブラウスにしたら?」「でも教室にいるとき以外は暑いし」「今日もテストの日?」「うん、社会はズタボロだよ、きっと」「いよいよ水不足 みたいよ」「今年はプール、だめかなあ」「工業用水はたくさんあるんだって」「ここみたいに、もっとそういう水を使えばいいのにね」
八時。娘は制服を着て、玄関の横に用意してあった鞄を抱え、「いってきます」と手を小さくパサパサとふる。私も手をパサパサとふって「いってらっしゃい」 という。テレビをつけ、ソファの上で脚をのばして新聞を読む。一時間ほどそうしていて、シャワーをあびながら洗濯機をまわしながら何を着ようかと考える。
十時十五分前に電話。「もうお出掛けかしら?」ちょっと遅くなるかな、と思いつつ、返事は気持とぎゃくに。「つまらないことなんだけれど。聞いてもらいた くて。これでいいのかなあと思うものだから」中学校のPTAのこと。私は野次馬みたいなものだから、勝手なことを話す。いつもは私の話を聞いてくれて気分 を晴らしてくれる、近所に住む主婦の鑑のような人。二人の男の子のお母さん。この間スーパー・マーケットで一緒になったとき、レジを終わった私の籠をみ て、外で特売しているサラダ油を私が普通の値段で買っているのをみつけてしまった。「取り替えていらっしゃいよ」という。「うーん、でも、払ってしまった し」「だめよ。主婦感覚のない人はこれだから。じゃあついていらっしゃい」取り戻してくれた二百十四円。貴重な二百十四円だった。
ああ、いけない、遅い。銀色の薄いジャンパーをはおり、ヘルメットをつかんで玄関を出る。二階から下まで階段を走りおりて、バイク置き場へ。ヤマハのエク セル、50cc、ベージュと黒のツートン・カラーが私の愛車だ。でも本当はもっときれいな色のに乗りたい。最初のが赤、次が緑、これで三台目。この次は紺 と黄色のにしよう。朝日新聞が銀座から築地に移ってとても不便になってから乗りはじめたのだ。地下鉄の東西線はいつも混んでいるし。うん、エンジンは快 調。浦安街道に出て葛西橋を渡り、深川一丁目で左に曲がって清澄通りをまっすぐ勝閧へ。勝閧橋はいつも車が渋滞しているけれど左端は空いている。このあた りから築地へ向かうバイクが増える。この時間に市場へ行くのは、足りなかったものを追加しにいくためが多いらしい。おじさんやおにいさんのバイクの群れに はいって快適にとばす。家を出て三十分、十時四十分に社着。
私のスクーター置き場は朝日の正面玄関前の歩道。玄関と五階の入口と二か所で警備のひとにお早うございますといって編集局内のわが国際配信部へ。机が二十 と英文ワープロ五台、タイプライター数台がひしめきあっている。ここから毎日八本ほどの英文ニュースを世界に送りだす。もう記者が二人、ワープロに向かっ て仕事を始めている。いつも朝九時からきているアルバイトの由美ちゃんは、きのう送ったニュースがニューヨーク・タイムズの通信網に乗ってちゃんと世界中 に届いたかどうか、東京に送られてきた文でチェックしている。デスクは二人で、交代で一週間づつメインをつとめていて、今日は私の担当なのだ。私はたえず 暗中模索状態で、頼りないデスクなのだけれど、部員たちが優秀なのでもっている。せめて部員が仕事をしやすく、いい記事が書ける状態をつくってあげような どと考える。
生産者米価五・九五パーセント引き下げのニュースは送ろうと話し合う。東芝機械のコラム規定違反事件の責任をとって東芝の会長と社員が辞任したニュース は、昨夜遅く最後につっこんだが、外国には理解しにくい責任の取り方だと思うので、日本の社会ではどういう意味を持つのか、それも記事にしたい。責任を感 じたら、むしろ全力で改善にあたるのが西欧のやり方だろう。ニュースの背後にある、日本人の考え方を伝えたい。もちろんときには反省をおおいにこめて。
朝日の大阪、西部(九州)、名古屋で出している版にも目をとおし、他社の新聞のページも繰り、外国通信社が送った記事などを読んでいるうちに、ほかの部員 たちやいつも応援を頼んでいるフリーの翻訳者たちが出社してくる。朝日の誌面からニュースを拾うにしても、それはデータをそこからとるという場合が多く、 たんなる文字の翻訳ではまったく話にならない。対象とする読者が違うのだから当然で、追加取材などをしながら日本のことを知らない読者にも読める記事にし ていく。取材はなるべく紙面に頼らず、独自に取材し、記事を書く。
「形状記憶合金の薄板化に成功」という記事と、利根川のダムが涸れてきた話も選ぶ。そのうちコピー・エディターのアメリカ人三人も出社してきてできあがっ た記事のブラッシュ・アップをしていく。部長も出社。元ニューヨーク支局長で、鋭い国際感覚とたくまざるユーモアの持ち主。なかなか素敵な人なのだ。
午後二時半。おなかがすいたなあ。ちょっと、と周りに声をかけて八階の食堂へ。ざるそば二百円とメンチカツの野菜添え百八十円。十分ですませて戻る。自分 が担当デスクでないときは一時間かけてお昼を食べるのに。この頃から内部が活気づく。ワープロ五台がフルに動き、タイプを打つ音が響き、電話が鳴り、ほか の部の人たちが顔をのぞかせたり、記者とコピー・エディターとが記事の解釈でやりあったりする。五時頃から完成した記事ができてくる。じっくりと読んで、 解釈やデータにおかしなことはないか、足りないものはないかチェックする。米価の記事で、記述の順番をかえたりして作り直してもらい、最終的にもう一人の デスクにも目を通してもらう。今日送信することにしたのは七本。ワープロでAPの通信網にのせ、ニューヨーク・タイムスへ。送れたことを電話で確認して、 とりあえず今日の作業は終わり。七時半。
娘に電話する。「今日はタコスでいい?」「いいけどおなかすかない?」「大丈夫。帰り遅くなってもいいよ」「うん、また電話するね」
イタリアの雑誌に送る記事をかかえている記者もいて、今日は残って仕事するという。アメリカ人たちはさっと帰る。記者の一人と二階の「アラスカ」へ。本日 閉店の札が出ていたけれども、軽く飲むだけだと言ってはいる。彼はなんとかいうウイスキーのストレート、私はジン・トニックを注文。売れる記事、売れない 記事の話。そのうち後の二人も参加。九時まで。多分そのあと彼らはまたどこかへ飲みにいくのだろうと思う。そこまで付き合わない私は、その分、この仕事に はいりこめていないのではないかと思ってしまったりもする。一人でぼうーっとしていることを最高のホビーとしている私は、このあたりで自分に低い点数をつ けざるを得ない。人と付き合うことがかなり下手。
部屋に戻って、新しいニュースがとびこんではいなかったかどうか確かめて、ジャンパーを着て、部屋を出る。写真部を通り抜けながら夜勤のデスクにさような らと声をかける。暗闇の中でスクーターのエンジンをかけていると、警備員の人が「気をつけて帰って下さいよ」と言ってくれる。築地のあたりには夜が明ける のを待つ、豆電球で飾りたてたトラックがいっぱい。でも道はもうすいていて、しごく気持よく走れる。解放された気分で、なんとなく口をついて出るのは古い アメリカのジャズ。これはなんだっけ。
清新町まで戻ってくると、緑がうっそうとひろがる。角にある中学校の教員室を見ると、ほっとする。勝手な思いだが、いつも娘をひとりでいさせる身として は、すぐ近くに先生たちがいるのはなんとも心強い。この中学の先生たちは本当によく仕事をする。
バイク置き場から三十メートルほど緑の中を歩いていくと気持がすっかりときほぐれる。ベランダ越しに沢山の明かりが洩れていてあたたかい。玄関を開けて娘 が「おかえり」とヘルメットを受け取ってくれる。毎日のしきたりのようなものだ。夕食はメインはひきにくとキャベツとトマトとチーズを詰めたタコス。最近 は娘の方がうまく作るようになった。「期末テストはどう?」「わかんない。明日は英語なんだ。現在完了ってやっと分かってきた」
夕食がすんで十時半。玄関のブザーが鳴る。「清新町で音楽をきく会」というのを一緒にやっている六人のメンバーのひとり鈴木さん。三か月に一回開いている タウン・コンサートの次のポスターができたので、私の分を届けてくれたのだ。六人とも中学生や小学生の親で、仕事をもちながら遊び好き。次の集まりを土曜 日の夜九時からうちでやろうということにする。ワインは笠間さんね、サラダは私が作ってくるから、と鈴木さんの話は早い。
鈴木さんが帰り、ソファで『ぼのぼの』や『いまどきのこども』を読む。といっても、もう何回も読んでいるから気にいっているのを拾い読み。スナドリネコさ んとキリ太くんのお姉さんが好き。十一時に電話。娘の恋人(とこちらで決めている)兼私のボーイフレンド(とこちらで決めている)から。二十五歳。娘はテ ストのための勉強があるから、今日は私が電話を独占することにして十二時すぎまで話しこむ。なんということもない、とりとめのない話なのだけれど、明るさ と暗さの度合が私と娘の波長に合っている人なのだ。あ、あと二行しかない。ホビーに明け暮れているお話、終わり。
青木保という人が、『タイの僧院にて』だったか『沈黙の文化を訪ねて』だったかに、「バンコクでよくみかける剃髪白装束の女性たちはピクニ(比丘尼)では ない」と、たったの一行半ぐらいで片付けてしまった女性たちはタイでは“メーチー”と呼ばれている。
聞くところによれば、大昔は尼(ピクニ)もいたが、坊主の秩序が守れないのと、それ故により多い300余の戒律(僧侶は227)が厳しすぎて、得度する人 がいなくなってしまったという話。
“メーチー”について説明するのはちょっと面倒で、日本でいう尼さんではない。男が坊主になる時は、世俗の服を脱いで白い衣を着、得度が済んで黄衣を着 て、ハイ出来上り。白衣も黄衣も、托鉢のための鉢も、石けん、チリ紙、歯ブラシ、歯みがき、お茶の道具等々、みんなみんなタンブン(寄進)される。得度式 のスポンサーになりたいと、順番を待っている人もいる。
僧侶は、戒律を守り修行を積んでニッパン(涅槃)に行き、一般の人は、タンブンを積んでサワン(地上天国)に行くのだそう。
メーチーは白衣の状態。俗人でもなく僧侶でもない、非存在の存在。白衣は自分で作るか、お金を出して作ってもらう。私はタイ語のわからない外国人料金で、 約50%増の650バーツも取られた。でもこれは、後で一着無料で作ってもらったので、平均価格になったけれど。
得度式は10月27日。本当は26日の予定だったけど、メーチー服が出来上っていなかったため、一日延びた。服を縫ってもらったメーチーの部屋で剃髪。も うすぐ肩まで届きそうな髪を、まずハサミで短くし、水でぬらして石ケンをぬり、頭のてっぺんからカミソリで剃って、最後に眉毛を剃り落とす。切れないカミ ソリだったせいか、あちこちから血がにじみ出る。剃ってくれたメーチーは、気の毒に思ったらしく、ベビーパウダーを頭にこすりつけてくれた(?)。剃った 髪の毛は、お寺の側を流れる運河に流した。ハサミで切った髪の毛は「要るか?」と聞かれたが、何も考えず「要らない」と答えて捨ててもらう。それから服の 着方を教えてもらい、8つの戒律の練習。7番目が長くて覚えられない。
得度してくれる僧侶は、このパクチム寺院の副住職。昼寝中というので4時過ぎまで待つ。その間も戒律の暗記。7番目が覚えられない。
副住職の部屋で本番。彼が何事かしばしお経を読み、戒律を唱えるところになった。やっぱり7番目でつかえ、二度言い直してもらって戒律を守る約束をし終 え、花と封筒(お金)をタンブンして式が終わる。約20分。
戒律は、
1 殺さない。
2 盗まない。
3 セックス禁止。
4 ウソをつかない。
5 お酒を飲まない。
6 午後食事をしない。
7 観劇・音楽禁止、髪・衣装を飾らない、化粧をしてはいけない。
8 高い所、広い所、柔らかい所に寝てはいけない。
だけど、私はメーチー服の下着上下を失った(コインランドリーじゃあるまいし!)し、このお寺が大都会バンコクにあるということもあるのだろうけど、各々 の部屋には冷蔵庫をはじめテレビ、ラジカセ、ウォークマンまであって、僧侶の住んでいる建物からは、スティビー・ワンダーなんか聞こえてきたりした時も あった。
このパクナム寺には、僧侶が托鉢せずに勉強に専念できるようにと、先代住職が苦労して作ったという“食堂”がある。おかげでこの寺の大半のメーチーは、食 事の支度、後片付けにかなりの時間を取られる。
お寺での一日は、4時に起きて4時15分から5時まで朝の読経。食事を作るメーチーたちはすでに働いている。読経が終わったら朝食の準備。僧侶がすぐ食べ られるよう整えたら、日の出を待って(灯りのない所で、手のひらのシワが見えるようになったら、だいたい6時頃。托鉢する僧侶も出かける時間)食事。僧侶 が食べ終わるのを待って、後片付け。それから昼食の準備を終わると7時過ぎ。作る派は働き続けているけど、片付け派は休めて、10時から昼食の用意。僧侶 だけでなくタンブンに来る信者の分も用意するので、休日はかなりの量になる。11時ぐらいから食べ始め、朝と同じように僧侶が済むのを待ち、それから信者 に食事を出し、それも片付け、翌朝の準備を終わると2時過ぎ。夕方の読経は4時からで、20分の冥想も含めて終わるのが5時。6時半から本格的な冥想の時 間。1時間ぐらい。水浴びして洗濯すると、もう寝る時間だ。
はじめの一週間ぐらいは寝てばかりいた。つい、ザ・日本人をやって、一生懸命しっかり働いていたので、夜は夜で、昼は昼なりに眠れてしまった。そして気が 付くと、200人ぐらいいるといわれていたメーチーなのに、読経の時なんと人数の少ないこと。同室のメーチーでさえ参加していないよう。
お経はパーリ語をそのままタイ語で表したもの。表音文字ならではだけど、読めても意味は全然わからない。ましてタイ語の読めない私は、ヒマそうなメーチー をつかまえては読んでもらってカタカナをふってみた。食前のお祈りは短くてすぐ覚えたけど、食後は3種類あり、音頭を取る人によって、何が出てくるかわか らないのと、気分次第で最初から最後までやる人もいれば、途中を抜かす人もいて、毎日テキスト持参で食事に行っていた。朝、夕は約40分もある長いお経の 上、夕方のは、これも3種類(3日毎に変わる)あり、最後まで読んでくれる人がいなかった。
最初に夕方の読経をパスすることにした。それから週3日タイ語の学校へ通いはじめ、翌朝の食事を買って帰るようになり、朝もパスすることにした。4時に起 きて、自分でヨガと冥想をし、昼の準備がはじまるまでの時間と、学校へ行かない日は6時半の冥想がはじまるまでの時間を自分の時間に決めた。食堂でご飯を 食べることは、前後の動きも要求されるので、昼だけしっかり働いて、しっかり食べた。食事と働きに参加しないメーチーもかなりいて、彼女たちは各自部屋で 作ったり(だから冷蔵庫が必要なのだと思う)買ってきたりして済ませていた。
はじめの頃の働きが良すぎたせいかヒンシュクを買い出した。朝は朝で寝坊していると言われ、昼は昼寝していると言われ、15年いるというベトナム人のメー チーと口ゲンカをしたりしたせいか、生理が止まってしまった。握り拳ぐらいの子宮筋腫持ちなので、心配になって病院へ行った。ヘラヘラ笑って、「生理が止 まったのはストレスのせいだと思う」と主張したら、医者に「とてもストレスがたまっているとは思えない」と一喝され、ホルモン剤を渡されておしまい。筋腫 は、ひたすら切った方がいいと勧められた。
わざわざタイまで来て頭を剃ったのは、早寝早起きの規則正しい生活、禁酒禁煙(戒律に禁煙はないけど)禁いろいろの生活がおもしろそうだと思ったのと、ヨ ガと冥想を励行し、あわよくば筋腫に勢いや収縮を進言できるのではないかと思ったから。動機が不純な分だけシッペ返しされたのか、表向き「タイと日本の仏 教はとても違うので勉強に来た」なんて言ってたのが、4番目の戒律にふれて怒りを買ってしまったのか。それに、言葉が足りないための誤解も随分あったと思 うし、苦しくなってきた。
正月、チェンマイの少し南にあるランパーンという小さな町の、岩山にあるお寺に行く機会があった。僧侶はそれぞれ掘っ建て小屋(ホントにそう呼ぶしかない ような小屋)を建て、御本尊は洞穴の中。40人ぐらいいるという僧侶の中に、バンコクでよくみかけた太った僧侶はひとりもいなかった。メーチーは3人。こ のお寺では、メーチーも僧侶と一緒に托鉢し、9時頃の食事一回きり。一緒に食事をし、各々自分の鉢を洗う。タンブンされたものの世話はメーチーがやってい たが、全部の面倒をみるということはなかった。食後の読経も一緒で、パーリ語のみで素朴に唱える。
お寺を間違えたと思った。パクナム寺では、四六時中というわけにはいかないが、副住職が日本語を話すので、イザという時には心強かったし、英語のわかる僧 侶やメーチーも何人かいた。もっとも、私は英語が出来るわけではなく、タイ語よりは英語の単語の方を多く知っているという程度だけれど。
ヒンシュクは続いていたし、生理は止まったまま。「スック(還俗)したい」と得度してくれた僧侶に話したら「日本でお寺に入りたい人がいたら紹介してくだ さい」と言われ、心が決った。タイ語が出来るようになったら、頭を剃るか剃らないかは別にしてもう一度ラパーンの寺へ行こうと思った。その気持は今でも変 らない。
ゲンキンなもので、スックしたその日から生理が始まった。本当にイヤだったんだなと思うと同時に、気持が身体に変調を与えるほど繊細だったのかと、自分で 自分に驚いてしまった。
メーチーの衣の白は、一切の属性を捨てた存在を象徴するはず。母でもなく、女でもなく、金持でもなく貧乏人でもない存在なはずなのに、僧との関係ではあく までも女。タイでは“健康な青年男子”しか僧にはなれない。20歳以下の見習い僧がいる。彼らは見習いではあるけれど、子育てを終わり、働きを終わり、余 生を仏と共に生きようというメーチーよりも特別な扱いを受けている。
メーチーは剃髪して白衣をきてはいるけれど、僧に対しては一般の信者と変らないよう。だとしたら、剃髪して白衣を着るのはどういうことなのだろう。僧は死 んでニッパンに至るのなら、僧でもなく俗人でもないメーチーは、死んだらどこへ行くのだろう。
スックした後出会った京大の先生が、「最近は高学歴の女性の中にもメーチーになる人が増えているようです」と言っていた。一般的には“不幸な女性”がなる と思われているし、パクナム寺には、北や東北地方から来ている15、16歳ぐらいのメーチーが多くいて、口べらしの手段のように思われた。でも、サングラ スなんかかけてチャラチャラしている僧や、タイの秋葉原みないな所で、オーディオ・セットなんか眺めている僧や、大学は出たが就職が決らず「決るまで出家 する」と言う男たちよりも、メーチーたちの方が真剣に仏と共に生きようとしていると感じられた。
スックは2月11日。副住職の唱える通り、仏やその教えに感謝するお経を唱え、8戒を授けてもらい、最後に聖水をかけてもらって白衣を脱ぐ。私を一番批判 していたメーチーが最後はしっかり面倒をみてくれた。得度の時の8戒がすこし変る。1、2、4、5、7、8、は同じで、4は貞節を守る、6は不確かだけど 暴食しないという感じになるのかな。
しかし、生理も始まったことだし、日本から持って来たジュリーのテープを聞きながら酒を飲み、タバコも再開してしまった。
3カ月と3週間の短いお寺生活だった。
そらで言えるきびしい読者に会った
三十年前のわたしの詩の一節をだ
「おまえ信号するマストの旗よ」と
愛したひとの癖さながら生きのびさせているというのに
すっかり忘れちまったわたしを許さないそのひとが
覚えているわたしの詩句がわたしか
想い出せないでいるわたしがわたしか
わたし探しに迷うではないか
かけがえのない死ぬまで運ぶ臓器だのに
「これがおれの病んだ肝臓か」と
まるで実感がなくどんな他人のを
映し出されても信じこむだろう
超音波が捉えてきたぶきみな映像は
およそなじみになれない怪異な自己だ
呼吸すると動くこんな分身つきつけられ
わたしから逃げだしたくなるではないか
いつも迷宮入りしてしまう残夢が
しだいに闇から陽光をあびたがると
「この今が未来から狙い射ちだ」と
老いることへと誕生しなおす日々を
わたしは刺身のように解きほぐしつつ
腰骨がたぴし奏でる愉快さから
夕陽おちる赤味まであじわいつくそうと
はや宇宙遊泳しだす魂くんをひきとめない
これまでにすでに四十人の拒否者が、外登法とそれが定める押捺義務の不当性を告発するための裁判闘争を開始しています。すでに下った幾つかの地裁判決と、 一九八六年八月の東京高裁による外登法問題をめぐる最初の二審判決は、いずれも、原則として外国人にも日本人と同じ憲法上の権利は認められているが、国が 独自の目的に沿ってこれらの権利を制約することは合法的である、との判断を示しました。国が外国人を同定するために指紋を必要としている以上、「公 正」(フェア)であり、違憲ではない、というわけです。
しかし、指紋によらなくとも外国人の同定が可能なことは、行政事務の実態からも明らかです。外国人が在留更新を行う際に、窓口事務を担う地方自治体は、指 紋でなく顔写真によって、本人かどうかを確定しています。一九七四年から一九八二年までの間は、自治体に指紋の「原紙」の送付を求めてファイルするという 手続きを、法務省自身が省略していました。(この手続きの再開は、一九八〇年以降の反外登法運動の高まりに対応して、法務省が指紋制度を守り、自らの面子 を守る必要を感じて、急きょ行ったふしがあります)このように、外国人の同定のためには指紋採取が必要だとする政府の理論、それを支持する裁判所の論理 は、外国人登録事務の実態によって、また政府自身の行動によって、否定されています。それは断じて「公正」(フェア)な論理ではなく、まやかしの論理で す。
裁判において私は、外登法とその下での指紋制度が、在日外国人の「同定」を目的としてではく、帰化・同化に応じない外国人を治安上の理由から管理・支配す ることを目的として制定されたものだということを、主張し立証するつもりです。この管理・支配には政治的側面と、心理的・イデオロギー的側面とがありま す。
まず、外登法が持っている政治的支配の手段としての側面について理解するには、外登法の起源――それが制定されるに至った理由――がどのようなものであっ たのかという点、そして、制定された後この法律が今日までどのように運用されてきたのかという点、の二つを検討することが必要です。外登法の起源ないし制 定の理由に関しては、私は、この法律が、朝鮮戦争のさ中に、全ての在日韓国・朝鮮人を政府と警察の厳しい監視下に置くことを主たる目的として制定されたも のであることを、裁判で主張するつもりです。
日本が一九三〇年代末に朝鮮人住民にたいして押しつけた協和会登録証制度と、日本の侵略にたいする中国人の抵抗に対処する目的で「満洲」で実施された強制 的な指紋採取と登録証携帯義務が、外登法の原型であることは、疑問の余地がありません。第二次大戦直後から、日本の警察は、これら戦前・戦中の制度の復活 を熱心に望んでいました。冷戦のはじまりとともに、アメリカの対日占領軍もまた、日本国内の進歩勢力(いわゆる「共産主義者」)にたいする弾圧の一環とし て、朝鮮人と中国人を対象とする強制的な指紋採取制度の導入を積極的に推進しはじめました。
指紋制度制定の決定的なきっかけとなったのは、朝鮮戦争の勃発です。時の法務大臣として外登法の制定に携わった犬養健は、朝鮮戦争が起きて南北が激しく対 立する情勢の中で、日本国内には南北それぞれを支持する朝鮮人が多数いるため、指紋押捺制度は「治安対策上必要」なのだ、と当時はっきり言明しています。
外登法、とりわけそれが定める外国人登録証制度は今日もなお、政治的支配の手段としての機能を果たし続けています。一九五二年外登法制定以来今日までに、 登録証携帯義務を怠ったために連行されたり逮捕された外国人は、延べ五〇万にのぼります(現在、在日外国人の総数は八五万人)が、その圧倒的多数は、在日 韓国・朝鮮人、中国人です。非アジア系外国人が、警官に呼び止められて登録証の提示を求められることは滅多にありませんし、まして携帯義務不履行で連行・ 逮捕されるケースは稀でしょう。
しかも、問題なのは、外登法違反で連行されたり逮捕される人々のうち、朝鮮国籍の人々の比率が不釣り合いに多いことです。警察はしばしば登録証をチェック するという口実で、朝鮮国籍の人々に政治活動や個人の思想などについての尋問を行っています。裁判の中で、私は、外登法の運用が、政治的な理由から極めて 差別的に行われていることを立証するつもりです。
次に、指紋押捺義務、外国人登録証の常時携帯義務、そして外登法違反にたいする厳しい罰則規定は、外国人を心理的・イデオロギー的に抑圧するという機能、 日本政府のいう「国内治安」の維持機能を果たしています。とりわけ問題なのは、外登法と外国人登録制度が、在日外国人に、自分の民族的出自や、自分が受け 継いでいる民族の文化的遺産を恥じる気持、あるいは個人的な敗北感を植え付けて、この人々に「自己抑制」を強いるという機能をはたしていることです。
警察は、外登法がこうした機能をそなえていることを十分に確認しています。一九六三年に、警察庁保安局防犯少年課長と同庁刑事局鑑識課長が『刑事局報』に 発表した文章の中で、(在日外国人の子弟に言及しているわけではありませんが)身体の拘束を受けていない少年被疑者の指紋採取は「少年の心情に著しい影響 を与える」恐れがあり、少年の指紋採取には格別の注意が必要である、と指摘しているとおり、指紋採取の心理的抑圧作用、とりわけ未成年者にたいする作用に ついては、警察も熟知しているはずです。ところが、最近、外登法と指紋制度について申し入れを行うために外務省を訪れた関東指紋相談センターの代表数名 が、応対した外務省関係者から聞いたところでは、現在法務省内で、在日外国人の指紋押捺義務化年齢を、現行の十六才から二〇才に引き上げる案が検討中です が、警察は在日外国人の少年犯罪がふえているとの理由をあげて、この案に強硬に反対しているとのことです。また、警察当局は、指紋制度と外国人登録証常時 携帯義務の撤廃にたいして断固反対しているとも伝えられています。
さらにもう一点、外登法の心理的・イデオロギー的機能が、外国人だけでなく日本人にも影響を与えていることが、指摘されなければなりません。外国人は国家 によって管理され、差別されて当然だ、という認識を国民に抱かせることによって、この法律は日本社会に深く根づいている民族的・人種的優越感を正当化し、 助長しています。一九八五年十一月、法務省は、永住資格を持たない指紋拒否者を国外追放する方針を発表し、やむをえないことだと言って、この方針を正当化 しました。
世界のあらゆる民族集団が程度の違いはあれ、それぞれに民族としての誇りを抱いていることは確かです。しかし、日本の場合は、昨年の藤尾発言と中曽根発言 が国際的な批判を浴びたことからも明らかなとおり、民族としての誇りが、排外主義と他民族への差別という形をとって発現しているのではないでしょうか。他 者との間に真に平等な関係を築くためには、他者と己れの違いを認識することが不可欠ですが、他者との差異の認識が、他者への差別となってしまったならば、 平等な関係は望むべくもありません。「国際化社会」の一員であること、国際的に開かれた社会であることが、本当に日本の願いであるならば、外登法が現実に 果たしている機能は、この願いと真向から対立し、この願いを踏みにじっている、と言わなければなりません。
以上のように、外登法の制定過程とその後の運用の実態に潜んでいるこの法律の真の目的を明らかにした上で、私は、この法律の実際の運用と、それが持ってい る心理的・イデオロギー的な抑圧のメカニズム、日本国憲法、および日本も批准国の一つとして国際的にその遵守を誓っている国際人権規約の精神と規定に反す るものだということを、主張するつもりです。日本の国法は国家の政策や方針にではなく、憲法と、日本が国際的に誓約した国際条約にこそ依拠しなければなら ないはずであり、日本国民と同様に、在日外国人も、国家による自分たちへの権利の侵犯にたいしては、憲法と国際人権規約の精神にしたがいながら、自分の人 権を自分自身で守る権利を有しているはずである、というのが私の立場です。
私を含め、今日生きている人々の大半は、第二次対戦中あるいはアメリカ軍による対日占領中に、在日朝鮮人・中国人に起きた過ちにたいして、直接の責任を 負っていません。しかし、私たちが、その歴史を無視し、それによって今なお苦しみを受けている隣人たちの存在を無視してしまうならば、私たちは、その過ち を永続させるだけでなく、私たち自身が新たな戦争と新たな苦しみへの道を準備するという過ちを犯すことになります。
今回の裁判は、私の多くの友人が住み、私自身も生活の基盤を置き、今後末永く在留したいと願っているこの国で、外登法という名の法律の下で進行している、 人間の尊厳をおとしめる事態にたいして抗議するためのものであります。と同時に、この裁判は、一人のアメリカ合州国市民が、自分の祖国の歴史の一節にたい して個人的に下した判決の是非を問い、自らの国の歴史にたいする個人としての責任のほんの一端を果たす場でもあります。
たまに、昔の大学の仲間と集まって泊まり込むようなことがあると、今更ながら、自分のファッションが、「普通」の人たちから、遠く隔たってしまっているの に驚く。いつの間に、こんなになってしまったのか。ひとえに、あの「ヒッピーの時代」が悪いのだ、と責任転嫁してみたりもしないではないが、ま、本人はべ つに変ってしまったことを後悔しているわけではないのだ。むしろ面白がっているところが始末の悪いところかも。
違いが一番はっきりしているのは、下着と、靴下のあたりだろう。ぼくぐらいの歳になると、普通は白いシャツをまず着て、その上にワイシャツを着る。それか らネクタイ、となるのだがそこが全然違う。シャツはTシャツをじかに着て、その上にはジャンパーになるのか。ネクタイがわりになるのはバンダナかもしれな い。
下のほうは、もっと違う。「デカパン」といわれるパンツ、その上にステテコといわれるズボン下、そしてズボン。これが普通。それを、ぼくはビキニ・スタイ ルのパンツに、コーデュロイのジーンズをはく。40代までは、冬でもこれだけだったが、さすがにこの頃は真冬や、北海道へ行く時には、モモ引きをはく。そ ういえば、中国へ行った時、天津ではみんな、モモ引きを2枚重ねてはいていた。あれだけ寒いとそれで当然かもしれない。
夏は、もっとカンタン。梅雨時分には、Tシャツの上にアロハだが、もっと暑くなると、素肌にアロハを着て、サンダルばきで歩く。ズボンも、その頃は、半ズ ボンだったりする。普通の人でも、家にいたり、遊びに行く時はこんなカッコウをする人もいるが、会社へは、まずこんな服装ではいかないみたいだ。ぼくなん か、そもそも、普段着とよそいき、という考えがオカシイのとちゃうか、と思っているので、行く先が新聞社でも、取材の相手が、三味線のお師匠さんでも、こ んなカッコウで行ってしまう。
そして、なるべくマメに洗濯して、どれもたくさん持たずに済むようにこころがける。それでも、溜まってくるものだ。Tシャツなどは、ひところレコード会社 が「ノベルティ(景品)」によく作ったので、どんどん溜まったけれど、ほとんど着ないで他人にあげてしまう。色が気にいったものは、裏返しにして着る。だ いぶ前に、ニューヨークのライブハウス「リッツ」で売っていたTシャツは「RITS」で、ぼくの名前と同じなので、そのまま着ていたが、愛用しすぎでボロ ボロになってしまった。
パンツはたいてい外国で買ってくるのが多い。べつにブランド物というのでなく、なぜか、アメリカの製品は丈夫だというのが経験上わかっているからにすぎな い。もっとも、アメリカでも13番街の「安売り専門店」のは、すぐに破れてしまう。大型スーパーか百貨店のがいい。きっと流通経路が違うのだろう。なにし ろ、マンハッタンの下のほうバワリーでは、石造りの銀行の上の階に「首吊り」ワンピースの縫製工場がある国だ。
こう考えると「ヒッピーの時代」も案外良い面があったといえるかも。少なくとも、ぼくはもはや、高いお金をかけて「背広を新調」するなんてことは二度とし ないだろう。
七月一日。
七時起床。コーヒーを飲みシャワーをあびても、まだからだがボンヤリしている。バルコニーにでると、サンシャイン・シティの上空に白い雲のかたまりが光っ ているのが見えた。その雲をなにかのしるしと読んで、池袋まで歩くことにする。
荻窪から青梅街道、中杉通り、早稲田通りをとおって下落合にでる。ここには、かつて私がかよっていた新宿区立落合中学校がある。
中学のすぐとなり――目白台の高田馬場側の斜面が小規模な原生林になっていて、私はそこを「相馬さん」と呼んでいた。弁当を食いおえると、友だちとさそい あわせて鉄条網の破れ目をくぐる。おっかなくて、とてもひとりで入れない。暗い密林のおくに熊笹におおわれた池があり、運がよければ、大きなはさみをもっ た清水ガニをつかまえることができた。
なぜ東京のまんなかに、あんな原生林があったのだろう? それがなんで「相馬さん」だったのだろう?
一九八二年に創樹社からでた武田助雄の『御禁止山・私の落合町山川記』という本を読んで、はじめて私はその由来を知ることができた。本来、ここは徳川将軍 家専用の狩猟地で、そのため「御禁止山」と呼ばれていた。それがのちに旗本酒井家の下屋敷となり、明治にはいって相馬子爵家のものになった。それゆえ「相 馬さん」だったのだ。馬追いで名高い福島県相馬――たしか埴谷雄高や島尾敏雄があの土地の生まれだったとおもう。
かつての「御禁止山」の伝統は、それが相馬家のものとなってのちも失われなかったらしい。おかげで一九五〇年になっても、私たちは奇跡的に保存された原生 林を自分たちの遊び場にすることができた。ところが六〇年代にはいると、「相馬さん」の所有権が大蔵省に移る。と同時に、大蔵省はこの古代からつづく小密 林を伐採し、池を埋めたてて、そこに何棟もの職員宿舎をたてようとした。
この動きを察知して住民運動をおこしたのが、当時、落合新聞という個人的な地域新聞をやっていた竹田さんである。かれは仲間をあつめて区や都をうごかし、 とうとう「相馬さん」を都立の自然公園として保存することに成功した。しかし、その手柄は地元出身の区会議員たちに、あっさり横取りされてしまう。その恨 みつらみをぬりこめた奇怪な闘争史が『御禁止山』という本である。竹田さんは、つい最近なくなったらしい。長谷川四郎の葬儀のとき、創樹社の玉井五一さん からそう聞いた。
午前九時、下落合駅をすぎて七曲りの坂をのぼる。そのむかしの「相馬さん」はきれいに整地され、入口に「おとめ山自然苑公園」という看板が立っていた。 「おとめ山」すなわち「御禁止山」である。
私がこの空間に足を踏みいれるのは中学をでてはじめてのことだ。なだらかに起伏する散歩道、煉瓦色の敷石や木造まがいのコンクリートの橋、茶室ふうの休憩 所、ひょうたん型にととのえられた池――その一つ一つに以前の原生林の記憶をかさねあわそうとするのだが、どこがどこに当たるのか、まるで見当がつかな い。頭がクラクラしてくる。七〇年代のジェントリフィケーションの大波が、目白台のすみっこにわずかにのこされた古代の痕跡をのみこんでしまったのであ る。
池のほとりのコンクリートのベンチに腰をおろす。朝の公園には、私のほかには、だれも人がいない。
じっとそこに坐っていると、たったひとりで「落合秘境」保存の住民運動を開始し、その成功から体よくはじきだされてしまった竹田さんのうらみがあたりにた ちこめているようで、ちょっとおそろしくなる。かれがのぞんでいたのは、はたしてこういうものだったのか? けさサンシャイン・シティの上空にかかってい た白い雲は、きっと竹田さんのうらみのしるしだったのだろうと勝手に決めて、ようやくベンチをはなれる。
目白駅から山手線ぞいに歩き、びっくりガードをくぐって池袋についたのが十時すぎ――そのまま地下鉄でお茶の水の晶文社にむかう。
七月二日。
夕方、渋谷のメディア・ワークショップにいく。女性のための編集学校。「単行本のつくり方」の二回目。
私は自己流の編集者だから、「きみたちも好きなようにやってみたら」という以外に、おしえることはなにもない。じゃあ、好きなようにやるとは、どういうこ となのか? その感じをつかむために、七、八人ずつ八つのチームにわかれて、前回――六月三十日の朝日新聞の朝夕刊をつかって、それぞれに一冊の本をつ くってみることにした。
新聞は基本的にはどこから読みはじめても、どういう順序で読んでもいい。そういう編集原理によってつくられている。他方、単行本は頭から最後のページま で、まっすぐ読みすすむようになっている。複数の原稿をどういう順序でならべるかによって、おなじ原料から別の本をつくることができる。そこがおもしろ い。
朝日新聞は朝夕刊ふくめて48ページ――1ページ15段、1段86行、1行14字だから、四〇〇字づめ原稿用紙になおすと約二四〇〇枚の原稿がつまってい る勘定になる。広告その他をのぞいて約一二〇〇枚――その関節をいったんバラバラにして、そこからA5判16ページの本を再構成する。○1ページに20行4段分を入れる。
○タイトルをつけなおす。
○記事の一部だけ利用してもいい。
○写真や広告をつかってもいい。
○書名をつける。
○別紙の表紙をつける。といった最小限のルールをつたえた上で、みんなで新聞を読む。各チームの編集長をきめて編集会議にはいる。時間制限のきびしさをかんがえれば、 そんなにやさしい課題ではない。私だって、できるかどうかわからないくらいだ。はたしてうまくいくだろうかと心配していたが、一時間後、あんがい簡単に八 つのテーマがそろった。
1 夏枯れの男たち
2 求人情報から見た人生
3 男と女の近未来
4 TOKYO!
5 ものがたり「人がうごく」
6 コミュニケーション
7 団塊の世代
8 親から子へ、子から親へここまでが一回目で、きょうはチームごとに新聞を切り貼りして、実際に小さな本をつくることになっている。九時までの授業なのに、最初の一冊が できあがったのが九時半。ぜんぶがそろったときは十時をすぎていた。
どれもなかなかのできで、「きみら、よくやるなア」と感心した。のみこみがはやい。私の世代の連中だったら、こうはいかないだろう。朝刊にも夕刊にも韓国 の「平和大行進」関係の記事がおおかった。しかし、それを正面からあつかったのもは一つしかない。「夏枯れの男たち」の一員としてチョン・ドゥファンをと りあげるとか、かならずひとひねりしてある。
バラバラのもの(原稿や絵や写真)をくみあわせて、そこに別の意味をつくりだす。それが編集である。かれらには編集のセンスがある。もしかしたら編集のセ ンスしかないのかもしれない。ちょうど私みたいにね。
七月三日。
永井荷風が死んだとき、長谷川如是閑は「人なみの重荷を負ふてあえぐ世に風を荷ないてふらふらと往く」「その文の後にのこるをあきたらでいく千万の貯金を のこす」という追悼の歌をよんだ。
このとき如是閑は八十四歳――まえの歌には、自分とおなじく明治・大正・昭和の三代をひとり身のまま生きてきた荷風にたいする共感が、あとの歌には、にも かかわらず自分とはちがう生き方をした荷風にたいする違和感がしめされているようにおもう。明治四十年、如是閑が三十二歳のときに発表した「ひとりもの」 という小説を読む。これがなかなかおもしろい。
「十九や二十歳では人は未だひとりものたる自覚は生ぜぬが、二十五六から三十歳内外になると盛にひとりものたる自覚が起きて来る。其処で一種の寂を感ず る。此の寂寥は獣的衝動と人間作用との融合から出てきたもので…略…此の寂寥に打勝たれたものは、その上は自殺に行き、その下は堕落に行く。然し天下の多 数は上にも行かず下にも行かずして其の中に行く。中とは何ぞ、即ち亭主である。…略…然らば此の寂寥に打勝つたものはというと、これが即ち真の意義に於け るひとりものである。ただの一人にして、煩悶もせぬのである。悲観もせぬのである。自殺もせぬのである。堕落もせぬのである。さればひとりものは敗北では なくして勝利である」うんぬん。
ふたりものには自由がない。囚人のごとく鎖につながれているのであると断じて、ひとりものは百八つの鐘をききながら正月の餅を切りにかかる。突然、睡気に おそわれ、ふっと気がつくと、そこは西洋の薄よごれた屋根裏部屋で、ひとりの老人がベッドで死にかけている。
ああ、そうだ、これはゾラの小説にでてくる独身哲学者ラボーブだと思いあたったとき、下の部屋に住む労働者のサルボーのおかみさんが入ってきて、「ひとり ものが七十になったら、川へ捨てて了ふが一ち宜しう御座んす」とののしる。と、不意にベッドに仁王立ちになった老人が、おそろしい顔でこちらをにらみつ け、自分の上におおいかぶさってきた。
「オヤオヤ、うなされているよ此の人は。……夢とも現ともなく耳に入ったのは確かに隣家のお婆さんの声である。はしなくも我に返ると、昨晩から開放しの縁 先いっぱいに、元日の日影あかあかと照って、抜殻のやうにがらんとした部屋の中に、余は、桶を腐らして暫時部屋借のダイオゼネス然と転がっていた」――
明治うまれの如是閑青年には、すでに古い家族システムは機能しなくなったという経験からくる認識があった。とすれば、われわれは独立自由の――「真の意義 に於けるひとりもの」として生きぬくほかない。とはいうものの、その自立自由になんのかがやきもないということだってわかっている。巨額の貯金をのこして 荷風が死んだとき、如是閑は、もしかしたら自分が若いころにえがいた、この老年の悪夢をおもいおこしていたのかもしれんぞ。
いっしょに暮らしていた妹が死んだのち、九十四歳で世を去るまで、如是閑の生活は若い友人たちによってささえられていた。生きるために血縁にたよるのでは ない家族を必要としたということだろう。
明治の日本における非血縁的な家族のこころみとしては、如是閑の先生にあたる坪内逍遥のばあいが興味ぶかい。周囲の反対を押しきって根津遊廓の娼妓と結婚 した逍遥は、生涯、自分の子どもをつくらず、男女三人の養子をむかえて、この非血縁的な家族を中心に「新舞踊運動」という芸術運動をおこそうとした。明治 民法によってテコ入れされた家父長的大家族か、西欧派の知識人が主張する核家族かという選択肢しか存在していなかった時代に、かれは、そのどちらともちが う家族のかたちをつくりだそうとしてのである。
結果として見るならば、逍遥はこのこころみに失敗し、彼の家族はあえなく解散してしまう。それでも、この失敗には未来をひきよせる力があった。如是閑のひ とり暮らしについても、おなじことがいえそうだ。
七月四日。
近所の銭湯の二階にあるコイン・ランドリーに洗い物をほおりこみ、三十分ほど図書館で遊んだあと、こんどは乾燥機のそばで、いま図書館でかりてきたばかり の本に目をとおす。ひとりものの新しいたのしみである。
そのようにして、きょうはグスタフ・ヤノーホの『カフカとの対話』を読みはじめた。この本はこれまでにも何度となく読みはじめ、そのたびに途中でやめてし まった。いくら敬愛する先輩のことばだといっても、テレコもメモもなしで、何年もまえの対話を、こんなに詳細に再現できるものなのだろうか? という疑念 が先にたって、どうしても読みとおすことができなかったのだ。
部屋にもどって、洗濯物にアイロンをかけると午後一時半――十階の窓から吹きこむ乾いた風にさそわれて、ふたたび部屋をとびだす。
善福寺公園から井の頭線の高井戸駅にぬけて、神田川にそってすこし歩き、NHKグラウンドの先をまがって、玉川上水ぞいの細い道にはいる。昨晩、荻窪・ぽ ろん亭でとなりの席にすわったイラストレーターの安達忠良さんが、「杉並区の理想的なジョギング・コース」として絵地図入りで推奨してくれた。もう数十年 もこのあたりで暮らしているのに、この道をとくに意識して歩いたことがない。きょうはそいつをやってみたい。
……やってみた。そして、びっくりした。まだ東京にこんな道がのこっていたんだねえ。
久我山とか三鷹台のあたりは、部分的にはよく知っている。でも、とおして歩くと、まったく別の印象をうける。夏草におおわれて水面も見えない上水にそっ て、雑木林のなかの土の道を二時間ほど歩く。途中には畑などもあり、お百姓のおじさんが野菜を一山百円で売っている。ついその気になって、私もナスとキュ ウリを買った。ありゃ、もしかしたら……なんだ、ここはもう井の頭公園じゃないか。いつもとは反対の方角から入ってきたので、気がつかなかった。こういう 錯乱は、なかなかわるくない。池に面した茶店で、ことし最初の氷アズキを食す。
祖母の葬式からシャンペーンの家に帰った次の日に、ぼくは東京に発った。東京に着いた翌日の朝、代々木公園――参宮橋――千駄ヶ谷――青山通り――表参道 ――原宿という、いつもの道を走った。大好きな道で、気持はとてもよかった。着いた翌々日、インドネシアに発った。六日間滞在したが、さすがに暑くて、一 回しか走れなかった。日本にもどって、東京と黒姫山で走ったが、あっという間に滞在期間がすぎて、アメリカに帰った。
シャンペーンに帰ってからは寝込んでしまった。一週間ほど目がなかなか覚めなかった。走り疲れたのだ。が、疲れたのは肉体だけではない。「大恐慌はユダヤ 人が起こした」「ロッキード事件はユダヤ人が起こした」「日本いじめは国際ユダヤ資本が仕組んだ」云々、このような文句を羅列した、ナチス・イデオロギー の焼き直しにはほかならない悪書が日本で氾濫しているのをみて、ぼくは憤慨、痛憤、悲憤慷慨して、さらに憤激憤懣して、疲れたのだ。
それで今月の『水牛通信』の原稿がおくれてしまったわけだが、連載を休むわけにはゆかないので、前に書いた文章を掲載させてもらう。ぼくの恩師でもあるロ バート・リフトンの近著、『ナチスの医者たち――医療としての殺人とジェノサイドの心理』の読書レポートである。
***
Robert Jay Lifton, The Nazi Doctors: Medicalised Killing and the Psychology fo Genocide (New York: Basic Books, 1986).
貨物列車に乗せられてアウシュヴィッツに運ばれていったユダヤ人たちが、下りたホームで出会ったのは医師たちだった。しかし、白衣を着て、赤十字のしるし をつけたジープに乗ってきた彼らは、病をいやす者たちではなく、病をもたらす者たちであり、死を防ぐ者たちではなく、死を促す者たちであった。医師たちは アウシュビッツを象徴する不可欠な存在であった。彼らは文字どおり、ナチスの大量虐殺計画を可能にした。治療者であるはずの医者が大量殺人者と化した経緯 および彼らの心理を理解しない限り、アウシュヴィッツの意味を理解することができない、というのがこの本の根本的な主張である。
悪名高いヨセフ・メレンゲをはじめ、ナチスの「ユダヤ人問題の最終解決」において中心的な役割を果たした、アウシュヴィッツを代表する存在となった医師た ちの行動と心理は、しかし、従来の心理学、精神分析医学の方法では扱いきれない。医学の名において、六百万人ものユダヤ人の殺戮を監督し、促進し、正当化 した彼らの行動は、人間の正常な行動範囲をはるかに超えたもので、「悪魔の仕業」、「狂気」として解釈されてきた。しかし、ナチスの医者たちが「悪魔」で あり、「精神異常者」であるとすれば、彼らは責任を免れることになりかねない。「悪魔」や「狂人」には己の行動に対する責任がないからである。
本書が重大である第一の理由は、あくまでもナチスの医者たちを正気の人間として扱い、彼らの行動と心理を解明するための方法論を打ち出していることにあ る。メレンゲなど、ナチスの医者たちの心理を「異常」のものとして受け止めず、人間だれにでも潜む、可能な心理形態としてそれを扱っている。ナチスの医者 たちは正常の人間であり、人間ならだれにでも可能な選択をした、ということである。そしてユダヤ人のみならず、ジプシー、同性愛者などをふくめて、合計千 万人以上の殺戮に加担することを選んだ彼らは、自らの行動に対する責任を負わなければならない、というのが著者の結論だ。
『ナチスの医者たち――医療としての殺人とジェノサイドの心理』と題されたこの本は、ナチスの医者たちの心理を解明することによって、ジェノサイド、すな わち計画的な集団大虐殺を可能にする要因を解明しようとする試みである。著者はそれを現在の政治情勢に直結する。ジェノサイドの心理は、核兵器を利用し て、敵国の全人口を撲滅する用意があると脅かす今日の政治的常識と決して無縁ではない。
精神分析医であり、『死の内の生命――ヒロシマの生存者』(朝日新聞社)、『日本人の生死観』(岩波書店)などで知られている著者は、本書を書くにあたっ て、ナチス医学界において高い地位を占めた二十八人の医師をインタヴューした、二十八人のうち、五人は強制収容所に勤務し、そのうちの三人はアウシュ ヴィッツ勤務であった。八人はナチスの医学理論の責任者、六人は「安楽死プロジェクト」と呼ばれた初期の医学的殺人プログラムの関係者、三人は軍事医とし てユダヤ人の大量虐殺と関わり、六人は職務上巻き込まれて加担した医師である。さらに、ナチス党内で重要な地位を占めた弁護士、経済学者、建築家、役人な ど十二人をインタヴューした。ナチスの他に、アウシュヴィッツの病棟で働いたことのある生存者を八〇人インタヴューした。その半数以上は医者であった。
大量虐殺と医学および医学者との密接な関係を記録し、明解する本書は四つの部分によって構成されている。第一部はナチスの医学理論と実践についてである。 著者によれば、ナチスのジェノサイドははっきり目的意識によって裏付けられた既成方針として実行されたのではなく、試行錯誤で徐々に展開していったもの だった。ドイツの医師たちの四五%もがナチス党員であり、教師のそれに比べて医師たちの党員率は二倍から七倍だった。彼らは大量殺人のイデオロギーから技 術開発に至るまで、その過程のあらゆる段階において重大な機能を果たした。彼らは「価値のない生命」という概念を打ち出し、「価値のない生命」の処理方法 として「安楽死プロジェクト」を発想した。精神薄弱者や身体障害者の「安楽死」に始まって、ユダヤ人、共産主義者など、ナチス党にとって「価値のない生 命」の処理に至ったこのプロジェクトは、理論のみならず後にアウシュヴィッツなどで使用されたガス室の技術、人材なども開発した。
第二部はアウシュヴィッツはナチスの「公衆衛生施設」であったと著者はいう。ドイツ民族の健康を脅かす異物、「徽菌」としてのユダヤ人を処理することに よって、アウシュヴィッツはドイツ民族の健康を保障し、ナチス・ドイツが目指した「千年王国」の実現に貢献する目的をもっていた。
アウシュヴィッツでは、殺人は「治療」であった。公衆衛生施設としてのアウシュヴィッツのアイデンティティを保つために、医者たちの存在は是非とも必要で あった。アウシュヴィッツを運営したのは医者ではなかったにしても、その運営を正当化したのは医者以外のなにものでもなかった。著者はアウシュヴィッツの 構造とそれにおける医師の不可欠の役割を明らかにしている。アウシュヴィッツに同化していく医者の心理過程、アウシュヴィッツで働く医者たちの相互関係、 囚人と医者との関係、人体実験なども論じている。そして最後に、メレンゲを含む、アウシュヴィッツで働いた三人の医者の精神分析をおこなっている。驚くほ ど冷静かつ明晰に彼らの心理を描写している。
第三部では、ナチスの医者の心理を特徴づける「二重構造」(doubling)を解明している。そして、この概念を中心に、ナチスの医者たちの心理に見ら れる普遍的な要素を解明している。ナチスの医者の精神構造を規定したのは、「治療者」としての自己と「殺人者」としての自己との葛藤である。古典的な「精 神分裂症」とは違って、この二つの自己は、互いに矛盾しながらも、イデオロギーとエトスによって有機的に結ばれて、互いに生かし合うものである。このよう な二重構造は責任の所在を曖昧にし、「悪を実現するための手段となる」と著者はいう。悪は自己に内在する必然性でなければ、自己にとって未知のものでもな く、積極的に選択された可能性である。悪を選んだ者は、自らの選択に対する責任を背負わなければならない。そういう意味で、このような精神の二重構造は 「悪を理解するための一つの鍵である」と著者はいう。
精神の二重構造はジェノサイドを可能にする一つの要素であるが、すべてではない。「ジェノサイド」と題される第三部の最終章では、著者はジェノサイドを可 能にするほかの諸要素をあげて、人間社会においてジェノサイドが果たす役割を究明する。
第四部は後書きである。研究を続けている間、著者が経験した複雑な感情と、本研究が将来のジェノサイドを未然に防止するのに少しでも役に立てばいいという 希望が記されている。
脳死の問題、遺伝子工学の問題など、医学および医学者の倫理と責任が問われている現在、全人類を壊滅することを可能にした核兵器が配備されている現在、ま た反ユダヤ主義的な悪書が日本で氾濫している現在、本書は示唆に富んだ、きわめて重要なものである。
編集後記
空梅雨日記のつづき――
7月6日 ハンス・アイスラーが死んで25年目にあたる。その記念コンサート(?)がバリオ・ホールで。亡命中、ブレヒトとつくった「ハリウッド・エレ ジー」は苦悩まみれ。「苦悩だけを土産に故郷に帰る」――よかれあしかれ、私は「苦悩」という言葉の使い方を忘れてしまったみたいだ。
7月7日 本橋成一さんに浅草の美屋古寿司につれていってもらう。江戸前というのは、要するに、江戸地方の地方性が極端につよい、という意味なんだな。そ の地方性を頑固にもまもっている。ほかの土地の人には、うまくもなんともないかもしれない。
7月9日 たてこんでいた仕事が終わったので、ようやく水牛通信の原稿を打ちはじめる。ようやく3分の2すんだところで、ワープロがぶっこわれる。夜中だ ぜ。あきらめて寝ちまおうと思うのだけど、イライラして、なかなか寝つけない。
7月10日 きのうイリノイからついた藤本和子さんと、ひっこして新しい店になった台南で飲む。八巻美恵さんもいっしょだったので、事情を話して、締切り をのばしれもらったのだが……。
その後、父の入院などの事情がかさなり、7月13日、某所から借りてきたワープロで、なんとか原稿を終えることができました。そんなわけで発行がおくれ たことをお詫びします。リケットさんの公判にも行けなかった。なお、前号と今号にのっているかれの文章は、アメリカ人むけに英語でかいたものを翻訳したも のです。ねんのため。(津野)