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「可不可」プログラム 編集 鎌田慧
野心家カフカ 池内紀
カフカ/可不可 高橋悠治
「可不可は一定」 津野海太郎
スケッチ 平野甲賀
舞台監督可?不可? 田川律
どこから「可不可」 八巻美恵
来年の広告 平野公子
時々自動 朝比奈尚行
水牛ふたっつ 斉藤晴彦
ジョン・ゾーン・ゾーン 玖保キリコ
最近の…… 西沢幸彦
宅配の美味 巻上公一
私の公的生活 三宅榛名
逆光線旅日記 村松克己
おなかの中の物語 柳沢三千代
もやしのヒゲ 吉原すみれ
編集後記
カフカにはさまざまな誤解がある。たとえば、カフカは難解という誤解。むずかしくてよくかわらない、という誤解。この誤解をただすのはむずかしい。という のはカフカはとてもやさしいからだ。前代未聞といいたいほどやさしく、これ以上ないほどわかりよい。
しかし、これを言うのに私はもっともふさわしくない人間である。いくら力説しても納得してもらえないだろう。というのは自分は一応、ドイツ文学者というこ とになっている。つまりは専門家、だからこそ、そんなことが言えるのだ、普通の読者には、やはりカフカはむずかしい――そう言われるのが関の山。この誤解 をとくのはやめておこう。だが、言いっぱなしで話をそらすのは卑怯である。ひとつだけつけ加えておくとして、ためしに誰か漫画家が一字一句、文字を追うよ うにしてそっくりカフカを絵に移したら、どんなに面白い作品ができあがることだろう。短篇でも長篇でもかまわない。最初の一コマから最後の一コマまで、 「原作」がいかに前代未聞の明解さで書かれているか、よくわかるはずである。
もう一つの別の誤解、無名者カフカという誤解。しがない勤め人としての日常に苦しみながら、家にもどってから一人せっせと書いていたカフカ。生前はさっぱ り認められなかった作家であって、つつましく生き、孤独に書いて、無名者として死んだカフカ(という誤解)。
それが誤解かどうか。たしかにカフカは、おおかた無名のうちに終始した。労働者災害保険局という、あまりさえない所に就職して以来、年金がつくギリギリの 年まで勤務して、勤務の味けなさをこぼしながら結構有能なサラリーマンで、順調に地位を昇って退職前はそれなりの管理職についていた。
家にもどり、ひとりせっせと小説を書いたが、あまり認められなかった。その点、当人にもわかっていたようである。のちに薄っぺらな短篇集を出してくれた出 版者との初めての出会いの時、彼はこう言ったものだ。「あなたがこれを出版してくださるよりも、突き返してくださる方がうれしいのですよ」
死の床で友人に言いのこした遺言は有名である。草稿や断片一切、すべて焼き棄てるように、すでに刊行したものも、むしろ読まれない方がよかった――。
なんと謙虚な人だろう。自作に対してもそうだし、周りの人間に対しても謙虚だった。友人や知人や恋人たちがいろいろなカフカ像を伝えているが、一点でこ ぞって共通している。この人物が並外れて謙虚だったということ。ためしにG・ヤノーホの『カフカとの対話』を開いてみるといい。上司や年長者はもとより生 意気ざかりの少年にも、いかにカフカが謙虚であったか。
このようにして無名者カフカの伝説が生まれたわけだろう。名声などこれっぽっちも願わず、孤独に書いて、ひっそりと死んだ。死後何十年かのちのカフカ・ ブームと、それにつづく世界的な名声に誰よりも驚いているのはカフカ自身だという誤解。
どこにそんなカフカがいるだろう? 作品や日記や手紙を通してうかがえるのは、あふれるような野心をたぎらせ、昼夜をわかたず書いているカフカである。書 くためには結婚をすてた。書くためには家庭をあきらめた。律儀に職務にいそしんだのは、そのほかのすべてにおいて好むところの方法で書きたかったせいであ る。かれは何年にもわたる婚約者に何百回となく、書くことの必要を訴えた。これは一つ屋根の下の父親宛に、おそろしく長文の手紙を書いた人物である。公刊 のあてが少しもないのに、何千枚に及ぶ小説を整然と書いていた。
私は思うのだが誰がみても並外れて謙虚な人が、そんなに謙虚であるはずがない。カフカは自分の作品の意味を信じていた。いずれ自分の時代がくると、かたく 心に期していた。無邪気なマーラーはそんな意味のことを大っぴらに口にしたが、〔謙虚な〕カフカは、それを秘めて語らなかった。各人おのおの気質の違いと いうものである。
死の床で自作の焼却を依頼したのは、どれも意に満たなかったからである。さんざん苦労したというのに、願ったところに達しなかった成果を前にして「悪夢を 書きちらしただけ」などと言った。あれほどの仕事を仕上げておきながら、こんな言い廻しをするなんて、なんと強烈な作品意識を伝えていることだろう! た えず自作に対して厳しく「可・不可」を問いつづけていた男が死を前にして邪険にも「不可」の判を捺したまでである。
カフカの最も初期の作は『ある戦いの記録』と題されている。文中どこにも戦いらしいものは記されていないというのに。しかしやはり〔ある戦い〕の記録とい うものだ。その作品には至るところに、大いなる名声を夢みて果敢に挑みかかった野心家の発明が見つかるにちがいない。
「可不可」というしばいを長谷川四郎さんが書いている、と平野甲賀が言うので、晶文社の「長谷川四郎全集」を借りてみたら、それは「審判」という題だっ た。「非攻」とまちがえたのだろうか。ともかく、この題をつけることで長谷川さんの追憶とする。
このしばいのステージは、カフカのノートブックであり、俳優たちはカフカのペンとなってうごく。
カフカが書くことを祈りのひとつのかたちととらえたように、ステージでうごき、しゃべり、音楽を演奏するのも祈りであるべきで、そこでは意味を解釈した り、表現したりはしないのだ。それぞれがひとりきりで闇にむかいあっている人間の集団をつくりだす、いりくんだリズムがある。
すべての場合、すべてのことばがカフカからとられている。それも、ノートのなかの未完成の断片をつなぎあわせたもの、あるものは、いくつかのちがう断片か ら合成されている。本として出版されたどの小説にもまして、カフカはノートと日記と手紙を書きつづけるという行為そのものと化した人間だった。それは未完 の行為であり、可能と不可能のあいだでゆれうごくゆえに、闇にむかってさしだされた祈りの手であることができる。
解釈となって一般化され、抽象化される意味ではなく、むしろ意味をもつことをせず、意味そのものであるような行為を発見すること。そのようなものがもしあ るとすれば、それによってカフカをおきかえることも可能かもしれない。とりあえず、原文のリズムにもとずいた日本語を考えてみる。
このリズムから音楽もでてくるはずだが、それは楽譜に書いてしまってはいけないリズム、構造化できないリズムなので、問題は、それを定義なしで演奏のとき に自発的にあらわれるようなしかけをどのようにつくるか、だ。充分に準備されながら、いざとなると制御をすりぬけるたよりない声によってのみ、ネズミのプ リマドンナ、ヨセフィーネは民衆の歌い手である。
以下に出典を示す。ページは新潮社出版カフカ全集のものだが、訳文はつかっていない。
「はじめの歌」(「観察」より「インディアンになりたい願い」、1巻29頁)
「判決」の最終場面(1巻44頁)
片手で夢を追い払うしぐさ(「舵手」2巻96頁)
「日記」一九一二年九月二三日
「変身」の掃除ばあさん(1巻82頁)
「第二の歌」(「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」アフォリズム一五と一六、3巻30頁)
「変身」からグレゴールの死体(1巻90頁)
「第三の歌」(「断片」、3巻288頁)
風の音(「断片」、3巻179頁)
「第四の歌」(「断片」、3巻180頁)
ドアがひらく(「断片」、3巻178頁)
飛んできた棒(「日記」一九一三年五月三日)
「おれは、いったいだれだっけ」(「日記」一九一三年一〇月二六日)
降霊術(「断片」、3巻179頁)
ボタンを引きちぎる(「日記」一九一三年一〇月二六日)
「第五の歌」(「八つ折判ノート・第五冊」、3巻102頁)
夜明けの訪問者(「日記」一九一四年三月九日)
つづき(「日記」一九一三年一一月二四日)
なぐりあい(「日記」一九一四年五月二七日)
ペーターと狼(「断片」、3巻182頁)
「第六の歌」(「断片」、3巻205頁)
まがった手(「日記」一九一四年八月三日)
二つの手の闘い(「八つ折りノート・第二冊」、3巻52頁)
パン(「断片」、3巻282頁)
「第七の歌」(「日記」一九一六年六月一九日、後半は「第二の歌」とおなじ)
死んだ少女(「断片」、3巻196頁)
しずかだ(「日記」一九二二年一月二〇日)
「恋人たち、天使たち」(「日記」一九一六年七月一九日)
死刑執行人(「日記」一九一六年七月二二日)
助けはこない(「猟師グラフス」、2巻85頁)
質問の無意味(「日記」一九一五年九月二八日)
「変身」からグレーテのヴァイオリン(1巻84頁)
一言でいい(「断片」、3巻246頁)
ぼくのあこがれは昔(「断片」、3巻252頁)
「断食芸人」(1巻176頁)
「最後の歌」(「断片」、3巻183頁)
高橋悠治の「可不可」は、かれが肝臓をわるくして入院していた病院のベッドから生まれた。
そのことと、かれが「可不可」を上演する部屋のまんなかにベッドをおくように指定したことのあいだには、なにか関係があるのだろうか。あるといってもない といってもいいのだが、せっかくだから関係ありと考えておくことにしよう。
すべての人工照明をとりさった病院のくらやみに、やがて死ぬであろう病人のベッドが、まるで虫籠みたいに、そこだけぼんやりとあかるく吊るされている。
どこからさしてくる光なのだろう? ひとが生き死にする事実の世界の外側からか? あるとは思えばない、ないと思えばあるような――とすれば、この光は私 の眼の錯覚にすぎないのか? 可か、それとも不可か? というふうに、高橋悠治の横たわるベッドが築地本願寺の講堂に横すべりしていくんだな、と私は台本 を読んでまず感じた。(かれが病院で死にかけたという事実はない。ねんのため)
退院ののち、草月ホールの「夜の時間」コンサートで、高橋悠治は「可不可」ではない「カフカ」を初演した。演奏にはいるまえにボソボソとしゃべったことば が、いまも印象にのこっている。
「ええっと、きょうはソロのピアノ・コンサートなわけだけど、ソロというのもピアノというのもコンサートというのも、なんか違和感があるんですね。ここで 一人でじっと見られているというのはイヤなんで、できれば自分の部屋で勝手に弾いているのを、そばで見てもらっているというふうにしたい」
夜の時間のやみの中に、かれの部屋だけがぼんやりとあかるい虫籠みたいに揺れている。
では、「そばで見ている」という私たちはどこにいるのか?
かれとおなじ虫籠の中にか?
それとも虫籠の外からのぞきこんでいるのか?
マッチ売りの少女みたいに?
そのどちらでもあってどちらでもないというようにコンサートは進行した。そう私は記憶している。いい時間だった。ステージが、やがてオーディトリウムの全 体が小さな部屋になった。
十数か月がたって、こんどは「カフカ」ではない「可不可」――
もしも私が俳優だったとしたら、やっぱり自分の部屋で一人でしごとをしている人間のように、ということはつまり、たくさんの観客に見つめられてステージに いる人間のようにではなく演じたいと思うだろう。でも、これは至難のわざだ。
高橋悠治のステージはたしかにひとつのモデルになる。
しかし、そのモデルをしっかり頭にたたきこんだとして、実際にはどうやればいいのだろう? 台本は楽譜ではないし、演技は演奏ではない。台本を楽譜のよう にあつかい、演奏するように演技するためには、なんらかの規則や仕掛けがいる。だが規則や仕掛けがめだってしまえば、自分の部屋に一人でいるようにステー ジにいることはできない。モデルは遠すぎてよく見えないくらい遠くにいる。
おびただしい俳優たちのなかで、あたかも街路を歩くように舞台に立つことができるであろう少数の俳優たちの何人かが、ここにあつまってくれた。力をあわせ て、いままで見えなかったなにかが少しでも見えたという状態をつくってみたい。
カフカには苦悩する能力や資質が充分にあった。と同時に、その充分すぎるほどの苦悩によってみだされないスタイルをつくることもできた。高橋悠治の「可不 可」はそのカフカよりもあかるい。ようするにスタイル的にあかるい。
かれの台本は戯曲のかたちではかかれていない。それをオーソドックスな戯曲のかたちに書きなおしてみた。
ひとかたまりの文章をト書きと台詞とにわける。ト書きと台詞のあいだを一行あける。台詞のあたまには発言者の名前をのせる。そうすると、いっそうあかるく なった。ことばはおなじなのに、かたちを変えただけで、むずかしい台本がやさしくなった。びっくりした。かたちには力がある。だから、やさしいものに裂け 目を入れて、わざとむずかしくすることもできる。
高橋悠治はカフカの作品を断片にきりきざんだ。断片と断片とのあいだにおかれた空白はあかるい。それを戯曲のかたちに書きなおすと、さらに空白がふえる。 読んだり演じたりするものは意味を解読するからわりに、その空白の中でみずから動くことができる。だから、やさしい。あかるいからくらい。やさしいからむ ずかしい。そういうのがいい。
「お前、金になれへん舞台監督やったらやるいうのか」
かつての仲間のひとりはこういっていじめる。「べつに、そうきめたわけやないけど」と、ぼくの返事は歯切れが悪い。そもそも、ぼくがこの仕事をするように なったのは、大阪の労音という鑑賞団体に入ったからだ。
厳密には、それより二年も前に、大阪の新歌舞伎座で、雪村いづみのショーの舞台監督をやらされたのだが、ホントに「なんもしらん」ので、舞台のあたりをう ろうろしていただけだ。
労音にも、舞台監督になるつもりで入ったのではなく制作の仕事をするために入った。自分がやっているしごとが舞台監督だと知ったのは、ずっとあともう労音 を止めて、なにして食べていこか、と考えている時、冒頭の辛辣な言葉を吐いた友人に勧められて「そやったのかあれが舞台監督というものか」とわかったくら いだ。
それからでも十七年は経った。制作の頃、バレエの舞台監督にもう白髪の人がいて「こんな仕事、トシとってやんのて大変やろな」と思っていたのにいつの間に か、自分がそういうトシになってしもた。いざ、そうなってみると、べつだん感激もない。いつもとおんなし(同じ)や。たしかに体力はなくなってきたけど な。
舞台監督、というのは「マゾ」の要素を必要とされる。誰よりも先に小屋(劇場)へ行って、何もない舞台に、次々と音響や照明や道具が組み立てられるのを見 て、出演者を迎えて、ゲネプロと呼ばれる通し稽古をして、本番を見守って、後片づけをして、最後に小屋から帰るからかもしれないし、演出家がいる舞台だ と、演出家のいうとおりにせなあかんし。
監督というより、交通整理、の性格のほうが強い。英語では「ステージ・ディレクター」ではなく「ステージ・マネージャー」という。こっちのほうが、この仕 事の内容をよくあらわしている。だから、日本語の「監督」に騙されて、監督をしようとしてはならないのだ。つい勘違いしてしまう人もけっこういるけど。労 音にいる時は、制作と舞台監督を兼任してたからややこしかったかもしれない。
そんな舞台監督のせいか、この仕事をするときまって「悪夢」に悩まされた。本番が近づくと、きまって夢の中で、うまくいかない本番が出てくるのだ。観客が もう客席にいっぱい入っているのに出演者がまだ来ていない、とか、あるいは演出にひどく叱られているとか。
夢が夢でなく、現実を色濃く引きずっているというのを、この時ほど痛感することはない。それもあって、なるべく「ややこしい」舞台の監督は引き受けないよ うにしてきた。単純な交通整理で済むようなもの、にしていたのだ。ところが、今回ばかりはそうはいかない。『水牛通信』のモットーみたいな「役割分担」か らいけば、当然のようにぼくのところへ「お鉢」がまわってくる。
しかも、あまりやったことのない、オペラの舞台監督だ。この原稿を書いている時点では、まだ稽古も始まっていないからプレッシャーはそれほどでもないのだ が、それでもすでに来るべき「未来」への恐ろしい予感はしている。小道具は、衣類は、役者たちの練習スケジュールは、など、どれをっても「えらいこっ ちゃ」
なにしろ、労音時代の六年間の経験で、悪い癖がついてしまった。舞台というのは、必ず「期限」がある。何月何日何時に始まる、となれば、それから遅れても せいぜい三十分の間に「本番」は始まり、そのあと数時間で間違いなく終わる。そこで、ついつい逆算をしてしまう。「あと何時間残っているな」と。その時間 は本番が近づくにつれて、どんどん減っていくのだが、馴れてくると「これだけのことをするには何時間あればいい」という「ずるさ」が生まれてきて、ついズ ボラになってしまう。
もともと、それは、自発的にやってない時に多い。今回のように、ぼくにとっては「ゴールデン・コンビ」と思えるようなスタッフ・キャストで仕事する場合に は、当てはまらない。
ホンマは、そんなに緊張しないで、軽くやればいいのかもしれないが、性分とでもいうのかな。
そういえば、つい昨日も、変な夢を見た。およそ、このオペラとは無関係だけど、不思議な映画のロケの夢で、そこではぼくは「監督」でなく出演者なのだ。悪 役を相手にするいい役なのだが、悪役のほうが圧倒的に強くて、台本はどうなっているのかしらないが、いっかな悪役が負けてくれない。
とうとう最後にはいつものように「これは夢なのだ」と思い込んで目が覚めた。やっぱり早くもプレッシャーがかかっているのか。
「可不可」をやって水牛を終刊にしようと決めたのは、去年のちょうど今頃だったっけ。ある日、平野さんちで深夜まで「会議」にふけった。お酒をガンガン飲 んでいた人はいたけれど、何を話したか忘れた、と翌日になっていう人はいなかった。
一年後、おなじ顔ぶれが、本願寺講堂にあつまって、本格的にステージの場所をきめたり、測定したりしている。この「可不可」をスタッフはそれぞれのやりか たで長谷川四郎さんをおもってつくっている。話し合って確認したわけではないけれど、それはわかる。一年前に、やろうよ、と決めたとき長谷川四郎さんはも う何年目かの病床にあった。そして今年四月に亡くなって、いまはもういない。
津野さんは右膝を痛めている。膝が曲がらないので、真白なズボンがなんだか痛々しくみえる。痛々しいどころか、ほんとに痛いらしい。まるで自分を演出して いるみたいに、ギクシャクしたあるきかただ。そのまわりを身軽に動いている田川さんは、黒いズボンに赤いクツ、紺の上品な女性もののスウェードのコートが いつもの派手なトレーナーを隠している。平野さんはむこうの壁にはりついて、黒いツバつきの帽子をうしろまえにかぶりなおし、巻尺で天井までの高さを測っ ている、その横のピアノのそばで立っている悠治は、ななめにねじれて、みんなを見ている。「可不可」のせかいがすでにみてとれるような光景だ。
九年間も水牛通信を出しつづけていたのに、こんなふうに、「みんなで」「いっしょに」なにかをするのははじめてだというのも、よくかんがえてみると不思議 だ。しかも、ひとたびやることになると、どんなものになるのかはっきりしないうちから、フランツ・カフカなんだからプラハでもやってみたらどうだろう、な どと言い出すことがいるような集まりなのだ。
ところで、十年前に「みにくいJASEAN」という芝居で、水牛通信と水牛楽団誕生のきっかけをつくってくれたテプシリ・スークソパさんはいまもチェンマ イで元気にしているだろうか。芝居だけでなく、詩を書き、それを朗読もし、小説を書き、絵も描き、カフカとは正反対のようにみえる彼。
田園調布にパテ屋の林のり子さんに会いに行く。落ち合ったのは、陶芸家の宮脇昭彦さん、平野甲賀さんと私。
林さんの名や、その仕事のことは、だいぶ前から知ってはいたけど、林さんその人に会ったのは、水牛の例の突然の座談会ででした。2年前のことです。その時 食べた林さんのパテはとてもおいしかった。それだけでなく「食べること」を仕事にしている人で、初めて「成功しているな」と思えたことが、実に愉快なこと だったのです。こうなったら、できるだけ大勢の人に食べてもらうしかありません。できれば大がかりな仕方で、(と言っても家庭で集まって会食するという規 模ではないというほどのことですが)場所は小池一子さんの佐賀町エキジビットスペースがいいな。器も作ったらどうだろうか、来た人が宮脇さんの器で林さん の料理を食べる。「食・器二人展」といつものクセでせっかちに思い込んでしまう。
一回目の集まりでは、こんなふうになりそうです。
●2日間ぐらい昼から夜まで開く。昼はパテ屋の日常的に作っているパテ類で昼食。器は展示即売します。もちろん持ち帰り用のパテ類もたくさん用意しましょ う。夜、出歩けない人達のために開く昼の部。
●パテを使った料理のバリエーションを小冊子にまとめる。これは料理編集を仕事にしている尾崎文枝さんがつくってくれることでしょう。
●平野甲賀さんには、グイ呑みを500個焼いてもらいましょう。いろいろな形の、そろってないの、好きなのを手にして(手にしたものは自分のもの)夜は焼 酎の飲み放題。
●宮脇さんの器は、白地に絵付けの磁器です。林さんの料理プランと相談しながら、これから製作にはいります。期待してください。
●夜の食事、これは林さんのプランを待つことにします。「卵ごはんはどうかしら」なんて本人は言っていますが。
水牛通信はめでたく終刊となりますが、一年後、「食・器二人展」の御案内が届いたら、ああ、あれのことね、と思い出してください。
元気いっぱいの自己宣言はとてもできそうにない。ぼくがメンバーになっている時々自動の公演が終ったばかり、山積みの反省材料を前にかなりヘ ビーな心境なのだ。今自己宣言文を書き始めたら逆効果間違いなし、止めにしてインタヴューでいくことにした。しかしいまさら編集委員の人にインタヴューし て下さいとはいえない。今日がこの原稿の締切日なのだ。で、妻の尾崎文さんにインタヴュアーをお願いした。
文 では月並みですが略歴から。
ぼく 一九四八年生まれ。現在に至る。
文 特筆すべきものなにもなしってことですか。現在は何してますか。
ぼく 時々自動で作・演出・出演をしてます。
文 時々自動って劇団じゃないんでしょう。
ぼく そう、劇団権力みたいなのがあるでしょう。それを行使して劇団を維持していくみた いな。そういうのいやでさ。で、劇団制じゃない。だけどこれにはなかなか厳しい面もありまして。
文 たとえば?
ぼく たとえばしょっちゅう稽古すっぽかす奴がいたとして、だけどそいつに対しては極め て個人的に怒るか嘆くかするしかないわけでさ(笑)。
文 どんな人がいるの。時々自動には。
ぼく いろんな人。編集者志望の人、映画撮りたい人、自分でも絵を描く絵のモデルさん、 オペラ歌手だった人、人材バンクみたいなところに登録してる人、俳優で食いたい人とかいろいろ。多い時で十四、五人、少ない時で、七、八人くらいかな。劇 団じゃないんでメンバーは流動的なわけ。でも基本メンバーみたいなのはなんとなく決まってきたみたい。ま、いまのとこ集団としてはうまく機能してるんじゃ ないかな。
文 ところで今回公演の「ニヤヒヤ」も前回の「生長する」も沈黙劇だったわけだけど、ど うして沈黙劇なの。
ぼく うーん、どうしてって聞かれても困るなあ。別に理由なんてないんだもん。沈黙劇を やろうって思いたつってことは、沈黙劇をこんな風にやろうとか、あんな風にやろうって思いついたことなわけで、何故っていう段階はぶっとんじゃってるわ け。沈黙劇に限らず何かやろうっていうのは、どんなふうにやろうってことだなぼくの場合。
文 わかった。じゃ、どんなふうにやりたかったの沈黙劇を。
ぼく 最初思ってたのはさ、登場人物たちが静かに動いてるわけ。歩いたり、止まったり、 寝そべったりものすごく単調なわけ、寝たくなっちゃうような感じ。と、突然音楽が始まるの。それはうただったり、インストだったりするんだけど、登場人物 たちの演奏なわけね。でそれが終るとまた単調な時間に戻って、またしばらくすると音楽が始まって、このくり返し。それが何時間も続くわけ。
文 わたし完全に寝ちゃうと思うな。
ぼく でも突然すげえ激しい音楽が鳴ったりしてすっとび起きちゃう(笑)。
文 だけど「ニヤヒヤ」はそれとは随分違う感じだったわね。
ぼく うん、「ニヤヒヤ」も「生長する」も沈黙と音楽である物語をつくり上げようってこ とだったからね。はじめのイメージとは全然違っちゃった。まあそれまでの時々自動ってどっちかっていうと物語を壊そう壊そうとしてたのね。お客さんはその 壊す手つきみたいなのを楽しんでたんじゃないかなって気がする。こちらの目論見としてはさ、壊しっぱなしってのじゃなくて、バラバラになったり、ねじ曲げ られたりした物語の断片が、お客さんの頭の中で勝手に組み合わされてもうひとつの別な物語を暗示するってとこまで考えてたんだけど、やっぱり破壊の手つき の方が際立っちゃったんだと思う。
文 で、ここらへんでひとつ物語をきちんとつくり上げてみるかなと……。
ぼく うーん、きちんとじゃないなあ。ことばがないからやっぱりきちんとはならないで しょ。ものすごくアバウトな感じの物語になる。でもそこが面白いんだよね。うまくいくと、時間的にも空間的にも信じられないような広がりを持ったものにな る。
文 で、「ニヤヒヤ」はうまくいったのかしら。
ぼく 見ててどうだった?
文 うーん、少なくとも信じられないような広がりを持ったものには見えなかった。
ぼく まずいなそれは……。
ここでお知らせ。時々自動は12月28日(月)午後7時から、吉祥寺のライブハウスMANDARA・・でコンサートを行います。料金はドリンク込みで二千 円。芝居はもちろん人形劇も紙芝居もあります。問い合せは982・4413(時々自動)
水牛ふたっつ 斉藤晴彦
毎月「水牛通信」が送られてくる。これを郵便受けの中に発見するのはいつだって夜中だ。夜中、酔眼、疲労眼、駄眼でもって帰って来て、なぜかま ず、郵便受けを覗くのが癖で、そんな時に、月に一度、マンション広告やらホテトル紹介広告やらの薄汚いビラなどに見え隠れしている薄茶色の大きめの封筒が 「水牛通信」だ。すぐその場で読むのが好きで、エレベーターに乗りながら読むのが好きで、机に向って読むのが嫌いで、風呂に入って読むのが好きで、トイレ に座って読むのが好きで、読み終わる頃は件の酔眼、疲労眼、駄眼は無力な眠眼となって平安になっておる次第だ。人間、五十年近くになって、長い間本を読む 根気というものが徐々になくなってきてしまっている昨今の小生にしては、それが「水牛通信」であっても読破するということはたいへんなことだし、努力がい る。「水牛通信」であってもというのは、内容のことではなくて、その薄さのことであるわけだけれども。小生の場合、これくらいの薄さの一冊が丁度良いとい うべきかも知れない。内容はないようで結構詰まっているし、ユーモアは勇猛果敢に大味ではなく地味にクスクスだし、知性はちいせえ本にしてはデッカイス ケール、といって大風呂敷ではないし、「水牛通信」を持ち運ぶのに別に風呂敷はいらないし、持ち運ぶといったような代物ではないし、吹けば飛ぶような歩み みたいだけど吹けば飛ばないし、王手飛車のように派手な驚きはないとして、時に桂馬三枚で詰めてしまうくやしがらせ方をちゃんと知っているし、シレっとし た顔をして知床旅情うたって嫌われそうで嫌われない適当なイヤミ、イジワル、イイユカゲン、イイアンバイ、イイジャナイカだし、イイチコよりは白波の方が 口に合うオーソドックスがバックボーンになっていて、バーボンをソーダで割って飲むなんて芸当ははずかしくてやらない都会育ちの都会嫌いといったウチワ、 ちがう、センスの持ち主いと多し、だ。いい年になっておるのだからいい年こいているぞとえらそうぶる呼吸をしてもいいのにと思うのに、えらそうぶるのは嫌 いみたい。はなしが「水牛通信」から「水牛通信」に寄り合う人々の方に移行しておる感じがある。「水牛通信」というよりかは「水牛」に寄り合う人々といっ た方がいい。ところで、「水牛」に寄り合う人々は水牛のように泥だらけではない。涎も垂らしていない。黙々ともしていない。熱帯性でもない。中には水牛の ようにまるで動かないでキョトンとしている人もいるが、その人はそうやって生きておるのだ。「水牛」に寄り合っている人々が寄り合うと、兎に角、よく喰 い、よく飲み、よく喋り、よく笑い、元気だ。いい年だから。多分、充足感というものが天性の資質として欠落しておるのだろう。だって、次から次へ元気だも の。で、元気の平、ちがう、源は、いい年しての押し、ちがう突っ張りだ。むかしの「水牛楽団」を聴いた時、そこに、大正琴がまじっていたのには目ポチに なってしまって声も表情もモノクロになって、ワラった。大正琴は、その昔、大正製薬提供のラジオ番組「銭形平治捕物帳」のドドミードミーファミララファ ファミミドミファファミドシーファファミドシーというテーマ音楽で有名で、つまり、これが、大正琴の小生知り得る最大の印象であり存在であったわけだか ら、「水牛楽団」でその音色を聴いた時すぐに大正製薬のことを思った。銭型平治役の滝沢修のいい声も思い出した。まさか「水牛楽団」がそんな過去のことを 思い出させるために大正琴を使用しておったわけではないだろうけれど、なんか、この楽器でもって、フィリピンやタイの音楽が演奏されるのを聴いていて、こ れらはじめて聴く音たちが、はじめてははじめてなんだけど、昔、大正製薬の提供で聴いた、ちがう、なにげなし、懐かしいような、そんな気になっておって、 それに「水牛楽団」のうたというのか、歌唱法というのか、これなども、軽いというか、下手というか、無欲というか、つまり、昔、こんなふうにうたったよう な、うたったんだこんなふうに、といった気分になって、それがいい気分になっておるわけだ。だから、「水牛楽団」のコンサートは、いわゆるコンサートにつ きもののあのノリというか高揚感といったようなものが全くなく、別に血が騒ぐわけでなし、叫びたくなるわけでなし、脱力して、平安になって、聴くというよ りは、なんというか、むしろ、いいものを読んでる時のあのいい気持に近い体験で水牛ナチュラルサウンドを読んで行くのだ。「水牛通信」は本であって本でな い音、「水牛楽団」は音であって音でない本。このナマイキな心刺しが子供の頭の中みたいでいつまでつづくのか。
小学校
我が家に小学校五年生の娘が居る。となりが学校なので1分前に出かけても間に合うという程近い。近いという利点はあるが、朝、目がさめないうちに、教室に 着いてしまうだろうし、帰りに道草も食いにくいという欠点もある。27〜28人、2クラス全員は友達である。我々の時代は50人、10クラス、もっとも、 ベビー・ブームであったが……。今は子供も少なくなっている上に、その学校は代々木にある。一般の住宅がだんだんと、減ってきているのだろう。来年入学す るのは30人位だという。あと何年かで廃校になるだろう。
住宅
代々木に越してきて10年になる。人数も5人になった。突然5人になったのなら、あっとおどろく、という感じがあるのだろうが、これが、だんだんふえてく るので始末が悪い。人がふえると、物がふえてくる。気がつくと物の中に人がうごめいているという状況が出来上っている。タンスの角に頭をぶつけないよう に、下にころがっている子供の頭をふみつぶさないようにと、これで結構気も体も使うのである。
料理
勤め人ではないので、仕事のない時は家に居ることが多い。子守りもするし料理もする。と言うと聞こえが良いが子供に遊んでもらって、食い物を作って遊んで いるだけである。したがって後片づけは絶対にしない。途中でなげだすのもたびたびである。しかし時間があれば、毎日でも料理をする。勿論買物もである。と りわけ、魚屋が大好きである。ハマチや鯛は例外であるが八百屋のキューリやトマトと違ってまだ、季節感もある。ヒラメやムツが出て来れば、ああ、冬。春は メバル、アジは夏がおいしい、スルメイカも良いなどと、楽しめるのである。
ここでひとつ、イカの料理を。
新鮮なスルメイカを一杯。足と胴とをはなす。この時ワタをこわさぬこと。胴の部分は、皮をむいて、糸づくりでも、刺身でもよし。残ったワタの部分は、必ず すみを取り、口の部分あたりで、足と切りはなす。足の部分を小さく切り、アルミ・ホイルに、ワタと一緒に包み、酒を少々振りかけ、オーブン・トースターで 15分程、熱を加えれば出来上り。イカの持っている塩気で充分なので、塩は加えない。必ず新鮮なスルメイカを使う、ということさえ守れば、どなたにも上手 に出来ること、うけあい。おためしを。
笛
フルートは、現在の金属製(主に銀、金、プラチナ)になってからはそれほど時代がたっていない(以前は木製)のと、ピッチが低く、昔の楽器は使いにくいの で、弦楽器のように、古くても良い楽器というものが少ない。たとえあっても、音程に問題があったり機能的な部分に問題があったりする。
ちょっと以前までの楽器は、その具合の悪い部分を少しずつ改良していって、出来上ったものである。改良はしていっても、問題は残るものである。しかしコン ピュータの進歩とともに、具合の悪い部分が一目瞭然、すべてわかってしまう。あとは穴の大きさ、間隔を修正すれば、すべて、正確な音程で演奏することがで き、音質のバラつきもなく、歌口(息を吹き込む穴)の大きさ、カットの仕方で、音量を大きくすることさえも不可能ではない。しかし出来上がった、音程の良 い、バランスの良い、大きな音の出る楽器で演奏してみても、何かもの足らない。機能的にはまったく問題はないのだが。
ドゥビィッシイの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートのソロの第一音は、フルートで最も不安定な音から始まる。
上質の絹ごし豆腐をあつかう要領で、ちょっと力が入れば、こわれてしまう。上手に口まで運んでくれば、最高の喉ごしを味わえるという、ドゥビィッシイ先生 も、えらい音から始めてくれたものだが、それがえも言われぬ雰囲気をかもしだすのである。しかし新しい楽器で吹くと、あまりにも安定しすぎている上に、妙 に立派になってしまうのである。このタイプの楽器は今や主流で、全管楽器に共通していることのようだ。時代と共に音楽も少しずつ何かが変わって行く。
出し物
「水牛通信」に連載されている「可不可」を読んだが、これがどのようなオペラになるのか、見当がつかない。独白はあるのか、歌は、何を吹けばよいの か……。まあ、いいか。学生時代に「可」と「不可」はたくさん練習してあるから。
宅配便の普及のおかげで、この頃産地直送便が流行している。雑誌などに載った記事やカタログを頼りに、はがきで注文をだしたり、直接電話をし たり、これがなかなか面白い。
怠け者の趣味であるから、とにかく美味しいものを食べることができるという一点が興味をつなぎとめ、少しばかりの情熱を傾けるサヤになっているのだろう。 最初は、丸元淑生の本「いま家庭料理を取り戻すには」で紹介されていたもやし研究会にはがきを出してカタログを送って貰う事から始まった。うすぺらい注文 書と料金表が送られ、それを見て、アルファルファ、キャベツ、ラディッシュの種と砂糖などが添加されていない100%のピーナツバターなどを購入した。
少年の頃、やり残した宿題があるかのように。或いは、買いそびれたラジコン飛行機の通販カタログを眺めた時の思いのように、トラックを待つぼくのこころは 熱く、荷物のダンボールが到着すると、待ってましたとばかりに梱包を説いた。
また、もやし研究会では、ざるを使った栽培法を推奨しているため、ざる、簡易温室用のポリビニールなど、送付された物は、まるで理科の実験セットのようで あり、少年的こころを満足させるに十分なものだった。
しかし、やることは地味である。種を一昼夜水に浸し、翌日それをざるにあけて、朝晩、種をリンスする。そうすると、一日か二日で産毛のように生えてきて、 四日もすれば、アルファルファやラディシュシュを食べることができるのである。
もやしであるから食すには嫌いな向きもあるが、慣れれば、これは立派な野菜の刺身であり、活き造りなのである。新鮮で栄養も見事なバランスなのだそうだ。
ぼくは、芽がミリ単位で生え始めた時、うれしさと生き物として植物の奇妙さに全身が痒くなった。それでも少し伸びたら、すぐに試食をしたのだから、感覚よ りも食欲という自分に驚くというか……。
こういう楽しみを知っていたせいで、その後もいろんなものを取り寄せてみた。ひとつは北海道のじゃがいも。返事をはがきで貰い、「遠く熱海からありがと う。でんぷんが豊富で味噌汁に入れるととろけるようです」と手書きで書いてあり、思わず、舌の奥のほうから涎が滲んできて、すぐに十キロ注文。ベイクドポ テトにして皮ごと食べる。
それから、青森のりんご。これは半年の契約をした。毎月四十個送ってくれる。第一回目はスターキング。もぎたてで身がぐっとひきしまっている。無農薬だか ら皮も遠慮なしに、歯から血を出しながら食べることができる。
新潟から星野正夫さんがつくった味噌も取り寄せた。二年ものの赤味噌で塩がよくなじんで、濃くしすぎても塩辛くない。豆の匂いがするかのようなうれしい味 噌である。中にちょうど水牛通信ならぬ味噌通信のようなものが入っていて、星野さんが十二年前に味噌つくりをはじめた時のことやずっと赤字だったことなど が載っている。
地元静岡からは、醤油を取り寄せた。電話をすると、むこうのおじさんであろう人物が、とてもていねいに、慣れた様子もなく、購入方法を教えてくれた。
「高くついてしまいますが、クロネコとかで送りますか」
「ええ、そうしてください」
「一応、郵便振込用紙を同封しますが使いきってからでいいですから」
「はい」
「お口に合わなければいいですから」
なにやら腰は低いが、随分と自信に満ちあふれた醤油屋であった。それも国産の無農薬大豆だけを使ってたっぷり時間をかけて醸造した人のみが、言える言葉な のだろう。
さて、こんな宅配便ごっこをはじめて、いちばん喜んだのは、母である。食費が部分的に助かるからである。主婦たるものスーパーにでも行けば、当然経済から 考えて、安い商品に手がいくわけで、ぼくのようにあたかも自然派のちょっと高めの買物はしないだろう。
夕暮れの街並に宅配のトラックが走っていく。近い将来、宅配の演劇も登場するかもしれない。その日に備えて、じっくり調べた宅配メニューで栄養と健康を貯 えておかねばならない。なにしろ、役者は体力である。
これからはじまる室内オペラ「可不可」で、若い男の役で走り廻るのだから……。
だが、稽古場は東京。きっと、家にはなかなか帰れないだろう。そう思うと、家で待ち、水をあたえ、栽培する趣味を手に入れた事は、実に不幸な事と言わねば ならない。
なんというか、その腹減りました。
某日 鎌田さんからまた、原稿催促の電話があった。遅くなってごめんね。
某日 今日も悠治と電話で小ぜり合っていたら夕方になった。
某日 津野海太郎さんから電話がかかった。「吉祥寺某所で××子さんと一緒に飲んでいます。出てきませんか」
今夜はフルーティストが来ていて練習中です。終了したらもう遅く、ひどくつかれて、ちょっとだめとなっていた。残念ですが、みなさんによろしくと電話した ら、えっ、他に人なんていませんよ、僕だけです、と言われた。さっきいた人はどこに蒸発したのだろうか。
某日 新宿シアター・モリエールで、〈飛行船日誌〉第一回目のコンサート。大半は自分の曲。86年と87年に書いたもの。ドラムスがロック、フュージョン の山木秀夫さん、フルートがミュンヘンから帰ったばかり、新婚早々の中山早苗さん。雨が降っていたがお客さんがたくさん入ってよかった。
某日 山の中のホールでCDの録音をした。裏の〈ニコニコ食堂〉(仮名)で焼めしを注文し、サジで一口すくうと、ジャリッと味の素の音がした。同じく玉 じゃくしいっぱいの味の素の中に鳥が浮かんでいるという親子丼を食べさせられ苦境に陥った人もいた。日本の前近代性からの懸命なる脱却としての味の素につ いて考察した昼食。
注。このCD〈ウェストサイド物語〉は十一月末にコロンビアから発売される。前記山中早苗さんのデビューアルバム。手伝いは三宅榛名。
某日 ミキサーの進平さんと赤坂で会い、映画音楽の打ち合わせをした。映画は夢野九作原作、松本俊夫監督〈ドグラ・マグラ〉。
某日 四月からNHK・FM番組のインタヴュアーをしている。むかし高校で学校放送のアナウンサーなどしていたのだ。気の晴れる仕事。今日は中村富十郎さ んにお会いし、ご推薦の映画音楽〈荒野の決闘〉を聴いた。歌舞伎役者をはじめて面前にし、歌舞伎役者とは、ダイナミックに元気なものだと思った。タイトル は〈世界音楽めぐり〉毎日曜日の夜十時から。
某日 デイヴィッド・バーマンがニューヨークから日本に来て三か月くらいいる。横浜にクリスチャン・ウォルフを聴きに行ったら会った。古い家の大きな部屋 を借りたときいたので地図を見せてもらったら、うちのすぐ先、そこの郵便局の角をまがり、お寺の横を入った家だった。はるばる一緒に帰った。十円のコピー の店、寿司屋、地下鉄の食品マーケット街、がこの日のガイド・リスト。
バーマンは、コンピューターで作曲をしている人です。
某日 仕事でおそくなり、あわてて夕食の買物に行った。店じまいのはじまっているマーケットで、一切百五十円の平目の切身を四つ買おうとしたら、大きな六 切全部、六百円でいいから持って行きなとお兄さんが袋にほうり込んだ。ほんと、もらいすぎたなあと思って帰ったが、粉をまぶしてバタ焼きにしたらすごくお いしくて、残した人はいなかった。
某日 武満徹さんに会いみんなで〈西洋乞食〉、失礼、〈西洋銀座〉でお酒を飲んだ。私はジンジャーエールでした。
この日悠治は「西洋乞食」を「ウェスターン・ベガー」と訳していたけれど、同席のノルウェーのナンバー・ワン作曲家おじさんは今ひとつ、判然としない顔付 きをした。何かおかしいかね、ヨーロッパにいるベガーは、だいたいウェスターン・ベガーだがね。
某日 作曲家のデイヴィッド・D・Tがニューヨーク・フィルと一緒にやって来るという。
D・D・Tの作品はことによったら十数年、ひとつも聴いていないと気づいた。この人のように近い友だちであれ、誰であれ、同業者の新作はほとんど聴かない という仕事の仕方をしていた何年間があった。
某日 義妹と映画〈悪の華〉を観た。みているあいだ中、ワクワク楽しかった。お茶を飲みながら今日はなかなかのあたりだったと言いあった。帰りつく頃には 何を観たか忘れた。
某日 鎌田さんからまた催促の電話があった。
もう下書きは書けています、明日清書書きして五枚、耳をそろえておわたししますと自信をもって答えた。清書をしてみたら四枚半しかなかった。ごめんね鎌田 さん。
黒テントは、十、十一の二か月、「逆光線玉葱」(どういう意味だ!)という芝居をもって、関西、中国、四国、九州の二十四都市、二十六ステー ジの旅に出ました。「逆光線玉葱」はエンツェンスベルガーというドイツの詩人の書いた「タイタニック沈没」という詩集をもとに、佐藤信が台本を書いて演出 した芝居です。これは、その旅日記。
11月1日。ムラマツさん徳島着。徳島大学医学部の学園祭で公演。ムラマツさんは、サトウさんと入れかわりで、毎日芝居を観てダメを出したり、はげました りするため来ました。それとスイジ班、つまり食事を作るかかりでもあります。テントの旅は、すべての仕事を、参加しているすべての人間に平等に分担して やっていく。生別、年齢、国籍、すべて関係なし。とはいっても、個々の体力の差はどうしてもあるわけで、ムラマツさんは、軽い仕事のかかわりになってい る。スイジ班が軽い仕事だというのではありませんが。
六時四十分、定刻十分おくれで開演。観客三百十名ほど。ほとんど若い学生。なかにはぽつぽつと年配の男の客がいる。黒テントはこういう客がわりと多いので す。どういう人たちなのでしょうか。終演後、飯を食いながらの交流会で、その客の一人である、六十すぎの白髪のおじさんは「たった一人の息子が赤軍派に 入って、国際手配になっているのですが、まあこれは私とは何の関係もない、と思ってます。で、私もこの年になってブレヒトを読みはじめました。今日は芝居 のタイトルがなんとなく気になって来ました。むずかしいけれどとても面白かったです」とあいさつしていました。
テントをばらして、すべての道具類をテントにつんで、作業終了。十二時三十分。宿舎に行く。学園祭関係者のマンションが今夜の宿舎。ムラマツさんは宿舎に つくとすぐ貸しブトンにもぐりこんで寝てしまう。若い人たちは四時ごろまでオルグの人たちと酒を飲んで話しこんでいたようです。ムラマツさんの右どなりで 寝ているのは、今回の旅のメンバーのなかでは二番目に若いミョウチンさん。ちなみにいちばん若いのはフジサワさん、二十才。ムラマツさんとは四半世紀以上 の年齢差があります。左どなりはヨコタさん。もとギニア大使館秘書官。ちょっと年増。もちろん二人とも女性ですよ。テントの旅はすべてざこ寝。どうだ、う らやましいだろ。
11月5日、6日。大阪。十七年前の最初のテント公演で、大阪城公園内の、「教育ナントカの塔」に「革命のなかの革命のなかの革命!」なんてカゲキなスラ イドを写して以来お出入り禁止だった大阪城公園が、どういうわけかかりられて、今回は「太陽の広場」という大きな広場で、おだやかに、もめごとなく、二日 で二ステージの公演。イトカワさんという、最初の黒テント公演のときのオルグでカメラマンでもある人が久しぶりにあらわれて「久しぶりに観て感動しまし た。黒テントはぼくの青春だったんだと思います。芝居も十七年前とまったく変わっていません。実にキゼンとしていました」と目をうるませている。ムラマツ さんは内心ギョッとした。キゼンとしている、というのはいい。しかし十七年前とまったく変わっていません、というのはどう考えたらいいものか。ちなみに、 黒テントとその芝居を写した写真のなかでは、いまだに糸川さんの写真がいちばんいい、とムラマツさんは思っています。観客数、二回で三百四十。おい、 ちょっと少ないぜ!
11月7、8日。京都。いろんな人が来る。ヤマモトゲンさんが来る、フィリピンからペタのソクシーが来る、マコトが来る、インドネシアのナントカという劇 団のカントカという人が来る。千客万来。去っていく人もいる。二週間ほど我々に同行してスイジ班をやってくれた、カナダ系韓国人の若い女の子キム・キョン エイが日本をはなれていくために去る。日本語のまったくわからないキョンエイは、みんなのインチキ英語につきあいながら、毎日泥だらけになって黙々と働 き、しかもユーモアを忘れず、みんなの飯をつくってくれました。ありがとう。小さなズックのカバンをみんなでプレゼント。そのカバンをだきしめてキョンエ イは泣いています。私のカナダの住所を書いてスイジ車のレイゾウコの扉にはっておきます。カナダに来たらたずねて下さい、といってキョンエイは去ってい く。マコトがカーテンコールのあいさつでおそろしいことを言っていました。「もう頭がうすくなったり白くなった役者たちがうちにはいます。そういう役者た ちが七十をすぎて、テントの中をうろうろするような無気味な芝居をやりたい、それまで続けるつもりです」だと。いいじゃないの、面白いじゃないの、やって みましょう。観客数、二回で四百九十。もうひといきだったね。
もしものこと
もしもあなたがとなりのおばさんのおなかへはいったらどうしますか。ほねにのぼってあそぶかしら。「そんなことはしないよ」っていう人はどうしますか。か んがえてごらんなさい。
もしもおかあさんがあなたのおなかのなかにはいったらあなたはどうしますか。「もうすぐうまれるからいい」なんていってたらこまりますよ。
ほねの木はわな
ある日よっちゃんが女の人のおなかへはいってしまいました。その女の人の名前はミカていうんです。よっちゃんは「またあかちゃんにもどるのか」と思ってい たんです。けれどもそうじゃありません。ただはいってしまって、またもどって来るんです。中には木がありました。それは、ほねです。小人たちが走って来ま した。すると……。一人の小人が木にようふくをひっかけてしまいました。よっちゃんは、すぐたすけようとしましたが、よっちゃんもひっかかってしまいまし た。はんたいに小人たちにたすけられました。そして小人たちといっしょにあそびました。よっちゃんは、きっとたのしかったでしょうね。でもみなさんもして みたいと思っておかあさんのおなかへむりにおさなかったらつぎのお話を読みましょう。
広場の川ではたらく人1
小人たちにおしえられて、広場へ行きました。「広場ってなあに」って聞くひとがいるわね。それはね。いの中なのよ。よっちゃんはびっくりしてしまいまし た。すぐにそこに川があったからです。よっちゃんは、のどがかわいていたのでいそいで走って行きました。すると……。小人がとめました。どうしてかしら。 それは、小人たちでは赤いちをのむのです。そして小人が「のどがかわいたんだね。それじゃあのみ水のあるところへつれて行ってあげよう」といってつれて来 てくれました。「さあこれをのみなさい」よっちゃんはびっくりしてひっくりかえってしまいました。それはのみ水が赤かったからです。この本を読んでトマト ジュースをこぼしたりしなければつぎはアイスクリームのお話になるのです。
広場の川ではたらく人2
よっちゃんは、しかたなく赤いちをのみました。ところがとってもおいしいのです。よっちゃんは「そとの水よりおいしいや」と思っていました。あじはつめた いアイスクリームのようなのです。みなさんものみたいでしょう。のめますとも。それはアイスクリームを買ってとかせばいいのです。ただししおをいれたコー ヒーをのませるためにもってこないとやくそくすればね。そしたらつぎのお話にすすめられるし、いま話したアイスクリームがのめますよ。
ゆびのうち、ホテル
よっちゃんはまだちをのんでいます。すると……。小人が大ぜいやって来ました。それはね。今日はホテルのけんをうる日なんです。よっちゃんもならびまし た。うまいぐあいによっちゃんまでへやがあいていました。へやは5へやです。それはゆびだからです。もう5本はふつうのうちです。どのへやにも、どのうち にもおくにたらいがあります。それはおふろのわりです。えっ「水がでない」ってあのね。こびとは水のないおふろにはいるのです。おかしいでしょう。やっぱ りおなかの中と、そととではちがいますね。よっちゃんは小人のボーイさんにおしえられておふろにはいりました。このあとよっちゃんはどうなったかしりたい でしょう。お話しますとも ただしまほうつかいになって本を上に上げたりわたしがすわっているいすの上にあなたがすわったりわたしの手ぶくろをとったりは さみでかみのけをきったりしなければつぎのお話を読んであげましょう。
よっちゃんにとってはつまらない
よっちゃんは、小人のボーイさんにききました。「ボーイさんおふろの水は」するとボーイさんは「?……。きみは知らないのかね」「なにが」「水なんかいら ないのに」そのつぎのあさになりました。そしてまたボーイさんにききました。「レストランへつれて行ってくれない」「レストラン?」「どうしたのボーイさ ん」「レストランなんかないよ」「じゃあアイスクリームやさんは」「ないよ」「じゃあプールは」「ないよ」「じゃあどうぶつえんは」「ないよ」「じゃあ しょくぶつえんは」「ないよ」「つまらないよう」あんなにおおきなところがあるのにどうしてなにもないのでしょう。こんど小人のかいぎがあります。よっ ちゃんは行きました。そして手をあげました。そしてあたりました。よっちゃんはいいました。「ホテルにプール、どうぶつえん、レストラン、アイスクリーム やさん、しょくぶつえんを作ってほしいです」と思いっきりいいました。すると……。一人、二人、三人、…………50人。なんと50人もさんせいしました。 手をあげていない人はたった一人でした。そしてとうとう作りあげました。ゴミはどうなるかおしえてほしかったらいますぐ読んであげましょう。
ゴミはどうなるの?
外とおなかの中ではちがうのでゴミも外とおなかの中はちがうのです。ですから、おなかの中のゴミは、いろいろな色の水なのです。けれどもわたしたちがする ようにポリバケツみたいなものにいれてドアのところにまとめておくのです。ところで、そのゴミはどこへいくのでしょう。やっぱりゴミやさんがもっていくの です。でもゴミやさんはどこへもっていくのでしょう? きたない話ですけどゴミは、わたしたちのおしっこやうんちになるのです。よっちゃんはこのあいだゴ ミをすてているところをみましたよ。さてもうゴールちかくになりましたよ。
もうすぐ子どもがうまれるよ
もうすぐたのしい日がきます。おいわいのよういをよっちゃんもてつだいました。たのしい日というのはだれかがミカの子になるのです。それは男でも女でもい けるのです。でもよっちゃんはさんかしませんでした。それはなぜかって、よっちゃんには、ママもパパもいるんですもの。でもよっちゃんは、おきゃくさまと してよばれました。よっちゃんはケーキがたべられてとてもたのしかったでしょうね。
さてだれがえらばれたでしょうね。それは、女の子でした。その子はもう、うれしくてうれしくて、とびあがりました。よっちゃんにもだきつきました。そして つぎの日その女の子はみんなとおわかれしてきしゃにのりました。そしてきしゃはおなかの中からきえていきました。するととりのなきごえがきこえてきまし た。みるとよっちゃんはベッドの上にいました。それはゆめだったのです。でも、ミカに子どもができたことはほんとうでした。
あとがき
この話はうそだという人が多いですね。わたしもうそだうそだと思いながらかきました。でもこの話はほんとうかもしれません。みなさんもほんとうだと思って くださいいつかほんとうになるかもしれないから。(8才〜9才の頃の作)
近頃、好むと好まざるに関わらず、だんだん母親に似てきたような気がしている。姿、形、声(電話でよく間違えれられる)はさることながら、な んと性格がである。母は元来、引っ込み思案で堅真面目、努力家、バカ正直。そういう私は怠惰、面倒臭がり屋、目立つの大好き人間(あまり良いところないな あ)と、ハチャメチャである。ところが、3才の息子を叱っている時にふと思ったのが、どこかで聞いたようなセリフだと思ったら、かつて私が母に叱られた時 と同じセリフをくり返しているではないか! そういった事が度重なり、意外や意外、自分にもバカ正直で、引っ込み思案(この私が!)の部分が大いにあるこ とに気づいてしまったのである。少しずつ私も母の路線に近づきつつあるのかと思うと、うれしいような、物悲しいような複雑な気分である。
母はモヤシの“ひげ”を丹念に取ってから料理する。一袋のモヤシに費やす時間は約30分。昔は時間の無駄使いとあざ笑っていた私も、なんと最近はひげを取 らなくては気色悪くてモヤシを食べられなくなった。もち論数段味は良くなるが、まさかこんなことまで似てくるなんて……。そして時には母娘並んで座り、明 朝食べるモヤシのひげをせっせと取っている今日この頃である。
編集後記
「可不可」のベッドシーンは、あのグレゴール・ザムザが、突然、身動きできなくなったのと違って、とてもエネルギッシュだ。それでも、どこか死の影が漂っ ている。
ベッドに横たわっていると、夜半、隣の患者が、「アッ」と短い叫びをあげて息をひきとる。カフカの世界ではなく、目黒区の国立第二病院での現実の話であ る。おそらく、そこはきわめて非現実的な世界だったのであろう。死刑執行人や囚人や断食行者などが、部屋を出たり入ったりする。病院の食堂で待っていると 高橋悠治は、縞模様のパジャマ姿ですがたをあらわしたのだった。今私は、前歯を二本欠いただけで、すっかり老いこんでしまい、暗い洞窟のようなひんまがっ た口から吐き出される息を気にしている。たった二本だけなのだが、土手の前にならんでいた家が洪水で流出してしまったような荒涼感にはさからいようがな い。
それにひきかえ、同室者が三人、死体となってかつぎだされるのを目撃していた高橋悠治は、悠然と「可不可」を書きあげ、役者を集めて芝居をつくった。三人 と二本、それだけの違いでしかないが、歯医者はやはりカフカ的なテーマにはなりえない。
断食行者のせっかくの労働も、ついには誰からも見向きもされなくなって、彼は息をひきとる。死体は一くれの藁束とともに片付けられる。拍手さえされなく なったそんざいについてカフカは書いている。私の「可不可」への不満は日がな一日、ブランコの上で暮らす曲芸師が登場しないことである。本願寺の講堂の上 から、ブランコが長い影をひいているのを私は幻視しているのだが……。カフカの日記一九一二年六月六日。「体重もなく、骨もなく、肉体もなく、二時間、通 りから通りを歩きながら、ぼくは午後、書いている時に告白したことを篤と考えてみる」(鎌田慧)