1993年西潟昭子によって初演。この作品には作曲者自身の解説は残されていない。音楽としてここに提示されているものをながめてみよう。
まず、テクストは平安のトリックスター在原業平、あるいは昔男の一生を描く「伊勢物語」のなかでも最重要なエピソードのひとつ、六十九段。
勅命により諸国をめぐって野鳥を狩るという狩の使となって伊勢に滞在する業平は、前の天皇の娘、神に仕える清浄身であるべき斉宮を誘い出し、一夜をともにするが、再会はならず、思いを残して去る。
女の歌、「君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」、その返し、「かきくらす心のやみにまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ」 (古今集巻13、ただしそこでは今宵は世人となっている)。女の上句、「かち人の渡れどぬれぬえにしあれば」、男の継句「また逢坂の関はこえなむ」(古今 六帖その五)。これらの由来を歌物語にしたてたもの。
過激な色事(いちはやきみやび)によって秩序を攪乱する昔男の物語は、当初から愛読されたというが、ことばにはできない禁忌をあつかうため、全体が夢のようにぼかされている。
曲は古典的箏曲の前歌、手事、後歌のかたちをとるが、三絃は、歌の骨格をささえるのではなく、声と対話する第二声部として書かれている。声は歌、朗唱、 語りをつかいわけ、ほぼ伝統的なメロディーのうごきに添っているが、急激な転調や、幅広い音程の跳躍、音域変化をふくむ。三絃は、とくに男の部分では、蛇 行する半音進行や、撥で擦る、左手指で打つなどの手法で、ひかえめな逸脱が見られる。無拍である主部に対して、中間の手事部分は、冒頭の「その男伊勢の国 に狩の使にいきけるに」の歌のメロディーによる4拍子7段の変奏曲(スペイン風にはディフェレンシアス)で、バロック風装飾音、古典派的動機作法から、し だいに半音進行を加え、演奏者の即興をふくむ現代様式までの西洋近代音楽史を展望する。
曲の最後に、斉宮恬子の系譜がささやくように語られる。
テクストの意図的なあいまいさが、後世にさまざまな解釈を招いたように、この音楽も多義的なメタミュージックであり、伝統と現代、東洋と西洋、歌と語 り、さらに語られるものと語られないもの、秩序侵犯についての男と女の視点のちがいなどの諸要素は、対立というよりは、二重写しのように共存している。(フォンテックCD「柴田南雄と日本の楽器」FOCD3479のために)
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