哲学をうたがう非詩(2002)
高橋悠治


          アリストテレスは マケドニアのアレクサンドロスの師だった
    普遍の論理を確立した アリストテレス哲学
            世界帝国を夢見て 東方征服にのりだした アレクサンドロスの軍隊
     おなじものはおなじであり ちがうものはおなじではなく
  おなじであるか ちがうかしか ありえないとき
   結論はなんだろう
殺せ
            と これだ
       帝国かテロルか どちらかを選べ と言われて
  選ぶことから 身を引くことが どうしてできるだろう

        ペルシャ帝国の軍隊が
      帝国のはずれにできた都市の 人民軍に敗北したとき
    ソクラテスとプラトンの 対話の哲学が生まれた
           定義をくつがえし 対話のなかで問いを深めていく 未完の探求

     それまでの哲学は 自然を問題にしていた
          ピュタゴラス教団も デモクリトスの原子論も
   エジプトの祭司たちの思想からは 自由になれなかった
        宇宙の神秘 天の法則である 運命の車輪のめぐりを知るものたちが
            王国の暦と儀礼をつかさどる

          王国のくびきがはずれた 束の間の自由な時代には
天の隠された意志ではなく 人間のよるべなさが問われる
    道の上で あるいは市場での問答
            ソクラテスと同時代に
   ブッダも孔子も 道の上にいた
        道を説くかれらが やがて人に踏まれる道そのものになった
      対話篇 経典 語録
    それらは ある時かわされたことばの記憶
くりかえされ 暗誦され 書きとめられる
   それらのリズムは 香のように身体にしみこみ
         ことばの響は 歩み出す足のしたに 道となって敷かれる

       世界史の休日とも言えるような 短い時期
   過去はすでになく 未来はまだ来ない
     青空の下の 解放された広場
 だが アリストテレスの時代には
            自由都市は 水面下に沈みかかり
         逆巻く帝国の波また波が 領土を敷き慣らし 押し広げていく

 庭園にひきこもったエピクロスのてがみ
            自由思想の 落日のきらめき
         人間世界には無関心な 幸福にひたる神々
      決められた軌道からの 偶然のわずかな逸脱が創造する
多彩な宇宙 じつは帝国の悲惨
 だが それらはたとえにすぎない
            戦乱の世界のなかで 苦しみのない生を道とする 友情の共同体
ローマ帝国のなかで 権力からできるかぎり遠ざかりながら
 無名のなかに 流転し 消えていった 教団のすえ

           アリストテレスの哲学は対話ではなく 講義だった
それ以来 すべての哲学は 教壇の上から語る
         あらゆる場合に おなじ意味をもち
   どんな相手にも おなじ言い回しがつかわれる
     市場でとびかう さぐることば 交渉することばではなく
  税のように 必然をとりたてることば
    反論のすきがない 権威をもって語ることば

         それでも 論があればかならず 予想されなかった反論がある
        じっさい 反論が可能だから 論がありうると言えるのだろう
どんな権威でも うたがわれる時は やがて来る
  だが 権威を批判することばだって 自由ではない
 あたらしい権威への期待で 内側からふくれあがったことばだ

    時間のなかにあることば
            時代を反映し 時代に制約されているだけでなく
        権力が社会を引き裂くのとおなじように
  哲学者自身も その哲学を生きることはもうできない ということ
          哲学する時間と 哲学とかかわりのない日常の時間に
身を裂きながら生きていくよりない ということ

    帝国の波また波に乗って 哲学史もあった
   生きる人ではなく 考える人でもなく
  ひたすら書く人になった 哲学者たち
書かれたことばについて書かれる ことば
          抽象され 現実から舞い上がっていく ことば にもかかわらず
  哲学の根と現実との 不透明な関係
    普遍 超越 カテゴリー 意志 自由というような
           ことばだけになってしまった 心のプロセスが
      帝国の中心地で語られ 分析され 統合され
         論理や意志を まるで機械の部品のように嵌め込まれた 主体が
           将棋盤のように区切られた 時空世界に ちりばめられた対象を
普遍法則にしたがって操作する 自由を
        まるで 目に見える設計図のように 描きだしているあいだに
 徴兵制 覇権国家 植民地の人口調査 領土の配分と再配分が
            世界地図の空白を埋めていった

       それから 読みなおす人々の 哲学が来た
      ヘーゲルを読みかえる マルクス
 ソクラテス以前の運命の哲学を読みかえす ニーチェ
       ドイツ語をモデルに 古代ギリシャ語を解体しながら
   語源学にふける ハイデッガー
 転倒された弁証法
  回帰する時間 超ヨーロッパ的権力意志
     運命と故郷
          ことばについてのことばを批判するのも また ことば
     ことばが夢見る うつくしい夢
           それらの夢のあとに のこされた戦争と収容所

前近代 近代 脱近代
  ユーラシア大陸の西北に 歴史の闇からあらわれた狂風
      不和の種を蒔く文明の鬼子たちが 相争い 獲物を争って
   地上を転げまわった 数世紀の荒廃のあとで
いまだに文明の名で世界を侵略し 破壊する啓蒙主義
   グローバリゼーション 自由貿易 IMF 経済制裁 報復空爆
      世界の他の地域は 近代化をいまだに強いられている
            そして哲学者たちは 大学の門のなかで まだ
           スピノザ カント ヘーゲル マルクスを
         読みかえし 読みなおし 批判し 再批判している
  何回もあたためなおし 底のほうがどろどろになった スープのように

舌も ヨーロッパしか語らない

(批評空間第III期第3号)



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