杉本拓の『楽譜と解説』(サボテン書房2018)を読みながら 高橋悠治
杉本拓に一度会ったことがあると思う 数人の即興の場だった 30分ほど続いたセッションで 3回ほど音を出していた どんな音だったか思い出せない
『楽譜と解説』を読んでおどろいた 作品がこんなに多く そのなかで響くわずかな音をめぐって こんなにたくさん書くことがあるとは思っていなかった 演奏のたびにその時の演奏者にあてて作曲する と言えば それはあたりまえかもしれない 一度演奏されたものは また演奏することもできる
2002年から2016年までの40曲以上が この本では年代順にならんでいる どの曲も 長い沈黙と短い単音だけ たまに同時に二つの音 まれには長い音 楽器ごとに使う音の表と それらによる短い旋律の一覧がある 演奏者はころ合いをはかって 次の音を入れていく それぞれの判断で決まる全体の音の順序は予測はできないが どんな音も場違いには響かない 「発展」はないが 全体の音風景はうごかない 演奏者の個性は消えても この空間には顔がある
それを構造と言ってもいいだろうか
作品以前は 1985年サイカデリック・ロックからはじまった即興の年月があった 即興がパターンをつくり パターンが「発展」すれば その全体をどこかでまとめるか パターンの内側にすき間を作って散らすか 二つの方向ができる どちらにしても 即興だけでは終わらず 「作曲」が必要になるだろう
作曲法は時間がたつと変わる はじめは じゅうぶんに長い時間枠のなかに一つの音を置くだけでよかった 枠を秒数や拍で数えることに気をとられないで 枠の内側のまばらな音のほうに興味が移ってくると ギターを爪弾く小さな音だけでは終わらず もっと薄いハーモニクスに惹かれ 微かな音の倍音差を追って 数の比による音律の表現に向かう
音律は 楽器のほどよい調律への好みで 文化によってさまざまだった 好みを経験の歴史から切り離して 数の比に根拠があるように言うのは 音楽家ではなく 哲学者や理論家で インドやペルシャの「音階」分析には 古代ギリシャやアラブ哲学に由来する西洋の考えかたが まだあるようだ
楽器や声のフレーズのパターンは 口伝えに また手から手に伝えられ 使われる音程を測っても 毎回おなじにはならない 音は点のような位置ではなく 領域と言ったほうがいいほどの幅があることもある
杉本拓のギターの音律は 響きのてがかりかもしれない 物理的・哲学的な根拠よりは 口実と言ってもいいだろう 音律の実験は ストイックな姿勢に見えるが 一音づつ準備し 音を出して聴いてみるのは フレットのある楽器で
音律と言っても おそらくはいいかげんで そこが音楽的と言ってもいい 弦楽器の複数の開放弦のそれぞれの倍音に基づいて比をつくるのは 他の作曲家とはちがって 現場のやりかたに思える
こうして読んでいくと 音楽の現場から離れていきそうだ 音律の意識が出てくるのは 2007年よりあとらしいが そこから遡って それまでや それからの活動を一本の直線のように見るのは 正しくはないだろう
本の解説だけでなく 杉本拓の演奏は YouTubeやUbuWebでいくつも聴くことができる ギターの即興もあり 二人から六人までの合奏もあり 実験音楽とは区別しているらしい「さりとて」の歌や Songs のシリーズがあり バンド「下北沢ファンクションズ」の演奏や 映画「Village on the Village」 のテーマも聞ける 楽器演奏は 数や音律で制約されるが 人間の声は うたっていることばの意味に流されず すき間を空け 楽器のピッチでガイドをつけても どこかはみだしてしまう そこから振り返ると 実験音楽も 失われた「わらべうた」をさがしている音楽のように聞こえてくる