だれ、どこ 1-11
ひさしぶりに鎌倉の吉田秀和さんを訪ねて、自伝を書かないのかと訊かれた。いまは日本の 外で日本の音楽家たちについて知りたい人たちも出てきた、 日本語を読める研究者たちもいる。でも武満のほかにあまり資料がない。そうかもしれない。これから書こうとしているのは、でもそのためではない。
いままでは個人的なことを書かないようにしてきた。記録もとっておかなかった。いま薄れ ていく記憶が失われないうちに、いくつか書き留めておいて もいいかもしれない、音楽について語り合った人たちのことを、いまはもうない場所のことを。そこであったことと、いま思い出される姿のあいだに は、時間が「反省」の薄膜をかけている。くりかえし書いたこともある。それでも思い出すたびに、ちがうかたちで現れる。
最後に会ったときは、病気で5分前の記憶もなかった。作曲はもうできない。新しい友だち の顔もわからない。それでも古い仲間はおぼえている。 「1950年代にひとつの音のイメージが浮かんだ。それまできいたことのない響きだった それから40年間それによって作曲をつづけた。でもいま それは終わっている。なにかちがうものが顕れようとするのを感じる。」
その後、パリに電話をした。「しごとをしているか? こちらもだ。」作曲はもうしていない。立つ、歩く、座る。自分の作品が演奏されてもわからな い。それでも良い演奏はわかったらしい。壁にきみの写真がかかっている、とだれかに言われた。
臨終に立ち会った知り合いからメールをもらったが読まず捨てた。最後の数日間を書いた小説ももらったが、読まずにだれかにあげた。
むかしパリのアパートに居候していた時、テレビでその1年前に亡くなったヘルマン・シェルヘンの追悼番組をやっていた。ドアがあいてクセナキスが 帰ってきた。画面をちらりと見ると、だまって寝室に入った。
シェルヘンが亡くなるすこし前クセナキスの「テッレテクトール」を指揮するのを見る。指揮者が中央にいて、オーケストラが聴衆といっしょに客席一 面にひろがっている。シェルヘンは小さなメモを手にして八方に向きを変えながら演奏者に合図を送る。
『ピソプラクタ』はシェルヘンが初演した。不規則にばらまかれた音の雨がしずまると、長く伸びる響きを背景に不規則に打つ音が聞こえる。それは冬 のパリでゆるんだ蛇口から滴る水のリズムから思いついたらしい。題名の「ピソ」は確率的、「プラクタ」は行動の意味。
西ベルリンにいた頃、シェルヘンがシェーンベルクの「オーケストラのための5つの小曲」 を指揮するのを見る。指揮棒をもたず、前に置いたスコアも 見ない。かすかな身振りにつれて響きが目覚めて立ち上がる。演奏の後クセナキスといっしょに楽屋に行く。小さなピアノで何か弾くように言われ、 シェーンベルクのピアノの小曲を弾くと、シェルヘンが言う。「この正確さ、これでプロイセンは世界を征服したんだ。しかし……」夏にイスキア島に くるよう誘われたが、行くカネがない。
パリの古いアパートは歓楽街のはずれにあった。屋根裏に泊まったが、それはクセナキスがパリに来た時最初にいた部屋だ。ベッドしかなく小さな窓か ら夜空が見える。部屋の外に共同便所がある。
西ベルリンではクセナキスの生徒という名目で奨学金をもらっていた。クセナキスは時々し かベルリンに来ない。まず出版されたばかりの自分の本をく れた。次にはワルシャワに行くフランスのアンサンブルのために作曲して、その作曲方法を説明するのが課題だった。その曲はワルシャワでは演奏され ない。次にピアノ曲を書くと鉛筆をくれて、それで余計な部分を削る。
その後はクセナキスの演奏者となり、ヨーロッパやアメリカでピアノを弾き、韓国と日本では指揮もする。ピアノでは『ヘルマ』『エオンタ』『エヴリ アリ」『シナファイ』を弾き、『オレステイア』『ヒケティデス』『エリダノス』『キアニア』などを指揮する。
クセナキスはコンピュータ音楽スタジオを作るための場所を探していた。その準備のために 呼ばれて西ベルリンやストックホルムやアメリカのインディ アナ大学に行ったが、計画は実現しない。ハジダキスが指揮していたアテネのアンサンブルにも誘われたが1967年のクーデターでそれどころではな くなった。
「日本に帰ってしごとをつづけるほうがいい。」とよく言われる。ギリシャと日本には古代 からつづく伝統があると思っているようだ。クセナキスは政 治亡命者でギリシャには帰れなかった。ギリシャを通る飛行機には乗らない。本棚のいちばん上の棚に「血の本」がある。地下武装組織の死者名簿だ。 ナチスとその後のイギリス軍と戦って死んだ同志たち。かれらのために音楽を書いていると言う。
京都のホテルにいたクセナキスをホセ・マセダと訪ねる。マセダは後で、クセナキスはヨーロッパ的なピッチ支配から逃れたいのだろうと言った。「ア ジアでは5つの音でじゅうぶんだ。」
クセナキスの『キアニア」とマセダの『ディステンペラメント(平均律の解体)』をおなじコンサートで指揮する。マセダはクセナキスの音楽は暴力的 だと言う。クセナキスにコンサートの録音を送ると、マセダの音楽は奇っ怪だという返事。
クセナキスに初めて会ったのは草月アートセンターのコンサートで武満の『ピアノ・ディス タンス』を弾いた時だ。その後秋山邦晴の勧めで、クセナキ スにてがみを書いてピアノ曲を委嘱した。やがて送られてきた曲が『ヘルマ』だ。鍵盤の上であちこちに跳ぶので、すこしずつ分けて練習して30日か かる。5連音と6連音が両手で同時に進行する。このリズムの演奏が不正確だと後で若い世代のピアニストから非難される。でも楽譜は、確率計算した 音の出現時間を1/5と1/6の格子ですくいあげて、規則的なリズムでは書けない音楽をぼんやり映し出している。そこから思いがけないフレーズ を、演奏する手が浮き彫りにする。ゆっくりうごく面と速く飛び散る線の二つの響きの層が同時にきこえてくる。
指は10本あるからそれぞれ独立にうごくだろうと言われたが、そんなことはない。注意の 焦点をちがう指にすばやく向け変えることはできると思っ た。いまはどちらもちがうと思う。孤立した音がまずあって、組み合わせて音楽にするというのは、社会契約論のような近代思想に似ている。伝統のな かでは演奏される音楽がまずあり、音階や構造理論はそれについての後からの仮説にすぎないと言えるだろう。
それでもメロディーを連続した線ではなく、それぞれ独立した断層の重なりのように弾くこ とができる。これはクセナキスの思いつきで、「シナファ イ」を弾く前にためしてみると、音の強さとリズムの微妙なずらしによる効果で空間の奥行が出てくる。このやりかたはバッハを弾くときにも使える。 音は点でもなく線でもなく、音色の複雑なシステムになる。ここには1920年代までの個人主義でもなく、それ以後の原典主義でもない演奏スタイル のヒントがあるようだ。和声でも対位法でもなく、音階も音列も、主題も構成もない作曲も想像できるかもしれない。
クセナキスは1960年代にコンピュータを使って作曲するプログラムを作った。その後は 確率を使ってランダムなノイズを発生させ、一部を切り出し て循環させながらピッチのある音を作るというプログラムを書いて実験をつづけていたが、コンピュータの出す音は人が楽器で作るような変化のある音 にはおよばなかった。どこか空虚な固定された響きになるので、組み合わせで変化をつけるために音楽は複雑になる。最後に会った時、クセナキスは長 年つづけていたコンピュータ音楽の実験はもうやめたと言った。「いま興味があるのは大きなオーケストラだけだ。」
その頃のオーケストラ曲もだんだんすべての半音が同時に響き、別々のリズムでずれていく 音楽になっていた。『キアニア』もそうだった。シアンとお なじヒッタイト語から来たタイトルは、どこか遠い青い土地を意味しているらしい。極端におそいテンポでからみあうフォルテシモのたくさんの層でで きている。打楽器を含まないオーケストラだが、リズムもピッチも感じられない、響きの持続だけがある。マセダが感じたように、暴力的に聞こえるか もしれない。
ニューヨークの空港の騒音のなかで話したことがある。「人間は自分の作り出した時間と空 間のガラス箱に閉じ込められている。この迷路から出れば、 この瞬間には過去と未来のすべてがあり、ここは20億光年の彼方でもあるだろう。」クセナキスは最先端テクノロジーを使いながら、その合理主義の 限界の向こうにある不死の夢を古代哲学のなかに追っていた。プラトンの『エルの伝説』によるレーザーと電子音響のスペクタクルを創ったのも、日本 の禅に興味をもったのもその手がかりをさぐっていたのかもしれない。でも現実には、啓蒙主義の生み出したカテゴリーの壁のなかでますます複雑にな る響きをつむぐことしかない。
京都で、忘れていたギリシャの火渡りの儀式のイメージが突然よみがえり、それを話そうとするが、ことばが出てこない。長年の苦しい作業で生まれた 自分の音楽を忘れて、わずかに残された心は遠い故郷に帰っていく。
落葉と梢からかいま見る空のかけら。西ベルリンの家から郵便局に向かう森の小徑を歩きな がら、クセナキスが強調する。古代ギリシャ哲学史から自分 の音楽にかかわることば、パルメニデスの「存在するもの(eonta)」ピュタゴラスの「数」プラトンの「多面体」エピクロスの「偶然」。
ニューヨーク州バッファローの吹雪の道。クセナキスが小型車を運転してナイアガラの滝に 向かう。袋小路に入ったら方向転換して通りすぎた道にもど りながら別な道をさがす。古代の記憶が想像力をひらく。ベルリンにいた頃、アリストクセノスの音程論からビザンティン聖歌の音程分割とモードの理 論をエラトステネスの篩とガロア群の組み合わせで形式化した「篩の理論」を考え、『ノモス・アルファ』を作曲するプロセスとつきあって、おなじギ リシャ語の本を読み、ビザンティン聖歌の記譜法を勉強したこともあった。
ナイアガラは凍っていた。飛び散る水のなかに小さな虹が見える。それがエピクロスのクリナメンのイメージだ、とミシェル・ビュトールが言ってい る。
イギリス軍の砲弾で顔を砕かれて病院に運ばれたとき、探しに来た女ともだちが手を見てだ れだかわかったという話は聞いていた。アテネで会った、も しかしたらその人だったかもしれないと思ったひとの娘はイリーニ(平和)と名づけられ、クセナキスの娘はマヒ(戦い)と名づけられた。孫はユリス (オデュッセウス)だった。
60段の5線紙を製図ペンと定規で作り、ソロでもオーケストラでもそれに書く。
1965年の数ヶ月ストックホルムの郊外の海岸サルショバーデンで暮らした。小さな電車 の終点はヨットの港、その松並木の蔭の坂を上り門から斜面 の階段を上ってその上の家の二階。バルコニーは裏庭に面している。最高裁判事の家。白夜には2時間ほど薄暗くなり、キタキツネが庭を歩いている。 それから太陽が裏山を回りこんで上ってくる。
西ベルリンを出たのは2月だった。東ベルリンからロストック、そこから船でマルメに行っ たのだろうか。ストックホルム駅に着く。レオ・ニルソンが 迎えに来ている。同年代の作曲家、いま調べてみると電子音楽のパイオニアということになっている。ベルリンの凍りついた雲の下より、雪の積もった ストックホルムのほうがあたたかいような気がする。円錐の頭を切り落としたようなスピーカーをたくさんワゴンに積み込んで、Fylkingen の音響技術者といっしょに北に向かい、ラップランドからノルウェーに入り、オスロから夜中のフェリーでコペンハーゲン、対岸のマルメからストック ホルム、そしてフェリーでヘルシンキ。プログラムはブーレーズの『ピアノ・ソナタ第2番』とスウェーデンの電子音楽。北の果ての町で刑事につきま とわれる。潜水艦基地を探りに来た中国のスパイだと思ったらしい。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、それぞれのことばがお互いに通じ合って いる。ヘルシンキでは雪解けで、バスの窓が泥塗りになっている。
ストックホルムのジャズ・スポット Gyllene Cirkeln [Golden Circle]でスティーヴ・レイシーのソロ、モンクの曲を吹いている。ジョージ・ラッセルとミエコ・ヴィクストレーム(高島三枝子)もいたと思う。レイ シーはグレイのスーツを着てソプラノサックスを持ち、象のように揺れている。その後ローマで練習を聞いた時は服装も音楽も激しく変わっていた。東 京で小杉武久と3人で即興のレコードを出したこともある。その時はたくさんの曲を書き込んだノートを見せながら、作品のイメージを説明してくれ た。最後に会ったのは深谷のスペース・フーで富樫雅彦と3人の即興だった。
スウェーデンの放送局のスタジオでケージの『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタ リュード』からの数曲を録音した。ジョージ・ラッセルのバ ンドもそこにいた。トランペットはドン・チェリーだった。チェリーはプリペアド・ピアノをおもしろがって、キーをリズミックに叩いてひとりで踊っ た。ラッセルはかなり後になって東京に来た。スウェーデンで会ったことは覚えていなかった。
ケージの曲は Fylkingen で録音し、2枚組の LP になる。いまでもCD はあるらしい。録音に使ったのは可動式鋳鉄のフレームをもっためずらしいピアノだった。スウェーデンには四角い部屋の隅に置くための三角形のピアノもある という話だった。フランスではすべてのキーに等距離でとどく半円形の鍵盤を発明した人に会ったことがある。
スウェーデンの現代音楽グループ Fylkingen の会長クヌート・ヴィッゲンはストックホルム放送局に世界最初のコンピュータによる電子音楽スタジオを建設中だった。作曲プログラムのテスト版をピアノで 弾く。1分の曲だった。ヴィッゲンは音響オブジェを心理的に定義し操作しようとする。だんだん話が通じなくなり、そのうちグループからも遠くな る。
いま思い出しても、この変化がいつどのように起こったかわからない。Fylkingen グループに招かれて移住し、いくつかのしごとをしているう ちに、それ以上いっしょにできることがなくなったばかりか、グループの目指している方向を理解しているようにも思えなくなった他所者がまだそこに いることも忘れられて、郊外に置き去りになっていることも、だれの記憶にも残らないらしい。自分たちのためのしごとの成果を残してどこかへ消えた 人間のその後には関心もなかったのだろうか。それとも演奏はともかく、何を考えているのかよくわからないアジア人とは話もできないのだろうか。
おなじことは、こちらの関心の持ちかたにも言える。スウェーデンの当時の前衛、ピアノを 電動ノコギリで挽き切り、自分の脚まで傷つけたことで有名 になったカール=エリック・ヴェリンの話もナム・ジュン・パイクから聞いていたが会うこともなかった。ピアニストになったきっかけは、スウェーデ ンの作曲家、同年代のボー・ニルソンの曲『クヴァンティテーテン』だったが、どこか小さな町にいて会えなかった。注目されていたヤン・モルテンソ ンもウプサラにいて、会ったのは数十年後の東京だった。会いたいと言えばいいのか。そんなことも思いつかないほど、まだ時間があると思ったのか。
スウェーデンの当時の前衛はドイツ音楽、とくにシュトックハウゼンの影響がある。作曲し た時20歳だったニルソンのピアノ曲にもその影があった。 西ベルリンに3年もいたのに、ダルムシュタットに集まった前衛音楽の流れとはまったく接点がない。なぜ興味がもてないのか。おなじ活動の場にいて も、見えているものはちがい、そのちがいをことばで表せるほどはっきりと気がついてはいないまま、外側の観察者にとどまっているのが、内側の人間 にはなんとなく感じられるのだろう。
家の前の坂を海と反対の方向に上るとまばらな木のあいだに小さな池がある。鳥も鳴かず、静まり返っている。その風景はスウェーデンを離れてからも 夢にくりかえし現れる。
西ベルリンから手紙が来た。後半年分の助成金が残っている。とりあえずストックホルムか ら出ることができるが、ベルリンにもどっても住むアパート はない。家族を日本に帰し、デ・コーヴァ夫人(田中路子)の家の地下室に居候する。隣の部屋にピアニスト荒憲一がいた。まだ知らなかったグレン・ グールドのレコードを聞かせてくれる。
2011年はクセナキス没後10年だった。2012年はケージ生誕100年で、ヨーロッ パやアメリカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自 分の作品より長く生きて、晩年は忘れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニューヨークのホテルで暮ら していた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべ ての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の最後10年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカ とヨーロッパだけだった。亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済むために、ポップソングばかりが演 奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前はブランドに なったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。
ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。でき あがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみ ごとさからは、飛び去った蝶の姿は見えないだろう。短い20世紀と言われる。1914年までは19世紀ヨーロッパの長い終わりだった。その後は戦 争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた試行錯誤が続いたが、1920年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文明への 素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、1960年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには 1990年を待たなければならなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現実からは、固定したカテゴリーや システムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規則や定義 や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの 環境でもあり、呼吸する空気でもあるだろう。
●ジョン・ケージ (1912-1992)
ニューヨーク州バッファロー、冬の朝。「ヴィクトル・ユーゴー」アパートの窓の外で口笛が聞こえる。ネジやゴムのたくさん入った箱をもって、ケー ジといっしょに『プリペアド・ピアノと室内オーケストラのためのコンチェルト』に使うピアノを準備しに行く。
ピアノの弦の決められた位置に箱のなかの大小のボルトを差し込み、共鳴する倍音を聞きな がら位置を微調整する。イチゴジャムの瓶の蓋の裏に貼って あるゴムの環をはがして切ったものを差し込むと、曇った余韻のない音になる。このようなゴムの環はもう見つからない。1940年代アメリカの日用 雑貨だったのだろう。 ケージの好みは「歌う」小さい音で、ボルトが大きすぎてノイズが増えたり、ピアノの響板に触れるほど深くねじ込まないように注意される。ピアノによって音 色はちがう。コンサートグランドよりすこし小さいサイズのピアノに合わせて、材料をはさみ込む位置が決まっているようだ。倍音のバランスでどんな 響きがするか、やってみないとわからないが、材料や位置は細かく決めてあっても、その結果の音色は決まっていないのが、プリペアド・ピアノに限ら ず、ケージがプロセスを重視する態度の表れと言えるかもしれない。「警官じゃないから、人のやることを監視するのはいやだ」と言うが、そう言って もいられない時もあるだろう。「心(身)が躾けられれば、恐れはたちまち愛に変わる」というマイスター・エックハルトのことばを信じたいが、現実 はそうはいかない。きびしく自分を律して、心をひらくように努めてはいても、時には抑え切れない時がある。寛容の仮面の下から恐ろしい怒りが顕れ てくるのをたまたま見た人たちはおどろくが、それは新しさへの探究心の裏側にある本来のピューリタン文化かもしれない。
ケージにはさまざまな教えをお互いに矛盾するものも取り入れて、元のものとはちがうかた ちでやってみる姿勢がある。シェーンベルク、カウエル、サ ティ、ウェーベルン、マイスター・エックハルト、クマラスワミ、鈴木大拙、周易、ジョイス、ソロー、マーシャル・マクルーハン、バクミンスター・ フラーと続く影響の長い列。意識的に読み替えたと言うよりは、アメリカ的な「文字通り」を信じる聖書原理主義と似た姿勢からの誤読でもあるように 見える。
第2次世界大戦後の日本は外からの情報に飢えていた。楽譜もなく、だれかが持っていた戦 前の楽譜を手で写すことで音楽をまなんだ。シェーンベルク の「ピエロ・リュネール」を團伊玖磨の家の押入を留守中にかき回して見つけ、借りて全曲を音楽ノートに写した。そこで見た小節線のない楽譜のペー ジをずっと記憶していて、数十年後に再会したのがモンポウだったりした。ウェーベルンの楽譜もレボヴィッツの本の譜例からスコアに再現したし、 ブーレーズの「主なき槌」の初版、手書きのほとんど読めない音符を解読して清書したこともあった。クルターグと話した時、戦後ハンガリーでもやは りウェーベルンの楽譜を手で写したことをなつかしく思い出していた。そこでは楽譜がないばかりか禁止されていたから、もっと切実だったはずだ。
ケージについてはヴァージル・トムソンが書いた雑誌記事を紹介した秋山邦晴の文章がてが かりだった。易で作曲すると書かれていたが、その楽譜が入 手できないので、自分で考えて作ってみた。北園克衛の『記号説』による断片で、それを見た柴田南雄が作曲した「記号説」からしばらくのあいだ、セ リエル技法と北園克衛のテクストによるいくつかの曲の初演がつづいた。詩人はそれらの音楽は認めず、サティやプーランクのほうが好きだったらし い。クセナキスが作曲に確率論を使うこともシェルヘンの雑誌で読んだが、具体的にどうするのかわからないので、自分のやりかたで電子音楽『フォノ ジェーヌ』を作った。19世紀末の作家ユイスマンスの『さかしま』のなかの人物デゼッサントが入手できない本は自分で書いてしまうのとおなじだ、 と思っていた。だが実際に『さかしま』を読んだわけではなく、だれかがどこかに書いたことのおぼろげな記憶で言っているだけだが、遺産で暮らすデ ゼッサントの知的放蕩とは反対に、当時貧しかった辺境の国々の貧しい若者たちは、ケージやクセナキスのやったこととはちがう結果になっても、欠け ているものを発明しながら切り抜ける必要は、いまカネさえ払えば手に入れられる情報や、アカデミーで技術として習えるような時代には失われたのか もしれない。
『Winter Music』(1957年)は、ページの上に和音が散らばっている。これを指定された音部記号とそれに属する音の数を示す数字にしたがって読むのだが、演 奏のその場ではできないから、自分で解読譜を準備する。こうして20ページを左から右へ、上から下へと読み解いた楽譜を作ってそれを弾いていた が、最近気づいたのは、20ページに順番がないと同様、これらの和音にも順番の指定はどこにも書かれていないことだった。そうしていけないわけで はないが、和音の順番やページ上の位置と出現時間は決められていないし、連続性もないようだ。しかし、指定されたことを読むだけで、何が指定され ていないまでは読みとらず、そのまま何十年も弾いていた。最初は草月会館でのリサイタルでⅠページ5分で演奏し、全ページ弾くのには1時間40分 かかった。聴衆はドアを開けたままのホールとロビーを往復して、結局ほとんどの人が最後までのこっていた。その次の年には、日本にやって来たケー ジとデイヴィッド・テュードアと、日本に帰ったばかりの一柳慧と4人で2ページづつ分担して4台のピアノで演奏した。ヨーロッパでも何回も弾い た。1960年代のヨーロッパでケージを演奏していたのはフレデリック・ジェフスキーだけだった。メシアンでさえ、ロリオ以外のピアニストはほと んど弾いていなかった。ブーレーズのソナタもだれも弾かなかった。いまは音楽学生たちでも弾いている。
ケージの1950年代までの作品では、構造・方法・形・材料を区別している。構造の定義 は全体と部分の関係、方法は音から音への進行、形は表現形 態、材料は音響と沈黙。構造は器で、形は内容。暦とその時起こったことのように、あるいは窓枠と風景のように、器と内容は無関係にあり、何が起こ ろうと、時は過ぎてゆく。それはヨーロッパにはない感じかたかもしれない。ミース・ファン・デル・ローエのような近代主義を連想することもある。 枠はリズムで、材料は音色だとすると、そのリズムは、駆り立てたり揺れるアフリカ的リズムではなく、平静に時を刻むガムラン的リズムだが、ガムラ ンがめざす最終拍への方向感や微細な加速をもたない、むしろ音色の組み換え遊びといった軽みが感じられる。
香港の黄大仙(Wong Taisin)廟でミカンや花を捧げ香を焚き竹筒を借りて竹の番号札が振り出されるまで揺する。幸運な数が出るまで続ける。一人分3回までは許されるらし い。だが親戚一人ひとりの分もまとめて紙に書き取っていく。
chance operation 偶然の操作、偶然に干渉するやりかた。材料をととのえる、組み合わせは自分で決めないで、サイコロや3枚のコインを投げる、乱数表やコンピュータの易占プ ログラムのプリントアウトをたどる、やりかたはさまざま。結果得られた数を音の特性に置き換える。だいたいは結果を受け入れるが、おもしろくない 場合はやり直す。自分では思いつかないような音から音への曲がった道ができることがある。いくつかの段階を経て、介入の余地を残しておくのがいい のだろう。完全自動洗濯機のように最後までコンピュータがやってしまうと、失敗しても修正できないから捨てるよりない。クセナキスの1960年代 コンピュータ作曲のプリントアウトを見ても、多くのサンプルからおもしろそうな結果を選んで、順序は自分で決めていた。ケージのやりかただと、作 曲という作業は音から音への一歩ごとの小さなプロセスを続ける事務しごとに見える。それが日常性ということかもしれない。
ケージには時々フェスティバルやパフォーマンスで会った。プリペアド・ピアノを弾いた り、HPSCHD初演の時はハープシコードも弾いた。バッ ファローで使ったプリペアのセットはその後行方不明になってアメリカから日本まで問い合わせの電話が来たこともあった。どのみち、同じ響きは二度 と作れない。
HPSCHD も Song Books も中心のない空間に多数の演奏者の同時演奏、大量の録音素材や映像の同時再生、マーシャル・マクルーハンの「ひとつずつ順々にの視覚空間ではなく同時多発 性の聴覚空間」を文字通りやろうとした、あの時代の、二度とできない試みだったのではないだろうか。もちろん再演はされているはずだが、あの時の 熱気と一体感が再現できるとは思えない。と言って、これらの膨大な素材の集積、当時の「世界」だった「本」から一部分を取り出して「作品」として 編集したら、まるで別ものになるだろう。
サンフランシスコで Song Books の公演前日の練習を見る。博物館の個室ごとにちがうパフォーマンスがエンドレスでつづいているなかを、ケージの案内で通り抜ける。歌う人、食べる人、逆立 ちする人、料理の匂い、唸り声、わめき声、山火事の音、地図の映写、すべてが増幅されて混じり合うカオスとノイズ。「すごいだろう。まるで精神科 病院だ」と言ってケージはたのしそうに笑う。
アナーキズム、すべてを受け入れ、許そうと思う、中心を作ったり管理しないでも、自発的 な動きがぶつからないような隙間だらけの空間で、ゆずりあ い、折り合いをつけることができるだろうという期待。じっさいには、暫定協定 modus vivendi は一度決めればずっとそのままでいくわけはなく、毎回決め直すことになる。新しい記譜法を考えて、詳しい説明や演奏指示を書いておいても、練習に行くと、 演奏家はほとんど読んでいない。自分の論理で慣習や文化伝統から離れた普遍的・抽象的なシステムを押しつけるのは有効でない。一度に変えられるこ ともあれば、すこしずつ変わるものごともある。
ケージ・スマイルと言われた人のよさそうな印象、it's beautiful, isn't it? という素朴なアメリカ語のニュアンス、アメリカの正装というデニム・ジャケットとジーンズ、あるときは菜食、ある時はマクロ・バイオテックの弁当、音楽を ステージから引きずり下ろし、日常のすべてが音楽と思える状態に近づける試み、日々是好日。こんなふうに作られた「ジョン・ケージ」でありつづけ ようとする努力。大量の音の同時多発するカオスのなかに無名の人として沈みこもうとする一方で、沈黙とわずかな音をたのしむ繊細な耳の人。
ケージとカニンガムが住んでいたニューヨークの半地下のアパートに行ったのはいつだった か。通行人の足が窓の外を行き交い、がらんとした室内にわ ずかな植物がある。そのかなり前には、郊外のストニーポイントのアーティスト・コロニーに建てられた家、ガラス張りでトイレにもドアがないような 電球のような家。無名性を自己主張している住居。
1960年代にはクリスチャン・ウォルフや一柳慧は反ケージでおもしろいと言う余裕が あった。80年代の終りに武満に招かれて新作初演に来たケー ジに、コンサートの後、サントリーホールのロビーで会った時は、自分のコンサートにも来てくれるようになったのかと言われて、こちらも意外だっ た。70年代に、仲間だったコーニリアス・カーデューやフレデリック・ジェフスキーから政治的反動、帝国主義者のように扱われていたことに、かな り傷ついたのだろうか。
クリスチャン・ウォルフが言っていたように、何年も作曲を続けていると、今度はいままで とちがうことができたと思っても、じっさいにはまたおなじ ことだったりする。何十年も前にケージが書きとめたクリスチャンの「結局はすべてがメロディーになる」という意味のことばと似ている。武満は「今 度こそちがう作品を作るそのために対位法を勉強したい」とよく言っていた。ケージが「ケージ」であるために自己をきびしく律していたのとちがっ て、武満は「武満」の響きを捨てるわけにはいかなかった。ちがうくふうや複雑な音を重ねるたびに、音楽はもっと「武満」になる。エゴから離れよう とするのは二十世紀の芸術家の病気かもしれない。
「ゆきはあたためはしないが/ゆきのかたさとつめたさが/ぼくをつつんでくれるのだ/ともだちのような ゆき/ゆきのような ともだち」(林光、 1994)
最後に会ったのは、寺嶋陸也が林光の『ピアノ・ソナタ』1番から3番までを弾いた夜の上 野、東京文化会館小ホールロビーだった。その前会ってから 何年も経っていた。それでも昨日会ったかのように、「おや、こんなところにも来るのか」と言った皮肉っぽい調子はいつものものだった。それから何 を二人で話したか忘れてしまった。
林光が若かった頃、鞄を持つ人がすくなかった時代、たくさんの本を腕に抱えて歩いて来る のを思い出す。本のこと、時代のあれこれの話題について、 訊いてみると、問題全体をかんたんに説明してくれる。わかっている人のことば、どこに行くか知っているひとの歩み、すこし足早に、若々しく。
桐朋学園高校時代にはじめて会った時はソルフェージュや聴音の先生で、わかりやすく、だ がどこか新鮮なメロディーの課題を出されると、こちらはで きるだけ不自然な異名同音に書き取って提出していた。それなのに、時々夜遅くなると、家に泊めてもらった。まだ原宿の両親の家の一部だったと思 う。「林光は調性音楽なのに、きみの世代は無調か」と小倉朗に言われたことがある。
小倉朗のオペラ『寝太』の練習でピアノを弾いたのがきっかけで学校をやめて二期会に雇わ れ、オペラの練習をし、合唱団の伴奏をして全国を歩いてい た何年かも、前任者が林光だった。演劇や放送劇のための作曲をした頃も、当時林光のマネージャーだった飯塚晃東の事務所に所属していた。林光の 『劉三妲』という、中国民話によるミュージカルのようなもののオーケストレーションを手伝った記憶もある。あれは現存する作品だろうか。その頃ほ かの作曲家のためにもスコアを書いた。黛敏郎の菊田一夫・東宝ミュージカル『君にも金儲けが出来る』や安部公房台本の『可愛い女』の一部のオーケ ストレーションと練習ピアノ、劇団四季のための『ウェストサイド・ストーリー』のオーケストレーションまでやったが、バーンステインのオリジナル があるのに何の必要があったのだろう。山田耕筰のオペラ『香妃』の2場面のオーケストレーションもしたが、これはたぶん使い物にならず、後に團伊 玖磨が完成版を作ったと思う。團伊玖磨は、小学校時代にしばらく和声を習ったことがある。
どこに行っても林光が先にいた。ピアノという楽器が好きで、オペラや芝居が好きでたくさ んの音楽を書き、忙しいあまり作曲は遅れ、それでもぎりぎ り間に合わせる、それが期待されていた通り、そこに求められていたと思わせる音楽だった、というような才能あふれるひとの後にいると、ピアノを弾 くのもいやで、オペラや芝居がつくりごとにしか見えず、歌手の声やオーケストラ組織も気に入らないという結果になったのもしかたがない。
1968年ニューヨークにいた時、林光が従姉のフルーティスト林リリ子のカーネギー・リ サイタル・ホールでのコンサートの伴奏で来て、おなじ通り にあったホテルに泊まっていた。後になって『72丁目の冬』というヴァイオリンとピアノの曲をポール・ズコフスキーと録音したことがある。ポール はこの曲が気に入っていた。72丁目はセントラル・パークの西にあり、ちょうどうちの向かい側の古い建物がダコタ・ハウスで、ロマン・ポランス キーの『ローズマリーの赤ちゃん』はおなじ年にそこで撮影された。その8年後ジョン・レノンも住んでいて、その前で射殺された。林光のホテルはそ れより2ブロックくらい西にあり、古い建物だった。音楽はマンハッタンの持つこのような古さや恐怖をまるで知らないかのようだ。
1972年作曲家のグループ「トランソニック」を作った時は、日本の前衛芸術は大阪万博 を頂点として、その後の退潮の時代だった。万博に参加する かしないかで芸術家たちの論争があった。万博のような場は前衛芸術家にとってまたとない機会だったから、反対派から資本に買収されたと言われて も、あれこれと参加の口実を見つけることができた。「トランソニック」はいわゆる前衛作曲家の武満徹、湯浅譲二、一柳慧、松平頼暁だけでなく、 ずっと年上の柴田南雄と、いくらか離れたところにいた林光を個人的に誘ってグループを作り、全音楽譜出版社の松岡新平に頼んで季刊誌を出した。雑 誌は池藤なな子が編集して3年間12号出した。そのほかにはシンポジウムを2回やっただけ。雑誌の6号で政治参加を特集したとき、武満と意見が合 わず、武満が抜けたので近藤譲に入ってもらった。12号出して限界をかんじたところで解散を提案したが、受け入れられないのでこちらが脱退し、く さび役がいなくなるので柴田南雄と林光もグループを離れた。
林光はつきあいのよい人だったと思う。1960年の草月アートセンターでの作曲家集団で もそうだったが、実験の場ではそこにできる限りの社会的展 望をもたせながらつきあっていた。金子光晴の詩による『骨片の歌』(1960)やキム・ジハの詩による『苦行……1974』(1975)は、いつ もとちがう苦しげな響きを立てる。その苦行の音も「夢を見る/鳥になる夢を見る……」とつづくうちに、凝った響きの檻から抜けだしていつもの軽や かさにすべりだそうとする。武満が「今日の音楽」フェスティバルを西武パルコ劇場ではじめて、1975年の第3回「社会参加の音楽」は、林光と高 橋悠治にまかされた。ヘンツェやクセナキスを含むプログラムを作り、そこで林光の『苦行……1974』も高橋悠治のユニゾン・コーラス『毛沢東詞 三首』も初演された。林光はコンサートの構成に時間がかかったので、作曲にかかった時はもう初演の数日前だった。時間がないので、メロディーを先 に書き、そのあとで楽器パートを書き加えて完成した。こちらの『詞』は、同じくメロディーを先に書いたが、どのように伴奏をつけていいかわからな かったので無伴奏のままにした。才能のちがいというものか。ちょうどベトナム戦争が終わった時だった。
『苦行』はその頃富山妙子の最初のスライド作品『しばられた手の祈り』の音楽にも使われ た。『しばられた手の祈り』は、獄中にいた詩人キム・ジハ の作と伝えられる賛美歌で、林光はそのメロディーをヴァイオリンとピアノの変奏曲にした。ヴァイオリンは黒沼ユリ子で、桐朋学園から知っていたか ら誘われて録音を見に行った。映像と合わせる日は林光は忙しいので代わりを頼まれ、自分でもその賛美歌の変奏曲をピアノで作り、音楽トラックを編 集した。それ以来いままで富山妙子の映像作品の音楽を作っている。
1973年9月11日に起こったチリのクーデター以後のプロテスト・ソングの流れのなか で、ジェフスキーの『不屈の民変奏曲』(1975)を演奏 していた時、林光はそのたびにつきあって、演奏に1時間かかる変奏曲の前に、そのテーマとなったチリの作曲家セルヒオ・オルテガが作った『不屈の 民』(原題:団結した人民は打ち負かされることはない)と、変奏のなかで引用されるブレヒト=アイスラーの「連帯の歌』、イタリア・パルチザンの 歌『赤旗』(Bandiera rossa)を歌い、司会もしてくれた。1978年にはじまった水牛楽団の活動は、1976年のタイのクーデターの後、日本に届けられたタイのカラワン楽 団(キャラバン)の歌を日本語にして歌うところからはじまったが、そこでも林光はポーランドの「連帯」運動の歌(禁じられた歌といわれる)を歌っ たり、コンサートの司会をして数年間つきあってくれた。
林光の歌は、ソルフェージュの模範のような、聞いていると音符が浮かんでくるような歌い かただった。革命歌をうたうと、柴田南雄が批評文に書いた ように、音程正しく、「民衆的」エネルギーとは縁遠い抽象的でエリート的に感じられたかもしれない。だが、「民衆」のイメージも時代ごとに作られ るから、土俗性を強調するのは、1970年代の特徴だったかもしれない、と書きながら、松永伍一の子守唄論や、訳されはじめたキム・ジハの風刺詩 を思い出す。
林光の歌、自分ではソングと言ういいかたを好んでいたが、「たたかいのなかに 嵐のなか に 若者の魂は鍛えられる」からはじまって、「忘れまい 6・15 若者の血の上に雨は降る」、「やりてえことをやりてえな、てんでかっこよく死にてえな」など、時々頭のなかで聞こえてくるあの歌声は、 1950年代から60年にかけての歌だったから、その時の「民衆」というよりは「人民」のイメージはまったくちがっていた。 若々しく、折り目正しく、「かっこよい」ことをめざして、急ぎ足ですぎていく。だが、軽やかな歌も、時代をすり抜けては行かれない。1956年のフルシ チョフ秘密報告から、1964年中ソ論争、1965年ゲバラのキューバ出国、そして1968年ベトナム・テト攻勢、パリの5月、プラハへの軍事介 入の8月まで、崩壊する秩序と、それでもまだ理念や方向を捨てきれない運動のなかで、両側から批判されていた年月が、『死滅への出発』 (1965)という本に集められた文章から、おぼろげに見えてくる。
ゆれうごく社会と歴史のなかで、音楽をつづける根拠はどこにあるのか。よく言われるよう に内部に、あるいは外部に、根拠をもとめる必要があるのだ ろうか。はじまりもなく、起源もなく、終りもなく、目標もなく、すでにうごいていて、うごきつづける音楽の場にいつか入り込んでいるのに気づく。
1974年から76年までの『季刊トランソニック』では、音楽の環境とのかかわりに目を 向けていた。そのなかで柴田南雄は啓蒙主義的セリエリズム から、社寺芸能に目を向けて、合唱のための「シアターピース」を作りはじめた。林光はオペラシアター「こんにゃく座」探訪記を書いたのがきっかけ で、その座付き作曲家・芸術監督になり、ずっと望んでいた「非国立」歌芝居であるオペラの作曲家になって、1960年以来のさまざまな実験の時期 が終わったようだ。作曲家の一時的グループだった「トランソニック」は、1950年代の時代標識であった民族主義/セリエリズムか、60年代のミ ニマリズムに収斂されない、それぞれの生きかたを見つける前の休息と観察の日々だったのだろうか。
「こんにゃく座」のオペラは、いくつか見に行った。林光と会う機会はすくなくなった。自 分の音楽の場をもって、創りつづける人は、安定した音の身 振りをみせるようになる。武満もそうだった。「対位法を勉強して、次からはちがう音楽を書く」と言っていた日は来なかった。サティのように、じっ さいに対位法をまなんだ後で、若い時のように新鮮な音はもう書けないと嘆くよりはよかったのか。安定は危ない。休息と環境の観察は、身を退いて創 りつづけるためにはいいが、観察は活動の残像だから、見えたことは拠り所にはならないだろう。見えない隙間を手探りしながら、思いがけない道がひ らけたと思う瞬間が来る。だが、そこでうごきは止まる。「おそらく鍵はある、住む家は準備が整っている、でも鍵が回らない、<天使の扉>はまった くひらかない、半分もあかない、それは準備がほんとうにできているからなのだろう。」(エルンスト・ブロッホ)
遠い朝、声にならない声。「一ばんさむい 冬の夜/一ばんひどい 雪のとき/声にはせずにうたってた/忘れぬために 花のうた」(佐藤信 1967年)
まだ桐朋学園高校にいた頃ディラン・トマスの詩集をもらった。むつかしくて読めなかっ た。パンの内側の暗い生命「……官能の根と樹液から生ま れ……」次にエドワード・リアのナンセンス詩集をもらった。この2冊からは今ならストラヴィンスキーの『ディラン・トマス追悼』と『ふくろうと子 猫ちゃん』を連想する。それからナサナエル・ウェストの『孤独な娘』の訳書。思い出すのは孤独な身の上相談係がウィスキーとクラッカーを抱えてひ きこもる『アンダルシアの犬』のような夢の風景。
シュールレアリスム宣言と『溶ける魚』の失踪したエリュアールによびかける詩。エリオッ トの『荒地』。1920年代のヨーロッパの詩的冒険をおぼ ろげに読み解きながらすごした中学時代から、音楽高校に入ると19世紀音楽のはてしない練習の響きの日常で、丸谷さんの英語の授業があった。コン ラッドの『文明の前哨地点』がテクストだったが、生徒たちの知的水準からはかけ離れていた。永川玲二の英語、バルバラ・クラフトのドイツ語の授業 もあった。演奏と練習のことでない話ができるのは、そういう人たちとだった。永川玲二は陸軍幼年学校から脱走して逃亡生活を送ったことが『笹まく ら』の題材になったらしいが、読んでいない。直立不動の姿勢とオックスフォード的「笛の声」を思い出す。1970年代セビージャに移住してから、 日本に一時帰国した時に『展望』という雑誌の仲介で再会した。セビージャではヒッピーたちの中心だったという話を聞いたことがある。
丸谷さんの新婚家庭に泊まったりしていたし、『秩序』という同人誌の会合にも行った記憶 がある。『ユリシーズ』の訳はまだ出てなかったと思うが、 そこに出てくるスウェーリンクの Mein junges Leben hat ein End を弾いてくれと頼まれて楽譜を探したことがあった。この曲名は日本語では『わが青春は終わりぬ』と言われるが、歌詞を読むと若くして死ぬ人をうたう宗教的 民謡のようだ。いまも時々弾いている。
丸谷さんの小説は何冊か読み、送られてきたエッセイ集もいくつか読んだ。小説家がくれた本は義務のように読むが、自分から小説を読むことは今はな い。詩は歌の素材として読んでいる。
音楽のことを訊ねられても知らないので資料を探したり読んだりしてまなんだことはおお かった。長編『持ち重りする薔薇の花』の準備で弦楽四重奏に ついて調べ、ボッケリーニについてはエリザベス・ル=グインの Boccherini's Body という本を読んだ。提供したメモがどう使われたのか、使われなかったのかはわからない。批評家や学者の興味や評価と分析ではなく、いままでにない角度から 見えるものをさらに別なかたちに変えていくプロセスは外からは見えない。『あけがたにくる人』という歌と弦楽四重奏の曲をその後書いたとき、ボッ ケリーニの弱音のさまざまな指定、楽器から楽器へ移っていくパターン、亡霊のように回帰するペルソナを思い出した。
神田の古本屋にはブルトンやエズラ・パウンドの『ピサ詩篇』、ジョイスの『フィネガン ズ・ウェイク』などの初版本があった。読めないのに辞書片手 に読もうともせず持ち歩いてながめていた。途切れ途切れの意味やイメージを浮かべた見知らぬ文字列の音楽から夢のように浮かぶなにか別なもの、引 用された楽譜の断片やそれを実際に聞いた人たちの話から作り上げる聞いたことのない音楽のように。知って理解したと思ったらそこで終わりかもしれ ない。丸谷さんたちの『フィネガン』研究会にも一度行った記憶がある。最初のページから多言語で鳴り渡る雷鳴があった。フィネガンは梯子から落ち る。その時にはその化身は湾に吹き寄せられた小舟の上にいた。貧しい記憶の断片から、ジョイスの書いていない別の風景が見えることがありうるだろ うか。
伝統とそののありかたへの興味、離れたものに見立てること、ちがいの隙間の追及、丸谷さ んと話していて、あるいはエッセイを読んで、そういうとこ ろがおもしろいと思う。見ているところはちがうし、評価も反対だったりする。カフカをまったく評価していないのを知っていて『カフカノート』の公 演に誘ったときも、「おもしろかった」と一応は言ってくれた後に、「方向のない細部につきあうのは観客にとって負担だ」と批判された。そうかもし れない。その批評についての印象や「そうかもしれない」と書いているこのセンテンスも誤解の延長でもありうる。他人の感じること考えることを理解 することができないという越えられない距離が、次の失敗に向かうエネルギーになるかもしれない。
信時潔にクセナキスの『ヘルマ』を弾いてきかせたことがあった。楽譜から1、2音のパ ターンの変容を読み出して説明してくれたが、ドイツ音楽の伝 統とは関係のないところで作られた音楽も、そういう耳で聞くことができるのはおもしろいと思った記憶がある。いまモーツァルトを聞く耳はモーツァ ルトが思ってもみない音楽を聞いている。異文化は時間軸でも双方向にひらいていると言えるだろうか。
豊かな細部を増殖させながら崩れ溶け出さないように全体を神話の枠に入れておく『ユリ シーズ』、頭文字の組合せが転生をかさねて世界樹となる 「フィネガンズ・ウェイク』の夜の航海の後でできることが何か残されているだろうか。繁殖と豊穣の後に過渡期の意識があり、いつまで待っても行く 先が見えなければ、やがて衰退の意識に変わる。それが今の時代だと感じるのはまちがっているかもしれない。垣間見るのは彼方の光ではなく、寒々と した「ここ」の闇だとしても、それははためく夢の見栄えのしない蝶番なのだろう。未完成で、始めも終わりもない断片の堆積そのものよりは、断片の あいだの書かれない行間、それについて書けるなにごともなく見せる気もしないようなつつましい結び目が、さまざまな矛盾を含む多様な行為を一つの 身体につなぎとめているかのようだ。
丸谷さんから突然『フィネガンズ・ウェイク』が送られてきた。てがみが添えてあって、形見分けだった。ジョイス、ディラン・トマス、コンラッドを いま読んだら、なにかが見えるかもしれない。そういう時間があるだろうか。
シューマンの評論集『音楽と音楽家』の訳者としてこの名を知った。まだ小学生だったと思 う。ピアノを練習はしないで、当時新しかった音楽の楽譜を 弾いてみたり、父の書棚の本で聞いたことのない音楽について読んでイメージのなかでそれらしい音を聞いていた。ロースラヴェッツ、ハウアー、ケー ジさえも数十年後に知った本当の響きよりすばらしかった。ヴァレーズの楽譜を見つけられないで、輸入楽譜の店主に頼んで作曲者に問い合わせても らったこともあった。「わたしの音楽はもう演奏されないし、楽譜も出ていない」という返事が来た。1950年頃だろうか。その後演奏され新作も委 嘱され楽譜も出版されるようになったが、もう年をとりすぎていた。作曲家も演奏家も旅をしてやっと生活ができるのは、いまも変わらない。少数の人 にしか受け入れられず、その人たちと出会うためにはうごかなければならない。うごいていれば、いままでとちがうことも見えてくる。旅や巡礼は昔は 職人や修行者には欠かせない年月だった。いまでも電子図書館だけではわからないことがある。
シューマンの批評は当時の音楽制度に反抗してまだない音楽を夢見ることばだった。ショパ ンの初期の作品をききながらE・T・A ・ホフマン風幻想のなかで千の眼、孔雀の眼、バジリスクの眼に見つめられていると感じる文章を読んでその曲を聞いてみても音楽のどこにそんなふしぎがあっ たのかわからない。ブラームスを紹介した時もそうだった。批評された作曲家自身にも見えなかった可能性を感じさせ未来をつくりだす批評もあれば、 サルトルが書いたジュネのように作家を定義してそれ以上書けなくする批評のことばも稀にある。吉田秀和の翻訳は批評家として出発する時のしごとで はなかっただろうか。
桐朋学園に途中から入り中途退学したときも、吉田秀和は主任で、音楽史を教えていた。 『新しさを追い求める時代は終わった、これからは編集と引用 のモンタージュしかない」というような文章を小論文の課題で書いたのをおぼえている。T ・ S ・エリオットの『荒地』やエイゼンシュタイン、マヤコフスキーを読んでいたからだろう。 ヴァレーズのレコードを聞かせてもらいに休日に家まで行ったこともあった。2級上の作曲科の学生だった鍋島元子といっしょだった。
雑誌に連載された吉田秀和のヨーロッパ紀行では、1954年のケージとテュードアのヨー ロッパ・デビューやハウアーの「退屈そのもの」のピアノ曲 だけのコンサートのことも書いていた。その後20世紀音楽研究所を作ったりしたが、60年代からだんだん興味が演奏のほうに移って来たように見え る。音楽時評にもヨーロッパの演奏家のことでなければ、相撲か西洋美術のことを書いていた。
『吉田秀和全集』のなかの一巻に解説を書いた。他人の考えを理解することはできない。離 れたところから見て、それとはちがうことを考えて書く。そ れが批判で、批評かもしれないが評論とはどこかちがうニュアンスがある。批判は継承でもあり伝統でもありうるが、分析や評論は伝統にはならないだ ろう。付け、あしらい、転じ、それが伝統の運動。
批評家や学者・研究者は作られたものからはじめる。デカルトは暖炉の傍のソファーで夢を 見る。論理も感覚もことばにして、細部を追ううちに時間の 迷路に入りこむ。ことばの上で対象の全体を表現することが仮にできたとしても、それが何になるだろう。音は音の記憶でしかない。残像や軌跡、廃 墟、ここから立ち去った影にどうして追いつけるだろう。作曲家や演奏家にはまだないものが聞こえることもある。蜃気楼にすぎなくても「まだ意識さ れないもの、近づいてくる別な世界」とエルンスト・ブロッホが言う。
そこにない音楽が批評のことばから起き上がることだってないとは言えない。印象や記憶や感触ではない、立ち去ったものを追う道ではない、その瞬間 にうごいていたことに気づく交差する軌道に移ってどこへともなく運ばれていく。
鎌倉で会うこともあった。バルバラがいた頃、それからまたずっと後になって、たった一度 だけ行ってみた桐朋学園同窓会がきっかけで再会し、実家に 行く折に訪ねて1時間ほど話をする。その時は思うままに、決して書かないような批判も口にしていたから、慎重にことばを選んで書いていたことはよ くわかる。年をとれば新しいことに対応するのがむつかしくなるだけではなく、望まなくても権威とみなされる。そうなれば結果を考えずに思ったこと を言うことができなくなるだろう。それでも言いたいことがあればわかる人には伝わるような多層的表現をとって、白井 晟一の建築の入口のように透明な壁があり、向うが見えると思っても曲がり込まないと入れない。
ある日は書いたばかりの文章、シューベルトの「菩提樹」とトーマス・マンの『魔の山』の 最後の部分について、ヨーロッパ文明が滅びていく戦場で戦 友の手を踏みつけながら起き上がりまた倒れるハンス・カストルプに聞こえるなつかしい樹のざわめき、ここへ帰っておいで、と呼ぶ声、また戦時中の 高校の軍事教練の記憶を織り込みながら書いた「永遠の故郷」の一章について話してくれた。『魔の山』はこどものころ読んだ本で、希薄な空気のなか での啓蒙主義者セッテンブリーニと改宗ユダヤ人ナフタのせめぎあいを熱病の夢のように読みふけったことを思い出す。
作品展をやってやろうと言われ、水戸芸術館で「高橋悠治の肖像」というコンサートが企画 される。2009年のことで、作曲やピアノ演奏が批評され た記憶もないし、認められているとは思ったこともないので意外な気がした。鎌倉から時間をかけてそのコンサートにも来てくれたのも意外だった。 1960年代からその時までのさまざまな方向にちらばった作品を集めても、その後は見えない。使えるような材料の蓄積はなく、そのたびに別な失敗 をかさねる。時々はこれでよかったと思える時もあるが、永くはつづかないし、次の作品には何の役にも立たない。
「もう書くことしか残っていない」と言いながら書きつづけた人がこうしたかたちで自分の 出発点に回帰するのを離れた位置からながめながら、記憶の なかで熟成したものが世界と向きあう姿勢として表現されるという、このいきかたではなく、迷路の曲がり角で突然射しこむ光、記憶に立ち戻りながら そこから絶えず逃れる小道がないかをさがしつづけている、というほうがこちらのいきかたかもしれない。世界は暗い。それでもなにかうごめくものが ある。希望と言えるようなものではなく、日々の暮らしのなかで思いがけず垣間見るなにか、言うに言われないもの。
子どもの頃の愛読書は、長谷川如是閑の「歴史を捻ぢる」だった。もとは1920年代に雑誌「我等」に連載した社会批判で、後に「真実はかく佯る」の一部になった。寓話風の文体と、柳瀬正夢の挿絵が気に入っていた。資本主義も革命も、恐慌も人種差別もこの本で学んだ。
最近近所の図書館でそれを見つけて、父のことを思い出した。父はリベラルな文明批評家・ 長谷川如是閑と労働農民党の大山郁夫の作った我等社にいた。自分のことをいつか書いてくれと言われたのがずっと気になっていたが、子どものころの記憶しか なく、その後は父親の過去には関心がなかったので、いまは子どもの頃の記憶と、昔の本から拾い集めたことを書きならべることしかできない。
父は1900年10月20日四国の宇和島で生まれた。新島襄の流れの組合派教会の伝道師 の三男だった。組合派教会には反権力で直接民主制の気風があり、その家に育った子どもたちはリベラルで自主独立の生活感覚を受け継いだようだ。祖父の自伝 には、丸亀で均の母の登世子の悪阻が医者の誤診で手遅れになったとき、1歳だった均が臨終の床に馬乗りになり、アイアイシーシーとはしゃぐので、やめろと 引き戻すと、今度は父親に組み付いて倒そうとした、と書いてある。一家は祖父の布教活動で九州から北海道まで転々として、均が10歳の頃は当時の植民地 だった平壌にいた。均はそこから熊本の親戚の養子にもらわれて行ったはずだが、数年後には元通り高橋均の名で東京に現れ、東京音楽学校、いまの芸大のヴァ イオリン科に入った。
音楽学生だった頃に我等社にも入ったようで、アンリ・バルビュスの社会主義的反戦運動組 織クラルテに参加した小牧近江がフランスから持ち帰った楽譜で、トランク劇場の俳優の佐々木孝丸と、後にメイエルホリドに学びメキシコに亡命した演出家の 佐野碩が訳詞をした「インターナショナル」を、均が鉛筆を指揮棒にして、創立されたばかりの共産党の党員たちに教えた。1922年のことだ。代々木の市川 正一の家で、堺利彦の娘・近藤真柄や高瀬清、青野季吉の顔も見えた、と「トランソニック」6号 (1975) に書いている。
1976年に均が「音楽の友」に連載した「信時潔伝抄」によると、1923年、均は有島 武郎の紹介で、叢文閣という有島の出版社から「音楽研究」という雑誌を出した。和声学や形式論、演奏会評などの他に、アロイス・ハーバの4分音記譜法 (1920) やヴェーベルンが書いたシェーンベルク論 (1912)、ブゾーニの覚書 (1909-22) など、ヨーロッパ音楽最先端の情報があった。
有島武郎はその年に人妻と心中し、雑誌が5号でつぶれると、均は小笠原で1年間漁師をし たり、朝鮮半島から当時の満州だった大連まで13年間の放浪生活を送った、と「信時潔伝抄」には書いていたが、その間の1927年には蔵原惟人の作った前 衛芸術家同盟の音楽部長になっている。1928年には同盟機関誌「前衛」に「同盟歌」の楽譜が掲載された。作者名はないが、作詞はフランス文学者・桃井京 次 、作曲は信時潔だった。プロレタリア音楽運動は、ステージで歌がはじまるとすぐ、聴衆席の警官が演奏禁止、全員解散と命令するという、芥川龍之介の「河 童」でも戯画化されている弾圧で、長くは続かなかった。父の本棚には当時出版されたプレハーノフやロシア・アヴァンギャルドの芸術論があって、子どもの頃 読んだ記憶がある。幸徳秋水訳の「共産党宣言」もあった。
1932年大山郁夫がアメリカに亡命し、「我等」は1934年2月に無期休刊した。 1935年、均は「音楽研究」を共益商社書店から再刊した。季刊で3年間に12号出したが、創刊号はヒンデミット特集で、信時の知人の元ヴァイオリニス ト、ベルリンから帰国したばかりの佐藤謙三や信時の弟子でベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一、ピアニスト・作曲家で指揮者になったばかりの山田和 男(後に一雄)の論文があり、信時潔も住いの国分寺をもじって古久文二の名で、シェーンベルクと比較したヒンデミット論を書いている。その他に長谷川如是 閑、社会学者の本多喜代治のエッセイがあり、シェーンベルクの12音技法についてのエルヴィン・シュタインの論文もあった。
その後はロマン・ロラン、シェーンベルクやバルトークの特集号があり、プロレタリア音楽 運動にいた盲目の作曲家・守田正義、信時潔の弟子だった作曲家・橋本国彦や長谷川良夫、音響学の颯田琴次、小幡重一、栗原嘉名芽が書いている。東洋美術史 研究者の長廣敏雄による20世紀音楽史の連載もあった。最終号は1937年のドイツ音楽特集で、均の巻頭言は、ドイツ啓蒙主義思想のなかの対立物の闘争と 普遍性原理の一つの結末がナチスによる音楽の統制とも言えるかもしれないが、スターリニズムの前例はあるものの、いままではありえなかった事態だと書いて いる。19世紀末のマーラーやシェーンベルクの調性破壊、ドビュッシーの機能和声破壊につづいて、1920年代はバルトーク、ヒンデミットもいるが、スト ラヴィンスキーの方向に未来があるようだという見方は、信時と共有していたはずだが、国家の統制は身辺にも迫っていた。軍歌と国民歌謡、葬送行進曲以外に 音楽の場はなくなっていた。
神楽坂署だか麹町署の留置場で政治犯が代々受け継いできた「野坂参三の股引」のお世話に なった、と聞いたことがある。勾留されたのはいつで、なぜかは聞かなかった。長谷川如是閑と前後して、当時の鎌倉村へ移住したのも、生まれたばかりの悠治 の病弱のためと聞いていたが、それだけだったのか。文章はもう書いていなかったし、何をしていたのだろう。鎌倉の浄明寺には、近所に転向作家の林房雄もい たし、如是閑もすこし奥の十二所にいたが、みんな特高に監視されていたのだろう。当時は東京からも遠く、鎌倉は郊外というより国内流刑地のようだった。隣 人には、小津安二郎の映画の台本を書いていた野田高梧や民俗学者・大藤時彦、ゆき夫妻がいた。生活がたいへんだったのは、子どもでもわかった。
敗戦後、1946年には芦田均の秘書として憲法普及会で全国を回り、1947年5月3日 憲法記念日には長谷川良夫にカンタータ「大いなる朝」、橋本国彦に第2交響曲「平和」、信時潔にも歌曲「われらの日本」を委嘱させたが、普及会はその年 12月に解散した。解放気分はたちまち薄れ、冷戦、共産党員追放、朝鮮戦争と続くなかで政治運動には希望がなく、長い空白の後では音楽にはもどれなかっ た。三菱化成、いまの新日鉄、の黒崎工場に行ったきりの時もあり、香港にも行って独立運動にかかわろうとしたらしいが、結核に感染して帰ってきた。薬代と 転地療養で、母がピアノを教えて、貧困家庭はやっとなりたっていた。最後の職は、河出書房の嘱託だった。長生きしたので、ほとんどの友人は先に死んでいた
1978年2月10日夜半、逗子の湘南サナトリウムで転んで、家族を呼んでくれと言った そうだが、夜が明けてから母が行った時には意識はなく、まもなく呼吸が停まった。次の朝早く実家に行くと、棺の側には母と二人の妹しかいなかった。火葬場 では、骨壷に入れる骨はほとんどなかった。その頃のやりかただったのか、骨だけでなく灰まで掃き捨てられていた。
サイレンが遠く聞こえる
懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音
暗い家
ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ
川向うの洞窟へ
いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む
鎌倉は田舎町で たんぽぽやえんどう豆を食べる
ピアノは蓋が閉まっていた
おとなたちはいつも近所で過ごす
暑い庭にひしめき座る
家から庭に向けたラジオ
雑音にまぎれた声
その三日後
山の向こうで高射砲が一発 庭に
赤茶けた鉄の塊が落ちてきた
戦争が終わり 音楽がはじまった
子どもたちがピアノを習いにくる
夜 母は自分の練習をする
バッハ=ブゾーニのシャコンヌ
フランクの前奏曲・コラール・フーガ
ショパンの幻想曲や 子守唄
近所にいたヴァイオリニストと クロイツェル・ソナタ
ズボンはもうはかない
短めの上着と細めのスカート
フリルカラー・シフォンブラウス
レッスンの合間に 古い料理カードの絵を見て
おなじ皿がひと月続く
ミシンを踏んで縫った 不格好な子どもズボン
ひさしぶりのコンサートで伴奏をして
批評を読み だまって雑誌を閉じた
それからは
生徒に弾かせる曲を 自分でも練習していた
昔のことは言わなかった
聞いておきたかったことも
もう忘れたよ としか言わなかった
*
坂の上の家から
毎日町に出る
足は強かった
九十歳をこえると
ピアノの音は聞こえても
人の声は聞こえにくい
ひとりで昔の写真を見る
姿勢が左に傾いている
しずかだね
世の中にだれもいないみたい
ピアノはもう弾かない
からだが重く
支えても足がうごかない
あぶない あぶない
夜はすぐ目覚め
明かりを点ける
闇が離れていくように
音楽は もういらない
家を離れて 病院の四人部屋
出てきたな
びっくりした
見舞いに来たの
いっしょにあそんで たのしかったね
もっとあそびたいけど
いまは つらいことばかり
日が暮れてゆく
血圧、脈、呼吸の波がゆれている
呼吸が波立ち 乱れ
他の波に波紋が伝わる
波頭が折り重なり 狭まり尖って
せわしく喘ぎ
たちまち砕け散る
はじめて会ったのは湘南学園中学の文芸部、6ヶ月しかちがわないのに4月1日生まれは1年上のクラスだった。それが1951年で、最後に会ったのは2015年4月京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサート、『苦艾』の初演のとき、いつものように予告もなく会場に現れた。
鎌倉から江ノ電で鵠沼、砂地と松林に囲まれた木のバラック。先生たちは若く、生徒と仲間のようにつきあっていた。授業が終わ るとほとんど毎日ふたりで会って、やっと翻訳紹介されはじめたジョイス、プルースト、ダリ、それにマルクス、読んだ断片について話し合い、古本屋をまわ り、話題がつきると、何時間も黙って、いっしょにいた。この世界の向こうにある知らない世界の夢、終わりのない知的冒険。1954年に東京のそれぞれ別な 高校に移っても、時々会っていた。1956年からは東大に会いに行った。共産主義者同盟ブントで姫岡玲治を名乗っていた頃。すすめられて宇野弘蔵の三段階 論を読んだ。原理・段階・現状分析と下降する三段階。武谷三男の『ニュートン力学の形成』では、現象・実 体・本質と上昇する認識が科学史のなかで、ティコ・ブラーエの観測、ケプラーの惑星運動法則、ニュートンの万有引力という例がわかりやすかった。現象の記 述にはじまり、そこには見えない実体を仮定してその機能を法則化する、本質は普遍的な運動原理になる。その運動を現象とみなして、次の認識の環がはじま る。経済学と音楽は領域がちがっても、システムや方法は仮の足場で、時代や社会状況が変われば、生きかたも変わっていく。
1963年に日本を出た、かれはアメリカへ、こちらはヨーロッパへ。その後こちらがアメリカに移って、ボストンの雪のなかで 転び、気がついたら、かれの家で寝かされていた。数年後に妻だった石田早苗が事故で亡くなり、柿本人麻呂の挽歌をチェロと男声合唱の曲にした。『玉藻』は アメリカで書いた最後の作品。ベトナム戦争末期だった。1972年日本に帰ると、かれは京都大学にいた。1975年の次の結婚の披露宴では、ドビュッシー の『喜びの島」を弾いたと思う。その後もよく会っていたし、日本で本が出版されるたびに送ってくれた。いる場所や考える方向が変わり、遠く離れていても、 意識するまでもない共感でつながっている感じをもっていた。権威にしたがわない、すこし離れて批判する眼をうしなわない、おなじところに停まっていない、 すぐ飽きる、この飽きっぽさで続いていた友情かもしれない。
1990年以後の比較制度分析では、多数のプレイヤーがそれぞれの予想や共同認識から行動方針を決め、多様な関係の結びつき と組合せが、発展しながらいくらか安定すると制度となる。歴史や文化のちがいから、制度はひとつではないし、ゲームのルールは経験の要約にすぎないから、 ちょっとした変化のきっかけでバランスが崩れてしまう。いまは冷戦が終わった1990年代はじめから一世代30年かかって次のバランスが作られるまでの不 安定な時期らしい。それだからこそ、ちがう眼で世界を見て、冒険ができるはずだ。ほとんどの実験が失敗しても、いずれどこかで折り合いを付けられる。
音楽の制度問題は2000年前後に考え、『世界音楽の本』を岩波で出したとき、書いたことがある。シュンペーターの「創造的破壊」とはちがうが、実験の成果が制度になって固まってしまうとき、そこから逸れてちがう方向をさぐるのが「創造」だと感じていた。
会う時は、かれが見つけてきた食べ物屋で、ふたつの家族のつきあい。食べるのも飲むのも好きだった。日常のなにげない話と、 陽気なふるまい。次にまた会うまで。次が突然なくなるまで。いっしょに歩いていても、気がつくと、どんどん先に行ってしまい、角で待っている。少年時代か らおなじだった。その頃、「ふと振り返ると、いっしょに歩いていたはずが、ずっと後のほうで倒れていたりして…」と言って笑っていたが、……
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