言語と精神──翠の虱(36)

藤井貞和

きっと、戦争当事国だから。

いいえ、そうではない。

チョムスキーの講演を聴いている、

一人の少年が、

徴兵よりは言語学を、

ぼくは勉強したいんだ、

そう言いながら、

死んでいったこと、ベトナムの猖獗のなかで。

うそを、

そうではないはずなのに、

吐(つ)いた国、米国。

世界がいま、

{言語と精神}

かくじつによくなってる、

かくじつにあれから30年、

よくなってる。

(昔話を語る少年が、語りを教えてくれたじっつぁんに、テープで聴かせる。小学校で、みんなのまえで、身体をいっぱいうごかして語る。そのときの録音をイヤホンで聴きながら、「よかった、じょうず」と、じっつぁんは仰向いたまま、ちいさく拍手。少年はじっつぁんのベッドにもぐりこんで、胸にしがみついている。こうやって毎晩、少年はじっつぁんから昔話を聴いて成長した。宮城県の昔話採集者、佐々木徳夫(のりお)さんを記録した番組から。佐々木さんは3000人にこれまで会って、1万話を集めている。東北の緑と畠。語りが支える人々の暮らしにこそほんとうの「美しい国」があると、この国の政治家たちにわからせることのむずかしさ。{言語と精神}はチョムスキーの著書名より)

組長

さとうまき

夜の8時ごろ、アンマンの事務所のブザーが鳴ったので、ドアを開けにいくと子どもの声がする。西村陽子が、脳腫瘍の女の子イラフを連れてきた。イラフは4歳の女の子。一年前にがんの治療のためにバクーバからアンマンにやってきた。お父さんと2人で安アパートを借りて暮らしている。子どもの介護に疲れたお父さんは、西村にイラフをあずけて、しばし生き抜きをする。

彼女は、イラフのことを組長と呼んでいる。確かにつるっぱげの女の子は、人相が悪く、頭やら体には7箇所以上の手術の後がある。しぐさも女の子らしくない。ぼくには彼女が何を言っているのかよくわからないが、西村陽子にはよくわかるらしい。彼女の遊びにはコースがあるようだ。まずは積み木。といっても、抗癌剤の箱を積んでいく。ビニール袋に入った薬の箱は、100箱くらい。書棚の取っ手のところにぶら下げてあるので、なんで捨てないのかと気になっていたが、イラフが遊ぶようにおいてあるのだ。

「組長、今度は何をして遊びますか」
「そうだなあ、お医者さんごっこ」
イラフは西村さんの腕をタオルで縛り、血管を捜すそぶりをしている。
「組長、そろそろ、ご飯の時間です」
「まだ、遊ぶ」
「でも組長、今日はチキンですよ」
「おお、それならば、食べよう」

子どもを預けた親父は、申し訳なく思ってか、チキンを買ってくれた。イラフは貧しいからあまりお肉を食べることはないようだが、陽子が明日、アンマンを離れると聞いて奮発してくれたのだ。今日は、何も食べないようにと、親父に釘を刺されたという。
「組長が、そこにいるおなかをすかせた叔父さんも座って一緒に食べるようにといっています」
「かたじけない。ではお言葉に甘えて」
私も一緒にご飯をいただくことにした。

ご飯に飽きると今度は、お絵かき。といっても、イラフのキャンバスは、西村陽子である。サインペンを持ち出すと、西村を捕まえて、腕とか、顔に落書きをするのだ。今度は、ぼくのほうを見て、にやりと笑う。そうは、問屋が卸さない。私は彼女を捕まえて、ペンをうばいとった。
「きゃー」
悲鳴を上げるイラフの顔に眉毛とかを落書きしてやった。
「組長、いかがでしょう?
」西村が手鏡をもて来てくれる。
「キャー」
はしゃぐ組長。
夜も更けてくると、お父さんが迎えに来る。
「組長、お迎えが参りました」

ヨルダンは、ラマダン月を迎えていた。ラマダンは、貧しい人達のことを考えるために、日中はご飯を食べない。しかし、おなかをすかせた輩は、いらいらして、喧嘩をしたり、車をぶつけたりとなかなか大変。仕事にならないと西村陽子はラマダンが始まると同時に日本へ帰って行った。

一方街角には、イラフの巨大看板が建っている。組長が、ランプを持ってにたりと笑っている。キングフセインがんセンターでは、治療費の払えない子どもたちのために、お金を集めようと、特に、ラマダン中の喜捨を呼びかけている。イスラム教徒は資産の2%を喜捨しなくてはならず、ラマダン中に寄付をする人も多い。キングフセインがんセンターは、イスラム協会が認めた寄付先として、大々的に広告をうっているのだ。何人かの子どもの写真を撮ったのだが、イラフの表情がとてもいいので、4種類ある写真のうち2種類にも、彼女がモデルとして採用された。

組長が、どのようなラマダンを過ごしているのか気になった。坂の上の小さなアパートを訪ねる。4畳半ほどの部屋にベッドが2つ並べてあり、イラクから持ってきたスーツケースだけで場所をとり、足の踏み場もない。小さなキッチンがあり、お父さんが、イラフのためにちょっとした料理をしたりしているようだ。床には、イラフのおもちゃやら洋服やら、食べ残しのお皿やらが散乱している。きたない!

イラフのお父さんは、まるで聖人のようにひげを蓄えている。相変わらずお金がないのか、前歯は抜けたままだ。イラフはぐったりとベッドに横になっている。機嫌悪そうに私たちに背を向けて布団をかぶっている。布団を少し持ち上げて私たちのほうをちらちらとみているのだ。眼が合うと、にたりと微笑む。
「組長、街中では、組長の写真が貼られ、ちょっと話題になってますぜ」
新聞にもイラフの写真が出ている。

この狭い空間でもイラフは、コース遊びをこなしていく。ブロック遊び、ボール遊び、ベッドの下にもぐりこんだり、ボールをぶつけたりとおおはしゃぎである。時折、怪鳥のように、ぎゃーと体をこわばらせながら叫ぶ。

お父さんは、いつもお世話になっているから、皆さんにご飯をご馳走したいという。ありがたいのと同時に、こんなところでご飯をご馳走になるのは、とても申し訳ない気がした。翌日、私たちはチキンを買って、一緒に料理をすることにした。ちょうどアンマンに来ていたボランティアの菜穂子さんも誘っていく。昨日よりは少しきれいになっていた。それでも、菜穂子さんは、「きたない!」

お父さんの指示に従って、アラブ料理を作る。6時30分、日が沈むと、いよいよ、イフタール(断食後の夕食)
「組長、お味のほうは?」
組長は、スプーンをとると、ご飯はそっちのけで、むしゃむしゃと菜穂子さんを食べるふりをする。
「組長、それは、人間ですぜ。あまりおいしくないと思いますが」
それでも、組長は楽しそうに、菜穂子さんをたいらげた。その後、味をしめた組長は私の友人を次々に食べていった。

父と子は、もう一年以上も、母に会っていない。ぼくたちは、汚い部屋で暮らすこのお父さんに哀愁を感じずにはいられない。それと同時に、ある種の、欲望がむらむらと沸き起こってくるのだ。それは、掃除したい! という欲望だ。汚い部屋という現実から逃げたいというよりも、掃除したいという正の欲望をこの父と子は与えてくれる。私たちの欲望はともかく、喜捨がたくさん集まって、組長が治療が続けられますように。

ラマダンは、10月10日まで続きます。ラマダン中の募金を希望される方は、
郵便振替口座:00540-2-94945  口座名:日本イラク医療ネット

毒物漁法

仲宗根浩

毒物漁法というものがありまして、現在でも海や川に青酸カリを使用して観賞魚を捕らえ売買するために行っている国があるようですが、沖縄でも復帰前、行われていたようです。
昔は本島も豊富な珊瑚に囲まれていましたから、潮が引くと、リーフの割れ目の深い縦穴には取り残された魚がいっぱい。そこに青酸カリをちょこっと入れ、浮いてきた魚を捕る、というきわめて単純な方法です。沖縄の場合は観賞魚捕獲のためではなく食用。

最初にそのはなしを聞いたとき、使用しているものが日本では「毒物及び劇物取締法」で指定されている毒物だけにその入手じたい規制がかけられていることから頑に信じない方もいました。
が、ある日、近所の居酒屋にて、ご主人に青酸カリ漁法について話しをしたところ、
「うちの親父がやってたよ〜」
とあっさり。
居酒屋のご主人のお父さんは沖縄の南部で海人(うみんちゅ)だったとのこと。
青酸カリの入手法を聞いたところ
「軍(もちろん米軍です)から闇ですぐ手にはいるさ〜」
とこれもあっさり。

まあ、復帰前のことです。わたしの実家は嘉手納基地すぐ近くですから、基地流れのウイスキー、煙草は日常でした。タクシーの運転手さんが米兵をベースまで乗っける。金を払えないのでジョニ赤の1ガロンボトルを持って来たとか、うちの近所ではありませんが、ほんとかうそか小学生のころ、基地ではたらく父親がくすねて隠していた手榴弾を見つけ、それを持ち出し、そう簡単には爆発しないとおもいマンホールへ投げこんだら爆発、学校中騒ぎにしたやつなど。

野次馬もいました。近所の大きな市場で火事が起きると真夜中にも関わらず子供をたたき起こし、まず屋上にて確認後、現場まで連れて行く。毒ガス移送のとき、学校は休みのため、移送される米軍の天願桟橋が見える、立ち入り規制のかかっていないところまで車で行き子供連れで見学。コザ暴動の明けた朝にカメラを持ち、ひっくり返され、焼かれた車をバチバチとカメラにおさめ、子供を黒焦げになった車の横に立たせ記念撮影。この野次馬、私の父親です。

メキシコ便り(2)

金野広美

私の通う大学はメキシコシティーの南方に位置するメキシコ国立自治大学です。そのなかの外国人のための学部で、スペイン語と文化コースがあります。文化コースには美術史、歴史、社会科学、文学の各コースがあり、春季、夏季、秋季と年3回の入学機会があります。私の入った秋季スペイン語コースは世界各国から約100名の入学でした。多いのは中国、韓国、日本でそれに続き、アメリカ合衆国、ブラジル、フランス、ドイツ、といったところです。

ここメキシコ国立自治大学はとても広く、現代美術館、博物館はもとより、4面を世界最大の壁画で覆った中央図書館、映画館、コンサートホール、スタジアム、小さな森などがあり、道路はタクシーをはじめ、各学部をつなぐ巡回バスが縦横無尽に走り回っています。ラテンアメリカ随一というだけあり、その規模はひとつの街のようです。

私のクラスは日本、韓国、アメリカ、スウェーデン、スイス、ハイチ、ペルシャ、オーストラリア、デンマークなどからやってきた14人の人たちで、クラスのなかでは、スペイン語がさっぱりなのに、休憩時間になると、英語でしゃべりまくる韓国人のマリソルや、いつも授業の始まる前に黒板にアラビア文字を書いてペルシャ語を教えてくれるファラ、先生に遅れるなと毎日注意されるにもかかわらず、必ず遅れてくるハイチ人のチャールズ、遠藤周作が好きでたくさん読んだと話しかけてくるアメリカ人のケビンなど、個性的な若者の多いクラスです。基礎コースのため、先生はとてもゆっくり話してくださるので、よく聞き取れます。やってる中身はすでに日本で勉強してあるので、周知のことばかり。ただ進む速度が超特急なのです。毎日3、4時間予習をしますが、すぐに、追いつかれ、追い抜かれていきます。

こんなわけで、毎日かけっこをしている私ですが、ここに通うのに私が毎朝乗るのが地下鉄。学校まで25分間かかるのですが、まったく飽きることがありません。というのは、乗っている間中、色々な物売りが通るのです。あめやお菓子にノート、電池にライターに縫い針、そして、大音量で音楽をかけながら、CD売りが次々やってきます。勝手にコピーをしているのでしょうか、1枚10ペソ(日本円で約110円)です。先日はギターとケーナとサンポーニャを持った2人の若者がきれいなハーモニーでジョローナ(泣き女)を歌っていました。あまりにうまっかたので、多くの乗客がお金を渡していました。一人のおばさんは5ペソ渡して、しっかり3ペソおつりをもらっていました。すごいでしょ。どこでもおばさんは強い!。そのほかには、目の不自由な人が、腰に紐でコップをつけ、ギターをかかえたり、ピアニカを演奏しながら、よろよろと歩いてきます。運転が下手というか荒っぽいのか、(私はこっちだと思います)車両が悪いのか、とにかくよく揺れる地下鉄なので、思わず、手をさしのべてしまいました。これだけ揺れると大変な重労働だなと思いましたが、それでも慣れているのか、ひっくり返ることもなく、次の車両に移っていきました。

このように多くの物売りや流しの人たちが、地下鉄で商売をするのも、ここの地下鉄がとにかく安いのです。どこまで乗っても2ペソ(約21円)。どこをどう乗り換えようが、1日中乗っていても改札さえ出なければ、2ペソで済むのです。乗客もよくコップにお金をいれたり、CDを買ったりしています。結構いい商売になるのかもしれません。

そして、あとひとついかにもメキシコらしいのは、女性専用車です。朝のラッシュ時、プラットホームの前から4両目のところに、大きな柵をたてて、ガードマンが立っています。柵には女性だけ通っていいと書いてあります。なるほど、このように見張られていては、日本のように、いくら女性専用車両と決めていても、気づかなかったり、気づかないふりをする人も出ないから徹底できると感心しました。そして、おまけに3両も女性専用かと感動しました。メキシコのように万事がええかげんなところで、この徹底ぶりはすごい! と感心したのもつかの間、次の乗降客の少ない駅ではホームに誰も立っていません。当然男性は入ってきますから結局は、日本と同じ結果になるのでした。チャンチャン。やっぱりそんなわけはないわなーと、妙に納得した私を乗せて、ここメキシコの地下鉄は、揺れに揺れながら、音楽満載で今日も走り続けるのでした。

製本、かい摘まみましては(32)

四釜裕子

いつも机の目の前に、羽原肅郎さんの『本へ!』を置いている。6月に朗文堂から「造形者と朗文堂がタイポグラフィに真摯に取り組み、相互協力による」”Robundo Integrate Book Series”の第1弾として刊行された詩文集で、「本」への限りない愛に満ちた本である。ほぼA5判、蛇腹に折りたたまれた本文が黒のスリップケースにおさめられた端整な装丁は著者自身によるもので、天地半分幅の白い帯に押された4カ所のゴム印も、おそらく著者の手によるものと思われた。

この詩文集は、羽原さんが2005年8月に明星大学の教授を退官なさるときに同大学から発行されたものが元になっているが、装丁は全く異なる。こちらはA4判と大型で、しっとりとした光沢を感じさせる白い紙に、文字はゆったり組まれ、銀で刷られている。表紙カバーは4色刷りで、C(シアン)M(マゼンタ)Y(イエロー)K(ブラック)という印刷の原則を、タイトルや名前をサンプル媒体として提示している。退官記念に開かれた「羽原肅郎のデザイン思考と構成展」の図録のデザインとのバランスも、大切な要素であったのだろう。

2007年版は日英の2カ国語となり、蛇腹に折った本文用紙の表裏にそれぞれおさめられた。紙を蛇腹に折りあげて、望みどおりの直方体に仕上げるのは難しい。本番はプロにお願いするとはいえ、羽原さんはご自分でも試作を繰り返されたようだ。2005年版と比べてみると詩文の文言はほとんど変わっていないが、およそ半分となった判型にあって、フォーマットは14級30字詰(105mm)×行間全角空22行(150.5mm)から10級52字詰(130mm)×行間全角空23行(112.5mm)となり、作品中に導入された罫線の伸びやかさがより強調されているように感じる。用紙は光沢のない白、文字は墨となった。

中に、「製本」に触れているところがある。本の内容や構成によって最も適切な素材・手触り・質の紙と色が選ばれるのであって、あらゆるものに素材としての可能性があるということ、電話帳などは別として本は「かがり綴じ」でなければならないこと、綴じにはその国の本の文化度が反映していること――こんな風に勝手に要約してしまえばおよそ単調だが、この本の中では「詩」となって、本そのものへ、また本を作るひと愛するひと全てに対する讃歌の一節として、読み手にこれでもかこれでもかと降りかかる。

本文用紙はケースに入れる前に、3つ折りの白いカバーにくるまれる。裏面には写真があるのだけれど、「ほんとうはこの写真が使いたかったのです」と羽原さんは、アンドレ・ケルテスの “On Reading” の1枚をお示しになった。でも私にはそれよりも、羽原さんが撮ったあの窓辺の1枚こそが不可欠であると思える。いくたびの試作が繰り返された場所の肖像だからだ。のちに、バーコードのない帯をまとった『本へ!』を送っていただいた。既に求めていたものとはゴム印の種類が違う。「家が, 住むための機械なら, /本は, 清らかな愛を育む機械だ.」という言葉も新たにある。そして本文の中にもゴム印が! 

ページをめくるたびにこれほど「本」への驚きと悦びに溢れる本が他にあろうか。本に、愛は宿る!なんてことを恥ずかしげもなく、また思わず口にしてしまうのだ。

インドネシアでのテレビ出演

冨岡三智

先月「己が姿を確かめること」その1を書いて、本当は今月はその2を書こうと思っていたのに、うかうかしている間に月末になってしまった。実は、この9月6日に1年1ヶ月のインドネシアでの活動を終えて帰国。まだ、どうも日本のモードになじめていない。というわけで、その2はもうちょっと練って来月に書くということにして(今度こそ本当!)、今回は急遽、インドネシアでテレビ出演した経験について書いてみよう。

  ●

7月28日頃のこと、「”キック・アンディ”という番組に出演してほしいが、8月1日にジャカルタに来れますか」という電話が、いきなりメトロ・テレビ局からある。私は同テレビ局に何のツテもないので、全然事情が分からない。とりあえず「よろしいです」と答えると、それでは事前の30日に自宅に予備取材に行きます、その取材はソロ地域担当の者が行きますから、その人からまた電話を入れてもらいます、ということだった。

その電話から30分か1時間後、今度はG社から電話があって、8月1日にメトロ・テレビ局が来てソロで公開トーク・ショーをしたいけれど、出演できますか? という話が来る。私の頭はよけいに混乱し、さきほど同局から電話があって同じ日にジャカルタに来いという話だったけど…と伝えると、G社も驚いている。

けっきょく、事情は次のようなことだった。
G社はイワン・ティルタというインドネシアを代表するバティック作家が衣装デザインを手がける公演(全国巡回)をプロデュースしていて、私はそのパンフレットにジャワ宮廷舞踊スリンピ、ブドヨについての文を寄稿している。その公演が8月3日にソロであるので、G社はそのプレ・イベントとして、その作品の振付家やら私やらを招待してソロで公開トークショーをしようと考えたらしい。メトロ・テレビはその協賛会社の1つである。それで、外国人でジャワ宮廷舞踊の調査と公演をしている人がいると、G社は私のことをメトロ・テレビに話したらしいのだ。

それが、ちょうどメトロ・テレビの「Kick Andy(キック・アンディ)」という番組では、8月のインドネシアの独立記念日の特集の一環として、インドネシア芸術に本格的に取り組む外国人を紹介しようと構想していたらしい。そこに私の情報が流れたようで、出演ということにあいなった。ちなみにG社がソロでやろうとしていたイベントは中止になったようである。

テレビ出演の話がきたのは嬉しいが、実は私はテレビを持っていなかったので、その「キック・アンディ」という番組がどんな番組なのか知らなかった。それできゅうきょ身近な人に聞いてみると、司会のアンディはなかなか知的で、トーク番組の質が高いということで定評があるらしい。そういう番組だから、君もしっかり受け答えしないと駄目だよ、などと知人に説教される。

7月30日(月)07:00-09:00 自宅での取材
こんなに朝早くの取材になったのは、ソロからジャカルタに宅配便で取材テープを送るタイムリミットが、この日の10:00だったから。前日は私が市外に行く用事があって都合がつかなかった。この日は、自宅(私は1軒家を借りていた)の玄関で記者を迎えたり、2階の居間で踊りの練習をしたり、いろんなシーンを30分くらいも撮っただろうか。実際に編集されると、ほんの1、2分しか使用されていなかったが、テレビの人が何に目をつけるのかが分かって、とても勉強になった。

8月1日 ジャカルタでの収録
撮影は夕方ということだったが、07:00発の飛行機でジャカルタへ飛ぶ。メトロ・テレビの職員が車で迎えに来ていて、ホテルに直行。昼食は部屋でルームサービスを取って、16:30にホテルに迎えが来る。テレビ局に着いたのは17:00頃だろうか。

収録は18:30頃からということで余裕があると思っていたら、「番組では伝統衣装で少し踊ってもらいますので、着替えて下さい」と言われて仰天する。伝統衣装を持って来いとは言われていない! どうやら連絡で行き違いがあったらしい。

急に余裕がふっとんで、テレビ局の衣装部屋で衣装探しにとりかかる。とりあえず頭を普通にお団子に結ってもらう。サングルという、伝統的なヘアスタイルのつけ毛がここにはないのだ。それよりも、ジャカルタの、しかもテレビ局の衣装室には、中部ジャワの様式のカイン・バティック(腰に巻くジャワ更紗)も、クバヤ(上着)もなかった。一応バティックもクバヤもあることはあるのだが、スンダ風だったり、プカロンガン風だったり、またえらくモダンだったりして、中部ジャワの伝統舞踊に取り組む私が着るものとしては、無理がある。

スタッフでソロ近郊の出身の若い人がいて、私が中部ジャワの伝統デザインについて説明すると、そんなデザインはジャカルタにないです! でもお祖母さんなら持っているかも…と言ってくれて、結局、なんとかそのお祖母さん所有のものを借りることができた。時間が迫る中、必死でバティックに襞をとる(中部ジャワでは前中央に襞をとって着付ける)。クバヤはぶかぶかで詰襟というのがちょっと違うのだが、集めた中では一番クラシックなデザインで、またマイクを仕込むにはちょうど良いぶかぶか加減だった。

さて本番。開始前にスタジオでアンディと挨拶。スタジオには300名の視聴者が入っている。この番組は生放送ではなく、編集したものを後日放送する。というので、実際には、放送されたものより質問の内容が多かったし、言い損いがあるたび取り直しもあり、さらにスタジオ視聴者のためのコンサートタイムみたいなものもあった。

収録が終わってホテルに帰ると23:30を過ぎている。ここで初めて空腹を覚え、夕食をテレビ局で食べていなかったことに気づく。お弁当は用意されていたのだが、衣装のことであたふたしている間に収録になってしまったのだった。なんだかどっと疲れてしまった。いつもテレビに出演している芸能人は、こんな毎日が続いて大変なんだろうな、と思いをめぐらす。
翌日、飛行機でソロに戻る。

8月16日(木) 22:05-23:05 放送
8月19日(日) 15:05-16:05 再放送

今回の番組のテーマは「Kami Juga Cinta Indonesia」(私たちもインドネシアを愛しています)。独立記念日(8月17日)がらみの特集なので、8月中に絶対放映しますということだったが、なんと記念日の前日である。ただ、インドネシアでは独立記念日の前日には市町村でそれぞれ夕方から夜にかけて行事があり、さらにその後も一晩中いろんなイベントがあるので、案外、テレビを見ていない可能性も高い。私の知人の多くも日曜の再放送で見たという人が多かった。そういう私は、近所のテレビがある家に行って見せてもらう。そこは私もよく利用するよろずやさんで、いつも夜遅くまで店を開けているのだ。

8月24日(金) 17:00-19:00過ぎ キック・アンディ・オフ・エア

テレビ放映が終わって、これでおしまいだと思っていたら、この番組にはテレビ放映されないオフ・エアという催しがあるらしく、その出演依頼が8月20日頃に来る。基本的に放映されたときの出演者を再度招待して、その放映された映像をスクリーンで見ながら、視聴者と対談するというもの。毎週金曜にやっているらしい。これはテレビ局内ではなくて、ジャカルタのチキニという所にあるカフェ・バーみたいな所で実施している。オフ・エアの催しではインターネットで申し込んだ100名の視聴者を招待することになっているらしい。アンディによると、私の出た回の視聴率は良くて、電話やメールでの反響も多かったそうだ。

ちなみに私は8月26日にジャカルタ公演を控え、22日からジャカルタに行って準備をすることにしていた。公演の場所もチキニなので、非常に具合が良かった。

放映された番組では、元オーストラリア人、現在インドネシア人でワヤン(影絵)の人形遣いであるガウラ氏と、日本人でジャワ舞踊家の私と、オーストラリア人でインドネシアのテレビ番組で俳優やレポーターとして活躍するワハユ氏の3人がゲストだったのだが、ワハユ氏はテレビの仕事でアチェに行っているとかで、私とガウラさんの2人がこの日のゲストだった。ガウラさんは、さすが人形遣いだけあって、口が達者で、質問のほとんどはガウラさんに向けられる。今回は、かなり鋭い、突っ込んだ質問が多く、本音のトークになったことは幸いだった。私たち外国人が惹かれているインドネシア芸術の強みを、もっとインドネシアの人々が再認識してくれたら、と思う。

しもた屋之噺(70)

杉山洋一

ここ暫く続いている規則正しい生活。

毎朝4時半起床。ベッドで仕事のメールを片付け風呂に入り、6時過ぎには家を出て、ジャンベッリーニ通りのバールで菓子パンとカプチーノで朝食を取り、中央駅から7時10分発ローマ行急行に乗ります。ミラノの街を抜けて、田園風景が広がってきた辺りで朝日が昇り、刈取られたばかりの畑が真っ赤に染まるのを見ながら、もう少し眠るか作曲のメモを取るか、練習の返しのチェックしつつ、ボローニャ二つ手前のレッジョ・エミリアに着くのは8時39分。

練習は毎日10時からなので、街の中心にある劇場まで12分ほどのんびり歩き、カヴァレリッツァ劇場に顔を出し、朝早くから仕込みをしている演出家や照明、舞台の裏方の皆に挨拶がてら、練習スケジュールの打合せなど。10時から公園一つ隔てたヴァッリ劇場の稽古場で歌手たちと音合わせの後、カヴァレリッツァに戻って舞台稽古になるか、向かいに建っているアリオスト劇場でオケのリハーサルが入ります。ちなみに今日は朝10時練習が始まり、夜の9時に練習が終わるまで、30分ほど午後遅くに休みがあっただけで、ひたすら練習続きでした。
明日は日曜で、歌手たちは一日休養を取りますが、こちらは17時までオーケストラと練習の後、20時からミラノの拙宅で合唱の指揮者と打合せがあります。もっとも、普段、長い時間を費やす舞台演出のリハーサルは、こちらは言われた時だけ降っていればいいだけで、消耗するということもないのですが。

今日はオケの人たちがご飯を食べている間に、ヴァッリ劇場で歌手の合わせをして、その後でアリオスト劇場に戻ると、お願いした通り、オケの誰かが買ってきてくれた、モルタデルラのサンドウィッチが譜面台に置いてあって、こういうのは嬉しいものです。そうでなければ、昼飯は決まって駅の脇の国鉄のメンサで、美味しいパスタとメインも野菜も存分に食べ、お八つは近所のバールで菓子パンなどを頬張ります。ミラノから来ると、レッジョ・エミリアはどこのバールも菓子パンがずっと美味しいのに驚きました。ミラノが美味しくないだけでしょうけれども。北イタリアのミラノからたかだか電車で1時間半程度なのに、街は掃除がゆきとどき、公共施設はスイスのように綺麗で、太陽の光線もずっと燦燦としているのです。

そうして20時か21時過ぎまで練習が続き、急行でミラノに戻るときは電車も空いているので、コンパートメントのカーテンも締め切り、座席をベッド状に引き出しぐっすり寝こんで帰ってきます。

こんな生活が10月半ばまで続くわけですが、一体何をやっているかというと、マフィアのパレルモ大裁判を仕切った、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事をめぐるニコラ・サーニの新作オペラ「il Tempo sospeso del volo(最終飛行の止まった時間、とでも訳しておきましょうか)」を、レッジョのREC音楽祭とパルマのヴェルディ・フェスティヴァルのために準備しているところで、ノーノやシュトックハウゼン、ブソッティなどの名演で知られるバスのニコラス・イシャーウッドや、名優ミケーレ・デ・マルキなどと一緒に、オペラ演出家フランコ・リパ・ディ・メアーナが、残された裁判記録やファルコーネや友人らの日記、証言、ファルコーネらを告発する怪文書のみで作った台本を、彼自身の演出でそれは丹念に舞台を練り上げているところです。

「最終飛行の止まった時間」、というのは、1992年5月23日シチリアの旧プンタ・ライーズィ空港(現ファルコーネ・エ・ボルセッリーノ空港)からパレルモに向かう高速道路で、夫人のフランチェスカ・モロヴィッロもろとも爆殺された所謂「カパーチの虐殺」の時間へ、最後にファルコーネが乗った飛行機が永遠に閉ざされた時間とともに降りてゆく、落ちてゆく、という設定がなされています。

マフィアの存在を同僚すら知らなかった当時、ファルコーネが、ロッコ・キニーチの下でボルセッリーノ判事らとともに活動を始め、改悟したブシェッタとの会話を通して、342人が有罪判決を受けた86年の「パレルモ大裁判」が実現し、その後キニーチが殺され、通称コルヴォの匿名の怪文書で告発され、パレルモ法曹界で次第に煙たがれてゆくファルコーネが、ローマのマルテッリ法相によって法務省へ転職し、常に死をひしひしと感じながら最後の時を過ごし、永遠の時間に封じ込まれた機中に、聴衆も共に乗り込んでいる。ざっと説明すれと、そういう感じになるのでしょう。

通常のオペラ劇場の形式で、舞台がありオーケストラ・ピットがあって、観客席がある、というのではなく、カヴァレリッツァ劇場の特性を活かし、聴衆は巨大なオペラ劇場の舞台下にいるように配置され、舞台はその上を自在に動き回るので、聴衆は実際の舞台を前面に張られた鏡を通して見ることになります。

3人の歌手、2人の俳優らの声はマイクで増幅され、同じくマイクで拾われたオーケストラの音ともにミックスされ、頭上の17本のスピーカーが実音と混ぜ合わせます。このためわざわざヴィドリンを呼んだそうだから、きっと上手にやってくれるに違いありません。

サーニも、別に実験的なオペラを作ろうとしたわけではなく、ファルコーニを賛美する特に大げさなスーパー・ヴェリズモ・オペラを目指したわけでもなく、だからごく普通の聴衆にも受け容れられる、よい塩梅に仕上がったオペラではないかと思います。とにかく、全てノン・フィクションで、相当身近なテーマですから、歌手や俳優たち、それだけでなく、一緒に演奏しているオーケストラまで、各々がすぐにその世界に入ってゆける、というところがキーポイントなのでしょう。

これを日本でやっても、うーん、どうかな、あまり面白いとは思わないんじゃないかな、とは感じます。むしろ、ファルコーネを、アメリカはギャングの街シカゴで生まれたニコラスが演じ、指揮者が日本人というのも、なかなか音楽に対して客観性が保てて、面白いのかも知れません。ちょこちょこ演出のために、カットが加えられ、楽譜がどんどん書き換えられてゆくのを見ているのも、ああこれがイタリアのオペラの伝統かと愉快な気分になります。

パレルモ検事局最高議会がカポンネットの後任の予審部長に、アントニーノ・メーリとファルコーネのどちらに誰が投票したか、その記録を読んでゆくだけだったりするのですが、デ・マルキなど俳優の声のもつ強さ、魅力に鳥肌が立ちます。彼らにそう言うと、「イタリア語は舞台には全然向かない言葉なんだよ。英語とは全然違う。、イタリア語は歌うため、文字通りオペラのために作られた言葉だからね。大体イタリア語、なんてものは存在しないじゃないか。イタリアという国すらあるのだかどうか怪しいわけでから。100年前に無理やり統一させてみたが、結局文化的には溶け合わないまま今に至るわけだろう。それに比べると、イタリアの各地の方言は、舞台にとっては実に豊かな言葉だ……」。
ピランデルロの戯曲や、普段の生活の立ち振る舞いから充分演劇的なイタリア人は、やはり最後はどうしてもオペラへと収斂されてゆく、というのが彼らの意見でした。

まだ来週一週間以上、準備に時間をかけられますから、これからどこまで内容を皆が身体のなかに消化させてゆけるか、とても楽しみです。さてこの辺で大急ぎでシャワーを浴びて、7時の電車に飛び乗る事にします。

(ミラノにて 9月30日)

痕跡と廃墟の可能性

高橋悠治

1)ブラジルの記憶(10月27日のブレーズ・サンドラール生誕120周年記念シンポジウム「スイス=ブラジル 1924 ブレーズ・サンドラール、詩と友情」のために)

行ったことのないブラジルで思い出すのは、1957年から14年間東京にいた作曲家で詩人のヴィニョーレス(L. C. Vinholes)。コーヒーの袋に入った作品をくれた。正方形のカードに直線が書かれ、どの方向からでも演奏できる。結局演奏しなかった。草月会館でヨーコ・オノの個展があったとき、最後に出演者全員がステージから聴衆の一人をじっと見つめ、耐えられなくなってみんなが帰れば会は終わるはずだった。ヴィニョーレスが客席で読書をしていたので,午前1時になっても終わることができなかった。守衛が会場の照明を落として,やっと解放された。後で知ったが、北園克衛や新国誠一をブラジルの具体詩グループ『ノイガンドレス』に引き合わせたのは彼だった。

1963年にベルリンで彫刻家のマリオ・クラヴォ・ジュニアと知り合った。針金で神話の一場面のような,廃墟のような作品を作っていた。大家族で一日中濃いコーヒーを飲み,水の母イェマンジャーをうたうドリヴァル・カイミのレコードが流れていた。息子のクラヴォ・ネトもそこにいたはずだ。彼はやがて故郷サルヴァドールの人びとを撮った写真集をイェマンジャーの息子エシューに捧げるだろう。

2)眼の痕跡(「荒野のグラフィズム:粟津潔展」金沢21世紀美術館)

粟津潔と会ったのは1960年代初めだったかもしれない。草月アートセンターに集まったアーティストたちのなかで、かれは年長の世代だったし、すでにポスターを通じて知られていた。こちらは前衛音楽のピアニストとしてデビューしたばかりだったから、直接の交流というよりは草月アートセンターや武満徹を通してのつきあいだったと思う。70年以後は、北川フラムのアートフロントでも会っているし、対談をして それが本にもなっているようだから、かなり近い位置にいたにちがいない。だが、個人的な会話の記憶はない。

粟津潔はその時々で関心の焦点が移り、その時期のしごとには、領域や仕事の相手よりも、自分の追求している対象がいつも優先していた。シミ、地図の等高線、指紋、ハンコ、亀、縞模様、眼球、そして岩に刻まれた神話的で文字以前の象形など。

かれの作品を思い出そうとすると、線の束から面を構成するというよりは、平面を曲線で輪切りにする、交叉し重なりあっても立体感がなく、薄い平面上にある多層性、明るく透明な色よりは、影を帯びた不透明さ、こんな印象が浮かんでくる。いま見ているものではなく、見たものの記憶、それも自分で描くのではなく、表面に刻まれた痕跡、角を曲がると、偶然そこで出会ったように待ちかまえていた、思い出したくないことば、のように。

粟津潔は、不潔斎と署名していたことがあった。北斎を意識してのことか。眼に触れる世界のすべてを描こうとした江戸の画狂人はもういない。現代の画狂人は、不運にも見てしまった風景の屈折した残像を、眼球の内側で探しつづけるのだろうか。