「水牛」を読む(2):『水牛新聞』第2号(福島亮)

 前回は、『水牛新聞』創刊号から二つの記事を取り上げて紹介した。選んだのは、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」の二つである。前者からは「内的貧困」というテーマが、後者からは「身体的貧困」というテーマが見えてきた。これら二つのテーマに共通する「貧困」という言葉は、今後の記事紹介においても鍵になるだろう。「貧困」状態はネガティヴなものではあるが、一転した瞬間、充足を求めてエネルギーを爆発させる可能性を秘めたものでもあり、こう言ってよければ、「貧困」は潜在的な「革命」可能性なのである。ところで、少し視野を広げてみると、『水牛新聞』創刊の翌年、1979年、ハーバード大学出版から社会学者の手による『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が刊行されている。時は高度経済成長がその黄金期に差し掛かろうとする頃だ。そのような時代の流れの中で提示されたこれら「貧困」の潜勢力を知ること。それが本連載を最初から最後まで貫く一本の糸となるはずである。その糸は途中でほつれ、もつれ、網のようになるだろう。

 今回は、1978年12月1日に刊行された第2号を読んでいく。以下の文章では、まず、『水牛新聞』が刊行された経緯について簡単にまとめる。今回紹介する記事の内容とも密接にかかわるからである。ついで、『水牛新聞』第2号の中からいくつかの記事をピックアップして紹介する。

 

『水牛新聞』創刊まで

  『水牛新聞』創刊号が1978年10月1日に刊行されたことについては、前回述べた。その1週間後、10月7日、東京の社会文化会館で行われた「アジア民衆文化の夕べ」というイベントで、8人のメンバーからなる楽団の演奏が鳴り響く。この楽団は「水牛楽団」と命名され、アジアの民衆ソングを歌い、演奏することを目的としていた。「水牛楽団」について知るための簡便かつ充実した資料は、1984年に本本堂から出されたカセット・ブック『水牛楽団 休業』(浅田彰、坂本龍一編)に付録された年譜であり、この年譜を頼りにすることで、『水牛新聞』刊行の経緯も具体的な日付とともに見えてくる。年譜から抜き出してみよう。すべてが始まったのは『水牛新聞』創刊の2年前、1976年10月6日のタイ、バンコクにおいてである。

1976   10.6 タイ・バンコクで「血の水曜日」と言われたクーデター勃発。それに先立つ4日にタマサート大学構内で学生たちの手で政治的即興劇「ナコンパトゥム県の殺害」を上演。その寸劇で首吊りを演じた役者の顔が、ワチラロンコーン皇太子に似ている、これは皇室侮辱罪であるという理由から、軍と反共政治組織「ナワポン」の策謀で翌日の新聞のトップにこの写真(偽造説が有力)を掲載。翌6日、(…)タマサート大学での連日の集会に集まっていた学生や市民を早朝から、軍、警察、右翼勢力が包囲、5時間にわたる銃撃で200人を越える学生、市民を虐殺。学生指導層は逮捕された。

このクーデターで多くの反政府学生は、森と呼ばれる反政府勢力の支配地域へのがれていった。カラワン楽団もその森へ消えていったひとびとの一員だった。(「年譜」)

 カラワン楽団については、ウィラサク・スントンシー『カラワン楽団の冒険——生きるための歌』(荘司和子訳)が最も重要な証言・回想であり、「水牛の本棚」で全文読むことができる(http://www.suigyu.com/hondana/caravan01.html)。カラワン楽団の代表曲「人と水牛(コン・ガップ・クワーイ)」は一本のカセットテープとして日本に渡り、水牛楽団に歌い継がれることになる。年譜から引用する。

1977    「生きるための歌」と題されたメッセージと、カラワン楽団による一本のカセットテープが発信人不明のまま送られてきた。

1978   10.1 タブロイド判新聞「水牛」発行。その名「水牛」はタイの政治即興劇「醜いジャセアン」の劇中でも歌われた、カラワン楽団によるタイの解放歌「人と水牛」からとった。(「年譜」)

 以上が、『水牛新聞』刊行までの経緯であり、この経緯と密接に関係する事柄が今回読む第2号で扱われている。すなわち、タイの反政府・反皇室運動とそれに対する虐殺事件「血の水曜日」である。ところで、上に引用した年譜に目をやると、この抵抗運動が、演劇という形をとっていることが目を引く。前回は演劇と教育の問題を扱った。第2号へ読み進むと、『水牛新聞』が提示しようとしているアジアの演劇とは、具体的な抵抗運動であり、時に権力者が武力をもってそれを徹底的に弾圧せねばならないほど力を持った運動であることがはっきりとわかる。「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」と題された報告書は、そのことを衝撃とともに教えてくれる。

 

「血の水曜日にアジア演劇の原型を見ることができる——1976年10月4日のできごと」

 「1976年10月4日——この日、バンコックのタマサート大学構内で、学生たちが、ひとつの政治即興劇を上演した。」報告書はこう始まり、そして次のように続く。「私たちはそれを、私たちの演劇や文化の経験のうちに、しっかりくみこんでおく必要があるなどとは、かんがえもしなかった。」

 1976年10月4日のバンコクで学生たちが行った即興劇は、そのわずか二日後に、「血の水曜日」事件としてタイ現代史に名を残すことになる。ただし、この報告書は事件のあらましを伝えるだけではない。それだけではなく、虐殺のうちに「アジア演劇の原型」を読み取ろうとする。そもそも、なぜ10月4日に学生たちが行った即興劇が、虐殺の口実となるほどの力を持っていたのか。そこにはタイにおける演劇の特異な位置づけがある。すなわち、「演劇がタイ社会にふかく根をはり、その重要な一部になっているということ」であり、それから、演劇の担い手が「学生や労働者や農民など、演劇の非専門家たちであるということ」である。興味深いのは、そのようなタイの民衆演劇が、闘争の過程で編み出された即興劇として政治運動の中に方法として備蓄されていることである。つまり、タマサート大学で行われた学生演劇は、その場限りのものではなく、それまでの闘争の過程で紡ぎ出されてきた演劇の知恵を即興的に編み直すことによって可能になったものだった、ということである。この点について報告者は、「それは教条的といったものではなく、高度に演劇的なんです」という津野海太郎の言葉を引いている。「高度に演劇的」というのは、おそらく、運動そのものが持つ力と演劇が相即不離の状態にあり、しかもその際の演劇は状況や空間に応じてその都度その都度ひとびとの手によって再編成されていく、ということだろう。この「高度に演劇的」という点にかんしては、津野海太郎『小さなメディアの必要』(晶文社、1981年)収録の「アジア演劇の練習」を読むことで、具体的なイメージが見えてくる。

 私はここで引用された「高度に」という言葉に報告者のメッセージを読み取りたい。というのも、報告者は次のように述べているからである。

「成熟した演劇が現存するのは(アジアでは)日本だけである」と信じこみ、だからこそ、「血の水曜日」の新聞記事にせっしても、そこに、私たち自身の演劇的主題を読み取ることができなかった。しかし、日本をのぞくアジア各地の演劇も、じつは、日本がひたすら演劇西欧化の道をつきすすんできたあいだに、それとはべつのしかたで、べつの成熟をとげていたのだ。

 このタイの民主化運動の記事を読んでいると、どうしても、今まさに同時代的に起こっているタイの反政府・反王室運動を思わずにはいられない。今回読んだ報告書によると、「血の水曜日」事件の際に、現在のタイ国王、当時のワチラロンコーン皇太子が軍事警察の一隊とともに現場にいたという。また、2020年8月10日にタイ学生連盟は王室改革要請の声明「10項目の要求」を読み上げ、強い緊張をもたらしたが、その舞台となったのは、タマサート大学であった。大学が持つ民主主義的機能を考えるとき、タイから日本の大学関係者が学ぶことは多いのではないだろうか。

 (ここでちょっとだけ脱線を許してほしい。「高度に演劇的」という津野の言葉の出典は、富士ゼロックスの伝説的なPR誌『グラフィケーション』の「11月号」と書かれている。残念ながら『グラフィケーション』の実物を今すぐ参照することはできなかった。ただ、『グラフィケーション』の全目次はこの雑誌を編集していた「ル・マルス」のサイトからすぐに確認することができる(https://lemars.co.jp/img/pdf/graphication_contents.pdf)。この全目次を見ると、1978年「10月号」の中で、長谷川四郎と津野海太郎によって「アジア演劇の可能性」という対談が行われている。私の間違った推測だとは思うが、「高度に演劇的」という発言は、この対談の中で出てきたものではないだろうか。この点は追々資料にあたって調べていきたい。なお、「11月号」に掲載されている津野の文章は「百科事典、子どものための?」というもので、こちらは『小さなメディアの必要性』に「子ども百科のつくりかた」として収録されている。

 『グラフィケーション』について「伝説的な」と書いたのは残念ながら2018年12月号を持ってこの雑誌が終わってしまったからである。ただそれだけでなく、この雑誌の内容もまた、伝説的というにふさわしい、豊かなものだった。それは全目次を見るだけでも伝わってくる。『グラフィケーション』は1967年に創刊されているのだが、その10年後、すなわち1977年に富士ゼロックスは「小林節太郎記念基金」を設立(2016年に「小林基金」に改称)し、アジアの学生への留学助成や、アジアのことを研究する日本人への研究助成を行っていた。アジアに目を向ける水牛の活動は、『グラフィケーション』や富士ゼロックスの助成活動と同時代的に連動していたのではないか、と私は推測している。残念ながら、この基金も2018年に助成事業終了となってしまった。以上は脱線である。

 ちなみに、次回読む『水牛新聞』第3号には、「ル・マルス」の広告が出ているし、『水牛通信』1986年3月号には「ル・マルス」の田中和男と水牛の対談が載っていて、「ふっふっふ」とか「はっはっは」という、私が聞いてみたいとどんなに思っても、今となってはもう聞くことのできない笑い声が響いている。ついでながら、広告から水牛を読むのもまた楽しい。例えば第2号に掲載されている「庄建設株式会社」の広告や、そのすぐ横に置かれた「未来社」の広告などは、様々なことを考えさせてくれる。広告については、いつか番外編で扱ってみようと思う)

 長い脱線をしてしまったが、話を戻し、演劇とのつながりで、もう一つ別の記事も読んでみよう。堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」である。

 

堀田正彦「ミンダナオへ——民衆演劇をもとめて」

 前回「アジア民衆演劇会議」が明確にしたことは、「われわれ[日本人参加者]は、『農村』(RURAL)ということばが、アジアにおいて持つ真の意味を理解し共有するには、あまりに『都市』化されすぎた存在だった」ということである。そこで、「農村演劇」についてより深く知るために、堀田たちは1978年2月18日、マニラに赴き、市内にあるPETA(フィリピン教育演劇協会、Philippine Educational Theater Association、1967年設立)の事務所を訪れた。さて、事務所に行ったはいいが、民衆演劇会議で知り合ったドン神父が堀田たちに約束した演劇の上演は、マニラではなく、ミンダナオ島のダパオで行われるという。かくして、18日の午後、一行はダパオへ向かう。

 ダパオで一行を出迎えてくれたのは、神学校で教師をしていたドン神父と17人の学生たちだった。ドン神父が堀田たちに見せようとしてくれた演劇は『わが村』という作品である。舞台はとある漁村。ある日「地主の奥さん」が住民たちに「土地を売った」と宣言する。人々は途方にくれる。そのうち、土地を取り上げるために兵隊がやってきて、検問所が作られる。地主、権力に阿る宗教者、メガネとカメラを身に付けた日本人観光客、アメリカ人などは、自由に検問所を通ることができる。他方で漁村の住民たちは、自分たちが住んでいた土地なのに、それを一方的に取り上げられ、自由にすることができない。そして叛乱がおこる——

ある一瞬、村人は立ち上がる。兵隊の包囲が押し破られる。/と、嵐の海。/必死で波と戦う、漁民たちの小舟。(戦いと反抗の表現は、こうした抽象的な方法に頼らざるを得ないのだ。と、ドン神父はある感情をこめて語っていた)/浜辺では、女たちが男たちの無事を祈っている。/帰らぬ小舟。/ひとり、また、ひとりと、村人たちは立ちあがり、唄い出す。(…)

大海原よ、わが心。

わが生きゆくは、この村。

と一斉に、こぶしが空に突き出された。

 歌声と身振りによって劇化されたこの叛乱のシーンは、多くの人々の情動を突き動かし、共感の嵐を巻き起こしたのか。いや、実は、そうはならなかった。準備の不足などいくつかの理由も考えられようが、特に理由として大きかっただろうと思われるのは、上演がミンダナオ島の、とりわけイスラーム教徒の漁村でなされたことである。堀田は次のようにこの点を強調する。

ドン神父たちは、「わが村」の再演を決定したとき、この劇の内容とまったく同じ状況に追い込まれている、ある回教徒の漁村でやろうと考えた。しかしその村は、かれらキリスト教徒からの何度かの接触に、容易に門戸を開こうとはしなかった。もともと、ミンダナオ島は回教徒の島だったし、現在もモロ民族解放戦線が、ミンダナオ島の独立を求めて政府軍と戦っている。

 もちろん、ドン神父はこのようなイスラームとキリスト教の対立関係を熟知したうえで活動をおこなっている。それはドン神父の言葉がはっきりと示している。「自分たちのコミュニティを守ろうとする、かれらの固い結束は、学ぶべき文化であり、乗り越えるべき障害ではない。かれらを排他的にしたのは、われわれなのだから。だが、かれらとわれわれは、おなじ抑圧と不正の中にいる。そのことさえおたがいに理解しあえれば、いつか共通のコミュニティをつくりだせるだろう。」そして、ドン神父は自分たちの活動について、「拡大しつつある、少数派」と位置付ける。

 私自身、今フランスに住んでいて、イスラームと共和主義、そして国際的なイスラーム組織とフランス国内の政教分離の理念が織りなす複雑な空気を吸って生きている。だからなのか、この堀田の報告を読みながら、どうしても、ここ数年のミンダナオ島での動きを思い出さずにはいられなかった。2017年、ISIL(「イスラム国」)に呼応した活動組織アブ・サヤフとフィリピン軍との間でマラウィの戦いが起こる。アブ・サヤフは先の引用に登場したモロ民族解放戦線から分岐した組織らしいが、いずれにしても、活動の背景にはイスラームとキリスト教の根深い対立関係がある。堀田の報告は、このような現代まで連なる世界情勢の脈絡の中に再分脈化し、読み直す必要があるだろう。そのとき『水牛新聞』は、小さなメディアであると同時に、今を考えるための大きな力となるはずである。

 この連載を開始したとき、私は気になった記事を短く紹介するだけで良いと思っていた。しかしそれは甘かった。水牛を読めば読むほどに、自分のこととして反応したくなる、そんな力が水牛にはあると思うのだ。だが、今の段階であまり長すぎてもいけない。まだあと数年間は読み続けていくのだから。最後に『水牛新聞』第2号の中で、最も短く、そして最も私が心動かされた文章を紹介して、今回はおしまいとしたい。それは、「『水牛』創刊号を読んで」と題されたひとつの手紙である。

 

「『水牛』創刊号を読んで——在日タイ学生からの手紙」

 「私は『水牛』を友人からもらいまして、一気に読み終わりました。」このように始まるわずか二段ばかりの短い手紙の書き主は、「一在日タイ学生」である。記名はなく、どのような書き手なのかも不詳であるが、それはあまり重要ではない。重要なのはその内容であり、そこに書かれている内容は力強く、しかも今後の『水牛新聞』および『水牛通信』の活動を予言するような手紙でもあるのだ。在日タイ学生は言う。

私の目からみた日本社会は、統制された、あるいは管理化された社会になりつつあるようです。(…)文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて、現に氾濫している品のない週刊誌、テレビ番組等をみれば、そう感じとってもしかたがないのではないかと思います。

 この手紙が1978年に書かれているという事実を再度強調しておきたい。この手紙から40年以上たった今、日本の状況はどうか。そう考え急ぐ前に、もう少しだけ手紙を読もう。このタイの学生は『水牛新聞』創刊号にも若干の不満を持っている。そして、二つの提言をおこなっているのだが、この提言がまた考えさせられるものなのである。

(1)(…)アジア諸国の文化運動を学ぶ際に、ただ現在のアジア諸国の文化運動の動きを報告することにとどまらず、もっともっと深くまで、歴史的に研究することが必要ではないかと思います。(…)

(2)アジア諸国の文化運動から学ぶ過程のなかで、日本の新しい真の民衆文化を同時に創造しなければならない。

 これから『水牛新聞』と『水牛通信』を読み進めていくなかで、この在日タイ学生の二つの提言がしっかりと息づいていることが明らかになるだろう。それに加えて、「文化は今では一つの商品としてとりあつかわれていて」というタイ学生の言葉は、今ではより深刻なものとして受け止めねばならないようにも思う。例えば、今の日本では、人間の命までが「一つの商品としてとりあつかわれて」いるのではないか。コロナ禍以降、外国人技能実習生に対するあまりに非人道的な扱いが明らかになっている。そのような文脈から、私は『水牛新聞』をどうしても読み返してしまうのである。

 

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 さて、もうさすがに一回の投稿としては長すぎる。今回はここまで。

 ちなみに、今月末(2020年11月30日)までYouTubeで野田秀樹(作・演出)の『赤鬼』が公開されている(https://www.geigeki.jp/ch/ch1/akaoni_streaming.html)。この作品について、野田のロング・インタビューも同じくYouTubeで公開されているのだが、そこで野田は、この『赤鬼』上演史の重要なポイントとして、世田谷パブリックシアターの初代芸術監督・佐藤信の依頼によるタイでのワークショップがあったと証言している。このタイでの『赤鬼』上演は、1997年に行われたそうだ。『水牛新聞』第2号の中で、佐藤は「アジアはわれわれを見返す。その視線の中にわれわれの演劇を位置付ける」と述べているが、ちょうど今配信されている『赤鬼』という作品もまた、アジアをめぐる視線の往還と交錯の中にあることに、私は胸がジンとなるのである。

 次回は、『水牛新聞』第3号を読んでいく。

(2020年11月24日 福島 亮)

「水牛」を読む(1):『水牛新聞』創刊号(福島亮)

 デジタル化した『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』について紹介をしていく、と述べてから、随分と時間がたってしまった(「強度を持ったことばを——『水牛』を読む」を投稿したのは2019年11月末日なので、なんと一年も経ってしまったことになる)。どんなふうに紹介していこうかな、と思っていたが、どうやらぼんやりしすぎてしまったようだ。デジタル化した「新聞」や「通信」を読んでいくと、そもそも「紹介」などできるのか、という思いも強くなってくる。知らない人名や、想像できない文脈が多いし、率直にいって、初めて知ることが多く、読むことの方に溺れてしまうのだ。そこで、方針を以下のように定めた。とにかく毎回一号ずつ、資料全体を読み、ギャップを感じたこと、わからなかったこと、気になったことを書く。時間はかかってしまうけれども、これが一番確実だし、何よりもギャップやわからないことは(単なる無知の場合が多いと思うけれども)時間の経過をはかる目印になってくれるはずである。それから、今、2020年に読んでいるということも大切にしたい。

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 今回は『水牛 アジア文化隔月報』創刊号(1978年10月1日発行)のうち、久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」と「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」を取り上げる。他にも取り上げてみたい文章は多くあった。巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」は何度も読み返したし、タイの学生たちによる「反米ポスター」を報告した不破真理「革命のなかでポスターのもつ力を発見した——タイ芸術家戦線の学生たちは語る」は、まさに今、タイで反政府デモが起こっているだけに重要な報告である。タイについては今後取り上げることになるだろう。それに関連して、タイの記録映画「かれらはけっして忘れない」も気になる(今でも観ることが可能ならばぜひ観てみたい)。それでも先に述べた二つの文章に注目した理由は、この二つの文章には特に、歴史の経過を感じるからである。でも同時に、今自分が考えている問題を考える上で、無視できない気もする。そういうどっちつかずの読後感があったので、今回取り上げることにした。

 なお、『水牛 アジア文化隔月報』という表記は長いので、以降、『水牛新聞』と表記する。『水牛新聞』と書かれていたら、197810月から19798月までふた月に1回、合計6回刊行されたタブロイド判新聞『水牛 アジア文化隔月報』(http://suigyu.com/suigyu-tsushin/newspaper.html)のことだと思ってほしい。

 

久保覚「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」

 まず久保覚(1937-1998)の「民衆の歌——金芝河と朝鮮民衆演劇・序」を読んでみよう。この文章では、平岡正明(1941-2009)による日韓歌謡曲論(『ニュー・ミュージック・マガジン』1978年3月掲載)が徹底的に批判されている。平岡正明といえば、私のまわりにも『山口百恵は菩薩である』(2015年に完全版が刊行された)や彼のジャズ論(今年、平岡の評論を含む『昭和ジャズ論集成』が刊行された)を愛読している人がいる。その平岡は、歌手、李成愛(イ・ソンエ)の「艶歌」を絶賛し、「東洋の歌心の集約ということのためには、日本をステップにする必要があり、日韓二都物語の上に世界音楽の準決勝戦にたえる普遍性が獲得されるはずだ」と称賛の言を惜しまない。そして、李成愛の歌は「韓国メロディーのリーダーシップにおいて東洋のメロディーが集約される方向」に向かう、「艶歌の革命」だというのである。

 この平岡の李成愛礼讃に対し、久保は、まず、そもそも李成愛はそんな絶賛に値する歌手だろうか、と切り込む。その仰々しい絶賛は、ベンヤミンがいうように「貧しさをまるで富でもあるかのように濫費し、あくびのでるようなお祭りさわぎをデッチあげる」ことではないか、と。

 以下に展開される久保の平岡批判は大きく分けて二つである。まず、第一の批判はこうだ。「李成愛の登場とその人気は(…)日本のレコード資本が、目新しい商品として李成愛と韓国の歌謡曲をとりこんだからこそ可能だった」。なるほど、と思うと同時に、少しほっとした。というのも、久保の文章を読みながら、Youtubeで李成愛の曲をいくつか聴いてみたのだが、どの曲もこれまで一度も耳にしたことがなかったし、彼女の歌が「艶歌の革命」であり、「普遍性」をいずれ獲得する歌であるとは(ファンには本当に申し訳ないけれども)個人的には思えなかったのだ。

 少しだけ平岡を弁護しておきたい。韓国人アーティストたちは今、世界の音楽マーケットを席巻している。フランスでもK-popは大人気である。日本にも多くのK-popファンがいる。そう考えると、李成愛は、韓国の文化輸出の草分け的存在だったといえるはずだ。そして、この文化輸出が今や韓国の一大産業になっていることは疑いえない。この点において、平岡の議論には一定の予見性があったと思う。とはいえ、逆説的ではあるけれども、「世界音楽」になったK-popにとって、「日韓二都物語」よりも重要なのは、より広いアジアを包含したグローバル・マーケットの存在ではなかろうか。もっとも、1978年の平岡の議論にそんなことをいってもあまり意味はない。むしろ目を向けるべきは、久保による平岡批判の二点目である。

 平岡が自覚できていないものは何か。これが久保の批判の二点目となる。すなわち、「朝鮮の音楽的伝統」は日本の植民地政策によって「切られた」ものであり、平岡はこのことを自覚せずに「日韓二都物語」だの「東洋のメロディーが集約される」などと騒いでいる、と久保は批判するのである。それは他人事ではない。久保はいう、「日帝の朝鮮文化抹殺の政策は、同時に、日本の民衆から朝鮮文化の固有性を視えないものとする政策でもあったのである」と。そして、「無知を無知として自覚できないほどの内的貧困へと日本人」は導かれたのだ、と。この指摘は読んでいて耳が痛かった。平岡への批判が、そのまま自分自身の「ハッピー」さへの批判となったからである。ところでこの「内的貧困」とは、たんに知のレベルにとどまるものだろうか。むしろ、「身体的貧困」とでも呼べるものがあるのではないか。

 

「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」

 そんなことを思いながら、次いで取り上げてみたいのは「アジア民衆演劇会議——1978年1月ライプール」である。インドで行われたアジア民衆演劇会議にかんする三つの報告がなされている。これら三つの報告を読んでいて印象に残ったのは、演劇と教育の関係である。

 演劇と教育の関係の中には、二つの対立する意見が含まれている。まず、演劇を通して「大衆」を教育する際に、場合によっては「劇の形式が内容を裏切って」しまうことがある、というものである。大衆教育というと何やら立派な行いのようにも聞こえるが、ややもすれば「学校教育という、しばしばそれ自体が抑圧的である機構をベース」にした演劇になりかねない。そんな一例として、戯曲『黄金の夜明け』の上演がはらんだ矛盾が指摘されている。この戯曲は、上演のための装置としてマイクやスライドなど様々なテクノロジーを動員するものであった。このような演出上の要求について、PETA(フィリピン教育演劇協会)の事務局長が投げかけたひとことは考えさせられるものである。「あのような大がかりな機械や装置を見せられたら、貧しい農民が自分たちで演劇を作ろうと思った時、あの機械がないから、あんな装置がないからと尻込みしてしまう結果になるのではないか。」この点については後ほど立ち帰りたい。

 さて、演劇と教育には少なくとももう一つの側面があると思う。それは、馴致された身体とその身体のリズムが演劇によって解放される、という側面である。このような演劇の教育的効果がはっきりとわかるのは、ライプールでのワークショップに参加していた俳優、服部良次の報告である。服部はあるエピソードを報告している。彼が死体役として道に寝転がっていると、向こうからもの凄い勢いで牛の群れがやってきて、通り過ぎていった。牛が通過した後にはおびただしい糞が残される。村人はその糞を手際よく片付け、またそこで演劇が始まる。こんなエピソードである。この体験に立ち会った服部は、村人たちの「テムポ」を発見し、感激する。ところで、読みながら思ったのは、そもそも牛が通るような地べたにすわったり、寝転がったりした経験が私にはない、ということである。インドに行って地べたに寝転がってみたい、と思った。外出禁止令下の暮らしなので、そもそも自由に外に出ることもできないのだけれども。そう思ってみて、ふと気がつくのだが、そもそも東京で、あるいはパリで、牛の群れが通過するような場所などあるだろうか。もちろん、そういう状況を意図的に作ることはできる。例えば牛を用意する、という具合に。しかし、それではある種の演出にすぎなくなってしまう。ここで、先のPETAの事務局長の言葉に戻ってみたい。すると、近代的な装置の使用を批判したあの言葉は、反転し、都市社会における私たちの身体の不自由さを指摘する言葉に思えてくる。この点は、ワークショップの報告でも指摘されていた。バルジット・マリクはいう。「黒色テント劇場はトラックとテントによって構成され、日本の各土地を移動する。しかし工業化された日本では、土地そのものが問題なのだ。」

 実は、演劇と教育の関係について耳にしたり、話したりすることが、ここ数ヶ月のうちに複数回あった。カリブ海やアフリカにおける演劇創作、18世紀フランスにおける革命と演劇の関係、そして、中世フランスの典礼における演劇的事象と一般信者の複雑な関係、といった具合である。要するに、1978年にライプールで行われた議論は、インドの農村だけに限定される話などではまったくなく、中世フランスから20世紀のアフリカ・カリブ海まで、幅広い時空間に接続されうる議論だったと思うのである。

***

 今回取り上げられなかったが、創刊号にはレンドラの「スリ、情婦にいれ知恵」という誘惑的な詩が掲載されている。レンドラはインドネシアの詩人である。このレンドラについて、吉岡忍の「獄中のレンドラと『スリの歌』について」という文章も掲載されているが、この文章は、レンドラが逮捕され、刑務所にいるところで終わっている。レンドラはその後どうなったのだろう……。そう思って調べてみると、彼は2009年に亡くなっていることがわかった。でも、娘のナオミ・スリカンディが活躍していることも知った。よかった!

 次回は、『水牛新聞』第2号を読むつもりである。

(2020年11月3日 福島 亮)

2020年11月1日(日)

昨夜は晴れた夜の空に満月と赤い火星を見ることができましたが、きょうは曇っていて十六夜の月はいずこにありや?
きょうのように暑さや寒さを感じることのない快適な気候で、ただここにいると、ついこのあいだまで苦しんでいた暑さのことをもうすっかり忘れていることに気づきます。暑かったという記憶だけは残っていても、暑いとはどのようなものだったのか、覚えていないのです。

「水牛のように」を2020年11月1日号に更新しました。
世界はこれからどうなるのでしょうか。自分以外の人間と接することを禁じられでも、それはムリです。

おなじみエドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち』の今日はこれです。

11月1日 動物に注意
1986年、狂牛病がイギリスの島々を襲い、感染性の認知症を疑われた二百万頭以上の牛が死刑に処せられた。
1997年、香港からはじまった鳥インフルエンザはパニックを引き起こし、百五十万羽の鳥が早めの死罪宣告を受けた。
2009年、メキシコとアメリカ合衆国で豚インフルエンザが発生し、地球全体がその疫病から身を守る必要が生まれた。
いったいどれほどの数かわからないが、数百万頭の豚は、咳やくしゃみが原因で犠牲になった。
人間の病気を引き起こしているのは誰なのか? 動物である。
実に単純である。
その代わり、地球規模のアグリビジネスの巨人たち、食糧を危険極まる化学爆弾に変えている、あの魔法使いの従弟たちには少しも疑いがかけられないでいる。

それではまた! 来月も更新できますように。(八巻美恵)

2020年10月1日(木)

どこからともなく木犀の花の香りがただよってくる10月のはじまり。開花したての新鮮な強い香りです。曇りの日の多いことしの秋ですが、明日の満月は見えるでしょうか。

「水牛のように」を2020年10月1日号に更新しました。
今月はなぜか「お休みします」というメールがいくつか届きました。お目当ての著者の名前がなかったら、どうか来月を楽しみに待っていてください。

先日、ソ連のフェミニズムの研究をしているという人からメールが届きました。
『水牛通信』の1983年5号に掲載された、ソ連のフェミニスト、タチヤーナ・マモーノヴァ氏の「父権的ロシアの女のたたかい」という記事についての問い合わせです。マモーノヴァ氏は現在アメリカ在住で、ご自分の活動をまとめるために本を編集されているのですが、その中にこの記事の一部を転載したいと言っています。」とのことで、もちろん、どうぞ、と返信しました。どんな本になるのか、出来上がったら連絡をいただくことになっています。
1983年といえば、37年も前になりますが、小さな記事がこうして蘇ることもあるのです。
そして、タチヤーナ・マモーノヴァさんは、1979年にレニングラードで初めて地下出版されたフェミニスト雑誌「女性とロシア」の編集長だと自己紹介していますから、彼女の長い活動の歴史が本人によって明らかになるのはすばらしいことだと思います。

それではまた! 来月も更新できますように。(八巻美恵)

2020年9月1日(火)

8月の猛暑はいずこに消えたのか。東京は30℃に届かないままに一日が終わりそうな9月のはじめの日です。沖縄や九州では台風が吹き荒れているようですし、このまますんなりと涼しくなってくれるはずはないと思いつつも、秋を感じ、マスクの苦行からもひととき解放されました。

「水牛のように」を2020年9月1日号に更新しました。
猛暑のときにもみな秋の気配を感じとっているのでした! 繊細というよりは頼もしい感じがします。

先月お知らせしたサントリーサマーフェスティバルのオーケストラスペースをききました。7曲のうち、5曲は世界初演、1曲は50年も前の作品で知らない曲です。1曲はきいたことがあるはずなのですが、いざきいてみると、こんな曲だったっけ、という感じで、知らないも同然。はじめてきく曲は、曲について考えたりするよりも、生成される音を全身でただ浴びるのが楽しいと思います。オーケストラのほかに、ソロ楽器としてマリンバやガムラン、三絃まであり、コロナの影響か、楽器がいつもより距離をとって並んでいるので、音も広がってきこえました。
そういう感じも、そのときその場にいたからこそ。耳でなく体で感じる音でした。
会場では一つおきの席にすわることになっていて、それはそれで快適でしたが、この先どうなるのかな。演奏が終わり、会場を出るときには退席の順番がアナウンスされ、ロビーでは「会話はお控えください」と言われ、暑い外に追い出されてからも、旧知の人たちとしばし歓談。なんとなく別れがたかったのは、困難なときだからこそかもしれません。

今月もお知らせを。
●『騎士の掟』イーサン・ホーク 大久保ゆう訳 Pan Rolling 2020
https://www.panrolling.com/books/ph/ph108.html
水牛での大久保ゆうさんの連載を覚えておられますか? 青空文庫を受け継ぎ、翻訳者としても活躍しています。テキストは本の本質ですが、こんなふうに美しく物質化(?)されることで、より親密になりますね。

●『優しい暴力の時代』チョン・イヒョン 斎藤真理子訳 河出書房新社 2020
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309208046/
「編み狂う」が待たれる斎藤真理子さんですが、次々と出る翻訳や連載などを見ると、編む領域にはなかなか戻ってこられないようです。おそらく書きたいことは蓄積していることでしょう。待ちます。

それではまた。来月も更新できますように。(八巻美恵)

2020年8月1日(土)

東に向いた窓のカーテンを通して入ってくる朝の太陽の光を感じたのはいったい何日ぶりのことでしょうか。東京ははっきりと今日から夏です。夏の太陽が出ていれば、薄い麻のシーツは洗濯して干すと、ほんの1時間くらいでパリッと乾きます。爽快です。

「水牛のように」を2020年8月1日号に更新しました。
毎月欠かさずのみなさんも久しぶりのみなさんも、そして、今月は休みます、と連絡をくださったみなさん、いつも水牛の締め切りを覚えてくださっていて、ありがとうございます。原稿の催促はしないとひとり心に決めたことがこんなに成功する(?)とは思っていませんでした。

久しぶりにお知らせを。
●『〈うた〉起源考』藤井貞和 青土社 2020年6月
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3430
本の背には「『ことば』の起源をめぐる壮大な旅へ」とあります。450ページを超える厚い本ですが、三十章もあるのでひとつひとつの章は案外短くて、おもしろく読んでしまいます。

●サントリーサマーフェスティバル ザ・プロデューサー・シリーズ 一柳 慧がひらく
2020 東京アヴァンギャルド宣言

室内楽 XXI-1
8/22(土)18:00開演(17:20開場)ブルーローズ(小ホール)
森 円花:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲「ヤーヌス」(2020)世界初演
カールハインツ・シュトックハウゼン:『クラング―1日の24時間』より 15時間目「オルヴォントン」バリトンと電子音楽のための(2007)日本初演
権代敦彦:『コズミック・セックス』6人の奏者のための(2008)
杉山洋一:五重奏曲「アフリカからの最後のインタビュー」(2013)

バリトン:松平 敬 エレクトロニクス:有馬純寿 フルート:高木綾子 打楽器:神田佳子 ハープ:篠﨑和子 ピアノ:黒田亜樹 ヴァイオリン:山根一仁 チェロ:上野通明 東京現音計画 サントリーホール室内楽アカデミー修了生によるアンサンブル 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-1
8/26(水) 19:00開演(18:20開場)大ホール
高橋悠治:『鳥も使いか』三絃弾き語りを含む合奏(1993)
山根明季子:『アーケード』オーケストラのための(2020)世界初演
山本和智:『ヴァーチャリティの平原』第2部
iii) 浮かびの二重螺旋木柱列2人のマリンビスト、ガムランアンサンブルとオーケストラのための(2018~19)**世界初演
高橋悠治:『オルフィカ』オーケストラのための(1969)

三絃:本條秀慈郎* マリンバ:西岡まり子/篠田浩美** ガムラングループ・ランバンサリ** 読売日本交響楽団 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-2

8/30(日)15:00開演(14:20開場)大ホール
川島素晴:管弦楽のためのスタディ「illuminance / juvenile」(2014/20)*世界初演
杉山洋一:『自画像』オーケストラのための(2020)世界初演
一柳 慧:交響曲第11番(2020)世界初演

指揮:鈴木優人/川島素晴* 東京フィルハーモニー交響楽団


最後はおなじみエドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち』から

8月1日 地にまします我らが母よ
今日、アンデスの村々では、母なる大地パチャママが盛大な祝宴を開く。
彼女の息子たちはこの果てしなく長い日に踊り、また歌う。そして彼らは母なる大地に、ご馳走であるトウモロコシの一片と、歓びに潤いを与える強い酒を一口差し出す。
彼らは最後に、大地を傷つけていること、搾取したり毒を撒いたりしていることに許しを乞う。地震や霜、旱魃や洪水その他の怒りで罰を与えぬように頭を下げてお祈りする。
これはアメリカ大陸で最も古い信仰である。
マヤのトホラバル族はチアパスで、以下のようにわたしたちの母に挨拶を送っている。

 あなたはわたしたちに豆を与えてくれる
 唐辛子とトルティーヤと一緒にして食べると
 とても美味しい

 あなたはわたしたちにトウモロコシと美味しいコーヒーを与えてくれる
 愛する母よ、
 わたしたちのことをお護りください。
 けしてあなたたちを売り渡したりしませんから。

母の居場所は天上ではない。地中奥深くに住み、そこでわたしたちを待っている。わたしたちに食べ物を与える大地は、いずれわたしたちを呑み込む大地である。

それではまた! 来月も無事に更新できますように(八巻美恵)

2020年7月1日(水)

これまで夏にマスクをすることがなかっただけに、どうにも苦しい、歩いているときなどは特に。たくさんの人が歩いている道は別として、外ではできるだけマスクをはずして歩きます。そして、建物の中に入るときにはマスクをする。建物の中はエアコンがきいていて涼しいので比較的楽ににマスクをかけていられます。

<a href=”http://suigyu.com/2020/07/”>「水牛のように」</a>を2020年7月1日号に更新しました。
否応なくコロナウイルスとともに生きていかなければならない環境でも、こどもは生まれ、大きくなって、そしてやがて命は尽きる。そういう大枠からは逃れられないとして、いまをどのように過ごしていくのか、ある程度はいま生きている自分で決められることだと思います。ある程度であっても、自由は

ここではおなじみ(?)の『日々の子どもたち』(エドゥアルド・ガレアーノ)の7月1日は、「テロリスト、一人減」というタイトルです。
二〇〇八年、アメリカ合衆国政府はネルソン・マンデラを、危険なテロリストのリストから削除することに決めた。
六十年のあいだ、世界で最も信望を集めたアフリカ人は、その不吉な名簿の一人だったのである。

そして、きょうはエリック・サティの命日の95回目の命日でもあります。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

2020年6月1日(月)

東京の6月は雨であけました。気温も低く、梅雨が近いことを感じます。明日はまた暑いという予報。暑くて湿度が高いときのマスクはつらそうですね。できるだけ薄くて楽なのを、などと考えていると、マスクをする意味を見失いそうになります。

「水牛のように」を2020年6月1日号に更新しました。
「シリア水牛物語」を読んで、パソコンで検索できることを知ったとき、最初に検索してみたのは水牛という動物についてだったことを思い出しました。しかしほとんどなにもわからないというのが当時の実情でガッカリ。タイでは農耕のために飼われている水牛は家族みんなにかわいがられている農家の財産でもあったことは知っていました。木製の鈴を首にかけられて、歩くたびに乾いた木のいい音がします。鈴はみな違う音がするので、自分の家の水牛の音は聞き分けられる。もうすでに失われた光景かもしれません。
最近、というのは自粛生活の少し前のことですが、水牛のミルクで作ったモッツアレラチーズをはじめて食べたのですが、想像どおりのやさしい味でした。

きょうはBSで映画「タクシードライバー」を見ました。そして、水牛通信でも1980年6月16日に光州について手書き(!)の号外を出したことも思い出しました。当時ともっとも違っているのは通信手段だと、あらためて感じます。

来月も無事に更新できますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

2020年5月1日(金)

晴れて急に気温が高くなった今日の東京。マスクをして午後の町を歩くと、光は満ちているし、そこここの庭にも路端にも花々は咲いていて、季節は美しいのでした。人と会わない道ではマスクをはずして歩きます。そうすると花の香りや風の香りが気持ちよい。この先もっと気温が高くなってもマスクは必要そうな状況ですが、顔をなかば覆うことにいつまで耐えられるのか? 先は見えないまま、どう行動することが正解なのかわからない世界を生きる日々です。

「水牛のように」を2020年5月1日号に更新しました。
初登場は映画監督の越川道夫さんです。まだお会いしたことはありません。ツイッターで毎日のように越川さんが投稿する小さな植物や鳥や猫や子どもの写真を見てきました。写真に言葉はほとんどついていないのですが、どのような被写体に興味があるのかわかります。越川さんがつけた「人嫌い」というタイトルがすべてを物語っています。人が嫌いな映画監督、おもしろいですね。

先月も引用した『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)から、今月も5月1日(メーデー)のところを以下に。

五月一日 労働者の日
 協力して飛行する技術とはこういうものだ——一番目に飛ぶ雁は二番目の雁に道を開き、二番目は三番目が飛ぶ準備を整え、三番目が飛ぶときの力が四番目を飛ばし、四番目は五番目を助け、五番目の推進力が六番目の背中を押し、六番目は七番目が飛ぶ風を送ってやる……
 一番目の雁は疲れると、群れの最後尾に回って別の雁に場所を譲り、その雁が、群れが空を飛ぶときに描く例のV字形の頂点に行く。全員が後ろに回ったり先頭を行ったりと入れ替わる。先頭を飛ぶから自分が上級の雁だと思う雁はいないし、最後尾を飛ぶから下級の雁だと思う雁もいない。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

2020年4月1日(水)

日曜日の春の本格的な雪にはびっくりしましたが、今日の東京は雨です。あまりにも変わりやすい天候というものも、不穏な世界と無関係ではないのかもしれません。

「水牛のように」を2020年4月1日号に更新しました。
杉山洋一さん、室謙二さんだけでなく、みなコロナウイルスの影響を受けています。わたしの周辺はまだほんの少し呑気さがただよってはいるものの、いまの政府のもとではお先真っ暗ですね。

夜眠る前に『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)を少しずつ読んでいます。昨夜は8月30日「行方不明者(デサパレシードス)の日」。短いので全文をどうぞ。

 行方不明者とは墓のない死者、名前のない墓。
 さらに、
 天然の森
 都会の夜の星
 花の香り
 果物の味
 直筆の手紙
 時間を無駄に過ごせる古いカフェ
 路地のサッカー
 歩く権利
 呼吸する権利
 安定した仕事
 確実な年金
 格子のない家
 鍵のないドア
 共同体の感覚
 そして常識。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

2020年3月1日(日)

あたたかな日曜日の夜の空。上弦に近い月が遠くおぼろにかすんでいます。きっと雨になるでしょう。

「水牛のように」を2020年3月1日号に更新しました。
新井卓さんの久しぶりの原稿はうれしかったのですが、それが戸島美喜夫さんの追悼だったことにはまた違う感慨をおぼえました。戸島さんと最後に会ったのは、昨年9月の名古屋でした。そう頻繁ではなかったけれど、会えば必ずお酒を飲んで楽しく語らったことは、ひとつの理想と言ってもいい安定した関係だったと思います。突然の訃報でしたが、それも戸島さんが望んだことだったのだと、少しずつわかるようになってきました。R.I.P.

コロナウィルスの感染拡大を知るほどに、国境というものがあまり意味を持たないことに気づきます。来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているのでしょうか。。。

ブログに書きたいことも溜まっています。近いうちに更新しますので、待っていてください。

それではまた!(八巻美恵)

2020年2月1日(土)

立春が近い今日、午後のあたたかい陽射しは窓ガラスを通して部屋をふんわりと暖かくしてくれました。外に出ると、やはり2月らしい冷たい風が吹いていて、おお寒い!

「水牛のように」を2020年2月1日号に更新しました。
「製本かい摘みましては」に書かれているオーディオブックは、カセットテープの時代からたくさん売られていました。ひとりで長いドライヴをするときにかけっぱなしにすると楽しいよ、と言う友人がいて、なるほどと思いましたが、車の免許は持っていないので、そういう機会はありませんでした。目が見えるうちは文字を読むとして、その後の楽しみもたくさんあるわけです。そのときに耳がだいじょうぶかどうか、それは保証の限りではありませんが。。。

カレンダーをめくると、今月は29日まである。いまさらながらに4年に一度やってくる日付をじっと見つめました。そしてオリンピックは中止になりますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

2020年1月1日(水)

あけましておめでとうございます。
ことしも水牛をどうぞよろしく!
東京は明るく晴れて、冬の日らしい寒さの元旦です。

「水牛のように」を2020年1月1日号に更新しました。
ことしはねずみの年。「ネズミのいる生活」は富岡三智さんだけでなく、わたしもたくさん経験しています。少し前までは東京でもネズミはふつうに家に住み着いていました。物置の隅や屋根裏に住んでいる彼らは夜になって人間が寝静まると、人間の居住区域に出てきて、食べ物をあさるのでした。朝になって、固形石鹸を齧ったあとを見つけたときには、石鹸を食べたらおなかのなかが泡だらけになるのに、と子供ごころに心配になったものです。屋根裏を忙しそうに走る足音も、そういうものとして、こわいとも思わない暮らしでした。

一年が暮れていき、新しい年を迎える時期には、過ぎた一年をふりかえって、いろんなできごとがあったと少し感慨にふけってみたりしますが、日々というものはすきまなくつながって単純に過ぎてゆくものだと思い直します。スヌーピー曰く「だれにでも未解決の問題はあるもんだよ!}

それではまた!(八巻美恵)

2019年12月1日(日)

淡い陽ざしの冬の日曜日の午後。きょうから十二月というのはホントでしょうか?

「水牛のように」を2019年12月1日号に更新しました。
『大菩薩峠』がちくま文庫で出たときに読んでみようと思ったのは、室謙二さんの影響があったからかもしれません。はじめはストーリーのおもしろさにつられて読み進んでいくのですが、主人公と思っていた机龍之助があまり登場しなくなるころから、これはどういう小説なのかと頭のなかにクエスチョンマークが点滅するようになり、やがて挫折しました。今月の室さんの原稿を読むと、また読んでみようかという気持ちが沸き起こってきます。青空文庫でも公開されていますが、室さんはまず文庫本20冊を買ってしまいなさい、そして残りの人生で3回読むのだ、と言います。さあ、どうしよう。。。

本日、「水牛通信」のPDFを公開しました。まだ完全ではありませんが、残りはぼちぼちと進めていきます。
「水牛通信」の電子化計画をはじめたころは、日本語とアルファベットくらいしかフォントを使えず、また画像も容量や通信速度の問題があったため、テキストのみの公開でした。そんな作業を続けながら、どこかで今日の日が来ることも確信していたのです。PDFを作ってくれたのは福島亮さん、サイトのデザインなどは野口英司さんが担当してくれました。過去のアーカイヴではありますが、読んで楽しんでください。ツッコミどころもありそうな気がします。
福島さんには、この水牛だよりのコーナーで、通信についてあれこれと書いてもらうことになっていて、あ、すでに最初の投稿がされているようです。

もうひとつ、やらなければならないのは水牛楽団の音源を公開することです。来年の目標にしたいと思います。

それではまた! 良い年をお迎えください。(八巻美恵)

強度を持ったことばを——「水牛」を読む (福島 亮)


 2019年12月1日から、水牛のホームページ上で『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』のPDF版が公開される。公開にともない、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』にかんする文章を「水牛だより」のコーナーでこれから書くことになった。それはこの二つの刊行物に掲載された記事を少しずつ読み、紹介する文章となると思う。とはいえ、紹介するのに必要な知識などないのだから、もとより案内役などできるはずもなく、文章を書くにあたって、ここしばらくどうしようかと悩んでいたし、実は、今も悩んでいる。

 悩んだ時は、これまでの経緯を振り返るとヒントが見つかることがある。だから、少しだけこのPDF公開がどのような出会いによって実現したか書いておこうと思う。僕と「水牛」との出会いは2019年11月の「水牛のように」で触れたとおりで、もともとは「水牛楽団」の活動に関心があって、そこから刊行物の方へと目が向いたのである。『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』は1987年にリブロポートから水牛通信編集委員会編『水牛通信:1978-1987』として本の形になっているのだが、これは数多ある記事から抜粋したものを集めた一種のアンソロジーで、これだけでは『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』の全貌を知ることはできない(それでも、少し大きめの厚手の紙に印刷された『水牛通信:1978-1987』は、子どもの頃読んだ古い雑誌や児童書を思い出させてくれる、僕の大好きな本の一つだ。今では古本でしか手に入らないようだから、こちらもいつかホームページ上で公開できたらと思っている)。どうにか「水牛楽団」の刊行物を読むことはできないだろうか、と思った僕は、2018年7月31日に、水牛ホームページに記載されているメールアドレスに次のようなメールを送ったのである。

「水牛」さま
 
初めまして。
突然メールをお送りしてしまい申し訳ございません。
福島亮と申します。
水牛楽団についておうかがいしたく、メールを書くことにいたしました。
(…)
私はリブロポートから出版された『水牛通信:1978-1987』を読みながら、そこに収録されていないものも読みたいと思いました。
(八巻さんのあとがきによれば、本に収められたのは、100号分の一割弱だそうですが、私は残りの九割も読みたいのです。)

(…)

 今読み返せば厚かましい文面で、これでは返事など来ないのでは、と思われるメールである。が、翌日、8月1日になんと八巻さん本人から返事が来たのである。そこにはこう書いてあった。「水牛通信は各一部しかありませんし、いくつか欠号がありますが、すべてお送りしてもいいですよ。薄い冊子100冊分ですから、小さな段ボール箱ひとつにおさまる分量です。」そして、8月17日、その頃住んでいた三鷹台のアパートに小包が届いた。それは小脇に抱えられるくらいの本当に小さな段ボール箱だった。開けると、整理されたタブロイド新聞と冊子が入っていて、おまけに淡いブルーのインクで書かれたメッセージカードと一緒に『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』(サウダージ・ブックス、2012年)が入っていた。僕は9月4日には日本を離れ、パリに留学することになっていたので、それから大急ぎでお礼のメールを書き、お借りした『水牛 アジア文化隔月号』と『水牛通信』をPDFにした。こうしてPDF化したものが、今インターネットを介して、全世界に届けられる資料なのである。資料は公開される。その資料以上に何か付け加えるものなどあるだろうか?

 最初に述べたように、これから何を書いて良いのかものすごく悩んでいる。いまこうして「水牛」のホームページが読まれている以上、「水牛」は過去のものではないから、どういう気持ちで(しかも「水牛」そのもののサイトで)書いて良いのかよく分からない。確かに、「水牛楽団」としての活動は1985年には終わっている(2001年に出たCD「水牛楽団」に三橋圭介氏が寄せられた解説による。実際には、その後も必要な時は少しだけ演奏したこともあったそうである)。そして、『水牛通信』はその2年後、1987年に通算100号で終刊を迎える。でも、「水牛」は活動の舞台をホームページに移して、こうして今でも活動しているのだ(そう考えると、そもそも「水牛」ってなんだろう、という疑問が出てきてしまうのだが、それについては今は考えないことにしよう)。まだ現役で執筆している作家の伝記を書くことが難しいように、「水牛」について何か論じたり、分析したりすることは、僕にはとても難しい。ただ、『水牛 アジア文化隔月報』や『水牛通信』を読んで強く心を動かされたことだけは本当なのだ。もしも僕に何かを書くことができるとしたら、この本当のことに拠って立つしかないのではないか。どうしようもなく主観的なものかもしれないけれども、読んだ時に僕の頭をガツンと殴ってくるような強度を持った文章をどうにかして誰かと分け合うことはできないだろうか。そういう自問からスタートして、これから少しずつ『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』を読んでいこうと思っている。できれば、僕が読んで、心を動かされた文章をここに書き写すことで、読者に僕の心の動きと、その動きのもとになった文章を届けることができたらうれしい。そして、興味を持ってくれた人が、PDFをどんどん読んでくれたらもっとうれしい。

 強度を持ったことばを手渡すこと、それがこのコーナーで僕が自分に与えたテーマだ。このテーマを教えてくれたのも、じつは「水牛」なのである。『水牛 アジア文化隔月報』創刊号には次のようにある。「『水牛』は市販しませんので、ぜひとも予約購読をお願いします。(中略)アジア各国の文化の動きについて、日本で文化市場向けの商品生産とは無縁に、さまざまなしかたでこころみられつつあるある文化の動きについて、原稿を送ってください。」(8頁)僕もこれから、商品生産とは無縁に、「水牛」を読み、読んだものを誰かに手渡ししたい。

 というわけで、これから散歩でもする気持ちで「水牛」を読み、心動かされたものや、面白いと思ったもの、気になったことなどをここで書いていきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。 (福島 亮)

2019年11月1日(金)

一週間後は立冬なのに、いやに暖かな東京です。

「水牛のように」を2019年11月1日号に更新しました。
当事者にとっては、過ぎたことは過ぎたことで、ふだんはあまり意識することはありません。それを動かしてくれるのはいつも外からのまなざしです。来月公開予定の水牛通信のpdf化は福島亮さんによってもたらされるものです。
「しもた屋之噺」でおなじみの杉山洋一さんは「水牛通信」のころは中学生で、当時もっとも若い読者だったことは何度か書きましたが、福島さんは生まれてもいなかったのです。その福島さんに案内役になってもらって、もう一度「水牛通信」を読んでみようと思っています。次の更新を楽しみに待っていてください。

先月書き忘れたお知らせを。
1月13日、両国シアターχで行われたコンサートのDVDが発売されています。出演は谷川俊太郎、李政美、高橋悠治。三人がそれぞれ朗読と歌とピアノで「平和」のたねを。企画制作は「憲法いいね!の会」300枚限定なので、購入ご希望のかたはメールでお問い合わせください。kenpoiine@uni-factory.jp

それではまた!(八巻美恵)

2019年10月1日(火)

カレンダーを10月にめくってみても、外は少し陰った夏のようです。もう季節はなくなって、暑い日と寒い日があるだけなのかもしれません。今日はコーヒーの日です。

「水牛のように」を2019年10月1日号に更新しました。
朝日カルチャースクールのサイトに、編み狂った結果できあがった赤いセーターを着ている斎藤真理子さんの写真を発見しました。編み上がった主役の「実物」を見ると、原稿がさらに楽しめると思います。
冨岡三智さんが書かれているインドネシアのソロのスタジアムは見たことがあるような気がします。ソロを訪ねたのはもう20年くらい前の一度だけですが、強い印象の街でした。スタジアムを見たような気がするその日、私はインドネシア語しか話さない運転手の隣りの助手席にすわって、走りながらその運転手と話す役割を負っていたのでした。インドネシア語はほんの片言しか話せないのに一日彼とつきあうのです。後部座席には同行の日本人たちがすわっていて、もちろんまったく助けてはくれません。なんとか必要なことを通じあうことに必死で、走りながら見たはずの風景は断片的な記憶にとどまっています。スタジアムもそのひとつだったことを思い出しました。

それではまた!(八巻美恵)

2019年9月1日(日)

そこここに秋の気配は濃厚にあるものの、暑さだけはまだ現役でしっかりと活動中の東京です。今年は夏のはじまりが遅かったでの、終わりも延びるのでしょうか。

「水牛のように」を2019年9月1日号に更新しました。
管啓次郎さんが2017年1月から9月まで連載した『狂狗集』が小さな本になりました。うれしい展開です。この「水牛」ではあまりレイアウトなどに凝ることができませんが、印刷された本では縦書きで句(狗?)ごとに下揃えになっています。好きなレイアウトに固定できるのはやはり魅力があります。「ページをめくるたび、ぼくらの足は軽くなり、心は自由になる!」
大竹昭子さんは「カタリココ」という朗読とトークのイベントを続けていますが、この夏にトークをもとにした〈カタリココ文庫〉の出版をはじめました。創刊号は『高野文子「私」のバラけ方』です。おもしろそうですね。
こうした小さな本にする試みは水牛についてもときどき考えたりはするのです。〈水牛文庫〉ですね。しかし、これまでにみなさんが書いてくれたリソースは膨大といってもいいほどにあるので、さて、どこから手をつけようかというあたりで毎回挫折して今日に至っています。「ボーッと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうですが、まあ、もう少しボーッとしていてもいいのではないかとも思います。そのうちに「やりたい」という人があらわれるかもしれませんから。

それではまた!(八巻美恵)

2019年8月1日(木)

梅雨があける前に台風が来て、ようやく太平洋高気圧に覆われた夏がやってきました。順序がおかしいですね。そして厳しい暑さは夏を楽しむどころではありません。

「水牛のように」を2019年8月1日号に更新しました。
今月から新しい書き手が二人加わりました。「晩年通信」の室謙二さんと「編み狂う」の斎藤真理子さんです。

その昔、生まれて始めてコンピュータ通信というものを経験したのは、室さんの「大海通信」でした。そのホストコンピュータは同潤会江戸川アパートの一室に置かれていて、ある日、見に行ったことがありました。記憶はだいぶあいまいですが、室さんのお姉さんが住んでいた部屋だったのかな。住んでいる人はすでに少なく、中庭から覗いてみた食堂や社交場は半分廃墟のようになっていました。解体されたのは2003年らしいので、私が訪れたのは2000年ごろだったかもしれません。室さんはアメリカで暮らしているので、あまり会う機会はないのですが、こうして水牛に連載してくださることになり、うれしく、また楽しみでもあります。
片岡義男.comの編集者として書いておかねば。「BRUTUS」1981年4月15日号は「片岡義男と一緒に作ったブルータス」という特集号で、今でも人気があります。その編集を担当したのは室さんです。雑誌の最後のページに今と変わらない笑顔の室さんの写真が小さく載っています。

斎藤真理子さんは最近大活躍の韓国語の翻訳者です。しかし彼女と私には文学や編集とは何の関係もない共通の友人がいることもあり、本流を外れてときどき会う機会があります。そんなとき真理子さんはいつもゴージャスな模様編みのセーターを着ています。自分で編む、というだけなら私も編み物は好きですし、そんなに驚きはしませんが、どこか常軌を逸しているところがあると感じるのです。そのことを書いてほしいと思いました。真理子さんによる翻訳などについての文章は他でも読めますが、編み物について読めるのは水牛だけだと思います。

7月にはパリから一時帰国していた福島亮さんと会って、水牛通信電子化計画についてあれこれ相談しました。彼の提案を受けて、リニューアルする予定です。楽しみに待っていてください。

それではまた!(八巻美恵)

2019年7月1日(月)

日本にはもう季節というものはない。あるのは異常気候だけだ、と言ったのは片岡義男さんだったか。かろうじて夏と冬だけはまだありますが、その日々の天候は落ち着かず、冷暖房がそれに拍車をかけていると思います。夏のなかに冬があり、冬のなかに夏がある。衣替えもかんたんにはできませんね。

「水牛のように」を2019年7月1日号に更新しました。
北村周一さんたちの展覧会「絵画の骨」が開催中です。国立の宇フォーラム美術館で7月7日まで。木金土日のみ開館です。北村さんによれば、この美術館は壁も天井も床もすべて灰色なのだそうです。

やってみようか、やってみたいな、と思ったことのどれだけが出来ているのかと、ふと考えることがあります。みなささやかなことですが、もちろん(!)ほとんど出来ていません。朝、いつもより少し早く目を覚まし、でも起き上がらないで、その日最初のコーヒーを飲みながら、達成感のないことを考える時間はいいものです。

それではまた!(八巻美恵)