オトメンと指を差されて(1)

大久保ゆう

ある日のお昼時、自分で作ったお弁当を食べていると、女の子にこんなことを言われました。
「大久保さんって、オトメンですよね。」
私が何ですかそれと訊くと、「乙女系男子」との答え。さらになぜと訊くと、「すごく怖い顔でものすごい量の仕事するのに、普段は穏やかっていうかむしろ天然だし、意外と女の子みたいにファッションに気をつけてるし、いつも自炊だし、可愛いモノとか甘いモノ好きだし、時々お菓子作ってくるし。」という解説。

近ごろ世間では、見た目や仕事はずいぶん男っぽいのに、趣味嗜好が女の子っぽい男の子を「オトメン」と言うらしい――ということがわかって、私はとても納得したのです。

確かに私のストレス解消はバーゲンに行くことだし日々甘いものを食べないと生きてゆけません! 女性の先輩に「あなたとだったら『かわいいもの』談義で何時間でもしゃべれると思う」と言われたほどの男の子です! そうか、私はオトメンだったんですね!

言葉を与えられて、心のもやもやが晴れたような気分です。何というか、そういえば、ずっと女の子のことをうらやましく思っていました(そういう男の子もいるのです)。特に何がいちばんうらやましいかと言うと、「ファッション」です。

だって女の子の服ってヴァリエーションが豊富じゃないですか。どんな自分でもなれるってくらいにいっぱい種類があります。街を歩いていても色んな服の子がいますよね。それにお店もたくさんあるし、大きな建物があったら、中の8割くらいは女の子のお店。

それに引き替え男の服と言ったら……じーっと観察してても、シャツ+ジーンズ、ネルシャツ+ツータック、シャツ+ジーンズ……みんな同じのばっかり! たいていワンフロアか半フロアしかない売り場に行っても(あるいはファッションを扱う街に出かけても)、カジュアル系、ストリート系、フォーマル系、終わり。

………………。

待てぇぇぇぇぇい! おいおいおい選択肢少なすぎやしませんか。私にどんな服着ろっていうんですか! それじゃあ何ですか、おしゃれに気を遣う若い男の子はみんなストリートかアメカジにしろってことですか! そんな、私はそういうやんちゃな服よりも、もっとかわ……いえ、イメージに合ったスマートで個性的な服が着たいんですぅぅぅぅ!

――そんな経緯で、うら若き少年の私はパンクファッションへの道を走ることになりました。我ながら極端ですね。今ではとても着られません。当時の女の子っぽい感性の男の子が進む常道です(たぶん違う)。

そしてその後、紆余曲折を経て、ただいま二十代後半の私は、パンクっぽい要素を持ちつつ大人っぽい落ち着きを兼ね備えたファッションを目指すに至ります。カジュアルパンクという言葉が相応しいでしょうか。そして「その服はお前しか着こなせない」とか言われるまでになりました。ありがとうございます。

しかし十年も経った今では、男の子向けのファッションも昔の非常に雑漠とした区分をやめて、独自の言葉で系統立てられているみたいです。きれいめ系、お兄系、サロン系、ヒップホップ系などなど、ちょうど今ファッションに興味を持ち始めていたら、そっちの方に流れていたかも。今の子がちょっとうらやましいです。

とはいえ、こうしてファッションに気を遣う男の子が増えたようにも思えますが、まだまだ男の子向けのお店は少ないですし、ヴァリエーションも少なく、自分に合う服を扱ってるお店を探すのは一苦労です。オトメンにはまだまだつらい世の中です。

(でもそんななか、めぼしいものを見つけたときには! もう「買う買う買う買わないと俺帰れない」と意味不明な言葉が頭の中に繰り返し流れ、次の瞬間には何か紙袋っぽいものを持っています。あれ? おかしいな?)

とまあ、そんな私でありますが、服からさらに進んでもうひとつうらやましい「ファッション」があります。それは「ブランド物」。男の子のブランド物なんて、夢のまた夢だなんて思っていたのですが、最近、その夢を叶える救世主が各地に続々と現れつつあるのです! ……というのは、次のお話で。

製本、かい摘みましては(40)

四釜裕子

製本というものを私もやってみたいと最初に思ったのは、栃折久美子さんの『モロッコ革の本』を本屋で立ち読んだ時だった。棚からちょっと突き出てい(るように感じ)て、文庫だったから早くて1980年、実際は90年ころだろうか。正直に言うと、読んで私は自分も製本家になれる気になった。ところが栃折さんの製本教室の空きを待って意気揚々通ってみると生徒さんはみなえらく器用で、ちょっとはひとより器用なつもりでいた自分の思い過ごしを早々知り、がっくりした。がっくりはしたが、なにもかもに届きそうな予感にひたすらどっぷりつかり妄想する時間は、トロリとしたなんて幸せな時間だったことだろう。

山崎曜さんの新刊、『もっと自由に! 手で作る本と箱』出版記念展を東京・御茶ノ水の美篶堂に見て、2年前の曜さんの『手で作る本』に続いてこれも手製本を楽しむひとのバイブルになるに違いないと思いながら、あのトロリとした時を思い出していた。曜さんの周りのこの風通しのよさ心地よさはなんなのだろう。さてこの本は、「手で作る本のアイディア集です」とはじまる。接着芯を貼った布、革、テープ、段ボールを使った製本、箱や豆本、メモ帳、バインダーや辞書の改装、箔押しなど、手製本の基本を知って周囲を眺めた時にやってくる興味をひきうける内容だ。示されただんどりに没頭するのではなく「素材や道具の手触りを確かめながら少しずつ仕上げ」、「頭と身体を使」うと製本はもっと楽しいよ、そんな姿勢が、風通しのよさを感じさせるのだろう。

なかで特にやってみたいのが、専用の道具がなくても丸背が作れるとして示したプララポルテ(仏語。プラ:表紙、ラポルテ:つけ加える)という方法をアレンジしたもの、そして、パソコンやプリントゴッコ使用のコツから、紙のモザイク(革の装飾法の応用)、フィルム箔と革工芸用の刻印を使った箔押しなどの表紙タイトルの入れ方だ。そして、道具。紙をそろえたり切ったりするときに使う「寄せ盤」の作り方が示されていて、便利そうだけれど使い勝手がいまひとつわからないなあと思っていたら美篶堂で実物が展示されていた。しかもこれに「かがり台」の機能と「幅定規」を加えたものが商品化されていて、これはかなり使えそう。「本の場 HON NUOVA」というブランド名もつき、ウェブサイトで近々公開(7月1日オープン予定)とのことだからうれしい。

今回は、曜さんの思い出の本を素材として改装した例もいくつか掲載されている。お父さまの蔵書であった湯川秀樹の『本の中の世界』もそのひとつで、湯川博士がヨーロッパの教会の中庭に立ったときに子どものころに遊んだ箱庭を思い出し、共通する「何ともいえない幸福感」を感じたと書いてあることを曜さんがひいている。私が曜さんの本を見て、そして栃折さんの本を思い出してひたった「トロリとした幸せな時間」は、同じようなものだったのだと思う。

ヤマタノオロチと立ち合う

冨岡三智

6月21日(土)〜22日(日)に島根県浜田市にあるパサール満月海岸という所で、ジャワ舞踊のワークショップなどをしてきた。ここには、私がジャワで知り合って10年以上になるという染色家の友人らが、仲間たちと一緒に廃屋を改装してギャラリーや食堂や劇場なんかを作っており、5月から9月までの土日や満月の夜にだけ、いろんなイベントを行っている。会場名にあるとおり、裏はすぐ海岸になっていて、冬の間は日本海から厳しい寒波がくるために、夏の間だけしか営業しない。

金曜夜、大阪から津和野エクスプレス(サラダエクスプレス)号という夜行バスに乗って島根に向かい、翌朝6時半に、霧雨にけぶる三隅に着く。この辺はすぐ目の前が海、背後には山がへばりついていて、細長く続く海と山の境目に川と道が並んでいるという按配で、奈良の風景とはずいぶん違う。蛇行する川面からは霧が湧いていて、なんだか大蛇が腹ばっているみたいに見え、ヤマタノオロチの存在が実感される。だから、やっぱりその場に足を運ぶというのは大事なことなのだ。

今回島根に来たのは、実は今度9月にジャワから舞踊家を呼んで石見神楽と競演してもらうための布石なのだ。岡崎社中さんという、その辺りでは一番古い伝統を持つ神楽グループが協力してくれることになっている。それで神楽の人にもジャワ舞踊のワークショップに参加していただいて、まだ全然見たこともないジャワ舞踊に触れてもらい、接点を探ることにしていた。もちろん私の方も、石見神楽というのはテレビのニュースやビデオでちょっと見たことがあるという程度、ヤマタノオロチを一晩中上演するという程度のことは知っているだけのド素人である。というわけで、土曜には、ジャワ舞踊ワークショップを2回、さらに土曜の夜にトークショーみたいなことをした後の午後11時頃から神楽音楽で即興で私が舞うというのをやり、日曜の夕方、ワークショップを2回やった後で、オロチと対決することになった。

私が知っている神楽の音楽は、私が小さい頃に廻ってきていた伊勢神楽の音楽だけで、それと石見神楽の音楽は違っていたけれど、なんというか、無心を揺さぶられるような音楽だった。ここで育ったわけでもないのに、この神楽音楽も日本人である自分の原風景にあるものだという気がする。いろんな場面の音楽をメドレーのようにぶっつづけで演奏してくれて、この即興は40分くらい続いたらしい。夕方5時くらいからワークショップやらをぶっ続けでやっていたから、体と頭はボーッとしていたけれど、時間の経過を全然感じないくらい、没我していた。まあ15分くらいやってみましょう、と神楽の方から言われていたけれど、神楽の人たちも没我してノッてくれたみたいで嬉しい。

それで翌日、とてもノッてくれた岡崎社中さんから、やっぱりジャワ舞踊と競演するならヤマタノオロチだろうということで、オロチを3頭持ってきてくれる。ヤマタというだけあって、今では豪勢にする場合は8頭登場するそうだ。それで私は、ジャワから来たスサノオノミコトになって適当にオロチを退治してくださいね、と言われて、共演が始まる。この共演はパサール満月海岸のドラゴン座(という名前はすごいが、広さは6m×7.5mくらいで、今回は畳敷き)で行ったのだけれど、こんな密室空間にヤマタノオロチが3頭もひしめいて出てくると、これは本当に怖い。私の逃げる場所がないではないか!

オロチを演じる人は排水ホースみたいな長い胴(材質は和紙と竹ヒゴの輪)を穿き、頭を被っている。しかもいまどきのオロチの目はピカピカ光り、しかも本番では煙を吐くとかで、舌の下にその火薬口が仕込んでいるのが見える…。その3頭がとぐろを巻いたり、鎌首を持ち上げたりする。ここはオロチの見せ場なのだろう。本当はこの場面ではスサノオは悠然としていれば良かったのだと、終わってから言われたのだが、真近でオロチを見たら、そんなに悠然としていられない。

しかも横から、はい、これが太刀よと渡される(ただし練習用ということでデザインは日本刀)。この武器がまたジャワ舞踊の剣と勝手が違う。ジャワ舞踊の剣はこんなに大きくなくて、第一構え方も違う。しかも練習用とは言え、この日本刀は重い…。ここで早くも剣を抜いてしまったので、オロチにこわごわちょっかいを出してみたりする。そのうちにオロチが酒と書いた樽に頭をつっこみ始める。そこでやっと、そういえば物語ではスサノオはオロチにまず毒酒を飲ませるんだった、と気づく。とはいえ、一体どうやったらオロチは死ぬんだろう。そのことを前もって聞いていなかったことに気づく。仕方がないので、へっぴり腰ながらオロチに剣を向けてみるが、全然死なない。鎌首を上げられるともう戦っていられなくて、私はあちこち跳びまわって戦っていると見せながら、逃げ廻っていた。この間はずいぶん長かった気がするが、演奏の方も私が怖がって逃げていることに気づき、退治の策を授けてくれた。オロチの角をつかんで首を引っこ抜けというのだ。スサノオが角を取ると、オロチ役は自分の頭に固定していたオロチの頭を外し、スサノオは頃を見計らってその頭をすっと抜くらしい。そういう作法を知らなかったもので、ものすごくどんくさいことになったが、なんとかオロチは3頭とも死んで退場してくれた。

終わってから神楽の人たちに爆笑されたけれど、このオロチ退治は本当にいい経験になった。型がない異種格闘というのは、本気で怖いものだと思い知った。ジャワ舞踊であれ何であれ、戦いの舞踊・劇というのは、「相手がこう攻めてくるから、こう受ける」ということが型として決まっている。だからこそ、安心して戦っていられる。そういう共通理解なしにいきなり相手と立ち合ったとしたら、たとえフィクション(舞踊、劇)であっても恐怖を感じる。私はオロチから逃げながらも、スサノオは巨大なオロチを見ておののかなかったのだろうかとか、ウルトラマンがバルタン星人と立ち合ったとき、どう思ったんだろうかという疑問が脳裏をよぎっていた。こういった神話のヒーローは(ウルトラマンは神話ではないけど)、相手の素性も出方も全然分からないままに、敵と立ち合っていたのだと、今になって気づく。そしてこういう怖さのリアリティを失うということが、型にはまるということなんだと、今さらながら感得する。一流の舞踊家ならば、戦いの型を演じながらも、そこにこういうリアリティを感じさせなければいけないのだ。

  ***

というわけで、9月6日に島根県浜田市三隅で神楽とジャワ舞踊の共演を行います。ジャワから来るオロチ退治の一行は、さて、うまく倒せますやら…。今後イベントの詳細はパサール満月海岸のホームページ私のブログでお知らせしていきますので、どうぞチェックしてみてください。

イラクの花嫁

さとうまき

ラーラが、結婚するという。
4年前14歳だった少女は、バグダッドからアンマンまでガンの治療に来ていた。しかし、今年の3月にガンが再発し、またアンマンの病院に入院しているという。早速病院に会いに行ったが、集中治療室に入っているので、面会はできなかった。婚約者のアリ(21歳)が、献身的に彼女を支えている。本来ならば今年の3月に式を挙げるはずだったのだが、ラーラの病気が再発したために式は延期されてしまった。
アリに話を聞いてみた。
「私たちが出会ったのは昨年の9月だった。私は、まだ若いから、もっと遊びたかったんだけど、親父から、心配してふらふらしてないで結婚しろと言われたんだ」
それで、親戚の娘を紹介されたという。しかし、アリの心をひきつけたのは、紹介されたタマラではなく、双子の妹、ラーラだった。しかし、ラーラの母親は、「この子は病気なんです」という。アリは、病気だと聞いてますます関心が湧いてきた。その日のうちに電話番号を聞いて交際が始まったのだ。しかし、それから数ヶ月後ラーラのガンは再発したのだ。母親と、アリが連れ添ってアンマンにやってきたが、お金のやりくりが大変だ。母親は、ホテルで皿洗いをしながら、家賃を安くしてもらった。アリの給料もそこをついたので、彼は一足先にバグダッドへ戻っていくという。

「今日はラーラと何を話したの?」
「しばらく会えないから。夫婦の会話をしたよ」
誇らしげにいう。結婚式は挙げていなくてもすっかり夫婦だという自覚。
「ロマンチックだった。『I Love you !』」
ラーラにはこれからしばらく寂しい思いをしなければならない。「空港に降り立ったら真っ先にラーラに電話するよ。彼女の声を聞かずにはいられない」

ラーラが退院する日に、ようやく私は彼女に会うことができた。4年ぶり。初めてあったころは、まだ幼かったし、遠足に連れて行ってやったりしたこともある。ベッドに横たわる彼女は髪の毛もすっかり抜けてしまっていた。「退院したら写真を撮りに行こう」
しかし、彼女は、治療費を払わないと、退院もできないという。私たちは、がんセンターの口座にお金を振り込んで、すぐに退院させるように取り計らった。お母さんは、もういっぱいいっぱいだという。息子2人は、アメリカ軍に連れ去られ未だに刑務所にいるという。

ガンの再発は非常に厳しい。ヨルダンで最新の医療設備が整っていても、助かる確率はすくない。のこされたのは骨髄移植のみ。あと何百万円準備しなければいけないのか。それでも、助かる確率は20%である。

その夜、街に出て、ラーラの支援を呼びかける記事の写真を撮ることにした。ラーラーは、かつらをつけて、気合を入れて化粧をしてきた。ダウンタウンの花嫁衣裳屋さんに行く。ラーラは、白い衣装よりは、色のついたものを好んだ。店の売り子の女性は、病気のことなどはまったく知らず、若い花嫁を祝福する。翌朝、母子は、バグダッドに向けて帰っていった。骨髄移植をするかどうか、まもなく決断しなければならない。

5列21番

大野晋

「やだ。また、誰も来ないじゃないの?」
 女がすっとんきょうな声を出した。

その港の見える丘の上の古い木造のコンサートホールの席は3列目から始まる。もちろん、ホール内の見取り図には1列目と2列目も書かれているのだがオーケストラが演奏するなどの公演では前の2列が外されて、その分舞台が広くなるのだ。新しい大きなホールが近くにできてから、最近では演奏会も稀になり広くしたままになっていることも珍しくなくなった。
 その席は、そんなホールの前から3番目。5列目のちょうど40席ある座席のちょうど真ん中、21番目にある。

「この間も、その前も、この席の人は来た事ないじゃない。もう、来ないなら予約なんてとらないで欲しいものだわ」
どうやら、演奏者の追っかけらしい女が一緒に来たらしい他の仲間に悪態をつく。最近では若い演奏家も多くなり、アイドルのような追っかけも出現している。

コンサートも半ば、休憩時間になり場内が明るくなった時、さっき悪態をついていた女たちに初老の紳士が微笑みかけた。
「その空席のことで随分とご立腹のようでしたね」
「あら、煩かったかしら。だって、ちょうど、その席のところが舞台の出演者と同じ目線になって具合がいい席ですから。いい席を無駄にしないで、他の人に譲ってくれればいいと思うんですよ」
女はまだ、未練がありそうな様子だった。
「そうですか。じゃ、この席の由来をご存じないのですね。あまり口外するような話じゃないんですが、ずっとこの付近を予約されるようだから知っておいた方がいいでしょうね。まあ、信じられないかもしれないが、だまって聞いてくれますか?

先の戦争といってももう随分と昔になりました。しかし、その昔、この国も焼け野原になりましてね。何もなくなった。ものがなくなったのならまだ良かったが、人もいなくなった。大抵のいい人は皆、帰ってこなかった。そして、活力もなくなっていたんです。そんなときでした。戦争の前から音楽をやっていた一人の男が演奏会をしようと言い出したのは。焼けてなにもなかったんですが、手当たりしだいに残っていた楽器を持ちよって下手な楽団の下手な音楽会を、そう、港の見える小高い丘のちょうどこのあたりで開いたんですよ。下手な連中ばかりで、今の立派な音楽家と比べるとたいしたことはできなかったが、聞いた皆の心には希望の灯がともったのでしょう。定期的に演奏会を開いては未来の夢を描いたんですね。徐々に、活力を取り戻し、街にも生気が蘇ったのを感じたものです。

やがて、演奏会は大きくなり、言い出した男は皆の面倒をみる世話役のような形で、中心になって働いていた。このホールができたのも、そんな復興の中でした。市民が誰となく言い出して、実現したのが当時としてはめずらしかった大型の演奏会専用のホールでした。開館当時は多くの有名オーケストラを集めて盛大なセレモニーが開かれたものです。もちろん、初代の館長は戦後、ずっと復興に尽力したその男でした。しかし、いいことがあれば、悪いこともある。このホールができて数年を経た年末。その男は逝ってしまった。最後は耳が遠くなってしまって、大好きだった音楽が聞こえなくなると嘆いていましたよ。

それから何年かした頃ですかね。変な噂が広がったのは。

夜中や休館の日にホールを覗くと、ホールの中に人影が見えるというんです。最初は泥棒かなにかだと思いまして、この中にはピアノやハープシコードなど、ホール専属の楽器がいくつか置いてありましたから。しかし、よくよく話を聞いていくとそういうことではないらしい。初代館長の姿をしたうっすらとした人影が心配そうに楽屋をみたり、ホールや客席の間を行ったりきたりしているらしいんです。それを聞いて彼を知っている連中はピンときましてね。昔からそうなんですが、公演が始まるまで心配で心配で仕方がないらしくて、あれは忘れていないか、これは準備したのか、お客は満足して帰ったか、演奏者には失礼はなかったか、そんなことを始終気にしている男だったから。。。

で、一計を案じて考えたのが、演奏会に専用の席を設けてやろうという話だったんです。それも、ちょうど、この位置。この観客席の真ん中で舞台の演奏者と同じ視線の位置に座って、お客が入る前にゲネプロを聴くのが癖だったから、この位置を彼の功績に免じて提供しようってことになって、だから5列21番はいつも、彼のための指定席として空いているんですよ。いや、空いているって言うのも間違いかな? この年齢になるとね。ときどき、ふっとね。そこに、彼のいる雰囲気がする。そう、名演だとうんうんと頷いているようなそんな気配を感じるんですねえ。おかしいですね。

だから、どうか、彼に免じて許してやってくださいな。また、今日の演奏も絶好調だ。最近の若い演奏家は技術があるから、きょうもそこで喜んで聴いていると思うんですね。いや、ごめんなさいね。変な話をして。年をとってくると昔話が多くなって。困るね。ははは」
そして、ちょうど、その女越しにその席の方を見て、にこりと頷いた。

5列目21番。港の見える小高い丘の上にある木造のホールのその席は今日も空いている。

メキシコ便り(10)

金野広美

メキシコは西は太平洋、東はカリブ海という大きな海に挟まれているためプラジャ(海岸の意味)と呼ばれる海を楽しめるスポットがたくさんあります。その両方の海に行ってみようと、カリブ海側のカンクン、プラヤ・デル・カルメン、太平洋側のプエルト・バジャルタ、マンサニージョに行ってきました。

カンクンは日本から新婚旅行でやって来るカップルも多く、毎年300万人もの人が訪れる世界有数の大リゾート地です。平均気温は27度。近くにはチチェンイツァーやトゥルムというマヤ文明の重要な遺跡があり、これらとセットで訪れる観光客も多くいます。メキシコ・シティーから飛行機で2時間半、ユカタン半島に位置するカンクンはホテルゾーンとセントロ(ダウンタウン)という2つの中心街があり、カリブ海に面したホテルゾーンには100余りの豪華ホテルが林立しています。私が宿泊したホテル、オアシス・カンクンはとなりのグランド・オアシス・カンクンとあわせて部屋数が1316という巨大なホテルでループ状の長いプールやテニスコート、フィットネスクラブやディスコ、日替わりで民族舞踊やカリビアンダンスなどが見られる大きなホールなど、とにかく大規模で退屈している暇がないという施設でした。ホテルに到着するとすぐ水着に着替えて海に直行。そのあまりの美しさに一瞬、息をのみました。どこまでも続くパウダー状の白砂のビーチにエメラルドグリーンの海が広がっています。その日はとても波が高く泳ぐというより波乗りをしたほうがよさそうだったので、大きな波がやってくると飛び上がるというボードを使わない(というより使えないのですが)、波乗りをして海に遊んでもらいました。

次の日はカンクンから船で1時間のイスラ・ムヘーレスという全長8キロの小さな島に行きました。ここにあるプラヤ・ノルテというビーチは遠浅で波もなく、ゆったりと泳ぐことができました。

カンクンで4泊したあと、バスで約1時間半のプラヤ・デル・カルメンに行きました。ここはカンクンとは違ってこじんまりとした静かなところで、カンクンの喧騒を離れてのんびりとするには適している場所です。ここでは3泊したのですが、2日目に船で45分の島コスメルに行きました。

コスメルは長さ53キロ、幅14キロのメキシコでは一番大きな島で、透明度の高い海が世界のダイバーを魅了しています。私はダイビングの免許を持っていないので、シュノーケリングしかできませんでしたが、それでもたくさんのきれいな魚たちと出会うことができました。赤、青、黄色と黒、白に緑と、色とりどりの宝石をちりばめたような海の中は本当に美しく、はるか昔、幼稚園の学芸会で竜宮城の乙姫様になってお遊戯をしたことを思い出してしまいました。ここコスメルの海はカンクンとはまた違って群青、青、エメラルドグリーン、緑、薄緑と微妙なグラデーションを描いていました。白い砂浜に座ってこの海をぼんやりと眺めていると、時のたつのを忘れてしまい、決しておおげさではなく生きててよかったなあと思えてくるのでした。というのはいくら努力をしてもなかなか上達できないスペイン語にあせりと苛立ちを覚え始めていた私を、カリブの海は、「生きてる限りなんとかなるよ。もうちょっと頑張ってみたら」と、言ってくれているような気がして、ちょっぴり元気がでてきたからでした。

カリブ海からいったんメキシコシティーに帰り、こんどはシティーからバスで13時間の太平洋岸にあるプエルト・バジャルタに行きました。カンクンではホテルの従業員以外メキシコ人はほとんどいなくて、多くの米国人とヨーロッパ人ばかりでいたが、ここにはたくさんのメキシコ人がいました。海の色は深緑一色で砂浜も黒ずんでいたため、カンクンとのあまりの違いに一瞬たじろぎ、海に入るのをためらってしまいました。しかし、とても楽しそうに波とたわむれているメキシコ人を見ているうちに、私もつられるように海に入り泳ぎました。たくさんの子どもたちも歓声をあげながらはしゃいでいます。波打ち際をおいかけっこをしたり、砂山をつくったり、ボードをうまく使って波乗りをしたりと、本当に楽しそうでした。そんな子どもたちを眺めていると、海岸でホセという名の男性に声をかけられました。ホセの仕事は塗装工でメキシコシティー近郊のトルーカから同僚3人と単身赴任で働きに来ているということでした。ここプエルト・バジャルタは近年急速にリゾート開発が進み、ホテル建設が増えています。ホセもそのために3ヶ月間ここにいる予定だそうです。一緒に来ていたアルベルトがビールを勧めてくれ、みんなで飲みながらいろいろ楽しくおしゃべりし、メキシコシティーでの再会を約束して別れました。

このあと太平洋岸を少し南下してマンサニージョという大きな港のある街の海でも泳ぎましたが、やはりここも海水はプエルト・バジャルタよりは澄んでいましたが、カンクンとはまったく異なる海でした。海で泳いでいるのはメキシコ人ばかりで外国からの観光客はあまりいませんでした。このようになぜカンクンにはメキシコ人がいなくて太平洋岸ばかりにいるのかというと、カンクンは遠くて高すぎるため一般のメキシコ人はなかなか行けないのです。カンクンに行けるのは、ほんの一部の金持ちだけです。また、私も含めた外国人観光客が多いのは外国人にとってはカンクンは安いのです。特に米国からだと近いため、大勢の米国人が押しかけます。カンクンはメキシコの国土でありながらそのすばらしさをメキシコ人が享受できない場所なのです。でも「カンクンに行ってきたよ」と、メキシコ人の友人に、てばなしで報告できないほろ苦さを抱えながらも、また行きたいとおもっている私なのです。どうもすみません。

雉鳩――みどりの沙漠45

藤井貞和

孔版の上に火を鑽るごとくする思想的いわれ鋼鉱を熔かす

なんて季節がありました、

活きる字の活版印字ゆめのさき孔版原紙切り裂きながら

などとも、いきがって、

一語一語意味の原野に字を植うる写植の時代燃ゆる校正

などとは、いきがって、

鉄筆の火を鑽る原初より続く稗(はい)史臆説式亭三馬

版本時代の終わりを告げて、

プリンターよりひらひらと雉鳩の飛び立ちてすべなきわが帰還

(6月尽。パンドラの箱を開けるように、開けたらプリンターからひらひらと飛んでいっちゃったんです。一枚また一枚、消えてなくなります。)

梅雨明け、ウマチー

仲宗根浩

選挙があった。こちらで選挙となると地縁、血縁の世界。選挙に尋常なく燃えるひともいる。投票はするがなるべく、関わりたくない。各選挙事務所には知っているひともいるので近寄らないよう、前を通るときも足早に、足早に歩いていたら、梅雨は雨を降らせることもなく十七日に明ける。気温も三十一度を超えるようになる。三十度と三十一度、差は一度だが窓から入る風が全然違う。陽差しは痛い。Tシャツの繊維の隙間から陽は肌を刺す。家では空調のない部屋にいることが多く、暑がりなので自然と裸族と化す。といっても最低限着るべきものは着ている。

晴れていても雨雲が急に近づいて来て、数分雨を降らして通り過ぎる。

翌日の十八日は旧暦五月十五日、五月ウマチー(グングァチウマチー)のため首里の宗家の仏壇を拝みに行く。二十年くらい前、拝みに行く仏壇が家の近所にあったころ以来だ。この日は門中(モンチュウ)と呼ばれる親族が集まる。昔見たのと同じように仏壇が配置されていた。こちらでは行き来する親戚の幅が広い。親戚と言われても長らく沖縄を離れていたため、関係がわからない場合が多く、後から教えてもらう。父方、母方の祖母の従妹、その実家、養子に来たひい爺さんの実家、そこから分かれたそれぞれの家々。

以前、原稿を書いていた音楽雑誌が送られて来る。CDを紹介したものやコンサートのレポート、フリーペーパーや地元の雑誌に書いたものは一カ所に積み上げておいたが、年末大掃除で全部処分した。原稿を書くにあたって取材に時間が取れなくなったこと、色々、音楽に関係するひとと話をしていると、あちこちに派閥、触れては行けない人間関係などが見えて来たので面倒くさくなって全部やめた。やめてからずいぶん経つのに、一誌だけが毎月送ってくれる。その中で紹介される音楽の内容は今ほとんどが興味なくなっているがブラジル移民百年の記事があった。母方の家はわたしが生まれる前に、ブラジルに移民として渡った。たまにブラジルから神奈川に働きに来ている従兄弟が沖縄まで遊びに来る。以前は方言とポルトガル語しか話せなかった。こちらもカタコトの方言を使って会話する。何度も行き来するうちに、会話もスムーズになっていく。日本語は難しい、と言っていた。

久しぶりに、よく行ったいた飲み屋に行く。顔を出していない間のよく顔を合わせていたひとの近況を教えてくれた。その中の米兵夫妻、旦那がテキサスに移動になるらしい。彼はarmyなのでテキサスへの移動はほとんどイラク行きとのこと。奥さんのほうは悲嘆にくれ、泣いてばかりいるといっていた。任務が終わるまで家族はテキサスで待ち続ける。慰霊の日の二十三日、子供は学校が休み。テレビでは特集番組、慰霊祭の中継、ニュースではその様子を流し続ける。沖縄では南に逃げるか北に逃げるかで生死の確率が全然違う。父親、母親とも北、山原(ヤンバル)に逃れた。それでも機銃掃射で歩く列、ひとりおきに弾丸に当たり倒れていったはなし、夜の艦砲射撃の光の様子などは子供の頃聞いた。今の戦争も昔の戦争が遠くないところにある。

色々な旅

笹久保伸

先日ギリシャ、ブルガリアで演奏する事になり、初めてのヨーロッパへ行った。私は乗り物酔いをするので、以前から旅はあまり好きではなかった(旅は好きだが、乗り物が嫌い)が、それもペルーでたくさん旅をしなくてはいけなかったため、だいぶ鍛えられた。過去の旅の経験があったので、今回はわりと余裕があった。

ペルーの場合、首都のリマから山岳地域に行くにはアンデス山脈を越えていかないとたどり着けない。飛行機で行けば1時間で行けるところも、車で20時間かかる。とくに田舎では道が整備されてなく、車もボロボロ。旅をしていると探検家、冒険家のような気分になる。アンデス越えは標高の高い地点を通るが、標高4500メートルを超えると、かなり体がきつくなり、手がしびれ、頭がくらくらする。バスにはトイレが無いため、乗客の誰かがトイレに行きたくなるとバスが止まる。(たまに運転手の悪ふざけで止まってくれない)

標高5000メートル地点などでバスが停車したら、歩いて外に出る事すらつらい。私が旅した時、首都は夏だったので、半袖Tシャツ一枚でバスに乗ったが、標高5000メートルに着くと雪が降っていて(ワンカベリカ県)、バスを降りる前から高山病で手足がしびれていた私は、ふらふらで外に出て、本当に死ぬかと思った。この旅は私の人生最悪の旅だが、とても重要な経験だった事が後でわかった。

一方首都のリマから北、南へは海岸線で標高は低い。ペルー最北部はトゥンベス、ピウラと言う県で、1200キロくらいある、最南端タクナまでも同じ距離。これは楽だと思いバスに乗り挑戦したが、あまり楽ではなかった。20時間の旅だが、景色はずっと砂漠でまったく変化がない。しかもかなり暑い。途中では麻薬の検問があり、犬と警官がバスを止めて色々調べる。バスの中では眠れない、眠ると100パーセントの確率で荷物を盗まれる。

自分はまだ置き引きにはあったことがないが、強盗に襲われたことは何回もある。リマのスラム街に泥棒市があり、ここにいる90パーセントの人間が泥棒といわれ、車の部品から鉛筆、骨董品、楽器、レコードからピストルまで何でも手に入る。そこに売ってないものは、注文すると、彼らがどこかから入手して(盗んで)くる。物を盗まれた人は、盗まれるたびにそこへ行く、そしてたまに自分が盗まれたものが数日後そこで販売されていて、自分で買う。うそみたいな話だが、本当である。

その頃私は78回転のSP版レコードのペルー音楽を収集していて、そこへ買物に行った。昼間道を歩いていると、4人組が現れ、一人に首を絞められ(ヘッドロック)あとの3人に所持品を奪われた(ガムだけ返してくれた)。後日再び買物に行ったときは、スラムに住む子供の集団(強盗)に襲われた。現地ではそれをピラニアとよび、20人くらいで一斉にかかってきて、抵抗は不可能である。私は走って逃げきったが、誰も助けてくれなかった。

その後自宅の前でも強盗にあったときは、隣の床屋のおじさんが助けてくれた。

日本に帰国する日も、自宅を出発する時2人の強盗が現れ、ピストルを突きつけられた。たぶん近所に住む泥棒が、私が旅に出る事に気がつき、その知り合いの泥棒を呼んだと思われる。もしくは、家の前にいる見張り人が強盗に旅に出るという情報を流した(そういう事は日常茶飯事である)。

楽器を取られないよう心配をしながら、でも死んだらもともこもないな、と考えた。強盗もかなり緊張していて、それが逆に恐かったが、結局彼らはタクシー運転手の財布と荷物、携帯、免許証を盗み退散した。その後警察に行ったが「強盗? まあよくあるから、次は気をつけてね」と言われ、犯人を追わないのかと聞くと「追うわけないだろ、だって捕まらないし、カヤオに逃げられたら警察は入れないし」と聞き流された(カヤオ地域のスラムは警察すら入らない)。

話を旅に戻しますが、一方ギリシャ、ブルガリアの旅は、移動中の景色はきれい、電車、バス、道路、食、すべて順調であった。ブルガリアで突然雹が降り、ホテルのガラスが割れたり、洪水になったり、ギリシャからブルガリアへ移動したとき(電車と車で移動)到着時間を勘違いし、ギリシャのドラマ県に夜中の3時についてしまい、駅のベンチで寝るはめになったり(11時amまで)はしたが、冬、アンデスの村のバス停で寝た事もあるし、食事が乾燥トウモロコシだけだった事もよくあるので、それにくらべたらたいした問題ではなかった。

先進国、発展途上国では色々な面で雲泥の差がある、しかしどちらが雲でどちらが泥か、そのとらえ方は人それぞれ。

アジアのごはん(25)コルカタのチャイ屋さん

森下ヒバリ

インドの西ベンガル州の州都コルカタ(旧カルカッタ)の空気の悪さは半端じゃない。夜半にコルカタ空港に着いたとき、まず着陸のときに窓から外を見て「おや、深い霧だこと」と思った。空港からタクシーに乗って道路に進み出て「コルカタは霧の町だったのか・・」とロマンティックな気分に浸ることわずか、すぐに町中に流れる霧のようなものが外灯や車のライトに照らされたスモッグだと気が付いた。

加えて、ものすごい騒音と渋滞。鳴らされっぱなしのクラクション、人の叫び声、車のエンジン音、音楽。忘れていたインドの感覚が身体の底から浮かび上がってきた。この混沌の世界に戻ってきた・・と思わずタクシーの中で嬉しくなって笑ってしまう。

しばらくコルカタにいたのだが、用事があるときのほかは、宿のあるサダルストリート周辺からほとんど出なかった。せいぜい、オールドマーケットの向こうまで。とにかく、車の多い大通りは空気が悪くて渋滞しているので、大通りには極力出たくない。あまり車の走らない裏通りや路地をぶらぶら散歩して過ごした。サダルストリートは、安宿街なのだが、この周辺は古きよきインドの下町でもあるので、路上観察していて飽きることがない。

散歩の友は道端のチャイ屋で飲む一杯の煮出しミルク紅茶である。紅茶を牛乳と水とで煮出したもので、たっぷりの砂糖が入っていてかなり甘い。店によっては生姜やシナモンなどのスパイスを加えることもある。道端の店ではある程度まとめて鍋で作り、仕上げに砂糖を加えてしまうので、砂糖抜きを頼むのはむずかしい。道端の店ではとても小さい素焼きのカップで出されるのだが、たぶん40ミリリットルぐらいしかチャイは入っていないので、甘くてもまあ何とか飲める。

いろいろな道端のチャイ屋で飲んでみて、けっきょくホテルの横の路地にあるチャイ屋がいちばんおいしいことが分かった。チャイを作っているのはまだ中年にさしかかったばかりのおじさんである。青いチェックのルンギ(腰巻布)を着て立てひざをして座り、もくもくとチャイを作る。店に客が途切れることはほとんどない。少年が出来たチャイを受け取って客に渡したり、配達したりしている。木のベンチが2つあるのだが、いっぱいで座れないことも多い。

素焼きの小さいカップ入りが2ルピー。約6円。大きいカップもあり、こちらは5ルピー。小の3倍ぐらい入っている。素焼きのカップは使い捨てで、飲み終わったら足元に投げ捨てて割る。低温焼成なので耐久性はなく、しばらくすると土に返るのである。焼き上げて洗っているわけでもないので、赤茶色のカップに口をつけるとちょっと赤土の匂いがする。

ベンチに座ってちびちびと飲みながらチャイ屋さんのようすを眺めていると、持ち帰り客もけっこう多い。マイカップや小型の保温ポット、ステンレスの茶筒のような入れ物を持って買いに来るのである。

「わたしも持ち帰りがしたいっ」と今回のインド旅行に同行したK嬢が目を輝かせて言う。ステンレスの茶筒にはもち手も付いていて、あれをぶら下げてチャイを買いに行きたくなったらしい。市場の近くでステンレスのいろいろな容器を売っていたので探し出して買い、K嬢はチャイのお持ち帰り生活を始めた。「いや〜、お持ち帰りだと量が多いんですよ〜」マイカップやマイポットを持参すると、5ルピーで店で飲む大きいカップの2倍近い量がもらえるのだという。

ところで、日本人や中国人、タイ人などのアジア人は大人になるとほとんどの人が「乳糖不耐症」になる。ミルクに含まれる乳糖が消化できず、腸内で拒否反応を起こして腹痛、下痢、ガスの異常発生などの症状を起すものだが、どれほどミルクを飲めばどのように症状が出るかには個人差もあるし、戦後育ちは子供の頃から牛乳は完全栄養食品という信仰で育てられてきているので、自覚のない人や、気付かない人も多い。しかし、ミルクを飲むとおなかが張る、お通じが良くなると思っている人は多いはずである。

これは次の世代に母親の乳を譲るための、哺乳類としてはごく自然な性質である。ミルクが完全栄養食品になるのは、長い牧畜の歴史によって得られた、乳糖を消化できる特質を遺伝的に持っているヨーロッパ人などの人々にとってだけなのだ。
インド人は地域にもよるが、アジア人よりは乳糖分解酵素の保持率が高いようである。乳糖は発酵作用で分解されるため、乳糖分解酵素を持っていないアジア人成人は、牛乳や生クリームはなるべくさけて、乳製品が食べたければよく発酵したチーズやヨーグルトを食べるといいようだ。

わたしは牛乳アレルギーも持っているので、乳製品を摂取すると乳糖不耐症の症状が出るより先に気分が悪くなってしまう。まったく受付けないわけではないが、許容量は少ない。なので、チャイは水とミルクが半量ぐらいであるとはいえ、5ルピーのカップを一度に飲むと容量オーバー。一日に間を空けて2ルピーのチャイを3杯が限度だろうか。幸いなことにそういうペースであればチャイも楽しめる。

なので、乳糖不耐症の激しい症状に至るほどのミルク摂取はしたことがない。沢山飲めば飲むほど症状は激しくなるというから、その症状を経験することはまず無理。その前にアレルギーで吐いて倒れるから。

しかし、激しい乳糖不耐症の症例を目の当たりにする日がやってきた。コルカタから北へ寝台列車で移動し、ブータン国境の町に着いた日、わたしは寒さとカレーの油に胃が弱って体調を崩し、宿でげろげろと吐いていた。食べ物も受け付けない。なにか同じように具合が悪そうでトイレに通うK嬢。あぶらこいカレー料理でも何でも「おいし〜い!」と毎日わたしの二倍は食べていたから、さすがに胃をやられたのかと思いきや「ゲリなんすけど、それと一緒にあの・・も、ものすごい爆発ガスが止まらないんです」と青い顔。

「それ、乳糖不耐症の症状みたいやけど、毎日どれぐらいチャイ飲んでたん?」聞くと、ここ数日、彼女は散歩のときにも一緒にチャイ屋でチャイを飲んでいたが、その上に何度もお持ち帰りをして宿の部屋でチャイ三昧をしていたらしい。あの小さなカップの量ならまだしも、お得なマイポット持ち帰りであるので、けっこうな量を飲んでいたことになる。さらにインドのベジタリアン料理はミルクをよく使うので、知らず知らずのうちに限度を越えて大量摂取に至っていたのだろう。
「日本にいるときも牛乳は好きでよく飲んでたんですが、たしかにおなかは張ってよっくガスが出てました。でもこんな激しいのは初めてですう」K嬢はおなかが張ってよくガスが出るのは自分の体質だと思っていたらしい。一緒に行ったほかのメンバーからも「はしゃいでお持ち帰りするからだ」と叱られ、「お前はもうチャイを飲むな」とストップをかけられたK嬢であった。しかし、チャイ断ちした後も数日間は彼女の症状は治まらなかった。

しもた屋之噺(79)

杉山洋一

先月末、まるで昨日のことのように大阪の高層ホテルから夜が明けてくるのを眺めながら原稿を送り、一月経った夜半、庭の夏虫の声を聞きながら続きを書いていると、ものすごく大きな白いキャンバスに、気の遠くなるような日記を書きつらねるような、何となしに朦朧とした気分になってきます。

四月はじめ、ミラノの自宅に空巣が入り、日記帳がわりの数年前のクリスマスプレゼントにエミリオがどこかオーストリア国境の小さな街で偶然見つけてきた、巻末にピタゴラスの数表がはりつけてある色あせた数十年前の小学生用ノートが、プロコフィエフの1番交響曲のスコアと一緒に盗まれてから、日記をつけていなくて、この原稿が肌理の荒い備忘録替りになっています。でも思い出せることは限られていて、取りこぼしも少なくないかと思います。

当初、毎月終わりまでにあげるこの原稿は、自ら課した日本語の宿題のつもりで、日本語を書くことを忘れないでいなければ、程度に思っていましたが、もうすぐ息子が近所の幼稚園に通いだす段になり、親の懇談会などに参加しつつ、息子は何語でどう育ててゆくべきか、思いを巡らせるようになりました。

幼稚園に通いだすまで、イタリア語の導入のつもりで息子とはイタリア語で出来るだけ話し、家人と息子は日本語で接するようにしていますが、さてこれからどういう風にコミュニケーションが発展してゆくか。楽しみにしていますが、多少の不安もなきにしもあらず。日本語が出来たら親としては嬉しいけれど、どれだけ難しい言葉かもよく理解しているし、その苦労の割に、もし海外に住んでいたとしたら、どれだけ利用価値のあるものか、特に昨今の世知辛い日本の現状を鑑みれば、確かに多少首を傾げたくなるのも否めません。

今月はじめ、桐朋で作曲の公開レッスンをさせていただいた折、最初に申し上げたのも、一度海外に出れば厭でも学ばされる、言語感覚というか、契約社会における言語(音楽言語ももちろん含まれるわけですが)に対する責任意識についてで、自分はとにかく音符を書けばよいのではなく、多かれ少なかれ、自らの各音符の一つ一つ、楽譜一つ一つが、われわれの文化を否応なく育んでいるという事実と、同時に残されてゆくことに対する強い認識を訴えたかったのです。もちろん、それは作曲家に限らないと思うし、演奏家であれ聴衆であれ、近しい責任意識は持てるはずだし、持つべきだとも思います。

ちょうど今日、1月に桐朋でご一緒した学生さんからメールが届き、彼女が夏から秋にかけて参加するダンスやミュージカルの近況がとても清清しく綴られていて、とても嬉しくなりました。誰しもそれぞれの過去から培われた個性を持ち、リアルタイムで文化という歯車の一端を自ら担っている実感さえあれば、人生が途端に鮮やかなものに変化するに違いありません。ですから、あたかも文化への直接参加の機会を拒否するような、仮想社会に氾濫する現在の匿名性の横行は、勿体無い気がします。

誰しも完全な人などいないでしょうし、互いに違う人間であることを認めることから、自我を明確にすることもできる筈です。互いに違う人間がコミュニケーションを取るべく手段として言語があり、音楽があるのですから、結果として責任意識が発生するのも、むしろ自然だと思います。

尤も、ついこの間までインターネットすら存在せず、コミュニケーションの手段も全く違っていました。携帯電話もスカイプもついこの間まで普及していませんでした。ですから、今後コミュニケーションがどのように変化してゆくのか、想像を遥かに凌ぐかも知れませんし、現在までのかかる変化が、たとえば匿名性の誘因だったにせよ、これだけドラスティックにコミュニケーションそのものが変化しているのですから、一定の認識は必要かも知れません。

少し話は飛びますが、7月に東京オペラシティで安江佐和子さんが演奏してくださる打楽器曲に、Tree-Nationというニジェールの植樹運動の名前をつけたのは、無責任とも言えます。実際ニジェールに行ったこともなく、この植樹運動が砂漠化を止めるにあたりどれだけの意味が役割を果たすか、おそらくバルセロナの本部ですら未知数かも知れないのですから。ただ、安江さんの演奏に接し、たとえば彼女のCDを通じて、アフリカやニジェールに興味を持つ人もいるかも知れないし、もしかして一人でも植樹運動に参加してくれる人が増えるかも知れません。樹を買わないまでも地球温暖化や森林破壊、世界の砂漠化に対して、自ら出来る心がけはないか考える切掛けになれば、素晴らしいことだと思います。

もう数年前になりますが、最後に茅ヶ崎の祖父の墓参りに行ったときのこと。幾ら探しても墓石が見つからず、結局改めて調べてもらうと、「三橋家之墓」とだけ書かれた墓石に作り直したばかりで、将来新たな名前を書き付けるスペースも必要なのでしょう、墓誌には探していたご先祖の名前は刻まれていませんでした。ですからお墓が見つからなかったのです。

宮大工だった母方の祖父が亡くなったのは1935年前後かと思いますが、死後73年もすれば、彼が存在した跡すら消去されてゆくことを知り、人生の儚さだけでなく、文化の推進力の強さ、強かさを頼もしくさえ感じました。父方の曽祖父の名前も、戸籍謄本は杉山龜太郎、墓石には龜次郎と書いてあり、どちらが正しいか覚えているひともいません。

せいぜい死後70年も経てば、存在など多かれ少なかれ薄らいでゆくものでしょうし、自分のことを死後、長く記憶に留めて欲しいとも思いませんから、やはり如何に現在を生きるか、巨大な世界において、ちっぽけな自分がすべきこと、出来ることは何かと考えるのも強ち無意味ではないと思うし、せめてせいぜい生きている間は、誰でも気持ちよく、正々堂々と生きられる社会であってほしいとも思うのです。

実は今日、家人が一泊二日でペスカーラに出かけていて、久々に息子と二人で過ごしています。外は既に白んで鳥たちのさえずりも一層冴えてきましたが、原稿を書いていると、暑気で寝苦しいらしく、何度か階下から息子に呼ばれ、寝かしつけてきました。そうして、未だ3歳の芋虫だか子犬のような背中を眺めつつ、親父もせいぜいお前に恥ずかしくない程度には譜読みしなきゃと諌めつつ、ジェルヴァゾーニの楽譜を引っ張り出してきたところです。

(6月29日 ミラノにて)

グレン・グールドふたたび

高橋悠治

NHKテレビ番組『グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー』に出てグレン・グールドのヒンデミット/シェーンベルク風ピアノ小品を弾き あらためてグールドのDVDの映像を見て思ったこと二三

高い枝から実をもぎ取るサルのような 極端に低い椅子に座って鍵盤から指で音を掻き取るようなあのしぐさは 最少限の力で音の(ピアノの場合)強度と時間的ずれの微妙な調整 それによる音色(ねいろ)の幻覚を生む 合理的な方法であるはずなのに なぜ あんなにぎくしゃくしてしまうのか 最初の一音の前の身構えが 強調する音の持続が 頸椎をふるわせ 肩甲骨をかたくする のばした指はバネのように鍵盤から飛び退き テニスのラケットのように音をはじきだす 肘からさきだけがうごいている 顔を鍵盤に近づけ 他のものが意識に入らないように 指のうごきだけを見て 口はリズムをとりながら 憑かれたようにさきを急ぐ

再録音した『ゴルトベルク変奏曲』のアリアの遅さ ほとんど停止して次の音が予測できないほどの それでもあたりに漂う沈黙を押しのけて気力だけで 次の音に辿り着くように見える 自転車が倒れないようにできるだけ遅く漕ぐことに必要な技術と似たものがはたらいている ここでは あらかじめ決められた構成や 全体の予想からはずれて 一瞬ごとに生まれては消える音と沈黙のバランスが揺れている

それでも第1変奏に入ると それは錯覚にすぎなかった 全曲のテンポ配分が比率で決められていて それに従うなかで あの異常な遅さと感じられるテンポが現れただけ 1956年の最初の録音の「30のばらばらな小曲」を自己批判して 計算されたテンポ変換で全体を統一しようという意志の厳密な実行結果にすぎなかった グールドはそれを算術的対応と呼ぶが それは1950年代にエリオット・カーターの発明したテンポ変換法とおなじもの

グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた それでも音符を書いたり 電子音響を合成することは 時間をかければできる 演奏現場から遠ざかり 録音に特定した作業と言っても 楽器の演奏は身体なしではできないし 身体の制御は機械とおなじではないから このような原則を身体に強いれば そこから複雑な心身問題が起こるだろう

グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう
音楽のように特化したものをたよりに 統一原理をもとめることは 現実の分断とそれによる身体の破壊を招きかねない 一つの身体の上で心臓と脳が争っている どちらか弱いほうが破れるまで