無季――翠の石筍60

藤井貞和

見えずとも人いるけはい数万人
漢俳の何度も起こる詩の国に
地のけぶりまた湧き起こる蛇だろう
現代詩焼くように訳してしまえ
茶丁の水欲しくて聞いたビートルズ
紅衛兵を守り毛立っている
朦朧の中になくした毛語録
沖縄の訃報長沙へとどけらる
韶山の春に雨降る不思議かな
巻く長蛇桂花をきつく抱くように

(寺山修司や岸上大作。来世は「漢俳」をやってると言って出てきたので、その悪夢を払うため。何万人も歌人がいて、恐かったね。二度と見たくない悪夢というのはあるのです。)

砂漠でラマダン

さとうまき

8月の終わり、鎌田医師らをイラクに連れて行った。クルド自治区は、とても暑い。太陽が、近いのだ。それで、結構みんなへばってしまったが、朝方、北イラクから、飛行機でヨルダンに入り、陸路でシリアに移動。一日で3カ国を旅するという強行スケジュール。翌朝は、早朝にシリアから今度は陸路で国境を越えてイラク国内の難民キャンプに向かう。丁度、ラマダンが始まってしまい、朝から飯が食えない。ただ、水だけは飲まないと、倒れてしまう。

シリアの国境に着くが、なかなか許可を出してもらえず、結局5時間ぐらい、待たされた。
鎌田先生をはじめ、日本からの訪問団は、こういうのあまり慣れていないのだけど、気長に待つしかないのだ。書類一枚無くても、通してもらえないし、書類があっても、なんだかんだと理由をつけられて断られることもある。ずーと車の中で待たされ、ペットボトルの水もお湯のようになってしまう。食料もラマダンだから、ビスケットや、ポテトチップをみんなでつまんでいる。国境は砂漠の真中にあり、気温もどんどんあがっていく。夏のラマダンは、相当きつい。

最後に、僕たちは、シリア警察の事務所に呼ばれて、コーヒーをご馳走になった。警察官は、ラマダンをやらないという。仕事に影響がでるのだろう。イラク国境からイラク警察が迎えに来てくれた。ぎゅうぎゅうづめになりながら、国境を越える。イラク側には、未だにアメリカの海兵隊の検問所があって、米兵が、手の甲に、日付のスタンプを押してくれる。難民キャンプに着いたのは、もう日が傾きかけたころだった。鎌田医師はあわただしく、難民の患者を診察して、去っていた。

僕は、キャンプに一人残ることになった。ほとんど日が傾いてきたころ、子どもたちが遊んでいる。地面に水をかけるとさそりが喜んで出てくるそうだ。捕まえた2匹の黒いさそりを見せてくれる。僕は、砂漠に何度も足を運んだけど、生きたさそりを間近に見るのは初めてだったので、なんだかうれしくなったのだ。日本の子どもたちがカブトムシを捕るような感じだ。

キャンプも昼間は暑くて、みんなテントの中にいるのだが、日が傾き始めると、食事の準備が始まる。買い物を手伝う子どもたちもいる。いよいよラマダンあけのご馳走。イフタールだ。地平線に太陽が落ちていく。正確には、ポテトチップを食ってしまったので、私はラマダンをしたわけではないが、朝から食ったものは、それだけなので、自分的には、ラマダンそのものである。それで、国連の職員たちと、テーブルを囲んで、日が暮れるのをまった。

急に肉をくうのはよくないので、ナツメヤシの干したものとヨーグルトドリンクからスタート。とそのとき、バリバリと音がして、上空に米軍のヘリコプターが飛んできた。いきなり、ミサイルのようなものを撃つので何だ!と思ったが、フレアーと呼ばれるもので、ヘリの熱源を目指して追尾してくるミサイルの赤外線シーカーをだまして、ヘリの代わりにフレアーを追いかけさせるというものだそうだ。ラマダン明けのお祝い? アメリカ軍がそんな気の利いたことをしてくれるとも思えない。下から、ミサイルで狙われているのだろうか?

夜、僕はテントに、泊まる予定だったが、夜の11時ごろ、国連のスタッフが、キャンプは危険だから、国境のUNのキャラバンに止まるように薦めてくれた。夏の夜の砂漠は、ちょっと素敵だ。ラマダン初日は新月。星が降ってくるように輝いている。

朝、地平線から太陽が顔をだす。国連のスタッフが、卵を焼いてくれる。そして、銃声がきこえる。イラク警察が射撃の訓練をしているらしい。長い一日が始まり、僕のプチ・ラマダンが始まる。

国境付近には、パレスチナ難民、イラン系クルド難民、アフワーズ難民(イランから逃げてきたアラブ系住民)がいたが、今年7月全員がアルワリードに収容され、現在2000名近くが暮らしている。難民解決への道は程遠い。

アジアのごはん(31)ラオスごはん再び

森下ヒバリ

タイ・バンコクのモリスタジオで、レコーディングしているカラワンのモンコンに会った。去年会った時はあまり体調が良くなさそうだったが、今回はかなり元気そうだ。
「なんか調子よさそうだね」「うん、お酒を飲むのを・・」「え、やめたの?」「いや、あんまり沢山飲まなくなったから、調子いい」

モンコンはお酒好きで毎晩大量に飲む。しかも飲み始めると長いので、いつも付き合いきれない。朝まで飲んでいたのを、12時ぐらいでやめることにしたらしい・・。9日にビザが切れるので、数日したらラオスのビエンチャンに行くという話をしたら、モンコンが嬉しそうに言う。「9日? 俺たちも9日にビエンチャンでライブがあるんだよ」

ビエンチャンでライブ? ビエンチャンにライブハウスなんかあったのか? ビエンチャンはラオスの首都だが、大変こぢんまりとした町である。市の人口は50万人、と発表されていたような気がするが、市街地に住んでいるのは多くて3万人ぐらいでは・・。

きくと、タイのライブハウス・チェーン「タワンデーン」が海外進出を決め、その一番手がお隣ラオスのビエンチャンで、9月9日がオープニングパーティでスラチャイとモンコンが出演するとのこと。スラチャイに電話して確かめると「前の日からビエンチャンに行ってるから店に来い」とのこと。「ビエンチャンのどこにあるの?」「場所は知らないけど、だれでも知ってるさあ」

バンコクから寝台列車に乗ってタイの国境の町ノンカイで下車。寝台特急はノンカイが終着駅だが、昨年ここからラオスに国境のメコン河の友好橋を通って線路がラオス側までつながったのである。ラオス本土で初めての鉄道開通!(ちなみにラオス初めての鉄道はフランス植民地時代に南部のメコン河の中洲の島、コーン島とデッド島に大変短いが敷かれた。その後すぐ戦争で放棄された)列車マニアでなくとも、ここはノンカイで国際列車に乗り換えて、ラオス入りを果たすべきところであろう。

しかし、ラオス本土初の路線は、なんと橋を渡って少し西にある国境イミグレーションには寄らず、北進してビエンチャン市街から離れていってしばらくして最初で最後の駅に着く。しかも寝台列車がノンカイに着いてから4時間後にしかラオス行きの列車はないのである。不便極まりない。列車は好きだが列車マニアでないわたしは、もちろんノンカイで降りてオート三輪のトゥクトゥクで国境へ出た。

この、ラオス鉄道はいったい何なのかというと、いずれそのまま北進して中国との国境まで線路を作り、中国雲南省とラオスを結び一気にその先のタイへ大量輸送路のラインを作り上げるためのものである。ラオスのねらいではない。中国のタイ進出のねらいである。

ラオスと中国雲南省の国境は北部のモンラーがメインルートだが、以前はラオス側も中国側もまったくの山の中の寒村であった。数年前二度目に行ってみると、いきなり中国国境から完全舗装の四車線道路にピカピカのカジノの建設中であった。ラオス側は変わらぬぼこぼこ道。中国はいったい何を考えているのかと、あっけにとられたものだ。

だが、中国の雲南と(ラオス・ビルマ・ベトナム経由で)タイをむすぶルートへの執着は本気であった。中国の援助で、モンラーからラオス北部の古都ルワンパバーンへの道は舗装され、ルワンパバーンからビエンチャンへの道も立派になった。雲南とビルマ東部の国境からタイのメーサイにつながる道も立派なものが造られた。さらにメコン河の岩場の多いところを大型輸送船を通したいので爆破していいかと再三ラオスに打診して、国際的に非難を浴びまくったので、それは一応あきらめて、タイのチェンコーンとラオスのフエサイに橋をかけることにした。雲南から船で下ってチェンコーンまで来ることが出来れば、タイへの大量輸送ルートがまたできるのだが、メコン河の岩場の前で荷物を降ろして、かわりに道路とメコンにかかる橋をつくることにしたのである。もう、ラオスは別の国だという認識はほとんどないのではないかという、この勝手ぶり。

いまさら、タイへ大量輸送ルートを何本も作っても、これ以上そんなに中国の物が売れるのであろうか。そろそろ、タイ人もバブルな生活から地に足をつける生活に目覚めつつあるような気もするのだが。歴代一位のバブル首相、タクシン時代にタクシンが煽って中国と一緒に考えた計画なのかも。おかげでラオスの国土はぼろぼろである。

とりあえず、ラオス国際列車には乗りそこねたが、無事ビエンチャンに到着。今回は噴水の近くの中庭がきれいで部屋も清潔な中級クラスの宿にした。ところが、夜になるとたくさんのナンキン虫が出てきて大騒ぎになった。ぎゃあ〜! 虫は退治しても次々に出てくるので、フロントに走り、なんとか部屋を変えてもらった。長いこと旅をしているが、こんなに大量のナンキン虫を見たのは初めてである。

次の日、フロントのマネージャーの言うことには、ナンキン虫が大量発生して困っているとのこと。いくら部屋中を消毒して除虫しても三ヵ月ぐらいすると、また大発生してしまい、頭を抱えているようす。人気の宿なのに、これでは評判ががた落ちであろう。ふつう、ナンキン虫は不潔でじめじめした場所を好んで生息する。だから安宿に多いのだが、ここのような清潔で毎日掃除・洗濯している中級宿に出るとはどうしたことか。ホテルも困っているようだが、こちらも大変疲れた。

フロントのお兄さんが、「タワンデーン」は噴水のすぐ向こうにある、と教えてくれたので、ぶらぶら歩いていくと、あわただしく内装工事中の店があった。まだ内装の壁を塗っているわ、作り付けの棚は作っているわ、中は人が右往左往して工事現場そのもの。床もドロドロである。見ていると、トラックでテーブルとイスを運んできた。しかし、もっとよく見ると、店の奥のステージだけは出来ていて、そこで楽器を置いて音を出したりしているではないか。

「明日、ほんとうにオープンするつもりなのかな・・」タイやラオスでは9という数字は幸運の数字なので、2009年9月9日というと、9が三つもあってたいへんおめでたい日なので、どうしてもこの日にオープニングパーティをしなければならないのであろう。前の日に行くといっていたスラチャイたちは案の定まだ来ていなかった。

9日の夜、メコン河の土手にある屋台でごはんを食べてから店に行くと、なんとちゃんとパーティをやっている。昨日は徹夜で工事をしていたらしい。もっとも、翌日また前を通りかかると、再び工事現場に戻っていたが。パーティの客は半分がラオスにいるタイ人であったが、ラオス人もけっこう来ていた。

タイのライブハウスがオープンしたり、古い建物がいくつも取り壊されたり改装されていて、今年のビエンチャンは、なにか開発ラッシュである。メコン河の土手も公園にするために改修中だ。土手に出る屋台の料理もレベルが下がってきた。大好きなネームカオという料理を食べにビエンチャンに来るようなものなのに、今回はおいしいネームカオに一度も当たらなかった。くっ。ネームにつきものの野草としか思えないハーブたちもほとんどついてこなかった。ラオス人以外の観光客がたくさん来るようになったので、屋台の味のレベルが下がったのかもしれない。

そう思って、最終日には、ラオス人の小金持ちが行くこぎれいな川縁の店に行ってみた。
「高いだけやないの?」連れのワイさんはちょっと不服そうだったが、出てきた料理に手をつけると嬉しそうな顔になった。頼んだものは、春雨の和え物、鶏肉のラープ、干し牛肉揚げのウア・デードにもち米である。ネームカオはなかった。春雨の和え物はおいしいが、辛すぎてたくさん食べられない。辛すぎて食べられない、というのも久しぶりだ。ラープもばっちりスパイスが効いていてウマイ。

「う〜んやっと、ラオスの味だ・・」
スパイスに漬けてから半日ほど干した肉を揚げたウア・デードは、いままで食べた干し牛肉の中で一番うまい。しかも厚切り。くちゃくちゃ噛み続けると、うっとりシアワセを感じる。噛んでも噛み切れない干し肉を口の中で反芻しながら、やっとラオスらしい料理にありつけたな、と思う。ラオスの料理は、野性味が身上なのだ。野草のようなハーブ、かけまわる鶏や牛の肉、目の前のメコン河の魚・・。

東からはベトナム、北から中国、南と西からタイにはさまれて、つぶされないでほしい国、ラオス。おいしいラオス料理がある限り、だいじょうぶと信じたい。

オトメンと指を指されて(16)

大久保ゆう

どうもこんにちは。周囲でもドラマ『乙男(オトメン)』の評判がよく、なぜか面映ゆく感じてしまう今日この頃ですが、このエッセイも十七回目ともなると、だんだんと何を書いて何に触れてないかということがわからなくなりつつあります。そこで勢いこれまでのものを読み返して余計に混乱したりするのですが、今回はついこのあいだ我が身に起こったことでも話そうかと思います。

先日、後輩が学会のあったイタリアから帰ってきたのですが、どうも食に関して不満なところがあったらしく、せっかく行ったのにパスタが全然食べられなかったとか。それで欲求不満がたまってしまって、無性にパスタが食べたいらしく、しかも何種類も喰らいたいようで、もうコンビニパスタでもいいからいろんなものを買って、たらふく食べ比べでもしたい、などとぼやくのです。

そんな感じで「やりましょうよ」と誘いを持ちかけられたのですが、そこで私は「いやいやいや」と。あくまでも私はオトメン。これまで触れてきているように自炊して自分でお弁当まで作る男の子(あとお金もあんまりない)。コンビニのパスタにお金を使うくらいなら(ってコンビニに失礼ですが、だって単価が高いんですもの、種類は多いけど)、いっそのこと私がソースを一から手作りをしてふるまってあげるよ! ……などということになりまして。

そこでパスタパーティが開かれることに相成りました。どうせやるんなら人がいる方がいいから、いろいろと声かけてよ、とは言ったのですが、当日になって集まったのはなんと一〇人……一〇人!? 待て待て待て、それって多すぎない!? 正直、そんな大人数に料理作ったことないって! 「噂の大久保さんが作るというので」って、みんなオトメンに期待しすぎだよ!!

とまあ、期待に応えないわけにはいかないので、寸胴鍋で一〇人分を一気にゆでたりしたわけですが、引き上げるのがめちゃくちゃ重くて。これでも男だし力のない方でもないんだけど、さすがに大変でした。というか腕が折れるかと思いました。お店じゃないから順々というわけにも行かず、一斉に食べられるようにと頭のなかであわてて時間配分を計算してやったのですが、そういうところは考えてなかったのです。

もちろん、一から作るといっても正式な手順に則ると、何種類ものソースを何人分も用意するのは難しいので、じゃんじゃんショートカットしているわけですが。ミートソースならホールトマトの缶詰を使ったりとか、クリームソースなら下ごしらえの終わった具材に牛乳とホイップ済み生クリームを半々で割ったものをつっこむだけとか(もちろん味付けにスープの素や塩胡椒も使いますよ)。

さすがにひとりでは手が足りなかったので、後輩の女の子(言い出した人とは別の子)が手伝ってくれたわけですが、私の持ってきた調味料に興味津々で。ナツメグやらオレガノやらを「これは何ですか?」と聞いてきたので、それぞれどういう目的で使うかを説明したり、助手をしてもらいながらも手作りソースの簡単なこしらえ方を教えたり。(「だいたい一〇分〜二〇分でできるよ! 簡単だよ!」とどこのクッキングの人だという……そういえば『乙男(オトメン)』でも料理を教えるシーンがありましたね。)

何にせよ、料理をやっていく上で自分なりに手順を最適化していくっていうのは大事ですよね。毎日そんなに手間をかけられるわけじゃないけど、でもレトルトや既成のソースをそのまま使うのは気が進まないし、だいいち自分の好きな味でもないし、っていうので、ちょっとした工夫をするだけで、簡単に作れるような方法を編み出しておく、みたいな。あとそれで普通に買うよりもお値段がお安くなれば、なおよしというわけで。

ごはんにせよお菓子にせよ、一〇〇円均一で売っているものに手を加えるのが割合と楽です。たとえば、卵を使わずにプリンが作れる粉なんてものがあるんですが、あれがかなり汎用性の高いやつで。基本は牛乳を混ぜるだけなんですけど、その分量を変えていろんなもの(ジュースやら粉末やら裏ごしした何かやら)を混ぜ込むだけでいろんなプリンが作れるので、おもてなしに重宝します。

……などと言っていると、周りの女の子たちから「一〇〇円均一をお好みアレンジ、簡単ごはん・お菓子」みたいなレシピを教えてくれとせがまれたりするわけですが、そういう本ってたぶんもうあるんじゃないでしょうか。ないんですかね? ……一〇〇均の商品に電子レンジか小さなフライパンなりお鍋があれば、割とバリエーション豊かな手抜きができるので。昨今、一〇〇円コンビニも増えてきていますし、スーパーの特売と組み合わせればそれだけでもっとグレードの高い料理もお安く作れちゃいます。忙しいひとり暮らしオトメンの生活の知恵ですね。

9月ももう終わり・・・

三橋圭介

9月ももう終わり10月。学校がはじまる。学生の顔触れはすこし一新、やることは完全に一新する。ワークショップというのをはじめる。生徒が目的にそって工夫をこらし、みんなが参加する。ゼミ形式だからとてもやりやすいはず。みんなが音楽、アート、ことば(詩)などを素材にいろいろ考えてくれるだろう。話し合いの場なども設けたりして、楽しめそう。私もみんなのワークショップに参加して、刺激をもらえたらいい。ほかの授業も生徒が主体となって何かを発見できるものにしたい。

最近はストラヴィンスキーをよく聴き、楽譜とにらめっこし、文献などを読んでいる。一つ長いものを書く約束をした。連載中のシコ・ブアルキは資料がくるのを待っているところ。次回には間に合うかも。前はギターでシコの曲やボサノヴァを弾いていた。もう寒くなってきた。ギターもいいが、今はピアノでミンガスの曲などを弾いて楽しんでいる。ポップスでは学生から教えられた相対性理論というバンドがおもしろい。「現代音楽」にもこういう感性の人があらわれつつある。

カメラを買った。リコーのGRII というもので、いろいろ楽しめるカメラらしい。解説本もたくさんある。いくつか撮っているが、撮っているより解説本を読んだり、プロの撮った写真を見てい る時間のほうが長いかも。カメラは専門用語がよくわからない。そこでつまずく。いろいろ試すには撮りまくるのがいいのか。どこか旅行にでもいけたら…

ジャワ舞踊と落語の公演

冨岡三智

あわただしくしている間にもう9月も末となってしまったので、今度の公演のお知らせだけしておこう。

ジャワ舞踊奉納公演「観月の夕べ」

さまよいこんだ男の見たものは
この世のものか、あの世のものか。
これすべて 月の夜の夢…

日時: 10月4日(日)18:30開演
会場: 大阪府岸和田市・岸城(きしき)神社にて
料金: 無料(カンパ歓迎)

演出: 冨岡三智
主催: ジャワ舞踊の会
共催: 岸城神社、ラヂオきしわだ
後援: 在大阪インドネシア共和国総領事館、岸和田市教育委員会、
    岸和田文化事業協会、大阪文化団体連合会

岸城神社は、きしわだだんじり祭りの行われる神社で、平成23年にご鎮座650年祭を迎える。それを記念して昨年に新社殿が完成し、公演はそこで行う。

落語界きってのインドネシア通、林家染雀の語るインドネシアを旅する男の物語「彼此岸月乃夜夢」の中で、ジャワ伝統舞踊を展開。上方落語なので、ジャワ・ガムラン音楽によるお囃子もふんだんに入り、ジャワ舞踊と落語とガムラン音楽が混然一体となったコラボレーション。今回初演。

MCで無粋な解説をせずとも、舞踊作品の背景やテーマが分かって楽しめる演出、単品の伝統舞踊を単に並べて見せるだけでなく、全体を貫く1つの大きなテーマ、物語の中に組み込んでみたい、と考えて、落語と組んでみようと考えたのだけれど、通してみて感じたのが、期せずしてワヤンみたいな感じになったなあということ。それがどんな公演になったかは、また来月に報告するとして、とりあえず乞うご期待!

実演と再生

大野晋

なんとかの秋というが、夏と比べると夜の時間が延びることと、比較的すごしやすい気温になってくることなどから、芸術の秋などと言われ、秋の夜長に音楽などを聴きたくなる季節である。

さて、数年前から女性漫画の世界から飛び出してヒットし、少なからず、クラシック界のファンの獲得に寄与したとされる「のだめカンタービレ」がいよいよ最終回を迎える。とかく、取り付きにくいクラシックの音楽の世界に多くの若者を引き込んだ功績は大きいと思うのとともに、なくなってしまうと大きな看板が外れた感じがして、今後の人気にかげりが早々に現れるのではないか?と心配になってくる。

比較的古いオールドファンの中には、録音マニアのような者もおり、SP盤、ドーナツ盤の昔から録音された音楽に対して、昔から、ああでもない、こうでもないと難癖をつけている。古くはあらえびす、こと野村胡堂からみゃくみゃくと続く批評家のオンパレードがある。海の向こうの見たこともない音楽家の演奏を知る機会は、当時、録音しかなかったとはいえ、こうした批評の結果がクラシック音楽全体の指向を方向付けていた面もあったのではないだろうか。ある意味、取り付きにくいクラシック音楽のイメージは、こうした録音主義の批評家とファンが作ってきた側面もあるのだろう。機会が少ないと言う前提なのだから自然とパフォーマンスは再生を前提としたカチカチの完ぺき主義になっていく。しかも、何度も同じ演奏を聴き込む録音愛好家は繰り返しの中に完璧を求めようとする。

近年、世界はどんどん狭くなり、人と人との行き来は煩雑さを増している。一昔前であれば、一部のマニア(当時は専門家とか批評家と呼ばれたのだろう)しか、見聞きできなかった大物が毎年のように来日するようになり、日本の若手が欧米の著名なコンテストで賞を取ってくる。

少し間違えば、海外の録音だってタイムラグなしに、もしかすると本国よりも早く入手できたりするし、ネット配信により現地の人たちと同じ情報を極東の島国でも得ることができるようになった。しかし、気分だけは、なんとなく、舶来品に興味があり、なんとなく海外は上、国内は下なんておかしな区分をする人が生き残っている。

そんなわけだけど、よく聴いていけば、海外だってそりゃ、レベルがいろいろとあり、日本の演奏家だって決して負けていないのだ。色眼鏡で見なければ、旅費がかからない分、国内の演奏家の方がきっぷの金額以上に演奏のリターンは大きかったりするのだと思う。あとは、きちんと演奏を聴きにくるという習慣が根付くだけだが、現状は演奏は録音で、実演は珍しいものをといった傾向が、舶来演奏家偏重の聴衆というスタイルにつながっているように思えてならない。そこに、演奏の優劣があるのではなく、単純に得られる機会に対する聴衆の損得感覚があるにすぎない。

さて、何枚あるかわからないCD(実演はいいなどと言いながらたーんと持っているところが非常に矛盾を感じないでもないが)から目に付いたアンサンブル・アントネッロの「薔薇の中の薔薇」聖母マリアのカンティガ集を聴くような聴いていないような状態で流してみる。中東の香りがする中世スペインの音楽に遠く遥かな場所と時間に思いを馳せる。いやいや、ぜんぜん、日本の演奏者だって尖がっている。

私には、日本の音楽、特にクラシック音楽界に必要なのは、お金を払ってでも行ってみたい機会の創造のように思う。そのためには、演奏家の自己満足(でもいい機会はいいのだ。収入を気にせず、ただ、集まった者が自らの楽しさを追求する機会が、実は聴衆にとっても楽しいということはよくあることだから)に陥らず、しっかりとした機会創造、価値を届ける相手に対する付加価値の創造を心がけるだけで十分に企画自体が楽しくなるはずだし、それは決して大衆に迎合する事にはならないように思う。

実演と再生とを比較すると、二度と同じことが起きないという事実から、実は実演のほうが何倍も面白い。そのことを少しでも伝える機会が多ければ、と願っている。

さて、そろそろ、日本のオーケストラは、来年の4月からのシーズンのラインナップの発表が行われる時期である。できれば、意図のあるオールドファンも、新しいファンも、一見さんすらも驚くような見るからに楽しいわくわくするプログラムが発表されることを望みたいと思う。

ベルベット泥濘グラウンド

くぼたのぞみ

ゴム短裏の
土踏まずに
稲の刈り株
ごつごつふれる
霜近い
十月の田んぼ
つぎつぎと崩れる
稲架(はさ)のてっぺん
から裸電球こうこうと灯り
うずたかく
稲束のせて
最後の馬橇が納屋にむかう

夕闇に
残される二本の轍

それは
ぬめりぬめる青土を
太陽が煮つめ
馬橇が型押しした
泥濘羊羹
うっとりふれる土肌は
凛としまり
なめらかなベルベット思わせる
北の、灰色の
抜き差しならぬ
深みのはてに迎える
祝祭のとき

黙視するピンネシリを
空腹をわすれて
林檎かた手に
見あげた、あの──
知らぬまま

註)「泥濘クロニクル」からはじまり「ベルベット泥濘グラウンド」で終わる3つの詩は、木村迪夫『光る朝』(書肆山田、2008)の詩句からヒントをいただきました。

メキシコ頼り(25)グアテマラ、ホンジュラス

金野広美

メキシコにいる間に少しでも中南米の国々を見ておきたいと、夏休みに入るとすぐ、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、エルサルバドルと中米4国を回ることにしました。今月はそのうちのグアテマラ、ホンジュラス編です。

まずグアテマラ空港から直接、アンティグアに行きました。ここは3つの火山に囲まれているため地震が多く、1543年から1773年まで首都として栄えたのですが、あまりの被害続出にグアテマラ・シティーに首都が移されてしまったのです。古い街並みが世界遺産に登録されているのですが、いまだに修復中の建物や地震の廃墟がそのまま観光名所になっていたりするところです。

アンティグアからホンジュラスのコパン遺跡に1泊2日のツアーがでているので、2年前のホンジュラス旅行では行けなかったコパンに行くことにしました。折りしもホンジュラスでは6月28日に軍事クーデターが起こっていたので、当初は行くことを迷ったのですが、いろいろ情報を集めてみると、首都のテグシガルパでは集会やデモなどしているようですが、地方はほとんど何の動きもなく静かだというので行ってみることにしたのです。

アンティグアからはバスで7時間、朝5時に出発しました。国境ではそれぞれの入国管理事務所が隣り合いみんな和気あいあい。すんなり出入国の手続きも終わりコパンの街へ入れました。昼には着けたのでさっそく街から歩いて15分の遺跡へ。

紀元後8世紀ごろ隆盛を極めたコパンにはマヤ文明の代表的な都市遺跡があり、暦の記述と王朝の記録のため作られた石碑や、神聖文字でコパン王朝史が刻まれた72段ある階段ピラミッドなど、とても興味深いものが保存状態もよく残っています。石碑の彫刻は今だに鮮明にコパンの隆盛を物語り、2500以上のマヤ文字が刻まれた30メートルに及ぶ階段は貴重な文字資料として調査が続けられてきました。私はそれを見たとき、その精巧さと大きさにびっくりしてしまいました。それにしても硬い石にここまで細かく彫り続けるマヤ人の根気にはただただ脱帽です。

遺跡を見た後、遊歩道を歩いてコパンの街に帰り小さな街を歩き回りましたが、街には観光客はほとんどいなくてレストランも閑古鳥が鳴いています。ホテルもガラガラ、みやげ物屋のおばさんもひまそうにしています。その中の1軒でいろいろ話しましたが、おばさんはクーデターで客が来なくなったことを嘆き、クーデターを起こした軍部を非難します。

コパンは遺跡に来る観光客で成り立っている街なので当然の意見だとは思いますが、それにしてもクーデターなんかいったいどこで起こっているの、というくらい平静で、確かに「こんなに静かなのになぜ観光客よ、来てくれないのー」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。街の中心にあるマヤ考古学博物館のフィト・ララさんは「私たちが望むのはただ民主主義と平和です」と悲痛な表情でホンジュラスの政情を嘆いておられました。ただでさえ中南米の最貧国のひとつだといわれているホンジュラスです。早く平和的な解決がなされないと一般国民はどんどん窮地に追い込まれていくという気がしてしまいました。

そんなホンジュラスから、いったんアンティグアに戻り、今度はここからバスで2時間半のアティトラン湖のほとりにあるパナハッチェルに行きました。ここは湖の周りに多くのインディヘナの村があり、湖を船で航行できます。パナハッチェルに降りたったとたん、たくさんの人が自分の船に乗れと押し寄せてきました。そのうちの一人が私の行こうとするホテルは高くなっているので別の安い宿につれていってあげるといい、船も安くするというのでついていきましたが、宿は安いだけはあるというしろものでした。また船賃も船着場の人と結託して安いと思わせているのではと疑われたので、彼の船に乗るのはやめました。おまけにバスで行けるはずの近くの村も道が悪くてバスでは行けないから自分の船で行けというのです。これもどうも嘘っぽいのでやめました。

別の船でサンティアゴ・アティトラン、バスでサンタ・カタリーナ・パロポのふたつの村に出かけました。サンタ・カタリーナ・パロポで湖のほとりを歩いていると女の子が湖で大量の洗濯をしていました。彼女の名前はアナといい10歳、毎朝歩いて1時間の山の中からここまで家族中の洗濯物をしにくるのだそうです。そして、洗濯が終わると山に帰り0時半から始まる学校のためにまた下りてくるのだそうです。毎日4時間、山を登ったり、降りたりしていることになります。いろいろ話していると弟のニコラスがやってきました。3人でお菓子を食べたり、写真のとりあいっこをしながら楽しく過ごしました。ニコラスは初めてカメラを触るらしく、私とアナの写真がうまくとれなくて、いつも片方が切れてしまいます。でもそのうちにちゃんと2人が真ん中に入りとてもうれしそうでした。アナが私に「朝ごはんを食べたらまた0時半にここに来るので待っていて欲しい」といいました。でも私は「次のバスの関係で11時30分には行かなくてはならない」というととても残念そうでした。私もとても残念でしたが、頭に大きな洗濯物のたらいをのせ山に帰っていくアナをいつまでも見送りました。

バスの時間までまた湖のほとりを歩いていると、今度はアナより少し小さな女の子が美しい刺繍のテーブルセンターを売りに寄ってきました。いくらかと聞くと100ケツァール(約1300円)といいます。私は高いからいらないというと、いくらだと買うかと聞いてくるので、あまり買う気はなかったのですが、つい「60」と答えてしまいました。するとその子は80に下げ「10は私へのチップにくれ」というのです。私が断ると今度は70に下げ、「私にアイスクリームを買って」となかなかしつこいのです。私はあまりのしつこさに全く買う気がおこらなくなり、彼女が私の言い値の60に下げたにもかかわらず買いませんでした。丁々発止のその間約30分、でも別れてから少し後悔していました。あんなに一生懸命で、おまけに私の言い値の60まで下げたにもかかわらず追い払ってしまったからです。少し反省しながら通りを歩いているとさっきの女の子が、きっと仕事が終わったのでしょうか、私の前を横切りました。そのとき私の顔を見てにこっと笑ったのです。その顔はあの手練手管を使った売り子ではなく一人の女の子に戻っていました。私はなんだか救われたような気持ちになり、思わず彼女に手を振っていました。

かわいらしくもせつない気持ちにさせられた女の子たちの住む村をあとに、夜行バスに乗りグアテマラの北にあるティカル遺跡に行きました。明け方バスが道の途中で止まり、一人の男性が「ティカル、ティカル」と叫びながらバスに入ってきました。私はびっくりして起きました。ティカルに行くにはバスを乗り換えろというのです。なんだか変だなあと思いながらも、いわれるままにマイクロバスに乗り換えると1軒のホテルの前に止まり、ここに宿をとれというのです。部屋を見ると値段のわりにはいい部屋だったので、そのまま泊まることにしました。そしてもうすぐティカルへのツアーが出発するのでホテルまで迎えにくるといい、おまけにベリーズ・シティーまでのツアーもあると矢継ぎ早に売り込んできます。寝起きだったせいもありますが、そのまま申し込んでしまいました。しかし、あとでよく考えると、なぜあんな中途半端な場所で突然マイクロバスに乗り換えなければならなかったかわからず、よく聞いてみるとグアテマラ・シティーから乗った夜行バス会社が経営する旅行会社が、ティカル遺跡への基点となる目的地のフローレスに着く前に客を先取りしたのだとわかりました。寝込みを襲い、何がなんだかわからないうちに契約させてしまうとは、やりかたが荒っぽくてなんともいやな気持ちになりました。

それにつけてもグアテマラの観光業界は競争が激しいのか、観光客をだましてでも客を獲得しようとする業者が多いため油断がならず、何度も腹立たしい経験をしました。長い間いろいろな国を旅しましたが、こんなに疲れる国は初めてでした。

それでも気を取り直してその日の朝6時、迎えのバスに乗りティカル遺跡に行きました。ここはグアテマラ北部ペテン市のジャングルに埋もれるマヤ最大の神殿都市遺跡として知られています。紀元後300年から800年ごろ最も栄えたということで、16平方キロメートルの空間に3000にも及ぶ大小の建造物があります。あまりの広さと暑さと睡眠不足で、少しふらふらになりながらも、ひとつづつ大きなピラミッドを見て回りました。その中で特に4号ピラミッドは高さが70メートルあり、ここに登ると眼下は一面の緑の海、1号ピラミッドが顔をのぞかせています。風が吹くたびに木々が大きく揺らぎ、まるで海の底から温泉が湧きあがってきているようで、このジャングルは、今なおマヤの人々の命が息づいているのではないかと思ってしまうほど生命力に満ちあふれていました。

しもた屋之噺(94)

杉山洋一

今朝メールをひらくと、ヨーロッパでの仕事をおえて東京にもどられたばかりの細川さんより、ちょうど一年ほど前、演奏会後にパリのブラッサリーで一緒に撮った一枚の写真がとどいていました。

一緒にうつっている望月嬢とは、結局6月に東京で一緒に食事をしたきり、あとは電話でしか話していないし、在オランダの今井嬢も、6月末にやった東京での演奏会へ顔をだしてくれて、演奏会後一瞬立ち話をしたきりですが、何でも、最近アムステルダムで二人は再会を喜んだばかり、とメールをもらいました。彼女たちの国際的な活躍ぶりはご存知のとおりです。

その傍らでほほ笑んでらっしゃる岡部先生には、8月に東京でずいぶんお世話になったので、久しぶりという感じもしませんし、真ん中にゆったりとすわってらっしゃる細川さんは、夏に東京でお会いしただけでなく、9月に、細川さんをフューチャーしたミラノの音楽祭で何度もお目にかかっているので、ミラノの街の匂いとあいまって、不思議な親近感をおぼえます。

この演奏会にはちょうどリトアニアの自作演奏会に向かう途中の湯浅先生がお立ち寄りくださって、直前にいきなり連絡したにもかかわらず、千々岩くんも遊びにきてくれて、打上げまで付き合って、美味しい生牡蠣をたらふく食べたのが、まるで昨晩のことのよう。嬉々として牡蠣を食べる千々岩くんの次の姿は、サントリーの舞台でオーケストラをバックに、堂々とコンチェルトを弾いている、颯爽としたヴァイオリンニストそのもの。湯浅先生にこのあとお会いしたのは、6月に桐朋の練習にいらして下さった折でした。それから8月にも東京でお会いしました。

あさってから練習の始まる武満の譜読みをしていて、思わず思い出すのは、ちょうど1年前、9月末にジュネーブで、今井信子さんとあわせをしていたときのこと。彼女も同じミラノの音楽祭にもうすぐいらっしゃいます。お目にかかるのは1年ぶり。あのときの感触を思い出しながら、自分なりの武満さんの作品の手触りを懸命に感じようとしています。武満さんは、楽譜に書かれている表示より、ずっと骨太の音楽を欲していた、という今井さんの言葉は、たぶん一生わすれられないとおもいます。

同じ演奏会で作品を演奏する田中カレンさんと6月、渋谷の場末のそば屋で再会したのは、何年ぶりのことだったでしょう。最後にお会いしたとき、まだ大学生だったはずだから、18年くらい経っているかもしれません。話し方もしぐさもあのときのままで、別れ際にどうしても渋谷のスクランブル交差点をバックに記念写真を撮りたいと頼まれたのが新鮮で、練習や本番中でも、ふとした瞬間に思わず思い出してしまうかもしれません。

先日、ミラノでの「班女」の再演にかけつけて、8月の東京に続いてお会いしたソプラノの半田さんとも、落着いてお話したのは10年ぶりで、気がつけば、息子さんはもう高校生になられたとか。
愚息をつれ、ドームの天井上の散策にご一緒していて、思わずうちの4歳の子供を眺めて目を細めていらしたけれど、少しその気持ちが想像できるようになりました。

こうして古くからの日本の友人に会おうとすると、普段はヨーロッパの辺境に住んでいる上に腰も重く、よほどの機会でもないと実現しませんが、会うたびにみなさん見違えるように立派になっていて、感嘆することばかりです。自分の周りの人とのつながりに関して言えば、それぞれ半径の違う周期の惑星の定点観測のような感じでしょうか。

立派になって、と言えば、指揮を一緒に勉強しているカルロが今月はじめ、グラーツの指揮コンクールで優勝し、同じく一緒に勉強しているジョヴァンが、指揮ではないけれど、作曲で入野賞を受賞したのは、本当に自分のことのようにうれしいニュースでした。

今年一年、ひょんな流れで、学校をやめた師匠の意志をつぎ、学校から離れて手探りでレッスンを続けてきて、ようやくささやかな指標をみつけた感があります。空白期間をうめるべく、分不相応を承知で引き受けたのは、自分を含め、15人ほどの生徒全員が、師匠から学んできたアプローチを何がなんでも絶やすまい、という明確な目的意識と強い結束があったからこそ。

ですから、カルロの優勝が生徒全員にどれだけ強い希望を与えてくれたか、言うまでもありませんが、成り行きで嫌々指揮を学びはじめたはずの自分が、気がつくと妙なところに足を突っ込んでいたりして、人生とは本当に不思議で一期一会かな、と初夏の日差しに映えるクラスの集合写真など、感慨深く眺めてみたりするのです。

(9月29日ミラノにて)

暑いけど、秋っぽい

仲宗根浩

九月に入るといきなり旧盆がやってきてすぐ過ぎて行った。お盆で帰って来た姉、甥っ子を送るため空港へ行く前に国際通りに寄る。一年ぶりだったが、前にも増して観光客相手のお店がこれでもか、と迫ってくる。夜の飲屋街のキャッチのお兄さんのごとく道行くひとに声をかけ店のちらしを渡しながら、ランチの客引きに精を出す。昔、うちの近所が米兵相手にしていた客引きの光景が昼にかわり、相手が観光客にかわっただけか。暑さと人ごみに疲れ、国際通りに行ったときには必ず寄る沖縄そば屋、ここもだんだん知れ渡るとことなり、観光客が増えてきたけど、店の中はいつも通りの佇まい。

お国の大臣があたらしくなって、近くの泡瀬干潟の埋め立て中断発言に慌てる人々。前に推進する市会議員が埋め立てができると人工ビーチが造られ、みんながビーチバレーができていいじゃないか、とテレビで言っていたのを見たとき笑えてきた。暑い日差しの中、陰がない砂浜にどれだけの人が行くのか。ここはそんなにビーチバレーが盛んなところか。昔からあるビーチがどんどん閉鎖するなか、砂をよそから持ってきた、ビーチだけが増え、モクマオウの木陰などない。

天気予報では最高気温が毎日判で押したように33度だったのが32度か31度になり、風もからっとして気持ちよくなった、と思ったら急な雨が降ったりしていきなり蒸し暑くなる。クーラーが効いたところから外に出ると眼鏡は曇る。家ではまた、クーラーを稼働。畳の次は網戸を張り替え、部屋のなかは処分するものがまとめて置かれる。考えてみたらいま住んでいるところが一番長くなった。沖縄に住んでいる時間はまだ沖縄の外にいた時間より三年ばかり短い。

盆とお彼岸があった九月は過ぎたからもう少し涼しくなるだろう。そうしたら海で泳ごう。

製本、かい摘みましては(54)

四釜裕子

山崎曜さんと村上翠亭さんの共著による『和装本のつくりかた』(二玄社)を買う。二玄社といえば車とばかり思っていたが、いやいや書や美術関連の本もたくさんお出しになっている。こうした本も最近はボワッとユルッとモワッとしたデザインが多いが、こちらは見た目がとてもオーソドックスで、それが狙いどころでもあるのだろう。内容は、書家である村上翠亭さんと手工製本家の山崎曜さんのお二人がからみあってというよりは、前後ほぼ半分ずつ、それぞれご担当されている。書のたしなみの延長としての和装本を村上さんが、書に限らず葉書や写真を、また洋紙やグラシンペーパー、革や割りピンを取り入れているのが山崎さん。全体の流れは、「糊でとじる、糸でとじる、折本をつくる」。おふたりそれぞれの和装本づくりをそれぞれの方法で見ることができて、それがこの本の一番の見どころだろう。

村上さんが作った見本にある文字の、なんてうつくしいこと。豆本には「ナイショ ナイショノ 話ハ アノネノネ」「「運転手は 君だ 車掌は 僕だ あとの四人が 電車のお客 お乗りは お早く 動きます チンチン」などもある。そうだ、上からなぞって書いてみようと買った黄庭堅の「草書諸上座帖巻」のコピー本はどこにいったかな。その一部を摺った手拭まで買ったのだった。落語の「紙屑屋」では若旦那が奉公先の紙屑屋でゴミの中に都々逸や新内の稽古本を見つけては歌ったり読み上げたりで仕事にならないが、折った手拭を片手にのせて指先でめくるしぐさはまさに和装本だからこそ。今、気分が洋紙より和紙なのは、秋風のせいだろうか。

記憶と夢のあいだ

高橋悠治

理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし 問いかけるうちに 直線ではなく 揺れと襞 ずれる時間 複数のシステム 断片をまとめたり ととのえたりしないで それぞれに裂け目を入れ 断層をのぞかせ 聞こえないものを聴き 手探りで方向を変えながらすすむ

記憶と夢のあいだ というより 思い出せないことを思い出し まだどこにもないものを夢みるのが音楽だ という ますます強くなる予測に突き動かされ 手をうごかすなかで新しい発見がある それはまだことばになりきれないままで 途切れるとそのまま消えてしまう輪のように かたちもなく 宙に浮いている

煙のように空中に消えるもの 断片をモンタージュして何かを構成するのではなく 全体と部分の階層性を作らないもの 断片を断片のまま変形し 規範からはずれ 予測できない空間にひらくもの 生きる時間の闇のなかで微かに光る徴 哀しみの明るさ 夢の手触り

音楽は音のうごきであり 聞く耳と楽器や声を使う身体の運動感覚や内部感覚 それに感じというとらえがたいものによって維持されている 音は止まれば消え 音楽はとどめようもなく過ぎてゆく それだから消えた記憶をよみがえらせ まだない世界を予感する それが音楽の社会性あるいは政治性なのだが ことばのように世界内の存在や状態を指し示したりするというよりは 「いま・ここ」でないところに注意を向けるきっかけになったとしても それも文化的環境や歴史状況に条件づけられ 主体的な意志をはたらかせなければ何も響いてこない しかし そのあいまいさが音楽の強みでもあり 逆に ことばと結びついたときは相互作用によって強い力をもつことがある

国家主義と古典主義はおなじ側にある 規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理 記号や表象の操作 内面化した自己規制 全体が矛盾なくたった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義 複雑性やあいまいな状態をデジタルな二分法で還元すること 方法主義 そうしたやりかたで裏打ちされた「新しい」単純性 これが1930年代以来の現代音楽の病気だった 演奏スタイルや ちがうジャンルの たとえばポップについても 似たような現象を指摘することができるだろう

音を物・記号・表象として操作しようとするとき 音を手段として構成される抽象的・普遍的全体 あるいは表面に民族主義・伝統美学・アジア思想を思わせる要素を貼付けてはいても 画一化された均質な部品でモジュール化された現代音楽は フェスティバルという見本市で消費されるだけのもの それは非商業的と言っても じつは少量生産される文化の「贅沢品」として 国家や財団の先物買いの対象になる

音楽は「いま・ここ」に留め置いて味わったり 分析し定義し 理論的に再構成するしようとしても かなたへ逃れて とらえどころがない 音楽論や音楽美学や音楽批評は 音楽の創造には追いつけないだろう ことばで語れるのは可能性でしかない それでもそのようなことばであれば それらの語る自由な夢が 音楽の社会的機能を維持し活性化するのにこの上ないはげましともなってきた ここにあるものではなく どこにもまだ現れていない音楽の夢を語るものである限りは

歩きながら問いかける 問いかけながら歩く これがサパティスタのはじめた運動論だった 1994年のことだ それ以来 ちがう領域でのさまざまな試みを参照しながら すでになされた行為の結果を分析する方法や それ以上変化しない素材や それ以上分解できない単位を組み合わせて作る秩序ではなく うごきつづけ変化してやまないプロセスのなかにありながら それ自身について考える可能性が見えて来た 再帰する生命・意識・認識システムや社会システムをあつかおうとするオートポイエーシスのようにまだ発展途上の理論や 生きている身体が心であることを内側の感覚を維持しながら意識し続ける仏教的な方法 さらに「いまだない」を哲学するエルンスト・ブロッホ doingとdone power toとpower overを区別して存在ではなく可能性から反権力の政治思想を導きだすジョン・ホロウェイ どれも完成された理論ではなく そうなるはずもなかった

音楽は いまある世界をそのままにしておこうとする権力や制度とは もともとあいいれないものだった だが 権力はいつも音楽を自分の側にとりこみ その想像力を自分のために使おうとしてきた だから音楽作品は 完成されたものであるほどゆがみ 可能性は消耗させられ 夢は砕かれ 抑圧され 逆転して その断片だけが散乱している 未完成なものほど 見えない芽をどこかにひそめて 発見される時を待ち望んでいる