しもた屋之噺(109)

杉山洋一

今回零下のミラノから成田に着くとき、気温は思いがけず22度という機長のアナウンスが入り、流石に驚きました。翌日から14度程度まで下がりましたが、12月とは思えない日和のなか家に戻ったのをよく覚えています。
4年ぶりにご一緒した東混のみなさんは、最初から最後まで誠実に練習にお付き合いくださり幸せな2週間でした。何より、言葉と人の声の表現力の強靭さに、練習からの帰り道はいつも感激していました。全員が発する言葉に同じ気持ちがこもった瞬間に現れる、信じられない程の現実感と具体感は、オペラをする声とも全く違い、もちろんオーケストラと純粋音楽を演奏するのとも全く異なる、文字通り強烈な体験でした。

上野の文化会館に向うため、駒留の自宅から三軒茶屋の駅まで歩いていたときのこと。世田谷通りを大きな自衛隊の濃鼠の装甲車がゆっくりとやってきたのです。前方左側にはヘルメットを被った自衛隊員が頭を出し、じっと前方を見据えていました。その傍らには白く書かれた「走行訓練中」という表示がみえました。世田谷通りではあまり見慣れぬ光景に、周りの通行人も驚いた表情をしています。走行訓練という文字をみて、漸く胸のつかえが取れたものの、有事でも起きたのかと思わず身体がこわばりました。

それから田園都市線に乗り、表参道で銀座線に乗り換え上野の坂をのぼりながら、ずっとこの装甲車と自衛隊員が頭から離れませんでした。今はまだ世田谷通りを装甲車が走っていれば、周りは思わず驚くけれども、いつまでもそうであることができるのだろうか、気がつくと、装甲車が世田谷通りを走っているのが普通になっていたらどうだろう。そんなことを思いながら、最後の通し稽古を終えて、先ほど出遭った光景を合唱団のみなさんに伝えました。

自分にささやかな希望があるとすれば、それはせめて息子が息を引取るまで、彼が戦争に巻き込まれずに生き存えられること。戦後65年間、日本は戦争に巻き込まれずに何とかやりすごしてきたけれども、今後いつまで続けられるかは分からない。平和とか自由とか気軽に口にしているけれど、それは本来ずっと尊いことでわれわれが守ってゆくべき重責だと思う。音楽を通してせめてもそれを伝えてゆきたいと思う。そこには左も右もなく敵も味方もない。北朝鮮、中国、韓国と国で呼ぶのが簡単なのは、そこには顔が見えないから。

でもどの国にもさまざまな人が住んでいて、恐らく良い人も悪い人もいる。一からげにはできるはずがなく、その一人ひとりに大切な家族がいる。敵であろう味方であろうと兵士が一人死んだとすれば、その死を悲しむ人はたくさんいる。そうして結局傷つくのは殺しあいに係わらなければならない下っ端のわれわれであって、戦争を操作する人が同じ苦しみを共有することはないかもしれない。共有していたら戦争は出来なくなってしまうし、きれいごとだけで国を治めることは出来ないのは、われわれも歴史からよく学んでいる。だからこそ、自分たちが置かれている状況の大切さを、あらためて自覚する必要があるのではないか。遠くから自分の生まれた国を眺めていて思うとことも多く、「人間の顔」がどれだけむつかしいかは理解していたけれど、この機会にどうしても取り上げたかった。そんな指揮者の勝手な希望だが、本番でふと頭の片隅に思い起こして頂けたら嬉しい。そんな話をしたところ、演奏会のあとみなさんから、お話を思い出して一所懸命歌いました、話してもらってよかった、と思いがけず声をかけて頂いたのには感激しました。

今回の帰国に併せてピアノの大井くんが自作をまとめて取り上げてくださったのも、実に有難くそして貴重な出来事でした。普段音楽を聴くこともなく、自作を顧みることもないなかで、学生時代から現在までの作品を連ねて聴くのは想像だにしなかった発見、よく言えば感慨がありました。同時に自作の合唱曲にも稽古をつけていたので余計そう感じたのかもしれませんが、どの曲もみな同じであって、まるで留学前から現在まで20年弱自分に変化もなければ成長もない事実を、肯定的に受け止めろと言われても戸惑わざるを得ません。

東京から零下のミラノに再び戻った翌日、奇しくも自分の誕生日でしたが、2日前97歳になったばかりだった祖母が湯河原で亡くなっていたのを後で知りました。演奏会の当日も容態を確認して安心していたところで、まるで無事にミラノに着くのを待って息を引き取ったかのように感じられ、半年以上も落着いてお見舞いすら出掛けられなかったことが、ただ申し訳なく今さらながら悔やむばかりです。

そんな気持ちを引きずりながら大雪の残るサンマリノに出掛けたのは、年末恒例の国会での記念演奏会に参加するためでした。サンマリノに通い始めて数年が経ちますが、崖の頂にあるサンマリノの旧市街に出掛けたのは今回が初めてでした。麓のボルゴ・マッジョーレから急勾配を這うように登るロープウェイからの眺め、遠くはリミニやアンコーナまでを一望するサンマリノの壮大な夜景は息を呑むほど美しく、旧市街の国会周辺の建物や憲兵などはお伽の国に紛れ込んだ錯覚を覚えました。以前から問題になっていた対イタリアのマネーロンダリングは経済にとてつもない深刻な打撃を与えていました。サンマリノ人がイタリアに仕事を求めるなど以前では考えられなかったことで、流石に驚きました。

慌しくミラノに戻ったクリスマス25日の昼食に招いてくれた精神分析医のアントネッラが話してくれたのは、意外にもこの時期の患者全員が揃って訴える「クリスマスの恐怖」についてでした。日本の元旦に相当するイタリアで最も大切な宗教行事クリスマスは、特に家族の絆が強いイタリアに於いてはパンドラの箱にも匹敵して、普段互いにやんわりと付き合っているはずの家族の関係が、イタリア人の包み隠さぬ直截な性格も相俟って、あっさりと崩れることが往々にしてあるのだそうです。ワイン片手に談笑している我々の傍らで、5歳の息子が皆にむかって食後のケーキをまだかまだかと盛んに催促していて、大人も慌てて食事を口元に持ってゆくのが愉快でしたが、気がつけばこうやって慌しかった一年が瞬く間に終わろうとしているのでした。

来年がどんな年になるのか想像もつきませんが、地球上の一人でも多くのひとが、一日でも多く、平和で安寧な毎日を送れることを心から祈るばかりです。

(12月31日ミラノにて)

勇ましい魚。

植松眞人

うちの事務所の名前は『イサナ』。これはクジラの旧い呼び方で、漢字で書くと勇魚と書きます。ちょうど20年前にまだ28歳の時に怖いもの知らずで独立したのですが、どんな社名にすればいいのか本当に困っていました。ちょうど、CWニコルさんの書いた『勇魚』という小説が出版され、その内容が本当にスケールの大きなもので、僕は「イサナって社名もいいかもなあ」と思ったのです。怖いもの知らずなりに、一人で独立することに不安を感じていたのかも知れません。名前だけでもでっかくしようと、会社設立の書類の法人名のところに「有限会社イサナ」と記入しました。漢字で書くと、魚屋さんに間違えられそうな気がしたから、カタカナにしたんです。

あれから20年。なんだか、今になって「イサナ」って名前にして良かったなあ、と思ったりします。正直、付けたときも、今も、なんとなくしっくり来ないんです、自分の会社の社名が。でも、この「しっくりこない」感じがちゃんと定まってない雰囲気でいいんじゃないかと思い始めました。

たぶん、何やってもしっくりこない感じが、何やってもいいと言われているような気もして……。毎年、年末年始のこの時期になると、不安と希望が交互に僕を襲うのですが、今年はいつもに増して、20年前のあの日、なぜ「勇魚」というタイトルのCWニコルさんの小説に惹かれ、自分の設立した事務所の名前を「イサナ」にしたのかということについて考えました。そして、理由はわからないまま、でも、「イサナという名前にして良かったなあ」と思えるようになったのです。

20年も経ってまだまだ「勇ましさ」も「くじら」のスケールも持ち合わせていないのですが、「そうなれるかも」という気になってきたということなのかもしれません。

オトメンと指を差されて(31)

大久保ゆう

新年あけましておめでとうございます。

今年も相変わらずな私でいようと思うのですが、その相変わらずなところをあえて合い言葉として申しますと「快眠・快浴・快甘」となります。

快眠はわかりやすく、心地よい睡眠に浸ることであります。くさくさした気持ちも現実のあれこれも、とりあえず眠ってしまえばいったんなかったことになったりもするわけで、時には夢の国の方が怖かったり気持ち悪かったりもありますが、おふとんのなかは温かく、頭のなかもぽわんぽわんなので、まあ何だっていい気分になります。生きていくにはどうしても睡眠が必要なのであって、八時間眠らなければ私はまったく成り立たなくなってしまいます。

快浴はつまり快い入浴、楽しくお風呂を満喫することであります。温かいお湯に触れているときの私は最強です。誰よりも強いという意味ではなくて、数ある私自身のなかでもいちばんすごい、ということでありまして、頭の回転の早さでは並み居る私自身たちもまったく敵わないわけなのです。訳語を思いつくときも、いい文を考えつくときも、あるいは何かを見極めるときだって、やはりお風呂のなか。私の能力の八割は浴室で発揮されていると言ってもそれは過言ですが、六割方はそうかもしれません。

快甘は聞き慣れない言葉というか、たった今作ったものなのですが、みなさまおおよその見当がつきます通り、甘いもの=スイーツ、めくるめくスイーツライフを謳歌することであります。糖分を摂取すると頭がすっきりすることもあるし、あるいはこれさえ終われば甘いものを食べていいとするならお菓子のために頑張ることもありましょうし、ただスイーツを食べたいがために食べることだってもちろんありうるわけで、とにかく甘いものは大事。

この快眠・快浴・快甘というみっつのリラックスでもって日々戦っているのですが、どれかひとつが欠けてもうまく行かず、どれかひとつがやりすぎでも成り立たず、放っておくとナンセンスなことばかりつぶやき始めたりするので、バランスよく快感を保つことが肝要であるわけです。しかしこの連載においてはぶっちぎりで快甘が多いので他のことも書きたいのですがあまりヴァリエーションがないのですよね。気が向いたら(何かに気づいたら)今後そんな話も出てくるかもしれません。

ともあれ、上記のような行動原理に基づきまして今年もそんなこんなやって参りますので、みなさまにおかれましては私がナンセンスがことを言い出したらああ疲れているんだなと、いつも通りであればああ忙しいんだなと、まともなことを言い出したらとうとう危ないんだなと、全体的になま暖かく見守るような形でどうぞよろしくお願い申し上げます。

(新年のご挨拶ということで短めに)

ちなみに新年と言えばお雑煮ですが、私は白みそでも赤みそでも合わせ味噌でもおすましでもなく断然お善哉派です。日々朝食にお汁粉を作る私ですが、そこはぬかりなく新年なので具が豪華になるのですよ! おもちだけじゃなくって!

しかも今年はついに鏡餅までチョコレートになりました。実はチロルチョコがチョコ鏡餅を販売しているからでして、需要のわかっている貴社におかれましては今後ともお世話になりたいと思う次第であります。

製本かい摘みましては(65)

四釜裕子

新聞紙にプリントして写真集を作りたいという写真家がダミーを持って店にあらわれた。ママのひろみさんに聞いていた青年だ。大きな手できれいに切りそろえた新聞の束にいくつか写真がプリントしてある。大振りな判型と厚みが肝らしい。プリントがきれいだ。どうすれば新聞紙によく定着するのかプリンターを使い込んでいるのがわかる。新聞紙を使うとひとくちに言っても日付や記事や図版に自分の写真をどう組み合わせるかが見せどころで、ダミーとはいえすでに方々の新聞紙が集められていて、ダミーとはいえ大量の写真の中から選ばれた一枚ずつがにくい感じで組み合わされている。おもしろい。こんな感じで写真展に合わせてまず一冊作りたい、さてどうすれば「本」になるか――。ダミーのような方法でプリンとしたものを使う前提での話から始まったが、いあわせた面々が紙の大きさや材料やプリントや展示の方法やらをひとつずつ却下してアイデアを出しているうちに飲み過ぎて、どんな結論になったのか忘れた。ただこのダミーの感じがとてもよくて、このままでいいんじゃない?このままがいいよ。どうして本にしなくちゃいけないの?「本」って何?一冊だけ作るのならこれが「本です」って言い切ればいい。みたいなところをループしておひらきだったような気がする。

今秋、東京国立近代美術館の鈴木清写真展『百の階梯、千の来歴』に写真集のダミーが展示された。鈴木清(1943-2000)が生前刊行した8冊の写真集のうち7冊は自費出版で、いずれも自身によって繰り返しダミーが作られていたそうだ。ここで展示されたのは『流れの歌』1972・『修羅の圏』1994・『デュラスの領土』1998のための写真集のダミーと、『天幕の街』1982・『天地劇場』1992のための表紙案。展の図録に寄せたマヒル・ボットマンさん(2008年にオランダで開かれた鈴木清展を企画したオランダ在住の写真家・キュレーター)によると、オランダ展の最後の準備に清の妻・洋子さんと作品の保管室にいるときに洋子さんが見つけたのが処女作『流れの歌』のダミーで、おそらく〈存命の間はほとんど閉じられたままだったのだろう〉とある。折れた付箋、乾いて剥がれたセロハンテープのあと、コピーの切り貼り、色とりどりの書き込みで、紙はやぶれ、つぶれ、ゆがんで、ぐったりとぼっさりとした背をわずかに蓄えた紙の束である。いったいこの紙束はどれだけ写真家になでられ、めくられ、そうして一緒に時間を過ごしたのだろう。写真集になってしまえばそれは読者のものである。この写真家はそのすんでのダミーを完全にするまでの時間をたっぷりかけて自分の写真たちを独占し、その住処の設計図を描いていたように思える。余白も言葉もなにもかも、その家の主人となる愛する写真たちのため――妬ましい時間の痕跡だ。

青年写真家のことを思い出していた。あの夜見た紙束は何度目かのダミーの完成直後で書き込みもなくきれいな直方体をしていたが、展が近づくにつれてくたくたになっていることだろう。どんな読み手にも決して知ることのできない、妬ましい時間を宿す”本”の話。

犬狼詩集

管啓次郎

  21

造形のためには純白の小麦粉をこね
食物のためには塩味のする赤土をこね
冷たい夜は愛の不在とともにやりすごす
きみは永久に河原に住んで
五月にも十一月にも半裸でねむるのか
荒々しい人生だがしずかな火が燃えている
きみやおれには都市からの追放の宣告も意味がない
あるがままの貧しさをもって自分の体に
木を植えよう林を植えよう森を植えよう
そこにあるとき鳥と魚が集いはじめる
それから未来が回帰するように
肌の上を月時計の淡い影が回転し
ゆっくりと老いることと若返りを同時に体験する
カリオンが響く、リカオンが吠える
その音と声がひとつになる
朝がくる、夜がくる、朝がくる

  22

傑作を作るといって故郷と恋人を捨てて
ローマに行った彫刻家の話をリルケが書いていた
何かいやな予感にとらわれて
彼は故郷に帰り棺の中の恋人を像に刻む
それが彫刻家の唯一の傑作だった
だが写実が唯一の規則でないのと同様
ローマと故郷の差異は空間にはないと私は思う
ある意味で彼はたしかにローマに住みついた
四つのローマにしか行くことができなかったのだ
北に行けばローマ
東に行けばローマ
南に行けばローマ
西に行けばローマ
ローマを逃れることは彼にはできなかった
そしてローマは苦悩の首都
すべての完璧な薔薇がそこでは石になる

いつの間にか年を越して

仲宗根浩

更新された「水牛のように」を読むと自分の文章、読点の間違いに気づく。出てしまったものはしょうがない。間違いは間違いとしてわかるようにしておこう。

十二月、いきなり暑くなる。勘弁してください、仕事中、これ以上汗をかきたくないんです。そんな中、十二月七日オフ会お誘いのメール。うっ、急すぎる。確かにこちらは連絡いただければ金と時間、工面して行きます、と申しました。が、飛行機も早割りだとなんとかなるものの、一応ネットで東京往復の最安値の料金を調べるが無理だと諦め、仕事先の忘年会に行く。五十名以上が集まる宴会。ちょっと耐えられなかったので、頃合を見計らって逃げる。歩いて四十五分、家の近くの飲み屋で深夜三時頃まで飲むなおす。

そのうち内地が寒くなると沖縄も寒くなる。暖房をいっさいつけてない家の中ではパジャマの上からスエットとパーカーを着てしのぐ。大晦日の日の最高気温十三度と予報。風が強いので外で二十一年ぶりに行った歯医者さんに知覚過敏と診断された歯を風に向かってさらしてみたら、風の冷たさで歯がしみた。

今年は七月からやたら葬式が多く、最後の葬式がひいじいさんの実家の葬式。別の仲宗根の家に生まれたひいじいさんは、うちの仲宗根に養子できた。墓もうちの墓のとなりのとなりにあり、盆には必ず亡くなったおじさんが来ていた。ここでの親戚の幅は広い。別の法事で、戦前のことを知っているおばさん(といってもうちのおばあのいとこの娘)から、そのひいじいさんにわたしが似ていると言われた。昭和二十年に死んでいるので写真は無く今その顔を記憶しているのは何人いるだろう。うちの母親もひいじいさんの顔は知らない。方言でひいじいさんはウフータンメーと呼ばれている。ウフーは大きい、タンメーはおじいさん。

仕事納めが三十一日、仕事始めは一日。学校というの出て大晦日からお正月の三箇日休みというのを経験したのは十年くらい前一度しかない。そのときは奥さんの実家でお正月を過ごした。新年、最初の休みは四日。五日から子供たちは学校が始まる。

一月一日が誕生日のお師匠にお祝いのFAXをしなくては。

阪本順治監督の本気

若松恵子

日本映画の監督のなかで、いちばん好きな人が阪本順治だ。監督デビュー作『どついたるねん』の一場面、今は現役を退いたコーチ役の原田芳雄が、主人公不在の練習場でひとりパンチを打ち込む。パンチが重なっていき、気持ちもどんどん高まっていくその頂点で、通天閣にバチバチっと電気がつく映像がさし挟まれる。彼のエネルギーが、通天閣に電気をつけてしまったのか!「そんな、アホな」と思うと同時に、この監督のことを心から気に入ってしまった。

第2作『鉄拳』でも、殴られて歪む菅原文太の横顔のあとに、宇宙にぽっかり浮かぶ青い地球のショットが挟まれていた。阪本自身も『孤立、無援』(2005年ぴあ)のなかで「たとえ物語が一回止まって意味不明になったとしても、イメージショットのようなものを挿入したくなる」と述べているが、何かふっと、本気をそらすような、あまりにも思いつめている自分をからかい、そのことで緊張をほぐして自分を励ましているような、彼独特の表現方法が好きになってしまったのだった。

そして、そんな、ふざけた飛躍とは正反対であるが、現実(人間)に対する彼の誠実な向き合い方にもう一方で魅力を感じた。絵空事には見えないと言えばいいのか、彼の作品には、人は確かにこんな風に愛したり、悲しんだりするのだろうなとリアルに思わせてくれる力があった。「こんなセリフ現実には言わないよ」とシラケルことがほとんど無かった。かといって、映画が現実をそのままなぞっているという事ではない、彼の描く世界はむしろ全くの虚構だ。或る種の「夢」だと言ってもいい。日常の生活に埋もれさせてしまっている感情を、例えば「あのように愛したい」「こんな状況になったらきっぱりと闘いたい」と思い出させてくれるという意味での「夢」だ。「夢」は現実を見ないためのものではなく、俳優たちは、夢見ることをきちんと成立させてくれるだけの現実感をもってスクリーンのなかに存在している。阪本監督の演出にそういうことを感じる。それは、ひとは現実にどう振る舞うのか、どう生きるのかということへの深い洞察なくしてはできないことではないかと思う。

最新作『行きずりの街』(2010年11月公開)でも、12年振りに再会する2人のラブシーンが、言葉のやりとりによって、言葉にならないものを伝えようとする体の動きによって描かれていた。ひとが人を想うという行為が、そのゆたかな感情が、スクリーンからあふれ流れてきて、心を揺さぶられた。「こんなふうに出会い、愛することができたら」というひとつの夢が、信じられる夢として、現実に生きる俳優によって、描かれていた。誇張された表現も、ドラマチックな演出も無く、とても静かに。静かなラブストーリーは、あまり話題にならずにロードショーも終わってしまったようだ。この美しい映画が、話題にならずに終わってしまうのがもったいない。

cogito, ergo sum

大野晋

新年、あけましておめでとうございます。

東京駅丸の内の旧国鉄本社ビル跡地(というと覚えている方は随分と少なくなったのだろうけれども)にある丸善の四階に「松丸本舗」という面白いスペースがある。そのスペースの隣が、丸善のハヤシライスを食べさせる軽食堂なのだが、その隣に非常に雑多な本の並べ方をした書店棚があり、実はその中をうろうろとうろつくのが面白い。知識は多接的、有機的な結びつきで結びつくことで有効利用できるようになると考えているので、それを具現化したようなその空間は知的な刺激を受けるのに最適な環境のように思う。そういった中で、ふと、おかしなことを思いついたりする。

さて、私たち自身の自我はなにに基づいているのだろうか?
思考が脳だけで行われると思うのであれば、一切の外界からの刺激のない赤ちゃんの状態を考えてみると面白い。果たして、その赤ちゃんに思考は芽生えるのだろうか? 後天的に刺激が受けられなくなった場合にはなんらかの思考がありそうな気がするが、先天的に一切の脳への情報を遮断したとすると、おそらく、心すら芽生えないのではないだろうか? アン・マキャフリーの小説で、「歌う船」というシリーズがあり、この中で生体の脳を使って宇宙船や都市機能を制御する話がある。しかし、実際に人体と異なる感覚器をセンサーや情報の入力器として接続された場合に、歌うといった行為を身につけるのかどうか、非常に疑問に思う部分である。

例え、女性と男性の人体と頭脳が入れ替わったとしても、自分のクローンの体に頭脳が移植されたとしても、うまく動くのかどうか疑問が残る。

知識はニューロンの間に、各々の特徴を繋いだような形で、それぞれが複雑な発火の末に集約された答えを選ぶ、いわゆる連想モデルでモデル化できるにしても、どこにもルールのない世界から、赤ん坊が知識を得、そして一個の人格ができるとは思えない。少なくとも、感覚器を通しての接触と反応で世界を覚えるとともに、模倣で行動を覚えるような普遍の自己プログラムルールがあるに違いない。「2001年宇宙の旅」のHALのような人工知能は、そうした人間の知識獲得の
ルールが見つかったのち、実現されるに違いない。しかし、それが人格としてできるかどうかは、頭脳と感覚器の問題の解決を待つ必要があるように思えてならない。

古来、健康な肉体に健康な精神が宿ると言ったが、頭脳と多数の感覚器を有する体とは、切っても切れない関係があるのかもしれないなどと、考えてもいる。おそらく、今後、新しい感覚器や代わりの感覚器を頭脳に接続したり、頭脳の一部をコンピュータで拡張したるするような研究が進むだろう。果たして、そうして取り換えられたり、拡張された自分はもとの自分と同じなのだろうか?

左手の抒情

くぼたのぞみ

右腕が沈黙を強いられ
とにもかくにも左手で
打ちだすキー&キーの
すきまからゆっくり
ゆっくりもれてくる
ぽつりっく ぽつっりりっく
──ヴィレッジヴォイスか
はたと気づく左手で書/描く
東北 北陸
から北へむかって
海を渡った道のはてか
畑か
たちのぼる


桶にひしゃくの
あたる音おとうさんの
軍手が握るるる
長いひしゃくの柄の先に
若いキャベツがならんでて
まだ細い株のうねのあいまには
あたらしい溝が掘られてて


桶にひしゃくのあたる音がぽーん
 おとなしく
 見てるんだぞ
 近づくな
と響くキャベツの芯は固く
握りしめたビスケッッットト
とびきりおやつが湿気ってく
枝からもいだほんのりピンクの
葉つきりんごは
血のにじむ前歯でそのまま齧り
名にし負はばの植民の子に
ピンネシリはすっぱいからね
自己憐憫のシングルの
村のはなし/歴史なら
ぽつっ りく ぽつっり りりっく
抒情にならないからね──と
戸まどうキーが
見えない夜をはじきかえす

大晦日の礼拝 ジャワにて

冨岡三智

1月号に大晦日の話もちょっとずれているのだが、ジャワで印象的だった大晦日の話…。

いちど、プロテスタントの友人に、大晦日の礼拝に誘われて行ったことがある。その子は、婚約者の彼に合わせてイスラムからプロテスタントに改宗し、熱心に教会に通っていた。実は、教会の中に足を踏み入れるのはそのときが初めてで、信仰心はなかったが、好奇心はあったのだ。連れて行ってくれた教会は、ウィドゥランという大きな通り沿いにあって、私が住んでいた所から自転車で5分くらいの所なのだが、教会前が車で大渋滞していて驚く。今までキリスト教行事の日に出歩いたことはなかったが、こんなに混むとは知らなかった。

建物の中も立派で、大きいのに驚く。礼拝堂は1000人くらいは入る大きなホールで、所々にツリーが置かれてあり、壁面にも雪の飾り付けがされている。雪のないインドネシアでも、クリスマスや大晦日の礼拝行事のときは、北欧風の飾り付けになるんだなあと、不思議な気になる。オーストラリアでもそうらしい。

式次第はあまり覚えていないのだが、最初にいくつか讃美歌の合唱があった。私の友人は、合唱隊で歌うから…と言って、私を置いていってしまった。壇上では教会の合唱隊がずらりと並んで歌い、列席者も起立して一緒に歌う。教会の中では、椅子に座り、起立して歌うというのが新鮮だ。ガムラン音楽の上演や、伝統的な詩の朗読会、それにイスラムの集まりなどでは、床に座って歌ったり、お祈りをしたりというのが普通なので、あまり立って歌う姿を見たことがない。

その次に聖書の朗読というのがあったような気がする。合唱隊から戻ってきた友人が聖書を見せてくれる。聖書はインドネシア語に訳されている。その後の牧師の説教も、確かインドネシア語で終始した気がする。私が今まで出席したことのあるイスラム導師による儀礼というのは、すべてジャワ語で執り行われていた。イスラムの方がよりジャワ土着化しているからかもしれない。

宗教劇もあり、それは確か牧師の説教の前だったような気がする。信徒たちのいくつかのグループが演じていて、学芸会程度のレベルだったのだが、教会によっては芸大の先生たちに宗教劇制作を依頼することもあり、そういうものはやはりレベルが高い。この教会では、イエスと羊飼いの友達とマリアが登場して、携帯電話でやりとりするのだが、通信がうまくいかなくて…といった、コント風のものが多かった。このときの衣装は、マリアが青いマント、イエスも白い布を巻き付けたような格好といった風に、ヨーロッパの図像を踏襲している。この時にハタと思い至ったのだが、この衣装は北欧のものではなくて、暑い中東地域のものだ。この姿なら、ジャワでもあまり違和感がない。けれど、イエスやマリアがこんな薄着なのに、ヨーロッパでは冬の北欧スタイルでキリスト生誕を祝っているのも、不思議だなあという気になる。

その宗教劇の前だったか合間だったかに、献金箱が廻って来る。自分ができる範囲でしたら良いと言われるが、いくらにするか迷うところだ。「近所づきあいで結婚式や葬式のお包みをする程度」の金額を入れることにする。

牧師さんの説教は、まるで予備校の名物講師が壇上狭しと講義しているかのようだ。マイクを手に持ち、口角泡を飛ばす勢いで、えんえんと続く(2時間以上続いたかもしれない)。知り合いの、議論好きの教授の顔を、思わず思い浮かべてしまう。プロテスタントの説教というのは、こういうものらしい。プロテスタントの礼拝に連れて行ってもらったと、後日、私が舞踊の先生の1人(彼はカトリック教徒)に言うと、プロテスタントの礼拝はやかましかっただろ? カトリックでは粛々とやるんだ、なんて言われてしまった。しかし、あの迫力には圧倒されそうになる。また、インドネシア語の、あまりややこしさのない言い廻しが、こういう折伏調のしゃべり(失礼!)にはとても合う。

この牧師さんの話の途中だったかに市長が来て、しばらく挨拶がある。この市長は2年前に就任したばかりで、しかもこの教会の隣の区(私が住んでいた地域)の出身だった。市内の主だった大教会を廻っているようで、この教会で4番目、まだまだ廻る所があるということだった。調べてみると彼はイスラム教徒らしいが、ここインドネシアでも、冠婚葬祭は政治家にとって大事な付き合いなのだろう。

この礼拝はたぶん2時か3時頃に終わったのではないかと思う。それまでは、大晦日と言えば、市役所でワヤン(影絵)があったり、芸術センターやスリウェダリ劇場で特別プログラムがあったりしていたので、そういうものを見るのに忙しくしていた。けれど、日本にいる時は、私は大晦日の夜は近所の神社にお参りして、夜中の0時から始まる歳旦祭に参列していたから、異教徒であっても教会の祈りの中で年を越すと、なんだかすがすがしい心持ちになる。

追伸:
突然ですが、この1月半ばより来年の3月まで、大学の研究員としてインドネシアのジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)に派遣されることになりました。今まで留学していたスラカルタ(通称ソロ)から約60km離れた土地です。同じジャワとはいえ、互いに対抗する町として、スラカルタとは違う文化が見られるだろうなと、半分わくわく、半分不安な思いでいます。本年もよろしくお付き合いください。

カレー三昧

さとうまき

年末、クウェートにやってきた。

2011年は、湾岸戦争が始まって20年も経つ。そして、911から10年、2011年の末には、アメリカ軍がイラクから完全に撤退するという。区切りの年には違いない。なんかこれで終わりというわけには行かない。何で人間は戦争をするのか。20年にさかのぼって、この間の憎しみの歴史をたどってみたい。

それで、クウェート人にもいろいろ聞いてみたかった。しかし、クウェートは、クウェート人がいない。三分の一が、インドや、スリランカ、バングラディッシュからの出稼ぎで、一体僕はどこにいるんだろうと思ってしまう。たまにアラブ人の運転手にあうと、ああ、アラブに来ているんだと思いなおす。

ホテルの近くには小さなインド料理屋があって、毎日そこに通っている。年越しソバらなる年越しカレーを食う。みんな、家族を置いて出稼ぎに来ている。正月も帰れないんだねぇー。彼らは、よく働く。ちょっとでもサボったり、ずるしたら、就労ビザを失うからだろうか。そういう、僕たちも出稼ぎ労働者だ。2010年は、そーっと逃げるように去っていった。気がついたら新しい朝。カレーばかり食っていたので胃が重い。なんか、一生カレーを食っていたきがする。さあ、新年、張り切ってこれからカレーを食いに行く。

ことしもよろしくお願いします。

烈火山4首 ――翠ぬ宝75

藤井貞和

「あさまやま」「あさましき世に」「さくらじま」「地を裂くらしも」「わが烈火山」

「黒雲の」「烈火」「来たりて」「尽くせども」「わが憤怒もて」「洗え」「今夜は」

「もろびとよ」「怒れ」「三十八度線」「新潟過ぎる分断」「創痍」

「かぐや姫」「あわれ火山の神という議論」「鋭(と)し」「史料編纂所教授」

(提灯行列を、話には聞くけれども見たことがないぞ。あれは敵の生首をあらわしたというぞ。「皆切り取ったる敵兵の首の形」とな。日清戦争〈明27〜28〉が終われば、金沢市内は鬼灯〈ほうづき〉提灯を三〇〇〇個、家々に掲げたぞ。ここの連隊だけで三〇〇〇の首級を挙げたということか知らぬぞ。しるしとはよく言ったぞ。くりから峠では七万という武者を抛ったぞ。鏡花『凱旋祭』〈明30〉は祭のなかでひとりの婦人を生け贄に供したぞ。軍卒らは清国女性への集団レイプをするぞ〈同『海城発電』明29〉。妻の愛人の処刑を眼前にみせしめる軍人の夫ぞ〈同『琵琶伝』〉。鏡花は描く、明治の男のかくもさもしき横暴の果てを。嗚呼、透谷は日清戦争を見ずして死んだぞ。「懸賞問題答案平和雑誌」〈明24〉12論文のうちには透谷の翻訳せしもあるか知らぬぞ。世は見よ、透谷から鏡花へ消尽するというぞ。)

掠れ書き 8(『カフカノート』の準備)

高橋悠治

1964年秋、分断されて3年たったベルリンの西、森の小径を歩きながらクセナキスからエピクロス哲学の話を聞いた。その後『ソクラテス以前の哲学者たち』をギリシャ語とドイツ語の対訳で読み、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の最終巻『エピクロス伝』をギリシャ語と英語の対訳で読んだ。

ミシェル・ビュトールにその後パリで会った時、アメリカでナイアガラの滝を見てクリナメン(偶然のわずかな偏り)を理解したと言っていた。さらにその数年後バッファローで、雪の日にクセナキスの運転する小さな車で、ナイアガラを見に行ったことがあった。滝の一部は凍っていたが、流れて激しく落下する水の飛び散る先には、小さな虹が立っていた。それはクリナメンの創造する多重宇宙を映す鏡のようだった。水の粒子はぶつかり、まず反発する。出会いは結びつきではなく、ちがう方向に離れるほうが先になる。目に映る水は、落ちる時、一つの流れからはぐれた粒子の軌跡を一瞬見せる。

1965年パリで、新刊のアルチュセール『資本論を読む』と『マルクスのために』を読み、「重層的決定」や「認識論的切断」のようなことばのナイフで、論理を切り裂いてひらかれた隙間で、ちがう問題意識に移るプロセスがいくらか見えた。1968年5月はもうそこまで来ていた。その頃はヴィトゲンシュタインやクワインを読み、唯名論に興味をもっていた。問いのなかにすでに答えが含まれているなら、問いかたを変えるよりない。

だが、構造は変化しても、構造という枠のなかにいる限り、保護されはしても、いずれ脱ぎ捨てる殻とならなければ、うごきはじめたものも繭のなかでひからびてしまう。1968年はやがて制度に回収され、1990年の崩壊を待たなければならなかった。たとえ殻をやぶって新鮮な空気に触れたとしても、身体は、やがて新しいうごきかたをまなび、それに慣れていく。永続するクリナメンともいうべき一時的結合と離反のプロセスを手放さないように、それぞれのエピクロスの庭を内側にもつことを時々たしかめるのがいいかもしれない。カフカのように、「速く歩いてから耳をすますと、夜であたりが静かなら、しっかり留めてない壁の鏡や日除けがかたかたいうのが聞こえる」(八つ折ノートB)。それでも共生関係にまつわりつかれないで、創造したままの世界全体を見渡すこと、しかもそれが核心からの視点であると同時に、いつでも移動できるようにして故郷に留まっている(八つ折ノートH)、立っているのは二本の脚で立つのがやっとのところ(同じくG)。

こうして『カフカノート』のプランにもどってきた。1986年の『カフカ断片』、1987年の『可不可』、1989年『カフカ・プロツェス』、1990年の『可不可2』の試行と失敗をふりかえり、あらためてテクストを集めはじめる。以前の作品のように演劇でもなく、室内オペラでもなく、ノートブックそのもの。そう思ってはじめたが失敗した試みにまたもどる。もう進歩主義的歴史感もなく、唯一の正しい方向などありようもない、だが並列的に多様化したとは言えないし、多様化の見かけのなかで変化をきらい、現状維持されている世界とそこで創られる音楽について、一般論としての抽象的音楽論であるより、個別のケースにもどる。目立たないが、それをぬきとると全体の組み替えが起こるような小さなネジ、だれのものとは言えないが、だれともちがっている無名で非人称的変化、気づかれずに浸透していく、性格を持たない、偶然の痕跡。

カフカ自身が生前出版した作品からではなく、ノートブックに残した未発表の短編の一部、それよりも、書きかけて数行も続かず、時にはセンテンスの途中で停まってしまったことば。断片をさらに断片化し、脈絡を断ち切りながら並べる作業はコンピュータ上でスティッキーズという紙片を並べ替えながら、前回使ったマックス・ブロート編集の「標準版」(Fischer Taschenbuch)とその訳書である新潮社版全集ではなく、1992年に出版された手稿版(いまはオンラインThe Kafka Projectで見ることができる)から、それによる池内紀訳の白水社版『カフカ小説全集』よりも逐語訳に近い日本語を考える。読まれる文章の調子を変えないように、句読点を原文のままにする。歌にする場合は、ドイツ語の音節数に近づくように日本語の音節を削る。白紙の上に残された痕跡である文字を手がかりに、それを書いたペンの見えない作動プロセスに似たことを、別なかたちではじめられるだろうか。

パフォーマーは、ことばを空中にきざみこむペンとなって、よみ、うたい、舞う。どこでもない場所、いつでもない時。薄明かりとわずかな音。書くこと、書き続けること、細部にこだわりながら途切れることば、響き、動き。意味を持つ前の書く身体の身振りであり、意味や解釈ではなく、理解できなくても、あるいは、理解しようとするかわりに、ただ、限界線を引いて切り取ることば。とくにアフォリズムは、語源の通り、地平を限ることで、一般論や哲学や、まして教訓ではないだろう。それを書いた手の、そのときの状況に即して、行為の地平を限定すること。ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くからきこえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、眼の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片を断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。

だが、これもまだぼんやりした期待、それと気づかずに失望がしのびこんでいるような。以前の2回の試みがそれぞれ一度限りのイベントに終わったように、今度も思ったようにはいかないだろう。もともとがカフカのノートブックのように、失敗の痕跡の集積を意図して創るのだから、予見をたえず裏切る展開、角を曲がると、どこかで見たようでもなじめない風景がひろがっているような、そんな幸運を望めないにしても、それだからいっそう。