犬狼詩集

管啓次郎

  25

きっと明日おれはきみに会うと思う
きっと昨日きみはおれを見かけたと思う
きっと明日おれは声をかけるだろう
きっと昨日きみは名を呼ばれた気がしただろう
きっと明日おれはきみの名が書けるようになる
きっと昨日きみは花火のような音を立てて
手紙をくしゃくしゃに丸めて捨てた
それからやっとおれたちの歴史がはじまる
おれたちはひと粒の葡萄をふたりで砂に埋める
おれたちはムクドリの群れよりもおしゃべりでやかましい
おれたちはダゲレオタイプのために四分間のキスをする
おれたちは時々カマルグまで出かけて塩で歯を磨く
おれたちはハープシコードや雨音には悩まない
おれたちはライオンのたてがみをもつ兎が大好きだ
そんなすべての愚かさにきみがにっこり笑ったとき
おれにとっては日付がまた「明日」に変わる

  26

小学生のころ小さく折りたたんで
抽き出しのすみに入れてあったキャラメルの包み紙を
二十数年後のいま初めてひろげてみた
そこに文字が書かれている
すっかりうすれた文字はLIFE
ぼくはあっけにとられ、それから笑い出した
あるとき、たぶん九歳のころ
この単語をいたるところに記してまわった
筆箱にLIFE 下敷きにLIFE
犬の首輪にLIFE 木の幹にLIFE
拾った丸い石にLIFE 野球のミットにLIFE
それがぼくの神の名、魔法の言葉
自分の人生がこれからどんな経路をたどるかなど
何ひとつ思わないまま
生命を信頼し、生命を招こうとしていたのだろうか
あらゆる事物を横断する秘密としての生命

クウェート解放20周年

さとうまき

2月25日は、クェート建国50周年、2月26日は、湾岸戦争終結、つまり、クェート解放20周年ということで、区切りのいい年だ。本来なら、日本のメディアも特集を組んだりするはずなのだが、チェニジアから始まった民主化の波がエジプト、リビア、バーレーン、イエメンと勢いを振るっており、クウェートの記事は、日本では全く報道されていない。

2月25日は、イラク全土で「怒りの金曜日」と称して各地でデモをやるという情報も入ってきたので、イラクからクウェートに避難し、記念式典を取材してみた。

アルビルからバーレーンで乗りついでクウェートにつく。街中が、クウェートの国旗色の電飾できれい。一方、イラクは、電気がなくて、生活の不便さを現政権にぶつけて、デモに参加している。この電気がイラクにあれば! この差はなんだろう。

まず、湾岸戦争メモリアル・ミュージアムに行く。ここの展示、ジオラマが面白い。プラモデルの展示に、効果音や、照明をかぶせて湾岸戦争の始まりから終わりまで、ナレーション付きで解説してくれる。昔作ってそのままになっているのだろう。ローテクだが、味がある。そして、多国籍軍の貢献を展示するコーナー。日本は、130億ドルを拠出したことと、自衛隊がペルシャ湾の機雷除去を行った写真が飾ってあるが、あまり目だたない。「日本はお金は出すが、血を流さない」と批判され外務省はトラウマになったといわれているが、展示を見る限り、立派に「軍隊」を派遣した国として扱われている。要は、日本の宣伝のへたくそさにある。しつこく130億円出しましたと言い続ければいいのに、今回の記念式典にも日本からの要人は来ない。

続いてイギリス。今回当時首相だった、ジョン・メージャーも式典に参加。エリザベス女王の写真も入り口に飾ってあり、存在感をアピール。しかし、アメリカ。一番貢献したのに、今ひとつ目立たない。多国籍軍の国旗の展示コーナーには、アメリカの国旗が外れてなくなっている。単に落ちてそのままにしておいたのかもしれないが、アメリカの要人が見たら怒るに違いない。なぜか、バングラディッシュの展示コーナーが、面積もひろく、目立つ。日本と同じように、戦後処理として、バングラ人が地雷や劣化ウラン弾の除去を行ったと書いてある。軍服も飾ってあった。

今回、20周年ということで、2003年以降のイラク戦争の展示を新しく加えたという。なんと、そこにはサダム・フセインの銅像の首が飾ってあった。アメリカ軍が引き倒したサダムの銅像から首を切り落としてプレゼントしてくれたという。こんなところに飾られていたとは。それだけでも見にくる価値はあると思うのだが、このメモリアル・ミュージアム、観客がいない! もったいない。

外では、クウェート軍の鼓笛隊が演奏していた。しかし、彼らはバングラディッシュ人だという。鼓笛隊だけでなく約5000人が出稼ぎでクウェート軍で働いているというのだ。クウェートにとって、今では、アメリカ軍よりもバングラ軍が頼りになるというわけか? 同じイスラムだし。クウェートの人口の三分の二が実は外国人労働者。特にバングラディッシュやインド人が多く、我々外国人が、街中でクウェート人と会話することなどめったにない。しかし、労働の質は優れている。なぜなら、文句を言ったらビザが取り上げられ本国にかえされてしまう。一ヶ月、200から300ドル程度しかもらえないが、この国の底辺を支えている。彼らが稼ぐ金は、本国では、大金であり決して貧困層には入らない。他のアラブ諸国のように、貧困が問題となってデモに発展することもないだろう。優れたシステムだ。

翌日、市民のデモがあるというので、タクシーを拾う。やはり、バングラ人。英語がなまっていてよくわからない。おまけに、ふっかけてくる。
「高い」
「何を言う。ここは危険だから、早く金を払ってくれ」
「危険だって? デモといってもみんな楽しそうに旗を振っている」
「ここは、危険だ。早く、金を払ってくれ」
もめていると銃を持ったクウェートの子どもたちがやってきて、運転手の顔面めがけて発砲した。2リットルくらいの水を蓄える事が出来る水鉄砲だ。イラク戦争から20年とはいえ、クウェート人の多くにとっては、単なるお祝い事に過ぎず、散々はしゃいだ後は、休暇をとって海外に遊びに行ってしまう人も多いという。湾岸戦争のときも、ほとんどサウジに逃げてしまっていた。やっぱりこの国は、バングラ人が支えている。

噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで

冨岡三智

2月13日から22日まで、インドネシア、ジョグジャカルタ市のカリ・チョデ(チョデ川、カリは川の意味)流域で行われていたAPIリージョナル・プロジェクトというのに参加していた。このプロジェクトは、日本財団がアジア5カ国に支給しているAPIフェローシップを受給した人たちが5カ国それぞれで作り上げるプロジェクトで、「人と生態系のバランスに対するコミュニティ・ベースのイニシアチブ」が共通テーマになり、とくに「水」がキーワードになっている。このプロジェクトが企画されたときには想定外だったのだが、ジョグジャカルタでは昨年11月にムラピ山が噴火し、さらにその火山泥流が雨期で増水した川に流れ込んで洪水が起こり…という状態になったので、チョデ川流域の汚染問題の視察という当初の予定以外に、被災地としての実態も視察することになった。

同じジャワ島の古都と言っても、私が以前留学していたソロとジョグジャはいろんな面で違う。ジョグジャでは南北の軸線が非常に重視される。北端のムラピ山と南のパラントゥリティス海岸を結んだ南北の軸線の真中にジョグジャカルタ王宮があり、さらにその線上に、インドネシアで最初の総合大学・ガジャマダも、マリオボロ通りの起点になるトゥグ(記念碑)もある。そのムラピ山の裾野を水源とする川のうち3つがジョグジャ市内を通っていて、中でもカリ・チョデはこの南北の軸に沿って、つまり都市の心臓部を貫通して流れているので、特に重要な川なのだと地元の人は言う。ソロ王家の場合は、南北軸ではなくて四方位を重視する。ソロでもムラピ山にはその四神の1人が棲むと見なされているけれど、ソロではムラピ山は西の山になっている(ソロはジョグジャより東にあるから)。さらに、ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は、ソロ市を囲むように流れていて、ソロにはジョグジャのような強力な軸線がない、という気がする。

このプロジェクトでは、1日、午前中にムラピ山に行ってカリ・チョデの水源(ただしその辺りではカリ・ボヨン=ボヨン川と呼ぶ、ムラピ山頂から6kmくらいの地点)を見、火山泥流で壊滅したカリ・クニン国立公園で植林をし、昼からパラントゥリティスに行くという日があった。ただし、私自身は別の用事があって、パラントゥリティスには行っていない。

市内のカリ・チョデ流域でも、火山泥流で川床が1.5mも上昇したと言う。ここ上流では、火山泥流の奔流に地面や岩肌が削られた跡がくっきりと見え、泥流に当たって一気に炭化した木片が見つかり、明らかに山の石とは違う感触の石がごろごろ転がっている。間近に煙を吐くムラピ山が見える。三途の川というのを少し連想する。削られた崖の上の端っこに、ぎりぎり建っている家が、下から見える。今、泥流が押し寄せたら、あの家も崩落し、私たちも一気に呑み込まれてしまうのだろう…。APIスタッフの1人が、「日本でなら、この状態ではまだ立入禁止にすると思うけれど…」と言う。確かにそうだ。

川の水源とは言っても、この辺りでは水は地下を流れているので見えないという。けれど、どんどん先へ進んでいくと、地面を這うように水がチロチロと流れて来る。さらにさかのぼると、水が何か所からか湧き出している所に行き当たる。この辺りでは足首がつかるくらいまでの水量があって、湧き出す水流の強さに、小石がコロコロとリズミカルに音を立てながら流されていくのが見える。ささやくような、軽やかな音。ここまで、犬も歩かないのではないかと思われるような狭くて急な道を歩いてきて、へとへとになっていたけれど、この音が聞けただけでも来た甲斐があった。バリ島で見られる、風でときどきカラカラと音を立てるアンクルンに少し似ている気もするし、風葬された人骨が風に吹かれたらこんな音を立てるのかな、とも思わせる音だった。

  〜〜〜

と、ここまで書いてきて、時間切れになりました。話はまだ上流なので、中流のカリ・チョデ流域の話の続きはまた来月に…。

ピンネシリ メルティン

くぼたのぞみ

くらい地平線のはるかむこうに
おぼつかない光が射して
雪原に
おそい薄明が訪れるころ
目の奥に伏して眠る
ピンネシリが解けていく

ピンネシリが男の山
と聞いたのはつい最近のことで
それで謎がいくつも解けた

ふりつもる北の幻想は
身も凍る雪解け水になって流れくだり
あこがれる
やよいの空の横雲のしたで
恥じらいと
無骨さに
身の置きどころなく立ちすくみ
あたたかい潮に遊ばれた南の夢想と
もじもじとことばを交わすが

裏を知らないモノクロの
プロヴァンシャル・ライフのことばたちは
クチクラ樹木の常緑の
こまやかな花に飾られることはなく
いつまでも素っ気ない二色のままで
ノスタルジアだけが
不在のかけらとなって
きみを刺す

それでも ほら
謎が解けて
メルティン メルティン
ピンネシリが解けていく
歌うように ピンネシリ
メリリー メルティン
たたら踏む雲
まだ赤い空

ハイド――翠ぬ宝77

藤井貞和

言えるところにまではたしかに登攀する哲学や、ひとりよがり。
きみに訊く、尋ねる、それならと、リズムを私は問う。

性の歴史の数ページ、置き去りにしたままの詩。
そんな一篇、一篇で終わる。 そう思われた日に終わる。

きみの誕生日はいつで、かさならないことばの行き先で、
切っ先を立てて、なぜ草むらに屍体を投げる、夢のなかで。

幻影の人の理性の狡智が大海に沈む、雄大な落日。 もう一つの
夢もまた終わる、きみが地上の詩人であることにはかなわなくて。

 
(〈そうだ、私はヘンリ・ジキルの姿で床についたのだが、眼を醒ましてみるとエドワード・ハイドになっていたのである〉(スティーヴンスン)。「まれびと」は、西脇のなかで「幻影の人」になる。セーヌ川に浮いて、詩人は屍体となって詩を書く。だれがそれを実証する、流れる水に沈みながら、十八歳の精神がことばをなくしたからっぽのからだで書く。そんなすべてが幻影であり、悪夢から帰還する、床に眼を醒ます、だれも知らないハイド。)

しもた屋之噺 (111)

杉山洋一

先週までの小春日和が嘘のように厳寒の冬が戻ってきて、慌てて弱めていた暖房を元に戻しました。先ほどまで滞在していた中部イタリアの地方都市では、昨夜など粉雪が舞ったほどです。寒さは相変わらずですが、今日は青空も戻り、ミラノに戻る急行列車にゆられて、原稿を書き始めました。南国らしい明るい午後の日差しは目に眩しいほどで、アドリア海の海岸を這うように、列車が疾走してゆきます。風が強く、うねるような高い波が岩を積み重ねた防波堤を呑み込み海岸まで白い飛沫を上げていて、傍らに乗合わせた日に焼けた無口な男たちも、思わず身を乗り出して波頭を眺めていました。

列車に飛び乗る直前まで、実はこの街の私立音楽院の経営陣と、学校を罷めると言い張る85歳の学長を慰留していました。彼は家人のピアノの恩師でもあります。不況で国の文化予算は大幅に削減され、期待していたアブルッツォ州の文化予算も、ラクイラ地震の復興にあてがわれ、学長を初め多くの教師の給与は2年間分も滞っていました。学校は毎月7000ユーロもの賃借料も長く滞納している状態で、学校経営に係わるパトロン一家が手弁当で働けど、経営は一向に回復しませんでした。より安価な場所へ移転出来ないのかと尋ねると、現在国立音楽院卒業資格の申請中で、学校の設計図も提出してあり、移転もままならないとのことでした。

学長がアッカルドやナタリア・グッドマンを招いても生徒数が増えないのは宣伝不足だと声を荒げると、学校には満足な広告をするお金さえ残っていないと、長年共に学校を支えてきた経営陣は寂しそうに応えてくれました。先日も別件でローマからイタリアの文化予算削減への抗議書を送ってくれと直々に連絡があって、手紙を認めたところでしたが、不況に追い討ちをかけるように不安定な中東、北アフリカからの難民問題を抱え、文化予算は言わずもがな、イタリアの経済状況は予断を許しません。20年来経営に携わってきた老婦人は、少し涙ぐみながら厳しい顔を学長に向け「あなたを、皆心から愛しているわ。どうか考え直して、としかわたしには言えないけれど」。小さく華奢な老婦人の姿と凛とした立ち振る舞いは誇りの高さを表していて、耳慣れない南部訛りは新鮮にすら響きました。白いカーテンからは昼過ぎの明るい光が差し込んでいて、やり場のない怒りと感激の入雑じった、すっかり紅潮した学長の顔を浮び上がらせていました。

イタリアでは卒業試験に学外の試験官を含める規則があって、この学校から何度か審査を頼まれたことがあります。今回も今朝まで数日間に亘ってディプロマ試験の審査をしていましたが、親ほども年齢の違う他の試験官と同席していると、興味深い逸話が沢山聞けて全く飽きることはありません。試験の最中の試験官と言えば、生徒と一緒に机の上で音を立てて指を動かしているか、無為なルバートがある毎に舌打ちをして机を叩いて拍を取り出すか小声で会話をしているかで、平均律のフーガで学生が暗譜に詰まると、不機嫌そうに大声で続きを歌って助け舟を出したりします。計2時間のリサイタルプログラム、30分以上のフーガとエチュード、協奏曲全曲を課された受験者は厳しい条件の中、皆よく集中力を切らずに頑張るものだと感嘆するばかりです。

そうしてホールの一番後ろの席で受験者の演奏を聞きながら、カルロ・ゼッキの指揮でシューマンの協奏曲を弾いた時に、ゼッキから3楽章の例の箇所でオーケストラの一拍前に入る左手を弱く弾きオーケストラと合わせ易くして欲しいと頼まれた話や、彼らが学生の時分にはピアノだけ勉強する生徒など皆無で、誰しも作曲や他の楽器を習得していた話、自分はチェロを6年間弾いていてオーケストラに参加していた話や、15、6歳の頃にオーケストレーションは誰にどう習ったかなど、往年の教育がいかに厳格で教師がどれ程優れていたかを話してくれました。

「当時は平均律の楽譜の何調のどこと言うだけで、どの頁の何段目の何小節目で音がどうかと全て諳んじていた、その位でなければ平均律は頭に入らない。教育者とはそういうものだった。だからこそ尊敬を一身に集められたのさ」。自らの不勉強に恥ずかしさで消入りそうになりながら、ふと同時に長く音楽院で作曲を教えバッハの対位法に通暁していたドナトーニが頭を過ぎりました。80年代にはここでドナトーニも教鞭を取っていました。

「今のピアニストは頭を使わない。耳と指だけで暗譜していて一音間違えると破綻してしまう。楽譜から学ばないのさ。昔は構造や和声の把握など全てを駆使して音楽を理解していたのが、何時しかピアニストは楽器にしがみ付くようになった。だからわざわざ近現代作品を暗譜で演奏させるのさ。声部が入り組んでいて音色を弾分けられるようになるのと、読譜と暗譜の訓練に最良なのさ」。今回もカーターのソナタとアイブスの1番のソナタを暗譜で見事に弾ききったアメリカ人の学生がいました。

鍵盤を上から叩かずに鍵盤の中で押しこむ発音の仕方や、ヴィブラートの独特のペダルなど、ピアノを弾かない人間には説明されても理解がむつかしいのですが、何より楽譜に忠実に弾くこと、早いパッセージを指で引き倒さず全ての音が聴こえる速度で弾き、音に陰影をつけて均等に鳴らさないこと、書かれていないルバートは一切受け付けないこと、構造を堅固に作って音色を多層的に響かせるところなど、エミリオの指揮のクラスで教わった内容と全く同じでした。イタリア音楽史には後期古典派からロマン派が欠落しているので、以前のバロック的音楽観が現在まで残ったのかも知れないし、自ら持って生まれた享楽的で開放的な音楽性と調和を図るべく、無意識に禁欲的な音楽教育の礎が築かれたのかも知れません。国立音楽院での和声や対位法はバッハスタイルのみ用いられ、フランスの和声課題は全く範疇になかったのが、留学してきた当時は不思議で仕方なかったことを思い出しますが、確かにレッスンで観念的な指示を受けた記憶も殆どありません。具体的なテンポや音色など、音楽の基礎のみに関して厳しく習ったことは、後に自らの力で音楽を深めてゆく上で大きな助けになっています。どこを見ても遺跡だらけのイタリアの教育は因襲的でどこか古臭い程だけれど、時代に流されない強さを持っていたのかも知れない。世界中が物凄い勢いで変化する現在、その価値を測る指針は目の前には見当たりません。

書かれたリズム通りに左手が消えてゆくスクリャービンの「幻想ソナタ」や、独特の少し乾いたペダルで和音の変化が浮立って見える「水の戯れ」、一音ずつアーティキュレーションをつぶさに眺めてゆくような感覚に陥る「映像」など、日本では接する機会のない演奏を前に、不覚にもマニエリスムの触感を思い出したのは、些か的外だったかも知れませんが、伝統の重さは心に食い込むようでした。

最後まで確約の言葉を発さなかった学長は、紅く染まった顔を少し綻ばせ、「連絡するから心配するな」と言い残し、覚束ない足取りで運転手の待つ自家用車に乗り込みました。寒風に思わず襟を立て駅に向かって歩いていると、ちょうど2本目の辻の手前で、彼の車が静かに追い越してゆきました。

(2月28日ミラノにて)

間接ドッペル ゲンガー。

植松眞人

大阪関空行きANA832便である。座席は26F、搭乗口は6番。日付は1月の2日。落語「代書」に出てくる松本留五郎風にいうなら「いちげつのふつか」だ。新年明けて二日目に羽田から関空へ向かう全日空の搭乗券の半券がいま、僕の手元にある。

そこには、当然のように僕の名前がカタカナ表記で印字されている。が、しかし、僕はそんな飛行機に乗った覚えもなければ、搭乗券を購入した覚えもないのだ。

僕の名前は驚くほど珍しい名前ではない。かといって、初対面の人に「ああ、同じ名前の人知ってます」と言われるほどの名前でもない。僕自身、同じ名字の人に面と向かってあったことはない。そんな名前がカタカナ表記で印字されているのだから、この搭乗券が僕が使用したものだと誰かが思っても仕方がないことだ。

だけど、不思議なのは、この同姓同名のチケットが僕が住んでいる町の僕がよく行く小さなクリニックの小さな看板の上にひょいと置かれていて、しかも、そのタテヨコが10センチにも満たない地味な青い紙片をうちの息子がたまたま見つけたということだ。

だって、考えれば考えるほど、なにかおかしい。自分が住んでいる生活圏に同姓同名の人がいるっていことも、それなりに珍しい偶然かもしれないが、それ以上に、その名前が書かれた小さな紙切れを同姓同名である僕の息子がたまたま見つけて、自宅に持ち帰り「父ちゃん、飛行機に乗った?」と何やら意味深な笑顔で聞いてくるなんて、やっぱりおかしい。探偵小説やサスペンス映画の冒頭で、同じことをやったら、ラッシュの段階でプロデューサーから「偶然にもほどがある」とか「やりすぎ」とか「ご都合主義だ」とか言われてしまうはずだ。

息子がさも嬉しそうな顔をして「父ちゃんが大阪に行った証拠や」と言いつつ件の搭乗券の半券を見せ、家族みんなで「ほんまは一人で大阪行ってたんちゃうの?」とか「浮気や浮気や」とか「近くに同姓同名の人がいるのか、気持ちわる!」などと言い合うような喧噪が終わると、残るのはやはり、なぜ? という疑問。

なぜ、この半券は僕たち家族がよく利用するクリニックの看板の上に置かれていたのか。なぜ、その半券をうちの息子が見つけたのか。そこになんの意味もない、と言ってしまうと人生は味気ない。きっと何か意味があるのだろう。僕の将来に関わることなのか、それとも過去に何か関わりがあったことなのか、そのあたりはわからないが、きっと何か意味があるのだろう。

そんなことを考えていて、ふと思い至ったのは、ドッペルゲンガー。自分とそっくりの人物と出会ってしまうと死んでしまう、というあれだ。間接キスならぬ、間接ドッペルゲンガーではないのか、と思ったりもするのだが、間接キスならキスしたことにはならぬ。そう考えれば、息子経由で間一髪、危機を脱したと言えないこともない。

ということで、僕と同じ名前が書かれた小さな搭乗券の半券がいまどこにあるのかというと……。なぜだか、まだ、お守りのように僕の手帳に挟まれているのです。

夢への切符

璃葉

風がごうごうと吹く窓の外を見て、
怒っているようだ、と思いながら
煌々と輝く部屋の電気を消した。

カーテンの隙間から、真っ暗な部屋の中に
こっそりと夜の光が入り込む。

布団に潜り込み
暗闇を見つめていると
時々、外を走っている車のライトが次々と、
小さい菱形のような形に姿を変えて天井を駆けていく。
なんだか光の競争のようだ。

ぼんやり、それを追いかけていると
いつの間にか夢の中で、
光を探して三千里、という話が出来上がっていて、
真っ黒な月と星の下で旅をしている私がいた。

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二月、セミが鳴く

仲宗根浩

二月の終わり、最高気温二十五度。帰るため仕事場の駐車場に向かう途中、セミが一匹鳴いていた。長く地中にいたのに耐え切れなくなったのか。

旧正月の午後、実家の仏壇にご挨拶。その後、仕事に行く途中広島カープの沢村賞投手、前田健太がランニングしているところに遭遇。後ろから追うテレビカメラ。暑い旧正月、半袖で仕事をする。こっちの桜は満開。

一月の末にあったお嬢様の学芸会で、携帯電話のカメラ使えないことに気付く。年末は使えていたのに。いろいろやってもだめ。後日、職場に携帯電話ショップで働いていたひとがいたので色々対処法を教えてくれたがそれでもだめ。内部も見て一言「修理ですね。でも水没や部品の折れがないから無料ですよ。」と言ってくれた。休みの日にショップに行き修理となり代替機を渡された。渡された機種は同じメーカーだが大きさも微妙に違う。数日戸惑う。千五百円くらいしか携帯にお金を使っていないから頻繁に手にしてるわけじゃないけど。一週間したら修理から戻ったが、設定は一からやり直す。設定まではバックアップしてくれないことを初めて知った。

次はパソコン。壊れたマック用の外付けのマルチドライブがほったらかされている。DVDを認識しなくなったデスクトップにこれを入れてみよう、と試みる。まず外付けのドライブを分解して配線を確認したら簡単に入れ替えできることがわかると、夜中にごちゃごちゃと作業する。ちゃんと動く。これでDVD-RAMも使えるようになった。八年くらい前に買ったマシンなのでいまだハードディスクは40GBのまま。これをSATAのドライブが搭載可能か調べる。搭載可能であっても起動ディスクとして使えるかどうか。BIOSの設定をいろいろ見るとちゃんとあった。これで安いSATAのハードディスクを使える。今どきのものは一世代前の規格だと値段が高くなっている。デジタルの世界は頻繁に新しい媒体にデータを移していないと、何かあったときに使えなくなる。DATがいい例だ。ノートパソコンなぞやめてスマートフォンにキーボードの方が楽じゃないか。小金持ちになったらそうしてやる。

二月のもうひとつの仏壇行事、旧の一月十六日。今年は仕事に行く前に三ヶ所まわる。昔の話をしたり親や兄弟の近況を聞いたり聞かれたり。あの世の正月も無事済んだ。

しかしかなりに惰眠を貪った一ヶ月だった。やらなくていけないことはあるけど怠け者はなるべく寸前まで動かない。どうしても睡魔には勝てない。少しだけあれこれ計画を頭の中でたてて、今年初めて扇風機、スイッチ・オン。近所の通りは黄色いいっぺーの花が咲き始めた。

既視感

大野晋

引越しの次の日、メーターの取り外しの立ち会いのために家に戻った。

荷物を全て運び出したがらんとした家の中で、ふと、どこかで見たことのあるような気がした。その感覚の源がどこにあるのかを考えながら、業者の来るのを待つ。そう、確かに同じ風景を見たことがある。

今から40年以上前。この家が立って一年も経たずに父が亡くなった。当時はまだ、周りに家も少なく、収入源もなくなったことで、幼い私はまだ新しい私の家を出ていかなくてはならなかった。まだ見ぬ将来への不安。もう二度と帰って来られないかもしれないという思いで、引っ越し荷物を運び出したがらんとした家の中で、今と同じ思いの私がいた。そう。あのときと一緒だ。

業者を待ちながら最後の家の写真を撮ったが、一枚も家の中の写真を写すことはできなかった。そして、次の日。家はなくなった。

『清冽』を読む

若松恵子

子どものための読み聞かせについて雑談をしていた折に、大人だって物語を読んでもらうのはうれしいものだよねという話になった。そして、以前、読み聞かせの企画の事務局で会場に居て、母親のためにと、茨木のり子の詩を朗読してくれた人が居たのを思い出した。その詩がとても心に染みたという思い出話しをしたところ、雑談の相手が、茨木のり子の評伝が新刊で出たということを教えてくれた。早速書店で探し、表紙の茨木さんの笑顔にぴったりな『清冽』(後藤正治著/中央公論新社)という題名の本を手に入れて読んだ。

私にとって茨木のり子は、ずいぶん長い間「自分の感受性くらい」の印象しかない人だったが、『歳月』を読んで以来、その人生が気になる存在であった。後藤氏の評伝は、茨木が言葉を大事にした人であったことを充分踏まえた丁寧な労作で、気持ちよく読むことができた。茨木の人生のいくつかの節目を、関わった人をクローズアップしながら、詩を引用しつつ紹介していく。

原石にカットを入れることで宝石として輝かせるように、様々な切り口によって茨木が描き出されることによって、ひとつの強い輝きを見せてくれたという印象を持った。様々な面が語られるのだけれど、どのエピソードも、茨木の魅力を同じように語っている。

私が感じた彼女の輝きとは、評伝のなかの言葉からひろうと「無頼」ということになる。何かに倚り掛かって生きようとはしなかったということ、戦時中も自由を失わなかった金子光晴に心魅かれていたということ、曇りの無い目でたくさんの詩を読み、優れた詩の紹介者であったということ。一貫して茨木は自分自身であろうとしていた。どこまでも自由に。何ものにもだまされずに。そして「自分」という位置から世の中を見、意味を結晶化させようとしていた。

茨木が石垣りんの作品の魅力に触れて「その体験をみずからの暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく結晶化させたものだからだ」と述べた文章が引用されている。この文はそのまま茨木の詩の魅力にもあてはまるものだ。私も暮らしながら、遠く起こった事件の意味を考えている。”動かしがたい意味”が結晶化されているのを見るからこそ、詩を読んで心が揺さぶられる。そして、「暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたり」しながら考える手法というものに女性性をとても感じ、その点にもとても共感を覚える。

茨木の詩を読むことは、子育て中の慌ただしい暮らしのなかに、しばし静かな時間をもたらしてくれるはずだ。

オトメンと指を差されて(33)

大久保ゆう

よくモノをいただきます。むしろいただきモノによって生かされていると言っても過言ではありません。私の部屋と日常はだいたいがいただきモノか中古で購入したものか借りてきたものか、といった感じで。いただきモノについては、だいたい次のように分類できます。

 1.お菓子
 2.お茶

 3.まめまめしいもの
お菓子については言うまでもありませんが、甘いものの話をいたるところでちょこちょこしゃべっていたら(「ちょこちょこ」とは「たびたび」を表す方言でチョコレートのことではありません)、ことあるごとに、いやむしろことないごとにいろんなお菓子をいただけるようになりました。洋菓子・和菓子を問わず幅広くいただけるので、仕事場のお菓子ボックスはおもちゃ箱のようにいつもあふれております。とりわけこの時期は増えて、チョコレートのお酒なんかもあったりなんかして、食べきるのにだいたい数ヶ月かかったりします。

たぶんこの時期の私に甘いものをやっておけばこの一年おとなしく言うことを聞いてくれるだろうとか思われてるのでしょうが、まさしくその通りなので何の反論のしようもないというかむしろ喜んでなんでも致しますよ、甘いものくださるのであれば。お菓子をくれる人は私にとってはいい人です間違いなく。学生時代の7年間ずっと同じバイトをやりつづけられたのは、その職場にスイーツタイム(午後3時になるとお菓子がもらえる)があったからにほかならないからでしょう。

そんな感じでいただいたモノを毎日しょこらしょこらと食べるのですが(「しょこらしょこら」は「もぐもぐ」を表す言葉でチョコレートのことではありません)、お菓子につきものと言えばお茶ですよね。これも日本茶に中国茶に紅茶にフレーバーティーに、はたまたタンポポコーヒーなどなど、いろんなお茶をいただきます。どれもおそらくは海外おみやげとおぼしきもので、いろんな外国語が記されており、そういったタイ語やらヒンディー語やら中国語やらを辞書片手に読んでいくのが息抜きのひとつでもあります。(そういえばお菓子は東欧・北欧の言葉も多いかも。仏伊もあるなあ。)

しかしお茶の葉はいただいてからすぐに使わないため、しばらく経ってから飲んで「!」と思ってもたいていの場合、誰からどういただいたのか忘れてしまっていて、二度と同じものを手に入れられないようになっております。一期一会。お茶との出会いは一度きりなので大切にしましょう、と、ひこにゃんのご主人の子孫もおっしゃっていることですし。

というふうに、いろんなお茶をここあここあと飲みつつ(「ここあここあ」は品よく何かを飲むことを表すといいなという妄想でチョコレートのことではありません)、まめまめしく日々を過ごすわけですが、そういった生活に必要な実用的なものもいろいろとゆずっていただいたりするのです。今の仕事場ですと、冷蔵庫とか電子レンジとか仕事机とか本棚とか椅子とかあれとかこれとか。仕事を始めるにあたっての初期投資はいただきモノによってものすごく少なく済んだのでした。

もちろんいただいてばっかりではなくて、お金がないので同じような立派な贈り物はなかなかできないのですが、お住まいが近くの人には手作りのものであったり安くても自分のお気に入りのものであったりを差し上げて、遠くにお住まいの方はなかなかそういう機会もないので、こつこつと頑張っていることなどを示すなどして、いつかは何倍にもご恩をお返しできるといいなあと日々思いつつ生きている次第です。

ぺけぺけ(「ぺけぺけ」は当連載でも何度か出てきている執筆擬音です)、しょこらしょこら、ここあここあ。

いつもありがとうございます。

製本かい摘み ましては(64)

四釜裕子

羊皮紙を作った。見た目は極薄のおせんべいのようでかじればパリッと音がしそうだが、表面をなでると極々短いパイルを持つビロードのようななめらかさがある。折り曲げてみる。折っても折っても割れない。裂けない。油性、水性マジックやボールペンや筆ペンで小さく文字を書いたり、やすりで削ってみる。一部を切って水につけてしばらくおいたら、透明になって柔らかくなった。「皮」なのだ。『バチカン教皇庁図書館展』(印刷博物館 2002)の図録を開いてみる。書写の材料としては4世紀頃までパピルスが主であったが、紀元前2世紀頃から小アジアやヨーロッパで羊皮紙が使われ始めたこと、12世紀に製紙法が伝わったあとも15世紀頃までは王侯貴族や図書館・教会の蔵書には羊皮紙が使われていたことなどがある。図版を見ると、豪華な装飾や美しい文字が書写された、その地の色合いに俄然目がいく。

「羊皮紙を作った」と言ったが、下準備の済んだ材料と道具が用意された体験ワークショップでのことだ。場所は東京・赤坂の区民センターで、講師は「羊皮紙工房」の八木健治さん。この八木さんが、おもしろい。ご本業は翻訳で、「羊皮紙」を調べていたら日本ではほとんど売られておらず本格的に作る人もいないことから、自分でやってみるかと作り始めたそうである。今では羊皮紙の製作販売のほか講演なども行っており、その活動を伝えるウェブサイトがこれまたいい。文献に読んだことを自らの手足で確かめるために製作も調査も始まっているから、閲覧する人を羊皮紙の旅に誘い込む力がある。また〈羊皮紙の研究を勝手に「Parchmentology(羊皮紙学)」と名づけ〉たり、拡大したり燃やしたりUVライトをあてたり濡らしたりの実験もどこかユーモラスなのだ。その八木さんを講師に迎えたワークショップを企画したのは「東京製本倶楽部」。1999年に有志11名がたちあげた団体で、会報誌の発行のほかこうしたイベントも多く開催している。

ワークショップは、羊皮紙を触ることから始まった。「これは何だと思いますか?」八木さんが作った羊皮紙が次々に目の前に並ぶ。堅さや表面のざらつき、色などみな違う。「羊皮紙」とは羊と山羊ばかりでなくさまざまな動物の皮で作られているものの総称だ。だから「これらは何の動物の皮だと思いますか」と八木さんは問うている。ホルスタイン柄のような濃淡が見えるのは牛かなと見当をつけたくらいであとは全くわからない。八木さんは黄色っぽいのをさして「これは羊。皮膚に含まれるラノリンという脂肪の酸化で黄色っぽくなる」、ややグレーがかった白いものをさして「これは山羊。よく見ると毛穴が3つずつまとまっているでしょう」。鹿は非常に柔らかくなめらかだ。「羊皮紙」というより「獣皮紙」とでも呼ぶほうがほんとうはいいのだろう。英語ではパーチメント(Parchment)、特に薄いものをヴェラム(Vellum)と言うが、もともとは仔牛から作ったパーチメントのことをヴェラム(ラテン語の仔牛[Vitelus]が語源)と言ったそうだ。ちなみにパーチメントの語源は「ペルガモンの紙[Carta Pergamena]」、ペルガモン(紀元前2世紀に羊皮紙が生まれたとされる。現在のトルコ・ベルガマ)産の羊皮紙をローマ人がこう呼んだことにある。エジプトから得ていたパピルスが不足したペルガモンで、それまで使っていた「動物の皮」をより書きやすく耐久性のあるものにしたのが羊皮紙の始まりらしい。

現在もイギリスやイスラエルなどで作られている。八木さんが訪ねたヴェラムの製造工房のビデオには木枠に張った皮をグラインダーで豪快に削るようすがあり、壁という壁がそのかすで覆われていた。羊皮紙の製法は時代や地域によって異なるが、八木さんは12世紀のラテン語文献にある方法に沿って製作しているのだそうだ。自宅浴室に国内の食肉用の羊を扱う業者さんから買った塩漬けの原皮を広げて製作していく様子を写真で見る。まずは水洗い。塩と汚れを徹底的に落さないと、品質に影響が出るばかりか後で臭いに悩まされるそうだ。次に消石灰を加えた水に浸して毛穴を開き、頃合いをみはからって取り出して手やナイフで毛を取る。脂分をとるために再び石灰水に浸し、さらに浸水。この後、皮を木枠にぴんと張って表面をナイフで削り乾かす。今回のワークショップは、この木枠に張るところからである。

葉書大にカットされ、しっとりと水に濡れた「皮」がビニール袋に入れてある。これを取り出し、縦40センチ横30センチくらいの木枠に張っていく。木枠には12の取っ手があり、それぞれに紐、その先っぽに金具がついている。金具で皮を固定して、取っ手をくるくる回して紐を巻き取りピンと張る。これらの道具もみな八木さんの手作りである。どれも12世紀さながらと思えるようなシンプルな作りだ。ぴんと張った皮に専用のナイフを直角にあて、両面を削っていく。水分や脂などの不純物を搾り出すことでもあるようだ。どれくらいやるのか加減がわからずにいると、「きまりはない、最終的には厚いところの色が濃くなりそれが羊皮紙らしい風合いを生む、ビクビクせずに気が済むまでどうぞ」と八木さん。なるほど。気が済むまで削ったら(といっても数分)、余分な繊維や脂を吸着させて取るためにタルクをふりかけて軽石で磨き、次に白亜の粉をスポンジでこすり付ける。繊維に粉をすり込むことで不透明度を高め、インクののりもよくなるそうだ。全体を水で湿らせ、木枠の取っ手を回して皮をしっかり張り直し、自然乾燥したら紙やすりで表面を磨いて完成となる。

ぴんと張らずに乾かしたものを見せていただくと、くしゃくしゃにした分厚いトレーシングペーパーをテーブルに広げて両手で一度伸ばしたような感じ。放っといたらこんなふうになるのを、縦に横にぴんと張って繊維の流れを整えるのだ。他にも八木さんのコレクションの中から、大小の写本、製作途中の写本、折り畳まれたり穴を生かした公文書やトーラーの断片のほか、パピルス、粘土板に書かれたハンムラビ法典、鉄筆で蜜蝋に書くメモ帳などを見せていただく。中に恐ろしく薄く柔らかな羊皮紙がある。どれだけ丁寧に削ることだろう。逆に、あまりにもしっかり折り畳まれて開くのをためうほどの厚いものもあったが、この折り目は割れも裂けもしないのだ。冊子本には皮の両面を同じように、巻子本には片面だけ、大きい写本には厚く、小さい写本には薄く、公文書には丈夫にと、羊皮紙の仕上げかたはそれぞれ違う。ほんのわずかの体験ながら作業のあとで改めて実物に触れると、古く貴重なモノと思うばかりだった羊皮紙に生気と活気を覚えて身近になった。野を駆ける動物たちそのものと、関わってきたすべての人の息吹なのだ。

1年ぶりのペルーと初めて行ったイタリア

笹久保伸

2010年11月から12月上旬にかけてリマで行われる「国際現代音楽祭」に招待されたのをきっかけに 11月からペルーに来ています この音楽祭は今年で8年目で 在ペルーのスペイン大使館とスペイン文化会館が主催しているため毎年ペルーの作曲家とスペインの作曲家へのオマージュが行われ 国内外から招かれた招待演奏家たちによってそれらの作曲家の作品が演奏される 今年もヨーロッパ各国&南米から演奏家が来ていた

「オマージュされている作曲家の作品は 最低一曲はプログラムに入れて下さい」と契約書にも書かれている しかし 今年の作曲家(スペイン人のほう)は かなりひどかった いわゆる現代音楽祭に出て来るような作曲家ではなく 作風はロマン派&印象派だった ギター作品はスペイン風ドビュッシーみたいな 何かうさんくさい感じで とにかく弾くのが嫌だった

音楽祭の主催者は昔からの知り合いなので直接メールで聞くと「いやー、頼むよ、仕方ないと思って 弾いてくれよ」と言っていた しかし この主催者は一度も音楽祭に顔を出さなかったので 結局音楽祭期間中は一度も合わなかった この人は他に国際ギター音楽祭と、作曲コンクールを主催しているが あまりに手を広げすぎたため 各イベントが適当になり ギター音楽祭の方は問題が起きてクビになったらしい

音楽監督も前からの知り合いなので「あまり 弾きたくないんだけど・・」と聞くと「やっぱりね、どの出演者も皆弾きたくないって言ってるんだよ。まあいいよ、弾かなくて全然OK、だってこれはどうみても つまらんない曲だしね。それに作曲者は君のコンサートの前日に仕事でスペインに帰ってしまうから、問題ないよ」と言っていたので 結局弾かなかった なら契約書に書くなよ と思ったが・・

一方オマージュされているペルーの作曲家Francisco Pulgar Vidalは以前からの知り合いでEdgar Valcarcelを通して知り合った 彼は作家でもある ギター作品はこれまでに書かれていなかったので 今回は弾く作品がないなあと思っていたら せっかくだから何か書いてくれるという事になり 書き始めたが「オマージュ」という事で 色々な所からインタビューや講演など引っぱりだこになり ストレスだろうか 音楽祭前に脳卒中で倒れてしまった 彼は81歳 よくある事みたいだが 年配の作曲家がオマージュされると 大体死んでしまう Edgarl Valcarcelもオマージュされたとたんに死んでしまった

倒れてしまったので 彼のギター作品は夢と消えた かと思っていたが 何と 倒れた日の午前中に作品を書き終え 国立音楽院で働いている写譜屋の所へ譜面を持って行っていたらしく 写譜屋から譜面をもらった 数日して倒れたFranciscoを訪ねたら ベットで寝たきりだったが 思ったより後遺症はひどくなくて 記憶もわりとはっきりしていて私の事も顔をみてすぐにわかってくれた 書き終えた作品の事をだいぶ心配していた 言葉はよく聞き取れないが 何とか会話もできたので そこで新作を弾いてみてコメントをしてもらった コンサートの日は(初演の日) 必ず聴きに行くからと言っていたが やはり来なかった そのコンサートではSylvano Bussottiの1999年の作品(ギター作品では一番新しい)Ermafroditoも演奏した もしかして南米初演かな と思っていたが イタリア人ギタリストのElena Casoliが2010年にコロンビアで演奏していた と後で知った 今日 2011年2月22日 作曲家Fransiscoと会ったが だいぶ回復していて 歩けるようになっていたし 昔ルイジ・ノーノがリマに来て 会ったときの思い出話などをしていた

1年ぶりにペルーに来たが ペルーは今 大変貌中であると思う リマに限って言えば この10年本当に大きく変わった しかし 貧富の差はもの凄い さらに大きくなるのではないだろうか

金持ちは 超金持ち 高級車に乗って プール付きの家に住んでたりする 夏には浜辺付きの家を買ったりする 海を買ってしまうという発想が ペルー的で笑える(本当は笑えない) どうしてだろう 何をしたら一体こんなに金持ちになれるのだろう と興味を持って 色々な人に聞いてみると 鉱山で金を掘っている とか 麻薬を売っているとか そういうのが多い

一方貧しい方は何も持っていない 今回もだいぶ田舎を旅したが ある村で土木作業員が近くにいたので彼の給料を聞いたら 4日で20ソーレスと言っていた つまり給料が1日180円くらいという事になる 180円(5ソーレス) リマでは ランチ一食分 バスには5回乗れる 一般観光客がリマで泊まるようなホテルは1泊約80ドル 私がその村で泊まった所は1泊180円

自分には 超金持ちの友人もいる 一方とても貧しい友人もいる その狭間と言うのは 辛いが これがペルーなのだろうと思いつつ 何もできない 目の前にいる貧しい人 物乞いをしている人に100円あげても どうにもならない 道を歩けば格100メートルごとに物乞いがいる 無力

いまやペルーで最も重要な観光地であるクスコでは 外国の企業家が土地を買い占め高級リゾート地を作っている 1泊400ドルとかいうホテルもざらである ペルーの物価から言えばとんでもない額だが 無論そこに行くのは外国人観光客

アヤクーチョのある村で25歳の夫婦が「外国人はペルーに来て、ペルーはいいね、何でも素材があるし、安い、パラダイスだ、とよく言うが、我々にとっては全然パラダイスではないね むしろ最悪な国だね」と言っていたのが印象的で 確かに 全然パラダイスでもないし それどころか その国の田舎に住んでいる彼らはまっとうな生活すらできていない 搾取され それで終わり

外国人的視点で見ると ペルーは地理的に アンデス、海岸、アマゾン 3地域があり 食材は大変豊富 天然ガス、石油、鉱山(金、銀、他) 何でもあるじゃないか と思うが しかし 根本的に それらを使って商売ができる人間というのは限られている そこでも また 金持ちが さらに金持ちになる というシステムが出来上がる 大体 物(資源)があっても 日当180円の農民 教育を受けていない貧しい農民が その資源を利用して田舎の村が経済成長する などという事はまずあり得ない 音楽や文化を見ていてもそれを感じる 物(素材)は大変豊富だが それを使って何をすればいいのかすら考える余裕がなく ただ単にその瞬間にパッと売れる音楽やお土産品を作る というアイデアが発生する

ある村では「鉱脈が見つかれば 村なんて簡単に乗っ取られる それに反対すれば殺される、相手が機関銃持ってるのに こっちは石でしょ どうしろっての?」とも言っていた これじゃあ反体制派のテロ組織が生まれても不思議はないだろうなと思った 実際そういった田舎の若者には 毛沢東、マルクス、レーニンの思想に夢を見て 革命を起こしたい と考えている人もいる そこには彼らが他の一般教育を受けていないので それ以外のインフォメーションを一切持っていない という事実もある つまり「今の政府は悪い このままでは我々は永久に貧しい 政府からは忘れられている 毛沢東やマルクス以外に我々の生活が良くなるシステムは存在しない」センデロの思想以降は 潜在的にそうインプットさせられている傾向がある これも田舎の村々に学校ができて ちゃんとした先生が田舎にも行くようなシステムにならないと変わらない

また90年代にフジモリ大統領の行ったセンデロ掃討作戦によって 実際に彼らの親や親戚が虐殺されているため 反フジモリ派はもの凄く多い 当時は 軍が村に行っても誰がテロリストで誰が一般人だか判断できないので とりあえずその場にいた人を全員殺害したらしい ある村は 男は全員殺害されたり 村が消えたりもしている テロリストに協力しない者はテロリストに殺害され 軍が来たら軍に殺害された 「フジモリのせいで一体どれだけの孤児が生まれたと思う? 大統領が最大の殺人犯だ その娘が今度大統領選に立候補している この村に来てみろ!」と言う人は少なくない 首都と そういった田舎では色々な意味で天と地ほどの隔たりがある

一方 旅先で聞いた話 ある村ではコカのお祭りというのがあり(この場合の「コカ」は葉っぱの事ではなく コカインの事) お祭り期間は村中でコカインを吸っている 通称TIERRA DE NADIE(誰の土地でもない=無法地帯)と呼ばれるこの地域は 畑一面にコカの葉を栽培して コカインを作り アメリカをはじめ世界各国に売っている こう書くと なんだか秘密情報っぽいが そこら辺の人は誰でも知っている事で 宿泊した宿で働くおじさんが言っていたが「いや〜あそこは凄いよ 飛行機が飛んで来るんだよ、それでさ、空から箱をポンッと落とすの、お金が入った箱 今は センデロが麻薬組織のガードマンをしてるから 皆武装してるのよ 警察なんて文句言ったらすぐ殺されちゃうんだよ そういうのってニュースにも出ないから 地元民しか知らないんだけどね まあとにかく色々あるのよ」これもまた田舎の現実で 貧しい人々が見つけた手っ取り早い収入源である しかし それすらも誰かが後ろで操り 搾取しているというのが現実 誰かはその日生きるためにコカインを作り それによって誰かは儲かり 誰かは廃人になったり  また誰かは死んだり 誰かは殺したりしている 他人事ながらかなり重いテーマである&人間全然平等ではないという現実を見た

旅をすると色々な事を学びます よく「かわいい子には旅をさせろ」といいますが 本当にかわいい子には あまり旅をさせないほうがいいような気もします 旅による とでも言いますか「知らぬが仏」という言葉もあります

自分は当初何も知らずに演奏家としてふらふらと旅をしていましたが 旅とは 本来そういうための事ではないと知りました 旅の途中の道路で 目の前のバスが横転した時は 運転手と一緒にそのバスの乗客の救出に行き 横転したバスから子供を引っ張りだしたり ひもでバスを起こしたり 途中で土砂崩れがあれば 雨の中スコップを持って 道路整備を手伝ったり 走っている車のタイヤが外れれば 修理を手伝ったり もはや演奏家である事などは一切忘れ 生き残る事だけ終止考えていました 次回は是非 バスではなく歩いて旅したい とすら思いました 基本的に飛行機での旅では現状をよく知れない 車でも スピードがとても早い よく知りたいなら 徒歩が一番 自分がこう書いても なかなか理解はされないでしょうが あれを見ればわかります 今回はLimaからPuquioという町へバスで行き そこから色々な村にふらふら寄りながらHuamangaまでたどり着き その後Sarhuaと言う村に行きました

この旅の前には 12月後半から1月までイタリアに行きました これはまた色々な意味で別世界でした 私は近年Sylvano Bussottiの作品に興味があり 演奏会のプログラムに入れていましたが ぜひ本人に会ってみたいと思い ミラノに行きました イタリアの事は何も知らないので指揮者の杉山洋一さんを頼ってミラノに滞在し Bussottiと会い 作品について教わる事ができました 作者に会ってみて だいぶ作品への印象も変わり 弾きやすくなりました 杉山さんのおかげで ミラノでコンサートをさせていただく事もできました コンサートの一部ではSylvano Bussotti作品だけを弾き 作者本人にも来て頂きました またギタリストのElena Casoliさんもコンサートに来て下さり 知り合うことができたのは とてもうれしかったです ミラノのLimenMusicでは高橋悠治作品とBussotti作品、ペルー音楽を録音し ネットで動画が配信される予定です

観光目的で行ったのではないので 一切観光はできていませんが いつか経済的に余裕ができたときは ぜひ観光もしてみたい と思います

ミラノに着いて数日したある日 ローマに住んでいるペルー人の文化活動家から突然メールが入り ローマでコンサートをする事になりました ペルーを代表するアンデスの村出身の作家Jose Maria Arguedasは今年で生誕100年で世界各地でオマージュが行われています ローマのカピトリーニ美術館でもArguedasへのオマージュがあり そこでコンサートをしました 今回お金に余裕もなかったですしローマに行ける予定は全然なかったので 演奏で招待される事ができてとても幸運でした ローマでも観光はしていませんが 演奏したカピトリーニ美術館は少し見る事ができてとても素晴らしい美術館でした

ローマには イタリア人でありながら40年近くアンデス音楽を演奏し研究している人達がいます Trencito de los andes(現在はIl Laboratorio delle Uova Quadre) というユニットです CDや噂でしか知らなかった彼らと連絡を取り 会う事ができました 彼らの家に行き パスタを食べながらだいぶ話しましたが アンデス音楽を まったく異なる視点から考え(考え続け)「超アンデス音楽」を作り上げている人達であるという事を知り大変驚かされました 今のアンデス音楽のレベルから言えば 彼らのやっている事 考えている事というのはあり得ないようなレベルで 誰もあんな仕事はできないし 真似できないどころか 何をしているのかすら なかなか理解されないような事をしています 頭のいい物理学者と哲学者がアンデス音楽を考えているような そういう感じ こういうタイプ こういう方法が存在するとはそれまで考えもしなかったので とても参考になりました

印象的だった彼らの言葉は「100年以上も前から世界中の研究家がアンデスへ行きアンデスの素材(石)を探している 始めは石拾いがとても面白いが 次第にそれを基に何かを作り上げるという作業があまりに難しいという事に気がつき 皆あきらめ 別の事をする もしくは石の標本を作って終わりにする(採集、採譜) しかし そんな採集した物は 結局役に立った事が無い 我々は 拾った石ころをただひたすら磨く 磨き上げダイヤモンドに仕上げる もしくは彫刻する というような作業を長年してきた」

彼らは自らが採集したアンデス音楽を極限に再現するために Partitura Micronia(ミクロ楽譜)と言う 新しい記譜法を発明した それは3枚の譜面が6秒足らずの時間で流れると言うもので 生演奏は不可能 多重録音によって行われた彼らの録音でしか聞き得ない音となっている 録音主義者で 常に前人未到な完璧な録音を残して来ているが ヨーロッパ各地 南米各地でも公演を行っている

こうした 偶然の重なりで イタリアでは 現代音楽とアンデス音楽を勉強しました イタリアでの思い出は他にもたくさんありますが 中でも ミラノの「タマネギパスタ」と「人参パスタ」は鮮明に印象に残っています

掠れ書き 10(『カフカノート』の作曲)

高橋悠治

ある夜帰ってきてコンピュータの電源を入れるが立ち上がらない。奇妙な音がして内部で空転している。デジタル機器は思いがけなく突然壊れる。アナログのようにしだいに動きがわるくなり停まったりうごいたりをくりかえし最後にまったく停止する前に取り替えたり何らかの手を打つ余裕があるのとはちがって、1か0かというふうに、何の前触れもなく完全に使用不可能になる。こんなことがこの器械では以前にもあったが、今度はハードディスクが壊れてデータが取り出せなくなった。作曲しかけていた『カフカノート』はバックアップを取っていなかったので最初からやり直しになる。

こんな事故をきっかけにちょっと休んで頭を切り替えるあいだにちがうことを思いつくかもしれない、というほうに賭けることにすると、まずテクストの訳は、メールでひとに送ってあったものを返送してもらい、最初と最後の断片をちがうものに変える。それからその訳文からさかのぼって原文を読み込み、ドイツ語と日本語のテクストをそろえたところで、また作曲をはじめる。歌のメロディーだけはプリントアウトしてあったが、ピアノのパートは失われたものを記憶に頼って再現すると自分のコピーになるので自然な流れではなくなってしまう。最初の断片を取り替えたので、作曲は失われたものとはちがうところからはじめることになる。ちがう始まりかたをした音楽の流れは、以前の音楽とおなじものにはならないだろう。

1970年代までは作品全体の構造をまず考え、要素や構成を決めてから細部を書き出すという手順で作曲していた。その時代の音楽の作りかたでもあったし、それが古典的な作曲法でもあった。全体の設計図にしたがって家を建てるようなもので、物語の最後を想定してそこに運んでいくための出来事の流れをくふうすることもできるし、いつも全体の構図が見えているなかで作業をしている、いわば視覚化されたやりかただった。カフカのノートはそれとはちがう、暗いトンネルを掘り進むようなもので書く勢いにしたがって物語がどこへいくのかは作者も知らない。アルチュセールのたとえで言うと「すでに走っている列車に飛び乗る西部劇のヒーローのように目標もシステムもない出会いの唯物論」ということになり、マトゥラーナのたとえでは「設計図もなしにそれぞれの場所で作業をすすめる舟大工がそれとは知らずに造りあげる一艘の舟」となり、さらに別なたとえでは、廻りながら軸がずれていく独楽、または刑務所の塀の上を追手のいる内側にも通報を受けた警察の待ち構える外側にも落ちないで走り続ける脱獄囚でもいいが、音の流れが停止するまでの音楽の時間を手探りですすんでいく触覚的なプロセスにだんだんと移ってきた近年のやりかたでは、手近にある音楽を、それは聞こえてきたものでもいいし、すでにある音楽の一部でもいいが、その場で変形され引用され埋め込まれたパロディーとなって、道を歩むのと同じ速度で作曲もすすんでいく、作者が上から全体を俯瞰するような特権的な位置にはいないから、一つのフレーズから次のフレーズに移る差異以上の全体の地図は存在しない。音を編む作業が最終的に停止したときに地図はできるかもしれないが、聞き手のなかに記憶されるような全体像ではなく点在する瞬間の束の記憶、それも一つとしておなじものではない記憶だけとして残ることを願っている、そのようなものとしてはっきり像を結ばないが「気がかり」Sorgeであるような何か。ベケットの最後のテクスト「何と言うか」Comment dire に書かれているような失語症的言語、思い出せないが循環し、遠くにかすかに見える「あれ」、ただどのような意味でも目標や救いにはならず、透視画法の無限遠点それも複数の点として散乱する道をひらくための。

ただ一方向に直線的にすすんでいるわけでもなく、立ち止まり振り返り曲がるだけでなく、以前のどこかの地点に戻ってやりなおすこともあるだろうが、さかのぼってそこからまたすすむ場合は、同じ道をおなじようにすすむのではなく、今まで見えなかった脇道に曲がってそこからちがう方向にすすむこともあり、循環するのは同じ水ではないばかりか、おなじ水路でもないかもしれない。何回も曲がっていくうちにどこへ行くのかもわからなくなり、すすんでいるのかもどっているのかもわからない。古典的な主題も動機の展開も変奏もなく、偶然の出会いから逸脱をかさねて主体も対象もないうごきそのものになっていく。これがエピクロス的クリナメンとオートポイエーシス的自己創出を重ねあわせた運動、カフカ的に言えば落ちながら跡を曳くうごきということになるだろう。階段を転げ落ちていくオドラーデック。

脈絡のないように選んだ断片からさらに抜き書き:「何もない、ことばを横切ってくる光の名残。」「だんなさま、どちらへお出かけで?」「知らない、ただ行く、出ていく。どこまでも行く、そうすれば目的地に着く。」「目的がおありで?」「ある、「言ったはずだ、”出ていく”、のが目的。」「食糧ももたないで」「いらない、長い旅だ、途中で何もなければ飢え死にだ。もっていても助からない。幸いこれこそ果てしない旅だ。」「長い、長い未完成のものの列。」「ひとことだけ。願いだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きて、待っているしるしだけ。願いはいらない、呼吸だけ、呼吸はいらない身振りだけ、身振りはいらない思うだけ、思いもなく静かに眠るだけ。」こうしてまた書いている。