犬の名を呼ぶ (6)

植松眞人

高原が迎えに行くと、聡子はすでに帰り支度を終えていて、まっすぐにブリオッシュの元に走り寄ってきた。ブリオッシュは決して吠えたりはしない。ただ、尻尾を力強く振るだけで聡子と会えた喜びを伝えようとする。
ブリオッシュはすっかり幼稚園の人気者だ。母親が迎えに来ても、ブリオッシュが来るまで帰ろうとしない子供もいるらしい。ブリオッシュを連れて、聡子の送り迎えを始めたころ、その大きさに驚いて泣き出す子供や「吠えたり噛んだりしませんか」と不安気に聞いてくる母親が何人かいた。
しかし、目の前のブリオッシュを見れば、どれだけ大人しい犬なのかは誰にも明らかだった。特に子供たちは、大人たちが不安がるのを横目に、すぐにブリオッシュの周りに群がるようになり、「ブリちゃん」「ブリオッシュ!」と声をかけ、身体を撫でまわした。ブリオッシュはそんな子供たちに、一瞬たじろいだのだが、すぐにこれも定めだ、とでも言いたげに高原を一瞥すると、哲学者のように寝そべって、子供たちに身を任せた。
聡子は自分を迎えに来るブリオッシュが誇らしいのか、少し自慢げに傍らに立ち、同級生たちに「あんまり強くなでなでしないで!」などと言ったりする。高原はそんな孫が、友だちから疎まれたりしないように、なるべく送り迎えの時間を短くするように心がけているのだった。

ブリオッシュが散歩の直前に脱走する、という事件から一週間が経った。あの日、あんなことをしでかしたのはどこの誰だったのか、というふうにブリオッシュは高原に従順だった。「待て」と声にしなくても、高原が散歩の用意をしている間はじっと玄関に伏せたまま待っている。そして、用意が終わり、高原がブリオッシュに視線を向けると、すくっと立ち上がるのだった。
風が吹いて、ブリオッシュの足下をスーパーのビニール袋が転がり抜けていく。カサカサという音が後方へ流れていく。ブリオッシュの視線が一瞬、その音の方を追う。それでもブリオッシュの歩く速さは変わらない。いつもの小さな公園をブリオッシュは立ち止まりもせずに歩いていく。高原がリードを引けば、ブリオッシュは必ず立ち止まることはわかっている。しかし、高原はリードを引かない。
「今日は思った通りに歩いてみろよ」
高原はブリオッシュの背中に言う。ブリオッシュはその声を確かめたかのように歩く速度をあげる。高原とブリオッシュの間のリードがピンと力を持つ。高原はブリオッシュの行く先に自分が影響を与えないようにブリオッシュの歩みに自分の歩みを重ねる。リードが少したわむ距離で高原はブリオッシュの背中を見つめて歩く。
いつもの公園を過ぎ、あの日、脱走して行った方をブリオッシュは目指した。
「そっちか、そっちへ行きたいのか」
高原が声をかける。ブリオッシュはなにも答えず歩き続ける。静かな住宅街を抜け、古びた商店街を抜け、大きな公園のある通りへと出た。公園の隣には公民館のような建物があり、ブリオッシュはその脇の坂道を上っていく。
「ブリオッシュ」
高原は小さな声で呼びかける。ブリオッシュは立ち止まりも振り向きもせずに、ワン、となく。しばらく、高原は黙ったままでブリオッシュを追って坂を上る。
「ブリオッシュ」
高原はもう一度、犬の名を呼んでみる。ブリオッシュはもう一度、ワンとないて歩き続ける。その後ろ姿をみながら高原は思う。お前にはちゃんと生きたい場所があるんだな、と思う。
そろそろ聡子を幼稚園に迎えにいかなくてはならない時間だ。しかし、高原は今日はもういい、と考えていた。一日ぐらい自分が迎えに行かなくても、誰かがなんとかしてくれる。そんな気持ちになってしまっていた。
「ブリオッシュ、行きたいところへ行け。今日はとことん付き合ってやる」
高原はそう言うとブリオッシュとの間合いを詰めた。ブリオッシュは詰められた間合いの分だけ速度を上げる。
公民館の脇の坂道を上がりきると、ブリオッシュは左に折れた。高原は不意をつかれてそこに立ち止まっている。リードが張られ、高原がそれを手放してしまう。ブリオッシュは持つ者がいなくなったリードを引きずって数メートル先を歩いてから、リードを引きずる音に気がついて立ち止まる。ブリオッシュはそのまま逃げたりしない。高原の方に戻ってきて静かに足下に座る。高原は思い立ってブリオッシュの横にしゃがみ込んで、リードを外してやる。条例だなんだとうるさい世の中だが、誰かが近づいてきたら、しっかりとリードを握っているふりをすればいい。付かず離れず距離を保って歩いていれば、きっとリードあるように見えるだろう。高原はそう思いながら、ブリオッシュの背中を軽く叩いて小さく叫んだ。
「行け、ブリオッシュ」
ブリオッシュが立ち上がる。周囲の空気が微かに動く。高原は鼻先に、遙か彼方にあるはずの海の匂いをかぐ。

オトメンと指を差されて(52)

大久保ゆう

【ここから】

何の話をしていたんでしたっけ。

そうそう、マイノリティの話なのですよ。このエッセイのそもそもたるそもそもは、何だかテキトーな感じで、ぐるぐるその場をめぐりながら、申し訳程度に真面目なことも挟みつつ、時にははっちゃけたり頭がおかしくなったり、世のなかの隅っこでそれまで定義されていなかった人物が、何かしらの言葉を与えられて、とりあえずはしゃいでいるような、過剰なホントと言わないウソに彩られたアレだったのですね。

わたくし、大学学部生のとき、今はホラー作家もなさっている先生の怪物論・モンスター論ゼミに3年間ほど出ておりました。そこでは怪物とは何か、化け物とは何か、恐ろしいモノとは何なのか、というようなことを取り扱っておりましたのですが、そのなかのひとつにこういう定義がありました。

人は何を怪物とするか。

それは人の世にすでに定められた境界、それを外れるもの、あるいはそれを侵すもの、はたまた崩そうとするものが、そう呼ばれるのだと。そして人はそれを、恐ろしがり、気持ち悪がり、蔑み、忌避する。既存の理非を乱すものとして、世の秩序を混ぜっ返すものとして。

うろ覚えに思い出してみるとそんな感じで。そんなわけで、「怪物を倒す」ことは安定保守を意味するのですけれども、それは同時に怪物視されたものへの差別でもあるわけで。とかく感情的だったり運動的だったり、交錯する場は破壊的にもなりがちで。

とはいえそれさえも無効化する、あるいはどこか平和的に変えてしまえるものがあるとか何とか。確か〈笑い〉であるとか何とか。

笑いというのは、基本的に・技術的に、何かと何かの落差によって作り出されるものなので、境界線上のものとも言えましょうし、同時に境界をぐらつかせるものでもありえますよね。しかし〈笑い〉は永続的なものでもなく、同じ事を繰り返していると、いつしかつまらなくなり、陳腐になり、どうでもいいものを経て当たり前のものとなります。

しかし、そこにこそ受け入れられる道があるというわけで。

怪物と名指しされてきた者たちの歴史では、あえて自分を笑われ者として、秩序の際で踊りふざけ、恐怖や忌避を滑稽に転じさせ、そして滑稽を腐らせることで、境界そのものを馴ら=均していく。その過程でバカにされたり嘲笑されたり嫌われたり、もしかすると傷つくこともあるかもしれないし、それどころか心臓に毛が生えるかもしれないのですが、積極的に前へ出ていって解決を図ろうとすることは、ただ声を上げる以上に闘士的ではありますよね。

そういえばゼミに出ている期間、わたくしは現実世界でそのような人たちに大勢出逢ったのでした。たとえば、車椅子の上の、または、世間では異装とされる服をまとった――

むろんそういった人たちを前にして「笑ってはいけない」と声高に言う人もいるのですが、やり方を間違えば境界を強化するだけですので、やはりわたくしとしては隣人としてエールを送りたいわけなのです。

だからつまらなくなることは、ひとつのゴールであり、スタートなのですっ!

というわけでわたくしもお菓子食べて奇声を上げるだけでなく何かさらにレベルアップした笑いを何かしなくちゃいけないのでしょうが南瓜プディングがおいしすぎてそんなの無理ですぎぇええおいしいぃい。

【ここまで言い訳】

記憶と夢

大野晋

清水玲子の「秘密」が完結した。

殺人事件などの凶悪事件を捜査するために開発された死者の記憶を再生する装置を使った科学捜査をする捜査員を主人公にした近未来SFハードボイルドだ。死者の生前の記憶を辿る捜査を指して、他人の’秘密’に触れる行為の善悪などを織り込みながらストーリーが進む構成だったが、とうとう終結を迎えた。それなりに、影を残した結末に何を考えるかは読者の気持ちに任せるべきだろう。

実はこの作品は、丸の内の松丸本舗で発見し、その足で階下の丸善で大人買いをしている。非常に衝撃的な出会いだったと今思い起こしても新鮮だった。なので、ストーリーはそれこそ秘密である。ぜひ、各自でどう感じるのか、知りたいものだ。

「秘密」は人間の頭脳の中の記憶を取り出すというものだが、実際の脳の仕組みを考えるとそう簡単にいくようには思えない。まあ、その部分がSFなのだが。

人間の感覚に直接うったえるという意味では、仮想現実感というものがある。おそらく、感覚器を経ずに、直接脳に仮想の感覚を与えれば、よりリアルに現実以外の経験を与えられるはずだ。そういえば、そうした仮想現実感に実際の人間に与えられた危害を使った犯罪という話では、道原かつみ+麻城ゆうのジョーカーシリーズに「ドリーム・プレイング・ゲーム」という作品があった。こちらの方は、仮想現実を受け入れる方は、ある意味、ほかの感覚器はお休みなのだから、どちらかというと寝ていて夢を見る感覚に近いのだろう。しかし、そのために、再生用の感覚情報を得るために実際の人間に対する暴力行為を伴うのならやはり犯罪というべきだが、ある意味、ゲテモノやホラーなど怖いものを体験したい人間の性を考えると意外と確信をついた犯罪だといえるのかもしれない。

もう少し平和な夢の話なら、女性SF漫画家の先人のひとりである竹宮恵子の「私を月まで連れてって!」に「夢魔=ナイトメア」という話がある。

それこそ、仮想現実感どころか、自由に各自の欲しい夢を見させる機械の話だが、やがて、人がその夢の中に逃げ込もうとするという結末になっている。とはいえ、この「私を月まで連れてって!」自体は宇宙飛行士と少女のラブストーリーという全くのファンタジーなのだから、これはある種の皮肉とも言えるかもしれない。

夢を見る機械に入って、現実に戻されるという話は、多くのストーリーテラーを魅了するものらしく、寺沢武一の「コブラ」の冒頭。普通の生活をしていた主人公は、ドリームマシンで見た夢から、消し去っていた記憶が戻って、海賊コブラとして宇宙に飛び出していく。これなどは、現実が夢よりも、夢のような世界ということで、スペースオペラの幕開けとしては相応しいのだろう。

夢と記憶を巡っての思索の旅、ちょうど、夢のようなブエナビスタ・ソシアル・クラブの曲も終わったところでお開きにしましょう。

犬狼詩集

管啓次郎

  91

農村を異世界とする生き方に切実な限界を感じた
夕方になって湖と鉄道の駅がやっと見つかることがある
その団体は非合法であるときだけキラキラ輝いていた
あの山が父あの山が母と長い髪の女歌手がつぶやく
島にわたった時ついザリガニのサラダを食べ過ぎた
Birthday Libraryという巨大アーカイヴに明日からこもる予定だ
受ける側が虫眼鏡を使わなければ詩に火がつかなかった
都市のモラルを商業から解放することが必要でしょう
民話と精神分析を語る彼はどうもいつも話が浅かった
忍者ガール対ヤンキーガールという演劇を本気で商業的にやっている
影そのものが空中を飛んでいることで鳥が驚くのがわかった
アストロボーイの不安はいつもいつも敵の不在のせいではないらしい
記憶としての私は本になったがあまりに落丁が多かった
レミングの群れの自殺を有名にした映画をどこかで観たいと思う
川に印画紙を沈め釣竿でフラッシュを焚いて流れそのものを映した
国の分割は一種のフィクションだから二枚の写真のように並べ直せばいい

  92

戦える戦士が少ないので壁にたくさん描いて数を補った
光がさす角度から考えるならありえない輝きが見えている
歴史というと必ず誰かを悪者にして説明した
正しい者だけに入室を許すのでここには誰もいない
目を閉じなければ真実は見えずしたがって本は永久に読めなかった
瞳を閉ざすなんて解剖学的にいってどうにも不可能でしょう
蜜蜂の巣箱を並べて神と家族を経済的に支えていた
真実を語るために三角形の目を空中に仮定する
たんぽぽの黄色ひまわりの黄色のあいだでブンブンと勤勉に働いた
羽音が祈りなのだからかれらはそれ以上に司祭を必要としない
すべての女に聖母を見なくてもすべての子は彼女の子だった
植物の紋様のある砂岩で地面をていねいに覆ってゆく
苺を潰した果汁で胸を染めるとてきめんに激烈な痛みが生じた
汗のしずくがすべて緑になるとき世界が許してくれる
トラキアから来た兵士が日射病でばたばたと倒れていた
ひたすら写本に努める修道女の似顔絵を記憶に頼って描く

  93

渓流の一部をせきとめ鱒を養い岩塩をふり焼いて売った
なぜそれが俳句なのかすら説明できないまま花の犠牲を出す
驚くべき雲の科学だが撮影は非常にむずかしかった
こんな山奥で羊たちの朗らかに臭い群れとすれちがう喜び
古い時計の呪縛により小学生のころ友達に与えた傷を思い出した
溶けた蝋を燃やして煤の香りと記憶の蒸発を楽しむ
ドイツ人が売るコーヒーにトルコ人はなじめなかった
金髪の娼婦たちの前をフォークソングをうたいながら通り過ぎる
雨が降りはじめたのでオペラハウスで雨宿りをした
彼女の爪を見ていると見る見るうちに琥珀に変わる
チューリップといっても球根を食用にするものだった
砂糖を匙にすくいわざと焦がして目を覚ましてみる
小さなトイ・ブルドッグが人の靴にじゃれついてとても危険だった
瞳の色がプラスチックに左右されて歴史がまた欺かれる
血と乳とブラックベリーの果汁を混ぜて独特な色を作り出した
一九五二年の海水浴の写真に何かを置き忘れたことを思い出す

  94

周囲のすべてが風に吹き飛ばされたようにさっぱりして暗かった
海岸に海が見えない防潮堤を作るなんて目に見える狂気だと思わないのか
眼球を失った犬をもう一頭の犬が紐をくわえて導いていた
少し雨が降っても気にすることなく地下鉄の駅まで歩いてゆく
流木を集めてそれを平原インディアンのティピーのように組んでみた
空に町を建てることは普遍的欲望で地表のいくつかの場所で実現される
泣くなよ泣けば氷が溶けるここに氷があると男がいった
マイクル・ジャクソンの声を聴くたびにある種の悲しみがこみあげてくる
その時代には世界的に砂糖が高価で人に虫歯がなかった
太陽をモチーフにしたあらゆる歌をメドレーにして歌いつづける
光があれば空虚を青として知覚するのがおもしろいと思った
すり減る靴底のバランスの悪さをアンディ・ウォーホルのTシャツで補正する
友人が撮影した「故郷の川」に失われたすべてが映っていた
少し遠いが山形か盛岡かカッセルの駅前広場で待ち合わせることにしよう
友人の先日終わった生涯について証言できることが少なくて愕然とした
「私のことを忘れないで」という声で目覚めるが誰の声なのかがわからない

  95

人生を順調に終えたあと腐らない死体として展示されるのが悲しすぎた
平原の夏がブラックベリーの震える海として押し寄せてくる
彼女が世界をさびしいと感じることに深く共感する小学生たちがいた
イルカが背びれを見せて大西洋の一部を航行する
噴火口にカルデラ湖を見るとき突然流氷とクリオネを思い出した
鹿の食害というが人の食害や残飯ほどひどいものはないだろう
木の机に刻まれた渦巻模様が苦しみも退屈もまぎらわせてくれた
ベオグラードの「学生広場」のベンチで無料接続で過去にメールを書く
見えない迷宮だから道を踏み外すたびに耳鳴りが道を教えてくれるのだった
ガラガラをばかみたいに熱心に振るとナマズが騒ぎ出す
地震と連動するかたちで富士山が噴火すれば東京は終わり詩と舞踊は残った
きみとアクラシアを論じて統治術の不在を嘆く
湖に百年ほど潜ってみると必ず全身が塩の結晶におおわれた
一面のひまわりの利用法を考えUNTERSHRIFTのためのインクを考案する
息だけで電球を点すという老人を見に行ったらインチキだった
ターコイズ・ブルーの嘴の小鳥に明日午後の運命をそっと教えてもらう

  96

閉じ込められることを嫌う魂が霧にうまく乗り拡散していった
夢の接近を感知して胡椒をわざと使って目を覚ます
星を呑む夢と虹を吐く夢が同時にやってきた
寒い秋に対抗するように最近必死で獣脂を食べている
魚が獲れないせいで幽霊のように痩せこけた羆が夕陽を背に立っていた
滝の音としぶきを背景にぐるぐる回りながら詩をつづけて読む
弟は架空のひとりだから仮に百人いてもかまわなかった
ターコイズ・ブルーの嘴をもつ小鳥に心と歌声を奪われる
寒い土地に住んだことがなかったせいで心が強く育たなかった
温暖な島を点々と暮らしてそれぞれの歌を覚えればいいのに
仕事というと縦縞のシャツを着て銀色の腕時計をしていった
引退が近づいたからこれからは横縞襟無しのシャツしか着ない
「未来」とは何か暗い気配がする方向なので道に迷わなかった
空しさとは公理だから人生にそれを嘆いても仕方がないでしょう
あまり品の良くない二人の若い女が老人にコーヒーをねだっていた
名前に巧妙に鳥を忍び込ませることの必要、鳥の一般的必要

暮夜へ

璃葉

気付けば夕陽は向こう岸を柔らかく包んでいた

さて、どうするか
足元にちらばった惑星と星粒を
谷底へ落ちてゆく針雨
青燈光る空き部屋、砂鉢
壁の奥で息を潜める文字盤
全て千切って 千切って
箪笥の奥へ押し込んだ
引き出しから溢れる透明なこえ
喧しくわたしを呼ぶ粒子
思い出の宴はもう終わったのよ

濁ったフラスコの中
汽笛を合図に散らばった欠片達が
蒸気となって空へ上っていったとき
目に映る情景はずいぶんと澄んでいた
箪笥にはカギをかけて
鎧に身を包んだ暮夜へ放り込んでやった
カギはいつか偶然
おなじペーソスを感じたたびびとに渡してみようかしら

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しもた屋之噺(130)

杉山洋一

目の前に美しい満月がぽっかり浮んでいます。まだ落葉が始まらない庭の大木の枝葉の影から、薄氷のように棚引く雲の淡い白が、こぼれるような月の明るさを際だたせます。沸き立つように溢れる光が、漆黒の夜空全体にひろがる姿は圧巻で、行灯の色はこんな月に憧れて生まれたものでしょうが、柔かく淡い色合いと思い込んでいたのはまったく見当違いだったことを知りました。ここ数日めっきり冷込みが厳しくなり、夜明け前の外気は0度を下回るかも知れませんが、目の前の庭では小鳥が静かにさえずっています。

昨日レッスンに出掛けると、普段は笑顔で迎えてくれるサンドロの表情が少しくぐもっていて、「今朝ルチアーナが死んだのは知っているかい」と重たい口を開きました。ルチアーナとはルチアーナ・アッバード・ペスタロッツァのことで、彼女はミラノのみならずイタリア現代音楽界の母親的存在でした。クラウディオ・アッバードの実姉にあたり、長きにわたりリコルディ出版の責任者として作曲家との密な関係を培って、それが結果としてミラノ・ムジカ現代音楽祭の開催に至りました。その後経済不安定なイタリアにあって、持病の喘息を患いながらも、いつもせかせかと音楽祭の資金調達に奔走した姿が目に焼付いています。
彼女にはとても気にかけて貰ったので、今年に入ってルチアーナがすっかり元気を失い、廃人同様の生活を続けていると聞いたとき、電話すら出来ないもどかしさにやりきれない思いをしていました。

10月X日18:00自宅にて
スイスの片田舎で、教会や集会場、山や林など、村のあちこちで開催される小さな演奏会を数日間かけて皆で転々とめぐる、「天の川」という自然派の音楽祭をしているマリオから連絡あり。グリゼイが子供のオーケストラのために書いた作品を、一週間のワークショップをしながら作り上げるという。懐かしくなり、数年前の「天の川」のヴィデオを眺めた。
林にスタンウェイを持ち込んで、メシアンの「鳥の小スケッチ」を聴く。切り株に腰を降ろす人や地面に坐る人、寝転がって天を仰ぐ人など、皆思い思いに耳を傾ける。向こうでは子供が林のなかを楽しそうに歩いている。フランチェスコが丘の真ん中にチェロを持ち出し、「4分33秒」を演奏している。鳥のさえずりや家畜の声に交じって遠くの教会の鐘が聴こえ、どこかで芝刈りをする低いモーター音もかすかに聴こえる。「バッハとせせらぎ」では、渓流にかかる橋の下で2本のリコーダーが「音楽の捧げ物」を吹いている。聴衆は橋の上からせせらぎと一緒にリコーダーの響きに耳を澄ます。

10月X日16:00ミラノに戻る車中にて
久しぶりにトリノへ出掛ける。トリノは現在イタリアで最も近代的な都市に違いないが、一歩辻を入れば昔のままの落ち着いた佇まいが残る。
RAIのパオロとアントネッリアーナの塔の足元で会った。彼の出版業務の契約は7月から滞り、オーケストラ業務の契約の更新も立ち切れだと苛立ちを隠せない。イタリア経済はすでに奈落の底まで落ちたから、この状況下で文化予算が削られるのは当然ながら、例え今後経済が盛り返しても、以前のように文化を尊重する時代は戻らないとまで断言する。早く彼の契約が更新されないと、かかる悲観主義があちこち伝播しそうでこわい。
久しぶりに会ったルカは、別れた奥さんと暮らす高校生の娘が、今日の学生デモに参加していないか、巻込まれていないかと気を揉んでいて、忙しなく奥さんに電話をかけている。一本通りを隔てた向うでは、高校生たちが警官に撲られて怪我人まで出たそうだ。国外で評価高い現モンティ政権の、文化予算および教育予算削減に対する若者たちのジェスチャー。街のあちこちに警官が溢れている。

10月X日01:00自宅にて
マンゾーニが9月26日で満80歳になったことを祝って、この時期どこでも賑々しく彼の作品が演奏され、とてもめでたい。昨年はブソッティがその栄誉に浴した。ミラノ国立音楽院で催されたジャコモの80歳記念演奏会の発起人、詩人で音楽学者のルイージ・ペスタロッツァは、演奏会前日の朝に長年連れ添った奥さんを看取ったばかりで、葬式も終わらぬまま演奏会に来て、悄然とした表情ながら司会までこなした。
長く昏睡状態だったミキの余命が時間の問題なのは知っていたけれども、やつれた表情ながら演奏会にルイージの顔が見えて安心したのも束の間、挨拶に立ったジャコモが、「昨日伴侶を失ったばかりルイージに心からの敬意と謝意を」と切り出した。驚いて隣のマリゼッラの顔を見ると、「そうなのよ」と辛そうに肯くばかりだった。

10月X日19:00トラム車中にて
寿司詰めの路面電車で家に戻る途中、労働者風のペルー人男性が、乳母車の赤ん坊をあやしていた。
「ほらほら、泣かないで、泣かないで。あのおばさんを顔を見てごらんよ」。
余りに純朴な愛情に心を打たれて、思わず涙がこぼれそうになる。

10月X日20:00自宅にて
子供の頃から聴きたかった悠治さんのテープ作品「タイム」と「フォノジェーヌ」を、ひょんな切欠から耳にする機会に恵まれる。願っていれば何時かは叶うものだと妙な感心をしつつ、ゾクゾクしながら再生すると、想像通りの豊かな音楽。意外なほど想像していた通りの音が聴こえてきた。この頃の電子音は、どれも独特の豊かな響きをもつのは何故だろう。
全く違うはずなのに、もうずっと耳にしていない「オルフェカ」の響きを懐かしく思い出す。「オルフェカ」は昭和44年、自分が生まれた年に書かれた。
テープ音楽で聴きこぼしているのは「冥界のへそ」だけれど、これも何時か聴く機会が巡ってくると楽観を決めこんでいるものの、中学生の頃から心待ちにしてきた「カガヒ」や「ニキテ」に至っては、昔渋谷ヤマハの地下で購入したペータースの楽譜が今も実家のどこかに眠っているはずだから、自分で演奏の機会を探す方が早いかもしれない。
「ブリッジスI」のチェンバロ・パートなど、中学生の頃弾けないピアノを叩いてよく遊んだ。「毛沢東」と同じように、単旋律で一見簡単そうに見えるが、無論実際には弾けない。オーボエの「オペレーション・オイラー」の楽譜は、どんな音がするか見当もつかぬまま、無邪気に重音の羅列に憧れていた記憶がある。「オペレーション・オイラー」が書かれたのは昭和43年だから、自分が楽譜を眺めて暮らした頃まで13、4年しか経っていない。悠治さんの手書き譜は、悠治さんの筆跡そっくり。
家人曰く、カリアリで弾く悠治さんの「花筐2」を用意していて、ブソッティの「ブリランテ」と並べると、二人の作家が思いがけずしっくりくることに驚いたという。縦割りではなく、身体がゆれるような伸縮するテンポ感と強い表現力が共通するそうだ。

10月X日16:00ミラノに戻るイタロ車内
フィレンツェから戻る車内。昨日かの地で思いがけなくカザーレと再会し、ボッカドーロと初めて話す。
カルロに「君のことは昔からよく知っているよ、数え切れないほど演奏会にもいったもの」と言われ、すかさず「昔から君のことはよく知っているよ。数え切れないほど録音を聴いたもの」と返して、二人で大声で笑う。自然体の音楽。人工的でなく、構築されたものではなく、彼の身体からふと生まれたままの音楽。純粋で活き活きした文字通りの「音楽」。
ウフィーツィ裏のネットゥーノの噴水でフランチェスコと落ち合い、本屋二階の喫茶店で話す。
「10年前は今と違って何もかもがもっと自然だった。音楽さえ良ければそれなりに食ってゆけたが今は違う。ごった煮の大鍋それも闇鍋状態さ。由緒あるこの本屋も店じまい。文化の価値は、最早紙切れの重さすらない」。

10月X日08:30ヴェニスに向かう車中
明けきらない朝の薄霧を列車はひた走る。中央駅に向かう路面電車の車中、小さな懐中コーランを熱心に読む若者に出会う。イスラム教は好きでも嫌いないし、判断が下せるほど理解もしていない。
最近息子が小学校から持ち帰る国語の宿題は、例文を10回、20回と繰返し読むというもの。週に一回はテキストの暗記もある。イタリア語は語尾まで明確に発音しなければ意味が分からないので、書いてある文字をすべて読む感じになる。息子も当初は怪しげに語尾を発音していたのが、毎日やっていると随分しっかりしてきた。フランス語が違う綴りでも同じ発音になるのとは正反対だ。
イタリアの演奏解釈がとにかく楽譜に忠実に演奏するのに比べ、フランス音楽やフランスの音楽解釈は色彩的で自由な印象があることや、イタリア人が下着までアイロンの掛かった糊付けのきつい洋服を好むのに比べ、フランス人がわざとルーズな着こなしをする感じに似ている。

10月X日20:00自宅にて
秋の雨模様のヴェニスを歩くと、思いのほか身体が凍えるのは海の上だから当然か。小さな無蓋ボートで移動しているヴェネチア市民は、極寒の真冬にはどうするのだろう。たとえ天井を張ったとて相当寒そうに見える。
約束まで少し時間があったので温かい紅茶でも飲みたいと思うが、目抜き通り近くには全く目ぼしい喫茶店がなくて途方に暮れた。暫く行くと、鄙びた感じのハム屋があって、「サンドウィッチ3ユーロ」と無造作に書いてある。覗いてみてもただの普通のハム屋で、観光客を寄せ付けない雰囲気だ。さしあたっての希望は温かい紅茶だったので、一度はやり過ごしたが、どうにも気になって結局敷居を跨ぐと、思いがけず感じのよい初老の主人と話が弾む。
「おお、うまいね、このモルタデルラは、流石に味が濃いね」。
「うちは利益を顧みないで美味いものだけ置いているのがわかったろう。安い肉にニンニクと香辛料を利かせてごまかしたモルタデルラと一緒にされちゃあ困る。モルタデルラとチーズを挟んだ栄養満点のこのサンドウィッチは、昔はこの辺りの貧しい連中の定番の昼メシだったのさ。ゴンドラ漕ぎなんて、昔はみな貧乏だったから、当時はこれが彼らの定番だった。今の若い連中ときたら、すっかり金持ちの仲間入りで燻製肉やら何やら、脂っ気のない肥えないようなものばかり喰って、外面ばかり気にしていやがる」。
主人の話は全く止まるところを知らず、経済が回っていないと、酷い緊縮と増税を断行するモンティの経済政策の批判にも及んだ。元をただせばユーロの導入と、当初のリラとユーロの換金率が間違っていたという。今にしてみれば誰でも思うことだ。
「この一年は頓に不況さ。食べ盛りの子供二人くらい連れた家族が入ってきて何を頼むかと思えば、何も挟んでないコッペパン一個だったりすることが度々ある。家族4人の昼食がコッペパン1個さ。余りに世知辛いと思わないか」。

「おい、ヨウイチじゃないか」。
打合せが終わって通りに出ると、目の前をアンドレ・リシャールが夫人と散歩していて互いに驚く。4年ほど前ジュネーブで会って以来の再会。彼はノーノの助手だった人で、暫く前までフライブルグの音響スタジオを仕切っていて、ノーノのプロメテオをやったときに一緒になり、互いにとても濃い時間を過ごした。ヴェニスのノーノ資料室に明日までいるそうだ。
「イタリアは大変だよなあ」。
しかし、誰かが違う台詞を発しない限り、この国はこのまま沈んでしまいそうな怖さを感じる。そんなことを思いつつ、人一人が漸く通れる細い路地に歩を進めて、サンタ・マリア・デル・ジーリオの汽船乗り場へと向かった。

10月X日18:00自宅にて
ブルーノ・カニーノの愛娘、ヴァイオリンのセレーナと話していて、ブルーノの話しになる。
「父は毎年草津の音楽祭にゆくと、何でも日本の皇后さまにピアノの手ほどきをしているそうよ」。
セレーナは顔立ちも話し方も父親そっくりで、深い眼差しで覗き込むようにじっと相手を見つめるのが印象的だ。父親と一緒で、テクノロジーにはてんで疎いと言い、使い込まれた古い携帯電話を取り出してみせた。
彼は何時練習するのと尋ねると、手が空くと何時でもピアノに向かっているという。
「練習していないとすぐに退屈してしまうのよ」。

(10月31日ミラノにて)

翠瀑97――白馬、泣け

藤井貞和

けなげ、波に、
水爆は哀しきか 哀し。
聞きし名か 書きし名か、
白馬、椅子に身投げ、泣け。            (回文詩)

(マララさん襲撃の報は、私もさすがに、パキスタンの子供たちのまねをして、一晩、ろうそくの火を燃やしました。英国へ運ばれたとの報です。)

もの書き

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ペンの先が紙に触れると同時に、黒々としたインクとともにものがたりがさらさらと流れ出す。ほんの3語4語が通り過ぎていくと、したたり落ちたインクは徐々に乾いていく。乾いていって見るからに乾ききってしまう。ペンの先と文字からでてくる魅力というのは、おそらくこの箇所にある。もの書きなどというのはまあこんなものだ。

誰にでも本が書ける、言い換えるなら誰にでも本を書くことが可能だともいえる。文字が分からない人は除くが。文字が分からない人といえば、わたしは自分の母親を思わずにはおれない。

わたしの母はこの世を去って久しい。母の明らかな特質といえば文字が書けなかったことである。70年余りの生涯でどうにかこうにか書いたのは自分の姓と名前だけだった。書き終わるまでにかなりの時間を要した。こどもたちを呼んで周りで応援してもらうのだった。こどもたちにとっては滑稽なことなのだが、母はまるで意に介せず「知らぬ顔の半兵衛」、であった。母は何か読んだり書いたりして持っている知識をふやすことに、関心を持つことがなかった。

さきほどわたしは誰にでも本を書くことができると言った。例外があるが。。。
もう少し続けたいのだが、本が書ける人、書くことができる人はいくらでもいる。けれども本を書いてそれが売れる人についてはなんといえばいい。たぶんもの書き、というのだろう。

然り。わたしの周りにはもの書きを職業にしている連中が何人もいる。約3、4人はものを書く行為をして、持って行って売ってくる。それでお金をもらってきて生活に使う。食っているだけでなく酒盛りでわいわいやるのにも使う。あとから加勢に入ってきた一群の友人たちは数に入れていない。ある者はもの書き志願者だ。まだリライトにリライトを重ねている書生である。ある者はアーティストで絵を描いている。われわれの仲間は10人ほどで、今にも燃やされて撤去されそうな古いスラムの中に集まってきているのだ。(つづく)

アジアのごはん(50)バンコク自炊生活

森下ヒバリ

「兄のコンドー、この夏は使わないようなので、使いませんか?」タイ・バンコクの友人から、こんなお誘いがあった。コンドーというのは、英語のコンドミニアムの略称で、日本では高層分譲マンション、にあたる。いわゆる集合住宅、高級アパートメントである。「う〜ん、集合住宅というのはちょっと苦手なんだけど‥あ、もしかしてキッチン付き?」「一応、簡単ですが付いていますよ、部屋の中に。部屋は狭いですが、屋上にきれいなプールも」「借ります!」

というわけで、この夏のふた月間はバンコクの東はずれウドムスック(でもBTS高架鉄道の駅すぐ)のコンドの一室を借りて暮らすことになった。ここ十年ほどはずっとタイにいるときは下町ではあるがバンコクのど真ん中プラトゥーナム地区のアパートメントホテルを月極めで借りていたので、ものすごく久しぶりに生活エリアを変えたことになる。

空気の悪いプラトゥーナムはかなりしんどくなってきていて、そろそろ宿替えをしたかったところだった。もっともウドムスックというエリアに馴染みはなく、友人がすぐ近くの通りに住んでいるのだけが頼りだ。

部屋に台所がある、近所に市場がある、BTS駅すぐ近く、プールがあるというのが決め手であるが、部屋はかなり狭いらしい。まあ、インドや香港の安宿のことを思えば問題ないか。

ここ数年、タイの外食がだんだんツラくなってきた。なかなかおいしい店に出会わない。味の素大量使いが蔓延している。つまらない味のチェーン店が増えてきた。とくに、プラトゥーナムの宿の近所で食事をできるところが少ないのがネックだ。もちろん、店自体はたくさんあり、近所のいろいろな店はだいたい試してみた。以前はもっと使える店があったのだが、お気に入りの店が次々に閉店してしまい、食べて満足できる店はごくわずか。

ローテーションはほぼ決まっていた。昼はとってもおいしい、味の素も使わない作り置きのおかずかけ屋さんがあり、そこで。夜、お出かけしない時は米麺のクイティオ屋台、炒め米麺のパッタイ屋台、惣菜売り屋台でおかずとごはんを買って部屋で食べる。クイティオ屋台はバンコクの屋台の中でも相当のレベルだと思う。パッタイもなかなかである。惣菜屋さんはまあまあ及第点。おいしくても、三つしか選択肢がないのでは、いくらなんでも飽きる。

プラトゥーナムの定宿ホテルは、流しはついているがコンロの類はない。もちろん鍋やフライパンもないので、電気湯沸しを使って、インスタントみそ汁やスープを作るのがせいぜいだ。流し付き、というのはかなり恵まれているほうで、普通のホテルに流しや台所は付いていないし、庶民的なアパートにも、タイではなぜか台所は付いていないのがふつうなのである。

タイの市場で新鮮な食材を眺めては、料理がしてみたいと思っていたが、ついにバンコクで自炊生活ができることになったのだ。もちろん旅の空の上で、毎食毎回料理を作るつもりはない。外食も店を選べばおいしいし、タイ料理も食べたいから、ときどき気が向いたときや日本食が食べたい時に作れればいいのである。タイ滞在中に日本食が食べたくなる気持ちはここ数年かなり頻度が高まっているのだが、バンコクに星の数ほどある日本料理屋の中にお気に入りはほとんどない。自分で作ったほうがおいしい‥としか思えないのは、店で使う調味料や食材の問題もあるだろう。何を作ろうかな〜、とタイに行く前から妄想が膨らむ。あれこれ、使えそうな食材を選んでみる。タイの水は硬水でダシは取りにくいので、お気に入りのダシ入り醤油は何が何でも梱包して持って行かねばならない。あとは、梅干しとワカメと‥、おおそうだもらったばかりの真空パック讃岐半生うどん、これを持って行こうっと。

じっさいに自炊生活を始めてみると、オーガニック野菜を売っている店を知ったり、買い物に行く場所が変わったり、市場でいろいろ物色したりと今までと違う生活パターンになって、なかなか新鮮な毎日だった。わがコンドーのキッチンは、コンロが電熱器の縦並び埋め込みで、料理をしたことのない人間のデザインというのが一目瞭然。ちょっとがっかりしたが、しばらくすると、何とか適応してきた。

日本にはないタイの素材で、使ってみたかったものをいろいろ試してみる。まずは、体長三十センチはある緑色の長ナス。タイ料理では、タイカレーに入れたり、焼いて皮を剥いてヤム(和え物)にしたりする。味は日本の紫のナスとあまり変わらない。ちょっとかたいかな。皮にアクが少ない。まずは長ナスでスパゲティ。ズッキーニと玉ねぎを足してトマトソース。身がぷるっとしていて、なかなかのお味。日本のカレールーで和風カレーを作り、投入。これもばっちり。薄切りにして、塩でもみ浅漬けに。おお、いける。緑色の外見に違和感があるのだが、おいしいナスであった。

近所の市場で舌びらめを売っていた。安い‥。思わず三匹買い込み七五バーツ。しまったウロコが付いたままだった‥袋の中で、包丁の背でバリバリと何とかウロコを取り、しょうがとダシ醤油で煮つけてみる。冷蔵庫にしまい翌日出してみると、煮汁がぷりんぷりんの煮凝りで、舌びらめのコラーゲン量に驚く。おいしいけど、ちょっと内臓が臭い。あまりきれいな海の子ではないみたい。

バンコクのフリー情報誌ダコに載っていたハスの茎の煮つけ、というのも作ってみた。あの水面に浮かぶ丸い葉っぱの下の茎である。市場で、茎の皮をむき四〜五センチに切って袋に入れて売っている。至れり尽くせりだ。茎にはレンコンみたいな小さな穴が開いていて、ラブリー。どういう感じの味になるか予測がつかないが、茎だから芋がらみたいなものかな、と思いとりあえずダシ醤油で煮つけてみる。なぜか出来上がりは、ちょっとしゃっくり、とろんとして蕗の炊いたんにそっくり。

エビを買ってきて、ブロッコリーやきのこなどと炒め、ナムプラーとナムマンホイ(オイスターソース)で味付けするのもよく作った。実は同居人にはこの料理が一番好評だった。ほとんどタイ料理やんか! まあ、タイの素材でタイ料理を作るのが一番おいしいのかもしれないが‥。

で、半生うどんは、大量に持ってきたにもかかわらず、わがキッチンで料理されることはついになかった。袋の調理法をみると、茹で時間が十五分もかかるのだ。タイの一般的なアパートには台所がなく、ほしい人はベランダにガスコンロを置いて簡易台所(雨の日は使用不可)を作るしかないのをつねづね不思議に思っていたのだが、初の台所生活でその理由が分かったのである。それは、狭い部屋で料理をすると、暑い。とんでもなく暑いからなのだった‥。うどんを茹でるのに十、十五分? しかもウチのコンロは電熱器なので、スイッチを切っても当分暑い。クーラーも効かないほど暑い。とてもじゃないが、うどんは茹でられませ〜ん。

うどんは泣く泣く、大きな台所を持つ友達のジュに進呈した。ジュは一度日本に来たことがあり、うどんが大好き。しかも、やわやわ京都うどんのタイプが一番好きらしい。みんなでジュの家でご飯を食べたときにその讃岐うどんを作って、少し残ったうどんをゆで鍋にそのまま置いていた。ジュがしばらくしてそれを見つけ、とろけそうな顔でとろとろうどんを掬い上げていたのを、わたしは見た。どうしても讃岐うどんをジュ好みに茹ですぎてあげることが、日本人としてできないヒバリであるが、残り物がやわやわになるのは致し方ないことなので、どうぞ心ゆくまで味わってちょうだい。

バティックの呪力

冨岡三智

唐突だが、今月はバティック(ジャワ更紗、ロウケツ染め)について書いてみる。バティックというと日本の着物と同様、晴れがましい日の装いというイメージがあるのだが、私にはお葬式でのバティックがとても印象に残っている。私の舞踊の師匠、ジョコ女史が亡くなったとき、私は亡くなった夜から次の日にお葬式と埋葬が終わるまでずっと師匠の一族一同と一緒に過ごした。お葬式はジャワ・イスラム式で行われた。

お葬式の朝、カマル・マンディ(浴場)で師匠の子供たち3人が並んで座り、師匠の亡き骸を数枚のバティックで包んで抱きかかえながら、水をかけて体を洗う儀礼があった(子供は全部で4人いるのだが、規定で3人ということかもしれない)。日本の湯灌みたいなものだ。そして、洗い終えて体をぬぐうと、また別の数枚のバティックで亡き骸は覆われ、居間に寝かせられた。この後、イスラム教徒として全身をすっぽり覆う白装束への着替があったのだが、師匠の家にある古い写真では、イスラム教徒でも昔はバティックの正装で棺桶に収められ埋葬されていたようだ。最近は「正しい」イスラムの教えが広まったので、白装束にするらしい。湯灌にはバティックを使うのが習わしだと聞いた。柄に決まりはないように見える。最後に白装束になるなら湯灌の衣装は何でも良さそうなものだが、バティックという点に土着信仰が残っているのかもしれない。

ジャワの民間信仰として、病人にバティックを掛けると病気が治るというものがある。それが「父親のバティックを掛ける」だったり、また「バティックを掛けてキドゥン(詩歌)を朗誦する」だったりと伝承に多少の幅はあるが、バティックに病気を治す呪術的な力があると考えられていたことは間違いがないだろう。死者に着せるのも、悪霊から守るといったような呪術的な意味があるのかも知れない。手作業でロウケツ染めをしていた時代には、バティック制作の過程で布にものすごく念が込められていたのかも知れない。

私の手元にあるバティックの本は、どれも一連の結婚儀礼とそれで使われるバティックの意匠や吉祥文様の意味などについて詳しく書かれているけれど、葬式儀礼や病気平癒のためにバティックが使われるという点については触れられていない。それは、不吉なことゆえか、バティックの柄について細かな決めごとがないから本にするまでもないのか、取るに足りない民間習俗だからなのか…。

ジャワの王宮儀礼で見られるさまざまなバティックの美しさも忘れがたい。けれど、あの亡き骸を包んでいたバティックに、ジャワ人のバティックへの思いが凝縮されているような気がする。

おなじ光景

仲宗根浩

四つ目の台風が過ぎるとやっと家の中はクーラーを使うことなく過ごせるようになる。でもまだ半袖。扇風機はまだまわっている。入道雲はいつの間にか消えて、うろこ雲を見る。

仕事で普天間神宮前を左折し国道330号を走る。
しばらくすると普天間飛行場野嵩ゲート前。
オスプレイ配備反対のプラカードを掲げる人たち。
ゲート前にあるのは大型バスくらいの警察車両。
テレビでみるのと同じ光景。
米兵の事件。ニュースに映るのはいくらモザイクかけようが近所だとすぐわかる。
テレビ局が街頭で話しを聞くのは那覇のひとばかり。地元だと商売に影響が出るひとがいて思惑とは違うことを話すからだろうか、とひねくれた見方をする。
夜間外出禁止で暗くなった通りを歩くMP。
前にもあった同じ光景。

イラク戦争から10年を考える

さとうまき

来年の3月はイラク戦争開戦から10年目になる。僕にとっては、まるで昨日のことのようにこの戦争が思えるのだが、10年というのは、たいそうな月日である。10歳だった子どもは、20歳になっているから、2倍生きたことになる。

イラク関係者で、3月20日に、記念イベントをやろうということになった。しかし、なんだか記念イベントで終わらせてしまうと、本当にイラクは幕引きになってしまう。そんな危機感を抱きながら、今のイラクをしっかり見てこようと単身バクダッドに向かった。といってもいつも単身なんだが。

日本に連れてきたい子どもがいる。スハッドちゃんだ。僕が2002年にイラクに初めて行ったときに出会った子どもだ。バグダッドの音楽学校の用務員さんの子どもで、学校に住みこんでいた。戦争前のバグダッドって本当に楽しかった。戦争が始まってひと段落したとき、スハッドを含めて5人の兄弟姉妹で、絵をかいた。谷川俊太郎さんの詩に、子どもたちが絵をつけていったのが、「お兄ちゃん死んじゃった」。教育画劇から出版された。

あれから10年がたった。スハッドちゃんは、20歳になっていたが、音楽学校でオーボエを習い、オーケストラで演奏するようになっていた。日本でコンサートをしてほしいなあと思う。

バグダッドの飛行場。
しかし、あの時のまま。なんら改装されていない。セキュリティの問題で、決められたタクシーが、チェックポイントまで行ってくれる。かつては米軍がセキュリティチェックをしていたのが、イラク軍に変わっただけだ。スハッド達は、学校を離れ、市内の借家で暮らしている。市内は、コンクリートの壁で区切られ、数百メートルごとにチェックポイントがある。治安はよくはなっているが戦時下そのものだ。この町にいると落ち着かない。怖い。といっても、実際は思っているほど怖くはないのかもしれないが、車から一歩も外には出たくないし、一人では歩けない。息がつまりそうだ。

スハッドに聞いてみた。
「この十年間はどうだった?」
「戦争は怖かった。アメリカ人が入ってきて、殺されるんだろうって思ったわ。でも今は、よくなった。」
「電気もないのに?」
「ずいぶんと停電も少なくなったのよ」
「外で遊べないでしょう?」
「外に出ないから、怖くもないわ」
もっと文句が出てくるかと思ったら、そうでもない。子どもたちにとっては、戦時下の生活が日常となり固定化されているのだ。
「将来は何になりたいの。」
「イラクでは、自分で学部を選べないの。成績ですべて決められるの」
スハッドは確か数学を勉強しているとか言っていた。
「それで、皆文句言わないの?」
「文句言っても仕方ないでしょう」

10年たって、スハッドは英語も話せるようになってこんな会話を交わせる。劣悪な環境でも子どもたちは、前向きに成長しているのがすごい。
一方、日本はどうだろう。
電気が少しなくなるだけでも、大騒ぎだ。
日本の若者たちとぜひ戦争の話をしてほしいとおもった。

(バグダッドにて)

製本かい摘みましては(83)

四釜裕子

引越して初めての冬はどんな雪が降るのだろう。都内を移動しただけなのにおおげさな……。でもそう言ってみたくなるのは、今年のはじめに萩原義弘さんの雪の写真を見たからだ。山形の内陸で育った私の記憶に残るのとは別のもの。月明かりに照らされた丸いシルエットに浮かぶのは磁器のようだし、廃屋の隅に吹き溜まるのは白い砂のようだ。重さが違う。乾いている、からっとしている。手離れがいい。そんなアナタを知らなかったと、今度会ったらいってやりたい。

萩原さんの写真展はヤリタミサコさんといっしょに訪ねた。この写真とコラボレーションした詩集を作るから、装幀を担当して欲しいといわれた。喜んで受けたが、ヤリタさんの詩の言葉は強烈で、原稿を預かり、ひとり、部屋でその文字を追うのはきつかった。ふだんヤリタさんが話す言葉はからっとしている。ライブの感想を話すときと同じように、日常の会話も瞬間をとらえているからだ。感覚と言葉が直結していて、あたまで言葉をこねくりまわすことがないのだと思う。そうだ、”ヤリタ人形”を部屋に迎えて、朗読してもらえばいい。すらすら読めた。

10月、20センチ四方くらいの、からっとした詩集ができた。『私は母を産まなかった/ALLENとMAKOTOと肛門へ』という。表紙カバーに大きなモノクロ写真、見返しは清潔な月明かり、花布は水の色。上製本で厚みは1センチもない。ヤリタさんの詩と萩原さんの写真がある限りだ。この詩集をひらいたひとが、私がそうしたように、”ヤリタ人形”を感じてくれたらうれしい。この冬の雪を待ちながら、そう願う。

だれどこ7

高橋悠治

●丸谷才一(1925-2012)

まだ桐朋学園高校にいた頃ディラン・トマスの詩集をもらった。むつかしくて読めなかった。パンの内側の暗い生命「……官能の根と樹液から生まれ……」次にエドワード・リアのナンセンス詩集をもらった。この2冊からは今ならストラヴィンスキーの『ディラン・トマス追悼』と『ふくろうと子猫ちゃん』を連想する。それからナサナエル・ウェストの『孤独な娘』の訳書。思い出すのは孤独な身の上相談係がウィスキーとクラッカーを抱えてひきこもる『アンダルシアの犬』のような夢の風景。

シュールレアリスム宣言と『溶ける魚』の失踪したエリュアールによびかける詩。エリオットの『荒地』。1920年代のヨーロッパの詩的冒険をおぼろげに読み解きながらすごした中学時代から、音楽高校に入ると19世紀音楽のはてしない練習の響きの日常で、丸谷さんの英語の授業があった。コンラッドの『文明の前哨地点』がテクストだったが、生徒たちの知的水準からはかけ離れていた。永川玲二の英語、バルバラ・クラフトのドイツ語の授業もあった。演奏と練習のことでない話ができるのは、そういう人たちとだった。永川玲二は陸軍幼年学校から脱走して逃亡生活を送ったことが『笹まくら』の題材になったらしいが、読んでいない。直立不動の姿勢とオックスフォード的「笛の声」を思い出す。1970年代セビージャに移住してから、日本に一時帰国した時に『展望』という雑誌の仲介で再会した。セビージャではヒッピーたちの中心だったという話を聞いたことがある。

丸谷さんの新婚家庭に泊まったりしていたし、『秩序』という同人誌の会合にも行った記憶がある。『ユリシーズ』の訳はまだ出てなかったと思うが、そこに出てくるスウェーリンクのMein junges Leben hat ein Endを弾いてくれと頼まれて楽譜を探したことがあった。この曲名は日本語では『わが青春は終わりぬ』と言われるが、歌詞を読むと若くして死ぬ人をうたう宗教的民謡のようだ。いまも時々弾いている。

丸谷さんの小説は何冊か読み、送られてきたエッセイ集もいくつか読んだ。小説家がくれた本は義務のように読むが、自分から小説を読むことは今はない。詩は歌の素材として読んでいる。

音楽のことを訊ねられても知らないので資料を探したり読んだりしてまなんだことはおおかった。長編『持ち重りする薔薇の花』の準備で弦楽四重奏について調べ、ボッケリーニについてはエリザベス・ル=グインのBoccherini’s Bodyという本を読んだ。提供したメモがどう使われたのか、使われなかったのかはわからない。批評家や学者の興味や評価と分析ではなく、いままでにない角度から見えるものをさらに別なかたちに変えていくプロセスは外からは見えない。『あけがたにくる人』という歌と弦楽四重奏の曲をその後書いたとき、ボッケリーニの弱音のさまざまな指定、楽器から楽器へ移っていくパターン、亡霊のように回帰するペルソナを思い出した。

神田の古本屋にはブルトンやエズラ・パウンドの『ピサ詩篇』、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』などの初版本があった。読めないのに辞書片手に読もうともせず持ち歩いてながめていた。途切れ途切れの意味やイメージを浮かべた見知らぬ文字列の音楽から夢のように浮かぶなにか別なもの、引用された楽譜の断片やそれを実際に聞いた人たちの話から作り上げる聞いたことのない音楽のように。知って理解したと思ったらそこで終わりかもしれない。丸谷さんたちの『フィネガン」研究会にも一度行った記憶がある。最初のページから多言語で鳴り渡る雷鳴があった。フィネガンは梯子から落ちる。その時にはその化身は湾に吹き寄せられた小舟の上にいた。貧しい記憶の断片から、ジョイスの書いていない別の風景が見えることがありうるだろうか。

伝統とそのありかたへの興味、離れたものに見立てること、ちがいの隙間の追及、丸谷さんと話していて、あるいはエッセイを読んで、そういうところがおもしろいと思う。見ているところはちがうし、評価も反対だったりする。カフカをまったく評価していないのを知っていて『カフカノート』の公演に誘ったときも、「おもしろかった」と一応は言ってくれた後に、「方向のない細部につきあうのは観客にとって負担だ」と批判された。そうかもしれない。その批評についての印象や「そうかもしれない」と書いているこのセンテンスも誤解の延長でもありうる。他人の感じること考えることを理解することができないという越えられない距離が、次の失敗に向かうエネルギーになるかもしれない。

信時潔にクセナキスの『ヘルマ』を弾いてきかせたことがあった。楽譜から1〜2音のパターンの変容を読み出して説明してくれたが、ドイツ音楽の伝統とは関係のないところで作られた音楽も、そういう耳で聞くことができるのはおもしろいと思った記憶がある。いまモーツァルトを聞く耳はモーツァルトが思ってもみない音楽を聞いている。異文化は時間軸でも双方向にひらいていると言えるだろうか。

豊かな細部を増殖させながら崩れ溶け出さないように全体を神話の枠に入れておく『ユリシーズ』、頭文字の組合せが転生をかさねて世界樹となる「フィネガンズ・ウェイク』の夜の航海の後でできることが何か残されているだろうか。繁殖と豊穣の後に過渡期の意識があり、いつまで待っても行く先が見えなければ、やがて衰退の意識に変わる。それが今の時代だと感じるのはまちがっているかもしれない。垣間見るのは彼方の光ではなく、寒々とした「ここ」の闇だとしても、それははためく夢の見栄えのしない蝶番なのだろう。未完成で、始めも終わりもない断片の堆積そのものよりは、断片のあいだの書かれない行間、それについて書けるなにごともなく見せる気もしないようなつつましい結び目が、さまざまな矛盾を含む多様な行為を一つの身体につなぎとめているかのようだ。

丸谷さんから突然『フィネガンズ・ウェイク』が送られてきた。てがみが添えてあって、形見分けだった。ジョイス、ディラン・トマス、コンラッドをいま読んだら、なにかが見えるかもしれない。そういう時間があるだろうか。