トルコから謹賀新年

さとうまき

2012年はあっという間に過ぎてしまった。そして、とってもしんどい年でもあった。人生の中にはそういう時期があっても悪くはないと半ばあきらめて、むしろじっとしていた。とは言いながらも、団体の事務局長をしていると、そうも言っておれない。震災後、自粛していた海外出張も数が増える。バグダッド、バスラ、シリアにも、隙間をかいくぐって通い続けた。日本にいると福島と東京を行ったり来たりで、移動に明け暮れた。

で年末最後のお勤めでトルコにやってきた。トルコにつく直前で新年。でも、時差のせいで、トルコはこれからカウントダウン。町にのみに出歩く前に、2012年の反省。

ともかくスランプな年だった。
たとえば、チョコのデザインで苦労した。コンセプトが出てこないのだ。そもそもチョコ募金は、「戦うチョコ」。イラク戦争で傷ついた子どもたち。劣化ウラン弾の放射能の影響もあり、がんの子どもたちが増えるも、病院は戦争で破壊されてしまった。そんながんの子どもたちを助けたいという思いから始まった。
「限りなき義理の愛作戦」は、義理=戦争を支持した日本の責任と義務の意味を込めていた。2011年は、逆に戦禍の爪痕に生きるイラクから日本への温かいメッセージだった。

しかし、僕は、イラクの惨状を見るにつれて腹立たしくなってきた。イラクでは、未だに停電が続く。イラク国民は苦しみ、治安も政治も安定しないから、未だに復興も進まない。首都バグダッドの「汚さ」。この一言ですべてが説明できる。しかし、石油の生産量は増しており、日本にも5%の石油がイラクから入るようになったという。石油の採掘権を取れば、石油販売価格の12%が外国の会社に入ることになっているから、これこそが、日本がイラク戦争を支持した主な理由だ。イラクの民主化なんて、まったく考えていなかったし、イラクの子どもたちがどれだけ死のうがお構いなし。ひどい話である。

暮れに行われた選挙結果。日本は、経済のためなら、原発は再稼働し、海外に輸出する。日米同盟を深化させるためには、アメリカの起こす戦争について行って、「一緒に戦う」というわけか?

震災の時に、多くの国が日本に義捐金を送ってくれた。イラクは8億円。しかし、そういうお金はいったい何に使われたのだろうか? 学校を建てるなどして、形の見えるものにすればいいのにと思う。日本は、そんなことはすっかり忘れて、己の経済成長しか考えていない。「あしたのチョコレート」は、もうイラク支援だけではなく、そういう構造をぶち壊していくためのものだ。
 
年末に、外務省は、イラク戦争の対応に関する検証を行ったとして、レポートを提出。しかし、「イラク戦争を支持したことの合否は問わない」とし、あくまでも、イラク戦争の対応に関する検証であり、外務省のとった態度はおおむね間違ってなかったという言い訳。しかし、大量破壊兵器をイラクが所有していると誤った認識を持ったことは反省しているそうだ。当時小泉首相らが「必ずある」とTVで自信たっぷりに言っているのだが、本当にあるとは、だれも思っていなかっただろう。アメリカの工作員が、あたかも大量破壊兵器をイラクが持っていたというような証拠をでっちあげてくれることを信じていたのではないか。ところが、アメリカは、意外とまともな国で、あっさりとないものはないと認めてしまったから、日本は梯子を外されたのだろう。

さて、今年は、イラク戦争から10年たつ。
しっかりと、イラクと向かい合わなくてはいけないと思う。
ともかく、皆さん、チョコを食べて、あかるい明日を考えましょう!

もの書き(2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

中でも大物はスート、つまりプラスートだ。ペンネームは相当たくさん取り換えたとはいえ、仕事についてはもの書き以外のことはしたことがない。いちばん上手かったのはグローン、つまり詩である。

プラスートは書くのが速い。詩も即興で吟ずることができるから、イマジネーションの豊かさは言うまでもない。借りている部屋に朝から晩まで座り込んで何か書いている。ウィスキーの小瓶にソーダが1、2本、肴に煎りピーナツか酢漬け唐辛子にネーム(注:東北のソーセージ)でもあれば、ドアを閉めて誰も入れない。同時に仲間たちに、俺は書きものしてるから誰も入ってくるなよ〜などという調子でどなっている。

その頃はぼくたちそれぞれが人生と直面していたのだ。何かを探し求めていた時期で、本棚と紙の中みたいな生活をしていた。自分の書いたものが出版されるなどということは、宝くじに当たったようなものだった。自分の書いたものだろうと同居する仲間のものだろうと意味するところは同じだった。

「おまえのが載ったな〜週刊のほうに」ということは食費やシェアしている部屋代が払えることを意味した。ぼくたちは家を共同で借りていた。部屋がふたつと浴室ひとつに3人で住んでいたが、時には4人になった。

プラスートはわたしと同様、高原(注:東北地方のこと)から出てきた。県も隣だし方言も似ている、しかしわたしたちの書くものは似ていない。彼は他の誰と比べてももの書きで食べていけたひとりだった。

わたしには本を作るというもうひとつの仕事がある。もっと言えば、本を作ること以上にしていることがある。校正の仕事がないときは挿絵を描くし、作品を選んだり本の装丁を考えたりもする。本漬けの生活といったところだ。というわけで本を作れて当たり前だった。

時には1冊1バーツの本を作って大学の門前で売った。仲間のもの書きの中にはまだ学生で大学に通っている者もいた。学生や若者たちはみな共通した意識をもっていて、それは時代についてその意味を探求し熟考することだった。

ただしチェートはその手の若者ではなかった。どこから来たのだかわからない。プラスートはこの男は着たきり雀じゃないか、という。腰巻布(パーカウマー)1枚だけ持って出てきたふうである。壁に寄りかかっていたと思ったらいつのまにかぼくたちのマットレスをのっとってしまった。パーカウマーを腰に巻いて昼となく夜となく何か書き続けているのだった。(つづく)

犬狼詩集

管啓次郎

  103

砂嘴を歩いてゆくとどうしても強風で海に落ちてしまった
汐で白く枯れたトドマツが心を二度三度と励ましてくれる
湖面のような海面に二羽の白鳥が何度も潜ろうとしていた
カモメとカラスはそれなりに境界線を守り停戦を誓っているようだ
他に取り柄はないけれどパンや餅を切るのが上手な父親だった
効率のいい芸人だ、小さなパン屑で毎日歌ってくれる
夕方があまりに好きで次の夕方を見るためだけに一日を生き延びた
それから脇道に入り草原を歩いてゆくのに思ったより勇気がいる
太陽の図案とイソギンチャクがあまりに似ていて爆笑した
この色がマゼンタ、それを日没と見るのも生命の一要素と見るのも自由
ウォレットを開けるたびグアダルーペの聖母が光と安全をくれた
対岸の森はよそよそしさと親しみのちょうど中間に住んでいる
月輪熊と羆の共存地帯はこの島では永久に失われた
心を迂回させようと架空のギターをひとしきりスペイン風に弾いてみる
灰色狼とコヨーテの共存地帯を確認するため車で二百時間走ったことがあった
心を停め落ち着かせるためにいま昇ろうとするアンセルの月に挨拶する

  104

降誕せよというささやきに答えて生まれてきたのが何かわからなかった
肉桂を練りこんだパンに冷えた朝の体が火のように温められる
雪の降り始めに海の色が変わるのをついにたしかに目撃したと思った
島を横断する道路の舗装が途切れるところでダンテに挨拶する
フェリーとは渡し、フェリー乗り場には誰も人がいなくてさびしかった
岩陰に湧き出して止まらない濁った湯の味を正確に当てている
八月の平原の熱く静止した空気がなつかしかった
非常階段を八階まで昇る人の列と降りる人の列がぜんぜん途切れない
カメラがあってもそれをかまえることさえ許さない狂った強風だった
あれがVentouxだ、ペトラルカの山だ、と地元の教員が指さしてくれる
カモメたちが沖にむかって翼をひろげているのに逆に押し戻されていた
小石をいくつか積んで塔のように見せて昨年死んだ友人の名を呼んでみる
ノスタルジアとは笑うべきものでそもそもnostosにあたる土地がなかった
午後の公園のベンチでごろりと横になっている男は秘密の昼寝友達
ただ鍵を返すために誰も通らない山道を12キロも歩いていった
橋が流失したのでそれに代わる橋をミケランジェロのように設計する

  105

いま急に無意識が撹拌されあらゆることを同時に思い出した
懐中電灯をゆっくり振りながら深夜の街をグループで歩いてゆく
1センチ角の升目を24色で塗り30センチ角のタイルを4色で塗り分けた
きみが木目を見せてくれるならそのとき私は私自身の年輪を見せてもいい
あらゆる通信はなぜか試行段階でうまく行っても本番となると失敗した
東京の夜との会話を北海道で体験し両者のやりとりを沖縄本島北部で聴く
リアルタイムという言葉の意味が昔の国際電話ではまったくちがった
質問に答えられずにいると必ず電話がかかってきて窮地から救ってくれる
町と町外れと砂漠の区別がない町だった
スペイン語のpesadillaはpesarという動詞から来るのでいかにも重い
子供のころマスティフを飼っていていまはピットブルだと老人がいった
枯葉が渦巻く街、粉雪が渦巻く街、何もない街、を同時に体験する
切れかかった電球が点滅するたびに時間を駆け上っていった
拾った貝をむりやりこじ開けるとき時々真珠が見つかる
交差点で人と魂が迷わないようカモメの羽根を使って方角をしめした
ストライプのネクタイ、無地のネクタイ、無地への剥落、無知の涙

  106

夕方に空を見上げるといくつもの耳が空に浮かんでいた
ぶなの森に行きドングリをしきつめて健康的な寝台にする
綴りを変えれば「死」と「犬」のアナグラムを作れる言語だった
就職のための推薦状を思い切って気象学者に頼んでみる
ウィーンに住んだ半年だけがツェランのドイツ語生活だった
私の郷里には民謡がなくただ濁った川の流れがある
初雪の降る島のフェリー乗り場に白い雌犬が四匹の子犬とともにいた
赤い野生のケシを傷つけてしみだす白い汁を乾燥させ舐めてみる
硫黄の匂いが立ちこめる湖をぼんやりした気持ちで漕いでいった
クリスマスの雑踏で死んだ友人を見かけると思わず名を呼ぶしかない
雨が雪に変わる瞬間空が明るくなった
星は見えないときもそこにあり光も変わらない
きみの言語にはその倍音としてきみの祖母のことばがあった
私の沈黙には今後その倍音として津波のどうどうという響きが聞こえる
消えてしまったものを受け取るにはどうすればいいかわからなかった
空にときどき不思議な光が現れその特有な音楽が聞こえることもある

  107

里に住むヒトとケモノの文字的なかけひきだった
シマからシマに行くのに島の中でも一般に小舟を使っている
私の言語は貝にも鴎にもなかなかうまく通じなかった
ミクロだ、それは小さい、それがきみの世界観
収穫祭を終えるために女たちがそろって餅をついた
新しい土地に住むたび新しい訛りと挨拶を覚える
砂漠を否定するものが庭ならここも庭と呼んでよかった
「ママ」を必ずつけて呼ばれる一群の巨大な女性たちがいる
人が住まなくなった家屋の裏手で蛇口が生きていた
魂が撮影可能であることを証明するために雲の底辺を飛んでみる
Windshieldだろう、「風防」だろう、最高の発明じゃないか
人生の半減期に沿って理想都市を村のように偽装する
雑踏で聞こえるあらゆる発話をクロノメ―ターで計測した
何ということもないおしゃべりなのに録音して何度も聞き直す
だが南の海にはたしてシーラカンスが住むのかと思った
宮古では島言葉をスマフツといいそれ自体歌のように大切にされる

  108

いきいきとした言語はすべてb音で始まるんだよと教わった
乳児が最初に声を出すとき心が毛糸球のようになる
作者に私がいるとして私は雲の作者ではなかった
港町といっても漁港、トンビが空を舞う毎日だ
大西洋便の飛行機で合計どれだけの物語が夢見られているかわからなかった
きみの絵画は物語のある絵画でそれは青みがかっているね
農村と漁村がバスク語で会話し都会がスペイン語で沈黙した
ほらもってけ、と大きな鰹をくれた漁師の気前のよさ
世界と世界の接合を体験するのが夏休みや海水浴の意味だった
過去を過去として留めずその噴出を思いきり楽しんでください
海鳥と海亀と海の色が海流によってひとつに溶けた
きみの都市のテロリストは移民たちの言葉により抑制されることがある
潮がみちて身動きがとれないため互いに虱をとって待った
黒い肌の子(セネガル人)がバスク語で答えることは土地の新たな栄光
ピッツァを食べながら子供がいきなり登場するのを待った
あああの子ならセーターを着たまま港の水に身を隠しているよ

製本かい摘みましては(85)

四釜裕子

郵送物はメール便が多くなった。どこのお宅もそうだろう。たまに郵便で届くと、1960〜70年代の記念切手がたっぷり貼ってあることがある。料金に合わせる第一の目的をクリアしつつの絵柄の組み合わせにうなることもある。このころの切手はほんとにきれいだ。比べて昨今の切手はひどいのが多い。窓口に行けば切手は貼らなくてもいいのだから、むやみに発行回数を増やしてわざわざ汚いものを世の中に出すのはやめたらいいのに。昨年は何度、記念切手を買っただろう。

昭和7年生まれの父も長い間切手を集めていたが、数年前に「使ってくれ」と送られてきた。選別済みのばらばらのものだ。シート買いしていた父は、透明のフィルムをカットして切手をくるみ、専用のファイルに整理していた。専用といっても既製品ではない。リング式のやや厚めの無地の台紙で、今思えばけっこう手間をかけていた。きれいで憧れた。いつのころからか姉と私はそれぞれ既製品の切手ファイルを持った。記念切手が出るたびに1枚ずつ増えていき、眺めては並び替えて遊んだ。同じ切手が入っているのに2人のファイルは別物に見えた。

年に3回発行する同人誌も数年前からメール便になった。有志が集り作業をするが、宅配会社が引き取りにきてくれるのでものすごく楽になった。それまでは、というと、発行元であるデザイン事務所があるペントハウスで封入を終えた封筒を紙袋に分け入れて、重い扉をあけて階段で10階まで下り、今にも止まりそうなエレベーター(定期検査は受けてます、念のため)を独占して1階までおろし、歩道を横切り、車道に一時停止した車に積み込み、郵便局に運んでいた。夏は暑くてたいへんだったし、冬は寒くてたいへんだった。

プロの仕事は早い。こんにちわーと時間通りにたった一人でやってきて、箱に詰め込み、階段を下り、エレベーターに乗り、台車に積み替え、事務所に着き、ぴぴぴーとやって請求書がくる。「あんなに苦労してたのがうそみたい。すごいよね」「しかも安い。細かいものをあんなにたくさん。割に合わないだろうになぁ」「明日か明後日には方々に着いちゃう。今日これから呑んで明日目が覚めたら夕方なんてことになったらメール便のほうが早くついてるようなもんよ」「呑まずにメール便で帰っちゃう?」作業のあとの定番慰労宴は続く。

同人は毎号ひとり10冊を受け取る。読んでほしいあのひとこのひとにときどき送る。郵便だと120円か140円、メール便だと80円。まずは切手箱をしばし眺める。あのひとこのひとに似合う切手は必ずやある。のだけれど、瞬時に自分の手に引き寄せるのはむずかしい。夕方にもなれば白旗をふってコンビニに向かい「メール便でお願いします」。日本語の上手な中国からの留学生が「普通でいいですか?」。客を待たさないいつもの手際。ガムの一個、おでんの一品でも買えばいいのに、(いつもメール便ばかりでごめんね)。

アジアのごはん(51)バンコク自炊生活その2

森下ヒバリ

初めてちゃんとした台所のある部屋を借りたバンコク生活。自炊生活はなかなか楽しい。わが家の食生活は、日本では豆腐やお揚げさんが要であるが、バンコクにおいしい豆腐は売っているのか。日系スーパーなどでいろいろ試しているうちに、これはおいしい、と思える豆腐を二か所で見つけた。

ひとつは、エカマイ通りにある日本料理屋「黒田」の売店部門で売っている豆腐である。黒田は、自社農場を持ち、豚肉や無農薬野菜が売りだ。たまにここでコロッケ定食を食べるのが密かな楽しみなのだが、ここで定食などについて出てくる冷奴は、どうも売店部門のものとは違ってあまりおいしくない。

それでも売店部門の豆腐は、豆腐の味にはとことんうるさい京都人も納得のお味。やや固めの木綿豆腐。ちなみにここで売っている自家製梅干しは、他の日系スーパーなどで売っている梅干しのどれよりもマシではあるが、ヒバリにはどうも食指の動かない味わいである。味が果物っぽいというか、梅を完熟させてから漬けているのかしらん。中国やタイ北部産の梅の実の味のせいなのかなあ。

エカマイ通りには、住んでいるウドムスックからBTS高架鉄道に乗って行かねばならない。しかも売り切れの日もある。食べたくなった時にちゃっと手に入る、近所の市場でそういうのが売っていたらな〜、と思ってはいた。市場でも豆腐関係はふつうに売ってはいるのである。しかし、売っているのは、何種類かあるがどれも調理用の水分の少ないカチカチの豆腐か、厚揚げもどき、かたい湯葉である。どれも中国系の豆腐で、野菜と炒めたり、煮込んだりする。生で食べるものでもないし、残念ながらこれらの豆腐類をおいしいと思ったことは、ほとんどない。

円筒形のビニールチューブに入ったやわらかい充填豆腐もあることはある。この豆腐を輪切りにして、肉団子と春雨を入れたスープがゲーンチュート・タオフー。これはわりとポピュラーなタイ料理で、辛くなくて比較的あっさりしているので、日本人には人気の一品だ。たっぷり入るチャイニーズセロリの香りが決め手。しかしこの充填豆腐も、生で食べようという気にはならない、という味である。同じメーカーで、黄色くつるんとした卵豆腐もあるが、どうもタイ人は白豆腐も卵豆腐も区別はしていないようす。味はかなり違うんですけど・・。

日本の豆腐の味を求めるならば、やはり日系のスーパーや食材店に行って、タイで日本人が作っているものを探すしかないのが、タイの豆腐事情なのである。ところが、ある日夕飯をバンコク在住の友人(甘党)と近所のクイティオ(タイの麺類)屋で軽く済まし、コンドミニアムの前の歩道にずらっと並ぶお持ち帰り屋台を冷やかしていたとき、思わぬところでふたつ目の及第点豆腐を発見したのであった。

「そういえば、おいしそうなドーナツがあったよ」友人をさそってドーナツを売っている屋台を覘く。そこは、ドーナツ屋さんではなく、ナム・タオフー(豆乳)屋さんである。タイの豆乳屋というのは、温かい豆乳とパトンコーという油で揚げたパンみたいなものをメインに売っている。このスナックセットは、朝ごはんか夜食に食べるもので、したがって早朝か夜しか豆乳屋は開いていない。パトンコーは中国では油條といい、もともとは中国系の食べ物だが、タイ人も大好き。店によっては、パトンコーを揚げる油でついでに豆乳ドーナツなんかも揚げていたりするわけだ。

ドーナツの横には、ビニール袋に入った柔らかそうな豆腐も並んでいた。「あ、ここ豆腐も売ってる!」「ああ、タオフエイですね。ほら、生姜のきいた甘い汁をかけて食べるやつ。ぼく、これも買おうかな」「あ〜、あの甘い奴か‥」

タオフエイは、お椀に盛ったやわやわ豆腐の上に生姜のきいた甘い熱い汁をかけ、カリカリの天かすを浮かしてレンゲですくって食べる甘いおやつだ。これは家で作るものではなく、屋台で買って食べるもの。タオフエイは、中国の豆腐脳(トウフナオ)の変形かと思われるが、おやつとして甘いバージョンが中国にあるものなのかも。

豆腐脳とは、熱い豆乳ににがりを打って固めたばかりのやわやわ豆腐に醤油とラー油をかけ、パクチーを乗せて食べる、中国の朝ごはんである。押しをしたり、水を切っていないので、ふわっとした食感の温かい出来立て豆腐だ。初めて行った中国上海で、唯一おいしいと思ったのがこの豆腐脳と目の前で作る皮の厚い餃子だった。ただし、タイでは甘いタイプしか見たことがない。専門店もあるが豆乳屋台でよく一緒に売っている。

ここの屋台はお持ち帰り専門なので、甘党の友人につられてタオフエイを頼むと、豆腐と生姜汁とを別々の袋に入れて渡してくれた。大きな鍋から注がれた生姜汁は熱々でたっぷりとある。部屋に戻ってまず生姜汁だけ味見してみると、日本の生姜湯そのままで、大変おいしい。甘さもほどほどだ。これはいい。そうだ、なぜこれを豆腐にかけなきゃいけないのだ。豆腐を甘くして食べるのはやっぱり馴染めない。そのまま生姜湯として熱いうちに啜り、ほっこりして寝た。

豆腐のほうは、ビニール袋に入ったまま冷蔵庫に入れて忘れていたのだが、翌々日、はたと思い出し、一応味見してみようと匙ですくって口に入れてみた。あれ? なんか‥おいしいんですけど。しかも、甘くするよりぜったい醤油味が合う味ではないか。さっそくネギを刻み、しょうゆを垂らす。こちらは黒田の豆腐とはちがって、やわらかくトロンとした寄せ豆腐タイプ。う〜ん、冷奴がぴったり。まったく期待していなかった、生姜湯のおまけのような豆腐がこんなにうまいとは申し訳ないほどだ。しかも、わずか十バーツ(27円)。

タオフエイの豆腐を甘くない状態で食べたことが今までなかったので、気が付かなかったが、生姜汁に浸す前の豆腐は、生豆腐として普通においしいものだったのである。日本人は豆腐を甘くするという発想がほとんどないので、醤油をかけて食べる豆腐と、甘い汁をかけて食べる豆腐が同じものだとはなかなか思えないのだろう。どうも、タイ在住日本人のほとんどがタオフエイの豆腐が豆腐としておいしいと気付いてないようである。タオフエイを豆乳ゼリーなどと説明してあるタイ食文化の本もあるぐらいだし。

というわけで、ウドムスックでの豆腐生活はすっかり充実したものとなった。近所に二軒あるナム・タオフー屋の奥のほうの店は、タオフエイもドーナツもあまりおいしくなかったので、店はちゃんと選ばなければならない。でも、豆乳屋台はタイ中、至る所にあるので、おいしい店を見つけるのはそう難しくないだろう。タイ在住の豆腐好きたちよ、ナム・タオフー屋台を目指せ! お持ち帰りは、くれぐれも豆腐と甘い生姜汁とを別々の袋でね。

太陽の墓

璃葉

西の方から夜がやってきます

鳥たちは円い茂みに隠れ、石のようにうごかない
寒々しい風を受け入れる船、追い出す鋼の扉
黒い線が夕陽をなぞっていった

占い師は星の下を歩き、歌い手は鍵盤の上を彷徨う
何処かで強大な影が動めいている 

煤けた花たちの視線は狭い路地の向こう側
そちらには悪魔の街しかないのです
月は海底へ
太陽は思い出の墓へ
逃げる先は闇の環海

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犬の名を呼ぶ(8)

植松眞人

 目の前を聡子が歩いている。
 その少し先をブリオッシュが歩いている。高原は凧揚げでもしているかのような気持ちで、後からついていく。まるで、ブリオッシュと聡子と自分が一本のたこ糸でつながれているような気分だ。それは、実際に聡子が力一杯に握っているブリオッシュのリードよりも細くて、しかし、強い。
 そう言えば近頃は元旦に凧揚げをしているような風景に出くわすこともなくなった。そう思いながら高原は空を見上げてみる。真っ青に晴れ渡った空は、正月らしく澄み切っていて、雲ひとつない。
 しばらくぼんやりと凧を探してしまっていたのだろう。距離を開けた聡子が振り返る。
「おじいちゃん、なにしてんの」
 その怒った顔に見覚えがある。
「聡子の幼稚園じゃ、凧揚げなんかしないのか」
 高原がそう聞くと、聡子は即答する。
「やるよ。昔遊びの時間に」
「昔遊びってなんだよ」
「ベーゴマとか、凧揚げとか、あやとりとか。そういうのを教えてくれるの」
 そういう遊びを昔遊びというのか。なんとなく引っかかる言い方だな、と思うのだが孫の前ではそんなことは言わない。
「おじいちゃんが子どもの頃は、正月には男の子はみんな凧揚げをしたんだけどな」
 それだけを言うと、聡子の返事を待つ。
「今はね。電線とか高いビルとかが多いでしょ。だから、みんなが勝手に凧揚げすると危ないんだよ。だから、昔遊びの日に、近くの小学校の校庭でやるんだよ。それに、お正月は学校も大人もお休みでしょ。だからできないんだよ」
 そう言うと、聡子は母親の菜穂子そっくりの勝ち誇ったような顔をする。自分の孫だが、この表情をしたときの聡子はどうも可愛いとは思えない。
「そうだな。お正月はお休みだからな」
 高原は聡子にそう返して、また歩き始める。そして、何が昔遊びだ、と思うのだが、自分が子どもの頃だって、凧揚げなど古い遊びの部類に入っていて、ちょっと金を持っている家の子どもは「今どき、日本の凧はダサイ。これからはこれだよ」とイトマキエイのような形をした西洋凧に興じていた。
「あ、凧だ!」
 聡子が空を指さしている。確かに西の空に小さな西洋凧のシルエットがある。
「きっと、小学校であげているんだよ。あの凧の模様、見たことあるもん」
 逆光気味で見えづらいが目をこらしていると、その凧が赤と黒のラインをまとったいかにもスタイリッシュなデザインを強調していることが分かる。
「おじいちゃん、今日はお正月でお休みだけど、昔遊びのおじさんが頑張っているのかもしれないね」
 聡子は自分の前言を自分でひっくり返すことに抵抗があるのか、恥ずかしそうに言いながら、すでに小学校の方向に向けて歩き始めている。さっきまで、ぼんやりとした犬の散歩だった道行きが、聡子の中で明確な目的を持った。
 聡子の目はしっかりと凧を見すえ、確かな足取りで小学校を目指している。ブリオッシュも聡子の意志を感じたのか、さっきよりもいくぶん力強く歩き始めたようだ。高原はただ聡子とブリオッシュを眺めながら後をついていく。
 小学校が近づくにつれて、凧が視界から消えることが多くなった。建物に遮られて、凧が見えなくなっても、聡子は凧があるはずの方向を見すえて歩いた。そこに行けば、必ず凧を揚げている人がいて、そこに行けば凧とその人をつなぐ糸がある。聡子にもブリオッシュにも何の疑いもないようだった。
 しかし、高原はブリオッシュと聡子の後を歩きながら、そう確信できるのはお前たちが若いからかもしれないぞ、と思い始める。最初から凧は別の場所で揚げられているのかもしれないし、もしそこから揚げられていたとしても、その人物はもう凧糸を鉄棒にでもくくりつけて帰ってしまったかもしれない。
 どちらにしても、誰もいないだだっ広く寒々しい校庭ばかりが思い描かれる。空に上がっている凧と、地上の出来事はまったく無関係なのではないか、という気持ちが高まってくる。高原はそのことを聡子に言ってみたい衝動に駆られる。もし、誰もいなかったらどうする、と聞いてみたいのだが、「それでもいいじゃない」と答えられたら、ちょっと立ち直れないな、と思い直して、大人しく聡子の背中を眺めながらスクールゾーンと大きく書かれたアスファルトを歩くのだった。

ピンネシリから岬の街へ── JMCへ

くぼたのぞみ

ニアサランド製サンダルはいた
爪の先から土埃はらい落とすように
男は 真夏の岬の街から船に乗り
赤道をひらりとまたぎ
降りた港のサザンプトン
そこは真冬だよ 真冬
サンダルばきじゃやってられない
臨港列車に乗り継いで
あこがれのメトロポリスへ向かう
ポケットには84ポンド
それが蓄えのすべて

植民地生まれのエリオットや
パウンドみたいに 住みついて
仕込んだファッション 
ほら 岬の街に帰ってきた
髭を生やした23歳
黒いスーツにネクタイしめて
手にはこうもり傘と革鞄
プロヴィンシャルの 属国の
美しい風の街を闊歩する

なあんだ
60年代は世界中どこも
そんな時代だったのか

ここから出て行く
閉じ込められずに
プロヴィンシャルとは
地方とは 
そんな思い募らせる場所
それでいて
土くれとともに
あの風景のなかに
死んだら姿を消したい 
紛れたいと 思いをはせた遠い記憶
ノスタルジアふくらませながら
回顧する場所

粉雪が舞い狂うピンネシリの
ふもとに広がる青い幕
その彼方へ
先住びとの邪魔をせずに
アイヌモシリのすみっこに
どろん 
紛れさせていただけるかな
そんな祝祭はくるかこないか
Tokyo の初冬から初夏へくるり反転
岬の街まで出かけていって
青い山から幾度も 幾度も
遠く離れて 考える

オトメンと指を差されて(54)

大久保ゆう

みなさま、あけましておめでとうございます。今回は新年ということもありまして、このエッセイをテーマにした〈いろはがるた〉の読み札を作ってみました。せっかくですのでよろしくご活用ください。

【い】いつの日か天才な人にお仕えしたい
【ろ】論よりお菓子あげれば従順
【は】初詣願いが浮かばす世界平和
【に】人数が集まると自然と保護者になる
【ほ】ほっとくと年賀状にポエムとか書く
【へ】ぺけぺけと書き物しながらしょこらしょこら
【と】どこへ行くにもマイ枕持ち込み
【ち】チョコ菓子の限定品で季節知る
【り】理由もなく鞄が大きいし重い
【ぬ】ぬいぐるみキモいのほど愛しく見える
【る】流浪癖ふらふら歩いてすぐ迷子
【を】ヲトメンは固ゆで卵と見つけたり
【わ】私個人がストラップにされて拝まれる
【か】勘違いしないでくれよ草食べないし
【よ】よそへ行くとよく飴ちゃんもらえる
【た】ダイエット凝った挙げ句に痩せすぎた
【れ】練習・黙々・こつこつ・努力
【そ】空耳で作ってみたよたいやきうどん
【つ】ついつい深夜にパン焼いちゃわない?
【ね】熱血でさばさばしてる姐御メン
【な】悩むのは時間の無駄と即行動
【ら】ランドセル背負わぬままに学校へ
【む】虫の裏側って大人になると見れない
【う】歌えへん
【ゐ】色よりも恋の方が楽しいのに
【の】飲み物はまずいものが好きです
【お】温泉町にあったらいいな翻訳村
【く】くしゃみなんて頑張れば自由に操れる
【や】訳すのは息するのと同じ
【ま】まめまめしいこの言葉だけでうっとり
【け】毛玉を集めたい年頃ってある
【ふ】武道とかやってる人に多いよね
【こ】怖いもの見ては乗っては大爆笑
【え】絵本を訳す世界旅行がしたいんです
【て】TLがお菓子だらけだったらいいのにな
【あ】朝起きて目覚ましがてら弁当作り
【さ】作業中寝ころんでることが多い
【き】気がつけば弟的存在が増えている
【ゆ】夢見てるそばから計画立ててます
【め】メンズの選択肢増やしてほしい!
【み】身だしなみやりすぎるとややコスプレ
【し】ショートケーキとカントリーマァムは和菓子です
【ゑ】酔いが回っても普段と変わらない
【ひ】ひとりではなかなか入れぬイートイン
【も】もめ事に巻き込まれやすい魔法使い
【せ】扇子とかいつも鞄に入ってそう
【す】スイーツが不可欠なのはもののことわり
【京】京都の夏は中東から来た人もへばる

ジャワと干支、巳年にむけて

冨岡三智

思えば、ジャワでも干支がポピュラーになってきた感がある。昨年のジョグジャカルタ滞在中、年末年始にショッピングモール内にある本屋に行ったら、「辰年」を強調した占いや経済予測の本がたくさん積まれていた。手にとった女性雑誌には、干支の占い欄もある。最初にジャワに留学した1990年代後半は一般の女性誌に干支占いは載っていなかったような気がする。

華人文化を弾圧していたスハルトが政権の座から落ちた(1998年)後の2000年から2003年まで、私は2度目のジャワ留学をした。2000年に来たとき、本屋には孔子の本や風水の本が山と積まれ、開校したばかりの芸大大学院で竜舞や華人のジャワ文化に対する影響なんかを修士論文のテーマに選ぶ人が出てきて、時代が変わったと痛感した。2003年から初めて旧暦(中国暦)正月が祝日になって、スラマット・リヤディという目貫通り沿いの華人系の店をバロンサイが初めて巡回した。この日私は公演があって、楽屋でそれが大きな話題となっていたので覚えている。その前年の2002年、旧暦(華人暦)はまだ国の祝日にはなっていなかったが、職場によって祝日扱いしてよいという通達が大学の掲示板に貼られていた記憶がある。

そんな風にして華人文化が復権してきて、新年の雑誌に、○年はこんな年、あなたの干支は○○で性格は××、といった類の記事をよく見かけるようになった。昨年は干支を強調した本がたくさんあった言ったけれど、辰(ナーガ)年というのが良かったのかもしれない。ナーガはジャワでも彫刻やバティック(更紗)の意匠としておなじみだからだ。

巳年にちなんで、ジャワ(舞踊)で蛇に関係する話はないかなと考えてみたが、どうも思いつかない。蛇はだいたいナーガ(竜)と同一視されるのだが、物語に登場するのはやっぱりナーガの方である。たとえば、スラカルタ王宮の地下にはナーガが住んでいて、アブディダレム(宮廷家臣)が金製品などを身に着けていると必ず地下のナーガに取られてしまうとか(これは宮廷の身分秩序を教え込むための寓話だろう)、ジョグジャカルタ王宮の地下にはナーガが住んでいて、その尻尾は南海まで伸びているとか(ジャワ王権を守護する南海の女神が、王と常につながっているという寓話だろう)、王宮にまつわるエピソードが多いのは、やはりナーガが王の象徴だからだろう。インドではガルーダ(鳥の姿をした神、インドネシアのシンボルになっている)はナーガと兄弟神ながら、死闘を繰り広げるというお話もある。

ジャワで蛇と言って頭に浮かぶのは、アクセサリに蛇のデザインが多いことぐらいだろうか…。女性用だと腕輪や指輪のデザインに蛇のデザインはよくある。男性用だと正装時に着けるベルトのバックルには、コブラが2匹からみあったデザインがある。今年96歳になるというジャワ宮廷の長老で着付の師匠は、蛇の意匠はアクセサリのデザインとして古いものだと言っていた。ここでいう古いというのは、イスラム到来以前、つまりヒンドゥー文化の時代というニュアンスのようだ。だから、ジャワでは蛇というとインド文化の香りがする。

蛇のデザインがナーガ化していったのは、1つには具象的な意匠をきらうイスラムの影響かもしれない。また、蛇ではデザインが単調すぎてつまらないと考えた職人たちが、蛇を装飾してナーガに仕立て上げることに熱中したのかもしれない。

というわけで、ナーガに比べて印象の薄い巳だが、今年のジャワの雑誌には、巳年の運気や巳年の人の性格はどんな風に紹介されるのだろうか。楽しみである。

ロックバンドの20年を祝福する

若松恵子

キャメロン・クロウ脚本・監督の記録映画『パールジャム20』(2011年)を見て、パールジャムというロックバンドにすっかり心奪われてしまった。彼らは、ニルヴァーナと並ぶグランジロックの人気バンドだから、何を今さらと笑われてしまうと思うけれど、ローリング・ストーン誌の記者時代からこのバンドを追い続けてきたキャメロン・クロウならではの、バンドへの愛にあふれる素晴らしい映画だった。ボーカルを担当し、バンドの顔でもあるエディ・ヴェダーの存在は知っていたけれど、映画で知った他のメンバーもそれぞれ大変魅力的だ。

ギターのストーン・ゴッサードとベースのジェフ・アメンへのインタビューを中心にバンドの物語が語られていく。パールジャムの前身である「マザー・ラブ・ボーン」のカリスマボーカリストであったアンディ・ウッドをドラッグの過剰摂取で失い、バラバラになりかけていた時に、新たなボーカリスト、エディ・ヴェダーを迎え入れて、バンドが再生するところからパールジャムの物語は始まっていく。送られてきた様々なデモテープから、エディを見つけ出した時のことを、アンディの親友でもあり、シアトルでの音楽仲間でもあるサウンドガーデンのクリス・コーネルが「テープで彼の声を聞いたとき、人が見えた。本物の人間だよ。別の人間になろうとしている人ではなく、本物の男がいた」と語っていて心に残る。デモテープを送った頃の事を回想するエディの言葉も素敵だ。「ボーカルなしのデモテープが届いた。曲に感情を揺すぶられる事なんて久しぶりだった。仕事を終えて、サーフインをして、足に砂をつけたまま録音した」と。

メンバー同士がお互いを見いだし、認め合い、そして成長していく。バンドにとってこれほど幸福なことはない。私がこの映画とパールジャムに心魅かれたのは、ロックバンドの幸福という奇跡の物語をそこに見たからなのだと思う。

1200時間の映像を約3年かけて120分に仕上げたというこの映画には、若い、長髪にメークの尖がったメンバーの風貌と、今は”もう髪を短くしていてもちゃんとロッカーに見える”ただ者ではない自信に満ちたメンバーの風貌、両方が魅力的に捉えられている。エディ・ヴェダーとの出会いからわずか6日後に行ったパールジャム誕生のライブで演奏された彼らの代表作「アライブ」。映画の最後に、20年目の「アライブ」のライブ映像が再び登場する。音は古びずに、より深い確信に満ちていて心を打たれる。いっしょに歌う観客の映像が挟み込まれる。メンバーそれぞれも、ファンと同じように、ロックを見つけることで生き延びてきた人たちに違いない。いくつかのバンドの危機を乗り越え、今、さらに強い結びつきを持って奏でる音は、聴くファンを勇気づけている。

今ここで

笹久保伸

今ここで
耳だけに聴こえない音楽についての話をするよりは
限りある水の冬眠を促し
水を水で薄める装飾音についてを話すほうが
例え間違った音を出してしまっても水脈にはやさしいと思うのです
呼吸ある限り方向を変え続けるために
暗闇を踏み続けて

同姓同名

大野晋

新年おめでとうございます。

世の中には同姓同名の人間が何人もいる。自分の同姓同名の人間は有名な日本語学者のほかにも何人かいるのを知っている。そのうち、何人かは私と似たような分野にいるので間違えられることはないか、と思っているが、今のところ、情報学研究所の文献データベースにはきちんと分かれて収録されている。その辺はどこかの著作権データベースよりもしっかりとしている。

外国人でも同姓同名の人物は存在するが、これが結構ややこしい。実は、私はマイケル・ジャクソンという人物を三人知っている。ひとりはご存じキング・オブ・ポップのマイケル・ジャクソン。もうひとりは、コンピュータ業界ではジャクソン法というシステム開発技法で有名なマイケル・ジャクソン。そして、最後のマイケル・ジャクソンはビールやウイスキーの著作を残したマイケル・ジャクソン。全員がマイケル・ジャクソンなのでややこしいが、幸いにして分野が異なっているためなんとなく煩わしいことはない。

これが、ジョン・ウィリアムズになるともっとややこしい。ギターの巨匠なのか、作曲家兼指揮者の方なのかは文脈によってくる。では、ジョン・ウィリアムズ作曲のギター協奏曲があったら? 困るでしょうね。

実はこの問題は常にあって、社会保険庁の年金履歴の問題もこの同姓同名問題に他ならない。終身雇用を前提に名簿管理を考えていたので、転職や転住などで名簿が不連続になるとそれが反映できなかったという話だ。最近は三鷹あたりにあるセンターで全員に統一番号を振って、これをもとに一元管理しているので特に新しい問題は発生しないようになっている。ただし、年金を含めた社会保険の統一番号管理はすでに始まっているわけなんですが。

ところで、コンピュータの世界には面白い人もいて、モジュールに即した名前をつければ問題はないという話をつい最近聞いた。しかし、人間の使う単語が有限であり、その組み合わせもまた有限なら、似たような機能やモノにつける名前もどうしても同じようになる。実は同姓同名というのは必然の結果なのではないかと思っている。この辺の話はなんでも仮説上の話で考える方にはわからないのかもしれない。名前というものはめちゃくちゃな文字列の組み合わせではないのだから。

昔、長野県の女性に「みゆき」という名前が多いことに気づいたことがあった。あだち充の「みゆき」がヒットするよりも昔だから純粋に「美しい雪」という存在にちなんで付けられたのだろう。とはいえ、寒い地方の雪は美しくもあり、怖くもある存在である。それが女性の名前になることにいまも不思議さを感じている。この傾向、長野県だけの傾向なのか、はたまた、他の北国でもいっしょなのかは実はリサーチしたことがない。ぜひ、どなたか調べてみてはいただけないだろうか?

十二月、むかえておくりだす

仲宗根浩

クリスマス寒波のあとから暖かくなる。夕方から夜の仕事中は半袖でも過ごせる。半袖で大丈夫ということは暑いということでいいだろう。でもその後は寒くなり、すこし暖かくなり、今年も終わると。四、五年ぶりで元旦と二日休み。

六月から仕事二つ掛け持つようになって見事に暇がなくなる。十二月は両方の仕事ともに繁忙期というやつで週一回の休みひとつ吹っ飛び、何年振りかの十三連続出勤というのをやると、まわりが親切に年寄扱いしてくれた。

十二月一日は雨だったのではっぴいえんどの「十二月の雨の日」が頭なかでヘビー・ローテーションになり、未発表ヴァージョン、シングルヴァージョンを久しぶりに聴いてみた。どれもあのギターがあるからこの曲は成り立っている。

十二月十二日、市の防災担当というところからエリアメールというのが届くと同時に近所にある市のスピーカーから放送が流れる。時間は十一時一分。文面は以下の通り。

北朝鮮ミサイル通過情報
北朝鮮から衛星と称するミ
サイルが発射された模様で
す。念のため屋内に避難し
、テレビ・ラジオ等、今後の
情報に注意してください。

メールは一分後に以下のものが届く。

北朝鮮ミサイル通過情報
北朝鮮から衛星と称するミ
サイルが発射され、上空を
通過した模様です。テレビ
・ラジオ等の情報に注意してください。

これって防災か〜? まあ、いろんなものが空を飛んだり、通過したりするとこではあるけどね。

久しぶりのお正月休みはフルメンテに出したギターをアンプにつなぎ、下手なりででかい音を出すとしよう。

しもた屋之噺(132)

杉山洋一

一年が瞬く間に過ぎてゆきます。今日が大晦日だとはにわかに受け入れがたい思いですが、アルプスのふもとのメッツォーラ湖のほとりで愚息と元旦を迎えるべくティラーノ行急行に揺られてつつ書いています。今日はロンバルディアは空の端々まで澄みわたった見事な快晴で、おっつけ眼前にはレッコ湖から立ち上る雄大な岩肌が目の前にあらわれるに違いありません。

今年一年、水牛の原稿を特に毎回テーマも決めずに、日記を転記しながら綴ってみて、文章書きと作曲との共通項の多さにあらためて気がつきます。一つ一つはさほど意味を持たない些末な日常を積み重ねてゆくうち、だしぬけにそれら時間の重層が思いもかけぬ意味を持つようになります。些末な日常ながら、記憶に留めておきたい殆ど無意識の欲求が常に薄く残っています。容量の小さいコンピュータと同じで、あまり沢山のことを頭に留めておけないのでしょう。こうして書き出してしまえば、気分が良いところも作曲に似ています。

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12月某日 ミラノに戻る車内にて
人生の最後に、しておけば良かった、会っておけば良かった、と思うことがらは、せめて一つでも減らしておきたいと思うようになった。インターネットや電子メールのおかげで、遠距離間のコミュニケーションが容易になり、人に会い顔を見て話す大切さを最近忘れかけていた気がしている。
家人の恩師を訪ね、夜行寝台に揺られてイタリア半島南端のターラントへ出かけた。酷い寒波がヨーロッパを覆っていたので、身体を温めるため、ミラノ中央駅でイタリア産コニャックの小瓶を購う。6,5ユーロ。連休の直前に旅行を思い立ったので、4人部屋の簡易寝台しかとれない。発車直前に車掌が、シーツと枕カバー、水と杏ジュースをぞんざいに置いていく。
夜明け前のバーリから、小さな電車に揺られてターラントへ向かうと、通学中の高校生の人いきれで溢れかえり、この地方では今日は平日だと知る。車窓にひろがる果てしないオリーブ畑は北イタリアでは想像すらできない乾いた土の色。

ターラントで拾ったタクシーの助手席に乗り込み、シートベルトを締めようとすると、初老の運転手は笑いながら、「ここはイタリアではないよ、アフリカさ」。
そういうと、アラームが鳴るので彼もシートベルトを締めた。尤も、彼が締めたのはシートベルト金具のみで、ベルトそのものは外してある。少し離れた恩師の住む別荘地へ車を飛ばしながら、通るバスの番号を教えてくれのだが、しつこく復唱を求めるのが愉快だ。「で、駅にもどるのは何番のバスだったかね」。「28番だっけ」。「それは反対だ、サンヴィートへ出かけるのは28番、駅に戻るのは27番、わかっとるのかね」。鄙びた訛りが心地よい。

約束の時間まで余裕があって、恩師の住む「海蛍通り」を奥まで進む。と、だしぬけに、真っ白な小さな海岸と目の前に果てしないコバルトブルーのイオニア海が姿をあらわした。特にイオニア海は喩えようもない美しさで、右奥にうっすらシチリアが見える以外、視界をさまたげるものは何もない。海岸に無数の深緑の玉が打ち上げられていて、押すと弾力がある。大きいものは掌を上回るほどで、尋ねると、これが海綿で、垢すりに使うのだという。
この辺りは、全て道に海産物の名前がつけられていて、「海蛍通り」の隣は「水母通り」。日本語で水の母と書くクラゲに、イタリア人は怪物メドゥーサの名前を与えた。2年ぶりに会うブルーノは、意外に元気そうで、「Bruno Mezzena Bolzano 1946」という署名が入ったカゼルラの「ピアノ」という本を借り、カゼルラとプロコフィエフが入った古いCDを頂戴した。

翌日、ターラントの聖カタルド教会から、聖母の受胎を祝う、荘重な行列が出た。ブラスバンドが奏でるゆったりとした8分の6拍子のベネディクトゥスに合わせて、右に左に聖母像を揺らしながら、少しずつ歩を進めていて、まるで引き伸ばされた映画、いやスローモーションのフィルムを眺めているようだ。周りでは、みな熱心に聖母像に手を併せていた。帰りの寝台急行に乗ろうと、バーリ駅構内で焼き立てのパンツェロットを齧っていると、機嫌のよい労働者風の男たちが大声で話しかけてくる。初め中国人と勘違いして、ニーハオ、ニーハオと囃し立てていたが、日本人だと言うと、日本の経済強力のおかげで、オイラの街ナポリはすっかり見違えるようになったと感謝される。

12月某日 自宅にて
風呂から上がった息子にドライヤーをやりなさい、と家人が言うので、ドライヤーはかけるもの、あてるものだと口をはさむ。尤も、7歳の息子に「ドライヤーをあててよ」と言われても困るので、確かに日本語はむつかしい。
ところで家人が「嗅ぐ」と言うべきところを「臭う」というのが気にかかっていて、調べてみると関西の表現らしいが、普段日本語に触れる機会の少ない息子のためには「匂いを嗅ぐ」と「匂う」の違いを教えてやってくれと頼む。日本語の自動詞と他動詞の違いは、思いのほか曖昧。息子の前で気をつけているのは、ら抜き言葉と「ヤツ」を使わないで話すことくらいだが、最近息子がよく言う「しかも」をどこから仕入れてきたのか不思議に思う。息子の国語の練習帳を見ていて難しいのはやはり擬音・擬態語の類で、こればかりはどうにも説明も出来ない。どう覚えたのかも記憶が定かでない。

12月某日 自宅にて
昨年から雨が降ると屋根の雨樋から天井に少しずつ水が染み出していたのが、今年の大雨と大雪に至っては、遂に天井から水滴が滴るようになった。
管理組合に連絡するため懐中電灯でしずくを照らしてヴィデオ撮影していると、息子が「何だか僕たち化石を撮っているみたい」とつぶやいた。水を含んで剥がれ落ち、ふわりと生えた黴で毛羽立った漆喰の壁は、確かにかかる風情を醸し出す。
夜半にベルリンから戻り、ミラノの空港に降り立つと雪がしんしんと降っている。荷物も少なかったので見本市会場で一人降ろしてもらい、ロット広場から人気のないバスに乗ると、後方でアラビア語で罵り合う酒臭い労働者3人が殴り合いの喧嘩。彼ら曰く、一人が他の二人の荷物を盗んだと言う。盗まれた側は運転手に警察に突き出してくれと頼み込むが、毎度のことなのか、彼は相手にもしない。暫くして犯人呼ばわりされた男が逃げ出して、他の二人は、乗ってきたアラブ人の妙齢に絡みはじめた。あんたの宗教で酒は御法度だったろうと諭そうかとも思ったが、妙齢が席を移動して運転手の傍らに座ったので、そのまま降りた。
翌朝、久しぶりにエミリオと電話で長話。演奏家も指揮者も、品揃え豊かなスーパーマーケットに置かれるようになった昨今、人目につき易い場所で、分かり易くディスプレイされていなければ、存在すら忘れられてしまう。

12月某日 自宅にて
MやEの楽譜を受取りに出版社に出かけ、販促のガブリエレと思いがけず話し込むことになったのは、カスティリオーニの未初演のオペラ「ジャベルヴォッキイJabberwocky(不思議の国のアリス)」に話が及んだから。普段は仕事上あたり障りない会話に終始していても、興味や情熱が合致して思わず仕事抜きで話に花が咲くのは、元来彼も立派な音楽学者なのだから当然だろう。学校へ息子を迎えに行く時間なんだ、と慌てて席を立つと、一部しかない楽譜のコピーをこちらの胸に押しつけ、今はこれはお前が持っていてくれ、と上気した顔で言ってくれる。
「ジャベルヴォッキイ」は、元来61年のラジオ劇「鏡の国のアリス」の直後にスカラの小劇場のために作曲されたものの、初演されることなく忘却のかなたに捨置かれていた40分ほどの小オペラ。ソプラノ・レッジェーロの「アリス」、リリックソプラノの「ねずみ」、アルトの「亀」、テナーの「うさぎ」、バリトンの「帽子屋」、バスの「グリフォン」が登場し、それに4部合唱と2管編成のオーケストラがつく。カスティリオーニが最も輝いていた時期の作品で、事実楽譜を読み始めると面白くてとまらない。きっと近い将来彼の傑作の一つとして認められる日が来るに違いない。

12月某日 自宅にて
ドナトーニの次男レナートからクリスマスのメッセージが届く。
「不況の辛さが身に凍みるが、どうしたものか本当に途方に暮れている。このご時世じゃ物件を売飛ばすことすらむつかしくて。お前からのメッセージのお陰で、いつも心を和らげてもらっているよ」。両親は既に他界し今春長兄のロベルトも頓死して天涯孤独になった彼の言葉は、率直だが重い。ドナトーニが長く夏期講習会を催していたシエナの近くの、トスカーナの丘の上に、兼ねてから趣味だったビリヤードが本格的に楽しめるペンションを経営している。年末に息子と彼の宿をを訪ねたいとも思ったが、聞けばキュージから先、車がなければ辿り付けないと聞いて諦めた。

12月某日 自宅にて
遠方より友来る。有馬さん東京より来訪。来年ライブエレクトロニクスを含む新作を引受けていて、右も左も分からない素人のための、即席初級の電子音楽講義。さすが大学で教鞭を取っているだけあって、手際がいい。「これが所謂イルカム風の音響です」と新しいプログラムも聴かせて頂いたが全く食指が動かない。別に自分がやる必然性を全く感じないのはなぜだろう。凝ったことをコンピュータを通して実行すればするほど、どれもが似たよう音に収斂していくのは当然かもしれない。だから、違う音を望むのなら、違った場所から出発しなければならない。有馬さんをオペレーターとして欲さないのなら、どんなに新しいソフトを見せてもらっても、思っている感覚には近づかない。自分も演奏する立場からすれば、現時点では人間に演奏できる内容には限界があることを知っているし、それが面白いところでもある。

今から100年前の1913年は、パリの「春の祭典」の年であり、ミラノのルッソロ「未来派音楽宣言」の年だった。その前年はウィーンの「月につかれたピエロ」の年だった。今から見れば、それぞれの都市で個性の強い音楽が脈々と産まれていた時代であって、たとえばルッソロの「都市の目覚め」を、今聴き返しても古めかしい印象は一切ない。彼がもし正式に音楽を学んだ人間で、ストラヴィンスキーやシェーンベルクに匹敵するほど作曲に秀でていたら、西洋音楽の歴史は全く違ったものになっていたかもしれない。ルッソロのイタリア人らしい音楽観は、隙間を観念的に塗りつぶしてゆくドイツ音楽とも違い、音響体として音楽を継承し続けてきたフランス音楽とも違って、イタリア人らしい快楽主義的な対位法観が浮き彫りになっている。

12月某日 自宅にて
家人が仕事で日本に戻ったので、息子と二人で年末年始を過ごすことになった。幸いミラノ市が提携している冬季キャンパスが近くの小学校で開かれていて、毎朝、前日の夕飯のソースで昼食のパスタの弁当をつくり、「水仙通り」小学校に連れてゆく。トラムに乗ってゆくときは、西に三つ下った停留所で降りて、お世辞にも治安の良さそうに見えない怪しげな古い公団住宅群を通り抜けてゆく。夕方5時前に迎えに行く頃には、日はとっぷり暮れている。仕事は相変わらず山積していて、朝4時から始めても全く間に合わない。

最近若い人たちに力を貸してほしいと頼まれるようになったのは、単に自分が歳を取った証拠なのだろう。聞けば、ミラノに新しいアンサンブルを作りたいという。この厭世観に塗り潰された時代にあって、若い人たちが肯定的なエネルギーを発散してくれるのは、何より嬉しい。
そのひたむきな気持ちを大きく受け止めることが、年長者に唯一許された仕事なのかも知れない。そうして共に文化を耕してゆかなければ、何が残っていくのだろう。息子たちの時代に何を残してやれるのだろう。若々しい音楽を前に、そんなことを考えながら練習を終えると、思いがけず、せめてもの私たちの気持ちです、とプレゼントを頂戴し、驚く。開けてみると、磁石付き鉛筆と洒落た書類入れだった。
「よいお年を迎えてね」と外に出ると、友人からすぐに連絡があって、リータ・レーヴィ=モンタルチーニの死を知ることになった。

(12月31日ドゥビーノにて)

掠れ書 き24

高橋悠治

「だれ、どこ」でしたしかった人びとを送り、先に道行くひとがいなくなったいま、また掠れ書きにもどってきた。2012年にはコンサートのために新作を10曲作り、そのほとんどが歌か朗読で、ことばから生まれた音楽だった。時間のなかで読まれることばに添った音楽は、声の流れの近くに楽器で別な線を辿り、あるいは川のなかの岩のようにさまざまな色やかたちで流れをさえぎり、ことばを浮き立たせ、あるいは堰き止めることができる。ことばには響きもリズムもあり、意味もあるからそれとおなじことを音楽でしなくても済むかもしれないが、歌われ読まれることばが聞こえないこともあるし、理解できないことばや、外国語である場合もあるだろう。それでも音素としてだけのことばとは言わない。ことばを伝えるためだけの音楽とも言わない。

流れるようにすぎていく音楽は安定した軌道の上にあると言えるなら、安定した軌道があれば音楽はすぎていくとも言えるだろう。概念、構造、形式から始めてそれらを具体化する音のかたちを操作することもできるし、音のうごき、と言うよりむしろ音を作り出す手のうごきについていって、作る手続きを規則に要約しながら次の段階でそれを訂正することをくりかえし、最後には足場を取り払うようにして作業を終えると、音のかたちだけが残って、構造は外からは見えにくくなるだろう。作業は終わっても、作品は終わっていない。どこか目立たないところに未完成のままの隙間がある。そこが「近づいてくるもの」の予感の瞬間でもあり、次の作品のきっかけ、創造活動の糸口にもなるのだろうか。

演奏が毎回発見のプロセスであるように、作曲は細部の演奏指示をできるだけしないで済ませて演奏の領域に踏み込まないようにする。演奏は全体の設計を作曲にまかせて、細部をわずかにうごかすことで音の質が変わるのを聞き出そうとする。和音のなかのどの音をどのくらい際だたせるか、書かれたリズムからどこでどのくらいはずれるか、書かれた記号がおなじでも関係のなかで現れてくる差異、それも音楽の内側だけではなく演奏の場で環境ともかかわりあう差異、それを創る手と同時に耳をはたらかせて続けていく演奏行為は一回性のもの。意識する直前の環境との相互作用の場に現れる瞬間的なうごきにまかせられるように、コントロールをすこしゆるめておく。

記号は変化を一つのかたちに表したもの、それだけで独立してはいない、文脈や関係のなかに配置され、何度も使われるうちに固定した対象のように操作されるが、指示する領域の境界線ははっきりしない、説明を省略しても理解されるのは、慣習と伝統のなかにあるからで、慣習は意識的に変えることができないが、ゆっくりと変化しているから、記号の指示する領域もすこしずつ変わっていく。

音楽を聞くとき、なめらかに流れ去って行かない瞬間に記憶がうごきだして、それまで辿ってきた音のプロセスが浮かび上がるとすれば、中断と転換の不規則な配置によって作品の形態が決まることになる。

ミニマリズムは脱構築の音楽だったのだろうか。同じかたちを反復しながらすこしずつずらしてかさねていくやりかたは、脱構築の建築にも似ている。それらは1960年代にはじまり、二項対立を原理とする「大きな物語」の枠ではなく、オリエンタリズムのようにアジア(あるいは)アフリカ的(非)時間の幻想に浸っていたようにも見える。パターンの演奏行為からはじめてそれを要約したものが作曲になるという点では、それまでのエリート的で書かれた作曲優先の複雑性とは反対の方向ではあった。それでも作曲になってしまうと大きな枠のなかに統一し、複雑になる傾向が出てくる。それとともに、ずらしという個人性をあいまいにする方向から、すこしずつ個性的なスタイルへ回帰していったと見ることもできる。

音をその場で創るための厳密でありながらひらかれた枠組み、説明を必要としない記号の粗い網、すばやいスケッチの空白に耳の想像力がはたらくように、統一されない断片の連結し組み換えるちいさな音楽にとどまる意志、仮面、ペルソナとしてのスタイル。

1960年代のはじめ、ヨーロッパではセリエリズムが使い尽くされ、ケージが1954年に登場した後でヨーロッパ版の「管理された偶然性」が流行し、それからやはりアメリカに遅れてミニマリズムのヨーロッパ版がさまざまなかたちで浸透した。グローバリズムの物語がこういうかたちでゆっくり準備されていたとも言えるだろうか。いまはちがう時代で20世紀全体を終わったものとして見通しても、この先の展望はない。帝国の崩壊とそれをとりつくろう政治の陰に経済も文化も覆われているようだ。そのなかに散乱する兆しをもとめて、音楽の実践は速度を落としながら観察をすすめるだろう。