ピアノ曲を歌う

斎藤晴彦

  〈アパショナータ〉  作曲 L.V.ベートーベン 作詞 斎藤晴彦

キム・ジハの詩を読むと 悲しい 涙が流れる 切ない キム・ジハの詩を読むと 怒りで 身体が震える ガタガタ キム・ジハ 君は いずこの道から いずれの道へと オイラを導くのか 答えろ
キム・ジハ 泣いて キム・ジハ 笑って キム・ジハ 黙って 一人ぼっちか そうではあるまい 君には数多の黄金に輝く魂達の 無数の叫びの只中 君には見えるさ同胞たち人間が 希望という字は 日本国では あんまり使われてはいないのです いわんや 民主主義などという字は 全く 形骸化しておりまして 複雑怪奇な状況なのだと ますます 韜晦していく インテリ 己の存在証明 即ち へのへのもへじで 煙に巻くのです 己の保身を心を配って なるたけ 曖昧模糊なる関係 分かり易さには軽蔑的 且つ 難解なものをもてはやす馬鹿だ キム・ジハの侮蔑 聞こえてくるようだ 反日民衆 搾取を憎んで 日韓癒着は みんなの責任 大韓航空 前からスパイだ!? なんとか言っては 反ソだ ロスケだ 右翼も左翼も仲良く連帯 アジアの民衆 お安く使って――
お話変わって このアパショナータ キム・ジハさんにはぴったりこんだと 私は前から思っていました 皆様 試しになんでも良いから 帰って 読んだらいかがでしょうか ベートーベンさん すぐれたところは このわかりやすさにあるのであります 湧き上がる勇気 不屈の精神 キム・ジハさんとはいい勝負――
叫びは 反抗のしるし 変革 人がつくる 解放 世界の夢 愛する人がいるか 赤は闘い 青はブルース 意志だ力だ いくぞ みんなで手を組み 一歩も引かずに 怠惰な日常 破るぞ今こそ 自動車をやめて 自転車通勤 テレビを観ないで ラジオに切り換え 早よ寝て早起き ごはんは玄米 野球は阪神 新聞アカハタ 階級闘争 夢のまた夢 サラ金地獄の 現実あるのみ
キム・ジハの詩を読むと 悲しい 涙が流れる キム・ジハ 泣いて キム・ジハ 笑って キム・ジハ 黙って 一人?

  〈軍隊ポロネーズ〉  作曲 F.ショパン 作詞 斎藤晴彦

ワレサに ノーベル平和賞 ドッチラケの クレムリンでは 断々乎として 怒ったらしい そりゃそうだ 神経逆撫でされる思いだったろうよ かつては我が国の人 ギョロ目の栄作ちゃんが 嬉々としてもらったものを 今は ワレサがもらうという めぐり合わせだな いやはや 結局のところ どうでもいいのだけれども 全ては政治のかけひき ノーベル・ダイナマイト ドカーンと一発 ポーランド炸裂 連帯喜び ヤルゼルスちゃんカンカン やれやれ
ワレサって一体誰さ ワレサっていったら彼さ 冗談かまけて おちょくるレベルでしか この問題は 問題にも何にも なりゃせんのですな
何たる暴言 何たる無礼者 全く愚かな状況認識しか 持ち合わせてはいないのですね ホントに全く ああ 腹が立つ ああ 不愉快だ 一体あなたは 今のポーランドの現実を分かって 物を言ってるのかどうかが問題だ
何も分かってねえんでがす 見たわけではねえから そんなことよりも 今月の家賃を どうして払えばいいのかが大問題なんです ああ ひにちが迫ってる 大家さんが追っかけて来る 恐縮ですけど ホント 必ず返しますですから 五万ほど 貸してはいただけないでしょうか――
ドガガガガードガーン ミサイル発射!! ズガガガガーズガーン 原爆投下! ドガガガガガ ズガガガがが…… 遂に始まった 世界の戦争 核兵器 飛び交い 街が燃えて 無くなり 消え去り消え去り 逃げて 隠れて 放射能 浴びて ニューヨーク モスクワ 灰になり ロンドン ワルシャワ 溶けて流れ 東京 北京にパリに ベルリン ローマに テヘラン ソウルにピョンヤン ジャカルタ マニラに上海
ワレサに ノーベル平和賞 廃墟のワルシャワの街 錆つき焦げつく メタル一つ 土に埋もれて 今は誰もひろう人もいません 南極のペンギン 北極の白熊 バイタリティあるゴキブリ ゾロゾロ それからシラミに 南京虫 インキンタムシにキンカン お陽さまだけが 今日も東からのぼってきました ポーランド ソ連も消えて 日本もアメリカもない 回収不能の地球の平和 ノーベルさんは ダイナマイトを発明した人でした

  〈祖国との別れ〉  作曲 M.K.オギンスキ 作詞 斎藤晴彦

なぜ 私たち日本人は 自分の国を 祖国と呼ぶことになると 言うに言われぬ異和感を持つ 民族 民族という 言葉にも なぜか 染みついたにおい 大和民族 帝国日本人 八紘一宇 アジアの覇者 ジャパニーズ 戦争に敗れ 国家主義から 民族主義へと 生まれ変わる日
八月十五日 蝉なく暑い日 三十と九年前 果たして 何がどう この日本で 変わったといえるのか 国の仕組みは 同じじゃないか 私たちの手で 新しい国を造ったのだとは 誰も言えない 天皇は居すわる 自衛隊はウジャウジャ 経済侵略
誰もが分かってる この日本の 国としての構造は 立憲君主国 天皇の国 そんな国を 誰が祖国となんて呼ぶか いやいや 民族の誇り 世界の理想の憲法だ 平和憲法 第九条 これがある なんて どいつが胸をはり うたがいもなく 偽りの真実を 声を大にして 叫んでいる奴がいたら 会いたいもんだ
頑張れ日本 めざせ金メダル これ即ち 私たちジャパニーズの精神構造だ 何もこれは お上が 下々に ゴタク垂れたことばではない われわれの 昔から 心の中にひそむ本音 これで アジアの民を 数多 殺した
ある日 ある時 この日本が 共和国になったとしたら ララララララ そんな夢をみてたら ねずみにかじられた

(「水牛通信」1984年11月号より転載 この年の「カラワン歓迎コンサート」で高橋悠治のピアノ伴奏(?)で歌った。)

しもた屋之噺(155)

杉山洋一

ミラノに戻る機内です。昨日の夜半、仕事から戻り一足先に家人とミラノに戻った息子が反抗期でタイヘンなのよ、と電話がありました。先日までは父親は怒ってばかりいて遊んでくれない、演奏会なんか出かけたくない、と頭から湯気を立てておりましたが、母親と二人になっても状況はさして変わらないようです。最近、彼は構って欲しいときなど、こちらが巨大なスコアを床に広げて譜読みをしている横にやってきては、わざわざ何やら歌いだすのです。切羽詰まっているので申し訳ないが歌わないでくれないか、と哀願した途端、うちの父親は歌すら歌わせてくれない、酷い父親だと憤怒をむき出しにするさまは愛らしいとも言えますが、仕方がありません。
せめて息子が読みたがっていた「サザエさん」の続きを数冊持たせてやろうと、本番前オペラシティの本屋に立ち寄りましたが在庫がなかったので、替わりに購入した「いじわるばあさん」を2冊、彼のトランクに忍ばせました。そのうち一冊のビニールの外表紙がなかったのは、腹を抱えて厳父が楽屋で読みきってしまったからです。尤も、親に反抗もせずに大人になったらあとが空恐ろしいので、暫くは辛抱しなければいけないでしょう。お手柔らかに願いたいものです。

  ……

 11月某日 ラクイラにて
ローマからラクイラにつくと、肌寒い。薄く研ぎ上げられたアペニン山脈の稜線が、澄んだ青空に切り込むように縁取る。絶望的なほどの美しさは、思わず「砂の女」を思い出す。ラクイラのもうすこし先からは、チェーン規制が始まるところだった。見事な紅葉にみとれながら、しばしシューベルトの転調について考える。ふらりと入った、停留所脇のレストランで昼食。美味。会場まで20分ほど腹ごなしをかねて歩いた。
1年ぶりのラクイラは、多少復興が進んだかにみえるが、やはり立入禁止のビニールテープは、あちらこちらに見受けられる。この場所で、福島の震災のときの天皇の会見をかけ、行き場をなくした民衆の叫びを突きつける演奏会をするのは、実際のところどうだったのだろう。ヴィオラのルチアーノ曰く、満員の会場は、演奏が始まると、かなり当惑していたように見えたという。演奏会が終わり着替えて外にでると、上気した聴衆に囲まれた。見れば、あちらこちらで、今の演奏会について、さかんに意見を言い合っていた。

 11月某日 新潟駅前ホテルにて
成田から三軒茶屋に戻り、30分ほどで簡単に身仕度をして吉原さんのところへうかがう。カシオペアのリハーサルのあと、東京から新潟ゆきの最終列車に乗り、すぐさま眠りこむ。

今朝は新潟のホテルで朝4時に起床、5時に波止場にむかう。朝髭を剃りながら、ちょうど一週間前、ローマのティブルティーナ駅脇のB&Bで、朝蒸気機関車がもうもうと煙をたてて出発するのを、呆気に取られて見ていたのを思い出す。おそらく観光用だったのだろう。
佐渡ゆきのフェリーは揺れると聞いていたが、寝ていたのでわからなかった。日本海を見るのは、子供のころ友達と二人で鉄道旅行をした萩以来で、あちらはもっと幻想的で静的な印象があったが、目の前の海は男性的で荒々しく、厳しい波が沸き立つ。波の華というんですよ、と岸に舞う白い泡を指差して、鼓童の辻さんが説明してくださる。海を見て育つ、と到底一括りにはできない。

午前中は、廃校になった小学校の体育館で妙齢の大田さんの舞台練習を見せていただき、午後は玉三郎さんの監督作品の通し稽古に立ち会わせて頂く。大田さんは、さまざまな古典芸能を紹介するための舞台、玉三郎さんは、全て新曲による、まったく新しい領域への挑戦。

大田さんのほうで、もう長く鼓童が取り上げていなかった、鹿踊りをみる。3メートルほどの竹を二本、肩から担いで、それを床に打ちつけながら踊る、この場では、辻さんが唯一この踊りをご存知だったということで、若手に稽古をつけていらした。他の曲をを練習しているとき、手の空いたメンバーは、担ぐ竹を割いて糸で編みなおし、和紙をはめ込んでいる。鹿踊りと獅子舞はどこかで繋がっていて、と大田さんが丁寧に説明してくださる。でも、地元の方がやられるのには、全く敵いません、神と繋がっているというか。だから本当に感動します。我々は本来営利目的でないものを、舞台に載せて、お金を取ってやっているのですから、勿論違うものになります。
彼女の言葉を聞きながら、我々のやっている音楽が、少しずつ芸能から芸術へと分化してゆく過程を垣間見た気がして、とても貴重な経験をさせていただいた。

玉三郎さんの練習風景も素晴らしかった。本当に耳がよい人というのは、ああいう人のことをいうのだろう。彼が叩くと、練習したこともなくても、とてもよい太鼓の音が出るのだという。欲しい音が明確にあって、それを的確に言葉にしてゆく。最初は、全く自分には理解できないような彼らだけの共通言語で通じ合っているのかと心配していたら、とんだ取り越し苦労だった。あんなに面白い練習風景を見られるとは思いもよらなかった。

オーケストラやアンサンブルに馴れた人間にとって、あのように共同生活をして、隔絶された環境のなかで、練習に励む風景は、話には聞いていても、やはり驚きに満ちていた。こうしなければいけないとは言わないが、この状況でしかできないことをしなければいけないとは思った。

 11月某日 三軒茶屋にて
三軒茶屋のマンションの管理人さんに呼び止められた。10月にここに住んでいた同じ世代の一人暮らしの女性が病死されたという。10月初めに同僚の女性がやってきて、3日会社に出てこないのでおかしい、と一緒にインターホンを鳴らしたが何も応答はなかった。管理会社に連絡しても合鍵はなく、勝手に鍵を壊して開けることは出来ないといわれたそうだ。警官二人がやってきたが、やはりインターホンを鳴らしただけで、プライバシー保護により中には入れなかったし、女性の上司もやってきたが中には入れなかった。漸く秋田からご両親がみえて鍵を壊して中に入ると、きつい臭いが鼻をついたという。女性は御手洗で亡くなっていて、最初に同僚が訪ねてきてから既に20日以上経っていた。

隣の部屋の奥さんはずっと臭いがおかしいと言っていたそうだし、管理人さんは池を這いまわる虫が、どこからわいてくるのか首を傾げつつ片付けていた。それでも誰もあのドアを開くことができなかった。これもやはり孤独死と呼ばれてお仕舞いだとすれば、余りに切ない。プライバシー保護など、元来は日本人よりよほど個人主義が強い西欧の社会に生まれた制度だが、本来の日本人の社会体系とは相容れない部分もあるのではないか。やり切れない思いで、手をあわせる。

 11月某日  三軒茶屋自宅
初台にリハーサルにでかけると、佐渡さんがいらしていておどろく。フルート吹きの義妹が随分お世話になった方だけれど、実際にお目にかかるのは初めてだった。5人のソロがあるでしょう。これをベルリンでやったときは、自分の年齢やホテルの番号やら、いつも5の数字が自分につきまわっていてね、ととても気さくな方で安心する。

初台のリハーサルを終えて、吉祥寺へ走る。初台駅に着くと、笹塚の人身事故で電車が止まっていたので、東中野までタクシーに乗った。
ルネッサンス・フルートの菊池さんとサグバッドの村田さんのリハーサルをききながら、現代楽器とは根本的に違う表現で、何かを伝えたいと思う。伝えるのではなく、ある瞬間に聴き手に何かを気づいてほしいのかもしれない。同じものをみていて、同じものを吹いているのに、気がつくと全く違う風景を見ていることに。二人の間には、ただ渇いた風が吹きぬけるのみ。
ルネッサンスフルートの音調に、パレスチナの笛の音を聴き、サグバッドにパレスチナの国歌のファンファーレを聴く。それらは演奏者の意志によってバンショワの原曲を侵蝕し、イスラエル国歌に絡みつきながら、互いに頑なに主張を繰り返し、時に耳を傾けあう。互いにどこかで出会うことを願い、信じながらそれぞれの道を進み続ける。

 11月某日 三軒茶屋自宅
菅原さんが貸してくださった武満さんのドキュメンタリーを見ながら、夜半、食卓で三善先生の譜面を開く。
「最初のチャイムで武満さんが降りてきて、最後のチャイムで武満さんが昇ってゆくね」。
菅原さんの言葉が心に響きながら、地下の蕎麦やで鴨南蛮を喰らっていると、功子先生と藤田正典さんの奥さまが入っていらした。藤田さんも真木さんと一緒に、祖父が夏になると湯河原の浜に出していた海の家に遊びにきていた。真木さんは藤田さんも連れて行ってしまった。
カシオペアは、あれだけ複雑なのにとても理路整然と書かれていて、和音はとても明快だ。本番の吉原さんは確かにに子供のころから舞台上で見ていたそのままの躍動的な吉原さんで、自分が隣で演奏しているのが何だか不思議だった。

 11月某日  三軒茶屋自宅
先日タクシーに乗ると、運転手が突然、「政治の話はあまり良くないのですけれども」と前置から始めた政権批判が止まらない。首相をぶん殴れるものなら、ぶん殴りたいと物騒なことをいい、先月も官邸の周りのデモ行進に参加してきたと話す。
別の機会に別の運転手とこの話をすると、同じく憤りを堪え切れない様子で、「この業界の人間はみな怒っていますよ」と息巻かれてしまう。「儲かっているのはほんの一部でしかありませんよ」。
こんな状況でありながら、本当に国民総生産のマイナス成長が予測出来ないというのも、素人には少し不思議な気がした。次回の選挙は、日本での期日前投票にも間に合わないし、在外投票手続きにも間に合わないので、投票はむつかしそうで残念でならない。投票率が上がることを切に希望するばかり。

村田さんと菊池さんの二重奏を聴いて、中村さんが、あの曲には土の匂いがしますね、と言って下さったのが嬉しい。演奏者はお二人とも最後、主題がかみ合う瞬間に鳥肌が立ったそうだが、演奏中に鳥肌が立つというのは、少しわかる気がする。武満さんの「フローム・ミー」を演奏しながら、自分でも何度かざわっとする鳥肌が立った。机仕事ばかりしていて、体をあまりに動かしていないのでストレスが溜まり、思い余って東京でも自転車を購入する。

 11月某日  三軒茶屋自宅
相変わらず寝る時間はまともに取れないのだけれど、ぎりぎりまで三善先生の楽譜を勉強。気持ちの良い秋晴れにつられて、三軒茶屋から大泉学園まで自転車でレッスンに出かける。どこかで昼食をとるつもりでいたが、最後まで机に齧りついていたので必死に漕いでも5分ほど遅れてしまった。新青梅街道を曲がるところで道に迷ったりしたのが災いした。朝食と昼食を食べ損ねたが、その代わり夕刻30分休憩でかけこんだレバニラ定食は、涙がでるほど美味だった。

今回は殆ど知った顔が多くて、嬉しい。少しずつでも何かが積み重ねられてゆけば、残ってゆくものもあるだろうし、万が一にもそれらは新しい芽をふいてゆくかも知れない。木下さんや伊藤さんは、先に東京で会ってから秋吉台に来てくださったので状況は知っていたわけだけれど、秋吉台で初めてお会いした竹藤さんなど、今回はどう思ったろう。秋吉台では実践的な話しかしなかったので勝手が違って戸惑ったかもしれない。伊藤さんも橋本くんも、前回に比べてずっと良い意味で振らなくなって、演奏者に任せてくれるようになったし、その分身体もずいぶん柔らかくなった。みんな素直で感心する。自分はあんな風に学べなかった。大石くんが持ってきたコレルリからも、たくさんの指揮のヒントが得られたし、初めて指揮をした矢野くんは思いの外身体がほぐれたまま振れたので、とても深くうつくしい音がした。米沢さんは暗譜で読み込んで来てくださった。

 11月某日  三軒茶屋自宅
朝まで譜面を読んで、約束の時間10時ほんの少し前に自転車に飛び乗り、蛇崩の沢井さんのお宅に伺う。玄関に置いてあった演奏会のプログラムに、何か見覚えがあると思っていたが、深くは気に留めなかった。ここに三善先生が文章を書いて下さったのよ、と後で沢井さんがそれを持っていらした時に、その昔子どものころに出かけた沢井さんの演奏会だったことがわかった。1曲ずつは覚えていないが、確かに親に連れられてでかけた演奏会だった。

子どもの頃、何も意味も分からず親に連れられて過ごした時間が、今となっては自分の深い部分に残っているのを実感していて、今更ながら両親に感謝している。この処、息子はどうも言うことを聞かないのだけれど、それでもあちこちに連れ歩くのは、本当に大切なことよ、と沢井さんは励まして下さる。

もう少しすれば、息子と一緒に出掛けることも出来なくなるに違いない。せいぜい後5、6年しか今と同じようには過ごせないのだから、多少煙たがられても、見せたいもの、連れて行きたいもの、食べさせておきたいもの、しておきたいことなど、押し付けがましくとも、しておかなければ後で後悔する。などと軽々し
く口にすると、家族からは自己中心的だと怒られる。

今日も、沼尻さんが2月に桐朋オケと演奏される三善作品プログラムの譜読みを手伝いに桐朋まででかける。同じ三善門下として、先生や大先輩の多少でも役に立てるのなら本当に嬉しい。
三軒茶屋から仙川は、自転車なら落ち着いて漕いでも30分かからないので、6時半からの練習のために、5時55分くらいまで机に齧りついて譜読みをし、楽譜をリュックにつめてでかける。何しろ3日ほど前まで曲名も知らず、練習があることすらも分からないまま過ごしていたので、急遽実家にあった楽譜を届けてもらって、1日1曲まるで三善先生から宿題を貰った気分で必死に譜読みをして、夜のリハーサルを何とかやり過ごす。

三善先生を直接しらない学生オーケストラのために、三善先生の楽譜を勉強するのは、想像以上に大変な作業だ。プロのオーケストラなら、自分に限られた時間しかなければ、とにかくどう振るかだけを考えて、何とか通せるようにして出掛けても、オーケストラは弾いてくれるに違いないが、真っさらな学生さんたちに対しては、それをしてはいけないと自分を戒める。先生の楽譜を一度でもそんな風に扱ったら、一生自分が悔やむだろう。学生さんたちも最初に三善作品とそういうルーティンで出会ってしまったら、ずっと残ってしまう気がする。しかし我ながら譜読みが遅いことに、改めて驚愕している。

 11月某日 三軒茶屋にて
朝起きて顔を洗って机にむかう。少し目処がついたら朝食を食べようと思っていて、すぐに正午になり、キリの良いところで昼食を食べるつもりでいると、気がつけばもう夕刻で時間切れになり、自転車を飛ばして桐朋へ出かける。
こんなにわかっていないのに曲を教えるのは甚だ申し訳ない。ヴァイオリン協奏曲で自分で呆れるほど変拍子を振り間違えるのは、勉強不足と疲労もあったのだろう。これを1日で読むのは自分にはむつかしい、楽譜もあまりに小さくて見えないしと自らを慰めながら、世田谷通りの上海家庭料理屋で夜の10時半、今日初めての食事で一人ささやかな幸せを噛みしめる。調子にのって紹興酒でも呷りたい気分だったが、ひっくり返りそうなので止した。

 11月某日 NEX車内にて
朝、荷造りをしながら、悠治さんの「あけがたにくる人よ」、と「狂句逆転」を2度ずつ聴く。
1度目は楽譜を見ずに、2度目は楽譜を読みながら。「狂句」の楽譜は前に見せていただいたことがあって、ビーバーなど参考にしていて、と話して下さったのが印象に残っている。何しろビーバーはヴァイオリンを弾いていたころ熱を上げていた作曲家で、ロザリオのソナタの各曲の最初に調弦が書いてあるのに痺れた。タルティーニやヴィヴァルディやロカテルリなんかより、ずっと格好いいと信じ込んでいた。こういう素朴な理由は子供らしくていい。

閑話休題。今朝は「狂句逆転」を聴いて、最初に「7つのバラがやぶに咲く」を聴いたときの衝撃を思い出していた。あの頃はまだ小学生でヴァイオリンを弾いていて、クレーメルとカントロフに憧れていた。ちょっとエキセントリックな演奏家が好みだった。クレーメルがアファナシエフと開いた東京の演奏会にでかけて、あの曲を知った。そのあと程なくしてラジオをエアチェックするなりして録音を繰り返し聴くようになった気がする。まだCDは出ていなかった。ショットから楽譜が出版されるとすぐに買った。

あのときと同じ響きがした。荒井さんの音で、童心に帰ったようだった。同じころ、ヴァイオリン独奏曲の「ローザス」もずいぶん聴いたし、弾く真似事もどれだけやったことか。あの録音はズーコフスキーだったと思うが、違うかもしれない。微分音が並び、リズムが複雑なローザスと、旋律が浮きあがる「7つのバラ」、どことなくそれらが全て溶け込んだ響きの「狂句」。
自分は子どもの頃、一体何を聴いていたのだろう。或いは何も聴いていなかったのかもしれない。今となっては、荒井さんとクレーメルとズーコフスキーの音が、記憶の襞に絡めとられるのを、ぼんやり見つめるばかりだ。

(11月30日 ローマ行機上にて)

121アカバナー 別室

藤井貞和

  別室

(別室で、何かが起きるよ。 別室が燃えているよ、あかあか。 二つに割れるよ、きみの別室。 別室に呼び出されると、きみはどうする。 十二月、今年の「もうすぐ終り」はあしたの「終り」。 あしたの「もうすぐ終り」は今年の「終り」。 不要になった犯罪人は獄死する、そのかたすみで。 あいつに別室から逆流する汚染水を飲ませたかったな、年忘れの悪夢。)

アジアのごはん(66)柚子胡椒

森下ヒバリ

先月の水牛通信を読んだマレーシア在住の友人が、今朝、京都にやって来て開口一番「なんだ、太ってないじゃん」。あはは、ココナツオイル食べすぎで太ったと書いてから一か月、ワタクシは順調に元の体型に戻りつつあるのであります。トウガラシ大量摂取作戦を行いつつ、近所の友人とウォーキングというか、ちょっと長めの散歩を始めたのである。

バカ話をしながら早足でどんどん歩いていくのが何とも気持ちがいい。いわゆる運動、というような歩き方ではなく、あくまでちょっと早足の散歩である。折しも京都は紅葉の真っ盛り、しかも近所は仁和寺、妙心寺、竜安寺に金閣寺、双ヶ岡に広沢の池、太秦広隆寺、宇多野、高尾などなど名所旧跡、自然の宝庫。ふだんは路面電車の京福電車やバスで行く買い物も、散歩代わりに歩いて行こう、じゃあ行こう、ということになって毎日夕方に1〜2時間歩き回る生活だ。近所といえども、こんな道があったのか、ここの紅葉はすごい、え、こんなところに鳴滝の滝が!とか、太秦映画村はこんなに入場料が高いのか、竜安寺の領地の裏山はなんでこんなに広くて大きいのか(しかも天皇の御陵がたくさんある)、今日の夕焼けはすごくきれいとか毎日が発見の旅である。

しかも、何か気分が明るい。寒くなってくるとウツ気味になる(だいたい気温が摂氏15℃を切るとダメになっていく)のだが、早足で歩いていると、気持ちが明るくなってくる。しかも、いやいや歩いているわけでなく、3日目ぐらいから「歩きたい!」と身体が要求するようになってきた。ついつい、帰りついてビールでも飲むか、とふたりで一杯やってしまうこともたびたびあるが、まあたまにはいいってことで。

トウガラシ大量摂取ダイエット作戦は、一応継続中だが、この間、姉が遊びに来たので夕食にキムチ鍋を供したら「ええっ、毎日こんなに辛いの食べてんの?」と驚かれた。「え、これが辛い?」その日は遠慮してキムチ以外にはトウガラシを入れてなかったので、ヒバリにとってはほんのり辛い程度である。わが家の辛い基準はあまり一般的ではないのかもしれない‥。

それはともかく、先日たくさんの柚子と柿、野菜をいただいた。うちの同居人のファンの方からの差し入れである。すべて自家栽培の無農薬もの。待ってました〜。去年たくさん柚子をもらったときに、思いついて柚子胡椒(ゆずごしょう)を作ってみたのだが、それがたいへん美味しかったので、今年も作りたくてうずうずしていたのだ。

しかも今年は、春からおねだりしてトウガラシまで作ってもらったのである。トウガラシは柚子よりも早く実るので、先に頂いて、すでにペースト状にして冷蔵庫で待たせてある。乾燥トウガラシはいつでも手に入るが、生のフレッシュなトウガラシが出回るのはほんの一時、なかなか入手が難しい。去年も柚子をもらったのはいいが、生トウガラシがない。そこで、たまたまタイでいつも買ってくる生トウガラシの荒潰し、ナムプリックがたくさんあったので思いついてそれで作ってみたところ、かなりおいしいのが出来た。しかし、ナムプリックを大量に日本に持ち帰るのはちょっと大変だ。そこで、柚子をくださる方に、今年はぜひトウガラシも育ててくださいとお願いしておいたのだ。

「え、柚子胡椒って生トウガラシから作るの?」と思われた方もいるかもしれない。柚子胡椒は九州地方の薬味で、柚子の皮と「生トウガラシ」をすりつぶして塩を少々加えたものである。柚子の風味とトウガラシの辛みとのハーモニーが何とも言えぬうま味を醸し出す。鍋やうどんの薬味に最適。コショウ科コショウ目のブラックやホワイトの胡椒ではなく、赤や緑のナス科トウガラシ目の鷹の爪やチリと呼ばれるトウガラシを使う。

九州地方ではトウガラシのことも胡椒と呼ぶ。胡椒とトウガラシの名前がいっしょくたなのは九州に限らない。いわゆるブラックペッパーの黒い粒粒の胡椒のことをタイでは「プリックタイ」と呼ぶが、直訳はタイのトウガラシ。「プリック」というと赤や緑の辛いトウガラシを指す。なぜ胡椒の方にタイの、と付くのかというと、タイにトウガラシが伝わって来たときには、固有の名前はないので、とりあえずもともと胡椒の名前である「プリック」と呼ばれた。ところがトウガラシは大人気でタイ料理に取り入れられ、大量に使われるようになると、それまで胡椒と同じ名前で呼ばれていたものが、本家取りで「プリック」といえば辛いトウガラシを指すようになってしまった。そのため、胡椒の方に「タイの〜」という言葉を付けて呼ぶようになった。

もっとも、トウガラシのことを胡椒と呼ぶのは九州だけの話ではない。トウガラシが16世紀に日本に伝わった時には日本名がなく、同じピリッとするところから日本全国で南蛮胡椒とか胡椒という名で代用していたのが、いまも九州や長野で残っているということだ。南蛮と呼ぶ地方もある。この胡椒との名称いっしょくたは、胡椒を探しに出たコロンブスがアメリカ大陸でトウガラシを見つけ、胡椒の一種を見つけました〜とこじつけて現地での呼び名のチリ(チレ)にペッパーを付けてチリペッパーと呼んだのが始まりだ。もちろん、トウガラシは胡椒の一種などではなく、全く別の品種の植物である。

ではさっそく作ってみましょう。
用意するもの
大き目の熟して黄色い柚子1、生トウガラシ1 塩0.3の割合(だいたい)で好きなだけ用意する。
今回は大きい柚子なので、4個使った。
柚子を切り、ふくろごと果肉を取り出し、白い綿を付けたまま細かく刻む。
生トウガラシは出回っている時期に入手してヘタを取って刻み、ブレンダーで荒ペーストにして半分量の塩を加えて置いておいたものを使う。
柚子とトウガラシをブレンダー、ハンドミキサー、ミキサーなどにかけて粉砕し好みのペースト状にすれば出来上がり。塩の量は途中でちょっと味見してみて足していく。

なるべく細かく刻んでおいた方がペーストにしやすい。塩の半量を塩麹にするとさらにおいしい。塩麹を使った場合は置いておくとペーストの表面にうっすら白い膜がはるが、これはカビでなく、麹菌なのでまったく問題ない。

出来上がったらガラス瓶などに小分けして、冷蔵庫で保存する。大量の場合は冷凍もいいようだ。少し寝かしてもおいしいが、半年以内に食べるほうがいいだろう。塩分を増やせば長持ちするが、風味が劣る。生トウガラシがない場合は、乾燥トウガラシをぬるま湯につけてもどして使うが、やはり生が一番いい。

他の人はどうやって作っているのか、とクックパッドを覗いてみたら、手袋をして完全装備でトウガラシを扱えとか、(たしかに素手で触ったら、目や肌に触ってはいけません)トウガラシをまず半分に縦割りして種を丁寧に取り出すとか、青い固い柚子をつかって皮だけすりおろすとか書いてある。ええ、そんな面倒くさい。

ヒバリのレシピは九州で無農薬農業を営む「サムライ菊之助」さんのブログから参照したものだ。一度、菊之助さんの柚子胡椒をいただいて、あまりのうまさに一気に柚子胡椒のファンになったが、その後市販のものでそこまで感動するものには出会ったことがない。去年、そういえば柚子胡椒の季節かもと菊之助さんのブログをのぞいたら、すでに完売していてがっかり。でも作り方が書いてあったので、メモしておいて自作したというわけだ。

柚子は完熟した黄色いもの、トウガラシは青でも赤でもいいが、赤くなってからの方がおいしいと思う。市販の柚子胡椒は青い色で、固い未熟な柚子の皮と未熟な青トウガラシで作ってある。これを再現しようと思うと大変だし、食べ比べてみても、ヒバリは赤い柚子胡椒の方がおいしいと思う。まろやかさが加わって、うっとりだ。ちなみに種は多少残っても気にしない、気にしない。

生トウガラシは秋の初めに出回るので、入手したら荒ペーストにして塩を加え、ガラス瓶に入れて冷蔵庫で保存しておいて、柚子が出てくるまでじっと待つ。
柚子とトウガラシは別々にブレンダーにかけてペースト状にして後で1:1の割合で混ぜ合わせるとうまくいく。柚子ペーストは少し取り分けておいて、果汁と白みそと合わせると、馥郁たる香りの柚子味噌も出来る。

さて、出来た出来た。さっそく鍋の薬味に使うと‥う、うまい!
もちろん、かなり辛いので、少しづつ入れてください。

風が吹く理由(8)ピントリング

長谷部千彩

秋晴れの日曜日、T公園を訪れた。コーヒーとサンドウィッチを買い、お昼を外で食べることにしたのだ。芝の上に敷物を広げ、その上に腰を下ろすと、地面はひんやりしていたけれど、陽射しは暖かく、汗ばむほどだった。木々は、黄葉を始めている。赤い葉をつけた木もところどころにある。卵とレタスとチキンのサンドウィッチはひとつひとつが大きくて、美味しかったけれど三つ入っているパックのうち、私はひとつ残した。ここ数年で食が細くなったと思う。
この公園には子供の頃、何度か訪れたことがある。私の記憶では、昔はもう少し寂しい公園だったような気がするけれど、随分整備されたみたい、と言うと、案内してくれた彼は、それほど変わっていないのではないか、と言った。いずれにせよ、広々とした芝生の面積といい、禁止事項ばかりのいまどきの公園とは違い、子供たちがボールを追って自由に駆け回り、私たち以外にもピクニックを楽しむ人が何組もいて、遠くから聴こえるかしましいポップミュージックにさえ耳を塞げば、まるでヨーロッパの公園のようだった。

移動の多い数週間を終え、東京に戻った私が家で仕事をしていると、母から電話がかかってきた。最近、どうしているの?という問いに、先週、訪れた香港でのデモのこと、近々発売される雑誌に寄稿したこと、ベランダに咲いている花のことなどを話し、最後に、私は「T公園に行ったよ」と付け加えた。「T公園、綺麗になってたでしょ」と母は言った。やはりT公園は整備されて綺麗になっていたのだ―私は自分の記憶の正しさを確かめ、心の中で手を叩いた。
それから、母は、その公園へ、母の姉と姉の夫(母の義兄)と一緒に行き、三人でお弁当を食べたことを話し出した。「あそこは花が綺麗だから」という母の言葉に、私は、公園でサンドウィッチを食べている時、「ここは桜が有名なんですよ」と聞かされたことを思い出し、「T公園、桜が綺麗なんでしょ」と言うと、母は「そう、桜を観に行ったのよ」と答えた。そして、ぽつりとつぶやいた。
「みんな死んでしまうわね」
私は「うん」と頷いた。母が、「死んだことは他の人に言えても、どう死んだかは可哀相で言えない」と言った。私もしんみりした気持ちで「そうだね」と相槌を打った。

電話を切ると、突然涙が流れ出し、止まらなくなった。どうして人生の終わりにあんな悲しい目に合わなければならないのだろう。そう思うと、叔母が可哀相で可哀相で仕方がなかった。彼女は、火の手があがったことに先に気づき、玄関まで逃げていたのに、二階に寝ていた夫が降りてくるのを待ってそこに留まり、夫が家の外に逃れたのを見届けた後、何かを取りに部屋に戻って、そこで煙に巻かれて命を落とした。この夏のことだ。
彼女の唐突な死を知らされた時、私はそのことが信じられなくて、信じられないから涙は一滴も出なかった。そして、浮かべる表情に困り、「そんなの信じられないよ」と言って微笑んだのだった。
それなのに、なぜ、いまは信じられるのだろう。なぜ、いまになって不在の重量を感じるのだろう。
祖母が死んだときも、そうだった。知らせを受けた時、通夜、告別式、私はひどく興奮して、新幹線の時間を調べ、ホテルを予約し、喪服の準備、香典の用意、と、普段の何倍もテキパキとそれらをこなした。さらに、通夜の場で、叔父から翌日の弔辞を頼まれた妹のために、すぐさまさらさらと原稿を書きあげ、「これ読めば大丈夫だから」と言って手渡したのだった。そして、その時も、三週間後、突然涙が流れだし、数日間、泣き通した。

なぜ私はいつも死をすぐに実感出来ないのだろう。悲しいという気持ち、泣くという行為、それらが何週間も後に起こるのだろう。
楽しいことなら簡単なのに、悲しいことには、なかなかピントが合わない。私はもどかしい思いでレンズのリングを左右に回す。
私はいつも時間がかかる。それは遅れてやってくる。
私がサンドウィッチを食べたT公園。秋晴れではなく、春の日。葉は緑。花は桜。
叔母と叔父と母はどこでお弁当を食べたのだろう。芝の上?それとも芝を囲むベンチ?
母が言いそうなこと、叔母の言いそうなこと、叔父の言いそうなことは想像がつく。
頭の中でそれらの言葉を並べて三人に喋らせてみる。三人は笑っている。楽しそう。元気そう。
だけどいまはっきりしていることがある。
ひとりはもういない。
もう死んだ。
ピントは合っている。
ピントは合って、私は泣いている。

島便り(8)

平野公子

小豆島の我が家の最寄り港は草壁港です。島のほぼ真ん中で一番静かな港です。この港と高松港を結ぶフェリー会社が内海フェリー。そこの社長にお会いしたとき「僕の家の近くに小磯良平さんがアトリエを持っていたんですよ」というお話がポロっと出た。心の中でナヌと叫んだが、それは口にださず、日々は過ぎ去り、しかし小磯良平がずっとひっかかったまま数ヶ月、それが思わぬ事から糸口のはしっこがスルスルと現れてきたのです。またか! 

おそらくこういうことです。1930年代から香川出身の猪熊弦一郎(1902―93)が始まりの気がするが、おおくの画家、画学生が小豆島に滞在、海岸やオリーブの樹や海と夕日を描いていた。猪熊弦一郎と友人であった小磯良平もそのひとりであった。糸口の資料によるとその数40数名。主に東京美術学校(現東京芸術大学)の出身画家、学生のほかにも香川や関西の画家たちの名が見える。画家のなかには小磯良平、古谷新をはじめ島にアトリエを建てた人まで数人いる。また、点数は定かではないが、彼らの残した絵まで島に残っているというのだ。数年前に人の目に触れたらしい。

それはこんな事情からであった。
彼らが絵を書くために投宿した宿は島に一軒で「森口屋」という。たしかに今その場所へ行ってみると、湾が一目で見渡せ、朝日や夕日を描くには絶好のロケーション。半世紀前では尚更であったろうと想像する。で、おそらく長逗留の宿賃のかわりに色紙に描いて置いていったもの、画帳に何人かで回し描きしたもの、長年にわたる宿屋店主たちへの額縁入りの寄贈画と、様相もさまざま。ところが2年ほど前にその旅館が倒産、管財人が入り、絵の処分になったとき、町長が残しておいたほうがいいのではないかと決断、ダンボール箱のまま落札したということであった。一度資料展で展示したが以来町の資材置き場にしまったままということだった。

その話を町長から聞いて思わずエライ!と手をたたいてしまいました。こうなったら是非ともその絵を全部見せていただきたい、どうします、と半ば強引につめより3日後に甲賀さんも連れて町長ほかみなさんと絵に会いにいきました。ウーン、これを島の財産と言わないで何を財産というのか。2年後の瀬戸内芸術祭までにきちんと絵と作者のあとづけをして、額装を直したりないものは額装して、これこそみせねばならないものではないでしょうかね。と心の中で思ったが口にはださなかった。だがその隣の部屋のほこりだらけになった民具と古文書(民芸とは言わない)をみたときに、思わず絵とこの生活道具全てをキチンと展示できるようにすべきだ、と言ってしまった。言ったからにはやりますよ。今度の山はメッポー高いけど、きっと島の若者が手伝ってくれる。

帰り道、既に人手に渡ったという小磯良平のアトリエがそのまま残っていることを知って、町役場の方たちにご案内いただいた。小さめの住みやすそうな木造2階建てのそれは、当時は海まで見渡せたに違いない小高いオリーブ畑の端に建っていた。

『三里塚に生きる』にエールを!

若松恵子

映画『三里塚に生きる』が、11月22日よりロードショー公開された。小川伸介監督による”三里塚シリーズ”第一作『日本解放戦線・三里塚の夏』の撮影を担当した大津幸四郎が、再び三里塚に生きる人々にキャメラを向け、『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』の代島治彦と協同で監督を務めたドキュメンタリーだ。

「三里塚」という言葉は、激しい抵抗運動のイメージと共に記憶している。子どもの頃、テレビで見たのは、倒される鉄塔や放水の中抵抗するヘルメットを被った過激派学生の姿だった。代島氏が、「今では反対闘争は過激派が主役だったように見られています。農民たち、というより「百姓」が闘った真意はつたえられてきませんでした。」とインタビューで語っているが、『三里塚に生きる』を見ると、この地に暮らした農家の人たちがなぜ闘ったのか、そして今でも何も問題は解決されていないのだということがわかる。

2012年に『日本解放戦線・三里塚の夏』がDVDになった時、解説役を引き受けた大津氏が何度も作品を見返すうちに「機動隊と対峙していたおっかあたちはどうしているのだろう」「若者たちはその後どんな人生を歩んだのかな」と気になりだし、「会いたい」と思うようになったのが、この映画製作の発端だという。そんな素朴な気持ちが根底にあったから、今も三里塚に暮らす人たちからの言葉を受け取ることができたのではないかと思う。

2012年の夏に撮影に入った時、今も反対運動の中心にいる柳川秀夫さんは、「過去のことは絶対に話さない」と言っていたそうだ。しかし、農作業をしながら、出荷に向けた袋詰めをしながら、代島氏の質問に対して少しずつ話してくれるようになる。代島氏がむける問いは、柳川氏自身、何度も反芻したであろう問いだ。

映画では、三里塚に暮らした様々な人の、様々な決心が語られる。農地を売って去った人、三里塚に残り続ける人、闘争を和解に終結させた人、正解のない問いのなかで、それぞれが究極の選択をすることになる。そして、誰が見ていようが、いまいが、選択した以上、その決心の厳しさを引き受けて生きていく。

映画のパンフレットに寄せている代島氏の言葉が心に残る。
いま私たちは「生きるたのしさ」ばかりが大好きで、
「生きるかなしみ」を嫌い、そしてなかったことにしてはいないでしょうか。

もうひとつ映画を見て心に残ったのは、「連帯」ということの尊さだ。長い時間をかけてねばり強く交渉し、大木よねさんの畑を空港内の敷地に取り戻した小泉英政さんは、支援者から農民になった人だ。強制的に自宅が収容された大木よねさんが本当に望んだことを引き継いで、彼は三里塚に生きている。腰をかがめ、何度も往復しながら種を撒く小泉の姿がじっと映しだされる。7歳で奉公に出され、苦労の連続の生涯を送ったよねさんは、闘争宣言のなかで、闘争は楽しかったと言い、「もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら、反対同盟さ、身あずけているだから」と言う。闘う事を通して掴んだその言葉の深さにはっとさせられる。

「連帯」というのは少しおおげさかな、他者を自分のなかに入れて生きるということだろうか、柳川秀夫も小泉英政も、自分の都合だけで決めない人たちなのだ。三里塚に今も生きる人が気になって、会いたいと思った大津も、代島も同じように連帯の人たちなのだと思う。

この映画をたくさんの人に見てもらいたいと思う。見ることで、制作者にエール(連帯の挨拶)を送りたいと思った。

☆「三里塚に生きる渋谷ユーロスペース(12月19日まで 12:20/15:10/18:15)

不問

璃葉

奥底に沈んだ記憶が 前触れもなく 唐突に 水面に上がってくる
最早 その記憶に原型はない 岩肌のような ざらざらした ぬめっとした
周りは淡く光っているが決して明るくはない
鮮明なのは 質感と懐かしさ 
いつ どこ だれ
生暖かい風が 懐かしさの空気が生まれ腹のあたりでうごめく
そして それ以上思い出すことを恐れている自分がいる

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雨の日

大野晋

それはひょんなきっかけだった。

このところ、会社の仕事で人間関係に疲れていた。午後から、忘れていた横浜のセミナーに出席できることになった。その日はコンサートの予定が入っていた。しかし、夕方、横浜にいるとどうしてもチケットは捨てなければならない状況だった。午前中はもっていた天気は夕方から急に崩れ、みなとみらいについたときには雨になっていた。

地下の深いところにあるみなとみらいの駅から地上へと長いエスカレータで上った。何度となく見た見慣れた光景だったはずだけれど、ここ数か月は来ていないと思った。ショッピングモールの2階に出るとそこには大きなクリスマスツリーが立っていた。毎年、点灯式で有名なツリーだったが、今年もそこに立っている。その横の階段をすり抜けて、港の方に歩いていくと、ふと外が暗いのがわかった。空を見上げると大粒の雨がぽつぽつと降ってきていた。そこここに大きな水たまりができている。その中を通路の端の方に設えられた小さな屋根の下を国際会議場へと向かう。真ん中に大きな空間があるのに、歩いているみんなが端の方を足早に歩いている様子が何となくおかしかった。

2時間ばかり経って、会議場から外に出ると来た時よりも激しく雨が降っていた。ふと、久しぶりに中華街に寄りたくなり、足早にみなとみらいの駅へと急ぎ、中華街の駅まで地下鉄に乗る。

初めての中華街の駅はなんとなく小さく、なんとなく暗く、そして雨の匂いがしていた。あてずっぽうに通路を選び、長い長い地下通路から外へと階段を上った。外に出るとあいかわらず雨が降っている。思わず、違う街に出てしまった感覚を覚えたが、あたりを見回しながら、場所の見当を付ける。意外と中華街の入り口から遠くない場所にでてきたようだった。雨の中を足早にあたりを付けた方向に歩くと、ほどなく、見慣れた中華街の入り口が見えた。子供の頃から何回となく、見慣れたはずの入り口が夜の闇の中で雨に濡れて、違う場所のように見えていた。

さすがに平日の雨の夜となると、いつもは人の多い中華街のメインストリートも人出はいつもよりも少ない。といっても、そこそこに多い人の中をかき分けながら、お目当の路地まで急いだ。いくつかの見慣れない、最近できたような店の前を過ぎると、そこに時間に忘れられたかのような看板が上にかかった路地がでてきた。人通りの少なくないその路地に少し入ったところにお目当の店がある。戦前からあるような小さな古い店構えで、きらきらとまばゆいばかりの他の店に比べると見劣りのする外見のその店は、少し前は長い行列ができるのが普通だったが、最近は比較的ゆったりと入れることが多い。暗い店先から明るい店の中に入ると、いつもの老女主人が迎えてくれた。

この空間もいつまで続くのかわからないが、できるだけ長くこの魔法のような場所が残ってくれることを祈りながら、いつもの肉バラそばと焼売を食べながら、外の景色を見ていた。店の中だけが、時間の流れから取り残されているような錯覚を覚えるのが、なぜか面白かった。

外は雨。秋の少し冷たい雨が降っていた。

インドネシアン・ダンス・フェスティバル(IDF) 

冨岡三智

所用があって10月末からインドネシアに行っていたので、11月4日から8日までジャカルタで開催されていたIDFの作品をいくつか見ることができた。というわけで、今回はその簡単な報告。あまりに素直に感想を書いたので、気に障る人がいたらご容赦!

IDFはジャカルタのタマン・イスマイル・マルズキ劇場(TIM)他で開催されるインドネシア最大の国際ダンス・フェスティバルで、1992年から隔年に行われ、今年で12回目。その前身になったのが、1978年から1985年まで開催されていたFestival Penata Tari Muda(Young Choreographers Festival)で、インドネシアの若いコンテンポラリ舞踊家を育てることを目的としていた。両方のフェスティバルを生み育てた舞踊評論家のサル・ムルギヤントには、今回「IDFライフタイム・アチーブメント・アワード2014」賞が授与された。この賞は2012年から始まったらしい。”人生を掛けて達成した”賞?と思ったら、日本語では特別功労賞と訳すみたいだ。功労者を顕彰するくらいこのイベントが成熟した(=関係者が年取った)ということなんだなあと感慨深い。

以下、見た公演は次の通り。名前の後の( )内は出身国で、イはインドネシアの略。+はコラボレーションを表す。
11月4日 オープニング・イベントの後
(1)「Roro Mendut」:Retna Maruti(イ)+Nindityo Adipurnomo(イ)
11月5日
(2)「Soft Machine : Rianto」:Rianto(イ)、Choy Ka Fai(シンガポール)のプロジェクト
(3) 「Cry Jailolo」:Eko Supriyanto(イ)
(4) 「In Between」:Katia Engel (ドイツ)+Benny Krisnawardi(イ)

(2)と(3)ではドラマツルグがクレジットされていた。日本でもドラマツルグというのをここ数年で聞くようになった気がするが、インドネシアでも使われ始めたことに驚く。インドネシアでコレオグラファーという言葉が定着したのはIDFのおかげだが、インドネシアの制作スタイルでドラママツルグが根付くかどうかはこれからだなと思う。

(1)はジャワの伝統舞踊ベースの作品。「ロロ・ムンドゥット」はジャワではクトプラ大衆演劇などでよく取り上げられる悲恋物語。マルティ女史はソロ出身、1970年代からジャカルタでパドネスワラ舞踊団を主宰する大御所で、出演・制作スタッフはいつものパドネスワラメンバー、作風も定番の、ラングン・ドリヤン風、歌と舞踊で構成する華麗な舞踊劇。ニンディティヨ氏はジョグジャカルタでチュマティ・アート・ハウスを経営する画廊オーナー兼美術家。ちなみに、どちらもガリン・ヌグロホ監督の映画『オペラ・ジャワ』に関わっている。

感想は、まず、コラボが面白くなかった。オープニング・シーンでしばらくニンディティヨ氏が制作した映像が流れたり、劇中に彼が制作したオブジェが舞台に置かれたりするのだが、舞踊劇と彼の作品はばらばらに存在するだけで、有機的に絡んでいない。私自身がどちらのファンでもあるだけに残念。次に、パドネスワラ作品の出来は安定の定番だが、それだけに面白みが薄い。だが会場では絶賛の嵐だった。期待を裏切らない作風がいいのかもしれない。

セントット氏が、ヒロインに思いを掛けながら拒絶され、彼女の恋人を殺す将軍役で出演するのが楽しみだったが、老齢のため、足を高く上げるシーンで足元が少しぐらついていたのが残念。将軍は荒型なので、足を上げる型が多いのだ。氏には、突然何をするか分からない将軍の非情さや凄みがあり、舞台では他を圧倒する存在感がある。その存在感があるのだから、足を上げない振付にすれば良いのにと思う。氏はもう、伝統舞踊の型を破っても許される境地に達していると思うのだが。

作曲家のスボノ氏は舞踊劇には欠かせない人だが、この人の曲はここのところ(と言ってもここ10年くらい)どんどん妙な方向へ進んでいる。一言でいえば凝りすぎ、ひねくり過ぎ。もっと素直な調の歌にすればいいのに。場面転換をつなぐ曲もうるさくて、おおらかなジャワ舞踊の美しさを減じている。マルティ女史の素晴らしいところは、どんな曲を使ってもパドネスワラ・テイストを打ち出すところで、やりたい放題やるスボノ氏をよく御してるよなあといつも思うのだが、スボノ氏の曲には最近あまり魅力を感じない。

(2)端的に言えば、リヤントの身体表現は魅力的だが、解説に書かれたコンセプトはつまらない。上に挙げたパフォーマー名はプログラムのスケジュール一覧に書かれている通り。しかし、この作品の解説ページにはコンセプト/マルチメディア/ディレクションとしてChoy Ka Fai、ドラマツルグとしてTang Fu Kuenの名前があるものの、踊り手のリヤントの名前はない(文中に経歴は掲載しているけど)。そこがまず引っかかる。タイトルのソフト・マシーンというのは身体を指しているとのことだが、身体をマシーンと呼ぶセンスも好きではない。チョイはリヤントを含め4人のアジアのダンサーと「ソフト・マシーン」プロジェクトを行っているが、解説文にあるのはプロジェクト全体の背景についてのチョイの説明ばかり、つまりチョイの自分語りばかりで、まるでエゴの強い西洋人のようだ。ここには、チョイがリヤントにどう向き合って作品を作ったのか全然書かれていない。チョイは、西洋人キュレーターの一部が持つ、アジア舞踊に対する帝国主義的なまなざしに対抗して、「アジアからアジアのための」ディスコースを創り出すことを目的としてこのプロジェクトを立ち上げたと言う。しかし、そう言う彼自身が西洋のまなざしで以てリヤントと作品作りをしたのではないか? 彼自身が、帝国主義から独立を果たした国の独裁者になって、アジアを代弁しているのではないか?という疑問がどうしても湧いてくる。

もし、この作品がリヤントのセルフ・ドキュメンタリーであると紹介されたなら、私は納得しただろう。というか、解説文を読まずに素直にこの作品を見たら、たいていの人にはそのように見えただろうと思う。この作品の中で、リヤントはジャワの伝統女性舞踊、彼の出身地バニュマス地方のレンゲル(女性の踊り手がほとんどだが、男性も存在する)、ジャワの男性荒型舞踊を踊る。彼はここまでは伝統衣装を身に着けていて、男性舞踊をするときは、下半身のバティックを脱いで伝統的な男性舞踊用のズボンになる。その合間合間に、彼が自身をインドネシア語と英語で語る。その後、彼のジャワや日本での暮らしを映したビデオがあり、そこには彼の妻も登場する。彼は、日本とインドネシアを行き来して活動している。この映像が流れている間に、彼は着替えてメークを落とし、シャツ姿になって、コンテンポラリダンスを踊る。

リヤントは体のバネが非常にある踊り手だ。男性という性を持つが、男性舞踊も女性舞踊もどちらもよくするし、インドネシアの中でローカルな出身地の舞踊もメジャーなジャワ舞踊もよくするし、伝統舞踊もコンテンポラリ舞踊もよくする。彼はこの3軸それぞれにおいてバランスを取って活躍している。作品全体を通して、私は「彼はどこから来たのか」という問いに対する回答を得ると同時に、「そして、彼はこれからどこへ行くのか?」という疑問をリヤントと共有する。もし、私がこのような方向でリヤントと共に作品を作るなら、映像は使わないだろう。なぜなら、舞台にリヤントがいて、上のような舞踊を全部やるというだけで、インパクトが強いからだ。なるべく着替えもせずに、彼の身体が、ある時は女性から男性へ、伝統からコンテンポラリへとトランスフォームしていく様を、語りを挟まずに見せることができたらいいなあと思う。身体にテーマを置くなら、日本とインドネシアという軸はここに入れこまない方が、テーマが純化するような気がする。

(3)今回一番の収穫。北マルクのジャイロロ湾のサンゴ礁破壊に対する哀しみがテーマ。だが、メッセージが直接語られることはない。マルクの伝統舞踊のステップを取り入れ、男性が最初は1人、最大で8人登場し、基本的に全員が同じ振りを繰り返す。ジャワ宮廷舞踊ブドヨを連想した。というよりも、型だけ並べて作られる新作ブドヨ(風)作品以上に、ブドヨの本質がここにあると感じた。私はブドヨの本質は、個々の踊り手が大地を繰り返し踏みつけることによって生まれるエネルギーの塊がうねりを生み、それが一個の生命体となって大地を這っていくところにあると思っている。*1

約1時間の作品中、踊り手は飽くことなくステップを踏む。それは私の見たこともないものだったが、振付家が新規に作って振り付けたものではないようだ。踊り手の体内から沸き起こってくるリズムがステップを踏ませている、という風に見える。そうでないと、疲れも見せずに1時間も踊り続けられないだろう。果たして、それは北マルクの地域の伝統舞踊にあるステップで、皆この地域出身だということだった。心臓の鼓動のように脈打つリズム。舞台上の人数が次第に増えていき、そのステップが波のように広がり、そこに海が感じられる。ブドヨを踊っていると、私は水平線が見えてくる気がする。そして、自分たちの身体が波になったように感じる。そんな波を私はこの作品から感じ取ることができた。個々の踊り手の波が寄せ集まって大きなエネルギーの塊となっていく。その塊は時として私に向かってくることもあり、そんな時に私は自然を奪われた生物の悲しみや怒りが伝わってくるような気がした。けれど、舞踊も音楽もそれを情緒的に訴えるわけではない。ただ、エネルギーとして迫ってくるだけだ。

作品の後半で、踊り手たちが客席の方に向かって静止する時間があった。その時間は間(ま)と言うにはあまりにも長かったが、観客の誰もそこで(終りだと思って)拍手しなかった。拍手させない何かがみなぎっていたのだ。私は固唾をのみこんで、このいつまで続くとも知れぬ時間を共有した。その間に、この作品のシーンがいくつかフラッシュバックした。人は死ぬ前、走馬燈のように自分の一生に起こったことを思い出すというが、それを体験したような気がする。

(4)寝てしまった。踊り手はコモドドラゴンのごとく、床を這うように動く。彼が舞台で占める空間は、舞台床上60〜70㎝までだ。舞台背後には巨大なスクリーンが一面にあって、彼の動きを上から俯瞰した映像(ライブでなくて別撮りだと思う)が映し出される。スクリーンで押しつぶされそうになった狭い舞台空間の隙間を、彼が1匹、右(左?)から出てきて這いずり回って出て行き、次に逆方向から出てきて、その次は…、そこから先の記憶がない。だんだん彼が隙間から出てくるゴキブリに見えてくる…。後で聞いたら、人数が次第に増え、最終的に5人くらいになったらしいが、皆ずっと舞台を這いずり回っていただけで、1匹が立ち上がるとか、映像と格闘するとかいう事態は起きなかったという。舞踊の映像ドキュメントも作った私が言うのもなんだが、映像でパフォーマンスを見るのはつまらない。舞台の息遣いが伝わらないからだ。なのに、舞台空間のほとんどを、這い回る人の退屈な映像に明け渡してしまうなんて、もったいない。

*1 「水牛」2004年4月号にも書いています。http://suigyu.com/suigyu_noyouni/2004/04/post-83.html

青空の大人たち(5)

大久保ゆう

CTスキャンによれば自分の脳はたいへんきれいであるらしくひとまず非常に安堵であるが、頭なるものについては正直のところ自慢していいのか困り果てていいのかわからないところがなきにしもあらず。

幼いころのおのれはひたすらに頭でガラスを割っており家じゅうのガラスというガラスに対して破壊の限りを尽くした。窓に始まり戸棚もあれば部屋の戸も。それでもなお頭は頑丈だったために傷ひとつなく(あるいは水疱瘡に刺さって無事だったという事態もある)、先のCTでも血だまりのようなものが見られなかったから中身としても(あるいはモノとしては)損傷がなかったのだろう。

とはいえ自分で砕いてゆく分には強い石頭も、ひとからふいに打撃を加えられれば脆いものなのか、いわゆる過失傷害でついに頭の方が割れ、血の海に倒れたこともある。幼稚園児である自分は割合ゆっくりおっとりした方で、そもそも飛んだり跳ねたり走ったりということをしなかったが、それは廊下においても同様であり、講堂で行われた集会のあと園児はそれぞれの教室へ戻るわけだがやはり自分は生来のおっとりから非常にゆっくりと歩いていた。しかし園児はむしろやんちゃなもの、講堂で「走らず戻れ」と言われても駆けるのが常であり、自分はそうした園児の不注意から背中から激突され、木製のロッカーの角に頭を強打する。

むろん意識を失い、園の近くにあった外科へ運ばれ手当を受けるが、幸い命には別状なく、多少の手術をするだけで済んだということだ。いや少なくとも大事《おおごと》にならなかったことは確かだ。別段個人的な恨みはないが、加害者の園児に何の罰が与えられた様子も責任を問われた気配もなかったし、園の関係者内で大騒ぎになったという話も聞かない。そもそも現場は相当の血だまりで、何針も縫って意識も朦朧としていたはずなのにその日のうちに園へ帰されており、翌日も休まなかったというのだから今となってはほとんど理解に苦しむことですらある。そのあと傷口のうずくことが幾度かあったものの、何度頭をぶつけても再び開くことはなかったから、それはそれで幸いなのだろう。

むしろ頭で困るのは知恵熱である。知恵熱がひどくなったもの、と言ってもいいだろうか。これもまた幼いころからのものだが、頭を使いすぎると消耗して、何もできなくなってしまう。注意力も散漫になり、小学校時分には5、6時間目にもなると、頭がひりひりとして全身もぼーっとし、座席にも座っていられなくなる。季節や気候によって差はあるものの、そういうことは1週間に1、2度はあったかもしれない。授業は集中して聞いている方だったので余計にだろうが、そうなればあとはいち早く強制拘束される場所を抜け出して、休息(主に仮眠)できるところへと向かわねばならない。しかし学校や職場というものは、拘束されることに意味があるのであるから、そもそも休むことは相成らず、つらい感覚を保持したままどこまでも延長された普段以上に遅々として流れる時間を耐えるほかない。

こちらは途切れることなく今も続いているが、難点はそもそも規則正しい生活が送れないというところだ。まず1日5〜8時間の長時間労働ができないばかりか、立て続けに朝早く起きるというのもきびしい。先述の知恵熱にも近いことが朝早く起きた場合にもあり、目が覚めても立ち上がることにたいへん苦労するのだ。当初は、よくある低血圧や貧血のようなものかとも思ったが、結局そういったものでもなかった。若いころはただ無理をして皆勤もできたが(むしろ女性の生理の方がよほどつらいだろうとも思った)、それはただ病と診断もされず(見た目が健康のままというのもあるだろう)、であれば仮病として怠けると見られるからにすぎない(実際そういう態度を取る大人は少なからず、不信感から今でもこうした体調のことをほとんど他人に説明することはないし、虚弱だと言うにとどめている)。今では同時に身体のあちこちも痛むのだから、やはり何かしらの問題があるものではあるのだろう。

消耗した果てに、妙に胸などが苦しいことや(ただ心臓に異常は見当たらなかった)、記憶に多少の問題が出るようなこともあって(いわゆる記憶喪失みたいなものだ)、いっとき1年ほど静養したが、おそらくその時期は生涯で最も体調の安定した時期だっただろう。毎日8時間の睡眠を取り、できるときに翻訳の仕事をし、自炊に励むという生活は、いちばん身体に合っていた。結局のところ普通の仕事というのは望むべくもなく、こうした晴耕雨読のような毎日を送るのがいちばんいいようだ。

では自分の頭はマイナス方面にだけつらいのかと言えば、プラス方面でもまた困る。自身地頭がさほどよくないことは自覚しているが(その点は兄弟がよく知ってくれている)、ただ何のせいなのか、自分の頭は私の想像以上に回ることが少なくない。数学の授業では予習しても出席してもわからなかった問題が、当てられて黒板の前に立つとなぜか解けていたし、目で読んで考えてもさっぱりな本が書き写すとなぜか理解できたりもした。あるいは他人の発言がその人物が発言するよりも早くわかることもあれば、誰かの次の行動やその日の居場所が聞いてもいないのに知れることもあり、本によれば読んでもいないのに内容がわかったりすることさえあった。知らないことをわかっていたり口にしたり、できないことを教えたりすることもできた。会話であってもひとが話し出した瞬間に落ちが悟れるのであれば、話し終わるまでの時間は苦痛であることさえあって、本人がわかるという自覚もないのに物事がわかることは自分の頭に置き去りを食らったようで心の所在がない。そのくせペーパーテストはひどく芳しくないため、仕方がないので人の数倍も時間をかけて、知識や能力を直観へとじわじわと近づけていくしかなく、そんなものは知的というよりはもはや筋肉トレーニングかただの肉体労働に近い。それでも何とかやっていけているのは、ほとんど慣れのたまものだ。

あのころの少年はただ辛抱強く根性のあったというだけで、あるいは〈何ごとも気に病まない〉という生来の気質があったからこそ、無理解な大人のなかでもやっていけたのだろう。それとも逆に閉じ籠もってしまっていて、気にしないふりを今も続けているのかもしれず、そうなると今も少年は自分の身体のどこか救われない部分にいる可能性だってあろうというものだ。

長い無理解を経たあとでは変な共感というのもおそらくはその少年にとっては苦痛でしかないだろうし、少年がかつて幼いころに欲していた誠実な幸せはすでにはるか彼方にある。きみがどこにいるのかは知らないが、自分が大人になった今では、自分がそのきみをいたわってやる初めての大人になるしかない。

ミリ、厘

仲宗根浩

十一月末になって暑くなる。雨の影響か蒸し暑く、扇風機は稼働中。十二月になれば涼しくなる、という天気予報。ぐっと涼しく、もしくは寒くなるか。

知事選挙というのがあり、結果はわかりきっていて、どちらにしてもいばらのみちのように思え、自分の中では諦念という二文字が浮かぶ。そしたらまたお国は選挙をする、という大号令。いろいろなものが置き去りにされて。

沖縄に移って十七年と数ヶ月。床屋を変えた。近所に激安の店を教えてもらった。今までカットのみ千円だったが、この店はカットのみ八百円。で、丸刈りだと四百円! わたしは丸刈りなのでいつもと同じように0.5ミリにお願いすると前の床屋さんより短い、というかほとんどスキンヘッド。これで眉毛なんか剃り落とせばそれはそれは違う世界のお方となる。二回目は少し長めの0.8ミリでバリカンを入れてもらう。昔は丸刈りは五分刈りとか厘とかいう単位を使っていたがいまではミリになっている。

うちにあったスピーカー、三月に上京した子供に持って行かれたので新しいのを入れる。スペースがないのでアンプ内臓のやつ、それも少し大きめ、といっても一般的にはスモール・モニターサイズ。シーズニングがてら深夜色々、音をパソコンに取り込んで、小さい音で再生。リー・モーガンのライヴ盤、セロニアス・モンクのソロ・ピアノ、スティーヴ・レイシーのアルバム。カーティス・メイフィールドとインプレッションズ。爆音で再生したいのもあるがそれは家にひとりきりのときしかできない。反爆音派がいない頃を見計らって。

夜のバスに乗る。(2)小湊さんの場違いな告白

植松眞人

 バスは時折大きく揺れながら走り続けていた。都心のターミルが終点だが、その三つ手前のバス停で、他の乗客はみんな降りてしまった。バスの中には僕と小湊さんだけが残った。正確には僕と小湊さんとバスの運転手だけがいた。
 僕たちが住んでいる東京の外れの町は、都心部までバスでこうして走れば、渋滞していても一時間もあれば到着するし、電車を乗り継げば四十五分ほどしかかからない。中学生の時に、自転車で友だちと買い物に来たことだってある。あの時も、たぶん二時間もかからずにたどり着いたはずだ。
 それなのに、僕たちが住んでいる町と東京の都心部とは全然違っていた。新宿や渋谷にも汚い場所はたくさんあったし、やばそうな人たちもたくさんいたけれど、それでも、僕たちが住んでいる町の方が薄汚れているように僕には思えた。
 僕はバスの前方を眺めた。高層ビルが真正面に立ちはだかっているように見えた。まだ明かりの付いている窓の方が多く、バスが揺れる度に、その明かりの滲みが上下に広がっていくように思えた。
「私が好きだったって、知ってた?」
 小湊さんの声がして、ふとシャンプーの匂いがした。今日、出かける前にお風呂に入ってきたのか、と思った。
「聞いてる?」
「なに?」
「聞いてなかったんでしょ」
 そういうと、小湊さんは僕のほうに向いてもう一度少し大きな声で言い直した。
「私、好きだったんだよ」
 僕はなんのことだかわからない。
「なにが好きだったのさ」
「だから、斉藤くんのことよ」
「僕のこと?」
 小湊さんは、ため息をつくと、また前を見て座席に深く座り直した。
「全然、気付かなかったよ」
 僕がそう言うと、小湊さんは笑った。
「まあ、斉藤くんのそういう鈍いところが好きだったんだけどさ。でも、心配はいらないよ」
「どういうこと?」
「今は別に好きじゃないから」
「あ、そうなんだ」
 そう聞いて僕は気が抜けてしまう。
「いまでも好きな人を家出に付き合わせたりしちゃ悪いじゃない」
「僕ならいいのかよ」
 今度は僕が笑ってしまった。
「ちょうどいいのよ、斉藤くん。前に好きだったくらいだから、嫌いな人じゃないでしょ。それに、ちょっと鈍いくらいの人だから、エキセントリックにいろいろ私を問い詰めたりもしないだろうし」
 小湊さんの話を聞きながら、それはその通りだな、と僕は妙に納得していた。(つづく)

いのちの花

さとうまき

本当の花は生きているから私たちに力を与えてくれる。イラクのがんの子どもたちも生きている花を見ながら、ちょっぴり幸せになって、絵を描いた。その絵は、私たちに力を与えてくれる。

4月21日、アルビルの最終日。ナナカリー病院での打ち合わせを終えた私は、飛行機の時間を気にしながら、病棟をうろついていた。すると廊下にバラの花を持って立っている少女が視界に飛び込んできた。
「どうして取ってきたのかしら? お花にも命があるのよ。」
先生に諭されて、その子は少ししょんぼりしていた。
「その花、絵にしようよ」
私は、しめたとばかり、彼女を拉致するように2階にあるプレールームに連れて行った。

彼女はゆっくりと、花びらを描いた。花びらを見つめているときは、サインペンが止まり、にじんでいく。そして、ゆっくりと花びらに水彩絵の具でピンクの色を置いていった。そして、彼女はゆっくりとほほ笑んでくれた。そして英語でEMANとサインしたのだ。「この子がイマーン?」

3月、イマーンのがんは末期で、後一か月もつかどうかとのことだった。ほかの子どもたちが、大きな絵を床に座って書いていたのに、彼女は体が痛くて座ることもできなかったという。その時にイマーンが描いたのが「バラのつぼみ」で、私は、ブログで紹介されたこの絵が大好きになった。

飛行機の機内で、イマーンの絵をデザインしてみた。ところが、彼女のバラの花。これを、チョコ缶の○の中に収めるのが実は結構難しくて、最後の最後まで苦労した。出来上がった缶をイマーンに届けた6月27日、田村看護師は次のように伝えている。
「体力も通院の度に落ちており、いつどうなるか予測できないとのこと。病室に入ると、ゴホゴホと咳き込みながら点滴を受けるイマーンの姿。以前よりもさらに痩せたのは見てすぐにわかりました。チョコ缶を渡すと、細い腕で缶を持ち、微笑む姿は健気で見ているこちらがたまらない気持ちになります。イマーンは本当は笑ってられないくらいつらいのに、いつも私たちが来るとこうして笑顔を見せてくれるのです。私たちがどうしても伝えたかった事、『イマーンの描いてくれた花が、これからもずっとナナカリ病院に通う子供たちを助けてくれるんだよ、ありがとう』という想いをイマーンに届けることができました。」

10月、イマーンがすでに死んでいるかもしれないことは容易に想像がついた。イブラヒムに電話で聞いてもらった。7月26日に亡くなったという。それで私は遺族に会いに行くにした。何かお土産を持っていきたいとおもった。しかしあいにく金曜日で、お店は閉まってる。

スタッフには、「バラの花でもあげたらどうですか」と言われた。「あなたがバラの絵を描かせたんだから」そういう風に聞こえる。ああ、いい考えだ。しかし、日本とは違い、アルビルに花屋さんなんかない。意地悪い難題を突き付けられた。昨夜、難民が信号待ちの車に向かって真っ赤なバラの花を売りに来ていたのを思い出した。金曜日の朝早くは、交通量も少なく、難民のバラ売りはいないだろう。そうだ。ナナカリー病院の庭に咲いていたバラを摘んで持っていこう。僕はタクシーの運転手にまず病院に行くように指示した。カラシュニコフ銃を構えた守衛にあいさつし、病院の庭には、秋のバラが咲いてた。イマーンの家族たちも、もうこの病院に来ることはないだろう。

ソーランまでは、アルビルから北東に2、3時間ぐらい車を走らせる。食事の時間にお邪魔するのは申し訳ないので、ソーランの町で腹ごしらえをする。イブラヒムが道を確認する電話を入れると、早く来ないと出かけるといっているとのことだ。大衆食堂を出ると運転手は、イマーンの父親と連絡を取りながら道を探した。車は山の方に向かう。クルドの山は、険しく岩肌がさらけでているが、秋になり少し雨が降ると緑の草が生え始まる。曲がりくねった道を登っていく。

一体この道はどこに通じるのか、予想以上にイマーンの家は遠く、山の中に入っていく。本当に、彼女の家はあるのだろうか。何度も何度も運転手とイブラヒムは携帯電話で、イマーンの家を探す。深い山の中腹の村に彼女は住んでいたのだ。目印のモスクにようやくたどり着いた。

お母さんに、バラを渡した。病院のことを思い出したのか、泣き出した。病院から帰ってきた翌日、11時ごろ、イマーンは息を引き取ったそうだ。厳しい闘病生活に疲れ切っていたのだろう。この距離を往復するのは、本当に大変だ。お父さんは、畑で作ったザクロやイチジクを出してくれる。天国に近い村。空気が薄い。突然雨が降り出した。
「冬になると雪が積もるんですよ」
外まで見送ってくれたおじいさんは、杖で山の方を差し、「あそこにイマーンの墓があるんですよ。そしてその向こうの山が、ハッサン・バック山です。」おそらくイラクで一番高い山なのだろう。3000mはありそうだ。誇らしげになんども杖で指していた。

そして、僕たちは、また長くて曲がりくねった道を引き返していった。
あれ以来、ビートルズのthe long and winding road が耳から離れない。派手なオーケストラで鳴り響く。

イマーンが描いてくれたバラの絵がチョコになりました。
チョコ募金はこちらから。
http://jim-net.org/choco/

グロッソラリー ―ない ので ある―(3)

明智尚希

 1月1日:ここで小学一年生当時の話をさせて頂く。簡単に言えば、勉強も運動もよくできる児童
だった。友達も多く、確たる不満などなかった。ある日、みんなと公園で遊んでいる時、笑わせようとして滑り台から落ちてみた。しかも頭からだ。真冬のこと
とて、セーターがすぐ冷たくなった。そう、僕は大量に出血していたのだった。

ぉお!!(゚ロ゚屮)屮

 ああ儲けてえなあ。カネ、金銀財宝、豪邸、うわあもういいや。いらね。百万年の貧乏で百万一年目に億万長者じゃと? 姦通と関係あるのかい。え? カネ
は天下の回りもの、小銭は下人の回りもの、おつりはお店の回し者ってか。努力努力ってうるさいんだよ。貧乏人の活路が努力でなけりゃならないなんて、どこ
の馬の骨かわからんぞ。

o(*゚□ ゚*)o むかっ

 不眠の原因は眠ろうとする努力にある。昔の評論家がそう評した。あきらめの先に未来が拓ける、と言った人もいる。不眠の最中ほど時間を呪う時はない。そ
の時間には意味の一つもなく、ただべったりと垂れ流れている。普段下らぬことに時間を空費している人間への復讐。不眠症に懐疑主義者や不安神経症が多いの
はそうした背景がある。

(・щ・)なのだぁ〜〜

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 当て推量で言えば、未来派に信を置くのは正しくない。ノッチドラペルのシティ・スリッカーの経験則は、ゴム製の洗濯板に土下座して呉服売り場へ逃げ込む
ようなもんじゃて。箱の中のジャックもおったまげる寸法だわな。水兵がわしの船を愛していることくらい知っておる。じゃが間違いに気づくかな。気づかねえ
だろうな。

v( ̄∇ ̄)ニヤッ

 1月1日:人間、出血多量になるとどうなるか知っている人は少ないと思う。僕の場合、後頭部やや右上を十二針縫ったのだが、出血当初はセーターが冷たく
なる以外のことは感じなかった。問題はここから。急に震顫が全身を特に手足の末端部を襲った。その様子を見たみんなは、僕よりも遥かに恐がって全員その場
に立ち尽くしていた。

・・・(゚_゚i)タラー・・・

 天ぷら。

 ( ・・つ―{}@{}@{}- やきとりどーぞー

 リスパダールによる多幸感に優しく包まれて、わしはいつだってレッセフェールを歓迎する。パンツの中身も優しく包まれておるが、こちらは教育的指導にぬ
かりはない。基本は独立独歩。矛盾しているから人間でいられるんじゃないか。どんなサンクションもくしゃみの前では破れるように。ま、それもこれもタイム
サービス次第ではあるがな。

(。・・)_且~~ お茶どうぞ

 先日、色紙に「牛」と揮毫した。その前は「麺」。本音では「砂」。そりゃともかく、シャクトリムシがビオラの弦をしゃくったら、鳴るのかどうかで眠れな
いという夢を見たのはいつのことか。いつもわしは沈黙しておる。新種だからなにもわからん。ヴィトゲンシュタインの境地じゃよ。睾丸をふるって応募した挙
げ句、たまたま当選したまで。

~~旦_(‥ )こりゃどうも

 無知の独立性。社会のあるいはごく身近なコミュニティの動向を知らずにいるのは幸運である。俗事にかまけて時間の使い道を誤るよりは、鉄砲玉を決め込ん
で孤立するのが賢明だ。無知と純粋は表裏一体。俗世間で経験を重ねるよりも、超然として最低限の栄養を採っていればそれでいい。その代わり、栄養は人類規
模でなければならない。

\_(・ω・`)ココ重要!

 1月1日:人間、慌てると走るものだ。僕も俊足を飛ばして帰宅し母親に怪我のことを告げると、新聞に目を落としたまま一言「赤チンつけなさい」。白い
セーターが赤黒く染まっているほどひどいのにである。赤チンをつけ始めてやっと母親も傷口を見た。二言目「救急車を呼ばなきゃ」。そうしてなぜか電話帳を
大至急めくりだした。

(ヘ;_ _)ヘ ガクッ

 わしの人生は失敗だった。じゃが失敗することに成功したことは誰も知らない。はじめから磊落などない。失敗失敗雨失敗。であるからして一編の自伝をもの
す権利と資格があるというもんじゃ。ゴスプランを実践してきたからには暗い面相が必要じゃった。鼻歌には鎮魂歌ンコン。放屁のフーガのおかげで、かろうじ
て先が黄色く彩られた。

ヾ(≧∇≦)ゞ チガウゥ

 朝の電車に乗っていた。ラッシュ時である。突然、吊り革につかまっていた会社員が棒のように後ろへ倒れた。車掌が声をかけても応じず呼吸も覚束ない。
と、目を開け上半身を起こして、「会社に行かなきゃならないんだよ!」人生を台無しにされたように泣きながら繰り返し叫んだ。そして何事もなかったかのよ
うに新宿で降りていった。

(p>□<q*))

 だんじさけれんほ 誰しとな
 四ちさけれんめ 誰しとせ
 らっさりくんだり 意もれけけ
 じんからごぼ付き あんちごな
 振ったきれめそ ややありゃそ

~( ̄∇ ̄)ノアイヤイヤー ヘ( ̄∇ ̄)~アイヤイヤー

 退屈なあまりに退屈な状況は、火の輪くぐりも可能にする。勇気の根源を支えているのはブルックス・ブラザーズではなく、弾けんばかりの無聊である。穴を
掘っちゃ埋めている御仁は、Y字バランスさえもままならず、HBのちびた鉛筆でOLをABの線分にする。割り切れなければ、永劫回帰しながら一人じゃんけ
んに徹すべし。

(((☎))) リリリリリリン Σ(゚Д゚ノ)ノ ジャーンケーン ハッ!?

 1月1日:救急車は出払っていたため、タクシーで最寄りの総合病院へ母親と二人で行った。運転手のどこかのどかな人柄は今でも忘れられない。到着後、傷
口を縫うなどくさぐさのことがあった末に、僕は頭にネットを被ることになった。鏡で見たら、阿呆の代表選手のような見てくれで愕然とした。二週間後に抜糸
をして治療は終わった。

イタイ・・・~(>_<。)ゝ

 わしはあんたになれるが、わしはわしにはなれない。そういうもんじゃ。なんか腹立つ。いっぺん突き抜けてみろ。突き抜けてきたわい。眠っている自分を見
られないのとたぶんおんなじ。不幸な子供と幸福な王子。ニュートンともあろう人間が、リンゴが落ちることくらい知ってたっての。わしの趣味・特技は時間で
決まる。

( * ¨ ) ….ボー

 失望は常に正しい。それまで有効だった知識や経験が根こそぎ落とされ、生まれた当時の心境なき心境のような純粋持続となる。したがって失意に暮れている
人間には、世間のグレーゾーンや他人の心の暗黒を、書き起こせるほどに見透かすことができる。立ち直るべきではない。失望の上塗りや補強をしたところで、
嫌悪が跋扈するのみ。

il||li_| ̄|○il||li

 働いている限り豊かにはなれん。アキレスは亀を追い抜けない。生きている限り死なない。転がって大笑いしている間は偉い人になれない。毎日エサをやって
いるうちは野良猫は去らない。ボジョレヌーボーの解禁を待ち焦がれているようじゃ、金ピカの有閑マダムにはなれん。片手だけでは拍手はできない。食べてい
る時にしゃべるな。

ヽ(#`_つ´)ノプンスコ!!!!

 ほしいのはあなただけ。他にナニもいらない。

8―>

 精子と卵子が結合し、つまり受精し、この世に出てくること自体が立派な奇跡なのだから、一人ひとりは特別な存在である。という話を何度かされた。全員が
特別ということは、全員がどうでもいいということにもなる。オンリーワン且つナンバーワンこそが特別な存在として評価の対象となる。人間の自己礼讃にはほ
とほとうんざりする。

d( ̄  ̄) オワカリ?

 小便を我慢できる時間の長さは、その日それまで歩いた距離に比例する。こんなことをメモ帳に書いたんじゃが、とんと要領を得ない。そこらへんの人に尋ね
てみたら豪快な平手打ちを食らってシューメーカーレビー彗星を見た。スリーピースでレゾンデートルの着色を試みたが、そこが便所だという鬼は外でそもそも
レッドカードじゃったっけ。

ピーッ( ̄ゝ ̄)/□

製本かい摘みましては(104)

四釜裕子

秋葉原で電気部品、骨董市で時計部品、浅草橋でアクセサリーパーツ、釣り具店で疑似餌素材など、使い方もわからないのに部品や材料を見るのは楽しい。本来の使用目的がわからないものにとっては可笑しなかたちのものが、当たり前顔で整然とたくさん並んでいるその美しさがたまらない。買っても結局は、アクセサリーやカバン、本の表紙を作るときにちょっぴり使う程度だから、ほんとうは何に使うのか想像したり、こんな風に使ったらいいんじゃないかと考えたり、店頭で邪魔者扱いされながら値札を見て悩む時間が実は好きなのだろう。今でも手が出てしまうのは腕時計の部品。時間を知るための腕時計をしなくなって久しいけれど、古い文字盤や使い込まれてとろっと丸みを帯びたケースはそれだけで欲しくなる。ゼンマイやネジやいくつもの小さな円形のパーツとセットになっている場合は、オブジェ作家の知人に送ってしまう。三味線修理店から象牙の端切れを山のようにもらったときも、自分では使いこなせなくてその知人が生かしてくれたのだった。

今年のミラノサローネで評判になったシチズンの凱旋展示を東京・南青山のスパイラルガーデンにみた。「地板」と呼ばれる時計の基盤を大量に使ったメイン展示の〈LIGHT is TIME〉もよかったが、時計の製造過程を記した壁面のコーナーがもっとよかった。通路には小さな円筒形の展示台がいくつかあって、のぞきこむとケースの中にパーツが並んでおり、下から白い灯りで照らされていた。ルーペが添えてある。ひとつの時計を構成する部品がすべてあったり、同形で大きさが異なる部品がグラデーションに並べられていたり、円形のさまざまなパーツのシルエットが雪の結晶のようであったり、照明の具合で影が間延びした宇宙人のように見えたり。時計を構成するいくつものパーツが、学年やクラスを抜きにしてさまざまに円陣を組んで、パーツを作るひとや組み立てるひとたちを慰労するダンスをしているような華やぎにあふれていて気持ちが良かった。

しばらく前に佐藤卓さんが発表した「デザインの解剖」シリーズを思い出す。大量生産品のいくつかを取り上げて、それぞれどんな工夫がなされているのか、デザインの視点から分解して解読したもので、書籍の刊行と展示が行われた。手元の『デザインの解剖②、フジフィルム・写ルンです』(2002 美術出版社)を見ると、製造元の歴史、製品市場、商品のリサイクルシステムから、ネーミング、ロゴタイプ、包装を含めた製品のデザインや素材を小さな単位まで分解して、写真や図にコメントをつけてまとめてある。軽くて安くて記念写真には十分な画質だったから便利に使ったものだ。買っても現像するために渡してしまうから手元には残らないのもスマートでよかった。この「写ルンです」の本体は、たった50ほどの部品でできていた。何度もリユースするために機械で分解しやすく組み立てやすい設計にもなっており、表面を覆う紙には指が触れるところに滑り止めのためのエンボス加工がなされているなど、今読んでいても自分でも分解してみたくなる。しかしもちろんこう書いてある。〈「フジフイルム・写ルンです」をご使用される方へ 「写ルンです」は、ご自分で絶対に分解されないよう、お願い致します。分解すると感電するおそれがあります〉。製造元と著者のあいだの信頼に敬意を表して、衝動を抑える。

本を分解したことは何度もある。最近の文庫本なら表紙をくるっとはげばあとは栞紐が出てくる程度だ。反古紙や手紙が背の補強に使われていて思わず大発見のようなこともない。アーティストの福田尚代さんには、本を素材とした作品がいくつもある。文字に刺繍したり本文紙に針穴をあけたり折り曲げて翼にしたり背表紙を切り取り『書物の骨』を現したりカバーに写る経年を見せたり。それらはどれも作品を作ろうとして生まれたのではなくて、〈ごく私的な衝動に駆られて手を動かすことから生まれ〉、〈唐突に訪れる1作目に続き、おびただしい数の制作を繰り返した後、本人もやっとそれを自分の作品として受け入れるようなところがある〉(小出由紀子 『福田尚代作品集 2001-2013 慈雨百合粒子』より)そうである。中にひとつ、本を素材としたものであると一見してわからないものがある。もわもわとした綿のようなかたまりが、はっきりとした形を与えられずに置いてある。繊維だ。サイズ可変、2003年から2013年にかけて制作、タイトルは『書物の塊:はるかなる島』。前述の作品集に作家のコメントがある。〈読み終えた本の栞紐を切り取りはじめたのは10年以上も前のこと。指でほぐしはじめたのが5年前。でもその頃はまだ、綿状に変化した栞は色ごとの山に分けられていた。2012年、色の山を混ぜはじめた。一本一本の繊維を、見えないくらい細くなるまで解きほぐし、丹念に混ぜ続けていたら、とうとう色が消えて、淡く輝く塊になった(後略)〉。分解しつくすことができるとモノは枠を失うのかと思った。

広口瓶かチューブか

高橋悠治

すくい取るか 絞りだすか

薄くひろげる 染みていく 
色がまざってぼやけていくなかに見えてくる模様がある

形のない色のむらに眼が形を読み
意味のない音のうごきに耳が意味を見る

一つの形を描けば 描いたままに形が見えるだろうか
一つの意味が その意味として伝わるだろうか

まばらに打った点を 眼でつなげると形になり
形を入れる空間もできる
形も空間も見えないのに 結界ができるのはなぜだろう

点を並べれば線になる 散っていけば面が感じられ
色の濃淡がちがえば 奥行きのある空間ができる

見えない線で結ばれれば 眼が点から点へ移る
その移動から時間が生まれる

奥行きのある空間は 濃淡の層の重なりか
面が近寄り遠ざかって 入り乱れているのか

省略は そこにないものを想像させる
格子からすこし外れた配置が 作用する
位置は可能性