夜のバスに乗る(9)修学旅行のスナップ写真のように

植松眞人

 小湊さんと渡辺先生と犬井さんと僕を乗せた路線バスは、湘南の海が見渡せる駐車場に停まっている。江ノ島が右手にあることが、道路の街灯でぼんやりとわかる。目の前に広がっている海は、夜の暗い空間の中で、ただうねっていて深さばかりで広さがわからない。
 僕たちはバスを降りて、薄暗い中を歩く。防波堤の上を注意深く歩く。僕たちのゆっくりとした歩幅に合わすかのように、少しずつ少しずつ真っ暗だった夜が、朝へと歩いていく。黒く深かった海が、青黒く広がりを持つ海へと変化していく。
 小湊さんが防波堤の上に腰を下ろす。それを合図にするかのように、渡辺先生も犬井さんも、そして僕も腰を下ろした。まだ春までは時間がある。そう思うと、今こそ修学旅行にふさわしい季節のように思えてくるのだった。みんながどんな気持ちでいまこの防波堤の上に座っているのかはわからない。だけど、きっと真面目な人たちばかりが集まって、時間通りにバスを車庫に返す計画に抜かりはないだろう。時計なんて見なくても、まだ時間はある。
「ねえ、先生」
 小湊さんが渡辺先生に声をかける。先生は海を眺めたまま、なんだ、と返事をする。
「もっと感動するかと思ってた」
 先生は海を眺めたまま笑う。
「こんなもんかあって、正直思った」
 小湊さんが言うと、犬井さんがこらえきれなかったように笑う。つられて渡辺先生も僕も笑い出す。
 僕は一人、防波堤を降りて、砂浜から渡辺先生と小湊さんと犬井さんを見上げる。小湊さんと犬井さんの間に、さっきまで僕が座っていた空間がぽっかり空いているけれど、そこには確かに僕が座っている。
 まだ、日の出までに時間があるので、辺りは暗い。
 そんな曖昧な輪郭の中で、防波堤に座る渡辺先生と小湊さんと犬井さんを見ていると、まるで修学旅行のスナップ写真が一枚、夜と朝の間に置かれているようだ、と僕には思えるのだった。(了)

断食月と王宮とガムラン

冨岡三智

今年は6月18日からイスラムの断食が始まっている。日出前から日没まで飲食を絶ち、厳しく戒律を守る人は唾さえ呑み込まずに、身を慎んで過ごすことになる。

ジャワの王宮では断食月の1ヶ月間は楽器を鳴らすことが許されず、ガムラン音楽や舞踊の練習は休みになる。その間に楽器を洗い清めるのだ。話は古くなるけれど、2006年の断食期間中の10月9日、マンクヌガラン王宮での「キヤイ・ウダン・アルム(香りの雨)」、「キヤイ・ウダン・アセ(慈しみの雨)」という銘の一対のガムラン楽器セットのお清めに居合わせた。キヤイというイスラム聖人にもつく尊称が銘につけられているのは、これらの楽器に魂が込められていることを示している。そのため、きちんとお供えを用意し、楽器を清めるのをお許しくださいというお祈りをして、そのお供えを皆で食べてからお清めに取りかかる。王宮にはガムランセットが数多くあるので、毎年少しずつ順番に洗っていく。この「香りの雨」と「慈しみの雨」の2セットも、当初は翌年の予定が、急遽その年になったということだった。この2セットは王宮らしい豪華なセットで、サロンと呼ばれる楽器の数が通常のセットより多い、ということは演奏するのにより多くの人手を必要とするため、なかなか演奏に使われることがない。これらのセットを私が目にしたのは、2000年、2001年のマンクヌゴロ王の即位記念日で「ブドヨ・スルヨスミラット」が上演された時が初めてだったのだが、それからこの時(2006年)まで使っていないと言っていた。この作業をするのに集まっていたのは、パカルティPAKARTIと呼ばれる同王宮の夜のガムラン練習に参加しているおじさんたちだった。私もパカルティに参加していたけれど、断食月に入って練習がなくなると王宮に行かないので、このおじさんたちが練習がないときも陰で王宮の活動を支えていることに、このとき初めて気がついた。

断食開始21日目の前夜には、スラカルタ王宮からスリウェダリ公園まで行列が出る。この行事をマラム・スリクランという。大量の供物、王族、王宮兵士、チョロバレン(王宮の儀礼ガムラン音楽)の後ろに様々な団体がイスラムのお祈りの歌などを歌いながら続いていく。1996、1997年に見たときには、列の最後尾にレオッグ(東ジャワの民間芸能、巨大な獅子の面を被る)が続いていたけれど、2000年以降に再留学したときには獅子はもういなかった。スリウェダリ公園に着くとイスラムのお祈りがあり、その後に参加者や見物客に供物が配られる。この行列は、コーランの最初の啓示が下った日を祝うために行われている。厳密に言えば、最初の啓示が下った夜(ライラトルカドル、みいつの夜と呼ばれる)はラマダーン月(断食の月)の最後の10日間の奇数日のどれかで、何日なのかは分かっていないらしいが…。この日を境に、あちこちでパサール・マラム(夜市)が立ち、断食明けに向けて浮き浮きとした気分が町に漂い、王宮以外の夜のガムラン練習も再開することが多い。

断食月の最中にマンクヌガラン王宮でカセットテープを使った観光客向けの舞踊上演を見たことがある。このことは2004年7月号の「水牛」にも書いている。このとき、観光客には、ジャワの王宮では断食月の1ヶ月間はガムランの音を出してはいけないことになっているという事情を説明した上で、舞踊上演があったのだが、ガムランの音を出してはいけないというなら、たぶんカセットでもだめなのではなかろうか?と、ふと思う。チャーター料金は生演奏の場合とで違っていたのだろうか、とか、断食月だからチャーターに応じられないという選択肢はなかったのだろうか、などと思いはいろいろあったのだが、それはともかく、断食中はガムランの生音を出さないということを厳密にやっているのは王宮しかないと言って良いだろう。芸大では当然断食期間中でも授業はあるので、普段と変わらずガムラン楽器は鳴り響いている。また、私は断食明けに2回大きな舞踊公演をしたことがあるが、実は断食期間中に公演の練習をすることは喜ばれる。というのも、断食期間中は結婚式演奏などの仕事が入らないためで、芸術家は暇になるからなのだ。私が踊り手として参加したある大きな公演では、練習がいつも夕方3時頃から始まり、6時日没に終わって、皆でブカ・プアサという流れだった。夕方に練習するのは体力的にきついように思うが、皆で断食明けを共にするという喜びの方が大きいようである。

とうわけで、この断食月、ジャワの王宮では静かな時間が流れている…。

仙台ネイティブのつぶやき(3)金魚のすみか

西大立目祥子

 私が一部屋を仕事場として使っている実家の庭には、古池がある。大きさは畳1枚半ほど。池の向こうは小さな築山のようになっていて、ツツジやモミジが育ち、隣家との境のブロック塀の脇には、いまナツツバキが白い花をつけている。池をつくって50年以上、金魚が絶えたことはなかった。
 …なんて書くと、何やら豪邸みたいだけれど、私が子ども時代を過ごした昭和30年代から40年代にかけて、仙台では敷地の半分ほどに家を立て残り半分を庭にし、そこに池を配するのはごくごく普通のことだった。祖父の家にも、ときどき母にくっついて行く近所の家にも、友だちの家にも、樹木の茂る庭があり池があった。縁側やリビングからは、緑陰の下を泳ぎまわる金魚が見える。餌やりに近づくと、金魚たちはぱくぱくねだるように口を開けかわいかった。赤い金魚は、戦後の混乱が一段落し、少しずつ豊かさを手にし始めた地方都市に暮らす市民の最初の愛玩動物だったのかもしれない。
 いや、こんなふうに少し大胆にいいかえてみようか。明治、大正、昭和始めの生まれの男たちが、戦災で焼け出され外地から引き上げ、ようやくほっとできる我が家を得たとき、戦前に眺め楽しんだ杜の都の庭を、もう一度そこに再現しようとしたのだ、と。

 いまは杜の都仙台といっても、駅からまっすぐ西に延びる青葉通や定禅寺通を思い浮かべる人がほとんどだと思うけれど、そもそもは城下町に武家屋敷が多くあり、そこに植えられたたくさんの樹木が連なったさまがまるで森のようだったことに由来している。藩は樹木の伐採に厳しかった。屋敷には、スギやケヤキ、クリなどの家の建て替えに役立てる大木からカキやウメなどの果樹までがよく育ち、自給用に畑もつくられていた。すべての屋敷に池があったかどうかはわからないけれど、地下水の豊かだった町では庭に水が湧き出していたから無理なく池をしつらえることができただろう。
 明治34年生まれの祖父は、明治になっても受け継がれていた武家屋敷の名残の中で育った。春は仙台地方ではオサランコ花とよんだヒナゲシの花畑で相撲をとり、夏は屋敷奥の大木の林で蝉時雨に聴き惚れる。残してくれた自分史には、大雨で池から用水堀に流れ出した金魚を追いかけて遊んだ思い出も記されている。
 昭和20年7月の仙台空襲で家族の命以外のすべてを失った祖父は、30年代半ばになって再建した自宅に、ほぼ自作で築山をつくり桜を植え、池をつくって金魚を浮かべ、畑まで整えた。じぶんの記憶の中の庭を手探りでつくろうとしたのだろうか。さすがに小さな庭にケヤキの大木はかなわなかったにしても。私の目の前の池も、祖父と父の手づくりだ。2人がスコップを手に穴を掘っていたおぼろげな記憶がある。

 金魚は瀬戸物屋で買ってきた。売り物のガラスの水槽が並んだ前に、ブリキでつくった浅めの水槽が金魚の種類ごとに置かれ、おじさんに「この赤いのとぶちを」というと、すくってビニール袋に入れてくれた。池が大きいからか金魚はすくすく育って、産卵の季節になると父は池に水草を浮かべ、産みつけられた卵を水草ごと水槽に移して孵化させ、メダカほどに育てて池に戻したりした。魚体に白い点ができる白点病という病気にかかると、水を張った漬物樽に隔離し塩だのヨードチンキだのを入れて治療し、元気にしてこれまた池に返した。結構ばりばりと仕事をしていたサラリーマンの父に、どうしてそんな手間暇かかることができたのだろうか。いま、思い出した。小3の夏休みの宿題は「金魚のかんさつきろく」で、卵から育つ金魚を毎日眺めて日記風に仕立てたものだった。いかにも健気な昭和の子どもであった。
 池で育つと金魚は20センチほどにもなる。特に夏はいい。まわりの木々も池の水も緑を濃くしていく中を、朱色の金魚がすいっと動きまわる。動く赤。自在な赤。この赤い色にじぶんの気持ちをのせて、一瞬を楽しむ。

 でも、生きものには手をかける人の存在が欠かせないのだ。父が亡くなって20年近く。池をさらうこともなくなって金魚たちは少しずつ数を減らしていった。そしてついに昨年8月、最後の3匹のうち2匹が一晩にして死んだ。酸欠か? うずくまるように残った1匹を水槽にレスキューして冬越しをした。横から見ると金魚はさらにデカい。少なくとも20歳にはなる金魚だ。暖かくなったら池に戻そうと計画して、待つこと9ヶ月、連休明けにそのデカをきれいに洗った古巣に泳がせてやった。
 そして、ひと月ほど経った6月9日、ホームセンターで3センチほどの小赤とよぶ和金を7匹買ってきて、2日バケツでようすを見てから池に放した。この小赤は、すごく安い。なぜなら肉食魚の餌用だからだ。ショックを受けた。巨大なホームセンターの棚には、水の浄化剤、水温計、病気のための薬剤、水質検査紙…もう何がなんだかわからないほどに商品が並んでいる。手近にあった素朴な道具と薬箱の薬で金魚を育てていたなんて信じられないほどに。
 金魚は社会的な生きものだ。デカは小赤たちを歓迎した。いかにもはしゃぎまわるように群れをつくり泳ぐ小赤を見てうれしくなったか、物陰から出てきていっしょに泳ぐ。小赤は3匹でいたり4匹でいたり、群れで泳ぎまわる。安堵した。うまくいきそうだ。
 だが、それは続かなかった。4日目に3匹が一度に死んだ。5日目にまた1匹、さらに1匹、また1匹…小魚でも死なれるのはいやだ。しかも原因がわからず病変も外傷もないのが恐い。水のPHは正常値。水温もいつもどおり。いったいなぜ…?そうこうするうち、デカまでが具合が悪そうに動かなくなった。あせって水槽に移す。薬剤を入れても斜めになったり、底に沈んだり…もうだめかもしれないと観念しながら、本を調べ思い当たった。「金魚ヘルペス」。あっという間に蔓延し、治療できる薬剤はない、とある。小赤についてきたのだ。金魚までもが得体のしれないウィルスにおびやかされる時代なのか。レスキューして2晩目、デカは絶命した。ついに、50年の池の金魚は途絶えたのだ。
 いや、でも、池には小赤が1匹残っているのだ。いかにもさみしそうに、ときどき姿を見せてはじっとしている。おまえもヘルペスか、まだ頑張れるか? 梅雨空の下で話しかけ、こんな大変なこと、もう続けられないと思いながらも、仙台ネイティブの意地が頭をもたげる。どうしようか、この池。

長い道のり(2)

小泉英政

対応を変えたのはぼくの方からだった。千葉県の説明によると、仮補償のまま据え置いてきたのは、千葉県だけの判断によるものでなく、国、空港会社、そして、警察と、そのつど協議しながら対応してきたとのことだ。そうであるならば、千葉県のみを責めるわけにはいかない。収用委員会の審理を無理に求めても、空港問題は扱わないとの条件で委員になった人たちが、約束違反だと辞任される可能性がある。

県が43年間、放置してきたことの非を認めるならば、こちら側は、収用委員会での審査にこだわらなくてもいいのではないか。そして、最終的に、よねさんの生活権が認められれば、こちら側の目的は達せられるのではないか、そう考えるようになった。

後日、その考えを伝え、そのことを踏まえた見解を、国、県、空港会社が明らかにすれば、話し合いで、よねさんの補償問題を解決してもいいと提案した。

そして二回目の会合が開かれたのだが、県は非を認めるどころか、「やむを得なかった」との説明に、もう一つの論点を加えてきた。それによると、千葉県は代執行以後、代執行が引き起こしたことの重大性に気づき、国と空港会社に対し、話し合いで空港問題を解決するよう求め、国と空港会社もそれに同意したという新聞記事を引用し、よって県は、話し合いの推移を見守る立場にあったので、収用委員会を開かないできたのだと説明した。

代執行以後、千葉県が話し合い解決の提案をしたとの報道は、ぼくも耳にしていた。しかし、代執行以前に、そういう態度を示すのであればまだしも、自分たちの体を張って、農地や暮らしを守ろうとする農民たちの抵抗を、悪い代官さながらに、暴力的に破壊したその後に、話し合い解決を持ちだしても、農民たちにとっては、「何をいまさら」との反発を招くだけだった。もうすぐ50年になろうとする空港問題の長い歴史のなかの、忘れ去られていた新聞記事を掘り起こしてきて、「やむを得なかった」との説をなんとか維持しようとする県の態度に、ぼくは愕然とした。代執行そのものが、50年にも渡る空港問題の大きな要因になっており、よねさんの問題は、その象徴的な出来事なのに、そのことにまともに向きあおうとしないその姿勢にぼくは驚いた。

数カ月後、提出された県の見解の素案は、やはり、言い訳に終始していた。遺憾との言葉も見られたが、それは43年間放置してきたことを遺憾とするものではなく、ぼくたちを長い間不安定な立場に置いていたことを遺憾とするものだった。その素案はとうてい呑めるものではなかった。大谷恭子弁護士が、ズバズバと切った修案を送り返すと、仲介してくれていた空港会社の担当者も、これを橋渡しするわけにはいかないと言った。今まで、その担当者の人が、根気よく、県都の調整に当たってくれていたのに、彼がこれ以上、その任に当たれないとの返答に、大谷弁護士も、解決の道が遠のいたと感じた。

それからじりじりと時間が経って、県からの連絡で、次なる素案ができたという。お会いすると、大谷さんから送り返した修案に沿ったもの、つまりは言い訳めいたものを削り取ったものになってはいたが、遺憾の言葉の使い道は同じだった。

どうしてわかってもらえないのか、ぼくたちの側に疲労感が出て来た。弁護士の側にも、それは感じられた。これ以上の見解を引き出すのは無理なのか、もう少し時間を置くべきか、あれこれとぎりぎりの選択が迫られた。そこで「諦めるな」と、ぼくの内側から、ぼくの背中を強く押してくる力みたいなものが感じられ、それはもしかしたらよねさんの魂のようなおのだったのかも、と、後から振り返る。

それまで、県の見解に求めたものは、最低限、43年間放置したことに帯する遺憾の意が示されればいいと考えていた。しかし、ここまできて考えが変わった。さらに徹底した見解、よねさんへの代執行に対して、どう考えるのか、生活権の問題について、どう考えるのか、43年間放置についてどう考えるのか、その見解をあと数週間(年末までに)で出してくださいと電話で伝えた。

どうして、最終的な局面で、見解の全面的な検討を求めたのか。それは今まで、こちら側の主張をきちんとしていなかった、つまり、43年間放置したことの反省という一点に絞ったがゆえに、逆にこちら側の気持が、充分に伝わっていないのではないかと感じたからだ。

県に伝えた内容を、弁護士、そして、空港会社の担当者に話した。その人は「それを県が呑むでしょうか」と言った。ぼくは、「県は話し合いでの解決を求めていると思うので、大丈夫だと思います」と言ったが、自信があったわけではなかった。

私的青空文庫のお話(その3)

大野晋

さて、それでは私的な青空文庫の話の三回目です。

今回も最初に青空文庫のサーバ更新に関しての話から始めます。そろそろっと、新しい環境の話が動き始めたようです。Gitという校正管理エディタを使用して青空文庫の入力、校正環境を整えたらどうかという話で、実装の話がいろいろと作業用のGitに載っています。その中で少し気になることがあったので最初に触れておきます。

青空文庫の入力/校正管理システムで管理している人物ID、作品IDをGit側では変えようという話が出ていますが、まず、これには注意が必要です。ひとつは人物IDは同じ人物IDという名前で二つのテーブルのキーがそれぞれ存在しています。人物ID-Aは工作員の管理テーブルのキーです。そして、人物ID-Bは著者の管理テーブルのキーです。一部にBのキー値と被っている人がいるようですが、テーブル自体の目的が違いますからIDを統一することはできません。そして、もうひとつの問題を抱えています。この人物ID-Bと作品テーブルの作品IDは、青空文庫内でユニークに管理されており、公開時の青空文庫サイトのディレクトリの管理番号になっているのです。

実は、青空文庫と青空文庫のコンテンツを利用するアプリなどはこの2つのIDをキーにしてシステムの連携を行っているケースが多いです。これは青空文庫が作品IDと人物ID-Bをユニークかつ変更しないという約束でできていることを知っているからです。ですから、なるべくこの2つのIDは変更しない方がよいです。

どうしても変更する場合には、青空文庫側で大々的に事前に公表して、数か月の猶予と事前のIDファイルの提供をする前提で変更の作業をしてください。そうでないと、例えば、ある青空文庫アプリが突然数か月にわたって、最新の公開作品を公開できなくなったり、場合によれば、アプリの提供自体を中止しなければならない事態になります。前回のDB内の文字コード変更だけでも大きな波紋があったことは記憶に新しいでしょう?(そうでもないかな?)ID変更は文字コード変更以上にインパクトが大きいと思ってください。それは、青空文庫の中の人も一緒ですよ。きちんと変更の手順を踏めば大丈夫なはずですが、そのためには最悪、数か月の青空文庫の作品公開中止とバーターになるように思います。

それから、入力校正システムについてですが、テキストアーカイブのファイルとプログラムのソースファイルで発生する問題が違うために、エディタに要求される機能に違いがあることに注意してほしいと思います。
テキストアーカイブのファイルは大抵は単独で存在します。プログラムのように、複数のファイルの間の連携を図ったり、変更を戻したりといったことは滅多に発生しません。同じ夏目漱石のファイルであっても、「吾輩は猫である」に発生した変更を同期をとって「坊ちゃん」にも反映するということは滅多に行いません。ですから、変更管理や校正管理の機能ははっきり言ってあまり重要ではないのです。

日本語アーカイブの青空文庫にとって大切なのは、文字を見分けやすいこと。例えば、「力」と「カ」、「ケ」と「ヶ」といった文字を的確に見分けやすいことです。これは、現在のOCRの識字率の低さにも関連するのですが、こういった文字が特にOCR読み込みを行った場合に混同されて出てきます。次にJISの第1水準、第2水準の文字コード以外の文字を的確に区分して、入力できることです。現在、こうしたもろもろのコードチェックは、それぞれのチェッカとして存在しますが、残念ながらこれをエディタ上に表示するものはないように思います。ぜひ、青空文庫のツール群をエディタの中に取り込んでほしいと思います。

そして、もっとやって欲しいのが、複数の文字コードのパッケージ化です。パッケージ化というのはひとつのエディタ上で作成したファイルをエディタ側で自動編集して、(1)シフトJIS(X208形式;青空文庫形式)(2)UTF8(XHTML形式)などの複数のファイルを一回に編集してくれることです。

現状の青空文庫のファイルは、まず、入力者が入力します。このとき、少し前はかなり深い校正が求められました。次に点検チームにファイルを送ると、ここでも点検と称するほぼフルイメージの校正が行われます。そして、大きな問題が見つからないと受理。少し間違いが多いと見直してほしいと入力者にファイルが戻されます。無事に受け付けられたファイルは校正希望者が現れるまでは青空文庫内に停滞します。そして、校正希望者が現れると校正に送られ、校正が終わると点検チームにファイルが渡ります。たぶん、念には念を入れる人たちですから、ここでもベテランの工作員が厳しい目で校正のチェックを行います。そのうえで、公開準備の列に並ぶことになります。公開の準備はたぶんもう一回くらいは読まれるのですが、それとともに、XHTML形式のファイルに編集する作業が待っています。テキストをそのまま編集すれば良いようなものですが、実際には、文字コードが変わることで表示できる漢字は文字コードをその漢字のものに変更し、青空形式のレイアウト情報を消込み、どうしても表示できない漢字は外字として文字を作成するという作業が発生し、さながら、もう一度、作品を入力するくらいのパワーが必要になっているはずです。これが、だいたいの青空文庫の公開が遅い理由だと思っています。

ならば、途中の入力か、校正の時点で、JIS形式のコードとXHTML形式のコード、そして表示のためのコード(と事前に判明した外字のリスト)がパッケージになれば、随分と作業が効率化するのではないかな?と思う次第です。ぜひ、ご検討ください。

さて、閑話休題。
私的な青空文庫のお話です。

探偵小説とチャンバラは青空文庫の収録群の中でも読み物として面白い部類にあると思う。一方、サイエンスフィクションは比較的新しい文学の分野で、現役の作家が多く、また、科学的な常識が昔と今では違っているために読み方に癖のある分野だと思っている。それでも、海野十三の著作権が切れるときには、同じ工作員のもりみつさんといっしょに、いくつかの作品を拾ったように記憶している。今では、海野の作品は青空文庫を通して読めるようになっているが、当時は比較的アクセスできる文献も少なく、早川文庫の古本は高価になっておりおいそれとは読める作家ではなかった。

その他では、子供用に童話を集めたり、童謡を入れたりといったことをした。歌を入れたのにはもうひとつ意味があり、著作権管理団体のJASRACの網をくぐって、歌の世界も著作権フリーに取り込みたいという思惑もあった。現在は、長野県県歌の公開が終わっているが、今後は例えば同じ作者の作った歌に多くの校歌が多いことからも、廃校になった学校も含めて校歌のライブラリを作りたいとか、バンカラ寮の至誠寮を知っていることからも、忘れ去られつつある寮歌を収容したいといった夢もある。

また、変わったところでは、富田さんと「かすとり本」の入力は可能かという題材で話したこともあり、青空文庫的にはいいのではないか?という話になっている。ただし、著者が不明なケースが多く、孤児著作権の宝庫というミソがついた格好で、永井荷風の「四畳半襖の下張」が入力中にしたままである。(ただし、全集版でかすとり版ではない)また、著作権の隙間を突こうという悪い企画で、十年留保にかかっているエラリー・クイーンの作品を登録中に並べて、業界の様子をうかがっている。

結局、比較的初期から工作員をしていた形だが、それほど多くのものに関わったという感想はもっていない。なぜなら、根こそぎ入力した経験というものがないからなのかもしれない。面白い作品は、最初のいくつかを入力すると、その作品を読んだ誰かが作業を引き継いでくれるからだ。だから、私はいろいろなものを探して歩いている。

そして、後を引き継いでくれる誰かがいると思えるから、少しだけだけど、作業を残すことができる。テキストアーカイブなんて、そんな小さな小石を積むくらいの活動がちょうど良いのかもしれない。手漕ぎポンプの井戸は、最初に水を吸い出すときの水を中に入れる。これを入れることで、水が吸い上げられるようになる。この水を呼び水という。私も自分の働きは呼び水でいいと思う。大きな力が呼び出せたとき、小さな水は満足する。

青空文庫は弱い。そして、支える力の方がもっと大きいのだと思うというところで終わりましょう。

土からの距離

璃葉

身近で働いている20代の女性たち、体調が悪いようだ。
とある企業で事務の仕事をしている女性数名と会う日があった。
みんな顔が青白く、マスクをしている。とにかく身体が怠いらしく、原因不明の湿疹があちこちに出ている人もいた。会社内の空調が大変な寒さなようで、長袖のカーディガンを羽織っている。
ちゃんと、寝てるの? 食生活、どうなっているの? と思わず聞いてしまった。約1時間(さえも取れないことがある)と決められた昼休憩の中で、食べたいものをゆっくり選ぶ時間はないから、毎日コンビニのパンやおにぎりを買うしかない、と答えが返ってきた。

気温や気圧の変化が激しい梅雨は、抑えられていた身体の疲れが表面に出てくる時期だ。高層ビルで働く彼女たちの身体はたまらなく冷えている。冷えと栄養が摂れていない食生活から起こる頭痛や月経痛、悪寒を、いつものことだと当たり前のように受け止め、市販の薬を飲んで誤魔化して夜遅くまで仕事をし、独り暮らしの自宅へ帰れば、ごはんをつくる元気もなく寝てしまう。
安い給料のなかで自然と食費と休息を削っている彼女たちは、あまり人間らしく見えない。先の見えない不安に押しつぶされ、今のサイクルを変える勇気がなく、目の前のやらねばならない事のために自分の身体は後回しにせざるを得なくなっている。そういう流れが、気づかないうちに出来上がっているようだった。

家の近くの商店街に、農家の直売所があり、畑から採れたばかりの野菜が並んでいる。
土にまみれた無骨な野菜は、農薬が一切使われていない。
旬のものを選んで買って、にんにく、オリーブオイル、少々の塩で野菜スープを作った。
暖かい土から遠く離れてしまった彼女たちにこそ食べてもらいたいと、ふと思うのだった。

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キャプテン・マージッド(サッカーのお話その2)

さとうまき

先月、お話したマージッド君の話。
ユーニスは、イラク代表のサッカー選手で最多代表出場数と歴代2位のゴールを決めている。しかし、待てど暮らせど、ユーニスのクラブのオーナーからは連絡が来ない。何度かスタッフのカバットにオーナに電話をさせた。そのたびに、「ユーニスが来たら電話するから」との返事。

イラクでは、日中は40℃を超える。信じられないかもしれないが、石油の取れるこの国では、未だに停電がある。しかし、その辺は心得ており、停電になると自家発電に切り替わるというシステム。ただし、電圧が足らず、冷房が動かない。重宝するのが、ムバリダという水冷式の冷房機。ドラムが回って水がぽたぽたと落ち蒸発熱で冷やすという原始的だが優れものだ。電気をさほどくわないから自家発電機で動き、しかも結構涼しいのだ。骨肉腫で治療中のマージッド君のテントにも一台買ってもって行ってあげることになった。

レントゲン写真を見せてもらう。同行した鎌田医師の話では、4月からさらに悪化し、肺まで転移しているという。「厳しいな」とため息が漏れる。

なおさらユーニスに合わせてあげたいなと思った。この一週間の滞在中に何とかと思い、毎日しつこく電話をさせた。「毎日電話するのは迷惑じゃないのか。オーナーが電話するといっているんだから待てばいじゃないか」とカバットはうんざりしていた。「電話しても出ないよ。俺たち、嫌がられているよ。きっと」といい逃れをするようになっていた。それでも、僕は、オーナーは夜しか電話に出ないことを知っていたので、「いいか、こういうのは、しつこくやるんだ」と帰宅してからも電話するように促した。結局ユーニスはクラブに現れなかったし、きわめつけは、引退すると表明して、6月11日の日本で行われる親善試合にも来ないことになったというニュースが入ってきた。

最終日、支援者から送ってもらった日本代表のユニフォームが10枚くらいあったので、それをマージッドくんのテントに持って行ってあげることにした。マージッドの家族にも着てもらうと俄か代表チームが出来た。「試合をやろう」誰かともなく言い出して、僕らは、広場に向かっていった。彼らは、石を2つ持ってきて並べた。ここがゴールらしい。本格的になってきたぞ。マージッド君がとっても嬉しそうにボールを蹴っている。本当に彼はサッカーが好きなんだ。僕もなんだかとっても嬉しくなって一緒にボールを蹴っていた。

そして僕は帰国した。

20日ほどたち、現地にいるスタッフから連絡。「ユーニスが来ることになりましたよ」という。がんの病院を慰問してくれることになり、マージッド君の病院に駆けつけてくれたのだ。写真が送られてきた。ちょっと緊張しているマージッド君。でも嬉しそうだ。約束を守るということは、改めてとても誇らしいこと。これからも約束を守る大人であり続けたいと思った。

7月2日(木)日本テレビ ニュース・エブリィの16時台で、マージッド君が紹介されます。是非ご覧ください。(予定では16:20くらいのオンエアです。ニュースなので番組が変更することもございますのでご了承願います) 

グロッソラリー ―ない ので ある―(10)

明智尚希

 1月1日:「数か月に一度そうやって騒ぎを起こしてた。せっかくの断酒生活もぱーになって、また朝からウオッカ。アル中って治らない人は一生治らないらしいね。依存症もそう。ごくたまに飲む程度といっても、前後不覚になるまで飲むのは、依存症の一種でアルコール多飲症っていったっけな、立派な精神疾患の一つなんだってさ――」。

゚。(p>∧<q)。゚゚

 インターネットで仕事を探し応募する。数日してEメールで不採用通知が来る。これが日課となっている。どの企業も別段入りたかったわけではない。給料さえくれればそれでよい。毎日どこの誰かわからない者から次々と自己否定されながら、惰性で生きている。既に生自体が日課。朝目覚めてしまった時の悔い、怒り、無念ったらない。

ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ〜♪

 誰憚らずちんちんかもかも、ええ畜生め。こちとらわしであってわしでない。鼻歌が教科書に載ってしまったからって、能もないしなんの罪もない。生まれながらにしてどうにもならないことがある。名前も顔も確かでないが、必ず存在する誰かのためにいる。わしはどこから来たのか。わしは何者なのか。わしはどこへ行くのか。

(。?)三(?。?)三( ?。)

 朝晩問わず、着想やイメージが逃げないように、カーテンを引き部屋を閉めたままにしている。当然暗いので灯りをつける。ところがこちらの意図とは反対に、目を向ければ、書棚の本が物憂げで、自分の形をした上着が不満げで、目を向けていない辺りに、自殺者たちのかなりまとまった面影が偏在し、それぞれ聞き取れぬ伝言を送ってくる。

( *´ノд`)コショショ

 1月1日:「精神疾患も大変だよ。あとで聞いた話だけど、そいつも複数の精神疾患を持っていたんだって。単なる酒好きがアル中になったんじゃなくて、まあ症状の一つが出たって感じなんじゃないかな。病名はなんていったっけな。鬱病は確実にあったな。それと不安神経症か。なにしろ鬱と神経症でかなり苦しんでるって言ってたな――」。

_| ̄|○ il||li. 鬱・・・

 世の中には自分と似た人間が三人いるという。そのうちの一人にでも偶然出くわそうものなら、強く結託して悪事をたくらむことだろう。いや、臆病な自分とて、軽く目を合わせるだけにとどまるだろう。いや、人間が苦手な自分とて、目を合わせることすらかなわず、結局は誰とも会わなかったことと同じ状況になりおおせるだろう。

(´´・Д・`)ノ・゜・☆★ぃょぅ★☆

 生まれ変わったら? なぜ生まれ変わらなきゃならんのだ。

ヾ(≧(エ)≦)〃ヤダヤダヤダヤダヤダ

 骨董品を収集している知人に、ご自慢のコレクションからいくつか持ってきてもらった。全て並んだところで、片端から壁に投げつけあるいは蹴り上げて、ことごとく木端微塵にしてやった。まだ形のあるものも全力で踏んづけて価値の「か」の字もないゴミにした。この手の未然に終わる衝動が常にある。衝動を防ぐのも、また衝動である。

ヽ(*`Д´*)ノゴルァァア!!

 1月1日:「不安神経症のパニック障害って壮絶らしいな。急に心臓の鼓動が速くなって動悸・息切れ、めまい、発汗、そして何よりも狂うんじゃないか死ぬんじゃないかっていう恐怖心。あいつが症状に合った薬が見つかるまで、ろくに歩くことすらできなかったって。しんどい生活で二十代の大半を費やしちゃったもんな。気の毒に――」。

(´□`。)°゜。

 不眠症に関してはあきらめた。寝酒も効果がない。死ぬまで眠剤に頼ることにしているのだが、飲むまでに駄々っ子のような葛藤がある。早く眠りたい。だけど忌まわしい夢を見るのは避けたい。すぐに眠れるとする。でも避けたい朝が来るのは忌まわしい。そのまま起きていてはどうか。忌まわしくて避けがたいのはもうこりごり。

(´・ωゞ)おやすみなしゃい

 子供の頃、三歳くらいじゃな、夜中に目が覚めると、部屋中の物が秒針の音に合わせて前後へ動いていた。ある深夜にまた同じ現象が起きていたので母親を起こし見てもらったら、こっぴどくしかられたもんじゃ。あれが何だったのかさっぱりわからん。今じゃ銀色の粒々や薄黒いシミや金色に光る斑点が、わしの視界で遊んでおる。

(((; ゚Д゚)))ガクガクブルブル

 何につけても他人のまねはしない。それでこそひとかどの人間である。金満家だろうが素寒貧だろうが関係ない。生き方、考え方、人生を動かす諸点において独自の哲学を持ち、これと決めた言動をすみやかに履行する。平均化された現代社会では稀有で重要視すべき存在である。しかしながら独創というのは、人に知られていない剽窃ではある。

(`Д´)y-~~ちっ

 コンドラチェフの波に乗りながら、とんでもはっぷん歩いて十分。オルガヌムとオルガスムス。このどうでもいいような気持ちよ。そぼ降る雨の中で生起する自己抹殺願望よ。花は折りたし梢は高し。あっという間にローレンツ収縮。自由に浮動する波乗りジジイとしては、ジュグラーの波に乗ってドリフト理論を遺憾に思うことにするさ。

スイミング。;:。へ( -_-)_

ひとりで食べているときも誰かとむかいあっている

若松恵子

家族がみんな出掛けてしまった日曜日。まだ誰も帰ってこないひとりの夕暮れに、ソファに寝転がって石田千の『きんぴら ふねふね』(平凡社/2009年)を読む。石田千はいいなあ。『きんぴら ふねふね』は、「小説すばる」に2005年4月から2008年3月まで「さしむかい よこならび」の題名で連載した作品を中心に編んだ、食べ物にまつわるエッセイ集だ。

母の手作りドレッシングに欠かせなかった「サラダ酢」。中学生の頃飼っていた猫のチャーさんが大好きだった塩ポッキー。りんごとヨーグルトと小麦粉でつくる簡単ケーキぽんぽん。石田千の心に大切にしまわれている”ごちそう”は、ある年代の人にとってはありふれたもので、でも今はどこかに消えてしまった懐かしくてせつない風味がする。
「彼岸列車」という1篇で、猫のチャーさんひとりを乗せて電車が走り去ってしまったように、「おいしいね」といっしょに笑っていた友だちも自分も、時と共に過ぎ去って今はもう居ない。

夏休みにおばあちゃんの家に泊まりに行く。親戚も訪ねてきたお昼、「ななめむかいのそばやさん」に、おばあさんが歩いて中華そばをたのみに行く。煮干しのダシの中華そばは、いなかでしか味わえない特別の味がする。子どもの石田は、家にいる兄に夜電話して、うらやましがらせたりする。お客さんのために歩いて近所の店に店屋物を注文しに行くというのは、私の母もやっていたなーと懐かしくなる。今はあまり見かけなくなったおもてなしのしぐさ。のんびりと長かった夏休み。石田千が子どもの目でみつめていた風景には、私にも思い当たるものがいくつもある。当然のように受け取っていた人の親切を、今になってありがたいことだったとしみじみ思いだす。

食べ物への嗜好が、思いがけずに自分自身や相手を炙り出してしまう、その怖さについて書かれていることも、このエッセイ集の魅力だ。できごとを見つめる石田のまなざしは、時に鋭い。菜っ葉の煮つけのほろ苦さをきっかけに、好きな人と離れてしまったいきさつを語る「青菜惜春」は絶品だ。

あとがきに「飲み食いのたび、だれかを想い出す。ひとりで食べているときもだれかとむかいあっている。」「ひとり暮らしは、食べたい時に食べたいものを作ってよろしい。長くつづくと、ひとりよがりで、思いやりに欠ける味となる。ときおりのお客は、かたくなになる頭と舌にとって、ほんとうにありがたい。」という印象的な文章がある。

「ライオン」という1篇。特別な人と、さしむかいになるために出かける誕生日。読み進んでいくと、どうやら「さしむかい」の時間は、石田ひとりの胸のうちのできごとだとわかってくる。『きんぴら ふねふね』では、そんな不思議な時間についても語られていて、唸ってしまった。

さあ。本を閉じて、家族にとうもろこしでも茹でよう。

しもた屋之噺(162)

杉山洋一

季節は夜の8時から9時あたりの日暮れ頃、親鳥につれられた黒ツグミの雛たちが庭の芝生を闊歩しては、水撒きを心待ちにしているように見えます。日中の暑気のせいか、それとも水を撒くと餌の虫が動き出すのかも知れません。ここに住んで、夜明けに響き渡るツグミの歌声から、夏を意識するようになりましたが、毎年巣立っていった雛たちは、今ごろどうしているのだろうと思います。
目の前で煌々とひかる橙色の月をながめながら、我々自身はこれからどこへ行こうとしているのか自問しながら、この原稿を書いています。

 ・・・

 6月某日 バーゼル トゥルディ邸
ビッローネから頼まれたドイツの若いアンサンブルとの仕事で、初めてバーゼルを訪れる。ロンドン、パリ、フライブルグ、フランクフルト、トレヴィーゾ、バーゼルと、演奏者が別の場所に住んでいるので、演奏会のあるバーゼルでリハーサルとなった。
ポーランド生れでドイツに住むアグニェシュカが、以前ビッローネの打楽器曲「マニ・モノ」を演奏したというので、「だらりと垂れていて、ビヨンビヨン音のするあれは、何ていう楽器だっけ」というと、「あたしについていないアレよ」と大笑いした。「彼女についていないアレ」を曲中50秒間もシェイクし続けるのはどんなものか尋ねると「結構疲れるわ」。

 6月某日 バーゼル トゥルディ邸
「スイス人は親切なので、近くまで来たら通りすがりの人に道を尋ねて」とスイス人のベッティーナからアドヴァイスを受ける。
「ここに行きたい。この停留所で降りるように云われたので、着いたら降ろしてください」。
運転手に話しかけると、親切に運転中のバスを路肩に停め、差し出した小さな地図をしげしげと眺めて言う。
「ここにゆくのなら、次の停留所で乗り換えてください」。
「でもここで降りろといわれたのですが」。
「遠回りです。悪いことは言いませんから、この通りになさい」。
親切な運転手に指示通り停留所を降り、道行く人に目的地を尋ねる。
「この道の名前は聞いたことがあります。この辺りにあるはずです。安心してください。もうすぐ着きますから。きっとあの信号の向こう側ではないでしょうか。あちらまで行ってまた尋ねてみたらどうでしょう」。
「あらトランクをお持ちで大変ですね。この通りですか。確かにこの辺りですが、どうやら貴方は反対方向へいらしたようです。信号の向こう側左手あたりです。え、あちらからいらしたの、妙ですね。でも大丈夫、もうすぐですから」。
10人くらいに尋ねてはその度に励まされて、目的地の近所でトランクを曳きずりながら、小一時間徘徊し気がつくと目の前の細い通りが探していた通りだった。

この家の主トゥルディはベッティーナの母親代わりだ。最初に「私はベッティーナのグッド・マザーなの」と自己紹介されたときは、カソリック洗礼式の代母の意味だと勘違いして、プロテスタントの代母とは何だろうと不思議に思って尋ねると、「文字通りの母親代わり」、と破顔一笑した。
「本当のお母さんの身の上に事故や病気など何かがあったときに、私が母親になる取り決めがしてあって、いつもベッティーナとも連絡を取り合っているの。スイスではしばしば見られる習慣なの」。

 6月某日 バーゼル クララ広場喫茶店
練習場は、ザンクト・アルバンの塔を通り越した辺りで路面電車を降り、丘を登った公園の中にある。昼休みはチュルヒャー通りまで下って生協で何某か購うのが常だが、今日は珍しく生協の入口で手作り野菜サモサとおやきを売っていて購入する。聞けばネパール地震被災者への義捐金集めだそうで、代金は幾らでも良いと云われ困惑する。味はとても美味。
日中30度を越える暑さになって、夜半急に気温が下るからか、温度差に軽く風邪をひきかけたらしく喉が痛むので、中央駅の売店で適当なスコッチ・ウィスキーの小瓶を選び、寝る前に呷る。
駅前で路面電車の切符を買っていると、こちらに向かって笑顔で手を振る男がいて、気がつけば作曲のマクシミリアーノ・アミーチだった。昨年トリノのイタリア国営放送響と彼の「フローウィング」録音来の、思いもよらぬ再会に喜ぶ。

 6月某日 ミラノ ダルヴェルメ劇場
昨晩演奏会が終って朝4時にバーゼル駅に着くと、既に喫茶店が開いている。カフェラッテとクロワッサンを購入し、チューリッヒ空港行の一番列車に乗り込んだ。そそくさと朝食を済ませ車掌に切符を見せ、アイマスクをして空港まで眠り込む。
10時からミラノで指揮科の期末試験なので、8時半にはミラノに着いて郊外電車の切符を買っていると、聴講生のファビオが後ろに並んでいた。空港近くの街に住んでいて、試験を見学しにくるところだった。
今回のバーゼル滞在は懐かしくそして新鮮な体験だった。一つずつ発見し、音楽を丁寧に築き上げる喜びに、久しぶりに触れることができた。

演奏者も聴衆も等しく惹き込まれる、ビッローネの桁外れに深い表現力に舌を巻き、演奏後も興奮冷めやらぬ様子。
特殊奏法による非楽音で作品を作る行為が、普遍的ですらある現在、余程明確な音楽のファンタジーと構築力がなければ、説得力すら持たない。何故わざわざ穿った音で作品を書くのか分らない、程度の興味で終わってしまう。作曲者本来の音楽の豊かさが問われる時代になった証だろう。インターネット登場以前は、作曲家の内面は作曲を学ぶ上で培われ、世に登場してから、最新の技法なり技術なりを身につけたが、現在は手順が逆になったのかも知れない。
学校やワークショップで、まず新しい技法や演奏法を学んだのち、どう自分の音楽にするか向き合う。さもなければ情報弱者などと呼ばれる恐れもある。情報が多ければ多いほどよいと信じ込むのも、時としてどうかと思うけれど。

 6月某日 ミラノ自宅
コンクールを受けるため拙宅に数日寓居している生徒の母上が、急遽がんの摘出手術を受けた。急に決まったので彼は既にイタリアに到着していて、予定を変更も出来ず無念だったろう。参加した二つのコンクールを見事に連続優勝したのは、実力もさることながら、母上の励みになりたい一心だったに違いない。
家人の高校来の親友が、脳内出血で病院に収容されたと便りが届く。

 6月某日 ミラノ自宅
以前教えていた生徒に紹介されたと連絡を受けようになり、突然ハンブルグオペラでバッハのカンタータを振る通奏低音奏者や、ヤマハの早期音楽教育で学生オーケストラをしきるヴァイオリンニストなど、少し毛色の変わった生徒がやってきた。

イスラエルから伊政府給費留学で作曲を学びにきているAから同じように連絡を貰ったのは5月末。聞けば指揮の経験は皆無だけれど、9月に国立音楽院の指揮科高等課程の入試をどうしても受けたいと云う。ついては入試以前に夏期講習会にいくつか参加し、オーケストラを振っておかなければならないから、準備を手伝ってほしいと聞いた時には、呆れて物も言えなかったが、
「イスラエルに、実入りのよい仕事も、魅力的な彼女も、持ち家も全て捨ててきたのです。失敗するわけにも、諦めるわけにもいきません」、とまで言われ、なるほど捨て鉢か、さてどういう結果が出るのかと興味深く見守ることにした。

最初のレッスンで二つは大体こうやって、三つはこうやってという按配だったのが、一ヶ月足らずで曲がりなりにも、ベートーヴェンの交響曲1番と3番、ブラームスのハイドン変奏曲、コープランドのアパラチアの春、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、マーラーのアダージェットをやっているのだから、意気込みには学ぶところが多い。
いくらイスラエル人でも、突然指揮が出来るわけでも、全ての楽譜が頭に入るわけもなく、彼のレッスンは未だかつてやったことのない類であって、「ここから先は見てきていません」。「でも先生全部最後まで振ってください。何百遍もヴィデオを見て真似してきます」。

ともかく捨て鉢で9月までの付き合いなので、彼の言うとおりにやってみているが、ここ暫く井筒俊彦の「コーランを読む」ばかりカバンに忍ばせているのは、彼には内緒にしている。こんなに面白い本だとは想像もしていなかった。
目に見えない曖昧としたものが、言語化した途端に意味やシンボルを持つことになるのは、宗教に限らず、もちろん音楽でも同じ。

その前に読んだ山本七平と加瀬英明の「イスラムの読み方」で、イスラエルのヨハナンアジア局長が山本七平に語った捨て鉢のくだりが頭に浮ぶ。
「日本のアラブへの経済援助はどんどんやって欲しい。生活水準が上がると意識が変わる。人間は失うものがないときに、一番無謀なことをやるけれど、少しでもなにか持てば失うまいとして慎重になる」。
それに対し、加瀬英明は「イデオロギー過剰は、失うものをもっていないから。理想を強調するのは、現実とのギャップの大きさを示す」と応えた。

 6月某日 ミラノ自宅
2年前の深秋、ピアノのアルフォンソが出したガスリーニのポートレートCDの発売記念コンサートに出かけた折には、まさか自分が彼の追悼アルバムに係わるとは想像もしていなかった。それほどガスリーニは矍鑠として情熱に満ち溢れ、これからはジャズピアニストの活動を制限して作曲に勤しむと意気揚々としていた。
目の前に並んだ彼のスコアは、とても自由闊達としていて清清しい。12音のセリーと、ジャズ風オスティナートと、魅力的な旋律がごく自然に共存していて、映画音楽と純音楽を分けて作曲するモリコーネよりも、寧ろ、一世代上のロータのよう。映画音楽が、彼本来の純音楽、もしくはライフワークのジャズスタイルに近かったのだろう。ミラノ国立音楽院時代の同級生だったカスティリオーニのピアノが上手で舌を巻いた話や、休み時間にベリオと古今東西の交響曲を連弾していた話が忘れられない。

 6月某日 ミラノ自宅
指揮のレッスンにやってきたセレーナが取り成してくれて、息子がカニーノにピアノを聴いてもらう。本格的にやらせる気などなかったが、十歳にもなれば親の云うことを聴くはずもなく、趣味の割りにプライドだけは高くて誰にも習いたくないという。
「カニーノの処だったら行ってもいい」と大言壮語甚だしく、それなら一度さんざんお灸を据えて貰おうかと軽はずみにセレーナに話したところ、本当に行くことになってしまい大変後悔する。あれほど緊張で居た堪れない思いはもうご免被る。

いきなりミクロコスモスで初見を試されたりして、余り上手くも弾けなかったので、流石に本人も省りみて今後の身の振り方も考えるだろうと高を括っていると、帰り道、「とても楽しかった。また行きたい」と、とんでもないことを言い出す。まあ当然断ってくれるものと思い、その旨伝えると、「折角やりたいと言っているものを、無理に辞めさせるのも可哀相だから」、「宿題をきちんとやるのであれば」時々見てくださるというではないか。
「叩けよ。さらば開かれん」と言うけれど、では「叩けば好いの」と言いたくなるが、家人は息子と性格が似て「小さい時に、偉大な音楽に触れることは良いこと」などととぼけている。思えばその昔右も左も分らないまま阿佐ヶ谷の三善先生宅へ連れてゆかれたのも、同じくらいの齢だった。息子からすればあんな感じなのだろう。
この調子だから、もしいつも日本に住んでいたら「悠治さんの処だったら、近所だし行ってもいい」とのたまったに違いない。ともかく息子は日本に帰り、カニーノからの夏休みの宿題、音階と初見とソルフェージュに勤しんでいる。

 6月某日 ミラノ自宅
MITO音楽祭で、アデスとフランチェスコーニの個展をやるので、譜面を開いている。同じ作家の作品を並行して数曲読むのは作家の色々な側面を知るのに役立つ。イギリス音楽は未だ自分の勉強不足を痛感しているが、いつも持つ印象は、音の雄弁さとミクロからマクロへ向かう構造だろう。本人が意識しているかは知らないが、タイやジルスのようなムジカ・スペクラティーヴァから現在に至る伝統が、やはりアデスの楽譜の奥に息づいている気がする。同じく構造を見せる音楽はイタリアにもあるが、マクロからミクロへ収斂してゆく印象がある。ほぼ同じ時代に、ダウランドのような世俗歌曲が生まれ、高邁な思索と世俗性の二つの柱が今まで英国音楽を支えていると理解してきたが、案外的外れの理解なのかと思うときもある。

 6月某日 ミラノ自宅
ディエゴから息子にメッセージ。互いに親の携帯電話のSNSでやり取りしていて、息子が宗教の試験が全く出来なかったので、落第したのではないかと気を揉んでいたらしい。キリストを洗礼したのは誰か、という問題で、洗礼者ヨハネ、イタリア語でジョヴァンニ・バッティスタが全く出てこなかったらしい。毎日教会に通う敬虔なディエゴからしたら信じられないのだろう。翌日またディエゴからメッセージが届く。突然だけれど、9月から学校を変わらなければいけないかも知れない、とあって涙のマークが続く。

驚いて電話したところ、偶然すぐ近所にいるからと、エルメスがディエゴを連れてやってきた。「ダニエラが急死してもうすぐ半年になる。僕も乳飲み子を連れ、今まで仕事もしないでこここまでやってきたが、流石に限界なんだ。月末には子供たちを連れてポルトガルに休暇に行く。そこからサンティアゴ・デ・コンポステラにどうしても徒歩で巡礼に行きたくて」。
0歳のガブリエレがいるので無理だけれど、少しだけでも歩いて巡礼したい、そう熱心に話すエルメスの傍らで、息子はディエゴに自分のお気に入りの黒い腕時計をプレゼントしていた。

(6月30日ミラノにて)

製本かい摘みましては(111)

四釜裕子

〈偏光パールの下地に型押しして、さらに凹凸の上に染料を入れる〉、〈発泡ではなく、インクのドットをエナメルやガラスレザーにのせた水玉プリント〉、〈1枚の革を3層で染め分ける〉、〈ハラコに箔を貼り、毛を引っかき出す〉――。型押し、型抜き、箔押し、ワックス、インクジェットプリント、転写フィルム、ガラスレザー、焦がしたり毛羽立たせたり。紙や布に対する技術も取り入れた革の表面加工が、これほど多彩にシーズンごとのトレンドを生んでいたとは。6月、東京レザーフェアにでかけて驚いた。レースのような革、布のような革、油絵具で描いたような革……。牛をエイ、豚をヘビなど他の革に似せるものも、型で押すだけではなく下地の工夫と複数の加工を組み合わせているようだ。すごいなあと思いつつ、ものによってはそんなにまでして革ではない他の何かに似せる必要があるのかしらと思ったり。猫の写真をプリントしたものなんて、いったい何に使うのだろう。たしかにきれいだったけど。鞄? クッション? ソファや愛車のシートというのもありか。

フェアのことは浅草橋の革屋で聞いた。製本ワークショップの材料をときどき調達する店だ。ここはA4サイズなど同じ大きさに切った革が重ねてあったり幅さまざま色とりどりの革ひもがどっさり下がっていたり、何に使うのかわからないけれども小さな丸い革がいっぱいあったりと、店頭でうまいこと誘われて、つい、ついで買いしてしまう。ワークショップは本格的な革装ではなく、牛革を漉かずに交差式ルリユールの表紙にしたり豚革で厚紙をくるんで表紙にするようなものなので、いずれも端切れで充分。手足にあたる部分の不規則なかたちや染めムラや傷や穴はむしろおおいに活用できる。A5サイズ前後の革の端切れがどっさり入った箱を物色して、1枚100円をまとめて買ってまけてもらう。なかに、ちょっとめずらしい色柄ものを数枚入れておく。結局ワークショプでは、お好きなものをどうぞと言うと茶系や黒のオーソドックスなものに人気が集まる。せっかく革を使うのだから「革らしい革」を選ぶという気持ちもわかる。おかげで手元に残るのは派手な革ばかり、それで作る次の見本は悪趣味になる。

裏打ちした布に家庭用のプリンターでそれなりの印刷ができるようになったとき、これはいいぞ楽しいぞといろいろ試して布表紙の本を作ったものだ。仕上がりを採寸してデータを作れば背でも表紙でも思い通りにタイトルを入れられるのが何より良かった。布表紙の場合、それまではタイトルを紙に印刷して別に貼っていたからだ。プリンターの精度が年々良くなり、きれいにプリントできる布用紙も増えるにつれ、実験する必要がなくなって面白みは失せた。プリントということでいえば、だから今は革がその創成期である。ルネサンス期のジャン・グロリエ好みの装幀だとかアール・デコ時代のポール・ボネの装幀だとかを模して、表紙の凹凸を型で押し色柄をプリントし箔を押しエイジングをほどこしたら、いったいどれくらいのものができるだろう。レザーフェアでの印象からすると表面的には結構いけるはず。そんなもの、誰も望まないし誰も見たくないだろうけれど、革加工の複合的技術向上実験のための一サンプルとしてはおもしろいんじゃないかしら。次回からレザーフェアに装幀ブースを希望します!

128アカバナー(13)処分

藤井貞和

大き島を、処分できましたか
大き島は、集まりましたか
大き島の、地下室です
大き島に、虹の根を見ました 
南部戦跡から、
ぼくらは宮古島へ、
コザの街、
糸満市にも戦跡を訪ねた1974年です
海上に
暗さと火と
大き島とを見ました
あの
大き島はいまどこにありますか
大城さん、
瀬戸内さん、
今日の誇らしさ
大き島をたたえます
アカバナーは沖縄の花です
咲きました

(会合で大城立裕さんの『小説琉球処分』を廻る発表〈水島裕雅さん〉を聴く。……小説から、細しいノートを執り続ける水島さんは、いま栗原貞子・原民喜・峠三吉の書き遺した稿冊を、世界記憶遺産へ登録する運動の担い手でもある。翁長知事が、時間とともにハワイ、ワシントン上り〈ヌブイ〉、70年の歳月を遡及する。『アエラ』が翁長は琉球国王になったというようなトンデモ記事だけど、それでも記者の沖縄体験を素直に綴ったのでしょう。チョムスキー氏が「沖縄は平和の島であるべきだ。辺野古基地やその他の米軍基地に反対し、奮闘している県民や沖縄県政を強く支持したい」と。軍事基地が沖縄だけでなく世界にとっても脅威になっている、と指摘。核廃絶を訴えたバートランド・ラッセルと、アルバート・アインシュタインとの、「ラッセル・アインシュタイン宣言」に触れて、「われわれは今こそ『私たちは人類として、人類に訴える。人間性を心に留め、その他のことを忘れよ。さすれば道は楽園へと開ける。さもなければ、あなたの前には死の危険が横たわっている』という20世紀の偉人の言葉に耳を傾ける必要がある」とする。氏は米軍基地が集中する沖縄について、「米国はこの地域(東アジア)の支配権を維持するため、前線として沖縄に基地を置き続けてきた。1962年のキューバ危機では、核兵器が配備されるなど沖縄は非常に危険な使われ方をされてきた」と(「琉球新報」報)。新基地建設(だ!)に伴う名護市辺野古の埋め立て用土砂が採取される予定の鹿児島県奄美市住用町の市(いち)集落で、環境団体が29日、土砂崩れを起こした採石地近くの湾を潜水調査する。調査員に拠ると、土砂崩れがサンゴを覆い、生物はほとんど確認できない環境に。どこへ。調査の報告を受けた市集落の田川一郎区長は、「環境破壊を確信した。採石を許可した鹿児島県に対して強く抗議したい。辺野古移設問題だけでなく、採石によって奄美の自然にも深刻な影響がある」。と。国の計画では辺野古沿岸部の埋め立てに沖縄本島のほかにも、香川▽山口▽福岡▽長崎▽熊本▽鹿児島--の6県で採取した土砂を搬入する。結成された協議会によると、大規模な採取が各地の環境破壊につながるほか、県外からの搬入による外来種の侵入で沖縄の生態系に悪影響を及ぼすと、土砂採取に反対する。こういうところからでもナイチャーにできることはある。「若い人々がものを知らない、と苦言を呈す前に、我々は全てを詳らかに説明する責任を負っているはずだ」と杉山洋一さん。その通りだろう。瀬戸内寂聴さんが18日、東京・永田町の国会前であった安全保障関連法案に反対する集会で、約2千人(主催者発表)の参加者を前に、「最近の状況は戦争にどんどん近づいている。本当に怖いことが起きているぞ、と申し上げたい」と語りかけ、廃案を訴える。黒い法衣姿の寂聴さん、車いすから降りて、歩道上でマイクを握って約5分間演説。自身の戦争体験に触れながら、「戦争にいい戦争は絶対にない。人間の一番悪いところ。二度と起こしてはならない」「若い人たちが幸せになるような方向にいってほしい」と語る。このニュースサイトにほとんど讃歎、寂聴さんへ。)

青空の大人たち(12)

大久保ゆう

 もちろん〈自由〉というのは〈無法〉のことでも〈勝手〉のことでもなく、ある意味では著作権法上の、あるいは著作権条約上の自由であったりするわけで、翻訳で言えば没後五〇年経った人を真似るのは自由ということでもあるから、少年はさながら芝居のように死人を演じて自分と故人を重ねていく。

 高校生であった少年はそのとき翻訳と演劇に打ち込んでいたわけだがそういえば翻訳や芝居に関しては生きた誰かから教わったことはなく芸事としては我流のままここまで来てしまった。それでも真似たものがあるとすればやはり死人としての本であろう。本を読み考え消化して行為に移る。

 芸を修め始めたのが同時期であったからか当人のなかでは翻訳と芝居はほとんど区別できないものとなり訳すときもやはり原文を読んだ上で演技プランを考えて演じるように書いてゆく。原著者とはどのような作家で登場人物はどのようなキャラでどのようにしゃべり出来事や事実に向き合うのか、そして語り手は何をどのようなリズムで語るのか。そこから真似び学んでいくというわけだ。

 そういうことを考えればシャーロック・ホームズはやはりひとりの先生であるだろうし思考の教師であって、演じるということで自分の身体を変容させていくのが芝居の楽しみであるとすれば、身を変えるとはまたひとつの痛みでもあって、たとえば砂漠の飛行士や黒手袋の学者牧師に付き合うことはどこまでも胸が苦しくそのまま溶けてしまいそうになる。一方でエルマーの娘は、少女から老女まで演じられたこともあって自分の芝居のなかでもかなりのびのびとできたものだと言えよう。

 こうして本を通して大人と付き合うということなら、パブリック・ドメインを一文字ずつ電子化していくという作業もまたひとつの模倣である。作家の書いた言葉を想念を、そのリズムとともに追いかけてゆくことは何よりの文芸修業となるわけだが、やはりかつて手書きの写本を作っていた人々はそうして文芸を再体験していたのだろうし、十六世紀や十七世紀の英国でお気に入りの詩を自分の手元の白紙帳へ盛んにメモしていた人たちというのも、また同じことであったのだろう。

 個人的には楠山正雄という過去の編集者・翻訳家はそうしたリズムを教えてくれた人物である。青空文庫に収録されているものは主に日本や世界の古典童話であるが、これは初期の青空文庫には子ども向けが少なかったから増やせないかと考えて自主的に進めた童話拡充計画から来るものである。入れるならば訳の良い出来のものをと探して辿り着いたのがこの名訳者で、〈かたりべのおぢ〉と自称する彼の文は口語の律動が残る素晴らしいものであった。

 デジタル人文学では電子化作業を通じた実地学習を〈メイキング・アンド・ドゥーイング〉とも言うようだが、こうした恩恵を受けたのは少年ひとりではなく、〈京大電子テクスト研究会〉の面々もまた同様だった。京都大学には大きなクスノキがあることから通称〈電楠研〉とも名乗っていたこのサークルは、青空文庫の入力校正作業をグループワークで行おうというものであった。

 大学の法経本館地下という設立当時はまだ大学紛争時の香ばしさを残す張り紙だらけであった場所が活動の本拠である。途中で改装のためプレハブに移ったり、某グローバル系(インカレ)サークルが備品や部屋に破壊の限りを尽くした新装後の場所へと戻るなどしたが(そこで私はグローバルとは暴力の謂いであるということを実地で学べたわけだが)、実はその場所ではほとんど一文字も打ったことはない。

 定期的なミーティングと進行状況の確認と底本や入力ファイルの収受をする(あと茶菓子を食べる)だけの場で、基本的には青空文庫と同じく個別に作業にあたるわけだが、どういうわけかこれが長続きし、そのあと私を含めて三人が大学院へ進みそのまま研究者となるに至っている。あとで話を聞いてみれば、その作業によって古い資料の読み方や図書館の利用方法、あるいは文書入力のスキルが手に入ったということらしく、思いつきで始めたことだったが我々は知らず知らず何かを学んでいたということでもある。

 少年もそのサークルで用いる底本を集めるために、初めて書誌というものを活用している。なかでもいちばん役に立ったのが、それまで少なかった翻訳文芸についての書誌情報を毎号収集して発表していた『翻訳と歴史』という小冊子であった。小出版社がこつこつと出しているそれをたまたま見つけた若き大学生は、喜んで取り寄せ定期講読し、それを片手に当時はまだ数多くあった京都の古書店をよく回ったものである。

 誰かが先に調べているということは、こんなにもありがたいことなのかと、身をもって感じるうち、文学の基礎研究とはまさにこういうことなのだと理解した少年は、〈ひとつの情報がしっかりとそこにあること〉の重要性もかみしめることになる。

 どんどんとアップデートされていく書誌とは、まさに成長していく大人の背を見ていくことでもあるだろう。あくまで本を通じた関係ではあるが、若い人間が使っていたということは書誌を作る側にもまた励みになったと、あとから伺った。

 書誌という地図を持って、古書店という遺跡や図書館という海を探検し、古書という宝を発見しては、電子化という虫眼鏡でそれをつぶさに調べ、翻訳・翻案という技(あるいは魔法)をもってそのレプリカを作り再現したり甦らせたりする。

 それはまさに青空の下での冒険であって、本から学ぶべき過去の大人を見つけるということでもある。少年は古来から探検したがる生き物であるが、別に実際の遙かな外へ飛び出さずとも、その冒険自体は本の世界だけでじゅうぶん可能である。パブリック・ドメインとは広大な荒野でもあり大海原でもあり、飛び込むにはとりあえずの勇気さえあれば良いというわけで、あとは出会うはずの数多くの大人が道を示したり背中を見せたりと何とかしてくれるものなのである。

 もしその冒険に敵役がいるとすれば、その比喩的構図のなかでは、そうしたパブリック・ドメインを隠したり独り占めにしたりしようとする人たちになるわけだが、今の世の中を考えてみるに、さて。

海辺へ

管啓次郎

何を恐れているのだろう
何を美しいと思うのだろう
なぜそんな夢ばかり見るのだろう
光る水にひたされて。
熔岩の岸辺は黒く、黒い砂が溜まり
土壌ともいえない砂地に
椰子の木々だけが生えていた
そよぐ木々の羽音が明るい月を呼び
空は虹と雨によりきれいに棲み分けられている
磯に立ち澄んだ海水を覗きこむと
巨大な液晶スクリーンのような画面が水中に
斜めに漂っているのだ
そこに映る風景は渦巻く緑の葉叢
心にしずかな歌が流れる
鳥たちのさえずりに借りた歌だ
サボテンの葉陰からじんじんと湧いてくるような歌。
すると緑の渦が突然に
二十歳で死んだ友人の顔に変わる
マンタのように巨大な画面いっぱいに
ともだちの曖昧な笑顔が映り
それからしゃべりだす
「用意は済んだ?
明日は日の出直前から歩き出すよ」
わかってる、とぼくは答えて
その行き先を知らないことを思い出す
塩山に行くのか干潟に行くのか
牧場を抜けるフットパスを延々と歩くのか
それともほんとうにそうしたように
土手の道を河口まで正確に10キロ歩くのか。
ああ、ああ、
ああ、ああ、
「取り返しのつかない悲哀」と
呼ぶこともできない感情が
夕日の中でふりむく犬みたいに
怒った顔をしている
そのときにはぼくはもう
靴を脱ぎジーンズをたくりあげて
少しでも画面に近づこうとしている
夕陽がガラスのように斜めにさしこみ
水面の波に薔薇色の陰影をつける。
きらめいた画像を改めて見ると
ともだちは子供に変わり
彼のおかあさんと手をつないで歩いているのだ
山並みが見える田んぼの中の道だ
鉄塔がどこまでも遠くへと並んでいる
これが日本の風景だ、とぼくは思いつつ
遠ざかる彼にむかって走り出す、追いつくために
なんという無力、いまはぼくも
小学生くらいに小さくなり
しかもどんなに両脚を動かしても
強い向かい風に動きを邪魔される。
寒くなってきた。
画面には自分の後ろ姿も映っているが
画面があるのは海中
「水面から先は過去」と
二十歳のころの彼女の声が聴こえる
「もう帰りなさい」と彼女が
初期ウォークマンの通話ボタンを使っていう。
通常の砂浜の波打ち際に立って
寒さに震えながら少し先にある家並みを見ていたら
家並みが唐突に倒壊した
黄色と緑と赤に塗られた
オランダかどこかの住宅のような並びだ
100メートルほどむこうの水面上にあったそれが
いきなり、ベニヤ板を倒すように
こちらに倒れてきたのだ
がやがやと声があがる
水しぶきと悲鳴もずいぶんあがった。
状況をよく見ていると倒れた家屋は
すべて筏のように浮かぶ足場の上にあったのだ
家屋は無人で誰も傷つかない
ところが右手からこちらにむかって
接岸しようとするフェリーボートが
そのあおりを受けて浸水したらしい
ゆっくりと沈んでゆくフェリーから
乗客たちが次々に海へと下りる
そこはもう岸辺まで25メートルもないし
水深は底の砂がはっきり見えるほど
それなのに船を下りた人たちは
冬の洋服を着たまま水に沈んでゆき
泳ごうとしては沈んでゆき
海面に長い髪をひろげている
立ったまま両腕を天に伸ばして
沈んでゆく子供たちがいる。
ああ、ああ
ああ、ああ
かれらを助けなければと思うのだが
すぐ足下からひろがる海の
透明な水の冷たさに恐れをなして
動けない
少し足を踏み出して
手を差し伸べてみるのだが
それ以上動けない
見上げると倒れた家屋の並びが
次々に火を噴き炎上しているのだ
慣性だけで進んできたフェリーボートの先端が
砂浜に乗り上げ
ボートの主甲板はもう
水面の少し下まで沈んで
船は停止した
ただ揺れている。
船で鼠捕りとして飼われていた小さなテリアが興奮して
救う相手のいない英雄のように水に飛び込み
ぼくのほうに泳いできた
ぼくは濡れたテリアを抱き上げ
夕方の中で燃える炎を見つめる。
そこからしばらく記憶が途絶えてしまったが
「気がつくと」
日本海岸を走る列車に乗っていた
その海岸線の美しさは比類ない
あそこがロシアかな、朝鮮半島かな
あそこが佐渡島かな、壱岐対馬かな
線路はぐるぐると永遠にむかって循環する
さらさらと砂のような陽光が降ってきて
まぶしいほど明るい海岸線だ
白いテーブルクロスをかけた
窓際の小さなテーブルに
ぼくはひとりで腰掛け
窓の外の海を見下ろしている
音を立てて崩れる山腹や
ぎりぎりまで渇いた後ふんだんに水を与えられる
山裾の木々を横目で見ながら
トマトジュースを飲み
あてどない考えにふけっていた。
するとほら
いきなり高い断崖になった
走る列車から藍色の海面が見える
海面にときおり光る銀の矢はトビウオ
海面をときおり乱す飛び跳ねるものはイルカたち
ゆっくりと近づき泳いでくるたくさんの光はイカ
潮を吹く鯨はまだ見えない
列車は断崖の間際を走る
見下ろせば海はやさしくしずまり
その明るい海中まで見透かすことができる
エメラルド色の海、ただし中緯度の
憂鬱さをさっぱり洗った海だ
大きな魚の群れが泳いでいるのがわかる。
「きれいだねえ」という誰かの声が聴こえる
あれはすべて鮭という説明を聞いて
気が遠くなるほどゆたかだと思った
するとケリケリの海岸を思い出した
まるで夜空に泳ぎ出すように
身軽に水の中に
体を浮かばせ
潜り
大きな海老や鮑を拾ったことがあった
取り戻すことのできないゆたかな夏。
ああ、ああ
ああ、ああ
この夕方を朝へと翻訳して
一日ごとにすごい速度で
四季を循環させ世界を回転させ
弓のように曲がった空に潰れそうになりながら
いつまでも減速中の列車は走る
海岸には海ライオンが集って
遊んだり太陽を見上げたりしている
もうどこにも行かなくていい
そろそろ波打ち際に下りてもいい
立ったまま両腕を天に伸ばして
水中から笑いながら飛び出してくる子供たちが見える

糸ほどの

高橋悠治

いつのまにかいなくなった人たち スラマット・アブドゥル・シュークルは80歳になっても元気で作曲していた ある日転んで ほどなく亡くなった 今年2015年3月26日スラバヤだった もう一人の友人ジャック・ボディの70歳を祝う本のために歌曲を送った すると 治療できないガンだとわかったという知らせがあり その後本人から昔ニュージーランドで会った年をたずねるメールが届いた その時は 思い残すこともなく安らかにすごしているということだった 今年5月10日にウェリントンのホスピスで亡くなった 杉本秀太郎は しばらく会っていないと思いだしたとき 白血病で 治療を一切せずに亡くなっていた 今年5月27日

たよりがなくなり 消息が絶え 人はいつかいなくなっている さまざまなしごと 作曲家だったり エッセイストで 作品を知っていたとしても 思い出すのは そういうことではない 会って交わしたことばでもない その人もそこにいた空間の いつどこともわからない空気に通うそよ風のような感触 行き交い すぎてゆく 人びとの影

たのまれて 4つの楽器のための作品を書いている 全体の構成を考え タイトルも決めて書き出したが 2ページも行かないうちに停まってしまった 数日考えて いまどき 予想した全体を作曲技術で実現しようと思ったことが まちがいだったという感じがした 全体もなく 部分もなく 構成も構造もなく 注文された楽器の組合せだけが残る 

ある朝 眼がひらきかけたとき 薄暗い部屋に浮かんだ音のかたちを書き取って そこからやりなおす 一つの短いフレーズから しばらくたって 次のフレーズが浮かんでくる 来る音を待ちながら 一節ずつ書いて 見開き2ページでいったん停まる こんなことでいいのだろうか と思いながら

楽譜や音符は眼のためのもの それがいけないということもないが 抽象的な図式や操作よりは 楽器という硬い表面をさする手ざわりや うごきかたが 似たような跡をなぞりながら すこしずつ範囲をひろげて ちがうところをためしたり 手を遊ばせているうちにできてくるなにかのほうが 発見のおもしろさがあるような気がする 

手のうごきが近くに感じられ 耳に聞こえる響きは まちがっていないことの確認になる 書きとめられた音符は眼のためにあり 眼は離れた位置から全体像を見通せる と思うかもしれない が 音のちょっとした揺れや わずかなアクセントのちがいで 全体像は変わる それは構成し積み上げる論理や 全体を分割し 細部を埋めていく論理からでてくる しっかりした全体のイメージというよりは どことなくあいまいで 端を押せば裏返ってしまうような 頼りない全体の ニセのイメージかもしれない というか 接合された響きやリズムがバラバラにならないようにつなぎとめている うっすらとした輪郭にすぎないのではないか

と つい書いてしまうが この曲はまだできていないのだから 先回りしても むだなことだ それでもプロセスがうごきつづけていれば それがどこかにたどり着くよりは 曲の終わりを越えて 動き続けるほうがいいに決まっている