銃を鐘に

さとうまき

秋田の熊谷恭孝さんから、武器を溶かして鐘を作りたいという相談があった。熊谷さんは高校でハンドベル部を指揮し、バグダッドの音楽学校の生徒が書いた詩を曲にしてチャリティコンサートなどしてくださっている。70年前の戦争で、お寺の鐘が集められ武器に変えられた。そのようなことがあってはならないという願いをこめたいという。

「イラクからも武器を集めてほしい」
イラクに行くと、武器がほしいといわれる。
「イスラム国と闘っているのに、ろくな武器がない」というのだ。
そのような状態なのに、武器で鐘を作りたいといっても相手にされないだろう。

一方「イスラム国」から武器を取り上げて、鐘を作ってしまうのはいい考えだと思う。
「すいません。「イスラム国」のお方、あのー、だめもとでお願いがあってまいりました。その武器を私に下さいませんかね。それで、鐘を作りたいのですが」
「なんだ、こいつ、ふざけたやつだ。捕まえて八つ裂きにしろ!」
という風になってしまう。
「熊谷さん、無理ですよ。」
といってお断りをした。

数カ月たち、「鐘ができましたよ。70年前の弾丸などを寄付してくれた人がいて、2つの鐘を作りました」一つは、秋田空襲の記念館に寄贈し、もう一つはバグダッドの音楽学校に寄贈したいという。国際宅急便が、イラクに送ることを渋っているので、僕が手持ちで運ぶことになった。

アルビルにつくと、アメリカ人の友人から電話が入り、これから、キリスト教徒の部隊と打ち合わせがあるから来いという。一緒についていくと、そこは、アッシリア人の部隊の事務所だった。

昨年の夏に、アッシリア人の村も、イスラム国に制圧されてしまい、これ以上「イスラム国」が攻めてこないように、前線でたたかっているという。ところが、話を聞くと、クルドの政府軍に組み込まれているようでもそうではなくて、資金援助がないのだという。アメリカからの武器支援もない。70人でたたかっているのだという。当初は、欧米からの義勇兵もやってきたそうだが、クルド政府が禁止したという。

年老いた革命戦士といういでたちのキャプテンは、初老の小柄な男だった。今まで戦場で出会ったいかつい海兵隊員とは異なり、風が吹けば飛ばされそうだった。酒とタバコのせいでつぶれたんだろうと思わせるようなしわがれた声で、雄弁に訴える。
「水がない、服がない、食べ物もないのだ。いろんな団体にお願いしても、軍隊には支援ができないというんだ」
と嘆いている。
「避難したキリスト教徒たちは、自分たちのことしか考えていない。チャンスがあればヨーロッパに行こうとする。故郷を守ろうとしている私たちには知らんふりだ」

アメリカの友人は、武器の支援をするわけはないが、クルド政府軍との間に入り、アメリカからの支援物資がちゃんと彼らにもわたるようにするのだという。
「対イスラム国」有志連合でロシアが空爆を開始、フランスもミラージュ戦闘機を繰り出し、アメリカはドローンでジハーディ・ジョンのピンポイント攻撃に成功したといっている一方で、地上では、こういう人隊が戦っている。
キャプテンは、この間まではジャーナリストをやっていたという。携帯電話には、8歳の息子と一緒に写した写真。明日から、前線に行くとしばらく帰ってこないので、息子が一緒に写真を撮りたいとせがんできたという。

鐘のことを思い出した。そんな彼らに武器をくれとはいえるわけがないが、なんとなく、撃ち終えた後の薬きょうをもらえるか聞いてみた。撃ち終えた後の薬きょうならこっちで溶かして真鍮の塊にしてしまえばもはや武器ではないから日本に持ち帰ることもできる。ただ、なかなか話が通じない。

そしたら、キャプテンはカラシュニコフを持ってきて装着していた弾丸を一発マガジンから取り外し、これがほしいのかと聞く。弾一発は、1ドルで、町の店に行けば誰でも買えるそうだ。そして話は、武器支援に戻った。マガジンが足らない。30-50はないと、「イスラム国」とはたたかえないのだ。

彼らが、武器支援など求めなくてもいい社会が一体いつになったら訪れるのだろう。間もなく日が暮れそうになったころ、軍用車が迎えに来て、キャプテンたちのグループは前線に向かう準備を始めた。

133返メール 舞うてはる

藤井貞和

駅 \ ビルの柱に凭れて、口寄せをしていたらば、と ぼくは書いた。 
いなく \ なってからのぼくは、荻の花咲くぼくの飲みのこしの水が、
真っ青な \ 顔を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

赤ちゃんの \ 飲む水のように啜る泣き声。 「さよなら」はきみに、
似合わないさ。 \ JRの駅で口寄せをしていたらば(と書いた)、
真っ青な顔が並ぶ \ と、メモのなかから声がする、聞こえる?

天空の窓からおりてきた \ こどもたちは皆、何も告げずに止まり木の、
そこここで散光を浴びながら \ キーボードに向かう。 鳥のあとだ、
5あるいは7。 または自由詩だ。 \ メモリーを最大にすれば、聞こえる?

姉は落ち着いたらば、もういちど来たい \ と言う。 そこいらへんは、
短歌のあとだ。 死んだ家畜たちがぜんぶ \ 集まってきて、笑う。
カミサマはあげはちょうのすがたして舞うてはる。 \ のぼってゆかはる。

(返メール。すみません、ゴミ屋敷のようなコンピュータのなかから、一篇、取り出して、返信するね。)

仙台ネイティブのつぶやき(8)海で働く手

西大立目祥子

友だちのことを書こうと思う。宮城県気仙沼市唐桑町で養殖業を営む菅野一代ちゃんのことだ。ここ15年ほど、私は毎年冬には、一代ちゃんと旦那さんの和亨さんがつくるカキを食べるのを楽しみにしてきた。唐桑の友人が贈ってくれるのだ。ひと粒口に含むと、ぱっと海の味が広がって、あ、唐桑の海だな、と感じる。次の瞬間、渋味を含んだ濃厚でクリーミーな味わいがやってくる。一代ちゃん、元気でやってるんだな、とエールを送りたい気分でいただく師走のごちそうだ。

最初に会ってから20年ぐらいだろうか。唐桑で「食の学校」という料理講座が始まって、その何回目かに一代ちゃんがあらわれたのだった。飛び抜けた明るさ、つけまつげパチパチ、口紅くっきり、茶髪…。何かしゃべりだすと、そのおもしろさにみんなが引き込まれてしまう。初めて会う人は、「この人、だれ?!」と聞かずにはいられなくなる、そんな人。私もそうだった。そして、こう教わった。

「一代ちゃんはね、岩手の久慈からお嫁にきたの。和さんの船が久慈に寄港したとき出会って、一目惚れだったみたいだよ」。へぇ。一目惚れってどっちが?それはいまも不明なのなのだけれど、とにかく一代ちゃんは和さんについて唐桑にきた。OLから養殖漁家への大転身。人生の大冒険のはじまりだった。

出会ったころ、すでに一代ちゃんは就学前の3人の子どもを育てる若いおかあさんだったのけれど、その横顔を見ながら私はちょっと心配だった。黙々と働く浜の人たちの中で浮いてないのかなあ、と。もちろん、唐桑の友人たちは、そんな一代ちゃんを温かく盛り立てて、「一代ちゃんの化粧は塗るんじゃないの。プリンターがあって、そこに顔を押し付けると一瞬にしてこのメイクができあがるんだよ〜」なんていって本人と笑い合っている。

それはきっと、見ず知らずの土地に嫁にきて、お舅さんお姑さんと同居しながら子どもを育て、浜のしきたりにとまどいながらも冬場は朝3時にカキむき工場に立つ、その苦労を知っていたからだ。私はそっと一代ちゃんの手を見た。いつも冷たい水にさらされているからだろう、赤くかじかんでいるような手だった。

東日本大震災の大津波は、一代ちゃんが暮らす鮪立(しびたち)にも押し寄せ、山の中腹に立つ住まいをも直撃した。唐桑には「唐桑御殿」とよばれる入り母屋造りの豪壮な家が立ち並ぶ。遠洋マグロ船で世界の海を股にかけてきた男たちが立てたマグロ御殿で、一代ちゃんの家は3階建てだ。震災のあと40日ほどして訪ねたとき、津波の破壊力に息をのんだ。

津波は1階の天井をぶち抜き、3階にまで及んでいた。玄関に入ると大きくえぐられた天井の空洞から2階の欄間がのぞき見える。一代ちゃんは、がれきが堆積する中で呆然とした表情で「使えるもの集めてんの」といいながら、朱塗りのお椀を拾っては洗っていた。第一波が引いたとき海を見にいって、第二波にのまれそうになったという。実は、このときのことは私の記憶もとぎれがちだ。美しかった浜ががれきと成り果てた光景があまりに衝撃的だったからだろうか。

カキ、ホタテ、ワカメの養殖営む菅野家にとっては、海に浮かぶイカダの流失がそれにも増して打撃だったに違いない。あとになって「あのころはね、養殖業はもうやめると思っていたの」と聞かされた。実は東日本大震災の1年前にも、三陸はチリ地震の津波被害を受けている。波高は数十センチだったが、菅野家のイカダは半数が失われ、借金をしてようやく最後のイカダを海に浮かべたのが2011年の3月10日だったのだ。「忘れない。だって、これで復活だって夜にビールで乾杯したんだもの。その翌日だったからね」と、振り返って一代ちゃんはいう。和亨さんの落ち込みはもっと深刻だったそうだ。

そこから立ち直っていくきっかけになったのは、ボランティアで浜にやってくる若い人たちを頼まれて家に泊めたことだった。泥で汚れた家に若者たちはシートを敷いて寝た。家の修復が始まり、つぎつぎとやってくる人たちとの交流の中で一代ちゃんは明るさを取り戻していく。「不思議なの。若い人の声聞いてるうちに元気になったんだよね。嫁にきてからずっと頑張ってきて、これ手放していいのかっていう気持ちになってきたの」

和亨さんにとっては、広島のカキ業者が資材を持ってイカダ復活のために駆けつけてくれたことが力になった。「宮城はライバルだが、宮城のカキがなければ広島のカキもない」。そんなことばで励ましていっしょに作業をしてくれたそうだ。応援はフランスからもきた。それは数十年前、フランスのカキが全滅したとき、宮城から種ガキを持って応援にいったことのお返しだった。海の人たちのつながりの深さには心を打たれる。海の恵みを享受しながらもときに痛めつけられる者同士の深い連帯。どんなことがあっても海に信頼を寄せ続ける者同士の強い共感。その力によって、一台、また一台と海にイカダが戻されていった。養殖業を断念する人も出る中で、菅野家はもう一度海に生きることに決めた。
 
いま一代ちゃんは、民宿の女将さんでもある。訪れたのべ1000人以上のボランティアの人たちから「また帰ってくるから、この場所残して」といわれることが重なり、傷んだ自宅を改装し、民宿として再出発することに決めたからだ。和亨さんは一代ちゃんに「おめの好きなようにしろ」としかいわなかったらしい。名前も寝泊まりする若い人たちが「つなかん」と決めてくれた。鮪立の「鮪」(ツナ)に菅野家の「菅」からとったものだ。泊り客を船に乗せてカキイカダを見せる体験ツァーも始めている。無口な和亨さんに代わって、あれこれ説明し笑わせ来場者の気持ちをわしづかみにするのは一代ちゃんだ。もちろんばっちりのメイクをキメて。

この秋、久しぶりに会って話をした。変わったなと思った。人に助けられてここまでこれた、だから聞いてほしい。伝えるべきことを胸の中にしっかりと持つ聡明な海の民─そんな印象だった。もちろん、相変わらずの弾ける明るさなのだけれど。「いろんな人が泊まるでしょ。看護師さんだの、パイロットだの…もういろいろ。どんな仕事してるの?どういう仕事なの?って聞くの好き。いままで私の話し相手はカキとホタテしかいなかったのにね〜。だから楽しいよ、ハハハ」そしてこうもういう。「前はカキむきは朝3時から。もう人を蹴落としてがんばるぞ、っていう気持ちだったけど。いまはゆったり楽しんでやればいいなって思ってる。だから朝6時からだよ(笑)」いろんなものを失って、助けられて復活できた人の達観だろうか。

話しながら私は一代ちゃんの手を見る。私の手も血管が浮いてしわが増えずいぶんとおばあさんぽくなっているけれど、一代ちゃんの手もあのころより大きく骨ばっている。カキの詰まった重いコンテナと持ち上げ、ひとつひとつカキを手にとりむいてきた働き続けてきた女の手だ。本当に本当にがんばったねえ、一代ちゃん。

また、はしりがき

仲宗根浩

暑いんだか寒いんだか、わからないまま来年のカレンダーが来るがまだまだ年末の感じは全然無く、目先のことでいっぱいいっぱい。それも言い訳でなるべく動かないようつとめる根が怠惰の塊。仕事場の改装で五日の休みができた。最初のはなしだと立会いとかで出勤予定だったがその必要がなくなった。急な五連休、基本はいつものように家にこもる予定をたてる。

パソコンのOSのアップグレード、躊躇する。タブレットのOSをアップしたら一呼吸遅くなった。Windowsも無償でアップグレードできるが、それで使えなくなるソフトもあるので新しいものを購入したときでいいだろうと。

芸能番組で地唄舞を見る。舞うのは四世井上八千代。曲は「竹生島」で、その中の船頭をあらわした足の動きがゆっくりにしたジェイムス・ブラウンのステップのようだった。まだ東京にいる頃、仕事で琵琶湖沿いを車で北上したとき「竹生島」が見えた。どこのホールに行く途中で琵琶湖を北上してまわらなくちゃいけない、というのと着いてぷらぷら歩いていると鑑賞用の鯉のコンクリート製の生簀がけっこうあったというのは覚えている。

「文句ばかりを言い続ける人間やメディアがいることが問題」と辺野古移設について書いてあるものをネットで読んだ。これが外から見れば多数の意見なのかもしれない。反対すれば「沖縄サヨク」と括って済むのだから楽でうらやましい。楽なほうへ楽なほうへといくことで考えることやめる。楽したいけどそこにあるからこっちは楽できない。

海老名発、辻堂経由、その後、青空文庫

大野晋

その後、海老名に図書館を見に行ってみた。毎日、報道で図書館を巡る様々な事柄が伝えられる中、選挙を前にした市長が状況の収拾に乗り出したらしいことは報道で知った。日々の噂では、初期の混沌とした状況からは脱したらしいことは聞いていた。

どうやら、海老名のツタヤ図書館は言えばできる子らしく、状態は好転していた。棚の混沌とした状態は個人宅の本棚くらいの状態になっていた。まるでバラバラだった高層部分の書架も下の書架と繋がるように移動中のようだ。図書館員を呼ぶしかなかった高層部分へのアクセスも地下以外の各階に踏み台が用意されていた。最初からそうしておけば、ここまでの騒ぎにならなかったと思えるのが残念だ。

言えばわかる子らしいのでもう少し言うと、世の中には読み物にする本と調べものに使う本がある。読み物に使わない本は貸し出されることなんてほとんどない。そうした本は貸出回数で利用頻度を測るのではなく、調べものに探された回数や館内で使用された回数、そして他の図書館にないことで測られるべきなのだ。そうした本は発見性の対象にはならないし、なるべく探しやすくして置かなければならない。そのために、共通性を持ったNDC分類を使ったり、貸出禁止にしたり、長期にわたって収蔵したりする。少なくとも、海老名中央図書館の蔵書を見るとそうした目的の蔵書が結構ある。そこが、売りきりの本を取り扱う書店と図書館の大きな違いだ。だから、基本はNDC分類でよかったのだ。無理に崩す必要はない。それは閉架に納められている本だって一緒で、書架に置くことで混沌としたり、いらないスペースを取られたりするのであれば、圧縮型の閉架式の書架に置くことも必要な対策だ。逆に出すのであれば、出さない以上の網羅性を持った書籍の収集が必要になる。実際に見る海老名の図書館にはそこまでの書籍量はないし、そうした徹底した収集方針で集められた形跡はない。ならば、書架に出す情報は編集するしかない。その編集手腕が司書の腕の見せ所のはずだ。

ライフスタイル分類とされた書架のデザインだってそのひとつで、こうした書架は分類ではなく、書架のディスプレイとして利用者に提示するものだ。どうせ、数ヶ月もすれば変わった並び順の書架も慣れられてしまう。だから、数ヶ月ごとに見直す必要がある。店頭は定期的に見直されてこそ新鮮味がある。それは図書館のディスプレイでも同じことなのだ。その辺の企画棚のデザインと書架の分類を混同しているところがツタヤ図書館の問題の原因だと思う。結局は生煮えの企画段階で現出させてしまったことに大きな問題があるし、問題があるのに指摘に対して素直に向き直れなかったことが問題を大きく、長引かせてしまった原因だろう。

後日、辻堂のT−Site、いわゆるCCCの経営する蔦屋書店を中核にしたショッピングセンターに行ってみた。もともとツタヤ図書館がそのコンセプトにしたように非常によく似た雰囲気を持つ、ジャンル分けした棚と喫茶できる空間などが混在する商空間である。同じようなジャンル分けされた棚なのは変わらないが、こちらは現在販売中の書籍リストから選抜されたリストなので比較的趣旨が分かりやすい。逆に言うと、特に強い関連性を持たない図書館の蔵書に対して行うと趣旨が見えなくなるのは必然な陳列方法である。
まあ、現役の書籍から陳列する書籍を選んでこれる蔦屋書店にしても最低でも数ヶ月に一度は棚のリニューアルをしないと面白味を失ってしまうように思える。やはり、陳列の一方法であっても、恒久的な棚の分類には向いていない。

話は変わるが、TPPで青空文庫がなくなると大騒ぎだったネットでは二つの誤解が流布されている。ひとつは、著作権保護期間の20年延長で青空文庫で公開されている著作物が公開できなくなるというものだ。まあ、不安になる気持ちもわからないでもないが、一般的にこうした場合にはすでに権利を失ったものが復活するということはない。これは関連する問題の影響を最小限にするための処置で、たとえば、著作権に関して言えば、1970年代の改訂でなくなった10年留保という日本限定の制度は、改訂された今でも1970年代以前の著作には有効で、出版から10年以上たっても日本で翻訳されなかった海外の著作は元著作権者の承諾を得ずに翻訳出版できている。おそらく、50年から70年への延長があったとしても過去の著作物に波及されることはない。そうでなくても、TPPは加盟各国の法制度の違いを包含した上の条約で、EUの経済統合とは違う点である。

もうひとつの誤解は、現状の青空文庫の2016年に著作権保護の切れる著作物への対応だ。あるネットのニュースサイトによれば、青空文庫はTPPの決定を受けて駆け込みで2016年著作権切れ作品の登録を急いでいるのだそうだ。
これも残念だが、青空文庫は通常営業のままである。いつも、この時期に次年に初公開となる著者の作業リストが公開になる。これは、出版サイドも含めた著作権側への配慮も兼ねている。(そうは言っても内部の作業中リストはその前からずっと更新されてはいる。)このため、年末に急にリストが現れるように見えるが実はずっとそんな感じで作業はつれづれと動いている。ちなみに、過去の例で言うと、吉川英治や銭形平治の野村胡堂の時の方が作業中のリストは長かったはずである。

すでに著作権切れ以前から多様なバリエーションが許されてきた江戸川乱歩だが、来年からもっと多様な展開が期待できるため、楽しみにしている。著作権保護期間が切れるということは、単純にネットで読める、青空文庫で読めるという意味だけでなく、その著作物を活用してより多様な利用が可能になるということだ。だから、利用できることの意味があり、孤児著作物の問題が大きいのだ。

さて、その江戸川乱歩だが、多くの小説は戦前に執筆されている。戦後はもっぱら、戦争中に禁止された探偵小説やミステリーの復権や普及、そして未来の読者である子供向けミステリーの執筆をしていたということだ。その江戸川乱歩の描いたポプラ社の少年探偵団ものを読んで育ったミステリーファンからは、この著作権保護期間が延びる時期に江戸川乱歩が滑り込んできたことに、まるで自らの著作を公開することで一層のミステリーブームを起こそうとするようで、不思議な縁を感じてしまう。江戸川乱歩という大きなコンテンツを得ることで、今後のコンテンツ活用の未来は、少なくともミステリーに関しては安泰のように思える。

最後に、コンテンツの活用で思い出したが、現在、出版の世界ではジュブナイルが好調のようだ。そこで、有島武郎の未完の青春群像劇である「星座」を誰かが補完してコミカライズしはしないものだろうか? 第一部だけしか書かれなかったこのお話はそれでも魅力的な登場人物に溢れている。時代の濁流に飲み込まれていくであろう彼らのその後に思いを馳せながら、続きの物語が描かれることを夢見よう。そう著作権は自由なのだ!

山道とウイスキー

璃葉

朝から夕暮れまで、緩やかな山道を歩く
まとめる必要のない奇妙な考えを巡らせながら

呼吸でもため息でも 聞いているのは自分だけ
いくつかの思惑を どんどん土に落として歩く

休憩所の長椅子に、老人が座っていた
彼はウイスキーを一杯くれた
水を凍らせたペットボトルにウイスキーをつぎ入れ 少し待ったあと
プラスティックのコップに注いでくれる
一口飲んでその美味しさにびっくりする 山道で拾った石の冷たさを思い出した
おじいさんの楽しみは山歩きの休憩にお酒を一杯だけ飲むこと
澄んだ場所にいると、飲むお酒の味もまったく変わるのです、と言う
少しだけ会話をして、ふたたび一人になった

鉛白みたいな空が木々の隙間から見える 冬はすぐそこにいる

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しもた屋之噺(167)

杉山洋一

急に寒が厳しくなったせいか、界隈全体に給湯するボイラーが壊れました。もう三日も温水が来ないばかりか、暖房もつきません。粉雪が散らつき朝晩零度前後ですから、湯沸し器二つとストーブ一つを購い、何とかやり過ごしています。
少なくとも三日、実は何時直るか分らないと言われ、この冬枯れの下、幼い子供や老人を連れ、国を捨てて行き場を失う無数の人々を思います。街がイルミネーションに埋め尽されるクリスマスは、すぐそこです。

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 11月某日 ミラノ自宅
小学校の最終学年になるまで、校名について息子と話したことすらなかった。唐突に11月4日第一次大戦終戦記念日に、警官隊が学校で式典を催すと連絡が廻ってきて、4年生と5年生は全員クラスで国旗を作り、イタリア国歌を練習している。

毎朝ミケッタを買うビニョーリ通りのパン屋で、学校名のNazario Sauroが誰かと息子に尋ねると、「第一次大戦中、昔イタリアが外国に盗まれた土地を奪還すべく大活躍した英雄」と、さも自信たっぷりに云うのに愕いてしまった。イストリアを、イタリアでは外国に盗まれた土地と教わる。

 11月某日 ミラノ自宅
家族で揃って出掛けられる週末も中々ないので、紅葉を見ようとコリコへ出掛ける。湖畔で一番地元客で賑わうレストランに入り、ラヴァネルロの塩焼と、ボッリートという肉の水煮、ソバ粉のパスタ、ピッツォッケリに舌鼓をうつ。

ボートから湖面に集う無数の水鳥を眺める。彩り豊かなマガモか、黒地に白のオオバンが大半で、そこに白鳥が雑じる。遥かアルプスのボルミオから端を発したアッダ川が、ソンドリオを通って湖に流れ込むあたりは、水の色も濃くて凍るように冷たい。

音もなくさざめくように無数の葦がなびくまにまに、何百というオオバンの黒と白がうつろい、エンジンを止めて見入る。山々の向こうに夕陽が少しずつ沈むとき、何重にも重なる墨絵のような稜線がうつくしい。

 11月某日 ミラノ自宅
息子がヴォツェックの児童合唱をやっていて、面白そうなので観劇。息子の出番は、オペラの末尾2分ほどのわらべ唄のみだから、集合時間は、本番が始まり10分程経ったところ。それから衣装に着替えて声を出しても出番まで充分な時間があるらしく、机に突っ伏して寝たり、宿題をしているらしい。今日も何時ものようにインスペクターのキアラに息子を渡して、そのまま劇場に入ると、ボックス席案内係の男女が、狭い廊下で激しく抱き合っていて、もう観客は通らないと思ったらしい。互いに決まりの悪いままボックス席に通されると、目の前の舞台でも激しいラブシーン。妙に筋が通っている。

末尾にスキップをしながら息子たちが輪になって踊るところで、息子は呆れるほど満面の笑顔。尤も、彼に悲壮感が漂う必要はない。終演後別ボックスで観劇していたメルセデスと合流、文芸人珈琲「カフェ・デル・レッテラート」で話込む。まあ子供の観るオペラじゃないわね。

 11月某日 ローマ ・エウクリデ広場喫茶店
昨日一日フィラルモーニカ・ロマーナで「瀧の白糸」リハーサル。想像通りタイムコード合わせに苦労したが、ヴィデオ担当のシモーネはとても親切。昨晩の夕食会で、マッテオ・ダミーコからローマ音楽界の苦労話を聞き、マルチェッロ・パンニとは彼が作曲したオペラ「班女」の話。と或る日本の作曲家が同じ台本でオペラを作った話と、近藤譲さんが登場人物「吉雄」は二音節と云った話を繰返しきく。全ての道はローマへ続くけれども、その道はちと遠い。高校の頃マルチェッロの指揮するドナトーニの「室内交響曲」のレコードを、擦りきれるほど聴いた。元気で陽気なローマの老人は、年齢不詳。

前日は、後藤さん、辻さん、アルドとクリストフと連立ち、旧くからのローマ食堂「S」に出掛ける。美味なアマトリチャーナとトリッパに舌鼓を打ちつつ、壁を埋め尽くす写真と絵の中には、先代の趣味だとかでムッソリーニの写真と肖像画が何枚も雑じる。ラツィオ地方は未だに右派が強いから、と食後、腹ごなししながらアルドが呟いた。海が近く、人気ない夜半、鴎が啼く。

 11月某日  トリノよりミラノ行最終列車
トリノにSさんがいらしたので演奏会にお邪魔する。本番30分前までハイドンとバッハの話に喫茶店で花が咲き、こちらが心配になる。次から次へと演奏者から共に演奏する喜びを引き出すから、どこまで音楽を繰広げても余裕が残っている。充分なフォルテの後に、それを凌ぐフォルテが瑞々しく響きわたる様は、馬力満点のレーシングカー。

 11月某日 音楽院脇喫茶店
一昨日、サンドロの家で一日レッスンをした後、預けてあった息子を迎えにヴェローナ出身のパオロ宅へ出掛ける。例のナザリオ・サウロはヴェネト州と所縁が深いから、パオロが何と言うか興味があった。ローマのおばちゃん食堂のムッソリーニの話をすると、途端に彼は顔を顰めた。「あれ程の国民を死に追いやった人間を崇めるなんて正気の沙汰ではないね。その食堂に足を踏み入れたら、自分だったら気分が悪くなる」。
では息子がイストリアを盗まれた土地と呼んでいたが、どう思うかと尋ねると、それは強ち間違いではないと云う。やはりイタリアにとってイストリアは国土の一部らしい。ナザリオ・サウロの名前は第一次大戦の英雄として当然のように知っていた。

昨日は、長年学校で伴奏をしてくれているマリア・シルヴァーナにも、ナザリオ・サウロについて尋ねた。マリア・シルヴァーナはトリエステ出身だが、彼女の父はナザリオ・サウロが生れ育ったイストリア出身で、彼女の母はヴェニスにほど近いフリウリ・モンファルコーネ軍造船所で働く祖父母の下で育てられた。サウロが最後の航海でオーストリア軍に逮捕された折には、ヴェニスの軍港から潜水艦で出航したし、サウロの名は当時から知られていたから、彼女の祖父も当然知っていたはずだ。

彼女の祖父はその後軍造船所を辞め、ユーゴの社会統一運動に合流した。チトー政権下のユーゴでは彼女の祖父のような親ソヴィエト共産党員は敵対視され、逮捕直前でイタリアに逃げ延びたところ、今度はイタリアで、国を捨てた裏切者として長く迫害されることになった。まともな仕事にもつけず、親戚の家の納屋の天井部屋に長らく居候暮らしをせざるを得なかった。最近まで、こうしたユーゴ統一に貢献したイタリア人労働者の話は伏せられていたのが、漸く研究者によって全貌が詳らかになりつつある。

「君は自分はイタリア人と感じるのか」と尋ねると、彼女は「当然だ」と言う。
「そのイタリア人と思える感覚が、20年住んでも未だに納得がゆかないのだよ。君が自分をイタリア人だと思うのは理解できる。トリエステは第二次大戦後も厄介が続いたけれど、その後イタリア領と認められてから、生れ育ったわけだから。
それに反して、サウロはオーストリア帝国下のイストリアのイタリア人コミュニティで1880年に生まれていて、イタリアが誕生して既に20年ばかり経っていたが、イストリアはオーストリア領だった。ルネッサンス時代のヴェネチア共和国の隆盛以降ハプスブルグに吸収されるまで、イストリアはずっと不安定だったでしょう。だからイタリアの一部と単純に括ると腑に落ちない。ヴェネチア・フィリウリ・ジュリアの一部と言うなら未だ分かるけれど」。
「オーストリア帝国統治下でも、私たちはずっとイタリア語を話してきたの。尤も、イタリア語と云うよりヴェネト言葉だけれど。オーストリア帝国はドイツ語を強制しなかったでしょう。その影響は大きいと思うわ」。

 11月某日 ミラノ自宅
サンタゴスティーノのスリランカ食堂で久しぶりにイングリッドに会う。優れた音楽学者で現代音楽、特にスペクトル学派の研究で認められた。未だエミリオが学校で教えていた頃に指揮クラスにやってきて、彼が辞めた後も何年か彼女に指揮を教えた。

彼女はクロアチアのポーラで生まれ、イタリア人コミュニティとスラブ人コミュニティが同居する街で、それぞれのコミュニティに友達も居ていがみ合うこともなく、ずっと自然に暮らしてきたと云う。ところが、イタリアに住み始めてから、ポーラをイタリアの土地だと信じるイタリア人が未だに沢山いるのを知ってショックを受けた。

「どこの生まれと聞かれて、他愛もなくポーラと答えたお陰で、どれだけ厭な思いをしてきたことか。あら、あなたはあの本来イタリアの一部であるはずの土地から来たのね。じゃあ、あなたもイタリア人ね、と返されたことがどれだけあったか。その度にわたしは歴史を一から説明しなければいけなくて、逆高すらしたわ」。

息子が学校でイストリアを「盗まれたイタリア」と習った、と言うと、表情が一気に険しくなった。
「近代史の再教育かしら。信じられないわ。あの土地には、もう1000年以上前からスラブ人がコミュニティを築き、それが未だに残っているのよ。後にイタリアから渡ってきた人たちがイタリア人コミュニティを作ったけれど、どちらがどちらを支配したこともなく、1000年もの間、ごく普通に一緒に住んできたのよ。
その間、様々な国の支配を受けたけれど、イストリアの文化は常に同じだったわ。数だけ言えばスラブ系よりイタリア系コミュニティは今も昔もずっと小さく、それは何百年も変らないわ。それは問題にすらならず、彼らは家ではイタリア語を話し、現代で云えばイタリア人学校に通わせる程度の違いよ」。

「イタリアが統一された時、イストリアはイタリアではなく、オーストリアだったのよ。それを何故イタリアから盗まれた土地だなんて呼べるの。ゴリツィアのように街の真ん中を国境が分断して、未だにイタリア系とスロヴェニア系のコミュニティがいがみ合っている地域とは違うの。あそこの大学で働いた時は、スロヴァニア系学生への差別はあからさまだった」。

「だから、イストリアを盗まれたイタリアの土地と呼ぶのは歴史を単純化し過ぎで、酷すぎるわ。父方の祖父はムッソリーニ時代、学校でイタリア語を学ばなければならなかったからイタリア語は多少は話せるけれど、それとて現在のヴェネチアでは到底通じない旧いヴェネチア方言よ。イタリアの社会政策は、近代まで何ら問題もなく共存してきた平和な土地に踏み込んできて、無理やりイタリア化政策を施したのよ」。イングリッドのイタリア語は、浮び上るヴェネトのイントネーションに近い。

「兎も角、イストリアのイタリア系コミュニティは常に少数派だったから、たとえその中の一人がこの土地をイタリアにと発言しても、スラブ系コミュニティはおろか、イタリア系コミュニティからも相手にされなかったと思うわ。ナザリオ・サウロはそんな狂信的なイタリア主義者だったのよ。オーストリア帝国は、土地の言葉をドイツ語化しようとはしなかったでしょう。ムッソリーニとは根本的に違ったの。文化とかアイデンティティは、普段気に留めることすらないけれど、それを守る必要を感じた瞬間に、出し抜けに噴出すもののようね」。

結局、文化とは言語なのよ、とイングリッドは繰返した。普段何気なく家で話す言葉が自らの文化を形成する。ソウルからやってきた韓国人が、日本で出身を尋ねられ、あの日本だったところからやってきたのだから、あなたも日本人ね、と言われる感じか。土地が繋がっているのと海に隔てられるのでは、こうも違う。ソウルで両民族が常に平和に共存してきたわけではないけれど。

 11月某日 ミラノ自宅
昨晩パリで同時多発テロ。その前日夜には、拙宅からさして遠くない日本人学校裏のサンジミニャーノ通りで、キッパーを被ったユダヤ人肉屋の主人が、何者かに顔を5回刺され病院に運ばれた。幸い命に別状はないが、視神経がやられて失明の危険、と新聞に書いてある。新聞には、男性がキッパーを被り、イタリア語は話せずユダヤ教正統派に所属とある。イタリア語が話せないことが、事件とどう関係あるのか分からないが、記事に、犯人はアラビア語は話さなかった、ともある。

その記事を読んだ直後に、パリのニュースを知る。キリスト教大からは、アメリカ人留学生に向け緊急メールが届く。万全の保安体制を整えているので、安心するようにとのこと。日本では何と報道されているのか。外国人排除の論調が広がらないことを願う。

 11月某日 ミラノ自宅
今朝、サクソフォン独奏曲を書き上げ、大石くんに送る。テナー・サクソフォンのために書く約束だったのに、書き始めるとバリトン・サクソフォンの音が頭から離れない。

息子のクラスでは、算数の時間、若くて可愛らしいロベルタ先生が、皆を車座に座らせて、今回、パリのテロに報復するフランス軍の爆撃は正しいかと質問した。全員が揃って、それは間違いだ、と照し合わせたように答えたと云う。その後、ロベルタ先生は質問を続けた。「では、あなたがフランスの大統領だったら、どうしましたか」。

エジプト人のマリアムは、「あたしはまず監獄のテロリストに面会にゆくわ。どうしてそんなことをしたのか話したいから」、と言った。ムスリムで口を開いたのは彼女だけだった。
フィリピン人のカールは、「分からないようにイスラム国にスパイを送り込み、兵士たちを煽動して士気が萎えたところで投降させる」、と意気込んだ。他の生徒たちも、彼ら二人の意見に賛同して、口々にイスラム国の人たちと話をしたい、と語り合った。ムスリムのソフィアやヌールは、黙って皆の話しに耳を傾けるばかりだった。いつも少しひょうきんなフィリピン人のエンドリックは、友達の話の途中、自分の意見で遮ったから、先生に怒られて車座から外されてしまった。

今日のロベルタ先生の算数の宿題は、「お父さん、お母さんがフランスの大統領だったら、どうするか、きいてくること」。数日拙宅に寓居中のピーターも、ワイングラスを傾けながら、息子の勢いに驚いた。ロべルタ先生が、先ずフランスの爆撃の意義について話したのは、ムスリムの生徒たちが他から乖離しないようとの気遣いからだったのだろうか。息子の両親は、結局何も答えてやれなかった。「フランス大統領が、我が国が戦争状態にあると宣言したよ、どうしよう」、と息子は恐がっている。

大石くんに書く。前に「悲しみにくれる」を演奏してくれたときも、パリでテロがあり、今度もテロがあった。何という巡り合わせだろう。中央駅近くのホテルも、国立放送局の鉄塔も、ミラノのあちらこちらのビルが静かにフランスの三色旗にライトアップされている。

 11月某日 ミラノ自宅
大学でずっと一緒に演奏してきたMちゃんが亡くなった。何も知らなかったが、子宮癌だった。夏にご主人と一緒に仕事した折、Mちゃんはと尋ねたかったのに、不思議に出来なかった。明日がお葬式、とメールを受取り言葉を喪う。結局お花を送ってご主人に手紙をしたためたがMちゃんのため、というのは口実で、結局自分のエゴのため。自分が自分に納得できないからさ。嫌な奴だと自らを賎しむように覗きこむ自分がいる。
夕刻、ミラノ・ドゥオーモ駅に爆発物との連絡があって地下鉄駅は閉鎖。夜半、息子が泣きながら起きてきた。劇場で本番中機関銃を持った人が乱入してきた、と震えている。

キリスト教大から改めてメールが届く。アメリカ大使館から護衛兵と私服警官が派遣されるとのこと。改めて最大限の保安体制を講じているので案じないように、とのこと。昨日息子は、A4紙とストローで作ったイタリア国旗を学校から持ち帰り、それを振りながらイタリア国歌を歌った。今日はフランス国旗と日の丸を学校から持ち帰った。

世界の情報がどれほど身近になっても、現実とは確実に乖離せざるを得ない。音楽と同じとよく知っている筈なのに、それすら忘れてしまう。パリの翌日、ベイルートで酷いテロが起きたとしても、我々の関心がパリにばかり向けられるのなら、次回のテロは、ベイルートより効果的な都市が選ばれるに違いない。

その昔、我々の祖先は、やられたらやりかえす、という原始的規範のみでは、社会が成立しないと理解し、理性と知性を培うことで、一歩でも二歩でも進んだ社会の規範を築こうと努力してきた。

併しながら、国や民族という、我々がまだ自分を諌める裁量のない次元に於いては、かかる原始的規範は歴然と鎮座したままであって、そこまで我々の社会は昇華できなかった。遥か未来、我々の興味が地球外に向けられるようになって初めて、地球上の采配を、我々自身で行えるようになるのかも知れない。敵対する共通の対象物が現れて初めて、我々は互いにアイデンティティは共有できるというのか。今回に限っては、それでは恐らく、遅すぎる気がしている。

 11月某日 ミラノ自宅
大石くんと松尾さんの演奏した「かなしみにくれる女のように」の録音が届く。「ギターの美しい響きを聴くことに集中しながら音楽を進めていいたら、あっという間の15分間でした」。

ひたひたと寄せる想いが、無数の綾を空間に残してゆく。縛らず音楽を規定しない喜びとは、こういうものか。自分には音楽の欠片もない。自分は音楽ではない。悲しみも喜びもない。何もなく、ただ意味を持たない媒介に過ぎない。

あるパレスチナ少女の死の残り香が、素材に偶然振りかけられたに過ぎない。彼女の周りで、無数の失われた光が、空間のあちらこちらで鈍く明滅する。その一つ一つが言葉を発するようでもあるが、恐らくそれは主観に過ぎぬ。死に対して、我々一人ひとりが自ら生きてきた時間と自分との距離を投影しているに過ぎない。命とは何だろう、自問を繰り返しながら、聴き返す。自分の答えを探したくて、聴き返す。

ロシア軍機がトルコに撃墜され、トルコの救援車列はロシアに爆撃された。同じ頃シカゴでは、昨年ナイフを持った黒人少年に16発射撃して殺害した白人警官が追訴されたという。様々な命が、日々ねじり畳まれた時間軸のまにまに呑み込まれてゆくのを、我々はただ傍観に甘んじている。心をとざして。
(11月28日 ミラノにて)

アジアのごはん(72)ココナツオイルと朝ごはんの行方 その2

森下ヒバリ

ココナツオイルをたくさん食べるために、朝にトーストに塗って食べるようになって、ぽっちゃりと太ってしまった。だが、それはココナツオイルのせいではなく、それまで食べなかった朝ごはんを食べ始めたからだ、と気づいてからひと月。朝に炭水化物や糖を食べるのを止めて、わたしのわき腹の脂肪はするすると消えた。すばらしい。

ここ1年ほど毎朝パンを食べていたので、それをまたやめるのに少しだけ不安があった。それは低血糖症への恐れである。じつは、ヒバリは長い間、低血糖に悩まされてきた。お腹が空いてくると急激に血糖値が下がり、気分が悪くなる。イライラする。こういうのは誰でも多少はあると思うが、けっこう重症なのだ。しんどくなって何も考えられなくなり、精神のコントロールを失う。ひどくなるとヒステリーを起こしたり、吐き気を催したり貧血状態になったりする。ここまで来ると、その後いくら何を食べても体のダメージは大きく、寝込むことすらある。

低血糖状態になるのが恐くて、空腹が不安で、常に何か食べるクセがついた。ココナツオイルを生活に取り入れた時も、血糖値を下げないために朝にココナツオイルをたっぷり塗ったトーストを食べるようにした。ところが朝に炭水化物や糖と一緒にココナツオイルを食べるのは大きな間違いで、低血糖は改善しないうえにぽっちゃりと太ってしまったのである。

わき腹の肉をどうにかしたいという思いと同時に、この低血糖を何とかしないといけないという思いも強かったので、なぜ低血糖症状が出るのか、ちょっとお勉強してみた。炭水化物や糖分を食べると急激に血糖値が上がり、それを抑えるために膵臓からインシュリンが分泌される。すると急激に血糖値が下がる。血糖値が下がったからと糖質を取ると、また血糖値が急激に上がり、インシュリンが‥この繰りかえしで細胞がインシュリン耐性を持ちはじめると、血糖値が下がりにくくなりインシュリンがこれでもかと放出され続ける。血糖値は下がらず、膵臓は疲弊する。血液に過剰な糖が含まれ、さまざまな害が出る、これが糖尿病である‥ってやばいじゃん、低血糖を繰り返して、血糖値を上げるためにせっせと炭水化物や甘いものを食べていたのでは改善どころか、糖尿病へまっしぐらではないか。

とりあえず、朝食にパンはやめて、ココナツオイルだけを固まりで大匙2杯食べていたが、なんかなあ。けっこうお腹も空く。朝ごはんを止めるきっかけになった『最強の食事』(ダイヤモンド社刊、デイブ・アスプリー著)によると、ココナツオイルやバターをそのまま食べるだけでもいいが、より効果的な食べ方があるとのこと。その著者のイチオシ朝食は「完全無欠バターコーヒー」である。これはカビの生えてない最良の豆で抽出したコーヒー2杯分に牧草で育った牛のバター大匙2、ココナツオイル大匙2杯を加えて撹拌して乳化させたものである。何コレ、とふつうは思うよね、バターコーヒーだって!

世界中の食に関する研究成果といろいろな文化の食の知恵を探す著者は、チベットに出かけてチベット人の朝食というか日に何杯も飲む完全無欠なエネルギー食ともいうべき「バター茶」に注目する。著者はバター茶を応用して彼の言うところの「完全無欠の朝食」であるバターコーヒーを考えついたのである。

チベットのバター茶とは、煮出した黒茶(プーアル茶の一種)にヤクまたは牛の発酵バターやギー、塩を加え、ドンモという竹筒で作った筒状の手動攪拌機で撹拌して乳化させた飲み物である。品質の悪いバターや茶葉を使ってさえいなければ、おいしい。少なくともヒバリは雲南省やシッキムのチベット文化圏で飲んで、まずいと思ったことはない。あ、手抜きでミルクと脱脂粉乳を使ってミキサー撹拌したダージリンのチベットレストランのバター茶は飲めたものじゃなかったが。今年の2月に行ったシッキムでチベット正月の朝に宿でごちそうになった正統バター茶は本当においしかった。

3年前からコーヒーを体が拒否して飲めなくなったので、『最強の食事』のバターコーヒーは却下である。しかし、一応作って試してみた。牧草を食べて育った牛のバターは簡単に手に入らない上に高価、さらにヒバリはバターにも反応する乳製品アレルギーなので、コーヒーにバージン・ココナツオイル大匙2杯を加えてブレンダーで撹拌してみた。すぐに油は乳化して、カプチーノのようになった。1分ぐらいは撹拌した方がいい。で、味見してみると、おお・・これはウインナコーヒーだよ。生クリームは浮いていないが味はそっくり。なので、コーヒーを飲める人にはほぼ受け入れられる味であろう。

しかし、これにさらにバターを2杯入れて作るとたいがいの日本人は拒否反応を起こすかも‥。大量の油脂の摂取になれていない日本人はココナツオイル2杯にとどめておくのがいいと思う。これでも、はじめはお腹がゆるくなる人もいるかもしれない。加工した中鎖脂肪酸100%のMCTオイルも著者は勧めているが、これも日本人はトイレ急行であろう。加工品は却下。

コーヒー好きの同居人に飲ませてみると「え〜、何コレ」と嫌そう。「ウインナコーヒーみたいでしょ」「そ、そういわれれば、そうかも。まあ、だんだん馴染んできた」ということで、3回ぐらい飲めば抵抗もなくなりそうではある。

しかし、コーヒーが飲めないヒバリはどうしたらいいのか。『最強の食事』によると、紅茶でも試してみたが、ただの脂こいお茶になって飲めたものではなかった‥と。たしかにダージリン紅茶で作ってみると、紅茶に謝りたくなるような味であった。でも、チャイ用CTC紅茶で煮出してから作るといいかもしれない。ただし、インドのチャイのように砂糖を入れてはいけない。チャイ用の紅茶は家になかったので、どうしようかと考えていると、プーアル茶が眼に留まった。そういえば、チベットのバター茶に使うお茶はほとんどプーアル茶と同じである。ダージリンに行って紅茶に開眼するまで、ヒバリが一番愛飲していたのはプーアル茶だった。なので、わが家には上等なプーアル茶のストックがたくさんある。

久しぶりにプーアル茶をマグカップに一杯分煎れ、ココナツオイルを大匙2。さらに塩を一つまみ。ブレンダーで撹拌1分。ワオ、チベットで飲んだものにけっこう近い。というわけで、ヒバリの朝はチベット式塩バター(ココナツオイル)茶に決定。これを飲み始めてから、とても調子がいい。お昼までお腹も空かない。何かパワフル。そして、このひと月、まったく低血糖症にならなかった。空腹も怖くない!

低血糖にならない食事としては、朝に血糖値を急上昇させる炭水化物と糖分を食べないことがもっとも重要である。朝に食べてしまうと、一日中血糖値は上げ下げを繰り返すことになる。朝はココナツオイルコーヒーか、ココナツオイル茶1〜2杯のみにする。

前日の夜の食事から最低15時間おいて、昼食をとること。炭水化物や糖分は、必ず昼ごはん以降に食べる。野菜やたんぱく質は身体がほしい分適度に食べる。炭水化物や糖分は摂りすぎない。朝に食べないだけで、その後の欲求がぐっと減ってくる。

夜に炭水化物を抜くと、睡眠の質が悪くなるので、軽くご飯を一膳食べよう。甘いおやつ、果物はごく少量に。よい油だけを食べる。バージンオリーブオイル、ココナツオイル、ごま油、牧草バターを。酸化した油は極力避けること。

朝から出勤して行動する人は朝ごはんを食べないと持たないと思われるだろうが、持ちます。不安なら、朝よぶんにココナツオイルコーヒーか、ココナツオイル茶を作り、ポットに入れて持参して空腹を感じたら飲めばいいだろう。または、朝食として卵やアボカドを追加で食べてもいい。その場合も炭水化物や糖は必ず避けること。

いまもっとも血糖値を急上昇させる食品としてパン小麦が注目されている。グルテンフリーの実験も少しやってみているが、たしかに頭がクリアーになるようだ。全粒粉含めて小麦粉製品はなるべく減らす方向で、パンやパスタよりもご飯を選ぶのが賢明かと。

グロッソラリー ―ない ので ある―(14)

明智尚希

 1月1日:「あとカネな。彼女作るのでも、若い頃でも20代半ばはまだいい。後半になってくると年収はどれくらいだの貯金はいくらだのと聞いてくる。俺と付き合うのかカネと付き合うのかわかりゃしない。俺みたいな安月給の貯金なしは、そこでアウト。良家のお嬢様ぶった女に限って、というかだからこそ、カネへの執着はすごい――」。

【金】~~~~ヽ(▽皿▽ヽ)≡(ノ▽皿▽)ノ~~~~【金】

 友人・知人の駒をひょいひょいと数種類に分類できる。彼らには悪いが、苦境に弱く、長生きはできない。現実との結びつきがある一点で強すぎるので、そこを外れるとたちまち弱くなる。しぶとく生き延びるのは、柔軟な人間、全方位に興趣があり抜け道を作る能力に長けた者だ。一点突破全面展開がダメなのは歴史が証明済みである。

ヘ( ̄ー ̄)ノニヤリズムッ♪

 私、負けましたわ。世の中馬鹿なのよ。

( ´,_ゝ`)プッ

 「パ、パルナッソス!」クライアント先でのプレゼン。正夫は「この度は」と切り出すところを緊張のあまり頭にあった単語をそのまま言ってしまった。怪訝な顔がずらり。こいつはちょっとアレな人間かと言いたげである。取り返しがつかないと悟った正夫は「に行ってきます!」と叫んで出ていった。百年後、正夫はギリシャで絵画となった。

ε=┏(*`>ω<)┛ジャァネ

 踏みばさえしの 横もでで
 がいね掘っさり ほさりそさ
 弦さもやんさも ごぶりぞな
 一丁あさだみ 来いきとな
 下なだりとて おんみきを

アラヨ♪ └( ̄- ̄└)) ((┘ ̄- ̄)┘コラヨ♪

 1月1日:「でも本物の良家のお嬢様ってカネカネ言わないぞ。世田谷世田谷言わないぞ。俺の知る限りでは、本物は、そんなものには全く興味なさそうな穏やかな表情をしていて、なおかつ無口なんだ。話題を振ってはじめて小さい声で喋りだす。しかも微笑を浮かべている。本人の口から聞かずとも良家のお嬢様ってわかるんだよな――」。

(”▽”ノ)おーほっほっほっほっほ〜

 3歳になる双子の娘、白っぽいラブラドール・レトリバー、白のアメリカン・ショートヘアー、それに妻が家族である。子供たちは親を「パパさん」「ママさん」と呼ぶ。最近では尊敬語・丁寧語・謙譲語の区別も少しつくようになった。なかなかのものだ。犬と猫はおとなしいのだが、こんな妄想を20年以上もしている自分はどうかしている。

il||li(つд-。)il||li

 平凡な生活でいい、とあきらめ顔で言う人よ、平凡な生活は投げやりな態度ではとても過ごせやしない。朝早く起きて、ラッシュアワーの電車にもまれ、昼食もままならずに働き、サービス残業で深夜近くまで会社に残り、帰宅するのは午前様。これが平凡な生活の実態である。この修行はどうだ? 平凡じゃない生活がいいのではあるまいか。

ε=ε=ε=ε=( * ̄▽)ノノ ||扉||

海から陸を見る

冨岡三智

10月末から東南アジア周遊クルーズの仕事で、2週間乗船していた。というわけで、今回は寄港地について書いてみる。

飛行機であっという間に上陸するのとは違って、水平線ばかりを眺めて何日も過ごした後に、やっと陸地が見えてくるという体験は感動的だ。そこに人が住んでいるという気配、揺れない地面があるということが何か安心感をもたらしてくれるのかも知れない。さらに、船の旅には意外に原始的、人間的な手法があるというのもほっとさせるのかも知れない。今回、船が着岸するところを初めて見たのだが、甲板の上からロープの先に重りを付けたものを砲丸投げのように何本も岸に飛ばし、岸にいる人がそれらを受け取って岸のフックみたいなところに引っ掛け、そして岸からロープを引っ張って船を寄せて横づけする。また、離岸するときは、小さな小船がロープで船を引っ張って岸から引き離す。車の縦列駐車みたいに船の操縦だけで離着岸できるものだと思っていたので、最初はなんと原始的な方法かと驚いたのだが、人の手で大きな船を動かしていることが目に見えるのがいい。船乗りが恰好よく見えるのも、むべなるかな。

●ホーチミン(サイゴン)
ホーチミンの港は海からサイゴン川を遡上したところにある。十分な水深と川幅があるので、外航船が直接入港できるらしい。河口から両岸にマングローブが延々茂っているが、そのうち建物が見えてくる。小さい窓があるだけの箱型コンクリートの建物で、まるで牢獄みたいだ…と思っていたのだが、その写真を見せた友人に、これはツバメの巣を採取する所だよと教えられた。団地のように川に面してずらっと並び、建設中のものもある。ツバメの巣長者も多いのかもしれない。そのツバメハウスがなくなる辺りから、水辺の生活民の家やら、町やらが見えてくる。さらに遡上すると川の水の色も濁ってきて、川底の砂をさらうボートが増え、両岸にクレーンや倉庫が立ち並んで臨海地域の様相になり、進行方向の先には建設済、建設中の高層ビルが林立するのが見える。夜にはこれらのビルの明かりがまばゆいまでにきらめき、川面に映りこむ。川の遡上のプロセスが経済発展のプロセスと重なって、今回の寄港地の中でこのホーチミンへのアクセスが一番印象深かった。

●シンガポール
着岸した所のビルも近代的で立派すぎて、入港したという感慨が他よりは薄かった。飛行機で到着するのと変わらない感じ。それはともかく、シンガポールはイギリスの植民地行政官だったラッフルズが建設した都市だが、ラッフルズはその前にジャワに赴任して『ジャワ誌』を著しているので、私にとってはジャワつながりの都市である。というのも、実は1811年〜1816年までジャワは英領だったのだ。ボロブドゥール遺跡がラッフルズによって発見されたのもこの期間である。シンガポールでは国立博物館に行ったのだが、展示物にはジャワから伝わった美しいアクセサリがあって、やっぱりジャワは文化の中心だったんだなあと思ったり、またジャワから来たロンゲンと呼ばれる女性の踊り子の絵もあって、こんな所までロンゲンは巡業に来ていたのかと感心したりする。ちなみにロンゲンは女性が歌いながら男性を誘って踊るという舞踊で、ジャワ島の各地に見られる芸能だ。現在の中部ジャワのタユブやバニュマスのレンゲールなどのルーツで、ロンゲンに関する記述は『ジャワ誌』にも見られる。

●スマラン
スマランはジャワ島北海岸中部にあり、中部ジャワ州の州都である。タンジュン・ウマス(黄金岬の意)港は堂々としていて、大きな船舶が沖にいくつも停泊している。人口約152万人(2010年)と、ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、メダンに次いで人口の多い大都市なのに、日本の旅行ガイドにはいまだにスマラン情報がない。ロンリー・プラネットという英語の旅行ガイドにはスマランの項目があるというのに。このクルーズではスマランからボロブドゥール遺跡へのツアーがオプションで用意されている。飛行機移動が前提の現在、ジョグジャカルタ空港がボロブドゥールへの玄関口になっているので、ジャワ島北海岸から直行するというのが意外で新鮮だ。新しい文化の窓口である海港から、伝統文化が醸成される内陸の地へと分け入っていきながら見て回るのも悪くない…と思ったが、スマランはほぼスルーだったようなので、ちょっともったいない。ここは15世紀には鄭和の大遠征が来た所であり、オランダ植民地時代はジャワから外への窓口で、ジャワ文化以外にオランダ風建築物やチャイナタウンや中華系寺院などがあり…と、それなりに歴史と見どころが隠された所なのだ。マレー系と西洋と華人の文化の混交という点ではシンガポールに似ているため、ちょっと分が悪いが、そこまで近代都市でなくて田舎くささが残るところが逆に魅力かなと思っている。

ところで、このスマラン、寄港前のガイダンスでは毎年5〜10cm地盤沈下しているという。そのため、最近では船のタラップの長さが足りなくなり、岸壁に台を置いてタラップをそこまで下ろし、さらにその台から下に別の階段を足しているという状況だ。こんな情報は飛行機で着陸していたのでは耳に入ってこない。気になって調べてみたところ、スマラン以外にジャカルタも年に10cm、バンドンも6〜7cm沈んでいるようだ。原因は工業用水のくみ上げらしい。インドネシア北海岸の工業化のペースがだんだん恐ろしくなってきた。

●マドゥーラ島
スマラン港からバリ島に向かう途中、マドゥーラ島を見ようとデッキに出る。別に風光明媚な島ではないので、乗客は誰もデッキに出てこないのだが、私はジャワ島とマドゥーラ島との距離に少し関心があったのだ。中部ジャワを中心に勢力を延ばしたマタラム王家はマドゥーラの王家と婚姻関係を重ねてきた歴史がある。ソロの宮廷(マタラム王国を継承)に伝わる舞踊曲の「スリンピ・ルディラマドゥ」は、マドゥーラから輿入れしてきた王妃を母に持つパク・ブウォノV世の作で、かつては「スリンピ・ルディラ・マドゥーラ(マドゥーラの血)」と呼ばれていたというくらいなのだ。それはさておき、船長アナウンスでは船とマドゥーラ島の距離は約50km。中国地方から四国を望むくらいの距離だろうか。マドゥーラ島は分厚いまな板を浮かべたような形状で起伏に乏しく、ジャワ島の沖にずっと見えている。バリ島のように中央に山がそびえているのが典型的な島のイメージだと思うのだが、そうではないのでジャワ島と陸続きになっているような感覚になり、攻めて行けそう…という気分になる。

●バリ、ベノワ港
3年前にも実はこのクルーズ船に乗って、ベノワで下船した。出島みたいになっていて、3年前にここへのアクセスも堪能したので、今回はわざわざデッキに出なかったのだが、着岸後に海面を見て、ゴミがそこここに浮いていることに幻滅する。海面の汚さでは今回一番だったのが残念。

大石先生の走った距離

野口英司

昨年の10月に小豆島を旅行した。その時に、いつかは実現しようと思っていた計画をついに実行に移した。それは、木下恵介監督の『二十四の瞳』の中で高峰秀子が演じる大石先生が自転車で自宅から学校(岬の文教場)まで通うルートを実際に走ってみることだった。映画の中で大石先生の言う「往復四里」「自転車で来ても50分かかる」距離とは、いったいどれくらいの厳しさなのか実際に走ってみたかったのだ。

すでにあちこちの観光地に持ち込んでボロボロになってしまった折畳み自転車 Bianchi Fretta Monocoque を小豆島に持って行き、まずは大石先生が住んでいたとされる家があった「竹生(たこう)の一本松」に向かった。

壺井栄の原作では「岬の村から見る一本松は盆栽の木のように小さく見えた」と書かれてある「竹生の一本松」(地図の中の「C」)は、それではさすがにフレームに収まる画としては弱いと木下恵介は考えたのか、映画の中ではちょうどそのあたりに白い煙をたなびかせる煙突が一本立っていて、「岬の文教場」(「B」)からも海を挟んで望むことができる設定になっていた。

小豆島にはじめて降り立った時に、まずはじめに感じたのはその独特な匂いだった。最初はそれが何の匂いなのかはさっぱりわからなかったけど、自転車を走らせていくうちにだんだんとわかってきた。一つは「オリーブ」で、もう一つは「醤油」だった。「オリーブ」については、小豆島が「オリーブ」の産地であると言う知識は何となくあった。でも、「醤油」の産地である知識はまったくなかった。小豆島には黒い板塀の「醤油」工場があちこちにあって、あたりには「醤油」の匂いが充満していた。そして、今はもう使われていないのか、工場の煙突も目立つ。もしかすると木下恵介は、この「醤油」工場の煙突をイメージして、大石先生の家の近くに煙突が立っている設定にしたのかもしれない。その煙突を目指して、赴任したばかりの大石先生をケガさせてしまった子供たちは「岬の文教場」から8kmもの距離を歩くことになるのだ。

「竹生の一本松」から国道436号に出て、大石先生の通勤ルートを東へと進んでいく。この走り始めの海岸線のコースは起伏もまったくなく、右手に海を見ながらのルートは通勤経路としてはおそらく最高のものだ。その海岸沿いをしばらく行くと、「日方海岸」(「D」)に着く。ケガをした大石先生を見舞いに来た子供たちと一緒に記念写真を撮る海岸だ。

『二十四の瞳』の記念写真

この写真は映画の中では重要な小道具として機能していて、今見てもそれぞれの子供のエピソードを思い出すことができるほどだ。その中でも「松江(後段右から三番目)」「コトエ(後段左から二番目)」「富士子(後段右から四番目)」のことが忘れられない。奉公に出された「松江」は映画の最後で大石先生と同窓会で再会することができる。寝たきりの「コトエ」は残念ながら肺病で死んでしまう。そして、まるで夜逃げをするように村を去っていった没落した庄屋の娘「富士子」のことは何も語られないままで映画は終わってしまう。「富士子」のその後はどうなったのだろう? 結果が示される二人に対して、結果の示されない「富士子」は映画を見ている者へ委ねられたままだ。

「日方海岸」からさらに先に進んで、湾を回り込むあたりに「岬の文教場」の本校(「E」)がある。映画の中で岬に住む子供たちは1年生から4年生までが「岬の文教場」で学んで、5年生からは本校で学ぶ設定になっている。足をケガをした大石先生は「岬の文教場」に通えなくなって本校に転勤し、1年生の教え子たちとは5年生になるまで会えなくなってしまう。しかし、実際に走ってみると、本校までも充分に距離がある。「岬の文教場」まで通えなくなった理由が足のケガだとすると本校へも通えないとは思うけど、小説の設定では「岬の文教場」から本校までが5kmある設定なので、本校はもうちょっと大石先生の家の近くにあったものと想像することにする。

本校の先の海岸沿いを進むと、ちょうど入江のようになっていて、そこを回り込むと子供たちが落とし穴を作って大石先生をケガさせた海岸(「F」)に出る。砂浜に小さな地蔵がたくさん並んでいるのが印象的な海岸で、そこは小豆島八十八箇所の4番霊場「古江庵」だそうだ。でも、その小さな地蔵が並んでいる砂浜は、映画の中では「岬の文教場」のすぐ近くの裏手にあるように見えてしまう。まあ、映画のロケ地と実際のストーリー上の位置関係とはこんなものだ。

「古江庵」から岬の外周を回って最終目的地の「岬の文教場」まで進む。このあたりの道のアップダウンはとても激しい。大石先生は本当にこのような厳しいルートを毎日走っていたんだろうか? とすれば、素晴らしい脚力だ。さぞかし鍛えられた太腿になっていたことだろう。なんてことを考えながら必死になって走ってやっと「岬の文教場」までたどり着いた。映画では片道で二里(8km)と言っていたけど、実際に走ってみると約13kmあった。それもそのはず、この岬を走るルートは、昔はもっと東側の坂手湾側の海岸道だったらしい。もしかするとそのコースは大石先生の脚にもやさしいルートだったのかもしれない。車で走ることが一般的となった現在では、西側の内海湾沿いを走るルートとなって距離も長く、起伏も厳しい道となった。

たどり着いた「岬の文教場」は、明治35(1902)年8月に田浦尋常小学校として建築された校舎で、明治43年からは苗羽(のうま)小学校田浦分校として昭和46(1971)年3月まで使用されていた。木下恵介の映画でも実際にこの教室が撮影に使われ、現在もその当時の机やオルガンがそのまま残されている。教室には、当時の撮影風景の写真も飾られ、その中には自転車で疾走する大石先生の写真も飾られていた。

自転車は、徒歩では距離がありすぎて、車ではあっと言う間に過ぎてしまう距離を観光しながら進むには最適の乗り物だ。労力を必要とはするけれど、ひとつひとつを細かく、つぶさに確認しながら、長い距離を進んで行くことができるのは自転車でしかあり得ない。だから、『二十四の瞳』の中で大石先生が自転車で走ったルートを実際に走ってみることほど、その映画の中に自分を置いてみる行為としても最適なものはなかった。壺井栄の小説の時代とも、木下恵介の映画が撮影された時代とも景色はまるっきり変わってしまって、道も変わってしまっていたけれども、しばし映画の中の時間と共有することのできた素敵な自転車の旅だった。

製本かい摘みましては (115)

四釜裕子

ハードカバー製本のワークショップでは「製本用ボール紙」を準備してきた。1ミリか2ミリ厚の硬い厚紙で、これを芯にして紙や布でくるむ。用意する側としては予想外の失敗をさせない安心のためでもあるが、自宅で自分で作ってみようという人にわざわざ「製本用」を勧めるのがいやだった。身近にあるちょっと硬くて厚い紙――ノートの台紙とか通信販売の梱包に入っている厚紙とか段ボールとか、なんだって、それなりに大丈夫なはず。あるとき参加者に厚紙の見本を提示したうえで各自調達してもらったところ厚みも硬さもさまざま集まり、向き不向きを見比べたり工夫工面を考え合ったり、そういう話ができてよっぽど楽しかった。

その延長で、段ボールそのものを表紙にした本を作ってもらったこともある。バーコードや印刷されたキャラクター部分をいかしたりマスキングテープで縁を始末するなど、みなさんなかなか手慣れていた。なかにチャレンジャーが1名。ぼろぼろでかぎ裂きのある段ボールを持って来て、麻糸を刺したりペイントしたりとパンクに仕上げた。「家にこれしかなかったから」とその人は言った。そうだった。段ボールの箱なんて薄汚れたものだった。母から果物や漬物が送られてくる箱はいつも使い回しだったし、こちらも次に使うときのためにとその箱をすぐ捨てることはなかった。でも最近は、つい早い安いと通信販売をポチってしまうせいで、梱包材である段ボール箱も順に処分せざるを得なくなっている。角もつぶれていないしさほど汚れてもいないのに、リサイクルされるとはいえもうちょっと使い込んでから資源ゴミに出したいところではある。それでも、梱包するモノに特化した構造になっていたりすると、ひとまず平らに展開してどんな型に抜かれているかを見るのが楽しい。モノを固定する部材まで段ボールで作られていたりすると、なお楽しい。

段ボールは、英国でシルクハットの内側に汗をとるためにつけた波型の紙が起源だそうである。そのクッション性から包装に用いられるようになり、日本には明治になって入ったようだ。段ボールなどのメーカーである株式会社レンゴーのウェブサイトを見ると、1909年に前身である三盛舎が日本で初めて段ボールを製造、1914年に香水瓶用の段ボール箱を手作りしたとある。創業者・井上貞治郎の生涯も興味深い。起業前に上野御徒町で紙箱道具や大工道具の注文をとる仕事をしていたそうである。そこで目にした手回しの綿繰り機のようなものに興味を持ち、紙に皺を寄せる道具であること、ブリキ屋がそもそも使っていたもので、ロールに紙を通して波型をつけていたこと、「電球包み紙」と呼んでいたこと、馬喰町の化粧品会社も同様の紙を使っているが、こちらはドイツ製でもう1枚のりづけしてあることなどをつきとめ、その後自ら機械を考案、製造にこぎつけている。商品化するにあたって「なまこ紙」と呼んでいたのを「段ボール」と改めたのも井上だそうだ。弾力紙、波型紙、しぼりボール、コルゲーテッド・ボード……いろいろ考えた末、結局はゴロで選んだと、日経新聞の「私の履歴書」(昭和34年)に書いておられる。

とある段ボール工場を見学させてもらった。巨大なトイレットペーパー状の原紙がいくつも並ぶ場内に、3枚の原紙を貼り合わせる機械「コルゲート」の爆音が響いている。ダイヤル型のロールで挟んで波型をつけた真ん中の紙は両面に接着剤が塗られ、上下の紙とともに熱した板で挟まれて圧着、あとは必要な大きさにカットされて段ボールシートが完成する。機械の長さは100メートル以上あるだろう。場内は寒く機械には湯気がたち、できたての段ボールは温かかった。このあと必要に応じて印刷や型抜き、あるいは巨大なホッチキスのようなもので留めて商品となる。この会社も創業しておよそ100年、工場の操業も50年ほどだそうである。戦後は木箱にかわって需要が増し、軽くて強い特性をいかして襖やパレットなども製造してきた。積み上げられた出荷待ちの段ボールの側面を見ると、波の高さはいくつかあり、2段、3段重ねもあった。美しい波型を見ながら、栃折久美子さん考案の製本法を思い出した。リップルという段ボール紙を表紙に使った中綴じで、「ド(dos=背)+ダン(段ボール)」という。製本アーティストの山崎曜さんには段ボールに切り込みを入れるだけで開閉する「段ボールキューブ」がある。今月銀座で開かれる個展でも見られるだろう。段ボールが「段ボール」でよかった。なんといっても響きが愉快じゃないですか。

生きる哲学

若松恵子

若松英輔著『生きる哲学』(文春新書/2014年)を味わいながら読んだ。あとがきで著者が「本書の執筆は、小品ながら書き手としての私に、きわめて大きな示唆を与えてくれた。」と述べているように、新書ではあるが、重い著作である。

この本は1年にわたって『文学界』に連載されたものをまとめたものだ。須賀敦子、舟越保武、原民喜、神谷美恵子ら14人の人生の軌跡をたどりながら、「彼らによって生きられた哲学」が語られている。

若松英輔にとって「哲学」とは剥製のように静止した概念では無く、「私たちが瞬間を生きるなかでまざまざと感じること」そのものの事だ。著作のはじめで彼は「本書では言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバとカタカナで書く」と定義する。そして「私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉となるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律がコトバの世界へと導いてくれるだろう」と続ける。哲学者の井筒俊彦が「形の定まらない意味の顕れ」を「コトバ」と呼んだことにならって、若松もその意味で「コトバ」を使う。最後の方では「言語的世界の彼方で開花する意味の火花をコトバと呼んできた」とも述べている。

若松英輔が14人を通して繰り返し語るのは、コトバと魂の出逢いについてだ。コトバによって自分自身を見いだす物語についてである。「コトバとの邂逅はいつも魂の出来事である。コトバは常に魂を貫いて訪れる。何者かが魂にふれたとき、人は自らにも魂と呼ぶべき何者かが在ることを知る」ブッダの章で若松はこう語る。

原爆投下後の広島を描いた『夏の花』で有名な原民喜について書かれた章は、渾身の1章だ。『心願の国』の一節が引用される。
「ふと頭上の星空を振り仰いだとたん、無数の星のなかから、たった一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかって頷いていてくれる星があったのだ。それはどういう意味なのだろうか、だが、僕には意味を考える前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまったのだ。」
この原の文章を受けて若松はこう続ける。「どうして星が頷くことがあるだろうかと訝るのは易しい。だが、私たちは、彼が記したことをそのまま受け入れることもできる。愚かである、と人のいうところに至らねば見えてこない真実もある。星の動きを見て彼は、意味を考える前に動かされる。意味は、想念を通過する前に彼に届く、光は、私たちがその意味を考える以前に私たちの魂にふれる」

「光は、私たちがその意味を考える以前に私たちの魂にふれる」この一節を読んだ時に、ずっと気になっていた小林秀雄の文章を想い出した。それは『信じることと知ること』のなかの柳田國男について語られている部分だった。柳田國男が幼い時に、おばあさんを祀っている祠を開けて、そのなかにあったまるい蠟石を見た時に経験した神秘的な体験に触れて、小林は「柳田さんは蠟石のなかに、おばあさんの魂を見た」のだと言い、この話を自分は信じるという。こういう体験を忘れずにいる感受性が、柳田國男の学問の秘密だと言った部分だった。小さな石の祠、中風で寝ていたおばあさんがいつも体をさすっていて、すべすべに美しい玉となっていた蠟石、それを覗きこんでいるうちに昼間に星空を見てしまう少年、ヒヨドリの鳴き声で我に返る瞬間。語られる印象的な体験は、それを読む者の心に直に届いて心を捉える。そんなオカルトな話と信じないか、そういうこともあるかもしれないと信じるか…。私は信じると言い切る小林秀雄に全面的に賛成することにためらいがあったのだが、今回若松英輔の文章を読んで、小林が言う、信じるという事を肯定的に理解することができた。説明のつかないできごとを心に受け入れ、心に刻むという事も時には、人間にとって必要なことなのではないだろうか。

若松英輔が『生きる哲学』で述べているのは、世界を正しく理解する方法についてではない。最後の章で、井筒俊彦の言葉が引用される。「コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく。その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに展開する。」

人間が生きることによって世界が創られていく。自然と同じように書かれた書物、絵、音楽、彫刻、人そのものも「読まれ」「書かれる」ことによって存在する。若松英輔は、14人の人生(カオス)をコトバに置き換えながら、読む者の心にしっかりと存在させた。この本を書く事、また読む事も、若松言う所の「生きた哲学」であるのだろう。

大黒天を名乗った男

植松眞人

 おれの話を聞いてくれるか。
 おれはそんな賢いほうじゃないけど、それほど阿保でもないと思ってる。どの辺が阿保でもないのかというと、それなりに動物的な勘が働いて、うまいこと仕事をこなせたりするところや。人からもそのあたりをほめられて仕事をもらったりする。
 おれの仕事はいわゆるクリエイティブな仕事でね、クリエイティブとかいうのがなんか面はゆいから、自分では「くりえーちぶ」とかわざと言うてる。具体的にはプロダクトデザインのコンセプトから商品化、マーケティングや流通設計までを担当することもある。というと、かなり賢いのではないかと思われるかもしれんけど、こういう仕事の全部を理解しているのかというと、それはない。
 もともとうちの事務所におばちゃんの事務員がいて、こいつがかなり切れ者なんや。チビでデブのくせに悪巧みができるおばちゃんや。このおばはんが元いた会社っちゅうのがかなり販売促進の会社で、その時の人脈とかを駆使して仕事をとってきてくれている。外面のええおばはんなんで、仕事が途切れることはない。
 それで言うと、おれはおれで外面がええので、チョロチョロチョロチョロ仕事が入ってくる。まあ、あんまり賢くないので、ややこしい仕事が中心やけどな。
 事務所を立ち上げて数年が経つけど、これまでそのおばはんと二人でそれなりに仕事をこなしてきた。おれら外面はええけど、おばはんは意外に腹が黒いし、おれはケチやし、ということでなかなかシビアな仕事をするわけや。なんて言えばいいかなあ、いわゆるリアリストっちゅうやつやな。甘いことばっかり考えて仕事がうまいこといかんようになる業界人は数多いけど、おれから言わせれば、そういう奴は才能がハナからないんとちゃうやろか。
 なんちゅう屋号でやってるのかって? 教えましょう。弊社の屋号は『ダイコクテン』と申します。これ、すごいやろ。事務所の登記をする前に、ふと思いついたんや。大黒さんは袋をせたろうて米俵の上に鎮座ましましてるあの神様ですわ。もともとはヒンズー教の神様らしいけども、日本では食料とかね、そういうもんの神様らしい。まあ、食べるのに困らない神様ということやね。
 もしかしたら、おれの会社がうまいこといってるのはこの屋号のせいやないやろか、と思うこともある。ダイコクテンやからね、漢字で書くと大黒天やけど、そこはちょいとクリエイティブな感じで、ダイコクテンとカタカナ表記にしたんよね。
 ところが、ここ半年ほど、どうにも仕事の具合が悪い。おばはんに「もうちょい仕事入れんと、やばいですねえ」と言うたら、「そんな都合よう入ってくるかいな。どんとかまえときなさい」と、どっちが社長かわからん言い方されてしまう始末や。まあ、向こうのほうがだいぶ年上なんで、ええんやどね。
 けど、仕事の入りが落ちてるのをほっとくわけにはいかんなあと思いまして、いろいろ出来るだけ営業してみたりしたんやども、うまいこといかん。もう、こうなったら神頼みや、ということで、近所の神社に行って柏手打ってお詣りしたわけや。
 そしたら、その日の夜。
 うちの嫁さんはもともとおれの仕事にそんなに興味ないし、自分でも働いてるからおれの焦りには一切関知せず、というわけや。ちなみに、事務のおばはんは、うちの嫁さんのことは大嫌いらしい。おれがおれへんとこで、むちゃくちゃうちの嫁さんの悪口言うてるらしいわ。もれ伝え聞くところによるとね。
 まあ、嫁さんの話はええねん。神社にお詣りに行ったその日の夜のことや。寝ようと布団に入ったとき、隣ではもう嫁さんはグーグー寝とるわけよ。で、おれは布団をかぶって寝ようとしてるわけよ。そしたら、おれの枕元に小さいサイズの大黒さんが出てきよった。びっくりしたで。そらそうやがな、身長十センチくらいの大黒さんが米俵の上に立ち上がって、こっちじっと睨みつけてるねんから。こっちはなんのことかわからん。
「お前、わしが誰かわかってるのか」
 大黒さんがそう言うわけや。おれはもうびっくりして声もでえへんいうやっちゃ。黙ってたら、大黒さんのほうがすごんできはるねん。
「おい。聞いてんのか」
「聞いてます。聞いてます」
「ほな、言うてみ。わしは誰や」
「大黒です。大黒さんです」
 おれがそう答えると、大黒さんはニヤっと笑いはって、
「そや。そやろ。わかってるんやないか」
「もちろんです。大黒さんの御利益にあやかろうと思って、屋号もダイコクテンとしたくらいですから」
 おれもなんか必死や。お化けがでてくるのも怖いけど、神さんが急に目の前に現れるのも怖いからなあ。
「それや。お前は、畏れ多くもわしの名前を、神さんの名前を屋号にしたわけや」
 ああ、そうか。そのことを怒ってはるのかとおれは思たんや。
「すみません。勝手なことしてすみません」
 おれはそう謝った。すると、神さんは首を横に振ってはる。
「ちゃうねん。それはええねん」
「ええんですか」
「うん。ええねん。わしの名前を付けて食うに困らん商売をしようという心根はええねん。逆にそれはうれしいねん」
「そうですか」
「そらそうやがな。わしら神さんやなんやと言われてもやで、正直、信心してもらわな始まらん」
「そんなもんですか」
「そんなもんですかって、お前のそういうとこが、わしは前から引っかかってたんや」
 大黒さんはそう言うと、ちょっと怖い顔しておれをじっと見つめはるんや。
「お前はいっつも知ったかぶりして、べらべらしゃべるやろ。なんも勉強してへんくせに、ちょっと誰かから聞いた話をまるで自分が遙か昔から知ってた話のように、訳知り顔に話す。お前のそう言うところが大嫌いなんや」
「す、すみません」
「いや、別にええねん。そういう奴は多いし、そういう奴でわしらは支えられてるというてもええくらいや」
「そんなもんですか」
「お前の口癖の、そんなもんですか、いうのは嫌いやから、それは直しや」
「はい」
「ほな、今から話すること、じっくり聞きや」
 そう言うと、大黒さんはおれに言い聞かせるように、ゆっくり話し始めたんや。

 あのな、お前は屋号を考え始めるまで、わしのことなんか何にも知らんかったよな。けどまあ、ビジュアルが面白いからいうことで、屋号に選んで、申し訳程度にウィキペディアでわしのこと調べて…。
 ええねん、ええねん。そういうことを怒ってるわけやない。そういう奴は多いし、いまどき、その程度の奴でもないと、神様の名前を自分の商売の屋号にしようやなんて浅はかなことはせえへんねん。
 わしはわしで、ちょっとでもそういうことで、忘れかけられたわしら神さんの名前が人に知られたらうれしいからな。わしなりに、お前んとこの商売の手伝いをしてたんや。
 お前、気づいてないと思うけどな。仕事を始めて、二つ目の大きい仕事あったやろ。あれなんか、クライアントの机の上にあったライバル会社の名刺の電話番号をお前とこの番号に変えといたんや。そしたら、間違えて電話かけやがってな。仕事頼むつもりでかけてるから、相手が違ういうことに気づかずに、ガンガン発注してきて、かける相手が違うと気づいたときには後に引けんようになって、見事お前の会社の仕事になったわけや。
 それだけとちゃうねんで。お前の会社のためには、むちゃくちゃ貢献してるねん。そや、あの事務のおばはんかって、わしがうまいことお前のとこに誘導したんや。仕事がちゃんと入ってくるようにな。まあ、あのおばはんがあんだけ腹黒やいうことには、さすがに気づかんかったけどな。

 大黒さんはここまで話すと、ちょっと悲しそうな顔をした。
「そやのに、お前今日なにした」
「え…」
「お前、今日なにしたか思い出してみ」
 おれは大黒さんの言う通り、今日の行動を思い出してみた。
「神頼み、ですか」
 そう言うと、大黒さんはぐいっとおれのほうへ一歩進み出て、おれを睨みつけた。
「それや!お前今日、神社に行って八百万の神に自分の会社のこと神頼みしたやろ」
「は、はい」
「わしはヒンズー教の神さんやぞ。その屋号のついた会社の命運を日本の八百万の神に、何とかしてくれと頼むてどういうことや」
「それは、気がつきませんでした」
「気がつかんではすまん!」
 そこまで、大黒さん、威勢が良かったんやけどな。そこで急にトーンが落ちた。
「正直、もう謝って済む話ではなくなってるわけよ」
 大黒さん、なんや逆におれを哀れむようなそんな顔になってはるんや。
「どうしたらええんでしょう」
「もう手遅れや。これまで入ってた仕事も今月限りでだいたいおわるで」
「ほんまですか?」
「ほんまや。あとな、一緒に働いてるおばはんおるやろ。あいつもなんか適当な言い訳ばっかりするようになって、仕事を運んでくるようなことはなくなるわ」
「そしたら、ただのお荷物じゃないですか」
「そうやで。もう半年くらい前からそうなっててんけどな。気づかんかったか」
「気づきませんでした」
「そうか。平和やな。リアリストのくせに」
「すみません」
 おれは愕然としてしもた。ちょっと神社に神頼みしたくらいで、こんなことになるなんて、と正直おれは思ってた。
「お前、反省してないな」
「いや、してますよ。ほんまにしてます」
「嘘や。それが証拠に、いまの仕事がなくなったらどうしたらええか。しばらくは嫁さんに食わしてもらいながら、適当にやり過ごしたらええわ、とか思てるやないか。それに、いま進めてるプロジェクトも、儲かるかどうかわからんから、ついでに頓挫させてしまえ、とか都合のええことばっかり考えてるやないか」
 ぐうの音もでんかった。その通りやったからや。おれはリアリストかも知れんし、動物的な勘が働くかも知れん。けど、それよりもなによりも、おばはんが言う通り、おれはケチなんや。ケチで、恐がりで、どうしようもない人間なんや。ちょっとでもうまいこといかんことがあると、逃げることばっかり考えてる。
「それや」
 大黒さんは小さな声でそう言うた。おれがそう思っただけで、言葉にしていないのに、大黒さんは少し微笑んでいる。
「そういうふうに、正直な気持ちになることはええことや。お前が逃げることで、迷惑のかかる人もたくさんおるやろ。けどな、お前が生き延びることを考えたらええんや」
「ほんまに、それでええんでしょうか」
「ええねん。真横におるおばはんのことはちょっと気をつけんと切れよるからな。それだけは気をつけたほうがええ。それ以外はもうええやないか。特に離れた場所におる奴らのことなんか、あとで言い訳して歩いたら適当にごまかせるって。そうせえそうせえ」
 大黒さんはそういうと、おれを見て笑うのだった。おれはおれで、大黒さんにそう言ってもらったことで気が楽になった。もともと経営なんてことができるほど、頭のいい人間やないからな。気楽にやるのが一番や。事務のおばはんと化かし合いながら、適当にやっていこうと思たわけや。
 おれは大黒さんに手を合わせると、これからもよろしく頼みます、と心で念じた。目の前の大黒さんはまんざらでもない様子で深くうなずいている。
「わかってくれたらええねん。あとは一日も早く、このチンケな賃貸マンションを出て、自分の家を建ててくれ」
 なんで家の話とかしてるんやろと思ったんやけど、大黒さんがおれを励ましてくれてるんやと思てうれしなったんや。
「わかってます。なんか、かっこええ家を建てられるようにがんばりますわ」
 と答えた。そしたら、大黒さんものってきてな。
「お前、どんな家を建てたいんや」
 なんて聞いてくるんや。
「そうですねえ。大きな窓があるんですよ」
「ええなあ、大きな窓」
「ええでしょ。広いリビングあるんですよ」
「リビングかあ。居間とちゃうねんな」
「居間でもええんですけど、リビングいうほうがかっこええでしょ」
「そやな。そのリビングにはあれもあるんやな」
「大きな液晶テレビでしょ?」
「まあ、テレビもいるけど、ほら」
「あ、サウンドシステム?」
「まあ、それもええなあ。映画が大迫力やな。でも、ほら、他に」
「ソファとか、テーブルとか、そういうもんですか?」
「いやいや、もっと構造的な」
「構造的ですか…。そのへん、ようわからんのですが、もうね、バリアフリーがええなあと」
「バリアフリー?」
「そうです、そうです。長く住めるようにね。段差とか柱がない空間がええなあと」
「ちょっと待って」
「え?」
「段差はええけど、柱もないの?」
「柱ないほうがかっこよくないですか」
「一本もか?」
「まあ、最近の家は壁で充分に耐震が出来る言いますからね」
 そこまで話すと、大黒さん、急に黙り込んでしもたんや。それで、おれの枕元に立ってたんやけど、がっくり肩を落として向こう向きはってな。黙って行ってしまおうとするんや。
「ちょっと待ってください。どないしたんですか」
 そういうても、大黒さん、振り向いてくれへん。
「大きなかっこええ家建てますから、一緒に暮らしましょうよ」
 おれはそう言うてみたんや。そしたら、大黒さん、振り向かんと向こう向いたままこうつぶやきはったんや。
「家を建てる時に、大黒柱のことを忘れるやつを大黒天がサポートするわけにはいかんのよ。お前は悪い奴やないけど、徹底的に勉強不足なんよ。そこがかわいそうなとこやけど、わしには助けられへん部分なんや」
 それだけ言うと大黒さん、ふっと消えてしまいはった。
 おれが自分の会社の屋号を神さんの名前にしたのに、それほど運が回ってけえへん理由は、こういうことやねん。ああ、おれがもうちょっと勉強が好きな人間ならなァ。(了)

『名井島の雛歌』から〜言語系アンドロイドのための〜

時里二郎

 《にいさんのこさえた人形》

にいさんのこさえた人形
みんな ねえさんのお顔だね

子守歌を歌ってくれたねえさん
にいさんが帰りますように
という歌ばかり

手を引いてくれたのはにいさんとねえさん
わたしが消えれば 
にいさんとねえさんの手は
結ばれる

にいさんはかたち
ねえさんはこえ
わたしはことば

 《水たまりに》

水たまりににいさんの声
わだちのむこう
虹が途切れて
ねえさんの指の先
さあおい翅(はね)
飛ぶことより
そこにじっと じっと じっと
震える舌のためらい

さんらんの日
ねえさんの微かなしわぶき
にいさんの胸のふるえ
わたしはひかりのつぶを
ひとつ ふたつ みつ よつ いつつと
つぶして つぶして つぶして つぶしながら
歌に返す
歌を孵(かえ)す 

しなりめぐり

高橋悠治

「歌仙は三十六歩 一歩もあとに帰る心なし 行くにしたがひ心の改まるは ただ先へ行く心なればなり」

時間が行くだけ 帰らないのは 見かけか 新しさをもとめる心か

行くだけの道はない まっすぐな線を引いても 曲がらない道はどこかで終わる 壁か崖か 川か海か そうなったとき ひとつ前の角までもどれば 別な道があるだろう まわりこんで向こう側に出られるか 迷路の一筆書き 先が見えない 壁を伝って曲がるうちに 思いがけなく外に出る  

つながりを切る けしきを折り曲げて 角に反対方向を映す鏡を立てる 切れてもどこかで やっとつながっている

時間のひだが飴になって溶け出すなか なにか細い糸のように抜けてくる 「よく見ればなづな」 わざのあそび あそびのわざ

「付け様は 前句へ糸ほどの縁を取りて付けべし 前句へ並べて句聞へ候へば よし」「蓮の茎を切ると糸を引くように」とも言われる

先へ先へと行く下に 季節のめぐりがはたらいている 「行く春を惜しみけり」 帰ってくる春は 根が切れている 年はめぐりながらすりへる 「なんで年よる雲に鳥」 遠くを見る 近くをきく 「何にとどまる海苔の味」 「ただ今日の事 目前のことにて候」

目をそらす 「影の夕日ちらつく」 ことばが入口となり窓となる その順を乱せば 別の窓がひらく