三つの事

笠井瑞丈

水牛の連載で書かせていただく事になりました。
私 笠井瑞丈と申します。ダンスをしてます。
今回初です。思った事を思いつきのまま書きたいと思います
正直文章を書くというのは苦手な行為です。
これを通して少しづつ上手になれたらいいなと思ってます。

10月 笠井叡×高橋悠治『無心所振り』がありました。
リハーサルを含め全部で5回、二人のセッションを見せて貰いました。
リハーサルは天使館で行いました。
大好きな悠治さんのピアノを天使館で聴けるとういう特別な時間。
高橋悠治さんの奏でる音。
いつも雨のように聞こえる。
音の雨が空から降ってくる。
その雨に打たれて踊る笠井叡さん。
そのような景色だった。
いつまでも見ていたい景色。

11月 小暮香帆さんとデュオ作品を作った。
タイトルはいろいろ悩んで結局『Duo』というタイトルにしました。

二人で踊ること。
二つのカラダ。
二つのメトロノーム。

そんなことを考え作品を作りました。
二つのメトロノーム。
ずらして鳴らす。
不協和音のリズム。
何回かに一回に同時に打つ瞬間。
これがたまらなく心地いいリズム。
人間のカラダもメトロノームみたいなもの。
鼓動のリズム。
何回かに一回に同時に打つ瞬間。
一緒に踊る人とそこを感じたい。
Duoとはそのような事かた思った。
Duo 人間が組織で活動する際の最小単位

いま1月に行う新作公演のためリハを行ってます。
モーツァルトのレクイエムで振付を行ってます。
若手女性ダンサー4人に振付しています。
踊るカラダはやっぱり素敵です。
踊ることは生命を生み出す事。
そして今回の作品にはゲストで鈴木ユキオさんの出演して貰います。
公演は来年1月です。

ここ一ヶ月あった三つの事について書きました。
もっともっと違う事も書きます。
文才のない僕ですが、すこしづついろいろ書いていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

145 黙示録――となか

藤井貞和

海の炉芯をだきしめよ
幼い神々

海路にきみが波をさらう
潮合いの迎え火

震央の水が凜として向く
潰える三月

たいまつをかざして
国つ罪が沸きあがる四海

炉の芯を匍いずり
水源がなめ尽くすまで

草原に遠き乳牛
かげが斃れて

校舎にありし神々
浜通りを去る

負けないでZARD海底の
卒業式ができなくっても

まがつ神おまえの建て屋に
祈るゆき向かえいま

絃を切れ弁財天女
おしら神かいこをつぶせ

波間からとりだせなくて風だけが
はいっていましたUSBメモリー

壊れたぼくのEメールで
送るよ走り火の海の底から

眠らずに来てね海底虹が住む
住所不明のゆうびん番号

髪洗う笥に光るセシウム137
ゴイアニア被爆と被曝

うたへ講義がさしかかる
まがつ火ノート

こころに波をうち据えるうた
海やまのあいだにうたう

(富山妙子さんのイベント。以前の『東歌篇―異なる声独吟千句』)からアレンジする。原爆の図丸木美術館での富山展のために。)

チョコレートの天使たち

さとうまき

恒例のチョコ募金が今日から始まった。

昨日は、イラクの看護師をトレーニングしてくれる日本人の看護師を口説きに行った。
「行きたいのはやまやまなんですが、家族が反対しているんです。80になる母は、『イラクだけはやめてくれ』って。そして、姉は、『母を悲しませるようなことはやめてくれ』って言うんですよ」

その看護師は、ラオスで活動している。ラオスから帰国したばかりで、現地のよもやま話をしてくれた。訪問看護に行くと、車がぬかるみにはまり、がけから転がり落ちそうになったとか。
「今年は、何回か、もう死ぬんだなと思ったことがありましたよ」という。

言われてみれば、僕は、イラクで死ぬような思いをしたことはない。ISの戦闘地域に行くわけでもなく、難民キャンプは、殺気だっているような雰囲気はあっても、彼らが避難してくる安全な場所だ。
「イラクの方が安全なんですけどね」

新宿駅の地下にあるベルクというカフェレストランで、イラクの子どもたちが描いた絵を展示してくれることになり、搬入が朝早いので歌舞伎町の東横インに泊まることになっていた。どう見ても、歌舞伎町の方がイラクより怖い。客引きのお兄さん、お姉さんに連れていかれるのは、ISに連れ去られるような感じ?

朝5時、小雨ぱらつく中を誰もいない地下道に入り歩いていく。お店の人があわただしくクリスマスのデコレーションを飾り付ける隣で、イラクやシリア難民のがんの子どもたちが描いた絵をかけていく。年末、モスルの奪還作戦やアレッポの攻防戦が激化し、クリスマスプレゼントは、爆弾が空から降ってくるという子どもたちが一体何人いるんだろう。そんな子どもたちこそが天使であり、絵を描いてくれた。

何はともあれ、無事にベルクでの展示が終わり、JIM-NETのおいしいチョコレートもおいてあるので是非皆様立ち寄ってください。
http://jim-net.org/blog/event/2016/11/1211231is1500300facebookhttpswwwfacebookcombergshinjukutokyo.php

製本かい摘みましては(124)

四釜裕子

絶滅危惧種の剝製は劣化を避けるためになるべく人目にさらさない、そこに木彫の出番があると、ラジオで聞いた。バードカービング作家の話だった。コレクターがついた美術品も人の目から遠ざけられる。写真家ロバート・フランクは米国の美術館に収蔵された自分の写真が、劣化を防ぐために展示される機会が減り、莫大な費用を要するために国外貸し出しがまままならいことに呆れていた。若い世代の目に触れる機会を作りたいとドイツの出版社シュタイデルと企画した展示が世界を巡回している。11月、東京藝大美術館陳列館に「Robert Frank : Books and Films 1947-2016 in Tokyo Robert Frank & Steidl」をみた。

フランクのいらだちにゲルハルト・シュタイデルが思いついたのは高性能のインクジェットプリンタを使うこと。用紙は新聞用紙。これを丸めて筒に入れて各地の会場に送り、ピンや糊でじかに貼り、無料で開放し、展示が終わったらすべてを廃棄する、という方法だ。用紙については南ドイツ新聞社が、広告などのために要望される少し高くて質のいい紙の余剰を提供してくれることになったという。原案を聞いてフランク(チラシにはわざわざ ” カナダのマブーの小さな家に住む ” とある)はこう言った。「安くて、素早くて、汚い。そうこなくっちゃ!」

実際の展示は汚いことはまったくない。二人の間で交わされた本づくりのためのアイディアを記した手紙や細かい指示書、サンプル本もケースに展示されており、それらの完成版である「写真集」はどれも手にとって見ることができた。カタログはこれまた再生新聞用紙に、南ドイツ新聞のフォーマットどおりのデザインで作られ500円だったが、早々に売り切れていた。入り口すぐのところにカタログを含めた既刊の写真集が天井からワイヤーで吊るされていて、もちろんこれもすべて見ることができる。厚いハードカバーのものは背が4、5センチも破れていて、こればかりはちょっと痛かった。作品のため、著者のため、読者のために着せられたこの ” 重さ ” はけっきょく誰が自分の重さとするのだろう。

2007年、ロバート・フランクが初版から50年記念の『The Americans』最終版を作ろうとシュタイデル社を訪ねたときに、「俺は単純な人間なので、簡単な本を作りたい」と言ったそうだ。シュタイデル版はきわめてシンプルなものとなった。二人で多くの本を作る中、シュタイデルはフランクに写真を物理的なものとして尊重しすぎてはいけないと戒められ、何万ドルもする写真と今朝の新聞に載っている写真の価値を分つものとは何か、とも言われたそうだ。2016年11月30日の朝刊には、朴槿恵さんや「女性のみなさん、がまんするなんて、もったいない。」と添えたアーモンドチョコレートの写真があった。

壊し屋野郎たち

仲宗根浩

いつも通るパークアヴェニュー、昔で言うとセンター通りもイルミネーション。LEDで消費電力が少ないからといってやたらこんなんで電気を使うのもどうかと思うが。さびれた昔の白人街は人通りはない。四十何年か前まで普通に肌の色の違いで、自分の国ではないところでも、遊ぶ場所が違い、歩くことすらできなかった。なんてことをやっていた国だろう。でも自分が好きな音楽をたくさん生んだ国だ。

子供の制服、冬服が出来上がった。こちらだと入学式は在校生は冬服、新入生は夏服。五月になればすぐ梅雨入りだし。新聞では土人のことが毎日。うちのお嬢さんに「おまえは半土人だ」と言うと「半魚人」みたいだとおもしろがっている。ばかたれの言うことは笑ってしまえ。

再生できなかった、「レッキング・クルー」のブルーレイ見たさに家に届いた電器屋さんのDMで安いブルーレイ・ディスク・プレイヤーを見つけ、万札握りしめ買いにいくが在庫が無い。在庫がある店舗を教えてもらい入手する。やっと本編を見て、長い長いボーナスディスクをゆっくりと何日かかけて見る。そしたらレオン・ラッセルの訃報。レッキング・クルーのひとり、すぐれたスタジオ・ミュージシャン。初めて動く、レオン・ラッセルを見たのは中学生の時。映画館でみた「バングラディシュ・コンサート」でピアノを弾いて「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」を歌っていたか。ボブ・ディランのセットではベースを弾いていた。こっちもそれなりに齢をとったということか、いろいろ他人の病気の話が入ってくる。こっちは歩き方がわるいのか何もないところで足を地面にひっかける。そしたらついに自分の足に自分でひっかけてしまう。どんな歩き方を、足の運び方をしているのか。

月の終わりになると、高江のヘリパッド容認が決まり、翌日には反対運動をしていたところに警察が行く。7月は選挙の結果が出た翌日すぐ辺野古の工事再開。やることがはやい。こうやって事はどんどん進んでいくのだろう。

グラッソラリー―ない ので ある―(26)

明智尚希

「1月1日:『精神疾患も大変だよ。あとで聞いた話だけど、そいつも複数の精神疾患を持っていたんだって。単なる酒好きがアル中になったんじゃなくて、まあ症状の一つが出たって感じなんじゃないかな。病名はなんていったっけな。鬱病は確実にあったな。それと不安神経症か。なにしろ鬱と神経症でかなり苦しんでるって言ってたな』」。

…(o_ _)o 鬱……

公衆の面前、土壇場で尻拭い。あれよあれよと思う間もなく突然がらんどう。出たとこ任せのアムネジア。オキシトシンをばらまいて、非合理ゆえに我信ずにする。こちたき噴射はこちたき噴射をする者の謂いである。我流の時代診断は、虎を虎と名づけた。なぜならそれが虎に見えたからだ。これをしも、ひとしなみに裏街道で、我にもあらぬ。

、(-_”\)(/”_- ) エエト…

人間と全能の神が入れ替わり、大人数な多神教となったらどうなるだろうか。無慈悲であることはできそうだが、沈黙を守り通す点は大いに疑問だ。人となった神をいかに処すべきかについて内輪でがやがやと欲得ずくで不毛なやり取りをし、答えらしい答えも見出せず、結局は神を頼り自分たちはいかに処されるべきか、持ちかけることだろう。

(/–)/(/–)/(/–)/ \(・_\)神ヨー (/_・)/カミヨー

「狭いんだから押すなよ」「押してないって」「さっきからずっとお前の体重がかかってるんだよ」「だから押してないって」「押してなくない」「あなたこそ押してるでしょうが」「俺が押すわけない」「さっきからずっとあなたの体重がかかってるんですよ」「それはお前が押してるからだ」「押してないって言ってるでしょ」「狭いんだから押すなよ」。

ガタン≠≠[。□□□。][。□□□ 。]≠≠ゴトン

時間って一人か? 二人以上か? ミンコフスキー時空やプランク時間があるからには二人以上じゃな。クソとミソみたいなもんか。しかし不思議な医療品じゃな。記憶は忘れさせるは怪我は治させるは感情は薄めさせるは。わしは神の一突きを巧みにかわして時間になりたい。もしくはドラえもん。あのタイムマシンに乗って……さて寝るか。

, ((≡゜♀゜≡)) /T タケコプタ~

「1月1日:『不安神経症のパニック障害って壮絶らしいな。急に心臓の鼓動が速くなって動悸・息切れ、めまい、発汗、そして何よりも狂うんじゃないか死ぬんじゃないかっていう恐怖心。あいつが症状に合った薬が見つかるまで、ろくに歩くことすらできなかったって。しんどい生活で二十代の大半を費やしちゃったもんな。気の毒に』」。

パニック(*_*)

深夜にジョギングをしている時期があった。十二時頃から約一時間走る。コースは決まっていて、公園とグラウンドの外周を回る。ある時も走っていると公園に人影があった。足を止めて見れば、小学一二年生くらいの女の子が小犬と一緒にベンチに座っていた。散歩かと思ったのも束の間、カチン、その子は、いや、彼女はタバコに火をつけた。

(ーoー)y〜〜〜 ⊆^U)┬┬~

何でも意味があると思うなよ。

(*^-^)ゞハイッ

道や座席を譲る。落し物を拾って差し上げる。行き方を丁寧に教える。善行をしたという自意識はとかく過剰になりがちだ。報酬の二文字が頭をよぎる人も少なくないだろう。全能の神は卑劣な性根が嫌いとみえる。善い行いを自覚的に実践した人用に、ストックから罰をばらまく。財布を失くさせたり、知人を仏故させたりと自由自在である。

神様お許しを...( TーT)m 乂 ( ̄x ̄)バツ!

知情意の調和がとれてないだいだらぼっちの旦那が、年年歳歳小塚っ原の病院に詰めきりなのはなぜじゃ。ああかこちたいかこちたい。そんな自己矛盾仮説。角度欠損があるから、のっぺりしておる。世の中みんなご自愛専一に所感を述べるから、有為転変は胡散臭いんじゃ。ぶっちがいに赫々たる夜の太陽が、深慮遠望する頬かむりとなる。

d( ̄  ̄) オワカリ?

「1月1日:『おっと。すまん。ちょっと電話。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい』」。

(*・ω・d)~~~~~~~~~~(b・ω・*)モシモーシ

理想は高く持て。苦労は買ってでもしろ。希望を持て。夢を持て。お年寄りを大切にしろ。一生勉強だ。努力は報われる。継続は力なり。光陰矢のごとし。一寸の光陰軽んずべからず。小中学校の教師の常套句である。嫌というほど知っている。だが知っているところで何になる。逆の意味に解釈したほうが、生や現実と縁がありそうである。

∥ヘ(′ェ`)ゝ__」ふぅぅん

むか〜しむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんも川へ洗濯に行きました。すると、川上から何やら大きなものが、どんぶらこどんぶらこと流れてきました。よく見れば大きな桃でした。驚いたおばあさんでしたが桃を持って帰り、包丁で切ってみると「だからわしじゃて。これで何度目だ」。

( 桃 )ヽ(・o・ヽ) キャッチ!!

相変わらず昔は良かったブームが続いてるようじゃが、ほんとに良かったのかっての。大気汚染に水質汚濁、それに伴う公害、物は少なく、みんな貧しかった。将来は二十一世紀は、素晴らしい世の中になるなんて思ってた時代じゃ。過去における未来、つまり現在が期待外れだったということもあるんじゃろうなあ。ああ大正時代が懐かしい。

(´、ゝ`) アソ

重度の不安・恐怖・心痛といった精神状態に落ちた時、頭脳から言葉がたちまち飛び去り消えていく。残るのは期限のない苦痛である。脳の鈍麻や怯儒を強化される。もしそれらを未着手のまま言語化できたら、あるいは他人に譲ることができたら、と思ってやまない。可能だとしたら、医療の現場や犯罪率は今とは異なっているに違いない。

┗( ̄□ ̄||)┛お、おもい。。。

いとをとる

璃葉

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幼いころに夢中になって読んだあやとりの絵本を、20数年後のいま、もういちど買いなおした。
アラスカを旅した後、北極圏の部族についていろいろ調べているとき、彼らと共通するあそびが あやとり だということがわかったのだった。
わかったと同時に、急に子供のころをおもいだしてしまい、蚤の市で買った毛糸を使って、さいきんふたたびあやとりに没頭している。
おもしろいことに、絵本をあまり見なくてもそれぞれの取り方の順序を、手はちゃんと覚えていた。

あやとりの文化は世界中にあり、起原はエスキモーからなのではないか、とか、朝鮮なのでは、とかいろいろ言われているが、謎につつまれたままだ。
北極圏の部族たちはワタリガラスやアザラシ、カリブー、漁網、五つの山、などをあらわした。
日本では、亀の甲、紙芝居、ほうき、松の葉、富士山、梯子、さかずき。挙げだしたらキリがない。
そして、日本には「あやとり」のほかにも、さまざまな呼び名があることを知った。
いととり、あみかけ、らんかん、ちどり、トキゲ、コトントリ。まだまだある。
わたしはあやとり、という呼び名で育った。
糸は、母が編み物でつかった毛糸のクズをもらって両端を繋いで輪にし、いつでもあそべるように手首に巻いていた。
「ぶんぶくちゃがま」などのあやとり唄などはうたわず、ひとり無言で、しずかにあそんでいた。

世界のあやとりで共通しているのは、身のまわりにあるものを糸にうつしこむというところだろうか。
天文、植物、動物、生活のための道具、精霊から冥界、占術めいたものまでが、両手のひらのなかであらわされる。
きっと星も月も山も見えないものも、今よりももっと身近なところにいたのだ。

幼いころ、いちばん好きなあやとりは「月に群雲(むらくも)」だった。
何度か糸を取り交わし、親指に二本掛かった糸を一本だけはずすと、するするとまるい月ができあがり、
まわりに糸が何本か張り巡らされ、月を隠す雲になる。

すくって、掛けて、はずして、ねじって、糸を組んでいく。ほどけばかたちは瞬く間に消えてしまう。
このふしぎなあそびは、絶えることなく人から人へ伝わっていくのだろうか。

町内会の夜警

冨岡三智

「火の〜用〜心、(カチッ カチッ)」と町内会の人が拍子木を叩きながら夜廻りする時期になると、ああ、いよいよ今年も押し詰まってきたなあと感じる。

インドネシアにも町内会の夜警(ロンダ・マラム ronda malam)があって、拍子木ならぬクントゥンガン kentungan と呼ばれる木や竹で作ったスリット・ドラムを手に持ち、叩きながら廻る。これは年末に限らない。私の住んでいた地域では、兄ちゃんや爺ちゃんが数名で廻っているのをたまに耳にすることがあった。ただ、私も夜は大体外出していたので、正確な実施状況は知らなかったし、地域によっても差はあると思う。

この夜警だが、夜廻りを一通りやって終わりではなくて、一晩寝ずの番で自分たちの町内を守る。インドネシアの町内会は、日本軍政時の隣組制度を起源として法整備されている。各町内に通じる辻にはポス・カムリン pos kamling という東屋のようなものが設けられ、毎晩、町内から数人の男が出て交代で一晩詰める。ポス・カムリンの軒にはだいたい巨大なクントゥンガンが吊り下げられていて、何事かあるとこれを叩いて知らせることになっている。そこで男たちはだいたいはチェスをやって時を過ごしている。

何人かの知り合いのインドネシア人男性は、この夜警に出るのは大変だと言っていた。次の日には仕事に行かねばならないのだから。夜警に出られない場合はお金を出さないといけない(この辺は日本の町内会と同じ)が、度重なると負担になるし肩身も狭いという。

私は地方都市の町中の一軒家を借りて住んでいた。女子だし外国人だし…ということで、町内づき合いは免除されていたように思う。けれど、それだからこそ、また、私はいろいろ行事や公演を見に行って夜が遅くなることが多かったので、夜遅く帰ってきたら夜警の人にはいつも挨拶を欠かさないようにしていた。出先で食べ物をもらうことがあると、夜警の人たちにいつも差し入れるようにしていた。私が貢献できることはそれくらいしかないのだし、町内の人たちと交流してどんな人なのかを知ってもらうことが、結局は自分の身の安全につながるのだ。ジャワに住み始めて最初の頃は、なんで夜にたむろしてチェスする男性が多いのだろうと不思議に思い、少し怖くも思っていたけれど、今となっては懐かしく感じる。

アジアのごはん(82)ヒマラヤ岩塩の実力

森下ヒバリ

ヒマラヤ周辺で採れるブラックソルト(黒色岩塩)の酸化還元力がすごい、という話を小耳にはさんだ。おっ、それなら何種類か持っているはず、と棚の奥をごそごそすると出てきましたブラックソルト。バングラデシュの市場でもらった濃い紫色の親指の先ぐらいの塊が幾つか、インド東北部のダージリンの市場で買ったせっけんぐらいの黒い塊、インドのコルカタのスーパーマーケットで買った粉末のものもある。

どれも手に入れた場所の風景がすぐに浮かんでくる。旅先でその地の海水塩や岩塩を手に入れるのは楽しい。それを料理に使うのも楽しい。ブラックソルトはめずらしい色合いなので、食べずにとっておいた分だ。むう、岩塩の塊を見ていたら、インドに行きたくなってきた。

岩塩は産地によって味や成分がかなり違う。ヒマラヤンブラックソルトはパキスタン、インド北部、チベットなどヒマラヤ山系の周辺で産出される。日本に輸入されているものの多くはパキスタンのケウラ岩塩鉱山産だ。塩なのに色が赤黒くて温泉卵のような匂いがする。いや、硫黄系の温泉の匂いそのものといっていい。おなじくヒマラヤ岩塩でもピンク色やオレンジ色のピンクソルト、と呼ばれるものもあるが、こちらは硫黄の匂いはしない。

ヒマラヤンブラックソルトは太古の時代の激しい地殻変動で内陸に閉じ込められた海水が塩湖を作り、その塩湖が長い時間をかけて蒸発し、ヒマラヤ造山運動によって地層に閉じ込められてできた。その過程でマグマに触れ高温で焼かれたことで、成分に硫黄や銅、鉄、亜鉛を含むことになったようだ。いわば、何億年も前の海水の化石である。

ラブリーなピンクソルトはブラックソルトに比べて鉄分、カリウム、硫黄が少なく、亜鉛と銅はまったく含まない。逆にカルシウムやマグネシウムがかなり多い。マグマに接触した距離や時間の違いなのだろうか。ピンクもブラックも心配な放射性物質や危険な重金属は含まれていない。

さっそく、ブラックソルトの塊をゴリゴリと削り、水に溶かしてORPメーターで酸化還元電位を計ってみた。ちゃぽんとコップにメーターを入れてスイッチを押したとたん、あっというまにくるくる数字が動き、マイナス272で止まった。ワオ、-270mv!これはすごい還元力。

酸化還元力というのは、数字がマイナスになるほど還元力が強い。還元力が強いというのは、活性酸素(酸化)を還元する力が強いということで、身体においては細胞レベルでの若返りを促進する。水素水がブームになっているのも、水素が自然界でもっとも高い還元力を持っているからだ。

ちなみに日本の水道水はだいたい+200~500mvぐらい。純水の還元電位は+200mvで、それ以下から還元力を持つと言われるが、塩素の多い水道水はめったに+200以下にはならない。+200mv以上の状態は、これを飲んだり、触れたりすれば体が酸化し、傷つき老化するということである。感覚としては+200mv以下なら身体に悪くはない。マイナスに行くほど体にいい。

おもしろいので、手持ちの各種の岩塩や海水塩の酸化還元電位を量ってみた。まずはインドのスーパーで買ったブラックソルトの粉末。袋を見ると100グラム入りで5ルピーと書いてある。安い‥。10円ぐらいかな。偽物かもしれない。とりあえず、計ってみる。これまた、あっという間に-262mvを記録。すみません、本物でした。すばらしい。

以下、基本的に50㏄の浄水に、かる~く塩ひとつまみ。飲んでみてほのかに塩味を感じる程度の塩水の電位である。参考までに水道水と浄水器を通した水も計っておく。
・京都市の水道水‥+255mv
・ウチの浄水器の浄水‥-63mv これは水素発生器付き浄水器なので、本当はもっと還元力が高くあるべきなのだが3年目となると能力が低下してきたようす。ちなみに普通の浄水器の水は基本マイナスにはならない。+150~+200mvぐらい。
・カンホアの塩(ベトナム海水塩)‥+35mv
・真塩(メキシコまたはオーストラリア産海水塩)‥+30mv
・タイ海水塩‥+30mv
おやおや、海水塩はだいたい+30mvである。海はつながっているものね。
次は岩塩シリーズ。
・ヒマラヤロックソルト‥-270mv(インドで入手)
・ヒマラヤピンクソルト‥-24mv(パキスタン・ケラウ鉱山)
・モンゴルの岩塩(ほのかなピンク色)‥-55mv
・タイ岩塩(塩井戸からの塩水くみ上げで作る塩)‥-109mv
・タウデニ湖岩塩(マリ共和国)‥-176mv

岩塩は海水塩よりずっと還元力が高いが、同じ産地のヒマラヤピンクソルトはあまり高くない。ブラックソルトと比べると、還元力はわずかだ。タウデニ湖の岩塩は幻の岩塩で、戦争のため今は入手が難しい。白い塊の塩だが、かすかに不思議な味がする。ケイ素が豊富と聞いたのでその味かな? タイ北部の塩の井戸からくみ上げる水を煮詰めて作る塩は、岩塩層の上に地下水があり、塩分が溶け出して塩水が出来ている。意外にいい数値。味はあまり奥行きのないふつうの塩味なんだけど。ラオスの塩井戸の塩はわりと深みのある味だった。おいしかったので、みんな食べてしまい計れないのが残念。

モンゴルの岩塩つながりで、炭酸水素塩である重曹も計ってみた。
・モンゴル天然重曹‥-104mv
・パックス重曹(化学合成品)‥+160mv

重曹については、ガンに効くとか病気にいいとか諸説あるが、その真偽のほどはまだ追及していない。うがいに重曹水を使うのが歯や歯茎にいいのは実感している。どちらにしても、化学合成品よりも天然重曹が身体にいいのはこの結果から一目瞭然。うがいや歯磨き、料理には天然重曹を使ってください。手持ちの合成品重曹はおそうじに。とくに天然、とか産地が書いてなければすべて合成品とみて間違いない。

以前に紹介した白米の3回目のとぎ汁を一日置いて作る「とぎ汁還元水」は、そのときの米やとぎ汁の濃さ、気温などに左右されて還元値は一定ではないが、この日のわが家のとぎ汁の還元水の電位も計っておこう。あまりうまくいかないときは-100mvぐらいのときもある。夏はうまくいくと-400mvぐらいになることも多い、簡単で驚異の還元水。2日以上置くと臭くなるのだけが難点。今日は、寒いせいかまあまあの数値。
・無農薬米の白米とぎ汁還元水‥-180mv

おまけで届いたばかりの日本酒「出羽の雫」もそのまま計ってみたら、+58mvであった。水道水を飲むよりずっと体にいい? ちなみにいつも飲んでいるプーアル茶や紅茶も計ってみたことがあるが、だいたいマイナスにはならないものの、+50~30程度でかなり優秀。市販のペットボトルのお茶やジュースはまだ計ったことがないが、たぶんかなり悪そう。いつか測ってみよう。

人間の身体は酸素を取り入れて活動するために常に活性酸素の毒にさらされており、それを常に酸化還元している。(人の身体の正常な酸化還元電位は-250mv)それが追いつかなくなると、身体が老化し、ぼろぼろになり、病気になったりする。つまり、自分の身体に酸化した水や油や食べ物、化粧品などを注ぎ込んでいると、その還元に追いつかないどころか、酸化を加速させるわけだ。

身体に入れるもの、触れるものを還元力の高いものにすることで健康を保つ自分自身の還元力をサポートすることができる。毎日飲んでいる水分が2リットルあるとして、これがすべて酸化した水分、つまり還元電位が+200以上のものだったら? 体は外から入ってきた酸化した水分までも還元しなくてはならない。自分の細胞を健康に保つための還元がおろそかになるのだ。

すばらしいヒマラヤの岩塩だが、電位を見て分かるようにピンクソルトよりもブラックソルトが断然体にいい。ブラックソルトは硫黄の匂いがするので、飲んだり食べたりするのに抵抗を覚える人もいると思う。でも加熱すれば硫黄の匂いは消えるので心配はない。独特のコクがあるのでぜひ料理にも使ってみて。海水塩にくらべてミネラル分が大変多いので、隠し味にも大活躍。

まずは朝起きたら、コップ一杯の水にかすかに塩味を感じるくらいのブラックソルトを溶かし、ぐっと飲むのもおすすめ。ほんの少しの塩分なので、塩の摂りすぎにもならず、ミネラルも補給でき、酸化還元力も強力補給。夜寝る前にももう1杯飲めばさらにいい。効果を実感するには毎日続けることが大事で、たまに飲んでいるようでは効きません。

食べるだけでなく、お風呂に大匙2~3杯ぐらい入れるとヒマラヤ温泉の出来あがり。これは、もう本当に気持ちがいい。浴槽に直接、粉を入れると浴槽の素材によっては色が着いたりすることもあるので、桶などでさっと溶かして混ぜること。足湯で使ってもぽかぽか。粉末状のブラックソルトはネットでも簡単に買えて2キロで2000円以下。身体の調子がなんとなく悪い、免疫力がどうも落ちている、風邪が長引いて治らない‥あなたのためにヒマラヤからの贈り物。

海賊になりたい

大野晋

海賊王になりたいというとどこかの人気コミックのようになるが、たまに海賊になってしまいたい欲求が高じるときがある。要は、何かから自由になりたいだとか、何かを自由にしたいなどの気持ちなのだろうと思うが、果たして海賊が自由だったのかどうかはよくわからない。イメージとしては大海原をまたにかけて、国の法律などに関わりなく自由に航海していたのだから自由だったようにも思えるが、その実、敵対する国が庇護していたりするので完全な自由気ままな生き方ではなかったのだろう。ま。実際はどうであれ、海賊になりたいときの私は自由になりたいのだから、何かに必要以上に束縛されていると感じているのだということだ。

さて、最近の自由にしたいと思った対象は何と言っても著作権だろう。著者の死後50年間も拘束された挙句に利用されずに消えていくというのはなんともかわいそうだ。これは70年になったとしてもあまり変わらない現象である。もちろん、20年の延長は長いことは長いが、実際には著作物の大勢は著者の死後50年を待たずに決まってしまう。今や著作物の寿命は短く、よほどの工業著作権でもない限り、死後どころか、発表されて数年、長くて数十年で市場から大方が消えていく。

だから、著作権など、発表後20年でいいではないか? などと間違っても言わないが、著作物の有効利用と再利用の促進のためにもっとなにかできるのではないか? とは思う。そうでなければ、多くの著作物が利用されずに消えていくだけだろう。そういう意味で、海賊としての本分は、著作権の保護期間の延長反対よりも、もっと保護期間中の著作物に自由を! なのである。

米国大統領がわからんちんになりそうなので、TPPも予断を許さない状況だが、その話とは切り離して、著作物再利用のハードルを下げないと、コンテンツクリエイターは幸せにならないのではないかと思う。

走る犬、うずくまる人。(1)

植松眞人

 金曜日の夜に東京から大阪へと移動するのに新幹線を選んだのはいいけれど、僕のあずかり知らぬところで景気が良くなったという噂はどうやら本当で、のぞみはどれもこれも満席で、ひかりでさえ車両によっては席がないと言われてしまう。それなら、となぜか「こだまでいいや」と声に出してしまい、そうですか、とあっさり、東京発新大阪行きこだま六八三号のチケットを発券してもらう。午後七時半に出発して十一時半に新大阪に着ける。とりあえず、眠れるだけ眠っていけばそれでいいと思っていたのだが、出発してすぐにのどが渇いて仕方がなくなったのだが、近頃のこだまは車内販売もなければ自動販売機もない。仕方がないので、岐阜羽島の駅で列車を降りて、小銭を取り出して、自動販売機でお茶を買い、低い取り出し口から取り出そうとした時に、胸ポケットに入れていたスマホを落としてしまい、慌てた拍子に自動販売機とホームの隙間に自ら蹴り入れてしまうという体たらく。少し奥に入ってしまったようで手を突っ込んで、あちらこちらを触っている間に、なんだか汚いゴミのようなものを大量に掻き出しつつ、そのなかに自分のスマホを見つけてほっと一息ついた瞬間にこだま六八三号は動き出す。ホームにスンッスンッスンッという軽快な風切り音を残して出発進行。お茶とゴミだらけのスマホを握りしめたまま自動販売機の前で正座しながら僕はこだま六三八号を見送ることになったのである。
 このまま次のひかりが通りかかるのを待っても良かったのだが、なんだかこだま六八三号を見送った瞬間にいろんなことがどうでも良くなり、幸いお茶を買いにホームに降りるとき、小さなショルダーバッグから財布を出すのが邪魔くさく、そのまま担いだおかげで、こだま六三八号の中に忘れ物はなく、チケットも財布も仕事で使う小さなパソコンも全部持ったまま自動販売機の前に正座していたこともあり、僕は妙にさっぱりした気持ちで、立ち上がり四十数年生きてきて、生まれて初めて岐阜羽島の駅に降り立ったのである。
 岐阜羽島で降りる人は少なく、前を行く若いサラリーマンは両手に東京銘菓と書かれた紙袋を二つずつ下げていて、仕事上のお使いでも頼まれたような出で立ちで、後ろからは少し腰の曲がったお爺さんと、妙に背筋の伸びたお婆さんが互いに手を取りながらゆっくりゆっくり歩いている。
 とりあえず、あてもないので改札を出てタクシー乗り場の方へと歩く。客待ちのタクシーが僕を見て客席の自動ドアを開けたのだが、僕が乗る気配を見せないと、やがてまたドアを閉めた。そこへ、さっきのお爺さんとお婆さんがやってきてそのタクシーに乗ると、タクシー乗り場には一台のタクシーもいなくなり、僕はベンチに座ってさっき買ったペットボトルのお茶を飲み始めた。水銀灯のような青白い光がロータリーを照らしていて、とても静かな空気がたゆたっていて、もしかしたらあと少しぼんやりしていれば朝が来るのではないかと勘違いしそうだったのだが、犬がワンと吠えて、たゆたう空気は一瞬にして霧散する。

しもた屋之噺(179)

杉山洋一

東京に初雪が降ったと聞き、すっかり厚着をして成田に着きました。思いの外気持ちの良い秋晴れで、昨日までの鬱々としたミラノの厚い鉛色の空が信じられない気がします。

 11月某日 三軒茶屋自宅
いつも機会を逃していた、中村和枝さんと山本くんの演奏会を初めて聴きにゆく。前半と同じ内容を、休憩を挟んで後半も演奏する。行き先の見えないまま聴き続ける前半と、行き先が見えていて、自分なりの筋書きを考えて聴く後半。その構造の支えを敢えて外す松平作品。
身体が鈍っているので、三軒茶屋から両国まで自転車で出かける。昨日のリゲティのリハーサルも、江古田まで自転車。

 11月某日 ミラノ自宅
ボストン近郊で昔書いたヴィオラと打楽器の曲を演奏されたのは知っていたが、演奏会の様子は知らなかった。どういう事情かわからないが、曲を感激して泣き出した聴衆がいた、とのメールが届き、愕く。何となく申し訳なく、後ろめたい。あまりまともな作曲をしていなくて、大体作品がよいと言われるのは演奏家の力量に頼っている。

 11月某日 ミラノ自宅
ジークフリート牧歌を読む。その昔、旋法で音楽をやっていたころ、導音の概念は3和音の第3音をずり上げることで、機能和声へ発展した。
それから200年ほど経って、第5音もずり上げることで、機能和声は飽和状態に達し、和声感も曖昧になった。過去の産物を信じているような、信じていないような増3和音。シェーンベルクらは、機能和声に限界を見出して12音へ発展したはずだが、増3和音の簡便さはよく理解していたし、その裏にうっすらと浮き上がる調性感をどこか信じていたのかもしれない。無調と呼ばれても、そこには常に過去から引きずられた機能和声の重力がのしかかっている。

 11月某日 ミラノ自宅
音楽を学ぶにあたって、常識的に理解されるべき内容は、まず徹底的に学ぶ必要はある。旋律の持つ意味。低音が支える意味。内声の意味。音色。全体構造。第一主題の意味、それに続くブリッジの意味、第二主題の意味、コデッタの意味、展開部の意味。無数の表情記号の意味。アーティキュレーションの意味。趣味の良いルバート。速度の微妙な変化の方法。オーケストレーションの意味。書かれているオーケストレーションを効果的に浮彫りにさせる技術。それらすべてを、バランスよく調合する技術を学ぶ。強弱の表情。
それが出来るようになったら、多分音楽家が本来求めるべき姿は、いかにそれまで学んだバランス良い音楽を壊すかではないか。予定調和を如何にして破壊し、シンメトリカルな解釈を徹底的に排除し、毎回違うエッセンスを振りかけることによって、緊張と新鮮さを保つ。色使いも同じ色のグラデーションから如何にして脱し、めくるめく色彩のパレットを創造することができるか。
同じ音楽を再生させようとすることに、興味を失った。毎回違う音楽が生まれればよい。演奏者の期待を悉く裏切りつづけ、そこから別の次元の期待を引き出すこと。
如何に微妙な歪さを、常に保つことができるか。4声のコラールであれば、いかに均等な声部配分から逃れて、それぞれのパートに凹凸をつけて、イレギュラーにゴツゴツとした手触りが表面に感じられるようにするか。この無数の小さな不均衡のモザイクによって、光を当てたときに美しい輝きを放つ。
自分から発する情報ではなく、目の前で発せられている音をいかに観察し、調理し、還元することができるか。目の前で奏でられている音には既に豊かな色がついているのに、如何にして気がつくことができるか。レッスンでは、強拍のみ振らないで、弱拍だけで音楽をつくる試みを続けている。強拍のところに空いている穴から、演奏家の音を聴き、前後を考えながらフレーズを作る訓練。

 11月某日 ペスカーラ
ペスカーラに来るだけでも、家人の恩師を思い出し少し感傷的になる。今年の年始に長男と話したときは、まだ辛うじて彼と奥さんの顔だけは解っているようだ、と言っていたが、今はどうだろう。彼と一緒にリハーサルをした時を思い出し、シェーンベルクの練習を始めると、胸が締め付けられるようだった。練習の後、近くの食堂でステーキを食べながら雑談したのが、昨日のことのようだ。クラシックの基礎が欠如していた自分にとって、彼から学んだことは数え切れない。
15年来の友人から頼まれて、ペスカーラの室内オーケストラの仕事を引き受けたのだが、演奏者の殆どがボルツァーノのオーケストラであったクラリネット奏者だったり、ディンドのやっているソリスティ・ディ・パヴィアの弦楽器奏者だったりして、演奏会のたびにペスカーラに集うのだという。
初めてオリジナル編成で「ジークフリート牧歌」を演奏したが、想像通り、磨けば磨くほど艶が出てとてもうつくしい。弦楽器を5人で演奏すると、限りなく可能性が広がってゆく。この編成ではオーケストラというより、寧ろ室内楽に、最低限必要な部分だけ指揮をつける感じ。こちらに合わせるような演奏では、この編成のよさが際立たない。バスのカデンツに耳をそばだてながら、出来る限りフレーズを長く、クレッシェンドに可能な限り時間をかけてゆく。ワーグナーのゼクエンツは、時として鳥肌が立つような、めくるめく触感に襲われる。

 11月某日 ペスカーラ
所々ペンキの剝げ、色あせたペスカーラの音楽ホールの外壁は、見るからに場末という雰囲気が漂う。隣には屋外ホールがあって、夏にはジャズ・フェスティバルをやっているという。歴史が古く、デューク・エリントンもやってきたという。ミラノのブルーノートよりずっと古いのよ、と誇らしげにジーナが呟いた。音楽ホールは、一歩中に足を踏み入れると、思いの外美しく、木で誂えた内装は響きもとてもよい。なるほど海辺に建っていると、外壁が痛むが頓に早いのだろう。
ステージによじ登ろうとして、左手の薬指を捩じってしまった。この指は子供の頃に関節がつぶれてしまって一つないのだが、もう50歳近くなろうと言うのに、時としてそこに関節が残っている錯覚を覚えることがある。今回も同じで、力を入れてはいけないところに重心を掛けてしまった。妙齢の薬剤師に呆れられながら、宿の隣の薬局でボルタレンを買う。こういう時は、楽器弾きでなくて良かったと心底思う。

 11月某日 三軒茶屋自宅
トップにコーヒー豆を買いに出かけ、袋に詰めてもらう際、紙袋とポリ袋を取り出して、「どちらがよろしゅうございますか」と尋ねられる。何故か解らないのだが、女性の自然な仕草と言葉遣いに甚く感激する。
カストロ死去の報に際し、すぐ頭に過ったのはジョージ・ロペスのことだった。彼は少しのっぺりした感じのアメリカ英語で電話してくるので、初めアメリカ人だとばかり思い込んでいて、随分経ってからキューバ生まれだと知った。どういう経緯でヨーロッパに辿り着いたのか、尋ねたことはない。
彼の作品が余りに素晴らしいので、何度かポートレートCDを作ろうと計画しては頓挫して、そのままになっている。長くオーストリアの山中で孤高の生活を送っていて、その頃には何度も生活が苦しい、助けてほしいと手紙を貰ったが、今はスペインで作曲を教えているはずだ。
当時は一風変わった人間としか思っていなかったが、波乱万丈の人生を歩んできたのかも知れない。カストロがいなくなった故郷を、彼はどう思っているのか。

 11月某日 三軒茶屋自宅
時差呆けが辛い。昨日は朝の8時半まで仕事をして、目が覚めたら14時。
今日は朝10時からリゲティのリハーサルなので、朝の4時には無理やり布団に入って、7時半に起きて自転車で大井町まで出かける。相模湾沿いの街に近づくと、身体が無意識に懐かしさに反応する。祖父母のいる湯河原に通い、茅ケ崎と三浦半島の堀之内に墓があり、義父母は熱川に住んでいる。子供のころから横浜に遊び、大学時代は、まだ寂れ切ったままだった鶴見線に乗って、日がな一日目の前の運河を一人眺めた。
何回眺めても納得できなかった第九の3楽章後半の1フレーズが、ふとした切欠でやっと自分なりの落としどころを見つける。フレーズ構造を頑なに冒頭と関連付けていたのがいけなかった。その昔、エミリオに稽古して貰っていたころ、彼が一小節がどうにもわからなくて、ずっと一日悩んだ、と話していた。当時は全くその意味が解らなかったが、あれから随分経って、もしかしたらあの時の彼より譜読みはどんどん遅くなっている気がする。
昨夜、行き詰って、家にある家人のベートーヴェンのピアノソナタの楽譜を眺める。特に作品110を夢中になって読む。大学時代に雨田先生と一緒にこのソナタを勉強したときのことを思い出す。arioso dolenteという言葉とかpoi a poi di nuovo viventeとか、当時はイタリア語など感覚的には理解できなかったから、このAs durの音が、言葉と一緒に未だに生理的に体にしみこんでいる。
一体、まともにピアノが弾けない人間がこれをどの程度、どうやって弾いたのか、想像すら出来ないが、ともかく半年くらい、このソナタとバッハのトッカータの楽譜を開き、暇さえあればいつもピアノで訥々と音を拾っていた。作曲にも現代曲にも興味を失っていて、ariosoや最後のフーガなど、毎日音を出すだけで身体が震えていたのを、楽譜を開いて突然思い出した。あれはいったい何だったのだろう。今、あんな風に音楽を改めて感じられるだろうか。もし感じられないとしたら、本当にそれでよいのだろうか。
仲宗根さんからお便りをいただく。「こちらは子供の制服の冬服ができあがり涼しくなりました。沖縄は入学の際は夏服です。 “Smoke prohibited” 聴きました。かっこいい!素晴らしいブルースです。バリトンサックスの音がTさんと出会った頃、三十数年前によく耳にした記憶の音にあまりの近くて。Tさんは国立がんセンターで新たな治療方針が決まったとメールが届きました」

(11月29日三軒茶屋にて)

画材に気持ちがのってゆく

西荻なな

2016年は間違いなく邦画の当たり年だったと思う。どこに行っても「『シン・ゴジラ』観た?」「『君の名は。』観た?」の会話が夏から秋にかけて、挨拶代わりに飛び交った。このヒットの体感を過去作に喩えるなら、かなり昔のことになるが『タイタニック』だろうか。あるいは『もののけ姫』? ヒット作が一挙に2作もやってきて、誰もかれもが浮かれているように見えた。

おじさんたちは『シン・ゴジラ』に「この世の春が来た!」とでもいうような興奮ぶり、熱弁ぶりだった(周囲の女性も結構見ているのだが、それに比して感想を語る鼻息が荒い印象)。「群衆の描き方が、まさに日本の真理を捉えている」「うだつの上がらない首相の描き方がうまい」などなどディテール語りを誘う。確かに、ゴジラの存在を脇に置いておいても、震災後の機能不全に陥った日本官邸の内側をのぞいているかのような臨場感もあり、時間を引き戻して「あの日」を思い出させる仕掛けになっていた。危機的状況に際して、イエスマンたちからなる”ザ・日本人集団”が退場せざるをえなくなり、結果的にアウトローで通っている一人ひとりの寄せ集めが日本を救う、という筋書きは、閉塞的日本に生きる多くの日本人の気持ちを代弁してくれたにちがいない。ある経済学者には「君まだ見てないの? 界隈でも大評判だよ」と叱られたくらいだ。

対する『君の名は。』のヒットは、描かれた舞台の一部である四谷や新宿御苑界隈に聖地巡礼に訪れる人が多いらしい、という事情によってもうかがわれて、「ポケモンGo」的な人々を連れ出す外側への広がりで感じていた。時空を超えての体の入れ替わりのストーリーには「それはよくあるよね」と思いながらも、風景描写がとにかく緻密ですごいという。でも実際に耳を傾けてみると、「巻き戻らない青春時代を思い出してキュンとした」という感想を述べる人と「よく分からない」という人とが拮抗。
どちらも正直、観る前にすでに耳年増になっていて、両作品をようやく観ることができたヒット最盛期すぎにはすでに、能年玲奈が2年ぶりの沈黙を破って主役の声を演じるという『この世界の片隅に』の公開に目が向いていた。『君の名は。』を見終えた後、「こういう作品が大ヒットをする時代なのか……」という寂しさと不可解さに肩を落としかけていたこともあって、早く観たいとの気持ちが募っていたのだ。

そして…『この世界の片隅に』は素晴らしかった。
主人公の浦野すずは広島市に生まれ、家は海苔を作っている。いつもぼんやりしていて迷子になってしまうような子どもだが、絵を描くのが好きで、絵を描きながら妹に今日の小さな出来事を語り聞かせたりもする。絵を描きながらのすずの語りは名調子で、活弁士のよう。少し創作が入ったりするから、妹は大喜びだ。すずがどんなにぼんやりしていると言っても、この活き活きとした語りのリズムと、時にツッコミのように入るユーモアが全編の空気を作り上げている。例えば、すずの恋の気持ちの明るさは、すずが描いたカラフルな水彩画の風景が、次の瞬間に立ち去る相手の姿とともに現実の風景となって立ち上がることで、さりげなく語られたりする。里帰りで呉から広島に帰り、実家の温もりに触れたのち、再び汽車に乗り込む寸前に買った画材で描く広島の風景。空襲で空の風景が一変するときには、そこに黄色、水色などの絵の具の色をすずは思い浮かべる。心の中で空に絵の具を塗る。

広島に生きる浦野家一家の日常と小さな恋、戦前の伸びやかな空気と明るさ、そこからすずの嫁入りで呉に舞台が移り、戦争の影が忍び寄ってきたのちの時代の空気もが、彼女が描く絵のタッチとその語りの調子とともに、すっと入ってくる。明るさの隣に影があったり、影をユーモアで打ち消そうとしたり。すずの語られえない複雑な感情もが、絵の思いがけない奥行きによって語られる。次の瞬間、そのすずの感情が、観る私の中に引き出され、すずの描く(時に思い描く)タッチに乗ってゆくようなのだ。それは不思議な体験だった。

作品の中で日めくりカレンダーのように、丁寧に描写される戦時の日常リズムとともに、すずに彩られたこの語りの枠組みの強さを痛感することになるのは、とりわけ世界に暗雲が立ち込めてからのこと。絵を描けなくなってからの、右手を失ったのちのすずの心の内は、彼女が描くことのできなかった情景として押し寄せてくる。でも同時に、すずが描いた何枚もの絵が脳裏に蘇り、リフレインする。戦後を迎えてガラッと一変した空気の中、広島と呉の風景、そして失われてしまった戦前の空気もがカラフルに立ち上がってきて、いくつもの感情を知ってしまったすずにむしろ後押しされるような気持ちになるのは、すずが絵心を取り戻すことが感じられるからなのだと思う。鉛筆、水彩、描かれたもの、描かれなかったもの。時々の細やかな表現が、とても豊かな作品だった。

考えないを考える

高橋悠治

音がうごくとその位置の変化を身体で感じるのと 音のうごきにつれて身体がうごくのと それとも身体が音の先端になってうごいていくと感じるのは おなじことのようでも 意識がちがう 人と音が二つの並行した状態に感じられるところからはじまり だんだん音にうごかされ そのうち人は消えて うごく音だけが残る とも言えるし 音が消えて うごく身体の感じが続く とも言えるかもしれない

音がうごくと感じるのは 消えてすでにない音と まだない音を結ぶ線のなかにいる感じとさらに言えば その線は枝分かれすることもあり 途切れることもある 途切れても 別な線がそこでもうはじまっていれば 音楽は続いていくが ちがう方向に曲がっていく

それでも線が途切れたなら どこかにもどってやりなおしてもいい 今まで見えなかった出口が現れるかもしれない ところで やりなおすために どこかにもどれるとしたら そのどこかは 記憶のなかにある音のかたまりということになるだろう 即興の場合には 記憶は意識のなかに残っている結び目で それが消えないうちに引き継ぐ それは会話のなかで前の話題にもどるときのように おなじやりかたでくりかえされることはない 中断したした時と環境がおなじに思えても ほんのすこしだけ間があれば 引き継いだときには ちがう方向がひらけるかもしれない

書かれた記憶 たとえば走り書きした楽譜なら どこか目につく箇所からまたはじめる 書いている途中でそこから離れて時間が経っていたら 再開したとき前後の脈絡が思い出せないかもしれない そのほうが辿る道筋が複雑になり おもしろくなることもありうるし それがすこしずつ書きすすめるやりかたの理由にもなる

書いたものを辿りなおす時 やりなおした箇所ではないところで 続いていたはずの線が途切れていると感じるかもしれない 感じが途切れると そこまでのまとまりは 断片のように置き去りになる

全体の枠を決めてからそのなかに音のかたまりを置いていくのと 置く音を集めてからそれらを並べて全体を作るのと二つのやり方がある まずうごきはじめ うごいた跡がかたちをなすのは そのどちらともちがう

すこしずつうごいては停まり やりなおしながら継いでいくのは どうなるかわからない遊びで 感じが途絶えるまで続けて おなじところからもう一度やってみると 似たはじまりをなぞりながら やがて逸れていく

音楽を即興し 作曲して ふりかえって考えて見る ふだんはしないことだが こんな時に 書くことがないから 過ぎた音楽について考えることになったりする 書いているうちに 意味をつけたり まだやってないその先まで書いてしまいかねない そうなると 書いた内容にしばられるだろう

まずうごき うごいた後に考える そのときに うごく前の状況が見えれば その前にさかのぼって 別な可能性をみつけることができるかもしれない すでにないものから まだないものへの可能性

意識していた前提は もうない音楽かもしれないし 音楽でない現実のなにかかもしれない その両方かもしれない 意識からも隠れたなにかかもしれない

音楽を即興し作曲することは ことばで言わないという選択かもしれない

何かを言わないのは 言わない何かを指す方法かもしれない