狂狗集 1の巻

管啓次郎

あ 朝が歩く明るい雨にぬれてゆく
い 犬の仔や虚空の徘徊永遠軌道
う ウランバートル街路の孤児の賭け莨
え エルザスとアルザスの間に吹雪く音韻
お 尾がしめす導き無くして救ひに至る

か 快哉也周回道路のメビウス環
き キラウエア喫水線のkill away
く 苦難の道だ茨の冠だ長い道だ
け 鶏飯に騒ぐ獣の稲荷信仰
こ 荒涼平原歩む勇気の合言葉

さ 砂金掘りに記憶預けて船出せよ
し 島々の意図縞の思想の布の糸
す 水木金ねむって過ごす自己セラピー
せ 清少納言?夢なき旅路の未知の美女
そ 想像域に猿を泳がせ川下り

た 楽しさは前世忘れる試練なり
ち チミチャンガ赤と緑の中間地帯
つ 追憶は草葉の陰の冗長性
て 提携します世界の眠りを乱すため
と 遠い海岸私の波には誰が乗る

な 泣く子らがザリガニむさぼる夏休み
に 人情も忍耐もなき庭作り
ぬ ヌメアで出会え不適な面の偽ゴーギャン
ね 熱帯で歌うハレルヤ念仏行
の 濃厚なショコラ一杯100マイル

は 俳諧と徘徊と諧謔と嗜虐
ひ 非人称先取りされたニルヴァーナ
ふ 不快指数を快に転じる心意気
へ ヘルシンキ地獄の口は犬に訊け
ほ 包囲光に魂さらす万聖節

ま 迷う勿れすべての迷路でおれが待つ
み 未開というも「開」に開なしこれで良し
む 無情と人情いずれの道も深情け
め 明解な満月狂気の鏡をひとつ割り
も 猛獣の心をきみが手なずけた

や やなこったパンナコッタが欲しいんだ
ゆ 夕方を崇めて千年夜を待ち
よ 妖術と魚の頭のせめぎ合い

ら 雷鳴に目覚し間際の紅楼夢
り リスボンや栄華の果てに鴎あり
る 流転せよ苔むす石ころ夜明けは近い
れ 連綿と写経のごとく文字を打つ
ろ ロックに死す墓場の宵の岩石譚

わ 忘れ草嚙んで舌を黒く染める

モスル解放作戦

さとうまき

モスルの解放作戦がはじまってから2か月以上がたつ。

ナナカリー病院は、モスルの中心部からは80㎞くらいは離れているアルビル市内にあるがん病院だ。モスルにもイブンアシール病院というガンを扱う病院があるが、いまだにIS(イスラム国)の支配下に置かれている。驚いたことに、ISに支配されていても、逃げずに残った医者は、子ども達に化学療法を行っていた。

モスル近郊の村は、イラク政府軍と、ペシュメルガと呼ばれるクルド自治政府軍、そしてアメリカを中心とした多国籍軍の攻撃で、ISが次々と撤退している。ISから解放されたのはいいが、今までイブンアシール病院に通っていた患者はもはや、ISには行けないから、イラク軍に連れられてナナカリー病院まで連れてこられる。ナナカリーの医者は、「モスルからの患者は、プロトコールを持ってきます。驚くべきことに、ちゃんと抗癌剤を使って治療をしていたようです。」

救急車で難民キャンプから連れてこられる患者さんもいて、病院は大混雑だ。モスルからの患者は全体の3割近くを占めている。当然薬が足らなくなる。外の薬局で薬を買わなければならない。数千円する薬ばかりだ。着の身着のままで逃げてきた人が、薬を買ってしまったらそれこそもう何も手には残らない。買った薬のレシートを持って患者の親たちに囲まれてしまう。

今日は大みそかだからちょっと奮発してある程度そういうお金を払って上げようと病院に出かけた。最後の日だからというので、患者であふれている。薬を処方してもらいに来るが残念ながら病院にない薬がおおい。

いかにもモスルから来たというお母さんが、直腸がんで、抗がん剤が効かず、手術をしなければならないので支援してほしいという。その費用が3000$。いきなりめげた。僕たちは子どもの支援しかしていないのでごめんなさいというしかない。

そして廊下を歩いていると、いかにもモスルから来たというおっさんが座っている。いかにも本当にモスル出身だとわかってしまうからつい声をかけてしまった。「3日前に、逃げてきたんですよ。息子が3人とも血友病なんです。薬を注射しないといけないんです。」
彼の村はまだ銃撃が続いている。イラク軍のいるところに逃げて保護され難民キャンプに収容されているそうだ。FECTOR 8という特殊な薬が必要なのだが、病院にはない。いや、正確にはあるのだが、すでにそれは今まで病院に通っている子の薬だから、回すわけにはいかないのだ。

親父と一緒に町中の薬局を探し回ったが結局手に入らなかった。
「モスル(IS支配下)では、薬は手に入ったのに! どうしたらいいんだ」
親父は涙を浮かべていた。
「心配しないでください。夕方になったらあく薬局があるから」といって夕方また薬局を探してみたが見当たらなかった。

結局大みそかなのに、一人の患者も支援できずに年を越してしまった。
米軍が、モスルの病院を誤爆したというニュースが入る。とうとう、イブン・アシール病院が壊されてしまった。まだモスルに残っているがんの子どもたちは一体どうすればいいのだろう。

そして、2017年が始まった。病院は1月2日から開く。さらにごったがえすだろう。

ジャワ神秘主義と卵

冨岡三智

明けましておめでとうございます。今年の酉年にちなんでニワトリ関係の話を1つ…ということで、卵の話。

タイトルにあるジャワ神秘主義というのは、ジャワ島に見られる土着信仰で、瞑想修行や霊力のある物(剣や石など)の収集などを通して超常力を身につけようとするものだ。私は実はジャワで霊的な力を持つ人に見てもらったことがあり、その際に卵を使うのである。

私が出会ったジャワ神秘主義指導者(以下、老師)は、ある舞踊家(以下、A氏)がその方面で師事する人だった。10年ほど前、A氏は自分の舞踊公演に老師を呼び、公演後に私にも紹介してくれた。当時、私には深刻な悩みはなかったが、この種の人たちがどうやって「見る」のかにずっと興味があったので、今度ある助成金に応募するのでアドバイスしてほしいという相談を持ちかけた。

その夜、老師はこれから水浴しようと言い出し、ソロかジョグジャ辺りの郊外のどこか分からない聖水の水源地へと私は連れていかれた。王宮関係の場所のようだ。かなり広い敷地で、門の中には満々と水をたたえたプールのようなものがあり、月明かりに照らされている。他に人はいない。老師と共に私はそこで水浴びをした。

それから私の家に向かう。老師に言われて、私は途中で開いている市場で生卵を1個買った。余談だが、これは2005年夏の出来事だった。卵の値段が高すぎると私が店の人に文句を言うと、「実はねえ、最近この村で鶏がバタバタ死んでしまって、いま卵はなかなか手に入らないのよ〜」という会話を交わしたのだ。2005年12月になってインドネシアで鳥インフルエンザの死者が出たと発表があったので、それより何か月も前から地方の鳥の間では流行していたことになる。

閑話休題。私の家に着くと、薄暗い電気の明かりの下、私と老師は差し向かいで床に座った。老師は祈りの言葉を口にしたあと慎重にその卵の先を爪で欠いていく。中から石が出てきた。ジャワの男性がはめている指輪に載っている石くらいの大きさだ。ジャワ人でも懐疑的な人は、薄暗い中でやるのがミソで、指の間に隠していた石をさも卵から出てきたように見せるのだと言うのだが、それでも目の前の光景に仕掛けがあるようには見えなかった。老師は、それをお守りにして絶えず身につけていなさいと言う。もし老師の力を呼ぶ必要があれば、石を右手(確か)に載せて祈りなさい、私に通じるから、とも言う。そして、私の相談ごとだが、私の書類にはまだ不備が多いのでもう一度初めから書き直しなさいと言う。もう少し詳しいアドバイスがあったがそれは秘密。ともかく、そのお陰だったかどうか知らないが、私は無事に助成金を獲得した。

私が老師にもらった石は緑色だった。私たちにずっと同行してくれたA氏の甥が後日語ったところによると、緑色の石はランクが高い、これが出てくるのは珍しいと羨ましがられた。彼も老師に何度か見てもらっているが、茶色い石ばかり出てくるそうだ。もらう人(私)のランクによるのか(笑)、相談内容によるのか、老師の手持ちが偶然緑色の石しかなかったのかは分からないが、この石を指輪にして身につけるのが良いらしい。私は指輪には加工せず、紙に包んで財布の中に入れていた。ところが、この石は私が助成金を得てインドネシアに再び戻った(2006年8月)早々に忽然と消えてしまった。このことをジャワ神秘主義に通じた人に話すと、石には「意志」があり、その使命を果たすと消えるのだと慰められた。

冬のほしぞら

璃葉

ことしは星座の観察をするために、しばしば街のそとへ出かけたが、ほんとうにうつくしい星空をみつけるのは、とてもむずかしいことなのだとあらためて実感する。

星空の観察に見合う場所。
それは、電灯や街の光がとどかず、空気が澄みきっていて、建物や木々が密集していない、空ぜんたいが見わたせるひらけた地。
意外とあるのでは、とおもうかもしれない。ところが、東京から気軽に足をのばしてそんな場所をみつけるのは、とてもたいへんなことなのだ。東京の街の光は、栃木県の山奥の夜空にまでとどく。山にかくされていると気づかないけれど、原っぱに出ると、低空あたりがオレンジ色にぼんやりと、不気味に光っている。
さらに、さいきん山の道や集落には、LED電球の外灯が立っているところが多い。
星をみて、さらに撮影するひとからすると、この刺すような光がいちばん厄介らしいのだった。撮影するときだけ電灯にダンボールなどをかぶせたりすればいいのだけれど、それもいろいろと難儀だから、やっぱりよい場所をさがすしかない。

夜空のなかでみつけるたびに気になってスケッチしているくじら座には、約332日の周期で明るさを変える脈動変光星ミラがある。いまはまだ真っ暗だけれど、そろそろ光りはじめるころなので、それもふくめてながめるのがたのしい。
くじら座は、ギリシャ神話のなかではアンドロメダ姫をさらう化け物として登場する。メドゥーサの首を突きつけられ石にされてしまい、そのまま空に迎えられ、星座になったという。低空に位置するうえに、ミラが暗いと目立たない星座なので、さえぎるものが多い街のなかや、明るい場所ではあまりみることができない。
いっそのこと、沖縄の離島に行ってしまおうか、と妄想するなか、ことしさいごの観察にでかけた。12月の新月の日。福島の、とある村に着く。山から雪が飛んできていて、霧が立ち込めている。
空は晴れていて、宝石のような星が散らばっている。天の川も、オリオン大星雲も、そして、くじら座もくっきりみえる。膝下まで積もるふかふかの雪のなかを、紙とペンを持って歩きまわる。自分の足音以外は、とても静かだ。星は、音が鳴りそうなくらい瞬いていた。たまに凍りつくような風が吹いてくるたびに、寒さで涙がでる。

星々はゆっくりと移動し、つよくかがやく金星が山の向こうに沈んでいく。
あしたもまたあらわれる金星を、わたしはどこでむかえるだろうか。
くじら座とそのまわりの星座を描き出しながら、想像する。

EPSON MFP image

146 黄鉄鉱――改稿

藤井貞和

紫式部さーん、
いくつになりましたか。
おれはあんたに仕える約束を、
ときにほったらかして、
ちがう哲学、
ちがう物語で、
すきまをかさねる毎日だ。
結果は、
見てのとおりさ。
黄鉄鉱という作品を書いたことがある。
紫式部さーん、
あんたはわたしをゆるす、
何を書いてもよい、
緑の石油は神々の排尿、
肥料の井戸に垂らす黄鉄鉱の粉末、
哲学は濡れる全身、
と書いても書いても、
おれはすべてをゆるされて、
立ち尽くすばかり。

(まったく反応をもらえない。でも、すこし炎を吹く肛門から磁鉄鉱までが転がり出てきた、なんて。内科にゆき、外科にもかよって、あんたの介護と、あんたからの介護とで、一〇〇〇年の歳げつがついに経ちました。かのじょはおれがなにを繰り返しても、なかばで忘れてきみの哲学に、物語に、と専心している。おいらは捨てられてつづく、誤解のままで、二〇一六年が暮れようとするみたい。)

仙台ネイティブのつぶやき(20)土に生きる人

西大立目祥子

 昨年秋遅く、大津波の被害を受けた仙台の沿岸部でお米と野菜の収穫祭が開かれ、会場に設けた農業相談コーナーで通訳をやることになった。でも外国人に仙台の米づくりを説明する、というのじゃない。回答者である地元農家、佐藤善男さんの仙台弁を相談にくる人にわかりやすく伝えるというのが仕事。「ヨシオさんの通訳だよ」というと、みんなフハハと笑った。
 
 善男さんにお会いしてみると別に通訳が必要でもなく、お餅を提供した会場の片隅に長テーブルを出しておしゃべりをしながら相談者を待った。これが案外と盛況なのである。中高年、少なくとも地方の人々はかなりの比率で、農によろこびを見出しているのは確かなようだ。

 一人目は70代と見受ける女性。「妹から畑預かってやり始めたんだけど、今年はジャガイモと大根植えたのね。来年も同じもの植えて連作障害みたいなのは出ないんですかね?」とおずおずと話す。ああ、大丈夫だねと答え、作付けのコツを話す善男さん。2人目のアスパラガスを植えたあとの植え付けについても、即座に回答。静かな口ぶりで話す横顔を感心しながらながめた。

 3人目は、掘り起こした赤ガラ芋(里芋)を持ってやってきた。根にはいくつもの里芋がくっついている。「来年に向けてどういう作業をしたらいいのか」という質問だ。「この芋をとって種芋にすればいい。藁を一つひとつにからめて土をかぶせるんだね。来年7月ころになると芽が3、4本が出てくるから、そうしたら肥料を一回かける。それまで肥料は入れないことだよ」と、これまた的確。

 いっしょにきた男性が、脇から「玉ネギ植え付けたいんだけど、急に寒くなってきて、いまからでも大丈夫ですかね」と聞いてきた。「11月中なら大丈夫。薄いビニールを張って20センチくらいの間隔で植え付ける。石灰窒素を入れてはだめだよ。玉ネギの苗はねえ、細いくらいのがいいんだ。太い茎のはすぐに花が咲いてしまうんだよ」とこれまた具体的なアドバイスに、質問の男性は熱心にメモをとっていた。

 話はつぎつぎといろんな野菜に広がる。「ナスは根もとにビニールかけてはだめ。ナスの根は浅いところに張るからね、ビニール張ると暑さにやられてしまうんだな」
「ジャガイモは畝の高いところに植える。そうして水は控えめにして、葉が少し黄色に見えるくらいでちょうどいい」
 話をききながら、ジャガイモは南米アンデス山脈が原産で、いつかテレビで標高の高い乾いた山々で農家の人が腰を折って種芋を植え付ける作業を見たのを思い出した。野菜が生まれたふるさとに思いをはせれば、育て方をイメージしやすいのかもしれない。来年もこの農業相談をやるなら私も少し勉強してきて、野菜の原産地の話をしたらもっと楽しくなるかな、と思いつく。
 
 何より、細部を詰めていくような具体的な話は、そばにいて何時間聞いていても飽きることがない。その経験にもとづく確かな自信に満ちた話に「篤農家」ということばが浮かんだ。昔は、研究熱心ですぐれた技術を持ち、まわりに先駆けて新たな品種を導入するような篤農家とよばれる農家が地域には一人二人必ずいたものだ。

 善男さんは、深沼という浜に生まれ育ち、先祖から受け継いだ田と畑を守ってきた。農業の先生は父親。父親の先生はそのまた父親。そうやってこの土地での農業技術をからだに刻み込み、蓄積し発展させてきた人なのだ。そして、自分なりの技術を磨く支えとなったのが「ノート」の存在だ。

 ここ何十年にもわたって、日誌のようなかたちで大学ノートに毎日の天候や作業の記録をつけてきたという。「たとえば1月1日なら、毎年毎年その日の記録を同じページに書く。何十年もたつと、暖かい年、寒い年、いろいろあっても、そのページを開けば今日は何をすべきかがわかるんだ」

 記録と実践と反省と。そのたゆまぬ繰り返しの中で得た深い納得を、まわりからは頑固者といわれようが善男さんは決して曲げることなく実践したきたのだと思う。だから、昭和61年の8月5日の大水害で宮城県内の多くの田畑が水没したときも、前日にじっくりと空を眺めてすべてのジャガイモを掘って災害をまぬがれたし、平成5年の大冷害で東北の太平洋側の米が大凶作となったときもさほどの被害は受けなかったという。

 その農業人生を支えてきたノートを、善男さんは大津波で失ってしまった。でも、こういうのだ。「全部、俺の頭に入ってっから大丈夫なんだよ」と。

 深沼は災害危険区域となり、家を再建してすむことはできなくなった。少し離れた地区に家を立て、善男さんは塩抜きした田んぼでの米づくりを再開し、毎日毎日育ち具合を見に通う。津波被害を受けたエリアでは、農業の法人化が活発になっている。
それを否定はしないけれど、新たな就農者も含めみんながやりやすいやり方で、技術を平準化する農業の中からは、善男さんのような一人黙々と土に向かい飛び抜けた技術を持つ農業者はきっとあらわれないだろう。

 そのこだわりの米づくりについては、また別の機会に。

グロッソラリー―ない ので ある―(27)

明智尚希

「1月1日:『いや恥ずかしいとこ見られちゃったな。俺のケータイ。古いまま。いや買い換えようとは思ってるんだけど、俺はアプリとかたぶん使わないからさあ。通話とメールができればそれで十分。でもやっぱり人に見られるとなんか恥ずかしい。お父さんとお母さんはスマホに変えたの? ああそう。周りもみんなそうなんだよな』」。

^_^)ロ———ロ(^_^ )℡♪

 たまに自虐的なことを言う。ブレーンが一人もいない。年々太っていく。専門用語だけは知っているが、内容は別。現場のことを熟知したつもりでいる。いかにも無神経そうな顔をしている。PCに向かってはいるが、必ずしも仕事をしているとは限らない。口だけは結構達者である。突然話しかけてくる。考えがすぐ変わる。そんな上司。

( ̄ー ̄*)qq(゚ー゚;)オツカレサマデース

「冥土の土産に」「先は長くない」。元気でありながらも、老人はきっかえさえあれば、そのような言辞を弄する。彼らと死は、実は似合っていない。生との付き合いがあまりにも長くなったため、死が霞んでしまっている。国に何かあれば、真っ先に死ぬのは若者のほうだ。死への婉曲的な言及は、老人自身に死を再認識させるための手段である。

(-(-д(-д(`д´)д-)д-)-) 突撃ぃ〜〜!

 同調圧力をかけてくる内観的で、ちょちょいのちょいな薔薇の乙女といえども、形は形なきものになり得るんじゃから、暴力装置を分解しなきゃ許さん。人生は匿名の人々から遠ざかっていったんじゃ。しかし人間はなんて美しいのじゃろう、人間である間は。綺麗ごとならそれでいいから、綺麗にやりたいだけなんじゃわさ。政府は安全じゃな。

( 。-x-)-x-)-x-) シーン・・・

「1月1日:『ケータイなあ。ああどうしようかなあ。結構悩むねこれ。俺が優柔不断なだけか。ははは。そこまで笑うことはないだろ。まあ確かに優柔不断ではある。これは認めるとして、さあどうするか。変えるべきか変えざるべきか。あ。なんかこんなのあったよな。何だっけ? 小学生にわかるはずないか。まあいいや。ははは』」。

(+Д+)エットアット・・・エット・・・ドウシヨー

 冷眼下瞰なわしではあるが、いかんせん薄志弱行であるがゆえに、酔生夢死の状態でありながら春風駘蕩とした人生を願ったが、秋霜烈日なのに波乱万丈な、そして不定愁訴のうちに終えそうじゃ。高邁雄渾な行動や累世決壊の一つもなく、天下御免の向こう傷もなく、高等批評もせず、ただいたずらに乱離骨灰。純粋観照の生涯。な〜んてな。

(^_^) な〜んちゃって

 博覧強記な人や『百科全書』はあれども、『人間辞典』や『世界言語辞典』を編んだ人はいない。唯一挑んだのはジョイスだろう。『ダブリナーズ』で人間の陋劣さや卑小さを細かく描きだし、『フィネガンズウェイク』では人間模様に加え数十カ国の言葉を取り入れ、片目を潰しながら完成させた。アイルランドと人間への嫌悪愛に満ちていた。

キラ━凸(≡д≡)━イ!!?

「もう充分だ」
「何がだ」
「充分であることが」
「……」

\(-___________-;)/ワーイ??

 病気や苦悩の種一つを持っていない人は、人生において損をしている。健康・健全であることは、人間のあるべきかつ望ましい姿だが、このイデアの純乎たる模倣品は、おのれを牽引する思想や哲学を欠いた、穏やかな機械である。人間の悲惨や人生の妙味を知らず別体である自覚もなく、摩擦もないまま既にして上首尾に末路を辿っている。

C= C= C= ┌(;・_・)┘トコトコ

「1月1日:『あやっぱりどうしようかなあ。今のままでもいいっちゃいいんだけど、みんな持ってるしなあ。俺も持ってたほうがいいのかなあ。どうしたもんかなあ。スマホに変えたとしても、すぐに新しいのが出るしなあ。買ったはいいけど、使うの結局メールと電話だけだったりしそうだもんなあ。いやー難問難問。まいったねこれは』」。

(-_-)ゞドウシヨウ

【ないないランキング】
第1位:電線で二度寝
第2位:病院祭り
第3位:美女と野獣と大五郎
第4位:通夜でちゃんこ鍋
第5位:完璧な野良猫ピラミッド

バタ ヾ(≧∇≦)〃ヾ(≧∇≦)〃バタ

 夜の満員電車、コントラバスのケースを抱えた小さな老人が乗ってきた。その際、ケースの一端がこちらのつま先に乗ったので、反射的に足を引っ込めた。乗り換え駅で下車した時、老人は腕と胸倉をつかんできた。曰く「なんで蹴った」。小さく惨めに痩せこけ、泣いたような表情。そんな風に落ちてもなお生きたいのだ。殴るのをやめにした。

パーンチ!(o゚Д゚)=======O三★)゚◇゚)

 まあしかしなんじゃな、人間の非力さをまざまざと感じる今日この頃じゃよ。愛、平和、時間、宇宙、人間じゃ解明や実現できないものの代表格じゃな。この四つを扱った幾千万の作品や言葉は、無情にも葬り去られたわけじゃ。きっとこれからも同じじゃろう。できないまま、わからないままにしとけ。わかりきった生活にはもう飽き飽きじゃ。

ワカラン(*-乂-*)ウーン。。。

 水商売の女性やゲイの男性には、慧眼の所有者が多い。おそらく、由々しき屈折、思い出したくもない曲折、何とでも呼べる類いの苦悩を通して、人間の暗部や裏の顔を知らずには済まされなかったのだろう。平素、彼らは明るく振る舞う。だがその神経的な眼は、視線は、見始めた瞬間から鑑識をしている。そしてその鑑識結果に外れは少ない。

・・・(-_-)ジィー

『この世界の片隅に』の想像力

若松恵子

じわじわと観客数を伸ばしているアニメ映画『この世界の片隅に』(監督・脚本片渕須直)を2016年のうちに見ておきたかったので、年の瀬の映画館にでかけた。

映画の冒頭、主人公すずの小学生の頃の想い出から始まる画面、幼かった主人公、のどかで平和な頃の広島の風景を眺めただけで何だか涙が出てきてしまった。夕暮れの海の色合いなのか、映画の底に流れている思いに触れたせいだったからなのだろうか。

映画は、2009年に「漫画アクション」に連載されたこうの史代の作品を原作にしている。昭和18年から21年の日本、18歳で広島から呉に嫁いだ主人公の生活を淡々と描く。戦前、戦中(広島の原爆投下も含む)戦後という時代のなかで、少女から大人になっていく主人公をゆっくりと描く。

単行本化された漫画のあとがきの言葉を私は重く受け止めたい。
「わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかもしれません。そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。(中略)この作品は解釈の一つにすぎません。ただ出会えたかれらの朗らかで穏やかな「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。」(こうの史代著『この世界の片隅に 下巻』(2009年4月 双葉社刊)

原作者も監督も、戦争を直接経験した世代ではない。しかし、「自分だったかもしれない」他者の生への尊敬と共感をもって想像力で描かれたこの作品にはうそが無い。

絵が上手で、でもそれが職業に結び付くなんて思いもしない時代に生きた主人公のすずは、こうの自身だったかもしれない「生」だったし、遊郭に売られたりんとすずの心が通い合う場面を見ると、すずがりんを自分だったもしれない「生」として心を寄せているようにも感じる(無意識であったかもしれないが)。

世代を受け継いで生まれてくる人間は、前の時代を生きた人間と無関係ではないし、同じ時代を生きている人間とも無関係ではない。時代や空間を越えて存在する「自分だったかもしれない無数の生」に共感しながらも、人はたまたま生まれた時代や境遇を懸命に生きるしかない。『この世界の片隅に』に描かれるのは、ヒーローではなく、戦争の時代にも関わらず「朗らか」で「穏やか」な「生」だ。時代や状況に踏みにじられるばかりではない人間の尊さというか、戦争でも踏みにじることができない人間のきらめきというものを感じて胸を打たれた。

そして、時代にも関わらず「穏やかに」生きられるためには、出会うものとか境遇だとかに必要以上の運命や物語を感じない事も大事なのではないかとも思った。すずは見初められて嫁ぐのだが、強い意志があったわけではない。見初められるきっかけとなるエピソードはあるが、夫になった人も、無理なことをしてしまったのではないかとずっと迷っている。ふとしたきっかけ、たまたまの出逢いであっても人はそこから絆を結んでいく。「あなたと出逢ったね」という関係になっていく。ヒーローや劇的出逢いの物語を見すぎて、ずっと誰かを待っているより、このすずの物語がいい。

都合よく時代や立場が入れ替わってしまう「君の名は。」とは違う想像力を、『この世界の片隅に』に感じた。戦争を直接体験した世代が居なくなってしまったとしても、こういう想像力があれば希望が持てるのではないかと思った。

製本かい摘みましては(125)

四釜裕子

年末は年に一度のデットストックダンボールの開封。2016年も捨てられなかったものに革漉き用エプロンがある。製本を習っていたころに作ったものだ。仕事帰りに通っていたので最初はふつうのエプロンを持参していたのだと思う。ある時期から革漉き作業が続くようになり、これがもう、いつまでたっても終わらなくて、苦手だったせいもあり袖口が屑で汚れるものだから、渋谷駅前の生地屋の地下で厚手の木綿地を買い、肩の部分のない袖を付けたエプロンを作ったのだった。そういえばと思い当時作っていたホームページを検索したら、あった、あった。「96秋冬エプロン」、〈割烹着のような形が理想的、でも割烹着ってのもなぁ。(略)全て直線裁ち、脇の下のところに袖をくっつけただけ。(略)今後のバージョンアップに期待〉だって……。バージョンアップは一度もせずになんと20年。

「東京製本倶楽部会報」74号(2016.12.7 編集・制作 渡辺和雄)には、会員の方が作った道具が紹介されていておもしろかった。まずは中野裕子さんのボルトとナットで作った六形柱形のおもり。きっかけはご主人が拾ってきたボルトとナットを手にしたときに〈その重さとかたちにビビッときた〉ことという。柔らかい生地でくるみ、ご自身の腕力に合うおもりを作って愛用しておられる。もうひとつは、中尾エイコさんの「ガリガリちゃん」。輪にした革に指を入れてパッセカルトンの支持体となる麻紐をほぐす道具で、ほぐす部分は〈ホームセンターで見つけた用途不明の商品を解体〉したものというから愉快だ。たくさんの生徒さんがいらっしゃるようで、〈なるべく体力を使わず、楽しく、失敗が少なく作業ができるように〉、道具や方法をさまざま改良されておられるそうだ。

山崎曜さんのアトリエにもお手製の奇妙な道具があっちこっちにあった。さまざまな用途を持った定規替わりの木片や商品化したかがり台はもちろんのこと、試作中のものや作ってみたけれど失敗だったというものもころがっていて、その話をうかがうだけでも抜群に面白かった。アイロンに金属ボールを合体させたようなもの、あれは未完成だったと思うけれど何に使おうとされていたのだったかな……。ずっと手伝っている和光大学附属梅根記念図書・情報館主催の製本講座でも、担当の方々の道具やだんどりのバージョンアップを楽しませてもらっている。ちょっとだけボンドを使う回のときにいつものボンド皿の底にきれいにカットした段ボールがひいてあったときは「何?」と思ったが、終わってみたらなるほど! 洗う手間いらずだ。こういうときの得意気な顔って、いいものです。

しもた屋之噺(180)

杉山洋一

今月半ば、日本から戻ってきたばかりの頃は、最低気温零下2度、最高気温2度という日々が続いていて、日中も水分をたっぷり吸った霧の帳が一面を覆いつくしていたのですが、ここに来てすっかり寒が緩んで、澄み切った青空とともに、10度12度という暖かさに驚くばかりです。
家人が息子を連れてリグリアへ出かけたので、日没後自転車を飛ばして一番近い魚屋へ惣菜を買いに出かけました。一番近くとは言え、拙宅から片道15分近くかかる、運河の船着き場広場の常設プレハブ魚屋。
クリスマスが終わったとは言え、人通りは普段に比べてずっと少なく、でも運河の周りはまばゆいばかりのクリスマスの電飾が果てしなく続き、クリスマス休暇で車の通行量がずっと減ったせいか、空気も澄んで夜空の星もよく見えます。
建ち並ぶアパート群の窓の灯りもまばらで濃い闇が一面に広がり、ミラノに居残っても、思わず夜のしじまに吸い込まれそうになります。

—-

 12月某日 仙台ホテル
「第九」練習終了。この作品で自分が何をしたいのか自問自答を繰返す。強弱やアーティキュレーションなど、使用する楽譜に則り細かく解釈を施すのに比べ、原典版であってもベートーヴェンの速度指定を厳守は、最初からあまり期待されていない。余りに無茶な速度指定だから仕方ないが、それでも運弓の指示など何らかの関連も見受けられなくはない。
速度を楽譜指定と変えれば、運弓は当然大幅に変更せざるを得ない。それらに関して目をつぶり、強弱やクレッシェンドを厳密に規定し、ここはスタッカート、レガートと固執するのも矛盾を感じる。何の疑念も持たず原典版を使用するのもどうかと、原典版を眺めつつ改めて思う。
楽譜のアーティキュレーションを解釈の中心に据えれば、楽譜の表面を中心とする演奏しか出来ない恐れもある。自然に湧き出た音楽が楽譜のアーティキュレーションをなぞって成立すれば理想的なのだろうが、音楽が未だ身体に消化されていない。

作曲者が望んだ演奏が理想だと誰が決めたのか。環境が全く違っても作曲者の時代の音の再生が理想なのか。作曲者が望んだ演奏は何故一種類に限定できるのか。オーケストラもそれぞれ伝統を培かっていて、例えば各オーケストラにそれぞれの「第九」の歴史もあり、まっさらの原典版で演奏すれば消去される表面上の問題でもない。堂々巡りを反芻しつつ、練習をすすめる。オーケストラはとても協力的で、先輩後輩の真摯な叱咤激励に深謝するのみ。
夜、駅近くの中華料理屋で注文を待っていると、スポーツ新聞を広げていた隣の男性が突然「俺は苦手だから」と沢庵を差し出してくれる。
インターネットでボリビアの新聞を読みつつニラレバ定食に舌鼓を打つ。コロンビアで燃料不足により墜落した日系パイロットの遺体が郷里に返還され、政府航空会社関係者一同が「パイロットは死せず。ただ高く飛んでゆくのみ」と書かれたシャツを着て迎えたとある。
軍神と呼ばれ往路分の燃料のみ積んで飛びたったどこかの戦闘機のようだと、少し涙ぐんだのは自分が困憊していたからか。ウルグアイの友人がボリビアはとても美しいが、経済は破綻し疲弊しきっていると話した。このフライトもボリビアを挙げて喧伝していて、国威発揚も兼ねていた辺りも似ている。

 12月某日 三軒茶屋自宅
「第九」演奏会終了。オーケストラとは室内楽のように対話できたし、独唱も合唱も音楽に伸びがあって素晴らしかった。11時半からのドレスリハーサル直前まで譜面を広げていたので、タクシーを拾う際指揮棒を紛失した。ホテルに電話し探して頂くが結局見つからず。自分の指揮棒は構わないが、ケースには都響で頂いたジャン・フルネさんが最後の演奏会で使った指揮棒が願かつぎで入れてあって、後悔先に立たず。
結局チェロの吉岡さんの短い鉛筆を借りてドレスリハーサルをやり、本番は横山さんが急遽買って下さった指揮棒でこなす。
東京で落着いて会えない人が楽屋に集い四方山話。帰りの新幹線のホームではニューヨークの三浦尚之さんにまでお会いする不思議が続いた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
早朝から家を出る直前まで、モーツァルト「アダージオとフーガ」を読む。充実した下属調域を辿る音楽は、平行調領域へ限りなく展開を続けるシューベルトに比べ、調性感は総体的に安定する。指向は違うけれども、ベートーヴェンもやはり下属調領域を極端に拡大し、調性感の重力を切崩そうとする印象があって、ナポリ調域でエネルギーを溜め込み、原調に和音が滑り込む瞬間に喜びを放出させる。「運命」4楽章前のティンパニのように、平行調から原調へ滑り込むこともあるが、ベートーヴェンの気質を鑑みれば、やはり下属調域のGerman Sixthで緊張を漲らせる箇所だと理解されるべきだろう。

シューベルトのように平行調領域で展開すると、全体構造全てを移行させるので、重力や緊張に影響をもたらさない。再現部を原調以外で始めるとき、ベートーヴェンとシューベルトでは、見せる顔色がまるで違う。尤もベートーヴェンの場合多くは疑似再現部となる。
何れにせよ、再現部を何事もなかったかのように移調したまま始めてしまうシューベルトの自然な流れとは一線を画し、原調に戻らない意義を強調するベートーヴェンの性向は、ブラームスへ受け繋がれてゆく。シューベルトの交響観を引継いだブルックナーが平行調で再現するとき、そこにシューベルトへの畏敬をはっきりと感じ、感動せずにはいられない。

モーツァルトをこれらの枠に嵌め込むのは、少し視点がずれている。特に後期のモーツァルトの転調にはそれぞれ違う顔があり色があり、風景が見える。下属調域の発展形ではあるが、ベートーヴェンのような堅牢な転調ではなく、巻物に書かれた風景を広げてゆくようシューベルトの手触りに近い。ただ下属調域と平行調域で同じことをしても、音楽の志向は根本的に違う。
平行調域の機能はトニックで指向性がないので、転調しても特に方向性も指向性も生じないが、どれだけ下属調域で徘徊しても、それらは常にドミナントかトニックへ収斂されるべき、無意識の方向性が生じる。よってモーツァルト晩年のどのゼクエンツも、美しさに目を奪われ時が止まった錯覚を覚えるけれど、指向性を失うことはない。
シューベルトのように、永遠を目の前にした安寧感はなく、蛍光を思わせる果敢なさに常にくるまれていて、あの悲しみはシューベルトにはない。二人とも苦しい晩年を過ごしたに違いないが、作曲者の環境など音楽の神髄に作用しない良い例かもしれない。

ところで、フーガのような対位法的書法を敢えて総体的に捉えると、稜線の向こうから見えてくる風景がある。和声が何拍ごとに変化するか考えるだけでも、音の指向性が明確になる。
リゲティのリハーサルのため渋谷から山手線に乗ると、目の前に西村先生が座っていらした。勢い、先日の「作曲家の個展」の話などに花が咲く。細部の定着にあたり、実際ピアノで音を鳴らし規則的な音の並列は極力避けるという話に納得する。従って、規則的機械的に音を並べた際生じる、構造の縁の尖り具合がなく、音楽は有機的に呼吸を続ける。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝、十七絃とエレクトロニクスの新作準備のため、有馬さんと沢井さん宅を訪ねた。蛇崩五差路裏の沢井さん宅まで、三軒茶屋からなら徒歩20分ほど。「クグヒ」の一部を録音するのは、沢井さんと有馬さんのための新曲のエレクトロニクスパートを試すため。
「クグヒ」を書いた頃、国風歌舞や久米歌のような古い日本音楽の、特に引延ばされた一見のっぺりした音の素朴な美しさに魅かれていた。折角の機会なので復元五絃琴や七絃琴の作品も断片的に録音してもらい、どんな風に音が拾えるか試してみる。どれも似たような曲で違いがなくて面白くないと思っていたが、有馬さん曰く、どれも全く違った音がするとのこと。

今十七絃の曲を聴き返すと、大分経って書いた復元七絃琴の作品と、見えない糸で繋がっているような不思議な発見が何度もあって興味深い。七絃琴の方は、中国の様々な伝統音楽を表面だけでも学んだ後で書いたので、寧ろ十七絃のフレーズが少し中国の伝統音楽に結びついて聴こえる。
録音終了後、中目黒のガード下で早めの昼食を摂り、有馬さんと連立って田端でリゲティのリハーサルへ出かける。有馬さんは、パーカッションの殆ど聴こえない楽器音を、どこまで聴こえさせるべきか精査する。ティッシュペーパーを勢いよく宙に投げたり、床を靴で擦ったり、スーツケースを撫ぜたり。
中目黒のとんかつ屋では、酔った客が金も払わず、ふてぶてしく管を巻いていて、店主が気の毒。

リゲティ・リハーサルで會田くんの音を聴き、すみれさんの音を思い出す。撥を振りかぶり音が鳴るまでの空気が似ている。従って結果として生み出される音の質感も似てくる。楽器奏者と歌手を合わせてみて、見えてくるもの。途切れていた会話や場面が、一気につながり、それまで平面的ですらあった場面場面が、立体的になってくる。

そういう空気に敏感な道元君が先頭を切り、演奏家も率先して劇に参加してくれるようになる。全体が有機的になり、同時に楽器音は歌手の言葉と同等の意味を帯びてきた。整理されたイヴェントの羅列から、次第にリゲティらしい混迷度も一気に増して、すっかり土臭くなってきた。楽器で音を演じる意味を奏者が認識すると、途端に奏者もそれぞれの音に実感が湧いてくる。大岡さんと二人で、未だ行き場のなかった声なき言葉を、互いに繋げてゆく。すると自然に、歌手と楽器奏者の諍いの構図が出来上がった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝自転車を飛ばして渋谷のトップでトーストを喰らい、そのまま千駄ヶ谷まで走り二期会で「魔笛」打合せ。思いがけず新海くんに再会。相変わらず元気そうだ。

夜は溝の口でリゲティ・リハーサル。三軒茶屋から246をそのまま下り40分ほどで会場に着く。電車に乗るよりむしろ早い。新垣君に会うのは二年ぶり。一昨年の暮「冬の劇場」の4人で渋谷のトップに集って以来。
曲中バリトンの青山君がカデンツァの中で混乱を来し、大声上げて新垣君を脅迫する指示がある。チェンバロの前の新垣君はそれを物ともせず、ポカンと口を開け飄々と和音で答え、一同爆笑が沸き起こる。愉快なリハーサル。
演奏家がこれだけ自然に初めから歌手と絡めるのは、橋本君が8月以来丁寧に準備を重ねて下さったお陰。彼がいなければ、今回の演奏は実現しなかった。少なくとも、今回自分の采配で一番の自慢は、橋本君に副指揮をお願いしたことだ。
佐藤くんはゴーレム登場を盛んにスマホで撮影してくれて聴衆を喜ばせてくれたし、演奏家と歌手の決闘の火蓋は山澤君が見事に切って落としてくれた。
猪俣君の遠くから聴こえるホルンは、歌手たちの拠り所であり、不安に駆らせる切欠にもなっている。歌手と猪俣君のやり取りは、リゲティのリブレットでも特に重要なポイントになっている。
最初の練習から最後の練習まで、ピアノの弦を嬉々として革手袋で叩きつける中川さん、そのピアノに顔を突っ込み弦を撫ぜる新垣君の姿に、大学時代に戻った錯覚を覚えた。
目の前で新聞紙を破くと女性歌手2人に突飛ばされ足蹴にされ、ほうほうの体で逃げ惑う羽目に陥いる會田君の膝は、青く痣だらけになっていた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
上野昭和通りの焼肉屋で、昼弁当を購う。店先に七輪を置いて肉を焼き、タレをくぐらせたものをご飯に載せ、スープ付で800円。大変美味。

初めて本番と同じ舞台の寸法で立稽古。大岡さんの演出の充実度が一気に深まる。
ただ演奏するのではなく、有機的に作用させるメカニズムを場面毎に規定することから意味が生まれる。事象の平面的羅列から、時間軸の方向性を内包するダダ歌劇として成立を始める。ダダ歌劇として展開し始めると、どこがダダ的風景の転換点かが明瞭となる。詳らかになることでダダ的方向性とダダ的性格が生まれる。

小学生の終わり頃、ダダとシュールレアリスムが大好きで、貰ってきた茶トラの猫に「ダダ」と名付けた。ダダが来る前から家には「ダンディ」と「レディ」というヨークシャテリアの番いがいたが、仔犬は産まれなかった。ところが、ダダがやってきた途端レディは乳を出すようになり、ダダを自らの乳で育てた。当然ダダは犬風猫として成長した。かかるダダ的ペットを飼いつつ、当時は澁澤やら種村やら「たたかう音楽」やら「水牛通信」を読耽っていた。中学生の頃、父の写植台を使って印画紙に即興的に打ったダダ詩は、今思い出しても悪くない出来だった筈だが、いつの間にか紛失してしまった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝トップでサーディン・トーストを頼み、マンデリンとブラジルの豆を詰めて貰う。今日のリゲティの本番の際、受付で父に渡して貰おうと思っている。
8月から今まで掛かったリゲティの練習は思い出深い時間の連続だった。無人劇場の皆さんは、まず歌手3人の分身の姿を見事に描いて下さった。それを客観的に眺めることで、歌手3人はそれぞれの役により磨きをかけて下さった。
松井さんはより上品で澄んだ声になったし、新アヴァンチュールでの妄言にも幅が生まれた。
澤村さんは練習の度に圧倒的な存在感で、作品を咀嚼する本当の意味を教えて頂いた気がする。
青山君は、実は従弟に顔と雰囲気が良く似ていて、とても親近感があった。今回の演奏は、当初から聴衆が腹を抱えて笑えるような内容にしたいと思っていて、喜劇らしいエッセンスを舞台上に振り撒いてくれたのは、彼だった。
大井町の練習場で初めて見た時、まだ顔のないゴンタ君のようだった小原さんのゴーレムが、少しずつ成長して一人前になるまでを、皆が家族のように見守り続けたのも印象に残る。
リゲティのリブレットに現れる、奇怪な分身役の部分が最後までぽっかり開いていたけれど、市川さんたちのダンスが入った瞬間、将棋で最後に一気に積んでゆくように、全てが充足してゆくのを感じた。

富永さんの衣装も加治さんの照明も、リゲティの原案に忠実であろうとする大岡さんの姿勢と寸分の狂いもなかった。
何より、これだけ演出家と互いに無神経なほど互いの領域に足を踏み込みながら、実に気持ちよく最後まで仕事ができたのは、大岡淳さんと自分が明らかに同じものを見ていたからに違いない。この演奏会に誘って下さった福井さん、渡辺君、徳永君に感謝するのみ。そして、竹田さんたち事務局の皆さんに深謝。
会場で温かく見守って下さった末吉先生は、大学時代に何度となく問題を起こしては、新垣君と雁首揃えて学長室に叱られに参上した時の事を思い出されていたかも知れない。今にして思えば、すっかりのんびりした時代だった。

 12月某日 ミラノ自宅
朝、作曲のフェデリコ・ガルデッラとマジェンタ通りの「マルケージ」で、立飲みのカップチーノに菓子パンを頬張り話しこむ。フェデリコは和声を教えるのが好きだと言う。音と音の間に生まれる緊張と弛緩を教えるのが楽しいそうだ。

彼曰く、ルネッサンス以前の宗教曲には、緊張がなく感情の表象もない。従って音楽には方向性もない。当時宗教曲は神のために作曲していて、ミサに参列する市民の代弁者ではなかった。時間感覚を失ったような作品が書かれたのは、天上の時間に捧げられていたからだと言う。
確かにゴシック教会は、神に近づこうとして屋根を細く天高く聳え立たせるようになり、ルネッサンス期に一気に調和のとれた形態に変化した。それに等しく「再生」を意味するルネッサンスで人間性回帰が叫ばれ、教会でも演奏家や聴き手の心を穿ち、我々の心情を代弁する人間性に即した音楽が求められるようになった。

悠治さんに勧められて一気に読んだ「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」の激動の変革期を思い出すが、興味深いのは、本来キリスト教と拮抗する筈のルクレティウスの思考は、ルネッサンス以降現在に至るまで、イタリア人の宗教観に巧く溶けこんでいることだ。熱心な信者と話していても、無から有は生まれない、とまことしやかに話しているのを聞いて、初めは驚いたものだった。
イタリア人の現実志向は、民族的性向だとばかり思っていたが、案外ルネッサンス期に融合した、別の世界観だったのかも知れない。マキャベルリがルクレティウスを写本していたと読んで、妙に納得する。

 12月某日 ミラノ自宅
Sがレッスンにシューベルトのイタリア風序曲を持ってきた。1月にオーケストラとリハーサルがあるらしい。シューベルトがイタリア音楽にどれだけ憧憬を抱いていたとしても、イタリア音楽ではない。偽終止一つ一つにシューベルトを感じ、慈愛を感じつつ伴奏をなぞる。

別の教師はイタリア風に演奏すべきだと言ったらしく、Sを混乱させてしまって申し訳なかったが、メンデルスゾーンの「イタリア」やリストの「ヴェネチアとナポリ」、果てはチャイコフキの「フィレンツェの思い出」をイタリア風に演奏するのは無理だろう。況や「トゥーランドット」を北京風に、「蝶々夫人」を長崎風アメリカ海兵隊風に演奏したらどうなるか。プッチーニは「西部の娘」の最後の場面で、メトロポリタンの初演舞台に本物の馬を使ったそうだから、「蝶々夫人」にお三味線やらお琴やら入っていたら案外喜んだかも知れない。

「蝶々夫人」初演版に登場する従妹の息子という珍しい役どころで愚息が出演しているので、劇場に出かける。美しい音楽で、素晴らしいオペラであることは承知しているが、この物語が日伊国交樹立150周年に相応しいかと言われると内心正直穏やかではない。
どうも戦後のパンパンだとか、米軍基地周辺の花街やら連想してしまった挙句、主人公が自死に追込まれるのは理不尽だと憤りまで覚える傍らで、息子の一言「これはオペラなんだから。それもプッチーニだよ、プッチーニ!」。愚息よ、嗚呼天晴れ。

 12月某日 ミラノ自宅
階下で息子がミクロコスモス5巻の「バグパイプ」を練習している。バルトークが演奏する録音は、微妙にルバートして揺らいだ演奏。トランシルヴァニアのバグパイプ音楽には、よく似た旋律や音形が散見される。バルトークが5連符で記譜した箇所は、本来リズムも不安定なヴィブラートだった。その部分をバルトーク自身声を震わせるように弾く。本来の伝統音楽に則った演奏を意図していたことがわかる。かかる微妙な音楽の揺らぎを、精確に記譜し演奏して、原曲の瑞々しさは生まれない。細かく書く程に生気を失う。詳細に規定される程に、演奏家の出す音はブロイラーの卵のようになってゆく。

指揮でも同じで、複雑な音を振るとき、分割すればする程、演奏家の刻みは合うかもしれないが、機械的でフレーズのない音になる。逆に演奏家に自由を与えすぎると、アナーキズムの社会と同じで、それぞれは自由かも知れないが、巨視的に見れば単なる混乱、エントロピー状態に陥る。
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」。

朝四時居間で仕事をしていると、どしんと大きな音がして、屋根から庭に誰かが飛降りた。見ればルーマニアかアルバニアか東欧風の若者が悠々と庭を歩いている。「泥棒」と声を上げても動じず、相変らず冷静沈着なまま向いの路地へ出て行くものだから、妙に感心しながら後姿を見送る。
家には相変わらず小さなトカゲが住み着いていて、カサカサと紙袋の音を立ててみたり、時々地階をペタペタ歩いている。

クリスマスの風物詩はザンポーニャというバグパイプ吹き。この時期、山からザンポーニャ吹きが降りてくる。夜、フラッティーニ広場のスーパーマーケットの入口で、小さな皿を前に老人が佇む。身なりは余り整っていない。2メートルくらい前には旧い乳母車を改造した手押し車が無造作に置いてあって、スピーカーが載っている。無数のサンタクロース人形が貼付けてあり、賑々しさよりおどろおどろしさが際立つ。クリスマスも過ぎ人影もすっかり疎らで、スピーカーから流れるザンポーニャばかり虚しく広場に響く。

(12月30日ミラノにて)

走る犬、うずくまる人。(2)

植松眞人

 岐阜羽島に降り立ったときに僕が心に決めていたことは、時間がかかってもちゃんと大阪に行こうということだった。仕事を途中で投げ出して岐阜羽島に降り立ったわけでも、何かに絶望していたわけでもない。ただ、のどが渇いてお茶を買いにホームに降りたら成り行きでこういうことになっただけで、達観を経てこうなったわけではない、ということはいま岐阜羽島の駅前のロータリーで青白い水銀灯に照らされて、寂しそうにも、気楽そうにも見えるだろう僕をきっとどこかで見守っている八百万の神様たちに伝えておきたいと思う。
 神様を思うという気持ちはそれほど長続きはしなかったのだが、神様を思うのよ、とことあるごとに教えてくれた祖父母の存在をふいに思い出して、それはそれで十一月の寒空の下で少しは温かな気持ちにはなる出来事であり、岐阜羽島という新幹線の通過駅としてしか認識していなかった土地を、改めていま僕がいる場所なのだと突きつけられているようでもあった。
 それで僕は立ち上がり、さっきよれっとした犬が歩いて行った方へと歩き出した。よれっと犬は、別によたよたと歩いて行ったわけではなく、ときどき身体の中心を見失ったようにふいに左右に揺れるのであり、その具合がどこかで中心の狂った自転車の車輪のようでもあって、それなら随時よれよれしてくれていれば、よたよたでいいのだけれど、まっすぐに歩いているように見える時間がそれなりにあって、しゃくるように一定のリズムではなくよれるムードが、やはりどう見てもよたよた歩きではなく、よれっとした犬なのだった。
 僕はよれっとした犬について歩き始めたのだが、すぐに車道は等間隔に設置された街灯だけになり、その街灯も車のためのものだからか間隔がとても広くてしばらく暗い中を歩くと、すっと明るくなるというふうで、言い換えれば、暗い車道をまっすぐに見つめると、点々と光のステーションが連なっているようにも見える。見えるのだけれど、寒い夜風の下ではどうしようもないほどに光のステーションも貧弱で、古いSF映画を見ているように粒子が粗く浮き出している。
 よれっとした犬が、そんな光の中に浮かび、すっと消えていき、またふっと浮かぶ。僕はおそらく同じようにすっと消えて、ふっと浮かびながらよれっとした犬を追っていく。僕とよれっとした犬は、同じような速度で歩く。というよりも、僕がよれっとした犬においていかれないように少し早足で歩いている。よれっとした犬はよれっとした外観によらずそれなりに精悍に歩いていく。僕は犬の精悍を思う。おそらくいろんな犬の雑種なのだろう。中型くらいのサイズで、毛足が少しだけ長く、かといって全体のイメージは洋犬ではなく昔ながらの日本の犬の雰囲気と言えばいいのか。いかにも日本人と言った体型なのに、髪の毛だけがくるくるとカールして、しかもちょっと茶色がかった、ハーフなのに日本人のお父さんのほうに似ちゃったのね、と言われる感じと言えばいいのか。なんだかアンバランスな感じがよれっとした犬の魅力だ。よれっとはしていても、それなりに精悍に見えるのは、彼がまだ若いからだろう。年老いてよれっとしているのではなく、かつて事故に遭ったのか、もしかしたら生まれつきの不虞なのか、どちらにしてもその動きの奥底、体幹のような部分にまだ彼の身体を上回る力があり、黙っていても身体を前に進めている。僕はと言えば、長年の不摂生と仕事への意欲のなさ、そして、馬鹿は馬鹿なりに寄り添って仕事をしてきた仲間との別れなどが重なってしまったことが気力のようなものを静かに奪っていったのだろうか、いまよれっとした犬よりも精気を欠き、まだ小一時間ほど歩いただけで息が上がり始めているのだった。
 そんな僕を見透かしたかのように、光のステーションと光のステーションの間に現れた別の光の塊、よく見るとそれは自動販売機が五台ほど置かれた場所で、その自動販売機の発する光のなかで、よれっとした犬は立ち止まり、捨て置かれていた段ボールの上に一度腹ばいになってこちらを見ているのだった。
 僕は少し遅れてその光の中に入り、小銭を出してあたたかい缶コーヒーを買い、飲む前に両手で包み込んで暖を取る。それから犬に水を買ってやり、鼻先のコンクリートの上に少し垂れ流してやる。すると犬は水がコンクリートにしみこんでしまう前にと、ぺろぺろと忙しく舌を動かしてのどを潤している。もう一度、水をやろうとペットボトルを傾けると、今度は水が垂れる前に、ペットボトルの口に直接口を持ってきて、ぺろぺろとなめ始める。僕はいっぺんに水が出てしまわないように、ゆっくりと水を流し込んでやる。
 何度かそんなことを繰り返していると、もういいです、というふうにさっきまでよれっとしていた犬が、なんだかきっぱりと言った気がしたので手を止める。そして、この犬に名前をつけようと思い立ったのである。どこまで歩くのかわからないのだけれど、このまま一緒に行くのなら名前があったほうがいいのではないかと思ったのだが、同時に名前なんてないほうが十一月の寒空の岐阜羽島には似合うような気もして、僕はしばらく迷ったあとに『ポチはどうだろう』と思ったのだった。幼稚園の頃、近所にポチという犬がいて、仲良く一緒に遊んでいたのだが、ある日、ポチに追いかけられてしまい、それから犬が大の苦手になったのだった。それなのに気がつけば、いま僕はこの犬の後をずっと歩いていて、こうして水までやって名前までつけようとしている。それなら、ポチでいいじゃないかと僕は思ったのだった。そして、さっき知り合ったばかりの犬にポチと名付けた瞬間に、幼稚園の頃に僕を追いかけたポチは、きっと僕と遊んでいるつもりだったのだなと気付くのだった。
 ポチ、と小さな声で呼ぶと、よれっとした犬は迷惑そうにこちらを向き、腹ばいになっていた段ボールの上で、はいそれでかまいませんよ、というふうにすくっと立ち上がり、よれっとした犬からポチになったのだった。(続く)

十二月

仲宗根浩

県の中学校総合文化祭というのにうちのお嬢さんが三線の大合奏に出演する、というので朝、六時に起床、七時に出発し八時に集合場所まで車で送ると三十分くらい早く着く。適当に時間をつぶし開演しょっぱなの出番前までに会場の席につくとすぐ睡魔に襲われるがなんとか我慢し三曲を聴きながら写真を何枚か撮るが、画像はウォーリーを探せ状態で制服の微妙な違いでやっとわかる程度。演奏が終わり解散のとき、弁当代として現金支給があとあとあるという。中一でギャラ、すげぇ。
帰りの車の中でホームルームでやった今のテストの成績と内申でどの高校に合格できるか進路に関することをやった話をいろいろ聞く。今は内申もポイント制になっているらしい。例えば生徒会長なら何点、外部のなんらかのコンクールで賞を取れば何点などなど。帰りに昼ごはんはお嬢さんが行きたい、というお店の沖縄そばをふたりで食べる。

仕事終わり帰宅、シャワーを浴びたあとだらだらテレビを見ているとオスプレイ着水のニュース。最初は津堅島沖、そのあと伊計島、浜比嘉島沖と情報が変わり、結果名護の東海岸沖だった。翌日のテレビは墜落、不時着、着水とさまざま。まあ派手に壊れたことには変わりない。十一月に佐賀で配備したいオスプレイを実際に一機飛ばしてみてどれくらいの騒音か等々試験飛行をやったニュースを見たが通常訓練で一機だけなはずはなく二機飛ばせよ、と思った。佐賀は北に原発、南にオスプレイ。使う部隊が佐世保にあるのであれば長崎空港でも距離的にはそんなに変わらないが、なんで佐賀なんだろう。
横田基地には空軍のオスプレイCV-22が配備される。それを使う部隊は沖縄の嘉手納基地。どこで訓練するのだろう。特殊部隊なので事故率は輸送機のMV-22に比べて断然高い。

和解したあと、訴えられ裁判で負けると、ずっと前に使っていた「シュクシュクと」というより強力なアイテムを「サイバンショ」からもらうと「ホウチコッカ」という武器を手に入れる。これを連発するだろう。「ホウチコッカ」といっても「ホウリツ」がポンコツだったらどうしようもない。「和解の力」は同等では無くどちらかが優位に立つことだと。

生まれるとき

西荻なな

雑踏のなかに立ちすくむ
悲しみのなかにある人に
かける言葉を探すうち
断たれたひとつのつながりを思う

ハイヤー、ハイヤー、ハヤハヤ

移ろいゆく時のなかに
確かなものを見るならば
別れの形がなんであれ
それは信じていいのだろうか

埋まらない空隙を
幾多の声と音とが埋めてゆく
と思ったのはつかの間、
無音の真空をそのなかに見る

ハイヤー、ハイヤー、ハヤハヤ

賑やかさに無が立ち上がるなら
いっそ目指して進めばいい
わかることに至らずとも
溶けあうことがないのでも
光れるものが
生まれるか

申年の失敗

高橋悠治

去った申年もまた いくつかの失敗をかさねて終わった

もともと1960年代に草月アートセンターで 前衛の作曲家として出発したはずが 
求められるのは他の作曲家の曲の初演で それらはほとんど終演を兼ねていた 9年間ヨーロッパに行きアメリカに行ったが おなじことだった 現代音楽専門の演奏家はどこでもすくなく しごとは多く 生活は貧しかった それらのしごとも ベトナム戦争の末期には外国人にはまわってこなくなったので 東京にもどって やりなおし しかたなくバッハを弾いていた

そう思っていたが 最近出版された柴田南雄の『音楽界の手帳』を見ると 1970年代には オーケストラもコーラスも使って作品を書き ピアノもクセナキス ケージだけでなく ジェフスキーもアイスラーも弾いていた

いまはケージやクセナキスを演奏する人も多いし 分析されて研究書もあり アカデミーでも教えられている その頃なじんでいた「現代音楽」をたまに聞きなおすと なぜこんなものに惹かれていたのか と思うことさえある 音楽が変わったのか こちらが変わったのか 両方か ユーモアのかけらもなく 無用に複雑で 極端な対照効果と超絶技巧を見せびらかす音楽 個性を売り物にしてくりかえし 単調になってしまった響き 作曲家にとって技術的安定や熟練だけでなく 社会的地位と経済の安定は いい結果にならない ケージやクセナキスや武満も 理解者がすくなく 生活もたいへんだった初期の作品は いまも新鮮な発見で輝いている

しごとを減らし 収入を低く抑え ひとの先に立たなければ 時間もともだちもできる(老子67章) 現実は思いのままにはいかないが そのたびに決めなおし 折り合いをつける 原則はもたず いやなことはしないで済めば それでいいとしなければなるまい

マーケットでまず成功してから 獲得した地位や権力と機会を使って本来のしごとができると思うのはまちがいだと思う 成功した後では「本来」が何だったのかわからなくなっているかもしれないし 作られた「自分」を演じつづけなければ マーケットから見捨てられる

成功がじつは失敗である もうひとつの理由は あまり働くと むだな収入が増えるばかりか 税金にとられ 健康保険が高くなり 年金が減る こんな国のこんな政府が使うための税金は払わないで といっても 脱税するために時間と労力をかけるのもおろかだから わずかな収入は銀行に預金するより 現金のまま 早く使ってしまうのがいいかもしれない 狭い家をガラクタで塞ぐ買い物ではなく ともだちと飲んでしまうのがいいが 残念なことに 体力が衰えている

ふと気づくと 17世紀のパーセルやルイとフランソワのクープラン フローベルガー 18世紀のバッハ 19世紀のシューベルト 20世紀前半のブゾーニ サティ ストラヴィンスキー アイスラーくらいしか弾きたいものがなくなっていた 現在形の音楽を演奏していたのに いつからこうなったのだろう このままではしかたがない

1960年代の前衛をその頃にいなかった人たちが研究するのはいいとして こちらとしては 自分の過去を振り返っても何も出てこない では 2010年代の音楽はどこにあるのだろう 若い世代の作曲家をざっと見ても 使い古されたノイズと空虚な大音響 顔のない電子音 ポストなんとか ニューかんとか 日本では それに加えて時代遅れのTVのような 批判のない 体制寄りで大声の空虚なお笑い音楽 政治家同様に音楽家も自分から鎖にすりよるポチが多い時代なのか(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷属論』)それとも どうしようもなくなってから やっと変革が起こるのか まだ知られていないこの時代の音楽が どこかに隠れているのだろうか 

こどもの頃 ケージやロスラヴェッツやクセナキスは名前でしかなかった 易のよる音楽も合成和音も確率による音楽も知ったのはずっと後になる だが 知りたくても情報がないのなら 自分で作るよりない 易や合成和音も確率音楽も自分で考えだしたやりかたで書いてみた ユイスマンスの『さかしま』のなかで デゼッサントが収集したアートに囲まれて暮らし 手に入らないアート作品はそれらしいものを自分で作った と読んで それに倣ったわけだが 後になって『さかしま』を読んだら そんなことは書いてなかった 『さかしま』のことは セシル・グレイのブゾーニ論(大田黒元雄訳『現代音楽概観』)で読んだはずだが かなり後でブゾーニを弾くようになると それも記憶ちがいだったのかもしれないと思う 楽譜が手に入るようになってから ケージ ロスラヴェッツ クセナキスの作品を見ると 想像していたのとはまったくちがっていた こうして模倣者ではなく むしろニセモノ造り オリジナルとはまったくにていない サルにもなれないサル ニセモノとも言えないニセモノ造り として出発したのだから 音楽の現在も自分で偽造するよりないのだろうか 

ここで 読んだことのない小説からの引用で 一応しめくくろう
「私は何一つ創造することができなかった。しかし、モデルを相手に、こんなポーズを取ってくれ、こんな表情をしてくれと注文する画家のように、私は現実の前に立っている。だから、社会が私に提供してくれるモデルは、それが何によって動かされるかがわかれば、私の意のままに動かすことができる。少くとも遅疑逡巡しているモデルにある問題を提出することができる。モデルは彼らなりにそれを解決するだろうから、彼らの反応の仕方によって得るところがあるはずだ。自分が小説家なればこそ、彼らの運命に介入したり働きかけたりしたい欲求に悩まされるのだ。もし私にもっと想像力があれば、複雑な筋を仕組むことだろう。どころが、私はそういうやり方に反旗をひるがえし、まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進めるのだ。」(ジイド『贋金つくり』)