アジアのごはん(84)ペナン島の食堂ライン・クリアー

森下ヒバリ

マレーシアのペナンにお気に入りのナシ・カンダール食堂がある。その店の名前はライン・クリアー(LINE CLEAR)。インド系がやっている地元民に人気の食堂だ。

ペナンの古い家並みを眺める散歩して2時前にお昼ごはんにやってきた。昼時の混雑を避けたつもりだったが、入り口には 13:00~14:00は休憩 と書いてある垂れ幕がかかっていた。あれ、この店は24時間営業じゃなかったっけ? しかもお昼時になぜ休む?

すこしぶらぶらして戻ってきたが、まだ開いていない。中をのぞくと、インド系の人だけでなくマレー系のたくさんの客がテーブルに座って待っていた。15分ぐらい遅れて、店のスタッフが位置に着いた。もう長蛇の列だ。

この店では、カレーが鍋やトレイに何種類も置いてあるコーナーに自分で行って、係りの人にごはんをよそってもらい、好きなカレーや野菜を選んでご飯の上にかけてもらうシステム。皿を受け取ったらその端っこの係りのおじさんに皿を見てもらって値段を紙に書いてもらう。代金は帰りに払う。

空いた席に座ると、飲み物係が注文を聞きに来る。ここのテ・タレ(ミルク紅茶)は、インドの味がするので好きだ。砂糖ちょっぴり、と注文したがめちゃくちゃ甘かった‥。

カレーコーナーに置いてある大きな魚の頭は、注文するともう一度鍋に入れてカレーソースに戻して温めてくれる。南インドとマレーシアの名物、フィッシュヘッドカレーである。大きくて、4人分ぐらいある。二人では頼みにくい。ぜいたくは敵、がモットーな相方とでは永遠に食べることはできない‥いつか食べてやるぞ。マレー系の家族連れがフィッシュヘッドカレーをつついているのを横目で見ながら、ひそかに誓う。

今日は、甲イカの白子のカレー煮ともやしの和え物にしよう。オクラの茹でたのもおいしいから追加。係りのおじさんが、グレービーソースは要らないのか? とすすめるので、ついオクラのカレーもご飯の上に載せてもらい、なかなか豪華なカレープレートになった。魚の切り身を揚げたのも美味しいんだけど、もう食べられない。これで7リンギ(200円)ぐらい。

夕方、チュリア通りの端っこにあるひなびたコピ・ティアム(中華茶室)でまったりギネスを飲んでいたら、店の前をライン・クリアーのインド系スタッフが何人も通って行く。店は割と近いけど、なぜだろう? ちょっと仲良くなったマネージャーのダンディなおじさんが手を挙げてにっこりしてくれた。ああ、モスクに夕方のお祈りに行ってたんだな、と気が付いた。

なるほど、1時から2時まで店が閉まっていたのも、お昼のお祈りタイムだったのだ。まだインドがパキスタン(イスラム教)と別れる前にこの地にゴム農園労働者としてやって来たインド人たちはイスラム教徒もヒンドゥー教徒もいて、彼らの末裔たるペナンのインド系住民たちも、この小さな島のインド人社会でもやはりイスラム教徒とヒンドゥー教徒がいるのだ。チュリア通りにはイスラムのモスクが幾つもあるし、リトルインディアと呼ばれる地域には立派なヒンドゥー寺院がある。

そしてライン・クリアーはイスラム系の店ということだ。そういえば店にはマレー系の住民がたくさん食べに来ていたのも、それで納得だ。通常、インド系の食堂にはインド系住民が、マレー系の食堂にはマレー系住民が、中華系の食堂には中華系住民が食べに行くので、ちょっと違和感を持ったのだが、同じムスリムなら問題ないわけだ。

インド系はイスラム教かヒンドゥー教で、マレー系はイスラム教、中華系は儒教かキリスト教、先住民族は精霊信仰かキリスト教が信仰されている。イスラム教徒が豚肉を食べない、酒を飲まないのは有名だが、どの宗教にもいろいろ食べ物のタブーはある。同じ宗教の人間が経営する食堂に行くのが安全だし、理にかなっている。

後日、ちょっと調べてみたら、いわゆるナシ・カンダール食堂というのは、純粋インド食堂とは違って、インド系ムスリムによるマレー食堂、ということだった。その経営者の多くがマレー人と結婚しているインド系住民。マレー人と華人の結婚による文化のミックスをババ・ニョニャと呼ぶことは知られているが、このインドとマレーのミックスも文化混合、ババ・ニョニャなのだ。

マレー人のマレー料理の食堂にはかなりインドっぽいところとそうでない店があり、完全インド食堂との差がファジーではあるとは思っていたが、インドぽいマレー食堂はニョニャということなのだな。ライン・クリアーは働いている人が全員インド人なので、インド系食堂と思い込んでいたが、そういえばマレーっぽいカレーも多かったし、もやしやキャベツを炒めた料理もあった。ふむふむ。インドカレーとマレーカレーの違いは、マレーはココナツミルクをよく使うのとスパイス使いがまろやかであることだろうか。う~ん、カレーソースがグレービー?

ナシ・カンダールとは、マレー語でナシはご飯、カンダールは天秤棒のことで、インド人商人が天秤棒を担いでご飯とおかずを売り歩いたことからこう呼ばれるようになったという。つまりはマレーシアのインド料理とマレー料理のミックス料理のおかずかけゴハンのことなのだった。

マレーシアの住民はマレー系、インド系、中国系、先住民系と別れるが、モザイク国家とよばれるように、それぞれの民族が自分たちの文化を大切にして共存している。経済の大半は中華系が牛耳っているし、6割を占めるマレー系の優遇政策もあるのだが、憎しみ合っているとかあからさまに対立しているとか、そういうぎすぎすしたところは、表面的にはあまり感じられない。民族の同化を目指すのではなく、それぞれの民族がマレーシアの一員、というやり方だ。

イポーの町で、中華系のコピ・ティアム、永成茶餐室(ウェン・セン)で一緒に酒を飲んでいた中華系とインド系のおっさんたちの姿が思い出される。たぶん、他のどこの国のチャイナタウンでも見ることはできない風景だろう。本来イスラムもヒンドゥーもお酒は飲んではいけないのだが、そこはまあ。さらに料理を出さない(つまり豚肉も牛肉もなし)ウェン・センだからこそ一緒に飲めるのだろうが、このゆるさ、いいではありませんか。

マレーシアに渡って来たインド人の子孫たちは、本国インドの厳しいカーストからもかなり自由になっている。もちろん、マレーシアでのインド人社会にカースト制度が残っていないわけではないが、インドに比べると相当ゆるい。もともとゴム園やお茶・コーヒー園などの労働者として移民してきた人たちなので、低カーストの人達が多かったことも関係があるだろう。

民族は違っても同じ価値観、優勢な民族の文化への同化を強く促す国というのは、息苦しい。無意味な差別意識も育てる。日本もそういう国のひとつだけど、最近タイもちょっとその気配が濃厚になっている気がする。

おいしいナシ・カンダールを食べに、またペナンのライン・クリアーに行こう。そういえば、この店大きなクジラの絵の看板が上にあるものの、実は建物と建物の間の通路のような場所にある。天井は半分、シート。床は地面。店の存在もまた、ゆるい。働いている人はゆったりとして穏やか。

149 目をとじて

藤井貞和

折口はんが、振り仰いではる。
なんでや、小町桜が、
降り積もる雪のなか、満開や

わいは謀叛人(ムホンニン)や
護摩木がほしいで。 大塩はんが、
やってくる、蓑笠つけて

ひと日、風邪のえまいに、
目をとじて、寝ておりますと、
つぎからつぎへ、
折口短歌が聯想(=うか)んで、
消えるのです

「かたきや」思うたら、
男を食い絞めなあかん。
傾城のくどきは、あんた死ぬで

(「関の扉(ト)に桜散る夜は―目つぶりて、音(ネ)に立ちがたき三味を 聴くべし」「誰びとか 民を救はむ。目をとぢて、謀叛人なき世を思ふなり」釋迢空〈折口信夫〉。)

しもた屋之噺(183)

杉山洋一

目の前で桃色の花がほころび始め、日本から戻ってきたばかりで、まだ刈り込んでいない庭の芝に、黄色いタンポポの花がきままに咲き乱れています。震災直後の4月初め、毎年少しずつでも日本の小学校を体験させたいと三軒茶屋の小学校に息子を通わせて早6年、今月無事に卒業式にも参加させていただきました。震災直後のあの頃も、恐らくこうして目の前にほころびはじめた桃色の花を眺めながら、先に日本に戻っていた家人と、息子の入学式について、喧々諤々電話していたのを思い出します。

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 3月某日 ボルツァーノ アパート
練習に出かけようと玄関を出ると、踊り場で女性に話しかけられる。中庭の茶色のコンテナを指さしながら「あの生ゴミ用コンテナに、ビニール袋で捨てたのは貴方?」。意味も分からぬまま頷いたところ、なんでもボルツァーノでは、生ゴミは支給される紙袋を使わなければ罰金なのだと言う。ミラノとはずいぶん違うと実感して、ボルツァーノの分別収集に関するサイトを見直すと、卵の殻と貝の殻も絶対に生ごみに入れてはいけないとある。今まで生ゴミに入れてしまっていて、反省することしきり。紙袋では油や水で底が抜けそうな気がしたが、防水加工なので問題なかった。この紙袋は街のどのパン屋でも使われていて、生ごみは市が支給するものか、パン屋で使われる紙袋を使うよう指示されている。

屋号にBeckereiとドイツ語で書かれた近所のパン屋に通う。どのジャムが美味しいかと尋ねると、これは特別と差し出さた瓶詰を手に取る。傍らにいた主婦も、そうなのよ、これは本当に美味しくて困ってしまうわ、と笑った。半信半疑で家でパンに塗ってみると、これが本当に旨い。ジャムより寧ろコンポートで、甘すぎず、独特の滑らかさと相まってとにかく口当たりよくて、繰り返し食べたくなる。ミラノに土産に持って帰る度に、一日であらかた食べきってしまうので、パン屋では「例の危険なジャムを頂戴!」と言うようになった。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
ドレスリハーサルが終わり、荷造りしてミラノに戻る。最終公演の後すぐにミラノに戻り、そのまますぐに東京に発つので、一か月近く暮らした荷物の大半は今回ミラノに持帰る。息子は今日メータのペトルーシュカ最終公演。一度は見たかったのだけれど、日程が合わず、結局一度も見られなかった。バレエだから息子たちは単なる黙役で、市場のシーンなどで風船片手に舞台を歩き回るくらいのものだそうだが、楽しくて仕方がないらしい。ずっとペトルーシュカを口ずさんでいる。初演版の舞台装置はロシアの色味に富んでいて、実に賑々しく美しい。息子曰く「曲としては、春の祭典の方が良い感じ」とのこと。子供の頃に本物の舞台に触れられるのは実に素晴らしいが、お伽の国そのままの風景の中毎日を過ごしていると、公演の後すっかりもぬけの殻になって、学校の勉強に身が入らなかったりするらしい。

 3月某日 ボルツァーノ
午後3時、家人と息子を駅で出迎え、一度荷物をアパートに置くとすぐに劇場へ入った。角の金物屋の前で、ミラノからやってきた今堀くんとすれ違う。
もうすぐルカが横浜で演出する舞台があって、そこで英訳の「羽衣」を子役が謡う場面があるらしい。ついては、息子が手本代わりに録音して、それを子役に聞かせて練習させるのだと言う。発音も雅な英国復古調にし、リズムの付け方も、音程の流し方もあれこれ試し、漸く形になった。昨年録音して多少は慣れていたが、息子は相変らず英語が苦手で、緊張するとRをフランス語と間違えてしまうと言う文句が奮っていて、一同大笑い。
録音の後、本番前に少し身体を休ませようとアパートに戻る。家人は、近所で靴を買ってアパートに戻ると言って別れたが、案の定、道に迷って電話してくる。本番終了後パーティーに顔を出し、ずっと学校に出かけていなくて久しぶりに会った今堀くんとアパートで夜半まで話し込む。彼が暮らしていたパリやジュネーブに比べると、ミラノは住みやすく、演奏の機会も増えたと言う。これからも住み続けたいそうで、この世知辛いイタリアが意外ではあったが、頑張っている姿は頼もしく、嬉しい。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
一日休日。作曲が日ごとに溜まっていくが、今日まで暫く家族で落着いて過ごす時間もなかったので、朝から川伝いに散歩に出かけ、そのまま3人でロープウェイに乗って、過日一人で出かけたサンジェネージオに出かける。朝食を摂ろうと、村の中心で喫茶店を探すが看板は皆無。通りがかった老人に尋ねると、目の前の建物だと言う。外見からは全く分からない。日本に数枚絵端書を書いた。
小さな村なので、郵便局の隣によろず屋が一軒あって、おばさんが一人で切り盛りしている。ハムの切売りもすれば、雑誌や切手も売っている。日本までの切手を贖い、美味しそうなクラッフェンを買う。麓のボルツァーノは、街中イタリア語とドイツ語の併記だが、サンジェネージオはドイツ語話者が97パーセントだとかで、教会脇の掲示板など独語表記のみ。よく手入れの行き届いた墓地には、小さな村らしくドイツ風の同じ姓ばかりが並ぶ。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
リゲティの「アヴァンチュール」の放送があって、友人が録音を送ってくれる。身振りのある音から身振りをはぎ取り、聴こえなかった音、見えなかった音に焦点が合っている。人体模型をまず思い出し、何故か小学校の頃、買ってきたレコードで初めて「アヴァンチュール」を聴いたときの不思議な感覚がまざまざと甦ってきたのは何故だろう。感情を込めて発声するのではなく、感情が発声する音について、そしてまた、意思を持たせる発音ではなく、意思が発音する強さについて考える。リゲティを大岡さんと歌手の皆さんと作りながら、学んだことは数限りなくある。

 3月某日 ボルツァーノ 
最終公演の直前、山を越て訪ねてきた旧知の作曲家に会う。彼の奥さんは音楽祭を催すほど財力もあるし、彼も随分うまく立ち回っていると友人たちは陰口を叩いていたが、10年ぶりに会う彼は、見たことがない妙齢を連れていた。整った顔立ちなのだが、笑うと途端に顔が崩れる不思議な妙齢だった。彼が「去年は35回自作の本番があったが、今年は10回ほどしかない」と言うと、傍らの妙齢も悲しそうな顔をし、「しかし来年以降はオーケストラなど新しい大きな仕事が沢山あるから愉しみにしている」と明るい声を出すと、隣の妙齢も朗らかな顔をするので、まるで従順な犬を見ているようだったが、彼は話しながら手元のスマートフォンにずっと目をやっていて、こちらもこれから本番だし、忙しいなら無理に会わなくても良いのに、と意地の悪いことを思う。

公演が終わり、関係者一同自家製のビールを出すビヤホールに繰り出す。実は肉が食べられないと言うと、レスリング選手のような屈強なウェイターに、思い切り笑い飛ばされる。見れば周りは皆厚さが7、8センチはあろうかというステーキを頬張る輩ばかり。彼ら若者は揃ってチロル服を身に着けていて、どうやらチロルの祝日か記念日だったのかも知れない。彼らと別れてから、ボルツァーノを訪ねてくれた浦部くんとアパートで少し話す。マンカの作曲レッスンが思いの外良かったらしく、今秋からミラノに留学を決めたと言う。彼は決断が早い。

 3月某日 白河 ホテル
昨日は空港から大荷物を抱えて渋谷のトップに寄る。白河で自分の好きなコーヒーが飲みたくなるのは分かっていたので、いつもの豆を挽いてもらい、小さなドリップを買って荷物に入れる。ボルツァーノでも、馴染みのミラノの焙煎店で挽いてもらった豆を持参して、毎朝好きなコーヒーを淹れた。肉も最早食べられず、無趣味な人間の、ささやかなる愉しみ。

今日初めて地元の中学生6人の歌声を聴く。しっかりとした、そして純粋な声に感動する。歌いたいという意思がよく伝わり、でもオペラに対する不安と戸惑いも伝わってくる。「外国から来た怖そうな指揮者」を目の前にして、どうしても緊張するだろうし、今日で自分が演奏会に出られるか決まる心配もあるだろう。
気持ちと声を揃えて一つの大きな表現をするのが合唱なら、「魔笛」の童子役にはそれぞれ違った人格も個性も求められ、その個性が生む感情によって、初めて声が生まれる。個性や人格は、彼女たちの身体の芯でつぼみのように固くなっているものではなく、彼女たちの身体全体を外側からすっぽりと包みこむ、暖かい空気のようなものにならなければならない。肩の力を抜いて、無理にでも笑顔を作って歌って貰うこと。それから、指揮者の顔を見つめて、指揮者のために歌うのはやめること。

 3月某日 白河 ホテル
朝起きて、コーヒーを淹れる。部屋の窓が那須連山に面していて、毎朝山の姿を眺める。数日前までアルプスの麓で暮らしていて、毎朝、山頂は雪が被っているかしらと、確認するのが日課になっていた。那須連山は、雄々しいアルプスよりずっと嫋やかな印象を与える。「山」と一口に言っても、育った環境で目に浮かぶ光景はまるで違うと実感する。尤も、嫋やかに見えるのは、単になだらかに続く平野から遠くに山を望んでいるからで、間近で見れば全く違う迫力をもたらすに違いない。

石を刻み橋を渡して「きざはし」となった。アルプスは、恰も無限に続く天への嶮岨な階のように隔絶な趣だが、目の前の那須連山はなだらかで、かかる拒絶感を覚えない。朝日が眩しいと思っていると、正午前に外に出ると突然雪が降り始め驚く。青空のまま気温も下がらず雪だけが吹き付ける、超現実的な吹雪にも遭遇した。聞けばこれは那須や会津の雪を、風が運んで来るものだと言う。

昼食と夕食に、随分手の込んだお弁当が配られる。努力はしたがどうも肉は身体が喜ばないので、スーパーで寿司など買い込み練習に出かけていると、誰の機転か、数日後から肉抜き弁当を用意して下さって、心遣いに痛く感激した。作曲が遅れていて、誰かと食事に出かけるのもままならなかったが、土地の方の温かさだけは、事あるごとに身に染みた。
「実は放射能については今も疑心暗鬼なんです」と打ち明けられることもあれば、「寧ろ現実をずっと悲観していたので、予想より復興が進んで嬉しい」と言われることもあった。どちらもその通りなのだろう。そんな中、素晴らしい文化交流施設が開館したことの意味と重みを改めて感じている。

中学生の童子役の皆さんから、副指揮の森田君はとても慕われていて、全幅の信頼を得ている。彼に副指揮をお願いして本当に良かった。技術的な問題は文屋さんがとても親切に助けて下さるし、緊張をほぐすため舞台上で新海君や倉本君が飛ばす冗談で、彼女たちの顔もすっかり明るさを取り戻した。誰からも彼女たちは愛されている。彼女たちが懸命に頑張る姿を通して、我々の心も一つに繋がってゆくのを感じる。自分がこの機会に関われること、そしてこうした切欠を与えてくれた彼女たちに感謝している。

 3月某日 白河 ホテル
昨日は、飛込み用プールに閉じこめられ溺れかける夢を見たが、今日はローマで足立智美さんがピアノを使ったパフォーマンスを聴きにきた夢を見る。縦型ピアノのフェルトにセンサーがついていて、ピアノ音の替わりに、鍵盤を弾くと足立さんの声が流れる。家人がそのピアノを演奏するのだが、何故足立さん自身でパフォーマンスをしないのか訝しがっていて目が覚める。

立稽古の合間も休憩時間も、少しずつ作曲を続ける。頭の中で、「魔笛」と李白の詩と、古琴の音とトランプ大統領の濁声と、鉄板を叩く音と沢井さんの十七絃の音が、絡みついて離れない。それらは有機的な反応を互いに引き起こしているようで、それが良いのか悪いのか、正直なところよく分からない。南湖について李白が書いた詩を用い、洞庭湖の秋を描いた古琴の音を思い出つつ、ほんのすぐ近くにその南湖があるのを感じながら音を置いてゆく。

3月11日は、東京とは比べ物にならない程、この地にとって重く深い意味を持っているのを痛感する。練習の合間、伊勢さんの合図で淡々と黙祷を捧げただけだが、黙祷後の空間は、何かがまるで変化を来しているのを感じた。そこに居合わせた各人がそれぞれに思い出した時間の重さが、じんわり空間に滲みだしてゆくのが見える。所詮、上辺を繕った言葉で何かが言えるものではなく、淡々と黙祷をするだけで、思いを馳せるのには充分なのだろう。

 3月某日 白河 ホテル
東京より「盃」の打合せで有馬さん来白。エレクトロニクスに関してまるで無知なので、念頭にあることを逐一言葉で説明してみると、実際には意味を成さない内容が8割。残りの2割でほぼ頭に描いたものを実現する。

統計的確率的に抽出された予想上の音素材を、たとえ聴衆の耳に同じようにしか聴こえないとしても、敢えて規定された楽譜を通して読みすすめる、有馬さんの思考フィルターを通して発音させたいのは、「アフリカからの最後のインタビュー」の時と同じだ。それは一見徒労のようでもあるが、現代音楽で定着された音符など、乱暴な言い方をすれば、粗方アルゴリズムなどでどうにでも操作は可能ではないか。実際そのように定着された音符も無限に存在しているだろうし、それが悪いとも思わない。自分が敢えてそれを選択しないのであれば、そこに何らかの意味が生じると信じる。或いは、それは単なる「徒労」の意味でしかないかも知れないが。人間とは面白いもので、或る音を意識して聴こうとすれば聴こえたりするし、或る音に意味を感じて発音すると違った音色になったり、音と別の音に関連性を持たせると、無意識に演奏法が変わる位だから、何らかの有機的な変化は生じるに違いない。

 3月某日 白河 ホテル
余談。今回有馬さんが滞在中に「緩い」という言葉をよく使っていらして、当初意味が分からなかった。最近の流行り言葉なのだろうか。何度か問い質すうち、否定的な発言をオブラートに包み、アソビを持たせた表現が「緩い」だと理解したが、彼は長く関西の大学の教壇に立っているので、方言かもしれない。結婚当初、関西出身の家人が「この匂いを嗅いで」を「これ臭って」というのが不思議で仕方がなかったが、同じかもしれない。

「緩い」とは違うが、息子が書店で買ってきた若者向け小説を、最近気になって読んだところ、構成や設定は思いの外古典的で驚いた。使われている単語や表現の印象は違うので、自分の知っている日本語とは、別の言語で書かれた文章と思えば、違和感も覚えない。それぞれの登場人物の印象は、悪く言えば掘り下げられていないようでもあり、良く言えば、身の周りの友人たちの最大公約数の部分を使って描写しているようにも見える。絶対に彼や彼女でなければ、という強い表現の意志が薄められて表現されている印象を受けたが、案外言語が単純化してきているだけかもしれない。

古来の和色表現一つとってみても、現在の我々には想像もつかない微細な感覚が散見される。もはや使われなくなった古来の母音や子音表現の日本語の音が醸し出す、我々には知覚できない繊細な彩への感覚は、我々の可能性を遥かに凌ぐ。古代は、光もないままより深い色彩感覚があり、電気などなくとも、より深い音が聴こえていた。もろもろのヨーロッパ言語も、旧くはずっと複雑な言語体系を誇った。インターネットを介し、コンピュータでコミュニケーションするためには、そんな微細な差異は足を引っ張るだけに違いない。

では、音楽はどうなのか。少なくともまだ人間が、大方電気を通さない割と単純な発音体の楽器を使って、阿吽の呼吸で演奏するを良しとしているのであれば、そこまで音楽の内容を単純化しなくてもいいのではないか。もっと言えば、音楽の単純化とは、単純な音価で音符を定着することとは限らない。本当に複雑な音楽とは、単純な仕掛けから生まれる、定着できない揺らぎのようなものだったりするし、演奏するたびに違う音を生み出す音楽より、演奏するたびに同じ音がする音楽の方が、或いは 単純と呼べるかもしれない。

「壁」の作曲が全く遅れているのは、トランプ大統領の大統領令原文がどこに載っているのか調べるのに時間が掛かった、と言うと安江さんに怒られてしまうだろう。白河の歌手陣でも、早坂さんや高橋さんのようにアメリカ生活が長い人たちがいるので、どう調べれば大統領令が分かるのか質問したが誰も知らなかった。実際は「大統領令」Executive Orderと検索すればよかったのだが、慌てると灯台下暗し。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
白河の新幹線駅に両親を迎えにゆき、タクシーを拾って南湖の畔の「火風鼎」に彼らを連れてゆき、こちらはそのまま会場に入り、本番直前まで控室で作曲。指揮者の大先生は本番前は集中するものと、周りは皆気を使って下さっているのか、お陰でとても作曲に集中できた。本当は、ただ洞庭湖がどうやら、古琴曲の音色やら、まるでモーツァルトとは無関係な想像を逞しくしていたわけだが。

「火風鼎」は、地元の十文字律子さんのお薦めで、歌手の皆が出かけて絶賛していた。ラーメンは食べられないが、替わりに駅前の「大福屋」には、休憩中何度かざるを駆け込みに走った。白河蕎麦も実に美味。まだ正午前で開店30分程度だと言うのに、もう外にまで客が並んでいるので驚く。本番終了後、思いがけず来白していらした池田さん、岩崎さんにお目にかかる。皆さんとても喜んで下さって、特に童子の評判が頗る宜しい。前日平井さんが来白された時にも、全く同じ反応だったので、やはり彼女たちを皆で盛り立てている何かが見えるのか、それに頑張って応えた姿が心を打ったのか。演奏会後、中学生たちから可愛らしい寄せ書きを頂く。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
昼前上野の入谷口で待ち合わせて、チェロのフランチェスコと翁庵に行く。二人で「ざる」を食べ蕎麦湯を啜って、細川さんの講演を聴きにゆく。彼の奥さんエレナはその後16時から17、18世紀のフィレンツェに於けるオラトリオについて講演。彼女によれば、当時フィレンツェで無数のオラトリオが作曲されたがそれら殆どが消失し、ほんの数曲ウィーンの図書館に作品の一部が残るに過ぎないという。雨が降っていたが、フランチェスコは、滞在しているアパートから借りてきた女児用の派手なプリント柄の、それも数本骨の折れた小さな傘をさしていて、こちらは自転車に乗るときに愛用している汚らしいレインコートを被っていて、二人で入谷口の歩道橋下で顔を見合わせて笑った。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
朝9時に高円寺に行き、まず貞岡さんに口頭でこんな楽器が欲しいと説明する。メタルシートというか、銅板というか、でも演奏者の身体がすっぽり隠れるくらいの大きさが必要で、サンダーシートのようなべこべこなイメージではなくて。「どんな音が欲しいか歌ってみてもらえませんか」。「真木さんなんかもね、もうこんな感じ!シャチャーン!とか言ってくれてね、そうするとこっちも、パーンと閃くんですよ」。

リハーサル室に入ると、既に3枚の巨大なメタルシートが用意してあり。どのメタルシートも、こちらに挑むような挑戦的な目つきでこちらを見つめている。自分が頭の中で描いていたものに近いものが一枚、もう少しクリスタルな響きなものが一枚、全く想像していたものと違うサンダーシートのお化けみたいのが一枚。大体思っているような音をあれこれ叩いて試していて、想像していた音の一枚にほぼ決めかけていたが、サンダーシートのお化けがどうにも気になって仕方がない。自分の想像以上に、豊かな音がする。他の板より柔らかいが、表現力も演奏効果も高い。何でもアメリカ大統領は高さ9メートルの「壁」を作るそうだから、本当ならあまり表現力のない、もともと想像していた固いメタルシートがよいのだろうが、サンダーシートのお化けの雄弁さに心を打たれて、結局これに決める。そういうと、他の二枚が恨めしそうにこちらを見つめた気がした。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
息子の小学校卒業式。2列前に座っている父兄が、感激して泣き崩れている。自分の卒業式の予行練習を随分やったのを思い出す。恐らく初めて子供が卒業式に出る親は、誰もが同じことを思うだろう。懐かしいとも思うし、あの頃から同じ伝統が連綿と続いていることに愕くこともあるだろう。当時は、なぜ国旗に向かって敬礼するのか、意味がよく実感出来ていなかった気がする。敬礼していたのかすら怪しいし、国歌斉唱もちゃんとやっていたのだろうか。等とぼんやり思う。イタリアなら国旗に向かって敬礼はしないが、国歌斉唱は大好きで歌う時も胸に手を当てる、などと思いながら眺める。

自分が卒業式をやった頃は、40人学級で1学年6クラスだか7クラスはあった。今は2クラスで、それも25名程度。卒業式に時間的余裕があるからだろう、証書を授与される前、名前を呼ばれると、「はい! わたしは将来医者になって、みんなが苦しむ花粉症を治します!」と大声で自分の将来を宣言する。息子は「はい! ぼくは将来好きなピアノとフルートで、みんなを笑顔にします!」と宣言。へえ歌じゃないのね、と思いつつ、後で息子に尋ねると、先生が色々アドヴァイスを下さると言う。普段、劇場で稽古していて、この間までバレエに出ていたせいか、舞台で歩く姿勢が良いと感嘆。白河でずっと子供たちの舞台の姿勢を注視していたので、余計そう感じたのだろう。こんなところで舞台に出ている恩恵に与かれるとは思わなかった。

後半のクライマックスは「送る言葉」。在校生が卒業生に、卒業生が在校生に「送る言葉」というシュプレヒコール劇。そう言えばこんなことをやったかなあと思いながら、眺める。今まで6年間の出来事を反芻し、核になる言葉のところで、全員が大声で繰り返す。そして、最後は「これから旅立ちます! さようなら、さようなら!」と叫んで幕。周りの親御さんも感極まり号泣している。

「送る言葉」は、過日読んだ息子の小説の文体によく似ていた。恐らく20年以上も日本から離れているうちに、日本語そのものが変化したのかもしれない。毎年これを新しく用意される学校の先生方も、実はとても大変なのではないだろうか。しかし、高揚感など実によく書けているから、案外小説なども上手に書かれるのではないかしら、と余計なことが頭を過る。

「ぼくは将来好きなピアノとフルートで!」も同じだが、ヨーロッパで宣誓に立会う場面は普通に暮らしていれば皆無だ。選手宣誓も普通はないだろう。宣誓と言えば、結婚式で聖書に手を載せて永遠の愛を誓うとか、裁判で虚偽申告、偽証はしないと聖書などに手を載せて誓うくらいではないか。ヨーロッパで右手を挙げ大声上げて宣誓するのは、ムッソリーニ万歳かヒットラー万歳くらいなので、今でも右手をすっと上に向けて挨拶すれば、殆どのヨーロッパ人は露骨に厭な顔をする筈だ。別にヨーロッパ人の真似をする必要は全くないが、もし真似している積りで使っているなら止めた方がよい。

そもそも「シュプレヒコール」という言葉は何を表すどこの言葉だろう、イタリア語では何と言えるのか考えてみたが、相当する言葉はないようだ。合唱はイタリア語では、coroと言い、声を揃えて話す、程度の意味でも用いられる。「皆で声を合わせて言いました」「皆が声を上げました」と言う時もcoroを使う。「シュプレヒコールSprechchor」は独語、英語では「speaking choir」、日本語なら「話す合唱団」。「話す合唱団」を独語で検索すると確かに存在する。シュプレヒゲザングを多用する進歩的合唱団の印象を受けるが、実態はよく分からない。少なくとも卒業式の「送る言葉」で歌が挿入される理由は、「シュプレヒゲザングを多用する進歩的合唱団」だからだと知った。

 3月某日 ミラノ 自宅
昨日は息子と二人、ミラノに戻る機中、ずっとトランプ大統領のExecutive Orderのプリント片手に打楽器曲の作曲。長くこの文章を眺めていると、それなりに筋が通って見えてくるから不思議だ。日本を発つ前に、すみれさんと電話で話した。すみれさんと沢井さんのための新作について。何を主題にしようか考えていたが、初演するのはカナダだから、案外「日系人」かしらん、とぼんやり思う。大体日系人とは何を持ってそう呼ぶのか。自分ももうすぐ日系人なのかしら。息子は既に日系人かしら。イタリアに帰化しなければ日本人かしらん。それなら在日の韓国籍の人は、韓系人ではなくて、韓国人なのかしら。

朝から学校に出勤し、夜半、1時40分。家の庭を歩く二人の不審者と話す。布団に入って本を読んでいると、人影が通り過ぎるので、窓を開けて、「何やっているんだ」と声を上げると、「まあまあ落着きなよ。すぐに出ていくから。慌てなさんな Ora vado via subito, stai calmo, stai tranquillo」と思いの外ゆっくりした野太い声が応えた。イタリア人ではないようで、ジプシーなのか、アラブ系なのか、アルバニア系なのか、少し濁ったくぐもった発音だった。

 3月某日 ミラノ 自宅
ボルツァーノに入った頃から老子を読み始め、白河でも時間があると老子の本を開く。もう暫く眺めたので、最近ルクレツィオを読み始めた。悠治さんに薦められたスティーブン・グリーンブラッドの本が素晴らしくて、ずっとルクレツィオを読みたくて仕方がなかった。最近、歳とともに涙もろくなってきたのか、「物の本質について」を読み始め、ただ燦々と輝く力強い言葉に圧倒された。老子がじんわり身体に染み通る感動だとすると、ルクレツィオは、空から降り注ぐ太陽のようだ。彼がいなければ、我々のやっている音楽すら全く違った方向に発展したかもしれないと思うと、改めてその偉大さに言葉を失う。この二人は全く反対のようでもあり、しかしその中心はメビウスの輪のように繋がっているようにも見える。

(3月31日ミラノにて)

沈黙する世界

笠井瑞丈

カラダの中に流れる言葉の世界
世界に飽和している虚像の言葉

渋谷の薬局
電光掲示板
車のクラックション

音がオトに
鉛筆も親指に

生産され
消費され

オトが生まれる瞬間
ナミが生まれる瞬間
ヒトが生まれる瞬間
動きが生まれる瞬間
踊りが生まれる瞬間

いつか宇宙空間で躍る
そんなコトを考える

沈黙する世界 
カラダの中に
真空の世界に
沈黙する世界

そんな事。

池田晶子と片岡義男

若松恵子

3月5日に、新宿のビームスジャパンの5階にあるBギャラリーで詩人の小池昌代さんと片岡義男さんの対談を聞いた。池田晶子の没後10年を記念するブックフェアに関連して企画された連続トークイベント「池田晶子の言葉と出会う」のうちの1回だ。

日本の民藝をおしゃれに紹介するフロアの小さなギャラリーには、池田晶子の著作から抜き出した文章が壁にプリントされていて、ぐるりと読んでいくと、この壁もまた1冊の本のようだというのが企画者の意図だった。

考えの正しさは、考え自体の正しさであって、誰かにとっての正しさじゃない。本当に正しい考えと個人的立場とは、どこまでも無関係なんだ。(「14歳の君へ」より)

壁のこんなフレーズを読み上げて、片岡さんは「僕から考えの正しさが離れてくれると僕としてはうれしい」と言った。

片岡義男と池田晶子の出会いは、池田氏の新刊『ロゴスに訊け』(2002年/角川書店)の書評を片岡さんが『本の旅人』(2002年7月号)に書いて、池田さんから手紙をもらったことがきっかけだったという。珍しい書評だというのが、池田さんの感想だったらしい。「池田さんに珍しいと言われた僕は、非常に珍しい」のだと片岡さんはちょっと自慢していて、笑ってしまった。

「考えの正しさ」は、正しく考えた人のものだ。正しく考えられた人が居たから、正しい考えが発見されたのだ。普通は、そんなふうに思うのではないだろうか。だって有名な哲学者とか思想家とかが居るじゃないか。しかし、池田晶子も片岡義男もそうは捉えていない。池田晶子が著作で何度も「考えろ」と繰り返しているけれど、対談のなかで片岡さんも「気持ちでわかってはいけない。考えてわからないと」と言っていた。そして、壁のこんな文章も読み上げられた。

人が自分の体験を、そのまま思想化するとどうなるか。体験からしか言えない人は、体験が逆ならば、逆の意見を言うだろう。だから個人の意見などいくら集めてもしょうがないのだ。(「信じること知ること」より)

自分の体験から教訓を引き出してみんなに語るということが、そんなハウツー本が書店にたくさん並んでいるし、今はブログやツイッターを通してばら撒かれてもいる。しかし、池田晶子と片岡義男にとっての「考える」とは、こういう事ではない。

片岡の『白い指先の小説』(2008年/毎日新聞社)の印象的なあとがきを思い出す。小説を書く4人の若い女性を主人公にした短編集のあとがきのなかで片岡は、主人公の女性たちにとって小説を書くのは「言葉によって、つまり理論をとおして現象を超え、抽象化して理解したものをどのように書いていくかという、普遍的な問題と向き合う時間」であり、「思考とそれにもとづく行動のしかた、それが作り出す物語の構造は、可能性として無限にある。無限という自由が開けているからこそ、彼女たちが小説という表現にしかたを選ぶ。」と書く。「書いていくためにはいろんなことを考える。だから彼女たちは、自分で考える、という自由さを、日常のあらゆる時間のなかで、駆使している。これ以上の自由がどこにあるだろうか。」と、そして「目に見えるもの、かたちあるもの、手で撫でまわすことが出来るものなど、どこまでいっても具体物でしかないものにとらわれ、それが世界のすべてだと思い込むことによってもたらされる際限ない不自由さから、自分が言葉になることによって、彼女たちはとっくに脱出している」と続ける。これは、『ロゴスに訊け』のなかの「言葉が自分を表現するために私を道具として使うのであって、私が自分を表現するために言葉を使うのではない。」という文章に呼応している。

考えるときに使う「言葉」というものに対する2人の考え方もまた、独特なものだ。小池さんとの対談のなかで、池田晶子が著作で「ぼくは心だ」と言い、もっと正確には「言葉」だと言っている事に触れ、心とは何か、それは簡単に言うと主観であるということであり、その主観をできるだけ誤解なく多くの人にひろげていくために言葉が要ると片岡さんは言っていた。『ロゴスに訊け』の書評のなかでも片岡さんは「言葉というものは、正確に使われるほど誰のものでもなくなる」という池田の言葉を引用する。そして、先に引用したあとがきのなかで「その人が書くなり言うなりすれば、その言葉はその人のものになるというよくある誤解は、言葉についてあまりにもなにも考えない態度から生まれてくる。」とも書くのだ。

池田晶子と片岡義男、2人が立っている場所は独特だ。対談を聞いてはじめて2人の共通点を知った。池田はエッセイによって、片岡は小説によって「考える」ことの自由を体現した。物質世界から自由になって、普遍にむけて自由に滑空していく気持ちよさを見せてくれた。ひとりきりの自由ではあるけれど、普遍的であることによって(言葉という使いまわしのされているものを道具に使うからこそ)人とつながることができるのだということも示してくれている。

片岡義男の書く小説には固有名詞を伴ってたくさんの具体物が登場するから誤解されやすいのだけれど、いくつもの時代を書き続けてこられた理由に、「考えること」と「言葉」に対する彼のこの態度が関係しているのではないかと思った。たとば印象的な主人公がいないこととも関係しているのではないかと思う。

深夜なんとか

大野晋

私の世代にとって深夜の放送と言えば、ラジオの深夜放送か、テレビの深夜テレビで、どちらも親の目を盗んで聴いたり、見たりするものだった。特に、今よりも放送の自主規制も緩く、おおらかな時代だったので、テレビの深夜放送には女性の裸がでてくるのがお約束だったけれど、そもそも、テレビそのものが一部屋に一つなどという時代でもなかったので、思春期の男の子にとっては、いかに親の目を盗んで見るのかというのが課題だった。

時代が平成になり、いまや深夜のテレビの主役は女性からアニメに代わっている。ということで、ふと駅で目に付いた雑誌の特集は日本のアニメについてまとめたものだった。日本のアニメが注目されているということでいくつかの例が挙がっていたが、まあ、他のケースでもよくあるように寄せ集めの記事で、アニメ自体についても、テレビアニメも映画も一緒にあつかったものでとても現状がわかって書かれているようには思えない。

ということで、まず、映画から考えてみよう。邦画の興行成績でアニメの成績がいいのは確かだと思うが、リストに挙がっていた邦画タイトルベスト10の全ては、少しの知識があれば、アニメもしくはコミックを原作とした実写であって、完全なオリジナルの実写、もしくは小説を原作にした実写映画すらベスト10に入っていない。いや、正確に言うと唯一入っているのは「シンゴジラ」なので、傾向は変わらない。おそらく、邦画の観客層の問題がそこにあって、アダルト向けというよりもジュブナイル向けに邦画が特化しているという方が正しいように思えた。

現在の書店の売れ筋でも似たような傾向がある。文章の本、要は小説では一時流行した時代劇やライトポルノは影を潜め、いまはジュブナイルのミステリーやSFが活況を呈している。まあ、電車の車内で皆がスマホの画面を見ている現状では既存のメディアである本を大量消費するのはジュブナイルとそのコンテンツを愛する大きなお友達というところなのだろうか? 要はアニメが活況なのではなく、コミックやアニメ、ライトノベルといった分野しか売れていないというのが現状か。

一方、テレビの状況はちょっと違っていて、普通に生活している限り、テレビのプログラムではアニメーションが増えているようには見えない。これは1990年代までのゴールデンタイムがアニメだらけになった状況とは違っている。現在のアニメ放送は深夜帯やローカルネットの放送局を中心に繰り広げられている。昔のアダルト放送が今はアニメ放送になった感じである。しかも、比較的質の高い作品を1クール、もしくは長くても2クールと言った短いサイクルで取り替えながら流すというのが特徴だろう。日中に流しても視聴に耐えると思えるプログラムが深夜帯に流れているのだ。ただし、昔の深夜族のように夜更かしする人間が多いのではない。そこはハードディスクレコーダなどを利用したタイムシフト視聴が主だと考えるのが妥当である。最近では、それに加えて、ネット配信という店舗を持たないレンタルビデオの形態が加わっている。そう。車内でスマホを見ている何人かはこうしたネット配信でアニメを見ているに違いない。

グロッソラリー―ない ので ある―(30)

明智尚希

「1月1日:『ワインの味ってわからないねえ。酸味の強弱や甘いかどうかはわかるんだけど、おいしいかどうかがまるでわからない。子供舌なのかね。自分がそうやってわからないもんだからさ、ワインが好きなんて言ってるやつはただ気取ってるだけって決めつけちゃってるんだよ。確かによくないよ。勝手に決めつけちゃうってのは』」。

ワインドウゾ (*’-‘)_Yo(・ω・ ) サンキュ

 学校での勉強が将来いったい何の役に立つのか。そんな不平不満をよく耳にしたものだ。ならば問う。ゲームや漫画を楽しんだところで、将来いったい何の役に立つのか。嫌いなことのみに矛先を向けるのは、いかもに人間的である。将来について気を揉むくらいなら、自分の内部へ降りていくべきだ。将来はこの瞬間の自分の中にあるのだから。

((((…φ(`・ω・´)φ…))))コウソク!

 相手を責める時、人間は事実を大幅に誇張する。一次的な高揚感や相手を下に見ていることから由々しき事態になるのだが、責めている最中に怒りの感情がその性質上勝手に盛り上がり、更なる怒りを呼ぶ。人間のちっぽけさが、如実に露わになる。機に乗じて感情をむき出しにする単純なからくり。責められるべきはこうした卑小な連中である。

o|`┏ω┓´|ノ_彡☆ ブーブー!!

 しかしまあなんつうかあれじゃな。精神科医も精神疾患を持っていたほうがいいような気がするな。資料・診察経験・想像力だけで薬を処方するってのはなんだかなあ。だろう運転ならぬだろう投薬。苦しさやつらさとか患者といろいろ共有できたほうが有効だしな。でも医者が病人じゃあ、そもそも診察なんかできゃしないわな。さあどうする。

(ノд<。)゜シンドイ……

【選手のインタビューあるあるランキング】
第1位:普段通りにプレー
第2位:自分をアピール
第3位:次につながる
第4位:力を出し切る
第5位:一生懸命頑張る

ヘディング(((( _ _)☆ ≡〇  ┏┓

 虚学。学問のための学問は、世間から切り離れている。「こういう学問があってもいいんじゃないか」。とあるノーベル賞受賞者は語った。一顧だにされなかった分野に光を当てた。こうはいかない学問のほうが多い。人間は考える葦である以上にポリス的動物である。虚学もそうあらしめるべきである。ゲーテの末期の言葉「もっと光を」。

φ(-_-; ) ムクワレナイ……

「1月1日:『でもその人の趣味・嗜好って結構重要だと思うんだよな。楚々とした人がウオッカがぶ飲みするなんてことを聞かされた日にゃあ、その後の付き合い方が変わるってもんだ。酒だけじゃなく、休日の過ごし方とかどんな服装が好きかとか、そういう情報が多いほど当たり外れが少ないからな。ま当たり前の話かもしれないけど』」。

ワタシ (☆ゝωб) イイオンナヨ

 端倪すべからざる才能を行使し、いかにして世に披露するか。才人も方法を案出するには手を焼く。これには権威ある評価者の存在が不可欠である。時代的潮流を知り、相当の眼力を具え、メディアに精通し、ものを言える人物。権威主義に今昔はない。しかしながら、才人が評価者の能力を凌駕してしまっているという現実も歴としてある。

拍手喝采!(゚∇゚ノノ”☆(゚∇゚ノノ”☆(゚∇゚ノノ”☆パチパチパチ!!!

 なに! 例外状態だと! おいしいのか? 記号の恣意性に飲まれちゃいけない。行動傾向要素を分析して、FBI方式のクラウディングアウトで切り抜けろ。そうすればカシミール効果を期待できる。これは全てのの様の言葉だ。彼らはこもごもトンボを切って忌避に触れる。その姿はほとんど人間ではなかった。たばかる合切袋だった。

(・vv・) ハニャ???

 世捨て人といえども、世の中で生きている。概して楽観的である。人間界に対して怨念を抱くわけでもなく、期待を寄せるわけでもない。硬直した無表情がたまに緩む時、幸運に巡り合った笑顔そのものである。逆に、悲観的な者は世捨て人になれない。いくら漂泊しても常に俗事を引きずっており、そんなおのれと人間界に嘆息を繰り返す。

o(*^▽^*)oエヘヘ!

「1月1日:『相手のこともそうだけど、その前に自分がまずちゃんとしてなきゃならない。要求ばかり突きつけて、こちらは自堕落なんて話にならないもんな。なにより自分自身が納得できない。女性を意識してきちんとするんじゃなくて、常日頃から実践できているというのが理想だな。その点、俺は意外にもそこそこ自信があるんだよ』」。

(* ̄∇ ̄*) デヘヘヘ

 わしはほんとよく嫌われる。嫌われるというかすぐ人を怒らせる。べつに毒舌を吐いたり嫌がらせをしたりしてるわけじゃない。普通にしていると周りが勝手に怒っていく。わしゃ異物そのものなんじゃろうな。人間とも生活とも人生とも折り合いが悪い。死後の世界にも社会があるかもしれないと思うと自殺もできん。生殺しってあるもんじゃ。

(。_。`)ゞぅぅぅ

 裏切りを因子として期待が生まれた。よって妄想の国の住人のほうが現実に即応する。

。・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・ ポワァァァン・・・

 「あ」は黒。「い」は黄色。「う」は紫色。「え」は青。「お」は赤。「黒」は銀色。「黄」はオレンジ色。「紫」は白。「青」は黄緑色。「赤」は黄色。「からい」は白銀色。「甘い」は赤。「酸っぱい」は黄色。「苦い」は灰色。「ド」は黒。「レ」は紺色。「ミ」は黄色。「ファ」は緑色。「ソ」は白。「ラ」はピンク。「シ」は金色。好きな色は青とボルドー。

♪o(^0^o)♪o(^-^)o♪(o^0^)o ♪

 「失敗したパンケーキ」と酷評された、チャイコフスキーのピアノコンチェルト一番。もう少し先走りたいフィドルにゆったりとしたいピアノ。わかるんだ。あのぎくしゃくとした旋律、他にやりようのなかった現実。彼の頭の中では、滑らかな音が流れていたはず。具現できなかっただけだ。失敗してもおいしければ、それでいいじゃないか。

♪(/°°)/ ̄ハィ

古本屋

璃葉

東京でもっともおとずれている街は、神保町かもしれない。
けっしてきらびやかでなく、明るくない、古びた街だ。
ほかの街よりも、時間がゆっくり流れていて、なぜだか安心する。
ふらっと古本屋をめぐる。
心地のよい濃紺の影の気配を感じながら、たくさんの本と出会う。

この街の古本屋で、数年間働いていたことがある。
毎日汚れた本を磨き、見返しの上の方に、鉛筆で値段や状態を書き込む。
この地味な仕事にとくにやりがいはなかった。
本は陽射しを浴びてはいけないから、ほとんどの古本屋は日陰になる向きに店を構えている。店の雰囲気は常に薄暗い。
外に設置された本棚やワゴンに並べられた本を手に取ると、ヒヤリと冷たかった。

仕入れた古書にはだいたいシミやヤケ、カビやホコリのにおい、ひどいときは虫食い(たまに干からびた御亡骸)があるので、よい気分ではない。さわっているとパキパキと紙が破れ落ちてしまうぐらい、壊れかけている本もあった。
それでも100年以上前の本や変わった装丁の本を手にとって見ることができたり、ふしぎな従業員たちとの会話や客の観察は楽しいことだった。
今おもえば、かなり自由な職場だったかもしれない。
10時過ぎに出勤し、自分たちの好きな音楽をかけて、かるく掃除をして、コーヒーやお茶を飲みながら仕事をはじめる。2回の休憩をはさんで、だいたい18時50分には作業を終え、19時ちょうどには店を閉めて帰っていく。
給料はとても安く、保障もないのに、従業員は5年、もしくは10年以上働いているひとたちばかりだった。きっと居心地がいいのだ。
なかには「このぬるま湯に一生浸かっていたい」と発言する者もいた。
それぞれ持っているCDをかわるがわるかけて、作業をしながら、文学や詩や音楽、お酒のはなしをよくした。この道何十年のベテランのおじさんはよく鼻歌をうたい、スズランテープで本の山を十字に縛りながら、「お前さん、あの街のあの店はいい酒を揃えているから、こんど行ってみな」と教えてくれる。そのさまざまなお酒情報は、今でも役に立っている。
本を売りにくる客や買いにくる客も、滅多に見ることのできないような選りすぐりの変人ばかりだったので、話題には事欠かなかった。
店にはこれでもかと本が並べられ、床にも積まれ、あふれたものは倉庫行きとなる。
暗い木造の倉庫は、山のように積まれた本でひしめいていた。
独特なにおい。歩くたびに、床板がギシギシ鳴る。
小さな白熱灯をつけて暗闇を追い払っても、残る薄暗さ。
まるでふるい船倉のようだ。その場所で作業をしているときは、時間が完全にとまっているようだった。
きっと、あんな古本だらけの倉庫に行くことは二度とない(と思う)が、街をおとずれるたびに、時間の流れと、心地のよい影の気配を感じている。本は暗闇のなかでも生きつづけている。
働いていた店にもたまに立ち寄る。おもしろい本だらけで、やっぱり長居をしてしまうのだ。

LIFE BEHIND TV

長縄亮

テレビのなか きれいな人だけ
きれいでなけりゃ いきられない国
四月の桜の下で きれいなこに会った
夏休みはじまる頃 きれいなこはもういない

きれいでもきれじゃなくても ぼくにはもうわからないこと
だってもっとぜんぜんいいやつ
きれいとかきれいじゃないとか ぼくにはもうわからないこと
だってもう彼はぼくのともだち

テレビのなか 外人だらけ
「わかりあえません」といわれてるよう
二学期ぼくの組に外人のこが来た
クリスマスパーティに 外人はもういない

日本人でも なに人でも ぼくには関係ないこと
だってもう ぼくはきみをしっている
日本人とか なに人とか ぼくらただ人類なだけで っていうか
きみはぼくのともだち

テレビのなか ひどいニュースが 無理に吐かせる「かわいそう」
新しい年のはじめ 「かわいそう」なこに会った
四月の桜の下に 「かわいそう」なこはもういない

きみがあんまりにかなしくてさびしくて
泣けない涙なら ぼくがかわりにぜんぶ泣くから
もうけっこう!!かってに決めないで
ぼくら「かわいそう」じゃない 「かわいい」だけ
きみとぼくはともだち

テレビの中 みにくいんだ きみのかわいさ こころのすがた
きみがぼくに見せてくれた ほんとの世界
LIFE BEHIND TV

旅行災難

冨岡三智

てるみくらぶ倒産の報道が耳に入る。旅行費用を全額入金したのに、出発できなかった、海外で放りだされたという話を聞くと、旅行は帰ってくるまで何が起こるかわからないものだなあとつくづく感じる。私は同じ目に遭ったことはないけれど、多少の驚くことは経験したので、ちょっとそれを思い出してみる。

●旅行カウンターがない
平成元年、インドネシアのジョグジャカルタ空港でのこと。早朝5時頃に同空港に着き、あとはジャカルタに飛んで帰国の途に着くのみ。ところが、待てと言われた所にはカウンターがない。チェックイン開始時間をかなり過ぎ、やっとドアが開いたと思ったら、従業員らがカウンター数台を押して登場した。夜間はカウンターごと仕舞うシステムらしいが、そんなやり方は想像もつかなかった。出しておくとカウンターから物が盗まれる(あるいはカウンターが盗まれる)可能性があるのかも…?けれど、チェックインカウンターのある部屋ごと警備すればよさそうに思うのだが。

●座席がない(ぎりぎりセーフ)
これは、私はぎりぎりセーフだった事例。上と同じ旅で、無事にジャカルタを飛び立った私はシンガポールでトランジットした。シンガポール〜大阪間の座席の発券はシンガポール空港で行われた。発券機が故障したため手作業で発券作業が行われたが、搭乗時間になっても終わらないどころか、すでに発券された人もまた呼び出されて混乱している。後で分かったことだが、手作業で発券している内に、キッチンスペースやトイレなど、本来席がない場所にまで席番をつけて発券してしまったので、その席に当たった人をやり繰りするのに時間がかかっていたらしい。私はそのキッチンの隣の席が当たったので、ぎりぎりセーフだった。しかし、いくら手作業で発券とはいえ、紙プリントした座席表があればそんな間違いは起こるわけないと思う…。

●搭乗口がない
ここ数年以内にクアラルンプール経由で関空からジャカルタに行った時のこと。クアラルンプールから乗る便もすでに関空で発券済み。ところが、そこに書いてある搭乗口が案内板にない。インフォメーションで聞いて、何人か職員が集まってきて、やっとそれはかつて存在した旧搭乗口の番号だということが判明。関空から乗った人達は皆クアラルンプールで降りたらしく、困っているのは私だけのようだった。しかし、なんでそんなことが最近でも起きてしまうのか不思議だ。

アーデル君

さとうまき

「ハウス」で働くことになったアーデル君は、シンジャールの出身のヤジディ教徒なのだ。先月書いた「くそにまみれた友情」のメンバーの一人だ。2014年、ISの攻撃を受けた。お父さんが軍で働いていたので、情報が早く村を無事に出ることができた。親戚がドホークにすんでいて、身を寄せたが、彼らがドイツに移住したのでこれまた運よく難民キャンプに入らずに済んだ。

そもそも、アーデルのお兄さんが、フェースブックでうちで働かせてくれといっているうちにドイツに行っちゃって、弟の面倒見てほしいといわれたのだ。友人のユカリ先生が、だったら、日本に連れていって、難民として受け入れよう!とかもりあがってしまったので、ともかく、アーデルに会いに行ったのだ。

この青年は、ドホークの大学で生物学を勉強していた。
「俺には未来がない」ともかく暗い。
「イスラム教徒がいつ襲ってくるかわからない」
いや、ここはクルド自治区だからISもいないし、大丈夫だよ
「72回歴史上虐殺されてきたんだ」
彼は、自分は優秀だと思っていて、「海外で勉強したい」という。他の難民に比べたら、大学に通えているんだから、ともかく卒業しなよ。ということで、励ました。結論はというと、暗すぎて、日本に連れてきても、鬱になってしまいそう。

月日は流れて、アーデルも大学を卒業した。近所の高校で生物を教えているという。
「それは良かったね!」
といったが、また、文句が始まった。
「俺は、優秀な先生で、生徒たちの人気者なんだ。でも、こんな仕事は耐えられないのでやめてしまった」
やめてしまったの? それで、うちで雇うことになったのだが、プライドが高い。しゃべり方が偉そうなので、「もっと謙虚にしゃべれ」と注意した。ドライバーは、大学を出ていないので、下に見ている。「こいつは、世界一の運転手なんだぜ!」というと、嫉妬しだして、「どうして世界一なんだよー」と涙目になる。

事務所について一緒に暮らすことになった。早速、試しに仕事を頼んでみた。
斉藤くんが、「一緒に行きましょうか」というので、「いやいや、試してみよう」ということになったが、買い物からなかなか帰ってこない。タクシーが道がわからず、ぐるぐる回っているうちに、二つ頼んだ買い物のうち一つをすっかり忘れてしまって戻ってきたのだ。

「タクシーのドライバーが悪いんだ」と言い訳がはじまる。斉藤くんは、「どうしてこんなのを拾ってきたんですか」といわんばかりにイライラしていた。たしかに、役に立たないばかりか、偉そうにいいわけするところが引っかかる。

翌日、違う仕事を、斉藤くんと二人でやってもらった。斉藤くんは、「厳しいですよ」と嘆いて帰ってきた。一か月の給料は払ってしまったので、仕方がない、コーヒーでも入れてもらおう。「どうやってコーヒーを入れるんだ?」こいつ、俺はお茶くみじゃないとでも言いたいのか? ところが、コーヒーの入れ方を教えたら、その日から、コーヒーを入れてくれるようになった。うん? このコーヒー、うまい。とりあえず、アーデルを首にすることはなくなった。
(つづく)

*ハウスとは、JIM-NETがイラクのアルビルに作った小児がんの総合ケア施設
 日テレで放送されましたので是非こちらの動画をご覧ください
 http://www.news24.jp/articles/2017/03/30/10357766.html

投げた石が後ろから

植松眞人

 犬の散歩に付き合うことになった。
 友人の家に遊びに行くと、そこはとても大きな家だった。なんだか長い板塀が続いて、この板塀が途切れたあたりに、路地でもあり、そこを折れたら友人の家があるのだろうと想像していたのだが、その板塀が友人の家の板塀だった。正しくは、友人の実家の板塀だったのである。
 どんな会社に勤めても、なかなかうまく溶け込めない私だったのだが、今回の転職で最期にしたいという思っていて、だからこそ、転職した初日に「困ったことがあったら、何でも言ってくださいね」と申し出てくれた道畑くんには本当に救われた思いがしたのだった。
 そのおかげなのか、仕事にも比較的早くに馴染むことができ、大きなミスをすることもなくそれなりに仕事ぶりも形になってきた。そう思えた頃、ちょうど仕事を始めて半年くらい経った頃だろうか。道畑くんが声をかけてくれたのだった。
「高橋さん、今度、うちに遊びに来ませんか」
 道畑くんはそう言ったのだった。大学を出て以来、人の家に遊びに行ったという記憶がなかった私は少しその申し出に戸惑ってしまった。
「遊びに行く?」
 私がオウム返しに聞くと、道畑くんは笑った。
「ええ、そうです。遊びにというと妙ですが、実は親戚が北海道にいましてね。そこで牧場をやりながら農作物を作っているんです。で、毎年秋が深まる頃になると、いろいろと送ってきてくれるんです」
「それはいいね」
 私は素直に言った。
「ええ、でも、ちょっと量が多いものでお裾分けをかねてどうかと思って」
 道畑くんはそう言うと、私の返事を待っていた。私がどう返事をしたものかと考えていると、道畑くんは私をリラックスさせるかのように続けた。
「高橋さんのところと、うちは住所が近いですし、きっとうちの母も喜ぶと思うんです」「道畑くんは実家から通っているの」
「いえ、私は会社から三十分くらいのところで一人暮らしです。ただこの時期は毎年、母に呼ばれてまして。母は親戚から届くトウモロコシやジャガイモ、チーズなんかをとても楽しみにしているんですが、それ以上にそれを料理して私に食べさせることを楽しみにしているんです。もう、父は亡くなりましたので、母と私だけなんですが、どうにも母が料理を作り過ぎるので、いつも大変なんですよ」
 道畑くんはそう言うと屈託なく笑った。
「なるほど、だから、僕と道畑くんの二人でお母さんの手料理を食べようってことだね」
 私が答えると、道畑くんは、はい、と元気よく返事をした。
 私は道畑くんとスケジュールを確認し、一週間後の日曜日に昼食をともにしようと約束した。約束をしてしまうと、その瞬間に約束しなければよかったと思ってしまうのは私の子どもの頃からの癖のようなものだ。

     ■

 この長い板塀の家こそが道畑くんの家だということを知って私は驚いた。道畑くんが家を出てからは道畑くんのお母さんが一人で暮らしている、という話を聞いていたので、こじんまりとした二階建ての家を勝手に想像していた。しかし、目の前に現れたのは、長い長い板塀に囲まれた大きな家で、都内では充分に豪邸と呼ばれるような家だった。趣味よく設計された和洋折衷の外観はそれなりの威圧感も漂わせていて、人当たりの良い道畑くんが生まれ育った家というイメージとはほど遠かった。
 私が門柱のブザーを鳴らすと、道畑くんのお母さんの声がした。とても上品な声と話し方で、楽しみにお待ちしておりました、と言い、門扉を開けてくれた。自動で開閉できる扉で、私が中に入ると、扉はゆっくりと閉じられた。
 門扉から玄関までの小道はまっすぐではなく、右に折れてから玄関が見えてくるのだが、私の視界に玄関が入ってきた時には、そこに道畑くんのお母さんが立っていた。
 私は道畑くんのお母さんに、招いてもらったお礼を言うと、お母さんはもう一度、自分も楽しみにしていましたと答えてから、ほんの少し顔を曇らせて、息子の到着が遅れているようなんです、と付け加えた。私がそうですか、と返事をしたと同時に、道畑くんのお母さんの足元をすり抜けて、小さな犬が私の方へ走ってきた。茶色いダックスフントで、お母さんからはリッキーと呼ばれていた。私が試しに「リッキー」と声をかけると、リッキーは私の周りをくるくると走り回った。それから、私の真正面にしゃがんで首をかしげた。
「あら、高橋さんのことを気に入ったようね」
「そうなんでしょうか」
 私が聞くと、お母さんは続けた。
「この子は初対面の人にはとても警戒心をあらわにするんです。こんなに初めての人になついたのは初めてかもしれません」
 そう言われて悪い気はしなかったので、私は玄関口でしゃがみ込んで、リッキーの頭を撫でた。
「もしよかったら」
 お母さんはそう声をかけてきた。
「もしよかったら、リッキーを散歩させてくださらない」
 お母さんから請われて、断るすべはない。そうするのが当然というように、お母さんからリッキーのリードを受け取り、首輪に装着した。
「いつも、敷地の中を回るだけで充分なんです。そうこうしているうちに、息子も帰ってくると思いますから」
 そう言われたあと、私はリッキーを連れて家の周囲の板塀を今度は内側に沿って歩き始めた。
 リッキーを連れてゆっくりと歩くと、一周回るのにちょうど十分ほどかかった。リッキーはときどき立ち止まっては花の香りを嗅いだり、小便をして落ち葉で隠したりした。私はその後をただゆっくりとついて歩いた。
 家の周りを半分ほど歩いたときに、お母さんが台所に窓際に立っているのが見えた。それ以外の窓には当然のことながら、人影はいなかった。
 私はお母さんの影を尻目に、ぐるりと玄関に戻った。道畑くんが帰ってきた様子をはなかった。私はリッキーに「もう一周、歩くかい?」と聞いた。リッキーは当然のように歩き始めた。私はこれまでにもずっとそうしてきたかのように、黙って後をついた。
 二周回り、三周回り、四周目を回っても道畑くんは実家に帰ってこなかった。そして、お母さんはずっと窓の向こうで料理を作り続けていた。私とリッキーは、また家の周囲を回り始めた。日が暮れ始め、家の東側を歩くときには足元が見えにくくなってきても、道畑家の昼食は始まりそうにもなかった。
 何週目かの周回を始めながら、私はもしかしたら今日呼ばれたのは昼食会ではなく、夕食会だったのかもしれないと思いなおした。だとしたら、お母さんがまだ料理を作り続けていることも、道畑くんがまだ来ないことも合点がいく。「そうか、そういうことなんだな」と私はリッキーの背中に明るく聞いてみたのだが、リッキーは散歩に疲れたのか、ぴたりと立ち止まって動かなくなった。(了)

製本かい摘みましては(127)

四釜裕子

夏目漱石の『吾輩は猫である』の復刻版を刊行した九ポ堂二代目の酒井道夫さんの話を、東京製本倶楽部作品展で聞いた(東京・目黒区美術館 2017.2.11)。復刻にあたり底本は大蔵書店刊、明治44年7月発行の寸珍版『吾輩ハ猫デアル』(86ミリ×47ミリ 754ページ)で、酒井さんはリタイア後、〈暇に任せて〉自ら組版されたそうだ。糸かがりで穴は二カ所、見返しを添えて寒冷紗で背固めしてあり、ふつうに読んで丈夫ながら糸さえ切れば本文をいためることなく折りがばらばらになるとのことで、会場にはこれを素材として製本した作品が並んでいた。綴じの方法や材料、技法のいろいろを楽しめたけれども、タイトルに猫の文字を持つあまりに有名な本なのに、表1〜背〜表2を一覧する展示方法においてひと目で猫の本とわかる装いの割合が多くて重かった。自由に個々の存分を尽す発表の場と知りつつ、装丁が一枚のキャンバスではないことを改めて感じられて有意義だった。

明治38、39、40年刊の三巻本のそれではなく、明治44年の初版から昭和5年には129版を重ねていた寸珍版を酒井さんが底本としたわけが語られた。東京製本倶楽部の会報誌No.75にも報告があるが、これこそが読者の裾野を広げたと考えていること、漱石が通して校閲し得た最後の猫本、いわく〈生前の漱石による唯一の「著者認定本」〉であり、〈気っ風の良い江戸弁によるルビ〉が〈江戸っ子漱石の面目を十二分に発揮〉しているからとおっしゃった。三巻本の初版には全体で70数カ所フリガナがあり、没後刊行されたものは〈総ルビがスタンダード〉なのに対し、寸珍版はほどよく付されているそうだ。装丁は三巻本が樋口五葉、寸珍版も五葉のようで、いずれも〈明治期のやみくもな「洋風」〉により、三巻本は表紙より本文が大きくて小口と地が袋になっていて天に金、寸珍版は三方小口にかぶさるような表紙でありながらぴったりの函に入れられたために表紙のはみ出たところが強く折れてしまうなど、それぞれに〈不思議な作り〉をしている。今、そのモデルに比べればかぶれた稚拙な作りで奇天烈だけれども、当時生きていれば私などはそのモデルを知るはずもないからジャケ買い組になっていただろう。一番最近読んだ『吾輩は猫である』はスマフォで青空文庫版である。

狂狗集 4の巻

管啓次郎

あ アルルカン歩かぬ道をばずんと跳べ
い 移行措置星から星への渡り鳥
う 迂回せよ牛と見し世は泥の河
え 栄光を氷砂糖に閉じ込めた
お 沖合に不思議な少女が立つてゐる
か 加水重合といふ現象を説明できなかつた
き 黄金(きん)の夢指輪の影の殺意かな
く 熊楠が大樹の枝に立つてゐる
け 剣とペン無力と力のせめぎあひ
こ 国会にて告解権を奪取せよ
さ さまよひがちな猿に目隠しをする
し 漆黒の夜にアクリル絵具で重ね塗り
す 西瓜も通貨糖と水との価値融合
せ 世界霊を呼び出すのに正解なんてないさ
そ 創意工夫ビーバーダムにきはまれり
た 太陽光に高まる鍋のプレッシャー
ち 珍獣の生態学に酔ひしれて
つ 伝へてよ瞬時の思念の通過光
て 諦念と適度の混乱定型詩
と 東洋で一匹西洋で一匹賢猫を見た
な 奈落に落ちてむしろ楽しくなりました
に 人情より大切なのは歌の友情
ぬ ぬかるみを馴らして都市を建設す
ね 眠りほど楽しき学習なかりけり
の 農耕の夜に南に船出せよ
は ハワイよりタヒチに向かふ偽ゴーギャン
ひ ヒッタイト天馬がめざす消失点
ふ 不老不死不撓不屈の蕗の薹
へ 変声期かすれた叫びの夜声明
ほ ほんたうの歌は心にしかありません
ま マニ教徒のごとく決断するさきつぱりと
み 「未開」といふが開けていいことあつたのか
む むくろひとつ野ざらし紀行の栄養学
め 迷彩服で月の砂漠を歩くのか
も 妄想の彼方にひろがる非在郷
や 刃鈍し鈍器は重しで役立たず
ゆ 優河の声に空があられを送りこむ
よ 溶鉱炉ひと風呂浴びるよ豪傑さん
ら 乱世にかものはしのみ卵胎生
り リッケンバッカー鳴らしてビートを刻んでよ
る 流浪なり流布する噂の系統樹
れ れんこんで喉をやんわり癒します
ろ 露光が長過ぎて仏像が光になつた
わ 和解します物と言とのモワレ縞

別腸日記(3)ボグランドの水(後編)

新井卓

2015年8月、スコットランド西海岸、マル島での短い滞在の最後に、ストーン・サークル(環状立石)を求めて島の南側を訪れることにした。片面焼きのダブル・ベーコンエッグ、ハッシュブラウン、自家製ソーセージにリンゴ、パンとコーヒーの朝食をしたため、親切なB&Bの女将に別れを告げて、トバモリーの町を発った。微風に吹かれ燦々と太陽を浴びながら、何とも気持ちの良いドライヴだったのが、本土を結ぶフェリー港クレイグヌアを通り過ぎるころから、次第に雲行きが怪しくなり、程なく暗雲から大粒の雨がフロントガラスを叩き始めた。時折雲間からはまばゆい陽光が差し込むので、一条の川と化したフロントガラスは乱反射を起こしほとんど何も見えない。

北海から運ばれてくる嵐には、どこかしら、わたしたちの知らない切迫感がある、かすかに轟いてくる遠雷は、車中にあっても身をすくませる凄みを帯びている。しかし、どうせここまできたのだから、と猛烈に往復するワイパー越しに目をこらしつつ、ハンドルにかじりついて車を走らせた。やがて目的地のロックビーに到着するころには、風はすこし収まり、驟雨は小雨に変わっていた。なだらかな草地が奥の方で急に立ちあがって、山々が衝立のように立ちならんでいる、その前景のところどころに、可愛らしい家がぽつり、と点在している。墨を流したような空を背景に、それはどこか現実離れした風景に思えた。

ストーン・サークル、といえば名高いストーン・ヘンジがまず思い浮かぶ。しかし、グレートブリテン島や島嶼部に無数に存在するメンヒル(巨石記念物)は、その多くが地図に載っておらず、まして案内板などどこにも立っていないのが普通である。それらはしばしば広大な畑や牧草地のどこかに現存しており、牧場主の厚意で訪問が許されていることも多い。

メンヒル愛好者のウェブサイトに載っていた座標を手がかりに、それらしい牧場の入り口に車を停める。果たしてゲートの脇に「ストーン・サークル訪問者へ」と小さな看板が出ており、「石を目印に進め/家畜が逃げるから門は必ず閉めること」とつづく。目印の石というのはどこにあるのか──しばらく探しあぐね、ようやく50メートル程先に、ペンキで白丸が印されたそれらしい石を見つけ、歩き始めた。途端、くるぶしまで足が沈み込む。どうやら一帯はもともとボグランド(湿地帯)で、折からの雨でそこら中がぬかるんでいるらしかった。一つ、また一つと案内石を頼りに、慎重に進む。指示された順路は右へ、左へ折れ曲がっているので、タルコフスキーの『ストーカー』を想わずにはいられない。30分ほど歩いただろうか、ついに目当てのストーン・サークルに辿り着いた。

ロックビーのストーン・サークルは、1石が真北に位置する、計9石が描く円の真中心に、1石の独立したスタンディング・ストーン(立石)を擁し、さらに南東、南西、西南西方の離れた地点にそれぞれ立つ二つの離れ石で構成されている。列石が並ぶひらけた草地は周辺より数センチほど沈みこんでいるらしく、そこに入り込むと、しぶきを立てながら、浅い池のおもてを歩くような格好になった。

青銅器時代、いったい誰が、何のために石を立てたのか。太陽の運行に関連があることはほぼ確かとしても、その解釈には諸説あり、検証の手立てがないいま、結局はそのどれもが仮説にすぎない。数千年の年月によって意味だけが完全に揮発したモニュメントは、かつてそこにあった何者かの存在のシグナルとして、ただ明白に、時を超えてそびえつづけている。その実在の異様な強度に眩暈を覚えながら、わたしは長い時間、ただ立ち尽くしていた。

自分はいったい、何が起きるのを待っているのか──ふと我に返ると、あたりにはいつしか乳のような霧がたちこめている。

帰りのフェリーに間に合うためには、もう出発しなければならない時刻だった。あたりが急に暗くなった。また、雨雲が空を覆っているのだろうか。ただでさえ霧で視界が悪いのに、これでは目印の石は見つけられそうにない。しばらく右往左往したあと、思い切って近道をすることにした。羊たちが立っているあたりなら、それほどぬかるんでいないだろう──そう思って数歩進み、あっと驚く間もなく、膝まで一気に湿地にはまり込んでしまった。やれやれ、と思い片足を上げて踏み出そうとする、と、軸足がさらに深く、泥に飲み込まれてしまう。慌ててもう一歩、すると今度は踏み出した足がさらに奥へ──なんと、ものの数十秒で胸の下のあたりまで沈んでしまった。おっとこれはまずい、ちょっと死ぬかも、と内心焦ったが、何とか気持ちを落ちつかせ、身体を動かすのをやめた。動かなければ、とりあえず現状は維持されるようだ。

不思議なことに、羊たちはすぐ目の前を平然と歩き回り、暢気に草を食んでいる。人が一人死にかけているというのに、目もくれようとしない。エディンバラで毎日、酒のアテに、スコッチをたっぷりと回しかけたハギース(ミンチ羊肉の胃袋蒸し)をやっていたことへの恨みだろうか。それとも、羊どもはケルピー(馬の姿の妖怪で、河童よろしく旅人を水に引きずり込む)の手先で、まんまとその罠に落ちてしまったとでもいうのか──。

助けを求めたところで、周囲十キロ四方には、おそらくだれもいないだろう。それに、だんだんと身体が冷えてきたので、じっとしていても低体温症でお陀仏となるだろう。こうして人知れず湿地に沈み、いつかピート(泥炭)となって切り出されてウィスキーへと生まれ変わるのだろうか、ならばそれもけっこう悪くないかも、などと下らないことを考えながら、以前、どういうわけかYouTubeで見た「底なし沼からの脱出法」を試してみることにした。

まず、手に握りしめていた三脚を泥から引き抜いて水平に持ち替え、わずかな浮力を稼ぐ。それから、腕で泥を掻いて身体を少しずつ後方へ倒し、背泳ぎの体制に近づけていく。10分ほど格闘しただろうか、ようやく湯船に浸かっているような姿勢まで立て直し、あとは振りかえって、そこに生えていたイグサの束を掴んで這い上がった。

ほうほうの体で車まで戻り、全裸になって震えながら体を拭いていると、向こうからトレッキング姿の若い男女が歩いてやってきた。やはりストーン・サークルが目当てだろうか、ゲートの方へ近づいていく。「近道するな、死ぬから!」と親切に教えてあげたのに、変な顔をして黙って行ってしまったのは、もしかすると今ごろ、二人仲良くピートになっているかもしれない。

それにしても命あっての酒種、ではなく物種というものだが、こうしてストーン・サークルに詣で、ボグランドの洗礼を受けたからには、これから誰に恥じることもなく存分に飲んでよい、ということなのだろう。

クレイグヌアへと急ぐ道中、曇天が割れ傾いた太陽が濡れた道路を黄金色に輝かせていた。冷え切った身体は、アルコールも入れないうちからぽかぽかと指先まで暖かく、乾きはじめたジーンズから、泥の匂いとともに植物性の香気が立ちのぼってきた。

斜め格子

高橋悠治

青柳いづみこと『ペトルーシュカ』連弾版を練習している キュビズムの多面体 音やパターンの伸縮や切断と組みかえ 4本の手の位置が入れ替わる リズムや質感の思いがけない変化 断続は非周期だが機械的な拍にもとづいている 『春の祭典』連弾版は大きなブロックの交代だった

5月の終わりにはストラヴィンスキーの『ピアノソナタ』(1924) と「イ調のセレナード』(1925)を浦安音楽ホールで弾く ディジタル(指)な運動 みかけはバロック 機械的な長いフレーズのなかの対斜や半音移動 近代主義の裏に漂う喪失感と儀式性か

練習で反復は避けて可能性をためす 変化の枠を崩し 響きの止んだ後に自由な空間を見渡す 音から遠ざかり 複雑を単純に還元しないで 不規則に分節する 動物の跳躍 身軽さ

作曲は『散らし書き』から『移りゆく日々の敷居』へ 映像と短歌とピアノの音 吉祥寺美術館の北村周一個展『フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前』の関連コンサートのため はためくうごきや斜め格子 まばらに散る音 あしらう音 からまる線 残る指をふちどる点 揺れ動き 波打つ空間