いろいろと

大野晋

1か月ぶりです。

GWの初日。ばたばたした一日の終わりに風呂に入って、出た際、タオルで体をふきながら違和感を感じると、ふと、壁に尋常ではない量の血が飛び散った後を発見。
なにかと思ってふき取っていると、その飛び散りが脱衣場のあちらこちらに広がって、気が付くと足元にも尋常ではない量の血だまりができていました。

すねにあった傷口がぱかっと開いて、血が止まらない状況で、ようやく脱衣場から抜け出して、仕方ないので自分で119番に電話をして事情を話して、救急車を呼びました。10分ほどしてから到着した救急隊の方にとりあえず止血処理してもらいました。「こんなので救急要請して申し訳ない」と言うと、「いや。これは呼んでいいです」と言っていただきました。その後、GW初日の夜中に処置してもらえる病院を探してうろうろと(実際には受け入れ要請を断られ続けて延々と電話連絡をしてもらっていたのですが)、結局、長年かかりつけにしている病院に受けてもらい、なんとか傷の手当ても無事に終了しました。

いやはや、とんでもない思いをしました。しかし、もつべきものはかかりつけの病院ですね?

そんなわけで、ひと月お休みしました。元気なけが人です。すねがまだ痛いです。病院できれいに傷のかさぶたなどが取り去られてしまいましたので、ぽっかりと2センチくらいの大きさの深い穴が開いています。皮が全部とれたので修復には時間がかかるのだとか。傷としてはきれいなものです。

おとなしいながらも、家の整理を敢行して、コミックスを中心に500冊弱の本を新古ショップに売り払いました。結構な冊数だったのですが、まだまだ、家の中にはあるという事は在庫はおそらく4ケタ以上だと思います。ま。その中で読まないもの、どう考えても読み返さないものを選択しました。以前はなんでもかんでも出してしまい、その後、苦労して買いなおしましたから今はそこまで無理して減らすことはないですけど。

書店の店頭でコミックスを見ていると、今は男女問わずに同じコミックスを購入する傾向があるようです。少なくとも、昔の少女コミックスというジャンルについてはほぼ絶滅危惧種状態ですね。まあ、昔ながらの男の子コミックスもあまり見かけなくなりましたし、作家も女性が多く男性誌と呼ばれたジャンルの雑誌に登場しています。そして、少なくともデビュー時に随分と画力のある新人作家が多いですね。そうなると、勢いばかりの男性漫画家よりも、しっかりとした画力がある女性漫画家が有利になるのでしょうか?それと、きちんとしたストーリーテリングができるのも女性作家の特徴かもしれません。

日本のワインも随分と買い込みましたが、この話は次の機会に回しましょう。

151 糸游に

藤井貞和

闌声(らんじょう)とは、わざにたけて、
かたちをやぶるという、ある種の境地を言うそうです。
乱声(らんじょう)にも通じます。
ねんれいでなく、
好奇心があり、
悠治さんのしごとをかこむ、
そしてジャンルにこだわらず、
第一の糸は語る、
第二の糸は歌う、
第三の糸は弾く、
笙の遊びや、
箏の遊びや、
太棹の遊びや、
打ち物の遊び、
一絃琴の遊び。
糸の遊びにふりゅうのにわがひらかれ、
乱声、乱声、その戸をたたく精霊のうごきが、
きょうのおとをつたえます。
詩人のみなさん、いま詩の声(=おと)が聴かれますかと、
高田さんがそう問いかけています。

(新井さんが詩誌で十一回忌というか、十年の歳月を特集するというので、寄稿しました。)

仙台ネイティブのつぶやき(22)見えない場所

西大立目祥子

 25年ほど前、父のガンの手術と治療のために足しげく病院に通っていた時期がある。

 病棟に足を踏み入れるとツンと消毒液の匂いが鼻をつき、決して快適とはいえない病室にはぎっしりベッドが詰め込まれて、術後のからだをいやす人たちが横になっていた。でも、ガン闘病というようなとおりいっぺんのイメージと雰囲気は違っていて、新聞を読み、テレビを眺め、談笑するようなおだやかな時間もそこにはあった。

 階下に行くと、髪の毛の薄くなった子どもたちがカラフルなパジャマで走りまわり、ベッドに小さなテーブルを乗せて書き取りをする子がいる。屋上では洗濯物が風に揺れ、おしゃべりしながら洗濯機をまわすお母さんたちの表情が思いのほか明るいのに驚いた。病院は生活の場でもある、と気づかされた。

 そのころ私は疲れを知らない30代で、術後なかなか熱の下がらない父の額のタオルを冷やすために、病院から借りた小さな簡易ベッドの上で一晩うつらうつらしながら過ごし、朝8時半になると顔を洗いジャージをシャツとスカートに着替えて、自転車で会社に向かった。
 
 ラッシュの人の波をぬって走りながら、思ったものだ。毎日元気に働き、会議だ売上だ、と追いまくられていたら、病院で治療を続ける人たちがいるなんて想像できないだろうな、と。病院は「見えない場所」だな、と。

 晴天の霹靂。この春、私はその見えない場所の住人になった。健診で異常が見つかり、手術のために10日ほどの入院が必要になったからだ。大腸内視鏡だ、胃カメラだ、CTだ、と初めてづくしのドギマギする日々が続き、入院の手引き、手術や麻酔の説明書をよく読むようにと手渡された。

 手引きには、入院時には「マニキュア、ペデキュア、ジェルネイル、つけまつげ、ピアス」をとることとあり、手術の説明書には「入れ歯、補聴器、メガネ、コンタクトレンズ、時計、指輪、ヘアピン」などの身につけているものすべてをはずす、とある。そうか…社会で生活するために必要としていたもの、というか自意識をすべてはぎ落として、ただのヒトとして病んだカラダを手術室のライトの下にさらさなければならない。だんだん気持ちの準備ができてきた。

 主治医です、と現れた医師は、まだ少年の雰囲気を残すような色白で小柄な人だった。まだ30歳ぐらいだろうか。その若さに、父との会話がよみがえる。「執刀する先生っていくつぐらい?」そう聞くと、父は「おまえぐらいかなあ、いや3つ4つ上か」といい、私は自分の頼りなさを思い、30そこそこで大手術がやれるんだろうかと不安を覚えたものだ。でも、いまならよくわかる。入ってくる仕事のすべてがおもしろかったあのころ。怖いもの知らずで勢いのある30代は、難しい事も楽々超えていけるパワーに満ちているときだ。

 そして、担当です、とベッドわきに立った看護士さんが付き従えていたのは、この春採用という看護士になりたてほやほやの若い人で、パフスリーブの白衣から伸びている腕はほっそりとして、これまた少女のよう。まだ固い表情の横顔を見ながら、若い人に支えられて自分が治療に入ることを思い知らされる。私はいつの間にこんなに歳をとったんだろう。

 入院したその日、すたすた歩いていた隣のベッドの人に「私、おととい手術して明日退院なの」と話しかけられ驚いた。「この部屋はすごく回転が早くて、みんな4、5日で出ていくのよ」と静かに話すその人は、40代後半ぐらいだろうか。「早期の乳がんなんだけど、いま思うとこの何年か、子ども3人の面倒みて、パートに出て、睡眠時間3、4時間だった。無理しすぎたのね」と淡々と続ける。私もそうだった。断れきれない仕事に汲々として、介護に右往左往して、自分のことを後回しにして、眠る時間を削っていた。「退院したらどこかで会うことあるかもね」「そうね」二言三言なのに、傷ついた者同士、もっと自分のこと大事にしようね、元気になろうね、という共感に包まれたやりとりに気持ちが和む。

 ことばをかわしたディルームとよばれる部屋は南に面していて、大きな窓から春の日差しがさんさんと射し込む。花盛りが最後にくる八重の桜が散り、樹々が緑に染まっていく季節だ。遠くに雪をかぶった蔵王連峰が輝き、その右には仙台のシンボル、三角のおむすびのような太白山(たいはくさん)がちょこんと姿を見せている。視線をその下に移せば、そこは私の生まれ育った街だ。
 ほわほわとやわらかな緑に染まるのは、通った小学校。ときどき買い物に行くスーパーの看板の陰には、猫を連れて毎日通った動物病院があるはず。図書館に通う道のわきには、幼なじみの家の屋根も見える。ついこの間まで、あの通りをのんきに歩いていたのに。まさか、入院、手術なんてことになるなんて。

 手術日は朝早く体内の電解質を整えるというペットボトルを飲むよう渡され、血栓予防の加圧ストッキングをはき、歩いて手術室に向かった。入ると、サティのピアノ曲が低くかかっていた。上半身の衣服を脱がされながら「よかった、これ好きな曲」というと、一人の看護士さんが「まあ、私が選んだの、大正解ね」といい、あとは麻酔を入れられ意識がなくなった。
 その日は一日、手術した下腹部の激しい痛みに悩まされた。説明されていたとおり、全身管だらけ。それでも寝返りを打つようにいわれ、ベッドの柵にしがみつきながら半身を起こすと、突然嘔吐に襲われる。でも痛くて苦しいのに、いくらでも眠れる。そういうと「一睡もできない人もいるのよ、エライ」とほめられた。辛抱強いというより、痛みに鈍いんだろうか。

 2日目の午後には、早くも歩行練習が始まった。術後、何よりこわいのは血栓らしい。最大の予防は歩いて足裏を刺激し、全身の血流をよくすること。点滴と背中の麻酔の針とおしっこの管とドレーンという排液の管をつけたまま、何とか起き上がり歩く。上半身を起こしたとたん、血流が変わるのを感じる。痛いしやっとやっとの歩行だけれど、ヒトって歩かないとだめなんだというのが、よくわかる。

 3日目の朝のことは忘れない。目が覚めた瞬間、自然と笑顔になれて、みんなに「おはよう」といいたい気分だったから。ひどい痛みが遠のいている。回診の先生たちに「今日は、元気です」といったら、「いいねー」の声とともに管をはずされ、お昼からはおかゆになった。なぜかわからないけれど、本が読めるようになったのもこの日からだ。細胞にとって48時間というのは、回復に必要な時間なんだろうか。この日の夜は、術後初めて歯を磨き、石けんで手と顔を洗った。歯磨きしながら、いつだったか、激戦地で助かった日本兵はみな身なりに気を使う人だった、と誰かがいっていたのを思い出した。その謎が解ける。顔を洗い、髪をすく…身支度を整えるというのは、余力なのだ。カラダがひどいダメージを受けているときは、そんな余裕はない。

 私が回復する間にも、病室の人は入れ替わる。甲状腺の手術を受けた人が退院し、夜遅く盲腸の手術を終えた人が入ってきた。深夜、腸閉塞のおばあちゃんが担ぎ込まれ、カーテン越しに「痛い、痛い」としぼるような声で訴えるベッドまわりが、にわかにあわただしくなったこともあった。次の朝、私の主治医の先生が「◯◯さん、手術して直そうね」と話しかけ、看護士さんが「大丈夫よ、私たちがうまくやるから、心配しなくていいわよ」と説得していると、「先生、手術室空いたそうです」と、もう一人が駆け込んでくる。「えぇっ、いまか。わかった。やろう!」と飛び出して行く医師。
 本当に医療の現場の若い人たちは、だれもが真摯で懸命だった。このまちが再び大地震に見舞われることがあったとしても、戦争が始まる日がきたとしても、彼ら彼女らは目の前の弱った人のために手術を続け、検温に歩くだろう。

 手術から6日目に退院した私は、その2日後には街を歩いていた。見上げると、病院がすぐ間近に白くそびえている。この仙台市立の総合病院が2014年の暮れ近くに、ここに新築移転したことはもちろん知っていたし、手術のための検査にも通院していた。でも、見慣れた街のすぐ向こうにこんなふうに見えることに、どうしていままで気づかなかったんだろう。

 9階の大きく切られた開口部─何度も風景を眺めたディルームが見える。つい10日前、私は手術を控え不安をかかえてあの窓越しに町を見下ろしていたのだった。いま、私は回復してその窓を見上げている。見下ろす私と見上げる私の視線は呼応し交錯し、まるで合わせ鏡のように互いの姿を映し出す。
 私にとって、病院はもう見えない場所ではなくなった。そこは、日常にふりまわされそうになる私に、もうひとつの暮らし方、別の時間があることを教える。そして、いつかまた、見下ろす私と見上げる私が入れ替わる日がくるのかもしれない。
 午後5時。今日の晩ごはんは何にしようか、と気にし始めるころ、病院は夜勤の看護士さんたちの交代の時間だ。「夜担当の◯◯です」という声が、きっと今日も病室に響いているだろう。

オパール石

璃葉

天文台のおじさんがポケットから取り出したのは、オパールの原石だった。
わたしはふだん、彼のことを苗字にさん付けをして呼んでいる。
明るくお茶目だが、すっと背筋がのびた姿勢が素敵なのだ。おじさまと呼びたい気持ちもある。
おじさんは天文台の台長として仕事をしながら、よく石掘りにでかけている。
久しぶりに会う機会があって、鉱石のことや今年の日食のこと、身の回りのことを一頻り話した後、別れ際にとつぜん「あげる」と、嬉しそうにオパール石を渡されたのだった。

その石はわたしの手のひらの窪みにちょうどおさまった。石特有の冷たさを感じる。
ゴツゴツしたその原石は、赤に近いえんじ色の部分が目立っているが、よく観察するとそこから橙色、灰色、薄黄色、クリーム色、薄水色、灰色にひろがって、そこにまたえんじ色が挟まっている。
目を細めて見ると、色は繰り返しの層になっていることがわかる。一切の細工のない自然のかたちだ。
岩石ハンマーをつかって自分で採掘する石もよいけれど、ポケットから不意に渡される石もうれしい。
考えられないほどの巨大な地層の一部分から選ばれた、宇宙のかけらである。

しもた屋之噺(185)

杉山洋一

この日記を書いた後、白河の小峰城二の丸で沢井さんと有馬さんの拙作初演に立ち会いました。天守閣を目の前にいただく演奏会場は広々としてとても心地よく、一面の緑がとても目に鮮やかに映ります。沢井さんは、明代の七絃琴「洞庭秋思」をもとに、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を、緩く絃を張った十七絃で詠み下してゆきます。悠治さんの「橋をわたって」のように、ツメもつけずにつま弾くので、どろん、どろろん、という音が響きます。沢井さんの筝が対峙しているのは、その場の沢井さんご自身の音を変調させ、素材としてコンピュータに一時的にストックさせたもの。それを素材として、有馬さんも李白の「洞庭湖に遊ぶ」を詠んでゆきます。楽譜には句の詠み方が何通りか書いてあり、それを各々が選択し、思い思いに詩を詠みあうなか、各々が耳を澄ました瞬間に生まれる有機的な反応が、とても魅力的でした。鳥のさえずりや、時たま通る東北本線の汽車の音と、夕間暮れの城、すっかり溶け込んでいるのでした。

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5月某日
朝、ピアチェンツァの城に遠足に出かける息子を、キックボードの二人乗りで学校まで連れてゆく。行き付けのパン屋で彼の昼食用のピザと、午前と午後の二回のお八つに、小さなフォカッチャをいくつか。それに水を購う。こちらはこの折にこのパン屋で朝食を済ます。学校から戻り、泥棒が庭の土塀に置き忘れて行った梯子を粗大ごみに出そうとするが、出来ず、そのまま学校へ出かける。今日は大学生必修のイヤートレーニングのクラスで、シチリア出身の学生も何人か居る。今日の最終便でパレルモに飛ぶというと、皆決まって最初は羨ましがり、次には、そこには懐かしさと憎しみが交ざっているのです、と付け加える。
夜半日付が変わってパレルモの空港に着き、泥のように眠る。

5月某日
パレルモの光景は、アンデルセンの「即興詩人」冒頭の瑞々しい描写を思い起こさせた。
マッシモ劇場の大階段に、若者たちが腰を掛けて大声でじゃれあう姿は微笑ましい。その前には馬車が数台留まっていて、観光用。馬のヒズメが石畳に響き、アラブ風の小さなキヨスクが2軒、左右に可愛らしく建っている。その辺りには常に黒い大きな犬がだらりと寝そべっていて、ずっと店主の飼犬と思い込んでいたが、どうやら野良犬のようだった。パレルモは、そこかしこに野良猫が佇んでいて、子供などが、アパート2階のヴェランダからパンや菓子を放っているのにも何度か出くわした。息子の歴史の宿題を手伝っていて、ノルマン人、アラブ人などのシチリア侵攻などを復習したばかりだったから、パレルモの乾き、少し剥げかけた茶色の街並みは、まるで多層文化が放つまばゆい輝きに包まれているようで、鳥肌が立った。
街並みにこれほど感激したのは、ローマとパレルモだけ。それぞれの街に美しさはあるが、この二つは圧巻だと思う。

マッシモ劇場の目の前に初めて立つと、その荘厳さに言葉を失う。劇場というより寧ろ教会のような巨大なクーポラが目を奪う。劇場の周りに無数の老若男女が座り込んで憩う姿など、ミラノでは想像もできぬ。感激しながら、関係者入口に足を踏み入れ、練習場所を尋ねると、受付の妙齢は、この場所は名前は知っているが、行ったことがないので道順は教えられないと困った顔で言う。

わざわざ両性用、と指定されたお手洗いに出かけると、便座が半分だけ外れている。外して使うわけにも行かず、付けたまま使おうとすると回転して使えない。
理由はわからないが、石造りの外階段の下に、チェンバロが無造作に放置されていて、通路の暗がりに自転車が立て掛けてある。すっかりこの土地が愉快に感じられてくる。

ここの劇場もオーケストラも初めてだが、特に人懐こい印象はなかった。喋り声が大きく落着かない。練習の最中に弦楽器の編成を減らしたい、と事務直側が言うと、オーケストラは凄い剣幕で反発。殴り合いになるそうで、冷や汗をかいているのに、周りは慣れているのだろう、平然としている。カヴァレリア・ルスティカーナを思い出す。偉いところへ来てしまった。

練習が始まって1時間ほどして、作曲のベッタがやってくる。
「盗まれた言葉」という題名が書いてあったが、変えたのだと言う。ボールペンで大きく「空」と書き直した。
「これはレクイエムなんだ。パレルモ、シチリアだけでなく、すべての失われた命へ捧げている」。
「木管楽器が浮かび上がっては消えてゆくだろう。これは一人一人の魂なんだ。死んだ者の魂はどこにでもいられるんだ。見えないけれど、あのカーテンの陰で、祖父がこちらに微笑みかけているかもしれない」。
初対面でいきなり幽霊の話などされたものだから、吃驚して、オスカルにシチリア人は随分信心深いねと半ばふざけて言うと、真面目な顔で、その通りだと応えるものだから、愈々考え込んでしまった。

5月某日 パレルモホテル
朝食を摂っていると、宿の主人が本を携えてやってきた。あんたは日本人だろう、と尋ねるので、そうだと答えると、これを読むと良い、とずいぶん詳しいパレルモのガイドブックを手渡いてくれる。「これは日本語で書いてある。あんたは仕事で忙しそうで、到底パレルモの名所など訪れる時間もなさそうだ。せめてこれを読んでこの街の素晴らしさに触れておくれよ」。

お世辞にも豪華とは呼べない、10部屋もないと思しき小さな宿屋の主人は、恐らく時間を見つけて古本屋でこの日本語のガイドブックを探しにいってくれたに違いない。胸が熱くなった。
朝食は、皿から溢れんばかりに盛ってくれるフルーツポンチとヨーグルトと自家製ケーキ。淹れたてのコーヒーは、ミラノよりずっと味が固く、力強い。角のある風味。目の前の通りから、笛と太鼓で奏でるサルタレルロが聴こえてくる。

5月某日 パレルモホテル
シチリア人は信心深い、という言葉がずっと頭を反芻していて、今朝はオーケストラの練習はなくしたので、歩いてカプチン会の地下墓地へ出かける。
昼食代わりに、道端にある果物屋の露店でさくらん坊を買う。2キロ2ユーロでいいよ、と言うが、歩きながら食べるので、到底無理だと断り、1キロ。固いザラ紙を器用に漏斗状にするすると丸めて、そこにさくらん坊を入れて、手渡してくれる。

朝早くから、窓の外で誰かが意味不明の言葉を怒鳴っていたのだが、カプチン会通りに右に折れたあたりで、塗装も剥げすっかり草臥れた三輪トラックに老人が凭れて、同じが鳴り声を上げている。
よく耳を傾けると、トマト1キロ何ユーロと嗄れた朗詠調で歌っていて、周りのアパートの窓が開いて、ちょいとあんた、今日はトマトを何某、オレンジ何某おくれよ、と老女が大声を上げる姿を眺めるのは、幸せな気分になる。その小さな三輪トラックに、ほんの数種類の青果しか載っていないのが不思議だった。

入口で僧侶に3ユーロを払って地下墓地へ降りると、色もすっかり消えかけ埃だらけの古い服を着た何千というされこうべが、整然と壁に並ぶ。高い天井あたりから、こちらを見下ろすようにつられた骸骨の下には、3、4層の壁に掘られた穴に、風化した服を着る骸骨が横たわる。
ミイラとなって皮膚が残っているものもあれば、されこうべの中身がすっかり空洞になっているのがみえるものもある。腕や胸のあたり、服の中には藁をつめ、丸みをだしている。

並ぶ遺体は、男性有力者の区画、その妻たちの区画、子供たちの区画、有力者の一族が全て集められた区画、僧侶たちの区画、手工業者の場所と丁寧に分けられていて、博物館のよう。聞けば、18世紀から19世紀にかけてここに死者を葬るのが盛んだったという。
初めは流石に少し居心地が悪いのだが、慣れてくると、自分が別の世界に迎え入れられているような気がしてくるから不思議なものだ。決して気持ちの悪い光景ではなく、荘厳な空気さえ漂うのは、おそらくされこうべの表情が穏やかだからではないか。
されこうべはそれぞれ別の顔をしていて、表情も随分違って、中には笑っているように見えるものすらある。そして、それぞれが生前の自らの服を纏い、名前なども掲げられている。
悪いものではない。死んだ祖父母、会ったことのない祖祖父母のされこうべが、自らの服を着て、この天井から吊り下がっていたら、会いに来たいと思うだろう。
されこうべが、当時の本人の服を着ていると、厭が応にも実感が増す。

13時近く、閉館まぎわに幼児を連れたアラブ人の若い夫婦やってきたが、この只ならない気配を察したのか、幼児はずっと嫌だと泣き叫んでいて、子供も夫婦も気の毒だった。
劇場の近くには、考古学博物館があって、その昔死者の街と呼ばれた、ネクロポリスから出土したさまざまな装飾品、家具、副葬品などが無数に並ぶ。
学生時代、地中海文明、エーゲ海文明の装飾された壺や瓶の写真を眺めるのが好きだった。死の世界というより、寧ろサティロスが悪戯をする様など、大らかな性の描写など面白がって読んでいたのかも知れない。目の前で眺めると、丁寧に書き込まれた描写は、独特の二次元感を醸し出していて、古代エジプトの絵画を思わせる。
シチリアの広大なネクロポリスとカプチン会の地下墓地が、自分の裡で時代を超えて繋がる。そこにベッタやオスカルのような、現代シチリア人の死生観の礎を見る。その後でリハーサルに臨むと、オーケストラの音が変わってくるのは、何故だろう。

5月某日 シチリアホテル
パレルモの劇場前には、食堂が犇めき合う細い辻が2本あるが、結論から言えば、そこには一軒だけ本当に美味で、その上安価な食堂があった。最初に地元の馴染み客が並んでいるからと入ったときに、パレルモはどこでもこんなに美味しいのかと勘違いして、2,3軒は他にも入ったが、どこも高いだけで酷く失望させられた。

20年以上イタリアに住んだなかで、こんなに瑞々しく生き生きとした料理を食べたのは初めてで、ショックを覚えるほどだった。パスタは日に3種ほど、主菜は肉か魚の2種ほどしかなくて、その周りの付け合わせの盛合わせは、3品と6品の二種類を選ぶ。あとはその場で揚げるコロッケを挟んだサンドウィッチや、巨大な丸鍋でその場で料理する内臓料理のサンドウィッチ、ぶつ切りのスイカ。

品書きには「本日のパスタ・エスプレッサ」と書いてあって、「その場仕上げのパスタ」というところか。意味が分からなかったが、日本の立食い蕎麦屋に近いを想像すれば良い。
カウンターに行くと番号札がおいてあり、それを各自取って番号が呼ばれるのを待つ。中では大きな鍋で5人分くらいのパスタを茹でていて、茹で上がったところで、それを皿にもって「はい、56番」などと呼ばれる。それで、カウンターで「茄子とトマトソース」などと言うと、その山盛りのパスタにトマトソースをかけ、その上に揚げ茄子を数枚載せて出してくれる。
だから、ソースをかける類のパスタしか当然用意されないし、パスタの量も多すぎるが、何しろ美味しいのは何が違うのだろう。見ていると、ソースすらかけないで、自分でオリーブ油だけをかけたり、チーズだけをかけて食べる馴染み客も結構いる。
困るのは、そのカウンターのところに、番号を待つむさ苦しい中年男性が給食を待つ小学生のようにわいわい屯して、通行を妨げることくらいか。そこには無論自分も加わっているわけだけれど。

本番の日、流石に昼食にこのパスタでは胃がもたれて演奏会に差し支えると思い、魚の主菜を頼むと、30センチはゆうに超えるカジキマグロのステーキが出てきて、仰天した。こんな料理は他では見たことがない。

歳の頃、7,8歳と思しき少年がおずおずと入口に立ち、中を暫く眺めている。身なりはジプシーのようでもあるが、それにしては狡猾そうなふてぶてしさがない。第一、少し恥ずかしそうな、不安そうな顔をしている。暫くして中に入り、テーブルを回って、恥ずかしそうに手を差し出す。自分のところにもやってきたが、少しだけ迷ってから、断った。断りながら、この子はなぜこの時間にここにいるのだろうと不思議に思う。孤児かしら。どうして独りでいるのだろう。
ふと気が付くと、少年はカウンターに立っていた。カウンターでもお金をねだるのかと訝しく思って眺めていると、女主人がスイカを皿に切り分け、ナプキンも渡して、水が入ったコップを渡している。それを持って少年は皆が食べているテーブルの一つに座って、ナイフとフォークを丁寧に使って、静かにスイカを食べだした。後から店に入ってきたオートバイのヘルメットを小脇に抱えた妙齢も、特に気を留めることなく、その少年のテーブルと相席で、スマートフォンを眺めながらスイカを食べている。ここでは昼食に大きなスイカをのんびり食べる人は、男女関わらず結構いる。
こんな光景は、ミラノでは見られない。せいぜいスイカを受け取った少年は、追い出されるか、逃げるように店を出てゆくに違いない。自分の裡の厭なものを見た気がして、そそくさと店を後にした。

5月某日 パレルモホテル
長らくマフィア抗争による目立った殺人は起きていなかったが、ファルコーネの命日に際して、出所したばかりで、最早老け込み権力もないボスが一人、意味もなく殺された。
マフィアが自分たちの存在を誇示したのだろうと口々に言う。
マンチェスターでは、ライブ会場で爆発が起きた。ボルセッリーノの爆殺現場のような光景が、今日も世界のあちこちで繰返されている。

オスカルとフルヴィアの家に夕食に招か、作曲のベッタと演出のジョルジョとパートナーのオリンピアと連立って出かける。
作曲のベッタも検事の親友を一人、マフィアに殺された。
「アントニオが殺される1か月前、二人で食事に出かけた。当時は毎日どこかで殺人があって、殺人が日常になっていた。マフィア間の抗争だから、基本的には我々に危害は及ばないと信じていたが、余りに多くの人間が関わりあっているので、誰でも友人の一人や二人は何らかの形で失ったのではないだろうか。アントニオに最後に会ったとき、疑い深く常に周りに目を光らせていたのをよく覚えている。彼とは一緒にセミナーをやったこともある。彼と二人で車に乗ると、左右前後にはぴったりと護衛車がついた。いつもと違う道を通るので、運転手にどうしたのかと尋ねると、あなたは知る必要のないことだ、と淡々と言われた。もしマフィアが経営していたら、と思うと、レストランに入るのも恐ろしかった。そして、アントニオは殺された。
当時、マッシモ劇場の舞台監督の一人も、シチリア交響楽団の経営首脳陣の一人も、マフィアとの関係を告白した。それだけ我々の身近はマフィアに染まっていたんだ」。

5月某日 パレルモホテル
演出のジョルジョは少しエミリオに似ている。二枚目で、話し方も洗練されている。人見知りのところもそっくりだ。こちらが名前で呼んでも、ジョルジョは頑として指揮者先生と呼び続けていたが、オーケストラのリハーサルに立合った頃から、自然とヨーイチになった。

エンニオが到着するという日、彼はローマ発の飛行機に乗遅れ、リハーサルの開始は3時間ほどずらされた。
彼が台本を読みだし、空気が一瞬にして変わるさまは、圧巻だった。台本を通して、何かが憑依するように見える。楽譜を通じて、音楽家に何かが降りてくる、というのに近い。余りに言葉が真実味を帯びていて、これも演技なのかと訝っていると、読み終わった途端、彼は「済まない」とだけ言残し、目頭を押さえて部屋を出て行ってしまった。
そこにいた全員、暫し言葉を失う程に感動していて、エンニオのいない部屋に、自然と拍手が沸き起こった。

エンニオは子供の頃から作曲家になりたかったと言う。「家が貧しかったからピアノを習わせてもらえなかった。それで、15歳くらいの時、姉貴がシェイクスピアの本を貸してくれて、バン!こう衝撃を受けたわけさ。そんなわけで、こんな人生になっちまった」。
「音楽は最高の芸術だよ。言葉は国や文化が違えば通じない。音楽はそうじゃない。誰とでも通じ合い、愛し合うこともできる。俺にとって最高の芸術はオーケストラさ。様々な人が集まって一つのエネルギーを作り出す凄さはない」。
「キース・ジャレットのローマ・ライブは一生忘れられない。あの時は、音に神が降りてきていたよ」。
「この台本を、落着いてなど、到底読み続けられない。我々にとって、ファルコーネ・ボルセッリーノ爆殺事件は、現在の政府への憎しみそのものだ」。
彼は毎回涙を流しながら、台本を読んだ。眼光はこちらが慄くほどに輝いていて、そこに泪が溜ると、ちょうど夜のシチリアの海の向こうに明滅する、橙色の街灯を思い起こさせた。
エンニオは一度台本を読み始めるとすぐに没頭して、読み続けてしまうので、毎回彼の台詞の切欠は、こちらから左手の親指と人差し指でオーケーを作って出していた。こちらをじっと見つめているので、瞳が潤んでいるのがよく分かるのだった。

ボルセッリーノの爆殺現場写真を投影しながら、エンニオは現場から抜き取られたボルセッリーノの赤手帳について話す。凄惨な写真が続くが、実際はもっと酷い状況で、それらの写真は投影されなかった。
爆殺現場に最初に駆け付けたカメラマンが、練習の合間に話しかけて来た。
「近くに白い人形が転がっているので、訝しく思って近づくと、手足の捥げた遺体だった。ちょうど現場から700メートルくらいのところで車に乗っていて、家内と息子を車中に残し、必死に駆け付けた。家族と再会したのは、それから72時間後のことだった」。
近くにいた別の新聞記者も口を開いた。
「あの爆殺現場のビルの五階まで、血飛沫と皮膚の残骸が飛び散ってこびりついたんだ」。
コンサートマスターのサルヴォも口を挟む。
「あの時は、街の反対側でレッスンをしていたんだけどね。窓がビリビリと震えてね」。
演出助手のウーゴは、まだ子供だった。
「あのドーンという爆音と、その後に高く立ち昇った黒煙は誰も忘れない」。
その言葉を嚙締めながら、その現実の中に生きる演奏家たちと音を出す。
エンニオはその情熱に応えるように、一言一言に力を込めた。

本番当日、ドレスリハーサルの後で、ジョルジョと最後の打ち合わせをしたあと、エンニオの楽屋を出て、隣にある指揮者楽屋で着替えていると、隣から、不思議なラグタイムが聞こえてきた。エンニオが小さな竪型ピアノを叩いているのだ。左手のオスティナートは、毎回微妙にリズムがずれていて、その上割り切れない拍子になっている。単に不器用でそうなっているのかもしれないが、それにしては右手はきれいに拍節があっていて、ちょっとナンカロウのように聴こえる。

もしかすると彼はとんでもなくピアノが上手なのではないかしら、と少し訝しくなったが、部屋で休みたいので、そのまま楽屋を後にした。天井の高い廊下には、劇場の厳めしい制服を着た美しい妙齢二人が、エンニオの出てくるのを待っていた。彼が出てくれば仕事から解放されるらしく、「もうすぐ出てくるよ」と声をかけると、「そう願いたいものだわ」と二人で顔を見合わせて溜息をつくさまが、現代っ子らしく可笑しい。

5月某日 ミラノ自宅
舞台の最後で、劇場のバルコニー席全てから、白いシーツが垂らされる。25年前、パレルモで巻き起こったマフィア撲滅の旗印のこの白いシーツは、死体をくるむ布を象徴している。
エンニオが舞台の終わりで、さあ、皆さんもシーツを垂らしてください。どんどん垂らしてください。声を上げてください。と観客に語り掛けると、バルコニー席一つ一つから、流れるようにさらさらと音を立てて白い布が垂れてゆき、まもなく劇場の壁面を全てをシーツで覆った。
そこに、マフィアによって殺された無実の市民の恋人、遺族の写真が大きく投影されて、盗まれた言葉の欠片が浮び上る。
公演の始まる前から、オーケストラからも、聴衆からも、関係者一同からも、異様な熱気を感じていた。
現在のマッシモ劇場の裏方として、ファルコーネ検事、ボルセッリーノ検事の家族や親戚も働いていて、毎日顔を合わせていたと、一番最後に知った。最後まで彼がファルコーネの家族だよ、などとは誰も教えてくれなかった。
観客の中では、最初から最後まで号泣している人たちもいて、フラヴィアが座ったバルコニー席には若くして殺された警官の恋人が泣き崩れていたと聞いた。オーケストラの音に、何度も鳥肌が立った。彼ら一人一人が何か大切なことを思い出しながら弾いているのが分かった。
真実の音だったけれど、もっとずっと声に近いものだった。
朝焼けの朝5時、ガイドブックをプレゼントしてくれた宿の主人が、空港まで車で送ってくれた。

「シチリアは無知がまだはびこっているんです」。
高速道路に車を走らせながら、訥々と話してくれる。右手には真っ赤に染まった海が広がる。
「このあたり、かの有名なゼンという地域ですが、この辺りの貧困率は本当に酷いものです。その日に食べるものがない家族が沢山います。その上、昔のように、子だくさんが良しとされる風潮は残ります。当然、親は子供の面倒を見られません。誰か近所の家族が助け合って、食べられない家族のご飯を用意しているんです。子供たちは学校には行かせてもらえません。プラスチックや鉄くずの回収をして、日に10ユーロのお駄賃を稼がされるのです。そして、それは親に取り上げられます。勿論義務教育だから、親は警察に捕まるかもしれない。それでも、毎日の日銭の方が彼らにとっては大事なのです」。

「観光客にはとても見せられないシチリアの一面です。でも、これもシチリアの現実です」。
「そこにアフリカからの難民が押寄せています。難民問題を作ったのは、我々自身です。地域紛争にかこつけて、兵器などを売りつけたりして、どんどん戦いを大きくさせてしまった。その結果がこれです。悪いのは彼らではない。
難民たちは、ちょうどゼンのように、外から見えない貧困地域に固まっています。彼らは言葉もできないから、理想郷と思い描いてきたイタリアで仕事になど殆どありつけません。仕方がないからどうするか。観光客からアクセサリーを盗んだり、バッグをひったくったりして、中身を売りさばいていくばくかのお金を得る」。
「EUのお偉いさんたちは、難民問題を我々が解決できると思っています。そうして、お金を関係地域にどんどん送れば送るほど、それらは市民のためにではなく、別の場所に吸い込まれてゆく」。
先日、劇場前でスイカを恵んで貰って食べていた少年の顔が頭を過る。大きく「Capaci」と書かれた標識が掲げられている。
「ほら、あそこです。道路の左右に細長い塔のモニュメントが建っていますね。そう、これです。ここで25年前にダイナマイトを爆発させてファルコーネが殺されました」。
朝焼けのなか、高速道路を行きかう車もまばらだったので、そう言って彼は車のスピードをぐっと落とした。

(5月31日 ミラノにて)

アジアのごはん(85)グルテンフリーな食卓

森下ヒバリ

グルテンフリーの米粉ケーキがコンスタントにうまく作れるようになった。色々試作して、辿り着いたのが酒粕を入れて作る米粉マフィンや米粉パウンドケーキで、酒粕を入れると失敗知らず。酒粕はまだあまり使い方を極めていないけど、なかなか不思議で面白い素材だ。元はお米なのだけど、カビつけされ醸され絞られて、長い旅路の果てに酒粕に。

米粉ケーキはほうろうパッドや、ステンレスのパッドにクッキングシートを敷いて薄めのシートケーキにすると焼きやすい。

<酒粕入り米粉のケーキ>
A:
米粉180g(このうち20gをひよこ豆粉かココナツ粉、おからや黄な粉にするとなおよい)
片栗粉30g
ベーキングパウダー小さじ1と半分
重曹小さじ3分の2(モンゴル天然重曹を強力おすすめ)
以上をよくかき混ぜておく

B:別のボウルで
酒粕90g(ペースト状。固い場合は少し水を加えてやわらかくしておく)
バージンココナツオイル90g (固まっている場合は溶かす。オリーブオイルでも可)
卵2個と豆乳で300ml
てんさい糖100g
レモン汁(柑橘酢)大さじ1
ハンドブレンダーまたは泡だて器で、油が乳化してとろっとするまでよく混ぜる。

オーブンを180℃で予熱しておき、パッドやマフィン型の準備をしておく。
Aの粉ミックスにBの乳化した酒粕ミックスを混ぜ込む。すばやくパッドや型に入れ、オーブンで180℃10分~12分、その後160℃で10分焼く。生地が厚いと全体にもう少し時間がかかる。AとBを合わせたら、素早く焼くこと。発泡した泡が消えないうちに。

焼きあがったらオーブンから出してクッキングシートごと網の上で冷まし、ラム酒とメープルシロップかはちみつを混ぜたシロップを表面に塗る。
卵アレルギーなら、卵を抜いてかまわない。かわりにバナナの輪切りか潰したものを混ぜ込むとコクが出る。酒粕の匂いが気になることもあるが、半日もおけば消える。

米粉ケーキはわりとあっさりなので、薄く切って間にクリームなんかはさむとさらに楽しそう、と考えて前々から作って見たかったサワークリームを作ってみることにした。しかし、ヒバリは乳製品のアレルギッ子なのだ。ま、実験と思ってよつ葉の生クリームを入手して作ってみた。

サワークリームというのは、生クリームを発酵させたもので、濃厚でものすごくコクがある。味付けせずに、ボルシチにのせたり、タコスにのせたりもする。よく発酵したサワークリームにはちみつを混ぜ込んで甘くすると、もうメロメロになるほど美味しい。

生クリームに豆乳ヨーグルトを加えて発酵させ、干しブドウとはちみつを加えてクリームチーズのように固まったサワークリームを味見してみたら、はああ、う、うまい(泣)。もう一口とスプーンで2さじ食べた。コッテコテだが、これはあの北海道のマルセイのバターサンドのクリームそのものだわさ。などとうっとりしていたら、じわ~っと気分が悪くなってきた。濃厚なので、アレルギーが出るのも量が少なくても早かった。苦しい‥もう食べません。植物性生クリームというのも市販されているが、添加物てんこ盛りだし、まずいので、食べたくない。

くやしいので、豆乳ヨーグルトで何とかサワークリームが作れないかといろいろ試作してみたところ、こんなのができた。ココナツオイルに少し豆乳を足して乳化させるとバタークリームのようになるのは知っていたので、それをアレンジ。

<豆乳サワークリーム>
1 豆乳ヨーグルト300ml を3~6時間ほど水切りする。コーヒードリッパーと紙フィルターを使うと簡単。だいたい100gぐらいになればOK
2 溶かしたバージンココナツオイル30g~40gに、てんさい糖または、はちみつ大さじ1、白みそ小さじ1を加えてブレンダーでよく混ぜ乳化させる。水切りした豆乳ヨーグルト100gを加えてクリーム状になるまで混ぜる。好みでラム酒を少し加えても。
3 干しブドウを加え、冷蔵庫で冷やす。(干しイチジクなどを刻んでも)

まあ、こんなもんか、やっぱり生クリームに比べてコクが足りんなあと思いつつ冷蔵庫で一晩寝かせておいた。翌日、米粉ケーキを焼いて、薄く切って間に豆乳サワークリームをはさんでみた。

いただきま~す。こ、これは‥むぐむぐ。牛乳サワークリームとは別物でイケる! 酸味もいい感じ。寝かせたらコクがぐっと増していた。おいし~い! 濃厚なコクと酸味がありながら、生クリームから作るサワークリームより軽い。いくらでも食べてしまいそう。ケーキにクリームを挟んでラップに包んでから少し冷蔵庫で冷やすとケーキとクリームがなじんでおいしさが増す。

水切りした豆乳ヨーグルトに甘みを加えず、白みそ小さじ1、または塩ひとつまみとココナツオイルを加えてブレンダーで乳化させれば料理用の甘くない豆乳サワークリームが出来る。出来立てはとろんとしているのでそのままソースとして使っても。ココナツオイルの量はお好みで加減してください。

この塩味サワークリームを冷蔵庫に入れて熟成させておいたらやっぱりコクが増して、まさにクリームチーズやんか。キュウリやクラッカーに載せておつまみにもなる。クルミやコショウなどを混ぜて仕込んでも。豆乳サワークリームは、冷蔵庫に入れておいても少しずつ発酵がすすむので、1週間で食べきれない場合や、保存する場合は冷凍がおすすめ。

グルテンフリーでちょっとさみしいのは、うどんや中華そばを使った料理が食べられないことだと思っていた。でも、探せばあるんですねー。グルテンフリーの麺類をいろいろ試食して、スパゲティには南米の穀物キノア(キヌア)を使った麺(アメリカ製NOWFOOD 米・キヌア・アマランサス)が一番おいしく思えた。玄米粉をメインに使ったパスタはちょっと重たすぎ。

日本製(雑穀めん工房・新潟)で乾麺のきびの麺やあわの麺、三穀めんというのがあり、それぞれ食べてみた。三穀めんはスパゲティに、きびの麺やあわの麺は中華そば系の料理、焼きそばや冷やし中華に使える。小麦とそっくり同じテイストではないが、(その必要もないと思うけど)料理法に合った食感と味である。グルテンフリーを始めたときに「さよなら冷やし中華‥」と呟いたけど、外食できないだけで、食べられるうぅ。

お好み焼きも天ぷらも米粉メインで問題ないし、あとはうどんだけ。タイとラオスの米粉とタピオカ粉を使ったカオピヤック(クイジャップ・ユアン)という半生麺が、茹でて水洗いしたらうどんに食感がものすごく近いのだけれど、日本では手に入りません。スーパーに行ってみると、日本の米粉の麺も最近はいろいろ発売されていて、味も進化してきたみたいなので、今後に期待したい。

お米の国、日本で育って住んでいるのだから、小麦が主食な国の人たちに比べたら、グルテンフリーはいとも容易いはずなのに、毎日お米のごはんではやっぱりさみしく感じる。小さいころから給食ではパンと牛乳を毎日、麺はスパゲティや中華そばをしょっちゅう食べていたことを考えると、小麦と乳製品を日本に大量に売りつけようともくろんだ占領国アメリカの戦後の学校給食戦略はおそろしいほど成功しているのだった。

グロッソラリー―ない ので ある―(32)

明智尚希

「1月1日:

(略)

なぜ (?_?) なぜ

 歴史上、幾千万以上の人間が死んできた。死後、彼らは何のメッセージも寄こしてこない。死後の世界があまりに素晴らしく、この世は無視に値するほど取るに足りないのか、業火に包まれ苦しくてメッセージどころではないのか、あるいは完全なる無となってこの世との縁が断絶したのか。人間は死そのものより死後に興味があるというのに。

【( ̄_ ̄)v】遺影

 薬味の効いた寸鉄で人を刺す。ふたつながらの勧進元は角をはやした。画がないのではない。師がいないのだ。岩佐又兵衛に菱川師宣。若き人類が見た夢。堕ちよ、生きよ。正弦波の遺伝的アルゴリズムの自己組織化現象は実はやおいという顛末。鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康。今後は仮想的になんなんとす。心理的紐帯をちぎって。

( `ハ´) ワガハイガ師ダ

 とはいえ、鼻が詰まっていない人も楽観できない。常に鼻の通りはいいかもしれないが、ふと気づけばさらさらの鼻水が上唇を濡らしていることもある。いや、さらさらとはいかないまでも、ねっとりとした鼻水が鼻の下で何時間も落ち着いていることだってある。さらさらもねっとりも鼻水には変わりない。ちり紙でそっと拭き取ればよい。

σ( ̄ii ̄;) ダラー

 文化は精神、文明は物質だという。しかし文化のいかなる明察があれども、それとは無関係に文明はオートマチックに進む。文化の衰退はあっても文明の後退はない。二極分解しえるものが常に一対として語られる。現代は文明が優勢の時代である。そういう時代精神なのである。文化が副次的分際に甘んじている時、歴史的転換が起こりやすい。

ブンメイカイカノ <(个_个。) オトガスル

 1月1日:次郎おじさんは、僕の大好きなおじさんである。ただ無駄話で長広舌を奮う点に難がある。話が面白ければいいのだが、単なるだべりに堕している。それはともかく、次郎おじさんは永遠にこの本を読み続けることになるとかならないとか。僕のほうはといえば、慎重に慎重を重ねて考慮した結果、産まれてくるのをやめることにした。

(; ̄Д ̄)なんじゃと?

 いい歳をしておきながら、自分の発言内容の誤りを認めない人間がいる。誤りを認めないどころか、さも正論であるかのように主張し、相手のほうに非があると責める始末。この種の輩でも人間と呼ぶのだろうか。低劣で性格がひねており頑固、おまけに学がなく脳髄もいささか弱い。この手合いを愛せるか否か、博愛主義者の度量の見せどころだ。

(#゚,_ゝ゚) バカジャナイノ?

 「Cool Head but Warm Heart」。ケインズが師事したマーシャルの有名な言葉だ。聖者とされる人以外には当てはまらないのではあるまいか。先哲の言葉とは概ねそうである。この格言も事後に思い出す類いのものだろう。ケインズの信念のほうがぴんとくる。「It is much important how to be rather than how to do」。弟子がやや優勢か。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

「ん? 右か。いや、左だ。まっすぐ? いや、やっぱり左で大丈夫だ。いや、駄目だ。右だ。え、左? それなら右だな。またまっすぐかよ。どこにするかちゃんとしてくれよ。もう右だ右。ああまた左だ。そこで右に来るかなあ。なんでそうなっちゃうかなあったく。ああもうすぐだ。左。右。まっすぐ。左。左。まっすぐ。うわっ」ガシャン。

自転車o孕o〜キコキコ

 全知全能の神は、何すべくしてこの世に生物を作ったのだろうか。太陽系における実験か。地球における推移の点検か。あるいは単なる観賞用か。そもそも全知全能なのだから、前二者は必要ないと考えると最後の一つということになる。だが、ペットたる人間・動植物の動向や一生も知り抜いているはずである。気まぐれにしては趣味が悪い。

~~\(゚-゚*)バサッ(*゚-゚)/~~ バサッ(-人-)

 しどくうどくの 婆さりめっけ
うんどく丸だら しゃほろいよ
めれべかんでれ なあ気をさるを
待ちらちてべて しんがるさよろ
なぶてぶっちゃり 刈りしゃぶよ

〈( ^.^)ノ ホイサッサ

 わしは犬になりたい。いつも上機嫌そうで、散歩している時なんかは尻尾をふりふりして実に愛らしくて健やかじゃ。見た目もそうなら、中身も充実しているのじゃろう。難しいことは考えずに食事を楽しみに待っとる。もし飼い主が夜逃げでもして、ただ一匹残されようもんなら死活問題じゃ。誰じゃ! 犬になりたいなどとほざいてるのは!

オテ(*゚▽゚)o”ヘU。・ェ・。U

 この国には四季があるという。そうだろうか? あるのは夏と冬だけのように思う。
春と秋はほんのおまけ。特に春はものの二週間もあれば長いほうで、冬日の翌日がいきなり夏日だったりする。秋も似たようなものだ。残暑が終わったかどうかのうちに寒くなる。秋はどこだ。この国の人は、意地でも四季に分けないと気が済まないらしい。

扇風機→”(((卍)))”o( ̄△ ̄o)ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛〜〜

 長生きは良いこととされている。誰もが長生きしたいと願っているとされている。いずれも死があるからこその表現である。人間は消耗品だから不老は免れまい。だがもし不死が実現したら恐ろしい。衰弱困憊の姿を超越しながら永遠に生き続ける。もはや生き物の埒外の姿形で横たわっている。我々は死があることに感謝しなければならない。

゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。+゚ァリガトゥ

 やる気のある人間ほど使えない人材はない。

(´・∀・`) ヘェー

 困った時の神頼み。日常、神も仏もない生活を送っていながら、困窮状態に陥って弱りきっている時にだけ、手と手を握り合わせてひざまずき、にわかごしらえの教徒となる。硬直して祈る姿はまがまがしい人形でしかない。信仰心の薄いというより全くない上に弱り果てた人間の祈りなど、ひいき目に見てもとても宛先にまで届くとは思えない。

(;人;) オネガイシマス

さつき 二〇一七年六月 第二回

植松眞人

私の生まれ月を大切にしているようなないがしろにしているような不思議な両親だが、間違いなく私のことが大好きだ。家族愛とか言い出すと大仰すぎて気恥ずかしくなるが、まさに気恥ずかしくなるくらいに確実に両親は私を好きでいてくれることはわかる。
その割には毎年私の誕生日には誰もなにも言ってくれなくて、二日後三日後くらいに、ふいに「さっちゃん、お誕生日おめでとう」と父か母のどちらかが思い出して叫ぶように言う。小学生の低学年の頃は、これはわざとなのではないかと思っていた。忘れたふりをして私を驚かしておいて、私ががっかりした頃に声をかけて再び驚かせる。二重のドッキリなんだと私は思っていた。しかし、小学校も終わりの頃になると、ただただ両親が粗忽者であるということが私にもはっきりとわかるようになったのだった。なにしろ、二人の遺伝子をしっかりと引き継いでいるのだから。のんきな、というのか、ぼんやりしている、というのか。そんな気質を自覚するようになって、一人っ子の私は真面目に「几帳面にならなければ」と自分を律するようになったのだった。
高校の神谷先生が言うには、それが間違いの始まりだったな、だそうだ。
「それが間違いの始まりだったな。畑中の良さはのんきなとこなんだよ。それなのに、受け答えはやたらとハキハキしていて、何を頼んでも初動がものすごくいいんだよ」
「しょどうがいい」
私は「しょどう」という言葉がわからなくても問い返した。
「最初の動きで、初動。たとえばさ、今度、中庭の花壇をきれいにしなきゃいけないから、チームを組んで誰か担当してくれないか、という話をすると、いの一番に『はいっ!』って手を挙げるだろ」
「はいっ」
「うん、返事がよろしい。そんなふうに良い返事をしてくれるわけだ。そして、『じゃあ、私が何人かの声をかけて、チームを作っておきます』と言ってくれる。で、ここまでが初動だよ。初動はとてもいい」
「はい」
「でも、その後、実はのんびりしてるから、一人か二人に声をかけて断られたりすると、そこで全部ストップしちゃうんだよね。で、しかも、ストップしちゃってることも忘れて、『おい、畑中、あれどうなった?』って聞くと、お前、飛び上がって驚くだろ」
「はい…」
と、私の声をだんだんと小さくなっていくわけだけれども、神谷先生が言うには、最初からぼんやりした顔をしてくれれば、無駄な負荷をかけなくてもよくなるし、お前ももう少し気楽に高校生活を楽しめるのに、ということらしい。
でも、いまさらそんなことを言われても、私にはどうしようもない。一人っ子だけど、なんとなくのんきな両親のおかげで長女のような感覚で育ってしまったし、そこそこのコピーライターだった父は、そこそこだったおかげで飛び抜けた仕事にありつくこともなく、かといって、どうしようもない仕事に手を付ける気持ちにもなれずに、勤めていた広告代理店を辞めてしまっていた。最初のころはフリーランスで細かな仕事を拾っていたのだけれど、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」とあきらめ顔だ。まあ、諦められてもまだまだ物入りな娘としては黙っていられないので、お父さんはそこそこじゃないよ、たいしたもんだよ、なんて父を励ましたりしているのだけれど、当然のごとくあまり効果はない。
というわけで、いまの畑中家を支えているのは母のデザイン仕事だ。もともと母は私が生まれてからは自宅でやれるデザイン仕事を請け負っていて、人見知りの分だけ誠実に丁寧に仕事をこなすと言うことで意外に仕事が途切れない。ただ、母が言うには、仕事は途切れないんだけど文句も言わずにやってくれると思われているみたいで単価が低いのよね、ということになる。郊外の特急は止まらないけれど通勤快速は止まる程度の街で生まれ育った母は単価の安い仕事が続いても、それはそれなりにありがたいという気持ちで仕事に取り組むことができる人だった。
去年の年末に私と父と母による家族会議が開かれて、父は厳粛な面持ちで私の目をまっすぐに見てこう言った。
「さつき、君は六月生まれだけれど、さつきという名前を持った、とても奥深く勉強のできる子だ。だから、是非とも勉強をさらに頑張って公立の高校に受かってください」
もともと、家から一番近い県立高校を受験しようと思っていた私にとっては今更な話なのだが、父と母はどうあっても私に高校くらいは卒業してほしいということらしい。しかし、私立だと学費の負担が重すぎてそれが実現できないということなのだった。
私は話し終わって厳粛などどこに行ったのかと思うほどにホッとした顔をしている父に、奨学金の話をした。私は私で家庭の事情を察していたので、中学の担任の先生と相談をして奨学金制度があるということを知っている。先生にも、申し込むことになると思いますと伝えて、用紙もすでにもらっている。だから、できる限り公立高校を目指すし、どちらに行った場合も奨学金をもらって父さんと母さんには負担をかけないようにするから、と伝えた。それを聞いて、ホッとした顔をしていた父は、今度は涙をこらえる顔になったので、そういうことで頑張るわ、と自分の部屋に引き上げたのだった。
早い話が、わが畑中家は昨日NHKのテレビで特集が組まれていた『増え続ける新たな貧困層』に当たるらしい。毎日、ご飯が食べられないほどでもない。かといって、何もかも安心して暮らせるほどではない。もし、今日、母が病気で倒れたら、いや倒れないまでも、母の使っているiMacの調子が悪くなって二三日仕事ができなくなったら、もしかしたらそれだけで家賃の支払いが滞るかもしれないほどには貧困なのかもしれない。そして、そう思うと、なんだかみぞおちのあたりがキュッと締め付けられるような気持ちになるのだけれど、負けるわけにはいかない、と私は自分の部屋のテレビのリモコンを知らず知らず力一杯握りしめながら思うのだった。
そんな気持ちはいま目の前の神谷先生に対しても抱いていて、決して先生に同情されるような人間にはならないぞと、面談中に握っていた鉛筆が小さくギリギリと折れる寸前の音を立てたような気がしたので、先生が気付かないうちにそっと鉛筆を握りしめていた力を抜いた。(つづく)

『花粉革命』を踊って

笠井瑞丈

振付を踊る
形の連続性
皮膚と空気
生命的チカラ

振付を踊る
点と点の線
内面と外面
新しい生命

振付を踊る
線と面の間
肉と骨の間
消える肉体

踊りが生まれる瞬間
振付が生まれる瞬間
その瞬間に立ち会う

同じ空気を吸って
同じ時間を共有し
同じ空間を共有す

踊ることと感じること
二度と踊ることのない踊り

時間を空間で輪切りにする
カラダで縫っていく作業

振付と血液
同じカラダを共有すること

私の中にあなたが
あなたの中に私が

そんな新しい感覚が生まれる瞬間

万歩計と歩き方

冨岡三智

先月、携帯電話をやっとスマホに替え、使ってみたかった万歩計をインストールする。先月は奈良から岡山まで電車を6回乗り継いで仕事に行く機会がちょくちょくあっていたので、カウントをのぞくのを楽しみにしていた。その何日目かの仕事日、自宅を出て最寄り駅から電車に乗ったところで、ふと自宅から駅まで(徒歩2分)の距離ではどれくらいの歩数だったのか知りたくなって万歩計をのぞくと、カウントが続いていたので仰天する。どうやら電車の振動でカウントされているらしい。その後乗り換えるたびに他の路線でもチェックしたのだが、他ではカウントしない。

調べてみると、万歩計は足が着地した時の衝撃加速によって歩数を計測するらしく、歩く時に上下や横の揺れが大きい人は実際よりも多くカウントされるようだ。それにしても、じっと電車に乗っているだけで歩行状態だとは、最寄駅からの数駅間はかなり電車の振動が激しいのか…とあらためて思う。

衝撃加速で歩数を測るということは、衝撃が少なければカウントされないということでもある。ジャワ舞踊の歩き方なら感知されないかもしれないと思い、自宅で試してみる。ジャワ舞踊では腰を落として歩き、頭が上下する、つまり体が上下する歩き方はダメである。果たして、何十歩歩いてもカウントは進まなかった。平面だけでなく階段の昇り降りも何度も試してみたが、こちらもカウントしない。ちなみにケンセルという、歩くのではなく床を横滑りするような動きもやってみたが、これも歩数はカウントしない。電車に乗っていてもカウントされるのに、自分で移動していてもカウントされないのは、なんだか不思議である。ジャワ舞踊の静かな動きが数値化された…と言いたいところだが、爪先立ちして小走りするスリシックという動きでは、さすがにカウントされた。しかし、上手の踊り手は本当に空を滑るようにスリシックする。もしかしたら、歩数カウントされないような奥義があるかもしれない、と思えてきた。

製本かい摘みましては(128)

四釜裕子

楮の皮をむきに茨城の利根町に行った。日本画家の中村寿生さんが中心となって始めた「文間(もんま)楮――利根町で育てる紙ノ木プロジェクト」の作業にまぜてもらったのだ。中村さんは廃校を活用したアートネ・アートスタジオに草茅舎という工房を構えていて、その庭に2011年から180株ほどの楮を育てて収穫し、新潟の門出和紙の工房で「文間和紙」として漉いてもらっているという。

取手駅で合流した車でしばらく行くと、明日は田植えかな、という田んぼががときどき見えてきた。同乗した青年が「うちも今日から田植えです」という。「いいのか?(by 先生)」「いいんです」「ほんとか?」「じいちゃんには悪いけど明日倍働きますから」「おおー」。「何反歩とか何ヘクタールとか言われてもわからないから今見えている田んぼと比べてあなたんちの田んぼはどれくらいあるの?」と聞いて驚いた。大農家じゃない。

着くとすでにたくさんの人がいた。陽射しも強く、晴れやかな佳境感がまぶしい。建物の外にすえられた窯から湯気があがっている。お昼は用意ありと聞いていたのでとっさに「うまそう」と思ったのだけれどもそうではなくて、1メートルくらいに切り揃えられた楮の枝を縦にして続々投入されている。ぎっしり詰めると上から木樽がかぶせられ、これから2時間蒸すという。やはり作業のタイミングを逸したのだろうか。建物の中に入ると、これまたたくさんの人がブルーシートを敷いた床に座って楮の皮をむいている。窯で蒸しては皮をむいて乾かすという作業を、この日、何度も繰り返すらしい。

軍手をはめて手順を習う。蒸したての楮は熱く、さつまいもやとうもろこしのようないい匂いがする。蒸すことで楮の中身が膨脹するようだ。枝の先っぽを両手で雑巾を絞るようにねじると中身から皮が離れ、それを手がかりにしてむいてゆく。手がかりさえつかめれば、シャー、シャーと、むける。蕗の皮むきと要領は同じではないか。ぐるり手がかりをつかめばまとめていっきにめくれそうだがそううまくはいかない。山積みにされていたであろう楮は間もなくなくなった。隣の少年が「もうないの〜?」といった。私も次の蒸し上がりが待ち遠しい。

むいた皮は6、7枚づつ上下をそろえて藁で束ねる。ぎゅうぎゅう縛らない。藁の先をひけばスルッと解ける方法を教わるが、皮がけっこう固いので難儀する。上下をそろえるのは後日の作業のためらしい。刃物で表面の皮をそぐのに向きがそろっているほうが効率がいいということか。これを風通しのいい通路に渡した丸太にかけて乾かす。かびがはえぬよう、注意が必要とのこと。干したようすはさながら昆布である。

身ぐるみ皮をはがれた枝は表面に綿のような繊維がわずかに残っていて、直径は2センチ程度、固くて真ん中に穴が通っていた。黄色みを帯びた白い肌が美しい。束ねられて次の薪になるのだが、子どもたちは外に出てコンコンといい音をさせてチャンバラをし、学生たちは両手に持ってストレッチをし、疲れた人は杖にして歩き、私たちも何かにできそうと2本ばかり選んだのだった。

外では窯の周りにひとだかりができている。隣に広がる楮畑は数センチの幹を残して刈り取られているわけだけれども、数本残された幹にホワホワした赤い花が咲いていた。刈り取ったままの幹も転がっていて、丈は3メートルもあろうか。1年でこんなに伸びるとは! 幹を太く長く育てるために、またのちに皮をむくときのやりやすさや最終的な和紙の美しさのためにも、夏のあいだの芽欠きが大事と聞く。話を聞きながら一連の流れがまざまざと浮かんだ。

結局つごう3度、皮をむいた。家に帰って改めて、寛政10(1798)年刊『紙漉重宝記』を見る。「楮蒸しの図。……二尺五寸三尺ほどに切て蒸す しバらくして小口のかハ少しむけかかるを見て熟せしを知る……」「楮皮を剥ぐ図。……手にもち皮をむきとるなり 中の真木たきぎの外用立なし」「楮皮干しの図。……くくりめをあバきよく干すべし……」。ほぼこの日見たままの図。非効率とか伝統の技とかいうのではなくて、いかにこれが人が楮から繊維をとりだすのに身の丈に合った方法かということだろう。

足をとめる

若松恵子

伊勢真一監督の『いのちのかたち』を下高井戸シネマで見た。絵本作家いせひでこを描いた、2016年のドキュメンタリー映画だ。

宮城県亘理町の吉田浜。いせひでこは、津波で倒れた1本のクロマツに出会う。東日本大震災で被災した友人を伊勢監督が訪ねた私的ロードムービー『傍(かたわら)』の撮影に同行していた彼女は「そこにいなかったこと」の意味の大きさ、深さを感じてスケッチ帳は持っていたけれど、歩く以外何もできなかったという。そんな時、無人の荒野に倒れて横たわる1本のクロマツに呼び止められる。「描きなさい、わたしを」というクロマツのピアニッシモの声を受けとめて、「えんぴつでそのいのちの姿を記憶すること」に取り組む。横たわるクロマツに雪が降り積もる映像と、いせひでこが想像の中で描いた雪のなかのクロマツの絵が同じ存在感を持って登場する。クロマツとの出会いから4年にわたる画家の旅を描いた映画は、絵本のような余韻を残した。

多くの人が通り過ぎ、見過ごしてしまうものたちに、静かなまなざしが向けられる。いせひでこが足をとめて見つめるものを伊勢監督もまた傍らで見つめている。倒れて横たわるクロマツは、いせにとっては「いのちのかたち」そのものに見えてくる。そのかたちをスケッチすることで、クロマツを自分のなかに刻み込む、記憶しようとする。記憶するという事は、そのものの存在を大切にするということ、愛するという事だからだ。

銘木でも何でもない、倒れてしまった木に足をとめる。通り過ぎることができないという思いを抱く、その姿に心を打たれた。そんな感想を持ったのは、『永山則夫―封印された鑑定記録』(堀川恵子 2013年岩波書店)を読んだばかりだったせいかもしれない。

堀川恵子もまた、忘れ去られようとする永山則夫に足をとめた人だった。この本は、永山則夫の遺品の日記を丁寧に読むなかから、精神鑑定に際して録音されたテープの存在に気づき、278日間にわたる対話を聞くことで、その封印された鑑定記録に光をあてた作品だ。カウンセリングの手法により永山に寄り添い、彼といっしょに幼い日々に戻り、事件に至るつらい日々をたどることで、連続射殺事件に至る真の理由をみつめようとした石川医師もまた、永山の声なき声(ピアニッシモの声)に足をとめた人であった。

石川医師に対して永山が語ったことは犯行直後の供述と矛盾し、石川鑑定自体の信憑性が疑問視される。そして裁判で取り上げられず、封印された鑑定記録となったのだった。しかし、子どもの虐待や貧困が問題となっている今、石川医師と永山則夫の対話から考えさせられることはとても多い。

映画の中で、いせひでこが語っていたことが印象に残った。「根っこもいいけど、津波で倒れた木の根っこがガラスを突き破って入ってきてたくさんのものを流していったんだよ」と言われたことがあって、その時に、彼女は、被災した人たちがどういう思いで自分の絵を見ていたんだろうと考える。でも「言葉もなく、絵もなく記憶もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎた事さえ自分が気づかず・・・ていうくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね」「だから、そんな何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって、それをやってきたんだな、とは思ってますけど」(『いのちのかたち』パンフレット映画採録より)絵の傍らで彼女はこう語るのだ。

いせひでこのこの言葉には、堀川恵子の仕事、石川義博の仕事にも共通するものを感じた。足を止める人が居ること。そのかけがえのなさを想う。たとえそれぞれは、ひそやかな行為であったとしても。

別腸日記(5)水を飲むこと

新井卓

夜更けにひとり、キッチンで水をのむ。カルキのほのかな生臭さを帯びたぬるい水──それでも、上等の氷砂糖を一片、溶かし込んだような甘やかな味がするのは、宿酔いのなせるわざだろうか。そんなときいつも、山頭火の「へうへうとして水を味ふ」の句が頭にうかび、へうへう、という声かたちのまま、背を丸めコップに口をつけて水をむさぼる自分の姿は、まるで大きな蛙かなにかのようだ。

2005年の梅雨どき、中越地震から半年と少し過ぎたころ、雑誌の仕事で新潟へ旅したことがあった。取材先の酒造会社をたずねると、担当の男性はひとしきり震災の話をし、それから不意に、わたしたちに問いかけた──なぜ、米どころ、酒どころに地震が多いか知ってますか? 日本という火山帯では、地殻活動が激しい土地ほどミネラルを含んだいい水が湧きだすんです……。
それから、新潟から山道を抜けて被害の大きかった小千谷に向かった。たしかに、彼の言うとおりなのかもしれなかった。
山肌を縫いトンネルを越えるたび、山野の緑は密度と強靱さを増していく。中越や東海、山陰あるいは東北の山あいなど、どこでも大きな広葉樹につる性の植物が覆い被さり、隙間もなく下生えが密生する日本列島の極相林は、ほかのどの国にもない凄みを帯びている。都市や里を離れ一歩藪に踏みいれば、自然はわたしたちを浸食し脅かす存在でもあったことを、忘れていたあの身体の緊張とともに、思い出すことになるだろう。
養鯉農家では、得意先のために早々と錦鯉の売り買いを再開していた。生け簀を循環する、昨晩飲んだ吟醸酒のようにとろりとして重たい水。模様や大きさによってより分けられた鯉たちが、プラスチックの青い盥に浮かんで身動きもせず、ゆっくりと鰓を動かしている。その姿を凝視していると、渇いてもいない喉が無性に渇いてくるのだった。

他所の国から東京へ帰ってきた途端、ああ帰ってきたのだ、と思う、その感覚の大部分はおそらく大気の湿度から来ている。空港を出て一息、戸外の空気を吸い込めば、したたり落ちるようにもとのくらしへ溶け込んでいくのは、風呂水に身を沈めるように、わけもないことに思える(しっとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地ここちおぼゆる/石川啄木)。大岡信が言ったように感情も思想も、身体の七割を占める水が感じ、水が考えているのだとすれば(『故郷への水のメッセージ』1989年)、この土地では思考と言葉は湿度を帯びて形なく漂い、人々は水の不分明に生き個々の境界なくうつろっていくのだろうか。

夜更けのキッチンで、ひとり、水を飲んでいる。地上のあらゆる生きものたちのように、取り残され、干上がりつつある一つの潮溜まりとして。

自由の地はどこにあるのか

西荻なな

次はどこへ行くべきか、ということが、しばしば周囲で話題になる。

それはちょっと旅に行ってこようと思うんだけど、いま旅するならばどこだろうか? という会話で始まることが多い。ひとり旅に慣れた女性たちは不思議と友人にいるもので、主要都市は一通りめぐってしまったから、次はメキシコだ、いやギリシャだ、はたまたインドのジャイプールだ…などと、未だ見ぬ地を探しての“辺境語り”になることが多いのだが、その先にはそれぞれに、日本を脱してさてどこに住むべきか、という未来への思考が続いている気がしてならない。

とりわけ東京近郊、特に東京の何の変哲もない土地に生まれ、上京という大きな引越し体験もが不足している者たちにとって、叶えるかどうかは別として、移住の地をあれこれ妄想してみることは、わりと現実的で切実な問題なのだ。もちろん、世界のどこへ行っても驚きの程度は昔ほどではないのかもしれない。まだ見ぬフロンティアを探すならば、何かをとことん突き詰めて、発見なり創作なりをするほうが、よっぽど意義深いことに思える。同じような風景、同じようなインフラが整備されている環境で育ち、着る服も、暮らしや仕事への価値観もどこか似通っていると、同世代ならば国境を超えて感じられることも多い。

でもそれでも、とりわけ同性の友人たちは“いまここ”ではないどこかを夢想し、緩やかな死に向かいつつある日本から抜け出そうと思っているような気がする。

旅、というよりも、次に住む地を探している旅の途上。それが期間限定で終わるのか、それとも現実のこととなるのかはわからない。でもその間、少なくとも思考は自由でいられる。

少し長期の休みをとって、オランダへ行ってきたのだが、それは今思う“自由”のイメージが、なんとはなしにオランダだったからだ。といってもLGBTに寛容、ドラッグも合法、といったわかりやすい自由の話ではなくて、グラフィックデザインを学びに再度留学した友人や、建築を勉強しに1年間滞在していた友人など、自由を謳歌する知り合いの顔が思い浮かんだからかもしれない。

そういえば、ベーシックインカムを実験的に導入しているような話も聞いたし、古い老舗の新聞社を退職して画期的なメディアを立ち上げた若きジャーナリストたちも、オランダの人たちだった。記憶の断片に、ディストピア的な未来をみすえて、なんだか新しい機運が生まれているような話が思い浮かんだ。

後付的に言えば、オランダ、イギリス、アメリカ、と世界の覇権国が移り変わってきて、もはや覇権国などなくなってしまった時代に突入した今、かつて栄華をきわめた国に行って、取り残された地で何が起きているのか、時間的な“辺境”を探ってみたかったのかもしれない。ここが世界の中心、という軸がゆらいでボーダレスになったかのように見えて、かえってカオス度が増したいまの世の中、降り立つとしたならば、それは時代的にも空間的にも取り残されたように見える、エアポケット的な場所なんじゃないか。そこにこそ自由の気風はあるんじゃないか。なんとなくの予感とともにアムステルダムの地を踏んで、帰ってきたいま、じわじわとその思いを強めている。

無機質で冷たいように見えて機能的で実はカラフル。駅舎や建物、家具のデザインを見て抱いた感想はそれに尽きるのだけれども、一見なんの変哲もなく見えて合理的、でもそれは暮らしの豊かさをむしろ捨てていない合理性なのでは、と感じ入ったのは、運河に集う人たちのあり方と、自転車に乗る風景そのものに現れているように思ったからだ。アムステルダムにしても、アムステルダムをもう一回り小さく牧歌的にしたユトレヒトにしても、街を貫く運河が街のリズムをつむいでいる。

運河の両脇には狭い国土を縦方向に利用したアパートが立ち並び、窓越しにのぞけば、人々の暮らしが見えるようだ。3フロアを機能的に使い分けているような風情、でも花や自転車が彩りを添えている。行く右手にアパートの変化を見ながら運河の脇をずんずん進んでいくと、街のゆるやかな表情の変化も感じられて、夕方にはミントティーやハイネケンを飲んで楽しそうにおしゃべりをする人たちが数多く外の時間を堪能している。誰もがスマホを手にすることなく、熱心におしゃべりに興じていて、日本では、とりわけ東京では忘れられた風景だと思った。お土産を探そうと思っても、オシャレな洋服を置いたお店があるわけでもなく、むしろ“coffee shop”が数多くみられて、通りすがりに煙草ではない香りが立ち込める。暮らしに重きがあるのか、雑貨や日用品を扱ったお店が数多くあるのは印象的で、外よりも内実を充実させるような趣さえある。

15世紀にはエラスムス、17世紀にはスピノザが生まれ、『方法序説』を書いたデカルトやジョン・ロック、ヴォルテールもが移住したり、あるいは亡命の地として一時を過ごしたオランダ。経済的な繁栄と軌を一にして、国の形の定まらないオランダはヨーロッパのエアポケットとして自由の気風を育んだ歴史があるのだと思う。それは今も形を変えて、逆にちょうど時代が一回転して、そこにあるのではないかと思えた。日がな一日、運河を前にぼーっとおしゃべりをしたり、本を読んだりする。これといって何もないけれども、シンプルでどこにいっても美味しいスープの味に歓喜しながら、ユトレヒトでしっかりアパートの値段をチェックして帰路に着いた。

がんとサッカーとシリア難民

さとうまき

ヨルダンのザータリ難民キャンプ。成長しないシリア難民の女の子がいるからみんなで手術を受けさせようと募金集めをすることになった。

しかし、その女の子は、ヨーロッパに移住が決まったらしく、手術はヨーロッパで受けることになった。そこで、急遽ほかにも手術が必要な子どもを探してほしいといわれ、ヨルダンにあるキングフセインがんセンターに相談したところハリッド君という16歳の青年が骨髄移植が必要だというのだ。

2013年、ハリッド君はシリアのダラーからヨルダンに避難してきた。お父さんと一番上の兄は、ダラーに残ったが、その後ヨルダン政府は、国境を閉鎖してしまい、家族は離れ離れのままだ。10人の兄弟姉妹とお母さんでザータリキャンプに入ったが、ハリッド君が喘息を持っていたので、1か月でキャンプをでた。国連の支援で230JD=36000円ほどもらっていて家賃15600円ほどを払っていたが、昨年の10月からはもらっていないそうだ。

ハリッド君は学校に通いながら、一日400-500円ほど稼げるパン屋のバイトをしていた。ある日、同僚から顔が腫れているといわれ検査をしたらリンパ腫だとわかったのだ。化学療法をやってもあまり効果はなく、骨髄移植しかないといわれた。

「一体骨髄移植したらいくらかると思う?」
1000万円近くはかかってしまうのだ。そんなお金は、難民でなくても払えないだろう。私たちの集めたお金で治療を再開し、ヨルダンのNGOが引き続き募金を集めてくれる。私たちは、支援金を振り込んで、ハリッド君の骨髄移植を支援することにした。

3月、病院にお見舞いにいくと、4日間は入院し、その後一日ごとに投薬を繰り返すような化学療法がはじまっていた。その日はお母さんとおばばちゃんが、ハリッド君の面倒を見ていたが、夜になると女性は出ていなかんければならないので、お兄さんがやってくる。しかし、一家を支えているお兄さんは、仕事も思うようにできないと嘆いているそうだ。。

ハリッド君は、薬の副作用で髪の毛が抜けていた。ハリッド君はあまり元気がなかったが、サッカーが大好きで、先日ワールドカップの予選でシリア代表がウズベキスタンに勝利したことを喜んでいた。「体制派、反体制派とか関係なく、サッカーではシリアを応援する。フィラース・ハティーブという選手は反体制派で、チームを去ったけど戻ってきたんだ。僕はシリアの選手すべてが好きなんだ!」

好きな選手を強いてあげれば、「バッセト選手が好きだったけど」という。
バセット選手は、シリアを代表する若手ゴールキーパーで、シリア代表U17、U20にも選ばれ、将来を有望視されていた。非暴力のデモに参加。若者たちを引っ張っていくが、やがて銃をとるように。ドキュメンタリー映画「それでも僕は帰る」に主役として登場する。

血気盛んで、演説もうまくリーダーシップを発揮していくバセットだが、戦いは長引き、おそらく多くのシリア人は、自由とか、民主主義とかそんなものはもうこれっぽっちの美しさも感じなくなってしまっている。ボールの代わりに銃を持ったバッセットにもシリアの若者たちもそろそろ愛想をつかしてしまったと見える。バセットは魂の抜けた抜け殻のようにしか私には見えなかった。

日本とシリアは似ているところもある。民主主義が大事だと若者が声をあげたが、大人たちの世界はそんな生易しい世界ではなかった。バセットは、リーダーであろうと狡猾に立ち回ろうと策をねりながら葛藤し成長していく。対照的に、ベッドの上のハリッド君は、純粋にがんと闘っていた。病魔に追い詰められる子どもたちがどんどんピュアになっていく姿を私は今までも見ていた。

シリア代表チームが来日し、日本代表と親善試合を行うというニュースが飛び込んでくる。隣にいたお母さんも、「絶対シリアがかつわ」と意気込んでいる。

6月3日 14:00からシリアのドキュメンタリー映画:「それでも僕は帰る」を上映します。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://jim-net.org/blog/event/2017/05/63.php

沈丁花 喪われた風景 滝の人魚

高橋悠治

吉祥寺美術館で北村周一個展『フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前」のために『移りゆく日々の敷居』を作曲し演奏する  旗のはためきは 単純な形が風になびいて変る フェンスは斜めの関係の網 

いくつかの線が交叉する直前の空間が旗に見える 空間のなかに旗があるのではなく ひるがえる空間を旗とよぶ

交差する点を沈丁花と見れば 班点がひらいて 細い茎を隠す 見えない網がひろがり 花々や小石は宙に浮かぶ 隙間の多い空間には中心がない 刹那に変る時間は流れない

絵のタイトルを読み その絵の映像を見ながら 音の短いうごきを手さぐりし  短歌のことばを とぎれとぎれに詠む 

できたばかりの浦安音楽ホールで 武満徹が1960年に書いた弦楽四重奏曲『ランスケープ』を聞く 静かな呼吸の風景 響きと余韻と間 それ以前の『室内協奏曲』の静かに残酷な響き 無名で貧しい時代の 喪われた音楽

イルマ・オスノの新しいCD『Taki Ayacucho』(TDA-001)を聞く アヤクーチョの歌 祭の響きが野をわたってくる 秩父の山かげに水子の群れが立っている ペルーから遠く 旅をして 別な世界でも 滝の人魚の遊ぶ声 雨や花 川の向こう 谷を越えて 帰ってこない悲しみが 声のなかに住んでいて また新しい歌を誘う