この日記を書いた後、白河の小峰城二の丸で沢井さんと有馬さんの拙作初演に立ち会いました。天守閣を目の前にいただく演奏会場は広々としてとても心地よく、一面の緑がとても目に鮮やかに映ります。沢井さんは、明代の七絃琴「洞庭秋思」をもとに、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を、緩く絃を張った十七絃で詠み下してゆきます。悠治さんの「橋をわたって」のように、ツメもつけずにつま弾くので、どろん、どろろん、という音が響きます。沢井さんの筝が対峙しているのは、その場の沢井さんご自身の音を変調させ、素材としてコンピュータに一時的にストックさせたもの。それを素材として、有馬さんも李白の「洞庭湖に遊ぶ」を詠んでゆきます。楽譜には句の詠み方が何通りか書いてあり、それを各々が選択し、思い思いに詩を詠みあうなか、各々が耳を澄ました瞬間に生まれる有機的な反応が、とても魅力的でした。鳥のさえずりや、時たま通る東北本線の汽車の音と、夕間暮れの城、すっかり溶け込んでいるのでした。
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5月某日
朝、ピアチェンツァの城に遠足に出かける息子を、キックボードの二人乗りで学校まで連れてゆく。行き付けのパン屋で彼の昼食用のピザと、午前と午後の二回のお八つに、小さなフォカッチャをいくつか。それに水を購う。こちらはこの折にこのパン屋で朝食を済ます。学校から戻り、泥棒が庭の土塀に置き忘れて行った梯子を粗大ごみに出そうとするが、出来ず、そのまま学校へ出かける。今日は大学生必修のイヤートレーニングのクラスで、シチリア出身の学生も何人か居る。今日の最終便でパレルモに飛ぶというと、皆決まって最初は羨ましがり、次には、そこには懐かしさと憎しみが交ざっているのです、と付け加える。
夜半日付が変わってパレルモの空港に着き、泥のように眠る。
5月某日
パレルモの光景は、アンデルセンの「即興詩人」冒頭の瑞々しい描写を思い起こさせた。
マッシモ劇場の大階段に、若者たちが腰を掛けて大声でじゃれあう姿は微笑ましい。その前には馬車が数台留まっていて、観光用。馬のヒズメが石畳に響き、アラブ風の小さなキヨスクが2軒、左右に可愛らしく建っている。その辺りには常に黒い大きな犬がだらりと寝そべっていて、ずっと店主の飼犬と思い込んでいたが、どうやら野良犬のようだった。パレルモは、そこかしこに野良猫が佇んでいて、子供などが、アパート2階のヴェランダからパンや菓子を放っているのにも何度か出くわした。息子の歴史の宿題を手伝っていて、ノルマン人、アラブ人などのシチリア侵攻などを復習したばかりだったから、パレルモの乾き、少し剥げかけた茶色の街並みは、まるで多層文化が放つまばゆい輝きに包まれているようで、鳥肌が立った。
街並みにこれほど感激したのは、ローマとパレルモだけ。それぞれの街に美しさはあるが、この二つは圧巻だと思う。
マッシモ劇場の目の前に初めて立つと、その荘厳さに言葉を失う。劇場というより寧ろ教会のような巨大なクーポラが目を奪う。劇場の周りに無数の老若男女が座り込んで憩う姿など、ミラノでは想像もできぬ。感激しながら、関係者入口に足を踏み入れ、練習場所を尋ねると、受付の妙齢は、この場所は名前は知っているが、行ったことがないので道順は教えられないと困った顔で言う。
わざわざ両性用、と指定されたお手洗いに出かけると、便座が半分だけ外れている。外して使うわけにも行かず、付けたまま使おうとすると回転して使えない。
理由はわからないが、石造りの外階段の下に、チェンバロが無造作に放置されていて、通路の暗がりに自転車が立て掛けてある。すっかりこの土地が愉快に感じられてくる。
ここの劇場もオーケストラも初めてだが、特に人懐こい印象はなかった。喋り声が大きく落着かない。練習の最中に弦楽器の編成を減らしたい、と事務直側が言うと、オーケストラは凄い剣幕で反発。殴り合いになるそうで、冷や汗をかいているのに、周りは慣れているのだろう、平然としている。カヴァレリア・ルスティカーナを思い出す。偉いところへ来てしまった。
練習が始まって1時間ほどして、作曲のベッタがやってくる。
「盗まれた言葉」という題名が書いてあったが、変えたのだと言う。ボールペンで大きく「空」と書き直した。
「これはレクイエムなんだ。パレルモ、シチリアだけでなく、すべての失われた命へ捧げている」。
「木管楽器が浮かび上がっては消えてゆくだろう。これは一人一人の魂なんだ。死んだ者の魂はどこにでもいられるんだ。見えないけれど、あのカーテンの陰で、祖父がこちらに微笑みかけているかもしれない」。
初対面でいきなり幽霊の話などされたものだから、吃驚して、オスカルにシチリア人は随分信心深いねと半ばふざけて言うと、真面目な顔で、その通りだと応えるものだから、愈々考え込んでしまった。
5月某日 パレルモホテル
朝食を摂っていると、宿の主人が本を携えてやってきた。あんたは日本人だろう、と尋ねるので、そうだと答えると、これを読むと良い、とずいぶん詳しいパレルモのガイドブックを手渡いてくれる。「これは日本語で書いてある。あんたは仕事で忙しそうで、到底パレルモの名所など訪れる時間もなさそうだ。せめてこれを読んでこの街の素晴らしさに触れておくれよ」。
お世辞にも豪華とは呼べない、10部屋もないと思しき小さな宿屋の主人は、恐らく時間を見つけて古本屋でこの日本語のガイドブックを探しにいってくれたに違いない。胸が熱くなった。
朝食は、皿から溢れんばかりに盛ってくれるフルーツポンチとヨーグルトと自家製ケーキ。淹れたてのコーヒーは、ミラノよりずっと味が固く、力強い。角のある風味。目の前の通りから、笛と太鼓で奏でるサルタレルロが聴こえてくる。
5月某日 パレルモホテル
シチリア人は信心深い、という言葉がずっと頭を反芻していて、今朝はオーケストラの練習はなくしたので、歩いてカプチン会の地下墓地へ出かける。
昼食代わりに、道端にある果物屋の露店でさくらん坊を買う。2キロ2ユーロでいいよ、と言うが、歩きながら食べるので、到底無理だと断り、1キロ。固いザラ紙を器用に漏斗状にするすると丸めて、そこにさくらん坊を入れて、手渡してくれる。
朝早くから、窓の外で誰かが意味不明の言葉を怒鳴っていたのだが、カプチン会通りに右に折れたあたりで、塗装も剥げすっかり草臥れた三輪トラックに老人が凭れて、同じが鳴り声を上げている。
よく耳を傾けると、トマト1キロ何ユーロと嗄れた朗詠調で歌っていて、周りのアパートの窓が開いて、ちょいとあんた、今日はトマトを何某、オレンジ何某おくれよ、と老女が大声を上げる姿を眺めるのは、幸せな気分になる。その小さな三輪トラックに、ほんの数種類の青果しか載っていないのが不思議だった。
入口で僧侶に3ユーロを払って地下墓地へ降りると、色もすっかり消えかけ埃だらけの古い服を着た何千というされこうべが、整然と壁に並ぶ。高い天井あたりから、こちらを見下ろすようにつられた骸骨の下には、3、4層の壁に掘られた穴に、風化した服を着る骸骨が横たわる。
ミイラとなって皮膚が残っているものもあれば、されこうべの中身がすっかり空洞になっているのがみえるものもある。腕や胸のあたり、服の中には藁をつめ、丸みをだしている。
並ぶ遺体は、男性有力者の区画、その妻たちの区画、子供たちの区画、有力者の一族が全て集められた区画、僧侶たちの区画、手工業者の場所と丁寧に分けられていて、博物館のよう。聞けば、18世紀から19世紀にかけてここに死者を葬るのが盛んだったという。
初めは流石に少し居心地が悪いのだが、慣れてくると、自分が別の世界に迎え入れられているような気がしてくるから不思議なものだ。決して気持ちの悪い光景ではなく、荘厳な空気さえ漂うのは、おそらくされこうべの表情が穏やかだからではないか。
されこうべはそれぞれ別の顔をしていて、表情も随分違って、中には笑っているように見えるものすらある。そして、それぞれが生前の自らの服を纏い、名前なども掲げられている。
悪いものではない。死んだ祖父母、会ったことのない祖祖父母のされこうべが、自らの服を着て、この天井から吊り下がっていたら、会いに来たいと思うだろう。
されこうべが、当時の本人の服を着ていると、厭が応にも実感が増す。
13時近く、閉館まぎわに幼児を連れたアラブ人の若い夫婦やってきたが、この只ならない気配を察したのか、幼児はずっと嫌だと泣き叫んでいて、子供も夫婦も気の毒だった。
劇場の近くには、考古学博物館があって、その昔死者の街と呼ばれた、ネクロポリスから出土したさまざまな装飾品、家具、副葬品などが無数に並ぶ。
学生時代、地中海文明、エーゲ海文明の装飾された壺や瓶の写真を眺めるのが好きだった。死の世界というより、寧ろサティロスが悪戯をする様など、大らかな性の描写など面白がって読んでいたのかも知れない。目の前で眺めると、丁寧に書き込まれた描写は、独特の二次元感を醸し出していて、古代エジプトの絵画を思わせる。
シチリアの広大なネクロポリスとカプチン会の地下墓地が、自分の裡で時代を超えて繋がる。そこにベッタやオスカルのような、現代シチリア人の死生観の礎を見る。その後でリハーサルに臨むと、オーケストラの音が変わってくるのは、何故だろう。
5月某日 シチリアホテル
パレルモの劇場前には、食堂が犇めき合う細い辻が2本あるが、結論から言えば、そこには一軒だけ本当に美味で、その上安価な食堂があった。最初に地元の馴染み客が並んでいるからと入ったときに、パレルモはどこでもこんなに美味しいのかと勘違いして、2,3軒は他にも入ったが、どこも高いだけで酷く失望させられた。
20年以上イタリアに住んだなかで、こんなに瑞々しく生き生きとした料理を食べたのは初めてで、ショックを覚えるほどだった。パスタは日に3種ほど、主菜は肉か魚の2種ほどしかなくて、その周りの付け合わせの盛合わせは、3品と6品の二種類を選ぶ。あとはその場で揚げるコロッケを挟んだサンドウィッチや、巨大な丸鍋でその場で料理する内臓料理のサンドウィッチ、ぶつ切りのスイカ。
品書きには「本日のパスタ・エスプレッサ」と書いてあって、「その場仕上げのパスタ」というところか。意味が分からなかったが、日本の立食い蕎麦屋に近いを想像すれば良い。
カウンターに行くと番号札がおいてあり、それを各自取って番号が呼ばれるのを待つ。中では大きな鍋で5人分くらいのパスタを茹でていて、茹で上がったところで、それを皿にもって「はい、56番」などと呼ばれる。それで、カウンターで「茄子とトマトソース」などと言うと、その山盛りのパスタにトマトソースをかけ、その上に揚げ茄子を数枚載せて出してくれる。
だから、ソースをかける類のパスタしか当然用意されないし、パスタの量も多すぎるが、何しろ美味しいのは何が違うのだろう。見ていると、ソースすらかけないで、自分でオリーブ油だけをかけたり、チーズだけをかけて食べる馴染み客も結構いる。
困るのは、そのカウンターのところに、番号を待つむさ苦しい中年男性が給食を待つ小学生のようにわいわい屯して、通行を妨げることくらいか。そこには無論自分も加わっているわけだけれど。
本番の日、流石に昼食にこのパスタでは胃がもたれて演奏会に差し支えると思い、魚の主菜を頼むと、30センチはゆうに超えるカジキマグロのステーキが出てきて、仰天した。こんな料理は他では見たことがない。
歳の頃、7,8歳と思しき少年がおずおずと入口に立ち、中を暫く眺めている。身なりはジプシーのようでもあるが、それにしては狡猾そうなふてぶてしさがない。第一、少し恥ずかしそうな、不安そうな顔をしている。暫くして中に入り、テーブルを回って、恥ずかしそうに手を差し出す。自分のところにもやってきたが、少しだけ迷ってから、断った。断りながら、この子はなぜこの時間にここにいるのだろうと不思議に思う。孤児かしら。どうして独りでいるのだろう。
ふと気が付くと、少年はカウンターに立っていた。カウンターでもお金をねだるのかと訝しく思って眺めていると、女主人がスイカを皿に切り分け、ナプキンも渡して、水が入ったコップを渡している。それを持って少年は皆が食べているテーブルの一つに座って、ナイフとフォークを丁寧に使って、静かにスイカを食べだした。後から店に入ってきたオートバイのヘルメットを小脇に抱えた妙齢も、特に気を留めることなく、その少年のテーブルと相席で、スマートフォンを眺めながらスイカを食べている。ここでは昼食に大きなスイカをのんびり食べる人は、男女関わらず結構いる。
こんな光景は、ミラノでは見られない。せいぜいスイカを受け取った少年は、追い出されるか、逃げるように店を出てゆくに違いない。自分の裡の厭なものを見た気がして、そそくさと店を後にした。
5月某日 パレルモホテル
長らくマフィア抗争による目立った殺人は起きていなかったが、ファルコーネの命日に際して、出所したばかりで、最早老け込み権力もないボスが一人、意味もなく殺された。
マフィアが自分たちの存在を誇示したのだろうと口々に言う。
マンチェスターでは、ライブ会場で爆発が起きた。ボルセッリーノの爆殺現場のような光景が、今日も世界のあちこちで繰返されている。
オスカルとフルヴィアの家に夕食に招か、作曲のベッタと演出のジョルジョとパートナーのオリンピアと連立って出かける。
作曲のベッタも検事の親友を一人、マフィアに殺された。
「アントニオが殺される1か月前、二人で食事に出かけた。当時は毎日どこかで殺人があって、殺人が日常になっていた。マフィア間の抗争だから、基本的には我々に危害は及ばないと信じていたが、余りに多くの人間が関わりあっているので、誰でも友人の一人や二人は何らかの形で失ったのではないだろうか。アントニオに最後に会ったとき、疑い深く常に周りに目を光らせていたのをよく覚えている。彼とは一緒にセミナーをやったこともある。彼と二人で車に乗ると、左右前後にはぴったりと護衛車がついた。いつもと違う道を通るので、運転手にどうしたのかと尋ねると、あなたは知る必要のないことだ、と淡々と言われた。もしマフィアが経営していたら、と思うと、レストランに入るのも恐ろしかった。そして、アントニオは殺された。
当時、マッシモ劇場の舞台監督の一人も、シチリア交響楽団の経営首脳陣の一人も、マフィアとの関係を告白した。それだけ我々の身近はマフィアに染まっていたんだ」。
5月某日 パレルモホテル
演出のジョルジョは少しエミリオに似ている。二枚目で、話し方も洗練されている。人見知りのところもそっくりだ。こちらが名前で呼んでも、ジョルジョは頑として指揮者先生と呼び続けていたが、オーケストラのリハーサルに立合った頃から、自然とヨーイチになった。
エンニオが到着するという日、彼はローマ発の飛行機に乗遅れ、リハーサルの開始は3時間ほどずらされた。
彼が台本を読みだし、空気が一瞬にして変わるさまは、圧巻だった。台本を通して、何かが憑依するように見える。楽譜を通じて、音楽家に何かが降りてくる、というのに近い。余りに言葉が真実味を帯びていて、これも演技なのかと訝っていると、読み終わった途端、彼は「済まない」とだけ言残し、目頭を押さえて部屋を出て行ってしまった。
そこにいた全員、暫し言葉を失う程に感動していて、エンニオのいない部屋に、自然と拍手が沸き起こった。
エンニオは子供の頃から作曲家になりたかったと言う。「家が貧しかったからピアノを習わせてもらえなかった。それで、15歳くらいの時、姉貴がシェイクスピアの本を貸してくれて、バン!こう衝撃を受けたわけさ。そんなわけで、こんな人生になっちまった」。
「音楽は最高の芸術だよ。言葉は国や文化が違えば通じない。音楽はそうじゃない。誰とでも通じ合い、愛し合うこともできる。俺にとって最高の芸術はオーケストラさ。様々な人が集まって一つのエネルギーを作り出す凄さはない」。
「キース・ジャレットのローマ・ライブは一生忘れられない。あの時は、音に神が降りてきていたよ」。
「この台本を、落着いてなど、到底読み続けられない。我々にとって、ファルコーネ・ボルセッリーノ爆殺事件は、現在の政府への憎しみそのものだ」。
彼は毎回涙を流しながら、台本を読んだ。眼光はこちらが慄くほどに輝いていて、そこに泪が溜ると、ちょうど夜のシチリアの海の向こうに明滅する、橙色の街灯を思い起こさせた。
エンニオは一度台本を読み始めるとすぐに没頭して、読み続けてしまうので、毎回彼の台詞の切欠は、こちらから左手の親指と人差し指でオーケーを作って出していた。こちらをじっと見つめているので、瞳が潤んでいるのがよく分かるのだった。
ボルセッリーノの爆殺現場写真を投影しながら、エンニオは現場から抜き取られたボルセッリーノの赤手帳について話す。凄惨な写真が続くが、実際はもっと酷い状況で、それらの写真は投影されなかった。
爆殺現場に最初に駆け付けたカメラマンが、練習の合間に話しかけて来た。
「近くに白い人形が転がっているので、訝しく思って近づくと、手足の捥げた遺体だった。ちょうど現場から700メートルくらいのところで車に乗っていて、家内と息子を車中に残し、必死に駆け付けた。家族と再会したのは、それから72時間後のことだった」。
近くにいた別の新聞記者も口を開いた。
「あの爆殺現場のビルの五階まで、血飛沫と皮膚の残骸が飛び散ってこびりついたんだ」。
コンサートマスターのサルヴォも口を挟む。
「あの時は、街の反対側でレッスンをしていたんだけどね。窓がビリビリと震えてね」。
演出助手のウーゴは、まだ子供だった。
「あのドーンという爆音と、その後に高く立ち昇った黒煙は誰も忘れない」。
その言葉を嚙締めながら、その現実の中に生きる演奏家たちと音を出す。
エンニオはその情熱に応えるように、一言一言に力を込めた。
本番当日、ドレスリハーサルの後で、ジョルジョと最後の打ち合わせをしたあと、エンニオの楽屋を出て、隣にある指揮者楽屋で着替えていると、隣から、不思議なラグタイムが聞こえてきた。エンニオが小さな竪型ピアノを叩いているのだ。左手のオスティナートは、毎回微妙にリズムがずれていて、その上割り切れない拍子になっている。単に不器用でそうなっているのかもしれないが、それにしては右手はきれいに拍節があっていて、ちょっとナンカロウのように聴こえる。
もしかすると彼はとんでもなくピアノが上手なのではないかしら、と少し訝しくなったが、部屋で休みたいので、そのまま楽屋を後にした。天井の高い廊下には、劇場の厳めしい制服を着た美しい妙齢二人が、エンニオの出てくるのを待っていた。彼が出てくれば仕事から解放されるらしく、「もうすぐ出てくるよ」と声をかけると、「そう願いたいものだわ」と二人で顔を見合わせて溜息をつくさまが、現代っ子らしく可笑しい。
5月某日 ミラノ自宅
舞台の最後で、劇場のバルコニー席全てから、白いシーツが垂らされる。25年前、パレルモで巻き起こったマフィア撲滅の旗印のこの白いシーツは、死体をくるむ布を象徴している。
エンニオが舞台の終わりで、さあ、皆さんもシーツを垂らしてください。どんどん垂らしてください。声を上げてください。と観客に語り掛けると、バルコニー席一つ一つから、流れるようにさらさらと音を立てて白い布が垂れてゆき、まもなく劇場の壁面を全てをシーツで覆った。
そこに、マフィアによって殺された無実の市民の恋人、遺族の写真が大きく投影されて、盗まれた言葉の欠片が浮び上る。
公演の始まる前から、オーケストラからも、聴衆からも、関係者一同からも、異様な熱気を感じていた。
現在のマッシモ劇場の裏方として、ファルコーネ検事、ボルセッリーノ検事の家族や親戚も働いていて、毎日顔を合わせていたと、一番最後に知った。最後まで彼がファルコーネの家族だよ、などとは誰も教えてくれなかった。
観客の中では、最初から最後まで号泣している人たちもいて、フラヴィアが座ったバルコニー席には若くして殺された警官の恋人が泣き崩れていたと聞いた。オーケストラの音に、何度も鳥肌が立った。彼ら一人一人が何か大切なことを思い出しながら弾いているのが分かった。
真実の音だったけれど、もっとずっと声に近いものだった。
朝焼けの朝5時、ガイドブックをプレゼントしてくれた宿の主人が、空港まで車で送ってくれた。
「シチリアは無知がまだはびこっているんです」。
高速道路に車を走らせながら、訥々と話してくれる。右手には真っ赤に染まった海が広がる。
「このあたり、かの有名なゼンという地域ですが、この辺りの貧困率は本当に酷いものです。その日に食べるものがない家族が沢山います。その上、昔のように、子だくさんが良しとされる風潮は残ります。当然、親は子供の面倒を見られません。誰か近所の家族が助け合って、食べられない家族のご飯を用意しているんです。子供たちは学校には行かせてもらえません。プラスチックや鉄くずの回収をして、日に10ユーロのお駄賃を稼がされるのです。そして、それは親に取り上げられます。勿論義務教育だから、親は警察に捕まるかもしれない。それでも、毎日の日銭の方が彼らにとっては大事なのです」。
「観光客にはとても見せられないシチリアの一面です。でも、これもシチリアの現実です」。
「そこにアフリカからの難民が押寄せています。難民問題を作ったのは、我々自身です。地域紛争にかこつけて、兵器などを売りつけたりして、どんどん戦いを大きくさせてしまった。その結果がこれです。悪いのは彼らではない。
難民たちは、ちょうどゼンのように、外から見えない貧困地域に固まっています。彼らは言葉もできないから、理想郷と思い描いてきたイタリアで仕事になど殆どありつけません。仕方がないからどうするか。観光客からアクセサリーを盗んだり、バッグをひったくったりして、中身を売りさばいていくばくかのお金を得る」。
「EUのお偉いさんたちは、難民問題を我々が解決できると思っています。そうして、お金を関係地域にどんどん送れば送るほど、それらは市民のためにではなく、別の場所に吸い込まれてゆく」。
先日、劇場前でスイカを恵んで貰って食べていた少年の顔が頭を過る。大きく「Capaci」と書かれた標識が掲げられている。
「ほら、あそこです。道路の左右に細長い塔のモニュメントが建っていますね。そう、これです。ここで25年前にダイナマイトを爆発させてファルコーネが殺されました」。
朝焼けのなか、高速道路を行きかう車もまばらだったので、そう言って彼は車のスピードをぐっと落とした。
(5月31日 ミラノにて)