沖縄とともに

小泉英政

沖縄の高江や辺野古の、米軍基地建設に反対する運動の中で奮闘していた宮城節子さんが亡くなった。本人が語るには、進行の遅い珍しいガンで、医者も研究対象として大事にしてくれているとのことだったのだが、病状が急変し、帰らぬ人となった。

葬式はしない、そして散骨をというのが遺言だと聞いて、とても彼女らしいと感じた。集まった友人、仲間たちで相談して、辺野古の海、高江、彼女の農場があった大湿帯(オオシッタイ)、伊江島に散骨する事になったと聞いた。さらに、その相談の中で、彼女が「もう一度、三里塚に行きたい」と強く願っていたということで、ぼくの方に、「よねさんのお墓に散骨できないか」と電話で問い合わせがあった。

宮城さんとは、1970年の日米安保条約にに反対する坐りこみ運動の中で知り合った。その後彼女は、僕たちと同じ時期に三里塚の空港反対運動に参加し、よねさんや染谷のばあちゃん、村のおっかさん達とつきあいを深めていった。

よねさん宅が代執行され、反対同盟がよねさんの住まいとして、東峰の島村さんの畑の一角にプレハブ小屋を建てた時、宮城さんはしばらくの間、同居し、よねさんを気づかった。宮城さんは沖縄出身で、その後一時期、家族の何がしかの事情で沖縄に戻っていた。

宮城さんが居ない間に、よねさんが病に倒れ、いくつかの経過を経て、僕たちが養子になった。反対同盟からの養子要請の候補に宮城さんは含まれて居なかったが、宮城さんがその時いたならば、自ら「私がなる」と申し出たかも知れないと、今になって思う。そういう熱い心の持ち主だった。

僕たちと宮城さんとの関係、そして、よねさんと宮城さんとの関係、「よねさんのお墓に散骨できないか」と尋ねられて、断る理由はなかった。宮城さんは特別なのだ。

宮城さんの散骨に、沖縄の親しかった女性陣が賑やかに7人もいらっしゃると言う。その日を待つ間、宮城さんのことをいろいろ想った。最後に会ったのは、2016年の一月末、沖縄でだった。その頃はとても元気そうで、高江のヘリパッド反対の坐りこみに頻繁に出かけている話や、散骨の場所ともなった伊江島に通って、「阿波根さんの芝居の練習しているんだけど、歌が難しくてなかなか覚えられない」と苦笑いしていた。

阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)、名前は聞いたことはあるが、詳しくは何も知らなかった。「阿波根さんの本を読んでみて!」姿なき宮城さんから、そんな声が届いた気がして、阿波根昌鴻著『米軍と農民〜沖縄県伊江島』(岩波新書)を取り寄せて読んで見た。

ちっとも読書家ではないぼくがこんな事を言っても、何の意味もないだろうが、その本は何度も繰り返して、深いところから僕の心を揺さぶってやまなかった。

ぼくの目を開かせた一つは、ぼくが沖縄のことを知らなすぎる事によるが、終戦後、アメリカの施政権下に置かれていた沖縄と、本土に育った僕たちとの、あまりにも異なる境遇の違いだ。沖縄戦で本土を守るための捨て石にされ、直視できない、痛ましく凄まじい戦禍に見舞われた沖縄、そこまでの認識は持っていたつもりだが、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄が切り離され、その後もずっと、「沖縄は、アメリカが血を流して得た戦利品だ。あなた達には、YESもNOもない」と言われながら、長い間、アメリカの軍靴の下に踏みつけられていた。

本土の僕たちは新憲法のもと、戦争の放棄や基本的人権などの理念の中で育ったが、沖縄の人々は虫けらのように扱われていた。それをこの国の政府がずっと黙認して来た。沖縄を知ると言う事は、自分自身を知ることになる。

もう一つ、そんな厳しい状況下にあって、阿波根さんをはじめとする伊江島の農民達は結束して、自分達の命を、生活を守るため、銃剣とブルドーザーによる基地建設の為の土地接収に対して、非暴力で果敢に抵抗した。住んでいた家が、野菜が育つ畑が、重機で押しつぶされたり、鉄条網で囲われる。命を繋ぐためには、中に入って食料を得て来なければならない。逮捕者は尽きない、負傷者も出る、米軍に射殺された青年、子供達に少ない食べ物を与えて自分は我慢し、餓死する若い母親、沖縄戦が続いているのと同じだ。

そんな中、農民達を支えた約束事があった。「陳情規定」と名づけられたその箇条書きの文章は1954年に作成されたものだが、63年経た今でも、非暴力の姿勢を具体的に示したものとして、これからも必要とされる非暴力の手本として、僕にはとても貴重に思えた。
その一部を抜粋してみよう。

一、反米的にならないこと。
一、怒ったり、悪口をいわないこと。
一、耳より上に手を上げないこと。
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

これらの申し合わせ守り、力を合わせ、島の63パーセントあった基地を31パーセントまで縮小させることが出来たと言う具体的な成果は驚きだ。

もう一度、宮城さんの話に戻そう。

散骨の前日、沖縄から宮城さんの女友だちがやって来た。南国の果物や野菜などを携えて賑やかにやって来た。 よく話すこと、よく笑うこと、よく歌うこと、その明るさに圧倒された。彼女達は宮城さんがそうだった様に、阿波根さんの意志を継ごうとする人たちだ。 宮城さんも、陳情規定に強い関心を寄せていたと言う。

東京での坐りこみ当時、23歳の頃、宮城さんはこんな事を言っていた。「私が生きている毎日って言うのは、全然、非暴力じゃないわね。それこそ、自分の汲んだ水を飲んでね、自分で織ったその着物を着るとか、作った野菜を食うぐらいに、全て請負しなきゃ駄目だと思うんだけれど」。
その後、三里塚をかいくぐるなかで、土に触れ、沖縄に戻ってからは、畑を耕し、機織りを覚え、そして阿波根さんや伊江島の農民達の心に触れ、非暴力の幅を拡げていった。突然の知らせはとても残念だったが、沖縄の魅力的な仲間達が「節ちゃん」の後を継いで行ってくれるのは間違いない。

「辺野古移設が唯一の解決策」との言葉を繰り返す安倍政権の姿は、「YESもNOもない!」と言ったアメリカの軍人に重なる。その政権を選んだのは紛れもなく、本土の僕たちなのだ。

高江、辺野古と、沖縄の厳しい状況が続く。「沖縄とともに生きる」と心に刻む人たちが増えていくことが求められている。

別腸日記(6)飲み過ぎる人たち(前編)

新井卓

酒の話はむつかしい。早くも先月、連載を休んでしまった。やります、といったことを果たさずに啜る酒はうしろめたく、できない理由を並べながら酔いすすめば、もう厳冬のオホーツク海にでも身投げしようか、などと気鬱の止むところを知らない。もう二十年近く、仕事をサボっても、電気とガスがとめられても倦むことなく飲みつつづけてきたというのに、これは一体どういうことか。

私ごときがあの酒はうまいだの、この酒はこの文人ゆかりでその由来は云々(でんでん)、だのと書き立ててもおそらく腹立たしいだけであろう。そうなれば、飲んだ場所や相手(じっさい変な酒敵には事欠かない)、その後どうなったのか、という話に向かうよりほかなく、結果それは交遊録とか紀行文のような体裁に落ちつくだろうことは、容易に想像できる。まあそれでいいのかもしれないが、ここに今一つの根本的な問いが浮かび上がってくる。

なぜ、飲むのか──わたしたちを拒み未踏峰のごとくそびえ立つその問いに対峙することなく、この先書いてゆくことは、どうにもできそうにない。それがそこにあるから(Because it’s there)。登山家ジョージ・マロリーの言葉を酒に当て嵌めてみても、答えになっていないどころか単なるアル中の戯れ言にしか聞こえないから不思議である。

夭折の哲学者・池田晶子は「下戸の心が理解できない」と公言してはばからなかったが、逆に下戸にしてみれば、なぜすすんで毒を摂取しつづけたいのか、そちらの方が理解しがたいに違いない。ちなみに、体内でアルコールから生成される毒素、アルデヒドを分解できるモンゴロイドは、全体の54パーセントしかいない(コーカソイド、ネグロイドでは100パーセント)という(*1)。残りの約半数は弱いが少しは飲める、または全く飲めないかどちらかであり、したがって多くの日本人にとって、飲酒とは文字通り服毒に等しい行い、ということになる。

長年、左党が免罪符のように信じつづけてきた「酒も適量ならば薬になる」という説は、どうやら統計手法の誤りから生まれた迷信に過ぎず、飲んだ量に正比例して様々な疾患の罹患率が上がることが、最近の研究で明らかになってきた(*2)。長期間一定量のアルコールを摂りつづけると、海馬が萎縮しさらに認知機能も著しく低下するという。そうならないためには、毎日ビールをコップに半分くらい、が限度らしい。わたしのような者にとっては、あまりにも無慈悲な真実、というほかない。
(つづく)

*1 原田勝二(元筑波大)「神経精神薬理 6,NO.10,681」(1984)
*2 Anya Tpowala et.al “Moderate alcohol consumption as risk factor for adverse brain outcomes and cognitive decline: longitudinal cohort study” 2017

グロッソラリー―ない ので ある―(34)

明智尚希

不覚にも次郎衛門は寝小便をした。二歳か三歳の時以来だ。それから二十余年、もはや粗相をしでかす歳ではない。人に知られたら大変である。次郎衛門は汚れた敷布団を、人気のない日の当たる縁側にそっと延べた。だが見ていた。三治郎が見ていた。この少年が長じて全国地図を作る人物になろうとは、誰が予想できたろう。まあ嘘ではあるが。

(。-д-。) 嘘ダッタノカ……

 長く生きてきたが、無益とまでは言わないまでも、自他に対して有益な人生を送ってきたとは思えん。毎年毎年限りなく無益に近づいていってるんじゃないかと思う。誕生日は忌々しいね。不要だった一年がまた追加されたという、了解しがたい事実の通告じゃから。こういう無駄な人間が、全国津々浦々で同じことをぼやいておるんじゃろうな。

(# ̄З ̄) ブツブツ

 物心のついた人が、巷間にある物を純粋に楽しむのは難しくなってきている。どこの製品か、その企業はどうなのか、製造国はどこか、この国との関係はどうなのか、誰が何の目的で作ったのか。かつては大人の王国だった。が、現在は逆である。政財官の人々や有権者でもない若年層が、厳しい慧眼を世に突き刺し、本質を射抜き、冷めている。

シーン ( ( ̄ (  ̄(  ̄( ̄  ̄( ̄  ̄))

 まず秒針がある置時計を用意する。次に畳の八畳間へ入る。東に正対するするように正座をする。時計を両膝間の線の延長線上に置く。十センチが適切である。一度大きく深呼吸をし、秒針が十二のところに来たら息を止める。十五秒、三十秒と経つ。四十五秒が過ぎる。一分が経過したら呼吸を再開する。大きな幸せを勝ち得た気分になれる。

(○ ̄ 〜  ̄○;)ソウデスカ……

 海外に到着した時に、いきなり開放的になる人が少なくない。母国はそんなに息詰まる場所なのか。多少の興奮があるのは理解できるが、激しく買い物をしたり容易にはめを外したりするのは謎である。感性に左右される人は自我が整っておらず、誰かのフォローが不可欠となる。同伴者は解放されない程度に、相棒に嫌がられるのが宿命である。

U\(●~▽~●)Уイェーイ!

 寝苦しいほどアイミスユー。歯磨き粉味のアブサンをあおりながら、近代建築五原則を唱えよ。虹こそは人間の努力を映す鏡で、人生は彩られた映像としてだけつかめる。だから全て無常なものは、ただ映像に過ぎない。内在律のラポールが提灯記事を書いた。総カラオケ現象という垂直の大騒ぎに呆れる、見切り問屋は蒼ざめた馬に乗る騎手だ。

(/≧◇≦\) アチャー!!

 アポリネール、アラゴン、アルプ、エリュアール、エルンスト、グロス、クロッティ、シャド、シュヴィッタース、スーポー、ツァラ、デュシャン、トイバー、ハウスマン、バーゲルト、バーダー、ハートフィールド、バル、ヒュルゼンベック、ファイニンガー、プライス、フラエンケル、ブルトン、ヘッヒ、ヘルツフェルデ、ペレ、メーニング……。

゚(゚´Д`゚)゚

 「それではここでお知らせです。今月十四日から全国ロードショーされる『シャーロックホームズと謎の財宝』ですが、犯人はレイノルズ夫妻です。最初のカットから犯人が登場するという非常に珍しいケースです。真ん中くらいに出てくる日雇い労働者のサンチェスは怪しいですが善良な市民です。みなさん是非劇場に足をお運び下さい!」

アホ (* Ŏ∀Ŏ) デス

 不思議な女の子がいた。どこのライブ会場でも必ず右隣りの席にいた。見た感じせいぜい小学校の高学年といったところだ。ライブが始まりみんな一斉に手拍子を送る中、その子だけは突っ立ったまま。加えて、小柄であるため前が見えるはずもないのに、背伸び一つしようとしない。ライブ後、会場が明るくなると、隣りには誰もいなかった。

†┏┛墓┗┓†~~~~~ (m´□`)m 幽霊

 鬱でも躁でもないニュートラルな状態を獲得するのはたやすいことではない。「職場鬱」や「軽症鬱」に代表されるように、心的平和を保てない人は少なからずいる。出窓でまどろむ猫がやすやすと獲得しているものを、人間様は七転八倒して考え、悪戦苦闘してなおも考えて、疲労困憊した挙げ句ようやく手に入れられる。が、長くは続かない。

o(^・x・^)o ミャァ♪

 あくまでも理解は可能という前提に立っての話じゃが、わしからすると、主意主義的な要素がみんなに欠けているように見える。意志なきところに理解なし。まあ今思いついたことを言ってみただけじゃが、理解に限らず意志がないと他人には何も伝わらないもんじゃ。ほれ、パスカルだか誰だかが言ってたろ、人間は考える石である、とな。

アシ(○ ̄ 〜  ̄○;)ナンダガ……

 「それじゃあ、国語の授業に入る前に、先生からとても重要な一言。いいか、よく聞いてろよ。試験に出すぞ。都市計画において一つの地域全体を機能、用途、法的規制などにより小部分に分けることであって、都市計画法に基づいて、機能、用途、高度、高度利用、特定、防火、風致の各地域として定め、建築物に制限を設ける云々、しかじか」

ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ナンヤソレ

 問一:国語の問題を答えなさい。

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ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ワカルカイナ

 粗野で愚鈍な人は、なぜそうであるようにしていられるのか。人を不愉快にし時には怒らせる。誰かがその性質を露骨に糾弾しても自覚する様子はなく、そもそもその能力も具わっていない。どうすればいいのか。これは医学の範疇だろうから、いつか特効薬が出るかもしれない。そうかといって、重大な何かが解決されるというものでもない。

… (´・ω・)_θお薬です

 あのー、あれじゃ。あれ。なんつったっけなあ。こう、紙とか板とかの上に、こう、あるやつじゃよ。わからんか。大きくはない。それどころかぽちっとしてて小さいもんじゃ。紙や板じゃなくてもいい。平面じゃなくてもいいんじゃ。とにかく何かの上っちゅうか表面っちゅうか、全然目立たない感じで小さく存在しておるものなんじゃ――点。

* ゚ー゚) φ.

 鬱病はただひたすらに落ちていく。どんどん落ちていき、いったい自分が何者なのか、何の病気なのかが不明瞭になる。搏動一つが感じられ、一鼓動ごとに病に養分が与えられる。無関係な想念を黒々と巻き込みながら、底なしに落ちていく。上からは鉄柱に押され下からは極太の綱に引き込まれる。人間の形を失ったとしても不思議ではない。

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さつき 二〇一七年八月 第四回

植松眞人

 私たちはずっと生まれ育った家を出て行くことになった。なぜ引っ越さなければならなくなったのか、ということについては、母に詳しく説明されてもよくわからなかった。ただ、父が「なんだか時代とうまくやっていけなくなったんだよ」とつぶやいて、なんとなくそれが私の腑に落ちた。
「父さんはずっと父さんなりに一生懸命に仕事をしてきたんだけれど、だんだん父さんの一生懸命を世の中が『鬱陶しいなあ』なんて思い始めたみたいに、気持ちが通じ合わなくなったんだ」と以前父は私に言ったことがある。あのときの気持ちが通じないと、いまの時代とうまくやっていけないは、きっと同じ話なんだろうと思う。そして、それを言うなら、母だって時代とうまくやっていけるタイプじゃないだろうし、遅かれ早かれ、母だって世の中と気持ちが通じ合わなくなるんだろうなと私は思うのだった。もちろん、父と母だけではなく、私も時代とはうまくやってはいけない気がする。学校で起こる嫌なことなんて、実は小さなことだから、世の中に出れば全部解決するさ、と担任の先生に言われたことがあったけれど、きっとそれは嘘だと私は思っている。
 学校は家族以外の『社会』の最小組織だし、その最小の組織の中で、なんとなくうまくいかない私は、学校の外の『社会』に出たって、うまくやっていけるはずがない。今と同じように人に嘘を吐かれてがっかりしてみたり、正直に生きたいのに小さな嘘を吐いてしまって落ち込んでみたりする日々を、これからもずっと送るのだろうと思う。きっと間違いなく。
 高校生になってまだ一年も経たないのに、私はうちの家族が格差社会の低い方に属しているのだということをはっきりと意識させられた。誕生日にスマホを買って!と無邪気に言ってはいけない層に属しているのだ、夏休みに温泉旅行に行こうよ!と笑いながら言ってはいけない層に属しているのだ、ということを強く意識している私には、これからも父と母の娘として、陰りのない表情で過ごせるかどうか自信がない。自信はないけれど、そうしなければならないのだ、と気持ちを引き締めているだけで、私の中から力の粒子が抜けていったような気がするのだった。
 七月の都議会議員選挙で圧勝した都民ファーストの会だけれど、あれだけ新人の議員たちが都民ファーストというだけで当選してしまったら、結局、わけのわからない人たちで東京都議会が満席になってしまうんじゃないの、と私は思うのだけれど、そんなことを学校で友達に話しても「政治の話はお断り」と言われてしまう。
 夏休みの登校日が昨日あったのだけれど、結局、誰ともまともな会話をせずに帰ってきた。ディズニーランドに行っただの、海外旅行にこれから行くだの、そんな話を聞いても楽しくもなんともない。人は自分が「いつか行けるかも」と思うことにしか興味を持てないのだと、改めて思うのだった。そして、今私の最大の関心事である、都民ファーストの会のことを話せないのなら、ストレスがたまるだけだと、私は登校日のホームルームとオリエンテーションが終わると、足早にちょっと壊れかけた家に向かった。
(つづく)

甲州は好きですか

大野晋

さて、ワインの話の続きです。

山梨県はぶどうの産地として特に東日本では有名です。葡萄は明治維新の殖産産業としてワイン製造が導入されましたが残念ながら世界的な病害虫の蔓延により、日本の産地はことごとく被害を受けてほぼ全滅してしまいます。ところが日本在来の葡萄である甲州ぶどうが栽培されていた山梨県では被害を免れます。結果として、被害を受けなかった甲州種がその後の日本の栽培種として大きな地位を築き、山梨県がその産地として確立します。

戦争中は軍事利用のために葡萄の醸造が行われますが、ワインは副産物として品質の向上がされませんでした。一方、日本では赤玉ポートワインに代表される甘く糖分添加された酒が主流であったために、本格的なワイン醸造は1970年代まで遅れます。結局、終戦後も山梨県のワインはあまり品質向上することはありませんでした。

1970年代から日本の食卓の欧米化が始まり、本格的なワインが輸入され始めると、長野県ではそれまでの甘味果実酒用のブドウ栽培から本格的な欧州のワイン品種の栽培に切り替わり始めますが、山梨県の甲州ブドウは生食にも利用されるため、山梨県でのワイン用ブドウへの切り替えは遅れます。

結果として、長野県では先行してワイン用ブドウの栽培がはじまり、産地形成されていきますが、山梨県では醸造業者が多く、観光ブドウ園などの業態も成立したため、ワイン専用品種への切り替えも、ワインの品質向上も遅れます。一部の大手メーカは醸造用ブドウを長野県に求めるようになります。現在でも、日本ワインコンクールの上位入賞ワインや国外のワインコンクールで入賞するワインがほとんど長野産のぶどうでできているのはこうした理由からです。一方、甲州ブドウは、いわゆる「試飲商法」で、おみやげ用として、観光客に販売する販路で消化されます。まあ、こうして売れるうちは良かったですが、最近の主に外国人客相手では試飲で買ってもらえることはないですから、旗色は徐々に悪くなっている状況です。

甲州は日本を代表するブドウの品種ですが、生食では巨峰やデラウェア、ワイン用ではメルローやシャルドネに負けてしまいます。結局、1000円ワインの原料となりますが、輸入ワインの関税がほぼなくなる昨今、売り物になるかどうかの瀬戸際と言わざるを得ません。数千円で売られる甲州のワインもありますが、まだまだ少数です。さて、今後、どうなるか?大きな問題でもあります。

甲州ぶどうって、好きですか?

音楽と数字

笠井瑞丈

なかなかピアノが上達しない
でも好きだから毎日弾きます

譜面を眺めるのが好きだ
そして頭のなかで
譜面を数字におきかえる

シャープは三つ
フラットは嫌い

なぜだか分からないけど

音楽と数字
数字と音楽

数字

音楽

一章節480
ラの音440

踊る事
弾く事

振付も譜面に起こせたらた考える

独学で始めたピアノ
好きの曲だけを弾く

戦場のメリークリスマス

家の人からクレームがきても
懲りずに今も弾き続けている

初見で弾けるようなりたい
来世はピアニストに

8月は福島の月だとこじつけてみる。

さとうまき

個人的には、サッカーが好きというわけだが、というよりは、イラクの支援をやっているうちにどうしても避けては通れないのがサッカーだった。なので、イラクのサッカーを応援するのは、9割は仕事だと思っている。

6月のワールドカップ予選、イラク vs 日本戦がイランで行われ、何と40℃近い日中に試合をするなんてことはあり得ないのだが、日本もバテバテ。でもイラクの選手も同じくらいしんどかったはず。試合はズブズブの戦いになり1-1で引き分け。こういうワイルドな試合も見てて面白かった。ただ、TVで暑い、暑いといってもなかなかその暑さは伝わらない。

僕は、その試合が終わってすぐに、イラクのアルビルに行ったが、これまた暑く、とうとう日中は55℃にもなってしまった。こうなると息をするのも苦しいし、耳に熱風が当たるとひりひりする。おまけに公共の電気がとまる。すると、自家発電を皆が動かすから、この排気ガスでさらに気温は上昇。しかも、個々が自家発を回し、蓄電されないから、こんなに電気効率が悪い冷房が使えるくらいのアンペアのある発電機を入れるのに300万円近くする。そして、動かすための燃料も結構高い。ならばソーラーとかもっとそういうエネルギーをまともに考えればいいのに。

さて、8月31日、今度はオーストラリアとの対戦。これに勝てば日本がワールドカップに出場できる。しかも日本での試合だからもっと盛り上がるはず。オーストラリア、うーんあんまり縁がないなあ。これは、1割すらも仕事にできないなあ。
「オーストラリアに移住したイラク難民の今は?」みたいな特集?

最近は、オーストラリアの難民政策がひどいことが有名になっている。「豪州には住まわせない」という方針で、海上で拿捕された船に乗っている難民認定申請者は、そのままパプアニューギニアのマヌス島かナウル共和国に連行され、そこに作られた収容所に入れられる。そして、そういった収容所では虐待がおこなわれているというのだ。そもそもナウルっていう場所は、オーストラリアがリン鉱山に目をつけて掘るだけ掘って滅茶苦茶にしちゃってどうしようもない国になっちゃったらしい。それでオーストラリアはその責任を感じ、お金を払って難民を収容してもらっているということらしい。

しかし、任せたナウルの人たちがこれまた荒んでいるらしく、難民の管理がめちゃくちゃ。性的暴力とか虐待で、人権問題になってしまった。オバマ大統領が離任直前にオーストラリア政府と合意して、収容所から、イランやシリア、イラクといった難民を1250人引き取り、代わりに、アメリカの中南米の難民と交換するというなんだかよく分けのわからない取引をしたらしい。

ヨルダンで知り合ったイラク難民のランダちゃんを思い出した。彼女らはヨルダンでオーストラリア政府の面接を受けて合法的に難民として、2006年に移住したのだ。そのような合法的な難民は、毎年1万人くらいいるらしく、シリア内戦が始まってからはその枠が2倍ほどになっているから、オーストラリアにいる分には寛容な国に見える。

早速フェースブックで呼び出してみる。
「元気?」
「こんどさー日本とオーストラリアが試合するけどさ、どっち応援する?」
「日本!」
「お世辞言わなくていいから」
「だって、今のチームは好きでないもん」

というわけで、ランダは、すっかり女子大生になっていて、学生生活をエンジョイしていた。5歳の時から知っているので、それだけでうれしくなってしまい、ナウルの難民問題とか切り出す感じではなかった。

オーストラリアは日本人にとっては、人気のある国の一つ。友好姉妹都市もたくさんある。そこで調べてみると、福島の大熊町といわき市がバーサスト市とタウンビルズ市とそれぞれ姉妹都市を結んでいる。

うん? オーストラリアは、ウラン鉱山で有名で世界1の埋蔵量だといわれている。日本のウランの輸入先のNO1がオーストラリアなのだ。そして福島原発事故。オーストラリアは、日本が脱原発なんてなってしまったら一番困る。でも、オーストラリアには、原発がない。友人のオーストラリア人に聞いたら、「原発やれば核のゴミが出る。その捨て場がない。そしてそもそも原発はコストがかかりすぎる。住民の反対運動で、原発はできなかったんだ」と教えてくれた。

先日、国連で核兵器禁止条約ができたのに、日本も、オーストラリアも参加せず。きな臭い友好関係だ。オーストラリアは、核実験やウラン鉱山からヒバクシャを生み出し、広島、長崎は、核爆弾の犠牲になった。そして福島は原発の犠牲に。

それらの市民たちが友好的にもっとつながり、きな臭い友好関係にくさびを打つ必要がある。というわけで、8月は日本にいて、福島を行き来しいろいろこじつけて仕事をしてみるつもり。

製本かい摘みましては(129)

四釜裕子

製本アーティスト、山崎曜さんの作品展「みなも・あわい・うた」には、色とりどりのバインダーのようなものが並んでいた。2枚の薄いアクリル板のあいだにさまざまなものがはさんであって、板の四辺に空けた細かい穴を糸で縫い合わせたものを表紙とし、背にあたる部分を革でつないである。OHPフィルムに焼いた写真、木の葉や脱脂綿、羽根、金網、グラシン紙、寒冷紗や糸等々が層をなしてとじ込めてある。手にとって開け閉めしたり灯りにすかして見ていると、どこか森に誘われて、湖面に映る景色の揺らぎに足元がおぼつかなくなったり底なし沼に驚いたり。

一連の作品は「サンドイッチホルダ」と名付けられ、内側に貼った革に切れ目が入れてあり、ノートや手帳をはさんでカバーとして使うことができるようになっている。一つ一つの作品がどんなきっかけでどんな素材で作られたのか、そのなりたちを書いた長めの文章も添えてある。作り手の愉快と覚悟の息を土管の向こうから真っ正面に受ける味わいがあって、解説というより物語であった。「サンドイッチホルダ」は使い手それぞれのノートをはさむものとして提示されたけれども、すでに一つ一つが作り手による物語をホルダしていて、その意味では完結しているのではないかと思った。革の切れ目がただひと筋のこされたためらい傷のようにすら見えてくる。

曜さんはアトリエでの教室や大学などでの講義のほかに、カッターや刷毛の使い方や糊の作り方など、基本的な技術に限って教える講習も行っているそうだ。会場でカッターの使い方をちょっと聞いただけで、私も習いたいと言ってしまった。どうすればうまく使えるかと聞かれたときに、「余計な力を入れないこと。あとは、なれることですね」と最後を締めくくる自分の曖昧さにさすがにうんざりしていたからだ。いつまでたってもなれない自分がいる。このままでは、なれる前に必ず死ぬ。力を入れたくないのに入っちゃうから余計なのであり、皆それに困っている。私も。

「人差し指を、カッターの上ではなく右脇に添えるといいです」と言われる。多くの人(私もそう)はカッターを鉛筆を握るように持つけれども、これでは刃先を紙に押しつけることになる。すると「切ってやる」という意識が高まって余計な力が入りやすくなるというのだ。カッターの右脇に添えれば、「上から力を入れることができなくなるから、余計な力を入れることなく、手、全体でカッターが使える」。なるほど……。かたいボール紙などは切り筋を入れたらあとはフリーハンドで切ってしまうそうだ。「手や腕を動かすのではなく、身体全体を後ろへ引くようにする」。会場で “エア・ボール紙切り” をしていただくと、一瞬にして場の気が変わった。腰のすえ方、身のこなし、手つき目つき、”修行僧” みたいだった。“製本エクササイズ”と思った。これらは曜さんの『手で作る本』にも詳しくあるのだけれど、どうも私には器用な方々が駆使する技のひとつに見えてしまって、試したことがなかったのだった。目の前で見るのはやはり圧倒的だ。

曜さんの身のこなしには理由があるだろう。ご自身のブログによると「構造動作トレーニング 骨盤おこし」なるものを体得されていて、始めたきっかけは〈本の背への箔押しの「だましだまし」な感じの改善〉だという。箔押しと骨盤おこしの動きは〈つながるものがある〉のだそうだ。曜さんはさらに、ルリユール工程の花ぎれ編みが苦手で筋肉痛になっていたのも、ご自身の身体に聞いて解決している。花ぎれ編みは絹糸で本の背の天地に編みつけるごく細やかなものだから、筋肉痛になるほうがむずかしいと言っていい。力なんていらないのに力んでしまうのは、苦手だから力が入ってしまうのでも、なれていないからでもなく、〈右手で糸を引くのが強すぎて、対抗して左手でも引きすぎ〉ていたためと分析するのだ。曜さんの身体と曜さんの頭のおしゃべりを、曜さんが仲立ちしている。

展示会場には木製のモビールもいくつかあった。使われていたのは曜さんのアトリエにある木製定規を細かく切ったものだ。わずかな風を受けて揺れ、やわらかい音をたてている。改めて、今回の展示の口上を読む。〈僕という動物体が見つけて集めてくるものに、僕の人間部分は見立てのようなことをしていきます。無意味なところに意味付けごっこをします〉。生きるとはまずひと続きの一人ごっこ遊びだ。と、思った。

しもた屋之噺(187)

杉山洋一

櫻井さんから沢井さんの演奏会の録音が届いたので、真夜中にヘッドフォンで聴きながらこの原稿を書いています。伊語で写真を撮るときによく使われる「永遠化-immortalizzare」という動詞が頭を過ります。仕掛けだけを書いた楽譜によって演奏家から溢れる音を聴き、それが永遠化され録音として残る。

完全を目指す作品は、同じく完全な演奏を要求するでしょう。完全を目的とする演奏と音楽を目的とする演奏とは本来意図が全く違うもので、完全を目指す演奏は自分とは一線を画す気がしています。音楽の中に正しさを追求するのは、何か違うように感じます。正確な読譜法や演奏法が大切なのは言うまでもありませんが、それは到達点でもなければ、音楽の質を保証もしません。非の打ちどころなく造り込まれた録音が最良の音楽とも限らないでしょう。ただ日頃そうした音に耳が慣れ親しんでいると、不揃いな音は耳障りにしか感じられなくなるかも知れない。ただそれは、防腐剤や化学調味料漬けの食材と同じように、我々自身が作り出してきた産物でもあるのですから、誰のせいでもありません。

誰が演奏しても悪い演奏にならない曲を書くことが理想ですが、ケージでもあるまいしそれでは理想論に偏りすぎるでしょう。せめて、信頼する演奏家の音楽が自ずから零れ出るような作品を書けるようになったらよいと願います。
特に現代音楽に通じているわけでもない父から、沢井さんの演奏会で特に印象に残ったのが七絃琴だと聞き溜飲が下りたのは、七絃琴に聴き手が共感できるか心配していたからです。
リハーサルでも、仲間たちと本番直前まで喧々諤々試行錯誤を繰返していたのは、これら古代の楽器を、本来の姿で提示すべきか、我々現代人の耳が欲する姿で提示すべきかという点でした。これは気の遠くなるほど難しい作業でしたが、そうした皆さんの情熱は本番の沢井さんの演奏のなかに現れていたと思います。
そうして改めて正倉院七絃琴の録音を聴き、音の立ち上がりの瑞々しさにはっとする瞬間が何度もあり、その瞬間を見事に永遠化する録音の妙に、改めて感嘆したのでした。
夜更け、訥々とつま弾かれる七絃琴の音がこれ程自分の心に沁み入るのは、立て続けに受取った訃報のせいもあるでしょう。
沢井さんのドレスリハーサルにいらしたOさんが、涙を拭っていらしたと伝え聴きました。娘さんのお話はしませんでしたが、聴いて頂けたことにただ深く感謝を覚えました。

七月某日 二グアルダ病院
劇場付合唱団のインぺクをしているキアラが、息子を訪ねてくれる。彼女はオーストラリア生まれで、父親はヴァイオリン奏者で、世界を放浪するのが好きな小説家だったと言う。彼女の家は二グアルダにあって病院から近く、折を見つけては訪ねてくれて、その度に何十年も前のテーブルゲームや、父親が子供向けに書いた小説などを持ってきてくれる。彼女は、相手の眼を覗き込むと、その人の前世の動物が見えるという。その動物が守護神として守ってくれていて、自分の性格などを理解するのにも役立つのだそうだ。家人は、猛禽類。鷹だか鷲だかと言われて体裁がよい。当方は、まず海に居る動物だと指摘され、何だろうこれはと少し考えてから、
「あら、あなたの眼には蛸が映っているわ。蛸はとても頭のよい動物よね」と声を弾ませた。
愛嬌もあり味も良いので、蛸は嫌いではないが、どう喜ぶべきか少々当惑する。昨夜、息子の夕食用に朝鮮料理を届け、烏賊の辛味炒めを食べたところだったが、烏賊を食べる分には問題なかったのか暫し考え、言われてみれば、確かに今まで蛸のように生き永らえて来た気にもなる。三ツ子の魂何たらで、蛸と言われると小学生の頃「のらくろ」と一緒に読み耽った「蛸の八ちゃん」の顔ばかりが頭に浮かぶ。
息子は最近、薄味の病院の食事には全く手をつけない。3週間も食べれば流石に厭きるようで、毎日仕事帰りに、スリランカ・カレー、インド・カレー、四川料理、朝鮮料理など、手を変え品を変え夕食を病室に持ち帰って食べている。味が濃いと少し食欲が湧くように見える。見廻りの看護婦が消灯ですと入ってきて、机いっぱいに広げられた朝鮮料理に愕いて、あらまあと言葉を失って出てゆくこともある。

七月某日 二グアルダ病院
イタリア海兵隊広場のリバティ宮で、生徒たちが集まってハイドンの中期交響曲4曲を振るのを聴きにゆく。2階のバルコニー席にいたのだが、平土間席の挟んだ向こうのバルコニー席に、二十歳過ぎの感じの良い男女が座った。アルドが「告別」の2楽章、とても美しい緩徐楽章を振っている時のこと。最後の頁の美しい転調に差し掛かるところで、二人が何気なく顔を見合わせて、微笑みながら口づけを交わした。掛け値なく幸せな瞬間に思わず鳥肌が立った。
アルドは60歳近いのではないか。元来は、映画音楽の打込みをやっていて、実際のオーケストラを勉強したいと勉強を始めた。奥さんを癌で失くしたのは、もう一昨年になるだろうか。朴訥然として、不器用で時代がかった趣味だけれど、実に豊かな音楽を持っている。「告別」で聴き手を幸福で包み込んだのは、その彼の音楽の力だった。
自分が好きな作曲家の名を尋ねられれば、迷いなくハイドンとシューベルトを挙げる。ハイドンの音楽にここ暫くどれだけ癒されているか、とても言葉では言い尽くせない。

七月某日 二グアルダ病院
ミラノの反対側にある病院への息子の入院で、タクシーに乗る機会が増えた。6月炎天下の下自転車で通って数日すると目が回ってこちらが倒れてしまった。小児病棟だから尤もなのだが、元気な息子の隣の家族用ベッドにひもねす伸びている父親に対しては看護婦も殊の外すげなく、隣で点滴を受けている息子が父が眩暈と言うと、困りますね、誰か他の家族は来られないの、酷いならお父さんも救急に行くことですねと言われ、情けない思いをした。
昨日のタクシー運転手も、こちらの職業をまず尋ねてきた。音楽関係だと答えると、実は自分の親戚に世界的に有名な指揮者がいると言う。名前を聞くと、確かに名前は知っていた。
「ところが、彼は庭の最近芝刈り機で指を2本切断してしまったのですよ。可哀そうに。娘はまだ幼くて7歳だったかな」。
余りにさらりと彼が言うものだから、こちらが聞き間違えたのかと思わず聞き返したが、間違っていなかった。
「今は演奏活動を中断して、リハビリをしているのです。その手術を受持ったのは父でして」。
事情がよく分からないまま、黙って話を聞いていた。
「父は世界で最初に手の再構築手術をしたイタリアの外科チームの一人で、手の精密な手術の専門医なんです。世界的に有名なんですよ」。
少し狐につままれた思いで話を聞き続ける。
「ですから父が彼に緊急手術を施して、取り合えず指の先を縫合して処置したのです」。
「指は繋げたのですか」。
「残念ながら、切れた方の指は形を留めない状態で使い物にならなかったそうです。だから縫合処置しか出来なかったと言っていました」。
他人事とは思えない内容で、こちらの指先が痺れてくる。
暫く沈黙が続いた後、彼は話を続けた。
「実は母も姉も皆医者なんです」。
「恐らく、誰もが運転手さんに尋ねると思いますが、あなたは何故医学の道に進まれなかったのです」。
「父があまりに高名ですからね。幾ら自分が頑張っても、きっと親の七光りと言われるでしょう。大学では経済学を専攻しました」。
「こう見えても、大学在学中から実は史上最年少で大手保険会社の支店長を任されていたのです。当時は所謂高給取りでした」。
「ただ、あの職業は自分には続けられなかった。嘘をついてでも、健康な人に無理やり不安感を押し付けなければ、会社に貢献できないでしょう。それは自分には出来なかったのです」。
「お父さまの血を引継いでいらっしゃるのですね」。
「ある時から不眠に悩まされるようになりましてね。家に帰って、無邪気な可愛い娘の寝顔を見ると辛くて堪らなかったです」。
「それで10年前すっぱりと退職しました。以前よりずっと長く働いていますが、今の方がずっと幸せです」。

そんな話をしていると間もなく二グアルダ病院の正面玄関前に着いた。厳めしく荘重な白い石造りで、天使ガブリエレとマリアの美しい浮き彫り細工を中央に頂く。
「Ave gratia plena-めでたし恵みに満ちた方」。天使祝詞冒頭が刻まれている。

「よいお話聞かせて頂き、有難うございました」
「こんな詰まらない話に付き合って頂いて、こちらこそ有難うございました」
「息子さんのお身体、大切にして上げて下さい。私ごときは何もして差上げられませんが、これでアイスクリームでも買って上げて下さい。ささやかな気持ちです」。
そう言って彼が寄越した領収書には、15ユーロ多く金額が書き込まれていた。

七月某日 ミラノ自宅
二グアルダ病院で息子のリハビリ療法を担当するフランカは、イタリア語で俳句を作る俳人で、作品は出版もされている。五・七・五のシラブルで構成され、意図的か分からないが、作品は我々が思う俳句にとても近い印象を与える。
リハビリに立ち会っていると、普通だと思っていたことが、どれだけ複雑な小さな運動の連なりによって成立しているかを知り、それを息子が達成する度に心を躍らせている自分に気づく。原因が違うので感覚も違うだろうけれど、小学生の頃に事故に遭ってから高校に入る位まで、左手全体の神経がぼやけていた感覚が甦ってきた。
息子の施術は決まって朝9時からと早いので、朝食もそこそこに病院に出かけていると、フランカに叱られてしまった。困憊している息子でも、朝7時半家を出る直前に起こして食べる気が起きる朝食は何かと考えた挙句、シチリア風に、息子の好きなバニラとクッキー味のジェラートをパンに挟んで朝食とする。大人ならパンにリキュールを零してみたりするところだが、息子の場合、見つからぬようパンやジェラートにロイヤルゼリーを塗っている。

七月某日 ミラノ自宅
メッツェーナ先生訃報。イタリア半島南端に引っ越されてから、結局一度しかお目にかかれなかった。その時に先生からカセルラが著した「ピアノ」を頂き、それきりになってしまった。何度も伺おうとしたのだけれど、実現出来なかった。ジョンから葬儀に出られるかと連絡が来て、息子の体調が不安定なので、家人が急遽夜行寝台を予約し慌ただしく出かけて行った。ストライキと寝台急行の故障が重なって、往路は散々だった。ターラントまで駆け付けられる縁者は限られていたのか、ほんのささやかなミサだったと言う。家人は教会で神父から頼まれ、オルガンで「主よ人の望みと喜びを」を弾いて見送った。神父はメッツェーナ先生が誰なのか殆ど知らなかったようだから、家人やジョンの姿を見て先生も喜んでいらっしゃるに違いない。先生のお宅のすぐ裏にある、コバルト色の海ばかり思い出している。

七月某日 三軒茶屋自宅
沢井さん宅で「峠」のリハーサル。五絃琴の録音の上に、七絃琴の演奏を重ねてゆく。五絃琴は流刑に処された夫を想って一針ずつ直向きに衣を縫う女の姿。七絃琴は妻から引き離され流刑地へ曳かれてゆく男の重い足取り。一見すると相聞歌は対話のようだけれど、永遠に再会の許されぬ次元へ引き裂かれた二人の、それぞれの孤独な叫び。
同じ相聞歌をテキストに、奈良の民謡を使って最初クラリネットとピアノの曲を書いた。どちらも現代の楽器が我々の言葉を話してくれた。同じ頃に沢井さんのお宅で、五絃琴と七絃琴に出会った。七絃琴は相聞歌が書かれた頃に同じ場所に存在していて、遠く中国から運ばれてきた。五絃琴は中国で以前から存在し、辛追夫人の柩にも描かれていた。これ等の逸話が自分の裡で絡み合い、七絃琴は故郷を遠く離れる男の嘆き、五絃琴はかの地に残された女の嘆き、という相聞歌の姿になった。
初めて五絃琴と七絃琴が重なるのを聴いた時、五絃琴は背景に留まったまま、七絃琴ばかりが、次第に五絃琴から離れ、どこまでも我々に近づいて来る錯覚を覚えた。古代の楽器が古代の音を使って往時の別離を唄うと、思いがけず生々しく響くことに驚く。

七月某日 ミラノ自宅
送られてきたオーケストラの楽譜を眺めながら、オーケストレーションとサウンド・デザインは同義かとぼんやり考える。旋律の概念、旋律を支える伴奏の概念が崩壊して以降、現代音楽、特に西洋音楽の伝統に端を発するオーケストラ作品は、音響体としての構築に目が向けられる。音楽を違う視点で成立させようとすれば、特に社会構造を映しこんだオーケストラという構造物など、どのように成立し得えるかと考える。

七月某日 ミラノ自宅
バーゼルのスコラ・カントルムのマッシミリア―ノがレッスンに来て、割と最近まで、街ごとにどれだけ調律が違っていたかについて、色々と説明してくれる。ヴェルディの時代でさえも、今の歌手が頭声と胸声のチェンジで苦労するのは、調律が当時と違うからだと言う。当時の調律であれば、チェンジなしで歌える難所が幾つもあると言う。インターネット時代の現在にあっても国ごとに調律は随分違うのだから、100年前の相違はかなりのものだったに違いない。
時刻も昔は街ごとに日の出日の入りで時刻を定めていたから、旅行は不便で仕方がなかったと言う。標準時が決められて随分すっきりしたが、同時に矛盾も生じた。
創成期の楽器もそれぞれが混沌の中にあって、街ごと国ごとに違った姿をしていたが、当時はそれでも余り不便を感じなかったのだろう。方言が淘汰され、小さな言語が大きな言語に吸収され消滅していったように、或る楽器は廃れ、或る楽器は民族楽器として残り、或る楽器は西洋音楽の主流として残ってゆく。
現代音楽の楽譜を眺めていて、マッシミリアーノの話を思い出す。100年200年後、この記号は何を表しどう演奏していたのか、何故作曲家毎に書き方が違って、一貫性のない記譜法が採用されたのかと論争の種になっているかも知れない。現在浄書ソフトに使われている譜面のサンプルを、各作曲者が便宜上採用していても、150年200年後「フィナーレ」や「シベリウス」が使用されているか甚だ怪しい。先日も演奏会の後「味とめ」で悠治さんと話していて、本来本末転倒である筈だが、今や作曲家の方が浄書ソフトに併せて、浄書ソフトの出来ることを使って作曲している状況が話題にのぼった。

七月某日 ミラノ自宅
庭を眺めながら息子と蕎麦を啜る。夕立が上がった途端、出し抜けに奇妙なほど明るい光線が目の前に差し込む。燦燦と輝く眩い光は、辺りを橙色にも黄金色にも一気に染め上げる。夜の9時前とは思えない不思議な光景に、息子は怖がっている。ハイドンの「海の嵐」をかけていたが、音楽と目の前の風景が一体化し過ぎるのだと言う。
「海の嵐」を表わすのだからこの光景に合うのは当然だが、そうでなくても恐ろしい程煌々としているのだから、止めてくれと言う。この曲はオペラのようで、聴いているといくらでも舞台が想像出来るだろうと尤もらしく言うので驚く。「Sturund Drang-疾風怒涛」の音楽表現をよく言い得ていて感心する。

七月某日 ミラノ自宅
五月末から2か月、息子の喘息が酷くなってから今まで、魘されるような時間を「子供の情景」の作曲と共に過ごした。これほど息子の傍で過ごしたのも、好きなだけ甘えさせているのも、本当に何時以来だろうと毎日考えた。或いは、事故に遭った後の自分と父親との関係も、少しこれに近いものだったのかも知れない。
「子供の情景」を今井さんのために書くにあたって、シューマンの描く無邪気な子供の姿と目の前の息子の姿との落差に、病室では全く真っ当に頭が働かなかったのは我乍ら情けなかったが、どうしようもなかった。
Oさんの娘さんの話を聞いた時もメッツェーナ先生の訃報に接したときも「子供の情景」を思い出した。ほんの数日前も、仙台でお世話になったHさんの訃報が届き、彼女の朗らかな笑顔と、未だ小さいお子さんを思い出していた。

未だ息子は好きなピアノは思うように弾けないので、気分転換に指揮の手ほどきをしてみる。今までも小さい頃からレッスンを眺めていて、一緒に指揮の真似事をして時間を潰していたから厭ではないのは知っていたが、やらせてみるとプルソが思いの外上手なのに、率直に驚いた。最初からこんなに綺麗なプルソが出来る筈はないので、子供乍ら何年も今まで真剣に観察していたのかと思うと少し切なくなった。
疲れると言うことを聞かない左足から力を抜かせ、右足の前に頭を持って来させて重心全体を右足で取る。安定して立ち続けるのも未だ甚だ難儀だが、他の指揮の初心者と同じように「子供の情景」を課題に出すと、ベッドの中でずっと喜んで楽譜を眺めていた。
彼が1曲目を振り出した時、不覚にも涙がこぼれそうになったのは何故だろう。こんな反応は自分で想像もしていなかった。単純に息子が好きな音楽をやっている姿に心が動かされたのかも知れないし、子供の目に映る「子供の情景」の音が目の前に流れ出した驚きかもしれない。自分では絶対出せないような、シンプルな美しい音がしたのだ。もう少しざらついて欲しいくらいの、無垢で透明なガラス細工のような息子のピアノの音は、指揮をしても同じだった。
(7月31日 ミラノにて)

ジャワの雨除け、雨乞い

冨岡三智

日本での雨の降り方が熱帯地方化しているように思える折柄、今月はジャワでの雨のコントロール法について述べよう。

●雨除け

王宮で結婚式の行事があった時にやっていた方法が、竹ひごを束ねた箒を逆さ立てて、その先に唐辛子をたくさん刺すというもの。ネットで調べてみたら、祈祷師(パワン)がやる一般的な方法のようで、唐辛子以外にニンニクとバワン・メラ(赤エシャロット)も使うらしい。これらは唐辛子と並んでジャワ料理を代表する3大基礎香辛料と言えるだろう。どういう理屈で雨が止むのか分からないが、あるネット記事には「祈る人は確信してやるべし」と書いてあった(笑)。

私も雨除けのためにパワンを呼んだことがある。それは、2006年11月に舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」の曲を録音した時のことだった。この時は芸大のスタジオではなく、芸大元学長スパンガ氏の自宅のプンドポで録音した。プンドポは王宮や貴族の邸宅には必ずある伝統的な建物で、儀礼を行うための空間だ。ガムランはこういう場所に置かれている。壁がなく柱だけで屋根を支えている建物だから屋外も同然だが、プンドポでは天井に上がっていった音が下に降ってきて音響的には素晴らしく、ガムランとは本来こういう空間で上演されるものだと実感できる。スパンガ氏の屋敷は広大で、しかも塀の前には田んぼが広がっているから、雨さえ降らなければ夜は静かになる。というわけで、雨除けが必要なのである。11月は雨期に入っているし、それに録音予定の週には町内で結婚式が2つもある(ジャワでは自宅で結婚式を挙げることも多い)。それらの家でもパワンを呼ぶから、あっちで雨除け、そっちで雨除けされたら雲がスパンガ氏の家の辺りに集まってきて、録音日に雨が降るかもしれない!こっちでも雨除けが必要だ!と演奏者たちに要請されてしまったのだ。

それで当日パワンに来てもらうことになったが、他にも伝統的な雨除けの方法として、パンツをプンドポの屋根の一番上の柱に上げるというのもあるけど、やる?と冗談交じりに聞かれた。もちろん却下であるが、そういう場合、パンツは録音主催者の私のものであるべきか、家の当主であるスパンガ氏のものなのか…、また古い時代ならパンツではなく褌などになるのだろうか?などと色んな疑問が沸き起こる…。しかし、これもどういう理屈なのだろう。

話を元に戻す。録音では夜8時集合にしていたが、私は準備のため7時過ぎにバイクで現地に到着した。しかし、道中で土砂降りの雨が降り始めたので怒り心頭である。8時には雨は小雨になったが、まだ誰も来ない。少なくともパワンは先に着いて雨除けのお祈りか何かをしていてしかるべきではないか?竹箒に唐辛子は準備しないのだろうか?などという思いが脳裏をよぎる。8時半頃に雨がやみ、出演者が集まり始めた。録音準備をやってとりあえず晩御飯である。この段になってパワンがやってきて、晩御飯を食べてすぐに帰って行った…。あとは演奏するだけとなった時には雨はすっかりやんで、しかも田んぼのカエルたちも全然鳴かない。演奏者たちはパワンの成果にすっかり満足だが、そもそも予定時間から遅れているのだし、1人ずぶぬれになった私にすれば結果オーライでも割り切れない部分がある。別に謝礼と晩御飯を用意しなくても雨はやむべくしてやんだような気がするし…。しかし、パワンにすれば、本来一晩雨のはずが録音を実行できる状態にできた成功事例だったのかもしれない。

●雨乞い

私が最初に留学したのは1996年の3月から2年間で、ちょうど雨季の終わり頃に着いた。そして乾季を過ぎ、次の雨季が来ようとする頃…。雨季は11月頃から始まり、本格的な降りになるのは12月頃からなのだが、この時は1月半ばになってもほとんど雨が降らなかった。ちょっと小高い所にある大学の周辺の下宿では井戸水が枯れる所も多く、大学に来てマンディ(水浴び)をする学生がこの頃は多かった。大学は公的機関だけあって井戸は深く掘られていたようだ。

そんな折、私が参加していたカスナナン王宮の宮廷舞踊の定期練習では、「スリンピ・アングリルムンドゥン」を練習する機会がぐっと増えた。この曲はムンドゥン(雲)という語を含むように、雨を呼ぶと言われている。宮廷舞踊のレパートリーの中でも1年に1回、即位記念日にのみ上演される「ブドヨ・クタワン」という曲に次いで重いとされる曲で、王宮の練習に参加して半年余りたったこの時点で、1度も練習したことがない曲だった。演奏家たちは農村地帯に雨が降るようにとお祈りをしたのちに演奏を始めたものだ。王宮の周辺では相変わらず雨は降らなかったが、郊外では微量だが雨が降ったという。

また、「ババル・ラヤル(帆を揚げる)」という曲が雨乞いのために演奏されたこともある。この曲はグンディン・ボナンと呼ばれる合奏形態で演奏される儀式用の曲の1つだが、雨と関わる由緒があるらしかった。これは、カスナナンではなくマンクヌガラン王家の演奏練習の日だったかもしれない。

これらの雨乞いは別に王家が公的にアナウンスして行ったわけではなく、王宮付き芸術家による私的な行為である。しかし、ジャワの王宮と農村との間にある精神的な紐帯を思い出させてくれる。音楽や舞踊にはこんな霊的な力があると信じられている。

仙台ネイティブのつぶやき(24)職人さん訪問

西大立目祥子

 7月末は、私にとって「せんだい職人塾」の季節だ。ちょうど小学生が夏休みに入ってすぐのこの時期、10組ほどの親子といっしょにバスに乗り込み、職人さんの元を訪ねるという仙台市の企画を長いこと手伝ってきた。水先案内役なのだけれど、運転手さんのわきでマイクを握りしめ話をするのだから、まるでにバスガイドだ。

 訪ねるのは、桶屋、畳屋、表具屋、鍛冶屋、カバン屋、こけし屋、和裁屋、和楽器屋、仙台簞笥の金具職などなど。中には、東北大学理学部で実験用のガラス器具を製作する職人さんもいる。

 もちろん私には、こうした一つひとつの仕事を解説できるほど知識もましてや経験もない。以前、仙台市内の職人さんの仕事場を訪ね歩き冊子をつくる仕事をしたことがあって、ものづくりをする人々が自分の暮らす街にも少なからずいることを知ったことがきっかけだ。その仕事ぶりや人となりに興味と関心を抱くようになって、そうした人たちの存在と仕事ぶりを多くの人に知ってほしいという一心で続けてきた。

 仙台は江戸時代から消費都市としての性格が強かった街で、いまも2次産業の基盤は弱いといっていい。つまりは、つくって売るより仕入れて売るという商売の方が圧倒的多数だったわけで、その中でこつこつ時間のかかる仕事をやり続けてきた人たちというのは、まわりに流されることなく自分自身の中に意志や思いや考えを持つ人、という印象を抱いてきた。

 多くが亡くなられてしまったけれど、忘れられない職人さんもいる。奥さんを亡くされたあとも自立した一人暮らしを続け、早朝起床してまずトイレ掃除をし、朝食をつくって食べ、それから仕事場に入るという日課を守り通した桶職の「桶長」こと高橋長三郎さん。高橋さんのよく手入れされた庭は、いつも色とりどりの花が満開だった。サワラ材を使った桶は、寿司桶としての注文も入るほど典雅で美しかった。  
10年ぶりに訪ねた私に向かって「ああ、あんたか、久しぶりだな。俺の包丁なあ、ますます切れるようになってきたぞぉ」と話しかけてきた鍛冶職の千葉久さん。千葉さんは地元の農家のために鎌をつくり、塩竈の卸売業者のために大きなマグロ包丁も製作した人で、四、五年前病に倒れてなお、いまも工房で研ぎの仕事を続けている。

 すぐれた職人さんの仕事場はよく整理整頓され、掃除がゆき届き、手入れされた道具がきちんと定位置におさまり、足を踏み入れたとたんすがすがしい気持ちに満たされる。五感を研ぎ澄まし、段取りよく仕事を進めるためには、機能的であることが必要だからだろう。じぶんの背筋がしゃんと伸びるような、ではキミ自身の仕事場はどうなの?と問いかけられているような思いにもさせられて、私にとっては職人さんの仕事場を訪ねることは、じぶんを振り返る意味でも大切なひとときだ。

 さて、この「せんだい職人塾」。夏がめぐってくるたび2日間、それぞれ2カ所ずつ訪問するので、まずは訪問先を確保しなければならない。もちろん、いつでも快く受け入れてくださる工房はあるし、そこをまた訪ねればいいのだけれど、毎年負担をおかけすることにもなり、私自身がマンネリに陥る。できれば、1カ所ずつでも新たな訪問先を開拓したい。

 今年はどうしようか─。6月ごろ、思案していて、そうだ!と思い浮かべた顔があった。尾形章くん。25、6歳ぐらいだろうか。私と同じ仙台生まれの仙台育ちで、地元の工業大学の学部の学生だったころ知り合って、歴史的建造物の保存活動を手伝ってもらっていた。若いのに、数十年前に消えてしまった市内の旧町名を知っているし、よく歩いていてどの町内にどんな古い建物が残っているかを把握している。話が通じるので私たちはとても重宝し、頼りにもしていたのだ。彼は大学院に進み修士論文で「建具」を取り上げ、卒業後はどうするんだろうと思っていたら、市内の木工所に就職して建具職の見習いになってしまった。すらりとした長身で、いつもはにかんだような笑みを浮かべ、真摯で驚くほど率直で、私はひそかに職人の資質は十分と見込んでいたのだ。そうか、やっぱり。その進路には納得がいった。

 彼を通じて社長さんに打診してもらい、受け入れのお願いにうかがった。国道沿いの敷地に立てられた広々とした工房には、機械が据え付けられ、尾形くんを含め4人の職人さんが障子やふすま、ドア、家具などの建具の製作をしている。それぞれの作業台には長年使いこまれたカンナや金槌などの道具が置かれ、壁には旋盤鋸の歯がすっきりと納められ、光の射し込む窓際に刃物の研ぎ場がしつらえてあった。
 社長のTさんの図らいで、見学だけでなく体験もできるようにと、ミニ障子の衝立の組み立てをそれぞれひとつずつ製作させてもらうことになった。

 いよいよ当日。あいにくの雨模様の中、前半の畳屋さんの見学を終えたあと、9組18人の親子を案内する。まずTさんが「障子が出来るまで」と書かれたペーパーをもとに、流れを説明してくださる。製材され運ばれてきた材料を用いて「木取り」するところからこの工場の仕事が始まる。「墨付け」「ほぞ加工」「組子加工」…と続くのだけれど、カンナもノミも見たことのない子どもたちに、理解してもらうのはなかなか難しい。聞くと、家に鋸や金槌のない子もいるようだ。

 説明のあと、雪見障子の製作を見せてもらった。この道50年という年配の職人さんと尾形くんがいっしょに説明してくれる。初々しい無垢材で組み立てられた障子の何と美しいこと。0コンマ数ミリという精緻な仕事の見事さを感じてほしいと思いながら説明を補足するのだけれど、伝わっているのかいないのか、いつものことながらもどかしい。

 それでも、用意してくださったミニ障子衝立の組み立ての体験に入ると、どの子も夢中になり始めた。「一番長いのを印のついた方を右側にして、上の方に置きます」「次に短いのを自分の前にタテに置きます」と手順を説明してくれるのは尾形くんだ。見習い2年目。恵まれた職場で、少しずつ力をつけているのがわかってうれしくなった。職人さんの手助けを借りながら組み立てを終え、最後は障子紙を張ってできあがり。お母さんたちもそれぞれつくり上げて、みんな満足した表情だ。見るだけでなく、じぶんの手を使うというのも、理解のためには大切なことなんだろう。

 下加工、紙やのり、筆の購入など、受け入れの準備は大変だったはずだ。事務の仕事を担っているというTさんの奥さんにお礼をいうと、「私たちにとっても刺激になったのよ」と笑顔が返ってきてほっとした。

 数日後、尾形くんにお礼のメールを送ると「自分の仕事を説明して理解してもらうこと、伝えることの難しさを実感しました」と返事が返ってきた。伝えるためには、毎日自分がやっていることを意識化して客観的に眺めなければならない。それは熟練する中で無意識でこなせるようになっていく小さな一つひとつの作業を見直し、コトバ化することにつながることになるのかもしれない。

 外から私たちが訪ねることで、職人さんがじぶんの仕事を見つめ直すことになるのなら本当にうれしい。まったくの素人でも手仕事に生きる人を応援できる、と気づいたこの夏の収穫だ。

香港の友人

西荻なな

香港からの友人が帰って行った。嵐が過ぎ去ってしまって寂しい思いだ。マシンガントーク、というのにふさわしく、出会い頭から、分析的かつ遠慮のないツッコミの連続を繰り出す彼女にたじたじとなってしまうことも多いのだが、空気の読みあいが支配する日本をつきぬけていくような気持ちよさもあって、年に何度かやってくる嵐の到来を、心待ちにしているところもある。

香港でブランドロゴのデザインなどを手がける家族経営の会社の実質社長である彼女は、正直すぎるほどに正直な反面、多分にロマンチスト。この二つの変数の掛け算で、存在自体が発する熱量がものすごく大きなものになっている、というのが私の分析だ。掛け合わせの妙で最大値を記録した時にはなかなかの爆発力を発揮するようで、大きなクラッシュを見せる場面にも、歓喜する場面にも居合わせたことがある。仕事の成功をつかめば最大限にハッピーになるし、差別的な話を見聞きすれば憤りを隠さない。仲の良い友人の身に起きるあれこれも、まるで自分のことのように喜んだり、怒ったりする。人生の主役感がどこか欠如した私にとって、ドラマチックに生きている彼女の姿は時に眩しい。

恋愛をめぐっても友情をめぐっても仕事をめぐっても、あらゆる面で”本物”への追求に余念がないため、それが”genuine”かどうか、というのが彼女の口癖だ。食一つとってみてもこだわりは半端なく、鮮度や味の深みなど、徹底して吟味を怠らない。いまいちと思った時に箸をとめるのは彼女自身が実際に料理上手なことに裏打ちされてもいるのだが、美味しいと思えば賛辞も最大級。山梨のシャインマスカットや山形のだだちゃ豆、気に入った素材は産地まで徹底的に情報をインプットした上で、彼女のお取り寄せリストに並ぶことになる。

メイドインジャパンのお気にいりの洋服が欲しいから、どこか良いお店に連れて行って! というわがままも度々で、新宿渋谷銀座、代官山から青山まで東京中を案内した。見る目は確かだし、高すぎるものには手を出さない。手触りで確かめて、コストパフォーマンスをきっちり計算して吟味するあたり、さすがビジネスをやっているだけあると感心する。自分に似合うものをよく心得ているから失敗もしない。そればかりか私への見立てもまた上手で、香港に足を運んだ時には徹底してスタイリストを務めてくれるのだ。互いの文化の”本物”を交換できることが嬉しい、といって、香港の本物を紹介してくれることにもためらいがないから、かえって気持ちがいい。

というのが基本線なのだが、今回の日本滞在中、彼女のクラッシュの場面がふた山ほどやってきた。その一つは香港のビジネスパートナーからもたらされた知らせによるもので、最初は歓喜として捉えていたニュースが、次の日にはいかにそこから手を引くか、というシリアスな話題へと転じていた。ナーバスになっているのだが、いかんせんこちらも背景事情までは理解が及ばない。建築家や工事現場の人たちと協働での仕事ゆえ、工場サイドのことまで把握していなければならない仕事の難しさがあるようなのだが、何かそのパワーバランスで悩みの種が出てきたらしい。そして人間関係も深く関わるものらしい。とりあえず怒りの感情が爆発しているふうで、しばらく収まりそうにない。こちらも仕事でてんてこ舞いで困っていたなと思っていたら、ある友人たちとの夕食会がきっかけで、すっと彼女のテンションが収束していった。それは物語的で、とても印象的なワンシーンだった。

最近私が知り合った、とてもきもちのよい女性たちの集いに、今日が東京滞在最終日という彼女を連れて行ったのだ。三々五々集まってくる面々。でも私もまた彼女たちとじっくり話すのは、その日が初めてのことだった。自己紹介もそこそこに、ナーバス気味な香港の友人 は、初めて会う私の知り合いに仕事の悩みを英語でぶつける。理知的で冷静、分析的な返しを彼女がしてくれることに申し訳なさと、ホッとする気持ちとを抱えながら、なんだかこの場の雰囲気を壊していないだろうかと内心ヒヤヒヤもしたのだが、それはそれで会話も展開しているようで、胸をなでおろしつつあった頃、一組の姉妹が遅れてやってきた。どちらもそれぞれに優雅さと落ち着きをたたえた、素敵な姉妹で、スウェーデンでバイオリンをやっている妹さんが香港友人の隣に座った。そのバイオリンの彼女が口を開いた時、今までとは違う雰囲気に場が包まれたのだ。とても静かで穏やかで、人の心を深く落ち着けてゆくような佇まいと声のトーン。まるで何か、ミヒャエル・エンデの世界から抜け出してきたような、という印象を抱いた。バイオリンというよりは、ビオラのような音程の声かもしれない。一言発するごとに、ハッと惹きつけられる。それは誰もが感じるに違いないものなのだろうけれども、驚いたのは、彼女と会話を始めた香港友人の声のボリュームが下がり、穏やかになり、その後、二人が静かに話を展開していく様だった。にぎにぎしい喧騒が静寂に包まれて、シンと透き通り、しだいに甘やかささえ満ちてくるようだった。打楽器がそれぞれに打ち鳴らされていたのが、急に場所場所でハーモニーを奏で始めるような不思議な雰囲気に包まれた。いつまでもそこに身を委ねていたいような、森の静けさに身を包まれたような、安心感。

翌朝、すっかり人が変わったような香港友人は、心から名残惜しそうに東京を後にした。その時に、彼女が残した一言が忘れられない。新たに友人になったバイオリン弾きの彼女のことを、”She’ s the sound of a mountain unaffected by the city”といったのだ。都市の喧騒の中にあって、彼女はその何にも影響されることなく、まるで山が奏でる音のようだ、と。私自身、いかにも香港人で、香港の喧騒みたいにおしゃべりでズバズバ色々と言ってしまうけれど、彼女みたいな静けさを私も身にまといたい、と。人と人とが出会って、そのハーモニーが心の深くに根を下ろしてくことが本当に素敵だと思える一夜だった。香港の喧騒もまた懐かしい。

153立詩(1)ハイ・プリンター

藤井貞和

新楽府(しんがふ)を、この炎天に想う、諷喩の試み地上にはなきを。
わが怒り、自嘲へ霧消し、世に従うや ぶざまなおいらよ。
心より検閲起こり、あっ虚空に浮かぶハイ・プリンター。
次第に降りてくるぞ、なんだあれは 巨大なコピー機。
ことしのUFOが近づいてくるぞ、サン・チャイルドだ、
いやドラゴン。コピーしに降りてくるヤマユリの精(せい)。
水紋をコピーする、復興するすべてのうそをコピーする。
唐のみやこ中唐のこと、はくらくてんは中編詩をいくつか書いて、
住むことができなくなる コピーでのこそう。はるかな以前には詩の国からの、
追放だった。もういいの、なんでもありだ、ったく、
ハイ・プリンターは印字して地上にばらまく、はなびらの一枚一枚に。

(おいらのロー・プリンターもできるすべてを尽くして、長安のみやこにはなびらを一枚一枚、印字しては散る中編詩。)

アジアのごはん(86)パイナップル酢

森下ヒバリ

「天然発酵の世界」(サンダー・E・キャッツ著 築地書館)という本を読んでいたら、アルコール発酵の変化形という章にメキシコのパイナップル酢の作り方がのっていた。なんか、めっちゃ簡単そうである。ちょうど、石垣の無農薬パイナップルが届いたところだったので、さっそく作ってみることにした。現地ではピニャグレ・デ・ピーニャ、と呼ぶらしい。かわいらしい語感で、早口言葉の練習もできそう。

ふむふむ。パイナップルは皮のみを使う。中身はおいしく食べた後の皮で出来るとは、すんばらしい。材料は以下の通り。

・パイナップル1個分の皮
・砂糖カップ4分の1
・水 1リットル

水に砂糖を溶かし、粗く刻んだパイナップルの皮をガラスの保存ビンに入れて水と砂糖を加える。密封はせずにガーゼでふたをする。室温で発酵させる。1週間ぐらいで液体の色が濃くなってきたと感じたら、パイナップルの皮や芯を濾して捨てる。こしとった液体を時々かき混ぜたりゆすったりしながらさらに2~3週間発酵させるとできあがり。

ということなのだが、真ん中の芯の部分も入れて、砂糖は粉状のてんさい糖を使った。(この砂糖は発酵菌のごはんである)数日するとぷつぷつと気泡が出るようになり、いい感じに発酵してくる。1週間で味見してみると、美味しい微炭酸パイナップルジュース。ここで発酵ジュースとしてゴクゴク飲んでもいいのだが、とりあえず酢を作ってみたいのでがまん。

10日ぐらい置いてから皮や芯を取り出した。この段階ではちょっと酸っぱいぐらい。皮や芯を入れている時には、水がかぶっているようにしないと表面に白い産膜酵母が出たり、他のカビができやすいので注意。産膜酵母はゆすってやるとできにくい。産膜酵母は無害なので気にしない。他のカビは取る。

液体を濾して、さらにガーゼでふたをしたまま室温に2~3週間。どんどん酸っぱくなってくる。味見を時々して、つーんとくるようになったら出来上がり。産膜酵母の白いモロモロがあれば濾してキャップのできる瓶に詰め直す。パイナップル酢ができた~。微妙な臭みが少しあったが、ほのかにパイナップルの香りがして、まろやかでうまい。しばらくしたら臭みも抜けたし、大成功。サラダや酢の物に合うね。

う~ん、酢って作れるんだな‥。考えてみれば、いつも豆乳ヨーグルトの種と、お風呂に入れるためにお米のとぎ汁を発酵させて乳酸菌発酵液を作っているけど、長いこと置いておくとかなり酸っぱくなり、料理にけっこう使っている。これもマイルドな酢といえなくもない。まあ、これはちょっと臭みが出やすいが。

いつも料理に使っている酢は京都・宮津の富士酢である。米酢はまず酒を造ってからそれをさらに発酵させて酢にするが、ここは米から自分たちで無農薬で作って仕込んでいる。富士酢は完成された大変おいしい米酢である。米酢を一から自分で作るのはとても大変だ。でも、パイナップル酢なら簡単に作れる。

梅の季節がやって来て、梅干しを仕込んでいたら3つだけ一部がじゅくじゅくした梅が残った。潰れてはいないが、梅干しに仕込むと潰れてしまいカビが来やすいのでどうしようか。3つだけ甘く煮るのも面倒‥そうだ酢にしてみよ! と、オリーブの実が入っていた細長いガラス瓶を出して梅を入れ、水と砂糖を入れて置いてみた。梅も表面にたくさん乳酸菌や酵母菌がいるのだろう、すぐにプクプクしてきた。で、待つこと数週間、しっかり梅の酢になりました。砂糖の甘みが残っているようではまだ発酵が足りないので、注意。

梅干しを作ると出来る梅酢はとても美味しいのだが、とにかくしょっぱい。なので、ショウガやミョウガを薄めて漬けたりするぐらいであまり活用できない。水に入れて薄めて飲んでも全然減らない。しかし、この水漬け発酵の梅酢は甘くも塩っぽくもないのだ。これは使えます。

暑い夏の日、外から帰って来た時に梅シロップをソーダで割ったりしたものをゴクゴク飲むと生き返る気がする。しかし、しばらくすると、身体が重くなってきて、疲れがど~と出てしんどくなり、後悔することが多い。疲れた時に甘いものは、実は体に良くないのである。なので、最近は梅ジュースなどの砂糖漬け食品は作らなくなった。

で、この間外から帰って来て、暑い‥と思った時にこの梅の酢を冷たいソーダで薄めて飲んでみた。これは、おいしい。身体にすーっと入って行く。調子に乗ってもう一杯。それでも、身体はちっともしんどくならない。

パイナップルの皮や梅以外でも簡単にフルーツ酢ができそうである。皮とか芯、熟れすぎまたはちょっと傷んだもの、あまったものなどの利用にぴったり。出来た酢に火を入れるかどうかは、好き好きだが、発酵が終わって完璧に酢になっていれば必要ないだろう。できれば生のままで使いたいところ。

昔タイの東北イサーンに住んでいた頃、ワカメの酢の物が食べたくなって、乾燥ワカメを戻したのはいいが、いい酢がなくて困った。タイ料理では、酸味はマナオというライムの一種を絞って使うか、タマリンドの酸っぱい実を水で濾して使うことがほとんどで、いわゆる醸造酢というものを使わない。まあ、マナオを絞って酢の物にすればいいのだが、日本の酢の物の味とはまったく別物になる。

いちおう、スーパーなどで醸造酢らしきものも売っていたのだが、酢酸を薄めただけかっ、と叫びたくなるような無機的な味であった。ミツカン酢でいいからほしいと身悶えしたぐらいだ。だいたいこれをタイ人が使っているのを見たことがない。汁麺を食べさせるクイティオ屋で、自分でかけて味を調整するトウガラシの酢漬に使われているだけじゃないかと思う。

まあ、最近は輸入品が簡単に手に入るから、タイにいても美味しい米酢がほしくて身悶えすることはないのだが、その頃このピニャグレ・デ・ピーニャやフルーツ酢の作り方を知っていたら、と悔やまれる。フルーツ天国なんだし作り放題ではないか。

でも、この時のかんたんに日本の味が手に入らないタイ地方暮らしの経験から、梅干しや味噌を自分で作ってみたい、美味しい日本の味のいろいろを自分で作ってみたいと思うようになり、ヒバリの台所術は始まったとも言える。タイ暮らしをやめて日本に戻った時には仕事がなくて、会社勤めももう(がまん)できない体と心になっていたし、とにかくお金がなかったので、美味しいものを食べるには自分で作ってみるしかなかったんだけどね。

水面にうつる夏

璃葉

窓の外からは蝉の声が聞こえ、昼を過ぎると陽の光は一層強くなっていく。
夏という季節は好きだけれど、街中で過ごす夏は嫌いだ。ビルとビルの間を吹き抜ける熱風、極端に寒いオフィスやレストランの室内は、人の過ごす場所ではないといつも思う。
外と内の温度差によって、不自然に汗をかく日が続く。これに慣れてしまうと、もう冷房なしでは生きていけない。
毎年、東京の真夏を無理やり乗り越えている気がしてならないのだ。

自宅にもどり、買ってきたルッコラとトマトを皿に盛った。バルサミコ酢とレモン汁、塩をかけて食べる。
窓から見える空は次第に暗くなり、大粒の雨が降り始めた。突然、風がまっすぐ網戸を通り抜けてきた。土や草の青くさいにおいが混じった風だ。湿気は最高潮となり、自分の肌も、さわるとぺたぺたする。
雨粒はすぐに強くなり、地面や窓ガラスを叩いた。蝉の声も、降り始めは元気がよかったが、雨が強くなるにつれて鳴かなくなった。

「甕覗(かめのぞき)」という色の名がある。薄い水色のことをそうよぶ。
白い布を藍染めの甕に浸すとき、またはその甕の水面にうつる空が薄い水色だということから名付けたようだ。一雨通り越したあとの空は、まさしくそんな色だった。
この茹だるような暑さを人間のためにどうにかしてくれるのは、やはり夏そのものだった。夕立の後のひんやりした空気は、夜の遊歩道を散歩する気持ちにさせてくれる。
のぞき込むようにして、夏の始まりを見つけていく。

ピアノを弾く

高橋悠治

ピアノを弾く サティの曲のように短く 音の数がすくなく 同じように見えるフレーズが くりかえされるようで どこかがすこしちがう それを何回も別な機会に弾く 自然に指がうごいて できた道に沿って行けば すぐ終わる それでは早く飽きるだろう かんたんで素朴に見える音楽を 毎回ちがう曲のように弾けるだろうか

ひとつのフレーズでもちがう表現はできる でも表現はいらない 鍵盤をさわった時の指の感じ 同じ音でも毎回ちがう 返ってくる響き 皮膚のツボに触れると離れた経絡の端にヒビキを感じるように 慣れた道すじを思い出すのではなく 一歩ごとに 知っていた道を忘れていく 背を押されて そっとさぐりあてる次の一歩 意図も意志もない 方向も展望もない ためらう辿りのたのしみ

1950年代の終りから たくさんの音を操り 前もって計画した全体構図を実現する技術 複雑なリズムや跳躍する音を正確に配置する技術からはじめた 最小限の時間で 細分化した断片をつなぎあわせる練習をかさねて 確実なものにしあげる技術 その頃でも 名人芸や超絶技巧ともてはやされる技術の誘惑は避けたいと思っていた 確率空間に点滅するクセナキスの音の霧と そのなかに不規則に打ち込まれる輝く点のイメージは 5分割と6分割を重ねた時間の二重の網で掬い取られ 楽譜に書かれる 音符やリズムの正確さは すでに歪んだ静止画像にすぎない 分析的な技術ではない 別な技術はどこにあるのだろう 漂い移りゆく響きの雲は 軽くほとんど重みのない指先と 響きの余韻が消えた後の 何もない空間の奥行きがなければ 表面的で暴力的なノイズになってしまう 制御できないほどの複雑さと疲れ切ってからだがうごかなくなった時の力がぬけていく感じ その時やっと重力から解放されて 静けさでもうごきでもない何かが現れる そんな瞬間があった

その後の演奏技術は スポーツのように進化してきた 当時できなかったことも いまやたやすくできる人たちが何人もいる そこでかえって失われたこともあるだろう スポーツとなった技術は長続きしない 若い時は力でぶつかってできることは衰えは早く 鍛えたからだはある日突然こわれる そんな例を時々見かける

クセナキスと最後に会ったのは1997年だった その後のTV番組のために『ヘルマ」を弾いた それからまた年月が経って いままだ弾けるだろうか クセナキスのその後のピアノを使った曲にはない「初心」がある その時の演奏もそうだった 分析的でなく 名人芸でもなく 音に別な音が続くだけの「白い音楽」漂う音の雲の無重力を 毎日1ページずつ習うだけの練習だった というのも後付の思い込みかもしれない