夏休み

笠井瑞丈

徳島で行われる『阿波踊り』を見るの旅
青春18切符での鈍行電車の旅

8月9日
西国分寺から川崎
川崎で大好きな家系ラーメンを食べ
熱海を目指す 熱海途中下車
熱海はとっても大好きな場所
なんとなくちょっと寂れた感じが好きだ
駅前の商店街から海に繋がる道を歩く
今年初めての夏の海
ビール片手 海辺での昼寝
本日の最終目的地名古屋へ
一泊五千円の安ビジネスホテル泊

8月10日
次の目的地の岡山へ
名古屋から米原 米原から姫路
姫路途中下車 初めての土地
この旅二回目のラーメン
姫路城を遠くから見学
姫路から岡山へ移動
岡山で友達のダンス公演
三浦宏之×小暮香帆
『ふたりしずか』を観劇
岡山ビジネスホテル泊

8月11日
最終目的地徳島へ
初めて渡る瀬戸大橋
初めての四国
四国は突然隆起し
現れた島と父が行く前に教えてくれた
なんとなく神々が住んでそうな島
勝手ながら想像する
午後無事徳島駅着
この旅三回目のラーメン
街は阿波踊りの準備で大盛り上がり
友達のGORIさんが迎えに来てくれる
徳島から一時間車を走らせ美馬市
GORIさんの住んでいる山奥へ
今夜は踊り明かそう
今夜は呑み明かそう

8月12日
GORIさんの知り合いの車屋社長宅へ
本日は社長のご好意で社長の持っている
会員制ホテルに宿泊させてもらう
豪華なホテルにビックリ
ホテルにプール 今年初のプール
夕方いざ徳島阿波踊りへ
大勢の阿波踊りの連
徳島一番の大イベント
鳴り響く太鼓のリズム
中腰で踊る男踊り
爪先で踊る女踊り
飲んで踊って
踊って飲んで
はじめて本場阿波踊りを堪能
ほろ酔いのよい夜

8月13日
レンタカーを借りる
帰郷する予定を二日伸ばして
明日から急遽四国一周の車旅を計画
美馬市探索
古い劇場 オデオン座
東京にはない素敵な劇場
古い街並み 大きな川
川が流れている街は好きだ
夜社長が食事をご馳走してくれる
みんなでお好み焼きを食べる
見も知らない僕達にこんなにもよくしてくれる
社長に本当に感謝

8月14日
朝GORIさんにお礼と別れを告げ
いざ出発
一度やってみたかったただ車を走らせるの旅
好きな音楽をカーステから流し
変わりゆく景色をただ眺めている
川 山 海 猿 花火
カミさんが車の免許を取ったため
運転手は二人
二時間おきに交代でひたすら走る
本日の目的地高知へ
道中たくさんのお遍路さんを目撃
八十八箇所霊場を巡拝するのは大変だろう
いつかやって僕もみたいと思う
二十一時無事高知着
高知の安ビジネスホテル泊
その前に今回四回目のラーメン

8月15日
本日この旅最終日
足摺岬を目指す
一般道だけで旅をしたかったのですが
東京に帰る電車に間に合わないため
高速道路を車を走らせいざ出発
カミさんとこんな時間は久しぶり
車中いろいろ話をする
笑 喧嘩 笑 いつもの事だ
十三時に足摺岬に到着
時間がおしているため車を降りず
ルートを変更してここで美馬市に戻る
十五時無事美馬市着
十六時の電車まで時間
社長に挨拶に行く
旅は本当にいろいろ
新しい人と出会い
新しい場に出会い
新しい自分を発見する

ながい夏休みでした
よし明日からまた踊ろう

いざ東京へ

しもた屋之噺(188)

杉山洋一

練習が終わって家に戻ろうとすると、目の前に雲に墨汁を垂らし一面に広がったような、美しい白黒の空が続いていて、思わず見とれてしまいました。窓際に立て掛けた家族の写真を眺めつつ、日記帳のメモ書きを書き出してみます。政府広報に「ミサイル落下時の行動について」が掲載されたかと思いきや、間もなくJアラートの警報が実際に鳴り響き、それでも目の前の風景はいつもと同じで、自分もごく普通に暮らしている。何も感じないのは、何かが麻痺して感じなくなっているからなのか、そうでないのか。
イタリアに20年以上住んで、政府が「ミサイルが飛翔してきたら」と国民に呼びかけるのを聞いたことはないし、他のヨーロッパ各国を鑑みても、そんな警報が発せられるのは、よほど異常な事態でなければあり得ないのではないでしょうか。
太平洋戦争前夜、国民の大半はこうして何も考えずに普通に暮らしていたのだろうか。井の中の蛙、ではないけれど、気が付いたら周りの風景から、全て色味が抜け落ちていたりするのだろうか。まさか本当に戦争などという馬鹿げた真似はする筈はないと信じていますが、未来永劫、戦争なしにやり過ごせるかと言われれば、それも俄かには信じ難い気がします。
尤も、イタリアに戻れば、ミサイルこそ飛んで来なくとも、どこでもテロと隣り合わせです。本当に不穏な時代になってしまったけれど、その中で自分が音楽をしている意味を考えます。意味はないのかも知れないし、もしかしたら、どこかにはあるのかも知れない。

8月某日 ミラノ自宅
大人が座れるようなバランスボールからテニスボールやリハビリ用のスポンジボール、と色、大きさや重さの違うさまざまなボールが家に並ぶ。もともと倉庫を改造した家なので天井も厭に高く、掃除に困っていたのだが、こういう時には都合がよい。フワフワのボールを息子と互いに左手で投げ合う。当初全く力が入らなかったが、不思議なもので、時々息子が「あ、分かった」と叫んで投げると、突然凄い勢いでボールが飛んできたりするので、筋力が落ちているというより、力を入れる神経の回路を思い出しているようにも見えるし、右手、右足と交互に投げたり蹴ったりしつつ、神経に電流を流すコツを見つけているようにも見える。
最近気に入っているリハビリは、綺麗に巻きとってあった包帯を一度解いてから、丹念に丸く巻き直す作業。これは巻くときに力が必要で掌全体も使う動きなので、効果的だという。小学校の算数の最初で一の位、十の位と百の位を学ぶために使う、5ミリ、10ミリ、15ミリの、ほんの小さな色のついたブロックもリハビリ道具だ。目を閉じて左の指の下にこのブロックを置き、大中小のどれかを当てるのだが、案外簡単ではない。
左手や左足に神経を集中すると、すぐに困憊する。仕事をしていると「リハビリして疲れたから抱きしめて」と傍らにやってくる。ピアノを少し弾いてみて、思うように左手が動かないと、右手で左手を持って「もうこんな腕もぎ取ってやりたい」と呟く。

8月某日 ミラノ自宅
「子供の情景」の校正とパート譜を作りを今堀くんに頼んだ。浄書ソフトに暗いものだから迷惑をかけてしまったが、どれだけ助けられたか分からない。息子と日本に発つので3人で朝鮮料理を食べる。肉の食べられない人間が頼めるメニューは、魚のスープと烏賊の辛味炒めと冷麺くらいなので、息子の焼き肉に誰か付き合ってくれると実に有難い。
病気の話になり、今堀くんの近しい知り合いにも左手が使えない人がいると言う。幼少の麻痺が残ってしまったそうで、もちろん息子とは比較にもならない。病院にリハビリに行けば、隣には脚や腕がない人も沢山いて、彼らが明るくリハビリに励む姿に、実はいつも力を貰っている。今堀くんは、今年、ローマのイヴァンの作曲クラスを首席で修了したというから、立派なものだ。2年間彼に学校で指揮を教えて、自分がよい教師だったか分からないけれど、彼は最近特に伸びてきたところなので、是非指揮も続けていってほしい。

8月某日 ミラノ自宅
来月からの息子の学校生活へ向け、慌ただしく準備している。中学の校長に手紙を書き、授業のノートをコンピュータで取ったり、録音したりする許可も貰った。イタリアでは、板書より寧ろ、教師の言葉を書き取って勉強するらしく、長い時間鉛筆を使うのが難しい息子には、少々厄介が伴う。
何時も自転車を頼んでいるマリオには、息子が通学に使う自転車をこしらえて貰っている。リハビリに行こうと混んだ路面電車に乗ったとき、無理に乗り混んできた老人に、重心のまだ定まらない息子は跳ね飛ばされてしまった。その場で老人に凄い剣幕で怒ったので、息子には妙に感心されたが、周りの乗客も一斉に老人を咎めたのに愕いた。哀れな老人は次の停留所で降りていった。

8月某日 三軒茶屋自宅
食事の支度をしながらフランス国際放送のニュースを聴いていて、北朝鮮に名指しされたグアムの特派員の中継になった。グアムでは大きなミサが行われて、信者たちが熱心に神に平和を祈っていると言う。ミサ参列者のインタヴューが流れて、どれだけ自分たちが神に願っているかを切々と話す。日本のマスコミとは目の付け所が違うことに感心する。宗教観の違いなのだろうか。
イタリアにいてもレストランで食事するのは余り好きではない。味は濃すぎることが多いし、どの程度の食材を使っているか分かることもある。家に帰って、自分が好きな素材で、好きな味の料理を作る方が精神衛生上宜しい。
先日、三軒茶屋で夜半何か食べたいと思ったけれど、家には余った大根とシラス、それから実家で作った紫蘇の葉、多少のトマトしか無かった。これらの素材でパスタを作ってみると、思いの外美味だった。
特にイタリアに似た料理はないが、大根はイタリアでよく食される蕪に似ていて、シラスは小魚の湯がきそのものだし、紫蘇も香草なのだから、併せて調理すれば美味しくない筈がない。
自分の好きな量のオリーブ油を使い、好きな塩梅にトマトから果汁を引き出して、シラスから染み出た魚の旨味と合う。紫蘇は使いようによってはバジリコより味が円やかなので多めに入れ、硬めに茹でたパスタを絡めて、ソースで乳化し味が馴染んだところで頂く。これに美味しいオリーブでも入れて煮込めたら文句なかった。
日本のスーパーの食材でイタリア風イタリア料理を作るよりずっと自然で、音楽と同じだと思う。

8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台の講習会が終わり帰宅。
今年はお加減が良くなかった湯浅先生の代わりに、頼暁先生がいらした。頼暁先生は講義の折、音列や構造の抽出の仕方を丁寧に板書されるのだが、それを後から眺めると実に美しい。勿体ないので暫く消さないで欲しいと頼んでも、これは又書直せるからと、何事もなかったかのように消し去ってしまう。
頼暁先生は、講習会の間に、秋吉台の演奏家の名前を使って、弦楽三重奏を作曲された。音列と全体構造までを最初の講義で説明し、後は細切れの時間に作曲されて、新しく書き足された部分が、毎日受付の横に貼りだされていた。基本的な作曲工程が思いの外似ていて、思わず親近感を覚える。ただ、頼暁先生はオクターブ恐怖症で何としてもオクターブを回避するのに比べ、こちらは絶対に同じ繰り返しを強迫的に避ける、繰り返し恐怖症なのが違う。

毎年秋吉台の作曲クラスの後ろに仕事机を置き、皆のディスカッションを聴きながら、楽譜を広げて仕事をする。時々口を挟んだりもするのだが、今年は足立さんがいらして、考えていたことの半分以上は、彼が先に代弁してくれた。そんなに同じことを考えるものかと、内心とても驚いていたのだが、面と向かって足立さんには伝えそびれてしまった。彼の作品で好きな作品もたくさんあるが、基本的に大きな音量が続くと耳が疲れてしまうので、音量の小さい作品はあるのかと尋ねると、そう言われると、確かに音量の大きな作品ばかりだと笑っていらした。
低音デュオの演奏した彼の近作は、面白かったし有難く静かな作品だった。ずるいと思うほど心憎い仕掛けが最後に待っていた。

足立さんが、作曲を学ぶのなら、是非即興演奏も学んで欲しいと言われていたが、尤もだと思う。間違った音楽を排除し、正しい音楽を目指すより、悪い音楽を排し、良い音楽を目指したいと思う。即興はその最たるものでもあるし、もちろんジャズや民族音楽が魅力的なのも、恐らくそこだと思う。

去年自作を指揮していた村上さんが、新しく書いた曲を聴かせてくれる。彼女自身がヴォイスパフォーマンスで参加している室内楽は、物凄く魅力的だった。それに近いことをオーケストラを使って演奏したものは、オーケストラは彼女の魅力を半減させていた。オーケストラは基本的に、西洋伝統音楽を演奏するために発展してきた演奏形態である事実は、如何ともしがたい。それを受入れるか、拒絶するか。さもなくば諧謔に転じるか。

特殊奏法を使えば、音楽の可能性が広がるかと問われれば、それも難しいように思う。西洋楽器は、伝統的な奏法に於いて最も表現の幅が生まれるように発展してきたのだから、特殊奏法を否定するわけではないけれど、可能性を広げているように見えて、案外それは袋小路に過ぎないのではないか。
現在使われている特殊奏法は、プリペアードピアノをはじめ、元来は代替音色の発明だったように思う。現在のようにサンプラーの技術もライブエレクトロニクスの技術も進めば、楽器で特殊奏法をする意味は、もしかしたらまた別の意味合いをもたらす結果になるかも知れない。

作曲学生のディスカッションに登場したコンピュータ浄書は、現代の作曲家にととっては、殆ど必要不可欠になった。譜面とは書くものではなく、最早打つものに変化しつつある。今後、我々はより一層コンピュータに認識されやすいよう、自らを発達させてゆくのかもしれない。そうして思考が画一化してゆくと、個は何を意味するようになってゆくのだろう。そのままゆけば、コンピュータが我々の思考に甲乙を付けるようになるに違いない。
電脳は、ツールではなくなった。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルに出かけると、いつも顔を合わせていたメンバーに加えて、古部くんや先週まで秋吉台で一緒だった山澤くん、ずっと会っていなかった菊地くんや斎藤さんの顔を見つけた。振っていると、すごく助けてくれるので嬉しい反面、自分の譜読みがあまりに覚束なく、申し訳ない思いにかられる。
指揮を始めたばかりの頃、「指揮者は、どういう形であっても振り続けていることが一番大切」と古部くんからアドヴァイスを頂いた。とても含蓄のある言葉で、今まで事ある度に反芻してきた。作曲家のNさんが、とても温かい音を出すオーケストラと感激していたけれど、全く同感。譜読みがどんなに辛くても、音が出た瞬間に、一緒に音楽が出来る喜びに払拭される。

練習から帰宅し、千々岩くんのフランクのソナタを聴き、思わず涙がこぼれた。聴き惚れつつ困憊した身体に音が染み通ってゆくのが分かる。一音ごとに音色が変化して、シラブルのイントネーションのように聴こえる。伝える言葉と伝えたい言葉を持っている音楽家は、あれ程淡々と音を紡いでゆくので充分だった。話すように演奏する、という喩えは常套句だけれど、文字通り話すように演奏をしていると実感したのは、初めてだった。名曲過ぎてこのソナタは好きではなかったのだが、考えを改めた。訥々とした深い語り出しに、彼の歩んできた人生の厚みを感じる。

8月某日 三軒茶屋自宅
時間を見つけて母にタブレットを買い、町田に届けにゆく。初期設定をしていて、彼女の誕生日が1935年3月5日なのを見つけた。聞けば彼女は数字の3と5が好きなのだという。この歳になるまで気が付かなかった。
どうして時間は昔に戻せないのだろう。小学校位にまで戻れれば、やり直したいことはたくさんある。やり直せるものなら、今まで自分が犯してきた誤りを全て正した、もう少しだけでも真っ当な人生を送ってみたい。両親はもちろん息子や家人にも、違う自分の姿が見せられたに違いない。ただ、もしそれが出来たとしたら、家人にも、今の息子にも出会えなかった。

(8月31日三軒茶屋にて)

154立詩(2)坑夫

藤井貞和

「東京へ帰りなよ」と、
漱石が言う、落石を避けながら。
「おれもそう思う」と、
鏡花の言い分は落花みたい。
「川はやばいて。 まもなく、
水が落ちてくる」と、
芥川も追いかけて言う。
徳山ダムに、
カミオカンデは作らせない。
星空が落ちてくると、
ほんとにやばいです。

(この地方の鉱山には五つの種類の金属が見出され、坑夫の肉体は地中深く妖怪になる。というのは、土と金属の気とによって身体が養われるからである。坑夫たちは生きているのでなければ、死んでいるのでもない。新たに坑夫が鉱山に入ってきたらば、この者たちは彼らをつかまえて逃がさない。しかし坑夫が、頭上に燈をともしているならば歓迎され、たばこを求められる。この贈り物で親しくなると、坑の外へ引き上げてくれるよう、妖怪たちに懇願されるが、坑夫はまず豊かな鉱脈を教えてもらう。それから自分たちは最初に外に出ると、妖怪どもを結わえてある縄を切ってやる。妖怪は上にまで達する。しかし、風にさらされて、衣服や肉体、骨は化して水になってしまう。その腐敗した気は生臭く、それを嗅いだ者は悪疫で死ぬ。坑夫が大勢であれば、妖怪を四角い土壁の中に閉じこめ、その上に燈を備えつける「台」をおく。このことで惨禍を避けることができる。風をうけると悪疫を吐きだす雲南のこの怪物は「乾麂〈かんき〉」〈乾いた鹿〉の名称でよばれる。――マルセル・グラネ『中国古代の舞踏と伝説』より。)

ここそこにある境界

大野晋

お盆休み明けに、信州から、お盆休み前に予約を入れていたデラウェアが届いた。今年は、梅雨明け以降、天候不順が続いたために、なかなか収穫できず、例年だと8月初旬から出回り始める露地物が遅れて、8月の中旬も過ぎて下旬になってしまった。とはいえ、今年は甘みは今一つだけれど、風味が強い、おいしいぶどうになっていた。たぶん、今年のワインはおいしい。ぱちぱちに張りつめたぶどうを食べながらいろいろと考えた。

近年はワインツーリズムが注目されているらしく、専門家にとても多くのコメント依頼が入るらしい。そういえば、昨夜のテレビのニュース番組でも、明日の予定は「日本ワイン」だとどこかできいたキーワードが出てきていた。日本のワインだから日本ワインではなく、国税庁の拵えたハードルでは日本国内で収穫されたぶどうを使用して、日本国内で醸造したものを「日本ワイン」と名乗ってもいいと決められている。ところが、そこにいろいろな不思議な物語があることは先月までのお話しで述べてきたとおりである。

日本には「おらが村のぶどう」と「おらが村のワイン」の間に深い境界線が存在している。要するに、おらが村のワインは必ずしもおらが村のぶどうから作られていないということで、風景として見えるぶどう畑は実は今飲んでいるワインには必ずしもならないという事実があるという話だ。これを「観光ブドウ園」と称したが、まだまだ、観光ブドウ園のようなワインはたくさん存在している。まあ、さすがにぶどう畑も見当たらない神奈川県がワイン生産量日本一だから、日本で一番ブドウが採れているとは思わないだろうとタカをくくっていたら、近所のブドウ園のぶどうだと思ったというコメントがSNSでついて苦笑してしまった。実際に消費者は生産の現場から遠い所に住んでいる。ただし、ワインツーリズムとなると話は別で、さすがにブドウ畑がない場所では成り立たないだろうとは思うが、もしかするとびっくりの裏技が出てくるのかもしれない。

さて、最近、地方の中小都市にこじゃれた料理屋が増えたような印象がある。いずれも、地元の食材を使っていて、地元でしか食べられない料理が食べられたりする。いいことばかりかと思っていたら、松本の長く通っていた蕎麦やが閉店していた。大きな水車が目印の蕎麦やだったが、一時は店に入りきれないくらいの客でにぎわっていたが最近は地元客の嗜好が蕎麦からうどんやラーメンに移ったためか、店舗が維持できなかったようだ。店が大きかったのが災いしたのかもしれない。

大きな店、小さな店、残るもの、消え去るもの、そこにある境界の不思議に思いを寄せてみる。そろそろ、秋の夜長となる。

狂狗集 6の巻

管啓次郎

あ あみなだぶ暁を呼べ愛と呼べ
い 犬を眠らす羊の群れの習慣性
う 牛の巡歴つきあへば日が暮れる年が暮れる
え 映像の核心はエイ鰭への信心
お 大阪を待ちながら往生要集を読んでゐた

か 「彼は誰」や危険な時刻の禅問答
き 貴種流離を語るな遺伝に履歴なし
く 苦しみが募る時つひチョコレートを齧るんだつて
け 傾向として系譜にひれふす庶民性
こ 向上心なく水平をさす水準器美し

さ 再会を約す地上の祝祭日
し 死よ死神よ詩や詩神とのかくれんぼ
す 西瓜が好きだが半球の潜り食ひは無理
せ 性器といふ用語がCsOを裏切つてゐる
そ 爽快な崩壊 砂の城が波に洗われる

た 体言止めといふが体型の経年変化をだうするの
ち 椿事出来しても表面的には平常心
つ 作り物の感情に溺れて運河氾濫す
て 定家に定義ありや定式ありやその定法を学ぶべし
と 闘牛を讃えし藝術家たち地獄で苦しめよ

な 内容と形式はひとつそれなら反復練習だ
に 肉体に傷をつけ時々血を流す苦行
ぬ ヌートリア泳ぐ河川のにぎやかさ
ね ねぎらひと涅槃念仏ねぎと鴨
の 農業を企業支配から奪取せよ

は 橋が落ちた神のフィルムを巻き戻せ
ひ 干潟よ干潟小さな命の運動会
ふ 不況より軍需産業の隆盛を選ぶのか
へ 変身に希望を託して肌を彫る
ほ ほんたうにほんたうに恐い話をしてよ

ま まいまいずへ下りて若水がぶ飲みす
み 見過ごしていた日常性のマラビーリャ(maravilla)
む むこうみずなきみの人生マラビーダ(mala vida)
め 明示された価格で正直に生きたいね
も 猛獣にヒトの捕食をうながしたい

や 夜間飛行で星のシャワーを浴びる夢
ゆ 夢の中で「夢だ」とつぶやくが理由は忘れた
よ 洋館で吠えているよ柴犬二匹

ら 来週という言葉はもつとも手軽な希望
り 臨終にどの風景を思ふのか
る 類が友を呼びこの部屋は悪者ばかり
れ 霊界の友人が仕事をいろいろ助けてくれる
ろ ロートレアモン一度はきみに会いたかった

わ 和解せよ心はいずれ大同小異

仙台ネイティブのつぶやき(25)寒い夏に耐える

西大立目祥子

仙台では、この夏、7月22日から8月26日まで36日間雨が降り続き記録的長雨となった。しとしとした雨が止んだかと思うとまた降り出し、朝起きて今日はくもり空かと思っていると、いつのまにか霧雨に変わっている。気温も低く、寒がりの私は長袖を羽織る日が多かった。

オホーツク海に高気圧が居座り、冷たく湿った海風が流れ込んでくるためだ。東北の人々が「ヤマセ」とよんでおそれてきた北東の風である。雨天が30日間を過ぎるあたりから、地元メディアでは「昭和9年(1934)の35日間に迫る」という報道がなされるようになった。「昭和9年」と聞いて、ひやりとする。東北各地が深刻な凶作に苦しんだ大冷害の年として記録に残されているからだ。

「ヤマセ」はおそろしい。初めて身を持って知ったのは大冷害となった平成5年(1993)の夏だった。このときも、ひと夏気温が低く雨の日が続き、カーディガンを手放せなかった記憶がある。私にとっては、ちょうど仙台東部の農家の話を聞き始めた時期で、冷害の予感の中で聞く農家の人々の苦労や発せられる言葉が胸にしみた。
農家にとっては豊作が何よりも願いなのに、どんよりしたくもり空の下に広がる目の前の田んぼの稲は、日照不足と長雨で、夏の終わりになっても青く突っ立ったまま。実が入らないために穂が上を向いたままの「青立ち」よばれる状態に陥っていた。

ヤマセの吹き込む田んぼに立って、まだ幼かったころに聞いた話がよみがえったのだろうか。代々米づくりを続けてきた、堀江正一さんという大正生まれの古老が口にした言葉が忘れられない。「うちの親父は、昭和9年の冷害の年は、ひと夏、綿入れを着て過ごしたといってたよ」
昭和9年、その前は大正2年、その前は明治39年。農家は収量の増加をめざしながら、代々家の中で、凶作の記憶を語り継いできているのだ。

この年の宮城県の米の作況指数は「37」。青森は「28」、岩手は「30」。例年100前後で推移し、豊作の年には100をこえることを考えれば、未曾有の不作だったことがわかる。米不足のために、政府は大々的な米の輸入に踏み切った。
たったひと夏の気候変動のために、私たちの食卓は危機に直面するんだ…。飽食だとかグルメだとか、そんな言葉を頭から信じ込んでいたわけではないけれど、いまの時代、食糧は何とかなるだろうとどこかで高をくくっていた私は、不意を突かれうろたえた。毎日の食は、私たちの想像以上にあやうい生産と供給のうえに成り立っている。このときから私は、生産する人の側に寄って食べものを考えるようになった。

郷土史をひもとけば、東北の中では雪が少なく、そうきびしい気候風土ともいえない仙台でさえ、度重なる冷害に苦しめられてきている。江戸時代の中期から後期にかけては、大量の餓死者を生むほどに悲惨だった。
中でも、宝暦5年(1775)、天明3年(1783)は大飢饉の年として記録に残されている。領内各地から食べものを求めて難民が仙台城下に集まり、河原に藩のお救い小屋を立てて粥をほどこしたものの、行き倒れる人々が日に150人も出たという宝暦の飢饉。5月から9月までの長雨に加え、浅間山噴火の火山灰が遠く運ばれ降り積もったという天明の飢饉。飢饉のあとつくられた城下絵図では武家屋敷の氏名が赤文字で記されていて、これはおそらく主が餓死して空き家となったためだ。
人々が埋葬された河原も、弔われた叢塚も、私がふだん行き来する通りのすぐ近くにある。この場所で飢えて命を落とした人たちがいたのだ。200年前の出来事も、同じようにヤマセがもたらしたものだ。

霧雨の続く8月中旬、旧知の農家の人たちと山形に研修旅行に出かけた。西に向かい奥羽山脈を超えたら、一転して青空が広がっている。久しぶりに見上げる晴れやかな空に、胸の奥にまで日差しが入り込む気がした。広大な田んぼでは稲が重たく穂を下げ、心なしか青色から黄味ががった実りの色に移り始めたようにも見える。東北といっても一様ではない。太平洋側が雨天続きで不作でも、日本海側は天気に恵まれ豊作となることも少なくない。
「うらやましいなあ、もう稲刈りできんでねえか」「俺らはどうなんだべ」「大体雨続きで、薬も撒けないしな」「稲刈りは10日は遅れるなあ」
ため息に近いような言葉がつぎつぎと口についで出た。

手を尽くしきっても、あとは天気しだい。農家は天を仰ぐだけだ。岩手に生きた宮澤賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と書いたその気持ちがわかるような気がする。

長雨のあと仙台では30度を超す日が数日あったけれど、また雨が降ったりやんだりぐずぐずとした天気に戻った。今日の最高気温は23度、明日は17度。気温が戻るといい。農家も稲も雨と寒さに耐えている。

太陽を喰べる月

璃葉

太陽、月、地球が一直線に並んだときに起こる日食。偶然のような必然の瞬間を見ることができるアメリカの一部地域は、異様な盛り上がりを見せていた。

飛行機を乗り継ぎ、ポートランド空港から街へ出れば、「Solar Eclipse on August 21, 2017」という文字や日食、皆既帯(皆既日食を見られる地域)の地図がプリントされたポスター、パネル、Tシャツなどがあちらこちらで目についた。ホテルでなんとなくテレビをつけてみたら、ニュースはやはり、その話題で持ちきりだった。− 決して肉眼で太陽を見てはいけません −と、何度もアナウンスしながら、インタビューや日食の仕組みを説明していた。日食に乗じたイベントも多く開催されていて、どこもお祭り騒ぎなのだ。

日食2日前、ポートランドからさらに小さな街へ移動するとき、夜明け前の低い空に一本の毛のような月が浮かんでいた。移動中のバスの中は天文に近しい人たちばかりだったから、いまにも消えてしまいそうな月を窓ガラス越しに撮影したり眺めたりしていた。あの月が新月になる日に、日食は起こるのだな、と思いながら、半目で空をぼうっと眺める。
か細い月は、閉じたまぶたのようにも見える。後ろの席に座っていたおばあさんのゆったりとした、空気のような囁きがじんわり耳に入ってきて、わたしはしばらく眠りについたのだった。
今にも こわれてしまいそうな月 そっとしておいてあげないと

当日、日食観測の準備は、薄明前からおこなわれた。冬のような寒さに震えながら(夜空には冬の星座がひろがっている)暗闇のなかで、みなさん器用に望遠鏡やカメラを設置していく。空には天の川が見え、金星が明るい。紙コップに注いだコーヒーの香りを吸い込みながらうろうろしているうちに、空はどんどん薄紫色になり、やがて太陽が顔を出し、世界を照らしていく。気温はぐんと上がって、日差しの強い真夏になった。街のひとたちが、丘の上や小高い場所に徐々に集まってきている。ビーチチェアに寝転がって待っているひともいた。街全体のざわめきが聞こえてくるようだった。

月が太陽にゆっくりかぶさっていく様子は、たいへん奇妙だった。新月が、太陽の光を喰べていく。太陽が欠けていくのを黒いフィルム越しに見つめながら、自分の立っている場所が、影の世界になっていくのがわかった。消えていく光によって夕暮れのような現象が起こり、気温も下がる。冷たい風が吹き、鳥たちが不安そうに上空を飛び回っていた。
月が太陽を完全に覆い尽くしたとき、街中から大歓声が聞こえる。およそ1分間だけの皆既日食だ。碧い空のなかに、まんまるの新月が黒く輝く。
太陽の光が影から漏れると、空は徐々に明るくなり、あっという間に夏の真昼にもどった。

紀元前585年に起こった皆既日食は、長期にわたって繰り広げられていた戦争をも中断させてしまったそうだ。たしかに、戦の最中に突然こんな現象が起これば、なにも知らない兵士たちはさぞかし戸惑ったのではないだろうか。壮大な宇宙のうごきのなかで人間同士が小競り合いをしているのは、どう考えても滑稽としか思えない。そもそもヒトが生きていること自体が、ふしぎなことかもしれない。

グロッソラリー―ない ので ある―(35)

明智尚希

恥ずかし村の村長さんは、とても恥ずかしがり屋だ。恥ずかし村の住民も恥ずかしがり屋だけど、村長さんほどではない。村長さんは一番の恥ずかしがり屋だから、指一本見られるのも恥ずかしい。だからもちろん外には出ない。外に出ないのは住民も同じだ。ではどうやって恥ずかし村の村長さんを選んだのか。恥ずかしいから答える人はいない。

(*/ω\*)

 欧米の詩の中に、神は何度その名を呼ばれたことか。ほとんどが切羽詰まった場合や愁嘆場である。詩人が困難や絶望に直面し、自力で克服するための術を見つけるべき時に「おお神よ」と相なる。神への甘え、逃げでしかない。仮にも一個の人間なら、人間臭く泥臭く生命を賭して、攻めの一歩を踏み出す義務がある。便利な手段に頼らずに。

カミ ヾ(◎´∀`◎)ノ デス

 肉体が疲弊している時、自分にとって何が重要かを気づかせてくれる。無駄な思想や欲望が剥落し、精神は束の間の均衡状態にある。身の回りでその時に有意義な役割を果たすもののみが、新鮮な訴求力を発揮してくる。本来なら鋭敏な感覚も常ならず落ち着いているため、ツールや感覚に従ってあらゆる判断を下すにはうってつけの時間となる。

(-公- 😉 ツカレタ

 ヘミングウェイ、キャパ、セリーヌのように、死と隣り合わせとなった状況を望み、生き甲斐となった人物は不幸である。死は求めれば逃げていき、恐れれば近づいてくる。人間の思惑との帳尻が合わないからこそ、死は畏怖の対象たりえている。ヘミングウェイのように死の探求の冒険がナンセンスと知った者は、最後の冒険に出るしかない。

死は(▼▼ )( ▼▼)どこだ

 明察・省察・継続により技術は向上する。その技術をもってして一分野を追求する。追求するほどに世俗的ではなくなっていく。世俗的ではなくなるにつれ、いわゆる「あっちの世界」の作り手・研究者となる。「あっちの世界」の住人たるを自覚することで、俗世間との乖離の大きさに気づく。乖離の大きさに気づいたら、技術を引き戻す。

あーあ( -Д-)=3

 図工の時間、担任の教師の机の前に立たされて、怒られている小学一年生の姿がある。人物画の背景を真っ黒に塗ったのだ。もちろんベラスケスもゴヤもまだ知らない。他の児童は外の風景を描いていたのに、一人だけ真っ黒。教師の気に入らなかったらしい。給食・掃除の時間も過ぎた。「夜なんですか!」。面倒臭くなって答えた。「そうです」。

ヘ(。≧O≦)ノ ヨルナンデスカ!

 春になると「陽気な」人が出来するという定説がある。数か月に渡る冬の鋭角的な寒さの締め付けで、内へ内へと巻き込まれ孤独感と逼迫感が助長されていたのが、温暖な気候の牛歩ながらの訪れのおかげで解放され、自分の精神と肉体の不可視な面積が増えるからだろう。彼らの登場は有名だが、いったいどこへ消えていくのか誰も知らない。

ヘ( ̄▽ ̄*)ノ・ ・.♪ヒャッホーイ♪.・ ・ヾ(* ̄▽ ̄)ノ

 ぼんやりしていると言われない程度に思考から離れている。街の構成物になんとなく気を取られながら歩いている。日々の雑事をいつも通りのモチベーションでこなしている。やるべき仕事を淡々とやっつけている。その時点のことをそういうものとしてとらえておらず、自分自身から遊離しかかっている。地震はそういう時にやってくる。

!!!地震(゚ω(ω(゚ω゚)ω)ω゚)地震!!!

 巷間では、季節の変わり目をなにやら嬉しそうに話題にするが、わしにとっちゃ大きな異変じゃ。まず体が神経が不調になる。高熱に侵されたかのごとく、脱力し意気阻喪する。桜前線や真夏日がどうのと騒いでるのに対し、こちとらもう終わるのではないかと静寂そのものじゃ。四季折々の死にかけ。季節など一つこっきりで十二分じゃ。

”_| ̄|○”ハァハァハァ

 知人の子供を見るにつけ思う。こちらは現在と変わらぬまま、十年前後には楽々と追い抜かれているのだろうと。仕事・資産・社会的地位。こちらがいかに嫌がろうとも、世人はそれらを唯一無二の絶対的な指標・基準として他人を選別し、尊敬か軽蔑をする。だが満足度では、前途を約された子供たちより、駄目人間の旗振り役のほうが大きい。

だめ人間です(⌒o⌒;A どーも

 何だろうこの眠気は。睡眠障害なのは認めるが、日中の眠気では前例の少ない種類だ。倒れそうなほど眠いというすがすがしいわかりやすさはなく、睡魔が障害物に引っ掛かっていて、眠りには至らないような状態。脳が意識をシャットダウンするか否か迷っているのだろう。こういう日の夜は眠剤を増やさないと、二三日は容易に徹夜をする。

ネムイ(´っд・。)

 夢は突拍子もない空想でしかない。希望はロマンチックな勘違いでしかない。努力は態のいい時間の浪費でしかない。憧れは気づきにくい現実逃避と自己疎外でしかない。信仰は信仰のために信仰するというトートロジーでしかない。願いは無軌道・無計画な戯れ言でしかない。理想は根拠らしきものと絶縁している空白でしかない。

;;;;(;・・)ゞウーン

オーストラリアと福島、そして警察官

さとうまき

先月書いたように、8月は福島とオーストラリアを無理やりにこじつけてみることにしたのだ。2つの大きなつながりがそこにはある。先ずは核燃料サイクル。オーストラリアのウラン埋蔵量は世界一らしく、日本もウラン輸入はオーストラリアに頼り切っているらしい。心あるオーストラリア人は、自分たちの国から輸出されたウランがアメリカで核兵器になり、劣化ウラン弾も作られていることに心を痛め、さらに福島原発で使われていた核燃料がオーストラリア産のウランを使っている可能性は十分あることで心を痛めている

もう一つは、オーストラリアは、都合のいい国。英語を勉強したりするのに、オーストラリア人が日本語を勉強したりしているらしく、双方の交流は難しくない。観光地としては持ってこいで、カンガルーもコアラもいる。

それはそうと、私は慎重にサカベコ(赤べコをサッカー仕様に絵付け)したものを車に300体ほどそーっと積み込んで練馬の展示所に向かっていた時のこと。いきなり警察官が歩いて追いかけてくる。駐車して窓を開けると、「あなた何をしたかわかりますね?」という「え?」

どうも交差点の手前で進路を変更してしまったようだ。6000円の罰金だという。流れに合わせて運転していたからオレンジ色のラインをまたいでしまったという感覚はなかったのだが、警官が見ていたというからそうなんだろう。
こういう日は、とても気分が悪くなる。

最近、加齢とともに、目も悪くなっているから、無事故を続けているけど、警察に捕まることが多い。しかも、一時停止を無視したとか、気を付けていても、標識がよくわからないところにあったりとか。まあ、悔しいが、今回の進路変更無視というよりは、おまわりさんは、将来起こりうるべくもっと大きな事故を予感して注意してくれたのだろうと割り切った。落ち込んでいる僕を見て、うちのスタッフが、運転してくれた。ところがこれまた駐車場のポールに側面をぶつけて、車がへこむ羽目に。

そして2週間がたち、今度は会津で大熊町から避難している中学校を訪ね、教頭先生やオーストラリア人の英語の先生から話を聞きながらサカベコを書いてもらい、会津にある大熊町役場にも行きそこでもサカベコを作ってもらったその帰り、青信号だったので交差点を直進していたときのことだ。対向車線の直進車の後ろからいきなり、車が左折しようと飛び出してきたのである。「あああああ、ぶつかる? あ、ぶつかった」一瞬時間がとまったようだったが、ブレーキは間に合わず。中から老夫婦が出てきて、「母ちゃんが、急に曲がれというから。。」と言い訳をしている。

なんと私の車はバンパーがとれてフェンダーもめくれ上がりとんでもない状況に。廃車にした方がいいですよと保険屋には、進められる始末。一か月の間に警察に2度もお世話になってしまったのだ。

災難が続く。

車がつかえないので、レンタカーを借りて、再びサカベコを輸送することに。今度は別のスタッフが運転してくれた。助手席の私。「こないだ、ここで黄色いラインを超えて、警察に捕まったんだよ。気を付けてね」と話す。
「どちらに曲がりますか?」「右に」というと彼は、黄色いラインを踏んで車線変更した。「今のわかる? 黄色い線を踏んだでしょ。僕はそれで捕まったんだから。気を付けて」といった矢先、まさかのおまわりさんが白バイで追っかけてきた。「ハイ、6000円」

結局、一か月の間にサカベコの展示を4か所でおこなったが、3回警察にお世話になるというありさま。深く反省するしかない。。最後のサカベコ展は、9月3日まで新宿のカタログハウスの福島応援ショップ「本日!福島」に展示中です。

詳しくはこちら

カタカナの誘惑、たとえば絵のなかに見るような

北村周一

木村拓哉が主人公を演じていたテレビドラマのひとつに『華麗なる一族』という番組があった。
いまその番組の冒頭のシーンを思い浮かべている。
ドラマは、戦後の高度成長期を迎えようとする関西、とりわけ神戸周辺を舞台に展開されていたと記憶している。
のだけれど、ちょっとおかしい。違和感があるのだ。
毎回番組のはじめに神戸の市街地と思しき光景が映し出されるのだが、その遠景のワンショットが気になって仕方がない。
なぜなら、あきらかに別の町、それもよく見慣れたある町の映像だったからである。
テレビの画面に映っている町並みや、湾岸部、石油タンクの数々、そして遠くの海は、どう見てもあの清水ではないか。
繁栄した神戸ではありえない。
1960年代の神戸の町は知る由もないが、この番組の初回の冒頭シーンを見た時から、この風景は清水の日本平から見た景色に違いないと思っていた。
とはいえどこかおかしい。
富士山がないのだ。
清水の北西部から海側を望む景色として描かれているのだから、左手に大きく富士山がなくてはならない。
右手にはむろん清水港。
テレビ画面から、港および倉庫群は消されてはいなかったものの、あのニチレイの看板が見当たらない。
細かく観察しようにも、10年も前の番組だから、記憶に頼るしかないのだけれど、お門違いの間違い探しはこれくらいにして、本題に入りたいと思う。

ニチレイ、いわずと知れた日本を代表する冷凍食品会社である。
清水港はマグロで有名だが、はごろもフーズをはじめとしていまも食品加工会社が軒を連ねている。
そのなかにあって、ニチレイの大きな看板はひときわ目立っていた。
当時あまり背の高い建物のなかった清水市街にあって、ビルの屋上に作られた大看板は、カタカナ四文字の奇抜さも相俟って、他を威圧していたように思う。
海側からも山側からもそれと見てとれたのである。

清水港のやや東側、折戸湾に突き出た防波堤の突端に通称赤灯台と呼ばれる小さな灯台が立っている。
ふだんは釣り人しか近寄らないところなのだが、魚市場から歩いていける距離にあるので、たまにスケッチに立ち寄る場所でもあった。
かれこれ40年も前の話ではあるけれど。
赤灯台から眺める清水の町並みは、それなりに決まった構図ではあったと思うが、いったん描き始めると、さてニチレイの看板の文字はどうしようかと思い悩むこととなった。
アルファベットなら、苦しまずに済んだかもしれない。
春が近いとはいえまだまだ寒い時期だった。
夕暮れが迫り、パステルの色調もだんだんに陰りを帯びてくる。

 なにもまだ生んでいないのに春は来て父となりたるわれを待つらん

はじめての子が生まれてくる前の何ともいいようのない不安が、ニチレイのカタカナ四文字に重なる。
仕事を辞めて画家を志したところまではよくある話といえなくもないだろうが、人に見せるに足る絵が一枚もないのだから、ほんとうにお先真っ暗だったのだ。
最初の個展が開けるようになるまで、それから5、6年は悶々とする日々が続いた。

『華麗なる一族』の主役を務めたキムタクは、全撮影が終わった後、「今だから笑って言えるけれど、逃げたかった」と告白したと伝えられている。

さつき 二〇一七年九月 第五回

植松眞人

 夏がおさまらない。
 学校が始まっても蝉はいつまでもクマゼミにならずに、相変わらずアブラゼミがやかましく鳴いている。
 八月の半ば頃、東京では雨が二十日以上続き、すっかり涼しくなってこのまま秋に突入だと思っていたのに、夏の暑さは涼しくしていた頃の分まで含めてぶり返しているようだ。九月になっても毎日朝起きた途端に、びっしょり汗をかいていることに気付いてげんなりする。
 それでも、今朝は少しましだ。昨日の家族の会話を思い出すと自然に笑ってしまう。
 昨日はテレビの晩ご飯の後、テレビのニュースを家族みんなで見た。北朝鮮がまた日本の上空に向けてミサイルを発射したとしたら、今度は必ず打ち落とす、と安部さんは言っていたけれど、きっと嘘だと私は思う。だって、八月に北海道の上空を飛んだときに打ち落とさなかったくせに、次は打ち落とすから信用してくれと言われて信用する馬鹿はいないと思う。
 父は、ひとしきり北朝鮮の話をして、もし自分が太ってしまうと、丸顔だから北朝鮮の指導者のようになってしまうかもしれないと真剣に嫌な顔をしたのが面白かった。
 その後、父が都民ファーストの会の話をし始めて、なんとなく「小池百合子もさあ」と父が言うのを聞きながら、ああ、この人は小池百合子が好きなんだなあ、とわかってしまったのだった。小池百合子が好きというか、小池百合子の快進撃に期待してしまっているんだなあと言うことが感じられてしまって、ほんの少しだけ、父が歳取って見えてしまったのだった。
 たかが高校生の意見ではあるけれど、私は政治の話は楽しいエンターテインメントだと思う。何しろ、こちらの生活がかかっている。エンターテイメントって、結局、観客を感動させればいいわけで、だとすれば生活がかかっているとなると、これ以上の興奮や感動があるわけもなく政治ってものすごいエンターテインメントだと私は思うようになったのだった。
 だって、小池百合子がミドリムシのゆるキャラのように見える衣装でおばさまたちの人気を独り占めしたのも、結局はみんなが戦隊ものの緑色のヒーロー、ヒロインみたいなやつをみんなが追い求めているってことを露呈したのだし、その結果、ミドリムシ連合のような都民ファーストの会が大躍進して、多勢に無勢で国会ではあんなに偉そうにしていた自民党の安倍さんも最近はなんだか元気がない。
 しかし、東京都民である私たち家族にとって、いますぐ小池さんが何かをしてくれるわけではなく、相変わらず元コピーライターの父は薄ぼんやりと毎日を過ごしているし、人見知りのグラフィックデザイナーの母は相変わらず、単価の安いデザイン仕事を請け負っている。「こんなんじゃ誰も幸せにならないのよ」が最近口癖になった母だが、その口癖を大きな声で叫ぶことはない。小さな声で、私にだけ伝えて、小さなため息をついて、机の上のパソコンに向かって、マウスを動かし始める。
 選挙特番を見ているときには、「都民ファーストの会が自民党一党体制に風穴を開けた」的な妙にわくわくした気持ちに包まれたのは確かだし、選挙権もないのに、なんとなくドキドキしながら、都民ファーストの人に投票しに行った感覚があった。
 だけど、テレビを見ていて、次々と小池さんが緑色のリボンを当選者の名前のところに付けていくのを見ながら、コピーを書かなくなって久しいコピーライターの父が「どうせ、何にもかわらないのにな」と呟いた。
「変わらないと思う?」
 私がそう聞くと、父は、
「残念ながら変わらない。今の世の中を変えることなんてできるのかなあ。もちろん、いつかは変わる。だけど、それが今だなんて思えないんだよ」
 父はそういうと、私をまっすぐに見た。私は父になにかを問われている気がして、答えを探してみた。小池百合子に期待しちゃってるくせに、と私は答えを探しながら思った。期待しているくせに諦めてるって、どういうことだろう、と私は父の表情を盗み見た。そして、瞬時にいろいろ考えた結果、私も父と同じように、それが今だなんて思えなかった。
 翌日、学校へ行くと、ホームルームの時間に神谷先生がなんとなく政治の話をした。ホームルームなので、込み入った話ではなく今の政治はこれまでの選挙の反映であって、政治家だけがどうこういうのは間違っているという、まあ先生としては至極まっとうな正論で、正論過ぎてなぜ先生がいまこの話をしだしたのか私にはまったくわからなかった。
 きっと先生も夏休み明けに私たち生徒たちがなんとなく気合いの入らない顔をしているので、それらしいことを言ってお茶を濁すつもりだったのかも知れない。それなら、と私は先生に聞いてみた。
「先生、どうせ何も変わらないと思いますか?」
 私がそう言うと、クラスがしんとした。先生も小さく「え?」と声を出した。
 それもそうだ。私がホームルームで発言するなんて、初めてのことだし、誰かに質問されることはあっても、自分から誰かに質問したことなんてなかったからだ。しかも、手も上げずに、着席したままで、ふいに先生に質問したのだから、みんなが驚くのは無理もない。
 一瞬しんとした教室の中が、次第にざわざわし始めた時、先生は「うーん、そうだな」と答え始めた。
「うーん、そうだな。どうせ変わらないという気持ちもわからないでもない。だけど、それを言っちゃおしまいだ、という感じかなあ」
 それを聞いて私は、良い答えだなと思った。思ったけれど、今度は私がどう答えていいのかわからず黙っていた。
「それは、あれか? 畑中がそう思っている、ということか?」
「えっと、いえ、同じ畑中でも、私じゃありません」
 先生は怪訝な顔をする。
「同じ畑中でも、私じゃない…」
 先生はしばらく教室のなかの、クラスメートたちを眺めていた。ここに、私以外の畑中がいたかどうか確かめているのだった。いるわけがない。畑中は私一人だ。
「先生、違います。私の父です」
「あ、お父さんか」
 そう言って、しばらくしてから、先生は続けた。
「畑中のお父さんは絶望してるのか?」
 先生はものすごく普通にそう言った。驚いた様子でもなく、諭すでもなく、一緒に道を歩いていた友達が歩行者用の信号を見て「青だよ」と言ったときのように、本当に普通のトーンで、神谷先生はそう言った。
 先生にそう言われて、私は、そうか父は絶望していたのかと思った。そうだ。確かにいつものように笑っているけれど、父は絶望していたのに違いない。それも昨日今日の絶望ではない。おそらく、父が前に私に話したように、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」と感じたときには、すっかり絶望していて、自分のことをそこそこの、と思い至ったときに、知らない間に投げやりな歩き方をし始めていたのに違いない。私はいままで絶望という言葉は使っていても、その言葉にそれほどネガティブな印象を持ったことがなかった。ただただ自分の気持ちを表す言葉として、「絶望的だ」と言っていただけで、その言葉に強い印象を持っていなかったのだ。
 しかし、父が薄らと笑いながら「そこそこのコピーライターは」と話したときのことを思い出した途端に、絶望という言葉は悪魔の言葉になった。穢れた言葉になった。
 私が衝撃を受けている間にホームルームは終わっていた。気がつくと、クラスメートは好き勝手に立ち上がり、半分くらいが教室を出て行った後だった。私は自分でも気付かないうちに鞄を持ち、教室を出ようとしていた。すると、別の生徒からの質問に答えていた神谷先生が私を呼び止めた。
「畑中、おい、畑中」
 私は立ち止まった。
「はい」
 私が答えると、先生は少しだけいつもと違う笑顔で言う。
「お父さん、大丈夫か?」
 そう聞かれて、なんとなく私はえらいことになったと思った。父はあんまり大丈夫ではないはずだ。
「わかりません」
 そう答えると、私は教室から駆けだして、家に向かった。
 家に帰る道で、私は買い物帰りの母の後ろ姿を見つけた。「お帰り」と母が言い、私が「お父さん、大丈夫かな」と聞く。すると母がしばらく考えて、「もしかしたら、家にいないかもしれないけれど、きっと大丈夫」と答えた。
 家に帰ると、本当に父はいなかった。そして、晩ご飯を食べる時間になっても帰ってこず、翌日も私が学校から帰ると父の姿はなかった。でも、母は嬉しそうに帰ってきてこう言った。
「新しい仮住まいが見つかったわよ」(つづく)

製本かい摘みましては(130)

四釜裕子

どこかわずか違和感をおぼえる日本語で話す5人の若い男が写真を撮ろうとしている。赤茶色の紙にガリ版で「LE MOULIN」と大きな「3」の文字。これで本文紙をくるんだ薄っぺらな冊子『LE MOULIN』の3号が、机に積み上げられる。仕上げはホチキスだろうか。送り先の名前を一人ずつ書いた短冊状の紙を中にはさみ込む両手が映る。先の5人のうちの誰かだろう。顔は映らず、まさか誰かがひとりで作業しているわけでもあるまいに、そのにぎわいも映らない。黄亞歴(ホアン・ヤーリー)監督の『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の冒頭だ。

日本統治下にあった1930年代の台湾に、日本語で詩を書くグループがあった。「風車詩社」といい、中心となった楊熾昌(よう・ししょう)は東京の文化学院に学び、『椎の木』や『詩学』、『神戸詩人』に投稿していた。1933年、李張瑞(り・ちょうずい)、林永修(りん・えんしゅう)、張良典(ちょう・りょうてん)らと作ったのが同人誌『LE MOULIN 風車』である。西脇順三郎、ジャン・コクトーなど当時の多くの文化人の影響を受けて、台南で日本語による新しい台湾文学を築こうと活動していた。会は一年半で解散、『LE MOULIN 風車』も4号までだったが、同じ時期、1910年に台湾に家族で渡り早稲田大学を卒業して1933年に台湾に戻っていた西川満が台湾日日新報社で学芸欄を担当しており、彼がなにか大きな役割を担っていたように見える。

映画は、実際の日記や写真、記事を骨組みとして、おびただしい数の同時代の詩集、詩誌、絵画、写真、映画、ニュース映像、音声、音楽、そして日本語と中国語を併記した詩の引用を重ねて見せてくれる。その姿が確認できた詩集、詩誌だけでも、『MAVO』『薔薇・魔術・学説』『詩と詩論』『衣装の太陽』『椎の木』『三田文学』、西脇順三郎『Ambarbalia』、北園克衛『火の菫』、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』……、実際はもっとたくさんあったが、今思い出せるのはこれで精いっぱいだ。しかもその多くは誰かが持って来て「ほら、ごらん!」と机の上に置く瞬間を切り取ったようなアングルで、説明解説のたぐいもない。

冊子のみならず。ダリもキリコも古賀春江も三岸好太郎も山本悍右も、重厚な民族衣装をまとう女性の姿やサトウキビの収穫風景も、とにかくみな次々と。村野四郎の「飛込」に重なる繰り返しの飛び込みシーンはニュース映像か。大きく揺れる机で当時の台南での地震を知る。戦後蒋介石政権による白色テロで銃殺されてしまう李さんには、何十分か前に見た「白い少女」という複数の文字が画面いっぱいに拡大してきた映像が思い出されてしまう。実際に演じている人の台詞はごく少なく、ぎこちないのは日本語だからか。演技もあえてぎこちないように感じる。このめくるめく感じ。技法というようり、実感に近い印象を持つ。

昭和11(1936)年、コクトーが来日していたときに日本にいたのは、慶応義塾大学に留学していた林さんだろうか。フランス語ができないので作品を読んでもわからないけれども、新聞で動向をつかみスクラップするだけで楽しかったと話すのには大いに共感した。そこに、歌舞伎座で六代目菊五郎の『鏡獅子』を観るコクトーのニュース映像が重なる。隣には藤田嗣治。やはり新聞でコクトーの帰国を知った林さんが横浜港にかけつけると、江間章子の『春への招待』(1936)を手土産に抱えていた。日々の記録を、ときに写真を添えてのこしたようだ。大学では西脇順三郎に師事し、いっしょに多摩川を散策して深大寺でそばを食べた日の写真もある。先生はパイプを吸う、その隣りにいられることがうれしい、と書いた。

最後になって、西川満の小さな詩集がいくつか映された。『媽祖祭』(媽祖書房1935)と『採蓮花歌』(日孝山房 1936)か。『媽祖祭』は中を開いて、はさみこまれた複数のページもよく見せてくれた。コギトさんのホームページで見ていたものだ。こんなに小さくて愛らしいものだったとは……。『採蓮花歌』は画面では四つ目綴じに見えたが、改めてウェブに探すと高貴綴じのようだ。さらにウェブに西川満さんを捜しに行く。

中島利郎(なかじま・としお)さんの『日本人作家の系譜 日本統治期台湾文学研究』(研文出版 2013)の、「台湾文芸協会」の成立と『文芸台湾』——西川満「南方の烽火」から」に、装幀にも深い関心を持つ西川の姿があった。自宅で媽祖書房をおこし、300部限定の文芸誌『媽祖』、さらに詩集『媽祖祭』を330部限定で刊行したが、〈西川は戦前、自身の媽祖書房から限定本を出していたが、それらは七十五部限定のものが多かった〉、それは〈「真の読者は七五人居れば充分だ」という独自の考えがあったから〉とある。映画の監督がインタビューの中で、『LE MOULIN』の刷り部数は毎号75部だったと答えていたのが気になっていた。なにか縁起のいい数字なのかと思っていたが、西川の助言だったのだろうか。

・四季・コギト・詩集ホームページ/にしかわみつる【西川満】『媽祖祭』1935

別腸日記(7)飲み過ぎる人たち(後編)

新井卓

よその国から帰ってきて東京の夜の街へ漂い出ると、まず驚くのが酔いつぶれて路傍や駅舎に転がる人の多さだ。たとえばロスアンゼルスとかアムステルダムでそういう人がいたら、まずドラッグのオーバー・ドーズが疑われる。

いったい何が彼/彼女らをそこまで駆り立てるのか。自分のことを思い返しても、ひとり家にあって潰れるまで飲む、ということは余程のことがなければ起こらない。わたしたちが飲み過ぎるのは大抵の場合、社交の場においてである。

かつて勤めた広告写真の制作会社での二年間は、それこそ酒で海馬を焼き切ってしまいたい暗い日々だったが、その中でもっとも耐えがたかったのは、上司や客たちによって時々に設定される宴会だった。

そして、宴席とはいつでも無礼講なのである。ブレーコー、とは何か──16世紀に来日したポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリーゲスは、日本人の乱酒の習慣におどろき、日本人にとって酒宴は第一に相手を泥酔させることを目的としている、と書き残している(*)。この国の社会はいまだ年功序列主義に囚われているから、十代からたたき込まれる敬語の使い方と同様に、酒の席での立ち振る舞いはシステムから逸脱していないかどうかの指標として常時監視の眼から自由であることはない。

こうして視線の相克にあって酒はとどまるところをしらず、結局酔いつぶれるまで飲んでしまう。路上に座り込んでいるのは、果てしない戦いからようやく解放され、帰路なかばで難破した手負いの戦士たちにも見えてくる。

* ジョアン・ロドリーゲス「大航海時代叢書〈第I期 9〉日本教会史 上」岩波書店(1967)

八月最後の日。

仲宗根浩

昼前ににわかに暗くなると、北の方向から頭上にかけて雨雲がかかりそうになっている。洗濯物を取り込む。ちょっと時間がたつと雨が降る。東側にあるベランダの先は晴れのまま雨雲は家の真上を通りすぎる。
旧暦の七夕、灼熱の午前中に墓掃除。デッキブラシ、たわしでコンクリート製の墓についた水垢をごしごしと落とすと。たっぷり過ぎるほど汗をかき、旧盆を迎えるごあいさつをすませる。七夕の前の週に子供は夏休みを終え、二人分の昼ごはんをつくることから解放され、暑いなか中学生は一学期後半が始まる。

車が古くなれば自動車税も高くなり維持費が高くなるが、別の車を買う余裕は今は無く、走行距離十万キロ越えれば交換しなくてはいけない部品があり、運転席側のパワーウインドウは完全に壊れた状態で半年以上、いよいよ修理見積もりをしてもらう。電動で開け閉めする窓は人力の力わざを使い、こちらの筋肉が鍛えられる。電動で開け閉めする窓の部品がこれまた結構なお値段で。遂に修理と部品交換に出すと、代車の軽自動車はキーレス・エントリー、バックモニターとオールド・スクールの人間にはとまどうことばかりだが、車内は広く、走りはスムーズで静か。十数年前の軽自動車と比べるとその進化に驚く。

沖縄防衛局から電話がある。いかにも電話での対応に不慣れな口調の担当者さん、昨年出した受信料減額の手続きに不備があったので書類送付する、ついては記入後に返送願います、と。いやいやこちらは、そちらの方まで赴き、ご担当の方と面と向かい、ご指示に従い必要書類記載しご担当者様と共に確認の上提出しましたがそれを今ごろになって不備がありましたとは納得がいかない、ということを小心者のため言えず、胸のうちに納め、ハイハイわかりましたと返事をし電話を切る。しばらくして届いた書類には受信料金額が変更したたため云々。今更、変更など一括払いで引き落としされているものをちゃんと確認したはずだしどこの不備だ。基地の護岸工事はチャッチャと手早く進めるけどこういうことはチャチャッとできないお役所。

外に出ると今までと違う、熱をもった風ではなく涼しさを感じさせるような風が一瞬吹くが、すぐ現実の暑さのなかにもどされ汗がどんどん出てくる。車に乗り込み、空港に向かい、飛行機で羽田。羽田から東京駅に行き新幹線に乗り込み長野へ向かう八月最後の日。

ゆれうごく格子

高橋悠治

毎年夏の暑い時に 秋のために作曲したり練習したりする日々がつづく 今年は録音もあり ほとんど休みなくはたらいていた これでは考えたり 感じる余裕もないと思いつつ いくつかのちいさな発見で 他のことを忘れる

作曲したのはジュリア・スーのためのピアノ曲『夢蝶』 陳育紅の詩の 日本語のように仮名がまじらない 漢字だけのイメージから音のうごきが見えてくるののか 周蝶夢はもう一人の詩人の筆名であり 莊子の一節でもある 蝶の夢と夢の蝶は どこか似ているそれぞれの世界にから 回りながら現れ 消えてゆく もう一つの世界を忘れるのが この世界のたのしみ

8月はずっとウィンドオーケストラの曲を書いていた 全体の空間はトーマス・タリスの40声部の合唱曲 Spem in Alium の構図から思いついた 楽器群のあいだを移動する線が辿る方向や 線をよりあわせて ゆるやかに束ねた織物が 輪郭を変えながら ゆれうごく格子をくぐりぬける 流れの変化 ちいさな渦 タイトルの『透影』は几帳を透かして見える灯影 『源氏物語』のことば

録音したのはサティ 息づかいと そっと音に触れる指の感触 慎ましい白の ためらう歩み 青柳いづみこと連弾したストラヴィンスキー 『春の祭典』と『ペトルーシュカ』 手のうごきを内側から感じる こどものたのしみ 瞬間にはじける即興