別腸日記(15)遼菜府の思い出 前編

新井卓

振りかえれば、通算三十五年以上も同じ街に暮らしている。こんなはずではなかったのだけれど──三十になるまでは、一刻も早くこんな街を出てゆきたい、遠くへ、日本人などが一人もいない、どこかよその国の片隅で暮らしたい、とジリジリと思いつめていた。

記憶の中の川崎、こと溝ノ口は暗くヤニ臭く、町工場から垂れ流される汚水と光化学スモッグに霞む忌まわしい町だった。少なくとも小学生のわたしにとっては。戦時中、沿岸の軍需工場に工員たちを運んだり、秩父から石灰石を輸送した南部線は別名ギャンブル電車と呼ばれており、朝下りの電車にゆられていくと、赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞と首っ引きの労働者たちが、高校生の群れに混じってちらほら見えたものだ。

それが、1990年を境に駅前に歩行者デッキが出現し、変な名前の駅ビルが立ちマルイが開店し、ピンク映画の劇場跡地は高級マンションへと置き換わっていった。

西口商店街はドブ板を占拠して作られた闇市の名残で、立ち並ぶ飲み屋には昼日中から失業者がたむろしていたが、十数年間まえ未明の不審火で半分が燃えてしまった。夜が明けてからシノゴのカメラ(ネガのサイズが4×5インチあるカメラ)を担いで駆けつけると、まだ湯気の上がる黒焦げのバラックの前で、クリーニング屋のおかみさんがうずくまって泣いていた。クリーニング屋は幸いまた商いを始めたが、ほかの多くの店は、見た目だけ昭和風を模したチェーンのもつ焼き屋などに変わった。

いつの間にか「長崎屋」の後釜に座った「ドンキホーテ」で安売りのスコッチを買って表通りに出る。するといつも、不思議な感覚に襲われる。宙に浮いているような、狐につままれたような頼りない感じ、といえばいいだろうか。あるいは安部公房の『燃えつきた地図』の感じ。あんなに嫌いだった街はもう、ない。だから旅立つ必要もなくなってしまった。

「遼菜府」のことは、大学時代アルバイトで通った喫茶店「みずさわ珈琲店」のマスターから聞かされていた。きれいな店ではないけど麺類はまあまあうまい、とかで、それほど興味も抱かなかったのが、都内の広告写真の会社に勤めはじめたころ、初めて店の前で足をとめた夜のことを、よく覚えている。

果てしない葬送のようにひしめく黒い服の勤め人たち。うっすらとした敵意を孕んだ沈黙に身を固くしながら、自分自身もその全体的な感情の一部になっているのではないか、いや、そんなはずはない、そう思いたい、と、悶々と地下鉄に揺られていく日々。終電やタクシーで帰る日がつづき、いい加減神経が軋みはじめたある夜──もう深夜〇時かそれくらいだったと思う──煌々と蛍光灯を照らした「遼菜府」は、スーツ姿のサラリーマンたちで満席で、席は空いていないようだった。中を覗くわたしに気づいた女将が、大丈夫まだ座れるよ! ちょっと待って、ビール、サービス、150円。と言い、店の脇の暗がりからプラスチックの椅子と簡易テーブルを出して、目の前の歩道に据えた。街灯に照らされ夜道に浮かぶわたしの食卓は、なかなかインパクトのある光景だったが、ひどく空腹だったので、勇気を出して腰掛けた。

ほどなく女将さんが運んできたビア・ジョッキは、分厚い霜に覆われた氷塊と化していた。それはたぶん発泡酒だったのだが、ジョッキから遊離した氷片が金色の液体もろともに口中に流れ込み、思わずため息が出るくらい、うまかった。干絲(ガンスー、大豆たんぱくを板状に固めたもので麺のように刻んで使う)とラム肉とピーマンの炒め、水餃子、それに冷菜のじゃがいもの千切りなど──八月のねっとりと淀んだ夜空の下、アスファルトから立ちのぼってくる湿った夜気が、ひんやりして心地よかった。一人路上でほろ酔い加減を味わいながら、あたりを見回すわたしの心を見透かしてか、女将さんが言う。大丈夫、もう遅いだからだれも怒らないよ。ケーサツも寝てるよ。

そう、いったい何を気にすることがあるのか? 路上で。溝ノ口で、東アジアの片隅で。

(つづく)

四月の日焼け

仲宗根浩

新年度、四月に入ると毎年の行事「清明祭」シーミーの季節になる。墓の前で親族集まり重箱料理やご馳走、お菓子をお供えするのだが今年の日曜日はほとんど雨だったが最後の日曜日はまあ見事に晴れて、車に十数年くらい眠っていたビーチパラソルを出して陰をつくったが布製のパラソルは紫外線を見事に通してくれて頭部、腕は見事に焼ける。焼けた箇所の火照りは翌日もおさまらず横になっても落ち着くことはなく。

この日焼けの数日前の夜は激しい胸焼けに襲われ眠れず、これも毎年経過観察と健康診断で言われる逆流性食道炎のきついやつが何年かぶりで来る。二月に奥さんの持病悪化で病院生活、父子家庭だったため次はこっちにまわってきたかと覚悟していたが二、三日朝一食の食事で済ませ通常稼動の状態になんとか戻す。

二月のごたごたが終わり、三月に入ると奥さんは職場復帰し、税金の計算すると職業婦人は扶養から外れ税金を多く支払うことになり、はぁ〜、と思ったら四月は自動車税の催促。自動車税払い、車検の時に重量税払い、古い車に乗っていると自動車税は高くなり、大事に大切に長く乗っていることを良しとしない車関係の税制。

四月に前倒しで横田基地にオスプレイ配備のニュース、テレビでは反対する人々。横田のオスプレイのCVは特殊部隊用でその部隊は嘉手納にあり実際の訓練はどこでやるのとなると関東、長野、新潟方面までとあるが輸送機で沖縄にあるオスプレイと違い、特殊部隊の訓練はほとんど沖縄でやるんでしょ、というのがなんとなく見えてくるような。こっちに住んでいると米軍装備についていつの間にかほんの少しだけ詳しくなってしまう不思議さの中、夜の涼しさを感じる気持ちが良い季節、ずっとこの季節であればいいのに。

161立詩(10)文法擬

藤井貞和

この世へのちいさな「恋」よ、
……、
文末に終助辞を置かないで。
届けられようにして、
最初に置く係(かか)り結びは、文中で、
あなたの詩を輝線にする。 ……、
文の革命でしたね。 物語歌(うた)は、
ない話法や、
なかった承接(しょうせつ)を、
約束する、無文字(むもじ)の視界に。
終りがよければ
 

(「立詩」は立志、律詩。腰斬という刑死がありました。詩人の死です。終止符を打たないで下さい、なぜと問うて。)

ジャワ舞踊作品のバージョン(6)スコルノ

冨岡三智

2015年8月以来、久々にジャワ舞踊作品を紹介しよう。紹介するのは「スコルノ」で、ロカナンタ社から伴奏曲のカセットが出ている(品番ACD-143)。女性舞踊曲で、特に物語はなく、大人になりかけた女性が美しく身を装う風情を描いている。

「スコルノ」は1960年頃にクスモケソウォにより振り付けられた。彼はスラカルタ宮廷舞踊家にして基礎練習法・ラントヨを考案した人である。私が師事したジョコ女史はクスモケソウォの後を継いでコンセルバトリ(国立芸術高校)でジャワ舞踊を指導した人で、この曲を初演したうちの1人であり、また1979年にロカナンタ社で録音された時にも関わっている。今回の内容は、ジョコ女史から聞いていたことである。「スコルノ」はラントヨの後に最初に学ぶ舞踊曲として振り付けられた。実はジャワ伝統舞踊のレパートリーが増え始めるのは1970年代からで、これは宮廷舞踊の解禁(1969年〜)と関係がある。まだ宮廷舞踊が知られていない頃に、ラントヨと併せて宮廷舞踊の基礎的な動きを練習するために作られた曲なのである。他にゴレッという舞踊の要素も採り入れている(後述)ものの、スラカルタ宮廷舞踊のようにバティックの裾を長く引き摺るように着付をする。

次に音楽について。カセット版では伴奏曲は「パンクル」(スレンドロ音階マニュロ調)なのだが、実は元々は「スカル・ガドゥン」(スレンドロ音階マニュロ調)を使っていた。変更はカセット化よりもずっと以前、振付後間もなくのことだという。「パンクル」はガムランをやっている人なら誰もが知っている曲だから、初心者にもなじみがあって踊りやすいという理由で、クスモケソウォ本人が変更したという。さらに、市販カセット版は実は短縮版である。それでも16分21秒もあるが、オリジナル版は22分もある。「スコルノ」の録音監修者はマリディ氏だが、短縮はジョコ女史が手掛けている。なぜ短縮したのかと私が尋ねたところ、カセット会社が要請したとのことだった。ジャワ舞踊曲はだいたい15分以内の長さだが、それはカセット会社がテープの片面(30分)に2曲が収録できるよう、短縮を要請するかららしい。

カセット版の進行に沿って振付の流れを説明する。前奏があって本体の曲に入る…が、踊り手はまだ舞台の端にいて、曲が1周してから舞台に出る。現在ではそんな悠長なことをせず、前奏の最後の音から舞台に出ることが常態化しているが、いきなり踊り出すのは宮廷の美学に反するのである。その後はスリシックという小走りで出ていき、舞台を1周すると、舞台奥から前方に向かって真っすぐ歩いてくる。これは戦いの舞踊(ウィレン)の展開と同じだ。そして床に座ってスンバハン・ララス(一連の合掌に至る振付)をする。そのスンバハン・ララスの前につけられたスメディという型が、カセット版では削られた。これはクスモケソウォ独自の祈りの型で、同じカセットに収録されている別のクスモケソウォ作品「ルトノ・パムディヨ」のオリジナル版にもあるのだが、こちらもカセット版で削られている。クスモケソウォの作品を考える上では重要な振付なのだが、そもそも宮廷舞踊にない振付なので仕方ないかという気もする。床に座るところからテンポは倍の遅さになり、歌が入ってゆったりした流れになる。その後は立ってララスという動きを右、左(右の動きを左右反転したもの)、右と3回やる。ここの動きはラントヨと同じだが、カセット版では1回に減らされている。スンバハン・ララスを経てララスを左右に繰り返すという流れは、宮廷舞踊の定型だ。

ララスの後、太鼓がチブロンに代わり、さらに遅くなってイロモIIIというテンポになる。チブロンは音が高く、いろんな音やリズムパターンが表現できる太鼓である。チブロン太鼓でイロモIIIのテンポで踊る女性舞踊とくれば、スラカルタにはガンビョンがある。しかし、この舞踊は民間起源で性的なニュアンスがあるため、1960年代半ばまでは一般子女は踊らない類の舞踊だった。特にクスモケソウォはガンビョンを認めなかった人だ。大人の女性が踊ることのできる健全で上品な舞踊…ということでゴレッの要素を取り入れたのだと思う。どの辺がゴレッ風なのか。まず、ゴレッの代表的なスカラン(リズムパターン)を使う。ガンビョンのスカランにこそ性的な意味合いが込められているから、これは当然だ。そして、スカラン同士をつなげるつなぎのパターンもガンビョンとは変える。具体的には、マガッと呼ばれるつなぎを使わない。これは私自身が太鼓の先生から指摘されて初めて気づいたことなのだが、マガッにはガンビョンぽさがあると、クスモケソウォは考えていたようである。さらに、イロモIIIからIIへという、ガンビョンにはないテンポの変化がある(ガンビョンではIIIからIに変化する)。なお、イロモIIIの演奏部分は、オリジナルでは4ゴンガン(4周)あるが、カセットでは1周削られて3ゴンガンになっている。こんな風に構成された「スコルノ」はジョグジャカルタのゴレッとはまた別物になっている。

「スコルノ」は元々ラントヨの後で挑戦できるように作られた曲だから、使われるスカランもとても易しく、振りのつなぎも非常にシンプルだ。むしろ、せっかちにはゆっくり過ぎて間がもたないような舞踊である。クスモケソウォの舞踊は、次世代のガリマンやマリディに比べても素朴で、作品としての複雑な魅力や華やかさには欠ける。しかし、ラントヨや「スコルノ」の振付は、ジャワ舞踊の基礎を抽出し教えると言う点で優れた指導者だったと感じさせてくれる。

水曜日の創作クラス(2)

植松眞人

 この町の公民館は、とても古い建物で五階建てなのにエレベータがない。階段も一段一段が高く、注意していないと足を踏み外してしまいそうだ。
 一階と二階は吹き抜けになっていて、広めのスペースがある。そこが集会などに使われていて「ホール」と呼ばれている。そんなに立派なものではないのだが、小さな講演会や踊りの発表会などをやろうと思えばやれる程度の広さだ。
 ホールが吹き抜けになっているので、実質二階がなく、小部屋を使うためにはいきなり三階分の高さを上がらなければならない。年配者の利用が多いので、簡易のモノでも良いからエレベータやエスカレータを後付けできないか、という話は毎年のように持ち上がる。ただ、建物が古すぎて頑強なので融通が利かずなかなか簡単ではないのだった。
 それに加えて、集まってくる年配者自身が「健康のためにはこのくらい」と愚痴も言わずに利用しているのでいつの間にか立ち消えてしまうのである。それでも、休憩のために踊り場ごとに椅子が置いてあったり、お茶のポットが置いてあったりするのはほほえましい。
 私が高橋に誘われて、初めて水曜日のクラスに参加した日は雨が降っていた。二階と三階の間にある踊り場で、腰を下ろして休憩していたお婆さんに会釈をして四階まで上る。それほど長くはない廊下は薄暗く、その突き当たりに灯りが漏れていて、使用されている部屋がそこにあることがわかった。
 これは後々知ることになったのだが、この公民館を夜の六時以降に利用する人はほとんどいないのだった。入り口にある管理室に人は詰めてはいるが、夕食の時間にはどの利用者も出て行くばかりで、新たにやってくる者はほとんどいない。水曜日のクラスが終わり八時過ぎに管理室の前を通ると、担当者が椅子に座ったままウトウトと舟を漕いでいることもあった。
 初めての水曜日のクラス。引き戸を開けると、中は煌々とした今時のLEDの光で満たされていた。集まっていたのは全部で五人。小さなテーブルを一つ真ん中に置いて、その周囲に椅子を円形に並べて五人は座っていた。テーブルの上に置かれていたのは、夏みかんほどの大きなオレンジだった。
 私は入室したとき、五人はじっとオレンジを見つめていた。しかし、私が入室すると同時に、全員が私の方に笑顔と会釈をよこしたのだった。そして、私が会釈を返すと、再び五人は視線をオレンジに戻した。それが瞬時のことだったので、私はしばらく入り口のところにたちずさんでいたのだった。
「さあ、もうそろそろいいでしょう」
 高橋の声にみんなが柔和な顔に戻り、それぞれに目の前のオレンジについて話し出した。私がオレンジだと思っていたのは、どうやら紙粘土で作った大きな温州みかんらしい。作者であるおそらく七十代らしき男性が自分でそう話した。
「私は柑橘類が好きで。久しぶりに紙粘土で何か作ろうと思ったときに、目の前にあった温州みかんを作ってみたんですよ」
 男性は言う。
「すばらしい」と高橋が答える。
「なぜ、大きくこしらえたんですか」と別の参加者が聞く。
「そのままのサイズはつまらないとおもいましてね。しかもほら、私が柑橘類が好きなもんだから、いかにもつくりものって感じでつくらないと、食べたくなっちゃうと困るでしょう」
 男性はそう答えると大きく笑った。男性が笑うとそれをきっかけに五人全員が笑い、笑いが引けると同時に一瞬の静寂が訪れた。その絶妙のタイミングで高橋が私を呼ぶ。
「この方が、今日から参加してくださることになった三宅さんです」
 高橋の紹介に私が自己紹介すると、参加者が口々に「よろしく」と声をかけてくれた。
「あなたはどう思いますか?」
 高橋の隣に座っていた品の良い五十代くらいに見える小柄で柔和な表情をした女性が私に聞く。
「どう、というと」
「このおみかんですよ」
「ああ、このみかんですね」
 私が質問の意味に気づくとみんなが微笑みながら、私の答えを待っていた。
「とてもいいと思います。こういう創作にはあまり詳しくないのですが、なんだかみずみずしくて食べたくなるような出来映えだと思いました」
 私は少し緊張しながら言う。昔から自分の意見を言うのは苦手だったし、ましてやこういう芸術というのだろうかアート系というのだろうか。そういうものに対して何を言えばいいのかわからないのだ。
「良いご意見ですね」
 私に聞いた女性が答えた。
「良い、意見ですか?」
 私が聞き返すと女性がとても嬉しそうに言う。
「良い意見ですよ。素直でわかりやすくて。さすが高橋さんのお知り合いだわ」
「本当に。あなたなら、きっとこのクラスが気に入ると思いますよ」
「いや、本当にそうですね」
 と、みんなが口々に言い出して、まだ状況がよくつかめていない私はとても居心地が悪くなってしまう。そんな私に、今度は高橋が助け船を出す。
「さあ、みなさん、そのくらいで。三宅さんは今日が初めてなんですから、あんまりいっぺんの話すと逃げ出してしまいますよ」
 高橋のそのひと言で、みんなはまた優しく笑う。ふと思い出したように高橋は自分の隣に椅子をもう一つ持ってきて、そこに座るように私に促した。私は改めてその場にいた五人に軽く会釈をして椅子に座る。
「では、もう一度、立花さんの作品『みかん』を見てみましょうか」
 高橋の提案にみんなが一斉にうなずく。私は五人の真似をして、目の前のテーブルに置かれた大きな温州みかんを眺めるのだった。
 私は大きなみかんを目の前に、それをじっと見つめる五人の男女の真剣な眼差しに滑稽なものを感じてしまう。
 素人が紙粘土で作った大きなみかんは、そこそこ巧くは出来ていても、やはりじっと見ればあちこちに粗雑なところがあり、それをじっと「鑑賞」するほどのものなのかと思えてしまったからだ。
 その気配を察したのだろうか。さっき、私の感想を褒めてくれたご婦人がそっと私のほうに口元を近づける。先ほどまでの柔和な表情はなりを潜めて、強い視線で私を見つめながら、「人様の作品を馬鹿にすることだけは許されません。それがこのクラスの一番大切なルールです」と低い声でささやいた。その低いけれど明確な口調に私はたじろぎ、周囲のことも忘れてそのご婦人をまじまじと見つめてしまったのだった。(続く)

灰いろの水のはじまり(その3)

北村周一

いままでの話を、少しまとめてみたいと思います。
対象をもたないキャンバスを、パレットとして扱ってみるという発想(思いつき)は、まあいいとして、そのキャンバスが、同時に、絵(または、絵のようなもの)になるような、そんな可能性はあるのかないのか。
あるとしたら、どのような条件下でそれは可能となるのか。
その条件をまずは設定することからはじめてみようということでした。
パレット代わりのキャンバスに、ほかに何の意図も用意せずに、さまざまな絵具をこねくり回す面白さは、それなりに理解できることですが、ここでは一歩進めて絵になるための方策、いいかえればジャンプできる可能性を見出すための、条件(制約)を与えるということでした。

前置きが長くなってしまいました。
その可能性を満たす条件―――ここでは、灰いろに設定してみたいと思います。
パレットの上に限らず、いくつかの色を混ぜ合わせると、灰いろになるということは、図画工作の時間でも教えられることですが、ちょっとしたはずみに、隣り合う色と色とが混ざり合い、灰いろっぽく濁ってしまったという経験は、だれにでもあるかと思います。
ふだんはやってはいけない濁りの技法ですが、ここでは積極的に応用することにします。

さて、いよいよ実技篇です。
まずは身近にいる、小さな子どもたちを相手に、パレット灰いろ作戦を試みることにしました。
年齢は、4歳児から7歳児まで、男の子ばかりの4名。
キャンバスのサイズは、張りキャンの、P3号(19×27㎝)を選びました。
少し小さめにしたのは、キャンバスに絵を描くことが子どもたちにとってはじめての経験だったこと、そして何より飽きてしまう恐れがあったからでした。
使用する絵具は、すべて水溶性のもの、アクリル塗料や、不透明水彩(いわゆるグワッシュ)などなどです。
子どもたちは、パレットという言葉も、その使い方もすでに知っていたので、キャンバスの上にじかに絵具を絞り出し、それらを筆の先で混ぜ合わせながら、灰いろにしていくという作業は、スムーズにとはいかないまでも、それほどむずかしい感じはありませんでした。
しかしながら、最初にやって置かなければならないことがありました。
数ある絵具の中から、どの絵具を選ぶかということです。
各人、思い思いに好みの色を選び、キャンバスの縁にそってチューブの絵具を絞り出していくわけですが、どのくらいの量が必要なのか、えがく対象がはっきりしていないので、しばしまごつきます。
キャンバスの白いところが、全部なくなるまで絵具を塗ろうと、子どもたちには伝えました。
四つの側面も、すべて塗りつぶすようにとも伝えてありました。
絵を描いている時間は、正味1時間弱、準備や後片付けの時間を入れても2時間ほどで、作業は終わりました。
意外と集中力は途切れずに、ほぼ最後まで塗り終えました。
でも、これで終わりではありません。
絵のタイトルを、自分たちで決めなければなりません。
題名を付けて、はじめて自分の絵になると教えたからです。
それぞれが、描いたばかりの絵を見ながら、楽しそうにタイトルを付けていました。

ところで、肝心かなめの、灰いろはどうなったのでしょう。
結論からいえば、どの絵もなかなか灰いろにはならず、ちょうどいい具合に色が混ざり合ったところで、つまりは、すてきな形や色があらわれたところで、それ以上先には進まずに、次の場面へ展開するといったふうで、画面全部を塗り終えたのでした。
とはいえもし、もっと遠くから見たら、それぞれの絵は、灰いろっぽく見えたかもしれません。
たとえば、
黄緑のような灰いろ、
灰いろっぽい真黄色、
紫のような灰いろ、
そして、灰いろっぽい真っ黒。
(つづく)

*参考資料:3歳児による油彩 F4号(24×33㎝)

今日もお休み

大野晋

4月から毎日が日曜日を決め込んだ。
年金だの、健康保険だのを考えるともう少し働かないといけないのだが、定年退職の気分がどういうものなのかを体験してみている。最初の数日はやることに困った。毎日が出かける先がないと手持ち無沙汰でしょうがなかった。しかし、一週間もすると、休みのペースにだんだんと慣れてきた。

このところ、ご無沙汰していた写真撮影に出かけるようになった。まあ、その前に機材を新調した。今は新調した機材の具合を確かめるためにいろいろと撮影をしてみて
いる。GWが終わったら撮影旅行に出てみようと思っている。この数年で諦めた趣味を復活してみよう。そして、次の仕事に出かけるときにバランスをとってみるのだ。もう1ヶ月休みを延長した。

仙台ネイティブのつぶやき(33)消える庭 動く庭

西大立目祥子

 昨秋のことだったろうか、玄関のチャイムが鳴って、戸を開けると見知らぬ男性が立っていた。不動産屋らしき会社名を名乗るなり、「お隣の家の持ち主をご存知ではありませんか」という。ついにきたか、と思った。近くに新しい地下鉄の駅ができてからというもの、周辺の地価はどんどん上がり古家がつぎつぎとマンションや新しい戸建てに建て変わっているのだ。

 お隣は空き家で、昭和30年代に建てたと思われる瓦屋根の平屋を覆い隠すように、樹木が生い茂っている。100坪を越えるくらいの広さだろうか。もう誰も手をかけない荒れた庭なのだけれど、大きく育った木々が季節季節に花をつける。3月からぽっぽっと明かりを点すように白花をつけるモクレン、春の盛りを教えてくれる深紅のボケ、つややかな葉の赤い椿、秋にはあたり一面を甘い香りで満たすキンモクセイ…。

 特にいまの季節、枯れたような庭が息を吹き返すようにして、淡い緑から濃い緑へぐんぐんと勢いを増していくときは生命力にあふれて、その息吹を分けてもらっているような気持ちになる。鳥のさえずりもひときわ高くなり、はしゃぎ回るように梢をあっちこっちと飛び回るのを見ているのは楽しい。一方で、秋が深まる季節に、夜の暗闇の中で2階の窓を開けキンモクセイの香りに浸るのは、じぶんの境界があいまいになるような不思議なひとときだ。

 林のような庭を楽しんできたのに、ついに消えるときがきたのか。

 このところ、新聞やチラシに「お庭解体」とうたう広告を見かけるようになった。大木伐採とか庭石撤去とか、そんな言葉を胸が痛む思いで読みながら、私の実家の庭を毎年秋に剪定してくれる植木屋さんの一言がぐるぐると頭をめぐる。「こういう庭、もう誰もつくんないよ。維持に金かかるしね」確かにそうなのかもしれない。生い茂っていく庭にもう手をかけられず手離すことを決め、解体業者を呼ぶのだろう。大きく育った木が倒され殺風景な駐車場になるのを、どれだけ見てきたことだろうか。

 でも、私が子どもの頃は、あたりまえにあちこちにあった庭だ。枝が伸びたなと思えば休日に植木ばさみを入れ、秋に葉が落ちればぼやきながらも何度も掃き集め、何年かにいっぺんはなじみの植木屋を入れる。ときには、気にいった樹木を買い求めて植え込み、少しずつ好みの庭を作り上げていくのは特別なことではなかった。

 長い時間をかけて庭は育っていく。そして、そこには家族の物語が宿る。

 60年前、祖父の植えたしだれ桜は、この春も淡いピンク色の花をつけた。いつだったか母が、「おじいちゃんが死んだら花を付けるようになったんだから、不思議なものだねえ」といっていたっけ。祖父はしだれ桜が好きだった。生きて見られなかった花を、毎年祖父の目になって見上げる。

 椿の種類が多いのは、祖母が椿を好んだから。淡い色の乙女椿、紅に白の混じった紅しぼり、深紅の八重…。若い頃はあまり好きではなかった椿の花が、このごろは胸に響いてくるようになって、もしかすると祖母も同じ思いだったのかもしれないなと想像しながら一枝切って花瓶にさす。そして、そう話すこともなかった祖母の生涯を考えてみたりする。生きていたら、114歳だ。

 茂り始めた雑草を引き抜くと、あちこちに芝がするすると伸びている。ここに越してきたとき、父は当時はやっていた緑の芝生を敷き詰めて熱心に手入れをしていたのだけれど、育ち盛りの私と弟がその上で自転車を乗り回したりするものだから、結局のところはうまく育たずあきらめた。でも、その生き残りが50年たっても生き延びて、この季節になると存在を主張し始めるのだ。

 一方で、これまた50年以上、毎年毎年色とりどりの花を咲かせてきたプリムラは、ここ数年めっきり元気がなくなって、もう絶滅するかもしれないと思わせるほどの衰弱ぶり。

 土、水、光、人の踏みつけ…いろんな要素が複雑にからみあって、庭は動き続けている。長い時間の幅で見つめていくと、そこには植物たちの栄枯盛衰も見える。

 草むしりをしながら考える。私がいなくなったら、この庭も解体されるのだろうかと。桜とともに祖父の記憶も、椿とともに祖母の記憶も、ばっさりと伐り倒されて消えてしまうのだろうかと。

 いまはやっかいな木は植えずに、おしゃれなプランターに一年草の花を咲かせて玄関やベランダを飾るのが主流だ。1年ごとに花は初期化されて、記憶をつなぐことも時間をかけて大きく育てることもなくなった。そんな庭先を横目で見ながら、あたりまえにあった庭のつきあいができなくなったのはなぜなんだろう、と考える。落ち葉を掃くことも伸びた枝を剪定することも、いつのまにか、えらくやっかいなことに感じるようになってしまったのだ。

 今年に入って、さわやかな笑顔の引っ越し屋さんが「お隣の荷物運び出しますのでちょっとうるさくなります」とあいさつにきた。そう日を置かず、作業着を着た人が「測量に入ります」とやってきた。もう解体が始まるんだなとこちらも覚悟を決めたが、その後は静かで動きはない。

 ひときわ早く咲いたモクレンを、最後の花と思いながら眺めた。いま、緑の庭は風に揺れ、陽に輝いている。

消えた潜水艇

璃葉

東京にきて間もないころ、生活費を稼ぐために半年ほど街角にある老舗のバーで働いていた。夜7時から数時間、大きなスピーカーからジャズの流れる、照明を極力落とした店内のバーカウンターでお酒を作る仕事だ。キャンドルのようなライトに照らされてぼんやり浮かび上がる空間を、今思えば私は、かなり気に入っていた。真っ黒の重い扉、格子窓、タバコのヤニで黄色くなった壁、ゆったりと過ごせるいくつかのテーブル、舞台やライブのチラシが並べられた棚の上に置いてある、薄ピンク色のダイヤル式電話。小さなタイルが床に敷き詰められた化粧室。目につくものどれも、新しかったものがゆっくりと古くなってここまでやってきたものばかりだ。その格好の良さが好きだった。マスターは料理担当で殆ど厨房の中にいたから、店番は私一人だけだった。客が来ないときは、バーカウンターの中でぼんやりと時を過ごした。ビールケースに座って本を読んだり(暗いのであまり捗らなかったが)、ウイスキーの銘柄をひとつひとつ調べたり、ラベルをスケッチしていた。その退屈さに欠伸が止まらない日もあったけれど、暗い海のなかをすすむ潜水艇の中にいるような感覚に、なにか貴重なものを感じていた。スピーカーからアニタ・オデイの声が聞こえなくなり、いつのまにかCDが曲を終えたことに気づく。引き出しから新たなCDを取り出し、オーディオにセットする。その日にかけるCDの順番はマスターが決めていて、棚の一番前から順にかけていくのがルールのひとつだった。そんなゆるりとした作業をいくつかこなしていると顔見知りの客がやってきて、映画や舞台の話なんかをしてくれる。やがて学生や常連客がぽつぽつ来ていつの間にか満席になり、大忙しになると、あの一人の退屈な時間が恋しくなるのだった。飲食店であくせく働いていると、退屈への恋しさは常だった。

店の料理はどれも美味しく、働いたあとも休みの日にもよく居座った。ブロッコリーとアンチョビのペペロンチーノと、アーリータイムスのソーダ割りを頼むのが私の日課になっていた。

店を辞めたあともしばらく通っていたが、引っ越しをしたり新しい職などに就いてから何となく遠のいてしまい、そのまま2年ほど時が経った。
久々にあのペペロンチーノを食べたくなって、駅から歩いて細い曲がり道に入る。黒い外観と看板、それを引き立たせるような、店名が書かれた筆記体のピンクのネオンが出迎えてくれるかと思いきや、そこに構えていたのはチェーン店の居酒屋だった。明るいライトがぴかぴか輝いて、きつい光が道にまで漏れている。黒い潜水艇は海の静けさのなかに消えてしまったのだった。

しもた屋之噺(196)

杉山洋一

辺り一面、目に眩しい新緑に包まれるこの時期、飛交う夥しい花粉のおかげでアレルギーに悩まされるのは、我々日本人だけではありません。昨年など、一度喉に何か張り付いたようになって、息がびったり詰まってしまいました。流石に突然のことで肝を冷しましたが、このまま気を失うかと慌てていると、息が通るようになりました。13年前、息子が生まれた年の秋に庭に植えた松の丈は、3メートルを超えているでしょうか。この季節、松の天辺にずらりと7、80センチの棒状の新芽が天を向いています。食卓から眺めると季節外れのススキの穂が風に靡くように見えます。傍らの大木は、13年間一度も剪定していないので、どの枝もずっしり葉を蓄え、重みで少し撓ってしまっています。

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4月某日 ニース アパート
年末息子と二人で訪れた時は、彼が歩くのも儘ならず、息子をキックボードに載せて連れまわした。今や彼もすっかり元気になったので、83歳の母のためにキックボードを抱えてきた。アパートに着くなり、息子はすぐに母を連れて、階下の「名人パン屋」にクロワッサンとチョコレートパンを買いに出かける。
観光にエズに出かけたとき、話好きのタクシー運転手が何故息子とイタリア語で話すのかと不思議そうに尋ねた。息子はミラノで生れ育っていると話すと、ここは1860年カヴールとナポレオン三世のプロンビエール密約までサルデーニャ王国だったし、ニースはガリバルディ将軍の生地だ、と嬉しそうに話し始めた。だから、イタリア語だって話せると言うので、何か話してと頼むと、恥ずかしそうに「こんにちは」と呟いた。
毎日天候がとても不安定で、どこに出かけるにも合羽を携えて出かけた。真っ赤でだぶな雨合羽を小柄な母が被ると、まるで奴さんが歩いているよう。晴れ間がのぞけば夏日のようだが、午後には決まって天気が大幅に崩れ、土砂降りの上に気温も肌寒くなる。この運転手も、今年の復活祭休暇は、寒いお陰でまるで観光客の足が伸びないよと愚痴った。

アンティーブの浜を抜けてコバルト色の波が打ちよせる防波堤に腰かけ、老人と彼の息子が浜から投釣りするのを眺めている時は、抜けるような青空が広がっていた。海と空は丁度同じ色をしていて、水平線に沿って白い雲の帯がどこまでも延びていた。釣人に「よく釣れますね」と話しかけると、「でも、こんな小さいし」と照れ臭そうに笑った。今はなくなってしまったが、子供の頃は湯河原の小さな船着き場の傍らには、ちょうど似た感じの岩場が続いていて、魚屋で捨てるアラを分けてもらい、それに紐をくくりつけて岩ガニをバケツ一杯釣り上げた。少なく見ても百匹以上は居ただろう。アンティーブ海岸の岩には、一見もずくのような海藻が貼りついていて、母がそれを確かめると、全くもって無関係だった。息子は足を海水に浸しつつ、主人が投げてよこす木の枝と海中で戯れて止まない大型犬を目を細めて眺めていた。

翌日、息子のたっての願いでオントルヴォーの山に昇る。シタデルラと呼ばれる山上の古城の登山口入口で、入場コインの自動販売機が壊れている。村人から紹介された女性店主にその旨伝えると、まずこちらが履いていたバスケットシューズを眺め、これなら大丈夫と呟いてから、この裏道から川伝いに進んで山道を登れば、急だけれどシタデルラに辿り着けるわと教えてくれる。
登山の用意もない、齢80を超えた母を連れてゆくのは到底無理と思ったが、言われた山道を3分の1ほど昇って、不可能なのを確かめてから先程の壊れた自動販売機に引き返すと、どういうわけか直ったと言う。息子曰く「お父さんどこ行っていたの、探し回ったのに」。
シタデルラまで、山道の足場は石で固めてあるので昇りやすいが、不整脈が酷い母の身体を労わりながら少しずつ休憩しつつ昇る。息子は病気のことなど忘れてしまったのか、一気に頂上まで登り切って、「おおいおおい」などと彼方から大声で呼んでいる。年末も、息子はここに来た途端、別人のように精気を快復したから、息子にとっては最近流行りの「パワースポット」なのだろうと冗談を言うと、母は大真面目に、「これだけ切り立った山なのだし、きっと本当にそうよ」と応じた。
ちょうどニースから乗った電車の隣に座っていたトラッキングの杖をついた老夫婦とその娘が、我々と同じ塩梅でのんびり頂上のシタデルラを目指していて、追越したり、追越されたりを繰返しつつ、顔を合わせるたびに一言二言言葉を交わしたのも、母には励みになったに違いない。「杖を突いたあのお爺さんですら登っているのだから」、と坂の途中、ベンチ状の石に腰かけて母は呟いた。
シタデルラの山の鼻先には、古代の槍先のような、よく研がれた薄い刃よろしい岩山が聳えており、母は「その昔中国人がここに来ていたら、即刻石仏を彫ったに違いない。中国人と言えば、すぐに石仏を彫る人たちだから」とその姿に感動した様子だった。息子が買ってきたコーラで喉を潤しながら、小学生の頃、両親に連れられて何度となく伊勢原の大山阿夫利神社に登った話など、取り留めなく母と話す。大山の風景より寧ろ、山道の料理屋のタラの芽や甘酒ばかりが心に残っているのは何故だろう。

4月某日 ミラノ自宅
国外某所のマスターコースを受講してきたアレッサンドロが、コースの演奏会でも振ってきたブラームス3番を改めて聴いてほしいと言う。オーケストラと本番をやって来たならさぞこなれているかと思いきや、身体が硬直しきって到底音が合わない。聞くと、アレッサンドロが出来る限りオーケストラの音を聴いて、そこから霊感を掬い上げたいと言ったとき、指揮はそんな軟弱なことでは駄目だ、オーケストラに対し自分の音楽を明確に、強気で実現させるつもりで臨まなければいけない、と講師から助言されただけだと言う。教えるというのはかくも難しく、重責。

4月某日 ミラノ自宅
指揮の学生たちがお金を出し合ってオーケストラを3日間借り、全曲モーツァルトの演奏会を開いた。マリオ・ジョヴェントゥーの合唱団に手伝ってもらってK.65小ミサ曲、K.222Misericordias dominiなど合唱つきの作品を入れ、Ergo interest…Quere superna、Sub tuum preasidium、Conservati fedeleなどのアリアを、学校の声楽科の学生をよんで歌ってもらう。
モーツァルト少年最初のアリア”Conservati fedele(貞操を守って頂戴)”は、メタスタージオの同じ台本の名作”Per pietà, dell’idol mio(ああ愛する人お願いだから)”や”Oh, temerario Arbace, per quel paterno amplesso(ああ勇敢なアルバーチェ、父の抱擁によって)”に引継がれる魅力の数々がちりばめられていて、単なる子供の習作と捨置くのは忍びない。ともあれ幼い子供に「貞操を守って頂戴」と曲を書かせる父親もどうだろう。
レッスン合間に指揮の学生を集めてラテン語読み合わせ。小ミサ曲を担当するカブラスが学校でラテン語を勉強して来なかったので、発音やアクセントについて、他の学生も交えてセンテンスを聴かせ方について喧々諤々。

ロックバンドでベースをやって暮しているブラーヴィは、長髪をなびかせ顎髭を蓄え、風貌はロッカーそのままだが、生徒の中では一番厳しくラテン語を学んできていて、実に細かく注文を出すので驚いた。
たとえば、ラテン語tertiaは現代イタリア語terza(3番目の)にあたり、現在イタリアのラテン語教育で広く用いられる発音に従えば、ほぼterziaと同じになる。そのつもりで今までterziaと発音していたが、彼曰く本来はtiとziの間の発音で、先生の発音では子音がきつ過ぎると言う。
ともかく、ラテン語を読める読めないが、かくもイタリア人の誇りや恥の意識、格差意識に繋がっているとは知らなかった。うちの息子も来年から中学でラテン語が始まると話すと、とにかく声に出して読ませてあげてください、と皆から助言を貰う。
第五格変まで丁寧に覚えるより、音にしてしまえば、伊語のネイティブならずっと簡単に頭に入るし、瑞々しく感じられるという。話すための言葉ではないのだし、分からなければ辞書を引けばよい。音に慣れてしまえば、直感的に読み進められるというが、日本の古文でも同じなのだろうか。
ex-. idem, in primis, in extremis, et cetera, alter ego, tabula rasa, ultimo など、意識しないまま、日常会話で口をついて出てくるラテン語は結構ある。ドナトーニの”in cauda”も、”in cauda(尾っぽには)”と言うだけで、下の句”venenum”が口をついて出てくる年配のイタリア人はたくさんいる。我々が「塞翁が」と問いかければ、「馬」と応える塩梅だろう。“in cauda venenum”は蠍の尾に毒がある喩えで、「最後は毒にやられるぞ」というラテン語の故事成句。ドナトーニの曲の邦題は「行きはよいよい、帰りはこわい」と訳した。
この反語表現で後代作られた似非ラテン語成句もあって、“dulcis in fundo” 「デザートは最後、甘いものは最後」という意味になる。今朝ジャンベッリーノ通りのスーパーに出かけると、店内放送が、男性の声で「dulcis in fundo! はい、みなさま ”お楽しみは最後”でございます。毎度パムでお買い上げのお客様有難うございます!月末特価!XX大特売です!」と繰返していた。

4月某日 ミラノ自宅
キプロスからの土産にと、家人が息子のために笛を3本購ってきた。一つは木製の横笛で、二人同時に吹けるように、歌口が二つ向合って穿けてある。それから民族楽器風木製リコーダーともう一つ、竹製超高音域スライドホイッスルで、これは鳥笛の一種。フルートを習っている息子が、このリコーダーや横笛でラベルのボレロの旋律を吹くと、調律のせいで、えも言えぬ民族臭さが出てとても良い。ギリシャ風ともトルコ風ともつかぬ、よたる音。民族楽器風と書いたのは、民族楽器風の装飾が施されているが、実際はミュージックセラピーに携わる女性がつくる創作楽器だから。

本條さんから、長年住んでいるイタリアを主題にして、来月ローマで初演する三味線のための小品を頼まれる。自転車で息子を合唱に送りにゆきながら、頭のなかで何となく流れを決める。これとは別に、夏までに本條さんのために書く三味線と弦楽合奏のための作品は、日本から初演されるシベリアまでの道程を示すつもりで、全く違う音楽を考えている。三味線のことは分からないので、妙な小細工などせず、書きたい音を書き、やりたいことを説明して、本條さんからのアドヴァイスを素直に仰ぐことにする。
この前に書いた17絃と打楽器の作品では、作品の基のテキストの作者、ジョイ・コガワの名前を数字に置換え17絃の調絃を決めたところから、曲が求める音が自然に溢れてきた。この三味線の小品の場合、どの調絃が一番弾きやすいか本條さんに相談する。本條さんはローマの日本文化会館で演奏して下さるのだが、先日ローマの平山美智子さんの訃報を太田さんからいただく。文化会館で平山先生とご一緒したときを思い出して、胸が熱くなる。

4月某日 ミラノ自宅
息子が階下でプーランク「3つの小品」を練習している。中学の終り頃、生まれて初めて練習したピアノ曲が悠治さんの「毛沢東三首」で、その次がプーランクの「夜想曲1番」だった。渋谷のヤマハで自分でも弾けそうな楽譜を探していて、買って帰ったのを良く覚えている。今でこそインターネットでプーランク自演の録音すらすぐに聴けるが、当時この曲の録音は誰のものも聴いたことがなかった。

作曲家が弾いている自作の演奏の方が、実に自然で心に響くことのは、たぶん音符を弾いていないからだろう。自ら書いた音楽が明確に目の前に可視化されているからに違いない。ラフマニノフなどピアニストとして元来有名だが、プーランクやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなども、自作自演の録音を聴くと、他のピアニストでは、しばしば借りてきた衣を纏った感じに聴こえる部分が、まるで違った血の通った音楽として成立しているのに驚かされる。寧ろ音に感情など着せぬまま、音が投げ込まれ浮び上がる空間を眺めながら、無心で鍵盤に指を滑らせているように感じられる。
音楽家は音を身体に残してはならない。身体の裡は骸骨よろしく極力風通しを良くし、一切残滓ない方がよいのだ。すると、まるで思考の粒にまで昇華された細かな感情が、そのまま音に載って溢れだす。音と感情を身体に溜め込む程に、感情が先走った、鈍重で曖昧模糊とした発音になる。理由は分からないが、口を開け下顎辺りを緩めるだけでも、音の抜けは急に変わったりするので興味深い。
演奏家が書かれた音符に囚われた演奏をすれば、音楽も音符のカプセルに閉じ籠められたまま、こちらに流れ出しては来てくれない。一見単純に見える悠治さんのピアノ曲の楽譜など、音符に頼りすぎる演奏家の心理を鋭く突いていると思う。

4月某日 ミラノ自宅
M君のレッスンで、並んだ音は均等に並べないよう頼む。空から降ってきた音符が地に着いたら、形を揃えずにそのまま触らずにいて欲しい。削ったチーズをたっぷり加えたフランス風オムレツと、押して空気を抜いてつくる和風卵焼きの違いのよう。これがイタリア風になると、空気を押し出すこともなく、ただフライパンの型通りに卵をひき、しっかりとした食感のフリッタータに仕上げる。
日本文化は伝統的に侘び寂の印象が強く、空間性を特に大事にすると西欧から見なされてきたが、浮世絵から現在の漫画に繋がる空間造形の伝統を思い返せば、西欧風な遠近感によらず、空間全体に亘って見えるべきものを全てしっかり見せる志向を感じられはしないか。それも我々の文化の一端であって、否定すべきものではない。音楽に於いても、無意識にそういう特質が残っている気がする。かかる特質を予め伝統的に受継いでいると知るのは、決して悪くはないだろう。

どう演奏すべきかレッスンで話すのは出来るだけ避けたい。正しい演奏など存在しないし、同じ演奏者は同じ演奏を二度と繰り返せない。借りてきた着物で出歩くようなもので、人の演奏を真似ても、そこには真実は芽生えない。テンポが脈絡なく崩れて弾きにくかったり、「てにをは」さえ違っていなければ、基本的に尊重することにしている。
M君のレッスンでは、聴こえるべき音をゆっくり確認してから、原曲のシューベルトをベートーヴェンのように、ハイドンのように、ウェーバーの積りで演奏してもらう。困惑した表情のM君が、最後にじゃあシューベルトのつもりで演奏してと言うと、途端に晴れやかな表情に戻った。もちろん、実際は正しい演奏法などあるはずもなく、半分当てずっぽうだが、少なくとも楽譜の音符から視点を逸らし、音の質感や色や風景にのみ集中して音楽を作ることに役立つ。思いを巡らせることができる。音符ばかりが見える演奏では、機械の利用説明書のようになってしまう。

三つ子の魂に喩えると少し的外れなのだが、最初に身体に染みこんだ手本は、なかなか消すことができない。自分の音楽の礎は、篠崎先生のヴァイオリンを通して培われたと思うし、あの頃聴いていた音の原体験は、何物にも代えがたい。幼少からAIによって自動生成された音楽のみを聴いて育てば、どうなるのだろう。既にそれに限りなく近い状況が生まれつつあるとは思う。
ミラノで新しい現代音楽アンサンブルを作るから手伝ってほしいと頼まれて、アンサンブル作りからアンサンブルが軌道に乗るところまでに関わった。リハーサルの仕方から、楽譜の読み方から、一つ一つ時間をかけて積み重ねていった。あれから10年以上経ちメンバーも入れ替わったけれど、当時培った音楽の方向性は今も全く変わっていない。彼らは今やイタリアを代表するアンサンブルになったけれど、一緒に悩みながら作り上げた音楽が認められたことは、とても誇りに思う。楽譜をどれだけ正確に実現するかより、楽譜が何を望んでいるのかを探し求め、表現する試みだった。

何の為に自分は音楽をやっているのか。イタリアに来たばかりの頃は、本当にそればかり考えていた。イタリアに来る直前に阪神淡路の震災があって、住宅地から吹きあがる火柱を眺めながら、途轍もない喪失感に襲われた。自分は何故何の役にも立たぬことをやっているのか。そんなことを考えつつイタリアに留学生活を始めて、全く作曲が出来なくなった。無気力から脱せぬまま、ストレス性難聴で耳も聞こえなくなった。
経済不況からイタリア政府給費も打ちきられ、路頭に迷って手当たり次第に観光ガイドや通訳のアルバイトで日銭を稼いだ。夜明け前に観光バスのガレージに出かけ、ツアー客を連れてゆく怪しげなレストランで、ガイド用に用意される食事を昼も夜も食べた。
内容はツアー客と同じもので、常に同じリストからメニューを選び、それもお世辞にも旨くなかったから、美味しいですよと連れてゆくツアー客にも申し訳なかった。一日働いて家に戻れるのも夜半だから自然と音楽から遠ざかり、ちょうど作曲も出来なかったので初めは何も感じなかったが、そんな毎日が続いて漸く、自分にとって音楽が掛替えのないものだと痛感した。

食べるために人を騙して仕事する位なら、食べないで音楽をやっていた方が良かった。あの頃は不思議なくらい、食べなくても楽譜を読んだり作曲できるだけで幸せだった。
あの頃に、自分にとって音楽の意味するものは理解できるようになった。子供の頃から競う目的で演奏するものは、自分の音楽とは似て非なるものだ。それでもコンクールに関わらなければならないなら、審査するよりもむしろ、可能な限り審査される側に関わっていたい。
審査される作品を並べて演奏するとき、本当はどの曲が一番好きですか、どれが一番になると思っていましたか、と声を潜めて尋ねられる。優等生の模範解答のようで甚だ厭だが、本当にどの曲も等しく受賞されるよう願いつつ演奏しているし、それぞれ作品の魅力は全く違って、比較できないし、各作品の魅力を最大限引出すべく我々は必死に演奏している。だから、演奏会後に受賞を逃し落込んでいる作曲者に、無意識に「素晴らしかった、おめでとう」と勘違いな発言を繰返し、その度に自己嫌悪に陥る。

家人が結婚前に教えていたS君という生徒がいて、とても不思議なピアノを弾いた。器用ではないが、心に響く純粋な音楽だった。教養に富む頭で感じる音楽というより、もっと素直に語り掛けてくるものがあって感動させられた。プロコフィエフのトッカータなど、無理して弾いているのだけれど、ものすごく切実な音楽で、うつくしかった。
聞けば、S君はニッカポッカを履いてトビ職人をやっていたと言う。そのころ家人は、S君と街を歩いていて、このビルはうちが建てたんですと自慢するのを面白がっていたが、或る日、S君がトビになった切っ掛けは、暴力団から抜けたからと知った時は流石に仰天していた。それから程なくして、S君は忽然と姿を消してしまった。組から抜けるのは大変だと話していたので、連れ戻されて酷い目にあっているのではないか、警察に探してもらえないかと気を揉む日々を送った。彼がどこで何をしているのか、知るすべもないけれど、S君が彼の音楽とともに生きていることを願う。

4月某日 ミラノ自宅
音楽を教えるにあたり、方法論に言及するのは適当ではない。音楽とは一体何か、少なくとも自分にとって何か、それを一緒に考えることしかできないと思う。
こうやって弾けばよい、と自らのピアノの指使いを全てコピーさせるのが、優れた音楽の指導法とは呼べないだろう。どういう訳か、エミリオに習っていたころ、クラシックのレパートリーの彼の書き込み入りの楽譜は、殆ど生徒に見せてくれたことがない。それに反して、勉強した後の現代曲の楽譜はとても気軽に貸してくれたので、それを見ながら、自分なりに楽譜の勉強の仕方を考えた。
ちなみに、自分の勉強した楽譜は、現代曲でもクラシックのレパートリーでも、生徒にはいつも気軽に見せていて、何か役に立てられるのならと言っている。矛盾するようだが、自分の書き込み入り楽譜を学生に見せるのは、そこに音楽はないことを明快に伝えたいからだ。音楽は楽譜の中にはない。楽譜は音楽ではない。答えを導く情報は確かに書いてあるのかもしれない。しかし、楽譜をいくらのぞき込んでも、答えはそこにはない。

4月某日 ミラノ自宅
13歳、文字通りの思春期を持て余している息子にとって、生れて以来母親とのコミュニケーション手段として使ってきた日本語は、春先留守がちだった家人へ甘えを表現する手段でもある。伊語を話すと息子は無意識に年齢相応のしっかりした自我を纏い、日本語を話すと無意識に甘えの精神構造に変化する姿を観察するのは興味深い。父親に伊語で話しかければ精神的に安定している証拠で、日本語で話しかけてくれば、甘え相手を探していると理解する。

4月某日 ミラノ自宅
小学校のときに自転車に乗っていて軽トラックにはねられた。はねられた後は暫く記憶がなくて、遠くにまばゆい扉のようなものを見た気がするが、それも後付けの記憶かもしれない。はねた軽トラックはそのまま暫く走って止まったのか、止められたのか。周りが「轢逃げ未遂」と話していたからか、朧げに走り去ってゆくトラックの後姿を覚えている気がするのだが、これも後から付け加えられた記憶かもしれない。
どういう廻りあわせか、中学に入ると、加害者の娘が同じ学年にいることが判った。どうして判ったのか覚えていないが、何度か彼女のクラスの前を通った時、その女の子を眺めていたとおもう。どうして女の子が誰だか分かったのかすら判然としないが、体育着に名札でもついていたのだろう。ともかく彼女は級友に囲まれクラスの真ん中で楽しそうに笑っていて、指なしと呼ばれている自分が情けなかった。
彼女に何の恨みもなかったし、子供心に彼女に対して何かを思うのは間違っているのはよく判っていたが、彼女の楽しそうな姿を見てから、坂道を転げ落ちるように酷い自律神経失調に陥り、中学終りまで塞ぎこんでしまった。
息子を見ていると、あの時の自分を思い出す。女の子の姿をみて羨ましいと思った感情が、無意識に自分を傷つけていたのかもしれない。加害者に対して憎しみも何も感情が沸かないが、それは単に自分が幼かったからだろう。あの時両親がどんな思いをしていたのか少し理解できる気がする。

久しぶりに両親と電話で話す。今週だけでも病院は3回くらい行ったのだけれど、子育てはなかなか大変だね、と母親に言うと、それも終わってみると、親は良かったことしか覚えていない、とさも愉快そうに笑った。

4月30日 ミラノにて

ハッピーアイランド

若松恵子

遠藤ミチロウと関根真理、2人のライブを4月は2回も見ることができた。
関根真理は、パーカッショ二スト。ドアーズをカバーするミチロウのバンド「THE END」のドラマーとして彼女のことを初めて知った。金髪が似合う、ほれぼれする女ドラマーだ。同じくミチロウ率いる民謡パンクバンド「羊歯明神」にも参加していて、彼女が入る時にはバンド名が「羊歯大明神」となる。彼女のドラムが加わることで、スターリン時代の楽曲が「音頭」に変換してもかっこよさを失わない感じがする。

その彼女が、ギターを抱えてひとり歌う遠藤ミチロウに、パーカッションで花を添えているのが「ハッピーアイランド」だ。企画ものではなくて、今後もこのユニットで演奏していくという意志によって、ユニット名がつけられたのではないかと思う。「ハッピーアイランド」というのは「福島」のことだという。

4月に見たライブは、2回とも街なかの、普段はライブをやらないような会場だった。どこでも演奏できる2人組が、身軽にふっとやってきて、魔法をかけてしまう・・・。そんな印象のライブで心に残った。

ひとつめは、越谷アサイラム。埼玉県越谷市の駅前商店街の様々な店を会場に、有名無名のミュージシャンがライブを行う。アート展やクラフトのワークショップ、食べ物の屋台なども出ている街フェスだ。リストバンドを見せればどの店のライブも聴くことができる。ハッピーアイランドが演奏したのは、普段はダーツバーとして営業している店だ。観客は不揃いの椅子にそれぞれ腰かけ、椅子がいっぱいになったので絨毯に直接坐ってミュージシャンを囲んだ。楽器の設営も、リハーサルもみんな見えてしまう。そんな面でも演奏する者の度量がためされる、そんな会場だった。ミチロウはひるむことなく、いつものように「オデッセイ・1985・SEX」から始める。「やりたいか そんなにやりたいか」と、福島弁バージョンだ。小学生の子どもも聴いているが、パンクは危ないものなのだからしょうがない。この歌が相変わらず歌われる世の中なのだ。私はこの歌をまじめに受け止める。コミックソングのように笑って聞くわけにはいかない。「まるで少年のように街にでよう」と歌う「JUST LIKE A BOY」では、関根真理がコーラスをつける。通りかかってたまたま聞いた人の心にも届くと良いなと思う。

音楽には、「ほんとうに見たかった世界」をつくる力がある。止まったもののつづきを描く力がある。けれどその力は、たった一人では発揮できない。大通りをちょっと曲がった先で、生涯を音楽に捧げる人たち。草の根ミュージシャンたちはその力を合わせ、街に息をふきかける。音楽でしかいえないことが、街の未来に必要だから。

越谷アサイラムのパンフレットに主催者からのこんなメッセージが載っていた。

ふたつめは、埼玉県浦和市の中古レコード&古書のお店「浦和アスカタスナレコード」でのライブ。30名ほどの観客で満員になってしまう店内で、レコードや本の棚に囲まれて丸椅子に座って演奏を聴いた。もとは町工場だったのだろうかと思われる建物。めずらしく歌の合間にぽつぽつ話しながらゆっくり流れるライブで、会場を出た夜空に見上げた丸い月とともに、あの日の特別な時間の余韻が、今でも心に残っている。早川義夫の「シャンソン」や高田渡の「生活の柄」が歌われて印象に残った。

「キミの魂行方不明」と歌う「浪江」、ボブ・ディランのカバー「天国の扉」の日本語詞に歌われる、生きていることの悲惨。やさしいメロディにのって歌われる言葉にじっと耳を傾ける。今、ミチロウが歌いたいと思っている歌の、その理由に共感を覚える。ミチロウの歌をパーカッションで支えている関根真理もまた、共感しているに違いないと思う。

親父と私とダンス

笠井瑞丈

生まれて物心ついた頃から、父はいつも家にいる事が多かった。そして私が4歳の時、父は踊る事を辞めていた。5歳のとき家族でドイツに渡った。父は毎日オイリュトミー学校に通っていた。なので父が正直何をやっているのかよく分かっていなかった。そして私は10歳の時に帰国した。父に『職業欄を書かなきゃいけないときなんて書けばいい?』と聞いた事がある、そうしたら『ブトウカと書いとけ』と言われた。父は合気道をやってたこともあり、私はいつも武道家と書いていた。私が初めて父の踊りをはっきりと認識したのは、19歳の時、父が踊りの活動を再会してからである、始めはまったく踊りに興味もなかったし絶対に踊りはしないだろうと決めていた。しかし私が22歳の時、父がサンフランシスコのフェスティバルに呼ばれ、ひょんな事から私はそれに出る事になった。最初は背景のように後ろでただ立ってれば、という軽い気持ちだった。そして私はその舞台で何もできず、向こうのディレクターにこっ酷く怒られる始末だった。父はそんな結果を分かっていたのに私を舞台に出した。私はそこで初めてダンスと出会った。そしてその舞台で私は初めて舞踊家の父と出会う。

さまよう線と見えない流れ

高橋悠治

低音DUOの松平敬と橋本晋哉のために 川田絢音の詩を『明日は残骸』『しいんと』『ぼうふらに掴まって』の三連画にした 

詩に作曲するのは 詩のひとつの読みかたと言える 詩はことばの響きの組み合わせから生まれ 本来は 黙って活字を目を追うのではなく 響きとして読み上げるものとすれば 語るより歌うのが より古いやりかたかもしれない ことばの意味ではなく響きと 喚び起こされるイメージが かたちのない線になり それに セルパンによるもう一つの線が絡みつく ことばをもつ声の線は 多彩な音色の変化する線で セルパンに寄り添って 和音や対位法でない 西洋音楽では不協和音とされてきた2度の擦れ合うポリフォニーをつくり出す 2度という隣り合う音程のまといつく線は 糸を撚り合わせる織物や ちがう味を取り合わせる料理のように 音楽をプロセスのアートにする 石碑や建築のような音楽ではなく もっと軽く 風にゆれる唄の細い線が漂っていく  

1960年代までの20世紀音楽の流れとはちがう方向をさぐる試みは あれこれあって やがてそこから一つの新しい方向が見えてくる と思うことさえも まだその流れに囚われているのだろう 和音・低音・主題・構成というシステムで考えてしまっていることに気づかずに 作曲し演奏し即興しても 見えない檻から出られないし 檻をひきずって歩いているだけのことかもしれない

20世紀の演奏技術は 強い多い速い という力の支配 統合と管理の方法だった 雑多で異質な響きを継ぎ合わせて 複雑な音楽にすることはできるが そういう技術は 反復と確認をかさねて 息苦しい空間をつくり出す 記号や図形を発明しても 聞こえてくるのは おなじ昔の歌だった ということになりかねない 

それよりは おなじみの数すくない記号に あいまいな拡がりをもたせて 別な文法で使ってみる 演奏や即興が先にあり 経験を要約する方法は 不完全な道具で 精密な規定と矛盾する実例からは ちがう現場で使うときに そのたびの微調整が必要になる

微分音や複雑なリズムを書くのをやめて 長い音と短い音を 2分音符と8分音符で区別する 符尾のない白丸と黒丸で書いたこともあったが 演奏が均等な長さになりやすく 規則的な拍ができていしまう 棒のない全音符は 同時か順番か わからない時がある 全音符2分音符4分音符と順を追っていくと やはり時間を数えるようになる そこで いまのところ2分音符と8分音符を中心にしているが それが定式ではない 書くたびにすこしずつ書きかたも変わり ただし 説明は避けるようにしている 楽譜に説明してあっても ふつう演奏家は読まないし 説明を求められることになると 無意識のうちに作曲家・演奏家の上下関係を作るかもしれない

休止符は数える傾向を誘いやすい 音符はピッチに気を取られて ありきたりの感情表現をしたくなるが 休止は文脈を無視した数になりがちだろう 休止符は書かず カンマやカエスーラによる中断かフェルマータによる停止 5線をガイドラインとして いくつかの音符がそこに引っかかっている 小節線のような区切りもなく 別な段の音符とは数が合わない という白い楽譜の風景が いまのところは 少人数の音楽なら成り立っている 全員がスコアを見ていられないようなオーケストラの場合は ちがうくふうが必要になるだろう 拍子図形のない指揮法は 例がないわけではないが 指揮者は統制したがる職業だから そこに問題がある 司会進行役なら 適当な時間に合図を出すだけでいいかもしれないが コンサート会場で 演奏者全員の前にただ立っているのは間がぬけているし 不満もあるだろう アール・ブラウンのように 左手5本の指で断片を選んで 右手でそれをうごかしたり止めたりする技は 作曲家の即興で それが作品のスタイルだった こういうことは まずやってみなければ 人間の習性や 身体の緊張度を無視した方法や 理論先行ではできないだろう