リームがやってくる。やあやあやあ!

さとうまき

その時。斉藤くんは、イラクで苦労していた。

うちで働くシリア難民のリームをまだ8カ月にもならない娘と一緒に日本に連れてくるという上司のアイデアは、大歓迎だったが、娘のパスポートを作るために、イラクからダマスカスに行く必要があった。

リームは難民として、イラクで暮らしているが、シリア人だからシリアに帰るのは何ら問題がないのではあるが、イラクに再入国できるようにいろんなところから許可をとらないといけない。そういう面倒な仕事を斉藤くんが任されていたのである。

しかもだ、予定が狂いまくり、一か月早い来日に! そうなると、斉藤くんは、パニックになってしまった。(と想像する)リームも許可が下りずに、精神的にも疲弊していたようである。残された時間はわずか。本当に来日できるのか。と心配していたら、斉藤くんは弾むような声でメッセージを送ってきてくれた。無事にパスポートがとれたらしい。リームは世界難民の日に絡んだ6月30日に広尾で開催するシンポジュームに参加することができそうだ。ところでリームって誰?

2011年3月、リーム・アッバースは、シリア内戦が始まった時、高校を卒業し、ダマスカスの看護学校の学生になったばかりだった。若者たちが、自由と民主主義を掲げ、声をあげたとき、どのように感じていたのだろう。「自由とか、民主主義とか言う言葉はとても新鮮だけども、今のままでも、私たち貧しい一家にとっては、タダで学校に行けて、給料は安くても看護師になれるから。」

彼女はクルド人だった。クルド人は、シリアの中では、差別されていた。国籍を与えられない人もいて、彼らは高校までしか行けないし、働いても低い賃金しかもらえない。ダマスカスから始まったデモンストレーションは、クルド人にとっては成果を上げていた。シリア政府は彼らに国籍を与えたのである。しかし、民主化運動が暴力的な戦いになるとすべては壊されてしまった。

リームは、3人の同級生の女の子と一緒に暮らしていたが、国立の看護学校は、負傷した兵士の手当てに駆り出されるから、体制側とみなされる。学校が襲撃され、ルームメートが誘拐されて帰ってこなかった。自分もブラックリストに載せられていると知らされ、親戚が迎えに来てくれてダマスカスを去ったのだ。生まれ故郷のカミシリに戻ったが、さらに町から一時間も離れた田舎だったので、内戦が激しくなると村が孤立してしまい、2013年に難民として、イラクのクルド自治政府の首都であるアルビルまで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのだ。

2013年、私が難民キャンプを訪れたとき、リームは、ほとんど英語もしゃべれなかったが、キャンプ内にできたクリニックで、ボランティアとして働いていた。キャンプの責任者から紹介され、雇うことになった。まだ20そこそこだから初々しかった。難民キャンプで栄養失調の赤ちゃんにミルクを提供したり、子ども達を病院に連れていく。JIM-NETの仕事を気にいってくれて安い給料でも辞めずにいてくれている。なぜ?と聞いたら
「自分のアイデアを取り入れてもらえるから」という。
うむ。私は、いちいち細かいことを指図するのはめんどくさいので、ほったらかしにしておいただけなのだ。

5年経つとリームは結婚して妊娠した。妊娠中でも働くというから、あまり無理はさせずに、会津の伝統玩具の赤べコの作り方を伝授して、産休中の余裕のある時は作らせた。まず、僕が会津に行って、赤べこの作り方を教えてもらった。そして、門外不出といわれている金型。赤べこは金型に和紙を張っていって乾いたら引っ剥がす張り子である。その金型をお借りしてイラクに持ち込んだ。古新聞を糊でペタペタ張っていく。でんぷんのりがイラクでは売っていないので、小麦粉を焚いて糊を作る。そういうところから教えて一緒にものを作っていく仕事は楽しいものだ。

この張り子のべコをたくさん作って、億万長者になるというビジネスプランを説明し、「できるか?」と聞いたら、「できる。できる」と答える。いつも、彼女は「できる、できる」と答える。そう、彼女の辞書に不可能はない。しかし、出来上がった張り子のべコはでこぼこ。ともかく、難民の子どもに集まってもらって、色を塗ってもらって顔を書いてもらった。100個のべコにサッカーのユニフォームをペイントした。子ども達の絵も面白くて凸凹感がいい味を出している。

赤ちゃんも無事に生まれて、すっかりお母さんとしての貫禄が出てきたリーム。間もなくその赤ちゃんと一緒に来日する。

6月9日―7月4日
中東の難民のことを知ってもらうために写真展示と難民たちが作ったサカベコ(張り子の牛にサッカーのユニフォームをペイントしたもの)を聖心グローバルプラザで展示。期間中には後半でリームが来日し、6月30日はトークイベントを行います。詳しくはこちら
https://www.jim-net.org/2018/05/09/2674/

昨年10月、彼女と話して、シリアの様子を見てきてもらうことにした。リームは、カミシリからダマスカスに向かう飛行機の席が取れず、ブローカーにお金を払ってシリア軍の輸送機に乗ることになった。300人ほどの乗客がおり、兵士が席に座っており、リームらは貨物を載せる床に座った。隣には、「イスラム国」に感化されて自爆テロを行おうとした女性が手錠をかけられて座っていた。「私は、バグダーディを知っているわ」と狂ったように笑っていたという。

ダマスカスでは公共交通機関が普通に動いてた。子どもたちが学校に行っているし、報道で見ている状況とあまりに違う町の様子に驚いた。すべてがよく見えた。しかし、混雑している道沿いには30メートルおきにチェックポイントがあった。道をゆく若い男性のほとんどは軍服を着ていた。夜になると銃声と爆撃音が聞こえた。彼女がかつて住んでいたカミシリの村人は、ほとんどがヨーロッパなどに移住してしまったようで年寄りしか残っていなかった。

無事にイラクに戻ったリームは、「シリアで暮らしていくことは、まだまだ難しい」といっていたが、カミシリ―ダマスカスを往復しイラクに戻ってこれたことの意味は大きい。

「この6年間で、一体どれだけの命が失われてしまったのか。そのことを本当に深刻に受け止める必要があると思うの。復讐したいという気持ちはわかるけど、暴力を使えば、また一人の命が失われる」同じように考えるシリア人が増えてくれるように期待したい。

162霊語(ものがた)り

藤井貞和

湧きいづる霊(もの)の栖(すみか)は 見えねども、このうつせみや 住みかなるらむ

(佐竹弥生)

霊がやってくる、杖を投げる、
ものがたりの夜、
うようよする霊に袿(うちき)を着せる、
蓑をとる、笠を脱ぐ、
笹の葉の包帯をする顔、手足、
声にならない小声。

われらの暗鬱なものがたりがやってくる、
戸口を敲け、戸びらを襲え、声がする、
ゆらゆらする入れもの うつせみ、
藻が立ち上がる、詰めものにする、
緜(わた)、はらわた、蛻(ぬけがら)のなかみを探し尋ねる。

もののけが心の鬼なら、われらは 鬼の栖だ、
ゆらゆらする帳(とばり)にかげ一つ、
浮かぶことばは「泪のつぼみ」、佐竹が言う。

かげに見えているわれらの錺(かざ)り、
よそおい、足の鈴、きらきらする環(たまき)、
どこから射してくる夕陽の笄(こうがい)、
錺るわれらのからだは語るか、霊を。

「泪のつぼみ」を通る男を見ることがある、
ひとを行きわかれる男が佇む、
この辺りは鬼の栖、もう行くところがない、
男は鬼になる、もう行くところがないから。

黄色、黄色、たましいの色、
入れもののちいさなすきまにゆれる、
かがやく光を蒐めるつらい庭仕事、
男は手をやすめる、そのつらい庭仕事、
かいま見る嬪(ひめ)の正体 舞台の暗転、
笠のしたの女は蛇だ。

ゆらゆらする玉垂れを打つ だれか、
鱗をでられない女が舞台の上手(かみて)にいる、
「ト書き」によればここから笠が、
生き生きする舞の手をひとつ、
ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、
ななつ、やっつ、戸びらを襲う鬼の声、
笠はかたちを脱ぎ、鱗の包帯をとる。

嬪の秘める結婚の式、
結婚の座とその聖なる意味と、
からだに刻まれる結婚と、たましいの結婚。

どこからきたのか 笠、
ドアをくぐる ここに来る笠、
笠を脱ぐ旅人が暖をとる 色々、
みどり色の灰が色を脱ぐ横座、
杖を取り出す、笠のしたから、
昼は日のことごと、
夜は夜のことごと
かさが よこたわる、ここは最後の座。

おもかげは躬をはなれない、
鬼だと知ってどうなるものでもない、
どうしてはなれなければならないことがあろう?
やまざくらがさいて散る、こころを花のもとに、
捨てる、躬も心もとろける、そうだ、ここは鬼の栖、
鬼の栖にうつせみがのこる、見えない住みか、
「泪のつぼみ」はもう帰らぬ、
ものがたりはくずれる、がらがら、
このうつせみや ついの栖。

 

(鳥取の歌人、佐竹弥生にお会いしたことがある。『大切なものを収める家』(思潮社、一九九二)に「Mono-gatari」(ローマ字詩)および「霊語(ものがた)り」という追悼詩を二篇、私は書いた。今回、ローマ字詩のほうを漢字かな交じり表記に変えて、題は「霊語り」とする。前回の「文法擬」も追悼詩で、高校教育と『源氏物語』とに身心をささげていた北川真理を最期まで見送る。)

しもた屋之噺(197)

杉山洋一

東京はここ暫くよく晴れた気持ちのよい陽気が続いていて、オーケストラのリハーサルや打合せなど、着替えだけ携え自転車で走り回っておりましたが、目の前の灰色の空を眺めるにつけ、恐らく今日は雨具もリュックに入れた方がよさそうです。満員電車が苦手なので、多少の距離ならのんびり自転車で出かける方が余程気楽なのです。ただ、東京は坂が多いので、道すがら自転車通勤している人を見かけると思わず感嘆させられるのも確かです。

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5月某日 ミラノ自宅
久しぶりにローマの日本文化会館を訪れ、本條さんの拙作初演に立会う。短くてイタリア生活が滲むような小品とのリクエストで書き、ローマ初演だしラテン語の題名が良かろうかとludus perpetuusとしたが、演奏会後夕食を囲みながら、新館長の西林万寿夫さんが出抜けに、拙作がヒンデミットの「交響的変容」2楽章のスケルツォ「トゥーランドット」に似ていると仰るので愕く。恥ずかしながらヒンデミットのこの作品は知らなかったので、後で聴いてみて確かに内容も似ているが、何より吃驚したのはludus perpetuusと題名を決めるにあたって、無意識にヒンデミットのludus tonalisの語感を意識していたからだった。
 
5月某日 ミラノ自宅
本條さんと、悠治さんの「夕顔の家」を弾く。ピアノを人前で弾くのは最初で最後だろうが、人と一緒に弾くのは殊の外楽しい。本来は家人と本條さんで弾いてもらおうと思ったが、ちょうど家人が日本に帰っていて、知合いのピアニストに弾き方を説明する時間もなくて自分で弾いた。粒を揃えず、三味線と着かず離れず、少しゴツゴツとした手触りで弾いてみる。
楽譜の音は少ないようだが、実際に音にした途端から、一瞬にして濃密な時間が空間に充満するのに愕く。だから、このくらいの音の密度が丁度よいのだろう。
「夕顔」と、ヴァンクーヴァでやった拙作冒頭が思いがけなく似ていたと悠治さんに伝えると、これらは同じではなくて、「夕顔」は開放絃から演奏を始める伝統的なやり方に則った音型だという。
 
5月某日 ミラノ自宅
何故こんな忙しい最中に、汗だくで庭の芝生を刈るのかと自分でも呆れる。理由は恐らく二つあって、一つは現実的にこれ以上放っておくと、雑草が伸びすぎて芝刈り機で刈れなくなるなり、雑草に花がつくと種が放出され、息子のアレルギーにも良くないこと。もう一つは、やはり芝を刈る草の匂いが、一日机に向かうストレスを軽減してくれること。
とは言え、毎日必要な仕事に専心できるはずもなく、昨日は半日かけ、ボローニャから送られてきたクセナキスのKraanergのテープを、一つずつ検証する。前面、後面用に作られた、全く別のテープ2本に関する添付の使用説明書は皆無で、これらをどのように使用すべきか、バレエの稽古も始まっているから、早急に劇場に伝えてほしいと繰返し頼まれていて、逃げ回っていた。
スコアには演奏に必要なタイムコードが附記されていて、送られてきたテープの秒数とほぼ合致していたが、正確に言えば、全面と後面のテープの長さに少しずつ誤差があり、スコアとテープの間に、数秒の誤差が生じるところもあって、それらをどのように解決すべきか説明を書く。
そうした作業の中で見えてくるのは、思いがけなく人間臭い音楽の作り方であり、音の合わせ方だった。間違いなく合わせられるよう書いてあるのだけれど、縦の合わせ方はデジタル世代のそれではなく、ずっと柔軟でアナログな耳であって、延いては、彼が音楽を作る上で、何を基盤に置いていたかが如実に表れている。とにかく、どう足掻いても音が読めないところが何頁かあって、これはやはりパリの実娘に連絡を取って自筆譜を検証させてもらうしかない。
たかが半世紀の間に消失してゆく情報は数限りない。消失するかどうか、場合によっては本人は興味すらないかも知れないが、情報を必要としているのは本人ではなく、将来この楽譜を必要とする音楽家たちなのだ。
何故我々は、これほど血眼になって人類を永遠に生かそうと必死になるのだろう。DNAにかかる強迫観念が埋め込まれているに違いないし、恐らくまだ我々が一種類の単細胞生物だったころから、そのDNAこそが我々をここまで培ってきたに違いない。そのDNAに駆り立てられ、全てとは言わないが、文化は連綿と受継がれながら現在に至る。遠くから俯瞰すれば、我々も無心で行列を組んで食べ滓を巣に持ち帰る蟻のようではないか。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルが初台なので、毎日自転車で出かけている。茶沢通りから下北沢を抜け、井之頭通りを大山で曲がって甲州街道を少し走れば初台に着く。のんびり走っても20分ほどだから、行き帰り身体を多少でも動かせるのは気持ちがよい。
カニーノさんがちょうど東京にいらしていて、品川で夕食をご一緒する。二人とも鯛のソテーを頼み、彼は睡眠薬代わりだと笑いながらビールを2杯呷った。
50年前に初めて東京に来た頃は、どこも全て日本語しか書いていなかったから何もわからなかったが、今は見違えるように分かりやすくなり、一人でも充分出歩けるようになった。招聘元からは行方不明にならないかと心配されているけれどと笑った。
ちょうど2年前のピアノシティという音楽祭で、息子とカニーノさん、それからピアノシティのディレクターのリッチャルダで、ミラノ中央の普段は入れない小さな公園にピアノを持ち込み、屋外でクルタークのバッハ編曲を一緒に披露した。我々は地面に風呂敷を敷いて朝の木漏れ日の下、座って聴いた。
数日前に開催された今年のピアノシティで、息子は久しぶりに人前でピアノを弾いたが、また左手がおかしくなったらどうしようかという精神的葛藤と闘っていたようだ。だからここ暫く精神的にも不安定に見えたが、今回見事にジレンマを克服して、これからきっと精神的にも変化するに違いない。
そんな話をカニーノさんとしつつ、そういえばリッチャルダも先日ウンスクさんをイタリアに招いたばかりだと連絡を貰ったばかり、などと、あちらこちらの四方山話に花が咲く。ウンスクさんと一緒に写真を撮って、リッチャルダにも送ろうと思う。

5月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに再会したウンスクさんは、リハーサル中、候補曲の作曲者たちそれぞれに、それぞれの個性がより際立つよう、きめ細かくアドヴァイスをされていた。
リハーサルを聴いていたJさんが、地層を見ているようだと形容する作品があって、面白い表現だと思う。その時こちらも丁度地層や断層を遠くから眺めている感覚にとらわれていて、地層を俯瞰したその上に森が茂り、青空が広がるところまで見える気がしていたからだ。
オーケストラそれぞれの音というものは確実にあって、今回はその昔ドナトーニの個展を演奏したときの東フィルの音を何度となく思い出した。音が空間をドライブしていたり、オーケストラが書かれている音楽をドライブさせてくれる、そんな風に感じられるのは指揮をするにあたり、この上なく幸せなことだった。
作曲コンクールの作品演奏審査は一見単純な作業のようだが、実際は正反対だ。このオーケストラがいくら音楽をドライブさせてくれても、別のオーケストラならそうならないかも知れない。その時、作品は何を基準に判断されるべきか。審査はともかく、作曲者一人一人から、演奏に心から喜びを表現してもらえること、演奏者としてこれ以上の喜びはない。
 ヴィオラに須田さんがいらしたので、休憩中に互いの近況報告。彼女を含めオーケストラの皆さんが、本当に深く作品を表現してくださり感激する。フルートの斎藤さんとは息子のフルート話。何でも今の日本では、中学の吹奏楽部で既に「春の祭典」の抜粋など演奏してしまうとか。どうやって演奏できるのかと尋ねると、気合で出来てしまうらしい。

5月某日 三軒茶屋自宅
東京にいると、近所には普通下駄を履いて出かける。当初父が履いていたものを、もう大分前から使わせて貰っている。子供のころ、確かに父が下駄を履いて歩いていた記憶はあるが、彼が何時から履かなくなったのか判然としない。ともかく靴下を履く必要もないし、からから鳴る音が何しろ耳に心地よい。からから云うから、からげるのかしらん、とぼんやり考えていて、何だか変だ、あれあれ、からげるのは下駄ではなくて尻じゃないか、と独りで笑い出した。
先日悠治さんとお会いしたときのこと。終戦後すぐ省線電車で渋谷に降り立ち、目の前一面焼け野原でがらんとした風景を前に、これから全てを作り直してゆく再生の喜びが子供心に湧いてきた話を聞いた。
イタリア語の小瀬村先生曰く、最近東京の街はどこもすっかり変わってしまって、でかけるのが厄介だそうだ。特に渋谷の駅は分からないと仰られて、これは全く同感である。終戦後すぐの渋谷なんて一面何もない焼け野原で、駅前に2軒ほどお汁粉屋があっただけなのよ。甘味処に気の付くところが女性らしい。立て続けに二人からお話を伺い、終戦直後の渋谷は一面の焼け野原で、どうやら二軒お汁粉屋があったらしいことがわかった。
その時悠治さんがマリピエロの楽譜を携えていらして、1920年以前のものが殆どだった。マリピエロと言えば、30年代以降のリコルディで出版された楽譜を見ることが殆どだったから、別の出版社のマリピエロの楽譜そのものも新鮮だった。悠治さんとマリピエロが結びつかないと言うと、これらは彼がまだ幼かったころ、悠治さんのお父上が刊行した雑誌で紹介されたもので、誰かさんの歌垣と一緒で、子供の頃の思い出だと笑った。
演奏方法について確認するためオペレーション・オイラーの楽譜を二人で眺めながら、この速度指定はさすがに早過ぎるでしょう、とこぼすと、若いころは皆早いんですよ、と笑われてしまう。今であれば加減してもう少しゆっくり吹いてもよいのだろう。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラと仕事をしていて気づいたのは、自分が何かを望まない限り、そこには何も生まれないことだ。それには様々な理由があるのだけれど、こうしてみたい、こんな音にしてみたい、という希望がなければ、オーケストラは書かれた音を、ほぼ機械的、ルーティンとして演奏せざるを得ない。
先日、アルゴリズムを使って書かれた複雑な楽譜を演奏したが、最初の打合せで、作曲者はこの曲に息を吹き込んでやってほしい、とこちらの目をまじまじと覗き込みながら話した。
どこまで聴こえるようになるか分からない、と初めから断っておいたが、彼がこれらの音を瑞々しく聴きたいと願っていることは、よくわかった。
リハーサルは、複雑なリズムを虱潰しに合わせてゆくものではなく、殆どの時間を、指揮する人間が欲すべきものを探す旅に等しかった。最初は、各々の微細な形態、その輪郭をどう引き出すかを整理し、失敗し、やり直し、全体をオーケストラと共につかみ、互いに聴き合った。
リハーサル全日程が終わるあたりで、これら全ての音に鮮やかな生命を吹き込んでみてほしいとお願いし、当日のドレスリハーサルの終わりになって漸く、音を押さえつけていたのかもしれないことに気が付いて、空間に存分に浮かばせてやってほしいとお願いした。それまでのリハーサル時間は、指揮者が作品の本質に気づくためにどうしても必要な時間だった。演奏会のあと人から聞いたところでは、「ああいう曲でも音のイメージを持つだけであれだけ変わるんだなあ」、とオーケストラの団員さん二人がトイレで用を足しながら話していらしたそうだ。
何かを望むことで、そこに小さなエネルギーが生まれる。極端に謂えば、何かを望まない選択も、望まないという希望を押通す上でエネルギーを消費しているに違いない。
高校生の終わりころ、権代さんと表参道の喫茶店で話していて、ヨーロッパ帰りの権代さんがとても輝いてみえた。杉山も外に出た方がいいとその時に言われて、その喫茶店もちょっと欧州風の暗めの摺りガラスに煙草で煤けた煉瓦の土壁が周りを這うような造りで、洒落ていた。
あれから、何となく積み煉瓦の土壁がある家に一度は住んでみたいと思っていたが、そんな機会が巡ってくると考えたこともなかった。
子供のころ育った東林間の家には大きな桜の木があって、二階の窓からその葉に触れたものだが結局引っ越すことになった。だからだろうか、庭の大きな木に妙な憧れを抱いていた。
幼いころから鉄道は大好きで、それも当時既になくなりかけていた、鉱山鉄道や森林鉄道のトロッコであったり、今はもう殆どなくなってしまった各地のローカル線に凝っていたから、草生した廃線跡を歩いたりするのは大好きだった。
今住んでいるミラノの家には珍しく庭があって、朽ちかけた煉瓦の土壁が隣の国鉄の線路の境に伸びる。土壁のすぐ向こうには、殆ど使われず下草の繁茂する錆びた引込線があって、一年のうち3、4回、夏の臨時行楽列車の入替えに使われたりする。庭には大きな木が一本生えていて、今や3階か4階ほどの高さまで伸びてしまった。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃の人見知りが未だに残っているのか、相変わらず人に会うのも苦手で、人の顔を覚えるのも苦手なものだから、友人の演奏会を覗きにゆき、誰にも会わぬよう一番後ろに座っているつもりが、杉山さんですね、あの時はお世話になってと声をかけられ、しどろもどろになる。所詮逃げているからいけない。
先週の演奏会後、何でも杉山さん、飛行機で必死に譜読みしていたんですって、風の便りで聴きましたよ、と言われる。最近の風の便りは、随分具体的な内容まで記載できるものだと感心するが仕方がない。デジタル時代の風便り。
どうやってこういう楽譜を勉強されるのですかと妙齢に尋ねられ、暫し思案に暮れる。傍らでRさんに杉山さんは譜読みが早いからなどと揶揄われるが、天地がひっくり返ってもそれはない。ソルフェージュ能力が高い、と言われる人は、例えば藤井一興さんのような耳を持った方であって、ソルフェージュというより、ソルフェージュの直感能力そのものが抜きん出ていらっしゃる。
思案に暮れた後、作品が少しでも解かるようになるといいと心の中で祈りつつ、亀のような歩みではありますが、仕方がないので音を一つずつ読んでゆきますと答えた。あまり的を得た答えではなかったようで、可哀想に妙齢はキョトンとしていた。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ギリシャ音楽を研究している友人が、クセナキスはギリシャ人ではない、亡命して長くギリシャには戻れなかったし、現在ギリシャに基づいた音楽ではない、と力説するのを聞く。意外ではあったが、案外的を得ているかも知れない。クセナキスが古代ギリシャを主題に据えることが多かったのは、確かに少し離れた視点で、祖国を眺めていたからかも知れない。
様々な役職を歴任されて、そろそろ悠々自適の生活に入ろうと言うRさんは、古典ギリシャ語講読会に通っていて、今はホメロスの「イリアス」を読んでおられる。ラテン語とギリシャ語は西洋文化の礎だから、どうしても学びたかったのだと言う。フランス語に慣れているからとラテン語は一先ず置いておき、古典ギリシャ語を始めたそうだ。
そうしてイリアスで使われている英雄詩体、ヘクサメトロンを意識しながら、イリアスを毎週持ち回りで音読していると、ベートーヴェン7番交響曲2楽章のリズムが聴こえてくると言う。Rさんは現在本を執筆中だそうだから、この話ももっと詳しく聞けるのを心待ちにしている。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ヴィオラスペースに、「子供の情景」を聴きにゆく。相変わらず見事な演奏を披露して下さる今井さんやファイトに再会出来たのも嬉しいし、初めてお目にかかるシュリヒティヒさんも楽屋を訪れるととても嬉しそうだった。そんな中、ニアンを初め4人の中国人ヴィオラ奏者が参加できなくなったのは、主催者のスピーチを聴く限り、政治的な理由だったようだ。俄かには信じがたいが、ヴィオラ・スペースにそれだけの影響力があると判断されたのだろうか。ニアンの代りに演奏してくださった佐々木さんが、とても素晴らしい演奏をしてくださったから、もちろん作曲者としては申し分なかったけれど、日中関係がそこまで悪くなっているとは知らず、少なからず衝撃を受ける。
演奏会後、Mさんに昨年急逝された娘さん行きつけの下北沢のバーLJへ連れて行っていただく。思いがけず、茶沢通りの毎日自転車で通り過ぎるところにひっそりとあって、落着いた雰囲気のなか、LP盤のジャズが静かに流れる。娘さんはパブリックシアターで公演があると、決まってこのバーに寄っていらしたそうだ。娘さんの入れたアイリッシュ・ウイスキーをストレートで頂き、しみじみと味わう。ちょうど息子を7月ダブリンに一人で行かせる話などをしていたから、アイリッシュ・ウィスキーと聞いて、嬉しかった。今でも彼女の友人たちが時折ここに寄っては、このウィスキーを呷りながら故人を偲んでゆく。そうして、さまざまな人のさまざまな思いが、深い琥珀色の瓶に積もってゆく。
Rさんと3人で会うつもりだったのが、Rさんは2月に膠原病がわかり、今日はご挨拶しかできなかった。1月にお目にかかったときはあれ程お元気だったのに、言葉もない。
「思い立ったが吉日」と言うけれど、こうなると、単に時間の絶対的不可逆性を諧謔的に諭されているようにしか聴こえない。
共通の友人で奥様がパーキンソンで闘病中のHさんの話になる。ある俳優がテレビで妻が先に逝ってくれて本当に良かったと話していて、つくづくその通りだと思ったという。本当に素敵な人だったのに、とMさんが寂しそうに呟いたとき、カウンターにいたバーテンダーがこちらにやって来て、窓際の小さな観葉植物を手に取った。
「これを娘さんがプレゼントして下さって、もう5年にもなるでしょうか。ずっと元気で、ほら見てください。見事でしょう。こうやって毎日窓際に置いて、陽に当てているのです」。

(5月31日 三軒茶屋にて)

沈黙する世界

笠井瑞丈

誰もいない街をクルマで走る
かつてはヒトが住んでいた街

停止したまま
時だけながれ
色だけがとられ

舗装されてない
凸凹の道を
すれ違う工事車両

綺麗に美しく
敷地一面に
黒いフクロが
置かれている

そこにも
ひとつの生活があった
ひとつの時間があった

生まれるもの
消えてくもの

サクで囲われている道路
雑草に囲われている看板

誰もいないレストラン
誰もいないコンビニ
誰もいないホテル
誰もいない道路
誰もいない街
誰もいない
誰も

空だけは青く
どこまでも
続いてる

そんな世界
残された
地球の生活

もたもたあたふた

大野晋

タイトルに擬音を置いてみたけれど、中味をどうするか決めていない。いくつかあるお話をつないでどうなるかはお楽しみということで。

近所のショッピングセンターにある大きな本屋が閉店してしまった。かの、計画配本の箱や返品の箱、新刊が平積みの上に無造作に放置されていた書店だが、新刊を圧縮して新古本を置いたり、文房具売り場を作ったりしていたがどうもうまくいかなかったらしく、閉店となってしまった。小規模書店の廃業やロードサイドのチェーン店の大量閉店などが続いていたがいよいよ集客力があるはずのショッピングセンター内の書店の閉店となったことでいよいよ出版不況も新しい局面になったような気がする。

円本の時代にも出版不況と言われていたらしいけれど、最近のそれは何やら趣向が違うように感じる。まず、小規模書店の天敵と言われたコンビニエンスストアでも雑誌が売れなくなっている。雑誌が売れないと、例えばコミックのような連載をまとめて単行本を出版するようなビジネスが上手くいかなくなる。雑誌の立ち読みは雑誌の売り上げの邪魔とされていたが、雑誌で読まれないとそこに連載されている作品が知られることがなくなり、単行本が売れなくなる。今では、コミックの単行本の帯に「なになに氏絶賛」のような文字が入ることが珍しくなくなった。単行本の立ち読み防止のためにラップされているから中味を見せるわけに行かずに苦肉の策が有名人の絶賛アピールということなのだろう。ただし、どの程度の影響があるのかは疑問だと思っている。帯のコメントの反対が中味の一部見せという手法で、書店の店頭に薄い冊子をぶる下げてサンプルを読ませている。ただし、冒頭の1話ほどしか見られないこの冊子で購入を決めることはあまりないように思う。これを大掛かりにやるのが最近のアニメ化で、アニメの円盤も不況で売れないらしいので、出版のプロモーションらしき番組も最近は作られているように思う。

この読ませる手法のバリエーションとして、最近はスマホやタブレットのアプリで読ませるという新手が出てきているが、使ってみると意外と良手のように感じた。ただし、無償公開されている作品にはレベルとして低いものも多くあり、玉石混交状態なのだから如何にヒット作候補にアクセスさせるかというのが課題かもしれない。今のところ、はずれ率が雑誌よりも格段に高いのが気になる。

実際の書店がなくなると、決め撃ちで購入する本なら問題ないけれど、新刊の中から新しい本を探したり、既刊の本の中から気になる本を探し出すようなことができなくなってしまう。まあ、後者は提案のできる書店員が少なくなってあまりアテになることはなくなったけれど、新刊を手に取れないのは困ってしまう。とは言え、やはり求められているのは、提案型の棚なんだろう。

本が売れないと言われて久しいが、いよいよ書店がなくなって、この先どうなるか不安しかない最近である。

空梅雨

仲宗根浩

奥さん連休で子供と実家へ。空港まで送っていく。初めて三月に開通した西海岸道路というのを走る。空港へ向かうと右側は海が続き、左側は返還を待つキャンプキンザー、補給基地。四日間のひとりの生活中、休みは二日間。ひとり分の家事、天気が良い日車洗ったりしたらすぐ終わる。

去年五月にうちから歩いて二百歩ちょっとのところに越してきた市立図書館に三月に初めて行き、ちょくちょく行くようになる。前のとこよりかなり広くなり本棚もスカスカになっている。以前置いてあった本が無いので図書館内のパソコンで検索すると書架とある。お願いすると係りのひとが持って来てくれるようになっている。第三セクターで商業施設として失敗した建物の一階すべてが広々とした図書館になった。以前は墓場だった場所。うちの墓は以前ここにあった。

連休が終わると梅雨に入ったが全然雨が降らず、ダムの貯水率も半分あるかどうか。だんだんと暑くなって来て、夜帰ると冷房が稼動しているときが多くなり月の半ば過ぎには毎日稼動になるが、通勤時の車はまだ冷房なしで燃費のことも考え我慢する。

二年ぶりにお箏の演奏会の裏方をする。屏風や山台、毛氈はやってくれる方がいたのでリハ、本番は楽器の転換に専念する。東京から手伝いに来てくれた芸大の大学院生の男の子がよく動いてくれたので楽をさせてもらった。話をしたら東京でも演奏会の裏方を私もよく知っているお箏屋さんのところでやっているとの事。

演奏会の翌日、二年ぶりの日曜休みになったので家族でリゾートホテルでランチに行き、そのあと久しぶりに近くの残波岬に行く。灯台は補修か何かか、イントレと幕で覆われていた。岬のほうに行くと以前と変わらず磯では釣り人が数人。沖を見ると上には雨雲、海面は雨が降っているのがわかる。暫くすると海面を打つ雨がだんだんと近づいて来てパーラーのビーチパラソルまで急ぎ、雨宿り。観光客はきれいになったトイレで雨宿り。十分くらいで豪雨は雨雲とともに過ぎていったあとは日差しが戻る。帰り、ちょっと車を走らせると雨が降ったあとは全然ない。天気予報は六月からやっと雨予報。

雨とそらまめ

璃葉

白い雲に覆われた空、その色に引き立つように桜の木の葉がいつもよりも鮮やかに、グロテスクに呼吸している。雨の時期がすぐそこまでやってきているのだろうか。

雲に閉ざされた世界と湿った空気のお陰で身体は何時よりも重たく、やる気が出ない。外から聞こえる草刈機の唸るような低い音がさらに気を滅入らせた。布団の中の居心地が堪らなく良くて、一日中包まっていたいところだったが、なんとか起き上がる。

読み直そうと思いながらしばらくテーブルの隅に放りっぱなしだった「初版 グリム童話集」のページをめくり、「青髭」を読んでどんどん気持ちが落っこちていく。なぜ、こんなにも気の沈むようなものを自ら吸い寄せているのだろうか、と不思議になる今日の始まりである。こんな日は家の中でいつまでも躙るように過ごす手もあるが、手っ取り早く気持ちを切り替えるには用事がなくても出かけるのがいい。緑だらけの鬱蒼とした遊歩道を抜けて、商店街まで歩く。途中、ぬか漬け屋の女将さんと立ち話をして、ふらふら八百屋へ向かうと、一番に目についたのは軒先のカゴに山ほど積まれたそら豆だった。見た途端、自分がこれをとてつもなく欲していたことに気付く。そういえば、グリム童話集にも「旅に出たわらと炭とそら豆」なんて話があった。そら豆になぜ黒い筋があるのかというと、わらと炭と旅をしているそら豆が道中ではじけてしまい、通りがかりのひとりの仕立て屋が黒糸で縫い合わせたからなのだそうだ。

夕方、網戸の外から小粒の雨の降る音がかすかに聞こえる。湿った風が部屋を通り抜けていくなかで、茹でたそら豆、きゅうりのぬか漬けをつつきながら、麦酒を飲む。黒い糸ならぬ緑の糸で、うまくはまっていない身体と心を縫い合わせられたらな、と想像してみる。

アジアのごはん(92)シャン・カウスエ ビルマ・シャン州の米麺

森下ヒバリ

「あれ‥ビルマのシャン・カウスエ作っちゃった!」
昼ごはんに今まで試したことのない米粉の乾麺をゆでてスープ麺を作った。一口麺を啜ると、いきなりビルマ・シャン州の味がするではないか。味付けはいつも通りにさっぱり豚骨スープと魚醤のナムプラー。カボ酢コ少々。うちの汁麺の味付けはもともとこのアジア風なのだが、いつも通りに作ったのに、いきなりビルマ・シャン州の麺料理、シャン・カウスエそのものに出来上がったのには驚いた。どうやら、初めて使ってみた米粉麺が、この味を引き出したようである。

使った麺のメーカーは新潟の自然芋そば(雑穀めん工房)。ここのあわ麺ときび麺をうちでは愛用している。どちらも茹で加減で、固めならスパゲティ、やわらかめで焼きそば、冷やし中華に使えて、小麦を使わない国内の乾麺ではなかなかのおいしさである。添加物もないので、安心して食べられる。

ここが最近出した米粉の「もちっとつるりお米の麺」という乾麺を試したところ、いきなりビルマの風が吹いてきた、というわけである。「もちっとつるり」とうたわれているので、冷やしたら、ざるうどんみたいな食感になるかもと期待したのだが、そういう食感は全然なかった。いわゆる米粉の麺のテイストで、もちっとしたところと、つるり、(つるり?はあんまりないな‥するり?)とした絶妙のバランスがビルマのシャン族のちょっとだけもちっとした米麺のテイストとそっくりなのだった。

米粉の乾麺はいろいろ試しているが、みな似ているようで微妙に違い、シャン・カウスエ! と感じたのはこれが初めてである。ざるうどんにはできないけれど、これはこれでいいじゃないか。

相方は無類の麺好きなのだが、グルテン・アレルギーである。小麦以外の麺をいろいろ試してみている。蕎麦は、ヒバリが強力アレルギーなので、却下。うちの中にそばがあるだけで鳥肌が立つ。最近、グルテンフリーのブームもあってか、欧米に比べて出遅れていた日本のメーカーもいろいろグルテンフリーの麺やマカロニなどを発売し始めた。そして、ここ1~2年で味や舌触りがぐんぐんよくなってきて、たいへん喜ばしい。

お米が主食の国なのに、どういうわけか米粉の麺はこれまで、ほとんど日本では作られてこなかった。米粉はお菓子の素材として伝統的にあったのに、どうしてお団子や白玉、ういろうなどのお菓子の域を出なかったのだろう。麺といえば小麦麺よりも、まずは米麺であるアジアの国々を旅していると、この点がどうしても謎なのである。

シャン・カウスエというのは、ビルマのシャン族の麺料理だ。シャン族というのはビルマの北東部に広がるシャン州の主な住民で、大きく言えばタイ族である。タイ族は、7世紀~12世紀にかけてそれまで住んでいた揚子江南部から、漢族に追われて西南方向に民族大移動を行ってきた。ビルマ北東部には11世紀ごろに定着したと思われる。いくつかのタイ族系国家が興亡したが、最終的にはビルマ族に国は滅ぼされて、ビルマという国の中のシャン州として現在に至る。

ちなみに現在のタイという国はこの揚子江域からの大移動の流れからわりと最近にチャオプラヤ流域に南下して、先住民族を取り込み、なおかつ中国の福建・潮州からの移民と混血してできた中部タイ人を中心とする国である。タイ族といえばタイ族だが、民族的には色々混じっているし、文化も中国南部の影響が大きい。ビルマのシャン族は、タイ国のタイ人よりも、タイ族のルーツ的なものを色濃く残しているのだ。

シャン・カウスエというシャン族の麺料理は、主な調理法として、米粉の中細麺を茹でて、たれと和えた和え麺と、スープ麺の二種があり、さらに麺の種類としてちょっとだけもっちり麺と強力もちもち麺の二種がある。麺の幅についてはあまり重要ではなさそうであるが、丸い中細麺、平たい中細麺がポピュラーである。

ヤンゴンでいつも食べていたシャン・カウスエはちょっとだけもっちり麺であるが、台湾ビーフンのようにパサッとした食感ではなく、タイのセンレックなどよりも、もう少しもちっとしている。ビルマ族はこちらが好きなようで、ヤンゴンでシャン・カウスエというと、だいたいちょっとだけもっちり麺である。もちろんシャン・カウスエの専門店ではいろいろな麺の種類が選べる。

強力もちもち麺を食べたのはシャン州のニャウンシュエだった。ホテルの近くのごくふつうのラペイエザインと呼ばれるお茶屋さんで、麺類などの軽食も食べられる店だ。

「カウスエはこれしかできないからね」と店のおばちゃんがまだ茹でていない白い麺を見せてくれる。何を言ってるんだろうと思ったが、出てきたものは汁けの少ない和え麺で、麺の上に茹でたからし菜と荒潰しピーナツが乗っているものだった。別椀でスープ、高菜の漬物がつく。テーブルに置いてある揚げ物は別料金だ。和え麺の汁には、シャンの納豆の粉末が仕込まれていて味わい深い。

「いただきま~す。んん? これ、めちゃくちゃもちもちだね!」「歯が丈夫でない人は食べられているのかな?」「あ、はい何とか飲み込んでます」同行した友人の一人はちょっと四苦八苦しているようであった。

いやはや、ヤンゴンのアウンミンガラー・シャンヌードルで、かなりもっちりな麺を食べたことはあったが、こちらはハンパないもちもち度である。これは啜れない。もぐもぐと噛みしめて食べる。初めて体験するレベルのもちもち麺であった。

シャン族の一番の好みは、たれをかける和え麺で、強力もちもち麺のこのタイプらしい。おばちゃんがこれしかないよ、と言ったのはシャン州の住民以外が好む、ちょっとだけもっちり麺の選択肢はない、ということだったようである。

シャン・カウスエの米麺は、いわゆるインディカ米ではなく、日本の米に近いちょっと粘りのあるシャン米で作る。なので、インディカ米で作るタイなどの米麺よりも基本的にもっちりしている。さらに強力もちもち麺の方はどうやらモチ米から作るらしい。モチ米粉で麺を作るのはかなり大変そうだが、これは次回訪ねた時にもっと調べてみよう。

ちょっとだけもっちり麺で汁ありのシャン・カウスエはどちらかというと、中国の雲南省の米線や、ラオス北部のカオソイ(これも納豆ペーストが味のポイント)と近い。どちらもタイ族系の近い民族の麺なので、似ているのもおかしくない。けれども、かつては同じルーツだったものも、地域でそれぞれ独自に発展して今の形に収まっている。麺のもちもち度はどこも微妙に違う。シャン・カウスエの強力もちもち麺は、ビルマのシャン州で独自に発展した米麺なのだ。

またシャン州のローカルな食堂で、シャン・カウスエを噛みしめつつ啜りたいな。ちょっとだけもっちり麺のカウスエは「もちっとつるりお米の麺」さえあれば、わが家で食べられるので、もちろん強力もちもち麺を。

儀礼と見世物

冨岡三智

少し前の出来事だが、大相撲巡業中に土俵上で倒れた市長の救命処置をした女性に対し、行司が土俵を降りるようにアナウンスするという事件があり、大相撲の女人禁制は伝統か? 神事か? と取り沙汰された。この時にツィッタ―で知ったのが2008年の論文「相撲における『女人禁制』の伝統について」(吉崎祥司、稲野一彦)で、女人禁制は相撲界の地位向上のため明治以降に虚構されたと結論づけている。その論文によれば、日本書紀に最古の女相撲の記録があり、室町時代の勧進相撲には女人も参加しており、江戸時代には女相撲の興行があったが、文明開化後も存続するため、相撲は単なる見世物興行ではなく、武士道であり朝廷の相撲節の故実を伝えるものであるという理由付けが必要となったというのだ。

見世物ではないと主張するために儀礼性が強調されるようになったという経緯には私も納得するのだが、逆に、見世物だからこそ相撲協会は儀礼性や伝統を強調したがるのではないだろうか。なぜなら、単に相撲はレスリングの一種だと紹介するより、古代からの伝統や女人禁制の神事だと紹介する方が人々の関心を惹き、集客がアップするだろうからである。

そう私が思うのは、私自身がインドネシアでスラカルタ宮廷様式のスリンピとブドヨの自主公演をそれぞれ実施した経験による。スリンピもブドヨもジャワ宮廷女性舞踊の演目で、私はどちらもほとんど上演されない元の長いバージョンで上演した。スリンピ公演をしたのは2006年11月で、スラカルタの国立芸術高校の定期ヌムリクラン公演(毎月26日に行う公演という意味)に組み入れてもらった。(詳しくは水牛2007年4月号、5月号の記事を参照)。一方、ブドヨ公演をしたのは2007年6月で、これはスラカルタにある州立芸術センターでの単独公演として行った(ただし芸術センターと共催)。ブドヨ公演にはチラシやポスターをデザイナーに作ってもらって印刷したが、スリンピ公演の時は自分でパソコンで作ってコピーしたちらしのみ。しかし、この3年あまり続く定期公演では普段はちらしさえ作っていない。それでも伝統舞踊が見られる場として定着し、観客もついている。私はどちらのケースでも事前にスラカルタのマスコミにプレスリリースをしてPRに努めた。世間の反応は同じようなものだろうと思っていた。

その結果だが、ブドヨ公演の時はプレスリリースを見た芸術制作団体が記者会見の場を設けてくれた。コンパス紙は公演練習の取材に来てくれたし、地元のFMにラジオ出演もした。最終的に計19回、新聞や全国誌に公演情報から公演評まで掲載され、公演後に全国放送のテレビ番組にも呼ばれた。ところが、その半年前のスリンピ公演の時には、メディアには全く取り上げてもらえなかった。同じようにプレスリリースしたのに…。しかし、ブドヨ公演の後で知り合った記者たちがブドヨは儀礼舞踊だから…と言うのを聞いて、私も悟ったのだ。

ブドヨとスリンピは並べて言及されることが多く、振付もあまり違わない。ブドヨがスリンピに、スリンピがブドヨに改訂されることも少なからずある。スリンピであれブドヨであれ、私にとっては現在ほとんど上演されない長いバージョンを復興することに意義があるのだが、記者たちにとっては違った。ブドヨは報道すべき価値のある儀礼舞踊だが、スリンピはそうではなかったのである。確かに、歴史的にはブドヨの方が古く、スリンピの方がより新しい形式である。特に、スラカルタ王家には即位記念日にのみ上演されるブドヨの演目があって、ジャワの王家の祖が南海の海で女神とあって結婚し、王権を得たという神話を描いている(ただし同じブドヨでも他の作品にはそのような意味ははない)。だから、ブドヨ=儀礼という観念はジャワ人には――特に文化記者たちには――馴染みのあるものなのだ。スリンピも宮廷儀礼として説明されることが多いはずだが、ブドヨの方がより定着していたということだろう。このスリンピとブドヨの公演のメディア掲載数の差は、「儀礼」という語が持つ集客力を表しているように見える。

こんな経験をしているので、儀礼というレッテルは、人々の見たいという欲望をかきたて、見世物としての価値を高めるものだと思わずにいられない。それは相撲協会だけでなく、他の伝統儀礼にも多かれ少なかれ言えることでもある。

水曜日の創作クラス(3)

植松眞人

 夏みかんほどの大きさに作られた紙粘土のみかんは、見つめれば見つめるほど素人くさい作品だった。小学校、中学校の美術の時間以来、絵など描いたことがない私が、見よう見まねで作ったとしても、もう少しマシに作れるかもしれない。まじまじと見つめると、本気でそう思えるほどに粗雑な作りだった。
 ところどころに色が塗れていないところがあったり、形がいびつになっていたり、紙粘土が毛羽立って見えるところもあった。正直、私以外の五人の参加者がなにを食い入るように見つめているのか、まったくわからなかった。しかし、一番わからないのは作った本人の気持ちだ。この程度の作り物をみんなにじっと見られて恥ずかしくないのだろうか。
 私は紙粘土のみかんを見るふりをしながら、それを作った七十代らしき男性を盗み見た。男はときどき、作品を見守っている参加者たちの表情に視線を送りながら、自分でもみかんをじっと見つめ続けていた。
 しばらく黙っていた作者以外の四人だが、高橋がふと緊張を緩めて、ゆっくりを息を吐いたところで、みんながもう一度席に座り直したり、作品から視線を外したりした。空気が緩み、各々が今度は雑談を交わすように、目の前の作品について軽く言葉を交わし合った。
「大きなみかんという発想が面白いわ」
「そうそう。大きいとか小さいとかって、やっぱりかわいく見えるし」
「張りぼてっぽい感じもいいのかもしれないなあ」
「それは言えるかも」
「色は軽いけれど、そこがまた味と言えば味ですしね」
 そんな会話がしばらく続いた後、高橋が軽く手を二度叩いた。その手を叩く音を合図に、みんなが口を閉じて、再び目の前の作品に集中した。しかし、少し様子が変わった。大きなみかんに視線は送っているが、先ほどまでの何かを見て取ってやろう、という雰囲気ではなかった。それはなんというか型だった。型として、作品を囲んでいる。そして、何かを待っているという感じだった。
 やがて、作者も含めた全員が待っていたものがわかった。高橋だった。再び作品に視線を送り、みんなが型を作って数分たった頃だろうか。高橋がさっきまでよりも少し大きな声で話した。
「作りが甘いと思います」
 すると、型を作っていた高橋以外の参加者が一斉にうなずいた。大きな機械の一部が動いたような感じだった。
「なるほど、作りが甘い、か。だから、全体にぼんやりとして見えるのね」
「悪くはないけれど、もう少し完成度を上げないと駄目だ、ということか」
 高橋以外の他の参加者がそんなことを言い始める。最初から、言うことが決まっていたかのような発言だった。
「ただ、その甘さがみかんへの親しみを高めていると思います」
 高橋がそう続ける。
 すると、再び参加者が一斉にうなずく。
「親しみ……。そうね。親しみがあるわね」
「確かに、完璧に作り上げてしまうと、冷たい感じになるかもしれない」
 参加者たちは、高橋の発言を吟味することはなく、高橋の発言を認め、何度もうなずく。私は改めて、張りぼてのみかんをじっと見つめる。
 しばらくすると、高橋はこれが締めくくりだ、というような雰囲気で、こう言った。
「水曜日のクラスとしては合格です」
 高橋がそう言うと、全員が安堵のため息を吐いて拍手をした。みんなで集まり、みんなで意見を交わし合っているように見えて、この場は高橋が仕切っている。それがいつものことなのか、今日に限ったことなのかはわからない。おそらく、いつものことなのだろうと私は思った。参加者全員が、高橋のひと言で拍手をしている。

 帰り道。出席者たちと雑談している高橋を置いて、私は先に公民館を後にした。合格だという声を聞いて、いまにも泣き出さんばかりに喜んでいる作者である男性の表情が思い出された。私はトイレに行くふりをして部屋を出ると、そのまま足早に公民館を後にしたのだった。しかし、公民館を出て五分ほどで高橋に追いつかれた。隣に並んだのが高橋だとわかった途端に、私は歩みを緩めた。
「いかがでしたか?」
 高橋はしばらく並んで歩き、息を整えてから声をかけてきた。どう答えていいのかわからずに、曖昧な笑みを浮かべている私に高橋は怪訝な顔をする。
「あのみかんも素晴らしかったでしょう?毎回誰かが何かを作ってきているんです。時には二つ、三つと作品が並ぶことだってあるんですよ」
 高橋は嬉しそうに話す。
「たいした作品じゃないかもしれない。でも、ほら、みんなに褒められることで、お年寄りは生きる勇気を手に入れられるし、若い人も自信を持つじゃないですか」
 高橋は話しながら徐々に声が大きくなっている。
「来週は、きっとあなたに話しかけていた女性がいたでしょう。あの人がドライフラワーの作品を持ってくると思いますよ」
「今日の作品の作者は、あれでもずいぶん良くなったんですよ。それを知っているから、みんなも心から褒めることができるんですよ」
「最初は、人の作品を見ているだけでもいいんです。作ろう、という気持ちになったら、何か作ればいいじゃないですか。絵でもいいし、今日みたいな立体物でもいいし、ほんと、小さなイラストでも粘土細工でもいいんですよ」
 高橋の終わらない話を聞きながら、私はこの町へ引っ越してきてから今までの半年を考えていた。そして、この町へ越してくる前の数年間を考えていた。
 私はどうしてもうまく泳げない組織を抜けて、まったく新しい環境で、妻や子と気持ちよく生きたかっただけなのだ。時間通りに起き、時間通りに会社に行き、働き、考え、笑い、時には泣き、怒り、それでも、愛する家族と町で生きていければいいと思い、ここに来たのだった。
 妻の戸惑いを押しのけてまで、地域のボランティアに参加したのも、この町を早く自分の町にしたかったからだ。
 高橋の声は、そんな私の描いた未来に、ひとつひとつ奇妙な色の絵の具を塗りたくって台無しにしているかのようだ。
「次の水曜日は、いつも一緒に地域の清掃をしている方も来る予定なんですよ」
 その言葉を聞いたときに、私はふと思い当たった。地域のボランティアに参加するまでは良かったのかもしれない、と。私の失敗はそんなボランティアの人たちの中でいちばん人当たりが良さそうで、いろんな人と仲良くなるきっかけになってくれそうな高橋を選んでしまったことなのではないかと思ったのだった。
 そうだ。自然にこうなったのではない。私が高橋を選んでしまったのだ。ほんの少し楽をしようとして罰が当たったのだ。
 私はすべてを賭けてこの町に越してきたはずなのに、肝心なところで楽をしようとしてしまった。それが失敗だったのだ。
 次の水曜日あたり、私はこの町を出るための動きを始めているだろう。私ははっきりとそんな自分をイメージしていた。今夜のうちに妻に話し、妻がどんなに困惑しようと、この町を出るということを納得させなければならない。仕事のことなんてなんとでもなる。とにかく、この町を出て新しい町へと向かわなければ。私は同期の高鳴りを感じながら、少しずつ歩みを速めて、高橋との距離を開けた。
 そして、次の町では決して楽などせず、じっくりと町の人たちと向き合って、ひとつひとつ事柄をクリアしながら生きていくのだ。私はそんなことを考えながら歩いた。高橋との距離が少しずつ離れていく。最初のうち、懸命に付いてこようとしていた高橋の足音だが、やがて諦めたのだろう、足音が離れ始めた。
 明日から、私は次の町を探すのだろう。私の部屋にある大判の地図帳を広げて、次の町にあたりをつけよう。そして、必要なら、いろんな人に話を聞いてみよう。高橋とこの町を出るまで鉢合わせしないように用心しながら。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(34)満月の夜の友

西大立目祥子

親しい友人が亡くなった。闘病中だったので、そう遠くないうちに別れの日がやってくることは覚悟していた。でも、最後はあまりに唐突で、メールで3日後に会う約束をした1時間後に容態が急変して病院に運ばれ、翌日帰らぬ人になってしまった。

ご遺族から弔辞をたのまれたこともあって、彼との30年のつきあいを振り返る。そしてあらためて、こういう友人はめったにいないな、と感じ入った。

何しろ私たちは、友人である前に親族なのだ。私の祖母と彼の父親は20歳くらい歳の離れた姉と弟、長女と末っ子なのである。
滅多に会うことはなかったけれど、私にとって大叔父さんにあたる彼の父親の小柄な体つきや丸っこい頭のかたちに祖母の血筋を印象深く感じ取ってきたし、彼のお姉さんにも、会うたび「わぁ、うちのおばあちゃんそっくり」と感じ、しげしげと顔を見つめてしまう。やっぱり、似ている。

彼は小柄ではなかったけれど、私にとってはあまり話すことのなかった謎の多い祖母に通じる何かを持っているようにも思えて、つきあいながらそれを探っていくのがおもしろかった。独特の物の見方やのユーモアのセンスを感じるとき、祖母もごくごく近しい人には冗談をいうような人だったのかもしれないな、などと。

でも、私たちは30歳くらいになるまでほとんど会ったこともなかった。最初に会ったのは私の祖父の葬儀に、彼が結婚したばかりの奥さんを伴い現れたときだ。これから読経が始まるというのに、叔母たちが「まぁ見て、きれいな人。ああいう顔立ちはうちの親族にはいないわね」とひそひそ話をしていたのが忘れられない。

それからほどなくして、私たちはひょんなことから同じ職場の隣の机でともにコピーライターとして働くことになり、約10年同じ釜の飯を食べたあとはフリーランスのライターの道を選んで楽ではない稼業に耐えてきた。ときどきぼやきのお酒を酌み交わしながら。

やりたいことも似通っていた。お互い仙台に生まれ仙台に育った者として、この街の過去を見据えてこれからを見通したかったのだと思う。昭和30年代から50年代にかけて撮影された仙台の写真を読み解き、当時を知る人を探して話を聞き文章にまとめる連載を地元のタウン誌上で、毎月交代で始めたのは1999年のことだった。でもあきらかに彼の仕事の方がていねいで、結局のところ私は脱落し、一昨年まで17年間続いた連載の後半10年をやり通したのは彼だった。この長い連載は、3冊の写真集にまとまり、秋田の無明舎出版から出版されている。

もっと続けたかったろうに、気持ちをこめてしぶとくやり続けた連載を病のために中断せざるを得なかったときはどんな気持ちだったのだろう。でも当初は治療に希望もあったから、からだが回復したら再開を、と目論んでいたのかもしれない。写真集をもう一冊、と考えていたふしもある。連載終了のあと、もう十分にもう一冊つくれるくらいの原稿はそろっていると聞いて、私が「すぐにまとめたら」というと、「もう少しあとで」と答えていたから。用意周到な彼の頭の中には、回復後の段取りとプランができていたのではないのだろうか。この用意周到さは、私にはまったくないものだ。

この連載の取材のために、彼は街のあちらこちらをうろうろと動きまわり続けたけれど、いつも単独行動。一方の私も一人でまち歩きを続けていた。もしや、この群れを回避する習性も血統なんだろうか。やがて私は市民グループを立ち上げて歴史的建造物の保存活動に取り組むようになったのだけれど、基本的に徒党を組むのは苦手だからなかなか思うようにいかないところもあって、彼を引っ張り込んでずいぶん助けてもらった。お酒の席にいてくれるだけで場が和んで肩の荷が軽くなるような気がした。道化役を買って出てみんなを煙に巻いたりするから楽しいのだ。

自覚症状があって病院の検査を受け闘病に入ったころ、私もまた仲良く検査でひっかかって再検査が続いた。胃カメラだ、CTだというメールのやりとりをしたり、ほぼひと月違いで入院して全身麻酔の手術を受けたり‥。まったくもって戦友のように病状を報告しあう日々だった。振り返れば、何という因縁なんだろう。

彼が亡くなったことを友人知人に知らせると、多くの人が同じことばを返してきた。ある人は、飄々とした温かな人柄が好きでした、と。ある人は、飄々と暮らされている感じ、独特の個性が素敵でした、と。彼を評する「飄々と」ということばに深く納得しながら、ときどき私自身がそういわれることがあるので、まさか一人ふらふらとまちを歩いているのが飄々じゃないよねと考え、つい、これも血筋なんだろうかと親族の顔を思い浮かべた。

飄々というのは、物事への距離感から生まれるのではないかと思う。彼には確かに、物事を離れたところから眺め見るようなところがあったし、ひねった見方もした。だから、ときに鋭く批評的で、そこが話していて共感できて盛り上がるところでもあった。「あたしたちは、俺たちは、仙台のすれっからしだからさ」といい合いながら、古い建物をつぎつぎと壊しつるつるピカピカに変わり果てていく仙台の街を嘆きつつ、ずっとお茶を飲み続けたかったのに。

闘病はかなりきついものになっていたけれど、毎月8日と28日の私が主催している市には、よほど天気が悪くない限り足を運んでくれた。短い時間でも顔を見ながら話をするとほっとして、その表情に、私は、まだ元気まだ大丈夫と、声援を送るような気持ちで気力と体力を見極めようとしていた。でも、4月28日は元気がなかった。食事できる量が減ってきたせいで、何とも気力が湧かないようだった。

不安になった私は、翌日、出張先でささやかなお土産を買い夜に彼のマンションに届けに行った。1階まで奥さんと二人で出てきてくれたので外で二言三言ことばをかわし、別れ際「がんばろうよ、あきらめないでよ」と声をかけた。東の空には大きなまあるい月が上っていて、見上げる二人の後ろ姿を眺めながら、ああ来てよかったと思った。お土産なんかより、夫婦二人で煌煌とした満月に見入るひとときをつくれたのがうれしかった。そして、これが彼に会った最後になった。

ひと月が過ぎ、昨日、5月の満月が上った。たぶん、これからずっと、満月の日には彼のことを思い出すことになるだろう。

彼の名は日下信(くさかまこと)。彼が丹念な取材をもとに書いた『40年前の仙台』『追憶の仙台』(無明舎出版)は、仙台に住んでいる、住んだことがあるという人におすすめです。

製本かい摘みましては(137)

四釜裕子

ここ数カ月ブログの投稿がうまくいかない。こちらのOSの問題なのだけれども、バックアップの気持ちでブログ製本サービス「MyBooks.jp」ボタンを久し振りに押す。goo.ne.jpからエキサイトのexblogに変えたのが2005年6月10日、これまでに1度だけ、2007年3月20日の投稿までをA6判モノクロで冊子にしたことがあった。改めて見ると、324ページで背幅17ミリ、表紙を強く開くと背から3ミリくらいのところにひとつ大きなホチキスが留めてある。当時はまだ接着剤だけでの背貼りは十分でなかったのだろう。

今回はその続き、2007年3月25日からとする。どれくらいまでを1冊にできるのか。試しのpdf出力は何度でもOK、それを見ながら、1冊あたり50ページ〜480ページとのことなので、B6判でちょうど2年分とする。毎投稿に写真があるわけではないけれど、今回はカラーにしてみたい。印刷代は、サイズによるがページ単位でモノクロなら5〜7円、カラーにするとおよそ3倍。お〜。奮発してカラーにしてみる。並製本、カバーなし。印刷代11,578円に送料が540円。

一週間ほどで届く。戯言でもめくれば懐かしい。何かを思い出すためにキーワードをいくつかとブログタイトルで検索してヒットさせることはあるけれど、ブログを通して読み直したことはない。カラーにして良かった。次に作るなら、写真を入れ替えてレイアウトも整理してまたカラーにしよう。「めくる」ってすばらしい。瞬時に目に入り、圧倒的に目が疲れない。いったん放り出したものを胸に取り戻したような感じすらおぼえる。

表紙のデザインはさまざま選べるが前回と同じにした。無味無臭がいちばん。綴じのホチキスはもう使われていない。背ボンドは前回より厚い。奥付はよりくわしくなっている。印刷・製本:欧文印刷株式会社だけだったのが、発行:MyBooks.jp、運営:欧文印刷株式会社、組版・印刷・製本:欧文印刷株式会社。乱丁・落丁本の連絡先もある。欧文印刷さんのブログを見てみる。話題はさまざまあって、ブログ製本についてのコメントは昨今少ない。2017年8月、未来予想のひとつとして〈ブログはいよいよ終わりを迎える〉。2010年頃がブログ製本の盛り上がりの最後か。FaceBookやTwitterからも製本できるようになっているそうだ。

読むうちに、ブログ製本の開発に携わっていた方の記事にいきついた。社内で自動組版するシステムを構築する部署にいた田名辺健人さんは、2004年頃からインターネットを用いた名刺の受発注システムを担当、2006年にMyBook.jpを立ち上げる。2009年にはある大手の提携先が行なった製本キャンペーンが大当たりして、当たり過ぎて、たいへんな苦労をされたようだ。その後、ご両親の介護もあり札幌でリモート勤務、現在は、十勝発信の、クラウド型牛群管理システムを開発提供する会社におられる。「牧場を手のひらに。」。なるほどなぁと思い、じっと手を見る。太陽にかざしてみる。

別腸日記(16)遼菜府の思い出 後編

新井卓

中国東北料理専門店「遼菜府」は川崎は高津駅近く、府中街道沿いにあった。「あった」というのはつまり、もうない、ということである。
十年ほどまえ妙に小綺麗に作り替えられた高津駅を階下に降り、岡本太郎が描いた「高津」の装飾文字(ちなみに敏子さんが代筆したものにちがいない、とわたしは踏んでいる)を横目に改札をくぐり、通りを左へ。

この高津、という町には通いたくなるような店がとても少ない。昔、労働者たちを目当てに営業していた個人商店がどんどん潰れて、そこに大手のチェーンやコンビニが入り込む。そうやって町は、コピー・アンド・ペーストで出来た奥行きのない風景に浸食されていくのだが、この国では、どこでも同じ病気にかかっているのだろう。だから「遼菜府」は、そのなかにあって、ちょっとした避難所の様子を呈していた。

店を切り盛りする女将は、大連(ダーリェン)からやってきたという。40前半くらいだったろうか、大柄で天然パーマの髪をうしろで適当に束ねており、浅黒い顔はいつもにこやかで、ゆったりした雰囲気からか、常連のサラリーマンたちの中には「お母さん」と呼ぶ人も少なくなかった。
最初は生地を包丁で削って湯がく「刀削麺」を売りにしていたのが、猪八戒そっくりのシェフが仕事を怠けるとかで(とはいえ腕はかなりよかった)、あるとき彼をクビにして、新たに二十歳の料理人を大連で見つけて連れて帰ってきた。見るからに初々しい、真面目そうな青年は額に汗して鍋をふるったが、味は前任者の足許にも及ばなかった。みるみる客足が遠のき、常連といっても冷たいもので、女将が通りがかった馴染みの客に声をかけても、顔も向けず素通りしていくのには、心が痛んだ。それならとことんつきあってやろう、とよく分からない義侠心を燃やして、わたしはそれまでにも増して店に通い詰めた。その頃から北京のギャラリーと仕事をするようになり、「遼菜府」の料理が、日本風に調整されていない生粋の東北料理だったことを改めて知った。

東北料理は、韓国、ロシアに国境を接する中国東北地域で供される料理で、ラムや羊肉を好み、パクチーと多量のにんにく、唐辛子を使った激辛のレシピが多い。格別に寒い冬、羊の油は身体をあたためるために必須なのだ、と、北京で学生時代を過ごした画家、ヤン・シャオミンさんから聞いたことがある。
料理を運んでくる度に、女将が「これ味どう?」と聞くので、初めは塩っぱすぎる、とか肉に対して火が強すぎる、とか知ったような風で意見していたのが、そのうちに青年はめきめきと腕を上げ、半年もするとほとんど前のシェフに遜色のない料理人に成長していた。ちなみに、ここのギョウザは皮が手作りで、ココナツ・ファインと自家製ラー油、香酢、揚げネギで作ったほんのり甘いタレとよく合うので、つい老酒が進んでしまう。

2011年3月11日、震災が来た。
女将は「節電」のため店内を減灯し、注文がないときは厨房の電気も落としたので、その暗がりで、くにに置いてきた家族とスマートフォンごしに団らんする青年の顔だけが照らされていたのを覚えている。震災の自粛ムードから少し回復して常連がふたたび戻ってきた翌年、北京で「反日デモ」があって、それがテレビで連日、大きく宣伝された。わたしはその頃、ちょうど北京にいたのだが、わたし自身はおろか、地元の人に聞いても知らないほど小規模のデモで、どこの街区もいたって平静だった。本当かどうかは知らないが、デモの参加者はどこかからお金もらってるらしいよ、と誰かがわたしに耳打ちした。
帰国して「遼菜府」を訪れると、そのありさまに驚かされた。いまだ律儀に「節電」をつづける薄暗い店内には一人の客もおらず、頭上のテレビでは民放のワイドショーがやはり「反日デモ」を喧伝している。テレビは消音になっていて、それを、客席に腰掛けた女将が放心して眺めていた。
客たちの横柄な注文にもにこやかに応え、道ですれ違えばわざわざ自転車を降りて挨拶をしてくれる彼女に対して、人々はなんと冷たい仕打ちができるのだろうか、プロパガンダまがいのテレビを鵜呑みにして──腸が煮えくりかえって居ても立ってもいられなかったが、わたし一人頑固に通いつづけたところで、店というものはどうにもならないのだった。その後「遼菜府」に前のような客足が戻ることはなかった。

これまでいくつかの危機を乗り越えてきた女将は、このとき、心を決めたのかもしれない。
翌年末、ドイツや関西への仕事で忙しく、しばらくぶりに店を訪ねると思いの外店内が賑わっていた。よく見れば客たちがみな黄色に赤字で「遼菜府」と染め抜いたTシャツを身につけている。隣の客に何ごとか、と訊けば、店にある材料がなくなりしだい金輪際閉店するので、みんなで食べて飲んでいるのだ、という。不意のことに、頭を殴られたような気がした──なんてこった、自分はそんなにこの店が好きだったのか……。
女将が、わたしたちの卓にもTシャツを持ってきた。タートルネックのセーターの上にTシャツを重ね着しながら、大連、帰るんですか? と訊くと、そうだ、という。どこかさっぱりしたような顔で、何か肩の荷が下りたかのような表情だった。──大連のどこなのよ? おれ、今度お母さんに会いに行くからさ。客の一人が大声で言ったが、女将は笑顔を返すばかりだった。
折しも大陸から、大寒波が接近しつつあった。
かつて旅大と呼ばれ、渤海に突き出した半島の街から、どのような巡りあわせで彼女はやってきたのだろう。遠くから──ダーリェン/ダルニーは〈遠いところ〉の意ではなかったのか──彼女へと連綿とつづく人の歴史の端緒を、わたしたちは不寛容にも追いたて、そして永遠に失ったのである。

遭遇の力

西荻なな

遭遇してしまった、ということを考える。遭遇といってまず思い浮かべるのは、その衝撃の大きさだろうか。何か方向性をもって不意に飛び込んでくるもの。向こう側から不意に飛び込んできて、その衝撃の大きさに驚くけれども、後からじわじわと、ああ出会ってしまった、掴まれて離れがたい何かに出会ったのだ、と実感されるような動的なもの。今だけでその出会いが終わるのではなくて、何か明るいそれとの関わりがじんわりと前方に照らしだされるような出来事。未来方向へ、しばらくのあいだ進行形としてあり続ける持続的な出来事というかんじだろうか。あるいは、その出会いの衝動がしばらくのあいだ心の中に鎮座して、言葉で語り出したいというようなエネルギー源みたいなもの。言い換えると熱を帯びた何か、といってもいいのかもしれない。遭遇してしまったら、もはや遭遇する前の地点には戻ることができないような熱源。

でもどうやら、遭遇の方向性には何かをさらって不意にちゃらにするような、わだかまりを一瞬にして解くような、マイナスの魔法みたいなこともあるんじゃないか、というのが最近の気づきだ。過剰なプラスが持ち込まれて、何かが宿り、やがて時とともに逓減してゆくというのではなくて、どっかりとすでに心の中に居座っていたものを、ふっと瞬時にさらっていくような、そのあとには新しい爽やかな風が吹き始めるような出来事との遭遇。そうした遭遇がまったく新しいものとして立ち現れたことに驚いたのは、実は同じ出来事にも数年前に出会っていたはずだったからだった。その時にはそれが、人からの優しさによってもたらされた何の他意もないフラットなニュースだったに違いなかったのだが、まるで直角方向から差し込むような印象が感じられて、その瞬間に完全に突っぱねてしまっていたのだ。でも、その日にもたらされたまったく同じはずの話は、静かに、あまりにドラマチックにやってきた。

自分自身が数年間ぐるぐると同じ軌道の上を回り続け、いったいこれはいつまでこうなのだ? と思い続けてきた問題系が、まったく不意にゼロになった、と感じられた。しかも驚いたのは、その出来事が、この頑固な問題系をめぐる軌道のいちばん遠いところにかろうじてのっかっている、くらいの距離感のもので、ごくごく淡い関係性にすぎないにもかかわらず、まさにこれしかない、という角度でやってきたのだ。この問題に、この道具。そんな組み合わせは数年前には思いつかなかったのに、そしてまさにこの一瞬で関わりは終わるのに、大きな塊をさっとかすめとって何事もなかったかのようにしてしまう偶然の遭遇は、まったくの新しい体験だったのだ。

何か熱を帯びる遭遇が力を弱めたり、また強くなりながら、長いこと続いていくものとしてあるならば、ほんの一瞬にして振り出しに戻し、新しい局面をもたらすような、刷新するような遭遇もまたあるのだと思った。まだまだ見知らぬ感覚というものは残されているのかもしれない。

冬の旅★36

北村周一

いずこにも目のあるふうけい彼岸かな
 まぶたとじれば菜ノ花畑
春の日の余白のごとく砂場ありて
 すなよりしろきてのひらとあそぶ
<冬の旅>へいざなうばかり月の下 
 くれゆく秋の谷深きまで
時宜を得てホウシツクツク鳴きはじむ 
 残暑見舞いに打ち直さなとも
端末手によむ・きく・さらう喜びよ
 ebookなかなかやるじゃねえか
果物屋のせがれ手ぶらで来ることなし
 あるくと遠い新婚の家
野薔薇摘み絵を画く室に活けたりき
 みんなみに伊豆の海はもえいて
いくらかの効はあるらしうなぎパイ
 あさの食事の後の話題に
思慮深いおとなはいずこ「サクラチル」 
 未来がぐにゃりとぬかるみを来ぬ
日がのびて酒を飲むにはまだ早い
 棒のメンソレ口許に塗る
窓に向かいオネェことばを真似てみる 
 すこし気分がラクになるわよ
てぶくろや片方ずつをふたり連れ 
 ひとつの傘に雪降るみちを
絵巻物のさいしょの頁は白紙です
 プロトコロンという遊び紙
吹くかぜに旗ははためく夜もすがら 
 つつみかくさず明かしたきこころ
月よりの使者を真中におどりの輪
 盆の支度に戸惑う従妹
襲われてウズラとび立つ塀の内
 のこるひとつはすでに首なし
みずからのちからでひとはねむりたい 
 くだとくだとがさやぐあけぼの
雨晴れていきおう枝の桜花
 老木一樹身震いをせり

 
*連句に挑戦してみました。といっても連句擬き。ルールが難しくて、手に負えません。
ブログに発表していた、4月9日(月)~5月14日(月)までの三十六首からの選抜で構成しました。大幅な修正加筆かつ移動がありますが。一応三十六歌仙のつもり。😅 
タイトルは、ふゆのたびキララ36と読みます。

こんじじじのき……

高橋悠治

6月5日「風ぐるま」コンサートのために ネットで見つけた辻征夫の詩で「まつおかさんの家」を作曲する 「ランドセルしょった」という詩の最初の行から跳ねるような子どもの足取り 背中でカタカタ音を立てるランドセルのリズムとペンタトニックの曲がる線が浮かび 絵巻をほどくように 音楽がすこしずつ現れる 詩の1行を楽譜の1段として その枠のなかに楽器ごとにずらされたリズムが現れ お互いに他のリズムに寄り添ってすすむ 二人三脚のように思うままにならず 予測できない不安定なうごきになる 最初のパターンが次に出てくるときには 音の高さや音程や音の数がすこしちがって 中心になる音がずれていく リズムも音程も支えがなく 浮かんでいる状態にしたいと思っているし 演奏者や演奏状況でいつもちがう風景が見えるように あいまいな書きかたをする

元永定正の絵本『ちんろろきしし』から20枚の絵とそれに対する無意味なことばを選んで 2014年神戸で波多野睦美の声とピアノでパフォーマンスをした こんどはおなじ絵本から8枚の絵を栃尾克樹が選んだ絵とことばで バリトンサックスと声とピアノの『こんじじじのきたくれぽ』を作る やはりルイ・クープラン風の全音符(白丸)だけの楽譜だが 和声も調性も拍もない パネルに貼った絵を見せているだけで音のない時間のほうが多い音楽にしたいと思っている

ジャン・アルプが毎朝おなじデッサンを描く練習をしていた と読んだ記憶がある 手がおなじパターンをたどるとき 「おなじ」とするのが論理 あるいは抽象 おなじかたちの積みかさねが「構成」 20世紀なかばまでは 最初の思いつきをくりかえし確認するのが「創造」と言われていたのだろうか 

毎回すこしちがう感じを追っていけば パターンは崩れ変っていく できれば 始まりも終わりもなく もう始まっている映画を途中から見ているうちに 映写が途中で切れてしまうとか 霧を透かし見る風景が見え隠れしているように 一瞬ひらめいた全体をさがしながら迷い歩いている時間がそのまま音楽であれば それは作曲も演奏も即興もすべて含んだ音楽というゲームになるだろう