仙台ネイティブのつぶやき(36)1951年の海辺の人々

西大立目祥子

 うっすらと雪の残る道ばたで、もこもこした冬のコートを着こんだ子どもたちが笑っている。足元はみんな下駄で、あでやかなピンク色の爪掛け(下駄の前の部分の覆い)がかわいい。その屈託のない無垢な表情に見入るうち、なぜだか泣きたい気分になってしまった。

 この写真を撮影したのは、アメリカ人のジョージ・バトラーさん(1911〜1974年)。朝鮮戦争の勃発に際し、1951年3月から約9ヶ月間、軍医として「キャンプ・マツシマ」(現・松島基地/宮城県松島市)に滞在した。写真は、その滞在中に訓練の合間をぬって撮影されたもので、松島を中心に、塩釜、石巻、牡鹿半島、仙台など、宮城県の沿岸部の日常の暮らしが切り取られている。仙台で5月1日から展示が始まると、長男のアランさんとその家族が来仙したこともあって、地元紙やテレビにも取り上げられ話題になった。

 9ヶ月の滞在期間中に撮影した写真は約2000枚。息子のアランさんはその写真を整理していて、多くが東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域であることに気づき、一枚一枚の修復作業に取り組んできたという。

 終戦から6年目の沿岸部で、どんな暮らしが営まれていたのか。写真はそのようすをリアルに伝える。戦争が終わったという開放感からなのか、人々の表情は明るい。終戦直後のきびしい食糧不足をくぐり抜け、わずかではあるけれど暮らしに落ち着きが生まれ、真っ白な割烹着を着込む母親が話し込んでいたり赤い晴れ着をまとう少女がいたり、暮らしの上向き加減が見て取れる。

 でも、農作業に限らず、工事現場も山の現場も機械化以前。田んぼで、山で、海で、人々は汗だくで労働している。カラーフィルムは、夏の強い日差しや生い茂る緑もよく再現していて、男たちは炎天下で日に焼けた上半身をさらし黙々と体を動かしている。汗して働いているのは男ばかりではない。女たちはそろってどんづき作業(家を建てる前の基礎工事)に精を出しているし、子どもたちも自分のからだの数倍もあるような薪を背負って山を下ってくる。

 誰もがまだ貧しかった。貧しい生活を支えるために、身を粉にして働かなければならなかったのだ。写真は細部までクリアに映し出して、包み隠さずその貧しさを伝える。バトラーさんが家族にあてた手紙にも「仙台は人口20万人の都市なのに、とても貧しい」「貧しい暮らしにもかかわらず、どの集落の家屋も小さな森に囲まれていて…」とある。小さな木造の家屋も土ぼこりの舞う道も、アメリカ人の目にはひどく窮乏した生活の風景に映ったのだと思う。

 でも、だからこそ、よく働く人たちに感心を抱いたのもしれない。「アメリカ人の男性でも投げ出しそうな荷物を背負った小柄な女たち」という手紙の一文もあるし、農夫、漁師、大工、花売り、鉱夫…写真に働く人の姿を共感と愛情を持って写している。
 
 アメリカにはない暮らしの中の意匠にも目をとめている。寺の鬼瓦、舟の舳先の飾り、稲のはせ掛け、大根干し、屋敷構えなど、興味は実に幅広い。バトラーさんは帰国してから日本の家具を置き、盆栽を楽しんでいたというから、日本の文化への興味はこの滞在中に培われたのかもしれない。

 そして、子どもたちは、どこでもにこにことした笑顔をカメラに向ける。バトラーさんの身長は196センチあり、それだけで子どもたちの笑いの対象になったらしい。

 写真は、近代化以前の暮らしを事細かく伝える。暮らしの中のあらゆるものがまだ天然素材。女たちは打ち込みのしっかりとした地織りの木綿で仕立てた作業着を着込み、藁で編んだ草履をはき、日よけに菅の笠をかぶる。街を行くのは肥桶を積んだ馬車で、その車輪はまだ木製だ。船は地元の船大工が手をかけたに違いない和船で、捕れた魚を下ろすカゴは竹製。店先の乾物はリンゴの木箱に詰めて売られ、芋に至っては土のついたままムシロに広げられている。

 そして、果物店の店先を写した一枚をじっくりと眺め、色鮮やかなリンゴやミカンのわきに置かれた竹のカゴが目に入ったところで、私自身の記憶が揺り動かされてくる。そうだっけ、子どものころ、病院にお見舞いに行ったりするとき、こんなふうな細い竹で編んだカゴに入れたんじゃなかったっけ。深いところに沈んでいた記憶が浮き上がってきて、高度経済成長期の中にまだ残っていた一つ前の生活の断片を自分が知っていることがうれしく思えてくる。写真の中には、自分の過去も見つけられるのだ。

 古い写真は、なつかしさを呼び起こすだけのものではないと思う。写真は、私たちはここからきたんだよ、と教える。自分の生まれる前の写真であっても、それは私たちの原点を指し示している。貧しかった、とひと言では決して片づけられない暮らしの総体。今日の目で振り返ると、写し出された世界はうらやましいような豊かさも隠し持っている。

バトラーさんの写真はこちらで見ることができます。
https://www.miyagi1951.com/

世界難民の日とワールドカップが重なる日

さとうまき

ワールドカップがはじまった。日本が予選リーグを通過してしまったもんだからTVや新聞は予想以上に大騒ぎになっている。

6月20日は国連総会で決議された「世界難民の日」。難民の保護や援助に対する世界的な関心を高めること、難民支援を行なう国連機関やNGOの活動や支援への理解を深めること、故郷を追われた難民の逆境に負けない強さや勇気、忍耐強さに対して敬意を表す日。

そんな日に、ワールドカップの試合があれば、難民のことなどに思いをはせる暇はない。そこで、ワールドカップ出場国の難民事情を調べて展示することにした。

僕が実際に難民キャンプで知り合った難民がたどり着いた国がW杯にでる。イングランド、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、オーストラリア、ブラジル、そして日本。そういった国が対戦するときはそれぞれの国の難民政策、そして実際の難民の事情などを思い浮かべながら試合を見る!これが、世界難民の日にW杯を見る正しいやり方だ。

たとえば、6月19日、日本VSコロンビア戦。
日本は、2017年の難民受け入れが19,623人の申請のうちたったの20人しか認定されていない。コロンビアの知り合いはいないが、調べれば世界で最も国内避難民が多い国。麻薬戦争で難民になった人もいる。しかし50年以上にもわたる内戦はサントス大統領の努力で終結したに近い。いろいろ調べて、コロンビア人が経営するバーで試合を見に行った。実際試合が始まると、難民のことなどすっかり忘れてしまう。コロンビア人がたくさんバーに集まってきて楽しかった。W杯だけあって白熱している。日本が勝ってしまい、TVや新聞は大騒ぎ。難民に関するニュースはかすんでしまう。

6月21日、デンマークとオーストラリア。
両国とも、知り合いの難民がいる。試合を見ているとイラクから同居している部下のアーデルから電話が入る。アーデルはヤズィディ教徒で、ISに襲撃されて逃げてきて、うちのイラクのアパートに居候している。
「フランス大使館から連絡が来て、移住してもいいっていうんだ。家族のビザも出してくれるんだ。どうしたらいい?」
と聞いてくる。こんなチャンスは二度とはない。もう会えないのは寂しいけど、
「君の将来を考えたらいくのがいいと思う」
「しかし、お兄ちゃんは嫌がっているんだ。そして、今まで君に雇ってもらって、仕事に生きがいもあるし。。。」ともじもじしている。
「寂しいけど、フランスに行った方が簡単に会える」
そうこうするうちに、フランスVSペルー戦が始まった。
「じゃあ、こうしよう。フランスが勝ったら君はフランスに行けばいい。負けたらいかない」
フランスガンバレ! ついに運命のゴールをフランスが決めた。
「世界難民の日のプレゼントだよ」
「よし、僕はフランスに行く!」

6月30日
イラクからシリア難民のリームが日本にやってきて支援を訴えている。講演会をやった。会場からの質問。
「難民という困難な状況でどうやって生活を楽しめるのですか」
「サッカーを見ています。日本が勝つことを応援しています。ただし私はロナウドが好きです」
ポルトガル戦でクリスチアーノ・ロナウドを見たら、シリア難民を思い出そう。

アジアのごはん(93)らっきょう漬における考察

森下ヒバリ

「う~ん、なんかピンと来ない」去年漬けたらっきょうの醤油漬けをバリバリ噛みしめながら、わたしは悩んでいた。今年もらっきょう漬けの季節がやって来たのだが、なにか今ひとつ醤油漬けのらっきょうに食指が動かないのである。何か、こう、もっと違うものを身体は求めているようなのだ。

今食べているのは去年漬けこんだものだから、さすがにらっきょうの瑞々しさはない。まだなんとかザクザクとした歯ごたえはある。不味いわけではない。いや、うまいと思う。ヒバリのらっきょう漬は、らっきょうの皮を剥いてから沢山の塩で下漬してから甘酢漬け‥などという面倒くさいことはせずに、いきなり醤油と酢と砂糖かはちみつ少々で漬ける甘すぎない酢醤油漬けである。これは手間がかからないが、最低2か月ぐらいは漬けておかないと味が染まない。一番おいしいのは3~4か月たってからだ。

しかし。らっきょう漬けは涼しくなってくると、忘れられる。カレーを作った時に思い出される程度で、基本的に暑いときや湿気が多いときに食べたくなり、また食べるべきものだろう。醤油漬けはしばらく寝かせる必要があるので、ようやく食べ頃になった頃にはらっきょうへの希求がうすれている。

そして、ああ、らっきょう食べたいと思う初夏には去年のらっきょう漬を、なんかパンチないな‥と思いつつ食べているのだった。醤油漬けをまだつけが浅いうちに食べるという手もあるが、やはりどんなに早くてもひと月は漬けておかないと。と、なると何とか食べられるひと月を経過する頃には恒例の夏の旅に出て家にいない‥。

じゃあ、今年は漬けるのはちょっぴりでいいかと、らっきょうが出回り始めた頃に500グラムだけ醤油漬けにした。しかし、500グラムというのはほんとにわずかだ。やっぱり、もっと漬けるか‥。

そうこうしていると友達のミケちゃんが「ウチもらっきょう漬けたよ、ウチはいつも塩漬け。もうすぐ食べられる~」とFBでメッセージを送って来た。ふむふむ、ミケちゃんちは塩漬けなのか。あれ、もう食べられるってどういうこと? らっきょうの塩漬けって甘酢漬けの下漬のことじゃないのか。15%ぐらいの塩で漬けこみ、食べるときには塩出ししてから甘酢漬けにするための塩漬けとはどうも違うようである。だいたい塩15%というのはものすごい量だ。やや塩分控えめの梅漬けと同じぐらいだ。

さっそくどんな作り方か聞いてみた。「う~ん、皮むいたらっきょう1キロに‥塩は適当‥大匙2杯ぐらいかな。まぶして、ビンに入れてカップ3分の2ぐらいの呼び水を入れて置いとく。そんで、3日ぐらいから食べられるよ」「え、3日で!」「うん、そやねん。そんで、上がってきた水がプクプクしてきたら冷蔵庫に入れるねん」「え、プクプク‥」「おいしいよ~。あっという間に食べてしまうで~」

沖縄の島らっきょの塩漬けが思い浮かび、口の中が唾液でいっぱいになった。ミケちゃんちのらっきょうは、島らっきょの塩漬けに限りなく近いのではないか。これだ。わたしが夏に食べたいのは、こういう(たぶん)フレッシュでパンチのきいた、でも生じゃなくてちゃんと漬かった塩漬けのらっきょう、に違いない。しかも、プクプクしてくる、ということは発酵しているということである。らっきょうの発酵漬、酸味も出てくればさらにおいしそう。どうして、今まで気がつかなったのか~。らっきょうとて野菜である。水キムチみたいにして食べればよかったのだ。

プクプク発酵といえば、去年の夏に、初めてパイナップルの皮と芯を使って、水を加えて作る酢を試してみたら、おいしくて簡単で、それ以来季節の果物で酢を作って楽しんできた。この季節、熟した梅の実で作る酢がおいしい。

 *熟した黄梅(キズ梅、熟れすぎでもいい)500g
 *水1.5リットル
 *砂糖80~100g 水に溶かす。酵母のエサ。

これらを広口瓶に入れてガーゼなどで覆ってひもやゴムでとめ、虫が入らないようにする。毎日かき混ぜるか、ゆすって、浮いてきた梅が空気にあまり触れないようにする。2~3日すると、プクプクと発酵してくる。1週間ぐらいして液が濁ってくれば、梅を引き上げて、一度濾して液体だけを再び熟成させる。ときどきゆすってやるが、白い膜(酢酸菌膜)が張ったら、そのままでもいいし、ゆすって混ぜ込んでもいい。そのまま静置は酸素の無い環境で働く菌が、ゆすってやると酸素が好きな菌が酢を作る。臭みが出ることもあるが、数か月たてば消えるので、心配いらない。2か月ぐらいしたら出来上がり。ガーゼで濾して瓶などで保存する。

この梅の酢は2か月熟成させなくても、2週間ぐらい(砂糖の甘みが消えて、酸っぱくなっている状態)で十分おいしくなるのでソーダや冷たい水で割って飲むと、夏の暑い日の水分補給にばっちりである。甘いジュースは後で身体がぐったりするが、この甘くない梅の酢ソーダ割りなら身体がしゃきっとする。熟成させたものは、さわやかな酸味が料理に使いやすい。梅漬けで出る梅酢はおいしいけれども塩辛すぎてなかなか使いにくいので、塩辛くも甘くもないやさしい酸っぱさのこの梅の酢は重宝する。

白い膜をカビだと思う人は多いのだが、カビではないので濾してしまえば、すっきりした酢になる。漬けた実がつぶれていたりすると、白く濁った酢になるが、問題はありません。エキスを全部搾り取ろうと、果実を潰してぎゅうぎゅう押して濾したりする人もいますが、雑味が出やすくなるので、おすすめできない。

いちおう、ネットや料理本で「らっきょうの塩漬け」を調べてみた。しかしほとんどが塩漬けというと、甘酢漬けの下漬で塩分15%のものばかり。もしも塩漬けで食べるときは、塩抜きしてから食べろ、と。中にひとつかふたつ、塩分4%で漬ける、島らっきょの塩漬けみたいにというレシピがあった。しかし、熱湯を回しかけろとか意味不明。う~ん、ここはやはりミケちゃんレシピで、行こう。もっとプクプクさせるために水を少し多めに入れて、と。塩は足りなかったら追加すればいいや。

らっきょう漬けを、梅干しのように保存漬としか考えていなかったので、少ない塩での塩漬け、という方法に思い至らなかったが、いやはや、この漬け方はまさに目からウロコである。

塩をまぶして1日たって、プクプクと泡が出始めた。水も上がって来て、顔を出していたらっきょうも水に浸かった。味の変化を見るために、毎日味見をしてみようと、小さいのをひとつかじってみる。ふむ、漬かりは浅いが1日でもう生とはちがうまろやかさが出ている。よしよし。赤いとうがらしを2本入れ、ゆすってやる。ぷ~んとらっきょうの匂いが立った。はやく、おいしくな~れ。

灰いろの水のはじまり(その4)

北村周一

つづいて、パレット灰いろ作戦第二弾です。
いよいよおとなの登場です。場所は、武蔵野市立吉祥寺美術館の音楽室。
フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前展の、関連イベントのひとつとして企画されました。
題して、「えのぐのゆくえ、パレットのおしえ」。
去年の四月某日、総勢12名の参加を得て、ワークショップははじまりました。

当然のことですが、抽象的な絵画を描くことはほぼはじめて、という方々が多く参加されました。
何を、どこから話せばいいのか、思い悩みましたけれども、まずは導入部として、絵具の物質性や、パレットの中間領域としての役割について、自分なりの考えを話すことにしました。
それから、色の三原色は、光の場合と、色材の場合とでは異なることも説明し、とりわけ光の場合には、混合すると限りなく白色に近づくこと、色材の場合には、混合すると黒(ごく暗い茶色)に近づくことも話しました。
それゆえ、今回用いることになっている、水溶性のアクリル塗料の場合、発色の効果が強すぎる絵具は、極力外すように伝えました。
たとえば、黒、茶色、藍色などです。
ところで日本語というのは面白いもので、青、赤、白、黒の四つの色に限っては、形容詞として活用できますし、また色という語を付けなくても、単独で色を表すように工夫されています。
水色、桃色、黄色などなどとは、別格の扱いを受けているといえます。
さらに、青、赤、白、黒の四つの色は、四季のそれぞれにも対応していて、青春、朱夏、白秋、玄冬というお馴染みの言葉となって、息衝いてもいます。
また、色の三要素についても、少しく触れました。
明度、彩度、色相、すなわち、色の明るさ、鮮やかさ、いろあい、についてです。

手短に話したつもりですが、正味2時間ほどの枠組みの中で、途中若干の休憩をはさみながら、参加者全員が、それぞれの絵を完成できるところまでもって行けるかどうか、不安なままに作業ははじまりました。
キャンバスのサイズは、おとな向けにF3号(22×27㎝)と、僅かながら大き目にしました。
最初に、好みの絵具のチューブを選ぶところは、子どもたちのときと同じです。
キャンバスをパレットに見立てて、チューブから絵具を絞り出し、各人ひとり一本しかない絵筆を用いて、絵を描きはじめました。
ミッションは、絵具を混ぜ合わせながら、ひたすら灰いろに近づけること。

はじめのうちは、どのように描いたらよいのか、戸惑っていたみなさんでしたが、手慣れてくると、
参加者それぞれが、さまざまな技法や思いつきを駆使しながら、先へ先へと筆を進めていました。
四つの側面も含めて、塗り残しのないように、キャンバスの白いところをすべて絵具で満たすこと。
みなさん最後まで、一心不乱に絵を描いていましたが、やはり周囲の目が気になるのでしょうか、
互いに見比べながら、作業を進めるといった具合でした。
絵の描き方というよりも、絵の描き手の性格かもしれませんが、比較的早く描き終えてしまった人と、
なかなか描き終わらない人と、フィニッシュがバラバラになってしまいましたが、合評の時間を少しだけ残して、12名すべての絵が仕上がりました。
大勢の人に囲まれながら、絵を描くことはとてもしんどいことです。
みなさん描き終わってホッとしていました。

でもこれで終わりというわけではありません。
そうです、絵のタイトルを決めなければなりません。
描き終わって、それぞれが思いを込めながら、絵の題を発表しました。
作者が付けた絵のタイトルとその絵を見比べながら、うん、なるほどと頷いたり、笑ったりと、
反応はいろいろでしたが、ひとりだけ無題がありました。
もしかしたら、その後タイトルが決まったかもしれませんが。

それはそうとして、灰いろの方は一体どうなったのでしょうか。
限りなく灰いろに近づいたとはいえ、思い描いたような灰いろにはならなかったようで、いわば灰いろの一歩手前に留まったような感じの色合いに終始したように見受けられました。

しかしながら、テーブルの上に目を移すと、各人一個ずつあてがわれていた筆洗用の透明のプラスチックカップの中の水が、なんと灰いろになっているではありませんか。

微妙にそれぞれ色合いが異なっているといっても、総じて灰いろに間違いありません。
参加者12人、十二色の灰いろが、目の前のテーブルの上に並んでいたのでした。(つづく)

しもた屋之噺(198)

杉山洋一

この一か月ほど、週末の夜になると、線路の向こう側の運河沿いの駐車場で、屋外コンサートが開かれています。最初はアフリカン・ポップスなどやっていて、楽しんで聴いていたのですが、何しろ大音量で日付が変わる頃までやっていて、演奏中はこちらも落着いて仕事できる状況にないので少々困っていて、息子に愚痴ると、他の人は皆喜んでいるからでしょう、とあしらわれてしまいました。
まあ、尤もな話ではあります。

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6月某日 ヴェローナ宿
ヴェローナのサン・ゼノ教会の傍ら、サン・プロコロ教会でブルーノ・カニーノのシューベルトD960を聴く。先月終わりに東京で会ったとき、このソナタを演奏するのは人生で2回目、本当に難しいとしきりに話していたが、それだけ作品に愛情が深いことがよく分かった。今度何時聴けるかも分からないので、思い切って家族連れでヴェローナへ出かける。一楽章が始まった途端に聴きながら涙がとまらず、何故涙が流れるのだろうとしきりに自問してみたのだが、答えが見つからなかった。倍音の豊かさ、和声感の充実、弱音の明瞭なキャラクターが際立つ。気が付くと外で鳥が甲高い声で啼いていて、まるでピアノとやり取りしているように聴こえる。シューベルトがいなければ、西洋音楽史は大きく変化していたに違いない。ブルックナーやマーラーの交響曲もなければ、プーランクの歌曲もピアノ曲も生まれなかっただろうし、ブラームスに至る和声の発展もなかったに違いない。誰に対して感謝しているのか分からないが、ともかくシューベルトという人がこの世に生を受けたこと、そして彼の音楽を我々に残してくれたことに深い感謝を覚えるばかりだ。

6月某日 ミラノ自宅
ヴェローナの宿で朝ベッドでラジオをつけると、べンバ元副大統領が国際刑事裁判所で無罪となったことに絡み、コンゴの賛成反対両意見をラジオフランス国際放送が流している。コンゴと言えば、エミリオの長男が国連で働いているので、コンゴの状況がニュースで流れると思わず気にかかる。
天気もよく、歩いてヴェローナの記念墓地まで歩く。入口で仏花を買おうとすると、お墓に供えるのかと尋ねられて、ここまで自宅用の花を買いに来る人もいると知る。ドナトーニの墓の花さしがとても小さいので、枝を短く切ってもらい、水がなくなってもそのままドライフラワーになりそうなものを選ぶ。最初の墓地を通り過ぎ、Piis lacrimus と書かれた神殿の教会の傍らから裏の墓地へ廻る。ドナトーニの墓は、ちょうどコインロッカー状に並ぶ一番奥の墓地の一番左、そこを入って左奥の右上、ちょうどとても暗いところにある。息子は大分昔に一度ここへ連れてきたときのことを覚えていた。
花を活け、積もった埃をウェットティッシュで拭った。ロウソク型のオレンジ色の電灯が切れていて、電球が緩んでいるのかとガラスの蓋を外すと電球が入っていないので愕く。ドナトーニの墓は、とても高い処にあって、梯子で昇ってゆくのだが、ここに墓を備え付けるのもさぞ大変だろう。墓の蓋には、重さのない重力、gravità senza pesoという、ドナトーニの好きだった言葉を表題にして、彼の曲名を散りばめて作られた詩が刻み込まれている。息子も梯子を上ってみたいと言うのでやらせてみると、salve! やあ!と声をかけ半分ほどで怖がって降りてきた。

この区画の前あたりには、「何某家の墓」と書かれた、立派な家づくりの豪奢な墓地が並んでいる。日本の公衆便所くらいの厳めしい石造りの建物が、刈り込まれた美しい芝生の上に点在している。そこに一つだけすっかり蔦に覆われた緑の墓地があって、近くで作業をしていた庭師にこれはどういうことか尋ねると、10年来一度もこの墓主は手入れに来ないのだそうで庭師たちはすっかり怒っていた。彼らは毎日頼まれた墓の掃除に来ているのだと言う。

入口裏の事務所に顔を出すと、墓地の管理事務所らしく、黒い服に身を包んだ中年の女性が一人残っていて、電球が外されているのは、契約を破棄したか、料金が未払いだから事務所が故意に外したものだと言う。年に18ユーロだと言うので、それならここで支払うと言うと、契約を取交した本人でなければいけないと言う。そのままIngenio clarisの神殿の石碑を訪ね、ドナトーニの名が刻まれている辺りに、供えきれなかった残りの花を手向けた。

駅に戻ると、まだ少し時間があったので、タクシーを拾って、ドナトーニ広場へ出かける。想像通り、タクシーの運転手はドナトーニ広場など知らなかったので、うろ覚えで、作曲家の名前の道ばかりが並ぶ音楽家界隈の、ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りに挟まれた小さな広場があるだろうと言うと、犬に用を足させるような広場しかない、あんなところに本当にお前は行きたいのかと何度となく念を押される。
果たして、アパートの立ち並ぶごく普通の一角に、よく手入れの行き届きた小ざっぱりとした芝生に、小さな滑り台とブランコがあるだけの広場があって、確かにgiardini Donatoni, compositore, maestro di musicaと銘板が立っていた。もう18年前に亡くなった恩師で、ミラノに長く住んでいたが出身はヴェローナで、記念墓地のingenio clarisの石碑にも名前が刻まれているのだと言うと、それならせめてヴェローナのどこかの広場に名前をあげればよいものを、とタクシーの運転手に言われる。
ここは正確にはヴェローナ市内ではなく、サンタ・クローチェという地域だそうで、現在のインターネット地図でも、ドナトーニ広場がある場所はただ「無料駐車場」としか書かかれていない。ドナトーニらしくて悪くはないが、少し寂しい。昼食時だったからか、人気がなかった。

ミラノに着いて、マリゼルラに墓の電灯のことで電話をすると、それは恐らく急逝したドナトーニの長男名義になっていたのかも知れないと言う。そんな話から、ドナトーニは当然ミラノの墓地に埋葬されるはずだったのが、ふとマリゼルラが生前ドナトーニが死んだらヴェローナに埋めてくれと言っていたのを思い出して、急遽ヴェローナに場所を拵えた話やら、息子が7月、一週間ダブリンに出かけるのだが、ドナトーニの妻だったスージーがダブリン出身で、ウィスキーのjamesonの創業者の家の出だったことについて話し込む。スージーは、子供のころ住んでいた城のような家の写真を何度か見せてくれた。晩年のスージーは片時もウィスキーのグラスを手放さず、すっかり中毒になっていたが、或いはアイルランドの家が懐かしかったのだろうか。
家に着くと、息子はすぐにピアノを触っている。しばらくクレメンティのソナタを弾いていて、厭きたのか今度はフルートでマルチェルロのソナタを吹く。息子は日本風に一音ずつ感情を込めて弾いたりしないので、旋律はとてものびやかに響き、少しばかり羨ましい。

6月某日 ミラノ自宅
息子と連立って2年ぶりのべレグアルド運河を訪れる。それぞれの自転車を携えてサンクリストーフォロからモルタラゆきの電車に乗り込むと、周りには多くのアフリカ人が屯している。車掌が近くで検札を始めると、無賃乗車をしていたのか、彼らのうちの何人かは、辛うじて開いていた扉から外へ逃げ出してしまった。目の前に残った一人は、廻ってきた車掌に、切符を買う時間がなかったと言い、ここで切符を買うと言い張るが、差し出したクレジットカードにお金が入っていないと車掌に指摘され、次の駅で降ろされてしまった。

無賃乗車を容認するつもりは毛頭ないが、例えば彼らが船でアフリカから渡ってきた難民、もしくは移民だとしたらどうなのだろう。難民が鈴なりになった船が難破した、というニュースは数えきれない程聞いた。人道的見地から、つい最近までイタリアは彼らの上陸を許してきて、最近になって、イタリア政府は方向を転換したわけだけれど、彼ら難民が上陸を許され自由になった後どうしているのかは、よく知らない。
ラジオでは連日トランプ政権の不法移民政策のニュースをやっている。幼い子供たちが親から引離され泣き叫ぶ姿に際し、女性報道官は「サマーキャンプにゆくようなものですから大丈夫です」と応えなければならない。仕事とは言え、気の毒な気もする。
各国の難民、移民政策に意見を言える立場にはないが、政権が変わり政情が大きく変化したなら、自分だって「一週間以内に一億円税金を納めなければ不法滞在と見做す」と言われる可能性もある。二十年前に二年の約束で伊政府給費を取ってイタリアに留学した時も、政府から一方的に一年で給費が打ち切られた。そうして路頭に迷って食い繋いで暮らしてきて挙句、結局未だにミラノに残っている。当時奨学金が打切られた理由は何も知らされていない。だから、何時また「不法移民」と呼ばれる日が来るかもしれない、と覚悟している。無賃乗車のアフリカ人を嘲ることなど到底できないし、アメリカで家族が引離されたと聞けば、他人事とは思えない。ラジオを聴きながら、思わず涙がこぼれた。

間もなくアッビアーテ・グラッソの駅に着く。2台の自転車を下ろしていて、列車のドアが閉まりかけた。駅から自転車で5分も行けば、ベアグアルド運河沿いの自転車専用道路に出る。周りは見渡す限りの水田とトウモロコシ畑。澄み切った青空が心地よい。
昨年の今頃は、ずっと窓も開けられないニグアルダの小児病棟に入院していたから、こうして息子と二人でサイクリングが出来る日が訪れることなど、想像すら出来なかった。二年前と比べてすっかり成長した息子の姿を後ろから眺めつつ、思わず感慨に耽る。朝買ってきたピザとキッシュを水辺で齧りながら、息子は船着き場に腰を下ろし、足を運河の水に浸して喜んでいた。

後ろから息子の足の具合を注意深く眺めつつ、どこで引き返すべきか必死に見計う。彼に自信をつけさせたくて、体力の許すところまで頑張って走らせたいが、失敗して途中でリタイヤすることになれば、精神的に立ち直すのに時間がかかるのも分かっていて、慎重に後ろから様子をうかがう。息子は「疲れた、家に帰りたい、帰ろう」と繰返していたが、モリモンドの修道院に寄って、それからまた運河沿いに進んでカッシーナ・コンカの牛舎を訪れる。2年前に来たとき、ここで息子が牛の鳴き声を真似しているうち、乳牛たちが集まってきた。

ベザーテ辺りで休憩し、アッビアーテグラッソに向かって来た道を戻り始めると、息子の左足がするりとペダルから外れてしまう。足が疲れて力が入らなくなった時の典型的な症状で、こちらは内心生きた心地がしなかったのだが、気が付かない振りをしていた。
針の筵の思いで暫く走って彼方にアッビアーテ・グラッソの街が見えてきたところ辺りから、突然彼の身体は見違えるように活力を取戻した。魔法でも見ているようだったが、彼はすっかり元気になって顔つきも精悍になった。
果たして首尾よく駅にも戻ると、あろうことか乗るつもりだった列車が、突然運休とアナウンスが流れるではないか。次の列車まで1時間以上あるので、近くの喫茶店で時間でも潰そうと提案すると、息子はそれなら家まで自転車で帰りたいと言う。ここからミラノまで20キロ弱あるし、もう6時間近くサイクリングしたのでやめるべきと説得するが試してみたいと言い張るので、こちらも腹を決め、水と菓子パンを買い込んでミラノまで走ることにする。
極力早くならないよう先導しつつ、適宜休憩をとりつつのんびり走る。飽きもせず作曲家のしり取りをしながら走っていて、気が付くと目の前にミラノの街並みが迫っていた。信じられない思いで、すっかり逞しくなった息子に目を見張る。
真っ黒に日焼けした顔に満面の笑みを湛え、無事に家に着いて最初に息子が発した言葉が「また明日もまたベアグアルドにサイクリングに行きたい」、だった。

今月の初めには、学校に行きたくないと駄々をこねる息子を一喝して、パジャマ姿の息子を雨の中を抱きかかえ、トラムまで無理やり連れていったこともあった。トラムに一度は無理やり乗せたが、二人とも裸足のままだったで、息子も観念して学校へゆくと約束したので、一度家に戻ることを許しトラムを降りたところ、どこかのおばさんが、これをお履きなさいと靴下を渡してくれた。
父親に羽交い絞めにされながら、息子は誰かが警察に通報してくれると思っていたらしいが、こちらも腹を括って連れ歩いていたから、年度末でこの父親も余程必死なのだと誰もが理解してくれたようだ。
その一件のあって息子も学校にゆくようになったが、こちらは数日全身が筋肉痛に悩まされ、あの日はその後こちらも学校へ出勤し、一日授業をした挙句に夜はリハーサルまであった。ドナトーニのリハーサルに出かけて楽譜を開くと、持参したのはグリゼイの楽譜だった。

息子は今月、劇場の合唱団のインスペクターをやっている彫刻家のキアラの工房に足繁く通っている。まず最初に訪れた際に龍を作り、無心で土を触る時間が余程気に入ったのか、次に出かけた折には竪型ピアノを、そしてその次にはピアニストを作った。ピアノを作った時にもその精巧さに感心していたが、その後でピアニストを作った時には心底感嘆した。父親には到底できないのはさることながら、息子がピアノを弾く時に伝わってくる情熱と同じものを、息子のピアニスト像に見出したからだった。これはどういうことなのだろう。

6月某日 ミラノ自宅
マスターコースのテーマにミヨーを選んだ。本来はハイドンの中期の交響曲の続きをやるはずだったが、学生たちの集めたお金でオーケストラを借りるので、予算がぐっと少なくなった。もちろんオーケストラの弦編成を減らせば良かったのだが、せっかく編成を減らすのならば、本来その編成のために書かれた作品をやる方が、学ぶことも多いに違いない。今回はいつも一緒にやっている現代音楽アンサンブルが一緒にやってみようと話してくれたので、それならばと考えたのがミヨーだった。自分が今まで何曲か演奏した中で、演奏が決して易しくなかったが、作曲家として魅力的だと思ったので、小交響曲以外はどれも実際知らない曲ばかりだったが、アンサンブルが提示してきた予算に見合う編成の楽譜をレンタルした。

1918年、ちょうど100年前に書かれた小交響曲2番「牧歌」と1921年に書かれた3番「セレナーデ」。1番「春」は子供の頃から好きだったが、ハープあってフルートも1本多いので却下した。1919年作の「農機具」と1920年作の「花のカタログ」。それからマーシャ・グラハムバレエ団のためにアメリカで1944年に書いた「春の遊び」。1968年から69年に書けて書かれた「グラーツのための音楽」。「春の遊び」と「グラーツのための音楽」に関する資料は、殆ど見つからなかったし、実はもう1曲、「家庭のミューズ」室内オーケストラ版をぜひ演奏したかったのだが、アメリカの出版社が倒産していて、こちらは楽譜の所在が見つからなかった。

これだけミヨーの楽譜を続けて読んだこともなかったが、本当に素晴らしい作品であることに驚く。それぞれがまるで違った内容で、特に1920年前後の作品は視覚的、絵画的だ。ちょうどピカソやミヨーが一緒に仕事をしていたレジェのキュビズムを思い出せばよいかもしれない。もっと正確に言えば、ピカソはこれより10年くらい前にキュビズムの世界に到達していて、ミヨーが「小交響曲」やその他の作品を書いたころには、これらのキュビズムは既にダダに到達しかかっていた。ストラヴィンスキーの「火の鳥」が1910年、「ペトルーシュカ」が11年、「春の祭典」が1913年だから、キュビズムの時代は正確に言えばこれら3大バレエの時代でもある。

南仏の美術館で息子がピカソの絵を前に得意げに説明してくれたところによれば、キュビズムは、重力の解放と視点の多角化だと言う。その意味に於いて「小交響曲」などは、文字通りキュビズムの絵画そのものではないか。特に重力から解放されたコントラバスの面白さなど、合点のゆくことばかりだ。
多調とか複調、ブラジル音楽などと表面的に総括してしまうと、ミヨーの音楽の核心を全く捉えていない。本来の素材を、視覚化し、切り出し、別の色を付けて、別の視点から再度貼りこむ。絵画として二次元の素材を切り出して、3Dプリンターにかけ、視点や遠近法に変化を与えて、三次元の彫刻として再構成しているようにも見えるし、時には、その再構成した彫刻の断面図を切り出して見せているようにも見える。
端を丁寧に揃えたりして妙に体裁を整えたりせず、もとの素材の新鮮さを、出来る限り生かそうとする。そのちょっとしたぞんざいさが、魅力的だ。その意味ではダダの時代性との繋がりも感じる。順次進行する長いパートは、拡大された経過音だろう。
ただ残念なのは、完成した作品を視覚的に把握できるのは本人だけなのかも知れない。彼が自分で指揮している演奏では、どんなに音がぶつかる復調であっても、それらが円やかにブレンドされて響き合う。他人が演奏すると、往々にして耳障りな音に響く。これが音楽作品として成立する上での限界か。

作品が「六人組」の仲間にそれぞれ献呈されている「農機具」は、農機具博覧会で目にした「草刈機」「結束機」「播種機」などの、機能や構造説明、使用用途、性能や値段について書かれたテキストを歌うソプラノに、アンサンブルは機械的を模するオスティナートや、歌と無関係なロマンティックな旋律で軽妙洒脱に応え、社会の近代化、現代化への共鳴が明るく伸びやかに謳われる。

1919年のイタリアと言えば、ムッソリーニが社会主義に見切りをつけて、地方の農家を支持基盤に「戦闘ファッショ」を組織してファシズムへと駆け出した頃で、その後、イタリアでは未来派のダイナミズムに影響された、重厚な音楽ばかり聴かれるようになるのは対照的で興味深い。個人的には5曲目の「耕作機」が、「大地の歌」の「青春について」を揶揄しているように聴こえて仕方がない。冒頭のファゴットの旋律には、わざわざ「chanté-歌って」と註がある。
「農機具」と「花のカタログ」をプログラムに入れ「春の遊び」と演奏会にタイトルをつけたので、ミラノ市の公共公園事業部から後援が取れたとか。

(6月30日 ミラノにて)

富士と龍

植松眞人

 立花秀一が東京に移り住んで、もう二十年近くが過ぎた。住めば都と言うが、東京という町は秀一にとって決して住みよい町ではなかった。
 人混みが苦手、賑やかな場所が嫌い、と言い出せばきりがないほどだし、最近は歳のせいか気が短くなり、電車で妊婦に席をゆずらない女子高生を見かけてしまうと、怒鳴りつけずにはおられない。しかし、実際にそんなことをしてしまうと、妊婦さんに喜ばれることもなく、ただただ驚かれ、なんならおなかの子ども障ります、という顔をされてしまうのである。
 とかくこの世は住みにくい、ということを東京という町は秀一にこれでもかと見せつけながら二十年近く過ぎたのである。
 それでも、これだけ東京にいれば、少しは慣れというものがあり、妻や子はすっかり生まれも育ちも東京のような顔をして、大阪弁でテレビに突っ込みを入れていたりする。秀一だって同じようなものだ。慣れない慣れない、と言いながら、東京の銭湯の四十五度を越えるような異様な熱さの湯舟に平気で入り、極楽極楽とつぶやいて、風呂上がりにそばをすすったりするのである。

   ■

 さて、銭湯である。
 秀一は月に何度か銭湯へ行く。だいたいは土曜日。仕事のない土曜日の午前中にゆっくりと起き出すと、もう妻はいない。仕事仲間と買い物に出かけたり、食事に出かけたりしているのだ。大学生の娘になると土曜日に限らず、ほとんど顔を合わすこともなくなっている。大学での勉強とサークル活動。その他にも友人関係や彼氏関係で忙しいらしい。一週間ほど前に珍しく一緒に朝食を食べながら「とうさん、久しぶりだね」と同じ屋根の下に暮らしているとは思えない会話を交わしたばかりだ。
 土曜の朝、妻がごそごそと起き出す時間に目が覚めていることもあるが、知らぬふりをして二度寝する。眠たくはなくても寝る。そして、妻が出かけた頃に、顔も洗わず、朝飯も食べずに下着だけを着替えて、タオルも持たずに歩いて五分ほどの銭湯へ行く。着替えてから家を出れば、新しい下着を持って行く必要も、着古した下着を持ち帰る手間もかからない。タオルや石けんも百円で貸してくれる。
 いつもは、三十分くらい銭湯にいる。髪を洗い、身体を丹念に洗っても五分ほどだ。そから、東京の熱い湯に身体をつける。何度入っても、何年通っても熱いものは熱い。正直、隣で平気な顔をして入っている年寄りを見ると死んでしまわないかと心配になる。
 しかし、熱いからと言って、水で埋めたりすると年寄りが黙っていない。やれ、ぬるくなるだの、熱いからいいんだの、うるさい。この間などは、さすがに四十七度はないだろうと、水を注いでいたら、
「久しぶりに良い湯加減なんだ、ぬるくしないでくれ」と言われ、
「お前さん、日本人じゃないね。中国人はすぐ湯を薄めやがる」と言われたので、
「いや、日本人です。というか、元関西人です」と笑いながら答えると、
「関西人てえのは、根性がないんだな」と神経を逆なでされる。
 そんなやりとりがあってから、秀一はどんなことがあっても、湯を薄めなくなった。誰かが水を入れていても応援こそすれ嫌な顔一つしないのだが、自分ではどんな熱い湯にもそのまま入る。入ったら入ったで、熱湯のような風呂にもそれなりの良さがあるのだということには気がつくのだ。
 熱い湯がいいのは気付けになることだ。ぼんやりとしていた寝ぼけた頭がすっきりする。土曜日の遅い朝、休日をすっきり過ごすために俺は銭湯に来ているのかもしれないと秀一は思うのだった。そして、いったん熱い湯で目を覚まし、入り口の待合に置いてある最先端のマッサージチェアに座って、一週間の疲れをもみほぐすために、ここに来ているのだと言っても過言ではなかった。
 それに、東京の下町の「湯を埋めるんじゃねえ」とすごむ、それでいて脱衣場に出ると急によぼよぼの気弱になるジイさんたちが嫌いではなかった。彼らが威勢良く、最近亡くなったばかりの友だちの話をしみじみしている様子は、いつ見ても笑いと涙を同時に誘う。

    ■

 そんな銭湯にも何ヶ月かに一度、誰も先客がいない、という日がある。開店から三十分ほど経っているのに先客がいない。そして、それから三十分ほどして、秀一が上がろうと思う頃になっても誰もいない。脱衣場を見ても誰もいない。そんな日が何ヶ月かに一度あるのだった。
 しかし、今日はいつもの「誰もいない日」とは少し趣が違った。男湯には誰もいないのだが、女湯が騒がしいのだ。近所の者同士が、近所の者の近況を伝え合っている。商店街のあの店が閉店したのは、主人の浮気が原因だとか、東京マラソンのコースがこの近くに変更になったのが不安で仕方がないとか。そんな他愛もない話が続き、笑い声が響き、それじゃお先に、という声が聞こえてくる。
 秀一は、いつも通り、これ以上浸かっているとのぼせてしまうかもしれない、という頃合いで湯舟を出た。のれんをくぐるとコーヒー牛乳を買い、お釣りで小銭を作り、マッサージチェアに腰掛ける。ここから十五分ほどが秀一の至福の時間だ。
 全身コースを選び、スイッチを押し、身体をゆだねた、その瞬間に、さっき女湯の天井の方から「それじゃお先に」と言った声がすぐそばから聞こえた。
「ねえねえ。あれ、注意した方がいいわよ」
秀一は身体を少しだけ起こして、首をひねって受付の方を見る。料金などを受け取る受付にはこの銭湯の親父さんか奥さん、最近はごくたまに息子が座っている。今日は親父さんだ。
「注意ですか?」
 親父が返事をしたので、おばさんの声が一段高くなる。
「そうよ。あれはね、だめよ。だって、背中に墨が入ってるのよ」
 親父がちょっと苦笑しながら答える。
「ああ、タトゥーですか」
 すると、おばさんが勢い込む。
「タトゥーなんてもんじゃないわよ! あれはね、もうね入れ墨よ。だって、背中一面に龍の入れ墨、あれなんていうのかなあ。昇り龍っていうのかしら。あれなのよ。こわいわよ。タトゥーなんて生やさしいもんじゃないの。もんもんね。昔で言うところの」
 親父は、一瞬、女湯ののれんの方を見る。顔はまだ苦笑したままだ。おばさんは何を笑っているのかと少し憮然としている。
「うち、禁止してないんですよ。昔からのお客さんが多いんで」
 そう言われて呆然とするおばさん。
「え、禁止じゃないの?」
「ほら、あっちの筋の人が多いじゃないですか。このあたり。でもまあ、昔から騒ぎがあったってこともないし。スーパー銭湯とかは禁止にしてますけどね。うちは、まあ良いんじゃないかって」
 おばさん、そう言われて、あげた拳の下ろす場所が見つからない。秀一はそんなおばさんを視野の端に捉えながらことの成り行きを見守っている。
「でもね、怖いわよ。女の子でね、大人しそうに見えて、服を脱いだら背中一面がドラゴンなんて、あなた見たらすくむわよ」
 いくら言われても禁止してないものをいまさら禁止にするわけにもいかず、それでも常連の声をむげに却下するわけにもいかない。
 秀一はいま女湯にいるはずの、背中一面に昇り龍が彫られた若い女の背中を想像した。壁に描かれた鮮やかな青空を背景にした富士山があり、その手前の大きな湯舟の中に若い女が肩まで浸かっている。湯あたりしそうになったのか、女が上気した顔でほんの少し苦悶の表情を浮かべて腰を浮かす。そして、その腰をそのまま湯舟の縁に移動させて、女は背中をこちらに向けて湯舟の縁に腰掛けた形になる。すると、女の背中一面の昇り龍が秀一の眼前に大きく迫ってくるのだ。昇り龍はいわゆる和彫りで細かな意匠と細かな色彩で描き込まれていた。頭を右に傾けながら、龍は空へと登っている。背景にある富士山の絵と一体となって、龍そのものが大きく秀一には見えた。龍の伸びやかな筆致がそのまま長い髭へと流れ、胴体に継承され、そのままくねくねとした尻尾へと続く。尻尾は曲がりくねりながら大地へと伸びていくわけだが、女の背中というカンバスからはみ出して、龍の尻尾は、形のいい女の尻の割れ目へと吸い込まれていく。龍の尻尾が男性器のように、女の性器へと分け入っているところを秀一は想像した。女の背中に描かれた龍が女の身体の中に入り込み、その龍が女を身体の中から操っているように秀一には思えたのだ。
「だからね、怖いのよ」
 おばさんの声で秀一の意識は再び、銭湯の入り口へと移る。銭湯の親父はいかにもよくわかる、という顔をしながらおばさんの話を聞いている。
 その時、はらりと女湯ののれんがゆれた。出てきた女は三十を少し過ぎたあたりか。ジーンズに白いシャツという地味な格好だ。色白ではあるが一重まぶたではっきりしているとは言えない目鼻である。秀一にはとても大人しく見えた。
 しかし、この女が出てきた瞬間におばさんは黙り込んだ。おそらく、背中に昇り龍の入れ墨があるというのはこの女なのだろう。この白いシャツを脱がせれば背中に昇り龍があるのかと秀一は思う。地味な顔立ちの女をマッサージチェアから眺めている。
 秀一はおばさん越しに女が入り口の引き戸を開けて、下駄箱に向かって行くのを見ている。おばさんは受付の親父さんと他愛のない天候の話などをしている。秀一はおばさん越しに女を見ている。女は下駄箱からスニーカーを出すと足を通す。かかとがうまく収まらず、女は身体を曲げ、かかとに指をかける。その時だった。女が身体を曲げたまま秀一を見たのである。
 秀一と女の視線はまっすぐに結びついた。そして、女は秀一のほうを見つめたまま、にこりと微笑んだ。その微笑んだ顔が、秀一にはさっき思い浮かべた龍の顔に似ているように思えた。(了)

ブドヨ・クタワン

冨岡三智

『ブドヨ・クタワン』はジャワのスラカルタ王家に伝わる舞踊で、王の即位式と毎年の即位記念日に上演されてきた。マタラムの王が王家を守護する南海の女神と結婚するという神話を描いているとされる。現当主パク・ブウォノXIII世は、今年の4月12日に14回目の即位記念日を迎えたのだが、舞踊だけで1時間半、入退場も含めると2時間近くかかるこの舞踊が、今年は15分、入退場を入れても約30分しか上演されなかった。私はジャワに住む知人からこのことを知らされ、新聞で確認してみた。『ブドヨ・クタワン』は3部構成なのだが、今回上演されたのは第3部のみ。XIII世の健康状態が思わしくないため短縮した、あくまでもそれは今年だけの措置であると王宮関係者がインタビューに応えている。しかし、昨年も15分しか上演されなかった、XIII世即位後にはイレギュラーなケースが続いていると報じた新聞もある。舞踊継承を担当してきたムルティア王女と王家の軋轢も報道されている。今年の踊り手の写真を見ると、アクセサリが王家所有のものではなく、一般的なデザインになっている。踊り手を王宮外(芸大や芸術高校)から集めたと報じたものもあり、通常の踊り手や衣装が使えない状況にあったことが分かる。私も通算5年の留学期間を通じて舞踊の練習に参加させてもらい、また様々な儀式を参与観察させてもらった王宮だけに、この状況は悲しい。

製本かい摘みましては(138)

四釜裕子

今日もまた紙を半分に切るところから始めてもらう。「え〜またですかぁ〜」という顔。製本ワークショップなのにカッターで何枚も紙を切るなんてばかばかしい、(前もって裁断機で半分に切って持ってきてよ)というのが本音だろう。実際最初に真顔で「裁断機はないのですか?」と聞かれたくらいだから。毎回あっさりカッターで切り始める人はいる。カッターは苦手だからとはさみで切る人もいる。折り目をつけて両手で左右に引き切る人がいたのには驚いた。もっとも彼は3回目からカッターを使うようになったけど。わずかな誤差が許せなくて何度も紙を替える人、延々切り揃えてひと回り小さくする人もいる。紙を半分に切ることのバリエーションと学習の多様を見せてもらう。切り口の違いを見比べるサンプルが自ずと揃う。

思い当たるふしがある。ルリユールを習っていたとき、延々続く革漉きにうんざりした。ルリユールを習いにきているのにどうしてこう革漉きばっかり続くわけ? と、自分の苦手を棚に上げて何なんだけれども、それが理由で足が遠のいた。漉いた革の細かなくずが腕につくのを防ぐための革漉きエプロンを作って、ごまかしていたほどだ。スキッと貼られた革の裏側にあれほど繊細な手間がかけられているとは想像も及ばなかった。仕上がりが凸凹してもいいから革漉きをちょっとさぼって先に進んでしまいたかった。後で聞くと私はコツをつかむ前に放棄してしまったようで、なれればそれほど面倒ではないという。細かな工程が60以上あり、得手不得手がいろいろあった。かがりと花ぎれ編みくらいかな、満足に仕上がるまでやり直しをいとわなかったのは。苦手と思うと時間は延びる。

古本屋で『活字礼讚』(1991 発行者:近東火雄 発行所:活字文化社 題字:布川角左衛門 装訂:府川充男 序文:西谷能雄)を買う。活版で糸かがり、丸背、函入り、しおりは2本、定価6,500円。宮下志郎さん、杉浦康平さん、横溝健志さん、木島始さん、府川充男さん、岡留安則さん、栃折久美子さん、日下潤一さんなどが書いておられる。

中垣信夫さんの「僕の掌には活字があった」から、杉浦康平さんの元で手伝った読売交響楽団の機関誌「オーケストラ」のところを読む。編集の向坂正久さんとデザインの杉浦さん、印刷屋の営業の永寿さんと「僕」は、定期演奏会が決まるとそのつど集まる。あるとき隅田川沿いの二階家の印刷工場で出張校正兼印刷に立ち会って徹夜、朝になって杉浦さんのお宅で休み、夕方には東京文化会館に向かい出来たばかりの機関誌を買って、そのできを確認しながらオーケストラを聞いたという。職人が手早く活字を締めて整然となった版面が放つ鈍い光、入らなくなった版を金属鋸で切る音、電話、真っ暗な川面……、ごくごく端的なドキュメントなのだけれど、中垣さんが掌に握りしめていたであろう「活字」の熱が伝わってくる。ほかに2、3の思い出がある。〈今から思えば、スムーズに進んだ仕事は総て忘れ、このような思い出ばかりが鮮烈である〉。

ドイツから帰国

笠井瑞丈

シュタイナー学校
から
日本人学校に転校

小学校4年生

モノクロからカラー
アナログからデジタル
その位の違い

森でサッカー
をして
森でドングリ
をして
森で駆けっこ
をして

そんなドイツ時代の遊び

そこから

ファミコンブーム真っ只中
流行りの音楽チェッカーズ

ついたあだ名は
『西ドイツ』

いつもみんなに
「おい西ドイツ」
と呼ばれたいた

毎週放映の金曜ロードショー
テレビの前に椅子を並べる
映画館のように並べる
自分だけの映画館作り
それが自分の楽しみだった
お客さんはいつも祖母一人

雨宮先生
担任先生

今どうしているだろう
良い先生だった

日本にすぐ馴染めない私を
いつも優しく助けてくれた

教科書等忘れものをすると
デコピンをする先生だった
それがとても強烈の痛さだ

いまでもフッと思い出す

白髪でニッコリ笑う先生
そしてとても厳しい先生

人は出会う
べき時に
人に出会う

それはちょとした奇跡

別腸日記(17)橋の下の水(前編)

新井卓

ひとつの生活や、ひとつの仕事が、十年という年数で円弧を描き──年数とは所詮、人がヒトの限られた生の時間から切りだした仮構にすぎないのだとしても──ふたたびよく似た風景に回帰してくる、という感覚が否定しがたく、ある。

いま、横浜の関外地区の果てるところ、高砂町というところに仮の事務所を構えている。黄金町、日ノ出町といった瑞祥地名がならぶこのあたりは、言うまでもなく戦後有数の赤線地帯だったのが、2005年の違法飲食店(「ちょんの間」と呼ばれた細長い建物で、表向きは飲食店の一階部分と、買売春を行う二階部分に分かれている)一斉摘発を経て、今ではすっかり様変わりした。

今からちょうど十年前、この町で、横浜市と京急電鉄、地元の商工会が共同で立ち上げた「黄金町バザール」という芸術祭に参加した。広告写真の会社で心身を壊してから仕事を辞め、ようやく細々と作家活動を始めた時期だった。その頃は今よりも輪をかけて美術の世界(つまり「世間」ということだが)に不案内で、金もなく、突然舞い込んだ話に飛びついた格好になった。

話が決まった初夏、黄金町を訪れた。京急線で三浦あたりから帰るとき、車窓から垣間見る輝く川縁の風景──夕闇にひときわ眩しく、怪しい光を放っていた──だけが記憶にあって、真昼その街区を歩くのは初めてだった。芸術祭の事務局から名札を渡され、これを首から提げていれば面倒なことにならないから、と言われた。ライカを右手に握りしめ、従順に名札をひらひらとさせながら大岡川のほとりを歩く姿は、いま思えば弛緩しきった情けない有様で、ひっぱたいてやりたい気持ちになるけれど、過去の自分であることは拒絶できない事実と言うほかない。

やがて、町のいろいろな相貌が少しずつ、焦点のぼけたわたしの頭の中にも入ってくるようになった。当時、警察の摘発後とはいえまだ一握りの街娼や客引きが辻々に立ち、このあたりの元締めの暴力団も健在だった。あるとき終電を逃してしまい、映画館のレイトショーからバー「アポロ」に逃げ込んだ。夜明けごろふらふらと川辺を歩いていると、暴力団事務所の前で、肌脱ぎになった刺青の男が、たわしで何かを洗っていた。よくみれば分厚いまな板と出刃包丁で、いったい何を切ったものか、と一気に酔いが醒めたのを覚えている。

近隣の飲食店や商店は、どうひいき目に見ても繁盛しているようには見えず、性風俗に集まる客を失ったあおりを、もろに受けているのが見て取れた。芸術祭を支える地元のグループは「環境浄化推進協議会」という看板で数年来活動してきた、と聞かされた。このあたりから微かに感じ始めた違和感を──それが「浄化」の二文字から来ることは明白だったが──「作品」に昇華することはおろか、もっと直裁な行動や思考にうつすことのできなかった自分の足りなさが、今も時折、すきま風のように、夜の町の景色に吹いてくるのを感じる。(つづく)

赤い惑星

璃葉

真昼の強い日差しが暖かい色味に変わりゆき、夕雲のあいだから透き通った空が見える。家々の壁に伸びる淡いピンクの光が、しっとりした青い空気と風に混ざり合い、薄むらさきの世界になってゆく。雨の時期は終わったのだろうか。

晴れた日が続くようになってからよく話題にのぼるのは、やはり火星のこと。現在地球に接近中の火星は、ほかの星よりも明るく輝くから見つけやすいよといわれて、「ほう」と思いながらも、きっと夕暮れや明け方に現れる金星ぐらいの明るさなのだろうな、とぼんやり想像していた。が、とんでもない。

電車も終わる時間、一本道を歩いていると、まるい月のそばに強烈に輝く火星を見つける。星のことに興味がなくても、あれは何だろう?と思うのではないだろうか。まるで空の向こう側から何か合図をするためにライトを当てているような、奇妙な赤さが心にかかる。風がざわざわと吹くなかで、ルビーみたいな赤い惑星をしばらく眺めた。

地球にもっとも近くなる7月31日にはどんな輝きを見せてくれるのだろう。日に日に明るくなっていく火星を見ることが、始まったばかりの夏の楽しみなのだった。

164擬俳

藤井貞和

灰色の虹 六月に立ちにけり

(炉心にくべよ燃ゆる声の火)

思想の詩終わる六月 逢いがたし

(遠雷の句をきみはのこして)

炎天に苦しむこともなくなろう

(涼しきを見よ句稿のうずに)

かかる時かかる六月 きみが問う

(貨客船影火の五七五)

水売りの声 幽明のさかいより

(野の花の忌のななたびの日に)

 

(清水昶の晩年は、五七五のすしざんまい。五月三十日は七回忌でした。おいらにはまったく「からきし」で、六年まえの追悼句のままです。昶さん、ごめん。)

引き算の複雑

高橋悠治

サティを弾いていると もっと遅く弾くべきだと感じるときがある 何回も弾いて よく知っているはずの次の和音を 知っているように弾くと まちがった響きがする 音楽のさきまわりをして 音に手綱をつけ 思うままにひきまわしていいのだろうか 一瞬手が停まると ほんとうにまちがってしまう

音符の長さ通りに和音を打つのは 演奏者の思い上がりではないか 見たところ何の謎もない自然な流れの裏に 思わぬ落とし穴が隠れているかもしれない そんな場所がある 同じ曲を弾いていても その予感は毎回ちがうところに現れる 手がこわばると そこに辿り着く前に失敗する

それとさとられないように 気づかぬふりをしながら 手をわずかにゆるめてその和音を調べると かすかな輝きが内側からにじみ出ている

この感じは楽譜の分析からわかることなのか それなら毎回おなじ演奏ができるはずだが そうはならないのは それが作曲のしかただけではなく 演奏するうちに喚び起こされるものでもあるからだろう

サティの作曲法は 断片の貼り雑ぜで これは音楽学校で習うような技術ではなく 20世紀になってcentonizationと名づけられた 単旋聖歌の旋律型や  他の文化でも 旋律型をもつ音楽 ガムラン ラーガ マカームとも共通の技法だが 旋法に見えても パターンは始まり 中心音 終止形といった機能をもたず それを組み合わせる伝統的な構造はない サラバンドやジムノペディ グノシエンヌの ゆっくりした曲の3曲セットは 変化や発展を意図した構成ではなく  断片の貼り合わせは ひとつのものをちがう角度から見て組み合わせる キュビズムのコラージュに近い

音楽は 構造のない音空間に浮かんでいる 音空間は音のない はっきりした境界線のない沈黙の空間で そこに現れる断片の演奏順序は決まっているが 中心もなく 劇的に発展する物語もない 同じ断片 同じ和音 同じフレーズも 見えない光の揺れに照らされて さまざまな翳りを帯びる それは文脈による隠れた意味ではないし その前の断片との差と そのものの表面の角度によって変わる風の戯れかもしれない

サティの音楽のつくりかたから 演奏法を考える 新しい響きというだけでは 音楽の制度のなかにとりこまれて もう一つの可能性になり 新しさも薄れていく

次の和音の意外性を感じるままに 知らない音をそっととりあげて 道の外に道しるべとして置き直すと いままで見えなかった転換点が 一瞬見えるような気がする そこで道を踏み外すかもしれない 逆に それまで辿った道と思っていたのが まちがいだったかもしれない ためらい よろめき さらに思わぬ躓きで 演奏は一瞬ごとに危ない綱渡りになるが さいわい 音楽は突然終わってしまう

サティの貼り雑ぜの作曲法から 危ない足取りの演奏が生まれる この危うさから サティを脱いで 別な音楽が芽吹いてくることがあるだろうか