8月のジェノサイド

さとうまき

イラクに取材に来た新聞記者が、ネタを探していたので、「8月3日って知ってますか? ヤジディ教徒は歴史上74回の虐殺を受けていて、最後のそれが2014年8月3日だったんですよ」
そもそもヤジディ教徒は、日本ではほとんど知られていなかった。
「8月3日の一面に記事を書いてくださいよ。それって、めちゃかっこいいですよ」とたきつけて、その記者をドホークで避難生活を送る「ナブラスの家」に連れて行った。

2014年8月3日、ISがシンジャールを襲ったとき、銃声を耳にしたナブラス(当時12歳の少女)の一家は慌ててドホークに避難。ナブラスは、7月には、がんだと診断され、ドホークの病院に通うことになっていました。モスルはその時すでにISの支配に置かれていたからです。逃げ遅れたナブラスのおじいさんと息子は、10日間イスラム国の攻撃にさらされましたが自力で脱出したといいます。ナブラスの一族は、建てかけ中の建物を見つけそこで暮らしていました。避難生活と闘病生活が同時に始まったナブラス。

2015年の暮れ、鎌田實先生と一緒にシンジャール山に登り、避難民に支援物資を配り、山を下りると大雨になりました。ぬかるみの中ナブルスの家にたどり着くと彼女はぐったりしていました。先生はレントゲンを見ながら、お父さんを別室に連れていき、ナブルスの死を宣告したのです。「もう長くないから好きなことをさせてあげてください」

数日後も雨の中、安田菜津紀さんを連れていくと、やせ細ったナブルスは、苦しみもがき、そして、疲れ切って、静かに眠りました。安田菜津紀さんは静かにシャッターを切ってくれました。外に出ると、太陽が出ました。奇跡のような光に希望を託しました。空には白い鳩が一斉に飛び立ち巡回していました。数日後彼女は逝きました。
あれから、2年半が過ぎました。灼熱の太陽が降り注ぎ雲一つない青い空。
「ナブラスの家」はまだ建てかけのままでした。ナブラスのおじさんが出てきて、一家が隣に引っ越していったことを教えてくれました。息子が結婚して、家族が増えたので、家を借りることにしたそうです。お父さんは、クルド自治政府軍のペシュメルガで働いていましたが、去年の国民投票の後、シンジャールがイラク中央政府の支配になり、そこでの従軍は無くなりましたが、給料はもらっていて、息子が日雇いの仕事をしているので何とか生活はできているとのことでした。
明るい知らせもあります。

「イスラム国」に連れ去られた姪、当時19歳だった女の子が、昨年の7月13日にモスルが開放されたときに、自力で逃げてきて、ペシュメルガに保護されました。無事に両親のところに届けられました。その女の子は、精神的なケアを受けて、いまでは、そのNGOで働いてます。しかし、男の子はまだ行方不明のままですが。

イスラム国が、去ったあと希望は持てますか? と聞くと、
「状況は変わらないと思います。イスラム教の教えを受けた隣人たちは、いつでもヤジディ教徒を迫害する可能性があるからです」
どうしている時が一番幸せかときたらお母さんは、
「自分たちの生活は苦しいですが、まだましな方だと思っています。楽しいことがあれば、苦しいことを忘れることができますが、またすぐに思い出すのです。何が悲しいかというと、ナブラスのことを思い出しますし、ヤジディ教徒がおわされたこの苦しみをまた思い出してしまうのです」
どういった支援が必要でしょう? と聞くとお父さんは、
「国際社会が、ヤジディに起こったことをジェノサイド(虐殺)だと認めてほしいのです」
息子が結婚して6か月前に赤ちゃんが生まれました。名前をナブラスと付けたそうです。僕たちはナブラスのことを忘れちゃいけないんだと思いました。

8月3日、果たして新聞の一面にナブラスのことが出るのかな?

バブル時代と宗教

冨岡三智

オウム真理教の教祖以下の死刑が執行された。執行された人たちの若かりし頃の写真を見ると、バブル期に流行ったデザインのフレームの眼鏡をかけて笑っている。私も学生時代にあんな形の眼鏡をしていた。レンズが大きくて重かった。いつ頃だったか、私は学生時代の眼鏡のレンズを削って、その当時流行していた小さな楕円形のフレームに入れ直してもらった。その眼鏡のつるが昨年折れて、また新しいフレームに入れ直そうと思ったら、当世風のレンズはもう少し大きく横長になっていて、私のレンズは寸足らずになってしまっていた。そんなに時間が経過していたのに、オウムの人たちの時間はあの大きなレンズの時代で止まってしまっていたのだ。

 ●
大学時代の友人Tは春休み中にある宗教団体に入信した。大坂城公園で友人同士集まってお花見をしたときにその話が出た。すでにTと会った数人がそれぞれ脱会するよう説得したらしいけれど、Tは洗脳されて態度がかたくなになっていると言って泣いた。折しも世はバブルのピークに差し掛かろうとしていた。公園ですれ違ったOLがワンレンの髪をソバージュにして、黄色いボディコンのワンピースを着て腰にチェーンベルトを巻いて闊歩していたことを思い出す。

それからしばらくして大学の食堂でTに会った。Tは久しぶりと言い、私に宗教の話をしてくる。ここで説得するより、ひとまずは彼女を受け止めようと黙って話を聞いていたら、Tは逆に「あなたは私を止めないの? みんな私を説得してきたわよ!」と切れてしまった。こんな時は、本当はどうしたらよかったのだろう…。私の反応は冷静すぎたのだろうか。彼女は止めてほしかったのか、認めてほしかったのか。あるいは説得されると思い身構えていたのに肩透かしを食らったので苛立ったのか。

 ●
大学卒業後に就職した企業では勤務5年目の女性が受ける研修があった。私も受けてから辞めることになるのだが、この研修を受けた先輩から「なんだか洗脳されているように感じる」と聞いていた。今にして思えば、あればバブル期頃からはやり始めた自己啓発セミナーの一種だった。X JapanのToshiで話題になったような過激な手法ではないが、やる気を他者に操作されているような感覚があった。悪い意味での宗教に似ていた気がする。

私の肌感覚では、バブル時代は一種の宗教の時代だった。私がその当時の宗教に影響を受けなかったのは、私自身、葬式仏教で良しとする仏教徒であることに誇りを持っているからかもしれない。そう、根っからの土着派なのだ。ジャワのイスラムやカトリックでは死後1週間、40日、100日、1年、2年、1000日目に法要をするのだが、その先祖崇拝という点については分かるという感覚があるし、そういう私の仏教心はわりとジャワの人に理解してもらっている気がする。上に上げたような宗教では先祖崇拝にベクトルが向かわないようだ。私は特に先祖を敬っている自覚もないけれど、その点が落ち着かない。

しもた屋之噺(199)

杉山洋一

もう今年が半分以上終わったというのを、正直信じたくないという思いです。半年の間にやろうと思っていたこと、会おうと思っていた人、したいと思っていたこと、殆どがやり残してきている気がします。早すぎる日本の夕焼けの訪れを恨めしく眺めながら、今日はあと何を片付けられるのか、必死に知恵を絞ってみているところです。

  —

7月某日 ミラノ自宅
生徒たちが振るミヨーの演奏会を聴きに出かける。中庭に面した扉を開放していたので、リハーサル中に老若男女構わず、ふらりと入って来ては、半時間とか1時間とか、随分長い時間、ニコニコとミヨーのリハーサルを聴いて立ち去ってゆく。別に邪魔もしないので、客席が随分予定外の訪問客で埋まっていても気にならない。意外だったのは、小学生低学年くらいの子供たちが、別に親に促されたわけでもなく、嬉しそうにいつまでもミヨーの多調音楽に耳を傾けていたこと。
息子が一週間ダブリンに出かけるので、朝空港まで送ってゆくと、リナーテ空港は同じく中学生くらいの子供たちの長蛇の列。

7月某日 ミラノ自宅
息子が通うシュタイナーの整体師から、歯ぎしりで頸の後ろが固く詰まっているからと、デントゾフィー医を訪ねるよう言われる。
調べると確かに下歯が多少陥没していて、噛み合わせが悪くなっている。デントゾフィー医の勧めるままattivatoreというグミ状の歯固めを噛ませると、息子曰く、突然頭の後ろがぱっと開くような快感を感じるらしい。
そこで紹介された痩せた初老の整体師が息子の重心を治すのを眺めていて、これはどんな治療なのかと興味を覚える。マッサージでもなく、尾骶骨と頭を少し触る程度で何をやっているのか判然としないが、確かに施術後、前屈みだった重心が踵で支えられるようになった。
ちょうどこちらも先月から左肩から頸にかけて激痛で動けなくなっていたので、興味半分で彼に診て貰うことにして、日を改めて出かける。
息子も同じように言われたのだが、首から頭へ髄液を送る管が曲がっていて、流れが極端に悪くなっていると言う。本当かな、何だ同じ文句を言われるだけかと少々落胆しつつ、黙って施術を受ける。
時に深呼吸をしてみてと言われる程度で、何をしているのかさっぱり分からない。
暫くして、頭と尾骶骨を軽く触りつつ「畜生め、何だこれは」と独り言を呟くので、吃驚して「何か悪いのですか」と尋ねると、「積年の何かがあるようだ。全く通らない」と困ったように言う。
「どこかにぶつかったりした記憶は」「先ほどお話した通り、小学生の時に交通事故で10メートルくらい飛ばされたらしいですが、何処を打ったかよく分からないのです」「もしかしたら関係あるかも知れないが、どうも解せないんだ。他にはどこか打った覚えはないかね」「特には覚えていませんが」。「顎のあたりをぶつけた記憶は」「子供の頃に転んで顎から血を出しましたが」「それかなあ」。
そこまで話したとき閃くものがあって、幼い頃に母から聞いた話をふと思い出した。
自分は難産の末、吸引のせいで頸が曲がって生まれ、その後、かなりの大手術で首を真直ぐに治したこと、手術痕が頸のどこかに残っているはず、などと彼に説明すると、なるほどと言いながら、丹念に首の周りを調べ始めた。
「どうもここに手術痕らしいものがある。ちょっと触って良いかい」と彼が手を当てると、左肩を引き攣っている筋のずっと先にある、遠く懐かしいじんわり痺れるものに触れ、思わず鳥肌が立つ。子供の頃から常に薄く感じていた正体を、思いがけず目の前に引き出され、動揺とも当惑、安寧ともつかぬ、生まれて初めて感じる不思議な心地。

7月某日 ミラノ自宅
家人からメールが届いて、オリヴァー・ナッセンの訃報を知る。翌日東京のKさんからもメールが届く。
「ナッセンがなくなりましたね。A、Yには連絡したけれど訃報は出ませんでした。寂しいです」。
武満さんの最後の「Music Today」で、ロンドンシンフォニエッタとナッセンによる作曲のワークショップが催されたとき、Kさんの奥さんが通訳をしてくださって、当時英語などまるでわからなかったが、とても優しい口調でナッセンが「キューリアス」と言われたことと、「なんだかこの先が早く聴きたくなってきたよ」とMさんがそれを微笑みながら訳してくださったことを、鮮明に覚えている。
何度かナッセンの曲を演奏したことがあって、思いの外演奏がむつかしかった。音が全部聴こえて書いている作曲家の作品は、流れに任せて音を並べれるという単純な作業では終わらなかった。彼の楽譜を開くと、あの「キューリアス」が聴こえる気がした。

7月某日 三軒茶屋
ミラノから成田への機中、打楽器とピアノのための小品を書く。暫く前に読んだジェラルド・グローマーの「瞽女うた」は、音楽的視点からも社会的見地からも、大いに感銘を受けた。彼女たちのような、現在では社会的弱者と呼ばれる人々を、日本の伝統的社会がどのように扱い、或いは手を差し伸べて来たのか。この本を読む限り、健常者は弱者を助けるためでなく、むしろ民衆がもっと素朴に瞽女の音楽を心待ちにしていた場合も多かったに違いない。
少し時代を遡るし、音楽的性格も違う部分が大いに見受けられるが、聴き手が心待ちにしていた側面から、彼女たちの姿の向こうに、ふとヨーロッパ中世からルネッサンスにかけての吟遊詩人を思い出す。もちろん、宮廷に仕える吟遊詩人は多かったけれども、民衆のために歌う吟遊詩人やハーディガーディを抱えて歌う辻音楽師たちも存在した。
盲目のハーディガーディ弾きを描いた絵画は思いの外多く残っているが、フィンクボーンズ(David Vinckboons)やジョルジュ・デラ・トゥールの有名な作品を思い返しても、瞽女の社会的位置も音楽的価値も、ヨーロッパを放浪する裏ぶれた辻音楽師とは違い、誇り高き吟遊詩人に喩える方がしっくりくる。
打楽器はほぼ原曲の三味線をそのままなぞり、ピアノは榎本ふじの残した「一口松坂」の祝い唄を7回読み返しつつ、最後に原曲にたどり着く。
アリタリアの機長のアナウンス。「当機はこれより成田国際空港に向けて高度を下げて参ります。地上からの連絡によると、天候は曇り、気温は摂氏31度。ああ暑い…本当に暑い…」。
機内のイタリア人乗客たちも、機長と一緒に溜息をついている。

7月某日 三軒茶屋
酷い熱波のなかを自転車を漕いでインタビュー会場へ向かうと、最後の坂を登りきったあたりで、頭が少し朦朧とする。
楽譜を読むのは、本を読むのに似ている。演奏するということは、本の朗読に似て、意味を理解しないまま朗読しても、聴き手に意味が伝わらないのと、楽譜の音符を咀嚼しないまま演奏することも、よく似ている。
では、咀嚼して読んだからと言って、意味が本当にわかっているのか、と改めて問われると言葉に詰まるところも同じ。
読んだばかりの加藤周一の「読書術」から、役立つヒントを沢山教えてもらった。
捉えどころのない難しいものは出来るだけ簡単にして伝える。一件単純なものは、それがいかに豊かな深さを含んでいるかを伝える。
本でも楽譜でも、ともかく自分の言葉でもう一度説明できなければいけないだろう。演奏者も作品を造り上げる上で、重責を担う。
矛盾しているけれど、音楽を理解する必要などない気もする。現代音楽を理解するのは難しい、と言われるけれど、それなら我々はモーツァルトやハイドンやバッハの楽譜を理解できているのか。現代音楽は、作品を取り巻く社会背景、環境は我々の生きている世界であるから、むしろ理解し易い部分もあるかもしれない。
シューベルトを取り巻いていた社会情勢を、資料を通して知ったところで、現代社会のように、実感をもって接することは出来ないだろう。

7月某日 三軒茶屋
猛暑が続く中、玄関を開けると年の頃二十歳を少し過ぎたくらいの、あまり人相の宜しくない若い二人組が訪ねてくる。
湯沸し器の付替え工事を、マンション全体でやるのだが、お宅の確認が取れないと言う。家の者が居ないので分からないと断ると、今度は自称現場監督という25歳前後の、似た感じの男性がやって来た。
「こちらの機種の定価は31万円、それに工事費など入れ、総額35万円程度になります」。
「そうですか。先ほども申し上げたのですが、本当に申し訳ないのですけれど、家の者がおりませんもので、お話のみ承らせていただきます」。
「総額35万円なのですが、それを今回は世田谷区全体で仕事をまとめてやらせてもらっているので、25万円で結構です」。
「なるほど、素晴らしいですね。それではその旨、家の者に申し伝えます」。
「来週の工事になりますので、せめて機材だけでも至急注文したいのですが、口約束でいいのです、ここで決めてもらえませんか。ご主人は、奥さまと相談しないと決められないのですか」。
「すみません。お恥ずかしい限りですが、全くその通りでして。何しろ何も分からないものですから、すみません。名刺かなにか、ご連絡先をいただけますか」。
「仕方ないですね。この携帯電話の番号は今は使われていませんから、今手で書いたこちらの方をお使いください」と言ってから、少し後ろめたそうに、
「多分ですね、インターネットなどで調べていただくと、もっと安い値段で引受けている業者もいると思うんですが、ああいうのは、新品の機材を使わずに古い型落ち機材を使っているんです」。
「おやおや、それはいけませんね。同じ業者で人をだますようなことをされると、さぞお困りでしょうね」。
「そうなんです。あの…ただ、本当に出来るだけ早くに機材を注文しなければならないので、早くご連絡いただけますか」。
「わかりました。出来るだけ早くにいたします」。
「必ず、ご連絡いただけますか」。
「もちろんです。これほどお暑い中、わざわざご足労おかけしてすみませんでした」。
「きっと電話くださいね」。
「はいご心配なく。どうかお気をつけて」。
名刺に書いてある会社名で検索しても何も見つからず、書かれている住所は普通の分譲住宅。管理組合曰く、湯沸し器付替え工事の予定はないそうだ。
もしかして彼らも改心して仕事に打ち込んでいるのかもしれない、こんなに夏の暑い最中にやってきたのだし、それなら多少高くても彼らに頼んだらとも考えたが、残念だった。
こちらも伊達にイタリアに20年以上住んでいるわけではなく、かかる土地では狐と狸の騙し合いは日本の比ではない。
最後まで恨めしそうに電話を催促すると、女々しい上に余計疑われるから罷めた方が良いと助言したいが、却って詐欺を増長するので止しておく。

日がな一日、ブリアート族のシャーマン音楽を採譜している。本條さんの三味線とロシアとポーランドの弦楽合奏団の新曲のためで、シベリアで初演する。「杜甫二首」では陝西省の民謡を、「馬」では四川省のチベット族自治区道孚県の民謡を使った。チベットからモンゴルを越えて地図上でずっと上に辿ってゆくと、この曲を初演するクラスノヤルスクあたりにぶつかる。
民族音楽学者でもないので、聴いた印象でしかないが、ブリアートの民謡はトゥバ、それを越えたモンゴル、チベット、中国、朝鮮、場合によっては日本の民謡に通じるものを感じるが、同じブリアートのシャーマン音楽は、むしろカムチャッカ族のシャーマン音楽に近い気がする。きっとアイヌやイヌイットまで続いてゆくのだろう。国境など関係なく海を渡ってカナダまで音楽は続いてゆく。
ところで、懐かしいロシアの「メロディア」レーベルが出している「トゥバ音楽選集」は、アコーディオン伴奏がロシア的な寂しさを紡ぐが、合唱はモンゴルや中国の歌手にも通じる明るい声調の元気な歌声で、不思議な調和を織りなす。これは「イーゴリ公」などを聴いて、どこか懐かしいと感じる勘所に少し近いかもしれない。ボロディンはタタール人の血を引いているせいなのか、サンクトペテルブルク生れであっても、中央アジアの文化への共感は、他の作家たちが民族的旋律を異国趣味的に使ったのとは、一線を画す気がする。

7月某日 町田実家
6人の死刑執行とのニュース。実家の本棚に、古い小さな楽譜を見つける。
音楽の友社刊 石井真木 9楽器のための前奏と変奏 ヴァイオリンとピアノのための四つのバガテレン
表紙裏に 黒マジックでメッセージ。
杉山洋一君 このヴァイオリンとピアノの曲は、ぼくが作曲をはじめてから、第3曲目にあたる作品で、ぼくはその時25歳でした。
「オーケストラがやってきた」の洋一君の実に立派な演奏を記念して、この譜面を贈ります。がんばって下さい!
石井真木 29 Apr. ’79
自分が10歳の時に贈っていただいたもの。あれからちょうど40年が経って来年は齢五十歳。真木さんのバガテレンの倍の歳。
この世の中で二つ、恐らく真理に近いものを挙げるとすれば、一つは、時間は不可逆的に流れてゆくこと。もう一つは自分が死ぬということ。

7月某日 三軒茶屋自宅
個人的に死刑判決に違和感を覚えるのは、死刑が随分昔から廃止された国に住んでいるからであって、日本に住み続けていたら何も感じなかったかも知れない。社会常識や習慣など、そうした日常における意識の積重ね方次第で、どうにでも変化し得るのかもしれない。
日本の憲法改正が盛んに話題にのぼっていて、普段日本にいることの少ない自分が何も言えないと、黙って動向を見守るしかないなかで、ふとした切欠から溜飲が下がった。
東京オリンピックの開催に併せて、政府が都内の大学生に協力を促す発表をしたところ、学徒動員だと猛反発を買ったと言うではないか。そうであるなら、これが近隣国からの突然の軍事介入であったとしても、日本中の成人男性が我先に日本政府に身を捧げる状況だとは思えない。自衛隊に任せたいがための憲法改正かも知れないが、それでは国民として無責任な気もする。ただ長い目で見て、そちらの方向に我々の意識は流れつつあるかもしれない。

ちょうど10年前に松平頼暁さんが書いていらしたオペラ「挑発者たち」の台本は、頼暁さんご自身で書かれた。未来のどこかの国は、国民は全てよく政府によって悉く管理され、「生産性」を高めるため男女は別に暮らし、性的リビドーさえ極力抑える暮らしが求められる。
そんな日々の中で「革命分子」が周りの仲間を挑発し、新しい世界を求めようとするけれど、時既に遅し、近隣諸国から国境封鎖、軍事介入を受けミサイルが発射されてしまう。頼暁さんがどんな思いを込めて台本を書かれたか、考えるに余りあるものがある。戦争を経験した世代だから言える言葉もきっとある。

7月某日 町田実家
都内某所で父が巨大なムカデを見つけて驚いたとか。この位あったと両手で20センチほど示してくれたが、そんな大きなムカデはいないと笑い飛ばすと、確かにこのくらいだと憤慨している。ミラノの拙宅にもしばしばムカデは出没するが、ずっと小さいし益虫ではなかったかと言うと、そんなことはない、咬まれれば激痛が走ると反論する。どうもこちらが勘違いしている気がして写真で確認すると、果たしてミラノの自宅のはゲジで、毒もなく体長もムカデよりずっと小型だった。
ミラノで暮らし始めて以来、ムカデとヤスデとゲジが混乱すると思っていたが、西洋語で百足(centopiedi)は確かにムカデだが、ミラノの自宅のゲジも百足(centopiedi)と呼び、ヤスデが千足(millepiedi)だった。ギリシャ語を混ぜて千((chilopiedi)と書くと、これはどうもムカデ属全体を表すらしいので、面倒だ。
進化論は詳しくないが、世界中の人類も動物も煎じ詰めていけば、同じ穴の貉になると聞いたことがあるが、百足など眺めながらそう言うと、少し気まずい心地がする。

(7月30日 三軒茶屋にて)

7月最後の月曜日に

若松恵子

7月最後の月曜日に、渋谷のライブハウスで泉谷しげると仲井戸麗市のライブを見た。

会場となったCLUB QUATTROの30周年企画。久し振りの競演だったが、変わらない2人の少年心に打たれた夜だった。

1970年代、渋谷にあったライブハウス「青い森」に古井戸というバンドで出演していた仲井戸麗市と、客として来ていた泉谷しげるが出会う。RCサクセションで出演していた忌野清志郎とともに「またあいつ来ている」と噂していた変な客だった泉谷しげるが、店のオーディションを受け、出演するようになる。初めて泉谷の舞台を見た時の印象を「何かチャーミングだった」と仲井戸は語っていた。世の中には乱暴者のように伝わっている泉谷の印象だが、彼の歌に、彼のほんとの姿を見たのだろう。自分を理解してくれている人、仲井戸麗市との共演に、泉谷しげるも本当にうれしそうだった。

照れずにまた歌えよ。チャボ(仲井戸麗市)が添えるギターはそんな事を言っているようでもあった。今の時代にも古びない、いい詩だなと思いながら泉谷の歌を聞いた。

CLUB QUATTROができた頃は、泉谷しげるWith LOSERで2人はロックしていた。その頃のかっこいいナンバーも、アコースティックギター2本で、2人きりで演奏された。泉谷の呼びかけで、ライブの後半は舞台前に客が押し寄せて盛り上がる事になった。

懐かしくて盛り上がったんじゃない。20代で出会った頃から、今も2人が持ち続けている何かに、触れて感激したのだと思う。

CLUB QUATTROの30周年を祝福する、良い夜だった。

はじめてのアメリカ

岡田こずえ

「来月、サンディエゴに10日間行ける女性カメラマンを探してる人がいるけど、岡田さん行ける?」
4月はじめに知り合いのカメラマンから連絡がきた。同行するのはクライアントとカメラマンの男性二人、私はカメラマンのアシスタントという立場での仕事。アイ キャント スピーク イングリッシュの私がアメリカに行けるなんて! 英語が話せない私がアメリカで仕事ができるのか、そして長時間のフライトも体験したことがない。不安もありつつ、こんなありがたい機会はないのでその場で「行きます!」と返事をした。

アメリカでの10日間は、初日と最終日が移動日。最初の3日間は時差ボケを治すための日、最後の5日間が仕事。という日程だった。

初日
成田空港で、クライアントとカメラマンと合流した。二人ともJALのお得意様なので、ステータスを持った人しか入れないラウンジで搭乗時間まで寛ぐという。私もお二人のご厚意でファーストクラスラウンジに入れてもらった。テロテロの服に大きなリュックを背負った私は確実に浮いていたと自負している。
ファーストクラスラウンジは、とてもゆとりがあった。マッサージ機が置いてあるのに、誰も使っていない。大声で騒いでる人なんていない。靴を磨いてくれるサービスがある。寿司職人がカウンターで寿司を握っている。このお寿司がとても美味しく、3回おかわりした。

そして長時間のフライト。クライアントはファーストクラス。私とメインカメラマンは当たり前だがエコノミー。11時間も座りっぱなしなんて発狂したくなったらどうしよう…耐えらるか…
耐えられた。出された機内食をきっちり食べ、映画を見て、少し寝て、また起きてぼーっと映画を見る。到着した時には「もう着いてしまったのかぁ」と、少し寂しささえ感じるほどだった。

サンディエゴの空港での私にとって最大の難関、入国審査。この練習は場面別の英会話練習ができるケータイアプリをダウンロードして、何度もシュミレーションしてきた。私が呼ばれたのは太った黒人男性のカウンター。何を聞かれたかはよくわからなかった。聞き取れなかった。でも「How Long」そこだけはわかったので、「8デイズ」と答え、あとはニコニコして何とか乗り切った。

空港のロビーでクライアント、カメラマンと合流し、レンタカーを借りて宿に向けて出発。ここからは英語の話せる二人と一緒なので安心だ。サンディエゴの空気は乾燥していて、快適だった。空の色も日本より濃い気がする。

サンデイエゴの道を走っていて驚いたのは、とにかく道が広い。車線が何本もある! そして映画で見たことのある黄色いスクールバス! あちこちにあるアメリカ国旗! 仕事で来ているので、声には出さなかったが気持ちは高揚していた。

宿はホテルではなく、airB&Bの高級マンションの1室を3人で使った。3ベッドルームに広いキッチンとリビング、マンションの43階だった。海外に行き慣れているクライアントが「ホテルだと毎回外食になるし、疲れがとれない。ここなら自炊も洗濯もできるし、自分の家のように帰って来た気持ちになれる。」
たしかにその通りで、海外でありがちな食べ疲れもなく、体調を崩すこともなかった(ただ、生牡蠣を食べに行った日はクライアントだけお腹を下していたが)。
ここから8日間、私たちは朝起きてから夜に自分のベッドルームに引き返すまでずっと一緒に行動することになる。 …息苦しくなるかもしれない…この2人を家族だと思い込むしかない…そう心に決めた。

荷物を部屋においたら、まずは当面の食料の買い出し。憧れていた海外のスーパーマーケット! カラフルな野菜がギッシリと並べられている。そして牛乳のボトルの大きさ! バケツのようなアイス! その場で絞り出すピーナツバター! カラフルすぎるグミ!
映画で見てきた世界に気持ちが高ぶる。今回のアメリカで一番楽しかったのはスーパーマーケットだったかもしれない。

マンションでの料理はメインカメラマンが担当、私は洗い物と洗濯係。仕事の時もおにぎりを握っていくというので、カメラマンが3キロのお米をスーツケースに入れて日本から持って来ていた。サンディエゴ1日目は買い出し、荷物の整理をして終わった。

2日目
アナハイムまで大谷翔平選手を観に行った。17時の開場前から観客たちがゲートの前に並ぶ。まだ16時半だというのに大勢の観客がいるのを見て、クライアントが「この人たちは仕事していないのか?」と、ボソっと言った。エンゼルスでも大谷翔平人気は高く、日本人の私たちとすれ違う時に「OOTANI! OOTANI!」とハイタッチをしてくれる人が何人もいた。
試合は19時からだったので、17時に入った私たちは大谷選手の練習を見ることができた。私の隣で練習を見ていたハーフの(後ろに日本人のお父さんが立っていたのでアメリカ人とのハーフだと思う)女の子は、「大谷ー! 大谷ー! サインちょうだい!」と大絶叫。顔を見ると目に涙を浮かべていた。日本語で「大谷選手に恋してるんですね?」と聞くと、「恋です!」と返ってきた。その時はサインをもらえなかったが、あの子がいつかサインでも握手でもしてもらたらなぁと思う。
試合開始になると、平日なのに観客席はほぼ満席だった。私たちの席は1階の1番後ろの席。せっかくなら大谷選手の写真を一番前まで行って撮りたいが、そのブロックに行くにはガードマンがチケットをチェックしているため勇気が出ない。しかし大谷選手の打順前にガードマンがいなくなった。その隙に一番前のブロックに降りて行き、一応遠慮して3列目の階段でシャッターを切っていた。ところが見回りに来たガードマンに見つかってしまい「怒られる…ここはアイ キャント スピーク イングリッシュでごまかそう…!」と頭をフル回転させていたのだが、ガードマンは「大谷だろ? 一番前で撮れよ」と言ってくれた(いや、英語がわからないので本当のことはわからないが、そう言ってくれたと信じている)。その言葉に甘えて一番前まで行くと、今度は一番前の席に座っている地元のおじさんが、「ここの席に座って撮れば?(これも私の勝手な解釈かもしれない)」と、席を譲ってくれようとまでしてくれた。
大谷選手のおかげで、みな日本人にとても優しかった。エンゼルスは負けてしまったが、大谷選手が最後の打席でホームランを打った。ホームランを観れたことも嬉しかったが、それ以上に地元の人の優しさがとても嬉しかった。

3日目
私が行きたかったラホヤのビーチに連れて行ってもらった。野生のアザラシを間近で見られる海岸だ。アザラシは想像以上にたくさんいて、普段なら触れるくらいまで近付けられるそう。この時は波が高くて近づけなかったが、いつかアザラシを撫でてみたい。

その帰りに寄ったmeat shopで衝撃を受けた。同じパンが長いショーケースの前にズラッと大量に並べられている。このパンは賞味期限内にさばけるのか…?
この写真を日本に帰ってきてから片岡義男先生に写真を見せた。片岡先生いわく「賞味期限なんて気にしてないね。もしかしたら創業当時からずっとあるかもしれない」と、恐ろしいことをおっしゃっていた。

4日目から8日目
いよいよ仕事。
朝6時に起き、まず昼食用のおにぎりのために鍋でお米を炊く。朝ごはんを食べ、身支度をし、おにぎりを握って出発。マンションから仕事場まではシェアサイクルを利用した。日本のシェアサイクルのように決まった場所に自転車が集められているわけではなく、あちこちに乗り捨てられている。うまくいけばマンションを出て3台一度に見つかるが、そうでない時の方が多い。仕事場に徒歩で向かいつつ、一台ずつ確保していく。スーツ姿の大人3人が一列になって黄色い小型自転車で走る姿は滑稽だったと思う。
仕事の内容は難しいものではなく、私のネックは英語が話せないこと。しかし皆さんとてもやさしく「This…How…」を駆使して必死で喋る私の英語に一生懸命耳を傾けてくれ、私のレベルに合わせて答えてくれた。私が話しかけたアメリカ人全員がやさしかった。嫌な顔なんてされなかった。

私たちは初日から最終日までずっと一緒に行動していた。私が写真を撮りたくて、「一人で街を散歩してこようと思います。」と言っても「外に出るの? そしたら俺たちも行くよ」と。
海外に慣れていない私を心配してくれてのことだが、本当に自由時間がなかった。だから写真も走る車の中から撮ったもの、マンションのバルコニーから見える景色、たまの外食の際に撮ったもの。これしかない。

しかし心配していた「息苦しさ」は感じなかった。共同生活も終盤になると、夜は3人で大きなソファーに座り、TVの野球中継やミスコンを見てくつろいだ。そんなに仲良くなったのに、日本に帰ってきてからは一度も連絡を取っていない。でもまた会えばあの時の連体感にすぐ戻れるような気がする。8月末も同じメンバーでドイツへ出張に行く予定だったが、ドイツの話は無くなったと今朝連絡がきた。残念。

最終日
帰りの空港で、一人床で寝ている男性を見た。倒れているのではない。ヘッドフォンをし、スマートフォンを空港のコンセントで勝手に充電し、完全に寝る体勢をとっているのだ。私が珍しがって写真を撮っているのを逆に周りの人が珍しそうに見ていた。アメリカではよくある光景なのかもしれない。人の目を気にしないその姿勢、私も見習いたいと思った。

私が初めてのアメリカで知ったことは、アメリカは英語が話せなくても親切にしてくれる。アメリカの肥満は日本の肥満の比じゃない。そして日本のご飯がいかに美味しいかということ。野菜も果物も、日本の方が味が濃い。料理の味付けも深みがある(それを当たり前だと思っていた)。お菓子もケーキもどれを買っても失敗しない。日本の食事の素晴らしさに気付き、日本に帰ってきて1週間で2キロも太ってしまった。片岡先生にこのことを伝えると笑ってくださったので、太ったこともまぁ良しとする。

165仔鹿

藤井貞和

わかくさの 掛けぶとんに
すや すや あかちゃん

月の光も はつかねずみも眠る
なつくさの 跳ねぶとん

夜空のべっどのうえに
それでも眠る すや すや

かれくさの 敷きぶとん
野のかぎあなを あけて

生駒連山のあなたへ まだ
まだ足りない眠りです お寝み

(いつまでも寝ていたい君へ。起きて。旧作。)

仙台ネイティブのつぶやき(37)勉強好きの系譜

西大立目祥子

 見上げるように高い白漆喰の土蔵。堂々として重厚な黒壁の店蔵…。目を見張るような土蔵があちこちに残っているのに驚きながら、初めて福島市飯野町を歩いたのは2010年のことだった。

「地元学」という活動のサポートのためだ。「地元学」は地域活動の手法の一つで、30年ほど前に仙台と熊本で始まった。地元住民とよそ者がいっしょに歩いて、風景をあらためて見つめ直し足元に眠る資源を再発見していく。毎日見慣れているものも、外からの目で別の視点で見直せば、光を帯びてくるというわけだ。

 飯野町は福島市の北東端に位置する地区で、2018年に福島市に合併するまでは単独の小さな自治体だった。その中心に不釣り合いなほど充実した町場が形成されていて、時代はくわしくわからないが近代以降に建てられた造り酒屋や味噌醸造屋などの豪壮な土蔵が残っている。また、明治末に建てられ芝居小屋や映画館として使われた建物が、緞帳も映写機もそのままに静かな時間を刻んでいる。

 そして、2、3の神社には実に立派な石鳥居が築かれ、それらは江戸時代に信州高遠藩の石工たちが出稼ぎにきて、地元の石工たちを指導しながら建てたものであるというのだった。ちなみに阿武隈山地は花崗岩の産地で、山間にはときどきごろりと巨石が横たわり信仰の対象になっていたりする。

 確かにここには明らかに、とてつもなく豊かな時代があったのだ。数々の遺構はそうはっきりと物語っている。その豊かさは、絹が生み出したものだ。江戸時代から阿武隈山地一帯は養蚕が盛んな土地柄で、明治期になると絹は輸出品の花形となり、農家は春から晩秋まで養蚕に精を出した。蚕には様を付けて「おかいこさま」とよび、家の中はお蚕様にのっとられるほどであった、と年配の人々はいう。

 ほとんどまだ誰にも知られていない資源群。私はすごいすごい、おもしろいとつぶやきながら土蔵や鳥居や、境内の狛犬の写真を撮って歩いたのだったが、地元の人たちにはいまいち伝わらないようだった。

 そうこうするうち東日本大震災が起きた。町内の道路の法面は崩れ落ち、巨石は大崩落し、何より原発事故は外を歩くことさえ困難にした。除染作業が始まり、農地は放射能の軽減のために天地替えやゼオライト散布が行われた。地元学の活動を続けるような余裕などなくなり、活動は中断したのだった。

 1年後、除染作業が続く中で活動は再開したのだけれど、もう私は地域を捉え直すための地元学活動をどう考え、何をどうしたらいいのか正直わからなくなっていた。せめて、この大災害と未曾有の事故の現実を写真に残そうと参加した人たちに伝え、それまで撮影した写真に文章をつけてもらい、1冊の冊子を編んで納品し、その後飯野町を訪ねることはなかった。脳裏には町の風景が生き生きと刻まれてはいたのだけれど。

 今年5月、携帯が鳴ってなつかしい声が響いた。斎藤憲子さん。飯野町の地元学活動で人一倍がんばってたくさんの文章を書き、子どもたちを引き連れて町内を歩いてくれた人だ。「冊子は上がったのに話ができなかったし、みんな歳をとってきて活動は停滞気味。あらためて冊子を読み直すところからやってみようかと思って」と話す。7月中旬、6年ぶりに飯野町を訪ね、活動に参加してくれた人たちと再会を果たした。

 亡くなった人もいたが、みんな元気だった。
 それにしても勉強好きの面々でなのである。斎藤さんは子どもたちに飯野町の民話を伝え伝統遊びを教え、毎年春の吊るし雛まつりにかかわり、観光ガイドの会も主宰している。町内の巨石群を調べ歩いた人がいるかと思えば、自宅の畑から安土桃山時代に輸入され貨幣が発掘されたと話しかけてくる人もいる。そして首都圏から移住してきた人は、これからの飯野について真剣な議論をしたがっている。

 そのようすを見ていて、この町は江戸時代から文化的活動が活発だったことに思いあたった。『飯野町史』によると、18世紀の終わり頃から村々には、書、絵画、
俳諧、和歌、狂歌、お茶、挿花、将棋などのサロンが生まれ、合評会を行ったり、別のサロンと交流したり、と熱心な学びの活動を展開している。江戸に出かけて学んだり、他地域の名人と交流したりもあったろう。そしてその主役には武士層だけではなく農民もいた。和算も盛んで、中には100名を越える弟子をとるものもいたという。

 これもまた経済的余裕が生んだ生活のゆとりといえるものかもしれない。おそらく養蚕がもたらした余裕なのだろう。晴れた日は田畑で働き、雨の日は俳諧に興じる。そんな生活があり、それは見えないかたちで脈々と受け継がれてきているのだと思える。勉強好きが、学びの意識が、そう簡単に生まれるわけがない。

 いまは使われなくなった土蔵を残し苦労しつつ維持しているのも、精神的ゆとりのなせる技だろう。これが例えば仙台のような都市なら、役目を終えたものはさっさと解体されて新しい建物が建つに違いない。でも時間を刻んできた建物が目の前にあることは、住む人に知らず知らずのうちに歴史を伝え、静かな誇りを授ける。あらためて、再会した人たちに声を大にしてそう伝えた。
 こういう町は、きっとしぶとい。

新しい世界

笠井瑞丈

言葉を飲み込み
噛み砕く
そこから
生まれてくる形





眼球

思考

踊る

空を覆うカラス

笑う青年
泣く少女
叫ぶ老人

四人の僧侶
病気の少年
狂った老人

音楽と踊
踊と音楽

遠くから聞こえるバイオリン

二十代前半目黒通う
アスベスト館

初めての舞踏経験

ヤミの先を歩く
時間の上を歩く

稽古場の床
煙草の匂い

まったく理解できない
まだ見ぬ世界がそこに

あれから20年

少しは何かが変わった気がする

少しは何かが変わった気がする

だけ
かも

迷いを捨てて

走って打つかって
粉々になるまで

そこから新しい世界へ

真夏のひととき

璃葉

自宅だとまったく仕事に集中できない日がある。そんな話を何気なく仕事仲間兼友人にメールしたら、「だったら、うちで仕事してみる?」と誘われる。
その日は人を殺しそうな暑さも少し和らぎ、涼しい風が吹いていた。電車で1時間もかからない場所に住んでいる友人のことばに甘えて、ノートパソコン、筆記用具、原稿などの仕事道具を一式持って出かける。

友人−−−彼女とは数年前、仕事先で出会った。一緒に本をつくる作業をするうちに打ち解けていき、何時しかとても信頼できる、数少ない友人になっていた。
お酒を呑むことが大好き(重要)で、どんなに遅い時間に仕事が終わっても、かならずお酒を美味しく呑んでから眠る。たまにソファでそのまま眠りこけてしまうことも多いらしいから、少し心配ではあるけれど。

校正という仕事を、彼女は非常に真面目に、細やかにする。赤い文字をすらすらと、きっちり原稿にのせていく。紙を扱う作業を毎日しているひとは、紙の扱いがとてもうまい。紙の束が手に吸い付いついているような、めくる動作ひとつさえも綺麗で、少し変態めいているかもしれないが、わたしはこの日、それを見たくて彼女の家に足を運んだのかもしれない。

大きめの木のテーブルで、各自作業をする。たまに一息ついて、仕事を絡めた近況をポツポツと話し、そのうちお互い作業に集中して自然と無言になり、あっという間に時間が流れていく。

日が暮れていくにつれて、部屋がじわじわ薄暗くなる。窓から見える空は広い。住宅街の屋根、公園の木々と、電線。遠くに走る電車がまるでおもちゃのよう。二人で窓から顔をだして、薄ピンクに染まる空と、南東から昇ってきた月をしばし眺める。今日は空気が綺麗だから月がよく見えるね、火星、近くなってきてるね、とか言いながら。
小さな白熱灯をつけて、さて、そろそろ麦酒で乾杯でもするか、ということになり、散らばった紙を片付ける。もはやこの麦酒のためにこの会を開いたということは、言うまでもない。

別腸日記(18)橋の下の水(中編)

新井卓

京浜急行線を黄金町で降り、大岡川を渡って左へ──風俗店「ピンクライオン」のY字路の右手に、「黄金劇場」があった。東日本大震災から一、二年経ったころ、突然警察が踏み込み経営者と客の何人かを検挙して去って行った。「公然わいせつ」の咎ということだった。長年の経営難、そして建屋の老朽化を、常連客の大工などが廃材でつぎはぎして凌いできたというストリップ劇場は、こうして、およそ四十年の歴史にあっさりと幕を下ろしたのである。

二〇〇八年、黄金町の芸術祭に参加が決まってから、はじめて「黄金劇場」を訪れた。日本のストリップに馴染みがなかったから、友だちの売れないミュージシャンを誘って、つきあってもらうことにした。昼下がり、日ノ出町駅で待ち合わせて、明るいうちから開いている居酒屋に座り、ほろ酔い加減になってから川縁を歩き始めた。
薄暗い入り口をくぐり、モギリの初老の男性に入場券を求める。「お兄さんたち初めてだろ? ビールはサービス。少し後ろが初心者向きだよ、さ、どうぞ入って」と、愛想よく劇場に通された。中は思いの外広く、客の多くは仕事を早く上がった(か、あるいは勤怠中の)勤め人という風情で、女性客もちらほらと見受けられた。早い時間の回だったせいか客は五割くらいといったところだったが、佇まいから察するに、こなれた客ばかりのようだった。

ほどなくして、それらしいムード歌謡が流れ、照明が落ちショーが始まった。年増から年若いダンサーへ、番組はそのように進行するらしかった。一番手の女は表情やポーズを変えながら踊り、客席に繰り出しては常連たちに腕を回して、なにやら談笑するのだった。ここまで来たらどんな顔をしたものか、と少し焦ったがそこはベテランの余裕で、新参者のわたしたちには大仰な一瞥だけを送って、舞台へ戻っていった。

毎回ダンスが終わると照明が明るくなり、有料の「ポラロイド・ショー」が行われる決まりになっていた。希望する観客が舞台に上がり、インスタント・カメラで裸の踊り子たちを撮影する。写真はあとで踊り子がサインを入れて、帰り際に客に手渡す、という段取りだ。隣の客が、これが、給料の少ない踊り子たちの大切な現金収入だという。それを知ってのことなのだろう、初老の男たちが代わる代わる、舞台に上がっては、踊り子と軽妙な会話を進めながら、シャッターを切っていく。観る者が、ふと、観られる者になっていた。

淡々とした場の空気には、淫靡さや性的興奮よりもむしろ、触れれば壊れてしまいそうな、弱々しい、いたわりに似た何かが、確かに混じっていた。ダンスのクライマックスで投げられる紙テープや種々のかけ声、それらは時間の蓄積によって形づくられた、固有の様式といってよかった。
しんがりの年若い踊り子は、もうすぐ臨月で来月からは舞台に上がりません、と客席に向かって挨拶した。唐突に「こんにちは赤ちゃん」が流れ、彼女は、露わになった大きなお腹を揺らし、綿を詰めた人形を抱いて踊った。

夕方の部は、こうして幕引きとなった。消化しきれない何かを腹のあたりに感じながら、しばらくの間、わたしたちは無口だった。そのまま帰る気がしなかったから、日ノ出町に戻って「第一亭」に腰を落ち着けた。この中華店の隠れた名品は「パタン」という油そばで、無闇にうまいが、一皿平らげてしまうと翌日まで、ニンニクの残り香と胃のあたりから来る胸苦しさを我慢しなくてはならない。弾力のある麺をカラメル色の紹興酒で流し込みながら、黄金劇場の人々を撮って芸術祭で発表しよう、わたしはそう心に決めていた。

深夜便

仲宗根浩

七月に入り、沖縄は十日おきに本島、先島、本島と交互に台風が来ると思ったら、台風になりそこなった低気圧。台風ごとにだんだんと暑くなってくる、と思ったら北海道と沖縄以外のほとんどがもっと暑くなっている。でもこっちは最低気温27度以下になることは無い。その後にえげつない曲がり方をした台風が災害地を通る。

七月四日、静かな日。その翌日も静かだった。合衆国は連休にしたのだろうか。空は何も飛ばない。

ある日、お願いメールが来る。添付されたテキストは歴代の沢井忠夫、沢井一恵両先生の歴代内弟子リスト。リストは2010年まで。送り主は七代目の内弟子栗林秀明氏こと栗さん。この後の情報収集を頼まれた。わたしに箏の手ほどきしてくれた方であり、大学でも先輩、いいっすよ、と軽く引き受ける。最初にテキストファイルを表計算ソフトに取り込んで少し体裁を整える。そのファイルを添付し返送。お互い拡張子が同じフリーウェアのソフトを使っていることがわかり、こちらが収集したものを情報を逐一送り、リストはどんどんヴァージョンアップしver.3.3で一旦作業終了。八月一日にいま海外にいる歴代内弟子さん含め集まる、という会があるのでそれを経て不明なところ、修正しなくてはいけないところを整理することになった。

それもこれも、最初8.1集会の話は昨年シドニーから誘いの話があったが、その頃は所定休以外の曜日に休みなど取れない状況でお断りしていたのだが、ここ数ヶ月微妙に休みが動かせる労働環境が整ったため流れで参加することになり、であれば最新版を、となったため。

参加するとなれば八月の沖縄便は高い! 羽田に行くのはそうでもないが、帰りの沖縄に行く便が安くない。なれば羽田に行く便の最安値を探すと8,690円というものがある。空席あり。那覇発午前は3時35分、羽田着は5時55分。夏場だけ運航している深夜便。即予約し購入。往復26,180円というシーズン真っ只中で中々の値段に抑えられた。

仕事を終え豪雨の中、23時過ぎに帰宅したあとシャワー。身支度をし深夜、車で那覇空港へと向かう。

朝日ジャーナル★36

北村周一

シラス漁のはじまりし伯父の家熱し
 声から先に茹(う)で上がりつつ
校庭の大空たかく放られて
 上履きひとつ逃げ去るごとし
古タイヤ燃やすけむりの上に月
 案山子のごとき農婦うごかす
一発でみんな失格になればいい
 ひだり周りに走る白線
入隊後2、3㎝は伸びるらし
 朝鮮人民軍兵士の背丈は
キャタピラーは毛だらけの猫灰だらけ
 毛虫のような人柄をいう
月の海海の月かもサンタ舞い
 セロトニンにはカラオケが効く
「アカイ、アカイ、アサヒ・・・」の上にひかり射し
 目映かりけり朝日ジャーナル
花冷えの京の町屋の人模様
 ツケで飲みだす画商は長閑
ユスラウメに薄ら笑いのひびきあり
 公的年金受給の年に
最終の下り電車は遅れがち
 ホームの客はみな西を向く
本キャベツ紫キャベツ花キャベツ
 芽キャベツ芽花キャベツ同根
時計屋と通じ合うごと小鳥屋は
 眼力のみに占う未来
堕ちろという声に振り向く闇の中
 ダムの水路の八重桜夢
カンヴァスの絵の具の奥の月明り
 秋の星座を結ぶ筆先
啼く蝉の声を恃みに教会へ
 ひとりわかれて告解へ行く
虫下し飲み飲みひとはそのむかし
 花粉症とは無縁の日々を
寒すぎて暖かすぎて早すぎて
 それでもたいへんよく咲きました。

*懲りずに、連句にふたたび挑戦。といっても、相変わらずの連句擬き。いわば擬密句三十六歌仙夏篇。

併走する窓

植松眞人

 そこに写っていたのは確かに自分だったと思う。
 深夜に高速道路を走る長距離バスに乗って、梨木正治は窓の外を見ていた。
 高速道路の高架のつなぎ目が、心地の良い振動となって伝わってくる。時折、外灯が密集したエリアがあり、煌々とした光に高速バスの窓が、唐突に浮き上がってくる。
 梨木は前日の仕事がなかなか終わらず、いったん家に帰って着替えてから出ようという計画も無駄になり、スーツ姿のまま深夜十一時過ぎに発車するバスに乗り込んだのだった。新宿は平日の深夜だというのに人がいっぱいで、JRの駅前も人でごった返していた。そんな人混みをぬってバスに乗り込むと、不思議と梨木が乗ったバスだけが乗客が少なく、梨木の隣も空席のままだった。
 スーツの上着も脱がず、ネクタイを緩めないまま、梨木は窓ガラスに頭を付けて眠ってしまい、気がつくとバスは高速道路を走っていた。せめてネクタイだけでも緩めようとしたのだが、疲れ切っていたのか、身体がうまく動かせず、そのまま心地よい振動に身をゆだねた。
 時折バスを包む外灯の光に目を細めていた時だった。梨木の乗ったバスの真横を、同じようなバスが併走していることに気付いたのだ。うとうととしながら、それに気付いた梨木は、ぼんやりと隣を走るバスに目をやっていたのだが、次第にそのバスが奇妙に思えてきたのだった。
 まず、高速道路をバスが同じ速さで併走することが不思議だった。どちらかが追い越していくならわかるが、ほぼ同じ速さで走り続けることなどあるだろうか。そして、この二台のバスが同じように揺れているのだった。その証拠に、梨木が窓に額をつけてぼんやりいと眺めているとき、隣を併走するバスがまったく揺れているように見えないのだった。同じタイミングで揺れているのだ、と梨木は思った。この二台のバスはまるで鏡に映っているかのように、同じ速度で同じように揺れて隣を走っているのだった。

 昨日、梨木は二十年勤めた会社を辞めた。大学を出てすぐに勤め始めた会社だが、営業という仕事は梨木には向いてはいなかった。人と話し信頼を勝ち得て商品を売るという、いたってわかりやすいオーソドックスな仕事だったが、向いてはいなかった。ひとつ商談をまとめる度に彼は何かを失う気がしたし、その対価である収入もそれ相応には思えなかったのである。
 勤め始めた頃には、歩合給ではないということが梨木の心を安定させていた。毎月、いくつの商品を売ったのか。どれほどの会社の信頼を勝ち得たのか。そんなことをひとつひとつ気にすることがとても不自由な生活のように思われたのだった。
 しかし、それは最初の数ヶ月の話だった。やがて、一定の収入を得るために、大事な時間を売り渡しているような気がして、通勤電車の窓ガラスに映る自分の顔を見ることができなくなった。それでも、梨木が仕事を続けることができたのは、幸か不幸か致命的なミスをすることもなく、決定的なトラブルを被ることもなく、淡々と社会人としての人生を送ることが出来たからだ。梨木の社会人としての人生はいわゆる平々凡々なものであった。若手と言われた頃から、中堅と呼ばれるまでキャリアを積み、いよいよ管理職へと歩みを進めるあたりで、梨木は立ち止まってしまったのだった。
 梨木は妻の芙美子と大学時代に知り合ったのだが、彼が就職を決めた時、彼女はこう言ったのだった。
「ねえ、あなたが思うほど、あなたは営業に向いていなくはないと思うの。でも、心配なのは管理職になってからよね」
 喫茶店のウエイターくらいしかやったことがなかった梨木には、芙美子の言っていることがあまりよくわかってはいなかった。しかし、四十代に入り、部下を持たされ、自分も管理職になると、その意味を思い知らされるようになったのである。
 自分には管理能力がない。部下を二人持たされた一ヵ月後にはそう思わざるを得なかった。
 梨木の下に配属された若い男女二名の新入社員は最初の一週間、とても熱心に梨木の話に耳を傾けていたのだが、二週間後には梨木の話を聞くよりも、新人二人で話すことが多くなり、三週間後には互いの目と目だけを見ることが多くなった。四週間後、梨木は上司に呼び出された。そして、高い求人募集広告費を使って採用した新人二人が入社後わずか数週間で恋愛関係に陥り、しかも揃って会社を辞めたいと言っているということを伝えられた。これは梨木の監督不行き届きであり、管理者としての能力のなさを露呈したものだと叱責したのである。
 以降、何人かの新人が梨木の下に配属されたのだが、いつも別の管理職とのダブルマネジメントという状況だった。つまり、梨木は管理職としての能力を疑われ、試されながら約一年を過ごすことになったのである。そして、その結果が芳しくないものであることは、梨木自身が一番よく知っていた。日に日に覇気がなくなっていく夫を見て、芙美子は何度か言葉をかけたがその度に大丈夫だと梨木は答えた。
 梨木は本当に大丈夫だと思っていたのだ。自分はこの仕事を深追いすることはない。向いていないならきっぱりと辞めようと考えていた。無理をしてもろくなことはないとわかっていたからだ。ただ、辞めざるを得ないと感じ始めてから、別の心配が心を浸食し始めた。
 収入だった。梨木のバランスが崩れたのは金の心配をした瞬間だった。入社から二十年。そつなく仕事をこなしていた梨木の収入は悪くなかった。いや、同年代の友人たちに比べると梨木の収入は比較的多く、妻の芙美子と裕福な暮らしを送ることができたし、高校生になる娘もなに不自由なく育てることができたのである。
 仕事にも出世にも欲というものがなかった梨木だが、それは彼が生まれてこの方、金銭に不自由することなく暮らしてきたからだった。普通に仕事をしていれば、普通に暮らせる。その事実が、管理能力がなかったら辞めればいい、という楽観的な気持ちにさせていたのである。
 しかし、実際に仕事を辞めなければならない、という状況が差し迫ってくると、梨木は目の前がくらくらするような恐怖を感じるのだった。そして、いまの暮らしを可能にしている仕事が出来なくなるという事態は避けなくてはならない、と強く思うようになった。そして、そのためには管理能力を強化しなければならないし、それに加えて、上司に対しては「できない」という言葉を発してはならないと強迫観念のように思うのだった。
「ねえ、会社でなにかあったの」
 そう芙美子が聞いたのは半年前の夏の夜だった。
「なにもないよ」
 梨木が答えると、芙美子はこれまでに見たことがないほどの悲しい目をして梨木を見つめるのだった。
「お金のことを最初に考えるようになったのね」
 芙美子はそう言って、梨木と目を合わせることがなくなった。その一言が梨木の思考に強く影響を与えた。確かにそうだった。上司から何かを言われても、それができるかどうかよりも、その仕事をすることで収入がなくなることはないのだ、と考えるようになってしまっていた。
 お金のことを最初に考えるようになったのね、と芙美子に言われた瞬間から、梨木は金銭のことをより明確に、一番に考えるようになった。実際にはずいぶん前からそうなってしまっていたのかもしれない。
 もしかしたら、と梨木は考えた。お金のことを最初に考えている、という指摘を芙美子にされなければ、知らぬ間にお金のことを考えない日々が戻ってきたかもしれないのに、と。しかし、はっきりとそう言われてしまったら、もうどうしようもない。あの日、芙美子が言葉にしてしまったことで、梨木の思考は「お金のことを最初に考える」という形に限定されてしまったのだ。
 金のことを最初に考える、ということは損得を最初に考えるということだった。最初に損得を考えるということは道徳を後回しにするということだった。
「ああ、私は人後に劣る人間になってしまった」
 梨木は自らを嘆いた。

 深夜バスは高速道路を走り、梨木を故郷へと運んでいた。もうすぐ正月も終わる。とにかく、墓参りに行き、菩提寺に参詣し、身を清めようと梨木は思った。
 いま、併走するバスの窓に映る、自分そっくりな男はどちらの自分なのかと梨木は考えた。
 これまで何不自由なく生きてきた、金のことを最初に考えるような人間ではない自分自身なのか。それとも、金のことを最初に考える人後に落ちてしまった自分自身なのか。そんなことをうとうとした頭で考えているうちに併走していた深夜バスをさっきよりも間近にあり、窓に映った梨木そっくりな顔はとても大きくなっていて、その表情は軽蔑してもしきれないほど卑下たものだった。(了)

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

  1

わたくしは この子の人形
この子に庇護されているゆえに
この子を庇護せねばならぬ
声の無いこの子が ただひと口
わたくしの口の端(は)に語らせる
 takanomori
それも 唇(くち)を動かさずに
わたくしの口に言わせる傀儡(くぐつ)のわざを
どこでさらったのか

 takanomori
これがわたくしの名なのか
この子にそう呼ばれているように聞こえるが
兄だか弟だかわからぬ男の子が
この子に呼びかけるのも
 takanomori
この子の名ではないにしても
この子の呼び名か

takanomori
この子は そのひと口しか
ことばをこぼさないのだから
男の子も
takanomori
そうかえすしかないのだが

  2

この子に母がいないわけを
わたくしは知らない
父はいるが いつもにぎやかな団欒に紛れるように
この子がいるのだかいないのだかわからぬようすで
この子とふたりでいるところを
わたくしは 見たことが無い

この子の家族は父とこの子と男の子の三人だが
家には親密で思いやりの深い親戚や父のなかまが出入りしていて
いつも明るくて 
ことばがあふれている

それなのに
この子の世話を任されているのは
わたくしと
この子の兄だか弟だかわからぬ男の子だけ

タカノモリ 
男の子が呼びかけると
takanomori
この子が言わせて わたくしが
応じる

プロセスから構造へ その逆でなく

高橋悠治

詩に作曲するとき 斜め読みで目に止まったことばから 音のうごきを思いつく 詩のことばはまず響きで 意味やイメージがその響きの表面から透けて見えることもあるが 詩は響きのリズムですすむ 詩の一行が 縄文字の細縄のように 太縄から短冊のように下がっているとすると 波打つ細い縄には 太縄に結んだ最初の結び目から ことばの節ごとにいくつかの結び目が見える

ことばの細縄に 音の縄文字が向かい合って その細縄の結び目から別な細縄が枝分かれして 音の網を編んでいく 一つ一つの音があって そこから網ができるのではなく 結び目から伸びる細い線が 蜘蛛の糸のように翻り 次の結び目を作る 結び目から網ができていくとき 音は線の通り道で 踊るように 舞うように 跡を残して過ぎていくが 結び目はそこに引っかかって足が思わずおそくなるところ と言ってもいい 詩の線に寄り添う音の線は ことばから音への翻訳ではなく 誤読も含んだ別の展開 というより 付かず離れずで 絡まるもう一つの線 声のリズムと並行か ちがうリズムで進むか 背景の空気を染めるだけか

喉を通り抜ける空気が声になるとき 風が吹きすぎた後の空き地に 回り込んだ空気が集まってくるように 喉に残った予熱が次の声をさそいだす 声は空間がないと響かないが 空間のなかのどこに音があるのかわからなくても 聞こえてくる方向はある 遠い音・近い音があっても 音がここにあるとは言えないだろう 風とちがって 音がどこに向かうかもわからない 音は空間のなかにあるものではなく 音が空間だということなのか 音が空間なら そこには区切りも 境界線もない

池に石を投げ込むと波紋がひろがるように 音が楽器から周りにひろがるイメージはわかりやすいが 楽器は波打っていても 音はそこに停まってはいない  音が変っていくのが聞こえる 変化するから音になる 音符に書くと楕円形の小石のようだから 碁石のように並べたり 順序を変えたりして 文字絵のように記号を組み立てて 形にすることもできる その場で消えて行く音から耳の記憶が作りだす形は それと似ているようでちがう イメージが作られるその場で消えていくと同時に 別なイメージが起き上がってくる

縄文字や文字絵は 読みかたがわかれば 意味が定まる 詩のことばは意味だけでなく イメージでもあり 読むときはまずリズムのある響きの列になる 音の網は雲のようにひろがっている バロック音楽のようにレトリックや音の絵である場合も ことばにならない感じが伝わってくる 歌のような声が シラブルに区切られてことばになったとき そしてことばが文字になり あるいは目印としての記号がことばとして声に出されるときに失われるもの 楽譜が音の散りばめられた平面として読まれ メロディーが音符の列になったとき抜け落ちるもの それだから逆に 音楽や詩は書くだけでなく 演じるだけでなく その場でさまざまに聞かれ 感じられると 意図も構造もない人間の集まりのなかに投げ込まれた小石となり 予想できる未来からのひとときの自由がそこに垣間見られたような だが それが錯覚でないと だれが言えるだろう