165ははは、独孤遺書

藤井貞和

現われて、
尾花のかげに跪いたぞ。
庭に俳諧する人、
きみ、老い人。 骨は、
五つに。 めぐる足、七回。
帰結の五体じゃ。 
どうしても、句跨がり、
跨がなくちゃならん。
多摩川よ、おまえは幇助する、
尾花のあたりで。
倒れたぜ、季語をのこして。
これが俳句だ、
あら どっこいしょ。
 
 
(十三行からなる俳句があったってよいじゃないか、季節は秋、季語「尾花」。)

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

  3

この子の屋敷は 里のいちばん高いところ
もうその先は里ではない
モリ というが だれも 
モリ とは くちにしない
モリ といえば モリが目を覚まして
タマ を獲られてしまう
だから 里の人が どうしても
モリ と言わねばならぬときは
モリのまえにタカノを付けて

タカノモリ
 
 
  4

モリの入り口は
トチやサワグルミやホオの
見上げるばかりの木が 空をおおう
その森の翳が届くか届かないところに
この子の棲まう離れがあって

この子ひとりで 森の瘴気を吸いこみ
チチのようなあたたかい息にかえる
けれども この子ひとりの息のちいささでは
大きなモリの瘴気をどうすることもできない

四月バカ★36

北村周一

犬とゆく秋の日光二泊ほど
 ラクは月よりパンを喜ぶ
曼珠沙華花なき茎をみず垂れて
 母はシングル・マザーと呼ばれ
漁師町に寺々数多梅雨の入り
 歩いたあとに蝸牛歩む
目に見えるもののみに語る不自由よ
 グループ展の初日を酔いぬ
キッスまでのタイミング推し測りながら
 波止場の道を照らす灯台
父が買ってくれた英雄インク出ず
 ペンには小さくmade in china
雪面に旗立て直す月の夜
 アポロ計画熾火のごとも
飛ぶ鳥の耳の背後に気圧無し
 引力だけが滅びを告げる
花見してはじめての子を産みに行く
 橋のうえから手振る四月バカ
暖かや絵の具ふみたる土踏まず 
 朝のうんどうアトリエ前の
愛用の撫刷毛は純馬毛にて
「賢い馬は孤独を嫌う」
遠雷やひとに父あり母のあり
 二物衝撃レーザービーム
ゆめさめてまつおかさんの家のまえ
 歩いても歩いても六歳のぼく
ゆうぐれの雨のネオンの裏通り
 情事の前の顔なきおんな
月連れて七夕竹をくぐりゆく
 祭りのあとの物売りの声
コスモスを折りゆく子らは塾帰り
 宇宙人襲来セリと脅す
ヴェランダに籠を吊るせばメジロ鳴き 
 うららかに父の声あり若し
かぜにのりはなびら散らす丘の上 
 好きとは言えず揺らすふらここ

*擬密句三十六歌仙秋の篇。夏の終わりに。

仙台ネイティブのつぶやき(38)晩年の自由

西大立目祥子

 70代に入ってから絵を始めた叔母がいる。
 最初のうちは、あっちこっち出かけて、黒ペンと水彩を使ったいかにも元教師というような生真面目な風景画を描いていた。それが、一度入院したのをきっかけに、たががはずれたというのか、もう恐いものなんか何もないというのか、のびのびと自由に描きたいことを描くという画風に変わった。

 退院してきたときだったろうか、病室から見えたという、仙台市民にはなじみ深い正三角形の太白山(たいはくさん)を描いた絵を見せられて驚いた。山は赤く染められていて、赤い着物姿の女の子が山に向かって走っている。叔母は「これ、私なの」といった。連作のように何枚も描かれ、ふもとが落ち葉に埋め尽くされているのがあったり、細かい線で山が色分けされているのもあった。病を得て回復する中で逆にじぶんの生命力が湧き出てきて、それが子どものころの記憶と結びついて描く力になったのだろうかと思った。

 朝5時に起きると、高台にあるリビングの窓から、仙台湾に上がる朝日を絵日記のように描いていた時期もある。光まばゆい日もあれば、曇天にぼおっと太陽が上がる日もある。1日のはじまりを確かめるように、叔母はくる日もくる日も朝日のスケッチを重ねていた。
 かと思うと、「一人で蓮の花をスケッチしてきたの」と、スケッチブックを見せられたこともあった。でも、それはもうかつての忠実なスケッチではなくて、画面いっぱいに何輪もの花が散りばめられている。呼吸する花が呼応し律動しているような水彩画だった。叔母はスケッチをもとに、そのあと何枚も蓮の絵を仕上げた。
 歳をとれば誰しも体力も気力も衰える。でもだからこそ、生きるもの、命の息吹にへの感度は高まるのだろうか。始めて10年を過ぎたころから、作品は小さな美術展で入賞するようになった。

 叔母は父の3歳下の妹で、2人の子育てをしながら、長年、宮城県北の高校の家庭科の教師として働き、私にとっては専業主婦の母とは違う生き方を示してくれる存在だった。私自身が社会人になり仕事をするようになってからは、「食」というテーマを持って農山村の台所をめぐり文章を書く叔母を敬服してきたし、誰ともでも屈託なく話すところも好きだった。

 人にとって案外とおじさん、おばさんの存在は大切だ。厳格な父親を持つ男の子には、ふらふらと生きているようなどこかいい加減なおじさん。家族のためにきちきちと家事をこなす母親を持つ女の子には、結婚なんかせずに好きなことをまっしぐらにやり続けるおばさん。子どもにとってそんな存在が身近にあれば、それだけで生きるのが楽になるし、違う世界への入り口になる。
 私にとっての叔母は、私が日常眺めているのと違う風景を見せてくれる人だったのだろう。

 とはいっても、ひんぱんに行き来しておしゃべりするようになったのはここ数年のことだ。30歳の私と還暦近い叔母では、やはり抱えているものはずいぶん違う。それがいまでは還暦を過ぎた私と米寿を迎えた叔母だ。老いの入口と老いの渦中。先を行く叔母の暮らしぶりはこれからの私の水先案内のようであるし、どこか単調になっていく叔母の生活にたまに入り込む私は、いつもとは違う風を吹かせる存在かもしれない。

 近しい存在になって気づく。どこか似ているのだ。感じ方や気持ちの動き方。興味や関心、何を大切するか、そんな基本的なことが。これはやっぱり血筋なんだろうか。たとえば、気安く口に出してしまい果たせなかった小さな約束を、私はくよくよと気に病む。叔母も同じで、会うと会話が「ごめんねぇ」で始まることがある。こちらは何のことやらもうすっかり忘れているのに、何か小さな引っかかりがあって謝らなければと感じているのだ。

 このごろはいっしょに台所に立つこともあって、先日は食器棚にあった1枚の染め付けの皿を見せられた。手に取って叔母がいう。「これねぇ、昔、使ってた皿。これによくちらし寿司を盛りつけて…」それは、父も子ども時代に使った、仙台空襲をくぐり抜けた皿だった。叔母の胸には、80年前の家族の食事の風景がしっかりと刻まれている。物に宿る記憶。その感じ方は人それぞれで、私も同じように、長く使ってきたもの、濃密な記憶を持つ物は捨てられない。叔母がずっと手もとに置いてきた1枚の皿を前にしながら、またしても似た者同士という思いを強くした。

 そんな叔母がこの5月、長年連れ添ってきた叔父を亡くし、ついに一人暮らしになった。娘は千葉にいるし、同じ区内にはいるものの息子の家族とは別に暮らす。連絡がないとちょっと心配になるのだけれど、身の処し方を知る叔母は一人でいるのがもう限界、となると電話をかけてくる。「おいしいお菓子がきたから、来ない?」と。
猛暑日の電話には驚いた。「こんなに暑いのに、天ぷら揚げたの。取りにおいでよ」
 
 お盆に訪ねたら『世界を変えた100の化石』という本を見ながら一心に化石の絵を描いていた。そして盛んに2億年前の話をする。遊んでるなぁ、心のおもむくままに。晩年こそ、毎日毎日、イマジネーション豊かに好きな事に熱中して遊べるのかもしれない。
 この稿を書いているのは8月31日。たぶん、今日、叔母は長年続けてきた機織りの織り機に縦糸を掛けたはずだ。そしてきっと、明日1日から織り始めることだろう。
 こんなふうになれるだろうか。楽しくおしゃべりをしながら、私はいつも叔母の背中を追いかけるような気持ちでいる。

晩夏の記憶

西荻なな

夏の終わりになると、とりわけ酷暑と呼ぶにふさわしい夏の終わりになると、涼を求めて高原へと車を走らせた叔母のことを思い出す。夏のじっとりとしたむせかえるような暑さ、打ち水をしても陽の高さは落ちることなく、昼寝をはさまなければ動くに動けないようなうだる暑さがまだやってくる前、田んぼに畑に早朝からせっせと出かけていく祖父の姿を見ることなく朝食時にようやっと掃除を終えた祖母とともに顔を合わせる。甲府盆地のどまんなかで暮らしていた祖父母との夏は、東京育ちの姉妹ふたりが田舎という言葉をまざまざと体感する時間だったが、その祖父母の田舎暮らしの傍ら、坂道一本下った家に住まう叔母は、いつもどこか涼しくハイカラな、高原の空気をまとった生活をしていて、それぞれの家を行き来するのがまた1日の楽しみでもあった。午後日が落ちた頃、ミシンで作業をする叔母の家の戸を日課のように開けては夕飯時にまた坂を登る。甲府盆地の、今は日本のどこにもないように思われるあの暑さ。そこから抜け出るように、まだ幼い姉妹を、叔母はよく車で清里方面へと連れ出してくれた。時折濃霧の発生して寒いほどの高原気候の夏の高原に咲きほこるホタルブクロやオニユリ、ツリガネニンジンやクガイソウ。慎ましやかで淡い色をまとった花々が大好きで、シラカバの林の中を颯爽と車で駆け抜けて長靴とともに山の麓に降り立っては、押し花にする花々をちょっと拝借して、いつしかにわか植物学者を気どるほどになっていたが、帰り道苗木を買い、それがまた叔母の庭に加わり、また新たにさらさらとした葉の芽吹きとともに成長を遂げるのだと思うと、それもまた楽しみになっていた。畑で採れた太ったきゅうりと巨大なナスは、塩もみのきゅうりとナスの味噌炒めとなって飽きるほど毎日の食卓を飾り、それぞれを馬の格好にして迎え火と送り火を焚いた。その短い夏の間に、叔母は持ち前のセンスで押し花作業をともにしてくれるばかりか、ワンピースやスカートを作ってくれることも度々あった。月日が経過し、叔母にも家族が増え、迫り来る高齢化の波に変貌する甲府の小さな町の人間模様は、苦く暗い影をも落としていくことになった。夏の暑さも増すばかりだった。そうしていつしか甲府から足も遠ざかっていったが、太宰治が「新樹の言葉」で「庭にシルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と書いた一文に出会った時には、このハイカラさは、私にとってあの叔母の時間とともにある、と思われた。中央線あずさの特急に乗ることは、甲府へ行くことだった。でも、いつしか甲府をとばして高原や山ゆきの拠点駅に降り立つ今がある。でも帰り道甲府を通り過ぎる時、とりわけ晩夏になると、まだ独りだった叔母との時間が涼やかに思い起こされるのだ。

製本かい摘みましては(139)

四釜裕子

6月6日。この日を命日とする2人の詩人、北園克衛(1902.10.29-1978.6.6)とケネス・レクスロス(1905.12.22-1982.6.6)にちなんだ朗読会が東京・銀座で6月9日に開かれた。ケネス・レクスロスはビートの父と称されるアメリカの詩人で、北園と親交があった。邦楽家・西松布咏さんが伝統=前衛をテーマに開催してきた「ニュアンスの会」の6回目で、東京TDCの希望塾の一環としての会でもある。『北園克衛の詩学 意味のタペストリーを細断(シュレッド)する』(思潮社 2010)の大著もある日本文学研究家で詩人のジョン・ソルトさんが全体を構成して、同志社大学教授の田口哲也さんと、青木映子さんが司会を務めた。3人の訳編による『レクスロス詩集』(思潮社 海外詩文庫17)が、昨年9月に刊行されている。

会の1部「ケネス・レクスロス」では、レクスロスと交流のあった片桐ユズルさんと思潮社総編集長の高木真史さん、2部の「北園克衛」では、指月社社主の大家利夫さんと世田谷美術館主任学芸員の野田尚稔さんがゲストでいらした。スライドが流れる中、4人のゲストを含めた20人が客席から次々出て、レクスロスと北園の作品を日本語と英語で朗読していく。

私もいくつか読むように言われて数日前から練習していた。なかで、北園の「単調な空間」に難儀していた。「白い四角/のなか/の白い四角/のなか/の黒い四角/のなか/の黒い四角」で始まるアレ。もうこの際、朗読原稿として、「白い四角のなかの白い四角のなかの黒い四角のなかの黒い四角」と改行なしのテキストを用意してしまおうと思った矢先、ふと、これまで読んでいたのは縦書きだったけれども、『北園克衛の詩学 意味のタペストリーを細断する』に載っていた「VOU」掲載の横書き「単調な空間」のページを開いて読んでみたら、すんなり読めた。なぜだろう。試しにみなさん、横書きと縦書きの「単調な空間」を声に出して読んでみてください。

間違えずに読めれば成功というのが私のレベル。横に文字を追うことで三拍子の流れがつかめてなんとか読み終えることができて、英語版を朗読するジェフリー・ジョンソンさんにマイクを手渡した。棒読みの日本語版を受けて単調に始まったかと思いきや、最後に高々と「スクウェア!」。ジョンソンさんの口から六波羅蜜寺の空也上人像よろしくちっちゃい四角が続々飛び出し、一気に膨張して会場に広がってゆくのが見えて鳥肌が立った。四角が、空間を単調に抜き去ったのがわかった。二次会も含めて終わってみれば、ゲリラ性もあったからなおのこと、2人の詩人への粋な愛をランボウに振る舞う『レクスロス詩集』の3人の編訳者が、この詩集を台本として仕込んだ長い祝宴のような一日だった。本の出版とはひとつの台本を世間に公開するようなものでもあると思った。楽しかった。

7月7日。この日が誕生日の谷口俊彦さんから、自著『オルフェのうた』をいただく。以前仕事でお世話になった。40年の勤め人の生活に別れを告げるにあたって、感謝の気持ちを伝える長い手紙のつもりでまとめたとあとがきにある。当時から俳句をなさっていて、和綴じかなにかでほんの数部、退職を期に俳句をまとめてみようかなとおっしゃるのを聞いたことがある。とてもおさまりきらなかったのだろう。148ページ、空色の、軽やかな丸背の本になって現れた。自作の句や歌がタイトルになったり自解を添えたりと自在で、端的な語り口とあいまっている。ご家族への思いが特にいい。抑えた余韻に、読み手の家族まで迎え入れてくれる。

世間に7月7日を詠んだ句は多い。谷口さんがお気に入りの一句の作者に句意をたずねる一幕がある。自身が思い描いたロマンチックとほど遠い慌ただしさに苦笑しつつ、〈解釈のすべては読み手に委ねられる〉。作り手、読み手。一つの句をはさんで、互いお見通しのうえでの対話がいい。『オルフェのうた』を受け取った日、こちらはにわかサッカー観戦中だった。谷口さんの〈鬱を蹴り憂ひころがし日脚伸ぶ〉に目がとまる。晴れやかで愉快で、作り手の新しい始まりが重ね見えたように思ったけれど、続く自解には朝の通勤電車の憂鬱があった。あの日あの状況でこの句に覚えたよろこびは私だけのものなの、トンチンカンでも、恥じることはないだろう。

8月8日。姉が1つ歳をとってこの日から3つ違いになった。学年という感覚があった頃に2つ上だった名残りで、今も聞かれれば2つ上の姉がいると言う。2つでも3つでもどうでもいいと思っているわりに、3つ違いのきょうだいとはビミョー違う感じはする。7か月たてば2つ違いになり、5か月たつと3つ違いになり、それで2人の1年は過ぎる。

アジアのごはん(94)シャン州納豆めぐり

森下ヒバリ

久し振りにタイ国境からミャンマーに入って、チェントンという町にやってきた。ここはミャンマーの南シャン州の東端に当たり、ヤンゴンから来るのは大変(飛行機代が高い)だが、タイ国境のメーサイからは陸路でターキレックに入って、そこから車をチャーターで3〜4時間でたどり着ける。チェントンの手前の山の上の新しい大きな寺からは、はるかにチェントン盆地が見渡せた。雨季の今、周辺は緑色の田んぼで囲まれ、なんとも美しい。

チェントンに着いた翌朝、さっそく大きな朝市に出かけてみた。シャン族独特の食べ物やお茶などをたくさん売っている様子にワクワク。さっそく、納豆を発見。チークと思われる葉っぱにくるんで、小さな竹かごに入れられている。二包みで500チャット(約10バーツ、35円)。かごは付いてこないが、友人が「そのかごも売って」と言ったらおまけでひとつくれた。
蒸した豆を葉っぱで包んでそのかごに入れて発酵させるのだろう。この納豆は小粒大豆製の粒納豆で、きれいに白い菌糸に被われ、臭みもなく大変おいしかった。粘りは少なめ。タイ北部をはじめ、シャン州ではけっこうアンモニア臭のきつい納豆が多いのだが、この納豆はとても食べやすかった。
米の粉で作ったカオ・フーンという甘くないういろうのようなお菓子、というかおやつがおいしそうで一切れ買うことにした。すると売り子のおばちゃんが、
「カオ・フーンに付けて食べるナムプリック・トナオも一緒に買いなさい」と小さなビニール袋に入ったものを見せる。シャン語はタイ語のルーツであり、かなり近いので、多少のタイ語が話せるとこの市場ではいろいろ話が聞けて、食べ物の謎がいくらか解けてとても面白い。
タイ語で「ナムプリック・トナオ」とは「納豆製のつけ味噌」だ。おお、これも納豆か! 二種類あって、ひとつは赤く、ひとつは茶色い。
「赤い方は、紅麹入りの腐乳と納豆、そしてたっぷりの味の素入りよ」
「ええ〜、味の素たっぷりは要らないよ〜」
「そうなの? こっちの茶色い方なら、納豆、生姜、トウガラシと塩だけをつぶしたものよ」
「ほんとに? 入れない方がおいしいのになあ」
「チェントンの人は味の素がないとおいしくないっていうよ。大好きなんだよ」
「はあ・・」
さっそく、茶色い方のをなめてみると、たしかに納豆ペーストであるが、生姜のよく効いた赤みそみたいな味でもある。納豆をペーストにしてからしばらく熟成しているような味だ。これ、キュウリにつけてもろきゅうみたいにしてもおいしそう。赤い方も味見してみたが、腐乳の味がやや勝っている。納豆もちょっと熟成させれば味噌に近くなるのだな。もっとも味噌ほど保存性は高くないような気がするが、買って帰ったナムプリック・トナオをしばらく置いておいてみよう。
生の粒納豆はあまり売っていなかったが、納豆をペーストにして直径10センチぐらいの薄いせんべい状にした乾燥納豆はたくさんの店で山積みされていた。これは、北タイでもよく売っている。あぶってスープの出しにしたり、揚げて食べたりする。半生状態のちょっと厚みのある直径7〜8センチのクッキー状のトウガラシや根ニラが入ったものもあった。しかし、こちらの味付きの方はどれも味の素がたっぷりだ。
シャン族のお惣菜屋さんでは、乾燥納豆を砕き、小魚や根ニラ、にんにくなどと一緒にカリカリに炒め揚げしたおかずも売っている。これは後で市場横の食堂でも出てきたが、白いごはんにとても合う。ごはんがすすむすすむ。これは、もともとビルマ料理であるふりかけに、シャン族の乾燥納豆が入っているもの。名前を聞いたら「トナオ・パラチョウンジョー」トナオはシャン語で納豆、パラチョウンジョーはビルマ語でふりかけ、なので名前もミックスだ。ビルマ語では納豆は、ペー・ポウッ。

チェントンは15年ぐらい前に来たときは、時の流れから取り残されたような静かで美しい町だった。50年ぐらい前のチェンマイはこんな雰囲気かも、と思われるような、独特なシャン族(タイヤイ)の建物が残る町であった。さすがに今回は、そういう雰囲気はかなり薄れていて、古い建物も多少は残ってはいるが、どちらかというとビルマという国の中のシャン州のよくある町のひとつ、という雰囲気になりつつある。
15年前はまだ、当時の軍事政権に対して独立闘争をしていたシャン州軍の影響力が大きく、ビルマ文化の影響が少なかったためだろう。
シャン州はシャン族を中心にいくつもの少数民族が住む州である。シャンとはシャムであり、タイ族のことだ。タイ族というと、タイ国に住んでいる人のこと、と思いがちだが、タイ族という民族は、中国広西省、雲南省、ベトナム北部、ラオス、タイ北部、タイ東北部、ビルマ東部シャン州にまたがる広い地域に住んでいる。もともとは揚子江南部に住んでいたが、漢民族に追い出されて、7世紀ぐらいから長い時をかけて南西方向に移動してきた。
住みついた地域でそれぞれの先住民族・文化との融合・吸収があり、定住した地域によってタイ族の文化や民族性はかなりちがうこともあり、似通っているものもある。
タイ族は水辺の稲作地帯に住むことが多く、稲作による富を得て、先住民族を支配下に置いてきた。シャン州あたりではかつてシャン族の国がいくつもあったが、ビルマ族との覇権争いに敗れて、現在はビルマ族の支配するミャンマーという国の一部になっているのだった。
ちなみに、もっとも後発のタイ族の国であるタイ国は、じつはタイ国中部地域では福建・潮州系華人との混血が非常に多い。さらに東北部はタイ系のラオ族、東南部はクメール族、北部はラオ、シャン系、南部はモーン族やマレー系と地域性が高く、タイ族とひとくくりにはとてもできない。タイ国人は、タイ族というよりは、タイ国に住み、王朝を崇めていれば「タイ人」である、という意識でまとまっているように見える。

チェントンの後は、同じシャン州のインレー湖畔の町ニャウンシュエに行く。陸路では行けないので空路になる。南シャン州のインレー湖周辺は、シャン族、パオ―族、インダ―族、ダヌー族、パラウン族などさまざまな民族が住んでいて、伝統文化をかなり残した暮らしをしている。ただし、多民族なため、町や市場での共通言語はシャン語ではなくビルマ語だ。
ニャウンシュエのミンガラー市場で、ゆっくり買い物をするには普通の日の早朝がいい。五日市のある時は売り物も多彩で面白いのだが、人もたいへん多いのでゆっくりできないのだ。今日はいつもより少し早く市場に出かけて、乾燥納豆などを買い込んできた。
問題は、乾燥納豆や、半生のクッキー状納豆によく入れられる化学調味料である。たっぷり入れられたものは身体が受け付けない。何軒か目においしそうな乾燥納豆を売っている店があったので、ビルマ人に書いてもらったビルマ語の「味の素を入れないで(チョーモー・マテッ)」という紙を見せながら、英語を交えて売り子のお姉さんに味の素入りかどうかをたずねてみる。なんとか分かってくれた。
「ああ、うちのは、入れてないわよ」「ほんと? こっちのクッキー状も?」「だいじょうぶ」
まあ、食べてみないと真実は分からないが・・。半生クッキー状の納豆は二種類あって、荒めに潰したものと、しっかり搗いてペースト状にしたものを丸めたもの。どちらもパオー族の作る納豆だという。乾燥したうすくて丸いせんべい状のものは、シャン納豆、それに近いが根ニラやトウガラシが入っているのはピンダヤ納豆とのこと。ちなみにお姉さんはパオ―族。このあたりでは、納豆はパオー族が作ることが多い。
ここのはアンモニア臭もなく、丁寧に作られた納豆だが、ほかの店ではかなり悪臭に近い匂いのクッキー状納豆も売っていた。油で揚げたり、炒めたりすれば匂いも飛ぶので気にしないのかな?
インレー湖畔の町では五日おきに開かれる大きな市を五日市と呼ぶ。普段は常設市場の割り当てられたブースでしか店は開いていないが、五日市の時には、小さなブースが道や通路にも広げられ、手作り品を持ちよっての店開きで、大賑わいになる。
常設市場にはあまり置いてない、生の粒納豆もたくさん売られる。先日インレー湖沿いのナンバーンという村での五日市で買ってみた生の粒納豆は、小さな小さな大豆に見えるが、丸みが少なくちょっとうすっぺらい。ホースグラムという豆でで作られた納豆であった。粘りは少な目、アンモニア臭がきつくあまり美味しくはなかった‥。
そこの市のひよこ豆トーフも今一つだったし、品物の質や味のレベルはニャウンシュエの方がいいのかもしれない。もっとも湖のそばで、ボートで行くので市場自体が観光化しているのだろう。これまで行った五日市でいちばんよかったのは去年行ったアウンバンという町の市だ。カローとヘーホー空港の間の町で、観光客はほぼいない。買い物している地元の人のかばんが、9割がた肩掛けになっている竹の丸い籠で、なんともかわいらしい。
さて、明日はニャウンシュエのミンガラー市場で五日市だ。人が多すぎる、とか言いながらやっぱりワクワク。ひよこ豆トーフを揚げて刻み、刻んだ野菜と酢醤油で和えるスナックのお店、出ているかな。チェントンの市場のようなおいしい粒の納豆を売っていないかな。
そういえば、チェントンで買った納豆味噌だが、ちょっとなめた感じが赤味噌っぽいので、もしかしてお湯で溶いたら味噌汁になるかも!と思って試してみた。カップにちょっと入れて、お湯を注いで、と。見た目は味噌汁みたいな色だが、その味は‥。
う〜ん、味噌汁というか納豆汁みたいな・・気もするけど、生姜が半端なく入っていて、喉がビリビリする。トウガラシも辛い。風邪の引き始めには、いい・・かも・・しれない。生姜入れ過ぎだよ!

別腸日記(19)橋の下の水(後編)

新井卓

芸術祭のプロジェクトとしてストリップ小屋「黄金劇場」を撮ろうと決めてから、都合のよい想像だけが走り出し、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』、あるいは写真家スーザン・メイセラスのショウ・ガールたちのドキュメント、そんな傑作が生まれるのではないか、不遜にもそんな風に妄想を膨らませていたらしい。ところが、実際はといえば、わたしは何もしなかったのである。
「黄金劇場」のドキュメントについてまとめた企画書を提出してほどなく、わたしは芸術祭事務局に呼び出された。かつての特殊飲食店(一階が飲み屋の体裁で、二階で売買春を行う)を改装して作られたオフィスの二階に上がると、表情を曇らせたディレクターが、この企画は難しい、と言った。地元商工会と鉄道会社、行政機関の協力によって立ち上がったこの芸術祭は、地元実行委員たちの了解が得られないと事が進まない。かつて「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」を組織して性風俗の追放を目指した、地元の商店主たちに言わせれば、ストリップ小屋を取材して「負の記憶を掘り起こす」などもってのほかである、とのことだった。
そのとき、そこで立ち去ることも、あるいはもっと怜悧に、批判を回避して目的を達成することも出来のではなかったか。ところがわたしは、ごく平凡なな企画へ──スタジオを訪れる人の肖像をダゲレオタイプ(銀板写真)で写すという、「町の写真館ごっこ」とおぼしきものへ──自ら変更を申し出た。
この瞬間、表現者として重大な選択の前に立たされていたのだと、今となっては思う。しかし、結局わたしは、表現者としての基本的な姿勢を捨て去り、長いあいだ、あるいはこれからもずっと、その余波に生きることになったのである。

ジェントリフィケーション(Gentrification)という英語に対応する日本語は、いまのところしっくりくるものがない。あえて訳するなら「ある地域の高級化」ということだろうか。ニューヨークのブルックリンや、ベルリンのミッテなどの旧東側地区では、かつて低所得者層の人々が暮らしていた場所にアーティストたちが移り住み(あるいは空き屋を不法占拠し)文化の発信地となった。そして、その結果治安が改善し、地価が上昇するに従いアーティストたちは去り、しばしば再開発計画を伴って、街区は高級化していった。こうして自然発生的に起こったジェントリフィケーションは、いつしか、行政や投資家たちによって意図的に仕組まれ、新たな利益を生むための方途となった。
こうした街々で、土地の名はあるときはきらびやかな象徴になり、またあるときは脱色されてその歴史から切りはなされていった。高級化されゆく土地の名と記憶がたどる命運は、その歴史と集積した文化がカネを呼ぶか、遠ざけるか、によって明確に分かれるだろう。
黄金町、日の出町、寿町、この街に残る瑞祥地名が、それぞれの街区にわだかまる陰りと痛みを帯びた記憶と感情を、新しい住人たちに呼び起こすことは、おそらくもうない。
「負の記憶」というとき、それは本来、そのような負の価値を帯びた歴史として(すくなくともその時代の、その集団にとって)、記憶されるべき集合的体験ということである。漂白され意図的に忘却されようとする歴史は、もはや記憶ですらなく、切除された身体の空き地にすぎない。その空隙から触知される不在は、なにか都合のわるいものであるには違いないが、結局それらの空き地は、草むす間もなく、新しい、安普請の、判で押したような特徴のない建築ですぐに埋め尽くされてゆく。

  *

「写真館」を営むあいだ、計画の甘さとは裏腹に、多種多様な人々がスタジオを訪れた。いまでも思い出す人のなかに、リョウジさん、という人がいる。リョウジさんは岩手は宮古の漁師で、冬の間は関東に出稼ぎに来ているらしかった。毎日決まった時間、おそらく道路工事の現場からの帰り道なのだろう、かれは「写真館」にやってくる。四十と少しくらいだろうか、小柄ながら筋骨隆々とした身体、そして砂埃のせいなのか、真っ赤な眼の彼の風体に初めはぎょっとさせられたが、リョウジさんは細々と気を遣うやさしい男だった。
わたしは彼がやってくる時間になると、電熱器で茶を沸かし、それとなく待ち構えていた。リョウジさんはおかわりを入れて二杯、お茶を飲んで帰ってゆく。なぜ彼がわたしのところに来るのかはよくわからなかったが、次第に彼の口から、宮古に残してきた家族、とりわけ娘のことや、好きな歌、あこがれのプレジャー・ボートについて語られるようになった。プレジャー・ボートは金持ちが釣りや水上スキーに使う瀟洒なもので、いつだったかリョウジさんは、そのカタログを持って「写真館」にやってきた。スキャナとプリンターで大きく引き延ばしてほしい、という。頼まれるまま1メートル幅に出力すると、無邪気な男の欲望が具現化されたようで、なんだか気恥ずかしいような気持ちになった。いくら、と聞くので、どうせ芸術祭が企業から借りた機材なので、タダでいい、と言うと、目を丸くして頭を下げた。

暮れから正月になり、松の内が明けるころ、しばらくぶりにリュウジさんの訪問があった。見れば両腕で細長い段ボール箱を抱えている。それは上等な鮭を丸干しした鮭トバだった。「新幹線でニオイがして恥ずかしかったよお。だから、ずっと(デッキに)立ったまま帰ってきたんだよ。これ、少しずつ食べて。全部食べたらお腹がこんなになっから。」といって、バツの悪そうな顔を見せ、リョウジさんは自分のお腹をまるく撫でた。
お礼を言って、ここはお茶ではなくて熱燗で、とすすめた途端、彼の表情が変わった。「それはだめだ!」といって身を固くする様子に何かただならないものを感じて、わたしはそれ以上勧めずに、いつものように、電熱器にアルミの急須を掛けた。その横に、スルメと、カッターナイフでトバを小さく刻んだものを置いて、何かを言いたそうなリョウジさんの顔を見た。
トバと一緒に抱えてきた紙袋から、彼は丸めた画用紙を取りだして広げた。「これ、ほんとに悪いんだけど、また大きくしてくれませんか。」見れば、娘さんの絵で、リョウジさんと見える人物や魚、太陽などが、クレヨンでぐりぐりと描かれていた。この絵を大きく引き延ばすにあたって、周りに、例のプレジャー・ボートの写真を、縁取りのようにたくさん並べてほしい、という。いい趣味とはとてもいえないが、再び垣間見た彼の欲望が、何か眩しいような、うらやましいものに思えて仕方がなかった。

リョウジさんは、どういうわけかその後、一度も、お茶を飲みに来なかった。芸術祭の終わりとともに、程なくしてわたしは「写真館」を去った。娘さんの絵と、プレジャー・ボートのカタログを預かったまま、あっというまに三年がすぎ、やがてあの3月11日を迎えた。テレビの前で息を止めて映像に食い入るあいだ、遠野や福島の知己の人々の顔とともに、忘れかけていたリュウジさんの顔が浮かんだ。
いつか絵を返さなくては、と思い、また足繁く遠野や釜石を訪れるたび、ふと宮古を訪ねてみようか、といつも考えたのに、身体が動かない。手元にリュウジさんの携帯の番号があっても、どうしても、電話することができなかった。わたしは怖かったのだ、とても。

いま、黄金町から少し離れたところに、スタジオを構えている。なぜ、横浜へ戻ってきたのか、自分でもよくわからない。
正午、無人の旧米軍根岸住宅につづく坂道から、熱風が吹き下ろしてくる。高架の下を走る運河に沢山のくらげが浮かんでおり、同じ方向へ、おそらくは海の方角へ、漂ってゆく。黄金劇場は、もうない。なくなったもの、二度と会うことのない人々、どこか遠いところで、なくしたものたちが勝手に会話をはじめている。息を潜め、じっと耳を澄ませる。

コーラと缶ビール

植松眞人

 昼前の開店から終電間近の閉店まで、客が引きも切らない中華料理屋にやってきた。乗ってきた自転車を停めて、重めのドアを開けると、もう二時近くだというのに、十以上ある四人がけのテーブルがそこそこ埋まっており相席となった。
 この店には仕事を始めてから通い始めた。最初は同じ会社の先輩に連れてこられたのだが、その会社を辞め、住まいも職場も離れているのだが、ときおり思い出しては昼飯を食べに来ている。今日も打ち合わせた先方が、お昼でもどうですか?というのを断ってやってきたのだ。
 仰木はいつもの炒飯を頼む。叉焼がごろごろと入った炒飯は人気メニューで、この町を特集する雑誌には必ず掲載されるほどだ。ただ、量が多いので、三十代半ばになった最近ではいつも「炒飯、少なめ」と注文する。それでも、炒飯を頼んでしまうのは、やはり叉焼の入った食感と塩っ気のある味付け、そして、絶妙な卵の混ざり具合に、パラパラすぎず、ベタベタすぎない絶妙な仕上がりがやみつきになってしまうからだ。
 いまも客の大半がこの炒飯をガツガツと食べていて、数少ない女性客の一人は大盛りを頼んでいる。
 仰木はおそらくラーメンスープに、味を加えて出していると思われる小さなスープを啜りながら、炒飯にレンゲを突っ込んでいる。崩れた炒飯の山の割れ目からは湯気が上がり、油と醤油の焦げた香りが鼻先に踊る。
 その瞬間、仰木に訪れた至福の時間をかき消すかのような大きな音がカランカランと響く。

 新しい客が入ってきたようだ。仰木は炒飯を頬張りながら背中で声を聞く。
「何名様ですか」
 と店のおばさんが聞くと、
「二人です」
 と男の子の声がする。
 あ、子どもだ、と思う。同時に、子どもが平日の昼間に中華料理屋に入ってくるのはなぜだろうと思う。そして、今がまだ八月の終わりで、夏休み期間であることに思い至る。

「暑いですねえ」
 と今度は、母親らしき女が声をかけながら入ってくる。先に入ってきた男の子が奥の席に先導する。
「ご注文が決まったら、言ってくださいね」 店のおばさんがそう言い終わらないうちに、男の子が言う。
「ネギラーメン、ありますか?」
「ネギラーメン、ありますよ」
「お肉入ってますか?」
 小学男子がまるで大人のような口ぶりで、店のおばさんに聞いている。
「肉というか、叉焼が一枚入っていますよ」
 おばさんもだんだん大人相手に話しているような口調になってくる。
「海苔は?」
「海苔は一枚入ってますよ」
「あっちゃん、それで良いんじゃない?」
 母親が口を挟む。
「おれ、チャーシューメン好きなんだよなあ」
 あっちゃんと呼ばれた小学男子は調子に乗りやすい若手営業マンのように聞かれもしないのに言う。
「でも、普通のラーメンにも叉焼一枚入ってるんですよね」
 あっちゃんの質問に、おばさんは笑顔でうなずく。
「じゃあ、この子は普通のラーメンをください。私は炒飯を少なめでください」
 そんな注文の仕方をするということは、母親は何度かこの店に来たことがあるのだろう。息子は初めてなのか。それとも、何度も来ているのに、改めてラーメンの中身を確認したのか。仰木はそんなことを思いながら炒飯を口に運ぶ。どちらにしても、母子して話がくどい。くどい話の中、母親はあっちゃんに話しかける。
「あっちゃん、コーラいらないの?」
「コーラいいね!」
「じゃ、コーラも」
 おばさんが小さな用紙に注文されたものをメモしながら厨房にも同じ内容を通す。
「あ、すみません」
 思い出したように、母親がおばさんを呼び止める。
「缶ビールありますか?」
「缶ビールないのよ。瓶ビールしかおいてなくて」
 大人の会話にあっちゃんが口を挟む。
「ママ、ほら外にビールのケースがあったじゃない。あれ全部瓶だったよ」
 得意げなあっちゃんだが、瓶ビールのケースがあったからといって、缶ビールがないということにはならない。他に缶ビールを保管するところがあれば、それで話は終わってしまう。それでも、母親はあっちゃんの観察力の鋭さに笑みがこぼれる。
「ほんとうねえ。瓶ビールのケースがあったわねえ」
「ごめんなさいね。缶ビールなくて。どうします?瓶ビールにする?」
「いえ、それならいいです。はい。大丈夫です」
 結局母親は、ビールを注文せずにあっちゃんのコーラだけを頼む。
「おれ、コーラも好きなんだよなあ」
「そうよねえ」
「コーラと叉焼の入ったラーメン!最高だよね」
 なぜ、缶ビールなら飲んで、瓶ビールなら飲まないのか。仰木には意味がわからないのだった。わからないまま仰木は母子が気になって仕方がない。どうして、こんなにこの母子が気になるのか。声がほんの少し大きいのだ。そして、あっちゃんの言葉遣いがほんの少し大人びているのだ。
 仰木は、惜しいなあ、と感じている。あっちゃんが、まだ幼稚園児なら、この大人びた言葉遣いが逆に可愛らしく思えたかもしれない。しかし、あっちゃんはもう小学校も真ん中あたりだ。学校の勉強が出来る出来ないもだんだんわかってきた頃だし、女の子のことなんてとっくに意識している年頃だ。つまり、もう可愛くない。逆に憎たらしい。そのことに母親だけがまだ気付いていない。
 仰木が炒飯少なめを食べ終えた頃、母と子の前に注文した料理が運ばれてきた。あっちゃんが必要以上に歓声を上げて、ラーメンの盛り付けを絶賛している。特に大きめの海苔がどんぶりの端からはみ出すように入れられているのがお気に入りのようだ。
「ねえ、ママ!この海苔の配置の仕方!才能あると思わない。写真撮って!インスタ映えだよ!」
 言われた母親はさっきまで、自撮りモードで髪型を直すために使っていたスマホをラーメンに向ける。
 なんだか馬鹿らしくなって来る。炒飯を食べ終えた仰木は店を出た。停めてあった仰木の自転車を出そうとしたのだが、ピカピカの真新しい子供用の真っ青な自転車がかぶせるようにもたれかかっていた。自分の自転車を出すためには、その子供用の自転車をいったん外に出さなければならなかった。
 邪魔くさそうに仰木は「たかだあつし」と書かれたあっちゃんの自転車に手をかけて、スタンドを起こした。スタンドは仰木の自転車の車輪のスポークの間に入り込んでおり、雑に重ねられていた。それを丁寧に引き出し、外に出そうとするのだが、今度はバッテリー駆動の電動自転車が邪魔をしている。そちらの自転車には「高田」と名字だけが書かれていて母親が乗ってきたものらしい。
 可愛げのない小生意気な高田の母とあっちゃんの自転車に苦慮している自分に、仰木は腹立たしい気分になった。もうすぐ九月だというのに、まだまだ痛いくらいの陽射しが容赦なく照りつけている。そのことも、仰木をいらいらとさせた。あっちゃんの自転車を動かし、自分の自転車を動かし、母親の自転車を元通りにすると、仰木はすっかり汗まみれになっていた。
 自転車置き場からは店の大きな窓ガラスが見え、その中には嬉しそうに大声で話しながらラーメンと炒飯を分け合って食べる高田母子の姿が見える。声をオフにして見るあっちゃんは、表情だけでも充分にくそ生意気だ。 ラーメンを食べる合間にコーラを嬉しそうに飲むあっちゃんの姿に、「静かにしなさい」「食事中にコーラなんて飲むもんじゃない」と母親が言わなくて、いったい誰が言うんだ、と仰木は思う。そして、こんな母親や子どもが山ほどいるこの国は、もうだめなのかもしれないと仰木は本気で思うのだった。そう思い始めると、一瞬にして仰木の身体を血が巡った。自分でも湯気が見えるのではないかと思うほどに腹が立った。さっさと行こう、と自転車を押すと、羽織っていたシャツがあっちゃんの自転車のハンドルに引っかかってしまう。シャツが引っ張られて、仰木は自分の自転車のハンドルを放してしまい、自転車を横転させてしまう。
 仰木は強くため息をつくと、店内の母親とあっちゃんを眺め、自分の自転車を起こすために腰をかがめた。すると、目の前にあっちゃんの自転車のタイヤがあり、空気を入れるノズルが見えた。仰木は何も考えずに、ノズルにかぶせられたプラスチックの小さなキャップを外し、根元のリングを緩めた。タイヤに入れられていた空気が勢いよく漏れる。あ、と仰木は思う。自分は腹立ち紛れに何をしているのだろう、と目の前のあっちゃんの自転車を眺める。空気が漏れる音が、思いの外大きく、シューッと響いている。リングを戻そうと思った時、通りに若い男が入ってきた。視線がしっかりとこちらを向いている。おそらく、この店に来た客なのだろう。それをきっかけに仰木は立ち上がり、自分の自転車を押しながら男とすれ違う。背後からはまだ空気が漏れる音が響いている。いや、先ほどよりも音が大きくなった気がする。若い男の客は空気が漏れていることに気がつくだろうか。途中から響いてきたのではなく、最初からシューシュー言っているとそれほど気付かないかもしれないな、などと考えながら、一刻も早く通りを抜けて角を曲がらなければと仰木は小走りになる。

 途中、自動販売機でペットボトルの水を買い、ひと心地つくと仰木は初めて先ほどの店の方を振り返った。別段、男が追いかけてくる様子も、食事を終えた高田のあっちゃんが「パンクしてる!」と騒ぎながら走ってくる姿も見えない。
 知らないうちに、逃げるように走っていたのか。汗だくだった。自動販売機の水は補充されたばかりなのかそれほど冷たくはなかったが、それでも、生きた心地がした。
 そんなことを考えていたからか、思いの外、気持ちが惚けているのか、仰木の口の端から水が流れた。冷たい水の筋が頬から首筋へと続いた。ほんのわずかな細い水の筋が身体を走っただけなのに、仰木はぞっとして黙り込んだ。周囲がふいに音を失ったかのように静かになったような気がした。
 どうして、くそ生意気な母親と小学生の息子が昼間の中華料理屋にいたことがあんなに気に障ったのか。あっちゃんの話し方か。母親が缶ビールを頼まなかったことか。それとも、自分の自転車にあっちゃんの自転車がもたれかかっていたことか。いくら考えても、自転車の空気を抜いてしまうほど腹立たしい出来事だったとは思えない。
 仰木はペットボトルの水を空にして、再び自転車を押して歩き始める。しばらく歩くと、急な坂道にさしかかる。また汗が噴き出してくる。辛いなあ、と思った瞬間に、そうか、と声が出た。あっちゃんがくそ生意気なだけではなく、あいつが自分よりも確実に後の世の中に生き残っているということが嫌なのか、と仰木は考えた。いや、その通りだ、という確信はまだなかった。しかし、あいつの張りのある頬が赤く紅潮しながらラーメンを啜っている様子が思い出されると、さっきと同じくらいの苛立ちを感じるのだった。そして、そんなことに腹を立ててしまった自分に、仰木は動揺していた。
 動揺を打ち消すために、仰木は想像してみた。自転車の空気が抜けて、パンクだと思ったあっちゃんがしたり顔でくそ生意気な一言を発する場面を想像してみた。
 しかし、そんなときに限って、あっちゃんはワアワアと子どもらしく愛らしい顔でいつまでも泣いているのだった。(了)

夕立ウイスキー

璃葉

飛行機の音かしらと頭の片隅で思っていたら、どうやら遠くの方で雷が鳴っているようだった。窓を開けるとその轟きはさらに鮮明に聞こえ、頭上にはもこもこした灰色の雲が流れてきていた。大量に干した洗濯物を急いで取り込む。

数分後、パタパタパタと大粒の雨が地面に当たる音が聞こえる。それと共に、ふしぎな匂いも外からふわりと入り込んでくる。土とアスファルト、草や樹木の匂いが混ざり、雨によって香り立つ。夕立————にわか雨の降り始めの匂いに反応する人はこの世界にどのぐらいいるだろう。私はとても好きだ。目に見えるのではないかと思うぐらいの匂いの粒子が部屋を通り抜けていく。

何だか突然、ウイスキーを飲みたくなってしまった。部屋の隅に置いてあるボトルに手を伸ばす。
先頃友人と飲んだ少し貴重なウイスキーは、塩味や甘味の奥にはちみつやベリー、土や草、はたまた硫黄のような味が重なる層のなかに隠れゆらめき、まるで自然そのものから絞り出したようなものだった。そのクセのある心地よさが、些かこの夕立の匂いと共通しているような気がしたのだ。
そのウイスキーとは違うけれど、日頃から大事に飲んでいるアイラ島のモルトウイスキーをグラスに注ぐ。夕方なので一杯だけ。冷えた水も一緒に。

雷が真上まで近づき、閃光が走り、破裂音が鳴り響く。雨はばしゃばしゃと滝のように降り、辺りは怪しく暗くなる。夜のような暗さではなく、雲の向こうにある夕焼けが透けて溶けたような、赤茶色の薄暗さだ。
風が舞い込み、紙の束が床に落ちる。
空気がうつろい、足の裏がしっとりと板間に張り付いた。汗ばむ肌をタオルで拭きながら、ウイスキーをちびちび飲む。小さな空間が雨とウイスキーの香りに侵食されていく。

アジア大会開幕式

冨岡三智

この8月はワヤン・べベルという芸能の活動プロジェクトでジャカルタを拠点にインドネシアに滞在していたのだが、ちょうどアジア(競技)大会開幕と重なった。というわけで、今回はアジア大会のお話。今年のアジア大会はジャカルタとパレンバン(スマトラ島)の2会場で行われたが、開会式は8月18日(インドネシアの独立記念日の翌日)にジャカルタのゲロラ・ブン・カルノ競技場で行われた。実はインドネシアでアジア大会が開催されるのは1962年に次いで2回目で、その初回時にゲロラ・ブン・カルノが建設されている。

この8月には、大会開催に併せてインドネシア国立博物館で『アジア大会の歴史』展が開催された。1962年の大会の新聞記事、記念切手、記念レコード(インドネシア各地の歌)などの展示に加え、開会式の映像も流された。その時の演舞が、大勢の生徒が手をつないで沢山の円を描き、各円がぐるぐる回るという学校ダンスに毛の生えたような素朴なものであることに驚く。今年の見事なマスゲームの見せ方を思い起こすと、インドネシアの56年間の発展には目を見張るばかりだ。ちなみに、ジャワ島中部のプランバナン遺跡の前で開催される観光野外舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』は1961年に開始した。大規模な建設を伴うコンテンツ(スポーツや芸術)を通してナショナル・アイデンティティを本格的に打ち出そうとしたのが1960年代初めのインドネシアなのだ。

さて、今年の開会式では、1500人を動員して人文字を描くように見事な演舞が行われた。この舞踊は厳密にはサマン(ユネスコ無形文化遺産に認定されたもの)ではなく、ラト・ジャウ(Ratoh Jaoe)である。両者はどちらもスマトラ島アチェの舞踊だが、サマンは男性舞踊、ラト・ジャウは女性舞踊である。舞踊の型は両者ほとんど同じで、座って全員の動きがシンクロするように踊る。なぜアチェの舞踊を選んだのだろう…と思っていたのだが、ジャカルタの学校では大体どこでも教えていて――3回くらいの指導でできるようになるから――踊れる生徒が多いというのもあるらしい。テンポが速く高揚感があり、動きが揃って見栄えがし、大人数で上演できて、しかも踊り手を集めやすいという点で、今回のようなイベントには非常に似つかわしい。皆で一斉に踊るから、参加者は達成感を感じることができただろうな…とも思う。ちなみに、2016年にはタマン・ミニ(ジャカルタにある、インドネシア全州の文化を紹介するテーマパーク)設立記念日に6000人のラト・ジャウ上演があり、最多人数記録を建てている。この時の上演が今回のヒントになっていたのかもしれない。

ダンス

笠井瑞丈

人と出会う事でダンスと出会い
ダンスに出会う事で人と出会う

初めての音楽を聴く
初めての小説を読む

多くの情景が
多くの景色が

多くの人
多くの国

英語
日本語
ドイツ語
多くの言語

隣の人から
その隣の人まで
隣の国から
その隣の国まで

人と人
言葉と言葉
空気と空気

それが交じり会うだけ

小さなものから大きなものに

小さな交流から 大きな交流へ
近くな交流から 遠くの交流へ

今踊る事とは
作品を作る事とは
新しいチカラを搾り出す事

一滴
一滴

その雫を集め

雨を降らす事

雨は川に
川は海へ

しもた屋之噺(200)

杉山洋一

数日前には酷い雷雨が襲ってきて、少しの間停電しました。この位の雷雨は、ミラノにいれば怖いと思う程ではないし、いつも普通にやり過ごしているのに、どうして東京で目の当たりにすると怖い気がするのか不思議でした。拙宅のマンションは事なきを得ましたが、両親の家のテレビは落雷で安全装置が働いて消えてしまい、道路を隔てた向かいのマンションは、断水してしまいました。
異常気象、地球温暖化、地震の活動期、さまざまな言葉が飛交っていて思い出したのは、最近読み始めた山本太郎著「抗生物質と人間」マイクロバイオームの危機、で触れられている抗生物質と耐性菌の話。抗生物質の乱用で耐性菌が台頭することにより、抗生物質発明前と比較して死亡率の推移はどのようになっているか、そんな話をちょうど読んでいるところでした。

現在まで無数の技術革新を繰返しながら、わたしたちが手にしたものの実体は何か。機械に繋げた豚の脳が何時間生存とか、夢を見ない鼠発明などのニュースを聴くにつけ、それら最新技術の恩恵にあずかる自らを自覚しつつ、最近は恐ろしさが先に頭に浮かぶのは、歳をとった証拠かもしれません。ただ、古来我々人間は常にこの「踏み込んではいけない一歩」の畏怖に震えつつ、現在に至ることは理解しているつもりです。
そう言えば、先日渋谷君が指揮者ロボットにオーケストラを指揮させるイヴェントを企画していたそうだけれど、寧ろ反対に、川島君か足立さんにAIのロボットオーケストラを指揮して貰って、彼らの理解を越えたジェスチャーでロボットの困惑した音響を引き出しても、AIが感情を持たない現在なら未だ笑って見ていられるかも知れません。

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8月某日 三軒茶屋自宅
昨日今日と松平さんオペラ初稽古。昨日は読み合わせで、言葉の処理や音取り。今日は早速登場人物の性格作りに入る。二日とも松平さんが稽古に参加して下さったので、疑問点はほぼ全て解消。指定のテンポと、指示された場面描写、歌いやすさなどを鑑みつつ、幾つか大胆な提案もさせて頂いた。歌手の皆さんもピアノの藤田さんも、動じることなく応じて下さり感謝。実に面白いオペラで、聴いている方は思いの外聴きやすく覚えやすい旋律も散見されるが、演奏するのは実にむつかしい。とても松平さんらしい手の込んだ造りになっていて、内容が何しろ尖っている。
チラシの宣伝文句に「当作品は日本を舞台がないことを明確にするべく英語上演」と態々注記されているのは、松平さんのリクエスト。尖っていて、恰好良い。松平さんのシャイさと尖り加減の絶妙なバランスは日本現代音楽界の忌野清志郎、などと独り言ちつつ北叟笑む。

8月某日 三軒茶屋自宅
安江さんと加藤くんの悠治さんのドレス・リハーサルを聴きながら、リストの譜読み。頭を捻りつつシューベルト・リストの和音を分析していた。悠治さんの、特に最近の作品に於いては、複数の演奏家が相互に有機的に関わる必要がある場合、フレーズとして全体を纏め上げることは好ましくないのかもしれない。時間軸に沿って、全体を一つの袋に収めてしまうより、袋を破って空気中に粒子をばら撒くと、違いが勝手にぶつかり合って有機的な反応を起こす、それを期待しているように見える。
拙作の方は、特に二日目は丁々発止がよい塩梅で愉しい。リハーサルに於いて「聴いて反応する」行為と「聴きながら共に進む」行為は全く違い、後者を期待して作曲したが、言葉や楽譜表記でこれら二つの行為を正しく規定するのはむつかしい。
後者は、薄い風の中で、自らが発した音は風に任せて、二人で歩を進みつつひたすらに新しい音を紡ぎ続けるイメージ。

朝、三軒茶屋駅前の喫茶室「伽羅」で、仲宗根さんにお目にかかる。日頃から気になっている愚門の数々をさんざん投げ掛けてしまったが、一つ一つにとても丁寧に答えて下さり、すっかり感激する。今日の安江さんたちの拙作原曲には、伽羅の枕。「夕べよ夢に出たエ、めでたい夢は伽羅の枕で、繻子の夜具。金の屏風で十七と見たと思ったら、あらアエ目が覚めた」。視覚、嗅覚、触覚に訴える、立ち上るような桃源郷の描写。何時から我々は薄っぺらい言葉と、即物的な感覚ばかりに絡み取られてしまったのか。

8月某日 ボルツァーノホテル
ハイドン・オーケストラとは昨年の細川さんのオペラ以来だから一年ぶりの再会。暑いけれど皆元気で嬉しい。3回同じプログラムで演奏したけれど、毎回違うアプローチで演奏したので、厭きることがない。ベートーヴェンをこんな風に一緒に演奏できる幸せ。それぞれの演奏者と、音を通じて会話する愉しみ。
ダヴィデとは昔何度もモーツァルトの協奏曲を一緒に演奏したけれど、気が付くとあれからすっかり時間が経っていた。今回はリハーサルに息子を連れてやってきた。リスト版シューベルトは、初めどの演奏者にも不評だったが、一度演奏会で演奏して全貌が掴めると、独特の魅力を兼ね備えていると理解されたようだ。リハーサル以外の時間は、ホテルで一晩中新作の浄書をしていて、疲労と時差ボケで、最初の演奏会に出かけるバスに乗遅れそうになった。
二晩目、三晩目は、ガルダ湖の畔まで遠征。バスで片道3時間かけて出かけ、ボルツァーノの山から下りて、ミラノのあるロンバルディア州までやってくる。ムッソリーニが大戦末期に建国した「サロ共和国」のあたりは、恐らく当時岩を削って造ったと思しき、本当に細いへろへろの道が続き、眼前には目を疑うような美しさを誇る、紺碧の湖面。静謐な水面と、男性的に切立った岩肌の対比にも目を奪われる。芸術監督のダニエレは「明日の夜は聖ロレンツォ。パスコリの詩の通り、流れ星に願いをかけよう」とすこぶる機嫌がいい。

8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台から東京に戻ると、家人が悠治さんのメタテーシスをゆっくりさらっている。録音で聴くと点の雲に見える部分が、線状に繋がり旋律に聴こえ、それぞれが思いの外旋法の響きを伴う。
家人曰く「花筐に似ている」のだそうで、ピアノの手癖がそっくりだと言う。数的操作を使っても使わなくても、定着するときには書き手の個性を通して定着される。
お元気になられた湯浅先生が、玲奈さんと一緒に二年ぶりに秋吉台を訪ねて下さった。久しぶりのご訪問に関係者、参加者誰もが揃って感激していて、湯浅先生の講演は宝物にしようとこっそり録音した。「今までお話してきたことの最後に、一番言いたかったことをお伝えしたいと思います」、と湯浅先生らしく、温かい人柄から溢れるように淡々と言葉を紡がれる姿が印象に残り、心の琴線に触れた。湯浅先生や近藤先生の作品を集めて演奏会が開かれたのだが、そこでの演奏者と作曲者、聴衆との温かい触合いに、積重ねられてきた時間の重みを感じる。

こちらはと言えば、自分のレッスン以外は殆ど部屋から外出もせず、ひたすら机に向かって芥川の譜読みをしていて、最早、自分でも寝ているのか起きているのかも判然としない。
そんな困憊状態で、生徒の皆さんには申し訳ない思いを拭いきれないが、今年はリハーサルの時間を充分に用意してあったので、例年になく音楽を掘下げることが出来たと思う。
教師は相変わらず好い加減なことしか言わないが、その代り演奏者の皆さんは実に的確なアドヴァイスを与えて下さって、生徒さん3人時間を惜しんで互いに口三味線で練習してくれて、本番の演奏は素晴らしかった。浦部君の一見何もないような音符が、指揮者の聴き方一つでただのホワイトノイズ音がまるで変ったり、松宮さんが、作品の霊感を受けた教会の鐘を思い出して振っている時のまるで違う音の輝きとか、山下さんであれば、自分で書いた指示を敢えて忠実に守って演奏することで見えてくる音楽の美しい輪郭など、見学していた他の作曲学生の皆さんの刺激になったに違いない。

8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台を朝5時に出て、始発のフライトで東京に戻り、午後から芥川リハーサル。何とか一日やり過ごし、垣ケ原さんと錦糸町から地下鉄に乗る。
彼は港北区綱島の生まれで、子供の頃は今はすっかり廃れた「浜言葉」がまだ盛んに使われていた話になる。「冷たい」の代りに「ひゃっこい」を使い、語尾に「だんべ」をつけた「だんべ言葉」を話していたという。
母も横浜生まれの横浜育ちなので「だんべ」を知っているかと尋ねたが、覚えているのは「ひゃっこい」だけだった。もしかしたら内陸の言葉だったのかも知れない。
垣ケ原さんがよく覚えているのは、「お前の母さん出臍」と言うのを、「お前の父さんシンダンジン」と囃し立てたことだそうだ。
「シンダンジン」は「死んだ人」の意味で、明治初期、坪内逍遥が沙翁シェークスピア全集を刊行する遥か昔に、初めて日本語でハムレットを上演したのが横浜で、その台詞に「シンダンジン」が登場するので、これも横浜固有の言葉かも知れない。演劇、シェークスピアに精通した垣ケ原さんらしい良い話を伺った。
母に「シンダンジン」の事を尋ねたが、聴いたことはないそうで、何れにせよ当時少女が使うような言葉ではなかったに違いない。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルを終え、渋谷で本番前の本條君を訪ねると、思いがけず紀雄さんや大石君に再会して嬉しい。紀雄さんのエレキギターの傍らで一緒に弾いていても、本條君の三味線の音は突き抜けて聴こえる。三味線の発音の鋭さにあらためて愕く。
夜は野平さんの「亡命」観劇。主人公の上に圧し掛かり続ける、精神的負担、政治的圧力の重圧が、いつもどこかに薄く存在していて、 緊張度の高い前半の濃密な時間と、亡命後の開かれた時間を通して、 全体に揺ぎ無い統一感を与えていた気がする。
亡命列車の場面で、安易に拍感を切迫させて緊張を高揚させるのではなく、あくまでも器楽的な構成を通して、極度に張り詰めた緊張を表現していた。こういう部分が「月に憑かれたピエロ」的アプローチなのだろう。予め演奏会形式を意識した内容だとは聞いたけれども、ぜひ演出付きの上演も実現して欲しい。

8月某日 三軒茶屋自宅
芥川作曲賞本番。数日間かけてリハーサルを積む中で、オーケストラとは、今は互いにやらないけれど本番はこういう音を出そう、出したいね、と、言葉には出さないが無意識にヴィジョンを擦り合わせ共有してゆく。今回は不思議なくらい、それらが演奏会で見事に実現されてゆくのを目の当たりにして、愕く。アルペンスキーで旗門を順番に気持ちよく正確に通過するのと、少し感覚が似ているのかしら、と思う。
興味深いのは、互いに何も言語化しなくとも、見えているもの、感じているもの、この先に見えている風景が同じだと感じる瞬間で、演奏の醍醐味は、現代作品であろうと過去のレパートリーであろうと何も変わらない。音楽を共有できる幸せな時間。

審査会も終わったのだから、コメントを書いても許されるだろう。どの作品も本当に素晴らしかったので、甲乙つけることには興味がない。
ヴィデオインタヴューというのを引受けなければならなくて、どうやって譜面を読むのかと尋ねられ、「譜読みが本当に遅く苦手なので、最後まで作品が分かるようになることを祈りながら読んでいます」と答えたけれど、カットされてしまった。

渡辺さんの作品は、楽譜を勉強しながら、絵画を見ているような錯覚に陥った。音で生き生きとした絵を描ける素晴らしさ。風景だったり、通行人の表情であったり、ふと理解の鍵を見つけるたび、何度となく唸る。予定調和的な構造が見えると間違いだと分かっているが、ふと気を抜くとすぐに音楽的な方向性を付けてしまいそうになる。絵画は、絵画そのものが内包している多数の時間軸をそのまま引受けなけば面白さが半減してしまう。

坂田さんの作品は、自分に親しみのある呼吸が息づいていることに最初から気が付いた。先ず彼に確認したのはその部分だったが、それが間違っていなかったことで、以降とても安心して演奏に専心できた。大変個人的に面白かった部分の備忘録。前半最初のtuttiは強音で奏される美しいE音上のハーモニーだが、協和音なので美しく鳴り響く感じかと思っていたが、これを恐ろしさを持って弾いて欲しいと聞いた瞬間、全体の作品の特徴がすっと見えた気がする。

岸野さんの作品を練習してゆくと、色彩の魅力や彩のエネルギー、それらが放たれる空間の広さや空気の密度の微細な変化に、我々演奏者が敏感になれる喜びがある。各フィギュアに対して、とても慈しみが感じられる。オーケストラという媒体は、古今東西基本的に引き算の媒体であって、聴こえないからこの音をもっと大きく、これを聴きたいからより明確にとやってゆくと、野心家だらけのぎすぎすした大会社のようで、響きなど作れなくなってゆく。互いに耳を澄まし、この音を聴こう、あの音を浮き立たせよう、と瞬間的に身を一歩後ろに弾くことで、多層な響きが初めて可能になる。岸野さんの作品を演奏しながら、その面白さを堪能した。

久保さんの作品の魅力は、独特のオーケストレーションのなめらかな手触りが忘れられない。鳥肌が立つような美しい触覚的な音の紡ぎ方。これはゆるぎない彼の個性だと思う。演奏する側からすると、あとは何もいらない。久保くんは、この秋からミラノのガブリエレのところに留学するのだが、イタリアでの生活が彼にどのような影響を与えるのか、個人的にとても楽しみにしている。イタリアの作曲の伝統は、恐らく響きの探求ではない。響きの探求は楽器製作者の領域であって、作曲家は、素材を組み合わせて、何某かそこに意味を見出すことのできる形象、造形を創造しようとする。きっと、久保君によい刺激があると信じている。
演奏会後、各審査員の討論を何となく聴きながら、控室でクロマモルフ譜割り。

8月某日 三軒茶屋自宅
来月のシベリアの演奏会に向けて、隣の部屋で家人がバッハの1052と悠治さんのメタテーシスを代わる代わる練習している。小学校終わりから高校まで、1052は悠治さんのレコードで何度聴いたかわからない。だからなのか、1052とメタテーシスが並んで聴こえてくると、妙に相性が良い。それどころか、共通項も沢山ある気がしてくるから不思議なものだ。
何となしに家人のピアノを耳にしつつ、クロマモルフと、シベリアで演奏するスークの譜読みをしているが、この二つにはあまり共通項は感じられない。
クロマモルフを読んでいて、余りに演奏がむつかしく、笑いが込み上げてくる。演奏不可能だと演奏者に付き返されたことがある、と前に悠治さんが話していらしたが、強ち嘘ではないのだろう。
先ず、書かれている音を何も考えずに読む。何度も読んでいると、音が無意識にフレーズを伴って聴こえて来るので、それを書き留めてゆく。こうした音楽にフレーズ感は必要ないと一蹴されそうだが、それではフレーズが必要な音楽の定義を逆に尋ねれば、恐らく言語化するのは非常に難しいことがわかるだろう。要は自分なりに音楽を咀嚼する上で納得できればそれでよい。
先に書いた日記と矛盾するけれど、各奏者の譜面が極端にむつかしいことを鑑みれば、各々の反応を期待して任せてしまうと、恐らく収拾がつかない。
スークに関しては全くの無知で、読み始めて素晴らしさに舌を巻く。もっとずっとシンプルな音楽家と思っていたが、実に丹念に掘り下げられていて、細部まで凝っている。さて練習までに間に合うか。

8月某日 三軒茶屋自宅
下北沢で本條君と落ち合って、シベリアで演奏する新作打合せ。先ず書かれた音をそのまま弾いて貰っていて、ふと、これを書きながら 瞽女唄を聴いていたと伝えると、その瞬間から音の纏う空気が変わる。
音符の見える音から、彼の身体からふと洩れる声のような音に変化する。「チン」、この音は箏でも尺八でも出せない、身体から染み出るような音だという。
尺八や箏よりずっと身体に密着させて発音するから、身体的そのままの音が空気を震わせるのかもしれない。
家に帰ってくると紀雄さんよりメールが届いていて、一年近く探していた「ニキテ」の所在が分かって、思わず歓声を上げる。
早速悠治さんに報告すると「執念ですね」、喜んだような呆れたようなお返事をいただく。

(8月31日 三軒茶屋にて)

夏の日に

若松恵子

ヤン富田が品川の原美術館でコンサートを行ったので、出掛けて行った。より多くの観客が参加できるようにと、晴れた場合は中庭、雨の場合はホールで開催というしゃれた趣向だった。

8月最後の土曜日は幸運にも良いお天気で、美術館の中庭の芝生に寝そべりながら、よく晴れた夏の1日がきれいに暮れてゆき、やがて夜空に星が光るのを眺めながら音楽を聴いた。

閉館して明かりの消えた美術館。年代物の樫の木。どこか遠くから聞こえてくるようなスティールパンの音。女性2人のつぶやくようなハーモーニー。ビーチボーイズのカバー。キャンプに来ているような格好で演奏を楽しんでいる人たち。贅沢にもわずかな観客たち。隣の人が飲んでいたお酒の、オレンジの香りごと、その一夜の時間まるごとが、ヤン富田のパフォーマンスだったということなのだろう。

そして、別のある日、世田谷文学館で開催している「ビーマイベイビー」展を見に行った。松任谷由実、Mr.Children、フリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイブ、エレファントカシマシなどのアートディレクター、信藤三雄(しんどうみつお)の作品を一堂に集めた展覧会。彼が作成したCDジャケット、ポスター、写真、映像、書などが展示されていた。ヤン富田のパフォーマンスにゲスト出演していた小山田圭吾の大きなパネルもあって、かっこよかった。

レコードリリースを告知するポスターが一面に貼られたコーナーは圧巻だった。彼らのヒットに信藤のアートワークが貢献したことは確かだ。信藤のポスターによってかっこよく切り取られた人たちを見る。

信藤は、本人もうまく言えなかったことをわかりやすくデザインして見せてくれているのだ。「あなたが好きで行きたいのはこっちの方?」「そうそうそう」そんな感じだ。そして「あなたが目指しているもの」、それはバンドマンの彼が、かつて憧れた何かだ。古いヨーロッパ映画、60年代ロック風、キューブリックの映画のような清潔な未来。信藤のアートワークは、かつて憧れた何かを再現することに成功している。そんなパッケージに包まれて届けられた音楽が、かつて憧れた作品に引けをとらない水準になってきたところに、信藤三雄の成功もあったのではないかと思う。看板にいつわりありでは、目利きのひとたちに支持されないものね。

「ビーマイべイビー」展は9月17日まで。世田谷文学館。

ダンディライオン

さとうまき

昨年の7月にモスルが開放された。そんな国がかつて存在したのだろうか。イスラム国の指導者といわれるバグダーディが本当にカリスマ性のある指導者としてのメッセージを発していたのだろうか。2014年にモスルで、イスラム国の建国宣言をしたくらいで、そのあと表に出てしゃべっているのを見たことがない。ただともかく、イスラム国という国は残虐な国だというイメージが残像のようにのこるだけだ。

アルビルの小児がん病院の庭には、バラの花がきれいに植え込んであり、患者や家族は、ちょっと庭でリラックスしている。それに比べて、モスルの病院は、ISがいなくなって一年以上たつのに、花は咲いていなかった。うそ。庭に咲いていたのは、タンポポだけだった。ちょっとがっかり。

モスルには、絵の上手ながんの女の子がいるという。彼女に書いてもらう花は、タンポポしかなかったのだ。

ラワン9歳。お父さんの名前が、サダム・フセイン。そのために、表に出て仕事ができないのだという。イスラム国でもサダム・フセインは嫌われていたようだ。お母さんは、アルビルで娘の検査をしたのだが、がんのタイプの診断が難しくて、結局バグダッドに行ったという。それでも判定が付かず、ヨルダンに行くしかないというので、お金を出してあげることにした。

摘んできたタンポポはしなび始めていたが、ベッドのラワンは一生懸命に描いてくれていた。タンポポは英語で、ダンディライオンというらしい。ユーミンの歌で確かそんなタイトルがあり、僕は、そのころ、ダンディなライオンのようなおっさんのことかと思っていた。ずーっと思っていた。日本語のタンポポというかわいらしい響きとずいぶん違う。違いすぎるから、タンポポのことをダンディライオンというのは許せないものがある。

「きみはダンディライオン 傷ついた日々は 彼に出逢うための そうよ 運命が用意してくれた 大切なレッスン 今 素敵なレディになる 」というフレーズが当時は何のことやらよくわからなかった。明日のジョーが、力石に出逢うために傷ついた日々が運命が用意してくれたレッスン。素敵なレディになる? ん? 女子プロか? 違う。白木葉子がジョーのことを歌っているんだよ。というような、解釈を当時の僕がしていたかというとそれは嘘だ。しかし、イメージは、大体そんな感じだった。

ラワンのタンポポの絵と、そして綿毛の絵でチョコのパッケージができた。今までは、「~いのちの花~僕たちははかなくない」というキャッチコピーで小児がんの子ども達に生花を書いてもらってきた。今年は、たとえ枯れても、タンポポは種を飛ばして、どこでも咲いてくれる、そんな思いを込めているとスタッフに説明すると、翌日「たんぽぽ~花は枯れても種は世界に広がり、命はつながる」というコピーをスタッフが作ってきた。なんだか演歌っぽいぞ!「ぼろは着てても、心は錦」的な。

というわけで、空前のタンポポブームがきそうな気配を予想して、タンポポコーヒーを買いに行った。もうずいぶん前に自然食食堂が各地にでき始めたころ飲んだような気がする。タンポポの根っこを焙煎しているらしい。パッケージには、ダンデリオンとカタカナで書かれている。ダンデリオンは、悪くないひびき!

手続きと想定外

高橋悠治

7月末に福井桂子の詩による歌曲 8月末に伊藤比呂美の詩による合唱曲を書き終え 9月の作曲予定は 福井桂子の詩で歌曲あと2曲 夏宇の詩句によるピアノ曲『遇見・歧路・迷宮』 イエーツの詩句によるアンサンブルのFaint Lights[あえかな光] ずっと座って楽譜を書いているのは 健康によいとは言えない 速く書くことは どうやればできるのか むかしは構造を決め 方法を決めるのに時間をかけ 書くことはその結果として かなりの速度ですすんでいった いまは構造や構成をあらかじめ考えたりしない ちがうものに出会い それに応じて それまでの予定とはちがうやりかたをためすようにすると どこからでもはじめられても 終わりに近づくと 速度がおそくなってくる ある程度の経験から身についた技術なり手続きを いちいち考えなくても先にすすめるのはよいとして 予測されるような目標にたどりついたのでは 道中の発見の意味がない

音はひとつではなく いくつも集まっては うごいていく線や 現れては消えるかたちをつくる その変化を音符という点で書きとめ 楽譜にする作業も 作曲家ひとりのものではなく 演奏され 音楽として聞こえる場をめざしているかぎり 演奏家や聴衆も含んだ協同作業の一部を担っているはずだ 音は楽器や声が発音するだけのものではなく その場の空気のようなひろがりで 人びとをとりかこみ 響きの余韻で包む

楽譜は過ぎていく時間のなかの絵で 線の束や響きの変化をあらわす見えない網のひろがりを見せる 最近は 記号をすくなくし 長い音を2分音符 短い音 を8分音符 それに音の中断をコンマでしめすだけにして それらの長さが均等にならないように介入するもう一つの線や 響きをあしらってみる アシラヒやツケということばは邦楽で使われる 詩を声にのせるには シラブルごとに音をつけるよりは 一語一音 あるいは一句一音くらいにして 歌うよりは語る 楽器の場合は 思いついたかたちをそのまま反復しないで 二回目にはちがう音をはさんだり 一音省略したり 音程を変える かたちはくずれ そこから別なうごきが現れてくる はじまりは偶然であり それが予想しない曲がりかたで さまよっていき 完結することなく 消えていく こうして ひとつのしごとから 次のしごとにひきつがれ あるいはそこで捨てられるものもある そうやって音楽だけでなく 音楽をする側も 感じかたや考えかたが変わっていかなければ やっていても おもしろくないだろう