167物語するブハーリン

藤井貞和

――「だからこそ我々は美をより美しく、
しかもより普遍的にするための活動をしなくてはならない」。
あなたがそう書いたのはW高等学院時代である。
広い校庭にあつまり、ぼくらは十年後の物語探求会をめざして、
KMとともにあることを確認する。 しかし、
KDもまた亡くなる。 大学四年生たちの青春でした、
――「うなじ屈するゆえの反抗」(KD)と。
次ページに、アナキズムのOMが、〈プロレタリア独裁と連合主義〉を書いている。
ぼくらはどこへゆこうとしていたか。 連合主義の、
黒旗に青く刷られた敗北。(黒地なので読めなかったが)――
時間は水の遺骸だとあなたは羊歯の紋章に書き、
――「人知れぬ微笑」(KM)から物語連合へと急ぐ。 

 
(羊歯の紋章というのは、括弧をはずすと羊歯になり紋章になる。括弧にいれると『羊歯の紋章』という誌名になる。1964年創刊、発行人北村皆雄。なかに「喪亡との対話=あるいは巌石と宇宙の詛祝」を書いている江原健人は、物語探求会を私も参加して立ち上げたMKその人である。革命家のなまえは永久に封印するのが仁義だろう(ごめん)。MKが高校生で論じていたブハーリンの本名を私は知らない。むろん、そのころ私はMKを知らず、知り合ったのは七〇年代にはいってからだ。亡くなって十年、だれもが匿名のなかでしか生き死にを迎えられない。「雨やよし風吹き通せ辺野古から」〈当確を聞いて〉。)

2つの評伝

若松恵子

この夏は、ちょうど同じくらいの厚さの文庫本2冊といっしょに過ごした。尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(2018年4月/新潮文庫)と大竹昭子著『須賀敦子の旅路』(2018年3月/文春文庫)だ。語られる彼女と語る彼女。それぞれ2人ずつ、合計4人の女性に触れる時間だった。

川本三郎の新刊を見つけた棚の近くで目が合った『ひみつの王国』は、著者の尾崎真理子が気になっていて手に取った。私とあまり変わらない世代の彼女が、大江健三郎や谷川俊太郎の長いインタビューを本にしていて、どんな人なのだろうと興味を持った。先に読み始めた川本三郎の新刊『それでもなおの文学』(2018年7月/春秋社)のなかに、川本氏が書いた『ひみつの王国』の文庫版解説が収録されていて、この偶然にうれしい驚きを覚えた。

川本氏の解説を引用する。「石井桃子についてのはじめての、そして、最良の本格的評伝である。200時間に及ぶインタビューと膨大な資料、緻密な取材によって丁寧に書かれている。何よりも、まだ女性が社会に出てゆきにくかった時代に、働く女性としてみごとに生きた石井桃子への敬意がある。自立した女性の大先輩への深い尊敬の念がある。それが本書を清々しいものにしている。1959年生まれの著者は、幼ない頃から石井桃子の訳した児童書に接していたという。物語の楽しさだけではなく、言葉の面白さを子どもながらに知った。著者にとって石井桃子は『幼稚園に入る以前から日本語の基礎を授けてくれた、最初の先生だ』という。」

川本氏によるこの要約に全く同感だ。また、評伝を書くにあたっては「安易に登場人物の会話を小説風にして書く」というようなことはなく「資料の引用から会話を引き出している」ことを「丁寧で誠実な仕事のあらわれである。」と指摘している点も、確かにこの本の魅力を語っていて、その通りだと思った。石井桃子への敬意に裏付けられた丁寧で誠実な仕事によって、彼女の人生の多面性が、はじめて紹介されたのではないかと思う。

あとがきで尾崎はこのように書く。『「あなたはやっぱり、調べてお書きになったのね、兵隊さんのことまで・・・」。当人の、当惑した声が聞こえてきそうだ。「でも、お話を聞いてしまったからには、書かない方が罪は重いと考えました。」私はそう応えたい。あえて黙したままとされたことも、忘れてしまいたかったであろう苦しい時代のことも書かせてもらった。』と。そして「掘り出せぬほど深く埋め込まれた秘密はまだ、残されているだろう。」としたうえで、「こんなにもあなたはこの国の幼い子どもたちのため、後輩の女性たちのため、自分でも喜びをもって存分に仕事をして、生涯をまっとうされたではありませんか」と、「何度でも感謝をもって呼びかけたいと思う」と語る。尾崎の、石井桃子への思いを感じる、心のこもった一文だ。生きるただなかにおいて、その時々の選択がどういう意味を持つのか、その後の人生をどう変えていく事になるのか、当人は知らない。ただ懸命に毎日を生きていくのみだ。人生が閉じられたあとに、その全体の軌跡を、その不思議さを評伝は書き記す。私は、自分もまた「存分に生きた」といえる人生を送りたくて、その励ましとして評伝を読む。

犬養毅、菊池寛、井伏鱒二、太宰治、山本有三、吉野源三郎、瀬田貞二、尾崎の丁寧な仕事によって描き出された石井桃子の生涯には燦然と輝く巨星たちが、時代ごとに星座を成している。「その人々と知り合った理由、交友の一つ一つに、日本の近現代史、文学史の軌跡をたどることができる」と、あとがきにあるように、時代を知っていくおもしろさもまた、この評伝の魅力であるといえる。

もう1冊の評伝『須賀敦子の旅路』もまた、著者大竹昭子への関心から手に取った1冊だった。大竹昭子の書く文章に魅かれ、彼女の新刊を探してこの本にたどり着いた。文庫によるこの新刊は、まえがきによると、かつて出版した『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネチア』、『須賀敦子のローマ』の3冊を評伝としても読めるように加筆改稿し、あらたに「東京編」を加え、出会いのきっかけとなったロングインタビューを収録して1冊にまとめたものであるという。

須賀敦子の書く文章を「世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事に汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる」と大竹は書く。須賀敦子の文章を読む喜びを「私たちの呼吸を深くしてくれる」と書く大竹に共感する。そして、帰国してから『ミラノ霧の風景』が出版されるまでの20年間の足跡をたどった「東京編」を興味深く読んだ。「若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投影されたのか。そんな問いを、須賀の晩年にちかづいた自分自身の人生と重ね合わせつつ、想像した」それが大竹にとっての須賀敦子への旅だったのだ。そして、それは、生きられた人生から文学作品という虚構に飛躍する意味を追った旅だったといえる。須賀の「回想記でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみ」が人を励ますのだと大竹は語る。自分の体験そのままを語ったのでは文学にならない、文学について真剣に考えていたからこそ、自身が書きだすまでには長い時間を要したのだという事だ。

ミラノ、ヴエネチア、ローマ、東京と須賀の人生を辿ることで、「事実を虚構化することの大切さを主張した作家の事実に触れ、暴いてしまうのが怖かった」が、実際の旅を通じて作品の背景が明らかになり、納得することで「抑制された文章の奥にあるものに近づいていける深い喜びにみたされた」と大竹は書く。大竹の評伝を読む私もまた同じことを感じる。

大竹がはじめて須賀敦子にインタビューをした春の宵に、通りまで送ってくれた須賀敦子は「箱に入れてとっておきたいような夜ね」とつぶやく。そのエピソードを紹介しながら「季節がめぐってくるたびに、箱を開いて、この日の出会いと、語られたことばを思いだすだろう。」と大竹も綴る。人が人に魅せられ、会って話が聞きたいと出かけていく。そのいてもたってもいられない強い思い。大勢のなかから自分をみつけて、理解者が訪ねてくる喜び。大竹が須賀をインタビューした春の宵の情景は、評伝を読むおもしろさの象徴として、尾崎真理子と石井桃子の姿とも重なりつつ胸に残る。

15年後のモスル紀行

さとうまき

初めて僕がモスルをおとずれたのは、今からちょうど15年前の10月6日。バグダッドにずーっといて米軍に囲まれたりして、閉塞感を感じていたので、「鯉の丸焼き」が食いたくなった。イラクではマスグーフといわれる炭焼きの鯉が有名で一度は食ってみたかったのだが、バグダッドでは、核施設が貧乏な盗賊に襲われ、放射能廃棄物が入っていたドラム缶が盗まれなんとそこについていた黄色い粉を川に流してしまったらしい。なのでバグダッドの鯉を食う勇気はなかった。

チグリス川をどんどん北上してモスルまで行けばうまい鯉が食える! 朝バグダッドを出発。途中の村では、米軍とサダムを支持する部族が激しくやりあっていた。道路をふさぐ米軍の戦車の前には10人くらいの歩兵が銃を構えて通行を抑えていた。爆発音。煙が舞い上がり、銃声が響く。“オペレーション”が終わるのを待ってモスルに到着した。そして、僕は鯉を食べた。脂がのっていてうまい。炭で焼くから香ばしいのだろうな。15年の歳月がたち、そんなことを思いだす。

薬を車に積んで、遅めの出発。アルビルからモスルは、一時間もあればつく。日本のTVが取材したいという。僕が張り切って、薬を詰めている映像を撮影されていた。時間がないので、ローカルに詰めかえようとしたら、僕が張り切らないといけないらしい。モスルのイブンアシール病院で働くワサン先生に、検問のところまで薬を取りに来てもらうという設定で、「ここから先は、日本人にはまだまだ危険なので、ドクターに取りに来てもらって持って行ってもらいます」と張り切って説明している映像。我ながら優等生。「決して危険なところにはいきません。ワサン先生! 頼みます。」ということで僕のレポートはここまで。手を振って見送った。

「イブンアルアシール病院は、2014年にISに占領されていました。2016年の暮れには、ISのアジトとなっているということで連合軍が空爆をした。ISは、うちのスタッフを選んで救急車を運転させ武器を運んでいたみたいです。病院に入ってきた救急車めがけてミサイルが飛んできた。そばにいた5人も巻き添えになりました。その時武器を運んでいたのかどうかはわかりません。そして、その後年が明け1月には、イラク軍が病院を解放したのはいいのですが、今度はISが敗走する際に火を放って病院をめちゃくちゃにしていったんですよ。この戦争では、化学兵器も使われて、そのせいかがんの子どもたちが増えている」ナシュワン先生が日本のTVの前で説明していた。

骨髄移植センターを作る予定になっていた建物は医薬品の貯蔵庫として使っていた。米軍は、その建物も空爆した。中に入ってみると焼け焦がれた医薬品が大量に残っていた。焦げ臭いにおいと埃が舞い上がり、インタビューを受けるワサン先生は、せき込んでしまい、しゃべれなくなった。

病院のスタッフは、「そこには何があるかわからないから、行かないで」と止めるが、クルーたちはすすんでいく。不発弾があるかもしれないし、化学兵器を作るための原料かもしれない。クルーが歩くたびにバリバリと割れる音、足元には大量の試験官が散らばっていた。

橋を渡って西側の旧市街を見る。コンクリートの屋根は落ち、柱もほとんどハチの巣のようにコンクリートが銃弾で削られ、やせ細っているような建物ばかり。15年前に鯉を食った町の面影はない。えげつない破壊に言葉を失う。

今、僕たちの中で話題になっているのが、戦場のマクドナルド。Mのマークにouslとあってdonald’sと。つまり モスルドナルズ。Mのマークがそっくり。でも、行くと、怖いおっさんが出てきて「写真を撮るな!」と脅されるらしい。TVの人は、世界中のマクドの写真を撮って、写真展をしたこともあるという。「実は、今回モスルの企画を出したのもマクドがあると聞いて、その写真を撮りたかったんです」と打ち明けられた。地元の人にマクドがどこにあるのかしきりに聞いている。

帰りがけにとうとう見つけた!車窓から慌ててカメラを向ける。隠し撮りに成功! マクドができるくらいモスルは復興している?

モスルから戻ってきたTVの人と話をする。「(モスルはすごすぎて)どこまで(僕らの支援)活動を紹介できるかわからなくてごめんなさい」といわれた。張り切って説明したが、ほとんどカットされるかもしれないという。15分の番組だそうで、おそらくタイトルは「スクープ! モスルにできた偽マクドナルドの正体を暴く!」になるのかな。うーん。

仙台ネイティブのつぶやき(39)身欠きニシンの友

西大立目祥子

 親しい友人が、また一人亡くなった。
 今年はいったいどうしたというんだろう。4月からずっと毎月のように誰かが亡くなっている。誰しも、こういうことが続く年があるんだろうか。それともじぶんが歳をとったということなのか。日常の時間に、立ち止まって考えさせられるような休止符がふっと入ってくるような感じだ。

 亡くなった友人は68歳、男性。最初は、奥さんと知り合い、いろいろ話をするようになったのだが、引っ越して家がごくごく近くになって、家族とも親密につきあうようになった。もう30年くらい前のことだ。

 残業してくたびれてバスを降りると、その友だちの家の玄関の白熱灯がぼおっと灯っている。吸い込まれるようにして、「こんばんは」とガラスのはめ込まれた引き戸を開けて上がり込んでしまう。まだ小さかった娘たちは、もう隣の部屋で寝息を立てていて、薄暗い明かりの下で晩ご飯の残りをおかずにビールをごちそうになるのだった。しゃべっていると、いつのまにか外から帰ってきた飼い猫のレイ(本名はレーニンというんだった)が膝に乗ってくる。う〜ん、重い、といいながら2杯目に手を伸ばす。けっこうおなかが満たされたところで、すぐそばのじぶんの家に帰った。

 たまに隣の部屋の娘が目をさまして起きてくることがあって、夫婦のどちらかが寝かしつけに行ったまま寝くずれてしまうことがあった。そうかと思うと、ガラス戸を開けると知り合いが飲んでいることもあった。あれれ、こんなところでといいながら同じように上がって話し込む。誰かれいつも人がいたのは、奥さんが塩竈という港町の老舗旅館の娘でいつも大勢家に人がいたのと、その友だちは北海道の炭坑の出身でおそらく濃密な近隣とのつきあいの中で育ったからなのかもしれない。

 いったい何を話していたんだろう。本の話や建築の話、政治のことや人の噂なんかだと思うのだけれど、いまいち細部が浮かび上がらない。
 それよりずっとくっきりと浮かぶのは、その友だちの料理だ。当時はまだサラリーマンだったから、そんなにひんぱんに料理をつくっていたとは思えないのだけれど、のちに少し離れたところに引っ越し、やがてフリーランスの大工になってからは、晩ご飯のほとんどを友人がつくるようになった。

 最初の一撃は、北海道の姉さんが送ってきたという漬物だった。材料はキャベツと大根とニンジンと身欠きニシン、そして麹。麹の白いつぶつぶと黒っぽいニシン、キャベツの淡い緑の彩りがきれいで、麹のまろやかさにニシンの旨味が加わる。これは北海道の人たちが冬支度をするときに用意する漬物らしかった。東北だったら冬支度といえば白菜漬け、たくあん漬けになるのだろうが、漬物にニシンが加わるのがいかにも北海道だ。身欠きニシンて何ておいしんだろう。独特の味わいも身のほぐれ方も、細かい骨までもが好きになり、私自身もよく料理に使うようになった。

 シシャモもしょっちゅう登場した。衣を付けて揚げて南蛮漬けにしたり、マリネにもしたりする。そして昆布。煮物には必ず昆布が入る。昆布とニシンをやわらかめに煮合わせるのもおいしい。こうやってあげてみると、生まれ育った土地の食べ物を一生背負って食べ続けていたんだなあと思う。そういえば、学生時代に奥さんと知り合い結婚して、最初にシシャモを焼いて食卓に出したとき、奥さんに「これ、人の食べるものなの?」といわれてショックだったといってたことがあった。北海道の人たちは、本州に暮らす人を「内地の人」とよぶというのも教わったけれど、その生活文化の違いに愕然としたのかもしれない。

 もう15年くらい前くらいからだろうか。おせち料理をトレードするのも楽しみだった。初雪が降るころになると、今年は何つくるかなぁと飲むたび料理本や新聞の切り抜きを引っ張り出して話し出す。課題は定番に加えて何をつくるかだ。「よし、今年は鶏肉の八角煮だ」などと結論を出す。やがて大晦日。私が5品つくって持っていくと、友だちは7品も8品もつくって待っている。交換すれば、お重箱に入りきれないほどの充実のおせち料理のできあがり。同じお煮しめでも、全然違う切り方に味つけなのがおもしろかった。もちろん友だちの方がずっとおいしかったけれど。そして、お正月は、今年のおせちはここが失敗だったといいながら、また飲んだ。

 友だちが一人死ぬということは、じぶんの中の関心や楽しみが一つ欠落していくようなことなのかもしれない。こんなに手の内を見せ合うような、おもしろがってやる料理の交換を、この先誰かとすることがあるだろうか。身欠きニシンのあの料理、シシャモのあのマリネ食べさせてよ、といっても、つくっておくから飲みにおいでよという人はもうこの世にいない。
 奥さんももちろん大切な友だちだから、来年のお正月は喪中だけど、静かに2人で飲もう。友だちの名は久保久。30年くらい前、仙台駅前にあった名物書店「八重洲書房」の営業マンだった、といえば、読書好きの人の中にはあのちょっととぼけた味の風貌を思い起こす人もいるかもしれません。

別腸日記(20)菌食考─その1:タマゴタケ/Amanita Caesareoides

新井卓

(「別腸日記」はそろそろお酒の話の蓄えがなくなってきたので、今後は好きな料理やキノコの話も、折々していこうと思います。あしからず、ご寛恕ください。)

夏の暑熱が目に見えて衰え、弱々しい斜陽に山の緑が色を失うころ、地上に、深紅のかたちがあらわれてくる。森の奥へと点々と続く色鮮やかな球体は、通称「カエサルのキノコ」、すなわちタマゴタケの幼菌である。本菌は長年の憧れだったのが、どういうわけか一度も完全な姿に遭遇したことがなかった。それがつい先週、大阪を発つ日ふと訪れた岩湧山で、タマゴタケの大輪生に出会ったのである。

台風一過、沢山の倒木を踏み越えながら山道を登りはじめてほどなく、あまりにも場違いな鮮烈な紅色が、深い霧を縫って視界に飛び込んできた。はやる気持ちを抑えながら、道を逸れて藪に分け入る。真白い外被膜を破って、つるりとした頭を覗かせたキノコは、つい一、二時間前に花開いたばかりのようだった。その横にひとつ、またひとつ、と、大きさもまちまちなタマゴタケが、ゆるやかな円を描いて森の斜面に並んでいた。堂々と立ち伸びる成菌は霧のしずくに傘を濡らして、深紅から橙色に至るグラデーションを、ジェリー状の皮膜の下に輝かせている。

キノコたちはなぜ、こんなにも燃え立つような色彩を誇るのか──顔料ではとても再現できないスミレ色や、コバルト・ブルーのキノコを目にするたび、生命圏とは決して解きえない謎なのだ、という思いを強くする。

採り尽くさぬよう適度に間隔をとりながら、十か十五も集めただろうか。岩脇山へとつづく尾根に到達するまで、そうした輪生に三度も巡り会った。籠を持ってくるべきだったが、かたちを崩してしまうのを惜しみながら、ひとつひとつ、バックパックに収めていく。こうして、集めたキノコの重みを肩に感じながら歩く山ほど、心躍るものはちょっとない。そしてその喜びは、自らの判断に身をゆだねて収穫物を口に運ぶ緊張を経て、ふたたび、身体の中から立ちのぼってくる。

タマゴタケは生食ができる数少ない菌種のひとつ、であるらしい。翌日、上等のオリーブ油と岩塩、レモンを搾りかけて、薄くスライスした幼菌を口に運んだ。もろく壊れやすい軸は、噛むと思いのほか、ぽくぽくと歯触りがよくまずブルーチーズのような香りが鼻に抜ける。それからわずかにほろ苦い味と、松の実に似た、こくのあるうま味が口の中にひろがった。中甘口の白ワインがよさそうだったが、涼やかな秋の陽の下、はちみつの味がするハイランド・ウイスキーを合わせることにした。

キノコ・スパゲティーのレシピ(2人分)
材料
・野生のキノコ(市販の場合はエノキ、ナメコ、椎茸のミックスがおすすめ)300g
・にんにく 1かけ
・辛口の白ワイン 150cc
・オリーブ油(炒め用)大さじ2
・エキストラ・バージン・オイル 大さじ1
・塩 適量
・胡椒 適量
・乾燥スパゲティー(1.6mmくらいのもの) 2人前

手順
1. フライパンに炒め用のオリーブ油を入れる。刻んだにんにくを入れてから火をつけ、弱火に。
2. にんにくの端がキツネ色になったら、キノコ、塩一つまみを加えて中火で炒める。
3. 鍋に湯を沸かし、ひとつかみの塩を加えてスパゲティをゆで始める。
4. 2のフライパンがにぎやかになってきたら、白ワイン、パスタのゆで汁少々を加えて、炒め合わせる(キノコがくたくたになり、とろみが出るくらいまでしつこく炒めるのがポイント)。塩で味を整える。
5. スパゲティーを味見して、アルデンテより少し固いくらいでざるに上げ、4に加える。
6. ごく弱火にするか、または火を止めて、2分間、麺とソースを天地を返しながらすばやくかき混ぜる。油っこい光沢が消えて全体が乳化したら、器に盛る。
7. エキストラ・バージン・オイル、胡椒を振りかけ、好みで砕いたクルミまたはパルメザンチーズを振って食す。

補足
4のワインを日本酒に置き換え、さらに醤油小さじ3、みりん大さじ1を加えて仕上げに刻み海苔、カイワレ大根を添えると和風スパゲティになる。

しもた屋之噺(201)

杉山洋一

ボローニャの劇場で、クセナキスのバレエ稽古を眺めながらこれを書いています。今月は悠治さん旧作室内楽の練習から始まり、翌日家族で中央シベリアへ発ちました。イタリアに戻ってからは、学校の試験などが続き、漸くクセナキスに集中できる状況になりました。

若いバレエダンサーたちは、恐らく演劇畑から連れて来たのでしょう。休憩中など、仰々しい口調で「吾輩の人生は、左右にふれる振り子のようなもの」などと大声を叫びながらじゃれ合っています。ボローニャは常に若者の街。劇場の周りも、常に大学生で溢れかえっています。

彼らは輪になって走り、倒れ、迷い、闘い、揺れています。少なくとも舞台上に60人はいるでしょう。彼らの激しい息遣いが舞台から劇場一杯にひろがります。リノリウムを引いた舞台から、キュキュと靴が擦れる音がそこに交じります。意図したものなのか、彼らの動きは、ちょうどクセナキスの音楽をそのまま視覚化したものにも見えます。一つ一つのダンサーは端正で静的なルカの演出のうつくしさを描きつつ、それらが集団として激情をほとばしらせるさまは、圧巻です。

9月某日 三軒茶屋自宅にて
高橋悠治作品リハーサル。「6つの要素」の稽古では、まず口三味線で雰囲気を作ってから、流れを感じながら楽器で音をだしてみる。細部を積み重ねてつくる音楽ではなかった。もしかすると最近の作品と演奏のスタンスは違うかもしれないが、音符を載せる箱があるかないかの違いはあっても、本質的には違いはないように感じる。「クロマモルフ」では、悠治さんがヴァイオリンのポンティチェロの響きを探して、あれこれ試してみる。やはり作曲家が目の前にいる意味は計り知れない。音を入れて形を整える前に、音楽の本質を掴むことができる。

演奏しやすく、わかりやすく、バランスよく、スタイリッシュな昨今の現代音楽にはない存在理由。たとえ、作曲の意図は、50年前と同じような武骨なものであったとしても、それを最新式コンピュータのフィルターにかけると、近似値に偏るためなのか、どこかみな似た手触りになる。そんな将来の音楽を知ることもなかった作曲者によって、まだ見ぬ未来へ放たれた、希望とも不安とも戸惑いとも無邪気とも聴こえる音たち。

9月某日 クラスノヤルスク
ハバロフスクの空港のパスポート検査に並びながら、バッハのチェンバロ協奏曲を読んでいたのを思い出す。家人のピアノの伴奏をするのは久しぶりで、新鮮だった。普段はレッスンで彼女が我々の伴奏をしてくれているから、一緒に演奏することそのものは別段珍しくないが、彼女のピアノが引き立つように、演奏家たちの耳を彼女の音に近づけてゆく作業は普段とはまったく違うプロセスとなる。

自分にとってバッハは本当にむつかしく、新古典やロマン派、それ以降のものを勉強してからでないと、バッハを演奏する意味も方法も見いだせない気がしていた。物凄く複雑だから手が出せないのだ。バッハ以外の複雑な音楽は、複雑だからこそそこに端正さ、或る意味での平板さ、単純さを見せることが、自分の演奏のスタンスだと思っている。バッハはどうか。複雑だから、単純に見せるような音楽だろうか。それ以前に果たして単純になど、どうやって見せられるのだろうか。

そんなことを考えているから、頭でっかちで手が出なかった。今回、家人の伴奏のため譜面を読むと、どの小節も演奏する喜びに満ちていて、イタリア音楽への憧憬もありありと感じられたから、その辺りをどう引き出そうと考えているうち、普段の心配などすっかり忘れてしまった。感情を込めることで成立する音楽ではないから、家人の音のうつくしさが際立つ。珍しい夫婦共演に息子は大喜び。

折角家族でやってきているというのに両親がずっとリハーサル続きで、息子はつまらない。今日のリハーサルが終わってから、マウンテンバイクを3台借り、既に昼に一回りしてきた息子が先導して、夕焼けの雄大なエニセイ川を眺めながらサイクリングする。なぜマウンテンバイクなのか不思議だったが、かなり野趣溢れるサイクリングで、一時間は軽くかかる。大人が走っても十分面白く、世田谷公園とはずいぶん違った。

9月某日 クラスノヤルスク
リハーサルは午後からなので、ラリッサに連れられて、息子とアスターフィエフの生家へ出かける。街から30キロ程の距離、クラスノヤルスク水力発電所から6キロほど下ったあたりのエニセイ川のほとりの古い小さな村にある。花壇の美しい木造りの旧家に入ると、これがロシアの伝統的な家の匂い、とラリッサが嬉しそうに呟いた。アスターフィエフの代表作「魚の王様」は邦訳も出ていて、今度読んでみたいと思う。彼の父親はずっと牢獄に繋がれていて、母はアスターフィエフが幼い頃、エニセイ川で投網をしていた折、誤って網に絡まり川底に沈んでしまった。河を一望する展望台には、チョウザメの模型。アスターフィエフの「魚の王様」のモニュメントだと説明を受けたが、何しろ読んでいないので意味がよく分からない。

シベリアに着いて以来、余りに美味なのでウーハという魚のスープを毎日食べている。鮭の場合が多かったが、チョウザメで作るウーハもあって、とても脂こくなるそうだ。シベリアでは肉が食べられないと困るだろうと心配していたが、杞憂におわった。息子は、ロシア風餃子が気に入って繰り返し食べている。家人の好物のピロシキは、日本の揚げパンとはずいぶん印象が違って油ぽくない。野菜や魚のピロシキもあって、これは何度も頂く。文化や人種、音楽はもちろん、料理ももちろんロシアは我々とヨーロッパの中間にある。

9月某日 クラスノヤルスク
ミハイルからいいね、君の「レパ」はとてもいいね、君の「レパ」は、と言われて、最初は何のことだかさっぱりわからなかったが、英語が苦手でいつも仏語で話していたので、「レパ」は曲名の「the steps」を「les pas」と仏語で呼んでいるとはわからなかった。

言葉で細かい手続きを伝えるのも大変そうだったので、指揮なしの作品を作るにあたり、流れは極力単純にする。最初は本條さんの三味線と弦楽オーケストラはそれぞれ別の世界にいたけれど、リハーサルを繰返すなかで、互いの音楽が聴こえてくると、互いが発する音が急に有機的に混ざりはじめ、化学反応をはじめる。

何か作り上げられたものを、実現するために弾いているのではなく、どう弾いても間違った演奏にはならない、という曲を書いてみたい。演奏は正しいことを実現、再現するためではなく、演奏して作り出すために必要とされる。或る箇所では、三味線とオーケストラが互いに聴きあい、刺激しあって進んで欲しいと伝える。言葉ではいとも簡単だが、実現は容易ではない。本條さんはその部分になると聴衆に背を向け、ピアノやチェンバロの弾き振りのように、オーケストラメンバーを見つめながら演奏した。すると途端に、オーケストラの音色も、顔の表情もまるで違ってみえる。

サスナヴァボルスクで演奏したときは、演奏前に、作品の素材がブリヤートのシャーマンの歌の断片であること、これらが日本人の原風景ともつながっていることなどを説明したからか、演奏家たちの音が最初からまるで別人のようだった。シベリアの人々は例えヨーロッパ系であっても、西ヨーロッパ人の感性と明らかに何かが違う、我々に近いものを持っている。

9月某日 ハバロフスクから成田への機中にて
オーケストラの弦楽器の美しさに驚く。子供のころから、ロシアのヴァイオリンは本当によく聴いていた。音の深みや濃さは、オイストラフを思い出す。丸みを帯びた音だけでなく、ふとした瞬間に、すっと線を引くような美しい音が駆けてゆくさまは、少し胸と肩を張り出したコーガンの姿を垣間見る思いがする。とにかく、それぞれの発音の仕方がこれだけ揃うのは珍しい。誰もがミハイルの下で培わられた音だからこそ可能になる表現なのだろう。

しかし彼らの心尽くしには、感服するばかりだ。ボタンが外れたズボンをクリーニングに出せば、丁寧に手縫いで繕ってクリーニングされて戻ってきた。特に肉が食べられないと言わなくても、パーティーでは常に魚料理でもてなされた。ウォッカなどとても飲めないと思っていたが、クラスノヤルスクの白樺の皮で濾した上級ウォッカを頂くと、信じられないほど円やかで美味で、自分が知っているウォッカとは全く別物だった。ソ連時代の名残なのか、時間はとても正確で、こちらがどんな酷いロシア語で話しても、一所懸命理解してくれる、とても心の温かい人々だった。

クラスノヤルスク空港にイタリア風ピザ屋があって、メニューにある「ユージ」ピザを注文した。美味。ハバロフスク朝5時半。飛行場が近づき機体が地面を舐めるように降りてゆくと、真赤な朝焼けの光に、湖沼から湧き立つ白い靄の濃さにおどろく。

9月某日 ボローニャ劇場
クセナキスのスコアは、コピーも薄い上に、細かい動きもあって、本当に判読不可能だと思っていた。まず、2センチごとに、恐らく書かれていたであろうと想像できる箇所に小節線を引くところから始め、遺跡の発掘でもするように、少しずつ音楽がスコアから浮き上がるのを待つ。巨大な遺跡を前にするかのように、塊をつかみながら発掘を進める。ところどころ、年月が経って、崩れかけ粗づくりに見えるのも、ちょうど西洋の遺跡に似ている。自分が演奏するためのキーワードを探しながら、ページをめくる。

悠治さんとクセナキスの音楽は、ちょうどポジフィルムとネガフィルムのようだ。同じ表現を、まるで表と裏から眺めているよう。シルクロードの建造物を西洋と東洋から眺めているようでもある。ルカは一つ一つの動きをていねいに彼らに伝えてゆく。細かい動きの微細は変化というより、鷲掴みにする明快な身振りが、強い表現を生む。静的な表現の印象があったルカの舞台が、クセナキスに突き刺さる。

「文字通りクセナキスの音楽をそのまま舞台で見ているようだ。見事だね」、思わずルカに話しかけると、「そりゃそうだよ、クセナキスの音楽は自分の演出の原点だからね。これが5作目さ。クセナキスから、君ならどんな演出でもやっていい。音に合わせた動きさえしなければね。そう言われて以来、とても自由に感じられるようになったのさ」。嬉しそうに答える。

目の前の無音の舞台では、アリーチェが長い時の流れを彷彿とさせる6メートルほどの細い長い金属棒を掲げ、ゆっくり回転している。傍らではイリーンが、時の流れに翻弄される我々のように、はらはらと回転する。真っ暗の劇場のなか、ヴィンチェンツォの照明が、彼女たちの動きを、傍らから、上部から美しく浮き上がらせては、また深い暗闇へ消えてゆく。

ボローニャ 9月29日

スマホ、柚木香澄の場合

植松眞人

 柚木という名字の人に会ったことがない。ゆずの木と書いて「ゆき」と読む。電話で名前を伝えると、半分くらいの確率で「名字は」と聞き返される。「ゆずの木と書くんです」と言っても、すんなり伝わることはほとんどない。香澄という名前には時々会う。いま通っている大学のゼミにも同じ字を書くカスミちゃんはいるし、字は違うけれどカスミと読む友だちはいる。
 最近はみんながスマホを持っているので、「ゆき」と入力すると、たまに賢い変換だと「柚木」という字が現れる。スマホは便利だ。辞書にもなるし、目覚まし時計にもなる。大学に入学して実家を出てからは、少し時間があるとLINEをしたり、SNSを見たり、簡単なパズルゲームをしたりすることもある。友だちとの写真も全部スマホに入っている。まだ彼氏はいないけれど、同じゼミのカスミちゃんは、彼氏とのキス写真までアップしてリア充ぶりをアピールする。でも、本当はその彼氏とはとっくに別れていて、新しい彼氏もいるんだけどアップした写真は削除していない。なんで、と聞いたら、前の彼氏のほうがかっこよかったしあの写真の自分の顔は彼氏の影に隠れてわかりにくいし、ウラ垢だから新しい彼氏にはばれっこないから、とカスミちゃんは、やばいかなあ、を連発しながら私に笑って言う。
 カスミちゃんのことは馬鹿だなあとは思うけれど、その気持ちはまったくわからないわけではなくて、私はカスミちゃんのことを心からは馬鹿に出来ない。
 だけど、そんな話をしているときに、私はカスミちゃんと一緒にカスミちゃんの昔の彼氏とのキス写真を眺めていたのだけれど、ウラのアカウントを使っているカスミちゃんのほうが、オモテのアカウントのカスミちゃんよりも本物のような気がして、だんだんと気持ちが悪くなってきた。やっぱりこの写真削除したほうがいいんじゃないの、と私が言うと、カスミちゃんは一瞬、真顔になってものすごく私を見下した顔をした。見下した顔というのは、いくら私が何を説明しても決して受け入れないよ、だってあんたは馬鹿だからという顔で、私の友だちのほとんどがその顔を持っていて、時々、互いに見下した顔を向け合っているように思える。私ももしかしたら、人を見下すような顔を持っているのかもしれないけれど、よくはわからない。
 わからないけれど、私はなんだか、そのとき気持ちが昂ぶってしまって、「カスミちゃんてさ」と言ってから、私は自分の名前が目の前のカスミちゃんと同じ字面で同じ読み方なのだということに気付いて、急に吐き気がしてしまって、ごめん、と言って一緒にいたコーヒーショップを出たのだった。
 平日午後の表参道を歩いている人たちはみんなカスミちゃんと同じくらいにはオシャレで、私はこの人たちがみんなウラ垢を持っているんじゃないかと考えてしまい、みんなの輪郭が二重に見え始めて、道行く人たちの人数が急に倍になって道を埋め尽くした。
 私はなるべく人の少ない脇道へと入っていく。オシャレなショップがどんどんと減っていくにしたがって、私は気分は落ち着いていった。小さな路地を見つけては曲がり、小さな路地を見つけては曲がりしているうちに、私は表参道から大きくそれていって、道に迷ってしまったのだった。
 古いビルがあり、その階段に腰を下ろして、私はしばらくぼんやりと汗が引くのを待っていた。路地の奥から風が吹いてきて、私の頬を撫でた。風が私とカスミちゃんを断ち切ったような感覚があった。カスミちゃんと私。表参道と私。SNSと私。大学のゼミ仲間と私。東京と私。さっきの風が、いろんなものと私を断ち切ったように思えたのだ。断ち切ったとまでいかないまでも、なにかクールダウンさせてくれたような感覚があった。

 私は、いま自分がどこにいるのかを確認しようとスマホをバッグから取り出した。するとまた気持ちが悪くなったのだ。SNSとまたつながってしまうような気持ち。またカスミちゃんと連絡を取り合って遊びに行かなければいけないような気持ちがざわざわと私の周囲にわき上がって、私を包み込もうとしているようか気がした。
 私は自分がどこにいるのか、確認するのを諦めて、ゆっくりと知らない路地を歩いた。坂道を上がったり下がったり、また平坦な道を右に曲がり左に曲がった。その間、私はずっとポケットの中にあるスマホをずっと握りしめていた。いままでこうすると私は心細さを隠すことが出来た。なんとなく、スマホのなかにあるいろんな情報が私をこの世の中につなぎ止めてくれているような気がするのだ。
 でも、いま、スマホは冷たいままだった。私はスマホを取り上げて、思い切って電源を入れた。そして、「設定」というボタンをおして、そこから「一般」という項目を選択した。「初期化」という文字が見えて、私は私のスマホを初期化した。個人情報がなにも残らない状態にした。
 私のスマホは、私のスマホではなくなり、私が持っている誰のものでもないスマホになった気がした。
 ちょうど表参道に出たので、私はスマホをコンビニのゴミ箱に捨てた。なにも気にせず、なにも迷わず、私はゴミ箱の中にスマホを投げ入れた。私がそのまま行こうとするとスマホに着信があり、コンビニのゴミ箱の中で着信音を鳴らせ始めた。初期化した直後だったので、私は驚いて立ち尽くした。スマホのなかのアドレス帳を初期化してしまったので、スマホの画面には電話番号だけが明滅していた。はっきりとは覚えていないのだけれど、末尾の四桁がカスミちゃんの番号のようにも思えた。私はしばらく、その番号を眺めていたけれど、スマホの向こうにカスミちゃんが本当にいるとは思えなくなっていた。いままでスマホを通じてやりとりしていたカスミちゃんや大学の友だちやアルバイト先の人たちも、もしかしたらスマホの中にしかいないのではないかと思い始めていた。
 私はコンビニのゴミ箱で鳴っているスマホから逃げるように、駅のほうへと歩いた。すぐ目の前にあった東京メトロの看板の誘導に従って、私は階段を駈け降り、改札へと足早に近づき、スイカを使おうとポケットに手を突っ込んでスマホを……。(了)

個人の自由

北村周一

きょうは、とってもタバコが吸いたい。
ともあれ、タバコを吸いたいと欲する。
欲したおもいが、体内を巡る。
この欲求はなかなか消えようとしない。
タバコとは、単価の安い、欲求(不満)解消の道具である。
火をつけて吸う。
咽や頭が痛くとも、隣人に迷惑だとわかっていても、
灰や燃えカスが危険だと知りつつも、
なにより喫煙タイムは無駄な時間だとわかっていても、
吸わずにいられない。
かくして、一本のタバコを吸いおえて、一気にもみ消すことの悦楽。
この瞬時に消せるところが素晴らしい。
道具たる所以でもある。
 
欲求がまずは芽生え、そしてその欲求を消し去る。
かかる数分の快楽は極めて効果が高いために、また大きな代償を払うことにもなる。
喫煙を個人の習慣や嗜好性とのみとらえ、
禁煙を個人の意志力の強弱と結びつけるこの国では、
世界を敵にまわす覚悟のある、タバコ農家と族政治家と企業人が、
いまもなお健在であることを気づかせる。

習慣的喫煙者の禁煙は難しい。
喫煙は二十歳になってから、と喫煙マナーが声高に叫ばれれば叫ばれるほど、
「高倉健」の孤高と反骨の姿は美しく力強くかがやく。
こどもが親からの独立を宣言するかのごとき喫煙のはじまりは、
企業によるイメージ広告の産物にすぎない。
数年後には、こどもは立派な喫煙者となり、
しかも最初のブランドにこだわる真面目なスモーカーに変身をとげる。

一方喫煙は、こどもだけでなくおとなにとってもデカダンをにおわせる。
禁煙イコール健康指向イメージになじめないおとなはいつの時代もそれなりにいる。
200種類を越える有害化学物質を体内に摂り込むことは、
自己の意志であるとはいえ、寿命を縮める姿勢はたしかに退廃的だ。
しかしながら、既成の価値・道徳に反する美を追い求めた芸術の傾向(辞林21)を、
デカダンスと呼ぶもうひとつの意味ととらえてみるなら、
今日の喫煙スタイルはいかにも格好悪い。

いま一本のタバコを止めることのできない者は、
いや、いま一本のタバコは我慢しよう、
我慢したとしてもその次の一本、
またその次の一本の欲求を空振りにすることはできるかと想像すると、
果てしない欲望の渦が身を取り囲み・・・・・、
この先いつかはその欲求に克てなくなるときが来るだろうことにおもい至り、
それならいまの我慢は何の役にも立たないではないか、
ならばこの一本を吸うことにしよう・・・・・・・。

おもうに、これからの先のことにおもいを巡らせることを中断してみたい。
いまひとときの我慢ですむからだ。
きょう一日の我慢ではなく、いま一本の欲求が通りすぎてゆくのを待つこと。
かくなるひかえめでやや地味な決断は、いささか説得力を欠くようにおもわれるけれど、
個の本来の姿勢に鑑みれば、少なからず能動的に生きているとはいえまいか。
 

*2000年8月に書いた文章を僅かばかり手直ししました。
18年の間に、タバコを取り巻く環境は、幾分変化したように感じているからです。

動きを生み出すもの

冨岡三智

舞踊の動きを生み出す要素は、結局はメロディーかリズムかのどちらかしかない。メロディもリズムも楽曲の形を取ると種々の規則によって制約されてしまうけれど、ここではもう少し広い意味で使っている。流れるような音や声のまとまりがメロディであり、何かがぶつかって生まれる衝動や脈打つものがリズム。一般的な舞踊作品ではメロディとリズムの両方を備え、ある部分では主にリズムによって動きがドライブされ、ある部分では主にメロディに運ばれるように動きが作り出されている。

ジャワ舞踊で言えば、ガンビョン(やキプラハン、ゴレッなど)がリズムによって作り出される舞踊で、これらは民間起源のチブロンという太鼓を使って演奏される。スリンピやブドヨといった宮廷舞踊はブダヤン歌唱のメロディに乗る舞踊だ。ブダヤンでは―特にグンディン・クマナという伴奏楽器がほとんどない古式の編成では―、歌が曲の中心であることが分かりやすいけれど、一般的なガムラン曲では分かりにくい。それは、歌がゲロンという男性斉唱パートと、シンデンという女性歌手のフリーリズムの歌の2種類に分かれ、大編成のアンサンブルのパートに組み込まれ、楽曲形式に当てはめられてしまっているからである。

実は、ジャワの伝統的なガムラン楽曲の旋律の多くはモチョパットが元になって作られている。モチョパットはパンクル、アスモロドノ、ミジル…といった韻律の異なる11種類の詩型を総称したもので、ジャワにはモチョパットを朗詠する伝統がある。伝統的なガムラン演奏会のように、特定の日に人々が集まる会(モチョパタン)やコンテストも行われている。

1970年代になってインドネシアで現代舞踊が模索された時(その先駆者がサルドノ・クスモ氏)、その1つの方向がガムラン音楽の演奏に合わせて踊るのではなく、モチョパットの歌で踊ることだった。そこには、動きを楽曲に当てはめるのが舞踊なのではないという理解があった。楽器という身体の外にある理知的な道具を使うのではなくて、歌という身体の声を聴いて踊ることに目を向け始めたのだった。

私がジャワで伝統的な男性優形舞踊を師事した師匠は、伝統舞踊の名手でもあると同時に現代舞踊家でもあった。師匠が、留学を終えて帰国する私のために授けてくれた最後のレッスンは、私には忘れられない。「これから私が詠うから、それに合わせて好きなように動きなさい。」と言って、師匠はいろんなモチョパットを詠い始めた。それまでの期間、私は師匠の現代舞踊の舞台を見たり、また他の人とのコラボレーションするのを見てきたりしていたから、言わんとすることは理解できた。私なりに流れを感じながら、自分が学んだ伝統的な動きの中からしっくりきそうなものを模索しながら、動きを紡ぎ出した。その時の動きはそれなりに拙いものだったろう。それでも、そのセッションが終わると、師匠は静かに「今の感覚を覚えておきなさい。それがジャワ舞踊の根底にあるもの、スメレ―semelehなものだよ。」と言った。スメレ―は穏やかで落ち着いたという意味で、瞑想修行にもたとえられるジャワ舞踊で到達すべき静寂な境地を指す。わが内なる旋律を見出すこと、そしてその旋律に身を委ねることで生み出される動きを、師匠はジャワ舞踊の本質として示してくれたのだった。

製本かい摘みましては(140)

四釜裕子

上野で『世界を変えた書物展 人類の知性を辿る旅』を見た。主催の金沢工業大学図書館は、1982年に業務のすべてをコンピューターで行うライブラリーセンターとして開館したそうだ。とはいえ図書館の本質は書物にあるとして、科学的発見や技術的発明の原典初版本を集めて「工学の曙文庫」と名付けて中核とした。その2000余冊の中から選んで、大阪、名古屋と重ねた展示の東京版である。古代の知の伝承、ニュートン宇宙、解析幾何、力・重さ、光、物質・元素、電気・磁気、無線・電話、飛行、電磁場、原子・核、非ユークリッド幾何学、アインシュタイン宇宙の13のカテゴリーに分けられて、一冊ずつ、鏡付きのショーケースにおさめられていた。ニュートン、コペルニクス、ダーウィン、デカルト、湯川秀樹、アインシュタインなどなど、本文に組み込まれた図版や写真や手彩色、ときにメモや落書きのような書き込みも見られたし、鏡に映り込んだ表紙や背、綴じ方などを見て、装幀も楽しむことができた。

展示の肝は一冊ずつの稀覯本としての価値を愛でるものではなくて、人類で初めて記録された知の連鎖を、研究者や専門家でなくても書物のつながりとして体感できることだろう。とは言いながら実際は、監修者の竺覚暁(ちく・かくぎょう)さん(金沢工業大学ライブラリーセンター顧問・教授)が名古屋展で行ったミュージアムトークビデオ(2013 82分)を見て、それでようやく、感じられたのだったけれども。会場には、展示書物の関係を色や線を使い分けて図示したり、それらを立体化したオブジェもあった。コペルニクス地動説宇宙からアインシュタイン相対性宇宙への展開がタイトルと著者と発行年が記された一冊ずつの書物で縦横無尽に繋がれているのを目前にすると、実際にその書物らは複数冊でもって世界中の場所と時間を行き交ってきたことが物理的に想像できて、「本」というものはこの世の全てを転写したいという陰謀を持ち、人はその罠にはめられているという毎度の妄想に現実味を覚えてしまう。

昨年『図説 世界を変えた書物 科学知の系譜』(竺覚暁 グラフィック社)が出ている。黒地に金の表紙に金ピカに黒の表紙カバーが豪華だ。なんでも金沢工業大学の工学の曙文庫の入り口が金ピカ的色合いだそうで、本を開けばまさにそこは曙文庫といった具合。本文は、基本、見開きで一冊の書物が紹介される。それぞれ特徴的なページを開いた写真のみならず、表1、表2、背、小口、天からの写真がある。おかげで装幀のようすがわかる。刊行当時の羊皮紙や簡単な紙表紙のものもあるが、留め金付きやらマーブル紙やら豪華な箔押しやら、いつどこで装幀や改装がなされたかを想像するのも楽しそうだ。薄い革を貼った板が表紙で留め金のついたイシドール・ヒスパレンシス『語源学二十書』(アウグスブルグ 1472)。背表紙がすれて3本の綴じひもがあらわになったニコラス・コペルニクス『天球の回転について』(ニュンベルク 1543)、仮綴じのままのアンドレ・アンペール『二種の電流の相互作用』(パリ 1820)。マーブル紙が美しいマリー・キュリー&ピエール・キュリー『ピッチブレントの中に含まれている新種の放射性物質について』(パリ 1898)

ゲオルグ・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン『幾何学の基礎にある仮説について』(ゲッティンゲン 1867)ほか、1800年代のイギリスやドイツで刊行された何冊かに濃淡の青色紙表紙がある。ふと、野村悠里さんの『書物と製本術 ルリユール/綴じの文化史』(みすず書房 2017)のうつくしい水色の表紙カバーを思い出して棚から出してみた。〈表紙カバーと見返しの水色は、民衆本(青本)の色です。青本は17、18世紀フランスの民衆文化を語るときに不可欠のもの。行商人の手で広まり、都市でも農村でも親しまれた青本。その色が、この水色です〉。これとそれは同じ水色なのだろうか。染料は何なんだろう。

野村さんはこの本で、17、18世紀のパリの製本界において、王侯貴族の庇護のもと豪華になる表側に比べて綴じなど内部のつくりが簡素化された(雑になった)謎を追っている。難しくて読みきれずにいたのだけれど、おかげでようやく、とっかかりを得られた模様。今度は読めるかな。

2×3

笠井瑞丈

二つのカラダ
  ×
三つのゲンゴ
  =
三つのコトバ

笠井瑞丈
上村なおか
  ×
笠井叡
近藤良平
川村美紀子
  =
イマハムカシ
かませ犬
事実上の夫婦喧嘩(仮)

二つの身体
三つの作品

見るカラダ=川村美紀子さん作品
聞くカラダ=笠井叡さん作品
語るカラダ=近藤良平さん作品

来月10月

『2×3』

笠井瑞丈×上村なおか

人との関わりという事をいつも
根本におき創作を続けてきました

いままで沢山の方が関わって頂き
作品作り作品に参加して頂きました

ダンスは一人でできる事
ダンスは一人ではできない事があります

人と関わることは自分の知らない鏡の姿を見るような感じ
今回は三人の振付家が作品を作ってくれます

どの作品も全く違う色彩です
この色彩が同じ時間軸に並んだ時
どのような色彩が生まれるのか

踊りを踊り
言葉を語り
音を響かせ

まだ知らない景色世界
まだ知らない身体言語

そんなことを知りたくて

笠井瑞丈×上村なおかダンス公演「2×3」

〜3人の振付家による3つのデュオダンス〜

構成・演出・振付:笠井叡、近藤良平、川村美紀子
出演:笠井瑞丈、上村なおか

日時:2018年10月11日(木)19:00 開演
         12日(金)19:00 開演
           *開場は開演の30分前
場所:国分寺市立いずみホール(JR西国分寺駅ロータリー前)

ススキを探しに

璃葉

今日は中秋の名月なのね、ということばを聞いて空を見上げれば、限りなくまるに近い月が雲間に輝いている。雨ばかりの毎日に少しうんざりしていたということもあり、暫し立ち止まって月を見た。

子供の頃、「お月見」という風習にとても憧れていた気がする。
ススキと積み上げた団子の山をお供えするということをテレビかなにかで知ったのか、母にお月見をしたいとしつこくおねだりしていた。無論、目当ては団子である。実家は団子ではなく、ちいさな器に盛ったご飯とススキをお供えしていたが、母は仕方なく真っ白のお月見団子を作ってくれた。その一度で、私の団子への興味は失せたのだった。

団子のことはさておき、当時、ススキやススキによく似たオギが瞬く間に減少したことが問題になっていた。北米からやってきたキク科のセイタカアワダチソウが猛威をふるっていたためだ。河原や原っぱに生えた植物を食い尽くすように、イエローの花が辺りを覆っていた。そんな理由でセイタカアワダチソウをネガティブなものとして覚えていたけれど、漢字表記の“背高泡立草”を、私はなぜだか気に入っていた。

お月見が近くなると、兄は小学生の私を自転車の子供用チェアに乗せてススキを探しに行った。兄と私は13歳離れている。とてつもなくおもしろい人間なので、私は兄について書きたくて仕方がないのだけれど、本人が嫌がるのでここでは省略する。兄は鋭い嗅覚(?)でふだん人の入ることのない小さな空き地に踏み込んでゆき、いとも簡単にススキのかたまりを発見する。当時すでに絶滅危惧種だったニホンメダカやニホンザリガニもよく見つけていた人だ。ススキなんて朝飯前なのだ。

母は車を走らせているときにススキを見つけると、車を路肩に停めてわざわざ摘みにいっていたほどだった。そうでないときは車窓から見つめて、——ああ、まだここにはあるのね—— と安堵していた。

現在、ススキと背高泡立草の力関係がどうなっているのかは知らないし、今年はまだどちらも見かけていない。そもそもちゃんとした土のある場所がほとんどない。台風が去ったら、この忙しなく、歯止めがきかない街から離れて探しにいこうか。

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

年々 里は蝕まれている
それでも里人が平穏な日常のなごみを失わないのは
むしろ そのことの確かな証左
森の瘴気が里に及ぼす症状は
今が過ぎていることに気づかないこと
時間がとまっている のではない
時の歯車にかみ合う
里の歯車の腐食のせいなのだ

里の歯車が
森の木でできていることは
おそらく里人のほとんどが知らぬこと
トチやホオやサワグルミや
さらにその森の奥にあるブナの材を
複雑に組み合わせて
時の歯車の凹凸にかみ合わせる術(わざ)は
森の人のもの

それを作ったのは
この子の祖父
しかし この子の祖父について
知られることはあまりに少ない
しかし あまりにすくないが
里人ならば 知らない者はない
しかし 知らない者はないが
この子の祖父が作った里の歯車を
見た者はいないし
それよりなにより 
祖父そのひとを 
見たひとも いないのだ

同じか違いか

高橋悠治

自分の過去の作品を聞くことはあまりない 自分の演奏の録音を聞き返すことも どうしても必要な時以外はない それでも作曲や演奏のしかたには ある連続性が聞きとれる こうして毎月書いているコラムは またおなじことを書いていると言われ 書きながら 自分でもまたかと思うこともある 作曲は毎月1曲書くほどではないし そのたびに楽器や演奏者 会場やプログラムの他の曲も考えて決めるので ちがう音楽を書いているような気がしていた

先日『クロマモルフ1』の練習を聞いた 1964年にクセナキスの推薦で「ワルシャワの秋」音楽祭に行くフランスのアンサンブルのために書いたが 演奏できなかった曲 その後日本で一度演奏されたが アメリカにいたので聞いていなかった 書いてから50年以上経っている そのあいだ作曲を続けていても 演奏されなかった曲もあり 一度だけの演奏で忘れられた曲がほとんどで 残った楽譜もひっこすたびに捨てていた

練習を聞いて 半世紀前にほとんど不可能だったことが たいしてむつかしそうでもなく演奏できるのに感心するとともに あの時代に求めていた演奏技術は もう今の時代のものではないと あらためて感じた 

力や速度ではなく 小さく弱い変化に引き込まれていくような音楽は 1960年のミニマリズムがきっかけだったかもしれないが あの頃のミニマリズムでは まだ反復を力として使っていたのかもしれないとも思う 反復のなかに変化をもちこんで崩すのは モートン・フェルドマンにはじまった書きかたかもしれない フェルドマンがペルシャの手織りのカーペットに見た abrash(色斑)のたとえをひろげて考えれば 音程を距離ではなく色差とみなして 音の小さなグループが即興で無限に変化し 音楽の方向が絶えず屈折していく 点描や音列の音楽ではなく 曲線の絡まりと結び目で重力から逃れ はためき揺れる音のモビールができるように

朝 気分がよければ すこしずつ音のスケッチや楽譜を書いてみる 時間をかけると 同じ方向に行き過ぎる 途中でやめたものを あとから糸の端を拾って 別な方向につなぎなおす 一つのことを完成させることより やめてはやりなおすプロセスが作品や演奏になるように 

音を鳴らす前のわずかなためらい 音をあからさまにさしだすのではなく 翳りのなかに隠す作法 行間を多くして 読みを遅くする 動かないものを揺り動かし楽器という物体の抵抗を破って音になる瞬間よりは そうして発した音がまわりの空気に共鳴し 空気を染めてはまた静まっていく時間 手と耳がたすけあう技術

垂直の和音でもなく 水平に感情を載せてうねるメロディーでもなく 斜めの音の網 重心も中心もなく ヒエラルキーを作らない宙吊りの変化