しもた屋之噺(204)

杉山洋一

目の前のテレビ画面を見ると、乗っている飛行機は新潟上空から日本海へ抜けようとしています。窓の外には美しい少し薄色をした青空が広がっていて、遥か眼下には靉靆と雲がどこまでも続いていて、まるで雪山のよう。このまま高度を上げてゆけば、宇宙に抜けてしまうのです。宇宙と自分がいるところの間に、境界がない不思議をおもいます。そしてまた、余りに驚くほどの速さで時間が過ぎてゆくので、今のようにイタリアに戻る機内にいると、どこまでも地球の自転と反対に時間を追いかけたい思いに駆られることがあります。

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12月某日 ボルツァーノホテル
立て続けに、去年一緒にパレルモで仕事をした連中から、SNSメッセージが届く。メッセージと言っても、手を合わせている絵が送られてくるだけで、事情がわからない。エンニオが亡くなるとは一年前にどうして想像が出来ただろうか。何が起こったかを理解して、暫し言葉を喪う。パレルモの劇場は、彼の死を悼んで昨年の公演のヴィデオの特別放映を決めた。余りに悲しい一期一会。あの作品を同じようには公演することは、永遠に叶わない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ブリテンのシンプル・シンフォニーに悩む。プログラムの曲数が足りないので、シンプルシンフォニーでも入れてほしいと気軽に頼まれたが、楽譜を読みだすと難しくて困ってしまう。
この曲は小学校の終わり頃、子供のためのオーケストラで弾いたし、何度となく耳にもしてきた。生徒がレッスンに持って来れば、その場を取り繕う好い加減な助言で執り成してきたが、いざ自分で演奏するとなると、これほど悩むとは思わなかったし、これほど素晴らしい作品だとは理解していなかった。
練習が終わって、第一ヴァイオリンの一人が話しかけてくる。
「お前のブリテンは面白いし、お前の解釈は好きだよ。あの曲は40年近く数えきれないくらい弾いて来たが、こんな演奏は初めてだ」。「ところで、一つだけ疑問があるんだが、お前は4楽章最後のフェルマータを何故あそこに入れるんだい」。
スタンダードの弾き方に馴れると、そこにフェルマータがあることすら気がつかない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ボルツァーノの街全体が、華やかなクリスマスの彩りに溢れる。この街に来るたび、どうして日本は近隣諸国と諍いを治められないのか、考え込んでしまう。戦後まで長く憎悪の対象だった者どうしが、こうして豊かに共存できるのは何故だろう。ともかく迎合とも違い、互いの文化への尊敬は間違いなく守られている。EU統合とは少し違う姿勢で、共存のバランスが取れている。

12月某日 ボルツァーノホテル
「今日の遠征先は遠いのよ」とオーケストラの引率役ナンシーが笑う。ボルツァーノからトレントまで下がって、山の麓へ向かったところだと言う。2時間バスで山道に揺られてホールに辿り着くと、バスが遅れたからと早速10分後にリハーサルが始まる。長い山道でくらくら揺れる頭を抱えながら。
軽食が用意されていたのだが、バスが遅れて先に着いた他の演奏者に全て消費されてしまっている。指揮者用控室に牛の絵のついたアルプス名物ミルカチョコが一枚、申し訳なさげに鎮座ましましていて愉快。

12月某日 ボルツァーノホテル
数年来このオーケストラに仕事に来る折は、いつもマルコというイタリア系カナダ人がコンサートマスターだったが、今回はステファノというイタリア人。彼ら二人が交代で演奏しているのは知っていたが、今まで偶然にもいつもマルコに当たった。ミラノ近郊のブスト出身のステファノとは偶然にも共通の友人が。ソルビアティと彼の両親は近所でとても親しく、先週の週末も昼食を共にしていたそうだし、高校の時のステファノの和声の教師はソルビアティだった。

12月某日 ミラノ自宅
近所の自転車屋に、家人の自転車のパンク修理に出かけると、白い何とも魅力的な中古自転車が置いてある。聞けば少なくとも40年か50年前のイタリア製自転車で、ボロボロの状態で持ち込まれたものを、彼が全て磨き上げて塗装し直したのだと言う。車体の組み方も今よりずっと丁寧で角度も今のものよりずっと漕ぎやすいと言う。ヘッドランプも時代がかった摺りガラス製で、美しく値そのものは決して高くはないので、中古自転車を探している留学生Y君に紹介したいが、車高がとても高く彼には乗れまい。とても美しく拙宅に置いておきたい気持ちに駆られるが、家人に叱られるので我慢する。

12月某日 ミラノ自宅
階下で家人が「歌垣」を練習していて、聴いて意見を言ってくれと言う。こちらも曲が分からないので、気が付かれないよう携帯電話で録音して、作曲者に送って助言を仰いだところ、同居人通しイメージの摺り合わせをするのは危険、とのお返事を頂戴する。

12月某日 三軒茶屋自宅
基本的に、松平さんは練習にいらしても細かい注文は出さずに、微笑みながら楽譜を開いて音を追い、必要最小限しかお話にならない。
練習の後で、今日気が付いた点をご教示願うと、「冒頭の日の丸のヴィデオね、あれは短く。それから、退廃チャンネルのポルノの喘ぎ声、あれは女で。後はいいです」。簡潔な指示に終始する。
それまで喘ぎ声は橋本君にお願いしていたのが、画面に映し出されるのが網タイツにはだけた臀部だったから、これ以上内容をを複雑にしたくなかったのだろう。橋本君が落胆しながら、喘ぎ声ですら使って貰えぬ寂しさをこぼしていて、一同の笑いを誘っている。

12月某日 三軒茶屋自宅
松平さんのオペラでは、会話の流れに音楽をどう載せるべきか、方向を決めるまで随分悩んだ。その分決断を下せば後は思いの外明快だった。本番衣装について尋ねられ、ソプラノはSM女王のコスチューム、アルトは胸のはだけた銀シルクのネグリジェに素足、バリトンは貴族風ナイトガウン、テノールは戦時中の特高警察風制服に、バスはざっくり編んだセーターにスラックスと注文を出すと、即座に却下されてしまう。

12月某日 三軒茶屋自宅
通し稽古を見学に来る来訪者数人。皆口を揃えて、この昭和の香り漂う雰囲気が良いと言う。24年もイタリアに住んでいるから、平成という時代を、点でしか捉えられぬまま終えつつあることに気づく。
オペラの練習中、休憩開けに突如皆から誕生日祝いを祝福されて驚く。誕生日ケーキまでていねいにご用意いただいていて感激。一体誰が誰に進言していたのだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
無事に公演を終えた松平さんの「挑発者たち」は、近未来ディストピア社会に於けるデカメロン像かも知れない。
反体制派の若者たちは淫行に明暮れ社会性を否定する。
彼らこそ本来反逆者と見做される存在であるはずだが、対する秘密警察の警察官やスパイを含め、松平さんは何を持って正義とするか、基準を敢えて明快にしない。隣国から発射されたミサイルが着弾し国が全滅する前に、彼らは互いに銃を撃ちあって斃れる。
ミサイル着弾の場面で楽譜にサイレンの指定があって、今回は空襲警報の録音を後藤君に重ねて貰う。
演奏会後平尾先生とお電話すると、「自分はまだ幼かったけれど、微かに空襲警報のサイレンの音を覚えている気がするのよ。凄く厭な音よね。今まで政治的な発言をしなかった松平さんがどうしたのかしらと、考え込んでしまったわ。10年前と言えば、世界各地で色々また違う意味でキナ臭かったから、やはり思う処があったのかしら」。

12月某日 三軒茶屋自宅
重症の腱鞘炎に苦しむピアニストの友人がいて、時々相談に乗っている。単なる腱鞘炎ではなく、ドケルバンだったのだが、それはどうやら腱鞘の脱臼らしい。訪ねる先々の病院でいつも違う見解を出されるので、精神的にとても辛そうだ。
一月末の演奏会を弾きたいと強く願っていて、鎮痛剤を注射してでもやりたいと言うので、とにかくそれは止めるべきだと強く話す。
左手の親指が痛くて動かないと言うが、本当に弾きたいのなら、当座は親指を使わない運指で弾くべきだろう。
中学3年の時、高校入試のために初めてピアノを弾かなければいけなかった時、左手で使える指は親指、人差し指、中指だけの3本だけだった。薬指は脳と全く繋がっていなかったから、全く動かなかったし、第1力が全く入らなかった。事故に遭ってからピアノを弾くまで、薬指など使ったことがなかった。

最初の入試で悠治さんの「毛沢東三首」を弾いたが失敗したので、翌年ヤマハで見つけたプーランクの「夜想曲」の1番を左手は3本指で弾いた。当時プーランクがとても好きだった。
当時家に楽器はあったが習ったこともなく、習うこともなく適当に弾いたのだが、3本指があればそれなりに弾けることがわかった。
高校に入って最初に選んだ曲も、調子に乗ってプーランクの「メランコリー」だった。
初めてピアノを弾くことを覚えたので、面白くて仕方なくて一日中弾いていた。自分なりにどうやったら弾けるか、全部の音に指使いを楽譜が真っ黒になるほど書き込んだのを覚えている。
その後欲が出てきて、薬指を使ってみたくなり、それまで崩して弾いていたオクターブを少しずつ薬指を使って弾いているうち、何時の間にか薬指は動くようになった。
鎮痛剤を打ちながら、手を壊すためにピアノを弾くくらいなら、音を省いてでも無理な指を使わないで弾けばよい。人と違うことをやるのも愉快、くらいに考えて悪いことはないだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」の練習始まる。初めは、書かれている音を指定の奏法で演奏することから始め、悠治さんの考えている「歌垣」のイメージに近づいてゆく。もっと大陸に今も残る健康的な「歌垣」を想像していたのだけれど、悠治さんの意図していた「歌垣」は、もっと官能的で淫靡な「歌垣」だった。皆がその意図を理解すると、発せられる音が突如それらしくなる不思議。それは音楽家としてはわかるのだが、一体何がどう作用してこうなっているのか、誰かに説明して貰いたい。

12月某日 三軒茶屋自宅
オペレーション・オイラー。リハーサルを前に、荒木さんと鷹栖さんが誇らしげに、でも少し困った顔で言う。「出るようになっちゃったんです」。どう足掻いても出る筈のなかった超高音の運指を、見つけたのだと言う。その音を出すために歯でリードを噛むので、音の振動がそのまま全身に伝導して、気持ち悪く鳥肌が立つと言う。
「出るようになったそうです」と作曲者に伝えると、「でしょう」と笑われてしまった。通し練習の後で、「楽しそうに身体を軽く揺らしながら、吹いてみてほしい」と悠治さんより助言を頂く。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんの指揮は、彼がピアノを弾いている時の身体の動きにそっくりだ。ともかく、愕くほどいい音がする。
その昔「少林寺拳法のような高橋悠治の指揮」とどこかで形容されていた。確かに空を切るようにも見えるけれど、音を出す点を打たないから、出てくる音が瑞々しい。
悠治さんが細かく微細なニュアンスについて注文を出してゆくと、演奏者の耳がどんどん開いてゆくのがわかる。
演奏者の耳が開くことでもたらされる新しい空間で、悠治さんの指揮がより自由に動けるようになってゆく。
書かれた音を演奏する姿勢から、互いに、書かれた音を通して交感する姿勢へ変化してゆく。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんとのリハーサル。指揮で音を合わせないつもりでも、楽譜が難しいと無意識に音符を合わせようと手が動きがちで、演奏者も指揮を頼りがちになる。彩の豊かな糸をあわせて縒った、紐のようなもの。自分で制御できない、不安定な音。悠治さんはそう表現していらしたが、指揮に拘らず、演奏者が互いに聴き合って音を紡ぐと、音場は明確に変化し音の輝度が途端に上がってくる。
音が、音楽になる瞬間。

12月某日 三軒茶屋自宅
三日間、悠治さんとの濃密なリハーサルを続けて、見えてくるものがある。半世紀前に書かれた作品は、我々の目に触れないところで生き続けていた。「生き続ける」とは「息を続けて」「呼吸を続けて」いたことであり、呼吸を続けるということは、たとえ表面上の見かけが変化していなくとも、古い皮膚は垢となって剥がれ、古くなった血液は新鮮な血液に取替えられて、生き続けてきたということ。
作品も生きていて、作曲家も同じく生きているということ。生きているということは、変化し続けるということ。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」演奏会が無事に終わった。どの演奏も素晴らしいものだった。
「クロマモルフ」も「6つの要素」も、結局以前抱いていた印象から大きく異なるものとなったから、悠治さんに今回実際練習にお付き合いいただけたのは本当に嬉しかった。「オペレーション・オイラー」も「さ」も、演奏の素晴らしさと相俟って、想像より遥かに素晴らしい作品だと知った。「あえかな光」は聞くほどに美しい作品で、演奏者が音を愛でるかのように発しているのが、強く印象に残った。
「歌垣」は、昼は太陽の下で詳らかになる肉体美的官能性、夜は闇の中、手探りで触感を辿る官能性が、自然と立昇る不思議を思う。

(12月30日ローマ空港にて)

ジョージアとかグルジアとか紀行(その3)無言を語る国

足立真穂

澄み切った空と強い太陽の照り返し。
木陰に座りこちらをじっと見つめる老女、
そして、この世のものとは思えない白い衣を羽織った聖女のごとき乙女……。

前回のワインからは少し離れるが、この年末に見たジョージア映画について書いておきたい。とんでもないものを見てしまって、腰が抜けたままだ。

見たのは、ジョージアの小津安二郎か黒澤明か、という国民的映画監督、テンギズ・アブラゼ(1924〜1994)による作品だ。『祈り』(1967年)、『希望の樹』(1976年)、『懺悔』(1984年)の三作をまとめて「祈り」三部作と呼ばれる。この監督には他にも作品があるが、それぞれの作品の描く時代の心象風景を、痛いほどにえぐり出すこの三作品がジョージアの精神を表していることから、選びこう称されることが多いようだ。

ジョージアの現代史を把握しておくのが理解の近道だろう。
北は5000メートル級のコーカサス山脈の向こうにロシア連邦、南にトルコ、アルメニア、東にアゼルバイジャン(その向こうにカスピ海)、西は黒海という地勢からしてわかるように、交通の要衝であり文明の十字路、古い歴史を持つ。1回目で触れたが、最古のワイン作りの痕跡があることからもそれはよくわかる。北の山岳、西の海に対して、南東のアゼルバイジャンに近い地域は砂漠地帯で、つまり土地柄も気候も多様性に富む。
歴史は、大きくは東西で違う。東はアラブやペルシャ、西はギリシャやローマの影響が文化にも及んでおり、それぞれ古くは東はサザン朝ペルシャ、西はビザンチン帝国の支配下に置かれたこともあるのだ。
その後12世紀になって、東西を合わせて南コーカサスと呼ばれる一帯をタマル女王が統治し、文化的にも栄華を極める。最近ジョージア映画を見られるだけやたらと見ているのだが、この「タマル女王」は、映画の中でもよく「タマル女王のご加護がありますように」と登場する。どうも地元では特別な存在らしい。日本語の音感でもどこか可愛いくてなじみがいい響きだ。
その死後にモンゴルの支配、再統一、ティムールの侵略、群雄割拠、といった変遷を経て、16世紀にはオスマン帝国とサファヴィ朝ペルシャに分割され、ロシア大公国の台頭とともに、徐々にロシア帝国の支配下へ、19世紀後半にはついに全土が支配のもとに置かれることに。
と、大まかに書けば書くほど、ジョージアはよくここまで民族的に自立し、国として独立できたものだとさえ思ってしまう。島国の日本と違い、台風でモンゴルが引くこともないのだ。

ロシアの支配下に入ったものの、第一次世界大戦の頃にそのロシアに変化が起きて行く。ついには、1917年にロシアで革命が起こり、1918年にジョージアは一時的に独立を果たす。
が、結局1921年にはソビエト政権下に組み込まれ、そして1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立した。1924年のレーニンの死後、トロツキーとの後継者争いの末、スターリン(1878〜1953)がソビエト連邦共産党中央委員会書記長に就任、権力を集中させていく。
このスターリン、実はジョージア人だ。ヤルタ会談など第二次大戦の話でよく出てくるが、ソ連の人々を震撼させた1937、38年をピークとする大粛清こそ、いまや人々のスターリン像を塗り替えたと言っていい。この2年で死刑宣告を受けたと記録にある人だけでも70万人近い。スターリンが任期の40年ほどの間に粛清した人数となると、4000万人が犠牲になった、という人もいるほどで、途方もない数に上る。その数はあまりにも膨大で、研究者により未だ数字が異なるようだ。
出身地は、首都のトビリシから70キロほど西にある、クタイシに向かう幹線沿いのゴリという町だ。1883年まで住んでいた生家はスターリン記念館になっているという。この町を移動中に通りかかるというので、少し手前のパーキングエリアに止まった際に地図を確認し、町の表示だけ撮影した。暗い曇り空の下で俯瞰してみるゴリの町は、なんの変哲も無い、どこにでもある風采だった。


 ゴリの町の標識

どうも釈然とせず、「スターリンについてどう思うのか?」と、何人かのジョージア人に聞いてみたが、皆一様に、いい顔をしない。ひとりが答えてくれたところでは、ゴリの年寄りはいまだにスターリンを故郷の錦を飾った偉人として自慢するそうだ。スターリンの後継者のフルシチョフも「大粛清」を批判したし、ペレストロイカでも、そして現在のロシア政府も「悲劇だった」と非を認めているにしても、地元の人にとってはまた違う存在なのだろう。とはいっても、ジョージア人にも粛清の嵐は平等に吹いたそうだし、死後のスターリン批判の矛先は、ジョージア人に対して、出身地ということで苛烈に向かったとも聞く。

ソ連のその後についてはまだ記憶に新しい方も多いだろう。
1985年にはゴルバチョフが大統領に就任し、ペレストロイカ、グラスノスチ、とジョージアからシュワルナゼを外務大臣として迎え入れ、改革を進めていく。
そんな中、1989年にジョージアの北西部、黒海とロシアに挟まれたアブハジア(住民多数のアブハズ人にはイスラム教徒が多い)で分離独立の動きが高まり、首都トビリシで抗議中の民衆に軍部が実力行使をし、政府発表で21人が死亡する。その2年後に、ジョージアは念願の独立を果たし、連邦を離脱する(連邦は1991年に解体)が、その際に、初代大統領のガムサフルディアに反対する勢力が軍事クーデターを起こし、「トビリシ内戦」と呼ばれる戦闘にも発展してしまう。
ジョージアの大変な運命はまだまだ続き、先のアブハジアのみならず、中央部の北、コーカサス山脈でロシアと国境を接する南オセチア(イラン系の民族と言われるオセット人が多い)でも分離独立運動が紛争となり、再びアブハジアでも1992年夏には「アブハジア紛争」が起き、多大な犠牲者と、25万人もの難民を生み出してしまうのだった。
旅の途中、アゼルバイジャンの国境につながるステップ気候の草原の地に、この25万人の難民のために政府が作った集団住宅を見た。道の分岐点にあるドライブインのようなレストランの屋上で、ハチャプリ(チーズパン)にかぶりつきながら、案内のニアさんがそっと教えてくれたのだ。
「ニュースでやっていたのを覚えているんだよね。だいぶ経つのにまだ住んでいるんだなあ。移住した人も多いと聞くのだけれどね」。


 アブハジア戦争の難民が住む町

このクーデターで新たに大統領となったシュワルナゼの政権は腐敗に満ちていき、2003年に「バラ革命」と呼ばれる政変で大統領となったサーカシビリは、親欧米、反ロシアを打ち出した。その意趣返しなのか、ロシアは2008年8月に南オセチアに侵攻する。
「ロシア戦争」と呼ばれるこの「侵攻」によって、昨今のジョージア人の反ロシア感は強くなっているようだ。クタイシの市場の近くで、ロシア人観光客が通りがかると、いかにも外国人な風貌の私たちに伝えたいのか「ロシア人が来た」と英語で憎々しげにつぶやく人がいた。その50代の地元女性に少し話を聞けば「南オセチアに親戚がいるけれど、ずっと会えないまま」と、切実な状況が伝わってくる。何より、その状況が始まったのは、たった10年前のことなのだった。
ちなみに、サーカシビリは2012年に選挙で敗北し、ジョージアの政治はいまだ安定しているとはいいがたい。

そう、こんなこともあった。クタイシから北西部のスヴァネティという地方に抜けていくときに、車窓を眺めていた時だ。町の中心の広場には労働者が腕を組んで行進する巨大な黒いモニュメントが建てられていて勇ましいのに、どこか町の空気が荒んでいて暗く、違和感がある。そこでニアさんに「ここはどこなの?」と聞いたら「セキナ」だという。南オセチアとの紛争時の前線だったことが調べると出てきた。理由が戦争だけなのかはわからないが、この町には、トビリシとは違い、その後の平和な10年の歳月が流れなかったことは見て取れた。
おまけに周りの町も含め、一帯の建物や町並みがすべて一律で、聞けばソビエト時代のもの。共産圏の建築やデザインは、機能を重視する一定の特徴があり、見分けられる人も多いと思う。日本の感覚でいうと、一昔前の気の利かない団地が延々と続くという見た目なのだ。


 団地のような住居が続く

建て直すお金がないので、頑丈な建物にそのまま住み続けるのだという。そして空き家が多く見られる。理由を聞くと、
「ここには仕事がないから、海外にみんな出稼ぎに行くのだと思う」とニアさん。
「トビリシに行くんじゃないの?」と聞き返すと
「トビリシに行っても仕事がないから」とのこと。
道路はといえば、不自然なほどにまっすぐで長くて、飛行機が着陸できそうだった。必要な時には来るのだろう。この国ではすべてがこの道路のようにまっすぐではないのだけれど。

そうして出かけた、年末の「下高井戸シネマ」。
ジョージア映画を長年日本に紹介して来た岩波ホールのはらだたけひでさんの著作『グルジア映画への旅〜映画の王国ジョージアの人と文化をたずねて』(2018年、未知谷)や映画のパンフレット(岩波ホールのものなので、これもはらださんの執筆かと思うが)を参考に触れておこう(見られる機会があまりないため、結末まで書くのでネタバレにはご注意)。


「三部作のパンフレット」

「祈り」(1967年)では、国民的作家の叙事詩を原作にし、宗教をテーマに、辺境に住むキリスト教徒とイスラム教徒の間の争いを描く。闘いで天晴な最後を遂げたイスラム教徒の戦士に、敵ながら敬意と友愛を感じたキリスト教徒戦士が、勝利の印とされる右手を、切り落として持ち帰らなかったことで、問題は起きる。凱旋したはずの戦士は、逆に村から追放されるのだ。一方で、狩りで知り合った異教徒同士が親しくなり、イスラム教徒がキリスト教徒を家に招くと、その客人が仲間を何人も殺していたことから、村人は客人を捉えて墓場まで引きずり、処刑する。旧約聖書の世界を喚起させる芸術的で美しい映像は、何日経っても脳裏を離れない。同時に、その裏腹に、テーマは重くのしかかってくる。

「希望の樹」(1976)は、カラーフィルムとなり、ため息が出るほどに荘厳なジョージアの自然が描き出される。貧乏で母親を早くに亡くしたとはいえ、誰もが目を引くような美しさを持つマリタと、貧しいが心優しくハンサムな牧童のゲディアは愛し合うようになるが、頑迷な村の長老が、マリタと金持ちの息子との結婚を進めてしまう。結婚後にマリタの真意を知った姑は、古い慣習に従って村人とともにマリタを雪の中、村中を引き回して、泥の中で死に至らせるのだった。閉じた社会だからこその牧歌的な親密さと、その因習がもたらす悲惨な結末が、やるせない。
自主的に演じたという役者たちの演技がどれも無駄がなく、中でも、マリタを母親がわりに育てた祖母役の女優の演技が素晴らしくて、あっと声をあげてしまった。泥の中のマリタの美しい遺骸を見た祖母が、何か叫びながら嘆く。それは口から音声を発することのない「叫び」として表現されるのだ。見ているこちらにも、哀しみが振動として伝わって来た。このシーンだけでも見る甲斐がある。
後でパンフレットを読むと、この祖母役の女優は、台本通りにセリフを発声する演技で撮影を終えた後、「セリフを口に出さずに心の中で言う、それをもう一度撮ってくれ」と監督に懇願したのだそうな。

「懺悔」(1984年)では、ジョージアの架空の街で「大粛清」で人々が壊れて行く様子が描かれる。スターリンを思わせる市長の遺体が墓から掘り出される事件から映画は始まり、ミステリーのようにどんどん話が進むので見ていて飽きない。犯人は、芸術家の両親を殺された娘で、裁判で当時の様子を語り、糾弾するのだった。
公開から3年後の1987年にはカンヌ映画祭で審査員特別対象を受賞するなど、評価は高まっていた上にペレストロイカの最中、という環境にもかかわらず、この作品は「反ソビエト」として上映禁止となっていた。関係者は映画をビデオに何本もコピーし、それを回覧して見せたのだそうだ。また、検閲(まだまだ80年代後半にもあったことに驚く)をかいくぐってフィルムを運んでモスクワで上映し、この映画自体が、ペレストロイカの象徴となるのだった

いつも見慣れているハリウッド映画とは対極にある。ありすぎて、頭がぐらぐらだ。あえて「無言」を表現手段とするのが、ジョージアの方法なのだろうか。

同時に、こんなに怖い映画を見たのは何年振りだろう。幽霊や宇宙人よりも怖いのは、人間の「正義」かもしれない。
見終えて以来ずっと、「無言」の意味を考えている。

聞き書きの仕事

西荻なな

書いて書いて、書いた年だった。

普段は黒子として仕事をしているが、昔から「聞き書き」というスタイルが好きで、自ら苦労を買って出てしまうところがある。インタビューを投げて答えが返ってくる、そのやりとりを積み重ねることで立ち上がってくる輪郭に、驚きながらどうも魅惑されてしまうのだろう。まだ見たことのない景色のただ中にいるという実感が、たとえ勘違いであっても降りてくる瞬間のかけがえのなさ。五感を研ぎ澄ませて、こちらが全身耳であるような無私になった時に、まざまざと感じられる手応え。そのあと文字起こしをして、まとめ直してみるという気の遠くなりそうな作業が待ち構えていることがわかっていても、まだ見ぬ何かを形にするぞという熱が不思議とこもる。むしろテープ起こしだって編集しながら書いていることに他ならないのだし、さらに1冊という本の尺にボイスを乗せていくことはさらに文学的な何かを紡いでいることにも等しいじゃないかと熱がこもる。舞台に立つ役者や演奏をする音楽家たちはこのずっと何倍も濃密で張り詰めた緊張感の中にあるのだろうと、ふっと想像をしてみたりする。

思えばスヴェトラーナ=アレクシェービチの仕事も聞き書きだった。ベラルーシという地政学的にはソ連のお膝元で、ソ連崩壊や巨大なものが壊れゆく過程でこぼれ落ちてゆく声を拾って集める尊い仕事を重ねているアレクシェービチ。ノーベル文学賞を受賞した時には驚いたものだったが、まさに「耳をすませる」仕事に他ならない。人の声に耳をすませて、聴いた声の数々を自身の身体を一回通過させた後に紡いでいる話ひとつひとつは、フィクションとは違う、でもノンフィクション的な強い事実の切り取りをする姿勢とは遠く離れたもっと密やかな祈りにも似たものだ、という感触が残る。チェルノブイリの原発事故に遭遇した人たちの声を拾った『チェルノブイリの祈り』は、絶望と祈りと戸惑いに満ち溢れていて、聞き書きによってなされた文学的な仕事の到達点だと思うけれども、はるかその仕事には程遠くとも、音楽を奏でるように身体を使って聴きながら書くような「聞き書き」の仕事に、とりわけ尊さを感じる。大きな仕事を終えた年の瀬にまた、新たにまた「聞き書き」の仕事を始めてしまいそうなのも、我ながらという感じである。

170 赤い土

藤井貞和

以前に、本部半島のユタ(巫女です。)に、私は疲労困憊のとき、
お会いしたことがあります。 「沖縄の土には、
二十万の亡くなった方の人骨が、どこを掘ってもはいっているのよ。」
彼女は何年もかけて、島内をめぐり祈りました。
そういうユタに聖地で何人にも私は出会いました。
歌集『沖縄』の新装版が出たと聞いて、「今度こそは」と手に入れました。
〈基地撤去は芋と裸足に戻ることと
演説せしアンガー弁務官よOKです〉(桃原邑子)
〈眼球に灸すゑ徴兵拒否をせし青年(ニーセー)の家に
石を投げける吾十二歳〉という一首もあります。
桃原さんは十二歳の夏(大正十二年)、自作歌を持って、
釋迢空(折口信夫)を訪ねたそうです。
いまに赤い土が火風(ヒーカジ)になることでしょう。
こんな歌もあります。 〈みるみるに飛行場を作り道を通じ
銃座をかまえるにわれら何を為さん〉
昭和二十年四月一日、上陸米軍のことを詠んだ一首とのことです。

(新装版が出たと、『笛』149号に書評が出ているのを見つけて、あわててアマゾンから購入しました。本部半島でお会いした巫女と、桃原さんとは、むろん関係ありませんが、どちらも歌人です。とうばるさんと呼ぶのでよいと思いますが、新装版にはMomohara Yukoとあります〈六花書林、二〇一八・一〉。OKです。)

仙台ネイティブのつぶやき(40)峠をこえてきた青菜

西大立目祥子

足しげく通っている大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)地区。北は秋田県、西は山形県と接する山間のこの地区には、ここだけで守り育てられてきた在来野菜がある。その名も「鬼首菜」。

地元の人たちが「地菜っこ」とよぶこの青菜、平成2年には100戸ほどの農家が栽培していたというのだけれど、平成も終わり近づいた29年にはわずか2戸になってしまった。このままでは消えてしまう、復活させようという動きが出てきて、昨年夏に3軒の農家が種まきし栽培して漬物などの加工を試みることになり、私もその手伝いにまわることになった。

とはいっても、私は食べたことのない野菜なのである。栽培してきた農家から、小さなカブをつけた20〜30センチほどの鬼首菜の写真を見せてもらい、手にのるような大きさの小松菜やほうれん草のような青菜かと想像はするものの、味はまったくわからない。手さぐりの実験だ。

8月末、種まきして3日目という畑を見に行った。種は畝を起こした畑に等間隔でていねいにまくのではなく、広い畑にラフな感じでぱらぱらとまいていくらしい。暑い日が続いたからだろう、黒い土の上に濃い緑色の何ともかわいい2、3ミリの双葉が一面に芽吹いていた。収穫は11月頃と聞いた。

長年この地に暮らしてきた人に、「鬼首菜ってどんな味?」と聞きまわる。「おいしいよ」と即答の人もいいれば、ああ、と記憶をたぐり寄せるような表情になって、「あの辛みがいいんだ、鼻に抜けてくあの辛みがなぁ」とうなづきながらに答えてくれる人もいる。その顔がいかにもしあわせそうで、暮らしにしっかりと根を下ろしてきた野菜なのだということを教えられる。

ある人はこうもいった。「秋に収穫して漬物にすると、独特の辛みが何ともうまいんだけど、春の食べ方もあるんだよ」。聞けば、雪の下で数ヶ月眠りについた鬼首菜は、春先、ちょうど雪解けのころに春を教えるように新芽を伸ばしてくる。そこを収穫して食べる。「ああ、鬼首に春がきたって思うんだ」。それは、春一番に食べる菜っ葉であり、長い冬がようやく終わり自然がいよいよ動き出すきざしでもある。重い雪に耐えた鬼首菜は甘味を増していて、その甘さはひときわやさしくやわらかな春の到来を感じさせるものだったのかもしれない。春一番に山の動物たちが新芽を求めるように、栄養を蓄え続けてきた冬のからだを浄化して整え直す効能もあったのだろう。

鬼首菜は順調に育って、9月には青々とした葉をつけ、11月に入ったころには霜が降りたという朝の畑の写真が送られてきた。畑一面の緑や赤紫のふさふさと茂った葉っぱが霜で白くふちどられていて、何という美しさ!そろそろ冬到来という季節なのに、強く豊かに葉を伸ばすこの青菜が豪雪地帯の鬼首でつくられてきたわけもわかるような気がする。

11月末、久しぶりに訪ねると、ほら食べてみてと大きなポリ袋にどさっと入った鬼首菜を渡され驚いた。こんなに大きな青菜だったとは。丈は60センチほどで、生育がよければ1メートルほどにもなるという。葉の茎はしっかりと固く葉も薄くはない。カブの部分は小さいもののたくさんの髭がからみつくように伸びていた。確かにこの上部の葉を支えるにはカブだって強くなければ持たない。八百屋の店先に並ぶ食べやすく扱いやすい青菜ばかり見ている私の想像を越えていた。

地元の人が一番に押す「ふすべ漬け」にトライする。「ふすべる」とは「ゆがく」という意味で、カブの部分も含め適当な長さに切ってさっと湯通ししたあと、3パーセントくらいの塩でもんでいただく即席漬けだ。鮮やかな緑の青菜漬けを口に含むと、確かに鼻に抜ける辛みがたっておいしい。歯ごたえもかなりある。でも数日おくと、色はあっという間に抜けて茶褐色になってしまった。

加工の試みに先立って、鬼首菜を研究してきたという高橋信典先生(宮城県農業短期大学名誉教授)の講演会を開いた。20数年前、鬼首出身の学生からこの青菜のことを教わり卒論を指導しているうちに自分も病みつきになって、仙台の自宅でもプランターで鬼首菜を育てているというおもしろい人である。先生によれば、他の地域で栽培してもこの辛みは出ないし、辛みはワサビやカラシと同じシニグリンという成分を含んでいるという。

もう一つ、興味深い指摘があった。鬼首菜は山形からこの地に入ったのではないかというのだ。山形にはいろいろなカブの系統が点在しているのだという。あらためて地図を開いてみると鬼首の西は山形県最上町に接していて、県境には標高1261メートルの禿岳(かむろだけ)がそびえたっている。だが、その南には標高796メートルの花立峠(はなだてとうげ)があって、断崖絶壁をぬって折り畳むような悪路が通っている。先生は、行商人がこの道を通りかなりの数行き来していたはずだと推理するのだ。

12月21日。積雪なった鬼首の公民館で鬼首菜の試食会を開いた。ふすべ漬けのほか、醤油漬け、塩をきつくした保存漬けなど数種類を来た人たちに食べてもらった。だれもが辛みがおいしい、と感想をのべてくれた。40歳代では鬼首に暮らしてきた人たちでさえ、食べた経験があまりないこともわかった。

窓の外には、白い油絵の具を分厚く塗ったような禿岳が神々しい姿で光輝いている。あの山の近く、いまでも冬期間はとざされる細い道を誰かの背に背負われて、けし粒ほどの小さな種が運ばれてきたのだろうか。そして、それはいったいいつ頃のことなのだろう。

この先、食べ方の工夫の試みは続くのだけれど、ルーツをさかのぼるような、辛みが何ともいいと答える笑みに迫るようなものにしていきたいと思う。成果はまた新たな機会に。

寄席

璃葉

夜明けの部屋は冷たくて、青い。
稀に明け方に目が覚めることがある。夜型生活がなかなか治らない私にしては、珍しいことだ。目玉をうごかして部屋を見渡せば、静かすぎる音が聞こえる。本も、食器も、紙の束もたしかに眠っている。
布団から出ている自分の顔半分、髪の毛が冷たい。予報によれば、今日はとびきり寒い日らしい。そのせいか、布団のなかは最高に心地良い。…なんとも出がたい。イモムシみたいに布団の中をうぞうぞするのも楽しいが、すぐに飽きたので起きることにした。

起き抜けに大事な用事を思い出す。ふだんからお世話になっている噺家さんがトリを務める寄席、今日が千秋楽なのだった。友人を誘って、昼間の新宿へ出かける。
ちいさな窓口でチケットを買って木造の演芸場に入場すると、座る席はほとんどないぐらい、人で埋まっている。舞台では奇術師がなにやら紐をいじっていて、お客がそれを見守っている。そんな中で席を探すのに少し戸惑いながらも、二階の窓際に無事座ることができ、安心する。一番奥の高い場所から見下ろすと、座敷席ではお弁当をむしゃむしゃ食べる人もいれば、途中で出て行って戻らない人、くてっと背もたれに寄りかかって半目の人、ぐっすり眠っている人も見えて、みなさん大いにくつろいでいた。
演者は全員おもしろおかしくて、とくに落語はちょっとぐらい声が聞き取れなくても、仕草を見ているだけで本当にたのしい。扇子の使い方、姿勢、表情、飄々として、凛としている。ただそれを見ているだけで、寒さで固まっていた体はほぐれていくし、フフフと笑いが漏れる。ひさしぶりに、陽気な空間というものを味わった。動画や音声だけでは絶対に味わえない、お客と演者でしかつくれない、ほんわかとしたまるい空間だ。自慢にもならないが、私はふだんから会話のなかでよく笑う。でも率先して笑いに出かけることはあまりなかった。笑うためにふらっと寄席にいく、これはとても素敵なことだ。

たくさん笑ったあとはなんだか身体がほかほかして、友人と私の間に暖かい空気がくるくる渦巻いていた。もはや寒さは気にならず、まだ明るく爽やかな空の下、愉快な気分で居酒屋へと向かったのだった。

パノラマ★36

北村周一

ほっこりと西に初富士二子玉や
 駅に晴着のひともちらほら
心中未遂の美大教師が麗らかに
 花束提げてみずうみのべを
月に二度も浮かぶ朧の月明り
 ねむれぬ夜の青空文庫
高気圧を待つらん新車のボンネット
 カーワックスを拭き上げて無口
監督の透ける白シャツ悩ましく
 ロシア・ワールドカップにクギ付け
夾竹桃ふたいろ淡く入り交じる
 その花蔭に求め合う愛
ひとつところ月吐く峰の闇深し
 とろろ食せし口中の熱
カナカナの声に昏れゆく胸の内
 薄水色の日傘回せば
花弁舞う墓石の前の灯油缶
 彼岸の今日を命日とする
親機鳴り子機が鳴りして春の昼
 カネの無心を我が子のごとし
電卓手に武器売り歩く死の商人
 安保理常任理事国戦好き
右隣に眠るあなたの掛布団
 うごく怖ろしわれ金縛り
紋甲にはげしき恋の鸚哥の目
 つつきたいだけつつくを許せり
歩みつつ肩抱くまでの行いも
 電柱の陰ながき夜の道
伊香保湯のそらに真白き望の月
 茸愛せしJ.Cage氏は逝く
川沿いのフェンスをつづくみずの痕
 水平なれば向う岸にも
職安の遠い視線に見え隠れ
 値踏みされてもわたしは非売
身延山は枝垂れ桜の坂の道
 花の向こうに霞むパノラマ
 

*擬密句三十六歌仙新年篇。年の初めに。
 春篇―冬の旅、夏篇―朝日ジャーナル、秋篇―四月馬鹿、冬篇―理性の不安、新年篇―パノラマ、
 これにて連句擬き独吟の了といたします。

空知川、遠く

くぼたのぞみ

 空知川は石狩川の支流である。トップ川も石狩川の支流だ。トップ川の支流がソッチ川という渓流で流れも速い。トップ川が一足先に石狩川に注ぎ込み、少し下流で空知川が流れ込む。この合流点の少し川上の河原で、中学生のころクラスの仲間とキャッチボールをした。すっかり忘れていたが、それぞれの川の位置関係を地図で調べて、ああ、ここだ、と思い出した。
 河原までは自転車ですぐだった。集団行動がまるで苦手なわが人生において、徒党を組んであちこち移動していた唯一の時期だ。中学2年のほんの一時期。教師を試し、親を試した反抗期。それ以前もそれ以後も、そしていまも、集団はまるでダメだ。たぶん、あれは生まれて初めて「みんな」に受け入れられたときだったのだ。
 初めておなじ年齢の女の子たちといっしょになった小学校時代は悲惨だった。思ったことをすぐに口にする性格は、相手が女子だろうと男子だろうと、おかまいなし。理不尽と思ったらずけずけ言って抗議する。教師に怒鳴られても、従順になどならない。ふりができないのだ。男の子から「ナマイキダ!」とさんざんいじわるされて、女の子からは敬遠された。ごつい男の子に毎日のように泣かされる女の子を正義感からかばうと、その女の子のお母さんから「ありがとう、よろしくね!」なんて感謝されたこともあった。小学4年くらいだったかな。
 でも5、6年になると、集団となって群れる、湿気の多い女の子たちから、後ろ指をさされるのがじわじわと堪えた。そんなひとりぼっち感から解放されたのが中学2年のときだったのだ。突然元気になった。元気にならないわけがない。河原でキャッチボールだってなんだってやる。
 でも、いま思い出してみると、せいぜい5人までが限度だった。人数がふえると手に負えなくなる。女王のように君臨する力がないのだ。だって、そこからいつのまにか自分がいなくなるのだから。ひとりになりたくなるのだ。漢の武帝の詩が身にしみる。

 なんでいまごろ川のことを思い出したかというと、ある理由から国木田独歩の「空知川の岸辺」という短編を読んだからだ。(青空文庫よ、ありがとう!)空知太はさておき、「歌志内」という地名は忘れようにも忘れられない。三井住友系の炭鉱町で、そこに母の実家があったのだ。
 独歩の「空知川の岸辺」に何度も出てくる「歌志内」も炭鉱が閉山されてからは人口減に見舞われ、幼いころに母や兄とよく降り立った駅「文殊」もいまはない。はかなく無残な石炭文明。

主よ、みもとに近づかん。

植松眞人

 上野恩寵公園の北の端には大噴水があり、その脇を抜けて木立の中へ入っていくと、たくさんの人々が寒空の下でじっと行列を作っていた。
 百人近い人のほとんどは男性で、みんな地味な色合いの防寒具を着て、ときおり吹く風から顔をそらしながら時間が来るのを待っている。列は二十人程度ずつで折り返していて湿気た布団が折り重なっているように見えた。
 近くの教会の名前が書かれた小さなボードが行列の周辺にいくつか置かれていて、用意された長テーブルの上では湯気を立てたスープの準備が進んでいる。湯気のほうから行列する男たちを見ると、彼らは施しを受ける可哀想な人々だが、男たちから湯気を見ると鼻持ちならない施しを覆い隠す技巧の一つのようで興味深く見えるのだった。
 立花はそんな行列の中程に車椅子で並んでいた。たまたま孫の美由紀に車椅子を押してもらい、公園を散歩している最中に、大きなナベでスープを運び込みカセットコンロで温め直そうとしている若い男女を見かけたのだった。立花が「おいしそうなスープだね」と話しかけると、若い男女は一瞬怪訝な表情を浮かべたのだが、立花の車椅子を見ると、今度は驚くほど屈託のない笑顔を浮かべた。
「近所の教会からの配給です。どなたでも楽しんでいただけますので、ご希望ならこの列の最後尾にお並びください」
 その言葉に、立花がうなずくと、若い男女は再びスープを温め直す準備を始めた。立花は孫の美由紀に「ここでスープをもらっていくから、お前は近くのコーヒーショップでお茶でも飲んでなさい」と財布を預けると、美由紀は中学生らしいわかりやすさで、車椅子を列の最後尾に付けながら、立花のお守りから解放されるうれしさを表情に浮かべた
 立花が並び始めると、その後ろにもたくさんの男たちが並び始め、あっという間に最後尾だった場所はちょうど真ん中くらいの位置になった。二十人程度で列は折り返しているため、立花は百人近い男たちの集団の真ん中あたりに囲まれているのだった。周囲の男たちは、車椅子でならんでいる立花に一瞬目を止めるのだが、スープを作っている男女のように怪訝な顔をすることも微笑みかけてくることもなかった。ただ、スープが配られる時間をじっと待っているのだという潔い目的のために彼らは列に並んでいるのだった。
 立花の車椅子に座った低い位置からは、前後の男たちの息づかいは聞こえてはこない。そのかわりに、湿気を失って荒れた革靴を履いた足元や、毛玉でいっぱいになった厚手のセーターや、ほんの少し足踏みするズボンの裾から見える靴下をはいていないくるぶしのあたりから立ち上ってくる男たちの憤怒と絶望のようなものが、立花の車椅子を包み込むような感覚に襲われたのだった。
 キーン!という甲高い大きな音が響いた。さっきまでいなかった髭を生やしたダウンジャケットを着た男性が、ラッパのような形をしたハンドマイクを握っていた。調子が悪いのか、男性が話そうとスイッチを入れるとハウリングが起こり甲高い音が響くのだった。男性はそのたびに、唇の端を歪めて舌打ちをした。その一瞬見せる下卑た表情をおそらくスープの施しを待つ男たちのほとんどは見逃していないのだろうと立花は思った。
 やがて、ハンドマイクを通して男性の声が響く。ハンドマイクの調子が戻ったことが嬉しいのか、男性は唇の端を歪めることも舌打ちをすることもなく、神父としての言葉を一つ二つ吐く。その言葉を合図に、神父の隣に立っていた厚手のコートを着た初老の男が手にしていたアコーディオンを弾き始める。
 スープの用意をしていた若い男女が小さなカードを列の前と後ろから配布する。中程に並んでいた立花には一番最後にカードが届けられた。立花がそのカードに目を通そうとしたちょうどその時に、アコーディオンによる演奏が一通り終わり、みんなが一斉に歌い始めた。

主よ、みもとに近づかん
のぼるみちは十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ、みもとに近づかん
さすらうまに日は暮れ
石のうえのかりねの夢にも
なお天を望み

 男たちはおそらく何度も何度も歌ってきたこの賛美歌をいつもと同じように歌っているのだろう。つまることなく歌っている。意外にもちゃんと歌っている男が多く、その声の張り具合からみんなそれほど歳を取ってないことを知るのだった。伸びた髪や暗い色の防寒具からなんとなくみんな自分と同じくらいの年配者かそれ以上の年齢だと思っていたのだが、改めて歌っている声や顔を注意深く車椅子の位置から見上げていると、みんな自分よりも歳下らしい。

主よ、みもとに近づかん
主のつかいはみ空に
かよう梯のうえより招きぬれば
いざ登りて

 歌が終わりに近づいてくると、若い男女がスープを使い捨ての容器に注ぎ始める。野菜などのたくさんの具材は入っていることがここからでも見て取れる。男たちは歌いながら、そっとその様子を見つめ、生唾を飲み込む。

主よ、みもとに近づかん
うつし世をばはなれて
天がける日きたらば
いよよちかくみもとにゆき
主のみかおをあおぎみん

 歌い終わるとアコーディオンの伴奏を聞きながら、神父がアーメンと大きな声で言う。それにあわせてアーメンと言うと、列は一斉に動き始める。アコーディオンの演奏は終わらない。教会の人たちと、おそらくボランティアの人たちがさっきの賛美歌を繰り返し歌っているが、並んでいた男たちは、もうお努めは澄んだはずだとばかり押し黙ったままで一歩一歩スープが配給されているテーブルへと近づいていく。立花も車椅子の車輪を押して、前の男の間を詰める。途中から、後ろの男が立花の車椅子を押してくれる。立花が後ろを振り返って礼を言うと、男はにこりともせず、スープのほうを見て白い息を吐いた。(了)

十二月

仲宗根浩

十二月、うちのお嬢さんは制服の衣替えで冬服で初めての登校の日、最高気温二十八度。朝から暑いなかご苦労様の登校。この島で冬服というのは必要か疑問。夏服のままで上から何か羽織ればいいのではないか。十二月に初めてクーラーを使う。冬休みに入ると本土の寒波は沖縄にもきて最高気温十六度。でも少し重ね着で暖房要らず。

「ヴァン・ダイク・パークス」の名前を地元紙で見る。「ロックの重鎮」とあったけど異端、奇才、であり王道にはいない人だろと言いたくなる。ここらへんで新聞をもひとつ信じることができない自分がいる。

最初にヴァン・ダイク・パークスの名前を知ったのは、はっぴぃえんどの「さよならにっぽん、さよならアメリカ」だった。ライ・クーダーの音源を色々集めていたら1stアルバムのプロデュースしていたり、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンド」が初めてCDになったとき何度目かの再評価があったがその盤を入手したあとすぐ回収になり店頭から消え、暫くして再発売された。その後の「スマイル」に作詞家と参加したヴァン・ダイク・パークス。アルバムは完成されず、海賊盤で流通していたので聴いたりしたが所詮海賊盤、未完成の音。レコード屋で働いているときにブライアン・ウィルソンといっしょの「Orange Crate Art」が発売されたときは毎日のように聴いていた。後でこのアルバムのバジェットが少なく、ほとんど打ち込みだったと知ったが、今聴いても全然飽きない音をしている。うちの上の子供がまだ奥さんのおなかの中にいる頃、東京にいた二十数年前。

記事の内容はヴァン・ダイク・パークスがホワイトハウスへ辺野古埋め立ての件で署名をしたというもの。署名を始めたのはハワイの沖縄の移民四世。このことは知らされない。インスタグラムで拡散をしたタレントはネットで叩かれ、テレビでも批判されたり、と沖縄に関して何か発信するといろいろ言われる。県民投票をしないと決めた自治体は分断を生むと言うがその決定がすでに分断を生んでいる。今住んでいるところの議会も県民投票にかかる予算を否決。市長は議会の決定は重いという。県民投票の署名は重たくないんだ。

ちまちまと埋め立ては進む。復帰したあと島の西側はどんどん公共工事で埋め立てをして、昔の海岸線を失った。今度は東側がどんどん埋め立てられる。そんなことをしながら自然遺産を目指す。これほど遺産に値しないことをやってきているのに。

平成の最後、昭和の最後

冨岡三智

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治〜大正〜昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。

身代金を払うのは誰?

さとうまき

2018年も間もなく終わろうとしていて、30日にイラク、ヨルダンの出張から帰国した。年末、いろいろ反省すること。シリアの本を上梓するはずがなかなか筆が進まないので年末年始に一気に書き上げなければ。

シリアといえば、10月安田純平が無事に解放された。身代金は払われていない!と菅官房長官。しかし、新聞各紙が「シリア人権監視団」からの情報として3億円の身代金が払われたと書き立てた。僕は、某新聞社と連絡を取り続けていて、「それ、流すんですか? だって、シリア人権監視団の情報だけで裏が取れていないですよね? 身代金払ったて流すと、安田さんをバッシングしたい人に餌を与えることになる。」

シリア人権監視団をウィキペディアでググれば「この団体が信頼できない組織だということははっきりわかっているが、この世界は競争が激しいから、われわれはそれでも彼らの数字を流し続ける。」(AFP通信社)ていうのがすぐ出てくる。
「他の新聞でも流すみたいなんで、特落ちは避けたいみたい。私も流すのには反対しているのですがデスクが言うことを聞いてくれないんです」と記者。
「後で、絶対後悔しますよ!」と僕はしつこく説得したが、これが、ジャーナリズムだ。

シリアのことを書くとああだのこうだのしつこくディスるジャーナリストがいて、それを真に受ける人たちがリツィートしてくる。そもそも、今までシリアへの関心がほとんどなかったことを考えると、ほほえましいかもしれないけど。

僕は、残虐なアサド政権の擁護をしているらしい。アサド政権からお金をもらってプロパガンダをしている!と思っている人もいるらしいから驚きだ。

僕のスタンスは、あらゆる戦争犯罪は許されるものではないと思っている。犯した罪はきちんと償うべきである。バッシャール大統領を戦争犯罪として訴追するのならば反対しない。ぜひ、専門家の方は、やってもらいたい。 

僕の仕事は、小児がんの支援をすることだ。シリアの小児がんの病院は、アサド政権支配地域にしかないから、その病院を支援しようとすると、アサド政権のプロパガンダに利用されていると批判されるのだ。アスマ大統領夫人が内戦前から小児がん病院を支援してきたことは事実。だから「アサド大統領の病院を支援するのか!」と叱られるわけだ。

プロパガンダという意味では、先のシリア人権監視団といった反体制派の方が上手でスマートなのは間違いない。アサド大統領が失墜するまで支援をするなという人は、がんの子どもたちを全員シリア国内から連れ出して、ヨルダンや、イラク、レバノンでの治療費を全部払ってあげてほいしい。 

12月16日から3日間ヨルダンにいた。ここのシリア難民は、アサド政権には嫌な思いを受けている人ばかりといっても過言ではないだろう。いつも、車を運転してくれるイマッドさんもアメリカに移住してしまい、いとこのジョワードさんが車を出してくれたが、英語がほとんどできず、不愛想なおっさんだった。イマッドさんと、メッセンジャーで連絡を取ってくれるが、アメリカの時差が、昼夜がひっくり返っていて、なかなか時間が合わないから大変だった。手足を切断したシリア難民に何人か再会した。みんな大きくなっておっさんみたいになっている。それはそれでちょっとうれしかった。ヨルダンとシリアの国境が再開したので、シリアに戻る決心をした家族もいた。

シリアの内戦は終結に向かっており、国際社会はアサドが存続するかしないかにか変わらず、国交も回復しようとしている国が目立つ。国内の復興へと莫大な資金が流れるようで、難民たちは見捨てられつつある。

イマッドさんからは、マーゼン君(13歳)を助けてほしいというメッセージがはいる。再生不良性貧血で明日骨髄移植するので入院してるという。それがいつものキングフセインがんセンターでなく大学病院。建物はかなり老朽化している。国立病院なので、費用が安いのか、いろんな患者が訪れる。建物がぼろくても、日本だって大学病院はこんなもんだったような気がする。きっと先生は優秀なんだろう。

集中治療室にいると聞いていたが、普通の病室の前にいきなりパーティションが置いてあって間違えて人が入ってこないようになっているだけだ。正直この病院、大丈夫かなと思ってしまった。
骨髄移植はキングフセインがんセンターだと100,000JD(日本円で1600万円)ここだと60,000 JDそれでも日本円で970万円になる。
マーゼン君は、シリア内戦が始まってすぐのころにお父さんを心臓発作でなくしている。2013年に難民としてダラアからヨルダンに避難してきた。親戚たちに支えられているそうで、クェートにいるおじさんが20,000JD(320万円)を支払ってくれてとりあえず移植手術をすることが決まった。
どう考えても、残りの650万円を工面するのは並大抵ではない。治療半ばで掘り出されることはないのだろうか?看護師がいうのに、
「それは、ありません。治療は最後まで終わらせます。しかし、お金を払ってもらわないと、病院から出れません」
「身代金か?」つまりは人質のようなものだ。
何とかしてあげたいと思いながらも、さすがに、のこりの650万円をぼんと払える器量はない。別の予定もあったので話だけ聞いて去った。

翌日、いままで支援してきたシリア人が運営するNGOに3000ドルを支払うことになっていて、スタッフのムラッド君をカフェに呼び出して手渡した。ムラッド君は、シリア難民支援のプログラムが次々にカットされており、自分も首になりそうだと嘆いていた。通訳が必要だったので、「これから病院に来てほしい」といってマーゼン君の様子を見に行った。本当に骨髄移植は無事に終わったようだったが、どうも信じられない。「だって、骨髄移植したのに、隔離されてないし。」看護師が言うのに、「マーゼン君は、これから感染症など起こさないように観察します。明日からはこの病室は立ち入り禁止にして、お母さんも、おじさんも、そしてあんたもここに入れない」

マーゼン君はしばらく家族にも会えない。ドナーの弟のクサイ君から骨髄を採取するのにかかったのは1100ドル。このお金を払わない限り、クサイ君も病院から返してもらえないとのこと。
「まるで刑務所みたい」
とりあえず、1100ドルくらいならばとシリア難民支援の予算から、払ってあげた。クサイ君も無事に家に帰れるようだ。あとは、しばらく一人きりになるけどマーゼン君が無事にいてほしい。

横にいた、ムラッドが電話をしながら涙を流している。
「実は、会議に間に合わなくなって、僕は首になるかもしれないんだ」
という。あらあら。

僕は、とりあえず、マーゼン君も、ムラッド君もほっぱらかして日本に帰ってきたが、彼らが2019年を無事に迎えられるように祈っている。日本で最初のニュースが「ゴーン日産前会長の勾留延長決定 1月11日まで」というニュース。保釈金が10億をこえるといわれている。こんな金持ちこそ僕らに寄付してほしい。
ゴーンさん、この記事見たら
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ですよ!

別腸日記(23)旅の道連れ(後編)

新井卓

どのような状況であれ、何かの結果を待つのは苦手だ。わたし一人に関する事でもそうなのだから、まして多くの人々を巻き込んだ映画の賞のなりゆきにはなおさらである。

南イタリア、サレルノ国際映画祭の最終日、各賞発表の日。昼下がり、映像詩『オシラ鏡』の衣装を着付けてもらうため、三人の若者たちを駅前のホテルに送り出した。映画の撮影地、遠野から遠野市教育文化財団の石田久男さん、そして当地で美容院を営む多田さん夫妻が滞在しており、みな和装で授賞式に臨もうと張り切っている。主演の高山太一くんがわたしの一張羅を着るので、こちらはふつうの格好でいいことになり、ややほっとして、ひとり海辺の食堂に座った。

ベズビオ山のラベルの赤ワインは軽やかながらもタンニンの引き締まった味で、地元産だという。イタリアの小麦がわたしには重すぎるのか、ピザやパスタに食傷気味だったので、ブルーチーズとルッコラ、酸っぱいケイパーを重ねたハンバーガーを頬張る。もう三分の二が過ぎたイタリアの旅のあれこれを思い出しながら、そして惨憺たる有様だった昨晩の上映会を呪いながら、ほとんど一本空けてしまいそうになる。上映前、真っ赤な眼をして完全に(マリファナで)キマってしまっている上映技師と雑談しながら、嫌な予感はしていたのだが、せっかく4Kで作った映像は無残にも圧縮されており、技師はエンド・クレジットの途中で次の作品に飛ばそうとしたため、座席から飛び上がっておこの男の持ち場に怒鳴りこんだ。いま思い出しても、腹が立つ──とはいえ、まあいいか、と思い直して、残りのワインは着替えがてらアパートに持って帰ることにした。イタリアでは、割とだいたいのことが大したことに思えなくなってくるらしい。街区のあちこちに古代の遺跡がごろごろしているような場所では、ほとんどのことが矮小な悩みに過ぎない。土曜日のきょう、旧市街はどこまでもつづく人並みで賑やかである。

映画はいいものだ、とアパートへの長い坂道を上りながら、ほろ酔いの頭でぼんやり考える。それは「わたし」の作品にはなりえないから、と──もちろん、写真だって一人でできるわけではなく、多くの人々の親切や犠牲によって初めてうまれるのだけれども、やはり何かが違う。それは手に手に転がってゆく不定形のエネルギー体か、あるいは独立した疑似生命である。もしこれからも映画を作りつづけるなら、仕事の仕方はおろか、話し方、身体のありかたも変わらなければならないだろう。

もう15年も前、まだ写真学校の学生だったころ親しい友人二人と実験映画『Aria』を作った。クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』(1962)に心酔していたわたしたちは、同じように写真をモンタージュして映像を編集することにした。作業は遅々として進まず(というのも肝心の写真を任された私が、いつまでも撮る糸口を見つけられずほとんど何もしていなかったからだ)、途方もないアイデアばかりで盛り上がっては、西荻窪の「戎」で酔いつぶれる日々を懐かしく思い出す。それから監督だった友人は身体表現の道に転じ、いっとき日本を去った。制作の友人──ジガ・ヴェルトフやヴェルナー・ヘルツォークを愛する原理主義的シネフィルだった──は映像に関わる著作権や配給の仕事をつづけている。あのように無為で貧乏で濃密な時間を他者と過ごすことは、もうない、そんな風に思っていたのではなかったか。

授賞式のスピーチは、あまりうまくできなかった。東北の被差別の歴史やアベ政治の批判を急に入れたので、通訳のリンダ(※)があたふたとしているのが横目で見えて可笑しかった。映像詩『オシラ鏡』は、短編部門最高賞を受賞した。この賞はこの短い映画に少しでも関わったすべての人々への、祝福である。

明日はローマへ発つ。次の家はコロッセオが見える路地にあるアパートで、また自炊が楽しみである。

イタリアの旅の道連れたち、18才の太一くんと14才のマイラ、レオナたちの生は、つづく。わたしの生、撮影の中川周さんや音響の山﨑巌さんや絵コンテを描いた戸島璃葉の生もまたつづいていくが、そのような人々の一回性の出会いが、ひとつの映画の時空間に凍結されている。そして全ての映画は、フィクティヴ/架空のものであると同時に、そのような数多くの、現実にある生の記録だと考えるのも、悪くないと思う。

※リンダ・デルーカはイタリア字幕を作ってくれた翻訳家で、ニューヨーク在住のピアニスト加藤あやさんの紹介で出会った。加藤さんは、ヴァイオリニストの戸島さや野と一緒に高橋悠治さん作曲『贍部洲の太陽の下で』を録音、映画ではこの曲を使用した。

過去未来

笠井瑞丈

2018年

過去

1月 ダンス現在vol.03『暁二告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒
3月 笠井瑞丈×上村なおか本公演『奇跡の星』
4月 神楽坂セッションハウス ダンス専科『レクイエム』振付
4月 第12回日本ダンスフォーラム賞受賞
6月 『暁ニ告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒 仙台公演
8月 ダンスが見たい 笠井叡振付『土方巽幻風景』出演
9月 『暁ニ告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒 神楽坂セッションハウス公演
10月 笠井瑞丈×上村なおか本公演『2×3』振付 笠井叡 近藤良平 川村美紀子
10月 花柳佐栄秀リサイタル 詩人の魂を踊る『智恵子抄』出演
11月 平山素子振付『digestion fragment』出演 平山素子×笠井瑞丈
11月 神楽坂セッションハウスダンスブリッジ 『薔薇の秘密』笠井瑞丈×奥山ばらば

2019年

未来

1月 笠井叡振付 笠井瑞丈ソロダンス『花粉革命』ニューヨーク公演 
1月 笠井叡振付 『高丘親王航海記』京都 東京公演出演

出会わなければ、それまでだった。

若松恵子

片岡義男の文章によって体の中に呼び起こされる感覚、それがいちばん重要だった。風に吹かれたくて、彼の小説を読む。

「心をこめてカボチャ畑にすわる」は、忘れられない短編だ。アメリカの「荒野をまっすぐに抜けていくハイウエイ」沿いにある、「ガスステーションと休憩所と簡易食堂を兼ねたような店」の、何気ない1日が描かれる。何人かの客が訪れ、そしてみんな出発していく。店を任されているネイティブアメリカンの少年が、必要な業務を静かにこなしていく。荒野にポツンとある店だから、客のリクエストは多様だ。だから、彼も多岐にわたる依頼をある程度は受けられる力を持たなければならない。誠実に対応しているうちに、大抵の事はできるようになってしまった、そんな感じが好ましい印象を残す。

「陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」文庫版『波乗りの島』のあとがきにそんな言葉があるけれど、「心をこめてカボチャ畑にすわる」もまさにそんな小説だ。取り立てて事件が起きるわけではないけれど、少年が暮らす風景に身を置いてみるだけで十分な小説なのだ。文字を追って、行ったことのない荒野に身をおいてみる日常とは違う空間で呼び起こされる体感を味わう。

病気で寝たきりの少女が、モーターホームで旅する途中に立ち寄って話をしていく。開け放った後部ドアにもたれて、少年はベッドに横たわったままの少女と話をする。「こんな広々とした素敵なところで毎日がすごせるなんて、風が、素晴らしい」と、少女は言う。同じくらいの年齢の、でも全く違う人生を送る2人がふと言葉を交わす、そのそばに吹いている風。ベッドに横たわったままの体に心地よいと感じる風が吹いている。

こんな時の風を、私はどうやって感じているのだろうか。以前は、自分のなかから、最もふさわしい風の記憶をひっぱり出して、体に蘇らせているのだろと思っていたけれど、純粋なる想像のなかの体感なのではないかと思うようになった。たぶん、文字が、想像のうちに身体的な感覚をはっきりと呼び起こさせているのだろうと思うようになった。何度でも、フリーズドライのコーヒーに湯を注ぐように、物語を読むたびに、風に吹かれることができるのだから。

片岡義男の小説を読むことは、抽象的な経験だけれど、かなり肉体的な経験でもあるのだ。同じ作品を繰り返し読んでも、あらすじがわかっているからつまらないという事にはならない。

こんなことを考えていて、これは好きなロックのシングル盤を繰り返し聴くことに似ているなと思った。繰り返し繰り返し、そのたびに新鮮な感動を持って聞くことができる特別な曲。そのたびに拓かれていく感覚。

「ぼくはプレスリーが大好き」のなかに、ポピュラー・ソングをただ聞き流しただけに終わったのか。それともロックを、自分のなかに入れることができたのか。ロックンロールに出会えなければそれまで、だった。という意味のくだりがあるけれど、片岡義男の文章によってもたらされた感覚について思う時、ちょっとおおげさだけれど、出会わなければそれまでだった、と思ったりする。

犬探し

管啓次郎

犬がいなくなった
夕方の中を名前を呼びながら探した
マリンチェ、マリンチェ
「どこにいるの」というほど空しい言葉はない
その言葉が届く距離にはいない
答えられる場所にはいない
そもそも人の言葉がわからない
夕方の季節がどんどん
移り変わってゆくのがわかる
歩くぼくの周囲で
紫色の光にひたされた夏から
地面にびっしりと霜柱が立つ冬へ
くるぶしが埋もれるほど銀杏が積もる秋から
ダフォディルが群衆のように笑う春へ
抜けた首輪を紐先につけて
ぶんぶん振り回しながら歩いている
それは「牛唸り」のような低周波の音を立てて
草葉の魂たちに耳をそばだてさせる
名前を呼ぶと悲しいので
本当は呼びたくない
でも犬が気づかないといけないので
また呼びつづけている
マリンチェ、マリンチェ
そろそろ住宅もつきて
教会のメタセコイアだけが帆船の
マストのように聳え立っている
おまえはどうしたの
橋をわたって都会のほうまで行ってしまったのか
その橋には路面電車が車と一緒に走り
子供にも犬にも魂にも危ない
夕方の光がどんどん鈍くなる
雲の輪郭だけが虹色に光を発している
犬たちは境界をよく悟る
愛想よく知らないサーカスについていっても
橋をわたることはなかったし
製材所のむこうに行くこともなかった
水の匂いでもおがくずの匂いでも
犬たちには壁のように感じられた
ぼくにこみあげてくる悲哀は
まるで逸れた投球が近所の家の
窓ガラスを割ったときのような悔恨
絶望的な気分で息を切らして立っている
するとぼくの激しい息づかいに合わせるように
ハーハーという犬の呼吸が足下で聞えるのだ
見るとつやつやした黒い短毛の犬が
ぼくの脇に立って一緒に橋を見ている
橋がかかる水面を見ている
夕方を見ている
それはマリンチェだ
おかしいねえ、どこに行ったんだろう?
とぼくはマリンチェに声をかける
行ってみるか、遠くまで、探しに
マリンチェがしずかな目でぼくを見上げる
ぼくは切羽詰まった気持ちで
夕空を傘のように開閉している
それから駆け出した
牛乳屋の前を通り
小学校の校庭をつっきり
お寺の山門を逆に抜け
何もない野原へ
「どこにいるの、どこにいるの」と
ぼくは囈言のようにくりかえす
マリンチェはわんわん吠えながらついてくる
探しているのはおまえだったのに
おまえがついてくるのをおかしいとも思わない
もう何を探しているのかもわからないまま
ぼくは野原に捨てられていた赤い車に乗る
鍵はついたままだ
それどころかエンジンがかかったままだ
車を運転したことがないので
どうすればいいのかわからない
おそるおそるアクセルを踏んでみるが動かない
「ハンドブレーキを解除するんだよ」と
助手席のマリンチェが人間の言葉で指示する
走り出した
地面はうねる丘を行く舗装道路になっている
車なのだがスピードが恐いので
走る人くらいの速さで無人の道を行く
この先の峡谷にかかる橋をわたれば
そこは帰ってきた者のいない土地
「あっちまで行ってみようか」と
ハンドルを握りしめたぼくは
緊張して前方を見つめたまま
マリンチェに声をかける
「いかないでか」とマリンチェが
いったのがなぜか理解できた
だがこんどはそれはヒトの言葉ではなく
犬の遊び吠えなのだ
このまま突っ込んでやれ
「だいじょうぶだよね」
マリンチェがまた答えるように短く吠える
なだらかな下り坂の先は鉄橋
「探しに行くんだ」とつぶやいて
ぼくは初めてアクセルを
ぎゅっと踏み込む

演奏の変化

高橋悠治

1961年クセナキスの『ヘルマ』の楽譜を受け取ったときは ピアノの鍵盤の上に 軽く触れる指がそのたびに変化する音色を創るような演奏をイメージしていた たくさんの音が強い響きを積み重ねる不透明で暴力的な塊になるのではなく どんな音の群も過ぎ去って長い沈黙が残るような経験 ピアノがピアノではなく タブラに触れるチャトゥル・ラルの軽やかなリズムや トンバクのジャムシド・シメラニの語る音を思い描いていた もっと複雑な『エオンタ』でも 速度が一瞬の呼吸の華を見せて消えていく幻で 手の技が見えない 音だけがどこかから聞こえてくるような演奏ができればよかった じっさいはなかなかそこまでいかない クセナキスの場合は もっと直接な暴力と抵抗の表現を要求されていたのかもしれない その頃ヨーロッパで他に演奏していたのは ケージのプリペアド・ピアノの作品のきらめくリズムやブーレーズの『第2ソナタ』の不規則なパターンの組み換え メシアンの厚みのある鳥のけたたましさ それとは対称的な武満徹のかぼそい糸のような余韻 そんな取り合わせだった 

アメリカへ行ってからの6年間 夏のタングルウッドや冬のバッファローでは 構成や数理の勝ったアメリカの東海岸の現代音楽 大音量のオーケストラのなかのピアノの和音 太いクレヨンの線のようなメロディーなど バッファローでは大学の音楽部だったから クラシックも弾いたほうがいいと言われて バッハを弾くようになった

もともと学校を中退したから学位をもたないし コンクールや賞には縁がないから 教える資格もなく興味もないから 演奏で生活する以外にすることがなかった ピアノは初歩しか習っていないので 19世紀のレパートリーはなく 現代と バロック以前でピアノで弾けそうなものしか選べない ピアノの弾きかたも時々忘れるから 奏法の本を読みなおして なんとか続けている 林光や三宅榛名のようにピアノを弾くのがいかにもたのしそうなひとたちを見ても そういう気分にはなれなかった やっと最近になって サティを弾くのはたのしいかもしれないと思えるようにはなったが その響きに溺れるのは危ない やりにくいことも続けないと 技術は衰えていくだろう 2019年はクセナキスを弾く機会もある まだ指が覚えているだろうか ヒロイズムやマチズモではなく といってリリシズムやパッションでもない 風が吹きすぎるのを見まもるように静かに待っていると 音がかってに爆発したり しずくがしたたるような音楽が現れるだろうか それとも ヨーロッパ的な技術や音楽観から離れていた間に 記憶力も能力もなくなっているだろうか