仙台ネイティブのつぶやき(46)あなたでいること

西大立目祥子

 母はこのごろ、私のことをときどき「まっちゃん」と呼ぶようになった。「まっちゃん」て誰?
 それは、小学生のとき同級生だった女の子の名前だ。10数年前、渋る母をデイサービスに誘い出したとき、偶然にもそこで母は、まっちゃんと数十年ぶりに再会したのだった。「わぁ、まっちゃん」「みよちゃん!」と肩を抱き合うような出会いとなって、母はよろこんでデイサービスに出かけるようになった。

 まっちゃんには、私もおぼろげな思い出があった。美容師さんで、理容師のご主人と、美容院と理髪店の2つのドアのある大きな店を構え、小学生のころ髪をカットしてもらいに行ったことがある。小柄ではつらつとした人だったけれど、あれから50年近くもたって母と同じように体が弱り、記憶もあいまいになってきたのか。30代だった人が働き詰め働いているうちに、いつのまにか80代になってしまった人生の長いようで短い時間を想像した。

 母の口から「まっちゃん」という名前がひんぱんに出てくるようになり、そのときはいつも楽しそうな表情だから、2人はいつも話しこみ名前を呼び合いいっしょにごはんを食べて、子ども時代に帰ったように親密なひとときを過ごしていたのだろう。
 残念ながら数年して、そのデイサービスは経営者が変わりやがて閉鎖されて、母はやめざるを得なくなり、まっちゃんのその後もお元気なのか亡くなってしまったのか、もうわからない。

 でも、別のデイサービスに移っても、母はにこにことバスに乗り込み出かけていく。別のまっちゃんに会うために。誰かと会えば2人にしかわからないようなやり方でおしゃべりをし手を握り合い、涙を流したりしていい時間を過ごしているのだと思う。きっと母は相手を「まっちゃん」と呼んでいるのだろう。

 母にとって、いまここにいるじぶんをまっすぐに見て話してくれる人はみな「まっちゃん」なのかもしれない。いつしか、私にも、「まっちゃん、ありがとう」とか「まっちゃん、いてくれてよかった」とかいうようになり、その頻度は増している。
 介護も15年をこえて、私はこういう事態にも、ついに娘の名前もわからなくなったかなどとあせったりあわてたりすることはなくなった。「はーい、まっちゃんですよ」と胸の中でつぶやく。

 そして、気づく。一人称の「わたし」であるじぶんに向きあってくれる二人称の「あなた」が、人には必要なのだ、と。そこには必ずしもことばはいらない。目と目を合わせたり、肩をなでたり、わたしとあなたは、そうやって会話して気持ちを通じ合わせことができるのだ。ここにいてくれるあなたは、遠くにいる三人称の彼や彼女とはまったく異なる存在で、わたしの中に入り込み、つながって安心をもたらしてくれる。

 はいはい、なりましょうともあなたのあなたに、おかあさん。そんなふうに胸の内で応え、そして笑ってしまう。どこまでいっても折り合いが悪く、口を開けば言い争っていた思春期をはるかに過ぎて、母と私はことばを介さず、存在と存在として理解しあっているんじゃないか…。

 もちろん、いいことばかりではない。私の感情を母はクリアな鏡のように映し出す。眉間のしわは、くぐもった表情のわたしの眉間のようだし、荒っぽい口調は、さっき母に投げつけたいらだった私のことばそのものだ。お、今日のその笑顔は私が上機嫌だからだね。
 何年もかかって、機嫌よく接することの大事さに、ようやく私は気づかされた。
とはいっても、日々、平かな気持ちでいることの何と難しいことだろう。いまのじぶんをどこか遠くから俯瞰するように見ていないと、そうはふるまえない。

 こういうことは母が教えてくれたことといっていいんだろうか。衰えていく人がその姿をさらしながら気づかせてくれることがある。世間的にいえば、母はもうここがどこか、いまがいつかもうわからない認知症の老人だ。でも、そこにそうやっているだけで、私に、人についての理解を、人と人のかかわりの意味を教える。あの人は認知症、あの人は○○などと簡単にレッテルは貼るまい。

 母は、若かったときは想像もつかなかったようなおだやかな顔で、いまここにいる。長いつきあいの中でかかわりを変えながら、私はいっしょに庭の緑を眺めている。

シノップの娘

さとうまき

久しぶりにトルコ経由の飛行機に乗ることになり、トランジッドに時間があったので、反原発の活動家のプナールさんに連絡してみた。プナールさんはイスタンブールに住んでいるが、反原発の運動にも盛んに参加し、「シノップの娘」と呼ばれている。シノップはトルコが原発を作ろうとしている黒海に面した港町。日本は福島の原発事故以降も海外への原発輸出に積極的で、トルコは三菱が頑張っていたが、しかし、安全対策を考えると全くビジネスにならず、昨年12月に撤退を表明した。

1976年生まれのプナールさんが、核の問題に関心を持ったのは、子どものころにトルコの詩人ナーズム・ヒクメットが書いた「死んだ女の子」に出会ったことだという。広島の原爆で亡くなった女の子のことを詩っている。

あけてちょうだい たたくのはあたし

あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの

こわがらないで 見えないあたしを

だれにも見えない死んだ女の子を

(中略)

戸をたたくのはあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳)

日本に関心を持った彼女は、日本語を学び、日系企業で働いていた。福島の原発事故を知り、悲しみを肌で感じたという。そして、2013年には日本とトルコが原子力協定を結び、原発輸出を決めた時はショックを受け、その後福島を4度訪問している。

2015年ドイツに、自然エネルギーの調査に行って戻ってくると、右派からスパイ呼ばわりされ、TVでも報道されたという。

「今のトルコ政府は、逆らうものは全部テロリスト呼ばわりされるわ」と危機感を募らせる。

4月の終わりになるとチェルノブイリの事故の記念日をトルコ人は忘れていなくて、いろんなイベントをやる。なんといってもソ連はトルコの隣国だった。トルコにも汚染被害が及んだ。この地域では、家族が必ず一人はがんで死んでおり、因果関係を疑っている。プナールさんはそういった集会やシンポジュームで福島のことを話している。今回もシンポジュームに呼ばれた。途中原発が作られる予定地を車で走ってくれた。ところどころで牛を放牧している農家を抜け、美しい森を抜けると、65万本の木が切られていた。

「トルコ政府は、日本が撤退したことをいまだにきちんと言わないのです。これだけの木を切り倒してプロジェクトがぽしゃったとなると、だれも納得しないでしょう」

この辺をうろうろしていると警察に捕まることもあるらしい。車をずっと運転くれたブレントさんは、頭が少し禿げていて、穏やかな中年。その禿げ方が共産主義者ぽくみえる。車で流してくれた曲が、インターナショナル、不屈の民、We shall overcome..とかで、何とも時代がタイムスリップし、彼は戦っている!感じがにじみ出ているのだ。

シノップは小さな港町。漁船が停泊して、カモメが飛び交う。

夜、魚料理を食べたくなって、海岸のレストランで小魚2種類を一匹ずつフライにしてもらった。ところが、言葉が通じなくて大量の小魚のフライが出てきた。イスラムの国だが、この町ではお酒はどこでも出してくれるので、小魚をつまみに、夜が更けていくまでビールを飲んでいた。

広島が世界の反核運動の中心になっている。一方、福島後も日本は原発を輸出しようとしているのは情けない。人民よ!連帯せよ!

別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(中編)

新井卓

彫刻家、絵描き、写真屋の打楽器トリオ〈チクリンズ(竹林図)〉の名前は、「竹林の七賢」の故事から拝借した。俗世から1ミリも脱する気配のないわれわれには──と言っても彫刻家の橋本雅也だけは浮き世からかなり遠い人であることは、人々の認めるところであるが──もったいない名前である。

ところで、三国時代のボヘミアンのように聞こえがちな竹林の七賢の物語だが、当時はその暮らしぶり、思想、話し方そのものが命がけだったようで(実際、嵆康/ジー・カンという人は風紀紊乱の罪に問われ処刑されてしまった)、その意味で彼らの活動は積極的/批判的/政治的ドロップアウトといってよい。夜中にみなで踊ったりすることが違法で、道ばたで歌うだけで職務質問にあうこの日本という国で、七賢の精神性はわれわれに引き継がれているのだ、と、無理矢理にでも信じよう。

わたしの音楽体験は、ずいぶん長いあいだ「習いごと」であったのかもしれない。物心つく5、6歳のころからピアノを習いはじめ、17、8で受験を理由にやめるまで、音楽、イコール「練習すること」だった。高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時もそうだったし、もっと後で友だちにギターを教わろうとしたときも、それは変わらなかった。

ひとつ言い添えたいのは、わたし(と母と弟)のピアノの先生はたいへん素晴らしい音楽家だった、ということである。彼女は日本を代表する気鋭の作曲家で──お名前を出すのはご本人の名誉に関わるので、仮にK先生とする──ピアノをつづけられたのは、毎週K先生にお会いしたいという一心からだった。むしろそれだけが動機だったため事前の練習はたいへんお粗末で、どれだけ迷惑だったか知れず、今となっては身の縮まる思いがする。

K先生は何も話さずとも、その穏やかな佇まいの内奥から、澄んだ知性と精神性が絶え間なく発散しているような人で、子どもながらに強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。幼いころK先生に出会わなければ、わたしはおそらく、アーティストにならなかったに違いない。

ピアノを練習していると、楽譜にいろいろな指示が見える。音符を正しく追いかけることすらできないのに、”amoroso”(アモローソ=愛情ゆたかに)なんて、どうやって弾けばいいのだろう。どうやら「音楽」とは、何よりも技術の研鑽であり、膨大な時間と集中力を費やして身体を調律していき、その上ではじめて、活き活きとした感情とともに表出されるものであるらしい──次第にそう考えるようになってしまうと、その果てしない道のりと、自分の手の遅さに無力感ばかりが募っていった。一方で、音楽通の友だちからジャズを、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、とりわけセロニアス・モンクの存在を教わると、それら呪術的な力をもつ音の連なりに圧倒されると同時に、自分で練習する「音楽」未満のものとの断絶に耐えられなくなって、いつしか、ピアノの前に座ることは滅多になくなってしまった。

それから、半端に調律された、わたしの音楽の身体はそのまま放置され、貪欲に耳だけを澄ませる時間がつづいた。旅の途中で出会う音楽も、レコード屋やインターネット配信で手当たり次第に試聴する雑多な分野の音楽を、手の届かない何かに対する憧れに似た感情とともに、聴いていたのではなかったか。

それから、音楽について、というよりも、わたし自身の身体のありかたについて、考えることになった契機が何度かあったように思う。十五年ほど前に煩った全身麻痺の病はもちろんのこと、不思議なことに、依頼撮影の取材先で出会った人類学者・木村大治教授から伺った、バカ・ピグミー(カメルーンからコンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国にかけて生活するピグミーの民族グループ)の暮らしのことを、いまでも頻繁に思い出す。
(つづく)

お知らせ:本日(2019年6月1日)から、横浜で「チクリンズ」の三人の小さな展覧会が始まります。
GRAYS, SEEING
新井卓+橋本雅也+藤井健司
会期: 2019年6月1─9日 / June 1─9, 2019
時間: 土日 Sat/Sun 11:00─19:00 / 月─金 Weekdays 15:00─19:00
場所: 新井卓事務所 横浜市南区高砂町1-3-4-1F
詳細: http://takashiarai.com/grays-seeing-3-persons-exhibition/

世界は一つの肺に包まれている

笠井瑞丈

少し前の事ですが
毎年携わらせてもらっている
セッションハウスの企画
ダンス専科で作った作品

『世界は一つの肺に包まれている』

ダンサーはノンセレクト
ワークショップに二ヶ月参加できれば
誰でも参加できるというシステム

毎年の事ですが
今年も面白い人達が
参加してくれた

田植えをしてる人
歌を歌っている人
普通の会社員の人
大学生の学生の人

そして

ダンサーを目指す人
今年の参加者は十人

様々なバックグラウンドを
持った人達と作品を作る

ダンサーであろうが
ダンサーでなかろうが

カラダを動かし
表現をする事は
すべてのヒトに
与えられた特権
だと思っている

そんな人達とのワークは
毎年新しい発見がある

上手下手もなく
ただただ
カラダに
耳を澄まし
カラダの
音を聴く

苦しみの中から
喜びを掘り出す

表現の根底とは
そうでなければ
いけないと思う

新しい景色が生まれる
踊る事ってそんな事だ

人間が生まれ 人間の呼吸 人間の想像
大地にかえる 植物の呼吸 世界を作る

深夜カレー

璃葉

奇妙な縁により、ここ最近、人が集まる空間と独りの空間を行ったり来たりする日々が続いている。

昼前に家を出て、ふたたび戻るのは日付が変わる前。

動きまわって疲れ果てると、やがて自分の内側にある芯がむき出しになって、からからに干上がった土みたいになる。そんなときは無性にカレーを食べたくなる。スパイスのたくさん入ったカレーを今すぐ。

午前0時半。友人からもらった佐渡の米(これがたまらなく美味しい)を鍋で炊きながら、冷蔵庫にある野菜を片っ端から切り刻む。にんにく、しょうが、セロリ、玉ねぎ、トマト。スパイスはクローブ、コリアンダー、クミン、カルダモン、チリパウダー、ターメリック。厚手の鍋にそれらとひき肉を放り込んで炒め、これまた冷蔵庫に眠っていた安い白ワイン(生のローズマリーを2、3本ほど詰めてある。これは知人から教えてもらったのだけれど、安酒が薬草酒みたいになる)をどばどば入れて、ひたすら煮込む。

セロリの甘さと香辛料の混ざった絶妙な香りが、せまい部屋に充満していく。チリパウダーを入れすぎたかもしれない。

時計を見やると午前1時半。一体私は何をやっているのだろうかと我にかえる。でも、たまにつくる深夜のカレーは驚くほど自分を救ってくれる。疲れたときは煮込み料理とするといいと教えてくれたのは誰だっただろうか。

できあがった激辛カレーを、ひいひい言いながら湿気のこもった部屋で黙々と食べる。いけないと思いつつも、氷水を勢いよく飲んでしまう。

午前2時、薬のようなスパイスによって身体はほぐされ、養分を与えられた土のようにじんわり柔らかく、やっと元の自分に戻ってゆく。

しもた屋之噺(209)

杉山洋一

五月が終わるという目まぐるしさに言葉を失っています。このところ日本と反対に肌寒い日々が続いていて、毎日突発的に激しい驟雨に降られているうち、一ヶ月が経っていました。そんな中、NさんやHさんから齋藤徹さんの訃報を受け取り呆然としました。Nさんは「参りました」と、Hさんは「できそうなことは、さっさとやっておくしかありません」と、それぞれの心中をしたためていらして、言葉にできぬ焦燥感に駆られるばかりです。
階下で家人がフォーレの三重奏を練習していて、フォーレが見事な白百合の花のように、悲しみにどうしてこうも寄り添うのか、不思議に思います。最初にそう気付いたのは、高校の頃、祖父の葬儀の翌朝に聞いたレクイエムだったかとおもいます。フォーレのあの寂寥感は、すっかり浄化されて天使の声と一体になった、天上の慟哭なのでしょうか。

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5月某日 セストリ・レヴァンテ 
家人が日本に戻っていて、息子が受けるピアノ・コンクールに付添う。会場のあるセストリはジェノヴァからラ・スペーツィア方面へ少し行ったところにある観光地で、夏場は大変な賑わいに違いないが、今日は肌寒く黒い雲が低く立ち籠めていて、人気も殆どない。所々にコンクールを受ける子供たちと親が連れ立って歩く姿を見かける程度だ。
ジェノヴァあたりの建築は、ミラノでは殆ど見かけない黒光りする磨き上げられた石の印象がある。大理石なのか、御影石なのか疎くてわからない。厳めしく重厚で深い味わいを醸し出し、南国的な光と影の強い対照を描く。宿の黒々とした旧い石階段も、すっかり磨り減って中ほどが緩やかに窪んでいた。
この建築様式が、イエズス会文化と無意識に繋がるのは何故だろう。セストリの小さな中央教会も外装は酷く簡素だが、一歩足を踏み入れた途端、絢爛で愕かされる。これをイエズス会文化と結びつけるのも荒唐無稽だが、ジェノヴァで1607年に小西行長の殉教劇などを上演した記憶など、無意識に日本と結びつけているのかもしれない。
ジェノヴァ人は一般的に守銭奴で性格がきついと言われる。ミラノの友人が、ジェノヴァ名物のペーストのパスタでもてなしてくれた折、そこにいた一人のジェノヴァ人が、ジェノヴァ人は到底ミラノのペーストは食べられないと笑っていて、質の悪い冗談かと思っていると本当に一口も食べなかった。それ以外、ジェノヴァの劇場で仕事もしていないし、関わりもなく、セストリにも来る機会もなかった。
今回泊まった宿の主人は話好きで愛想が良かった。部屋にはラウシェンバーグとケージのコラージュやら、リキテンスタインが掛かり、イタリアはすっかりアメリカナイズされた、と不平をこぼしているのが不思議だった。
彼に薦められた食堂で、ジェノヴァ風ペーストを食べると、なるほどミラノで食べるものとはまるで似て非なるものであった。

5月某日 ミラノ自宅
ソルビアティが子供のためのピアノ小品集「弦とハンマー corde e martelletti」100曲を完成し、バーリ、ベルガモ、カリアリ、ノヴァラ、ピアチェンツァ、ミラノの国立音楽院に通う10歳から15歳のピアノの生徒29人で全曲演奏をした。
ノヴァラの音楽院から息子も参加して、リハーサルと本番、二日続けて息子を自転車の後ろに乗せ、ヴェルディ音楽院と往復した。
とにかく曲がとても魅力的だった。普段大きな編成のアレッサンドロの曲ばかり聴いていたので、これだけ短い作品がそれぞれ印象的に響くのは、新鮮だった。無調の現代曲ばかりだが、子供たちは全く意に介さないばかりか、実に見事に弾きこなしている。
内部奏法だけの作品や歌いながら弾く作品、叫んだり泣いたりしながら弾く作品、チェーンを弦に乗せてチェンバロを模す作品、プリペアド・ピアノ作品らも適宜雑じっていて、聴いていても厭きない。20時30分から演奏が始まり、休憩なしで23時40分終了。
アレッサンドロは勿論、知り合いのピアニスト、作曲家、指揮者らが勢揃いした錚々たる聴衆のなか、子供たちは立派に演奏して感心する。
ピアチェンツァのピアノ教師にダヴィデがいて、昨年シューベルト・リストを一緒にやって以来の再会。こんな風に会うとはね、と大笑いする。作曲者夫人エマヌエラとは、秋にボローニャで共演するカセルラの話。

5月某日 ミラノ自宅
食卓でカセルラの譜面を広げていると、階下から、家人の練習するラヴェルとフォーレの三重奏が聴こえてくる。ラヴェルとカセルラは、共にフォーレの作曲クラスで同時期に学び、近所のアパートに住んで親しく交流した。先だって書上げたレスピーギ「噴水」解説では、カセルラが「ダフニス」のイタリア初演をした折の日記を訳出した。1915年のバレンタインデー、2月14日のことだった。ラヴェルの「三重奏」は、そのわずか半月足らず前の1月28日にカセルラがピアノを担当して初演された。ダフニスそっくりの三重奏の三楽章ファンファーレなど、間違いなくカセルラとラヴェルで冗談を言い合ってリハーサルをした筈だ。「ラ・ヴァルス」2台版をカセルラとラヴェルで初演したのは1920年。フォーレの三重奏をコルトーらが初演したのが1924年。カセルラがピアノ三重奏とオーケストラのための三重協奏曲を初演したのは、それから10年近く経った1933年。
ラヴェル「三重奏」をカセルラとラヴェルが共に稽古をしていた時期は、第一次世界大戦下だった。フランス、イタリアは共にドイツ、オーストリアと対戦し、ラヴェルもカセルラも共に従軍し、ラヴェルは凍傷にかかり病院に収容され、カセルラは虚弱体質で病院に収容された。しかし二人とも、国内のドイツ音楽禁止の声明には賛同しなかった。20年後カセルラの三重協奏曲はベルリンで初演されていて、時代の流れを感じる。

5月某日 ミラノ自宅
息子が日本人学校に通うようになり、今まで特に指摘もしなかった日本語の間違いを直す機会が増えた。我々もささやかながら自らの日本語を律していて、最近気を付けているのは、話す際に「やつ」を、書く際に「こと」の多様を避けるというもの。響きが悪いし語彙力の低下も否めないから。なかなか思うように出来ないのだが、面倒でも単語はしっかり使うべきではないか。
昔から日本語の文章を書くとき、一人称単数の人称代名詞を使わない理由は、自分でもよくわからない。日本語に欧文とは違う、言い切らない美しさがあるとして、「自分」を表す人称代名詞は、欧文調で無粋な気がするからか。尤も「吾輩は猫である」のように、それを逆手に取れば強い印象も残すから、言葉はやはり興味深い。
もう大分前から、予め明確に使用すると決めない限り、作曲する際、特殊奏法、特殊楽器の類は使わない。それらを使う人は大勢いるし、本来使われるべき音色が、結局は楽器の本質と思わされる機会も多い。電子楽器のような音が欲しいなら電子楽器を使えばよいし、打楽器的な音が必要なら打楽器を使えばよいと言ってしまうと、楽器も音楽もこれ以上発展は望めない気もする。何より我乍ら年寄り臭い言草に、自己嫌悪。

5月某日 ミラノ自宅
週末ノヴァラの国立音楽院まで息子の付添いに出掛ける。地下鉄でミラノ中央駅に行き、近郊電車でトリノ方面に向って小一時間。街にはピエモンテらしい洗練された洋菓子店が並び、何でもノヴァラ名物も多いそうだが、未だ何も知らない。
「メレンゴーネ」特大メレンゲという名の巨大メレンゲは、直径30センチはある。高さだけでも15センチは優にありそうだ。目抜き通りのこじんまりとした古い洋菓子店一杯に、この特大メレンゲが犇めき合っている様は、愉快で圧巻でもある。
特大カルメ焼きに等しい代物だが、これもノヴァラ名物なのか。息子のレッスンの最中、ノヴァラに住むEちゃん宅にお邪魔して仕事をさせてもらう。Eちゃんは長く家人の生徒だったから、拙宅にも幾度となく遊びにきていて気が置けない。
マリピエロ「交響曲第6番(弦楽)」を読むほどに、不思議な浮遊感が襲ってくるのは、須賀敦子さん曰く「ヴェネチア独特の浮遊感」かとも思う。心地良いが無機的で、切り貼りされながら表現力に長ける、まるで矛盾した超現実的な音と構成の扱いに、同世代のデ・キリコの表現を思う。彼の弟も作曲家だった。
デ・キリコらを「形而上的絵画」を呼ぶのなら、マリピエロは「形而上的音楽」と呼んで然るべきか。「形而上的絵画」の特徴は、遠近法の欠如、人物の矮小化、擬人的静物、超自然的現象だそうだが、なるほど、そのままマリピエロに当て嵌められそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日今日の二日間、piano city milano2019の期間中だけでミラノでは大小450以上のピアノ演奏会が開かれた。
アルフォンソが最近キアヴァリのマルコから購入した50年もののザウターがとても良かったので、マルコのピアノに興味を持っていたところ、彼がちょうどpiano cityに1850年製の特注プレイエルと、1880年製のスタンウェイを持ってきたので見物にゆく。
プレイエルは当時ミラノの出版社Luccaで使われていて、ワーグナーも愛奏したという。Lucca社は、19世紀Ricordi社とオペラ出版で覇権争いを繰広げた一流楽譜出版社だ。それらのピアノが、見事に装飾されたダヴィンチ科学技術博物館の「晩餐の間」に置かれると、美しさが一際映えるようであった。
誰かがプレイエルでショパンを暫く試奏していて、終わってみると旧知のフェドリゴッティだった。続いて風邪で体調が悪いと言いながら、翌日の演奏会のためカニーノが訪れた。少し立ち話をしてから、バリスタと二人、右端のスタンウェイを使ってリハーサルを始めた。
高らかに明るく立ち昇るような音が、不思議なくらい鮮明にこちらに飛んでくる。仄暗い部屋で巨匠二人が、所々立ち止まったり、繰返しながら仲睦まじく音を紡ぐ姿は、音楽そのものを体現していた。彼らから温かく優しいものが流れ出し、会場を満たすようであった。

5月某日 ミラノ自宅
週末、相変わらず息子を自転車の後ろに乗せ、ミラノの反対側にある、リバティ宮まで出かける。7キロ程度だから距離はさほどでもないが、途中道路工事で路肩が急激に狭まり危険なので、自身が交通事故に遭った身からすると、到底息子を一人で自転車に乗せられない。結局、環状線を走る際は、未だにこうして二人乗りになる。家人に過保護と言われても仕方がない。自分が再び交通事故に遭う確率は低いと信じて、後ろに乗せる。
先週思いがけなく博物館で会ったカニーノが、今日は旧知のオーケストラとハイドンの協奏曲を弾く。息子共々どうしても聴きたくて自転車を飛ばしたが、大いにその甲斐があった。想像通りハイドンは、最高級の喜劇に等しい至福に満ち、オーケストラも指揮者も、勿論カニーノ自身の顔も微笑みに綻んでいた。聴衆も同じ表情をしていて、本当に彼は聴衆からも愛されているのだった。
絶妙な即興的な合いの手も即興的なカデンツァも、凡てに艶があって輝いていて、何より愉快であった。音を遊ばせていて、と書くのは簡単だが、どうすればそう実現できるのか想像も出来ない。ハイドンを弾いただけで、会場が熱狂の渦に巻き込まれた。

5月某日 ミラノ自宅
カセルラの作品構造メモ。ピアノ三重奏とオーケストラのために書かれているからか、数字の3に因む素材が散見される。等しくフォーレクラスに学んだ同世代の作家でも、ラヴェルと全く違って、カセルラはシェーンベルクを偏愛し無調へと進んだ。そして、無調に至ったところで、結局はより簡明な平行和音へと帰結したから、和声だけ取り出せば、最終的にはよほどラヴェルの方が複雑だった。
そのラヴェルの手の込んだ和音は、戦後、前衛音楽には直結しなかったが、カセルラの簡明な和声構造は、バルトークの影響と雑じって、戦後イタリア前衛音楽の礎となった。
協奏曲故か、提示部が長大で入組んでいるのに対し、再現部は簡略化され、最後にコーダが付加される。展開部にあたる部分は、複雑な展開構造を繰り広げるより、むしろ提示部の変奏、変容に近かったりする。

5月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人が練習に励んでいたラヴェルとフォーレの三重奏を聴きにゆく。アルドが、フォーレの二楽章はレクイエムを想起させると話していて、迫真で感極まる演奏に胸が一杯になる。今朝は抜けるような青空が広がった。庭の芝生を刈らなければと思っているうち、雨続きと仕事にすっかり庭は荒れてしまった。雑草は盛んに伸びて、どれも30センチは優に超え、黄のタンポポや薄紫のクローバーの花が、庭一杯に咲き乱れている。
「訃報」というメールが届き、吉田美枝さんがお亡くなりになったのを知る。「今日の音楽」で、ナッセンの公開レッスンの通訳をして頂いたのは、大学の終りの頃だった。つい最近まで、ご主人を通してずっと近況のやりとりはしていたが、結局お目にかかれず、それきりになってしまった。
雲一つない青空と新緑の碧の下、無数の黄と薄紫が微風に目の前に揺らめいていて、これを刈りとるべきか、ぼんやりと眺めている。


(5月30日ミラノにて)

Caminando

管啓次郎

Caminando, caminando
Llorando, llorando
Sufriendo, sufriendo
Cantando, cantando
Cansado, cansado
Querendo, querendo
Llamando, llamando
Amando, amando
Caminando, caminando
 

Caminando 歩きながら
Llorando 泣きながら
Sufriendo 苦しみながら
Cantando 歌いながら
Cansado  疲れ果てて
Querendo 求めながら
Llamando 呼びながら
Amando 愛しながら
Caminando 歩きながら

製本かい摘みましては(146)

四釜裕子

「ル・コルビュジエ」がペンネームだとは知らなかった。本名、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年スイスに生まれ、通っていた美術学校の先生のすすめで建築方面へ進み、1912年には事務所を構える。5年後、パリに移って画家のアメデ・オザンファン(1986年生)と出会い、〈機械文明の進歩に対応した「構築と統合」の芸術を唱えるピュリスムの運動〉を始める。1918年、ドイツ軍によるパリ砲撃が始まるとオザンファンはボルドーへ避難、ジャンヌレが訪ね、以降、油絵を始めたそうだ。第一次世界大戦集結1ヶ月後の12月、ギャラリー・トマでオザンファン&ジャンヌレ展、共著『キュビズム以降』を刊行して「ピュリスム」を宣言。1920年からはおもに2人で雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を刊行するようになり、ここで初めてル・コルビュジエを名乗ったそうだ。概要を把握せずに出掛けた国立西洋美術館60周年記念『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ピュリスムの時代』展で、スロープを上がったら淡白なデッサンが並んでいて、若きコルビュジエが影響を受けた作品群かと思い近づくと長い作者名のあとに(ル・コルビュジエ)とあり、初めて知った。

図録にあるピエール・ゲネガンさんの「ビュリスム 新精神の人、アメデ・オザンファン」に、ペンネームを決めたいきさつが詳しくある。オザンファンがジャンヌレと連名で「エスプリ・ヌーヴォー」に建築論を連載するにあたってすすめたのがきっかけだったようだ。従兄弟の名前のルコルベジエを言うとオザンファンは、「2語に分けるともっと立派に見えるだろう!」。さらに、中世の教会には「君の国のヴィルヘルム・テルみたいに、鐘楼の上にとまって糞をするカラスに弓を射る役目の人間」がいてコルビュジエと呼ばれたこと、「君の役目はまさに建築を……(原文伏字)するのだから丁度いいではないか。それに君の顔はカラスに似ている。この名前は君にぴったり合っているよ」(オザンファン『回想』より)と。〈私は自分と彼の本名を絵画と美学の論文に残しておきたかった。それで私は(建築に関する論文に)母方のソーニエという名前を使った。だから彼にも母親の名字を使うように言うと、ジャンヌレは、それはできないというのだ。「母の姓はペレだから。オーギュスト・ペレと一緒にされてしまう」〉。

ジャンヌレはオザンファンの隣人でもあったオーギュスト・ペレを介して初めてオザンファンと会っている。パリに移る前からオザンファンが出していた『エラン』(1915-16)という雑誌を見ていて、〈フランスとドイツの近代芸術を比較した自著の出版に協力を仰ぐことが第一の目的だった〉のではないかと、図録の他のところにあった。2人はやがてたもとをわかち、ル・コルビュジエは建築家としての評価を高めていくが、その間も絵を描き続け、1928年からは油彩画にもこの名をサインするようになる。

オザンファンの助言を得て始めた身近な静物の素描には、瓶やグラス、パイプ、ポットなどのほか本も多く描かれている。《カップ、本、パイプ》(1917 鉛筆、紙)の本は無地で開いてあり、特によく開くページがあったのか、小口の一部がはっきり乱れている。《本、コーヒーポット、パイプ、グラスのある静物》(1918 鉛筆、紙)には閉じた3冊の本が積まれている。右に伸びる影のかたちを好みに作るためであるかのように、重ね方に乱雑風の装いがある。〈最初のタブローである〉と本人が言う《暖炉》(1918 油彩、カンヴァス)には、画面中央に豆腐のような白の立方体、その左に2冊、画面左下に2冊、それぞれ重ねた背を手前にして描かれている。下の2冊は隆々たる背バンド付き、上の2冊はあっさり製本、いずれも柄は排除されて淡い濃淡でシルエットが見える。《開いた本、パイプ、グラス、マッチ棒のある静物》(1918頃 鉛筆・グアッシュ、紙)は本がメインだ。ぺったりと開ききったページにうっすらと図や文字が見える。オーギュスト・ショワジーの『建築史』(1899)の古代ギリシャ建築イオニア式柱頭に関するページだそうで、実物の該当ページが開かれてそばに展示してあった。

油彩になると、《青い背景に白い水差しのある生物》(1919 油彩、カンヴァス)、《赤いヴァイオリンのある静物》(1920 油彩、カンヴァス)、《垂直のギター》第一作(1920 油彩、カンヴァス)、《積み重ねた皿のある静物》(1920 油彩、カンヴァス)など、開いた本が口髭のようにみえるシルエットとしてたびたび現れる。本文が180度ぺったり開かない硬い背の本を、こんもりと両ページが等しく曲線を描くように真ん中から開いた状態で、それをコンクリートで固めて縦に置いたり横に置いたりという具合。口髭というか、古典建築の柱の上部辺りも連想されて、それは、白い皿をやたら積み上げたものがバウムクーヘンというかやはり古典建築の柱を連想させることや、パイプが排水管を連想させるのに似ている。

《アンデパンダン展の大きな静物》(1922 油彩、カンヴァス)になると、本は画面右奥に立てられて瓶の背景を白くする役割になる。デッサン《ヴァイオリン、グラス、瓶のある静物》(1922 鉛筆、パステル、紙)を見なければ、それとは分かりにくい。《多数のオブジェのある静物》(1923 油彩、カンヴァス)や《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924 油彩、カンヴァス)は見た中でもっとも描かれたものの数が多いが、はっきりと分かる本を見つけることができない。改めてル・コルビュジエの建築写真を見ると、曲線部分がことごとく紙に見えてくる。1932年、エスプリ・ヌーヴォー社の株主総会で解散を正式に決定。ル・コルビュジエは1965年8月27日、オザンファンは1966年5月4日に亡くなった。

君を嫌いになった理由(2)

植松眞人

 毎朝、ひょうたん坂と呼ばれていた坂を通って通学していた。その坂がなぜひょうたん坂と呼ばれていたのかは知らないし、それが正式な名前なのかどうかもしらない。その坂を見た瞬間に確かにひょうたんのようだ、と思える形だったのかどうかもまったく覚えてない。ただ、その少し急な坂道を上り、登り切る前に右手に折れると学校の正門が目に飛び込んでくると言う流れが大好きだった。

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。  何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。

 何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

175声を盗む

藤井貞和

はくちょうの成瀬有、いま翔ります。年の夜のそらに放つ 流離伝

まぼろしのうた 盗らむ。たれか ことばかず。のこしては去る。ゆめもまぼろし

闇の夜の恋しいページ。小説のゆめ うたのゆめ、すべてまぼろし

冷え冷えと今宵冷たき砂の国。アルベール・カミュ きみがたたかう

病棟の灯(ひ)の奥、もえるページからページへわたる。きみがたたかう

数値さがることなき ことしより明年へ 病棟に棲む魔ものらは

年占としての春駒に祈りを籠めて「あなたはこの世が好き」

新(にい)繭隠り 緑の苔によこたわって春駒がどこに! そらに! 翔る身体

身体の声は新繭に恋してる 恋してる! わたしの57577

(どこから?)白い繭。白馬になりなさい(いさなりなにばくは)

古代の空の〈うた〉を盗作するわたしです ひめやかに終るノート

灘の翔福鶴 恋し。あまやかに薰る病室 あなたに送る

天からの繭が降りてくる。露も玉つくりに懸命。おかしいね 笑える?

天のつゆじもに包まれる大きな結晶を育てています 笑って!

    *

つらいなら引け広辞苑電子版「鳥の鳴き声」ワライカワセミ

(入院の夜、書き散らしていた反故ノート。他作の混じる可能性があります〈許せ〉。譫妄のなかより。)

私の遺伝子の小さな物語(上)

イリナ・グリゴレ

この病院にいても、世界で起きていることを感じる。寝たきりのベッドの近くの窓からは一本の松の木しか見えないのに、この傷んだ身体はものすごく敏感だ。病院の中にいると、この世で苦しんでいる人々が私以外にも大勢いると分かる。今日は大きな手術をして四日目だ。熱も下がって、少しだけど動けるようになった。病院ベッドの食事テーブルの上に、サイエンティフィック・アメリカンの特集、「Evolution — The human saga」がおいてある。入院する前に自分で持ってきたが、まだ読んでない。人間の体の進化は昔に終わったが、それは本当に出来上がっているのか。未完成な作品にすぎないだろう。今日、点滴がぬかれて、やっと自分のこの手で食事をとることが出来た。この手で必死に茶碗を取って箸を持つ。手が震えるけど神経の動きを細かく感じる。箸を持つ動作は、自分の文化には決して見当たらない習慣なのに、この身体はどこで覚えたのだろう。そして、この大変な時でもちゃんと生き残るために、手は震えても箸をちゃんと持って、米の飯を必死に口に運んでいる。

小さな細胞が動くのを感じた。自分の身体に入れるものは、命の秘密を持っているのだろう。食べ物には、生きている食べ物と死んでいる食べ物があると、はじめて気づいた。ルーマニアから送られた蜂蜜を一番食べたいと思った。この前、何千前の古代エジプトの蜂蜜が発見された。まだ腐ってなかったという。我々の身体はすぐ腐るけど。でも生きているうちに傷んだ身体が、命への繋がりを必死に欲しがっている。四日間寝たきりだった私の体が、神秘的な知恵に目覚めたと思った。

この身体は、六年間に大きな手術を二つ受ける運命を持っていた。ベッドから起きて初めの一歩は、この地球に生き返ってきた私にとって、最初に歩いた人間の状態と同じではないか。

手術の麻酔から意識が戻った瞬間に大きなショックを受けた。麻酔で脳が騙されても、体は覚えている。手術の間に起きたことがなんどもなんども繰り返される微細な感覚が残っていた。傷つけられた時を、私の皮膚が覚えている。

病院の長い廊下から動物のような叫び声が聞こえた。朝方までずっと痛みに苦しんでいた鳴き声が自分の肌に響いた。子供の時から知っていた悪魔たちが出始めた。気持ち悪い、醜い者が私に触ろうとしている。私の身体を欲しがっている。お腹が空いた野良犬が肉を発見する時と同じ。この痛んでいる傷だらけの身体はあの悪魔たちのご褒美だろう。

この感覚はどこからきているのかわからなかったが、人間に共通するのは間違いない。見えるまで、体験するまで信じないのは現代人の癖だ。科学の歴史は三百年に過ぎないが、人間の身体とその身体の知恵や生命力はものすごく古い。この小さな細胞に生の秘密、そしてこの地球の秘密、宇宙の秘密は含まれている。キリスト教、仏教でも、世界の宗教では共通している微細な感覚を忘れてはいけない。この痛みを経験したら神様以外に救いはないと思った。

何日か経って、窓の近くまで歩けるようになったら、外の世界が美しかった。病院の裏の子供が遊んでいる公園には赤いブランコがあって、そして松の木は一本だけではなかった。そうなのだ、一本だけで生きていけない、人間と同じだ。病気のことも考え直す必要がある。遺伝子の命へのつながりの道を考えてみょう。

すべての答えはこの身体にあると感じた。手術の一日目のことは、はっきり覚えている。古いオペ室に自分で歩いてお医者さんの説明をうけた。自分でオペ室でしか着ない服を着て、自分で髪の毛を結び、透明のキャップを被った。この動きは自分で意識した上で行った。お医者さんの目を必死に探して、これからこの二つの体の間におきる動きを想像してみた。お医者さんの身体の一部、とくに手が私の身体に入る。これはすごく神秘的な行動だと思った。科学的な知識より手の指先の感覚やビジョンが必要とされるのだろう。お医者さんの目を見て、一瞬だけど私の身体の中が見えた。不思議なイメージだった。こうやって身体は関係を作るのだろう。身体たちを繋ぐ装置は目にあると思った。

ここは『カリガリ博士』の白黒映画の雰囲気で想像してほしい。オペ室の雰囲気は六〇年代の大学病院のまま。フランケンシュタインが作られた場所と似ている。そういえば私もこの世の創作の一つなのだ。あの世から来て、三十年の間に私の身体になにが起きたのか。この六〇年代のオペ室に、私の身体のMRI画像が、大きなスクリーンに映っていた。見るとびっくりするぐらい、ただのモンスターにしか見えない。その後は狭い、スポンジがいっぱいおいてあるテーブルの上に横になる。腕に注射が打たれて、この注射の力に驚く。

私の血になにが入れられる? 鉄のような、重いものが流れる。私の腕が後の川のように、重い石が運ばれる流れになる。暗い……ここはこの世界の底だろう。ここは静かだ。手術中、夢をみたと思う。でも、寝ている間の夢と違う……すごく幸せな気分だった。亡くなった祖母と祖父に会った。私の身体を、三百年の歴史がある科学に渡したと思ったら、あの世への旅になった。あの世にも身体があった。軽くて、動きやすい身体だった。「私」と一体化していた。私の身体が神様の物であり続けたと感じた。この感覚は子供の時以来なかった。麻酔から起きた時に手術のことを全く忘れていた。「なぜ戻されるのか、戻してよ!」と怒っていた。その後は痛みを感じて、痙攣し始めた。あまりにあの世とこの世は違っていた。赤ちゃんが生まれる時、幸せなところから来てこんなショックをうけるのだろう。

この身体は誰のものなのか。目を開けると星が見える。こんな近くに星が見えるなんてすこし怖い。私の身体が宇宙に浮いている小惑星だったら、手術でとられたものを細かく調べて、地球はどうやって生まれたのか分かるだろう。

夜が来ると、私の身体が一番欲しがっている自然の光がない。身体が熱い、この熱さは地球が出来た時と同じマグマのような熱さだ。神経が爆発した痛み。急にとても寒くなる。叫ぶ。お母さん、あなたから生まれたこの身体は苦しすぎる。お母さん、帰りたい、あなたのお腹に。夢の中に母の胎内に戻る。そこは木がある。命の木だ。

母が今はルーマニアの北部にある聖人パラスケヴァのところにいる。聖パラスケヴァの遺骸は三百年前から腐らない。科学と同じ、三百年前から。母は私のためにお祈りしに行った。母は教会の前から電話した。母の声が綺麗。マリア様は聖なる母だとはじめて分かった。

こうやって病院では信じることを学び始めた。これも子供の時からの懐かしい感覚だった。その後の何日間、母が電話でマリア様の祈りを読んでくれたのが、効かない痛め止めより効いた気がする。母の声とマリア様のお祈りで毎日少しずつ光を感じるようになった。この光を浴びて、身体が奇跡のように復活し始めた。私には信じることが必要だった。

(「図書」2015年5月号)

散歩する人

高橋悠治

去っていく人の後姿 肩掛けかばん 遠ざかる 小さくなる 弱まる

現実にできることの限界 それでもその場所で そのときできることは ひとつではない そのなかのひとつをためしてみれば 次のひとつが自然と出てくる 考えるでもなく 意識もしないうちに その次にいる 次があれば その先も見えてくる 発見は向こうから来る こういうやりかたでいいのだろうか らくなようで じっさいはそうでもない 時間が限られているという思い 次がどこか向こうから来るまで しんぼうして待っている それに なにかをしているうちに あきてくるかもしれない あきてもつづければ できることも できなくなっていく 二つのことを かわるがわるするやりかたもある しばらくはそれでもいい そのうち二つをあわせて一つにしていることに気づく まとめて一つにする その一つは どこまでもつきまとうのか

実験をくりかえし いつもおなじ結果が出れば そこには法則があるのだろう 一歩また一歩とすすんで そのたびに先に見える風景が変わっていたのが 法則があると気づけば 霧が晴れて 景色全体を見渡す場所から 出発と到着を結ぶ直線を引くことができるだろう まがりくねった試行錯誤のたくさんの道を見おろすハイウェイ 人間が歩かないで運ばれていく道

近道 裏道 間道 廂間(ひあわい) ハイウェイにならない トンネルにもならない 途中と途中をつなぐ いくつもあるやりかた

出発点と言える場所がない 気づいたときは もうはじまっていた 到着もない 見える風景が変わっていくと 予想しない場所にいて 別な行く手が見える そこに辿り着く前に 道はまた曲がる

どこまでも途中にいる 全体は見えない 一つでも 二つでもない 間にいる 道もないのかもしれない 歩けるところを縫って歩いている 足元が草か水かわからない 草の葉を踏みつけないように 水に沈まないように 糸を操るように 脚を浮かして 通りすぎていく 脚を置く場所がなければ 脚はとまらない 風景が変わっていく