私の遺伝子の小さな物語(下)

イリナ・グリゴレ

ルーマニアではロシア正教会に生まれた、私。東方正教には修道院が多く、ルーマニア国内にもたくさんある。子供の時のことを思い出すと祖母の生き方はすごかった。日曜日、村の古い修道院の礼拝に連れられて、礼拝の音や光を浴びた私の身体が懐かしい。古いしきたりに則った礼拝が持つ儀礼のパフォーマンス的な力は身体に響く。神様と自然、すべて神秘的だった。この古い東方正教の人の中には、神様と直接話す人がいる。その聖人は修道院の近くの森や洞窟に入って森の実しか食べず、動物のこと、森のこと、世界のすべてが分かるようになった。ルーマニアに生きている私の家族みたいな一般農民は、政治も科学も信じない。唯一助けになるのは聖人の身体と人生。だから病気になったらこういうすごい聖人の助けを求めるしかない。もちろん、こういう中世の習慣を軽蔑する近代的な人にとってはただの迷信にしか映らないが。私も十八歳から町のポスト社会主義の若者と混ざって子供の時の感覚を忘れがちだったが、病気になると世界観が変わる。

聖人は亡くなっても体が腐らない。そのまま残っていて、ものすごくいい匂いがする。その体が聖になった証拠。私もちょっとみたが、すごいいい匂いがした。

社会主義時代、たくさんの神父さんが拷問にかけられて、殺された。彼らが庶民の力になることを恐れたから。それでも、奇跡的な出来事が起きて、聖人の身体の強さに皆は驚いた。

正教会では、身体が神様のお寺みたいなものだ。だから、病気は罪の表れだと思われる。私だけの罪ではなく、先祖代々の罪がこの私の細胞にある。今までいろんな人生を歩んだ人が自分の中にたくさんいる。私の先祖のことだ。私の身体に細胞の歴史がある。今まで生きてきた先祖の最高の表れが私の身だと思うと、強い責任を感じる。

こうやって自分の先祖のこと考えながら、なぜかトーマス・マンの『魔の山』を思い出した。窓の近くまでいけるようになったら、小さい公園とそこにあるブランコが別の世界のようだった。ある日、向こうの部屋の患者の方が急にいなくなった。ドアから空いている白いベッドが見えた。年配の女性が忙しそうに服を片付け、その夫らしい人が電話でお葬式の準備のことを話していた。この病室にいた方は静かに生から飛び出して幸せなところに戻ったのだろう。この死はどこか中世ヨーロッパの絵でみたことがあるイメージだった。

手術から何日かたって、病院の屋上にはじめて上がった時の穏やかな気分を忘れることができない。太陽の光が私の皮膚を温めてくれた瞬間、これは生きている証拠だと思った。屋上は車椅子でいっぱいだった。この古い病院の患者さんは静かに秋の光を浴びていた。

病院にいる間に二歳の時の私が遊びにきた気がする。ある日、病院のベッドでカモミール茶を飲んでいたら、忘れていた思い出が浮かんできた。二歳ごろの夏だった。野生のカモミール畑で遊んでいた、私。太陽の光がとても気持ち良く、村の子供とカモミールの花を集めていた。病気は私の歴史を改めて考えさせる。

一九八六年、日本では昭和六一年だ。一九八六年に私の弟が生まれた。その年の四月に私はちょうど二歳になった。十日後、チェルノブイリの雲は、私が遊んでいた祖母の家のカモミール畑まで来た。桜の木、庭に植えられた野菜と花、近くの森に、見えない暗い毒を浴びせた。当時、誰も知らなかった。今聞くと、あの時のことはもっと後から分かったらしい。嘘か真実か、誰にも分からない。農民にとってこの土地は身体の一部だから信じがたいだろう。野菜を洗えば大丈夫だろうと皆は思ったに違いない。だって、生まれてからずっとそこにある森や畑、一所懸命育った野菜や花に、見えない、人工悪魔のような毒がついていると突然言われても、嘘のような話にしか聞こえない。とくにチャウシェスクの時代は、なにがリアルかなにが嘘なのかはっきりわからないまま。大自然のことしか信じない。

しかし、私の身体にこの事件の影響がなかったとは言えない。弟が生まれたから、母の乳の代わりに新鮮な牛乳を飲まされて、祖母が作った野菜を食べた。その時に大好きな野菜、家から見えた森やどこまでも広がった野草はひどく傷んでいたのだろう。私の身体が彼らの傷みを感じなかったはずはない。だって、私の身体はその森、花、祖父と祖母の家の一部だと言える。しかし、私たちは人間が作った社会主義の下に暮らしていたことを知らなかった。神様が作った森のこと、虫のこと、野菜や植物のことはたくさん知っていたのに。そして、チェルノブイリのことも、私には誰もなにも言わなかったけど、自然が教えてくれた。

二歳の子どもの身体でも、世界でなにが起きたか感じることは出来るに違いない。あの後、私は悪夢を見た。夢の中で、何日間も、祖父母の家のある村で、森の上の空から腐っている気持ち悪い蛙の雨が降っていた。あの時に、何年間もこの夢を見ることを、地球が私の身体に教えてくれたとしか思えない。そして三十歳になった今でもあの時に傷んだ身体を持つ。その時と同じ病気だ。手術は痛いし大きな傷跡が身体に残された。地球も痛かっただろう。

私の病気は遺伝子のせいと言われるけど、でも二歳までの遺伝子はどうだったのだろう。私の病気は私が生まれる前にこの世界を傷つけた社会主義なのではないか? 私の両親は社会主義に生まれ、彼らの人生の大分を傷めただろう。私の骨、皮膚、細胞は彼らの思いを知らないわけではない。ずっと恐怖の中で生きてきた私の両親は、この恐怖を私の骨と神経に伝えただろう。遺伝子だって、私の先祖の苦しみを知っているだろう。皆の思い、この身体が覚えている。そして病気はこういうものではないか。

手術後に敏感になった私の身体が、そう思った。戦争に行ってきたという感覚に近い。前回の手術と合わせて、今は身体に二十センチ以上の傷がある。戦争に行って二十八歳の若さで帰ってこない先祖の気持ちは、きっと私の気持ちとあまり変わらない。祖父の父さま、大丈夫ですよ、あなたの遺伝子を持っている私、ちゃんとわかっているよ、あなたの苦しみを。私の遺伝子は戦争、原発事故、社会主義を知った。正直に言うと戦争、原発事故、社会主義こそ病気だった。今も世界が傷んでいる。

母の夢をみた。二歳の私と二人で懐かしい村の森にいた。春の明るい日、最初の花が咲く時に、森に遊びに行く習慣があった。木の青い、まだ若い葉っぱから光が入って幻想的な背景を生み出す。目に見えるところまでバヨレート(シラー・シベリカ)の花が広がっている。私たちが楽しそうにバヨレートの花をいっぱいとって家に帰ろうとしている。

森から出ると村に入るまでに村の墓所がある。この墓所に私たちの先祖が森の音を聞きながら眠っている。墓所の前を、私と母がとても青いバヨレートを持って歩いていた。私が二歳ならお母さんは二十六歳ごろ。今の私より若い。夢の私は歩くのに疲れて、母はバヨレートの花束を下に置いて私を抱いて歩き始めた。バヨレートの花が道の真ん中に残った。ちょうど墓所の前のほこりだらけの道路に、光るように青い花が置いてあった。

村に入って、お父さんの実家に寄った。父の母からミートボールを貰うが血の塊が出たミートボールだった。そこから出ようとする。「どこに行く?」と聞かれる。「何でいつもあそこへ?」枯れた声で追い出す。あそことは母の実家のこと。私を育てた祖母に会いに行く。道中、遠い親戚の家の前を通ると、パイをのせたお皿で私達を誘う。庭の中に入ると家の外にパイがたくさん置いてある。家に入ると、亡くなった親戚と軍隊の制服を着ている若い男がスープを飲んでいる姿が見える。若い男が食べ物をテーブルに置いて私の方を見ている。亡くなった親族のお食事会のようだった。この夢こそ私たちの遺伝の物語だった。 

(「図書」2015年5月号)

頭の悪い私の哀しみ

植松眞人

 即身仏になりかけた修行僧のような顔だと、あなたを初めて見た時に私は思った。よく見ると愛嬌のある笑みを浮かべるし、女慣れしていないような慌てて話す様子も嫌いでは無かった。けれど、この人と身体を重ねることになるとは思わなかった。いや、もしかしたら、初めて会った半年ほど前のあの時に、そんなことを考えたかもしれないけれど、その時に私の気持ちは「セックスが下手そうだし、この顔に抱かれるのはいや」というもので、それは割とはっきりしたものだった。
 それなのに、私が修行僧のような立木君と付き合うようになったのは、ひとえに立木君の頭が良かったからだ。
 私たちは同じ大学の同級だけれど、立木君は実は四つ年上だ。彼は高校に上がるときに父親の仕事の関係でアメリカに移り住んだ。語学に関する能力が高かったのか、英語圏での生活はまったく問題が無かったという。
「語学のいいところは、覚えればいいってことだよ」
 立木君はそう言って笑うのだけれど、それが決して嫌味ではなく、立木君が言うと、確かにそうなんだろうな、と思う。
「でも、それなりに努力はしたんでしょ?」
 私が聞くと、立木君は笑って答えた。
「日本語を話す人とは徹底的に話さなかったことかな」
「親とも?」
「親とも」
「英語を習得するために?」
「英語を習得するために」
「とにかく、追い込まれないと人は何にも覚えないってことは、高校生になったらわかるじゃない」
 そう言われて、私はわかっていたっけ、と思ったのだが、それは口に出さずに、なるほど、と私は答えた。
 とにかく、立木君はアメリカに移り住んで一年もすると日常生活に困らない程度の英語を身につけたそうだ。そして、ある程度、英語に自信がついたところで立木君はアメリカ文学に目覚めたという。
「言葉を覚えたら、その言葉をさらに深めないとと思ったんだ。最初はテレビを見たり、映画を見たり、学校の友だちと積極的に話すという方法をとっていたんだけれど、結局、今の芸術とか今の人たちは、僕らと同じ程度に軽薄で僕らと同じ程度に賢いんだ。学ぶなら、もっと賢い人から学ばなくてはと考えて僕は学校の近くにあった公立の大きな図書館に通うようになったんだ」
 自分の周りには学ぶべき賢い人はいなかった、という高校生にしては不遜な考えは、いまの立木君を嫌いだという人たちが、立木君を嫌う部分とまったく同じで、立木君は高校生のころから、すでにちょっと嫌な奴として確立されていたのだなあと改めて思うのだった。
 でも、立木君のそんな不遜なところにゾクゾクする。立木君が周囲を不遜な態度で見ていることにもゾクゾクするし、その対象が私だったりするとさらにゾクゾクする。ただ、それが不遜に扱われている事に対するものなのか、いつか立木君が足元をすくわれて頭でも打つんじゃないだろうか、ということに対するゾクゾクなのかがわからない。どちらにしても、私は立木君に惹かれてしまい、後戻りすることができなくなった。
「付き合って」
 私がそういったときに、立木君は、
「どうして?」
 と私に聞いた。
「頭がいいから」
 と私が応えると
「頭、いいかな」
 と、立木君はちょっと困った顔をした。
 その困った顔に、私は少しがっかりした。
「立木君」
「なに?」
「立木君は困った顔しちゃだめだよ」
「困った顔?」
「いま、してたよ、困った顔」
「してたかな、困った顔」
「してたよ、困った顔」
 そう言われて、立木君は生真面目に自分のほんの少し前の顔と、その顔をさせてしまった自分の心持ちについて思い出しているようだった。そして、ふいに何かに思い至ったようだった。
「付き合うって、どういうことなんだろうって、そこが分からなくて困ったんだと思う」
 立木君がそう言う。
「困っちゃだめだよ」
「困っちゃだめなの?」
「だって、立木君、頭良いんでしょ。知らないことがあって困っちゃだめなんだよ。知らないことがあっても、知ってるふりして乗り越えないと」
「知ってるふりか」
「得意でしょ」
「日本に帰ってきてから、得意になった」
「日本に帰ってから?」
「そう。日本に帰ってから」
「アメリカでは知ってるふりしなくていいの」
「しなくていい」
「どうしてなのかしら」
「どうしてだろう」
 どうしてなのかを考えている立木君の顔を見ながら、知っているふりをしなくていいアメリカという国はつまらないなあと思った。
「ねえ、日本のほうが面白くない?」
「うん、日本のほうが面白い」
 立木君は笑った。 (了)

製本かい摘みましては(147)

四釜裕子

付録が話題の月刊『幼稚園』が、7月号は早々に重版決定したそうだ。当号付録は江崎グリコとのコラボレーションで、4つのボタンを押すとコーンアイスが出てくる自動販売機「セブンティーンアイスじはんき」が作れる紙工作キット。ぱっと見、直方体だし、幼稚園児にも分かるように作られているのだろうから簡単でしょうと思いきや、「幼稚園ふろくチャンネル」なる動画を見ると作りはかなり細やかだ。これ自体はおもしろいのだけれど、教えるおとなとか、こうしてのぞくおとなのために、おとなが動画を用意していて、よいこのみんなには、おとなになると自分で自分が好きなものを買えるわよ、とだけ言いたい。

こちらの転居のせいでいつからか届かなくなったJT生命誌研究館の季刊『生命誌』の付録も楽しみだった。毎号、さまざまな仕組みを駆使した紙工作がついていて、今でもいくつか手元に残してある。からくり仕掛けありのペーパークラフト・古生物シリーズ、似ている生きもののシルエットが並ぶように組み立てられる「他人のそら似」シリーズ(ホホジロザメとイクチオサウルスとか)、38億年続いてきた生きものを支えるバランスを学ぶ「生きものヤジロベエ」などなど。研究の成果を、一般のひとが楽しめるように美しく表現することを大切にしてきた、中村桂子さん率いる同館の特徴の一つと思う。

そしてこちらは付録ではなくて実物見本ということだが、『デザインのひきだし』。2007年の創刊で、実物見本が付くようになったのはいつごろからだろう。最新の37号の特集は「活版・凸版」。実はこの実物見本、材料費が乏しい製本の授業で重宝してきた。オフセット印刷や紙の加工特集などの見本をばらばらにして学生にまず好きなものを選んでもらって、それに合わせて無地の安価な紙を選び、それぞれの製本材料にするという具合。

数年前から、「身の周りにある紙の中から、製本で使えそうな、きれいなもの、おもしろいものを集めて持ってきて。店で買う必要はありません」に対する反応が鈍ってきていた。「雑誌でも包装紙でもフライヤーでも紙ゴミでも、いろいろあるでしょ?」と言うのだけれど、つるつるのうすうすの紙にぺかぺかに刷られた洋服通販冊子を複数の人が持ってくるようになったのだ。この紙をきれいと思うの? この柄をおもしろいと思うの? これを使って製本してみたいと思うの? 

聞けばそういうことではなくて、ふだんの暮らしでみつけられる「紙」がそれだっただけで、きれいともおもしろいとも思っていない。買うのはナシと言うのでこれを持ってきた、というのであった。暮らしの中から紙が減っているのは確かだろう。電車の車内吊りや新聞の印刷広告もテキトーなものばっかり(今朝の『君の名は。』の新聞両面広告はよかったけど)。それにしても、なんということだろう。今、「紙」を初めてまじまじ眺めようとしている人の日常に、うつくしい印刷物がこれほど減っているなんて。

しかし、ただそれだけのことかもしれない。うつくしくておもしろい紙や印刷物を知る機会さえあれば、たちまち夢中になるのでは? それで『デザインのひきだし』実物見本。毎回みんなくらいつく。選ぶのに迷ううちに夢中になって、作業しながらわいてきたアイデアに自分でびっくりしている姿を見るのがうれしい。終わってほんとは『デザインのひきだし』本体を読んで欲しいのだけれど、毎度それは「次の機会に」。「次」は自分で見つけてね。もう、ひきだしの一つは開いているのだし。

MY LIFE IS MY MESSAGE

若松恵子

ロックバンドHEATWAVEの山口洋が、東日本大震災の直後の2011年4月に福島県相馬市の人々とともに「町とこころの復興」を目指してMY LIFE IS MY MESSAGEというプロジェクトを立ち上げて活動している。友人が相馬市に住んでいたことをきっかけに(確かレコード屋さんだったと思う)相馬市という具体的な町とつながって、自分にできることは何かと悩みながら支援を続けてきたプロジェクトだ。自分の本業である音楽を活動の軸に、相馬に暮らす人たちを元気にしようと、チャリティコンサートや美空ひばりのフィルムコンサートの開催などをしてきた。あわせて、賛同してくれるミュージシャンと相馬以外の地でもMY LIFE IS MY MESSAGEのタイトルのもとにライブをしたり、野外フェスに出演しながら相馬を応援する仲間を広げてきた。募金を集めて何かをプレゼントするとか、再建するとか、分かりやすい目標のようなものがあるわけでは無いようなので、継続していく事自体難しいことだったろうな、と思う。ライブのチケット代と支援のお金が直結しているわけでもないので、普通のライブとどこが違うの?と言われてしまうかもしれないとも思った。

6月28日に、8年目を迎えるMY LIFE IS MY MESSAGE2019のライブを見に行った。今回の出演者は山口洋と2013年からずっと参加している仲井戸麗市の2人。それぞれのパートと、いっしょに演奏するパートの充実した3時間だった。このライブに対する2人の思いが静かに、静かに伝わってきて余韻が残った。

震災から8年経って、直接相馬に行ってしなければならないことも少なくなってきて、誰かのために汗を流すことよりも自分の持ち場でしっかり音楽をすることこそが重要になってくる。ガンジーの言葉を引用したプロジェクト名なのだから、そういうことなのだけれど、支援活動としてはますます間接的になってきて、それはそれで難しい挑戦になるだろうなと思う。でも、続けてほしいなと心から思った。自分たちの音楽を精一杯鳴らすこと、そのことでまず目の前にいる人たちを元気にする、そして「あの日のことを忘れない」という思い(メッセージ)を唄に込めて伝える。音楽に、唄にどれだけの力があるのだろうかと迷いながらも、自分たちが一番うまくできることで役に立ちたいと思っている…そんな誠実さを2人の姿から感じた。彼らの音楽を聴き、心打たれるという、直接には相馬への支援になっていない参加の仕方ではあるけれど、私も見続けていきたいと思っている。

自分と同じように日常を大切に生きているたくさんの人への連帯の気持、原発事故の責任がきちんと取られていないという不正義への怒り、それぞれの人生を自分の好きなように輝かせて生きようという励まし、歌詞に直接うたわれているわけではないけれど、そんな大切なものを音楽から感じた夜だった。

しもた屋之噺(210)

杉山洋一

ここ数日、酷暑に見舞われています。ミラノだけではなく、ヨーロッパ全土が異常な熱波に襲われているとか。毎年七月半ばが一年で一番暑いのですが、今年はそれが早まったようです。七月に向けてこのまま気温上昇が続くと想像したくないのですが、一体どうなるのでしょう。

6月某日 ミラノ自宅
朝5時半起床。息子の弁当に入れるパスタを作ってから、6時半、朝食のパンを買いにゆく。朝食の準備をして7時半には家をでて、マントヴァから戻った家人と中央駅で落合って、8時過ぎの列車でキアヴァリのマルコ・バルレッタのピアノを見に出かけた。マルコは旧いピアノを修復して使えるようにしているのだが、弦が交差しない形の平行弦のピアノは、音域毎に音質が違うので、同時に何声部も弾いても、それぞれ音がきれいに分離するし、現在のような均質な音色を求めるピアノをモーツァルトが持っていたら、アルベルティバスは書かなかったと力説していた。音質や鍵盤、時に声部が不均等である美しさは、その昔メッツェーナ先生のレッスンを聴講しているときに覚えた。

6月某日 ミラノ自宅
通常、指揮セミナーは教師が熟知するレパートリーをやらせるものだが、生徒がお金を出し合ってアンサンブルやオーケストラを指揮する我々の場合、編成や演奏時間が優先される。教師は曲を余り知らないまま、良く言えば先入観なしに生徒の作りたい音楽の手助けをする。一応楽譜の勉強はしたが、生徒の方がよほど深く読み込んでいて、解釈で蘊蓄など垂れる必要はない。むしろ、深く読み込み過ぎて、泥濘に嵌りそうになると、少しだけ言葉をかける。

今回特にチリ人の血を引くグエッラが担当したファリャ「チェンバロ協奏曲」の素晴らしさに衝撃を受けた。演奏も指揮も意外に難しく、編成が小さいほど、粗が露わになるからだろう。無駄なく冗長な要素を極端に廃した構造は、性格は違うがマリピエロのようでもある。
3楽章の楽譜を読んでいるとき、息子がシューベルトの即興曲2番を歌いながら通りかかって、初めてこの中間部がファンダンゴと気づく。常識と言われればそれまでだが、無知とは恐ろしいものでこの歳まで知らなかった。アルゼンチン人のバレンボイムの演奏を聴くと、カスタネットを叩いて躍っているように聴こえる。

浦部くんにお願いしたウォルター・ピストンが、ジェノヴァ人の家系だとは知らなかった。イタリアには、確かにピストーネという名字もあるそうだ。ピストンの「喜遊曲」に、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」の足跡を見る。ピストンの「喜遊曲」は1946年、バルトークの「協奏曲」は1943年。後年はボストンシンフォニーとミンシュでピストンの6番交響曲が録音されているほど、ピストンは長い間ボストンで盛んに活動していたようだし、クーセヴィツキとボストンシンフォニーの1944年の初演も聴いていたかもしれない。高校生の頃中古レコード屋で見つけたこのミンシュのLPを愛聴していた。
要するに指揮セミナーというのは、無知の教師が自らの無知を確認する、格好の機会ということ。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院に細川さんがいらして、ガルデッラも交えて昼食をご一緒する。美食家のガルデッラが探してくるレストランは外れたためしがない。食事の席でエヴァ・クライニッツの訃報に接し、言葉を失う。
夜は尺八の黒田くんとmdi ensembleの演奏会があって、桑原ゆうさん、浦部くんの作品を聴きにSirinに出かける。浦部くんは新作の初演をし、通訳も指揮もして企画までこなし、八面六臂。桑原さんの作品も次々とアイデアが沸き上がる様が素晴らしい。スタイルは違うけれど、知り合ったばかりの頃のみさとちゃんを思い出した。
もう20年近く前から何回か、パリのみさとちゃんもこのSirinにやってきては、mdiとのリハーサルに熱心に付き合ってくれた。当時は主人のフランコも健在で、お昼はいつもヴェラ通りの年配女性が揚げるカツを乾燥トマトやチーズと一緒にパンに挟んでもらって食べた。皆あのおばちゃんを慕っていて、ミラノ語でシューラ(おばちゃん)と呼んでいたが、あの店も大分前になくなった。
当時、いつもヴェーラ通りの角には、整った顔立ちに濃いめの化粧を引いた妙齢が立っていた。 晴でも雨でも、暑夏でも厳冬でも、物憂げで、どこか凛とした風情で立っていたのを思い出す。彼女の前に車が停まり、二言三言言葉を交わして助手席に乗込むところに、何度も出くわした。未だ若かりし頃のアンサンブルの演奏者たちのちょっとしたマドンナだったから、朝、練習が始まるとき、彼らが「今朝はシニョリーナもう道に立っていたね」、などと嬉しそうに声を上げていたのが懐かしい。彼女の姿ももう長い間みていない。
フランコが亡くなり、一人残されたミラを皆でいつも気にかけていたが、会うたび、この家は広すぎるしフランコとの思い出があり過ぎて辛いと涙をこぼした。友人らがお金を積んでこの家を借りるとか、購入するとか色々と案を出したが、結局彼女はさっぱりと売却を決め、年内には家を明け渡すことになっている。家人も、ピアノが好きだったフランコの楽譜をずいぶん沢山貰って来た。
黒田くんの演奏会に出かけ、フルートのソニアと話した。「シューラ、未だ元気かな」「どこかの養老院で、今も楽しくやっているといいわね」。

6月某日 ミラノにて
朝、東京の尚さんから便りが届いた。
「悠治さんのピアノは、涙が出そうになるような愛に溢れた音、音楽でした。張詰めた空気感、優しいロマンティックな雰囲気、静かなたたずまいなど、色彩豊かな時間で胸がいっぱいになりました」。

家人の留守中、息子の弁当の助っ人に母を来てもらっている。残念ながらうだる暑さで日中どこにも出かけられない。今朝は週末で弁当の必要がなかったので、朝早く、連立ってジョルジアの菓子屋まで朝食を買いに出かけた。こちらは徒歩で、八十路半ばの母は鶯色のブロンプトン自転車に跨り、颯爽と。
息子が魚を余り食べないとこぼすと、母も幼少期、魚にあたってばかりいたので、口にするのは好きではなかったと言う。当時は氷冷蔵庫しかなくて、暗いところで冷蔵庫を開けると、魚がぼうっと光っていて薄気味悪かったそうだ。母曰く、魚のリンが発光したからと言うが、真偽のほどは分からない。

(6月29日ミラノにて)

シリアの民主主義

さとうまき

今、僕はシリアのことをいろいろ考えて本を書こうという気になった。8年にわたる「シリア内戦の分析」をする。というわけではない。僕が、25年前の7月19日に初めてシリアに行ってから25周年という記念日なのだ。

久しぶりに25年前のノートを開いてみた。まだ、ハーフェズ・アサドの時代。驚くほどアナログの時代。インターネットもなければ、デジタルカメラもなかった時代を信じる方が難しい。今は、スマホ一台ですべてが補えるのだからすごい進歩だと思う。だからこそ、民主主義も進歩したはずなのに、シリアの今は内戦が続く。そんなことを徒然なるままに筆を執ってみる覚悟をして、25年前のノートを読み返してみるとなかなか興味深い時代だったんだなあと改めて感じた。

1994年8月

ダマスカスの工業省に赴任して間もない夏。ウマイヤッド・スクェアにバスがさしかかった時、アラビア語で書かれた垂れ幕がやたらと張ってあるのが目に付く。一緒に乗っていた職場のシリア人女性に聞いてみるが、「明日までに調べておくわ」。きっと政治的なスローガンが書かれているのだろう。

アパートに帰ってラジオ・ダマスカスを聞く。このころFM放送で英語放送をやっていた。国会議員の選挙があるらしい。一般庶民のシリア人はあまり新聞を読まない様だが政治には本当に無関心だった。

少し昼寝をして町をうろつく。確かに町中がポスターやら垂れ幕やらでお祭りの様ににぎわっていた。テントが張られていて、裸電球とシリアの国旗がたくさんぶら下がっている。椅子がならべられていて、奥には大統領と1994年1月に不慮の事故でなくなった長男のバーセル(バッシャール現大統領の兄)の写真がかざってあった。トルコ風民族衣装に身を包んだ給仕が、ちらほらと集まってきた近所の老人達にアラビアコーヒーを振る舞っていた。実にのどかな光景のなかで日が暮れていく。心地よい夜の風が吹く。

突然車のクラクションが鳴り響く。子供が走ってくる。そして肩車された若者がやってくるとみんなは拍手喝采で迎え入れる。今度は、ひずめの音がしたかと思うと馬にのった男達がやってくる。こういうときは、絶対ロバではだめだ。彼らは、候補者の名前を叫ぶと、「あんたが一番!あんたが一番」とたたえる。小さな子供達も選挙運動に参加していた。ポスターを広げて候補者の名前を叫んでいる。若者は、興奮していろいろと説明してくれるが、僕にはさっぱり理解できなかった。

結局「おまえも一緒に来い」と言われて子供達と一緒にトラックの荷台に乗せられた。トラックは急発進すると次の目的地へと向かった。トラックの運転は手荒かった。しっかりとしがみついていないと振り落とされそうだった。曲がる度に子供達は荷台を転がり回っていた。商店街に入ると通行人が手をふって応援してくれる。やがて車は高速道路下のテントへ到着した。ここにはお歴々がそろっているらしかった。

中国人かといわれ、「いや、日本だ」と答えると、「じゃあ空手ができるんだ」。子供達が寄ってくる。カメラを見つけるとサウルニー(私を撮って)とせがむ。大人がやってきて子供達を叱りつけ追っ払ってくれる。うるさいガキどもを追っ払ってくれるのは実にありがたいのだが、必ず「さあ!俺を撮るのだ」とくる。結局、フィルムの無駄遣いはさけられない。当時はデジカメなんかなかった。

「コーヒーを飲むか」。彼らが差し出してくれたのは、カルダモンの香りが効いた濃いコーヒーだった。まるで九州人のようにお猪口で回しのみをするので、一気にぐっとやってしまわなければならない。僕は進められるままにこのコーヒーを3杯も飲んでしまったので胃が痛くなった。

「ところで、君たちの候補者は一体だれなんだい」

「マハディーン・ハブーシだ。彼にたのめばなんでもやってくれるさ 」

「そうさ。本当だよ」小さい子供までが付け加えた。

選挙運動はだいたいこんな感じで進んでいった。公約を宣伝カーでふれまわるようなことは決してなかった。夜、しかも決められた場所で有権者にコーヒーを振る舞う。灼熱の太陽が没した後に人々は集まり、お茶を飲み、トルコ風の剣の舞を楽しむ。

投票日

この日は投票日だった。投票はだいたい小学校などを利用して行う。俺はいつものようにカメラを持ってカファルスーセの町をうろついていた。近所の就学前の少女がついてきた。小学校の前にさしかかると、調子の良さそうな連中が「おいで」と言ってくれる。シリアの小学校は高い壁に覆われておりそれはまるで刑務所のようだった。運動場もない。

「それは、子供達が脱走しないようにさ」

「じゃあ、やっぱり刑務所だ」

女の子に「さあ!一緒に行こうか」と言ったが怖がって中には入ってこない。中では警官の立ち会いのもと、投票が行われていた。何ら緊張感がなく皆楽しそうに選挙を手伝っていた。女性の選挙管理委員もいる。みんな歓迎してくれて写真を撮らせてくれた。すると警官がやってきて俺に職務尋問をした。そして「俺を撮れ」と言ってポーズをとった。写真を撮ってやると、二人の警察官が俺の両脇について、「さあ!出るんだ」と言って外へ連れ出された。

俺が連れ出されると、入り口で待っていた女の子が「どうだった?」と駆け寄る。「まあまあだよな。写真もとれたしね。君もそのうち刑務所に行くんだ。でもそんなに怖がることはないよ」と諭した。

翌日のシリアタイムスの一面には、「投票は自由と秩序、そして正義の名の下におこなわれる。投票率61.18%、158人が新人。女性議員は28名。民主主義の自信にあふれた結果である」と賞賛した。

そして25年経ったシリアの民主主義の行くつくところはどこなんだろう。答えを求めて若者たちは戦っている。

灰いろの虹

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ視野を抜けゆく雨とは光り

ぽつりまたぽつりとひらく点描の、雨は遠のく光りのうつつ

点描はことのはじまり ふる雨に濡れゆく屋根の瓦のいろも

雨白き条をひきつつすみやかに視野を抜けゆくまでの明るさ

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃く撓む空間

ひとすじの圧もてひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

絵は音に音は絵となるひとときを歌いだしたり雨垂れのごと

みたされしものから順に零れだす雨という名の後さきおもう

塗りのこし俄かに失せて雨音の変わりゆく見ゆ しろき雨脚

雨晴れて棚引きわたる灰いろの虹 たまゆらを天がけるゆめ

霽月や下田にひとりおとうとが島田にひとりいもうとが居り

*霽月・せいげつ 
雨がはれたあとの月。
くもりのないさっぱりとした心境にたとえる(広辞苑)

インドネシアで住んだ家(4)3軒目の家

冨岡三智

今回は3回目の長期滞在で住んだジャワの家について。前の2回が留学ビザだったのに対し、今回(2006年8月〜2007年9月)は調査ビザでの滞在。受け入れ機関は元留学先なので、今回もスラカルタ市内カンプンバル地域で、前回と同じ人に頼んで家を探してもらった。こんどの家は車が通れる道に面しており、家の前に車が3、4台は停められる空きスペースがある。今までの家よりも広いとはいえ、また家が立派な作りで家具付きとはいえ、思ったより賃貸料は高かった。この家だけでなく、この市役所裏の一帯の賃貸価格は前回留学した時よりも上がっている。ジャカルタ資本がこの辺の土地を買って(借りて?)商業ビルにする例が増えてきたようだ。

私が借りた家の所有者は大学教授である。実家は私が最初に住んだ家の町内にあるが、普段はジャカルタの大学で教え、たまに帰省してこの家に泊まっている。定年退職したらこの家に住むつもりだが、1年だけなら貸しても良いという話だったらしい。家の管理は実家の人がしている。持ち主の祖父?曾祖父?は近所にある銀行(カンプンバルには銀行が数行集まっている)の創立者の1人だそうで、この家はかつてその銀行の社宅にしていたらしい。社宅といっても、3、4人で住む感じだが。

この家に住んでみると、時折、高額な家具や電化製品や美容品などの頒布会のチラシが投げ込まれる。同じカンプンバルに住んでいても、今までこういうことはなかった。また、ヤクルト事業(ヤクルトレディなどを統括する代理店?)を展開しないかと営業に来られたこともあるし、保険の売り込みが来たこともある。住む家のクラスによって入ってくる情報は異なることを、ここに住んで初めて痛感した。

近所はこの辺りでワルンを出して商売している家が多い。一番親しかったのが米から雑貨まで商う店で、店主は私とほぼ同年の夫婦。私がテレビに出た時は、ここでオンエアを見せてもらった。それから左隣のご飯屋。女性と子供とベチャ(人力車)引きの老父が住んでいて、老父はもう流しで車夫をするのは無理なので、頼まれた時だけベチャで荷物運びなどをしている。近所の人たちは電気代などの支払い代行を頼んでいたので、私もお願いすることにし、それ以外に正装して出かける時や、自分が主催する事業で荷物を運ぶ時にベチャを出してもらっていた。はす向かいの店は氷屋(他にも雑貨を売っていたかもしれない)をしていて、やけどをした時にここで氷を買った記憶がある。店番のおじいさんはラジオでよく影絵やガムラン音楽を聴いていた。

1、2回目に住んだ裏通りの家と違って、この家はグーグルのストリートビューで出てくる。周囲の家はあまり変わらないが、この家の外観はかなり変わっていた。外壁が違う色で塗り直され、前の空きスペース一杯に車庫が建て増しされ、車庫のフェンスの合間から大きな車やバイクが見える。大家さんはもう定年退職してこの家に戻ってきたのだろう。このストリートビューは2016年1月の撮影だが、それから変化はあるのだろうか…。

失われていく言葉

笠井瑞丈

六月は自分の誕生月
小さい時から六月は
何か特別の月である

いつも
当たり前のように
やってきて
当たり前のように
去っていく

そんな当たり前を
当たり前にしないため
今年は何かをしようと
六月十六日誕生日
ソロの会を行った

タイトル『701125』

言葉を刻むように
行為を刻むべきだ
(三島由紀夫)

今できる事
今しかできない事
今だからできる事
そんなことをカラダで
行為しようと思いました

言葉の持つ本当のチカラ
言葉の持つ本当の意味

そのような事が
体とどのように
結びつき繋がり

新しいチカラを生み出すのか

そんなことを自分に課して
作品を作ってみることにしました

今は言葉が
飽和している時代
SNSの発展とともに
誰でも架空世界に言葉を
責任なく投げ込める時代

嘘が本当になり
本当が嘘になる

そんな世界だ

書斎の中で一晩考えた言葉が
本当の言葉であり
これが表現行為だと信じるよ
(三島由紀夫)

失われていく言葉のチカラ
今一度考えなきゃいけない

仙台ネイティブのつぶやき(46)絵本の中で

西大立目祥子

 じぶんがどうやって文字を覚えたのか、はっきりとした記憶がない。だれかが、たとえば父や母が「これは“あ”。これは“い”」というように五十音を一文字ずつ教えてくれたのだろうか。それともひらがなの本を読み聞かせてもらっているうちに何となく身につけたのだろうか。

 文字を覚えて自力で本を一冊読み終えたときの感動は、いまもじぶんの中にくっきりと残っている。5歳くらいのことだったろうか、叔母がクリスマスにグリム童話をプレゼントとしてくれたことがあった。それはそれまでなじんでいた色付きの絵本とは違って文字だけで書かれた分厚い本で、ところどころに殺風景な挿画が入っているだけ。文字の読めない幼児には文章はただの黒いシミの羅列でしかなく、ぱらぱらとめくって放り出した。

 それからどれくらい経ってからのことだろう。あるときその本を引っ張り出して読み始めた私はたちまち物語に引き込まれ、黒いシミの向こうに壮大な世界が広がっていることに驚きながら本を閉じたのだった。本という紙で閉じられたモノが持っているすごさと大きさに、幼いながら感動させられたのだと思う。

 ちょうど文字を覚えつつあった時期、6歳のころに読んで、いや正確にはたぶん母に読みかせてもらっていまだに忘れられないのが、幼稚園に毎月届くのを楽しみに待っていた絵本「キンダーブック」だ。大判の薄い冊子のような体裁の本は月替わりで内容が変わったのだけれど、中でも「オッペルと象」と「シュバイツァー博士」は、いまだに絵の細部とともに、ページを繰るごとに揺り動かされた生々しい感情が残っている。子どもの眼力と記憶力は大人が想像する以上なのかもしれない。

 「オッペルと象」では、強欲の農夫オッペル(当時は“オッベル”ではなくこう表記されていたと思う)の小屋に足を踏み入れた大きな白象が、オッペルにいわれるままに働き始める。白象は働くことがよろこびなのだ。そこにつけこむずる賢いオッペルは、つぎつぎときびしく仕事をいいつけながら逃げられないよう象の足に錘をつけたり鎖をくくりつけて食事の量を減らしていく。

 真っ白い大きな象のからだは、ページをめくるたびやせ細っていき、細くなった足にはますます重たさを増したように錘がぶら下がる。象の顔から笑いが消えて、目からは涙がしたたり落ちる。幼い私は白象がかわいそうでかわいそうで身がよじれるようだった。子供心に大きなナゾだったのは、白象がオッペルを憎まずに祈ることだった。弱り切った象は夜、月を見上げて「サンタマリア」というのだ。マリア様なら知っていた。幼稚園の朝の礼拝や食事の前には、みんなで手を合わせ祈っていたから。

 象が助けを求める手紙を書いて、森からどーっと仲間の象たちがオッペルをやっつけにやってきて、白象は仲間に救い出される。たくさんの象が長い鼻をすり寄せてよろこび合う最後のページまできて、息を詰めるようにして白象にじぶんを重ねていた6歳の私もようやく救われた。もしあのまま白象が死んでしまったら、私の世界も終わるように感じたかもしれない。

 「シュヴァイツァー博士」では、勉強をし直してアフリカに渡り病気の人々を助ける博士が描かれる。明るい日の光の下で新しい診療所の工事を指示する姿や、ケガをした男の子の手当をし動物にも愛情を持って接するようすに、幼かった私は心打たれた。そして、最後のページでは、漆黒の窓辺を背景に明かりの下、白髪や白髭にふちどられた横顔が浮かぶ絵に、博士は音楽家でもあって夜はオルガンの練習をするのです、というような文章が添えてあって物語は閉じられる。ここまでお話を読み聞かせてもらって、「尊敬」というような難しいことばは知らなくても、ひたひたとあこがれのような感情に満たされたのだった。

 中でも何とも魅力的に映ったのは、博士が診療に忙しく過ごす昼の顔と、ひとりオルガンに向かって稽古する夜の顔を持っていることだった。6歳の子どもにそんなことがわかったのだろうか、と大人になった私は疑いたくもなるのだけれど、でもあのときの私は確かに2つの時間を生きる博士を何ともステキだと感じたのだ。親にも話さずに私はそっと胸の底に「シュヴァイツァー博士」の名前を押し込めて毎日を過ごし、ときどきアフリカの青い空を思い浮かべたりしていた。

 9歳になった1965年の9月初めの朝のことだ。学校に出かけようとしていたときに、テレビを見ていた父が「あ、シュヴァイツァーが亡くなった」といったので画面をみると、白黒のテロップに「シュヴァイツァー博士死去」とあった。ショックだった。もう私が尊敬する人はこの世にはいないんだと思いながら、とぼとぼ学校に歩いていった記憶がある。

 それから25年くらいが過ぎて、私はある古書市でこの「キンダーブック」に再会した。発行は昭和37年。A4版でわずかに16ページ。表紙には「しゅばいつぁーはかせ」とあって、中の文字はすべてひらがな。幼稚園の1年間に「キンダーブック」を読んでもらいながら、私はひらながを習得していったのかもしれない。

 各ページの絵は、記憶の中の絵と少し違っていた。でも最後の窓辺でオルガンを引く博士の横顔は記憶どおりだった。文章は「はかせは、おるがんのめいじんです。まいばんけいこをしています。」とある。博士への尊敬を決定的にした文は、こんなにシンプルなものだったのだ。子どもは絵と文を激しく増幅させて、その世界へと入り込むのかもしれない。大人はもうこういう読書はできないだろう。

 わきにはごくごく小さな文字で、出版元であるフレーベル館の顧問の坂元彦太郎という人の企画意図が「博士へのあこがれを胸にきざみこんでおけば、やがてはそれぞれの胸の中でゆたかに開花する日のあることと、期待しているのです。」と記されている。

 うーん。確かに胸には深く刻まれた。でも開花はしていない。博士へのあこがれはいまもあって、それはどんなにへたくそでもいいから、夜の窓辺で博士のようにバッハを稽古することなのです。

176 その古い話が終る

藤井貞和

その古い話が終る。 土間(どま)の神は去り、
鍋が割られる。 さいごのスープを、
地面へこぼすと、もう(地面の)口はひらかれることがない、
古い話は終わる。 さいごの餅も、小豆(あずき)も、
いまでは語り草(かたりぐさ)。 知らない人ばかりがあつまり、
祈りを忘れる。 その少年に、かまど(竈)は、
さいごのことばを教える。 でも、それは、
火の神の遺言である。 「よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

少年の火は、石と石とをたたき合わすだけだし、枯れ枝を
燃え上がらせても、さいわいに雨が降って消すことを告げる。
どんな捧げ物も最初、火に捧げました。  
食物の一掬いを、捧げました。 感謝の祈りとともに。

みかる(見軽)という名の少年が、義父のところへ行く途中、
わしい(鷲)の家を訪ねます。 客人はたいせつにしなければね。
ところが、おどろいたことに、わしいの家の、
女主人は鍋から一掬いを火に注がなかったのです。
みかるは自分のために出されたテーブルの上のスープを、
カップからそっと、一掬い、火に注ぎました。

夜中、みかるは目を醒まします。 弱い、けぶったような光の向こう、
炉のかたわらに痩せた男の子がすわっています。
こうつぶやくのです、「ぼくは、ここで痩せてしまった。 だれも、
食べものをくれないのだ。 いつもおなかをすかせている。 
麦のスープをくれたのはあなたがはじめてだ。 これに対して、
お礼をしますよ。 よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

みかるは身震いして、わしいに挨拶もせずに、
そとへ出ました。 振り返ると、
わしいの小屋はほのおに包まれていたと、ふるい神話のような、
昔語りです。 ことばの継ぎ目に、まだ残されたことばがあるなんて。
「よく聞きなさい。 すぐにここを出るのです。 見ていなさい、
何かが起きるから!」

(ヤクートの神話の、舞台を変えて改作です。現代詩の危機って、ほんとうにあるのですね。)

ピアノ練習のあとで

高橋悠治

6月はアンサンブル・ノマドの練習とコンサートがあった 月末にはパラボリカ・ビスでの音楽と詩の交錯を語るイベントがあったが そのことはまたあとで

今年はピアノ演奏技術を維持するために バロックと自作やサティなどに限っていて ずっと離れていた20世紀西洋音楽とその後の多様化と分散の結果できた音楽を練習してみた

香港にいるアメリカの作曲家で 長年の友人だったポール・ズコフスキーを看取り 灰を海に撒いたクレイグ・ペプルズの作品は テッセラの「新しい耳」でソロを2曲彈き ジュリア・スーと2月に録音したが ニューヨークのズコフスキー追悼コンサートから ペプルズの2台のピアノのための「遊ぶサル」とストラヴィンスキーの「2台ピアノのソナタ」をノマドのプログラムに入れてもらった

ペプルズのアルゴリズムを使った作品の空白の多い 限られたピッチの組み合わせが変化するスタイルには興味をもっていた いわば唐詩的な側面でもあり ヨーゼフ・マティアス・ハウアーが易占で選んだ12音遊戯に近いかんじがする サルが果物を投げ交わす始まりの部分はともかく 拍の変化のなかでディジタルなパルスを感じつづけるのはなかなかできない 共演した稲垣聡や中川賢一にはなんでもないようなことでも 昔から音階やオクターブ奏法など 均等なものは苦手で 一柳慧の「ピアノメディア」は弾けず クセナキスの「エヴリアリ」はもう弾きたくないし 弾けないと思う 練習してよかったと思ったのは かなり低い椅子に座っても 鍵盤上の離れた位置に平行移動するのは可能だったこと 今年3月に演奏し録音もしたチャポーの「優しいマリア変奏曲」も もうすこしらくにできたかもしれない 今年はまだクセナキスの「アケア」をアルディッティたちと演奏する予定がある どうなることか

むかしクセナキスの「ヘルマ」やブーレーズの「第2ソナタ」を弾いていた頃は 超絶技巧とは反対のやりかた 制御能力を越えた状況で疲れ切ったときに 身体の緊張がゆるんで 自由にうごけるようになる それは古代ギリシャ語の最初に習うプラトン(ソクラテス)のことば「試練のない生は生きるに値しない」が指している身体技法だったと いまでは思えるが もうそういうやりかたはしない おなじに見えるもののわずかなちがいを感じられるように そのものではなく その表面と それを囲む空間の気象変化を感じて 風のままにただよう 不安定なままでいる自由のほうが好ましい 速度をぎりぎりにまで落として それができても おなじやりかたをくりかえさない それとおなじように 右手と左手は それぞれの指は ちがう時間でうごいていく

コンサートのプログラムに取り上げられた自分の昔の作品でも そういう試みはしていた 管楽器はタンギングをしない 弦楽器はコントロールしにくくなるまでに弓の毛をゆるめて 力を抜いた状態で弓の速度を変えながら弾いてみる すると抑えていた意識以前の身体内部の感触が透けて見える瞬間がある でも これにも慣れてしまうと 浮かび上がってきた異なる感覚もまた どこかへ沈んでしまう すこしずつやり方を変え 片足が沈まないうちに 別な足を出す そうして どこへいくのか