178 南残の人々

藤井貞和

せんらん(戦乱)の火を、『太平記』って、

たいへい(泰平)の世にむかう、それはそうだけど、

あいつは「なぜ」と問いながら、

南河内城に入市(にゅうし)する、五十年まえ、

フィールド・ワーク「太平記、なぜ」。

手にとる「じんのうしょうとうき」(大系本)は、

国粋主義でばっちいし、(二度は読むな)

声のかぎり、子供が求めて斃れた歴史。

最悪の現実が、夕日とともにやってきたのは、

とうぜんなんだ、などと言っていた南残の人々。

あざわらう武者のあずき色の小便を分析して、

求めたのは不眠の亡霊。 生まれ継いだ、

残狼の仔だったよな、死して守り、

波しぶく南残の城、ふたたびは見ず。

あいつは偽書のやみから噴き上げる純白の火を、

いとしいもののようにふたたび殺す

(一九七〇年代に消えたまぼろしの若者たち。第二の現代詩みたいな詩があるならば、哀悼したい。第二の廃墟を建てて、入市する。第二の靖国神社をぶっ建てて、かれらを祀る。)

仙台ネイティブのつぶやき(47)水に揺れる灯籠

西大立目祥子

 台風がきたら灯籠流しは中止だよ、と聞いていたのだけれど、幸い台風は日本海に抜け風もやんだ。オレンジ色の夕焼け空を背中に感じながら、仙台の街中から海に向かって車を走らせる。20分も走れば海。向かうのは仙台東端をなだらかなに縁取る海岸にあった荒浜という集落だ。

 “あった”と書いたのは、荒浜は東日本大震災の大津波で流され、もう住むことのできない場所になったから。震災後の8年半の間に、集落の人たちは慣れ親しんだ土地を離れ、少し内陸に家を立てたり借りたり災害公営住宅に入ったりして生活を再建している。

 それでも、荒浜の人たちからは、あきらめてこの地を去るというような後退とは一線を画するような頑張りを見せつけられてきた。漁師さんはいち早く自力で作業小屋を立てて漁を再開したし、訪れる人と交流し活動する拠点を自前でつくり上げた人もいれば、80歳を過ぎて、大きな被害を受けたこの地を写真に撮り続け砂浜で写真展を開く人もいる。震災間もないころ、仮設住宅の集会所を訪ねて入居している人たちから話を聞く活動を手伝ったときも、率先して参加し大きな声で話を聞かせてくれるのは荒浜の人たちだった。そのたびに、負けん気の強い浜っ子気質が火花を散らしているように感じたものだ。

 その荒浜で夜にお盆の灯籠流しが行われるという。震災後も休まず夕方の明るいうちに開催してきた灯篭流しが今年はいよいよかつてのように、集落を流れる貞山堀(ていざんぼり)で行われることになったのだった。

 住宅地を抜け荒浜に近づくと道路の両側には田んぼが広がる。いまの季節、少しずつ実が入ってくる稲は薄く黄色に染まり始めているように見え、農業が再開されていることが実感できるというのに、なんとなくひりひりするような痛いような感覚になるのはなぜなんだろう。目の裏に、がれきが散乱していた風景がよみがえってくるからだろうか。と、道路が急にせり上がってきて、いままで交差していた県道の上を高架で超えた。びっくり。来るたび、風景がつぎつぎと変わる。津波被害の跡地はまだまだ普請中なのだ。

 着くとあたりが暗くなり始めた。荒浜の人たちが屋上に逃げて命を拾い、いまは震災遺構として使われている旧荒浜小学校の校庭に車をとめて貞山掘に向かうと、知り合いに会って、声をかけたり声をかけられたり。地域のお盆はこういうものだったのかなぁと思う。灯籠流しで里帰りをした幼なじみに会って立ち話をしたりしたんだろう。

 闇に包まれていく堀には中に明かりを納めた色とりどりの灯篭が浮かんでいて、暗くなるほどその色が鮮やかに浮かび上がってくる。堀のわきのテントの中では、荒浜に暮らしていた年配の女性たちが休むことなく御詠歌を唱和している。荒浜では震災で200人近い人が命を落とした。残されたほとんどの人たちが、家族や親族や友人、長年つきあいのあった近所の人を失っているはずだ。暗闇の中に浮かび上がる灯篭を眺めていると、亡くなった人とつながっているという思いが強まってくる。

 ぼうっと灯篭を眺めている間にも、いろんな人に声をかけられる。いまいっしょに聞き書きの活動をしている若い友人、震災遺構で働くスタッフ、荒浜のために奔走する知人、漁師の娘さん‥あらためて考えると震災のあとに知り合いになった人が多い。こうしたつながりに、私の遠い日の荒浜の記憶が折り重なる。

 それは、まだ就学前の夏の思い出だ。荒浜の漁師さんの家の一間を借りて、父や母、弟、叔父や叔母、従兄弟たちと1週間ほどを過ごしたことがあった。なぜか子どものころは私も弟も病気ばかりしていて、見るに見かねた祖母が潮風にあたって海水浴でもすれば少しは丈夫になるだろうと、知人のつてを頼んで逗留させてくれる家を探したのだと思う。いまでいう民泊だ。仙台で海水浴場といえば荒浜なのだった。

 立ち代わり叔父叔母がやってきたのは、借りた部屋がせいぜい6畳くらいだったからだろう。前廊下にはプロパンのガスボンベや鍋が重なっていた記憶があるので、鍋釜や布団まで持ち込んだのかもしれない。水着に着替えて庭に飛び出すと、そこはもう海岸と同じように砂地で、松林をくぐりぬければすぐ海だった。たしか4つ5つ年上の男の子と私と同じ歳くらいの姉妹がいて、3人とも浜の子らしくよく日焼けしてたくましい体つきだった。それにくらべて私は…。幼いながら、白くてひょろひょろした体が恥ずかしかったことをはっきりと覚えている。

 そのころの荒浜はまだ漁も行われていて、砂浜には舳先のとがった伝統的な木造船が並んでいて、早朝、漁師さんたちが乗り込んで沖に定置網を引き上げに沖に向かうのだった。漁のようすがいまでも目に浮かぶのは、父が撮った写真が残っていたからかもしれない。海は波が荒かったけれど、子どもの腰くらいまでの深さのところまで入って足先を砂に潜らせると、カチンとぶつかるものがあって拾い上げると二枚貝だった。おもしろいように採れて、廊下の隅においたバケツいっぱいになった。あの大量の貝はおつゆにでもして食べたのだろうか。

 泊まっていた漁師さんの家の主はよく焼けた小太りの背の低いおじいさんで、近所の人たちは「爺やおんつぁん」とよんでいた。いよいよ引き上げるという日、家の人たちと座敷に座って、たぶんスイカか何かをごちそうになっていたときだと思う。英語の教師をしていた叔父が、壁に掛けてある表彰状のようなものを指差したずねたのはそれが英語で書かれていたからだろう。爺やおんつぁんが、進駐している米兵が海でおぼれかかったとき泳いで助け、そのお礼にもらったのだと答え、ここの海は波が荒くて押し戻されるから浜に対して斜めに向かってこないと戻れないのだと説明した。私は小太りのおじいさんが見事に抜き手を切ってアメリカの兵隊さんを助けるようすを想像してほれぼれした。

 後年、荒浜の民俗誌を読んでいて「爺や丸」という船があったことを知り、きっとあのおじいさんの船だ、と膝を打った。さらに震災後、地元の人たちに聞き書きをして、あの大量の貝はアサリではなく、「ナミノコ」だと教えられた。「爺やおんつぁん」という名前を出して、「なんであんたそんなこと知ってるんだ」と驚かれたこともある。その家は、亡くなったり荒浜を離れたりしてすでに震災前になかったことも教えられた。50年以上の時間を経て、子ども時代の荒浜の記憶に新しい記憶が上書きされていくおもしろさと不思議さ。本編はとうに終わっていたかと思っていたら、いつまでも続編が続く。

 灯籠はゆらゆらと水に揺れている。家族連れも多く、あちらこちらからあいさつの声が聞こえる。静かに堀を眺める人もいる。7時20分を過ぎたころ、マイクで「今日はありがとうございます」とあいさつがあった。高山君の声だ。彼は荒浜出身ではないのに、荒浜への思い厚くここで活動を続けていまは震災遺構で働いている。「荒浜はもうだれも住めない場所になってしまったけれど、こうやって集うことはできます」。彼はいつもまっすぐなことばを繰り出してくる。途中で声が変わり、「これから花火を上げます。集まってくれた人たちのためにどうしても上げたくて」というこれまたまっすぐなアナウンス。震災後、この地に思いを持つ若い人がつぎつぎと集まって、この土地と人をつなぐ活動を続けている。だれもが本気で真剣だ。

 やがて数発の花火が上がり、胸の中にあたたかいものがわっと広がった。ほんの一瞬の花火。でも集う人たちがこんなにも同じ思いで見上げる花火はそうないかもしれない。

 負けん気の荒浜の人たちは空っぽになったこの土地から思い出を引き出そうとし、まっすぐなよそ者はそこに新しい物語を描こうとしている。どちらも、きっと、人はそう簡単に住んでいる場所を変えられない、と信じているのだ。宙づりになったこの土地がどうなっていくのかを、私もだらだらと続編を加えながら見届けたい。

ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~

冨岡三智

実は、『水牛のように』2006年3月号~5月号に「ここ10年のインドネシアと日本」と題して、スハルト時代の役所の習慣やら、電話やインターネットの事情やらについて書いた(バックナンバーには未収録)。ところが、それから10年あまりが過ぎて、もはや2006年に書いたことすら古くなってしまった。いつか、この駄文が風俗資料になるかもしれないと思いつつ、ここに30年間の変化を書き留めておこう。

1996年3月にインドネシアに留学するに当たり、私は初めてハンディカムのビデオカメラを記録用に買った。確か当時は20万円近くしたが、留学だからと奮発した。それはHi8という8ミリの上位機種で、アナログ式。SPモードで120分のテープに録画する。現在のデジタル画像に慣れた目で見ると、画質の差はいかんともしがたい。が、問題は記録があるかないかなのだ。70年代と80年代の調査記録を基に書かれた海外の舞踊研究書の序文に、80年代半ばに一般用8ミリビデオが発売されて研究が大いに進展したと書いてあったことが強く記憶に残っている。それまで舞踊研究に使われてきた資料といえば、伴奏音楽の録音、舞台写真、舞踊譜(動きを専門用語で書き留めたもの)、フォーメーション図(移動方向や向きを図で表したもの)しかなかった。これらの方法を併用しても動きを言葉で説明するには限界があり、しかも、その記録を基に動きを想像し再現することができるのはその舞踊の経験者だけだ。未経験者には無理なのである。しかし、映像なら未経験者でもどんな動きの舞踊かを知ることができる。そんなわけで、80年代の一般用ビデオの発売は舞踊研究において画期的な出来事だったと思う。

2000年2月、私は古いHi8カメラを携えてインドネシアに再留学した。が、4月以降に新しく留学してきた人たちが持ってきたのはデジタルのビデオカメラ。ちなみに、その人たちは写真カメラもデジタルだった。2000年頃を境に世はアナログからデジタルに移行しようとしていた。アナログ・データをダビングするには元データと同じだけ時間がかかるが、デジタルならすぐに複製でき、編集もできてしまう。画質以上に、この複製編集の手軽さこそがデジタル化の本質だ。

youtubeの設立は2005年らしい。私の周囲では2007~08年前後からyoutubeやfacebookなどに映像をまめにアップする人たちが増えたように感じる。たぶん、編集用コンピュータの容量増加やスマホの登場(2007年)も影響しているだろう。一方、Hi8時代―つまり1980~90年代―の記録は、デジタル変換されなければ存在しないも同然になってしまう。再生機もすでに製造中止になっているのだから。私は2005年頃に自分が記録したHi8映像の多くをDVD化したが、まだの分も少なくない。私より少し古い世代の人たちの記録なら世代ごと忘れられてしまう可能性もあるように感じる。デジタル時代の人たちがHi8時代の人たちより活躍しているというわけではないのだ。デジタル格差とは、インターネット等の技術を利用できる者と利用できない者との間にもたらされる格差のことを言うが、このように世代による記録情報の残り方の格差は含まないのだろうか。

アジアのごはん(99)ビルマの豆いろり

森下ヒバリ

ビルマ(ミャンマー)のシャン州、インレー湖のほとりの町ニャウンシュエに来ている。4月からずっと忙しかったので、この小さな町でゆっくりしているところ。毎日のんびりと町を歩き、市場に顔を出す。日本でのあれこれやることばかりの忙しい毎日がうそのように、こちらの人は仕事も用事もゆっくりだ。毎日スコールがあり、決まってしばらく停電するので、忙しくしてもしかたがないのだけれど。

さて、先日ニャウンシュエの市場で、名前だけ知っていた豆の調味料「ポンイェージー」を見つけたのである。このポンイェージーとは、豆の茹で汁を煮詰めてペースト状にしたものだ。ビルマでは納豆を主にホースグラムという大豆によく似た小さな豆から作るが、そのホースグラムの茹で汁から作られるという。

じつは万葉の時代から日本にも同じようなものがあったらしく、それは「いろり」と呼ばれ、大豆の煮汁で作るものとカツオの煮汁で作るものとがあったらしい。大豆は味噌やひしおを作る時の煮汁の利用で、カツオもカツオ節を作る時に出る煮汁を利用したものだ。もっとも、現代でもそのいろりが豆にしてもカツオにしても作られているという話は聞かない。

市場で友人がかごを物色しているのを待っていたら、ちょっと先でおばちゃんが二人、小さなビニール袋に入れた茶色いものを4袋並べて売っていた。「それ、ペー・ポウ(納豆)?」と尋ねると、おばちゃんが「ポンイェージー」と答えた、ような気がした。「え、ポンイェージー?」うなずく二人。豆天国のようなシャン州で、乾燥や生の納豆、炒り豆、豆の発酵ペースト・ペーパチンなどには常にお目にかかっているのだが、平安時代の日本でも食されていたという「豆いろり」に遭遇したのは初めてである。こういうものがビルマにあるらしい、という情報しかなくそれがどんな形なのか、色なのかも分からないので、なかなか探すのはむずかしい。ビルマ語もほとんどできないし。

さっそく入手したそれは、茶色い水分少な目のペースト。なめてみると・・豆の煮汁を煮詰めたような味。味噌ほどのコクはない。しかし、乳酸発酵しているような酸味が少しある。どんなにおいしい調味料だろうと期待していた分、肩透かしな気分だが、しかし日本でもいろりはあくまで出しの素のような存在であったらしいので、こんなものかもしれない。

こちらではどのように食べるのか、英語の上手な宿のおかみのマ・トゥイに聞いてみた。「ポンイェージーはねえ、うちではポークや魚のカレーの仕上げに水でちょっと溶いてスプーン一杯ぐらい入れる。最後にね。おいしくなるのよ」「あとは、ポンイェージーの和え物もあるわね。ポンイェージーに玉ねぎスライス、香菜、チリ、ライム汁、ピーナツ油、塩を混ぜ合わせる。好みで生ニンニクのスライスを入れてもいい」「今日は昼にシャンカオスエ(シャン族風米麺)を作ってあげるから、ポンイェージーの和え物も作ってあげる」朝食付きの宿なのに、いつも朝食を食べないわたしと連れになんとかして色々物を食べさせようとするマ・トゥイだが、ついに朝はあきらめたらしく、朝ごはんの代わりに昼ご飯を食べさせてくれるという。なんて親切なんだ。

「ポンイェージーはどの豆で作るの?」「ペー・ポウ・シッだと思うけど。ソイビーンよ。ビルマのソイ・ビーンはすごく小さいのと中くらいのと大きいのとあってね。一番小さいやつよ」「ペー・ピザ、ホースグラムじゃないの?」「それ何? う〜ん、よく分からない。もともとポンイェージーはバガン地方の特産だから自分では作らないし」

シャン州の市場で何度もホースグラムの生の豆を探しているのだが、どういうわけか見つけられていない。市場で売られている生の納豆で使われているのは、どう見ても小粒大豆ではない小さな平たい豆だ。市場の納豆で使われている豆の名前を聞いても、やはりみんな「ペー・ポウ・シッ」と答える。納豆のビルマ語が「ペー・ポウ」で、「ペー・ポウ・シッ」とは大豆、ソイビーンと訳されるが、直訳すれば「納豆の豆」という意味である。

どうやら、シャン州の人々はホースグラムを小粒大豆の一種としているようなのだ。種類としては全く違う系統の豆なのだが、納豆を作る豆ということで、小粒大豆も使うし、区別する意味がないのかもしれない。

マ・トゥイが作ってくれたポンイェージーの和え物は、予測を裏切って、ポンイェージーがメインで食べる味噌、みたいなものであった。麺もあるのに白ごはんも出してくれて、「ごはんと一緒に食べるのよ」と。味は、う〜ん、さっぱりした付け味噌みたいな・・。おいしいような気がする・・。あると、ごはんがすすむかな。

豆の煮汁、というのはじつはけっこういい出しになる。豆をよく食べるようになってから、それまで圧力鍋で煮ていたひよこ豆や花豆などを普通の鍋で煮るようになった。ひと晩水に漬けておけば、普通の鍋でもひよこ豆なら15分ぐらいで、青大豆なら7分もあれば歯ごたえを残していい感じに茹でられる。普通の鍋の方が、歯ごたえを残した茹で加減をするのが簡単なのに、いまさら気が付いたというわけ。

そして、圧力鍋で茹でた後の煮汁は苦みが出たりするのだが、普通の鍋でことこと煮ると、煮汁もおいしい。南インドのラッサムというタマリンドで酸味を付けたカレースープも豆を茹でたあとの煮汁を使って作るが、日本の家庭料理のカレーやスープの出しとして使える。大豆やひよこ豆の煮汁はタンパク質が多いので、泡だて器でかき混ぜると卵白代わりにメレンゲを作ることさえできるのである。手動でかき混ぜるのはかなり大変だが、ハンドブレンダ—で濃いめの煮汁をかき混ぜてみれば、えっと驚く変化である。ベジタリンの方には砂糖を加えてオーブンで焼けばメレンゲにもなるし、卵白代わりにシフォンケーキだって出来るはずである。

豆の煮汁をいろいろ活用するときに気を付けたいのは、豆を茹でる前にひと晩漬けて置いた水は捨て、新しい水で茹でることである。生の豆には動物の消化を阻害する毒成分が含まれていて、動物に食べられるのを防いでいる。水に浸って発芽の準備を始めると、この毒成分は水分中に溶け出ていくので、その水は必ず捨てることである。

ポンイェージーのように豆の煮汁をとことん煮詰めなくても、豆を茹でたあとの煮汁を使って、みそ汁でもカレーでも作ればけっこうおいしくできてしまうので、ぜひお試しください。

もうしばらくしたら、この町ともお別れだが、帰る前にたくさんの炒り豆と乾燥豆を買って帰ろう。直径7ミリぐらいの小さなひよこ豆の炒り豆が一番のお気に入りだ。

向こう岸

植松眞人

 吹く風がもう秋ではないと告げている。

 恭平が握った石も川風に表面から熱を奪われ、真昼の太陽にさらされたとは思えないくらいに冷たかった。

「辛いことがあれば石を投げろ」

 そう教えてくれたのは祖父の達明だった。達明は若い頃ボクシングをやっていて、一度は軽量級世界チャンピオンの挑戦者として取り沙汰されたことがあったそうだ。

「場末の小さなジムでいくら頑張っても、大きなジムには叶わへんのや」

 達明は理不尽な大手ジムのやり口に負けて、チャンピオンに挑戦することすらできなかったのだと笑う。ただ、息子の達也、つまり、恭平の父親に言わせれば、そもそもそれほど強くはなかったとのことだ。

「その証拠に、一度、駅前の飲み屋街でチンピラに絡まれたとき、すんまへん、すんまへんとずっと謝ってたんや」

 達也は達明の通夜の席でも楽しそうにその話を披露したが、祖母のめぐみはそんな達也にこれまで見たことのない形相で、

「あのな、お父さんは、あんたがまだ小さかったから、謝るしかなかったんや。警察沙汰になったらライセンス剥奪やし、なにより、あんたが怪我でもしたらと思いはったんや。そんなこともわからんのかっ!」

 と達也を弔問客の面前で叱りつけた。涙を流しながら達也をにらみつけていた祖母のことを小学校にあがったばかりだった恭平は忘れられないのだった。

 達明が逝ってしまってからもう三年が経った。気がついたときには手遅れと言われ、本人も周囲もあれよあれよという間に、達明は言ってしまった。めぐみも達明の後を追うようにちょうど一年後に逝った。

 二人が亡くなってしまうと、なぜか父の達也は急に防波堤をなくしてかのように人生の荒波を正面から被るようになってしまった。まず、達也の勤め先が事業の失敗で大規模なリストラを敢行した。社員に責任はなく、自社製品の検査結果隠蔽という上層部の体質の露呈ではあったが、そこそこの大手企業だったために、会社を倒さないように官庁が手を差しのべ、結果、末端の社員をリストラすることで事なきを得たのである。

 会社から振り落とされるような形で無職となった達也はなぜか立ち直ることが出来ず、絵に描いたような堕ち方をした。酒を適量以上に飲み、母にあたり、恭平にあたった。母は母で、酒臭い達也と顔を合わせるのが嫌で、パートが終わってもパート先の若い仲間と遊んでくることが多くなった。

 小学校三年生だった恭平は、父と母が急速に自分に感心をなくしていくのを感じてはいた。しかし、祖父が亡くなった時のショックに比べれば、父と母から心が離れていくことなど、小さなことだと思えた。そして、もしかしたら、祖父の達明が亡くなったときに、自分たち家族はもう壊れて閉まったのではないかと思うようになった。

 恭平は学校にいる間、授業に集中した。授業中の先生の言葉をじっと聞いていると、父と母のことをすっかり忘れることができた。そして、それだけではなく、あらゆる先生の言葉の間から、祖父の言葉が顔をのぞかせる瞬間があることに気付いたのだった。

 例えば、国語の先生が、この詩の語尾が揃っているのは韻を踏んでいるというのだ、ということを教えてくれると、ふいに達明の声で、そうや、韻を踏んでいるからこそこの詩はきれいなんや、きれいやという以外に詩には意味なんかないんや、と語りかけてくるのだった。例えば、音楽の先生が、ビバルディの四季を聴かせ、春の温かな風がいかに素晴らしいかを説明し、夏の躍動感がいかに旋律に置き換えられているかを説明していると、達明の声は、つらい春かて、死にたなる夏かてある、だまされたらあかんぞ、と囁くのだ。

 何をしていても、ふとした瞬間に祖父の声が聞こえるような気がした。特に河原で石を投げているときは、実際に祖父が横に立っているかのように、祖父の声が聞こえた。もしかしたら、実際にいたのかもしれない。一度、恭平は自分の立っているすぐそばの河原の石が、誰かに蹴られたように、川の中に飛んでいくのを見たことあった。

 恭平が初めての達明にここに連れて来られたのは、小学校に上がる少し前だった。恭平には大きな川に見えた。近所の二級河川で、普段の川幅は二十メートルほどだったろうか。両岸の河原が広く、大雨が降ると川幅は倍ほどに広がって見えた。その河原に立って、達明は向こう岸に石を投げた。達明の投げる石は、まっすぐに向こう岸に着いた。大きく弧を描くのではなく、石はまっすぐに一直線に向こう岸に着いた。水面の何十センチか上をまっすぐに、一度も水面にバウンドすることなく向こう岸に届く。恭平も真似をして投げるのだが、石は高く空に向かい、しかも川の真ん中あたりに落ちる。川の流れる音に消されて石が落ちる音さえ聞こえない。ただ、石が川の真ん中に落ちる度に、達明の笑い声が響いた。

 いま思うと、達明の投石のフォームは独特だった。ボクシングをやっていたからだろうか。振りかぶるのではなく、アンダースローのような低い姿勢から、まっすぐに拳を突き出すように投げる。恭平も最初の内は真似をしていたのだが、同じ投げ方では、まったく石は飛ばなかった。

 それでも、毎日のように河原に出かけ、手頃な石を見つけ、向こう岸に向かって投げていると、知らず知らず距離は伸びた。向こう岸には届かなかったが、石は川の真ん中あたりにまで届くようになり、少しずつ向こう岸に近づいていた。

 石を投げ出して半年ほどした頃だろうか。母親が風呂上がりの恭平を見て、悲鳴を上げた。

「あんた、右の肩だけパンパンやないか」

 実際に鏡に映して見ると、ひと目で分かるほどに右肩と左肩の大きさが違っていた。祖父と恭平が河原で何をしているのか知っていた母は、義理の父である達明に、

「こんなことさせてたら、恭平がかたわになってしまうわ」

 と泣きそうになりながら訴えた。

「わかった。もう石は投げさせん」

 そう言った達明だったが、その晩、恭平の部屋にやってきて寝ている恭平に声をかけた。

「こんなことでかたわになんぞならん。それに、肩を壊すからといってやめれるもんなら、最初から誰も石なんぞなげん。どうする。もうやめるのか。投げるのか」

 達明はそう恭平に迫った。達明がなぜそんなことを言うのか、わからなかった恭平は怖くなり寝たふりをしていた。

「寝たふりをするのは卑怯や。どうする、明日も投げるのか。投げんのか」

 恭平は、祖父から顔を背けたまま、投げる、と小さな声で答えた。

 翌日、母がパートに出かけるとすぐに、達明と恭平は河原へと出かけた。昨日のことなど何もなかったかのように、ごく普通にいつもの河原へ出かけ、いつものように石を拾い、いつものように全力で石を投げた。昨日と同じように石は川の真ん中あたりに落ちた。こんなことを続けていても、石は向こう岸に届かないと恭平は思った。すると、そんな恭平の思いを見透かしたかのように、達明は言った。

「お前はもう投げんでええ」

 なぜ、急に達明がそんなことを言うのか、恭平にはわからなかった。

「いやや、まだ投げる。向こう岸に届くまで投げる」

 恭平が言うと、達明は首を横に振った。

 その翌日から達明は恭平を河原へと誘わなくなった。恭平は一人で河原へ出かけるようになった。母親から毎日風呂に入る時に監視されているような気がして、右で十回石を投げたら、左でも十回石を投げた。両方の肩に同じくらい筋肉を付けていれば、河原で石を投げていることがばれないと思ったのだ。

 来る日も来る日も恭平は河原へ行き、向こう岸に石を投げた。友だちに誘われ公園で遊んだ日も、帰り道に河原へ立ち寄った。最初の日、空に向かった弧を描き、川の真ん中に落ちていた石は水平に飛ぶようになった。しかし、まだ向こう岸には届かない。焦りは無かった。繰り返し投げていればいつか石は向こう岸に届くという確信があった。恭平のなかには、石を投げている、という気持ちよりも、向こう岸を見つめているという気持ちのほうが強かった。向こう岸を見つめている間に、いつか石は届くようになる。恭平はそう思っていた。

 達明があっという間に逝ってしまってからも恭平は毎日河原に立った。達明が亡くなった日、恭平は父と母に連れられて、病室へと入った。祖母のめぐみは達明の手の甲をさすりながら、呆然とした表情で恭平を見た。笑いかけることも出来ず、恭平はめぐみを見た。めぐみは恭平の顔を見たまま、ほら恭平がきてくれたよ、と達明に呼びかけた。達明は力なく笑ったように見えた。そして、微かにまぶたを意図的に細めて見せた。手や他の部分を動かしたくても動かせない達明が懸命に恭平に呼びかけているのだとわかった。

 恭平は達明のそばに行くと、祖母と入れ替わり、達明の手の甲に自分の手を重ねた。すると、達明は顔を恭平のほうへと向け、小さな声で囁いたのだ。

「まだ、投げてるのか」

 恭平はうなずいた。

「投げてる。まだ投げてる」

 そう言ってから、母の顔を見た。母は涙を流しているだけで、恭平のほうを見ることはなかった。すると、達明は続けて言ったのだった。途切れ途切れの声でこう言ったのだった。

「辛い…ことが…あれば…石を…投げろ」

 なぜなのか、恭平にはわからなかった。けれど、恭平はうなずき続けた。そして、達明の手を握り続けた。

 達明はいったん眠りに落ちた。恭平は母と一緒に家に帰った。病室に残った父と祖母から連絡が入ったのは明け方だったらしい。恭平が達明の死を知らされたのは、翌日学校から帰ってからだった。

 その日もお通夜が始まるまでの間、恭平は河原で石を投げた。

 あれから三年、河原へ通い続けた。毎日同じ場所で石を投げるので、河原のその場所は草が生えなくなっていた。まるでピッチャーマウンドのように黒い土が円形に見える。その真ん中に立って、恭平は今日も石を投げている。

 今日は風が全くない。こんな日は気持ちが乗りにくい。追い風があれば、飛距離が伸びそうだし、向かい風があれば負けん気で力を込めそれだけで力が発揮できそうな気がする。しかし、今日は風がないのだ。

 こんな風のない日に、恭平はいつも以上に祖父の存在を感じていた。そして、祖父が亡くなって三年がたった今、そろそろ向こう岸に石が届くだろうという予感を感じていた。それがもしかしたら今日なのかもしれない。そう思いながら、恭平は淡々と石を選び石を投げた。あと、少し、後もう少し。石を投げる恭平の耳元に祖父の声が届いた。

「辛いことがあれば石を投げろ」

 この言葉を聞いたのは達明が亡くなった日、以来だった。いちばん思い出していた言葉ではあったが、祖父を感じ、直接その言葉を聞いたのは今日が初めてだった。そして、その言葉を聞いた瞬間に、石を投げかけていた恭平は小さく叫んだ。そして、もしかしたら、自分は間違っていたのかもしれない、と思ったのだ。毎日毎日石を投げるのではなく、辛いことがあったときにだけ、石を投げるのだと祖父は自分に言いたかったのではないのか、と。中学一年になった恭平はそう思い、投げかけた石に思いっきり力を込めた。いつも以上に、肩は身体の後ろに引かれた。歩幅も大きく広がり、恭平は身体が引き裂かれるのではないかと思った。限界まで引かれた右の腕がぐいっと前に回り、今度は限界にまで伸びた。その時、バチッと大きな音がした。すべての動きがストップモーションになった。石は目の前の川面に力一杯投げ込まれ、水しぶきを上げて沈んだ。風が吹き、草が揺れ、同時に、石によってたたき上げられた川面の水滴が恭平の顔に飛んできた。静止画のように動きを封じられながら、冷たいな、と恭平は思った。そして、過ぎの瞬間、信じがたい激痛が走り、恭平はその場に倒れ込んだ。(了)

製本かい摘みましては(148)

四釜裕子

背がある薄い本が好き。薄ければ薄いほど、なお。参加している同人誌「gui」はわりとずっとそのタイプで、直近の117号は90ページの厚さ5ミリだった。昨今薄くなってきた事情はさておいて、好みで言えばいい感じ。厚さ6ミリ(64ページ)だった1979年3月の創刊号を抜いたことになる。棚に並べたのをざっと見るに、2003年12月の70号あたりがいちばん厚そうだ。抜いて定規をあてると13ミリ、246ページだった。巻頭は飯田隆昭さんの翻訳でウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「あの医師はどう生きたのか」。この連載はのちに『オールド・ドクター ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ短編集成』(国書刊行会)になった。この号では他に、田口哲也「ロンドン日記」、遠藤瓔子「タンゴ・口には出せず」、岩田和彦「気まぐれ読書ノート」、山口眞理子「深川日誌」、吉田仁「千駄ヶ谷」、藤瀬恭子「ノストスからコスモスへ  H.Dの『ザ・ギフト』と黒マリアの発見」、奥成達「アイ・ガット・リズム 北園克衛『郷土詩論』を読む」、森千春「ふとんづくり」、奥成繁「麦粒腫の赤トンボとヘン」、殿岡秀秋「なぞなぞ」、中村恵「さおちんにゃんにゃん」、中津川洋「夏みかん」と、短いものを詩と言うなら詩ではないものの勢いがすごい。

飯田先生は今年5月に亡くなった。着替え持参の真夏の発送地獄から救ってくださったのは先生だった。イベントでも宴席でもいつもチャーミングでダンディだった。近田春夫さんが先生のことを書いた『僕の読書感想文』(2008 国書刊行会)を読み直した。『家庭画報』での連載「僕の読書感想文」をまとめたもので、1999年11月号で、飯田隆昭訳、トム・ウルフ『クール・クール LSD交感テスト』(太陽社)を取り上げている。〈私にとって飯田隆昭は特別な存在〉、先生訳のP・K・ディックは、〈翻訳を超えてすぐれたディック論だった〉。〈端正さに欠ける翻訳文が、逆にストーリーの奥にある作家そのものの持つ命のようなものをあぶり出してみせてくれた〉。〈ディックはプロットやストーリーではない。そこににじむ、ディックそのものの人間の面白さが価値なのだ、と教えてくれたのが飯田隆昭だった〉。飯田先生そのものの面白さが思い出される。「gui」のアイドルのような方だったと感じる。

さて創刊号を改めて開くと、背固め用接着剤がノドからはみ出て黄変している。糸かがりで、かがり穴は6つ。と思いきや、天ぎりぎりのところに糸の通っていない7つ目の穴がある。天地182ミリ。7つ目のこの穴をどう考えればいいのだろう。など思いつつページをめくると、高橋昭八郎さんの「穴」という作品がある。ページ中央に「■   これは穴である」。めくると「■  これは前ページより、正確には〇・〇一ミリ大きくなった穴である」。隣のページに「■  これは、さらに〇・〇一ミリひろがった空っぽの穴である」。さらにめくると「■  このようにして、穴がしだいにページを繰るにしたがって大きくなり、<本>のページを全面食いちぎって空へ出ていくときの、穴の面と最後の一ページの境界線について考える   穴」。筒である自分の体が内側からめくれていき今にも完全に引っくり返らんとする瞬間に目が覚めるという悪夢の一つが久しぶりに後頭部にわいたが、もう怖くなくなっていることが今分かってさみしい。

菊池肇さんの個人誌「drill」も薄い。こちらは表紙を含めて20ページの中綴じで、天地182ミリの2箇所を小さなホッチキスで留めてあるから穴は4つ。その4号(2019.7)に声を掛けていただいて、漠然と考えていた「刺繍詩」を書かせてもらうことにした。布表紙でハードカバー製本するときに本のタイトルを刺繍することがあって、布の表に行儀よく現れる文字に対して裏側はぐちゃぐちゃになる。刺繍はそうなるものだけれど、この場合、表紙の芯にするボール紙に布をぴったり貼り付けるので裏のモコモコが表に響くため、できるだけ無駄のない針運びを考える。あくまで「できるだけ」であって、そういうのはプロの製本家にはできないことだろう。だんだんシンプルになってくると、意味深な匂いもしてくる。表側の文字からは想像できない線が裏側に現れて、布をはさんだひとつの文字の、単純に表と裏とも言いがたい。

布を紙に換えて針で刺して糸で文字を描いてみる。表に現れた文字だけ消した状態にして、「ししゅうドリル」とタイトルして菊池さんに送った。数日後、刷り上がった「drill」4号をいただいて、その中の一冊に糸を使ってドリルした。一枚の紙の表から裏から。偶数ページで意味ありげに佇むラインを手がかりに(つまり裏が表になって)、糸を通した針をポチポチズブズブ刺していく。紙に折り山がつかぬよう、できるだけ丁寧に。元・表(=現在・裏)の奇数ページに気取った文字が現れる。おまかせなのさ。忌々しいやつめ!(貴方そのものが嫌いなわけじゃなくってよ)。「drill」という会場の「めくる」舞台で、忌々しさに針を向けた刺繍詩です。

かがみよかがみ

北村周一

画板胸にかかえて子らは中庭に わたり廊下のしずかなことも

限りなく平らかなるをかげとよび絵ふでにひろう繋がり止まず

きず痕のひとつひとつをしずめゆくごとき感触ふでさきにあり

絵画とは洋画のことか、ふる雨に額アジサイのさし木はぬれる

いまいちど絵をかけなおす初個展 壁にぴーんと糸張らしめて

芳名簿白紙いちまいとび越してサインしてありさくら五分咲き

アトリエの水場に老いし蜘蛛ひとつ餓死を選べり巣より零れて

描きなおすたびに消えゆく自画像のふたつ眼がわれをみかえす

ななめ左向いてなに待つ手鏡のなかの鼻さき 絵ふで手にして

かさねゆく絵の具のあつみ鼻さきは かがみよかがみ線描の的

喘ぎつつジャコメッティが口走る 鼻さきがすべて最もちかい

どこまでが顔なのかなと触れている 耳のましたの顎のつけ根

ここからは画家の領分かがみとの寂しき距離をつめつつ描くは

湯上がりの腰にタオルを巻きながら十字切るごと拭うすがた見

なぜかしらん無性に腹に据えかねて鏡をみがく身の透けるまで

人間の尊厳(下)

イリナ・グリゴレ

革命が起きた頃、団地のすぐそばに工事現場があった。大きな穴が掘ってあり、新しい建物が立つ予定だった。革命のカオスの中で全国すべての建設計画が中止された。私たちが住んでいた団地の前の穴はとりわけ大きく、まるでクレーターのようで、近所の子供たちの基地になった。私たち子供は穴の中に降りる道を作って大人の世界から離れようとした。穴の底は草のジャングルになっていて、雨が降った時は泥でぬかるみ、夢中で遊べる隠れ家として最適だった。あまりに大きい穴だったので、子供たちはその一角しか使わず、あとは草と虫、蛇と蛙の世界として皆いじらなかった。

別の話もあった。あそこで子供が一人か二人死んだというのだ。クレーターに下りて遊んでいた子供が、壁に横穴を掘って遊んでいたところ、上から壁が落ちて下敷きになった。これを目撃した大人たちが助けようと土を掘っても見つからず、結局どこの家の子かも分からずじまいだったという。

この話を聞いたときから、私はずっとその子の事を考えるようになった。すると空気が以前より吸いにくくなった。その「間―魔(ま)」のことが理解できなかったのだ。それに巻き込まれると、もう二度とそこから出ることができない。ゲームのような様々な宇宙の力の関係がぶつかり合う中、一番方向性の分からない瞬間なのだ。違う時空間があって、それを悪魔が歩いている時間と名付けた。子供しか感じない、あの違和感、あの熱い空気と煙のようなものが流れる瞬間。その時まで、私はなぜか子供が不死身の存在だと思い込んでいたのだ。しかしこのときから、悪魔が歩いている時間を身体で感じた。何者かに狙われている感じもする。あの子と私の身体が重なり、恐怖と危険を感じた。次は私ではないかと毎日思い悩んだ。

父が暴れて身体が固まった時も、悪魔が歩いてくる予感がした。きっと、虫のように身体を固めて、死んだふりをしていたのかも知れない。田舎で虫を観察して覚えた技だったのかも。父の性癖が治ったころ、私の身体も自然と普通の柔らかさに戻っていたが、あのときからどうも私と世界の間にずっと巨大なクレーターがあるような感じは消えなかった。

あのとき、暗い団地に住んでいた私たち家族の身体は苦しかった。自然から閉ざされた空間の中で、生きる苦しさが様々な表現を取りながら悲劇に変わっていった。田舎からやってきた私の身体は、すぐに様々な場面で恥を感じはじめた。学校では、他の子供たちと比べて自分の体が汚いと思い、こうして自分を他人と比べることを、知らないうちに覚えた。

当初の団地にはなぜか給湯設備がなく、田舎と同じようにお湯を沸かさなければならなかった。思い余った父は、ある厳寒の夜こっそり集中暖房のボイラーの栓を抜いて熱湯を取り、風呂を沸かした。そのお湯は赤錆にまみれ、どうしようもないほど汚い色をしていた。こんな汚水でどうやって身体を洗うのか疑問に思ったが、せっかくそこまでしてくれた父に対して文句が言えなかった。

これが社会主義の作図による、共同団地という幸せの図なのだった。寒い団地の部屋で、風呂から上がった肌には茶色い汚れが付き、耳の下にはっきりと見えるほどだった。でもこれはただの錆だと自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。その後も長く、世界は穴と錆にしか見えなかった。悪魔が歩いていた「間」が増えるばかりだった。あのときの私の身体が自然からむりやり取り出されて、一つの実験場に置かれた。

もう一度いうが、社会主義とは、宗教とアートを社会から抜き取ったとき、人間の身体がどうやって生きていくのか、という実験だったとしか思えない。あの中で生まれた、私みたいなただの子供の身体がなにを感じながら育っていったのか。それは、言葉と身体の感覚を失う毎日だった。高校生になったある日、急に話せなくなったことがあった。一生をかけてその言葉と身体を取り戻すことがこれからの私の目標だ。

小学校に上がったとき、突然白服を着ている数人が体育館にやってきて、私たちの服を脱がせ、一列に並ばせて検診をした記憶がある。白い服を着た人たちは、私たちの体を細かく視ていったが、そのときクラスで一番体の小さな男の子の表情が、石のように固まった私の体に響いた。あの男の子は骨が見えるぐらい痩せ、下着はすごく汚く、クラスで一番弱い存在だった。勉強もあまりできなかった。そして、彼はあのとき泣き始めた。泣いたのは彼だけだった。その彼の顔はすごく優しく、目は大きく、髪の毛はすでに白く見えた。あの、裸になった彼の泣き顔を忘れられない。声もなく、ただただ立ったまま静かに泣いていた。いまの私にとっては、その姿はそのまま人間の尊厳について考えさせるものだ。

ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を最後まで書き切れなかったことが残念だ。社会主義でもなく、資本主義でもない世界があるとすれば、そこはどんな世界だろう。人の身体が商品にならない日がきっとやってくる。

身体は社会的な支配装置から出ることができるのか、といまだに問い続ける。あの暗い団地の廊下で、バレエの夢は完全に失われた。この身体はずっと踊りを探し続けてきた気がする。シュルレアリスムはまだ始まったばかりだと感じることがある。

(「図書」2016年11月号)

八月

笠井瑞丈

8月から9月になる時が一番好きだ
夏から秋への境界線を跨ぐ感じがする

8月から色々な新しい事が動き出す
その三つについて書こうと思う

1.『ダンスの学校』の制作

以前は 

言ってももう10年以上前

笠井叡が続けていたダンスクラスを
『ダンスの学校』という名称で再開

月2回 
1年間24回のプログラム
オープンクラスではなく
固定のメンバーで一年
カラダを見つめる時間

今はオープンクラスが主流になっている時代
あえて固定メンバーの学校スタイルで行う

叡さんがもっともっと
ダンスの未来を拓けた世界に
という思いから行う学校

二人で色々構造を膨らませ
初めて開校する学校

カラダに新しい芽を

2.『ダンス現在』笠井叡特別公演3公演プロデュース

現在
昨日でもなく
明日でもなく
さっきでもなく
あっとでもなく
イマ

それは捕える事のできない
瞬間 
瞬間

ダンスが伝えられることは
瞬間
瞬間

現在進行形であるところが好きだ

「カラダは年老いることはなく
常に成長し続ける
昨日のカラダ
より
今日のカラダ
そして
明日のカラダ

そしていつかくる死を受け入れる

それだけです」

これは以前
勅使川原三郎さんがおしゃっていた言葉

第一回目の特別公演を見終えて
その言葉がフッと頭に蘇った

3.『ダンス現在』小暮香帆との新作duo

久しぶり小暮香帆さんとのduo

『カラダの庭』

一つのシュチュエーション
それは常に変化し続けていく

そのシュチュエーションの中
カラダはどのように溶けていくのか

そのようなことに挑戦した

カラダの中には
四つの庭がある

春の庭
夏の庭
秋の庭
冬の庭

四つの庭の中で二人は遊ぶ

シューベルトの『冬の旅』
初めて踊ってみた

追い出されてシリアにたどり着く

さとうまき

自分でも訳が分からないままことは進んでいく。15年以上イラクにかかわってきたが、終わりは突然やってきた。「潔くやめてほしい」と言われれば、はいそうですかという以外の選択肢はないのがサラリーマンの世界だ。それで25年ぶりにシリアに戻ることにした。それで当時のことを思い出してみたのだ。

私が働いていたのは工業省の工業試験研究所というところだ。車はダマスカス市内を通りすぎて石灰質の荒れた土地へ入る。右へ曲がればベイルートへ通じている。私たちの車は左へ曲がる。その道はベイルート街道とは裏腹でセンターラインも引かれておらず、車の運転には全く秩序がなかった。乱暴な運転手は対向車を見つけると、クラクションをならして車をよけていく。右手には軍の飛行場が広がっており、入り口では、だらしのない私服を着た兵隊が警備に当たっていた。

向かい側には兵隊の家族らが住む公営住宅があった。そしてどこからか流れ込んできた避難民らしき人達が住宅の切れ目のところに粗末な家を建てて暮らしていたのでちょっとした町ができつつあった。街道沿いにはほったて小屋がならび、ちょっとしたものが売られている。外国製のたばこ、酒類などだ。原子力研究所があって、その隣が工業試験所である。シリアは核兵器を保有していると言う噂が聞こえたりすることもある。この建物でウランの濃縮の研究をしているのかもしれないが、そういうことに関心を持つとひどい目に合うらしい。ただの工業試験所とは言え実に危険な場所に設立したものである。イスラエルの攻撃対象なっていることは間違いないだろう。

所長に挨拶をする。ナビル・アウンと言ってラタキアの出身者だった。なんでも大統領と同じアラウィ派らしく、バース党内では相当の権力者だと聞く。政治的な活動が忙しく殆ど顔を見せることはない。従って事務的な連絡やミーティングは副所長のマンドーヘ氏が代行していた。 

私が配属されたのは、特定工業試験課と言うセクションだった。工業製品の物理検査をやっている。灌漑用のビニルシートの引っ張り強度試験とか、灌漑用パイプの強度を計るのが彼らの日課になっている。ともかく私の印象は、やる気のない人たちの集まりだった。

このセンターの連中と来たら仕事をやめることばかり考えていた。理由は簡単だ。給料が安い。これも湾岸戦争の影響(シリアはアメリカ主導の多国籍軍に参加)なのだろうが、最近市場が解放されて、民間の割の良い仕事が入ってくるようになった。人々はそちらのほうに目が向いていた。つまり、彼らは政治的なことに関心はなく、玉ねぎやトマトをいかに安く買えるかを毎日考えていたのだった。そんな彼らが革命を唱えるなんてなかなか信じがたかった。

最近21歳のシリア人の女性と話す機会があった。内戦が始まったころは13歳だ。当時の少し上の若者たちが命を懸けて戦った革命の意味が分からないという。戦火の中でただ安全を求め、普通に勉強したいというのが彼女たちの願いだった。友人たちは、普通に勉強し、普通に青春を謳歌したくて国を脱出していった。

政権に異を唱え、革命に燃えた少し上の先輩たちは青春時代を普通に過ごし勉強して成長した。ある意味もっと自由があり、さらに自由を唱えた。21歳の女の子は、不自由な青春を送らなければならなかった。英文科に通う彼女はさらに英語の言語学を学ぶべく修士課程に進学するという。

一方で、難民となった同じ世代の若者たちは、避難先でNGOや人道支援団体にやとわれ、英語を覚えて高級とりになっていたのだ。そういう世代が戻ってきてともに新しいシリアを作っていくことに期待したい。

石やんの9月

若松恵子

誕生日と、命日のある7月が、ほんとうは石やんの月なのだけれど、トリビュートライブが2つも企画されている今年の9月は、石やんの9月だ。

ロックギタリストでありシンガーソングライターの石田長生(いしだおさむ)が急逝して4年、彼のカバーアルバム「SONGS OF Ishiyan」が盟友CharのEDOYAレコードから7月25日に発売された。参加しているのは上田正樹、大塚まさじ、金子マリ、有山じゅんじ、Char、仲井戸麗市、山崎まさよし、大西ユカリ、甲本ヒロト、押尾コータローなど石やんゆかりの多彩な人々だ。

石やんの地元である大阪のFM COCOLOでは、アルバム発売を記念してCharがDJを務める特別番組が4週にわたって放送された。カバーアルバムに参加した大塚まさじや仲井戸麗市をゲストに迎え、ミュージシャン石田長生の魅力を語る、心のこもった番組だった。ギタリストとして一目置き、BAHO(東の馬鹿と西の阿保をあわせて馬保=BAHOというユニット名だ)の相棒として近くで石やんを見てきたCharならではの視点で語られる石田長生の魅力が新鮮で心に残った。フェスなどで出演者が最後にみんなで演奏するような時に、石やんは、君はここで歌って、君はコーラスしてとその場でアレンジして、みんなをまとめていたという。普段はふざけているミュージシャン仲間も石やんのアレンジには一目置いて従っていたという。また、楽譜を書くことができたので、「あの時のあの曲」と言うと、ギターケースにしまってある楽譜の束の中から見つけ出してきてくれたということだった。ギターケースの中の楽譜の!!。ギターを抱えて世界を回っていた姿が思い浮かぶエピソードだ。大ヒットを飛ばすことはなかったけれど、いっしょに演奏したたくさんのミュージシャンの心に残るミュージシャンだったのだなと思う。「SONGS OF Ishiyan」の最後には、ライブでの定番曲「HAPPINESS」がBAHOのライブバージョンで収録されている。客席とのコール&レスポンスは、石やんの実力全開という感じで聞いていて心躍る。アルバムの最後にこの曲が選ばれているというところにも、プロデューサー小山康一の石やんへの理解の深さと愛を感じる。

トリビュートライブは、大阪では9月14日(土)なにわブルースフェスの1日目で、東京は9月22日(日)恵比寿ザ・ガーデンホールで行われる予定だ。石やんがいなくなって4年、少し落ち着いた心で、どんな歌が歌われるのか、楽しみだ。

グランパKenjiの回想(晩年通信その2)

室謙二

 ついこの間、私は東京でティーンエージャーだったのだが、いまではカリフォルニアでグランパである。二歳の孫娘Maddieが私を指さして、「グランパKenji」と言っても、ニコニコとしているだけだ。
 最初はグランパとは誰か?と思ったが、もう七三歳だからね、孫娘には、私は老人と見えるのだろうなあ。私は青年のつもりだけど。
 妻のNancyは、十年ぐらい前に、孫と家族がグランマと呼び始めたときに抵抗した。ヘブライ語のグランマであるNanaと呼ばせようとしたのである。英語だとやだけど、ヘブライ語だといいのかなあ。しかしその試みは失敗。いまでは妻も私も、グランマ、グランパと呼ばれてニコニコとしている。

 MPを見ていた少年から、中途ハンパ老人に

 私は、一九四六年に敗戦後の焼け跡の東京で生まれた。あれはいまの東京とはまったくちがう。低い建物ばかりだ。住んでいた六階建て江戸川アパートの屋上に登ると、歩いて一五分ほどの飯田橋駅が見えた。左の方を見れば歩いて三十分の後楽園球場まで広がっている。いまでは高い建物がふえて、そもそも江戸川アパートも建て替えられたし、目の前の建物いがい見えない。
 何年か前に、飯田橋の五角の交差点にしばらく立ってみた。クルマが走り回り、秩序だってはいるが恐るべき忙しさであった。記憶にある一九五〇年代はじめの飯田橋五角交差点は、まだ占領時代である。白いヘルメットと白い腕章をつけたMP(アメリカ軍の警官)が、通りの真ん中で笛を吹いて、腕を上げたり下げたりして、クルマの行き来を指示していた。

 MPを見ていた少年からいまアメリカにいる私まで、六十年以上の時間がある。いったいその時間は、どこに行ってしまったのか?
 母親がいまの私ぐらいの歳に、そのころ私はまだ東京に住んでいたが、両親の家を訪ねたあと玄関で靴をはいていた。私のうしろに母親が立って、「ケンジ、私は七十歳をこえた。七十歳以上の老人であることの意味がわかりますか」と聞いてきた。靴のヒモを結びながら「わからないよ」と軽くこたえると、「私もわからない」と断定的な調子でいった。驚いた。
 「朝が目がさめると、ふとんの中で、ここはどこかなと思う。明治の大阪の子供か、大正時代東京の日本女子大の寮かもしれない。昭和になって結婚して子供がいるか、あるいはB29の爆撃下かもしれない。そして最後に、ああそうだ、私はもう七十歳以上なんだとわかる」と言っていた。私はいまその歳に、七十歳代になっている。そして母親と同じように、いったいそれがどういう意味なのか、よくわからないのである。
 父親は、やはり七十代のころ、「昔の老人はよかった」と言っていた。体も弱るし頭もボケてくる。よくわからなくなる。ところが今は、あたまも体もしっかりとしている。老人になっても、青年みたいだとほめてくれる。あれはほめ言葉か。頭はいいので、未来は確実に短くなっていくのが分かる。私は老人なんだ、青年ではない。と混乱していた。
 確かにそのとおりで、私もまた父親のように、青年であって老人である。本当の老人になるということは、どういうことなのだろう。だいたい父親の言うような本当の老人は、昔はあったのだろうか。そんなものは幻想かもしれない。
 私も老人でありながら青年で、私たちは「中途ハンパ老人」なのである。

 ムロ先生の買い物かご

 私には息子が四人いる。妻のまえの結婚の息子が五十一歳と三十九歳で、私の前の結婚のこどもが、四十一歳と三十六歳。私が小さいころ、五十一歳は大変な大人であり、自分の両親より年上であった。その歳の男が、息子であるのだから驚きだね。
 そして一番下の息子の娘のNanamiが、一歳になった。息子家族はロシアのソチに住んでいるので、生まれたときに会いに行った。このNanamiが二十歳になるとき、私は九十二歳である。生きているかなあ。妻の孫娘Maddieと、私のNanamiが娘になった姿を見るのが目標だけど。
 いまの妻は、そんなにうまくいくかしらと、私の健康を見て懐疑的だ。中途ハンパ老人なので、長生きするかもしれないぞ。

 親父がいまの私ぐらいの歳のとき、庭でとぶ蝶々を見て、五〇年前に死んだ母親を思い出したよ。時間の進行を距離ので考えると、私の母はずいぶんと遠くに行ってしまった。私は追いつけるかなあ、と言っていた。
 そのころ父親は、すでに早稲田大学の教員を定年で引退していた。他の大学は非常勤で教えていたし、大学教師になっている昔の学生といっしょに毎月研究会をやっていた。母親も足腰はしっかりとしていた。
 あとになって母親の足腰がおぼつかなくなると、父親は母親を手伝い、近所の八百屋、雑貨屋、肉屋を歩き回って、毎日の料理と洗濯、後かたづけをしていた。私を見てニヤッと笑い、こんなことをしているので驚いたか、という顔をしていた。いっしょに近所を買い物で回ると、ムロ先生、ムロ先生と言われて、店の人が品物を選んで、買いもの袋に入れてくれた。帰ってくると、母親がそれをいちいち吟味した。
 そして父親には何も言わなかったが、あとで「買い物をしてくれるのはありがたいけど、お父さんは古いものを掴まされているのよ」と、わらいながら言っていた。

 孫娘にロシア語と広東語を教わる

 長男が生まれたのは私が三十二歳のときだったね。次男が生まれたときは、私は三十七歳だった。
 私は、息子たちを日本においてアメリカにやってきた。長男は十三歳になったときに、私を追いかけてアメリカにやってきた。次男もまた十三歳のときに、兄と私を追いかけて、アメリカにやってきた。
 一三歳はボーダーラインで、ほっておいたら日本語が失われる可能性があると言われた。日本語を持っていたほうがいいと思ったので、普通の英語の学校に行かせながら、私が日本語の読み書きを教えた。だから中学・高校・大学と英語だけの教育を受けたが、二人とも漢字混じりの日本語を手放さずに、バイリンガルになった。日本語の本も読み、日本語の長い文章も書ける。
 そして今度は、NanamiとMaddieの世代になる。Maddieは妻の息子の子供で、みんなは英語で話しかけるが、中国人グランマは広東語で話しかけている。二歳のMaddieは、英語も広東語がわかったような顔をしている。
 私の孫娘Nanamiはロシアに住み、ロシア人の母親はロシア語で話しかけている。母親と、ロシア語のできない父親(私の息子)は、娘のまえで英語で話をしている。息子とグランパの私は、Nanamiに日本語で話しかける。だからロシア語が母語になるだろうが、英語も日本語も耳で聞いて分かるようになるだろう。別の孫はスペイン語で学校教育を受けている。ということで、我が家の孫たちは、英語と日本語とロシア語と広東語とスペイン語の、五ヶ国語のなかを生きる。私はロシア語と広東語はわからないので、孫に教わる。そして英語が、家族共通語である。

 私は記憶が悪くなってきていて、もっと英語を忘れたらどうしよう。記憶が薄れて、私の過去もなくなっていく気がする。未来だっていつ終わるかわからない。ともかくできるだけ、ニコニコとしている。悪くなった記憶を使って、なんとか過去を考えてみると、ずいぶん人に迷惑をかけて生きてきた。息子たちにも別れた妻にも、両親とか家族にも、友人たちも呆れているかもしれない。
 一度、息子の一人に迷惑をかけたと謝ろうとしたら、気にしない気にしないといなされた。興味のある人生になったよ、と言われた。そうかもしれない。でもうっかり謝ったら怒る人もいるだろうな。

 偏頭痛は友だち

 この数週間、片頭痛の生活をしていている。何年かに一度こうなる。
 このところ、医者にもらった注射と、弱い麻薬コデイン入りの飲み薬を持ち歩いている。このあいだ日本から帰ってくる飛行機の中で偏頭痛になり、トイレに行ってモモにぶすりと注射をうった。ヤク中のオジサンみたいだった。
 頭痛は私の友だちなのである。と言ったら、そんなものを友だちにしてはいけない、と妻におこられた。そんなことを言っても、六歳ぐらいから頭痛の、というより、頭の中で何かが起こっていた記憶がある。
 小学校の準備会が幼稚園で行われたときが、最初の偏頭痛の記憶だ。偏頭痛というのは、痛みではないのだな。痛みはその一部で、痛みのない偏頭痛もある。興味のある人は、片頭痛の専門書を読んでください。ともかくあのとき、頭の中で何かが起こった。その数年後には自宅で同じようなことが起こって、鏡で自分の顔を見ると、左半分が歪んでいて、口からよだれがたれている。
 母親のところに行って、顔を見せて説明したのだけど、ずっとあとになってその時のことを聞くと、なにかを発音をしていたが、言葉になっていなかったと言う。偏頭痛による言語障害だろう。母親はいろいろと調べたあと、私を連れて大病院の精神神経科に行った。それは地下にあって、母親が私の手をギュッとにぎって廊下を歩くと、精神異常の患者たちが近づいてきて、私たちを見ていた。
 私の頭痛は、ストレスによるものではないのだよ。と妻に説明している。あれは友だちか、ひょっとすると私自身なんだ。
 父親も兄も頭痛持ちで、だけど幸いなことに、私の息子たちにはつながっていない。孫娘が頭痛持ちでないことを願うね。頭痛は私のところで止めておきたい。
 

しもた屋之噺(212)

杉山洋一

芥川作曲賞が終わり、楽屋でこれを書き始めました。公開討論に耳を傾けつつ、日記を開いて、書き写しているところです。

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8月某日 ボローニャ ホテル
楽譜を読むときに、譜割りを几帳面にやるようになったのは、実は遥か昔、うちの学校の図書館で、エミリオの書込みのあるドナトーニの譜面に遭遇してからのこと。それまで、あのように丁寧に譜割を点線で全て書き込み、表拍、裏拍と赤と青で書き分けた楽譜など見たことがなかった。
試しに真似して同じように譜読みをすると、様々な発見があり、病みつきになった。何より音が頭のずっと奥底に入ってくるようになったし、面白いのは、書き込みをしなければ、目は音を追うのだけれど、書き込みをすると、目は休符を追ってゆくようになる。音符を目が追えば、音の情報が直截に目に飛び込んでくるが、休符を目が追うようになると、音の周りの空間が見えてくる。音はそこに自動的に刻み込まれてゆく。それを感じるのは、心地よいものだが、何より、空間を規定することにより、音に立体感が生まれる。

8月某日 ボローニャ ホテル
朝、駅に向かう目抜き通りを、無数の市民が平和的にデモ行進をしている。老若男女問わず。幼稚園くらいの子供から、老人まで。今日は爆破事件の記念日だから、それと関わりがあることはわかるが、時々「真実を知りたい」などと気勢を上げていて、でも、誰が何に対してデモをしているのかよく分からない。沿道の市民も拍手で彼らを迎えている。
爆破時刻午前10時25分に、ボローニャ中央駅の二等車待合室があった場所を目指して静かに歩いてゆく。
ミラノでも、ドゥオーモすぐ裏の噴水広場で爆破事件があったが、容疑者は誰も逮捕されていない。ボローニャ中央駅の爆破事件は、申し訳程度に、極右団体の組合員が二人逮捕されただけだが、このどちらの爆破事件に対しても、報復テロも行われず、実際のところ、極右組織によるものなのか、極左組織によるものなのか、未だに闇に包まれている。一般的に極左組織テロであれば殺戮対象が明確で、極右組織テロは、無差別殺戮の傾向があると言うが、それも実際はどうか分からない。
朝10時、朝の明るい日差しの差し込む劇場の絢爛なフォワイエに置かれた一台のピアノで、エマヌエラとカセルラのリハーサル。カセルラの音楽の美しさは、何かを雄弁に語り尽くせない、独特の繊細さだと二人で話しこむ。三重協奏曲の2楽章は天使のように、清純な言葉を綴る。互いに幾つか不明な音の指摘をして、それぞれ次回までに方針を決めようと宿題になった。
夜の演奏会は、このボローニャのオーケストラが、無差別爆破テロ記念演奏会に参加する意味を痛感する、忘れられない名演となった。リッチの作品は、犠牲者の名前全てを、数字に置き換え、リズムや旋律の定着に使っている。普段自分がやっているようなことだが、作者が違うと結果は随分違ってくる。ただ、コンピュータで導かれた数列とは違う手触りがすると感じるのは、単なる思い込みか。
併し、最初にイタリアで手掛けたオペラは、マフィアに爆殺されたジョヴァンニ・ファルコーネが主題だったし、爆殺現場を通り、パレルモの劇場でファルコーネやパオロ・ボルセッリーノを悼む公演に関わった。そして、今回ボローニャの爆破テロに纏わる演奏会に携わった。
何の因果か、数は少ないはずの政治的な記念演奏会に、自分のような外国人が何度も関わっているのか、不思議ではある。今日を日本に喩えれば、規模こそずっと小さいが、原爆の日に、広島か長崎で遺族会が主催する国際作曲コンクールをやり、そこで演奏会が行われるようなものだろう。

8月某日 三軒茶屋 自宅
ダヴィンチがいた頃のミラノ・スフォルツァ家のお抱え作曲家たちの作品を、邦楽4人のために書き直し、「ダヴィンチ頌歌」としてまとめる。賢順が宣教師たちから西洋音楽を学び、筑紫筝に反映させた時代から少し前の音楽だから、恐らく自然に演奏できるはずだと思っていた。
長谷川さん、本條さん、吉澤さんと今野さんと、沢井さんのお宅でリハーサルしながら、丁寧に西洋音楽の先入観を取除いてゆく。500年前の日本の音楽に於ける、リズムや音程の感覚を具体的に想像するのは難しい。雅楽など、かなりしっかりとした音程構造、を持っていたはずだろうが、それらが民衆音楽とどれだけ繋がっていたかわからない。
先ずは、我々が先入観としてもっている西洋音楽的な拍感を極力排して、能のすり足を10倍くらい遅く引き延ばしたような、ダウンビートのみの音楽として感じてもらうと、彼らの方が、何だか古典をやっている感覚になりました、と言ってくれる。書いた編曲作品より、ジョスカンなどを邦楽器で、邦楽として演奏すると、何某かの1500年前後の日本音楽を追体験できるかも知れない、という純粋な興味と遊び心。ジョスカンなどを邦楽器で聴くと、現在の琉球音楽に当時の面影が強く残るのを実感できる。
先日、機内で安江さんと加藤くんのための小品を書いたが、これも「ダヴィンチ頌歌」に繋がる。オラショとして残る「ぐるりよざ」と、6世紀仏ポワティエ大司教聖フォルトゥナトゥスの「ああ栄光の聖母よ」を素材に選び、具体的にどう変化したのかを比較した。
恐らく、秘密裡に口伝されるうちに、歌詞のみ正しく後世に伝えられ、旋律は数小節間、前後入れ替わったことがわかる。そして、ある場所は長く引き延ばされているのは、恐らく調子を揃えるためだったのかもしれない。

8月某日 三軒茶屋 自宅 
自作指揮の講習会。いつも普通のレッスンでやっているように、自作指揮でも、作曲者の頭に何か載せてみるだけで、ずいぶん耳が開くようになった。効果があることは確かで、感覚的には分るのだが、実際そこで何が起きているのか、何が変化しているのか、正直なところよく分からない。
狭い一車線の弦巻通りで自転車で転び、両掌を強か打ったお陰で、左手が使えない。携帯電話に夢中の若者とそこへ通りかかった車を避け、雨に濡れた緩い下り坂に塗られた蛍光塗料で滑って転んだ。激痛が走るので、受講生に振りながら手本が見せられないのが申し訳ない。尤も、血だらけの手を見せられても受講生も奏者も困るだろう。

8月某日 三軒茶屋 自宅
紙媒体の新聞を読むと目が疲れないのは、やはり情報に階層が振り分けられていて、且つ視覚的にそれが理解できるようになっているからだろう。単に事実を伝えるニュースソースと、個人の意見や社説なども、目で見て区別出来るようになっている。インターネットの例えばポータルサイトであれば、情報の質や、それが一個人の意見であろうが、フェイクニュースであろうが、時間軸に沿って全て同列に顕れる。階層がない分、より煽情的でなければ、目に留まらないからだろう。ずいぶん目に余る記事が散見されるようになった。
恐らくこの傾向はニュースだけではない。これから我々の社会全体、文化全体がこうして目に見えない疲弊に晒され続け、次第に飲み込まれてゆくに違いない。

8月某日 三軒茶屋 自宅
自分に親しい友人たちの候補作品をよむ。滋味溢れる鈴木作品は個人的に好きな時代のストラヴィンスキーを彷彿とさせ、スネアドラムや、タムタムなど、打楽器が効果的。遊び心に富んだ稲森作品は、カーゲルの質感をリゲティをより複雑にしたテクスチュアで行う感覚。心地よい疾走感の北爪作品は、ロックのよう、と書いて、ロミテッリがスペクトル音楽とロックの共通項を見出したのを思い出す。

8月某日 三軒茶屋 自宅
野坂さんの訃報に言葉を失う。来年までに「富貴」を使って、野坂さんのために芽出たい新曲を作る約束をしていた。最初に沢井さんからメッセージを頂いたのだけれど、ほぼ無言のまま送られて来たメッセージから、打ちのめされた沢井さんの姿が目に浮かんだ。
力の入らない左手を無理やり使って、朝から晩まで譜面に書き込んでいて、見ると薬指が腫れて膨らんでいる。痛くて仕方がないので、暫く休んでは少し仕事をし、また休む、という繰り返し。子供の頃から、左手の薬指と小指にはさんざん迷惑をかけた、と我乍ら本当に申し訳ない思いにかられる。ペンはまだ筆圧がいらないから何とか書けるが、鉛筆などは本当に痛い。箸は何とか持てるようになったが、物を取上げる力がまだ入らないし、捻ると相変わらず激痛。さて、これでオーケストラとの練習はどうなるのか。

8月某日 溜池山王
サントリー作曲賞演奏会終了。思いがけず鉄道好きな後藤さんに再会し、元気な姿に嬉しくなる。秋吉台で彼女が自作を指揮するお手伝いを何度かさせてもらった。インターンとして、この演奏会まで東京に滞在していると言う。声をかけて貰って良かった。似た人だとは感じていたが、名古屋の方だから人違いだと思っていた。昨年で秋吉台の講習会が終了したが、そこで若い作曲家と何人も知り合う機会があったのは、自分にとってかけがえのない経験だった。
大学生相手にミラノでは長年教えて来て、日本の若い人たちが何を考え、何に悩み、何を面白がりながら何をしているのか、自分が余りに無知なのがずっと気がかりだった。芥川や秋吉台での経験は、自分の財産だと改めて思う。
演奏会後、楽屋に坂田くんが訪ねてきて、外国暮らしのよもやま話。鈴木君からは、曲を分かってくれて嬉しいとの言葉をいただき、稲森君に至っては、杉山さん、僕と作曲の傾向も近いでしょう、と弾んだ声で、喜び溢れる言葉を頂戴する。

8月某日 三軒茶屋 自宅
「杉山くんが来てくれたよ」、と声をかけていただき、吉田美枝さんの御霊前に手を併せる。作法を全く心得ないので、線香は数本付けても構わないかたずねて、結局3本に火を点けた。
子供の頃、東林間に住んでいた頃の家に似たお宅には、映画、演劇、それに武満徹の本が並んでいて、処分するにもこれじゃあ古本屋も買わないし、とご主人が話す。
NHKのドキュメンタリー番組か、ナッセンから自分が公開で助言を受けている番組を見たことがある。二人の間に吉田さんが座って、通訳してくださった。大柄なナッセンと小柄な吉田さん、という印象が甦る。ロンドン・シンフォニエッタの作曲ワークショップの様子が少しだけ紹介されたのだが、あれは何の番組だったのだろう。
話しているうち、お線香が終わってしまっていて、帰りしな、もう2本に火を点けて改めて手を併せた。仏壇の遺影には、素敵な笑顔が浮かんでいた。
お宅にお邪魔する前に綱島駅前で食べた、中華食堂の野菜炒と茄子の牡蠣油炒が、心に沁みる。

8月31日 三軒茶屋にて


別腸日記 (30)酒席文化研究──国際学術会議における

新井卓

 三年前、人類学者の中原聖乃さんのお誘いで国立民族博物館の共同研究「放射線影響をめぐる「当事者性」に関する学際的研究」のチームに入れていただいたのを契機に、年に一、二度、国際学会なるものに顔を出すようになった。初めは研究者の一群にまぎれた風体の怪しいアーティストが、彼/彼女ら目にどう映るか甚だ不安だったのが、各国の研究者たちの最先端の知見に触れ、また自分の拙い発表にも思いがけない反応をいただく楽しさに、いまでは毎回、うきうきしながら渡航する身体になってしまった。科学史、環境史や人類学の発表を興味の向くまま渡り歩くのは刺激的で、なぜかとても快楽的である。

 2017年、天津ではじめて参加した東アジア環境史学会で、農業史研究者の藤原辰史さんにお会いした。藤原さんは『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史』(水声社、2016)『トラクターの世界史―人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書、2017年)『戦争と農業』(集英社インターナショナル、2017)、『給食の歴史』(岩波新書、2018)など農業や食の歴史を通して、世界の見方が逆転するような斬新な視点を提示しつづける気鋭の学者である。「自由と平和のための京大有志の会」発起人で、活動家の顔も持つ彼の佇まいはどこまでもやさしく、お会いするたびその言葉と精神のやわらかさに救われるのは、きっとわたしだけではないだろう。

 開南大学で会議と夕食が終わると、毎晩、飲みものと軽いつまみを買い込んでは──ホコリの積もった「長城ワイン」を連夜、二瓶求める日本人に、売店の老夫婦はあきれ笑いを浮かべて応じてくれた──藤原さん、中原さん、政治学者の西佳代さんを(半ば無理矢理に)お誘いして、延々と語り合った天津の一週間は、いま思えば夢のような時間だった。自分が何を話したかまったく記憶にないが(記憶にあったとしても、でたらめなことを口走っていたに違いないから特に思い出したくはない)その後藤原さんには研究会に招いていただいたり、逆にわたしのスタジオで開催していたサロンで講演していただいたりと、今もご縁がつながっているのが心底嬉しい。

 つい二週間前、8月17日から23日まで、今度は「東アジア国際科学史学会」に招かれた。韓国は全州の全北(チョンブク)大学で、パネル・ディスカッションと小さな展覧会をひらく機会を得たのは、おなじく天津で出会った科学史家・ムーン・マニョン(Moon Manyong)さんの厚意によるものだった。ムーンさんは、科学の背後にある民族主義を、日本占領下に旧満州で行われた蝶の研究から鮮やかに浮かびあがらせた学者である。ムーンさんとはやはり天津で、白酒(パイチュウ)の乾杯コンテストをしてお近づきになったことを、いまこれを書いていて思いだした。おそらく慣れない場の緊張を解きほぐすためいつも以上に飲んでいたのだと思うが、その結果として、常に好ましい状況が生みだされるわけである。

 そのような経緯で、今回もスーツケースに一升瓶を仕込んで、意気揚々とソウルへ飛んだ。金浦空港からバスに乗り継ぎ、全州へ──台風10号の名残の豪雨で霞む全州に到着すると、街のそこかしこに「NO・アベ」の反旗が翻っている。旗は安倍晋三の笑顔の顔写真入りで、どうせならばもっと醜怪な写真を選べばいいのに、などと思いながらも居心地が悪い。ホテルにチェックインして荷を解きながら、どれほど政治のありかたを憎んでいても、結局のところ国家から〈わたし〉を完全に切り離すことなどできないのだ、とぼんやりと考えていた。自分の身体から体臭のように漂う国籍や民族のにおいに、ひとりの異邦人として見知らぬ街に立ったとき、はじめて気づかされるのだ。

 展覧会を設営し、初日に発表を終えて、さあ、これで心置きなく飲めるぞ!と思ったのはわたしだけだったらしい。初日に「わたしたちは飲まなくてはならない」と神妙な表情で肩を叩いてくれた当のムーンさんは、ホスト側の全北大学の教授だったから飲むどころではなく、毎日忙しく奔走する姿を遠くから見守るほかなかった。やがて藤原さんら京大の研究者たちが到着し(不覚にも直前までいらっしゃることを知らなかったので、余計に嬉しかった)、わたしも若い研究者たちに少し顔見知りが増えたころ、ようやくその時がきた。ムーンさんを筆頭に10人ほどの人々が、雨が降りしきる市場を通って、気楽な大部屋の海鮮居酒屋に落ち着いた。満を持して日本から密輸した「神亀」の一升瓶を食卓に供えると、あたりの酔っ払いたちの視線があつまり、それはなんの酒だ、と訊かれた(たぶん)。「イルボンスリムニダ(日本酒です)」ネットで検索した韓国語を棒読みすると、ジンロの空き瓶だらけのテーブルに片ひじをついたオジサンが、わたしの頭の先からつま先まで、ジロリ、と一瞥した。一杯いかがです? というと、とんでもない! という様子。特段他意はなさそうだったが、劣化した政治のために、いらぬ想像をしてしまうのが煩わしい。

 コチュジャンをこれでもかとまぶしたイカ焼き、プルコギや豚足の煮込みと格闘していると、ムーンさんが「そろそろ本当の酒を飲みましょう」と言った。彼は神妙な表情でビールをグラスに八分目まで入れ、おちょこに並々と注いだ焼酎を加えた。それからおもむろにステンレスのスプーンを取って、勢いよくグラスの底に突っ込んだ。すると一気に泡がたつので、それがこぼれないうちに慌てて飲み干す、という代物であった。「爆弾酒」というらしく、どことなく軍隊の匂いがするキナ臭い酒だな、と思いつつ、その儀式めいた飲みものに向きあい、襟を正していただいた。それが何杯、わたしたちの喉を通過したかは定かではないが、翌朝目覚めると、不思議と二日酔いはなかった。爆弾酒は宴会終盤の記憶とともに爆裂し、どこか異次元の彼方へ雲散してしまったらしい。

 諸科学と芸術は19世紀初頭まで、もっと近しい存在だった。20世紀を経ていま、ふたたび互いを求める時代が到来しつつある──全州からソウルへ向かう特急の中で、藤原さんとそんな話になった。そしてわたしにとって、研究者たちは憧れの存在に近いのかもしれない。緻密な知の積み重ねによって、今まで見えなかった世界の諸相が見えるようになる。その方法はわたしの実践と対極にあるようにも思え、その一方で、決して無関係ではない、とも感じている。

 さて、次の学会は10月の台南、藤原さんのパネルに参加することになっているから、やはり緊張で飲まずにはいられないだろう。すると今度は何のお酒を持っていこうか? そんなことより肝心の論文にいいかげん、着手すべきことは分かっているのだけれど。

◎お知らせ:東京のPGIギャラリーにて新井卓「イマーゴー/Imago」展開催中。2019年8月30日-10月18日(日曜休)。9月20日(金)18:00〜、9月21日16:00〜 短編映画『オシラ鏡』上映会あり
詳しくは https://www.pgi.ac をご覧ください。

編み狂う(2)

斎藤真理子

いつどこでも編み物をしたいし、編みはじめたらしばらく没頭したい。できれば無限に没頭したい。そんなすきま時間が今日、確保できるかどうか予想はつかないが、私は常に備えている。どんなに大量のすきま時間が降りかかってもちゃんと編み狂えるように……安心して狂うためには、準備が要るのだ。

その準備について説明する前に、まず、セーターなどのウエアを編むときのモードには2種類あるということを書きたい。車の運転と同じで、マニュアルと、オートだ。かんたんにいうとマニュアルモードは曲線部分を編むことで、オートモードは直線部分を編むことだ。

曲線部分というのは、襟ぐり、袖ぐり、袖山。わかんない人はセーターの「ひらき」、つまり展開図を見てください。この図の中で斜線にしたのがマニュアルモードで編む部分、白いままのがオートモードで編める部分だ。

マニュアルモードのところを編むにはさまざまな注意がいる。編みながらこれらの曲線を形作っていくためには、ちょっとだけ製図の知識が必要になる(そのため私は昔、半年だけ日本ヴォーグ学園というところに通いました)。具体的にはまず、いろんなところを測り、方眼紙の上に図を描き、編み方を決める。その通りに編んでいくのだが、間違えないようにするには集中力がいる。編みながらの微調整も必要になることがある。

一方、オートモードの直線部分はほとんど何も考えなくていい。袖を編むときは下から上へ幅を広げていくので、「何段ごとに一目、編み目を増やす」という操作をしなくてはならないが、その程度なら考えるうちに入らない。

そして私は、何しろ常に編み物を持ち歩きたい。「うちでおとなしく編んでいなさい」といわれると、いやだいやだいやだいやだと神経が反発する。昔、あるニットデザイナーが「織り物は、水平面がないと織り機を設置できないから定住民のもの。編み物は、らくだの背中に乗っていてもできるから遊牧民のもの」と言っていたが、そうなんじゃないかと思う。

そのせいかどうかわからないが、私はほぼ常に、バッグに編みかけを入れておき、暇ができたらカフェなどで編みたい。公園でもいい。条件が許すなら電車でもいい。そして、そのとき編むのは絶対にオートモードの方がいい。できればずーっとオートモードで、カフェで編んでいたい。その欲望の実現のために、白鳥がどんなに必死にもがいているかわかりますか。それはそれは大変なのである。

だって編んでるうちに必ずオート部分は終わり、マニュアル部分に突入してしまう。マニュアル部分を編むにはいろいろと、定住民の方が対応しやすい問題点があるのだ。襟の形が思い通りにできているか見るために、鏡の前で体に当ててみるとか(遊牧民は全身鏡を持ち歩いていない)、着心地の良い他のセーターと比べてみて微調整するとか(遊牧民は全衣類を持ち歩いていない)、間違えて5センチ分、ほどくとか(編む行為と違って、ほどく行為は異様に見える。遊牧民は人目が気になる。しかも、ほどくときはおおむね、鬼の血相をしている)。だからマニュアル部分は家で、オート部分は外で編むのが望ましい。

となると、「外編み用」に持ち歩けるものが常に必要だ。編んでいってマニュアル部分に突入したらそれは家に置いておき、「外編み」には別の編みかけを持っていく。つまり、「当分の間は直線部分だけを編んでいられるぞ!」と安心できる、「理想の編みかけ」が必要で、しかもそれが複数必要だ。そのためには現状を把握し、先を見越して、常に目配りを怠らず、「理想の編みかけ」の供給がとぎれないよう、努力しなくてはならない。なんか、どんどん仕事に似てくる。くやしいが似てくる。

「外編み」が家の近所のカフェや公園に限定されていればまだいい。何日も家を開けるときはもっと大変だ。例えば正月に実家に5日間帰省するとき、編みかけAを持っていくこととする。見積もりでは、5日間ならそれで大丈夫だと思える。でも、私はそんなことでは満足しない。なぜなら私の実家は雪国にあるんですよね。行きか帰りに新幹線が雪で立ち往生して、閉じ込められたらどうなるか? 編むものがなくなってしまうかもしれないじゃないか? 実際には今まで一度も、雪で新幹線が立ち往生した経験などないし、ほんとに雪で閉じ込められたら不安で編み物どころじゃないと思うが、一度想像したら戻れない。

ある年末のことだ。みんなそうだろうけど、年末の帰省前って仕事も押してるし、本当に忙しい。子どもを連れて帰省するとなったらなおさらだ。そんな中私は、短時間で編みかけの問題に対応する必要に迫られた。なぜなら、手もとにあった理想の編みかけA、B、Cがいずれも、比較的短時間でマニュアル部分に突入しそうだったからだ。そこで夜な夜な、新たな編みかけDを作成することに決定し、3時間を費やした(1から編みはじめるにはそれなりにいろいろな手順があるので……)。ほとんど朝になって、理想の編みかけ2点をバッグに詰めて荷造りが終わったとき、私は笑った。こういうのを会心の笑みというのだろう、私以外誰にも理解できないに決まっているが。

これから1週間程度の間にどれだけのすきま時間があるか全くわからないが、いかなる不慮の事態が起きてどれだけのすきま時間が降ってこようと、私はそれを万全の「編み量」で迎え撃つことができるのだ。雪で新幹線が立ち往生しようと、万が一、親が倒れるなどして予想外に帰省が長引いたとしても、大丈夫だ。バッグに入った、かさばる二つの毛糸玉は、何か約束された時間のかたまりなのだ。自分が未来の時間を制御し、掌握し、制圧できるという自信のようなものだ。私以外誰にもそうは見えないに決まっているが。

これ、予期不安なのか多幸症なのかわけわかんない、わかりようがないと自分でも思う。

今も私の手元には「理想の編みかけ」が5種類ある。翻訳が忙しくなったので、その中の2種は3年ほど編みかけのままだ。でも、編みかけが編みかけのままでそこにあると思うと嬉しい。ときどきそれらの山を目にして、「豊作、豊作」と思ってにやにやする。この先どんなすきま時間の束に襲われても十分に迎え撃てると思うから。

こんな考え方はどこからどこまで合理性を欠いている。こんなやり方で時間を味方につけて、私はいったい、どういう未来に備えようとしているのだろう?

私としては、それに対する合理的な答えを自分に求めることはやめている。今、唯一の救いがあるとすれば、それらがすべて一本の糸であって、端っこを引っ張ればするすると解けることだけだ。実際にそんなことはしないが、その可能性が秘められているということにほっとする。際限なく未来の時間をコントロールしようとして現在を消費する、この「編み狂い」の時間もいつか全部消える。そう思うことは一種の解放なのである。

ちなみに、「そんなにまっすぐのところばっかり編んでいたいんだったら、ひざかけとか敷物を編めばいいじゃん」と思うかもしれないが、それは嫌なの。やってみたけどやっぱり嫌だった。何となく、耳のないパンみたいな感じがした。


うごきの声

高橋悠治

目をとじてじっとして 外に注意を向けず からだのどこかのうごきを 閉じた目をそこに向けずにかんじている ウクライナ生まれでブラジルで小説をかいていたクラリセ・リスペクトールが 馬は印象がすでに表現である と書いたような 外から受け取り内側で変化させて外に向けてことばにする間をおかず 閉じた目の内側がそちらを見ないでも そこに馬がいて土と空のひろがる風景をかんじる

耳の上のほうでささやかな音がもれてくる 音にならない沈黙の音 聞くともなく聞いていると 途切れずさまざまに変化して いくつか折り重なって聞こえたりする 物音がしずまった夜更けに 耳が昼間聴いた音を呼び出してひとりたのしんでいる と書いたのは折口信夫だった 耳は静まることがなく 音が聞こえなければ 音の印象を創ってたのしんでいると言えるだろうか それは聞いた音の記憶かもしれないし それに似た神経のそよぎとも思える じっさいに聞こえるとも言えない 測ることもできないくらいの 聞こうとすると聞こえなくなるほどの 空間の裂け目のような 音を吸い込む暗い翳

カナの響きで音をあらわす 口三味線は楽器を弾くバチさばきも絃もわかる 伝えられた規則がなく 思う音や短いフレーズをカナの響きに置き換えて言ってみながら すこしずつ変えていく 自由にくりかえし すこし変えながらつづける 小杉武久の26種のウェイブ・コードは セミやカラスの声のように だれでも使うものから 通り過ぎる影 風にひるがえる 空中に漂う 波にゆらぐ うごきの声がある たえず変わり かたちがさだまらないから つづいていく ディジタルからはみだしているアナログの不安定