『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます

福島亮

「水牛通信電子化計画」というページをのぞいたことはありますか? 毎月更新される「水牛のように」の目次の下に「水牛通信電子化計画 1982年10月公開」と書かれたページあり(2019年11月現在)、そこをクリックすると「水牛通信100号の全目次」と1980年から1987年までの記事が表になっていて、青字の部分を押すと、『水牛通信』に掲載されていた記事を読むことができます。試しに、アップロードされているうち最も初期の「1980年2月号」をのぞいてみましょう。ひとつひとつ手で入力された11の記事の目次が最初にあって、ついで小泉英政の詩「ごえもん風呂」がこんな風に続きます。

 のら仕事を終え
 夜道を『てって てって』と帰ってくる。
 それから
 「つきよのあかりで せんたくをして
 まいばん かやをひとたば まるめ
 ふろに へいってよ
 それから
 つかれたときは
 さけを いっしょう かってくるわ
 それを こっぷさ にはいずつ のむ。
 そで
 きょうは くたびれたから
 もうすこし いいかなってんで
 もういっぱい のんじゃうね」。
 
僕の大好きな詩です。詩はこんな風に終わります。「赤々と燃えるおきを/ぼんやりと ながめながら/湯がわくのをまつ時間が 好きだ。/おきのなかに/よねがいて/仲間がいて/ひざがあたたかい/闘いが 見える。」

僕が「水牛」のホームページを最初に開いたのは中学生の頃でした。15年ほど前のことです。群馬県伊香保温泉の近くに暮らし、図書館や学校の音楽室に置かれたCDを頼りに現代音楽を聴き、のめり込んでいた当時の僕は、どこかで「水牛楽団」という楽団の名前を知ったのだと思います。実家のリビングに置かれた卓上パソコン(ノートパソコンではなく、起動やページを開くのに時間のかかるあれです)で「水牛楽団」と検索し、最初に出てきたのがこのホームページでした。その時から、時々のぞいてきた「水牛通信電子化計画」のページ。そこには手入力された文字がひしめいています。しかし、イラストや楽譜、写真は載っていません。

じつはこの「ごえもん風呂」という詩が『水牛通信』1980年2月号に掲載されたとき、二段に組まれた詩の言葉の周りにはインゲンやアスパラガス、カブなどのイラストが添えられていました。「のら仕事」が作り出す野菜、その土のにおいやみずみずしさをイラストは力強い線で伝えています。すべすべした紙の質感、インクのにおい、手で描かれたイラストの線、そして言葉の織りなす力が、「闘いが 見える」という言葉で締めくくられたページの次に置かれた「三里塚ワンパック」の闘いの言葉へと読者を引っ張っていきます。この力の充溢と動きは何なのでしょうか。晴れ晴れとした冬の青空の下に出て深呼吸した時のような気持ちのよさと、遠くの方の風景を眺めているような、たとえようもない懐かしさ——それとも遠さ? いずれにしろ、1980年には僕はまだ生まれていないので、本当は懐かしいと思うなんて変なのに、繋がっているような離れているような、そんな奇妙な時間錯誤、あるいは感覚の縺れがあります——は何なのでしょうか。

去年の7月、タブロイド新聞『水牛 アジア文化隔月報』(1978-1979年)と冊子『水牛通信』(1980-1987年)を紙媒体で読みました。その時、そんな遠いような近いようなねじれた感覚を僕は抱きました。1980年頃といえば、それほど昔のことではないはず。でも、もう40年ほどの歳月が経っていて、僕にとってはやはり「歴史」の一部、近いのにどうしても手が届かない、夢の遠近法のような時の隔たりがそこにはあります。まだ物語化されていない歴史。あるいは、遠くの方でまだ生きられている時間。『水牛 アジア文化隔月報』や『水牛通信』が手から手へと受け渡されていた時間とは、物語化、固定化、風化をまだどうにかすり抜けることのできる時間なのかもしれません。この錯綜した奇妙な時間感覚は、もしかしたら読んだのが紙媒体であったこと、打ち出された文字のインクのにおい、印刷された写真やイラストの質感、それらを支える紙が時間に耐え、時を超えて僕の手元にやって来てくれたこと、そういった諸々の物質性に起因するのではないか——いつしか、僕はそんな風に思うようになりました。そして、紙やインクがもたらすこの時間感覚が、僕は好きです。

会ったことのない誰かにも——手紙を入れた瓶を海に投げ込むように——この不思議な感覚を届けてみたい。そういう思いから、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』をPDFにし、「水牛」ホームページで公開していただくことにしました。PDFにしてしまうと、たしかに紙の手触りやインクのにおい、活版印刷ならば紙の表面に文字が刻印される凸凹、それから紙そのもののもろさは消えてしまいます。でも、『水牛 アジア文化隔月報』も『水牛通信』も、今では東京を中心とする限られたアーカイブの中に収蔵されているので、気軽にお茶を飲みながら誰かと読んだり、好きなページを自由に切り抜いてノートに貼り付けたりすることはできませんし、何よりも、遠くの誰かに文章だけでなくイラストや写真を届けるにはPDFにしてしまうのが手っ取り早いと思ったのです。このPDFは、予定では今年の12月1日に公開されるはずです。僕も、時間の錯誤と感覚の縺れを抱きながら、時にはPDF化された記事について思ったことや考えたことを書いていこうと思っています。もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。これらの欠落については、持っている方がいらしたら、あるいは偶然机の引き出しの中から出てきたら、声をかけてください。そしてPDF化させてくださったら嬉しいです。

『水牛 アジア文化隔月報』の巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」という文章は次のようにむすばれて——ひらかれて——います。「『水牛』は、アジア民衆の解放運動の空間のなかへ、私たちのしごとをときはなすこころみだ。しごとがささやかなものにすぎないことを自覚し、しかもそれが他の場所での他の人たちのしごととひびきあっていることを感じる。魚が水を必要とするように、実践をたえずのりこえるための、ひろい空間が必要だ。制度化しているものを、自分の手にとりかえし、体系化したものをときほぐして方法に変える。そのために新聞は、引用し、編集し、モンタージュをつくりあげる。」時間と空間を超えて、「水牛」の名のもとに集められた幾つもの言葉やイメージ、質感、時に欠落がこれから公開されます。水牛、何度でもでてこい。そんな合言葉をつぶやきながら、遠くのあなたと一緒に、近いような、遠いような、気持ちいいような、苦しいような、こことあそこ、そちらとこちらとがひびきあい、力の縺れあう景色を見てみたい。もうすっかり寒くなり木の葉も落ちてしまったパリの片隅で、そんな風に思いながらこの文章を書いています。

PARADISE TEMPLE

管啓次郎

ポリネシア言語の母音を抜いて
子音だけを発音してごらん
みなしごの歌のように続けるんだ
母音がないので歌にはならない

存在がさまざまな音で軋んでいる
ひとつひとつの調音点が
十三万年のヒトの拡散の
経験をひきつれて

雷鳴とともに母音がやってくる
雷鳥と雉の喉のふるえ
灰色の空から白い経典が降ってきて
地上のすべてと海をまだらにする

極楽寺は裏寺に小さくうずくまり
虹色の天蓋を広げてこの世を被う
寺にむすばれるものがあるなら
それは文字と音、言語を超えて

ブッダに帰依します
ダルマに帰依します
サンガに帰依します
母音を欠いた無声の誓願

雷鳴と雪の誓願

イリナ・グリゴレ

昔から人の家の中を覗くことが好きだった。夕焼けの時、暗くもなく明るくもない時間帯で、レースカーテンの裏からぼやけた光が差している時。近所を散歩するとそれぞれのお家の中に家族の様子が見える。ごはんの支度するお母様が見えたり、テレビを見るおじいさんが見えたり、様々なシーンが見える。


今住んでいるところのすぐ近くに古い家があって、その家の一部は昭和の雰囲気の喫茶店だった。現在はお店をやっている様子はないが、木で出来ている立派な看板が残っている。その店の名はカタカナでメモリーという。もう誰も住んではいないのだろう。近くを通ると家の前に真っ白な猫がたまにいる。何かを守ろうとしている様子で家の周りをウロウロしていた。


ある日、家が完全に壊されて、木材しか残ってなかった。家のガイコツしか見えなかった。中にいい雰囲気のカウンターが見えて、いつかあそこでお酒を飲みたかったなと思っても間に合わない。


その翌日、そこは家の影もなく、土地は綺麗に更地になっていた。黒い土の上に何もなかったかのように。あのあたり見えた白い猫も、それ以来近所に姿を見せなくなった。家が無くなるのはこんなに早いのか。その木に刻まれた思いと家族の生き方があっという間に更地になるものなのか。


私の祖父母の生き方を思い出させる。迷わず自然とともに生きること。メモリーという看板をみて、幼い時のフラッシュバックが訪れた。


私が育てられた家のイメージが脳の裏に彫刻されている。「惑星ソラリス」という一九七二年のアンドレイ・タルコフスキー監督の作品を思い出した。研究者の主人公はソラリスという惑星に調査のため送られる。地球から離れる感覚が細かく伝えられ、人類の未来を問う作品でもある。その惑星には海しかないが、その海自体は生き物のようにみえて、巨大脳になっている。その海が、地球から来た人間の頭のなかを覗く。彼らの記憶と考えがすべてその海に映されている。宇宙ステーションに死んだ人が現われたり、そこにいる研究者が耐えられないほど不思議なことがおきる。


最後のシーンではステーションから見える黒い海の中に島が出来て、そこに主人公の育てられた家とそっくりの家が映されている。あのイメージは彼にとって、そしてあの惑星の海にとって一番印象的なイメージだったに違いない。私でいうと、どこかの未来の世界で私の脳のなかを誰かが覗いたら、きっと私が育てられた家のイメージが出てくると思う。遠く離れても私の身体の一部になっている。


日本に住みはじめてからだけど、何年も前に見た夢の中で、私は列車から降りて祖父母が住んでいるコマナという村にたどり着いた。幼い頃から慣れ親しんでいたコマナの小さな無人駅のすぐ近くには、沼があるから蛙の声が聞こえる。


真っ直ぐ歩くと交差点がある。右は修道院に行く道、左は森へ行く道、真っ直ぐは祖父母の家へ行く道だ。今は詩人の名前になっているこの道を迷わず歩く。夢なのにあまりにリアルだが、周りの木が全部ジャスミンの木だと気づく。しかも見事に咲いている。駅から家まで道の右左にたくさんのジャスミンの木が咲いていた。


この夢をみたとき、祖父母はもうこの世にいなかった。家で彼らが私を待っているという感覚は強かったけど。


私だけではなく、一緒に子供の頃あの家で過ごした弟も、似たような感覚があったという。祖父が亡くなったあとで弟は家の夢をみたそうだ。


薪ストーブがついている部屋にいたら、外から祖父がいつものように元気な笑顔でロシアンスタイルの帽子を被り、入ってきた。弟は、あなたは亡くなったんだよ、なんでここにいる? と聞いた。そうしたら、僕はずっとここにいたよ、と言われた。祖父が自分の手でコンクリートを流し込んで、祖母と二人で最初から最後まで作った家から、どうやって離れるのか。死んでもできないのかもしれない。


弟の話を聞いて、初めて家というモノに対して深く考えさせられた。

あの家に行くと、今は不思議なことに野良猫しか住んでいない。この猫は勝手に上がり込んで、毎年、一番綺麗な部屋で子供を七匹ぐらい産んでいる。


子供の時、私が連れてきた野良猫を祖母は追い出して、猫が大嫌いと言ったことを覚えている。その理由はあった。家を建てたばかりのことだったみたいだが、祖母の得意な伝統的なカーペットとタオルの作品をしまっている部屋に猫が上がり込んで、子供を産んでいたそうだ。部屋と作品は血だらけになって、それ以来、猫を見るたびに叫んで追い出す祖母だった。


だが亡くなってから不思議なことに、家に猫が上がり込んで子供をたくさん産んでいる。


今でも訪れると、木と庭の植物、祖父が植えたぶどう畑があるのが見える。家も小さくなったと感じるが、まだ生きている。あのぶどう畑に、昔はたくさんのチューリップが咲いて、時に青いネギができて、イチゴができていた。


子供の頃、家から出ると、朝はぶどうの葉っぱで向こうは何も見えなかった。森も近いから本当にぶどう畑の中に狼がいると信じていた。その話を祖母にしたら、祖母は近所の人に話し、更にぶどう畑の向こうの家に住んでいた九〇歳のバァバァ・レアナに話した。そしてその人が狼の声を真似して、私を驚かせた。怖かった。バァバァ・レアナがいなくなったら、狼もいなくなったが、そのことに気づかず、高校生になって、祖母から聞いた。


ある日、祖父がその中でものすごく大きな蛙を見付けたことも記憶に残っている。あの蛙は本当に大きくて、魔法使いの蛙みたいだったからすぐ庭の外に捨てた。


その蛙が来た年に、入り口の門の近くにあった大きなクルミの木が急に枯れて来て、秋までに大きなキノコだらけになっていた。そのキノコを家族で食べた。子供の頃にあの木の下でたくさん遊んでいた。記憶の中で、あの木の下で小人みたいな生き物が住んでいた。みんな、どこへ行ったのか。最後の最後まで私たち家族にたくさんのキノコを残してどこか違うところ行ってしまった。


そのあとは庭の木が皆枯れはじめて、それは最初のサインだった。門から入って、右にクルミの木、左にぶどうの木とりんごの木にライラックの木があった。みんな枯れてしまった。ただ、ぶどうの木だけが今でも強く生きている。


その次の春には、祖母が大きなクルミを土に植えて新しい木の芽が出るのを待っていたが、出なかった。幼い頃のジプシーの二人の女の子の友達の話によると、各家の下には足がついている大きな白い蛇が住んでいる。その蛇がいなくなると、家からその家族はいなくなると言われた。


最近よく家の夢をみる。夢の中で、私は子供の時に住んでいた家に戻った。祖母が待っていた。ずっとここにいたよと言われた。二人でパステルカラーの椅子に座って、テーブルで祖母が作ったジャガイモのトマト煮込みを食べた。庭で採れた野菜が甘くて美味しかった。肌で感じる祖母と洗濯したばっかりのレースのカーテン越しに外の光が穏やかだった。二人でいつも通り静かに食べた。ただそれだけの夢。祖父母があの家にずっといる、今でも、こう感じる。

映画「惑星ソラリス」の中で、主人公が家に戻ったかのようなシーンが最後にある。家のドアの前で自分の父親を抱いている。このノスタルジックなシーンは原作の本になかったし、タルコフスキー監督が作家と喧嘩もして、批判を浴びた。


この映画を何回もみたが、なんでこの終わり方を選んだのか、やっとわかった。ソラリスに預けていた一番大切な記憶があの家だったのだ。遠い未来では、違う宇宙の者が人間の脳を絞ったら、きっと最終的に幼いころの家のイメージが出て来る。お互いに傷つけたり、戦争したり、他の動物を食べたりするが、人間はとてもデリケートな生き物だ。記憶という海の中では必ず家という島がある。その島は未来と過去の家族と出会える場になっていると思いたい。


先日また夢の中で祖父母の家と庭が出てきた。世界の終わりのような背景の中で。地震が起きて、近くの森で火山の噴火まで発生した。庭と家の周りにすごいスピードで土砂崩れが起きた。最終的に宇宙のような真っ黒の中に祖父母の家と庭だけ残っていた。

(「図書」2018年11月号)

アジアのごはん(100)マコモ

森下ヒバリ

秋はマコモの旬だ。そろそろ終わりに近いが、今年はまだ入手可能だ。いつもの有機移動八百屋さんで売っていたので、すかさず買う。マコモを料理するようになったのは、ここ数年のことである。最初はいったいどうやって食べるものなのか、分からなかった。皮をむいて、炒めたり焼いたりして食べるとあっさりしていておいしいですよ、と教えてもらったが、その時は野菜炒めなどに入れて食べたが、ふ~ん?と言う感じだった。

マコモ(真菰)はイネ科マコモ属の多年草で、別名ハナカズキ。水辺に群生し、大きくなると2メートル近くに育つ。じかに見たことはないが、写真で見ると大型のイネ、というかサトウキビみたいな姿である。縄文時代から食べられていた思われ、万葉集にも歌われる。現代でも出雲大社の神事に使われたりしている由緒ある植物。

新芽に黒穂菌が寄生することで新芽の根元の茎が肥大して柔らかくなり、そこをマコモダケと呼んで人間がいただく。茎がよく太って来ると黒穂菌が繁殖して内部に黒い点々が出現れることもあるが、問題なく食べられる。近年はほとんど食材として流通に乗ることはなかったが、食物繊維も多いことから健康ブームで自然食系の店、高級スーパーなどで売られるようになった。

初めて食べた翌年、また有機八百屋さんにマコモが出たので、何となく買った。そのときは他の野菜と一緒に炒めて食べると、淡白だがしみじみおいしいな、と思った。濃い味のものになれていると、つい見過ごしてしまいそうな味であるが、ゆっくり食べているとなかなかいい感じ。そして、固い外皮とピーラーでむいた茎の内皮を捨てようとして、ふと思いとどまった。

黒穂菌が繁殖して茎が肥大する、というのはふしぎだが、皮には黒穂菌をはじめ、よさげな菌がたくさんついていそうである。そのころフルーツの皮や芯に砂糖と水を加えてつくる果実酢づくりにはまっていたのだが、このマコモの皮でもいい酢がつくれるんじゃない?

さっそくメイソンジャーに水1リットル、砂糖4分の1カップを入れよく溶かし、皮を投入。浮いて来るので小さいガラスの蓋で上から軽く重しをする。メイソンジャーのふたは外してガーゼで虫除けのふたをする。ときどきふってやっているうちに、ぷつぷつ発酵してきた。1週間で皮を取り出すが、すでにもうすっぱい酢の匂い。これはいい感じに発酵しているなあ。

皮を取り出したら、毎日1~2回ビンを振って上に白い膜がはらないようにする。白い膜はカビではなく、酢酸酵母の膜なのだ。これをカビと思って失敗だとする人も多いが、けして失敗ではない。かき混ぜてやらないと嫌気性の産膜酵母がもろもろと発生して表面に膜のように増える。まあ、これを放置していても嫌気性の菌が酢を作ってくれるのだが、空気を入れてやり、膜が張らない方にする方がよりすっきりした美味しい酢が早くできる。

2~3週間ほどして、かなり酸っぱくなっていたらガーゼなどで濾して、ビンに詰めふたを閉めて冷暗所に置いて熟成させる。甘みが残っているような場合はもう少し空気にさらしたまま置いておく。

半年ぐらいして味を見ると、パイナップル酢のような臭みもなく、りんご酢のようなりんごのいい香りもないが、淡白でしみじみとしたいい酢になっていた。この果実の皮や芯でつくる酢は、市販の米酢などより、すっぱさが少ないので酢の物をつくるときに重宝している。ソーダで割って飲んでも美味しい。

マコモを食べていると、その淡白なうまみに、ビルマのインレー湖のほとりでみつけた豆の煮汁を煮詰めてつくるポンイエージー(日本では平安時代の文献にも登場する豆いろり)を思い出した。いわゆるダシの素的な使い方をされるビルマの調味料なのだが、これを実際に使ってみると、あれっというほどうまみが少ない、いや・・淡白だ。現代の濃い味付けになれていると、なんだよ、これ、となってしまう。

マコモもゆっくり味わって、うまみを探さないとおいしく感じない。ばくばくっと飲み込んでは存在を感じられないのだ。縄文時代とか平安時代とかの食生活というのは、おそらくこういう淡白なものだったんだろうなあ。

北米アメリカにはワイルドライス、という赤黒いお米に似た穀物のようなものがあるが、何とワイルドライスはマコモの一種、アメリカマコモであった。先住民族のインディアンの伝統的食べ物で、やはりこれも食べるだけでなく神事的な使われ方もされる。マコモはどうやらスピリチャルな神聖な気配をまとっているのかもしれない。

たしかに、マコモはなにかいい感じだ。黒穂菌だけでなく、おそらく人間に有用な菌がたくさん共生している植物なのだろう。そして食繊維も多いから、有用菌とセットで腸内細菌も大喜び。どこかで見かけたら、食べてみてください。縄文時代の狩猟採集民になった気持で、ゆっくり味わってね。

ジョージアとかグルジアとか紀行(その6)

足立真穂

五月晴れの日本を離れて再びジョージアの地を踏んだ。

「一緒にワインを飲む旅に出かけてみない?」と声をかけてくれたのは、日本にジョージアワインを輸入する「ノンナアンドシディ」の岡崎玲子さん。FaceBookで「ジョージア」と連呼していたのが功を奏したらしい。となると、今回は、「ワインのプロ」との旅だ。昨秋この土地を離れる時には思いもしなかった展開だ。こうして書いたりSNSで投稿したり、投げた石はいつのまにか水紋となり広がっていく。

 二度目のジョージア

こうなったらワインの世界をもう少し掘り下げてみよう。

とはいえ、そう言えるほどワインの世界は簡単ではないので、違う目線で見ることにした。

「ジョージア人にとってのワインは、日本人にとっての『鍋』のようなもの」という仮説視点である。単なる思い付きだが、ジョージア人とワインを飲むと、鍋を大勢で囲んだときのような、あたたかい高揚がある。

それは、「同じ釜の飯を食う」感でもあり、安心できる人生の潤滑油のようでもあり、家族や仲間のつながりでもあり、と、ジョージア人にとってのワインは、日本人にとってのワインとは、存在に、桁の違うかけがえのなさを感じるのだ。

右から、ジョン、ショータ、ジョン・オクロ

帰国してしばらくして、3人のワイン醸造者を岡崎さんがジョージアから日本に招くことになったと聞いた。ちょうどこれを書く頃(2019年10月末)に来日し、その3人で、日本の生産者をまわったり、講演会や宴会を開くという。

3人の内、アメリカからやって来てジョージアの有機ワイン興隆の今をつくった立役者のひとりが「PHEASANT’S TEARS(フェザンツ・ティアーズ)」のジョン・ワーデマンその人だ。

もうひとりは、夜景がジョージア一と言われるレストランを持つ、物理学専攻でイギリスの大学で博士号をとったというジョン・オクロ(「OKRO’s Wines (GOLDEN GROUP)」)。ジョンとジョン・オクロ、この二人は同じシグナギという町に住み、ジョンの奥さんとジョン・オクロが幼馴染、だったかそんな近くて古い関係だ。

そして、首都トビリシでの観光業の仕事をやめて北東部の山あいにUターンした、もう一人のショータは30に手が届くかという、次世代のリーダー格(「Lagazi Wine Cellar」)。ジョンがワイン作りの師匠だという。
それぞれ、レストランから畑にまで足を運んだが、クヴェブリの伝統と土地柄を生かしたセンスの良いワインがおいしい。ジョージアのナチュラルワインの世界でも有名な3人だ。

 なぜジョージアなのか?

ジョージアのナチュラルワインの最近は、アメリカ・バージニア生まれのジョンのこれまでをたどるとわかりやすい。菜食主義のヒッピーだった両親の元に育ち、絵を描く才能に恵まれた彼は、モスクワで美術を学ぶ。卒業後、ポリフォニー音楽に惹かれてジョージア中を旅し、トビリシから真東に110キロほどの、「シグナギ」という街で歩を止める。

このシグナギは、ワインの名産地「カヘティ」という地方の地理的な真ん中に位置する。周囲を一望できる山上にあり、18世紀の城の壁に囲まれた、石畳の輝く有名な観光地で、ここから見るコーカサス山脈はこの世のものかという天空の景色だった。この絶景に、ジョンも惚れ込んだのだという。

シグナギの街を隣の丘からのぞむ

「愛の街」としても知られており(街の広場には、コインを投げると恋が成就するといったコイントスの泉もあった)、アートや音楽を愛するジョンには魅力的な街だったのだろう。さすが「愛の街」で、後に結婚するジョージア人女性とも出会い、時々旅をしながらも、落ち着くことになったという。そうそう、ジョンは180センチ近い大柄な体格で、俳優のラッセル・クロウに似ているという人が多い。確かに似ているのだが、ラッセル・クロウをテディベア化したというのが表現としてはしっくりくる。そして、「この人に任せれば大丈夫」と周りの人を安心させる不思議な空気があって、いつも人の輪の中心にいる。

シグナギの街にあるジョンのレストラン「フェザンツ・ティアーズ」。

「なぜジョージアだったの?」と、この話を聞いて、思わず私は尋ねてしまった。「アメリカはどうも性に合わなかったんだよね」と、ジョンは穏やかに答えてくれた。ジョージア人男性は、宴会でポリフォニーで歌うことがあるのだが、ジョンはこの名手と言われており、音楽に惹かれたことも大きいとは言う。けれど、ジョージアは、いまだに道路はガタガタでインフラが整っているのはトビリシなど都市圏だけだ。中心を離れると、電気や水が通っていない地方もまだ多い。豊かなアメリカの方が便利で快適な暮らしではないのか。

観光などで大都市に旅をしたことが数度あるだけの私には、アメリカの実情がよくわからない。ひとつ言えることは、ジョンの幸せの閾値は、アメリカにはなかったということなのだろう。絶景を前にすると、少なくとも便利さは幸せの絶対条件ではないように思う。

故郷で実家が農業を営んでいたわけでもなく、ましてやワイン造りにも土地にも縁がなかったジョンがワインづくりを始めた理由はなかなかおもしろい。「近くに住んでいたワイン農家の人に薦められたから」とだけ当初聞いたのだが、ジョンが親しくしているニューヨーク在住のジャーナリスト、Alice Feiring が書いたジョージアワインをめぐるノンフィクション『FOR THE LOVE OF WINE:MY ODYSSY THROUGH THE WORLD’S MOST ANCIENT WINE CULTURE』(ワインを愛するがため~世界最古のワイン文化をめぐる私の冒険/拙訳)にそれは詳しい。参照しつつ、私が取材したことも含めると、その経緯はこうだ。

子供にも恵まれ、お金はなくとも絵を描く満ち足りた生活の中、ある日、ジョンは畑で絵を描いていた。そこに来たのはトラクターに乗った農家のゲラさん。トラクターの上からいきなり夕食にジョンを誘い、「俺たちは話す必要がある」と叫んで去って行った。唖然とするばかりのジョンの家に次にはやってきて「子供たちを収穫に連れてきて、ぶどう踏み(ぶどうをジュースにする作業)をやればいい。その魔法を見たら考えは変わる」と言う。どうもワイン作りをさせたいらしい。それでもワイン作りには興味がない画家のジョンが放っておいたところ、収穫の最終日にぶどうをトラックに山積みで持参。結局ジョンは、ぶどうを家族と踏み、新鮮なぶどうジュースのおいしさに打ちのめされる。そして、いつしか彼の家でゲラさんの母親の手料理でワインを飲み、ジョージアのブランデー「チャチャ」を一緒に飲むことになっていた。おもむろにゲラさんは語りだす。

「少なくとも8世代にわたって家族でワインをつくってきたこと。ジョージアには520種類ものぶどう品種があること。害虫にも他国の侵略にも負けずにここまで守り抜いてきたこと。ソ連は、市場で人気のワインを大量生産するように仕向けてきたこと。だから手間のかかるクヴェブリは絶滅の淵にあること。でも、ジョージアの固有の品種を守りたいこと。伝統的なクヴェブリの醸造方法を知る最後の世代であり、誰かに伝えなくてはいけないこと。誰かの助けが必要なこと。そして、それはジョンであって、自分の土地を買ってワインづくりをしてほしいこと。」

当時のジョージアの問題を投影してあまりあるその言葉を聞き、農業の経験もない画家は、結局その土地で、ワインづくりを始める。ゲラさんの始めたPHEASANT’S TEARSに参画し、いまでは畑を拡大し、417種の固有種を植え、ワインを作りながら3軒のレストランを運営し、ジョージアのナチュラルワインの興隆ために日本やアメリカはもちろん、世界中を飛び回る生活だ。彼なりに、ジョージアにいる理由を確固とそこに見出したのだろう。

 人をもてなす喜び

ジョージアでは、客が来ると、ないしは少しでも人が集まると、宴会(スプラ)となる。手作りの料理が所狭しと並び、ワインが注がれていく。最初はビールで次はワイン、とチャンポンにすることはめったにないそうだ。このスプラを大事にする姿勢には驚くほどで、宴会を仕切り、盛り上げる「タマダ」という職業さえ存在する。有能なタマダはタレントのように人気があり、よく知られているそうだ。場を見て、うまくまとめるタマダは尊敬される存在でもある。

タマダは役割でもあるようで、参加者のうち、年長者、立場のある人、ホストの誰かが担うことも多い。家にやってきた客を神様が送ってくれたとするジョージアのおもてなしは、本気だ。タマダが最初に、そして参加者が順番にあいさつをし、杯を空けていく。たとえば、私は順番がまわってきたときに「このすばらしいワインをつくってくれたジョージアの大地に!」とやけくそで叫んだところ、大いに場がわいた(と、思わせてくれる)。そしてひとりが何かを言祝ぐたびに、立ち上がって全員が注がれたワインを飲み干すのが礼儀だ(飲めない場合は少な目に頼んだり断ったりすることもできる。そのあたりもタマダ役が見てくれている印象だ、と信じているが……)。その場の誰かの幸せや未来を互いに言祝ぎ、祈ることで場は高揚し、共鳴していく。

それほどに、その場にいる人間が同じ時間を共有し、一致することを尊ぶのだ。どうもこれは多民族多宗教のお国柄だからではないかと思う。ワインを通じて、友好や賛辞の言葉を重ね、杯を重ねることで時間や気持ちを共有し、関係性を築くのだ。それはもはやタマダを含むある種の「型」にさえなっている。

それが日本でいえば、鍋を囲むことに似ているのだ。多様性が高いので、鍋を囲むように悠長にはしていられないのかもしれないし、ジョージアでは自家製ワインを出せる家庭も少なくはない。たとえるなら本来の茶の湯もそうだったと思う。日本でも戦国大名は、武器を置き身動きの取れない狭い茶室で、ともに同じものを口に入れ、茶を一服することで融和を図った。現代でも、茶事で一緒になった相手に対しては強い親近感が生まれる。それと同じことをスプラで行うのだ。

今回、東京での「ジョージアワイン」をテーマにした講演会で彼はこう話をしめくくった。

「ジョージア人にとってワインはa way of life です」。

これをどう訳すかは解釈次第だが、人生のあるべき姿、とでもいえるだろうか。家族の生活の中心にあるものだとも強調していた。ワインを飲む宴会に参加すると、歌い踊り、料理を楽しみ、ひたすら語る。一緒になった人とは、家族のことまで含めて深く知り合い、親しくなれる。ワインは人間の間をつなぐ重要なものだ、と言うのだ。

結局、「ジョージア人にとってのワイン」を考えることは、人間関係の真髄にいつしか触れることになっていく。私が短期間のあいだにジョージアに再び来たくなったのは、この関係性が心地よかったからかもしれないと自分でも思う。

ジョージアで出会ったフランス人が言っていた。

「ワインを飲む原点がここにはあるんだよね。フランスでは、ボルドーの〇〇とか、格付けばかりになってしまっているから」。

日本は、どうだろうか。

<情報欄>

このジョージアの特異な自然派ワインによる人のつながりを描いたドキュメンタリー映画が、『ジョージア、ワインが生まれたところ』と題して日本でも11月1日(金)より公開とのこと(シネスイッチ銀座、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほかにて全国順次公開)、映像で確認できるかもしれない。

また、ジョンは、現在20種類以上のワインをつくっているという。ほかのふたりのものも含め大地を感じさせるジョージアの自然派ワインを飲みたい方はこちらから。

仙台ネイティブのつぶやき(49)ウィルス上陸

西大立目祥子

 ひどい風邪に見舞われた。
 熱が出たのは10月1日。「水牛」の10月号の原稿を書き上げた晩、動くのがいやになるくらいのだるさに襲われ、翌朝はノドの痛みと咳で目が覚めた。起き上がる気にもなれず、完全ダウン。
 咳が激しいので、2日目にすぐ近くの内科に行った。壁に寄りかかっていないと待っているのもつらいほど。ふらふらしながら帰ってきて、処方された薬を5日間、真面目に飲んだ。でも、よくなって行く感じがしない。たいてい風邪は3日目くらいから回復していくものなのに、7度台の熱がだらだらと続いた。

 この7度台の熱というのが曲者だ。頑張れば動けてしまう。母の介護もあって1日中寝ているわけにも行かず、とはいえ90歳の老人にうつしたら大変なことになるので、マスクを2重にして手を何度もアルコール消毒して、よろよろと買い込んだ夕食を食べさせに通う。予定に入っていた会議にも出席し、ずいぶんと迷ったけれど、前売りで買っていたチケットを持ってコンサートにも行った。でも、座って目を閉じると、すーっと気を失うような感じ。ステージに近い席なのにオーケストラの音もピアノもずいぶん遠くて鳴っているようで、結局、半分で切り上げて帰ってきた。

 こういう無理がいけなかったんだろうか。熱は1週間たっても下がらなかった。毎晩、発作のような咳で何度も目が冷め、食欲もないから、体重が減ってきて筋肉が落ちて行く感じがリアル。年寄りがひと月入院すると歩けなくなるとか、そんなことがじぶんの身にも起きるんじゃないかという気さえする。これって、ほんとに風邪? 不安にかられる。

 じぶんでも頼りない、力が入りきらない足腰。熱っぽくどこかふわふわした感覚。この感じ、覚えがあるよな…とたぐり寄せたのは中学1年、13歳のときわずらった病気の記憶だ。秋が深まったころに、両親、叔父叔母、従兄弟たち一族郎党で岩手のゆかりの地を訪れたあと、疲れがたまったのか寒かったのか家族みんなで風邪をひいた。扁桃腺が腫れ上がり熱が出て学校を1週間も休んだあと、もう大丈夫と家を出た朝の体がそんな感じだった。歩いていても地面にしっかりと立っている感覚が弱くて、カバンを下げてもひどく重たく感じ、通うこと3日。結局また体調が悪くなり、尿にたんぱくが出たのだったか腎盂炎と診断され、3週間も休むことになった。

 首まわりのリンパもあちこち大きく腫れていた。母も入院の事態となって、別居していた祖父祖母がひと月ほど面倒をみにきてくれたのだったが、祖父が「こんなに何カ所も大きく腫れて、何か他に病気が隠れているんじゃないか」と私のやせた首にできたグリグリをさわり、心配そうに顔をのぞき込む毎日が続いた。栄養になるからと、根菜から葉物まで、野菜を細かく刻んで煮て仙台味噌を溶いた具だくさんの汁物を、朝も晩も飲まされた。

 でも、病院にいっしょに行ってくれたことはなかったと思う。明治生まれの祖父母にとっては、13歳というのはじぶんの体の具合をじぶんで感知して医師に説明できる年齢という意識だったのだろうか。回復して通学するようになってからも学校から帰るとカバンを置き、日に日に夕暮れが早くなる道を10分ほど歩いて内科に通った。薄暗い診察室で診てくれるのは、眼鏡の年配の先生で、聴診器を当て、喉をのぞき、首をさわり、横にされると腎臓の具合を探るのか、お腹もていねいに触診された。たまたまいた看護婦さんは、同級生のお母さんでいつも何かと気づかってくれた。

 ずっとあとになって、祖父も同じ年頃のとき胸膜炎になって学校を長期休学し、一人薬をもらいに病院へ歩いて通っていたことを知った。病気の子どもは、一人で痛みや不安に耐えている。弱っているからこそ神経は鋭敏になるというのか、まわりの大人の気づかいがどんなに暖かいものだったとしても、思春期になればその暖かさの奥にある心配や不安をも察知する。思慮深かった祖父は、たぶん目の前の弱っている孫にじぶんも味わったその境地を重ね見ていたと思う。

 その頃は、一人薄暗い穴の中にいるようで、穴から見える外の風景は青くてまぶしくて、元気に動きまわる友だちの姿はずっと遠くにあるようだった。“からだの弱い子”というまわりからの視線に、情けないようなくやしいような思いもあるのだけれど、かといってそこに立ち向かう力が身の内からわき上がってこないどうしようもなさ。くぐもった気持ちを抱え、穴の中で黙って体が回復するのを待つほかになかった。

 それはもしかすると、野生の動物が傷んだ体を回復させるのに、群れから離れて静かなところで時間が過ぎるのに耐えるのと近いかもしれない。傷が深ければそこで命は尽きる。力が湧いてくれば、エサを獲りに穴蔵をあとにできるだろう。

 振り返ると、幼児期から思春期の入口までは病気ばかりしていた。畳の上の布団に一日中寝かされていると、窓の外には空ばかりが見える。この風邪でも、じっとして秋晴れの雲の流れを見ていた。外はまぶしい秋晴れなのになぁと感じながら。腎盂炎を診てくれた先生には「あなたは体力もないし、こういう病気をしたのだから、大人になってもあんまり無理はできないよ。ずっと体を大事にして過ごしなさい」といわれた覚えがある。

 学校を卒業して働くようになり、地域づくりの手伝いに海や山へ出かけるようにななった30代、私は一転してエラく頑健になり、めったに風邪をひくこともなくなった。出張して夜に会社に戻ってから原稿を書くとか、間に合わなければ朝までパソコンにかじりつくとか、そんなこともへっちゃら。社内でもタフなヤツと評され、「いやあ丈夫だよなぁ」と面と向かっていわれることもあった。

 それがどうしたことだろう。この風邪の居座り方は。
 結論をいうと、熱が下がったのは発熱の2週間後。それからさらに2週間、ゲボゲボと咳をしてひどい鼻声で過ごしてきた。今日は31日。ようやく咳がおさまりつつあるが、なんとひと月も体はウィルスに乗っ取られたままなのだ。

 人の一生を白い紙に曲線グラフで描いて、40歳くらいの壮年期のところで2つに折ると、幼年期のかたちと老年期のそれは相似形になる…というようなイメージが私にはある。社会の中で身につけたものが、老年期になるとほどかればらけれていって、子ども時代の「素」の状態に戻っていくような感じだ。

 としたら、まさかこの回復力の弱さって、寝込んでばかりいた幼年期を再現するような老年期の最初の一歩? いやいや、食べて寝てウィルスをまずは追い出しておきたい。

 みなさま、あちこちで聞きますよ、この一カ月に及ぶ風邪。どうぞご自愛ください。

バンドエイド

北村周一

ジーンズと同色のシャツを着こなしてジョン・ケージ氏は大股である

ケージ氏は無類のキノコ好きなればたまに搬ばれて胃洗浄する

鼻みずが出たり引いたり哀しみのボレロ真白きマスク震わす

仁丹の粒をふふみしくちもとに譜面をよせて武満氏あり

ミニマルは打楽器がよろしなかんずくマリンバにわれ感情移入す

私に遮られない休息を教えみちびく秋の日あらん

アスハルト上に貼りつくいちまいのバンドエイドを跨ぎゆく足

世界一目立たないから中古車の白のカローラ、テロにも使う

水槽は人寄せやすく処方箋受付薬局の嵌殺し窓

球根はビニール袋を突き抜けて鋭しアラビアン・レッドの発芽

魂のぬけ殻でしょうか葉先より葉枯れせしこのアガパンサスは

眠剤の種類をかえてまたひとつ色の異なるゆめに繋がる

満月やじいとばあとがいい合える平屋の家の前のしずけさ

奏でるとは同時に曲を作ることだとグールドが語りつつ弾く

始まりと終わりがどこにあるかさえほほ笑みのなかJohn Cage氏の

180 Dark Country

藤井貞和

                   In the same inn
                   Prostitutes(遊女), too, staying –
                   bush clover and moon
                          Basho(Okunohosomichi)

The wandering blind women singers
left behind their songs,
songs that encircle our visible world.

In Takada(高田) in Joetsu(上越) near the Japan Sea
the trees climbed all at once by visionary children
the dark beyond the told legends
colder than chilled sak?—the human chests …

Out of luck, it’s raining,
but you can hear screams
from after the songs.

1’ve never been in this town before
but I feel at home already.
When I imagine how thousands
of pale faces must belying asleep,
you bear visionary children.

      ”Dark country?
      It’s right here, the north country.
      A dark night you have to go through.”

You move
down my belly
like words.

      ”This is a winter town.
      Ha-ha, I sell my spring body
      and your mara,
      your prick’s bent, Karl(curled)Marx!”

You play the way words do,
the way words …
But what are my words?
Now, my words, where are they?

Hearing the blind women’s frank songs,
a moment’s sensual vision.

(Translated by Christopher Drake. 1990. Pornographic poem—porno means prostitutes. 瞽女唄のチャリに応えて。「まだいろんなことができるでしょ」に励まされながら。)

長い足と平べったい胸のこと

植松眞人

 バスタブに身体を沈めて、じっと息をひそめているとリビングルームで誰かがお茶でも入れているのか、食器がカチャカチャとぶつかる音が微かに聞こえてきて、もうそれ以上静かにはできないのに、もっと静かにしなきゃと身体をこわばらせながら、浴室の灯りを消せばいいのかと思ったけれど、もし、それがママだとして真っ暗な浴室のドアを開けて、わたしが息をひそめてお湯に浸かっているところを見つけたほうがきっと驚いて、灯りがついていたとき以上に叱られるに決まっている。

 いやもうそれ以上に、リビングの椅子の背もたれにわたしはブラジャーやパンツを引っかけるように脱いできたので、それがママであろうとパパであろうと、いまごろお茶を淹れながら、わたしがお風呂に入っていることはもうわかっているはずだよね、とわたしはわたし自身と話すように声に出さずに話してみる。そして、そんな会話が成立するなら、自分だけのセルフテレパシーみたいだ!と一瞬大発見をしたような気分になったのだけれど、そう言えば同じように感じたことが以前にもあって、それは大嫌いな数学の授業中のことで、数学のアキモト先生が発言した何かに、わたしが一人ぶつぶつと小さな声で人知れず反論していた時のことだった。でも、それは隣の席の誰かから見れば、いわゆる独り言を言っている状況で、いやもしかしたら、もっとややこしい多重人格的な何かかもしれず、少し前に学校の授業中に逃げ込んだ保健室のヨネダ先生にそう言ったら、先生はついこないだ大学を卒業したばかりで、高校生のわたしたち女子から見ても、かわいいという声しか上がらないくらいの見るからに勝ち組の容貌からは考えられないほどにえぐみのある声で、「よっちゃん、それやったら、自分の中に何人の人格がおるか、わかるんか」と言うのだった。わたしは「何人かはわからんけど、けど、二人以上はおる気がします」と、ちょっとえぐみのある声にビビってしまって答えたのだけれど、ヨネダ先生は今度は要望通りのこちらが女子にもかかわらず惚れてしまうやろと言ってしまいそうになる声で、「ほな、一人目はどんな人?」と小首をかしげながら聞くのだった。わたしは「えっとえっと、そうやな。なんとなく、私の弱いとこを責めてくるタイプの嫌なやつやねん」と答えると、またまたヨネダ先生は「そいつは、どんなこと言いやんの?」と優しく聞いてきて、わたしはその優しい声に誘い出されるように、アホみたいな声で「お前は大学にも通らへんようなだめ人間や!とか言いよんねん」と答えると、先生は「ほなあれやろ、また別の人がよっちゃんの中で、うるさい、うちかて頑張ったら大学通るかもしれへんやないの!とか答えるんやろ」と言うので、わたしが「そうそう!」と答えると、ヨネダ先生はさっきまでの優しい顔がプロジェクションマッピングで投影されていた顔みたいに、一瞬にして真顔に戻って、声までエグいオッサンみたいな声になって、「それは多重人格とかやのうて、ただの鬱陶しいウジウジした人間や!」って怒鳴りはってわたしは、漫画みたいに「ひゃっ」みたいな自分でも聞いたことのないような声出して保健室から逃げてきたんやった。

 バスタブのお湯がなんとなく冷めてきたので、わたしは追い炊きのボタンを押してから、唇ギリギリまでお湯に浸かって、またまた耳をすましてじっとリビングの物音を聞いてみるのだけれど、もう何の音もしない。きっと、こんな時間にお風呂に入っている出来の悪い受験生の娘を優しい気持ちで放っておこうと思ったのだと納得はしたけれど、それはそれで一声かけて言ってもいいんじゃないのという気持ちは拭えない。拭えないけれど、もう誰にもじゃまされることがないなら、とそっち立ち上がって、真っ裸でバスタブから出て、浴室のドアをほんの少し開けて、手首から先だけを出して、灯りのスイッチを探り、パチンと消した。すると、二つあったスイッチを同時に消してしまったようで、浴室の中も脱衣場も一気に真っ暗になり、わたしは身動きができなくなって、慌てて、そのままの体勢でもう一度、スイッチを押して灯りをつけた。今度は、浴室の中の灯りだけがついた。真っ暗な中でお湯に浸かろうと考えていたので、わたしはさっきの反省を踏まえて、浴室の中の動線を確認した。狭い浴室だけれど、間違えて洗面器を踏んでしまったらひっくり返ってしまうかもしれない。いまの体勢から一歩あるけばバスタブに突き当たる。そして、その縁を手に持って用心深くバスタブに入れば問題はない。と納得して、私は自分の通り道を何度か目視で確認した。すると、洗い場につけられている鏡に目が入った。わたしの生っ白い裸が映っている。長い足が映っていたので、わたしはその足を少し曲げたり伸ばしたりしながら、自分の足の長さに見とれた。見とれながら足とは正反対にあまり見たくない平べったい胸が見えてしまい、大げさにため息を吐いてみた。わたしの胸は実は同級生のなかでも早めに大きくなった。小学校の五年生あたりで、ちょっと大きくなった胸は同級生たちの注目の的で、六年生になると同時に担任先生がママに電話をして、スポーツブラを付けさせるように言ったそうだ。ママは、まだ大丈夫、娘の身体は母親がいちばん解っていますから、と言ってやったと興奮していたけれど、改めて私の上半身を裸にして、まじまじと胸をみて、翌日の土曜日には近所のショッピングセンターにスポーツブラを買いに行ったのだった。そして、わたしはそんな事態を迎えて、不安と期待が入り交じっていて、このままわたしの胸が大きく大きくなったらどうしよう、巨乳とかになったら恥ずかしくて高橋くんの前に行けなくなったらどうしたらいいんだろうとか、思っていたのだけれど、そんな心配をよそに、わたしの胸は誰よりも速く大きくなり始め、、誰よりも速く大きくなるのをやめてしまい、それと同時くらいに背が伸びて手足が伸びて、胸の膨らみは身体全体の中のバランス的になかったことのようになり、山でいうたら天保山くらいの、虫刺されでいうたら蚊に刺されたくらいにしかならなかった。

 そんな平べったい胸がいま鏡に映っている。わたしは悔し紛れに、フフッとニヒルに笑ってもう一度、浴室の灯りを消してみた。真っ暗になった浴室になかで、さっきまで鏡に映っていたわたしの裸が残像のように残っているようだった。わたしは何度も確認した動線の通りにバスタブに浸かり、頭でザブンと潜ってみた。お湯が溢れて、ザーッと言う音が、くぐもってわたしの耳に伝わり、しばらくすると静かになった。しばらくの間、じっと目をつむってわたしはお湯の中にいた。そして、ゆっくりと息を吐きながら、少し前にパパとみた『地獄の黙示録』という昔の戦争映画の主人公が濁ったメコン川から顔をのぞかせるシーンを思い出しながら、ゆっくりと顔を出した。目を開けても灯りが消えた浴室は真っ暗で、それなのに、さっき残像として映っていたわたしの裸が見えた。細くて長い、生っ白い足と、なんだかゴワゴワと毛が生えたあそこと、そして、平べったい胸が順番にわたしにわたし自身のことを思い知らせるように迫ってきた。真っ暗な浴室のなかで、わたしは自分の細くて長い足とゴワゴワしたあそこと平べったい胸の残像をずっと見ていた。それを見ていると、なんだか最近、世の中にもの申したい気持ちいっぱいで暮らしていたのに、おい、お前なんてまだまだ子供で、まだまだ男か女かわからないくらいに弱々した存在じゃねえか、と言われているような気がして、急に心細くなってきてこのまま浴室の灯りもつくことはなく、わたしは誰にも見つけられないまま、ずっとここで過ごさなければいけないのかもしれない。どうしよう、どうしようと思っていると、身体まで湯冷めしてきて、わたしはわたしの裸の残像も消えてしまった真っ暗な浴室の中で、まるで親からはぐれた鹿かなにかの草食動物のように手探りで、小さく震えながら湯船をさぐり、ゆっくりとお湯に浸かった。ざあっと、お湯が流れる音がして、私はさらにゆっくりと湯船の中に肩まで浸かった。湯船の中のお湯は、さっき追い炊きしたおかげで、ちょうどいい加減だった。いつまでも入っていられそうなくらいに気持ちもいい温かさだった。(了)

遠藤ミチロウ追想

若松恵子

時代が令和に変わって、最初に飛び込んできたニュースが遠藤ミチロウの訃報だった。お祭りムードに水を差すような、最後までミチロウらしいなという感じがした。

浦和の古本屋で、パーカッションの関根真理と結成したばかりのユニット、ハッピーアイランド(福島のことらしい)を聴いた夜が最後になってしまった。アコースティックギターで歌うミチロウにやっと間に合って、これからを楽しみにしていたところだったから、彼の歌をもう聴くことができないのは本当に残念だ。

その夜、終演後に「セットリストをください」と話しかけた若者がいて、「セックスしてください」と言われたと聞き間違えたミチロウは、絶句してしまった。聞き間違え方の経路もミチロウ独特だなあと思うけれど、きっと、一瞬、本気でどうしようかと迷ったに違いない、そう思うと忘れられないエピソードだ。日経新聞の追悼記事で渋谷陽一が「人柄の良さ」と表現していたけれど、遠藤ミチロウはそういうやさしい人だった。

10月14日に、渋谷のクラブクワトロで追悼ライブ「死霊の盆踊り」が開催された。年代も音楽スタイルも多様なメンバーが集まって、ミチロウの世界の幅の広さを改めて感じる5時間だった。ミチロウなしのMJQ(山本久土とクハラカズユキ)と羊歯大明神(山本久人、関根真理、石塚俊明)の演奏が心に残った。音頭をギター1本で支えていた山本久土が、ミチロウの代わりに歌った。ミチロウのスピリットは、彼が継いでいくんだなと思った。

来場者に配られたパンフレットには、丁寧につくられた年譜が載っている。ヒッチハイクで山形から九州に旅行する、頭脳警察や友部正人のコンサートを大学で企画する、大学卒業後にネパールなど東南アジアを1年間放浪する・・・。初めて知る若き日のミチロウの足跡。年譜に添えられた若いポートレートは、女の子みたいな髪型で、笑う目元が本当にやさしい。

誰もいない映画館

笠井瑞丈

10月18日祖母が亡くなった

5年過ごしたドイツから父と二人で日本に帰る
私は9才から11才の2年間を祖母と過ごす

あまり父も家にいなかったので
おおくの時間を祖母と過ごした

ドイツの学校から
日本の学校に移る

最初は日本の環境に慣れることが出来ず
友達も作ることが出来なかった

ドイツでは野原を駆け回って
サッカーをしてよく遊んでいた

日本ではちょうどファミコンが一大ブームの時であった
遊ぶと言ったら誰々の家に行ってファミコンをして遊ぶ

私にはまだその「誰々」というものがいなかった
学校終わりはいつも「今日誰々の家に何時に集合ね」

私の友達は祖母であり
私の母親は祖母であった

日曜日は必ず教会に連れてかれた
そしていつも千円を渡され
好きな本を買う
この本を探しに行く時間が
私にとってはたまらなく
大好きな時間であった

当時私はジャッキーチェンが大好きであった
ジャッキーチェンの本を買ったつもりが
間違えてブルースリー の本を買ってしまった

しかしこの時買ったブルースリーの本が
初めてカラダというものを捉える
きっかけになった本になる

それから

ブルースリー に毎日どっぷりはまり
彼のようになりたいと日々没頭した
カラダを動かし
足を高く上げる
回ったり
飛んだり

今考えればあの時が初めての
ダンス体験だったのかもしれない

金曜ロードショー

テレビの前に椅子を並べ
自分だけの映画館
作る
誰もいない映画館
作る
祖母だけがいつも観に来てくれた

毎週映画を観た

私の中の一番の最高の記憶

亡くなる三日前

祖母の目の中のには炎を見た

その瞬間に
全ての時間がよみがえった

ありがとう

私の中にあなたがいる
あなたの中に私がいる

また一緒に映画を観よう
サヨウナラ サヨウナラ サヨウナラ

ハロー、グッバイ。サブリーンの思い出

さとうまき

10月16日は、イラクのある少女の命日だった。

サブリーン・ハフェドが亡くなってちょうど10年。僕は、仕事をやめて、つらい状況に追いやられている。仕事から離れたら僕と付き合っても金にならないから人はどんどん去っていく。一方で、それでも付き合ってくれる優しい人たちもたくさんいることはうれしい。

イブラヒムというイラク人がいて、彼のことを本気で心配して面倒を見てやった。彼はその当時、妻をがんで亡くして途方に暮れ今の僕のようにつらい状況だった。いつしか、仕事を手伝ってもらうようになって、サブリーンという貧しいがんの少女を見つけてきて絵をかかせてみたのは、彼のお手柄だった。その後、様子をちょくちょく見てもらうようになった。僕のお目当てはいつも決まって、彼女が描く絵だった。

右目を摘出して左目だけで描く絵は、線がぶるぶるとしていて躍動感があった。彼女が、「私のことを忘れないで」って言い残して私に遺品をくれた。今回、僕は仕事をやめるにあたり、彼女の描いた絵も何枚かは手元に置いておくことができた。サインペンで描かれた絵は、彼女が生きたという証拠そのものだった。僕は、毎年彼女の話を講演でしてきた。

初めてイラクに行って、小児がんの先生に支援をしたいといったら、「たとえ一回薬を届けてくれても、それじゃ子どもたちは助からない。偽善にすぎません」ときっぱり言われた。偽善だって? 上等じゃないか。偽善でも偽悪でも何でもいいから、結果を出せばいい。15年間薬を届けることができたのだから。でもサブリーンだけではなく、僕と一緒に絵を描いた子供たちの多くが亡くなっていったことは悔しい結果だったが。

5年位前にイブラヒムに連れられて、サブリーンの遺族を訪ねたことがある。貧困地区でごみ収集で生計を立てている人たちがたくさん住んでいる地域だ。鉄くずもあり、劣化ウラン弾で攻撃された戦車などが集められていたから放射能汚染していたのだろう。あのお母さんや妹たちはどうしているのだろうか様子を見に行ってくれるとイブラヒムは」約束していた。しかし、その後イブラヒムからは連絡が来なくなって様子がおかしかった。バスラの治安も悪くなっているというので電話をしてみた。

イブラヒムは、「申し訳ない。私にも生活をしていかなければいけないんだ」彼はおびえていた。「これ以上連絡をしてこないでほしい」という。頼んでも彼はもはや動いてくれなかった。10年前は、毎日イブラヒムがサブリーンの様態を伝えてくれて、僕がそれをMLで発信して多くの日本人がサブリーンのことを心配していたのだった。

関西や松本や札幌で、かつてサブリーンのことを心配して涙した仲間たちが僕を呼んでくれた。「私のことを忘れないで」といって死んでいったサブリーン。僕は、サブリーンのことを今までのように話した。そかし、講演が終わるとどっと疲れて、つらくなった。イブラヒムは、すべて忘れてくれという。

イブラヒムはサブリーンと僕を結び付けた絆だった。サブリーンは作られた物語の中で生きていく。その物語には、僕は出てこないのだ。物語は真実だったのだろうか? 感動的な話は、僕が勝手にいろいろ勘違いして、さらに感動的に変えられていったのだろうか? そのことを一緒に語ってあの時こうだったよね? って確認しあえるのはイブラヒムしかいなかった。僕は講演会で話してホテルに戻ると薬を飲まないと耐えられなくなっていた。

でも僕の手の中には、彼女がつけていたサングラスや、洋服、スカーフといった抜け殻。そして魂の入った数枚の絵には、「まきへの贈り物です」と書いてある。それらは、イブラヒムがすべて届けてくれたものだった。そのイブラヒムも僕の目の前から消えていったが、それでも、僕には何かが残っていた。天国への階段があって、それを登っていくとサブリーンが待っている。透き通った心の少女が待っている。

アッサンブラージュ展

11月22日―27日 11:00-19:00(最終日は17:00まで)ギャラリー日比谷

千代田区有楽町1-6-5

グループ展ですが、さとうまきのコーナーでサブリーンの原画と、サブリーンのオマージュ作品を展示します。

しもた屋之噺(214)

杉山洋一

静岡駅で鯛めしを二つも買い込み、早速食べてから、これを書いています。子供の頃から、父方の祖父母の住む湯河原に出かける愉しみの一つが、小田原か湯河原の駅で「鯛めし」を買ってもらって東海道線から海を眺めながら食べることでしたから、三つ子の魂なんとか、です。

隣で垣ケ原さんが、我々が今聴いてきたばかりの、藤木さんと福田さんの「死んだ男の残したものは」の素晴らしさを、「あれほど、歌詞の意味をわかって歌ってくれる人はいない」と繰返していて、その言葉どおり、演奏中には周りで洟をすする音や、ハンカチを目にあてる人が沢山いました。ああこれが本当の歌なのだなと感じ入るばかりでした。

道中、この武満さんの歌に端を発して、垣ケ原さんと年末に大阪で演奏する彼の60年代の作品に流れる芯の力強さについて話し、その決然とした信念のようなものは、一昨日の悠治さんの作品にも通じるという話から、先日FMで放送された、湯浅先生のNHK放送用音素材の話にもなりました。

あの時代の音楽や文化には、既視感がないのです。すべてが躍動していて新鮮で、何でもやってやろう、見てやろう、という、貪欲なまでの率直な音への愛情に満ちています。それが、湯浅先生が仰る「未聴感」につながってゆくのでしょう。まあこうなるだろう、どうせこうだろう、という諦観の欠片もない。まるで初めて遊びや物事を吸収する子供のように、好奇心に彩られて全てが愉快で、何物もが掛け替えのない豊かな時間を育んでいたように感じられます。

先日の演奏会の折、悠治さん曰く、当時の作曲は、こうやったらどうなるか試すためだけに書き、書いてしまえば務めは終わったものだったそうだけれど、本来の瑞々しい音は、そうした切っ掛けこそが産み落とすものであったのかもしれません。

垣ケ原さんは、悠治さんこそ常に一番前衛だったに違いないと力説していて、ある人が先日の演奏会の後、50年前当時、情報量が複雑すぎて理解できなかったことが、漸く現代になって、聴衆も処理できる能力を身につけてきたのだろう、と話していたのを思い出しました。「だから結局、悠治さんが一番前衛だったんだよね。ご自分でも気が付いてらっしゃらなかったかもしれないけれど」。そう言って、垣ケ原さんは新横浜で下車してゆきました。


10月某日 ミラノ自宅
家人が日本に戻っているが、息子の弁当の準備は友人にお願いしたので、ゆっくり6時過ぎに起きて、朝食だけ作る。ジャガイモを炒め、上に新鮮な卵の目玉焼きを載せてサラダを添えるだけでも、ただ甘いパンを食べるよりは良いだろう。子供時分に母がやってくれたように、半分に切ったグレープフルーツにナイフを入れて食べやすくして、傍らにならべる。当時は、グレープフルーツの果肉より、食べ終わりそれを絞ってジュースにして呑むのが楽しみだったが、息子はそこには興味がない。よって息子の分もジュースを愉しむ。

息子を学校に送り出し、こちらは折り畳み自転車に跨ってサンタゴスティーノまで走る。そこから中央駅まで15分弱地下鉄に乗り、特急でボローニャへ向かう。

ボローニャの劇場は、駅から歩けない距離ではないが、それでも歩けば15分程度かかるから、自転車を飛ばして5分程度で辿り着けるのは有難いし、今日のようにリハーサル前に、公園で譜読みの続きをして劇場に向かうとき等、便利この上ない。どういうわけか公園では蠅が煩くて、手で蠅を払いつつ、少し汗ばむ陽気の下カセルラを読む。

リハーサル終了後、ボローニャ駅から電車に乗り込むところで、息子に電話をして、家の近所のバールで待ち合わせて夕食を摂る。家に帰ってから料理をするより、早く食べられるし、息子を寝かせることもできる。

10月某日ミラノ自宅
マリピエロの6番交響曲は、一見とても単純そうな楽譜だが、演奏は意外なほどむつかしい。デキリコの所謂形而上絵画にそっくりで、形而上音楽とでも呼びたいが、書かれている音楽と演奏される音楽の間に大きな差異が存在する。

フレーズが4拍子だが、それを一貫して3拍子で書き、とても情熱的なフレーズの処理を、いともそっけなく捨置いたりする。こう書くと新古典期のストラヴィンスキーの難しさを想像させるが、随分視点が違って、別の厄介なのだ。

その上、技術的にも難しいので、2回目のリハーサルでは、楽譜に書かれた初演時の小編成の弦楽合奏から人数を大幅に増やした。少人数では音が潰れてしまうとコンサートマスターのエマヌエレから受けた助言に従ったわけだが、全くもって彼の言うとおりだった。少人数の方が小回りが利きそうだが、実際は逆で、寧ろ人数が多い方が複雑な音型はずっと楽に弾ける。その結果が、近代オーケストラ作品で、あれだけ複雑な音を書き込むようになった。

分かり易い例がマーラーやリヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションで、あれにはやはり彼ら自身が指揮をしていた経験がそのまま反映しているのは誰の目にも明白だろう。ワーグナーの革命的オーケストレーションに至る過程にも、やはり指揮者としての彼の経験が活きていて、書く音と鳴る音の落差や、演奏者の皮膚感覚が見えてこそ、実現可能だったのではないか。

彼らの影響を強く受けながら、オーケストラを理想化して音を目いっぱい書き込んだのが、今回のプログラムで言えば、優れたピアニストだったカセルラだ。彼は確かに指揮もしたが、音楽家としての気質はやはりピアニストだったのだろう。理想化された形で音を定着しているので、それらの何をどのように響かせるか、演奏者は一つ一つ吟味する必要がある。丁寧に細かい音を聴かせたいと思えば、鈍重になる。それを避けつつ、書かれた音を出来るだけ聴かせたい、書かれた和音を出来るだけ聴かせたいと思うと、独奏者らとオーケストラとの間で非常にむつかしい匙加減が必要になる。オーケストレーションが厚いので、たやすく独奏者を覆い尽くしてしまうし、何しろ独奏者たちが弾きにくい。

三重協奏曲は名曲の一つで、特に二楽章の美しさは比類ない甘美さを誇る。誰でも一聴すれば、ラヴェルのト調のピアノ協奏曲の二楽章を手本に書いたように見えるが、ラヴェルがカセルラのこの二楽章を手本にピアノ協奏曲を書いたと聞いて愕く。そこではティンパニが薄くリズムを刻んでいて、ほんの少し強調して、と無理をお願いしたところ、独奏者にすぐに却下されてしまった。

この二楽章最後の部分のイングリッシュホルンを、奏者が何故かいつも演奏しないでこちらを見ているので、パート譜を確認すると、その部分はパート譜には書かれていなかったが何故だろうか。これが作曲者の意図かどうか定かでないので、この本番では演奏した。

楽譜が、演奏しづらく、読みにくいのは、作品がホ調で書かれているからに違いない。フラット系の調性へ読み替えてゆくときに、変へ調に読み替え、そこから転調してゆく。ホ調をナポリ調に置けば、変ホ調が基本調性になり、そこから平行調へ逃げれば、今度は変ハ調という実に読みにくく、鳴りにくい調性に容易に辿り着く。言うまでもなく、それをドミナントに変化させれば、そのままホ調に戻れるわけである。

基本的に、和音は調性に則り書かれているが、その上に載せられる旋律やフレーズは、敢えて調性を飛び越えて書かれているので、意識しなければ無調に聴こえる。

そうした楽譜ながら、しばしば楽譜に不備があって、一体何の音か分からない、臨時記号が不明な箇所がいくつか残ったが、それらはパート譜に書き込まれた訂正を参照した。

一つ一つ和音を吟味してゆくと、最終的には実に単純な和音構造が見えてくる。非常に引き延ばされた調性下部構造の上に、無数の多調的装飾を施してあるから、こうした上部構造、旋律に重点を置いて演奏すると、恐らく非常に複雑な音楽に聴こえるに違いない。オーケストラ自身もそうだろう。

併しながら、通常録音を聴くと非常に複雑に聞こえる箇所も、「この箇所、実はすごく分かり易い和音でしたよね。皆さんでこれらの音を聴き合って、浮きあがらせてくれませんか」と一言いうだけで、一瞬にして明快な響きにとって代わられる。調性は、音を互いにぶつけ合うと絶対に浮き上がらない。

一方で、マリピエロは基本的に東洋旋法などを多用するから、エキゾチックな響きにはなるが、第6交響曲の四楽章に顕れるに日本的な旋律は何をあらわすのだろう。カセルラは明らかに古典的なソナタ形式を拡大しているが、マリピエロは、それも順番を入れ替えて重力、方向性を分散している。

併し実際演奏してみれば、実に情熱に溢れた音楽であることがわかる。1946年に書かれ、旧き思い出に捧げられ、曲尾に蜃気楼のような葬送行進曲が浮き上がるさまから察するに、やはり大戦と関係あるのだろうか。

10月某日 ミラノ自宅
ボローニャの演奏会が終わって、ミラノで研鑽を積んでいる久保君と浦部君の曲を演奏するためにジェノヴァを訪れ、東洋文化研究所でマッテオとカルラと日本音楽に於ける「間」についてコンフェレンスに招かれた。

日本の「間」こそが「日本音楽に於ける特徴で、そこには西洋にはない美意識が働き」、「沈黙に深い意味があり」、「日本文化における特徴的な時間感覚は、禅など仏教思想と繋がっている」。

「どうですか」と尋ねられ、「まあ日本にも色々な人が居ますから」と応えると少しがっかりした顔をされる。イタリアに25年近く住む日本人に、日本の「間」について尋ねるところが間違っている。せめて禅寺の近所に住む日本人なら、もう少しは気が利いたことを答えてくれるかもしれない。

関ヶ原の戦いの後首を刎ねられた、熊本の小西行長の没後わずか7年の1607年、殉教者小西を讃える音楽劇「Agostino Tzunicamindono Re Giapponese アウグスティヌス・ツニカミンドノ 日本の王小西行長」が上演されたのがジェノヴァだった、などと言おうかとも思ったが、話が脱線してややこしくなりそうだから、黙っていた。ジェノヴァに招いてくれたマッテオの母親は、東洋文化の研究者だった。

10月某日 ミラノ自宅
ジェノヴァは、古のジェノヴァ共和国の隆盛を偲ばせる豪奢な建物と、娼婦が寂れた玄関先に立つ港町の顔が同居していて、ミラノにもないほどの巨大な銀行の裏に、昼間娼婦が立つ。普通であれば、娼婦が立つ路地と銀行街は別の界隈にあるものなのだが。ジェノヴァの娼婦は昼に春を鬻ぐが、これも他ではあまり見られない光景だろう。普通は、夜の帳とともに街角に女が立つ。

この街が戦後本当に貧しかったころ、ジェノヴァの主婦が春を売って生計を立てていた名残だそうで、近年はアフリカや東欧の女性が立つようになった。尤も足繁く通うのは、船乗りなどより、妻に先立たれた近所の老人ばかりだ、とステファノが苦笑いした。「ジェノヴァ人の性格は」と尋ねると、「性悪なこと」と言って大笑いした。

10月某日 ミラノ自宅
スカラ・アカデミーのフランチェスコが、突然メールを寄越す。ジェノヴァのコンフェレンスの内容について興味があると言う。彼はアカデミーの主管を務めつつ、ボローニャ大に提出する日本音楽に関する論文を準備していて、例の小西行長の音楽劇やら、ミヒャエル・ハイドンの高山右近「右近殿」をモーツァルトが聴いて、それが「魔笛」に影響を与えた可能性の話やら、正倉院以前の伝統音楽や、宣教師のキリシタン音楽が邦楽に与えた影響も話題にのぼった。能とギリシャ悲劇との共通点や、雅楽や舞楽が現在までどれほどシルクロードの影響を色濃く残しているか、日本文化がどれだけ神仏混淆の結果培われたか話す。

とどのつまり、日本にも色々な人がいる、という至極当然の内容に帰結する。彼はスカラのアカデミーに務めているだけあって、蝶々夫人以前のジャポニズム劇に焦点を合わせたいと思っているようだったが、プッチーニの関わりで言えば、例えば彼は中国民謡「茉莉花」を使ってトゥーランドットのlà sui monti dell’Estを書いたけれど、あれが明清楽として長崎民謡になっていると知ったらどうだろう。それでも日本文化の特質は「間」だと言い続けるのか。それとも明清楽は流行歌だから日本文化ではないとされるのか。

そんな流れで久しぶりに落語「らくだ」を見て、こんなに笑ったのは久しぶりというほど笑う。例の死んだらくだが明清楽のかんかん踊りをする下り、あれこそ日本文化の真骨頂ではなかろうか。同じ話をヨーロッパ人にしても、宗教観、死生観がまるで違うから、多分本来の笑いは共有できない気がする。

10月某日 ミラノ自宅
サックスの大石くんと和太鼓の辻さんのための新作。

夏に安江さんと加藤くんのために書いたピアノとグロッケンシュピールのための小品は、オラショがグレゴリオ聖歌の原曲「Gloriosa
domina」に、グロッケンシュピールは「Dies irae」に変化しくものだったが、それと同じことをこの編成でもやってみる。

ねんねしなはれ  寝る子はみじょか    起きて泣く子は    つらにくい

あらよ   つらさよね    他人のめしは    おれはなけれど    のどにさす

しっちょこまっちょこよ    酒屋の子守り    酒ばのませて    歌わせて

あめがた  にいほお    寝せつけた

大山ぼたん鉱    磯辺の千鳥    日暮れ    夜暮れは    泣いて 暮す 指をくわえて    角に立つ

書き採った歌詞は、或いは間違っているかもしれない。16歳になった少女たちが三年間無償奉公させられた、長崎福江藩の三年奉公の悲しみを歌う「岐宿の子守唄」は、長崎生月島のオラショへ変容する。

参ろうやな 参ろうやな パライゾの寺に参ろうやな

パライゾの寺と申するやな 広い寺と申するやな    広い狭いはわが胸にあるぞなや

しばた山    しばた山    今は涙の先なるやな    先はな   助かる道であるぞなや

この旋律からは、思わず柴田南雄さんの「宇宙について」を思い出す。その歌詞に導かれ、旋律は次第にグレゴリオ聖歌の葬送歌「in paradisum」へと変容してゆく。

In paradisum deducant angeli. in tuo adventu suscipiant te martyres.

天国で迎える 天使たちが。 お前をみちびく 殉教者たちが。

et perducant te, in civitatem sanctam Jerusalem. –

お前を迎える 聖なる街エルサレムに。

Chorus angelorum te suscipiat.

天使たちの歌声が お前をみちびき

et cum Lazaro quondam paupere aeternam habeas requiem.

貧しかったラザロと お前は授かる 永遠の安息を。

10月某日 三軒茶屋自宅
高橋悠治演奏会終了。アンサンブルで一番演奏が難しかったのは、「タラとシシャモ」だろう。予想通りではあったが、しかし悩めば悩むほど音楽は深まってゆく。決して不毛な悩みではなく、掘下げる痛みのようなもの。ドレスリハーサルのときに、悠治さんは、変な曲だと笑っていらしたが、実に美しい名曲だとおもう。今まで演奏されなかったのは実に勿体なかった。

「フクシア」も「石」も、演奏者が朗読してから弾くだけで、音楽が変化する不思議。朗読は聴き手のためのものであるはずだが、言葉は読み手の体内にも深く潜りこむ。

意外な効果があったのは、「ローザス」で、当初増幅しないつもりだったが、急遽有馬さんにお願いしてセットを組んでいただいた。楽譜には残響をつけるように指定があるが、当日のリハーサルで、左右両方のスピーカーに出していた残響を左スピーカーのみに限定し、右スピーカーからは残響なしの音を流すことになった。ものすごく据わりが悪く心地悪い音響なのだけれど、予定調和を逸したこの不安定さが悠治さんの意図だった。だから、次回もし演奏するときは、また違う不安定さを探す必要があるだろう。尾池さんの、あくまでも自然な演奏姿勢も、この曲にはとても合っている。

「石」で悠治さんが拘ったのは、最後の6音だった。実際山澤くんは、本番途轍もなく繊細な、信じられないほど神秘的な音を出した。演奏会後、偶然出会ったIさんから、「石」の最後の音は、物凄く美しかった、と指摘されたので、こちらが愕いてしまった。

家人の「メタテーシス」は、ずっと家で練習しているのが聴こえていたので、長いスパンでの大きな変化に愕いた。指で音を拾っている段階と、たとえ音を外してしまっても耳で弾く段階になると、音楽の深みがまるで変化する。当初はまるでクセナキスのように感じられる音群は、実際楽譜をよく読めば、音の選び方、ピアニズムは、近作と全く変わらないことに唖然とする。

それどころか、使っているフレーズすら、近作に酷似していたりするのである。ただ、その定着方法は違うし、密度も違う。フレーズはフレームを取っ払われ、広い空間のなかに自然体で置かれる。だから、これだけ密度が高い音楽であっても、最終的に必要になるのは、フレーズや音色や強弱であり呼吸なのだった。家人の本番の演奏は、その辺りを特に意識させるものだった。

野趣あふれる「ニキテ」は、思いの外演奏家が喜んで演奏に参加してくれた。棒の先に蓄えられた和幣を震わせ、小石を叩きながら、草を踏み、野を駆けぬける。森のなかを風が吹き抜けてゆく音が聞こえ、時に全員で耳を澄ます。とても素朴な音楽の喜びを改めて実感した。個人的には、女性二人の溌溂とした音に目が覚める思いだった。

「般若波羅蜜多」は、ドレスリハーサルで悠治さんが全員を一列に横並びにしたのが、実に効果的だった。音はよく通るようになったし、何しろ寺の楽師像のような姿を顕すことで、彼らの姿が神々しく感じられた。本番中は一人一人がそれぞれ大好きな仏像に見えて仕方がなかった。

特に経典を演奏している積りはなかったが、それでも無意識にそう感じられたのは、波多野さんが菩薩のように見えたからか。

演奏会後、打楽器の會田くんから頂いたメール
「プログラムの悠治さんが訳された般若波羅蜜多の訳詞が、まさに悠治さんの哲学を表していると感じ、なぜか涙が溢れました。「空」であること、往ける人たちへの思いが感じられました。きっと秋山邦晴さんやそのほか彼岸から聞きに来てくださった方もいらっしゃったと思います」。

10月某日 三軒茶屋自宅
静岡のリハーサルから戻り、松平頼暁さんの声楽作品を聴く。ちょうど「だんじく様の歌」や「ぐるいよざ」など、最近使ったばかりのオラショの旋律が何度も表れ、はっとする。

悠治さんが、枠組みを外して空間のなかに放ったとすれば、松平さんは、まるでコマ録りのアニメーションのように、何度も少しずつ変化させつつ、ひたひたと繰返してゆく。

(10月31日 三軒茶屋にて)

とりは巣に戻った(晩年通信その4)

室謙二

 私のはじめての音楽は、Jazzだった。
 それもチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなどのビーバップであった。歌手ではビリー・ホリデイで、本格的なのである。
 兄は十三歳年上で、都立九段高校に入ったとき私は二歳だった。戦時中は学童疎開で両親と離れて暮らしていた兄は、戦後はJazzを聞き始め、高校に入って硬式野球を始める。ともに戦争からの解放である。アメリカからきたJazzは、戦争中は敵性音楽で聞いてはいけない。アメリカからきた野球はすでに日本に定着していたが、英語の用語は使ってはいけない。アウトは「引け」であり三振は「それまで」で、ワンストライクは「ヨシ一本」であった。

 敗戦のあとでもビーバップの日本語放送はなかったが、米軍兵士向けのFEN放送(Far East Network)で、一週間に一度だけ黒人兵士向けの番組があったらしい。次の日には野球部の練習中に、二塁ベース上でセコンドの選手とショートの兄が、昨日のバド・パウエルとディズー・ガレスピーはよかったなあ、などと話をしたとのこと。セコンドもビーバップのファンであった。
 兄は自宅では戦前の旧式ラジオでガンガンとビーバップを聞き(両親はもっと音を小さくしなさいと言い続けたが)、私もその恐ろしい音のビーバップを聞いて育った。そして幼稚園に行って、ビバビバ・ブーとスキャットしていたのである。

 しかしジャズだけではなく、浪花節も聞いていた。
 広沢虎造(二代目)大ブームの時代である。ラジオの時代である。清水のヤクザの次郎長伝である。片目の森の石松の、船上での「喰いねえ、喰いねえ、スシ喰いねえ」というところなどは暗記していた。ところが我がプログレッシブな小学校のPTAで、教師は母親たちに、非教育的な浪花節は聞かせないようにと言ったらしい。だからと言って、両親に聞いてはいけないとは言われなかったが。
 同時に、父親が戦前から持っていたクラシックのSPレコードがあって、ショパンのピアノ曲なども聞いていた。高級軍人の家には社交用のピアノがあったそうで、でも長男たるものは、ピアノを弾くなどという軟弱なことはしてはいけない。だが少年であった父は、将官の父親に隠れて弾いた。ピアノのないときは、紙に印刷されたキーボードで指の練習をした。
 ずっとあとになって父が高校の教師になったとき、生徒が校歌をうたうときは、ピアノの伴奏をしたらしい。でもいつも音を間違えてねえ、と言っていた。
 わが家にはスプリングの手回しポータブル蓄音機があった。電気はまったく使わない。と言っても、わからない人が多いかもしれない。知りたければGoogleしてください。その小さな音で、私はショパンを聞いていた。

 そして、はじめての楽器はウクレレだった。
 兄さんが友人からウクレレを借りてきた。戦後のハワイアンのブームのときであった。
 こんな風に私がいろんな音楽を聞いたり、ちょっと演奏してみたりするのは、いまも昔も同じことだね。

 病気とウクレレ

 今から二年ほど前、一六歳年上の姉さんに末期ガンが発見された。あと数週間かもしれない、と息子(つまり甥)が言ってきた。姉さんに電話をすると、「ケンちゃん、ウクレレを弾くわよね。それをもってきて一緒に弾こう」と言われた。姉さんは二十年ぐらい前から、もっと前かなあ、ハワイアンを踊っていて、ウクレレもぽつりぽつりと弾いていた。それにいちどいっしょに、ハワイに行ったことがあった。
 私がまだ子供の頃、兄のウクレレを借りて、遊んでいたのを覚えていたのだ。
 それであわてて、ウクレレをハワイに注文した。送られてきたウクレレを手にもつと、驚いたことにCとかFとかG7とかを手が覚えていた。この何十年間、ギターは思い出したように弾いていたが、ウクレレは四十年ぶりぐらいではないか。
 東京に行ったら、姉さんのアパートで一度だけ床に座っていっしょにウクレレを弾いた。ハワイアンではなくて、「赤とんぼ」「春の小川」などの童謡とか、唱歌「旅愁」だった。あとはもう力がなくて、「ケンちゃん、寝室のドアを開けておくから、廊下でウクレレを弾いてね。それを聞いて眠りたい」とのことだった。
 朝の四時に呼吸が止まったときは、私ひとりがいっしょだった。それで般若心経を唱えた。それに観音経の偈の部分を唱えた。それを聞いて、別室に寝ていた次男の海太郎がやってきて、ヒンディー語でお経を唱えた。海太郎は次の日にインドに発った。
 
 まだ話はある。焼き場が満員だったのである。それで姉さんは自分のアパートで五日も寝室で眠っていた。毎日、葬式やさんが来てドライアイスを変える。私は何週間かの看病と、何日も同じアパートで亡くなった姉さんと暮らしたためだろう、葬式の日には私が病気になっていた。焼き場にも行けなくて、姉さんのアパートにひとり戻って、ベッドではなくてリビングルームの床に横になった。
 こんなに弱ってしまったら、カリフォルニアまで一人で帰れるだろうか?
 ユナイテッド航空に電話をしたら、空港で車イスを用意しますとのことだった。なんとか荷物を持ってアパートの外に出て、タクシーを拾って羽田空港まで行った。チェックイン・カウンターには車イスがまっている。それに乗って、「ふー」、がっくりとした。車イスを押してもらって、滑るように空港を移動するのは新発見であった。
 飛行機に乗るのも手伝ってもらい、サンフランシスコ空港でも車イスが待っている。税関・入管も通り抜けた。ロビーでは妻がベンチに座っている。
 彼女が立ち上がって歩いてきて、
 Welcome Homeと言い、
 私は、Thank you, my loveといった。
 姉さんのと私の、二台のウクレレを持って、
とりは巣に戻ったのである。

干し草の山

高橋悠治

代官山ヒルサイドリブラリーのために 家にある本から10冊を選んでみた

1)三木亘『悪としての世界史』文芸学藝ライブラリー 歴26 2016
2)ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司・訳)ちくま学芸文庫 2011
3)ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤普・訳)左右社、2014
4)岩田慶治『草木虫魚の人類学』講談社学術文庫 1991
5)Samuel Beckett:Selected Poems 1930-1989 Faber and Faber 2009
6)Ernst Bloch:Traces(tranlated by Anthony A. Nasser) Stanford University Press, 2006
7)蒲原有明『夢は呼び交わす』岩波文庫 緑32-2 1984
8)井筒豊子『白磁盒子』中公文庫 い59-1 1993
9)小松英雄『平安古筆を読み解く 散らし書きの再発見』二玄社 2011
10)安原森彦『源氏物語 男君と女君の接近―寝殿造りの光と闇』河北新報社、2013

一度は読んだはずだが 書いてあったことはほとんど忘れている この機会に読み返そうと思ったが できないうちに それらを紹介するイベントの日が来てしまった 

積み上げられた本の山のあちこちをめくりながら 目についたところから思いついたことを話していると 話はその本から離れていく 本には目につかなかった場所が隠れていて 別なページにあるその場所は そのとき話していることでますます隠れ 見つからなくなっていくかもしれない

一冊の本がことばの流れのなかに閉じ込めている 河底の小石のような いつもは目につかないが 光の加減で一瞬見えたような気がすること 確かめようとすると そこには跡もないし ことばとして書かれてもいない 振動の痕跡であり 予兆でもあるような 漂う気配のために ある本をとっておく

この10冊のなかに そういう本があるかもしれないし 一冊もないかもしれない それぞれのなかにはなく 10冊積み上げると 全体として感じられることかもしれない

そうして一山の本を しばらくのあいだ積んでおく