共和国(晩年通信その5)

室謙二

 「音無しの構え」は、知っていた。
 だが「音無しの構え」が、無実の人間を平気で殺す机龍之介の剣術であるとは知らなかった。子供にとっては、オトナシノ・カマエという発音が、格好よかったのである。
 チャンバラは、一九五〇年代の男の子にとっての毎日の遊びだった。適当な棒切れをみつける。棒を両手で日本刀のように構えて、叩きあう前に一瞬の沈黙をつくる。そこで「音無しの構え」と宣言するのである。
 それから棒きれで、バチバチと叩きあう。「大菩薩峠」の机龍之介は音もなく構え、剣に触れさせることもなく相手を斬り殺すのだが、我らが剣術は大騒ぎの棒の叩き合いであった。体を叩かないのはルールである。

 机龍之介が登場する「大菩薩峠」は、世界で一番長い小説らしい。文庫本で二十巻ある。子供たちは、そんなことは知らない。しかし「オトナシノカマエ」は知っていた。
 この長編には登場人物がたくさんいて、ストーリーも入り組んでいる。書き始めてから腸チフスの死で未完で終わるまで、中里介山は断続的に三十年間書き続けた。最初のプランは、途中で変わってしまう。最初に登場した机竜之助が、全巻を貫く主人公かと思ったら、話が進むとときどきしか出なくなった。
 あまり長いので、最初から最後まで通して読んだ人は少ない。文庫本の最初の巻はたくさん売れても、最後の方の巻はあまり売れない。刷り部数を見ればわかる。雑誌「思想の科学」の編集会議で鶴見俊輔さんが、「私は全巻通して読みましたよ、だけど二度通して読んだという人を知っている」と言ったので、「私は三度読み通しました」と言ったら目をむいて、膝を叩いて笑っていた。

 お松と駒井甚三郎

 お松は、最初のシーンで龍之介に意味なく斬り殺される老人のつれていた子供であった。殺されずに大人になったお松は、主要主人公の一人になる。そしてお松と旗本をやめた駒井甚三郎が、東経一七〇度、北緯三〇度の太平洋上の無人島に上陸して非君主国(共和国)を作るのが、この未完の小説の最後の物語である。
 そして二人は結婚する。その限りにおいて、これはハッピーエンドのように見える。しかし共和国(非君主国)がまた結婚が、成功するかどうかは分からない。作者は失敗を書くことなく亡くなったから。
 桑原武夫は、「ごく大ざっぱに言って」とことわった後で、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識の層」があり、その下に封建的・儒教的な日本文化の層があり、さらにその下に「ドロドロとよどんだ、規程しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわる、シャーマニズム的なものを含む地層があるように思われる」と書いている。そして大菩薩峠は、この第一層、第二層から第三層まで根をはっていると書いている。(文庫本第二巻の解説)
 また別のところでは、大菩薩峠の登場人物でもっともつまらないのは駒井甚三郎である、とも書いている。私はこの説には賛成しかねる。
 駒井甚三郎と結婚するお松は、登場人物の中でもっとも魅力的な女性である。駒井は自分が第二層(封建的・儒教的な層)から離脱して第一層(近代化した意識の層)にいることを知っているだろう。だからこそ第三層(古代からつたわる層)にまで根を持つお松と結婚する。お松なしには無人島の共和国は作れないことを知っている。この共和国は、第一層から第二層、第三層まで必要とするのである。
 「西洋の影響下に近代化した意識の層」に根を持ち、第二層の「封建的・儒教的な層」から離脱した元旗本の駒井甚三郎がもっともつまらない人間だとしたら、私たちは一体どうなるのか。桑原武夫でさえ、お松より、共和国を作ろうと西洋の科学を勉強する駒井であろう。もとより私は、その家庭環境から思うに、第三層のシャーマニズムでもなく、第二層の封建的・儒教的でもなく、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識」である。
 駒井がつまらない人間であれば、私などもっとつまらない人間になる。私はアメリカにやってきてその市民となり、日本を手放してしまったのである。市民権をとる口頭試問では、憲法について聞かれる。そこには政府が間違っている時は、その政府を倒していいと書いてある。私はすでに世襲君主国の人間ではない。

 無人島アナーキズムと天皇即位

 私は「西洋の影響下に近代化した意識の層」(第一層)にいる人間で、封建的・儒教的でもなくシャーマニズムでもない。だからこそ、私は大菩薩峠を三回も通して読んだのかもしれない。そして物語の最後にあらわれるアナーキズム国に興味を持つ。

 ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反(そむ)くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。

 無人島での駒井甚三郎の演説の中で、中里介山はアナーキズムという言葉を使わないが、アナーキズムを説いている。介山が幸徳秋水が天皇を暗殺しようとしたとして処刑された「大逆事件」に衝撃を受けたことはあきらかで、この島は幸徳秋水も住むところのアナーキスト国なのである。

 新天皇の即位の儀式と人々の反応のビデオの断片を、カリフォルニアから見ていた。
 行政の長である安倍首相が、奇妙な箱状の囲みの中に立つ天皇を、一段下がった場所から深く一礼、そして天皇陛下バンザイを三唱。まわりの人間も唱和する。
 憲法によれば天皇は国民の象徴とのことだが、その象徴に向かって国民に選ばれた行政の長が真剣に万歳三唱をするのは、憲法の精神に違反していると思うが。まあそれはヨロシイとしても、しかしこの儀式をみていて、日本はつくづく共和国ではないと思った。
 日本国は立憲君主国だそうで、天皇は権力をもっていないそうだが、しかしどうやら国民を支配する倫理的な権力を持っているように見える。いまだ世襲の封建制です。この国は年齢序列の考えも根深く、柳田国男は、日本の「友だち・友人」は「同世代」という考えに支配されていて、英語のFriendsではないと指摘する。英語では、同世代ではない老人と少年でも、Friendsなのである。
 介山の太平洋上の島はアナーキズムにもとずいて、お松や駒井やその仲間たちFrendsが集まった共和国である。そして、はるか北にある日本列島の、天皇陛下バンザイ三唱と日の丸をうちふる「君主国家」に、するどく対立している。大菩薩峠はこうやって未完のまま終わって、共和国はいまも続いている。

仙台ネイティブのつぶやき(50)いま、宮城県美術館

西大立目祥子

 「川内」という地名は、川に囲まれた山寄りの地域という意味であるらしい。仙台の川内は、仙台城があった青葉山のふもとのあたりを指す。山が迫り広瀬川が蛇行する風景が広がっていて、とりわけ新緑の季節や紅葉の季節は車で通り抜けるのにも見とれるほどだ。
 藩政期は家臣団の屋敷が置かれていたが、明治に入ると一帯は陸軍の用地となり、戦後、米軍が駐留したあとは、東北大学のキャンパスや仙台市博物館が立ち並ぶ文教地区となった。

 宮城県美術館はその一角にある。前川國男設計の薄茶色のタイル張りの建物は低層で、目立つことなくあたりの風景の中にすっぽりとおさまっている。南側がエントランスで、雲を積み重ねたみたいなヘンリー・ムアの金色の彫刻を右手に見ながら、吸い込まれるように入っていくと吹き抜けの大きな空間に迎え入れられる。建物は北側の庭に向かっても開かれているから外の光に誘われるまま歩を進めると、そこは広瀬川の崖の上だ。

 対岸の家並の向こうには丘陵の緑が望める。川辺だからなのだろう、この庭の縁にはクルミが育っていて、秋口にはたわわに緑色の実をつける。庭は緑豊かで、鯉が泳ぐ四角い池があり、彫刻がある。この彫刻がなかなか愉快で、風が吹くとゆっくり動く新宮晋の「風の旅人」(実はあんまり動かない)、太っちょのユーモラスな人物が馬の背にきゅうくつそうにまたがるF.ポテロの「馬に乗る男」は、見上げるたび風通しのいい気分にさせられる。この空間が好きで、企画展を見たあとゆっくりおしゃべりしながら歩いたり、いや、見なくても庭を散策するのを楽しみにしてきた。

 この北庭から、西側に増築された佐藤忠良館のゆるやかにカーブするガラスの壁面に沿って、「アリスの庭」と名づけられた彫刻の庭が続く。このステキなネーミングを思いついたのは、いったい誰なんだろう。『不思議の国のアリス』が下敷きにあるのは明らかで、壁面は鏡となっていくつもの彫刻をいろんな角度から映し出す。大きく立ち上がった姿のウサギがいたり、子どもなら4〜5人は背中に乗れるようなでぶった猫がいたり、仰向けにひっくり返ったカエルの上に四つんばいで乗っかるロボットがいたり…ユーモラスな彫刻がつぎつぎとあらわれる。いつだったか、カエルとロボットのまねっこを仲の良さそうな小学生の男の子2人がやろうとしているところに行き合わせて、いっしょにげらげら笑ってしまったことがあった。

 以前、白杖を携えた視覚障害者の人たちと彫刻を触りながら歩いたことは、このサイトにも書いた(2016年9月号)。あり得ない動物たちの姿に、誰もが気持ちを開いてにこやかな表情になっていく。日常の時間の中から、外の世界にぽっと抜け出すような不思議さ。一瞬であるのかもしれないけれど、そこにはわだかまる気持ちや考えたくない事を忘れさせる時間が存在している。

 1981年の開館から38年がたった。あらためて振り返ると、そう足しげく熱心に通ったわけではないけれど、美術館は私にとっては、あわただしい日常の時間を止めて考えさせてくれたり、記憶に残る1コマをつくってくれる場所であったと思う。

 20数年前、働き詰めに働いた会社をやめてフリーランスでやって行こうと決めたとき、最後の大きな仕事を印刷所に入れ終え、晴れやかな気持ちで、さぁて一区切りだ、どこかに寄って帰ろうと思った胸に真っ先に浮かんだのは、美術館だった。何年も訪れていなかった。しばらくぶりに訪れた美術館では、ロシアの女性作家ワルワーラ・ブブノワの企画展が開かれていた。戦前から長く日本に暮らしたこの画家のことを私はまったく知らなかったのだけれど、日本の版画や墨絵の影響も受けたような絵がとても印象に残った。なぜ日本に長くとどまったのか、その謎とともに、名前はずっと胸に引っかかっている。

 同じくこのサイトに書いたけれど、気仙沼市に暮らしていた高橋純夫さんが「世界のカイト展」に合わせ持ち込んだ、手づくりの鶴と亀の立体凧を高く踊らせたのも楽しかった。凧揚げが終わると館内のレストランでコーヒーを飲み、また揚げに行く。展覧会を見にきたお客さんは、動いている凧にまずびっくり。このパフォーマンスは誰の企画だったのだろう。空に舞ってこそ凧、と考えた学芸員がいたのだろうか。

 がん闘病をしていた父と「アリスの庭」を歩いたのもわすれがたい。苦しそうな息をしながらも、夏の終わりの日射しの中で父は楽しい彫刻になごんでいた。亡くなったのは、その秋のことだった。

絵や彫刻だけではない。クリスマスの時期に、ピアニストの中川賢一さんが何年か続けてメシアンを弾いたリサイタルに出かけたこともあった。ロビーにグランドピアノが持ち込まれていて、そこで私は初めて生で「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」を聴いた。夜なので正面玄関ではなくたしかレストランのガラス戸から出入りした記憶がある。

 こうあれこれ宮城県美術館の思い出を書いてきたのは、いまこの建物が解体の危機にあるからだ。2017年から、宮城県は老朽化している建物の今後を検討するために委員会を立ち上げ、昨年3月にはリニュアルの基本方針を策定していた。あくまで、現在の建物を残しながら大改修を行う内容だった。
 ところが、ここにきて、この建物を解体し、計画中の2000人規模のホールと集約化し複合施設として移転整備するという方針を打ち出したのだ。「県有施設再編等の在り方検討懇話会」がこれを了承した。これは経済成長期に建てられた県の施設の整理再編を検討する委員会であって、美術家は一人も含まれていない。懇話会では10の対象施設のリストと、更地となっている県有地のリストが配布されているので、始めから移転集約ありきで、簡単に結論が出されたのではないかと私は疑う。川内という場所性、前川國男の代表作の一つである建物の評価、40年近い歴史性、県民市民の愛着について、十分な議論がなされたとはとても思えない。そもそも、その前、2年間をかけて検討したリニュアル案は何だったのか。

この宮城県の方針についての疑問を、『美術手帳』がサイトでとりまとめた。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20915
地元紙、「河北新報」も同様に、社説で取り上げている。
https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191129_01.html

 さて、どんな動きを起こしたらいいのか。全国のみなさま、お力をお借りするかもしれません。

181 お魚の台敷き

藤井貞和

お魚の台敷き

一人用の盆

ふとんかんそうき

そわかの剣

思いをのせて

今日か  別れの

まなびの宿

山いただきより

南天を見よ

カノープス

フォーマルハウト

たてしなのてらこや

ひいなたちが寄り合い

夜はほげて

あかときをうつる

さらなる

諏訪のまなび

変成(へんじょう)紀

世のうつり

首里天(しゅいてぃん)ぐすくが

赤い炎

哀しみを伝え

物部(ものべ)の神子

えんねんの舞い

花まつり

かぐらの村

わかきらも  わかからぬらも

つどうまなびの宿

(蓼科山荘をたたむと、山本ひろ子社中より連絡あり、お魚の台敷き、一人用の盆、布団乾燥機、そわかの剣など、すべて分け与えられる、と。南のかた、富士のかなたには、カノープスまたフォーマルハウト。縄文びとはかならず富士の見えるところに集落を形成したと、井戸尻考古館のもと館長の言うところ。新・諏訪学へと思いを継ぐ。「夜がほげる」の意味、不明。10月末、首里城を焼く。この悲しさには言葉がない。組踊り、いざなぎ流の神子たち、延年の舞い、花祭り、山ふところの神楽。)

製本かい摘みましては(150)

四釜裕子

中世の製本をやっと体験できた。河本洋一さんによる「書物の歴史:トークと実作」の2回目、「地中海・ヨーロッパの綴じ、Student Bindingを作る」でのこと。糸の運びはごく簡単そうだけれども、表紙にする板に小さな穴を開ける必要があり、今回はその穴開けから材料の一切をご用意くださるというので、からだひとつで出かけた。本文紙をかがるのに芯となる「支持体」を用い、表紙の板に開けた穴にその支持体を通してつなぐ。このような方法が生まれたのは8世紀、カロリング朝でのことだったから、「カロリング製本」と呼ばれている。それまでの冊子はナグハマディ・コデックスに見られる中綴じや、コプト製本に見られるリンクステッチなどで、いわゆる支持体を用い始めたのがこの時期ということらしい。本文紙の天地の向きと直角に支持体が交わり、それがさらに硬い表紙につながるわけだから、比べてだいぶ丈夫だ。写本作りが盛んになるにつれ学僧も個人で持つようになり、その頃の形をMark Cockramさんが「Student Binding」と名付けたそうで、この日はそれを習うのだ。

会場は浅草寺のすぐそば。宮後優子さんが代表を務める出版社Book&Designのギャラリースペースで、周りは観光客が多いけれど窓の外の公園では子どもたちがおおいに遊んでいた。午前の講義のあと、近くで親子丼(+生黄身、さらに茶碗蒸しとつくね付……)を食べて戻ると、午後の実作の材料と道具が並んでいる。6折分の本文紙、表紙用の板2枚、背に貼るセーム革のほか、支持体用の太めの麻糸と綴じ用の細い麻糸、木釘数本、細い白い革、D環、木ネジ、曲がり針。今回、花切れは編まない。表紙用の板は東急ハンズなどで売っているハガキサイズ5mm厚の樫材とのこと。1枚あたり、綴じ用の穴開けは6箇所。表から裏に突き抜ける4つはいいとして、5mm厚の側面からおもて面に向かって斜めに開ける2つが、想像を絶する。なぜ当時のひとはこんなことをわざわざしたのか、いや、わざわざではなかったろう、こんなことをしてみようとするわずかのひとはこれをいとう気持ちもなかったろう、など思いながら、「支持体を差し込む穴は側面から開けるのがいちばんいい」に到る過程があったわけで、どんな試行錯誤があったのか、想像して試すのも楽しそうだ。

実際にやって難儀したのは麻紐や革紐を木の穴に差し込むことだった。ゆるくてはダメなのだ。なかなか入らなくてなんとかやっと入るくらいがいいのであって、しかしこの日のように複数の人間が同時に作業をするのに、「なかなか入らないけど入らなくはない」という程度に材料を準備するのはどれほど難儀だろうと思ってしまう。数本ずつ用意された木っ端みたいなごくちっちゃい木釘も、いったい何に使うのかと思っていたら、麻紐を穴に通した最後、ゆるんで抜けないように金槌で穴に叩き入れ、すきまを埋めるためのものだった。はみ出た木釘を切り落とし、背にセーム革を貼る。この日の本文紙は洋紙だけれど、パーチメント(獣皮紙)時代は乾燥するともとの形に戻ろうとして波打って開いてしまうので留め金を付けていた。この日も準じて留め金を付けて完成だ。こんなごくシンプルな綴じに慣れてくると、職人も学生も徐々に飾りを楽しむようになっていったことだろう。

河本さんは古い綴じの再現もさまざまにしておられる。『東京製本倶楽部20年、ルリユールのあゆみ』展の図録の冒頭、「工芸製本少史」にそえられた、ナグハマディ・コデックス、コプト製本、カロリング製本、ロマネスク製本、ゴシック製本などの復元見本は、河本さんの手によるものではないだろうか。ほかにもミニチュアの復元品を原寸大に作り変えたり、形や素材のみならず古い資料のモノクロ写真に見た紙や革の汚れなど分かりうる限りを再現したりして、事情を知れば「すごい!」に違いないのだけれども、一見すると笑ってしまうものもあった。その河本さんが「すごい人がいましてね……」と教えてくださったのが、『イリアス』巻子本を再現しているという、古代ギリシャマニアの藤村シシンさん。古代インクを調合し、パピルス紙に葦ペンで『イリアス』を書写、棒に巻き、革紐で結んでタイトルタグを付けたものを、三省堂書店池袋本店でも展示したようだ。

いまの本の基本のかたちは1000年以上前にできていた。そのいっぽうで、巻子本も中綴じも四つ目綴じも、世界中の誰かが常に関心を持ち続けてきて今にいたっているというのはやっぱりすごい。電子本とかあるいは音声でとか読み方が変わっても、人のからだの仕組みが別のものにならないかぎり、本のかたちはこの先も変わりようがないのだろう。世界の全てを転写しようとする本の陰謀っていうのは、やっぱりあると思うんだよなあ。

璃葉

秋が始まったばかり、たいへん大きな台風が東京から去っていったころ。デンマークの松葉杖の輸入代理店を開くとともに、福祉について追求しているMさん、建築家のSさんと3人で老舗の釜飯屋で楽しく飲んだ日があった。ふたりとも本当におもしろく、話が尽きない。少し余白が空いたところで、大事なもの(物質)はなにかと聞いてみた。10月号に書いた、わたしの好奇心によるへんてこな質問だ。

突然振ったにも関わらず、ふたりとも真剣に考えてくれる。お酒を飲みながら頭を捻りしばらく考えて、その間色々な方向に話が飛び、話題は消えたかのように思えた。

「スニーカーかもしれない…」とSさんが突然呟いた。

会話というものはつくづくおもしろい。鎮火したかと思っているとじつは種火が残っていて、ふたたび燃え上がる。

Sさんいわく、自分の体を支えているものはお気に入りの靴(スニーカー)であり、裸足になると軸がぶれてしまう。それを履くことによって姿勢をちょうどよく保てて、一本の芯が通るらしいのだ。とあるブランドのとあるスニーカーがSさんにとってとても履き心地がよく、もし自分が棺に入るときがきたら、そのスニーカーを履かせてもらってあの世に行きたい、それぐらい大事らしい。

自分の体の軸をしっかり支えてくれるお気に入りの靴を履いていたら、三途の川もちゃんと渡れて、無事に浄土とやらに辿り着けそうじゃない?と、なんともお茶目に語る。

体というものについて薄ぼんやりと考えながら電車にのる。自分の体の状態を把握するのは案外難しいものだ。自分は靴を履いているときよりも裸足の方が好きだと思っていたけれど、考えてみればそれは柔らかい土の上や板張りの床、原っぱ、澄んだ水の中に入るときぐらいだけだ。靴というものについて深く考えたことって、そういえばなかったかもしれない。靴を履いての心地よさ、感じてみたいかもしれない。

全く関係ないが、たのしく酔っ払った体に電車の揺れは心地よい。

後日、小雨の降る夕暮れどき。何かの買い物のついでに、どうにも靴のことが頭から離れず、とうとうほんの少しいい靴を買ってしまった。ソールがきちんと自分の足裏に馴染んでいく革靴だ。もちろんご機嫌になる。浄土ではなくこの娑婆世界で、よりよい方向へ連れてってくれると信じながら大事に履いていくことにしよう。

編み狂う(4)毛づくろい

斎藤真理子

私は髪の毛をいじる癖がある。最初は思春期に入るちょっと前ぐらいのころ、髪質が急に変わったのがきっかけだった。まっすぐだった髪の毛に太いところと細いところができてきた。要するに「畝」、毛糸でいえばスラブタイプですね。しばらく経つとだんだん、さらにちりちりした箇所が出現した。こちらは毛糸ならブークレタイプ。

やがてそれがもっと進行して、ところどころ「節」みたいなものができてきた。毛糸でいえばこんどはネップタイプですね。ここまで来ると面白くて、触らずにいられない。このネップ、触っているうちに取れないかと思って髪全体を梳きおろすように触るのだが、触っても触ってもネップは解消しない。だからまた触って、きりがない。

そして気がついたら、単に、しょっちゅう髪を触る女の子になってしまっていた。そのころは髪質はまっすぐに戻っていたのだが、癖だけが残ったのである。どうして残ったのか自分でもわからなかったが、あるとき、仕事で若い精神科の先生にインタビューをしに行って、むちゃくちゃ納得できる話を聞いた。

その先生自身も髪の毛を触る癖があるのだという。そして、「たぶん僕、多動傾向があって、本来ならそのへんを走り回りたいけど、それは許されないってことをだんだん学習したんだと思う。そして子どもなりに、これなら社会的に許される範囲だと思って落とし込んだのが、髪の毛を触ることだったんじゃないのかな」とおっしゃるのであった。

その通りです。

あ、もう、私も絶対その通りです。

っていうか私、前からそのこと知ってた気がする。それ私が発見したことにしちゃいけませんか? と言いたいほど、マリアナ海溝より深く納得した。私はじっとしていられない子どもであり、露骨によそ見をする子どもだった。自分でも気づかないうちに、いつのまにか、それらの挙動不審行動をすべて髪いじりに置き換えていたのだった。

それに気づいたのはもう十五年くらい前のことだが、最近、さらに気づいた。

髪の毛は、毛糸だ。

組成からいってそうなのだった。髪の毛はウールである。毛糸を燃やしても髪の毛を燃やしても似たような、たんぱく質が燃える匂いがする。

ずっと前に父方の祖母が「シャンプーを切らしたらアクロン(大昔からある花王のウール用洗剤)で洗えばいい」と言ってたのを母が感心して聞いていたが、昔の人は髪の毛が何でできているかよく知っていたのだ。

もちろん人が羊でない以上私も羊ではないので、体表にあんなふわふわした毛が生えてはこないし、なかんずくアジア系の人間、しかも私のような剛毛体質の人間の毛髪を紡いで衣料を作ることなどできないが、それでも髪の毛と毛糸はもとをたどれば親戚なのだ。だから私が髪をいじるのも、編み物を手から離せないのも、根は同じなんじゃないかと思う。

基本的に私はウール、シルク、綿、麻といった天然素材しか編まず、今はほとんどがシルクだ。

シルク糸の玉をぼーっと見ているとくらくらする。これ一玉作るのにそもそも、何匹の蚕が参加していらっしゃるのかと思って。そしてそのめいめいが、どれだけの桑の葉を食べたのかと思って。動物が植物を食べた結果がこのような繊維になっているのは、すばらしいこととも思うし、薄気味悪いこととも思う。でもとにかく、それが必要なのでお世話になっている。

ちなみに、韓国では仕事の終わった蚕のさなぎを煮て、味付けして食べます。あれを食べても私たちは、糸を吐けない。

糸を吐けない私は糸を買ってくるしかない。

そして、買って買って買いまくった結果、もう買わなくて済む境地にまで私は到達した。

ここまで来るためにどのような行為を重ねたかはあまり思い出したくない。だって糸を買いまくることは終わりのない自分探しに近かったから。

気がつくと押入れに、一生涯アフガン・ハウンドとかそういう長毛種の犬の扮装をしても余るほど、もこもこのモヘア糸がたまっていたりする。または、ロックスターになって何年ドサ回りをしても余るほどのラメ糸がたまっていたりする。いったい、自分は何に変身したいのか。

何年にもわたる「糸戦争」を展開した後、自分はアフガン・ハウンドでもないし、ロックスターでもなく、多少寒がりの都市生活者にすぎないということがはっきりした。このようにして自分探しは一件落着し、細めのウールあるいはシルク糸という結論を得た。

ところが、それだけではすまなかった、自分を知るということは。

つまり、「身の程を知る」という宿題もついてくるのだった。

ウールはともかく、シルク糸というのは手編み糸の中でもダントツに高いのである。そこで、できるだけ良質の糸をできるだけ安く買うというミッションに向かって私は邁進した。その結果、気づくと、糸の町といわれる中部地方のI市の問屋さんから直接、シルク糸を取り寄せるおばさんになっていた。それも、大量に。

その問屋さんは主に工場に糸を卸しているらしいが、私のような個人とも取引してくれる。お値段は非常に安い。お願いすると、わざわざ作ったシルク糸の見本帳を送ってくださる。ありがたく、申し訳ないことだ。だが大量生産の糸メーカーと違って、個人に売れる量には限りがあるらしい。なので、この糸がいいと思って追加注文しても「ありません」ということがちょくちょく起きた。そこで私は、気に入った色の糸を見つけるとかなりの量を注文するようになった。

そのうち、あまり大量に買うので気がひけるようになり、「友人と分けますので」などと、嘘八百をメールに書くようになった。すると先方では、私を編み物の先生かニットデザイナーと勘違いしたのであろう、「お友達の先生にもよろしくお伝えください」などと書いてくださるようになり、私はどきどきしながら「友人もこの紫は気に入っていました」とか「来年のグループ展に使うそうです」などと書いてさらに大量注文するようになり、架空人格も取引量もどんどんエスカレートしていったのである。

そもそも、身の程を知り、節約するために問屋さんにたどり着いたのではなかったか?

それなのに何をやっているのだろうか?

結局、私はアフガン・ハウンドやロックスターでないばかりか、多少寒がりの都市生活者ですらなく、単なるお体裁屋だということがはっきりとわかり、それ以降糸は買っていない。

何と無駄な時間と無駄なお金を費やしたことだろうか。アフガン・ハウンドやロックスターになれそうな糸は、引き取ってくれる人もおらず、ヤフオクで売りました。

今振り返って思うのは、私が髪をいじったり編み物をするのは「毛づくろい」の一環であり、毛糸を買うこともたぶん毛づくろいの一種だったということだ。

消費生活的毛づくろい。

要るものもないのに何となくコンビニ行っちゃってスイーツ買っちゃうとか。

使わないのにステーショナリー買うとか。

皆さんいろんなことやってらっしゃるじゃないですか。

あれ全部、消費生活的毛づくろいだ。

兎も猫も毛づくろいをする。あれは、自分の体表を清潔にしたり温度調節をするほかに、リラックスするためという意味もあると、専門家は言う。そんなこと知ってらあと、私は思う。そんなこと髪の毛いじりと編み物をする私はよく知っている。

自分を退屈させる会議やシンポジウム、自分を困惑させる要求(締め切り)、自分を当惑させる提案(テレビに出てくださいとか)、自分を心底参らせる不測の事態(子どもが困っているとか悲しんでいるとか)、つまり人生上の大小の不都合が起きるとその五、六時間後とか翌日とかに、私は髪の毛をいじっている。すぐにいじるわけではないところがポイントだがなぜなのかはわからない、でもとにかく、髪の毛をいじっている。

私は髪の毛が長いのだが、長い髪を触りながら、どうやら時間の感覚を再確認しているらしい。

例えば、星を見て「あの光は何億光年も前に出発したもので、今はもう星自体はないのかもしれないよ」とか、言うでしょう。それに近い感じ。つまり長い髪の毛の根本と毛先には、時間差があるんですよ。「この毛先も、過去のあるときは根元だったんだよ!」って思うと「あの星はもうないかも」と言われたときの百分の一ぐらい、一瞬、くらくらしませんか?(しないか)。

けれども髪の毛にも毛糸にもシルクに糸も、生命体の時間の流れはしっかりと刻印されているのである。それに触っていると落ち着くというのは拍子抜けするほどまともな話じゃないだろうか。

関係ないけど「落ち着く」ってすごい言葉だと思う。落ちて、着くんだから。落ちても着かなかったら落ち続けることになるので、それはとても辛いし、怖いでしょうね。

落ち着いた私の押入れにはまだシルクの糸がいっぱいある。これだけの糸で、残りの時間、どれだけの毛づくろいができるのかな? これから目が衰え、手が衰え、脳が衰えていく。衰えのスピードと糸のストック量が追いかけっこするような最終ラウンドが、多分もうそろそろ始まる。でも、もし糸が足りなくなったら、編んだものをほどいて編みなおせばいい。

編み上がったものは面に見えるけど、ほんとうは線だということを私は知っている。編み損なったり、途中で嫌になった編み物も、ほどいて糸にしたらまた使える。糸である以上、線である以上、たぐり寄せることができるし、味方につけることができると暴力的に信じている。

それが糸で、細長いということ、そして糸には始まりと終わりがあるということ、つまりは直線の定義そのものだということ。それは、一人の人間の時間には始まりと終わりがあるということと相似形だ。そして編みはじめたら、一玉のシルク糸に濃縮された何十匹もの蚕の時間について私はもう考えない。

その代わり、蚕や羊の群れの方へ、髪の毛もろとも、頭から突っ込んでいくようにして、手持ちの時間を編み倒す。

AHAMAY

北村周一

ただしくは、AHAMAY~その右横におなじみの音叉のマークが並んでいる。

それは、ベージュの色のワイシャツに縫い付けられた刺繍の文字、この会社のロゴマークでもある。

もっとただしくいえば、それらはすべて目の前の鏡の中の現実だ。

ぼくはいま、洗面所の鏡の前に立っている。

音叉が三つ重なり合っている。

見ようによっては、アルファベットのYの字に見える。

このブランドの頭文字でもある。

ほんらいなら、アルファベットの左側に位置しなければならない。

AHAMAYのそれぞれのアルファベットが、いずれも左右対称なので、音叉三つのマークともども違和感がない。

そのロゴマークの上に、自分の顔がある。

見慣れた顔である。

目が二つ、こちらを見つめている。

鼻先に視線をうつせば、鏡の中の自分も同様の態度をとる。

まるで、鏡の裏側にもうひとりの自分が入り込んでいるようだ。

しかしながらどこか不自然である。

自分の顔は、まったき左右対称ではないはずだ。

鏡面に映っている顔は自分のものでありながら、自分ではない。

思いかえせば、若い頃、ずいぶんと自画像を描いた。

自画像といっても、ほかに描く相手がいなかったからそうしたまでのことで、廉価な手鏡に映し出された自分の素顔を紙やキャンヴァスに描きとめるしか方法がなかったのである。

それはそれで興味深い訓練でもあったけれど、描かれた自画像が、ほんとうの自分の顔といえるかどうかは釈然としない。

自分が見ている鏡の中の自分と、ほかの人が見ている自分とは、あきらかに異なっているはずだろうから。

なぜなら、鏡の中の自分以外の背景は、ことごとく左右が逆だからである。

しかし驚くべきことに、天地に間違いは見当たらない。

写真機の仕様が現在のようになって、百年近くが経過しただろうか。

写真という、新しい技術によって、ひとは初めて自分の姿かたちを知るようになった。

それは鏡や水面に映っていた自分とも異なるし、肖像画家が描いたひとの顔かたちとも違っていた。

とはいえ、文字通り天地が逆転するほどの驚きでもなかっただろう。

自然は左右対称を欲する、たぶん上下においても、そのように計らおうとする、ように見える。

ひとの顔も、微細なところを省けば、ほぼ左右対称に見える。

見るときに、なんらかの作用が働いている。

抽象(捨象)という概念がアプリオリに働いているように見えるのだ。

洗面所の大きな鏡の前に立ちながら、右手に櫛を持ち髪とかすとき、不意に左右の区別がつかなくなるときがある。

そんなとき、着ていたワイシャツの左胸に目を遣り、あらためて三つの音叉のロゴマークからそのアルファベットを読み直す。

*ヤマハ発動機と、楽器関係のヤマハとでは微妙にロゴマークが異なります。ここで取り上げているのは、ヤマハ発動機のロゴです。くわしくはこちらまで。➡ https://www.yamaha.com/ja/about/history/logo/

しもた屋之噺(215)

杉山洋一

ローマに向かう機中でこれを書いています。ふと気になって窓の日除けをあけて外を眺めると、雲一つない透き通った漆黒がうつくしく、凝らしていた眼が馴れてくると、右奥がほんの少しまだ黒い水平線と空との境界線が見えます。その奥深く、ほんの赤ん坊の足の爪のように細く小さな月が橙色に燃えていて、周りに星一つなく、孤高に光を放っています。どうやら星たちは、ずっと天の上の方で瞬いているようです。

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11月某日 ミラノ自宅
14年前から住んでいる拙宅の玄関の鍵が回らなくなって、ボローニ金物店に相談にでかけた。老夫婦二人で経営していて、外装といえばイタリアらしいくすんだ深緑のペンキで塗られたシャッターにFerramenta Boroniと書いてあるだけで、足を踏み入れれば、まるで数十年間変わっていないであろう古い鼠色の整理棚がびっしり並ぶ空間だったから、時々訪ねては老夫婦と話し込むのが好きだった。

鍵が壊れたので久しぶりに店に顔を出して四方山話をしている、右の棚に高さ20センチほどの黄金色のメダルが飾ってあるのに気が付いた。ミラノ市がこの金物店に贈ったもので、1929年から続く歴史的商店として表彰されている。反対側の壁を見ると、そのメダルの内容と同じ表彰状が、大切に額に入れられて飾ってあった。聞けば店主の祖父の代からミラノで金物店を営んでいて、このジャンベッリーノ通りには1930年後半に移ってきたという。1929年というのは、ミラノ市が商店開業に際しライセンスを発行するようなった年だそうで、実際は1922年から店主の祖父がポルタ・ロマーナで金物屋を開いていたと誇らしげに話してくれた。

ふと、目の前のA4ワープロ打ちの文章に目が留まる。「この11月16日をもちまして閉業いたします。長らく有難うございました」。別の商店のお知らせかともう一度読返すと、閉業するのは何とこの金物屋だった。

驚いて目の前の老夫婦に次第を尋ねると、すっかり歳を取ったので体力的に厳しいし、市から帳簿はインターネットを使えだの言われて困るし、息子は今は建築の仕事に携わっていて、高速道路を設計しているからね。この店なんて継がせられない。と、少し嬉しそうに話した。

店主に腕の効く鍵職人を紹介してもらい、拙宅の玄関扉は直ったので、家人のCDに「有難う!」とサインをして金物店を訪れたところ、もうすぐ閉店だと言うのに、店には老夫婦以外誰もいなかった。二人共うつろな顔をしていたが、CDを差し出すと急に嬉しそうに笑顔になった。ここで話しこむのはちょっと辛いと思い、「じゃあね、またね」と言ってすぐに外に出てしまったが、日本から帰るころには、この外装も変わっているかと思うと寂しい。ここで何度ナポリ式の旧型コーヒーメーカーを買ったことか。このコーヒーメーカーは普通の店には売っていない。鍵職人を紹介してもらったお礼に、売れ残っていたナポリ式コーヒーメーカーを二つ購入した。

11月某日 ミラノ自宅
音楽家をもう随分長い間やってきているのだが、未だに楽譜を広げる度、自分はどうしてこれ程譜読みが遅いのかと思う。譜読みが遅い上に性格は大雑把で、不器用である。乱視の老眼のお陰で目が困憊するし、いつも絶望しながら楽譜を広げる。

頭から精読してゆく性分ではないので、大雑把に全体を何度も眺めてゆくうちに、少しずつ細かい部分に目がゆくようにし、音が鳴るよう努力する。指揮の譜読みは気の遠くなる作業だと思う。初めてエミリオのところにシューマンの交響曲を持って行ったときも、この音符を一つずつ読むことは自分には到底できないし、根気も続かないと思ったが、辞めさせて貰えぬまま、未だに何故こんな慣れないことをやっているのか不思議でならない。単に他に食い扶持がなかったのだから仕方がなかったのだろう。指揮する上で、楽譜を読む作業は8割か9割の仕事量を占めるはずだ。

何度も根気よく続けてゆくうち、炙り出しのように、音が少しずつ浮かんでくる。それは現代作品であれ、古典であれ、ロマン派であれ同じ作業だ。音を単に音として認識するのと、音楽として認識するのは全く異質だ。文字として認識するのと、文字が連なって単語として意味を含めて認識する違いだ。音楽としてスコアから音楽が浮かび上がるときは、まるで三次元の写真や絵を鑑賞するような愉悦を味わうけれど、それは最後のほんの一瞬であって、そこに至る過程は、苦痛と絶望の連続だ。

京ちゃん曰く「洋一くんはやっぱり細かいよねえ」、だそうだが、こちらから言わせれば、正反対である。尤も、彼女と長らく親友として付き合えるのは、丁度反対の性格だからに違いない。

11月某日 ミラノ自宅
折り畳み自転車を抱えて、日帰りでジュネーブに出かける。必要最小限しか楽譜が読めていなくても、とにかくイサオさんと新作の打合せが必要なのは楽譜を開いた瞬間にわかった。自分が理解できるまで読み込むべきものと、実際にやって疑問を氷解させるべきものがある。ちょうどイサオさんがコンクールの審査員でジュネーブ滞在中だったので、コンセルヴァトワール・ポピュレールの地下の一室を借りていただき、リハーサルをした。

ワインセラーのように掘られた地下3階の部屋の入口は、思わせぶりの鉄格子がかかっていて、少し不思議な部屋だった。暴力とや迎合が主題の新作にはお誂え向きの場所だったのだが、それすら気が付かないほど、二人ともリハーサルに熱中した。途中、イサオさんが近所でサラダとフォカッチャを買ってきて、このワインセラーで一緒にお昼を食べながら、初対面だと言うのにすっかり話し込んだ。話題は音楽のみならず、子供の教育環境や政治にも及んだ。イサオさんは、カールスルーエに自ら友人たちと日本語の補習校を開いて、娘さんはそこで日本語を学び韓国語は別の韓国語学校で習得して、ドイツの公立学校を進学して、今は大学に通っているという。

イサオさんの音がとても生命感に溢れていて、愕くのと同時に一緒に演奏するのが本当に愉しみになった。聞けば韓国民謡に新曲のパートを当てはめ暗譜したそうだ。彼は躍るように演奏し、音は彼の音楽と共に躍る。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりにジャコモ・マンゾーニからメールが届き、開いてみるとエウジェニアの訃報であった。11か月に及ぶ闘病生活はいよいよ苛烈になり、最後は手の施しようがなかった。気にかけてくれているのは知っているのでお見舞いなど一切無用だ、と教会嫌いの共産党員らしいメッセージが続く。

エウジェニアはヴェローナ生まれで、ドナトーニの幼馴染だった。戦時中ナチスがヴェローナを跋扈していた頃のエピソードなど、ドナトーニの話としばしば合致した。少し濁った音のヴェローナ訛もドナトーニと一緒で、本当に溌溂とよく話す、小柄で闊達な老婦人だった。戦時下、彼女の家にユダヤ人を匿っていて、そこにナチスの憲兵がピアノを練習させてほしいと訪ねてきた話など何度も聞きながら、戦後イタリアの文化人が揃って共産党員になったのは、戦時中のナチス体験や、その後の内戦が酷く影を落としているのを感じていた。マンゾーニやブソッティのような作曲家、アバードやポリーニような演奏家、パゾリーニのような文筆家のように政治色を詳らかにする時期もあった。

今の若いイタリアの学生からすれば、別の星の出来事のように感じられるかもしれないが、25年前にイタリアに住み始めたばかりの頃は、まだその雰囲気は微かに肌で感じられた。今となっては貴重な体験だったと思う。

11月某日 三軒茶屋自宅
ニュースに映る香港の理工大の大学生たちの姿が、半世紀前のボローニャ大学の占拠や、世界各国の学生運動を想起させる。思想的にはまるで違うが、それぞれの自由思想が行動を起こさせたところは似ている。天安門事件のニュースを見た時は、まだ何も理解出来なかったが、香港では中学生までも自らの信条に基づきデモに参加していて愕く。日本に滞在するチベット難民と知り合ってから、中国各地の民族浄化政策なども、より身近に感じられるようになった。

ところで、日本でポータルサイトのニュースを読むと、見たくもないインターネットゲームや成人漫画の宣伝ばかり写りこむのは何故だろう。その隣に、少女がSNSで知合った成人男性から事件に巻き込まれ、などと書かれてあって、暗澹たる気分になるので、ポータルサイトを読まなくなった。自己責任という言葉を誰もが気軽に口にするようになったのは何時からか。現在のようなインターネットに匿名性は必要ないし、SNSやインターネットゲームで子供が事件に巻き込まれるなら、目立つところになぜ宣伝を出すのか。子供に毒を撒き散らす、我々にも責の一端はないのか。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの新作も、京ちゃんの「むすび」も、悠治さんの「歌垣」にも、雅楽や雅楽の手法が使われているが、それぞれ全く異質な結果をもたらす。我々が継承してきた文化とは、実は幅広い可能性に満ちている。細川さんと悠治さんが繋がっている印象はなかったのだけれど、考えてみれば、イサン・ユンを通して近しかったに違いない。

細川さんの楽譜を読んでいて、音楽の本質とオーケストレーションとの同一性に感嘆する。当然のようだが、音楽の本質とオーケストラの質感が同意義である必要はないし、そうした作風は決して多くない気がする。

細川さんご自身、自作を書道に喩えられるから、本質と形象が密接に繋がるのは当然だが、細川作品の演奏のむつかしさは、演奏の瞬間、演奏者の意識が、たとえば書道で言えばどこにあるのか、それを理解する必要ではないだろうか。

筆を進める書家の魂なのか、手の動きを客観的に凝視する第三者の眼差しなのか、半紙の側から目の前に迫る筆先や垂れたり、ほとばしる墨汁を間近に見続けることなのか。書家の魂は、その意識が筆先に向けられているのか、空や宇宙に向けられているのか、或いはどこにも向けられず、自分の身体の中に留めておくべきものなのかによって、紡がれる音楽は大きく変化する。リハーサル中これらの意識をさまざまに試して、その度毎にオーケストラの音が移りゆくのは興味深い経験だった。これらの意識は細川作品に留まらず、どんな作品にも応用できるはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
ライブラリアンの糸永さんの発案で、今回初めてアルファベット札に挑戦した。かなり複雑なので本番うまく出来るか心配だが、今のところ何とかやり過ごしている。多分これもアルファベットを使わなければ大変なことになっていただろう。

都響と演奏するときは、込入った事情の作品が多いからか、決まって、オーケストラの演奏者や、裏方一人一人の優しさと責任感に圧倒され、演奏していて言葉に表せない不思議な一体感に包まれる気がする。

前回の仕事も「作曲家の個展」だったが、同じ感銘を受けた。オーケストラ全体のプロフェッショナリズムが、音楽を包み込んで高次元の演奏へと昇華させてゆく。

具体的に言えば、最終的に、演奏が色を帯びてくる体験であったりする。今回ならば、望月作品でさまざまな色彩が走馬灯のように変化してゆき、細川作品では、単色の光度が非常に複雑に変化しつづけてゆく。光度がどんどん上がれば、どちらも大きな煌めきに収斂するのかもしれないが、そこに至るアプローチは全く違うものだ。

京ちゃんの「むすび」など、何となく皆が見えていた色彩が、練習するたびに明晰になり、彩りそのものが主張を始める。指揮者としてはその時間を共有できる愉悦に浸れて、それまでの苦労を忘れられる瞬間だ。音楽のもつ至福は、現代作品にもしっかりと存在している。

11月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、久しぶりに父の好きなショートケーキを携え、両親宅に顔を出す。好物のカキフライと一緒に、珍しく頂き物の「くさや」が食卓にのぼった。大学の作曲科合宿で毎年夏に新島に出かけると「くさや」を食べた。何十年かぶりのトビウオの「くさや」は殊の外美味で、幾ら食べても飽きない。

普段はあまり食べないのだが、もう少しで五十の誕生日ということで、今日ばかりは父に勧められるまま、自らの誕生日祝にと、一緒にショートケーキを食すことにした。

母曰く「この歳になるまで生きているとは思わなかった」そうだ。戦時中は天皇陛下は神さまだと信じていたから、戦争が終わって大人が手のひらを返したように言うことを変えて、子供心に人間不信に陥ったと言う。

「当時は皆荒れていたわよ」と言葉を続ける。学校の教師も、戦後は皆とても乱暴になった。当時水泳でオリンピック出場候補だった母の姉の水泳仲間はみな特攻隊に取られ、二人だけ生きて帰ってきたけれど、いつも眉間にしわを寄せ、酷く陰気でやさぐれていた。生きて帰ってこられて倖せとは到底思えない状況だったのだろう。

「あとは皆死んじゃったわよ。特攻に出かける前の最後の休暇には、よくうちに皆ご飯を食べに来てね。その度に着物を売ってお金を作っては、砂糖を買ってお汁粉を作ってあげたりしたものよ」。恋人でもなかったのに、何故わざわざ来たのか尋ねると、遠い郷里に帰る時間すら貰えなかった水泳仲間が、当時横浜に住んでいた母の家にご飯を食べに来たのだと言う。自分が生まれるほんの25年ほど前の話だ。

あなたには、小さい頃から人の意見に流されないで、自分の頭でしっかり物を考えるよう諭して来たのだけれど、覚えているか、と尋ねられて、覚えていないと答えると母は少し残念そうに笑った。言われてみればそんな気もするし、何れにせよそう諭され育てられただけの性格ではある気がする。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの作品を演奏していて、不思議な体験をする。目の前に別の透明の空間がふわりと口を開け、すっと音楽がそこに入り込み、まるで音符が天の川のように光りうねるのだった。かと思えば、清涼で穏やかな心地で、吹きすさぶ嵐に立ち尽くしている錯覚にも陥った。音を読み、楽譜上で理解できることは、音楽の一部でしかない。

11月某日 機内にて
京ちゃんより頂いた「作曲家が語る音楽と日常」を読む。表紙を開くと「杉山洋一さま いつも精一杯のお心尽くしありがとうございます! 私の音楽にいつも命を吹き込んでくださって、本当に感謝しています 京」と書いてある。

彼女の文章のリズムも言葉も実にうつくしく、彼女の書く音楽と同じ響きがする。このうちのいくつかの文章は、既に新聞紙上で読んだものもあったし、特にお父さまの下りは、彼女から直接話を聞いたことも沢山載っていた。

「音楽は特に好きというわけでもなかったが、”もう一度サントリーホールでみさとの曲を聴きたいなあ”と言われたときには思わず涙がこぼれそうになった(94頁)」を読んで、本当に泣いてしまった。

昨日確かにあそこにお父さまはいらしたと思う。不思議なことだが、最後のドレスリハーサルの時から、本番はうまくいく安心感があった。口には出さなかったけれど。もし本番の演奏を京ちゃんが喜んでくれたのなら、それはお父さまのお陰だと思う。

「そこには何より、この場に関わるあらゆる人々へのリスペクトがあった。それは、異なる時代や人々をつなぐ結び目という、芸術の重要な一昨日を照らし出していた(175頁)」。

この本にたびたび登場するご両親や妹さんたちと一緒の京ちゃんの結婚披露宴の席で、新郎のオーレリアンが「みさとさんが書いた”むすび”という曲があってとても好きなのですが、彼女は音楽を通して人びとを繋いでゆくんです」、そう愛情に溢れる顔で語った。あの結婚式で、オーレリアンの願いで京ちゃんが纏った十二単がとても美しかった。あれは震災から未だ一か月経つか経たないかで、日本中が大変な時だった。

(11月29日 ローマに向かう機中にて)

アジアのごはん(101)台所の畑、モヤシマシーン

森下ヒバリ

ベランダにプランターはあるのだが、ほとんど勝手に生えてくる雑草のために置いてあるようなものだ。季節が巡ると、山芋のツルが伸びてきたり、西洋カタバミのピンクの花が咲いたりするが、基本食べられるものはない。いや、色々試しては見た。しかし、夏と冬に長い旅に出るために、ことごとく失敗、または留守の間に実って枯れる、という繰り返しで、もう諦めた。

しかし、ついに畑が台所に出現したのであ~る! しかも、かわいいインドのホウロウの丸缶に入っているのだよ。・・何ということはない、自家製モヤシ栽培を始めたのである。モヤシは前々から作って見たかった。しかし、市販のモヤシ製造機はとても大きいし、洗うのも大変そうだ。イージーにボウルとザルを重ねて使って・・置く場所はないし、めっちゃ邪魔そう、で却下。

タイ・バンコクの友人の料理家ジュジュがいつも食べさせてくれるモヤシ料理がとてもおいしい。マレーシアのイポーやタイピンで食べるモヤシ料理ぐらいおいしい。もちろん、料理の腕がいいのだが、使うモヤシがまた立派でつやつや。訊くと、自家製モヤシであるという。

ジュジュが台所で見せてくれたのは、小さな蓋付きバケツを改造したモヤシ製造機であった。直径は15センチ~20センチぐらい。緑色のプラスチック製で、底に穴が開いていて水はけが出来るようになっており、さらに中に小さなザルが仕込まれている。ザルに緑豆などを置き、1日に3~4回流しの上で水をかけてやれば、4、5日でモヤシがすくすく育つ、というものだ。ここまでのセットを菜食で有名な仏教新派のサンティアソークの自然食スーパーで売っており、ジュジュはこれにさらにもう一枚の小ザルを反対向きに底に仕込んでかさ上げし、より育てやすく改良していた。

「ほ~ら、上のザルから出た根っこが全部下に向って伸びるから、こう‥」ジュジュは伸びたモヤシが乗ったザルを持ち上げ、ざるの穴から出た根っこをナイフでざくざくとそぎ取った。「モヤシのひげ根とり、完了~」「すごい‥よ、ジュジュ!」

ヒバリがあんまり感動していたので、ジュジュはおみやげに新しいバケツのモヤシマシーンをプレゼントしてくれた。しかし、帰国用のスーツケースには入らないし、手荷物のカバンにも入らない。ジュジュには悪いが、「もやし、作って見た〜い」と言っていたプンに差し上げた。

プラスチックではなく、大きすぎもしない、台所に置いていて嬉しくなるような「モヤシマシーン」はないのか。探しているとありました。メイソンジャーという食品の保存によく使う広口ガラス瓶である。もちろん瓶は家でも使っている。その蓋は、基本は枠と平らな蓋の二重構造になったネジ蓋である。平らな部分がメッシュになっているステンレス蓋が「モヤシマシーン」として売られていたのであった。これは・・いいんじゃないか? さっそくその蓋を買ってみた。

手元にある800CC の瓶に緑豆を底が隠れるほどの量を入れ、メッシュのふたを閉め、浄水を注ぐ。消毒できるから塩素入の水道水を注ぐように解説が書いてあるが、塩素はいやだ。こまめに水でゆすげば問題はない。6時間ぐらい豆を水に浸した後は、瓶をひっくり返して水を捨てる。後は気がついたときに、浄水をさっとかけては水を切るを繰り返す。1日に4~5回。そして、暗い所がいいので、インドのホウロウの可愛い丸缶の中に入れて置いておくことにした。

一晩置くと、緑豆がぷくぷくとふくらんでいた。2日目、芽が出た。いやあ、可愛いですねえ。3日目、1~2センチに芽が伸びた・・と思っていたら、それは根っこであった。たいがいの豆はまず、根をのばし、それから茎をのばして豆部分を子葉に変えて緑の葉っぱにするのであった。

4日目、瓶の中はぐるぐるに伸びたモヤシでちょっとしたカオスである。緑豆は水が入るたびにかき回されるから、この瓶モヤシマシーンではまっすぐに伸びたモヤシは作れない。5日目、瓶から溢れんばかりのぐるぐるモヤシの出来上がり。モヤシは細く、まっすぐでもないが、まごう事なきモヤシである。さっそく味噌汁に入れたり、キャベツ炒めに入れたり、酢の物にしたりしてみたが、なかなか美味しい。そして、食べきれないものをジップロックに入れて冷蔵しておいても傷みが遅い。いつまでも元気だ。

メイソンジャーのガラス瓶で作るモヤシは細くて曲がっているけれど、ちゃんと美味しいうえに、片付けが楽なのがいい。瓶と蓋を洗うだけ!一日何度も水をかけるのが面倒と思うかもしれないが、正確に3時間おきに・・とか言うわけではないので気がついたらすればいいし、多少間が空いても問題ない。そして、何より芽が出てくる様子がガラス越しに観察でき、とても可愛らしい。まるでペットを飼っているような気分になる。育てば食べちゃいますが。

スーパーに行けば安い値段でモヤシは売っているのだが、やっぱり自分で作るのは楽しい。添加物の心配もない。無農薬の豆を探し、緑豆以外にもえんどう豆をもやしてみたり、と遊んでみたりもする。ひよこ豆は2日位もやして、ちょっと芽を出してから茹でると栄養価も高まる。

そういえば、インドで発芽させたひよこ豆を茹でてスパイスで和えたものをスナックとして道端で売っていて、たいへん美味であった。生の発芽豆で作っている場合もけっこうあって、それは不味かった。ガリガリの発芽生豆が好きな人もいるんだな、インドには・・。

タイ人は生のモヤシもよく食べる。パッタイという米麺を炒めた料理には具としてモヤシを一緒に炒めもするが、出来上がったら生のモヤシをさらに混ぜ込んで食べるのだ。炒めたモヤシのコクのある味と、生のシャキシャキ感を味わう両刀使いである。

さあて、そろそろ食べごろになったメイソンジャーの中のモヤシちゃん、今回はどうやって食べようかな。

ハルカゼ舎の日めくりカレンダー

若松恵子

小田急線「経堂」駅前、すずらん通り商店街にある文具店「ハルカゼ舎」の日めくりカレンダーを愛用している。

タテ5㎝、ヨコ5㎝の正方形。日付の数字と英字で曜日と月が印字されているだけのシンプルなデザインだ。掌に乗る小さなサイズながら、十分な余白が白く、美しい。ハルカゼ舎のレジの横に置かれていたこのカレンダーを初めて発見した時には、まずこのデザインのしゃれた可愛らしさに魅かれた。日めくりであるのに場所を取らない小ささ、うすい紙質も良かった、出会ったのは残りの枚数も少なくなってきた11月あたりで、思わず「これください」と言ってしまったが、その年の物はとうの昔に売り切れで、翌年用が店に並ぶのを楽しみに待って買ったのだった。使い始めてもうずいぶん経つが、ハルカゼ舎お手製のこのカレンダーは今年で10周年になるらしい。

日めくりには、毎日小さな言葉が添えられている。例えば今年の12月1日は「コクトーのパーティーに招かれる日」だ。その日1日を占うコトバとして読むとおもしろい。ちなみに11月1日は「澄み切った朝に水星をみつける日」だった。ハルカゼ舎をひとりで(たぶん)切り盛りしている美しい店主が、日々書き留めて置いた言葉が、次の年の日めくりの言葉になっているようだ。

最後に10月分のページが沢山あまったので、10月1か月分が落丁した物を何セットか作ってしまったかしれないと店主が心配そうに話してくれた年があった。10月が消えてしまった年というのも想像してみると面白い。9月の最後の日をめくって、10月が無いと気づいた時に、怒る人と、笑う人と・・・。

その年、ちょうど日めくりを片岡義男さんにプレゼントして(いつも手ぶらの片岡さんにも、この日めくりならポケットに入るからと)このエピソードを話すと、10月が丸1か月無い日めくりというものをたいそう面白がってくれた。いつか物語の片隅に登場しないかなと密かに楽しみにしている。

今年もあと1か月。日めくりも残り少なくなってしまった。1年の日々の合計の枚数が最初にあって、それは1日1枚ずつはがされていく。いつのまにか1年だね、ということではなくて、確実に1枚(1日)1枚(1日)なのだ。毎日毎日きちんとめくらないのは、ずぼらだからというだけではなくて、もしかしたらこの1日1日減っていくというのが怖いからなのかもしれないな、と今思った。

ボクシング(2)

笠井瑞丈

ジムに通い始め
ジムでも少しづつ話す友達が出来てきた

成瀬くん 

高校時代からアマチュアでやっていて
サウスポーのハードパンチャー
そして見るからに元不良少年
ジムで数々の練習生の顔面を骨折させ
鼻をへし折っていたヤツだ

彼とは最初
彼がサンドバックを
轟音で叩いているのを
横で眺めていたら
てめー何見てんだよと
言われたのがきっかけで
ジムで話すようになった
そして一緒に遊ぶようにもなった
彼のパンチはとにかく凄かった
元世界チャンピオンの会長も
彼のパンチ力は認めていた
彼は運送屋で働いており
ジムの近くで一人暮らしをしていた
よく彼の部屋でジムの他の友達と
たむろをし酒を飲んで過ごした
彼はいつも練習が終わり
ジムの一つ目の曲がり角を曲がると
ポケットからおもむろにタバコを取り出し
会長にバレたら殺されるなと言いながら
タバコをプカプカと吸い出す
ボクシングというスポーツにおいて
タバコを吸うというのはもっとも
御法度の行為である
練習前いつも彼は
僕にタバコの匂い
大丈夫かと聞いてくる
そんな事もあり
彼はいつも練習の時は
ガムを噛みながら練習をしていた
そして彼はプロボクサーを
目指す練習生でもあった

彼はロードワークも一切しない 
ただ彼には天性のパンチ力があった
そしてとても優しさを持った男だった
俺はスタミナはないけど
いつでも相手を一発で
倒せるから大丈夫だと言う
彼は酔っ払うと
ジムの中で俺が一番強いと
ふざけながら言っていた
そして僕も彼が一番強いと思っていた
ジムの多くの練習生は彼に期待し
彼のプロデビュー戦の日を楽しみにしていた

それから時が経ち

彼は難なくプロテストも受かり
デビュー戦が決まった

僕は彼を応援に
ジムの友達とみんなで
後楽園ホールに行った

彼がどれだけ早く相手を
倒せるかだけを期待していた

『カーン』

ゴングが鳴る
1ラウンドTKO

彼は負けた

僕は彼が負ける姿なんて
全く想像していなかった
彼は僕の憧れでもあった
世界が逆転してしまった

彼がセコンドの人に
頭を垂らしながら
コーナーに抱えられて戻る

僕は自分のことのように悔しかった

彼を見たのが
これが最後だった

(次号に続く)

長い足と平べったい胸のこと(2)

植松眞人

 朝、自分の部屋で目が覚めると、いつもわたしはちょっと幸せな気持ちになる。寝ている時よりも目が覚めた瞬間が幸せなような気がする。カーテンの間から太陽の光が差し込んで、ママが下のキッチンで朝ごはんを作っている音がして、ときどきパパが廊下を歩いている音がする。そんな目覚めの時間に、どんなに自分がえらそうなことを考えていても、ああ扶養家族なんだ、守られているんだ、と思う。

 まだ小学校の低学年の頃に、パパと一緒に駅前の商店街に出かけた。その時、前から歩いてきたちょっと怖いおじさんと、大学生風の大人しそうなお兄さんの肩がぶつかって騒ぎになった。パパが、間に入って収めようとしたのだけれど、怖いおじさんはお兄さんよりもパパに怒って、弱いくせにしゃしゃりでるな、と声を上げた。パパはなぜか笑顔になって、すみませんすみませんと謝って、まあまあまあまあ、とあとずさりしながら、私に向こうへ行け向こうへ行けと手をひらひらさせて合図を送ってきた。わたしはそんな合図を送られても怖くてその場から動けずにいた。

 結局、怖いおじさんは、その後、パパに二言三言何か大きな声で言って、パパはへらへらと笑ってその騒ぎは収まった。最初に絡まれた大学生風のお兄さんは、怖いおじさんが行ってしまってから、チェッと舌打ちをして私たちのほうも見ずに駅のほうへ歩いていった。パパはしばらく怖いおじさんの背中を眺めたあとで、小走りでわたしのところに戻ってきて、手を引いてマクドナルドへ入って、玩具がおまけでついているハッピーセットを買ってくれた。

 あの時に、わたしは初めてパパよりも強い人が世の中にはいくらでもいるんだということを知って、なるべくあの日のパパを思い出さないようにしていた。あの日のパパを思い出すと、いつ怖い人たちが家にやってきて、家の中の物を勝手に持っていったり、わたしやママに乱暴をするかもしれない、という変な想像をしてしまうからだった。

 高校生になったくらいから、わたしはもう一度パパはやっぱりえらいなあと思うようになった。世の中にはパパよりも強い人や怖い人や才能があって歌がうまい人やイケメンで映画に出られる人や絵を描けるような人がたくさんいるのに毎日会社に行ってわたしたちの暮らしをちゃんと守ってくれていると思うようになった。それはたぶん、高校二年生になってから担任の先生に将来のことをちゃんと考えるようにと言われるようになったからだと思う。

 担任のテラカド先生曰く、別にみんなを焦らせるように将来のことを考えろと言うのは本意ではないけれど学校がそのように進路指導をしろと言うので仕方なく言っているんだということだった。それを聞いた時に、わたしはテラカド先生のことをちょっとずるいぞとは思ったけれど、まあ実際に将来のことを考えないといけない年頃になっているのは本当のことなので素直にうなずいたのだった。

 朝になって目が覚めて、幸せな時間を過ごして、だいたいママと二人で朝食を食べて、時には働き方改革のための時間調整で遅番の日はパパも一緒に三人で朝食を食べて、わたしの幸せな時間は終わる。

 わたしの暮らしている街は郊外なので、市街地にある高校まで五駅だけれど私鉄電車に乗らなければならない。この電車がとても混んでいる。わたしは正直、通勤のおじさんやおばさんにギュウギュウ詰めにされるのは全然気にならない。それよりも、同じ学校に通う男の子や女の子と一緒に詰め込まれるとどうしていいのかわからなくなる。普通に会話ができる子もいるけれど、そんな子はほんの少しで、同じ通学路の子はアキちゃん一人だけだ。だけどアキちゃんは少し時間にルーズなので、いつもギリギリの時間に家を飛び出して電車に乗って、駅から学校まで猛ダッシュで通学している。わたしは朝から汗まみれになるのが嫌なので余裕をもって家を出るから、朝、アキちゃんと一緒になることはほとんどない。そうなると、顔はなんとなく知っているけれど話したことがないという男の子や、みんながビッチだと噂しているけれど真相は知らないという女の子と腕や肩や背中をピッタリくっつけあって電車に詰め込まれることになる。たった十五分ほどの時間だけれど、これほど苦痛な時間はない。

 玄関でスニーカーを履き、ショルダーバッグを肩に掛けると、わたしはイヤホンを耳につける。iPhoneを操作してクリープハイプを流し、心の中でよっしゃと自分にハッパをかけて街へ出る。クリープハイプがいてくれたら最強。電車のなかにどこの誰と一緒に詰め込まれようとなんとか生きていける。

 案の定、今日も電車のなかは同じ制服のオンパレード。右も左も前も後ろも、顔は知っているけれど名前まで知らない人でいっぱいだった。何組か朝ちゃんと時間を合わせて登校する仲良しグループがあって、その子たちはずっと話をしながらギュウギュウ詰めに耐えているのだけれど、それ以外の私のような人たちはみんなイヤホンをして好きな曲を聴きながら耐えている。一駅過ぎ二駅が過ぎた頃、急に私のイヤホンが引っ張られた。目をつむりながら引っ張られたイヤホンを首を揺らして取り戻す。するとまたイヤホンが引っ張られて、そっちを見るとアキちゃんがいた。アキちゃんは私の耳元でわざとくすぐったい声で、おはようと言い、その声がクリープハイプの演奏の合間にうまいぐあいにはまってわたしは耳がこそばくなって吹き出してしまう。するとアキちゃんはまたわたしの耳元で、シーッと言いながらわたしたちの目の前をあごで示すのだった。すると、わたしたちと同じ制服を着た女子の手を握る男子の手が見えた。でも、満員電車なので誰が誰の手を握っているのかがわからない。その手はただ女の子の手を男の子が握っているのではなく、女の子の指の間に男の子の指がややこしく組み合わせられていて握っているというよりも握りあっているという感じになっていて、これはもう一言で言うとエロかった。わたしが小さな声で誰と聞くとアキちゃんは、セイシロウだよ、とわたしたちの同級生の名前を答えた。(続く)

翔んでアンマン

さとうまき

ヨルダンの首都、アンマンに着いた。葉っぱが黄色く色づいて、秋が深まる。僕は中東のこの季節が一番好きだ。

アンマンのタクシーは以前から最悪だと思っていた。ドライバーのマナーが悪いし、メーターがついているのに、こっちがよっぽど言わないと回さないでぼったくる。そしてセクハラも多そうだ。そして、手を挙げてもなかなか捕まらない。

しかし、最近ヨルダンでもウーバーが出てきて、使ってみると、少し高いがとても便利だ。ウーバーというのはアメリカの配車サービス会社で、携帯にアプリを入れて、車を呼び出すと、近くにいる車がすぐやってくる。一般人が自分の空き時間と自家用車を使って他人を運ぶ仕組みだ。ドライバーの名前と電話番号も出てきて位置を確認できる。あとで評価を入力するから安心だ。難を言えば、ドライバーがあまり道を知らず、アプリに頼っていることで、お客がしっかりと目的地の名前と住所を知ってないといけないことくらいか。アメリカ人の考えることはすごくて、世界侵略にはたけた人たちだ。

ちょうど、僕がかつてヨルダンで雇っていたシリア人のドライバーのアバジッドさんから連絡が入る。彼は2年前にアメリカに移住してウーバーの運転手をやって安定した収入を得ていた。「ウーバーでの俺の運転の評価はとても高いんだよ」という。ちょうどヨルダンに来たという。今回は、シリアに里帰りしようと考えているらしい。というわけで、ウーバーはやめて、レンタカーを借りて彼に運転してもらうことになった。

アバジッドさんの家は、ダラーにあるが、政府軍に激しく攻撃され廃墟になっている。「娘たちはシリアに帰りたがっている。もし帰れるなら、夏休みだけでも子どもたちが過ごせるようにしたいなあと思って」

アバジッドさんは、反政府運動に積極的に参加したわけではなく、政府から目をつけられているとは思わないが、それでも、帰ってみないと安全かどうかはわからず、いろいろと情報を集めていた。

「マジドのお兄さんは、一か月前に殺されたんだ。」マジド君は、2013年、11歳の時、ダラーでロケット弾にあたって右足を切断した。そして一人だけヨルダンに運び込まれて治療を受けていたのだ。

その後、母と弟がヨルダンに難民として逃れてきて一緒に暮らしている。父と兄はダラア―に残っていた。マジド君は携帯電話の修理を覚えて、ヨルダン人が運営する携帯電話屋で月に3万5000円ほど稼いでいる。最初はリハビリに通っていたが、いつしかそれは筋トレに変わり、上半身にはしっかりとした筋肉がついてたくましくなっていた。

一年前に「来週、シリアに戻ることにしたんだ」といっていたのを思い出す。「父の話では『もう帰っても大丈夫』というので、帰ることにしたんだ。シリアには自由がないかもしれないけど、離れ離れになった家族が5年ぶりに再会できるんだ」

マジドの兄さんは、反体制派を支持していたが、最近になってアサド政権に協力して働くようになったという。「あれほど憎んでいたのに?」生きていくためには背に腹は代えられない。

しかし、そうはうまくいかなかった。今度は、反体制派の連中からしてみれば裏切り者だということで、白昼市場で射殺されたというのだ。マジドは、シリアに帰るという計画を断念した。ヨルダンでの生活は以前にもまして援助がなくなり、苦しくなっている。カナダが障害者を受け入れてくれると聞いて移住を希望しているという。

アバジッドさんにムラッド君19歳の家も訪問したいとお願いした。ムラッド君は13歳で、右腕と右足を切断した。

「俺は、あそこのオヤジを好きになれないんだ。なぜなら、行くたびに何かせびられる。特に君と一緒に行くと、あいつら期待するから」アバジッドさんの言うことはよくわかる。でもムラッドの成長を見ておきたいという親心がある。「なら、こう言ってくれ、俺は悪いやつに騙されて失業して、もはや、人道支援どころか、借金を抱えている身だ。わかるだろ、君もイスラム教徒だから、今は僕が施しを受ける番だってこと」

アバジッドさんは、俺が失業したから、何にも持っていけないことをまじめにムラッドの父ちゃんに電話で説明していた。「オッケーだ。彼は何も要求しないって」

それでもアバジッドさんは、お菓子を買って持っていくことにした。アバジッドはアメリカでそこそこ稼いでいるからたくましい。

「日本で仕事見つけるのはむずかしいのか?」

「ああ、この年になるとね」

「日本でウーバーやればいいじゃないか?」

「運転ねぇ、あんまり得意じゃないしなあ。すぐぶつけそうだし」

ムラッド君の家は、坂の途中に引っ越していた。親父が出てきて機嫌よさそうに迎えてくれる。なんでもカナダ行きが決まったそうだ。ムラッドはというとさらにでかくなって2メートルくらいありそうなのだ。スマホに入っている動画を得意に見せてくれる。

初めて彼に会ったとき、13歳の青年だった彼がスマホで見せてくれたのは自分が病院に担ぎ込まれた時の映像だ。足はぐちゃぐちゃにつぶれ腕は皮一枚でぶら下がっていたので、付き添いの若者がちぎってしまおうとしたとき、ムラッドは意識がもどって、「ああー」とうなるところで映像は終わっていた。僕はショックを受けた。ムラッドは臆することなく堂々と映像を見せてくれて、微笑んでいたのだ。僕は、彼のメッセージを世界に伝えなければならないと思い回りの人たちにこれがシリアの内戦なんだと訴えていたのを思い出す。

今回、19歳になったムラッドが見せてくれた映像は、イラク人のキャプテンと腕相撲をやって打ち負かしたというもの。イラク人は戦争でケガをした同僚のお見舞いに来ていたらしい。そのキャプテンはマジに悔しそうな顔をしていた。

「僕と勝負しない?」ムラッドが挑発するがそれには乗らない。

「こんなおっさんに勝ったところで自慢にならないよ」

「カナダで何をしたい?」

「勉強をしたい。ここ(ヨルダン)では、学校に行くこともできなかったからさ。読み書きもろくにできないんだ。そして車の免許を取りたいんだ。片腕、片足でも運転できるのかな」

アバジッドがいろいろと車の運転について説明していた。

ムラッドのお兄さんは、かつてアメリカ軍のトレーニングキャンプに入っていたことがある。ISと戦うために、訓練を受けると給料がもらえたのだ。しかし、アサド軍と戦わないなら意味がないとやめてしまった。その彼は、今、シリアに戻り、政府軍に入っているというのだ。そしてやがてはカナダで皆で暮らすという。

この家族にとって、感情的にアサドが憎いというのは変わらないみたいだが、状況は大きく変わった。したたかに生きていくためには受け入れる。背に腹は代えられないってことか。彼らがカナダで幸せに暮らせる日が早く来ますように。

アバジッドさんも、ムラッドの父さんが、何も要求してこなかったのでとても機嫌がよかった。

「あの親父は、いろんなところか支援してもらってもすぐ金を使ってしまうんだ!」そう言って僕らは、シリア人がたくさん住んでいるイルビッドという町まで出かけて、ホテルに落ち着くと、インド料理の店を見つけてブリヤニを食った。羊肉がうまかった。またいつかどこかでこのおっさんに会いたい。多分シリアで。

8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録

冨岡三智

今回紹介しようとする「飯炊きの儀」は、ジャワのスラカルタ王家においてスカテン儀礼の時に行われるものである。スカテンは今年は11月2日から9日まで行われた…ので、実は先月に終わっている。しかも、この儀礼は8年に1回しか行われない。最近だと2017年に行われた…ので、全く以てタイミングを外しているのだが、先日唐突に昔のことを思い出したので、書き留めておきたい。

スカテンとはジャワ島中部の王家(スラカルタとジョグジャカルタ)で催される儀礼で、イスラム預言者ムハンマドの生誕を祝うため、王宮モスクの中庭で生誕祭までの1週間、巨大なガムラン楽器「スカティ」を昼夜演奏し続けるというものである。ちなみに、ジャワ島西部のチレボンという王宮でも同趣旨の儀礼・ムルダンがある。ムハンマドの生誕祭はイスラム暦(1年約354日)で執り行われるので、毎年約11日ずつ日がずれていく。

「飯炊きの儀」とは「アダン・セゴ Adang Sego」のことで、ジャワ語で文字通り「ご飯を炊く」という意味である。王自ら巨大な4つの甑(こしき)を使って米を炊き、家臣がそれをいただいて食べる儀礼で、パク・ブウォノII世(1726-1749)の時代、つまりスラカルタとジョグジャカルタが分裂する前のマタラム王国時代、まだ都がカルトスロにあった時から行われ、現在までスラカルタ王家で継承されている。日本の羽衣伝説に似た『ジョコ・タルブ』という伝説がジャワにあるのだが、甑はその人間の男性と結婚した天女(稲の女神でもある)と関係があるとされる。

この儀礼が行われるのは8年に1度巡ってくるダル年のみである。ジャワにはウィンドゥwinduという8年周期の暦――ちょうど十二支のようなもの――があり、ダル年はその5番目だ。ちなみに、ジャワの人々はウィンドゥが8周した時(64歳)や10周した時(80歳)に、還暦や傘寿のようなお祝いをする。それはともかく、ダル年が特別であるのはムハンマドがダル年生まれであるからのようだ。スカテン最終日(つまりムハンマド生誕祭)には、食物で作られた神輿が出るのだが、その数もダル年だけ倍になる。

私も留学中の2002年にダル年に巡り合っている。当時、私はスラカルタ王家の様々な儀礼を参与観察させてもらっていたので、「飯炊きの儀」も見たいと思っていた。8年に1回の儀礼というだけでなく、この年にはぜひ見たいという特別の理由もあった。実は、この「飯炊きの儀」にはその場に華人がいるとご飯が炊きあがらないという伝承があり、華人お断りの儀礼だったのである。2000年、インドネシアでは1965年以来行われていた華人の文化・慣習に対する制限が撤廃されたが、そのような状況下において、この儀礼はどうなるのだろうか?と興味を持っていたのだ。

「飯炊きの儀」で上記のような伝承が生まれたのは、実は1740年の華僑騒乱に関連する。バタヴィアでオランダ東インド会社による華僑虐殺事件が起こると、中部ジャワでも各地で華僑が反乱を起こしてオランダ人を殺した。パク・ブウォノII世は当初は華僑を支援し、東インド会社に反旗を翻したものの、後に敗れて謝罪。その変節ぶりに家臣や華僑が怒って王に敵対した。王は東インド会社の助けを得てこの反乱を収束させたために、会社に大きく譲歩する羽目になった。華僑騒乱の時、華僑は王宮の台所を突破したとも言われており、それが「ご飯が炊きあがらない」という伝承に転化したようだ。

結局、この「飯炊きの儀」は見れなかった。王家の事務に見学申請を出していたが、ぎりぎりになって「実は、外国人は入れなくなりました…」と申し訳なさそうに言ってきた。予想外の返事だった。伝統行事としてどうしても華人禁止にしたいが、2000年以降の社会的状況下でそれを明言することはできない、だったら外国人全般を禁止してしまおうという政治判断が働いたのだろう。それほど、王家は華人/華僑に裏切られたという記憶をこの儀礼に刻印しておきたいのか。それとも、そうしなければならぬという神のお告げでも出たのか。その後の2009年、2017年のダル年にはどうしたのだろうか…と思う。

潮目か

高橋悠治

たゞ飽きることだけが、能力だつた —。
あきた瞬間 ひよつくり 思ひがけないものになり替る。
                [折口信夫『生滅』1950 ]

一つのやりかたにあきて ちがうやりかたに替える それではたりない 書けば 書いたことばにしばられる 現れては消えることば うしろ向きに歩きながら 足跡を掃き消していく システムや方法は 純粋だとせまく 新しいほどすぐ古びる となると 試行錯誤しかないのだろうか どこからでも始められると思っているが 続くかどうか それから書きかた 複雑な始まりは あとが続かない 出口のない迷路に入りこむ 迷宮は曲がりくねって先が見えないが いつか出口にたどりつく その一本の脈を感じられたら 続ける そうでなければ 書きかたを換えてやりなおし

歌曲の場合は ことばがあるので 声の部分を先に書いてしまうこともできるだろう 楽器の場合は ホケットのように ひとつの楽器から他の楽器へ移る線を先に書いてしまえば それに「あしらう」こともできるが それでは迷宮ではなく 目標のある道は 直線に近くなり 発見がない 全体をひと目で見えない なりゆきを手探りでたどり ことばにならない変化を手で感じる 見え隠れ 浮き沈み 飛び飛びの時間 隙間だらけの空間

書き終わったら 忘れたころ 見返して 音を削るか 安定した動きを崩す
これが作曲の場合

構成や構造という 全体が閉じて見通せる20世紀音楽を離れて 蕉風連句の「付け・転じ」を参考にしたやりかた 邦楽の同時変奏 あるいはヘテロフォニーからも いまは遠ざかっている 音程を色彩 (chroma) として 半音 (chromatic) 単位で自由に変化する組み合わせは いまでは中心もなく それでは崩れというより移ろいにすぎなくなった これからは 枠が見えるように 音程ではなく 音の位置からはじめて それをあいまいにひろげてみようか 音の位置は点ではなく そのあたりのひろがり 節目 

図形楽譜を避けて 普通の音符の長さを 拍にしばられないで使うやりかたと 和音を同時ではなく崩したり 楽器の間の見計らいで絡まる線を織るやりかたは まだ可能性があると思う これは演奏にも使えるやりかた

演奏の場合は リズムも音もすでにあるだけでなく だれかの演奏もすでにあり 伝統もスタイルもある 演奏のスタイルは時代を映して変わる 音を削ったり リズムを変えたりすることは 今どきは認められないだろう それでもアクセントを変え リズムをずらし テンポを揺らしながら 音をつなぎとめていた網をほどき 光と陰の変化を幾重にもかさね ずらし 散らして 靄になる そのうち クラシックを弾くときに試してみようか