別腸日記 (31) 野辺のうた(戸島美喜夫さんへ)

新井卓

あなたが眠る日
二度と明けなければいい、そう思った夜がいま薄明に染まり
ばら色の日輪が雲間に上る
ひとつかみの雨
二月。
春の支度にわたしたちはまだ、間にあわないというのに
ラッパ水仙のかぐわしい香りや
せっかちな乙女椿に誘惑されて、足どりも軽く
旅たってしまったのだろうか
いまごろ恵那の山の巓で
粉雪の降る音に耳を澄ませているだろうか
それとも解きはなたれた心は歓びに満ちて
タージマハルへ
はたまたシルクロードへ
一陣の風となって
カラコルム回廊の牧童を驚かせているだろうか
それとも案外よく冷えたピルスナーかなにかを
嬉しそうに傾けているかもしれない
愛する人たちに迎えられて
花散る野辺で
──そんなに泣かなくても大丈夫
そうおっしゃるだろうか
それでも、早すぎる春に座礁したわたしたちの裂け目から
雪融けの水はあふれ
あなたの小舟を運んでゆけ
あなたが眠る日、二月
早すぎる春に

184 碧玉 ——詩折(しをり)二題

藤井貞和

  亡いひとに

碧玉? とても悲しくて、
みどりの石? きっとそこいらで遊んでる、
古いことば、みんなでいくつも拾おう、
たいせつにする、ぼくは約束する

わたしも拾う、あなたが寝ているすきに、
数じゃない、きれいじゃない、
でも、きたないわけでもない、
たいせつなあなたのために、拾う

遊んでいる「みどり」さん、碧玉、
うみのおもての浮き輪も寂しい、
だからと言って、夕暮れだから、

暗くなるから、いちばん、
あなたが光るときだから、
どうか起きて、こちらを向いてすわって

  リベラリズム

清水昶さんが、鮎川さんについて、「 
  」と、言ったの迄(まで)は、
聞こえたよ、聞こえたさ、めちゃな、
酔い加減のあきら詞(ことば)よ、しりめつれつで、

十年にいちど、「十年に一回だけ、
鮎川さんはリベラリストで、」と、
言いかけて、北村さんも、中桐さんも、
リベラリストである、と言いかけて、

いったい明晰な「理性」とは、「実存」とは、
何だったのだろう、疑問詞をのこして、
めちゃな昶さんがゆく、聞いてる?

さいごの句は「遠雷の、轟く沖に、
貨物船」でしたよね、ゆくまぼろし、
友人を載せた軽い石もまぼろし

(軽い石、でも言葉遊びじゃないよな。言葉遊びはたいせつさ、軽い石。おまえは最低のところへ来る、堕ちる。軽みがほしいよな、おまえ。詩折を折る、やめてもいいんだぜ。心が折れる、芭蕉さんの棲む古池。違う、堕ちる石。帰れない、やめてもよいのに。遠雷でしたね、今夜の海上を光らせて。)

小さな泉から

璃葉

父が死んだ。2月15日の朝のことだった。
空には雲がひろがっていて、家の窓から入る冷たい光が父の顔を照らす。
今まで上下していた胸はもはやうごくことなく、まるで精密につくられた人形が横たわっているような、奇妙なものがそこにあるだけだった。息をしているわたしとしていない人の一対一の空間は、やけに静かだった。魂が抜けている、という意味を本能的に、初めて理解した。この体にもう父はおらず、正真正銘、どこかへ旅立ったのだ。反射的に涙が出てくるものの、そこまで悲しみはなかった。なぜなら、父はいよいよ容態が悪くなる前日まで、本当にたのしんで生きていたからだ。起き上がれず横になったままでも、せん妄が激しくなっても、首を少し起こして、たばことコーヒー、夜はビールとワインを飲んでいた。とてもうれしそうに。

去年の11月中旬に癌と告知された後日、生検をした父は退院するときに腕時計をなくしたと騒いでいた。むかしから使っていたものだ。看護師たちと一緒に探したが結局見つかることはなく、仕方なく年末にふたりで近くのホームセンターに腕時計を買いに行った。以前よりもずっと安物だけれど、文字盤が大きく見やすかったから、これでいいやという感じで選んだ。ついでにチューリップの球根もいくつか買う。思えばあれが父との最後の買い物だったのだ。

通夜と葬儀はあっという間に過ぎ、父が使っていた体はすっかり焼けて骨だけになった。お骨を箸で拾うとき、あまりにも太くて丈夫で、びっくりして思わず笑いがこみあげてしまった。太ももの骨なんてあまりにもしっかりと残っているものだから(ギャートルズに出てくるやつみたいだった)、壁に飾りたいぐらいだね、と身内で盛り上がる。
そもそも父の体を焼いている最中、待合室での親族の会話は本当に愉快だった。
叔母や兄たちから今まで聞いたことのない、若かりしころの父の話がどんどん出てきて、父という役割を外れて彼がどんな人だったのか、ほんの少しだけわかった気がした。

数日が経ち、ゆるゆると実家の片付けをしているとき。何かのきっかけで父があまり使っていなかった眼鏡ケースを開けると、そこにはなんと、彼が病院でなくしたと騒いでいた腕時計が入っていた。シチズンの、しっかりとしたつくりの銀色の腕時計は、忘れられた小さなケースの中でちゃんと時を刻んでいたのだ。なんでこんなとこにあんねん、と呆れながら空中にぼやいてしまった。とりあえず仏壇に向かい、あったよ、と報告。

コーヒーとたばこをたのしみながら庭にあるオトメツバキと柚子の木、その向こうの、父が間伐した森を窓から眺める。むかし川底だった森の木と木の間から、陽が差している。まばらにたくさん、陽だまりができている。

泉を絶やすな、と言われたことを今でも覚えている。人との関わり方に悩んでいた何年か前のわたしにそう言い放った。数えきれない人とのつながりにこだわるより、自分のなかに湧き出る小さな泉とのつながりに焦点を、と。泉とは言わずもがな、創造のことだ。今思えば、あれは彼が自分自身に言い聞かせていたような気もする。

父は今、どこにいるのだろう。目も足腰もようやく自由になったわけだから、きっと世界中を文字通り飛びまわって、音の旅をたのしんでいるはずだ。その話はそのうち向こうで聞かせてもらうとして、わたしはわたしで、こちらの世界の時間をたのしむことにする。

1958

管啓次郎

ダム湖に沈む村を見下ろしながら
甘い水にまどろんでいた
太陽に初めてふれた日
顔をしかめてくしゃみをした
木々はそのまま燃えるように
秋の中を群れなして走ってゆく
獣たち鳥たちは人の世界をとりまき
空と地表をひとつにむすぶ
母の顔は覚えていない
偶然たどりついたその森が
逃れることのできない故郷になった
(それから一度も訪れていないけれど)
その年は火山がよく噴火した
東京バベルには美しい電波塔
チキンラーメンを誰が先に食べるかで
中学生たちは楽しく競い合った

ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン

冨岡三智

ガンビョンについては、2003年1月号の『水牛』に寄稿した「ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊」の中で書いている。ここまで古い号はバックナンバーでもカバーされていない。ちなみに、これが『水牛』への寄稿3作目だった。その次は2014年11月号に「ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン」を寄稿していて、これはバックナンバーにある。意外にも、それ以外は書いていない…ということで、今月はガンビョンについて書こう。

まず、私の手許に残る幻(?)の2003年の『水牛』寄稿記事からの引用…。

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ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

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ガンビョンは楽曲がラドラン形式かグンディン形式かによって太鼓(ひいては振付)のパターンの組み方が違う。どの曲を使っても良いのだが、ラドラン形式なら「パンクル」、グンディン形式なら「ガンビルサウィット」という曲を使うのが定番で、カセットも市販されている。いずれもガムランを嗜む人なら誰もが知っている曲である。上で述べた「ガンビョン・パレアノム」もメインで使う曲は「ガンビルサウィット」だが、通常のグンディン形式のガンビョンではやらないケバルという演出(速いテンポで踊る)を追加しており、別物になっている。

「ガンビョン・パレアノム」がマンクヌガラン王家で最初に作られたのは1950年、初演されたのは1951年の王家当主(マンクヌゴロVIII世)の妹の結婚式であった。なお、「パレアノム」(若いニガウリの意)はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家を代表する曲として作られたことを端的に表している。このオリジナル版は宮廷舞踊のように構成されており、長さも45分あった。1973年に(次で述べるガリマン版が作られた翌年に)15分の短縮版が王家で作られた。

王家の外で初めて「パレアノム」をアレンジしたのはガリマンで、1972年のことである。カセットも市販されている。ガリマンは誰かの結婚式でマンクヌガラン王家の「パレアノム」を見て(おそらくマンクヌゴロ家縁者の結婚式だったのだろう)、生き生きとしてダイナミックな展開に魅了され、自分でもアレンジしてみたのだという。ガリマン版の特徴は10分と短いこと、そして決まっている最初の4つの太鼓の手組(スカラン)のうち1つしかやっておらず、さらに他の手組もあまり知られていないものや自分で創作したものを入れていることである。このガリマン版は当初は批判されたらしい。しかし、音楽家でもあるガリマンは、民間のレデッが必ずしも順番通りにスカランを演奏するわけではないことを知っており、かつ規則通りに踊るとガンビョンはどれも同じような舞踊になってしまうため、あえて変化をつけたようだ。

ガリマン版が出た翌年頃、私の師:ジョコ女史も義弟の結婚式で上演するために「パレアノム」をアレンジした。ガリマン版を土台にしながら、最初の部分は規則通りにスカランを並べている。端的に言えば、ガリマン版(主要部であるインガーの長さが2周期)の前に1周期足して3周期にしている。ジョコ女史はなるべくたくさんのスカランを教えられるようにアレンジしたので、18分余りもあって結構長く感じる。このジョコ女史版は、芸術大学のカセット・シリーズの中に入っている(ただし入退場の曲は、ジョコ女史とは異なっている)。

ジョコ女史は自分がアレンジした「パレアノム」をある舞踊団体で教えていたが、芸術大学(当時はASKIと言った)教員がそれを習い覚え、ジョコ女史版(3周期)の3周期目をカットして、入退場の曲を変えてPKJT-ASKI版にアレンジした(PKJTは当時芸大の学長が兼任していた芸術プロジェクトの名前)。これが1979年のことで、カセットも市販されている。ただ、これはあくまでも結婚式上演用のアレンジで、私が芸大で授業を履修していた時に「ガンビョン・パレアノム」として習ったのは、長い方のジョコ女史版であった。

実はこれ以外に、ガリマンと並ぶ2大巨匠のマリディも「ガンビョン・パレアノム」をアレンジしていて、カセットも出ている。が、基本はジョコ女史版と同じで、入退場曲をさらに変え、スカランを1つ差し替えているくらいである。マリディは、同世代のガリマンやジョコ女史がアレンジしているのを見て、自分もやらねばと思ったらしい。

こんな風に「ガンビョン・パレアノム」が大流行したのは、マンクヌガランで作られた演出の面白さが核にあっただけでなく、結婚式で上演する機会が多く、かつカセット化によって多くの人が習い踊ることができるようになったという点が大きい。

『或る国のこよみ』をよんで・・・(上)

北村周一

片山廣子(広子)、という名の歌人がいた。
といっても、岩波現代短歌辞典に一首のみ掲載されていたのを、
たまたま拾い読みしていたに過ぎないし、
ほかにどんな歌を作っていたのかも知らない。
ゆえにどんな歌人なのかも知る由はなかった。
ちなみにその一首はつぎの通り。
きりぎりすものの寂しきあけがたを昔の人も聞きし音に鳴く
「きりぎりす」の項目に掲載されている。

さて、ちょっと古くなるけれど、2018年4月の水牛だよりに、
片山廣子の書いたエッセイが紹介されていた。
https://suigyu.exblog.jp/m2018-04-01/
短歌を詠む人、と書かれていたので、気になって少しく調べてみた。
歌人の名は忘れていたが、調べていくうちにきりぎりすの歌にぶつかった。
きりぎりすの歌はそれなりに憶えていた。
それで、青空文庫に飛んだ。
色んなことがわかってきた。
歌人であるだけでなく、アイルランド文学の翻訳者であることも知った。
翻訳のときの筆名は、松村みね子であることも。
この名前には見憶えがある。
いくつかエッセイも読んでみた。
『或る国のこよみ』に興味をそそられた。
そんなこんなで、きっかけを与えてもらった気がして、
なんとなく短歌にして見ようかと思い立った。
この短いエッセイの最初の部分を書き移そうと思う。

  * 

はじめに生れたのは歓びの霊である、この新しい年をよろこべ!
一月  霊はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と緑の衣を着る
五月  世界の青春
六月  壮厳
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
ケルトの古い言ひつたへかもしれない、或るふるぼけた本の最後の頁に何のつながりもなくこの暦が載つてゐるのを読んだのである。
この暦によると世界は無限にふくざつな色に包まれてゐる。・・・

  *

このケルトのこよみは、日本の旧暦に当たるように思われる。
片山廣子も文中でなんどか触れているが、
季節感が少々ずれているように感じる。
北方であることも、影響しているようだ。
そんなことを踏まえながら、十二ある月を、
今回は、一月から六月までだけれど、
それぞれに引用しながら、歌にしてみた。

霊いまだめざめを知らず 白濁の声にしわぶくあけの一月

虹を織る手ゆびかすかにふるえつつ浅葱のいろにときめく二月

むらさきの小雨降るなか微笑するまなこ散りばめゆるし合う三月

とりどりに白にみどりの衣かさね祝いの踊りおぼえる四月

うれいなき青を育むさみどりの世界あまねく煌めく五月

ときまたず目覚めては泣く嬰児のこえ荘厳にして雨の六月

製本かい摘みましては (153)

四釜裕子

「旅先で会った人に『ナンダテビドサガリダチャー』と言いながら深々とおじぎする」という話がある。もうちょっとイントネーションに配慮すると「なぁんだて、びどさがりだちゃ~」。山形弁(村山地方弁と言うべきか)で「なんてみっともないの!」みたいな意味なんだけれども他の誰にもわからないだろう。というわけで、相手の目を見てにこにこしながらこれを言っておじぎをすると、先方もつられておじぎを返してくれて可笑しい、という、タワイもオチもない話。

久しぶりにこの話を思い出して「ビドサガリでまちがいなかったっけかな」とネット検索したらあまりヒットしなかったけれども、「想画」や生活綴り方を戦前の山形で指導していた教育者、国分太一郎さんの『ずうずうぺんぺん 東北のことばとこころ』(1977 朝日新聞社)に登場していた。国分さんが子どものころ、東京ではビドサガリをなんて言うのかを先生に尋ねると、〈なんでも教えてやるみたいにいっているのに教えてくれない〉のでおもしろくなくなって、〈あっちには、なんでも、よいものがあるっていうのはウソだな。こっちにあるもので、あっちにないものもあるんだな〉という考えをなんべんも起こした、という。

国分さんは、1911年、山形県北村山郡東根町(現東根市)生まれ。両親ともに今の東根市生まれで、父・藤太郎さんは小さいころ西村山郡寒河江町(現寒河江市)の床屋で修業している。この本は国分さんが「朝日ジャーナル」と「望星」に連載したものから選んでまとめたもので、オガルとかアブラコとかアガスケとか、ほかにもたくさん村山弁が出てきておもしろい。各地の方言がいわゆる標準語に言い換えられないのはよくある話で、ニュアンスの種類がいちばん少ないから標準語なのだ。ちなみに『ずうずうぺんぺん』の中で先生はビドサガリのことをこう言っている。〈家の中など、よくかたづけないし、着物はせんたくもよくしないで、何日もきているし、流す(台所)のところは、ゴチャゴチャだし……。そんな人のことをいうのだな〉。長いよ。

小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅に出る』(PUMPQUAKES)の第一話、「オシンコウ二皿ください」を読んで思い出したのだった。昔話を聞きに宮城県を訪ね歩いていた小野さんに、1921年生まれの栄一さんが教えてくれた話である。どこに行ってもズーズー弁で笑われるものだから、旅先で先回りして得意の方言でバスガイドさんをからかった。別の日、お店で、ダントツ安い「オシンコウ」なるものを注文してみたらなかなか出てこない。と思っていたら、なんと目の前のぴらぴらした2枚の大根漬けがオシンコウだった、と。〈相手にわかんねぇ東北弁で一本取ってやるつもりが、向こうの言葉で一本取られてしまって、結局五分五分の勝負だったのしゃ〉。「昔話」と言うには若い話だなあという気がしていたら、このあと小野さんがこう書いていた。〈これはまぎれもなく「これから実を結ぶ民話の芽」ともいうべき話である〉。

小野さんはおよそ50年、地縁も血縁もない土地で民話を求めて旅してきた。1000本にもなるカセットテープを前に、〈本音を言えば、これは残さなくてもいい。本来ならば、消えてなくなるものだから〉とも言ったそうだ。2014年、小野さんは80歳になったのを記念して、30代半ばから50代にかけて記した「民話探訪ノート」から8話をまとめ、ホチキスで綴じた冊子を40冊作ったそうである。家族や近しい人に送ったなかの1冊を受け取った清水チナツさんは、読んでたちまち、たくさんの人に届けたいと思った。それから5年半、小野さんと、仲間と、本にした。それがこの『あいたくて ききたくて 旅に出る』だ。ホチキスではとうてい留まりきらない厚さの本に、小野さんによる35の再話と、それを訪ね聞いたいきさつや話してくれたひとのこと、思うこと、考えたことがたっぷりある。どんな民話も最初から「民話」であったはずがないんだよなあとつくづく思えて、ひといきにまず読んで、行きつ戻りつして、登場するおじいちゃんおばあちゃんが懐かしいひとに思えてしまった。

おひとりだけ、紹介しょう。小野さんが民話探訪し始めたころに出会ったヤチヨさん(1882年生)。〈集落に紛れ込んできた、誰が見ても正気とは思えない当時のわたしだったが、そんなわたしに向き合って、初めて相手をしてくださった〉。一話語るごとに「よく覚えていたもんだ」と自分に感心していたという。ある日、「形見だと思ってとってくれ」と絵本を手渡された。その写真が載っている。擦り切れた表紙に『赤穂義士 誠忠画鑑』の文字。3つ穴を紐で平綴じした横長の本で、なかは着物の紋まで細密に極彩色で刷られているそうだ。とにかく表紙がボロボロ。角はめくれあがっている。〈集落の神社が改築された時に、工事のために他国からやってきた宮大工がくれたもの〉で、〈亭主を亡くして途方に暮れていたヤチヨさんに、なにくれとなく親切にしてくれた男だったと、頬を染めて言われた〉。

字は読めなかったそうだけれど、テレビもラジオもなかったころにどれだけめくったことだろう。どれだけ大事に手元に残してきたことだろう。病気と戦争で4人の子どももなくした(ヤチヨさんは「殺した」と言う)。〈子もないし、家もない。いい着物一枚持っているわけでもない〉〈あんた、おれの「むがすむがす」を一生懸命に聞いてくれたのがうれしい〉。そう言って、絵本を手渡されたという。〈この絵本がなかったら、わたしの民話を求める旅は、こんなに長く続かなかったと思う〉。

極彩色で刷られているという『赤穂義士 誠忠画鑑』はどんな本だったのか、ネットで見るといくつか出てきた。福岡のパノラマ書房にあったのは、昭和14年、省文社刊、国史名画刊行会編、鳥居言人(五代目 鳥居清忠)画、21cm×38cm、52枚、8500円。表紙が、厚紙を唐紙みたいなものでくるんであるように見える。タイトルと柄は彩色されているし、紐も金色。豪華版とか改装版ということか。同様に大ぶりの絵の右端に2段組で小さな文字を添えた本が、国史名画刊行会から数年にわたってシリーズで出ていたようだ。どんなひとたちが読んでいたのだろう。

『あいたくて ききたくて 旅に出る』は装丁もきれいだ。ホローバックでクータも入って表紙に折れ線も入っているから開きやすい。なんだけど、内容も出版のいきさつも最高だからこそ言いたいのだけれど、本文紙が厚すぎた。開いて置いてもページが踊る。行きつ戻りつして読みたい気持ちにページがついてこない。重たい。再話部分の文字が灰色なのも読みにくかった。大事な気持ち、守りたい気持ちが、物理的に出ちゃったのかなと思う。

二つの作品

笠井瑞丈

去年に続き今年もセッションハウスダンスプログラム
 ダンスブリッジの総合演出をさせて頂きました。
今年は二つの作品を作りました。
一つは自分も出演する四人の男性群舞の作品。
一つはマドモアゼルシネマの七人の女性作品。

タイトルは 『四人の僧侶』『七つの大罪』です。

『四人の僧侶』

この作品は吉岡実の『僧侶』のテキストを使いました。
このテキストを初めて読んだのは去年の笠井叡振付『土方巽原風景』に出演した時です。
その作品でこのテキストの半分を使い作品が作られました。
私が初めてこの詩を聞いた時に何か不思議な物を感じました。
内容は一度読んだだけでは全く最初は掴めなかったのですが。
読めば読むほどガムを噛むようにジワジワと味が滲み出てくるのを感じました。
公演が終わりしばらくした時に『僧侶』この詩で作品を作りたいと思いました。
出演者は小出顕太郎さん 鯨井謙太郎さん 奥山ばらばさん すぐにこの三人が浮かびました。そしてすぐ出演のお願いしました。鯨井さん奥山さんは今まで何度も作品に出てもらっています。小出さんは今回初参加です。バレエダンサーの男性に作品に出てもらうのは初めてとういうこともあり、特に小出さんの出演は自分にとって新しい挑戦になるだろうと思いました。言葉から動きを探り、言葉の骨格を形に変え、そんな作業を繰り返し、振付を考えました。言葉を発声し、言葉を読み、言葉が粘土のように捏ねられ、そこから踊りが生まれてきました。男性だけで作る作品は今回が初めてだったので色々と新しい事が経験できました。

『七つの大罪』

マドモアシネマの七人の女性に振付をした作品です。
『四人の僧侶』は振付をメインに作ったのですが、『七つの大罪』は基本的にイメージから動きを作るところにフォーカスしました。基本的には即興という形式をとりました。
作品の作り方としてまず言葉を彼女達に渡しそこから自由に発想してもらい、それを構成していきました。即興性の強い作品を作るのは私にとっても初めての経験でしたので最初手探りで迷いながら作品作りは進みました。振付作品は一つ一つ積み上げて行く作業に対し、即興作品はクリエーションに時間がかかります。植物みたいに種を蒔いて芽が出てくるのを待つ時間が必要になります。芽は蒔いた翌日には出てきません、我慢強く待つ時間が必ず必要です。時に不安になる時もあります。自分の作り方は間違っているのではないかと自問自答した時もありました。公演の二週間くらい前に芽が出てこない事の焦りから一全てリセットして振付作品に変更しようと思った時がありました。でも結局は変更しませんでした。その時間が今になっては新しく自分を成長させてくれた時間だったと思います。あの時間を乗り超えられたのはとても大きな収穫でした。そして待てば芽出てくるものです。一度出た芽は土の下で溜めていた生命力を放出するかのようにすくすくと育っていきます。そして結果的にはマドモアゼルシネマの七人のダンサーは私の期待以上にパフォーマンスをしてくれました。

新しく何かを産み出すことには必ず痛みが伴うものです。
でもその先にはかならず喜びがあります。
今回二つの作品を作らせて頂き多くの事を学びました。
そして大きな試練でもありました。

この大きな試練を共に過ごしてくれたダンサーには大きな感謝しかありません。

これからもまた新しい試練が待っていると思います。
今回の事を経験にこれからも新しい事に挑戦し作品作りをしていこうと思います。

長い足と平べったい胸のこと(5)

植松眞人

 たぶん、アキちゃんはセイシロウに暴力をふるった。たぶん、きっと。銀杏並木の端っこで倒れてしばらくの間、わたしは少しぼんやりした後、いままでなんとも思っていなかったセイシロウのことを本気で嫌いになった。そして、本気で殴ってやろうかと思ったのだけれどわたしは手足が長いくせに腕力にはからっきし自信がない。そう思うと、なんだか泣けてきて、その涙はわたし自身のわたしに対する情けなさなのだけれど、きっとこの涙はみんなに誤解されると思ったら、いてもたってもいられなくなって、わたしは一人立ち上がりセイシロウもアキちゃんも放り出して走った。

 だから、そのあとどうなったのか正確にはなにも見ていない。見ていないけれど、教室に入ってからのセイシロウの大人しさとわたしとは一瞬たりとも視線を合わせないという覚悟のようなものを感じ取って、きっとアキちゃんはわたしの代わりにセイシロウを殴るか蹴るかしたのだと思う。

 でも、それはそれでセイシロウに本気で腹が立っているのはわたしで、アキちゃんにセイシロウを殴る資格があるのかと考えてしまってわたしはいつものように自己嫌悪に陥ってしまう。いつもこうだ。結局はわたしが勝手にはじめて、わたしが勝手にややこしくして、わたしが勝手に落ち込んでしまう。こうなると、あとでアキちゃんが話しかけてもセイシロウが話しかけてきても、一言でも口を聞くのが嫌になる。セイシロウから話しかけてくるのが筋だろうと思いつつ、話しかけられると困るから、こっちも視線を合わせない。休み時間だって、アキちゃんがこっちに来る前に走って廊下に出て、いつもは使わない南校舎の四階の奥のトイレに駆け込む。ここのトイレの一番端っこの個室には上の方に小さな窓があって、空が見える。わたしは嫌なことがあると、ときどきここに来て休憩時間のあいだ窓の外を眺めながらじっとしている事がある。

 空が青い。雲が見えないから、空だという気がしない。窓枠一杯に真っ青な色紙が貼ってあってもわからないくらいに青い。

 わたしは洋式便器に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げている。ただ真っ青な四角い窓を見上げながら、今朝の出来事を思い返しながら、セイシロウの顔とアキちゃんの顔を思い出し、そしてセイシロウが握っていた女の子の手の白さを思い出していた。セイシロウが力を入れると、女の子の手もセイシロウの手を握りかえした。女の子の手は小さく肌が白かった。意外に大きなセイシロウの手の中にすっぽりと収まってしまう女の子の手は握り占められている間に少しずつ赤くなり、その色の変化にわたしは魅せられしまっていた。アキちゃんはひと目もはばからず興奮していたし、わたしはそんなアキちゃんを見ながらたぶん赤面していた。

 窓の外の青空から届く光は、わたしを照らしわたしをものすごく冷静にした。空の青は女の子の手の赤さを映し、さっきまでわたしの中でふつふつと沸き上がっていたセイシロウへに怒りも、アキちゃんへの苛立ちも消え去り、ただただ女の子の手の形がきれいだったということばかりに思いを巡らせていた。(つづく)

誰がいちばん前衛なの?

さとうまき

2017年に、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流」を見に行った。僕は当時イスラム国から逃げてくるシリア難民とか、イラク人の支援活動に奔走していて展覧会を見るような時間がなかったが、アート好きな友人が無理やり連れて行ってくれて 「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉に出会って励まされ、すっきりした。

僕は、いわゆる人道支援に携わってきて、必然的に、お金を集めなければならなかった。時には、「お金をください」と難民に代わって、物乞いのように頭を下げなければならない。まさに、みじめさを体現して彼らによりそった。

「展示」することは、お金集めのための必然だったわけだが、説明ではなく、アートとして展示したいという気持ちを常に持っていたと思う。例えば、数時間前にイスラム国から逃げてきた子供にであうとスケッチブックを出して絵を描いてもらう。ヨーロッパを目指し船をこいでギリシャに向かった難民の子どもをドイツに追いかけて脱出の経過を描いたものは、絵巻物として展示した。

昨年、僕は団体を抜けてフリーランスになり、シリアとどうかかわるか格闘しているが、やっぱり意識して、ソーシャリー・エンゲイジド・アートのピースとして、子供たちの絵をインスタレーションしていきたいという思いが強い。ただ、アートというものは時としてよくわからない。僕がいいなあと思うものと専門家が賞賛するものが異なるし、値段のつけ方がさっぱり理解できないことが多いい。ということは、目が肥えていないということなのだろう。

美術クラブの先輩たちには、アートのコレクターになったり、美術の教科書の編纂に携わっている方もおり、レクシャーしてくれるというので聞きに行った。

「コメディアン」という先品は、ダクトテープで壁に貼られた1本の本物のバナナ。価格は12万ドル(約1300万円)だという。ますますもって価値がわからなくなってしまった。さらにオチがあって、展覧会場に現れたパフォーマンス・アーティストがバナナを食べてしまったという。「バナナ」は概念であり、作品が壊されたわけではないという。驚くべきは、作品の値段。パフォーマンスに値が付き、話題になることでネットのアクセス数があがりユーチューバーがお金を稼ぐようなイメージだろうか。

ところで僕は、友人が主宰するアマチュアのオーケストラ、「不協和音」のコンサートのチラシを年2回頼まれている。今回のプログラムはハイドンとシェーンベルク。いずれもウィーンで活躍した作曲家による。シェーンベルクは前衛的な作曲家のイメージあり、ハイドンは、何か古くて保守的なイメージだ。

「ハイドンは、その時代では前衛作曲家です。今回演奏するハイドンの交響曲54番も、和音の移り変わり、楽器の使い方、構成など、実験的なことをやっています。今度の演奏会では、そんな先鋭的なハイドンの心意気を感じるものにしたいなと思っています。というわけで、時代の違いはあれ、前衛作曲家ハイドン、シェーンベルクといった感じのテーマで絵は描けないでしょうか?」という依頼が来た。

シェーンベルクは自画像も描いている。そこで、彼らが自画像を描いてどっちが前衛的か比べているという構成にしてみた。シェーンベルクが手にするのは、自らの作品、「赤い目の自画像」ハイドンは、風船を持った自画像で、自ら絵を掲げるとシュレッターで裁断されてしまうというオチ。これはバンクシーの作品が、オークションで1億5000万円!の値がついた瞬間にシュレッターにかけられたというニュースをパロった。二人が立つのは、シリア内戦で破壊されたがれきの山。ハイドンの自画像は、まさに世界の平和を訴えるソーシャリー・エンゲージド・アートになっており、シェーンベルクが一本取られたと焦っている。

ポストカードを多めに作ってもらったので、シリア支援のイベントで配ったりしている。ただ、残念なことに、僕の作品には値段が付かず、無料奉仕なのだ。

シリアの小児がんの支援を本格的に始めようということになり、またしても金策に走らなければならないのだが、「シリア」を概念にして作品にして、アートとしてオークションに! 一体いくらで入札されるのかな? と考えているだけで楽しくなる。いや、考えているだけが楽しい。

仙台ネイティブのつぶやき(52)つながりの中で、宮城県美術館

西大立目祥子

 宮城県美術館の現地存続を求める活動で、怒涛のような2ヶ月半が過ぎた。連日、知恵を絞ったり人に会ったり電話をかけたりで、ヒートアップ気味で頭の芯が熱かった。慣れないことが続いて知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのだろう、先週はついに具合が悪くなりダウン。まさか、今年がこんなことになるとはなあ…。
 
 でも、渦中にいて感じるのは、これまでにない運動の広がりと手応えだ。特に12月中旬に始まった署名活動では、賛同が日を追うごとに先々に浸透し広がっていくのを実感してきた。1月中旬に5000筆だった署名は、1月末には10000となり、提出日を探っているうちにあっという間に15000をこえた。
 2月19日に、総勢10名で宮城県議会に美術館の現地存続を求める陳情書と署名簿を提出したのだけれど、署名筆数は17773。年末年始をはさんだわずか2ヶ月半に集めた数としては驚異的ではないだろうか。
 陳情の場には30人もの議員さんたちが出てきてくれ、そこに10名もの与党議員がいたのにもまたびっくり。議会にとっても、移転に反対する声はもはや無視できないものになっていることを感じる。

 突然降って湧いた美術館移転案に居ても立っても居られない気持ちで署名を始めたのは、市内中心部からちょっとはずれた西公園近くで喫茶店を営むKさんという女性だ。開店35年というこの店は美術好きの人たちのたまり場で、白い壁は個展をやりたいという人に貸し出されている。この問題が報道されてから、カウンターに座るお客さん同士がコーヒーを飲みながら「ひどい話だよ、なんかやろう」「黙っていられない、署名がいいんじゃない?」と話すうち、気風のいいKさんが「もう私やる!」と決心して、おそらく自然発生的に始まったのだと思う。それは12月中旬のことだった。
 
 そのころには、私は友人たちと細々と続けていた「まち遺産ネット仙台」という会から、知事や宮城県議長あてに要望書を提出していた。さらにこの問題に関心を持つ人たちといっしょにもっとゆるやかな「アリスの庭クラブ」という会を立ち上げ、ウェブサイトを運営し、そこにKさんの署名用紙をダウンロードできるように掲載したところぐんぐんおもしろいように活動が広がっていった。
 私自身もいつもバッグに用紙を入れて持ち歩いていたのだけれど、知り合いに会って署名を頼むと、「白い用紙はないの?」と返される。1枚渡すと、その人がさらにその用紙をコピーして方々に配るという具合にして、知らない人からさらにその先へと署名用紙は増殖を重ねながら手渡されていった。

 Kさんの店のポストには連日、用紙で分厚くふくらんだ封筒がどさりと配達された。店の前に車を停めて「200人分です!」と署名を持って勢いよく飛び込んでくる女性がいるかと思うと、雨の中わざわざやってきて、おもむろにアタッシュケースから「町内の人が書いてくれました」と紙の束を取り出したあと椅子に座り、ゆっくりとコーヒーをすする男性もいる。
 あるとき、女性2人が1000筆の署名を集めて持ってきたのには驚いた。縁起をかついでくれたのか「福袋」と書かれた赤い紙バッグにぶわっとふくらんだ紙が100枚!初めてお会いする方だったけれど、美術館を話題にしばらくおしゃべりを楽しんだ。別れ際には「私たちがついてますからね!」とエールをくれた。
 カウンターでお茶を飲んでいると、隣り合わせになった見ず知らずの男性から、「活動の情勢は?」とたずねられ、しゃべっていると後ろのテーブルから話に入り込む人もいる。
 
 ここはつまり性別も年齢も関係なく、絵が好きな人と人が集い、胸襟を開いて話ができるサロンなのだ。この店がなかったら、署名活動にここまで弾みがつくことはなかったかもしれない。つくづくコーヒーハウスは文化の基盤であり、運動が生まれてくる母体であることを教えられた。考えを持ったオーナーのいる街に開かれた小さな場から、出会いが生まれ議論が起こり文化は生まれてくるのだ。

 宮城県議会への署名簿提出に同行してくれたのは、旧知の友人たちに加え、この店で知りあった方たちだ。県内最大のスケッチ会の代表のSさん。民芸の研究家のH先生。画家で登山家で何かとアドバイスをくれるH先生。伝統建築の修復や設計をしているTさん。市内中心部でスケッチ会を主宰するIさん。みんなつい3ヶ月前までは知り合うこともなかったり、顔見知りではあってもじっくり話をすることはなかった人たちである。
 私はこれまで仙台で3回、歴史的建造物の保存活動をやり、3回とも失敗している。そのとき同じ思いでつながる友人ができ、そのとき建造物の有事の際にはぱっと動けるようにと「まち遺産ネット仙台」を立ち上げた。結局、個人的な思いでつながる人と人のかかわりからしか活動は始まらないし進まない。仙台、宮城で歴史ある建物が危機に瀕しても多くは声も上がらないまま見過ごされてきたのは、こうしたつながりの弱さに起因するのかもしれない。つまりは互いに遠慮して思いを口にしたり、無理矢理にでも人をつないでいく人がいなかったということか。

 12月に私たちが要望書を提出して以来、要望書を提出する団体が増え、すでに7団体を数えるまでになった。また、12月末に県が県民からの意見を募集したパブリックコメントは1月末に締め切られたが、221通寄せられたうち移転に賛成するのはわずか5通だったという。多くの県民はあの前川國男設計の建物が現在の静かな青葉山と広瀬川のほとりにあり続けることを願っているのだ。
 この2ヶ月半の間に局面はつぎつぎと変わり、この問題では移転反対の世論が圧倒的多数になってきた。(変化し続ける局面をみながら、人に会い人と人をつなぎ、つぎにどんなアクションを起こしていくかを考えるのは実にスリリングで楽しいことなのだけれど、これについてはまた別の機会に書きたい。)

 署名を提出した翌日に開かれたこの問題を議論する宮城県の懇話会は、(新県民会館と)集約移転する方向で検討するという最終案を提出した。反対する県民への配慮として、「検討する」ということばが加わっただけで、移転という方向性に変更はなかった。この最終案を受けて、3月末に県としての最終案を示すことになっている。

 それにしても行政というのは、なぜ決めたことを見直し、よりよい方向へと変更することをしないのだろうか。まだ議会にかける前の段階である。もし、現地存続という勇気ある方向転換をしたら、署名をした17000人の県内外の人たちは大歓迎して入館者を増やすべく宮城県美術館に通い、活動にもふかくかかわって本当の意味で県民の美術館にしていくための努力は惜しまないだろうに。

ナマステとロシア語(晩年通信 その8)

室謙二

 孫娘のNanamiがインドで、ナマステをおぼえた。一歳半である。
 合掌して、ちょっと頭を下げて、ナマステと言う。まわりのインド人は大喜びだ。もっともそれが挨拶とは知らないから、Skypeで見ていると、クルマが走っている通りに向かって、合掌してナマステと言ったりしている。かわいい。その七海が北カリフォルニアにやってきた。三週間いる。それでグランパKenjiは浮かれています。
 Nanami(七海)は、インターナショナルである。ロシアの黒海沿岸ソチで生まれて、大阪に行って、北カリフォルニアとフロリダに来て、インドのマイソールにいて、そしてまた北カリフォルニア。一年半で、それだけの場所に数ヶ月づつ住んだ。パスポートは、アメリカとロシアのを持っている。
 母親はロシア生まれのロシア育ちで、モスクワで大学に行ったロシア人だから、Nanamiにはロシア語で話しかける。だからNanamiも、ロシア語の単語らしきものも発音することもあり。父親の海太郎は日本生まれで、中学校の途中からアメリカで英語で教育を受けて、カリフォルニア大学サン・ディエゴを卒業したから、Nanamiには主に英語で話しかける。家族共通語は英語だが、海太郎はときどきは日本語で話しかけている。私の役割は、日本語グランパである。別れた日本人の妻も同じく日本語担当である。日本語も知っていたほうがいいからね。
 海太郎は、娘には漢字は教えないよ、と言っている。漢字の読み書きができるようにするには、時間がかかりすぎる。その価値があるかな? Nanamiの場合は、その時間と努力を別に費やしたほうがいいね。

  三つの言葉を生きる

 彼女は三つの言葉の中で生きている。ロシア語と英語と日本語である。しかしNanamiがいま話す言葉は、Nanami語である。英語でもなく日本語でもなくロシア語でもない言語を、大きな声で話している。ほとんどが分からないが、いくつかの単語はその意味がわかる。パパは父親のことではなく人間のことらしい。周りにいる大人の全部。母親のKatyaが海太郎をさして「パパ」と言ったのだろう。そうしたら人は全部、パパになった。
 ベイビーは赤ん坊のことではない。自分の歳に近い人間、子供が全部「ベイビー」になったらしい。この二つの単語は分かるけど、あとは何がなんだか分からない。ロシア語とも日本語とも、英語とも思われない発音で、身振り手振りでさかんに言っている。
 母親はもっぱらロシア語で話しかけて、それが彼女の母語であるし、だからNanamiの母語はロシア語になるだろう。父親の海太郎と母親のKatyaは英語で話をしているので、それを聞いて育っている。私の担当は日本語なので、それで話しかけないといけないのだが、まわりが英語だとそれを忘れる。

 三つの言語は、Nanamiにはどう聞こえているのだろうか? どう理解しているのだろうか? 三つの言語を、それぞれ別の言語体系だと思ってはいない。だろう。別々の言語体系、などという考えはない。だろう。全部がひとつのコミュニケーション・ツールで、それが一歳半の子供のまわりの環境を飛び交っている。
 言語学者によれば、いくつもの言語が存在する環境(家庭)に育った子供は、言語習得のスピードが少し遅れるらしい。もっともそれを聞いたのは、何十年も前だから、いまGoogleで調べたら違うかもしれない。ともかくちょっと時間がかかるが、いくつもの言語を同時に理解してしまうらしい。多言語家庭のケースは日本にはあまりないが、ヨーロッパではいくらもあるし、東南アジアでも経験したことがある。クアラルンプール空港で中国人の大家族が二十人以上輪になって座っていて、食べたり大声で話したり。マレー語と英語と広東語と北京語がまざって飛び交っていた。大人は英語が分からないようだし、少年たちは広東語がわからない。マレー語が普段の言葉で、北京語は学校で教わっているのかもしれない。
 インド洋のアフリカに近い小島の家に滞在していたときに、そこの家族がセンテンスをフランス語のイリア・デ・ボクで始めて途中で英語に変わったり、その島のローカルの言葉とかが混ざる。これには驚いた。大人も子供も、そうやって三つの言葉をチャンポンに話していた。
 もっともいずれのところにも学校があり、教育言語は英語だったりフランス語だったりする。でもそれは私が旅行をしていた何十年も前の話で、そのときすでにフィリピンではタガログ語で、マレーシアではマレー語で教えるべきだという運動があって、部分的にはそうなっていた。ただ高等教育(大学)は英語だったなあ。日本の大学は何語で教えるの? と若い女性に聞かれて、不思議なことを聞くものだと、「日本語だよ」と答えると、私たちの国も自分の国の言葉で大学教育が行われるといいわね、と言っていた。
 Nanamiはまだ一歳半で、これから言語を学んでいくわけで、どういうプロセスを通るか興味しんしんです。と書いて、イヴァン・イリイチを思い出した。

  イヴァン・イリイチ

 ずいぶんと昔の話だな、イヴァン・イリイチと池袋の炉端焼きで話していて、多言語社会の話になった。イリッチはウィーンのユダヤ人で、多言語環境の中で育った人間で、多言語を使って仕事をしている。
 彼いわく、日本人とか中国人は自分の言葉が、特に漢字が何か特別なように思っているね。実は特別でもなんでもない。ひとつの言葉にすぎない。と言っていた。彼は国連の仕事でガールフレンドと日本に来ていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で会った。たしか日本家屋の二階の畳の部屋に、下宿のように住んでいた。そうだ、いろいろと思い出す。彼と多言語の話になったのは、あなたのマザー・タング(母語)はなんですか? と私が聞いたからだった。
 そうしたら、マザー・タングはない。という答えだった。家族の中でいくつも言葉が話されていて、母親もいくつもの言葉、父親もいくつもの言葉、一緒に住んでいるみんながそれぞれいくつも言葉を話す。一人の人間が、一つの言葉を代表しない。とするとマザー・タング(母語)はなくなるんだ。と言っていた。へー、そんなものかと思った。
 孫娘のNanamiの場合は、家族の中で三つの言葉があるとしても、母親がロシア語のみで話しかけているので、母語はロシア語だろう。だけど前に述べたように、両親は英語で話しているし、私たちは日本語で話しかけるので、その三つの言葉をどう理解しているのか観察しているところ。

 言葉というのは、その人が暮らしいている社会・環境とどういう関係を持ち、その人間にどういう影響を与えているのだろう? イリッチが言うように、日本人は、あるいは中国人は、自分たちの言語(書き言葉の漢字を含む)が、自分とその社会に決定的とは言わないでも、非常に大きな影響を与えていると思っている。イリッチは、それは幻想だよ、と言っていたのだが、私はそう思う時もあり、そう思わないときもある。イリッチは、自分に母語がなく、四つだかの言葉を平等に話し読むが、そういう言葉とは別に自分というものがある、と言っていたようだった。
 Nanamiはどうなるだろう?

  言語と歴史と文化から自由になる

 日常生活は三つの言語だが、学校はロシア語か英語の学校、あるいはその両方になる。それがNanamiにどのような影響を与えるのか? なんとなく、七海は七海だよ、と思う。ずっと以前に、英語のわかる日本人に、ムロさんは英語を使っているときも、日本語を使っているときも、まったく同じムロさんですね、と言われたことがある。たしかに日本語を話しているときと、英語で話しているときが違う日本人がいる。ビジネスのときは「流暢」に英語を話し、夜になると日本人同士で麻雀を囲む人間ではムロさんはありませんね、ということだ。
 たぶんNanamiも私のようになる。ロシア語を話すときも、英語を話すときも、日本語を話すときも、同じようにNanamiだろう。言語はコミュニケーションの道具に過ぎない。もっともそれぞれの言葉の背景に、文化と歴史がどーんとあるので、簡単ではないが。ともかくNanamiには、言語にも歴史にも文化からも自由な人間になってほしい。と書いたが、そんなことは可能かしら?

編み狂う(6)

斎藤真理子

時間は、本当は均等になんか流れていない。
編み物をする人はみんなそのことを知っている。

1分が1分でなく、10分にもなり、それどころかとうてい測れないほど長くなることもある。それはたぶん「長い」という形容詞では表せないものだ。「濃い」というべきかもしれない。

「時間つぶし」とは反対で、そこでは時間が暴力的にふくらむ。「すきま時間」なんていうものじゃない。予定と予定の間にはさまれて大人しくしているようなタマではない。満腹なはずなのに別腹ができてデザートを飲み込むように、時間にも脇芽のようなものができて、それがどんどん繁茂する。それがどんどん編みふける。時間は決して一直線ではなく、複線で、サルガッソーみたいで、それが糸に手を伸ばしたら私たちは後を追っかけていくしかない。

編み物の時間には濃淡がある。濃度が最大に達したときのことを覚えている。そういうのを測量するカウンター(ガイガーカウンターみたいなの)があればぴーぴーぴーぴー鳴りつづけて、みんなににらまれそうだったとき。

朝、最大限に会社に行きたくなかった。行ったら会社の偉い人に、いま抱えているこの無理難題について説明を求められるに決まっていて、言い訳のしようがなかった。

満員の地下鉄の中で、なぜこの状況でわざわざ窮鼠(私)は猫の巣に向かうのだろうかと思い、生物の本能に背いているのではないかと思い、辛いのは心があるからだ、人間だからだ、有機物だからだと思い、無機物になればいいんじゃないかと思い、それならばと無機物の気持ちになり(無機物にたぶん、気持ちは、ないが)、無機物になったつもりでつり革につかまってみたが気分がましになるわけがない。

定時ちょっと前に会社のそばに着いてしまったが、会社の建物に歩いて入っていける気がしない。電話を入れて帰宅しようかとも思ったが、そうしたら明日がもっときつくなることがわかっていた。電話を入れて、一時間遅れると伝えて、カフェに入った。

そして無機物になって編んだ。ものすごくはかどった。竹の編み棒が羽根のよう。多分カフェの中で私のいる場所だけ、ほかと気圧が違ってたんではないかと思う。私が火事場の馬鹿力を発揮していた一時間。

あんな一時間がいっぱいあったらセーター一枚なんかあっという間じゃないかと思うし、そもそも、そんな馬鹿力が出るなら仕事に活かせばよかったんじゃないかと思うけれども、現実はそうはいかない。ただ、時間が最大限濃厚に、ねっとり流れるときは、決して居心地の良いシチュエーションではないという一例だ。

一時間が過ぎると無機物は編み物をまるめてバッグに入れ、「無機物だから心はない」と自分に言い聞かせて、猫に飲まれるために会社の建物に入っていった。その後たぶんものすごく居心地の悪い時間があったと思うが、よく覚えていない。有機物は都合よく記憶を始末する。

ああいうのは、窮鼠猫を編むというか、追い詰められた時間なので、いくら火事場の馬鹿力を発揮したって別に嬉しくはない。

でも、そういう時間ばかりではない。編み物をしていると、時間がいろいろな形をとる。

歩いていけるところに、昔住んでいたアパートの跡地がある。今は取り壊されて、駐車場になっている。子どもと二人でそこに暮らしていた。保育園時代から、小学校五年生のころまで。

鉤の手の形をしていたアパートがなくなり、その分視界が開けて、向こうの景色が道から見える。自分が知っていたのとは違う空気が流れている。あそこの二階に住んでいたんだよ、と思って空中を見ながら通り過ぎる。

あそこにいたころ、たぶんそのころ、編み物の時間は粉だった。余暇はなく、あるいは余暇は分単位で、秒単位で、でも顆粒か粉末かわからないけれどもそれはたぶん一日の上に、振りまいてあった、まぶしてあった。だからうずくまってそれを拾っては、一目一目編みつないでいたと思う。

あの家で編んだものは今もまだしゃんとしていて、凝った編み方で、編み目もそろっていて、最近編んだものよりずっときれいだ。どこからこんなものが出てきたのかと思う。これを編んだのは私だろうかと思う。 

アパートだったところが駐車場になり、その先に大きなびわの木が見える。住んでいたときには見えなかった木だ。

そこに私がいた証拠など一つもなくて、その向こうで知らない大きな木がゆっくりと葉を揺らしている。足を止めてそれをじっと見ていると、来世ってあんな感じなんじゃないかと思えてくる。

私がいっとき生きて、何をやったかには全く頓着なく風が吹いている。あの木の向こう側に私が回って、こちらを見ていることを考える。

来世からこちらを見る私は、時間が均等に流れていないところを探し、そこで編み棒を持っている人を見つけたらサインを送るだろう。けれどもその人は気づかずに、今日は異様に編み物が進んだと思うだろう。時間の濃いところを踏んで明日に渡るだろう。どうして編み物をしていると時間はあっというまに経つのだろうと、編み物が生まれて以来大勢の人が思ったことを同じように思いながら。

しもた屋之噺(218)

杉山洋一

目の前には美しい夕焼けが広がっています。市立音楽院も愚息の中学校も休校しているので、隣の部屋で彼がベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」を練習しているのが聴こえます。机に向かって仕事をしていて、時折イタリアの新聞サイトを開き、死亡者数が増えていないか確認します。昨日は朝1人が亡くなって以降死亡者数が増えずに少し安心していましたが、先程確認したところ、今日は既に2人も亡くなっていたと知り、暗澹とした気分が戻ってきました。コンテ首相が、イタリアは安全だ、国民は安心して、旅行者の安全も保証する、と毎日連呼しているのが、愈々虚しく響きます。それでも庭の樹の枝には臙脂の蕾が膨らみ、夜明けには鳥たちの囀りが、澄んだ空気を走り抜けてゆきます。人通りが少なくなった分、それが余計新鮮に瑞々しく感じられるのかもしれません。


2月某日 ミラノ自宅
橋本さんから演奏会の録音が届く。冒頭のチューバ音は神秘的で寺の梵鐘のよう。チューバ版は橋本さんの見事な編作の賜物で、自作と呼ぶのはおこがましい。藤田さんのピアノに、彼女の熱い想いを聴く。こんな風にチューバと正格に交われるのは、お二人の信頼関係あってのことだろうが、知らなかった彼女の姿を垣間見た気がする。深い絡み合いに耳を奪われつつ、作品の主役は実はピアノだったのかと独り言ちていた。

同日、サクソフォンの大石さんと和太鼓の辻さんの録音が届く。昨年暮れ、この作品の演奏会を聴いていらしたSさんが、ぽろりと、あれは重い内容だった、と話していたのが印象的で、録音を聴いてみたかった。
聴き手の耳自身が、広い空間の宙に浮かんで音を紡いでゆく心地がするのは、聴き手の耳が目の前の梯子を掴もうとする瞬間、その梯子がふっと消えてゆくからかも知れない。そうやって手を宙に泳がせながらも、少しずつ高みへときざはしを昇ってゆく。和太鼓は宙にぶらさがった足にそっと手を差し伸べ、次の梯子に手を伸ばそうとすると、ほんの少しその足に弾みをつけてくれる。

大石さんなら、この楽譜をどのようにでも吹きこなして下さるとは思っていたが、想像を遥かに超える空間の広がりに、愕きを禁じ得ない。和太鼓パートに、幼少から可愛がっていただいた石井眞木さんへのオマージュを籠めた。辻さんが眞木さんの作品を演奏するのを聴いて、大変感銘を覚えたのが切掛けでもあり、眞木さんを介し辻さんと知合った感謝の徴でもある。
こうした素晴らしい演奏を聴かせていただき、冥利に尽きる。交通事故で一度死にかけているので、それから後の人生は、運よく授かりし余白の時間、お負けで授かった人生と最近頓に感じる。だから、誰かにへつらい、顔色を窺いつつ生きずともと、有難く落掌した余白の人生を生き長らえている。

2月某日 ミラノ自宅
ミラノの市立学校は、音楽、演劇、映画、通訳翻訳の専門学校と4校あり、一つの財団が管理している。昨年暮れ、ミラノ市から市立学校への助成金が大幅に削減されたのに反対し、4校の学生が揃って市庁舎の前で抗議の座りこみをし、その様子はテレビや新聞でも大きく取上げられていた。一番先に解雇されそうな立場なのに、何も知らずに授業をしていて、今日は何故学生が少ないのかと訝しんでいたのだから、呑気なものだ。

月曜は朝の10時から夜8時半まで、3時間の授業を三つ立続けにこなす。17時半から始まる最後の授業は、去年開講した「音響技師科」の12人程の大学生相手、と言えども、他の学生とは違って型破りな若者ばかりの集う、愉快な授業だ。
去年教え始めたばかりの頃は、ト音記号すら読めず、歌を歌ったこともない連中相手に途方に暮れたが、何時の間にか自由で煩い小学生のような彼らと、がやがや授業するのがすっかり愉しくなった。
誰かが隣であてられて練習していても、周りは騒がしく話しこんでいるか、ヘッドフォンの音楽に合わせて身体を揺らしているかで、教師に何のリスペクトもないように見える。とんでもないクラスを引受けたと思ったが、実はやる気がないのではなく、単にそういう人種なのだった。
寧ろやる気は十分あって、順番が来れば真剣に課題に取組むし、今日も授業の後、何時もヘッドフォンを掛けて身体を揺らしている学生の一人から、「いやあ、この授業最高ですね。去年までラップのレコーディングやると、決まって後で音程の微調整やってたのに、今じゃ先生のお陰で一発、生録音でバッチリですよ。本当に信じられませんよ。先生最高!」と褒められた。

2月某日 ミラノ自宅
息子のコンピュータの充電器が壊れ、近所の電気屋に修理に持ってゆく。職業を尋ねられ音楽関係と言うと、目を輝かせ「こう見えても俺は一流の音楽家だ、この上のスタジオを見ろ」と梯子を登り、中二階に設えたミキサーのコンソールとエレキギター数本、壁にかかるゴールデンディスク数枚を自慢した。

音楽で何をやるのかと繰返し質問するので、耳の訓練などしていると言うと、彼も独自の音楽理論コースを開こうと思うから話を聞けと言う。
適当に返事を返していると、「俺にはお前の心が読める。早くこの話を終わらせろと切望しているな」と詰め寄られ、仕方なく「それは違う」と否定すると「では俺の話が聴きたいのだな」と修理したコンピュータを返さない。

彼曰く、音楽が心地よいのは、楽器が発する波動が、人間のそれと合致するからだそうで、何か根拠となるデータはあるのかと尋ねると、俺の話を信じないのか、と凄まれる。
話は終わらず「お前は偉くなりたいだろう、金持ちになりたいだろう」と畳み込まれ、「金儲けには興味がないので失礼する」と言うと、「お前が金持ちになれる方法を教えてやる」と譲らず、「金持ちになるためには、高次元の波動を集めて、高次元な波動を音から発すればよい。そうすれば、より高い次元で波動が共鳴しあって、世界中の人々を心地よくさせる。そうすればお前も金持ちになる」と力説して譲らない。

漸く次の客が店に入ってきたので、ここぞとばかりにコンピュータを取戻し、「素晴らしい話を有難う」と店を後にすると、相手も諦めず、わざわざ店先まで走ってきて、「お前になぜこんな貴重な話をしたかわかるか。俺は世界の別の場所にいる自分の心の兄弟を探している。お前なら俺の話が分かると思って、話をしたんだぜ。近々連絡くれ」と念を押される。
3日ほど経って心の兄弟が修理した充電器はすぐに壊れた。80ユーロも出したので、家人は取り替えて貰うべきだと譲らなかったが、結局通信販売で23ユーロの別の充電器を購入した。

2月某日 ミラノ自宅
プレトネフのリサイタルを聴く。シューベルト作品164のイ短調のソナタに、作品120のイ長調のソナタ。後半はチャイコフスキー「四季」。アンコールにシューベルト即興曲3番。文字通り放心状態で帰宅し、翌日もそのまま放心状態で一日を過ごす。
予定調和は皆無で、その場で音楽が生れる姿を目の当たりにする。音楽が顕れる瞬間に立ち会う新鮮さと崇高さ、そして沈黙の素晴らしさ。響きの際限ない可能性から、まるで宇宙を漂う錯覚に陥る。
人を驚かせるのは、強音ではない。これ以上の弱音は存在し得ないほど弱い、玉のように美しい弱音を聴いた後、それ以上に弱い音を耳にする、まるでパンドラの箱の蓋を開いて中を覘いてしまったかのような、現実離れした緊張感と興奮。時間の感覚を麻痺させられる音楽。
音楽を崇高に感じるのは、こういう瞬間なのだろう。宗教的高邁さとは比較にならず、それよりずっと先、遥か彼方の、命の萌芽を目の前で見るような体験。
即興曲3番が始まると、最初のアルペジオで、周りの客席から先ず一斉に深い吐息が洩れ、それから皆が低い声で、そっと旋律を歌い出した。プレトネフの音を慈しむように、本当に薄く数小節だけ旋律を歌う声が聴こえ、客席は沈黙に戻った。
一体どのように弾いたのか、冒頭の内声で耳にしたことのない音がピアノから零れてきた。輝くものがこちらに流れてくるような、ガス状の光がピアノから漂ってきたかと思いきや、何時しかホール全体をそのきらきらしたものが満たしていた。
弾き終えても客席も沈黙したまま。始まりのときと同じ、深い吐息が会場のあちらこちらから聴こえるだけだった。

2月某日 ミラノ自宅
昨日朝、市立音楽院より、学校は一週間休校とする旨のメールを受取る。
朝6時に散歩し、卵とブリオッシュ購入。朝30分ほど歩きまわるのは大分前からの日課。
学校は休み、愚息の通う中学校も休み。ロンバルディア、ヴェネト封鎖。スカラ、フェニーチェともに休演。葬式、結婚式、ミサも中止。リヨンでイタリアからの長距離バス通行止。インスブルックでヴェニス発ミュンヘン行列車通行止。モーリシャスでイタリア人の該当地域からの旅客隔離。スーパーに生鮮食品は殆どなし。ミラノのドゥオーモ閉鎖。コドーニョは街全体封鎖。株価暴落。スーパーでは、若者二人に「逃げろ!」と叫ばれ、小学生くらいの男の子をつれた父親も、慌てふためきながら目の前から走り去るが、仕方がない。先日までミラノに滞在していたSちゃんも、街で「コロナ!」と名指しされたと言う。

2月某日 ミラノ自宅
アジア人だから、人前で到底くしゃみも咳も出来ないので、ともかく健康を害さないよう過ごす。人込みを避け、夜遅く24時間営業のスーパーマーケットへ出かける。昨日より棚に並ぶ商品が少ないのは何故だろう。今朝には商品が補充されていたはずが、これだけ少ないのであれば、日中よほど市民が買い物に走ったのか。文字通り空になった棚から、最後に残るスパゲティ2袋を購う。昨日はミラノ北部で感染者が見つかり、付近のスーパーマーケットが封鎖された。その際、州の関係者が、封鎖がミラノ全体に広がる可能性を否定しなかったため、こうしたパニックが起こったと思っていたが、封鎖を正式に否定した筈の今日ですらこうならば、人々の恐怖心は未だ到底払拭されていないのであろう。
今日は息子より少し上くらいの年齢の妙齢二人が、こちらを上目遣いに見ながら、スカーフで口を覆って傍らを通り過ぎてゆく。何とも言えない心地。イタリア人からイタリア人へ感染している現在、アジア人を避けようが、口をスカーフで覆ったところで意味があるとは思えないが気持ちはわかる。11人目の死者が出て、消毒用ジェルやマスクは手に入らない。
311の時は、日本がどうなるか固唾を呑んで見守るしかなかったが、今回は文字通りピンポイントで、日本とイタリア、それもロンバルディアが当事者になった。先日は、両親の住む町田の隣の相模原駅職員が感染とニュースで読んだところで、彼らの年齢を鑑みてそちらの方が余程気懸りながら致し方ない。311の時は息子は未だ幼く、状況に怯えていたのは家人だけだったが、今回は家人の傍らで、息子も時事ニュースに耳をそばだてている。

2月某日 ミラノ自宅
朝、人気のないジャンベッリーノ通りを散歩する。
以前はユニセフ、現在は「国境なき医師団」のためにコンゴで仕事をしている、ロレンツォに誕生日祝いを書く。ロレンツォはエミリオの長男で、幼い頃からよく知っている。エボラ熱や、難民のために働く、ロレンツォや彼の同僚たちに日頃から感服している。

中世「死の舞踏」を描いた画家たちは、どれほど過酷な状況でかかる絵画を描いたのか。今回の伝染病はペストの致死率とは比較にならぬ。医学が進歩した現在でこの状況ならば、未だウィルスの可視化もままならなかった中世、累々たる亡骸を横目に、どんな思いで骸骨を踊らせ、ボッカチオは艶笑譚を書いたのか。

そんなことを考えながら、行きつけの珈琲焙煎屋に立ち寄ると、年寄りの主人が息まいている。
「全く外出禁止令なんてさっさと取っ払って貰わないと、こっちは仕事が上がったりだ。来週からは学校も何も普通に戻るそうだ。ついでにマスク着用も禁止、禁止!マスクなんぞつけて外を歩くと、何十万の罰金だとさ。マスク着用じゃあどんな悪党でも見分けがつかない。物騒で仕様がないさ。昨日も銀行の受付が言っていたが、昨今誰でもマスク着用で皆銀行に入って来るが、そりゃあ不気味で仕方ないらしい。彼だって、いきなり目の前でピストル取り出されてズドンじゃあ堪らないよ」。そう言って、豪快に笑った。

2月某日 ミラノ自宅
死亡者数は14人になった。ミラノ行のブリティッシュ・エアウェイズは乗客が殆どいないので、暫く休止とのニュース。ロンバルディア、ヴェネトからの旅客は、ヨーロッパや世界各地の空港で隔離措置や経過観察などの措置。封鎖されているコドーニョの事業者たちがテレビで、事業の再開許可を強く求めている。経営破綻が目の前に迫っている、政府の下支えが必要と力説している。日本からの留学生にメールをして様子をたずねる。幸い全員健康と聞き安心する。
ミラノのサッコ病院の研究者ら、コドーニョの患者4人から採取したコロナウィルスの病原分離に成功とのニュース。近日中にワクチン開発が始められるが、実用化には手順が嵩み時間がかかる、とある。新聞を読み返すと、死者は3人増え、17人になっていた。

ミラノ・アレッサンドロ・ヴォルタ科学高校(liceo scientifico Alessandro Volta)ドメニコ・スクイッラーチェ(Domenico Squillace)校長より、学生父兄宛の手紙。
「”ドイツ軍がミラノにペストをもたらすのではと保健当局は危惧していたが、ご存じの通りペストはミラノにやってきた。よく知られるように、それどころかペストはイタリアの大部分を侵し、人々をなぎ倒していった。”
これは「いいなづけ」(Alessandro Manzon: I Promessi Sposi邦題「いいなづけ」「婚約者」。マンゾーニの不朽の名著)第31章冒頭の言葉です。この章では続く章とともに、1630年ミラノを斃したペスト伝染病の描写がつづきます。実に啓示に富み、驚くほど現代的な文章ですから、この混乱した日々のなか、心して読むことを奨めます。これらのページには、外国人の危険性への偏見、当局間の激しい諍い(首相と州知事との軋轢が話題になった)、(今回イタリアに病気を持ち込んだ)第一号患者の病的なほどの捜索劇、専門家に対する侮辱、(中世ペスト塗りと呼ばれた)ペスト感染者狩り、言われなき風評、もっとも馬鹿げた治療、生活必需品の掠奪、保健機構の緊急事態など、全てが書かれています。これらのページを捲れば、Ludovico Settala 、Alessandro Tadino(両者ともペスト治療に尽力した高名な医者)、Felice Casati(ペスト流行時Lazzaretto院長だった高僧)のように、わが校周辺の通りに名が冠され、みなさんもよく知っている名前にも出会うでしょう。何よりわが校は、ミラノLazzaretto(伝染病患者収容施設としてヴェネチア門から外に建設されていた)地区の中心に建っているのですから、こうして綴られた言葉は、マンゾーニの小説からというより、わたしたちの日々のページから飛び出してきたようですね。

みなさん例え学校が閉まっていても、わたしはこれだけはお話したい。わたしたちの世界は、昔からずっと同じことを繰返してきました。わたしたちの高校は、規律を貴び、落着いて勉学に励むべき学び舎であり、今回のような関係省庁からの、異例な学校閉鎖通告に従うのは当然です。わたしは専門家ではありませんし、専門家を偽るのも嫌ですから、当局の今回の措置について、個人的意見を述べるのは避け、彼らの対策を尊重し、全幅の信頼を置いて、彼らからの助言を注意深く見守ってゆきたい。わたしは、皆さんが冷静沈着につとめ、落着いて行動し、集団心理の過ちに陥らず、細心の注意を払いつつも、ぜひごく普通の生活を続けてほしいと願います。
どうか、この時間をぜひ有効に役立ててください。家から出て散歩をし、良書に接してください。みなさんが健康ならば、家に閉じこもる必要はありません。スーパーマーケットや薬局に押し掛ける理由はないのです。マスクは苦しんでいる患者さんたちに譲りましょう。彼らにこそ必要なものです。今日、地球の端から端まで、この病気の伝わるめざましい速さは、わたしたち自身が作り出したものであり、それを阻める壁などありません。その昔も、伝播する速さが多少緩慢なだけで、等しく伝わってゆきました。

マンゾーニや、彼よりむしろより力強くボッカチオがわたしたちに教えてくれること、それはこうした出来事で社会生活や人々の繋がりに毒が盛られ、市民生活がより粗野になることです。
目に見えない敵に脅かされていると感じると、わたしたちの身体に走る本能が、どんなものも敵であるかと見誤らせてしまいます。危険なのは、わたしたちとまるっきり同じものでさえ、まるで脅威のように、潜在的な攻撃者のように見せてしまうのです。
14世紀17世紀の伝染病と比べて、わたしたちには現代医学があるのを忘れないでください。医学の発達や精度を信じてください。理性的な思考を使おうではありませんか。医学とは、わたしたちの最も尊い財産、つまりこの社会やわたしたちの人間性を守るために生まれたものです。わたしたちに今それが本当にできないのであらば、ペストが本当に勝利したことになるでしょう。
では近いうちに。みなさんを学校で待っています」。
https://www.corriere.it/scuola/secondaria/20_febbraio_26/coronavirus-cari-ragazzi-leggete-manzoni-boccaccio-non-fatevi-trascinare-delirio-59cd3726-5869-11ea-8e3a-a0c8564bd6c7.shtml

(2月28日ミラノにて)

追伸
3月1日朝現在。死亡者29人。感染者1000人を超え、現在まで50人回復。アメリカで初の死亡者。トランプ大統領がイタリアのレッドゾーン(ロンバルディア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャ3州)へ渡航を控えるよう発表。アメリカン・エアラインス4月24日までミラノ便休止。昨日のAA198ミラノ便はJFKから発つはずが、乗務員がコロナウィルスを理由に搭乗拒否。今日のアリタリア便で帰国予定。イタリア人がニューヨークなどで酷い扱いを受けている、との告発記事掲載。イタリアレッドゾーンから世界各国への渡航が困難になりつつある。
レッドゾーンの各学校はなお1週間休校決定。ミラノ工科大など、インターネットでストリーミング授業を再開予定。
医療関係者不足を解消するべく、ロンバルディア州は、現役を退いた医者の招聘検討。コドーニョなど封鎖された街での医療環境の急激の悪化をはじめとして、数日前から医療関係者が感染、隔離されて、各病院での医療に支障を来している。「いいなづけ」31章の描写は、現在のミラノを彷彿とさせる臨場感と緊張感に満ちている。(3月1日ミラノにて)

感染症

高橋悠治

コロナウィルスの感染症拡大で 3月に予定されていたリサイタルは7月に延期された 4ヶ月の練習期間ができた と言っても 演奏がその分よくなるというよりは ちがうアプローチや 思わぬ発見があればよい 

街も人通りがすくなくなっている 公共のイベントは中止が多い 自由業には打撃で 主催者が払い戻す手間と損失はどうなるのか 日本の政治家は毎晩宴会でやりすごすのだろう

この際アルベール・カミュの『ペスト』を読み返そうかと思ったときは 図書館でもすべて借り出されていた 本屋でも売り切れらしい 薬屋ではマスクだけでなく ティッシュペーパーの棚も空になっている マスクは予防にはならないと言われても 不安だから みんなとりあえずかけているのだろうし 日本では他人の眼があるから うっかり咳もできないだろう

「感染症の歴史」wiki を見ると アテーナイの天然痘と推測される病気の流行から 今の感染症にいたるまで 文化が盛りを過ぎ 下り坂になったとき起こるのか それとも 感染症は 文化が発展し 世界的になる裏側にある危険なのか 人間はひとりでは生きられない動物だから 何回も疫病が起こり 治療費が払えない人たちから犠牲になる 疫病の後は 社会が崩壊したり 戦争が起こった 2018年には豚熱があり 2019年には鳥インフルがあった 次が新型コロナウィルスの流行だが これらは無関係だと言えるのだろうか

閉ざされた空間でも 人が多く集まる場所でも 感染するのなら どうすればよいのか テレビでは 公園のベンチで 人から離れてひとりでいるのは安全 と言われていた 年金生活者の老後のような話だね ツイッターでは ヘイト発言がひろがっている それも崩壊の兆候なのか