シリア水牛物語

さとうまき

赤ベコがアラブ人にとっては豚のように見えるらしい。そこで、いろいろ考えてサッカーのベコにしてしまえという奇策を編み出した。しかしもうこうなると、赤い牛という本来持っていた無病息災のパワーがなくなってしまうのだ。まさに、赤ベコは会津地方に天然痘が流行した時に子どもを病気から守るお守りとして重宝されたのだ。

シリアの小児がんの子ども達も封鎖が続き病院に行くのも大変だ。我々が支援しているイブラーヒーム君8歳は、サッカーが大好きでFCバルセロナのメッシのファンだという。久しぶりにサカベコを作りってイブラーヒーム君に送ってあげたいなあと思ったのだ。

コロナ禍は我が家にも襲ってきた。10歳の息子が1月に、札幌から倶知安に転校して、あまり学校になじめていなかったそうだが、コロナで学校が休校になり、STAY HOMEで母親との関係に行き詰まり、部屋に閉じこもってしまったという。それで、しばらく面倒を見てくれないかと別れた妻に頼まれたのだ。

うちの息子は、何か役に立ちたいと思いながらも、思春期に差し掛かり、自分ではどうしていいかわからずに、癇癪を起していた。
「あのさあ、君とね、同じくらいの男の子ががんと闘っているんだけどさ、ちょっと手伝ってくれない?」
いやだ、いやだ、を繰り返す息子も、素直に顔を赤く塗って目とか口を描いてくれた。で、水牛の角を付けたらどうだろうって話になり、紙で角を作ってみるとこれは、どう見ても水牛。豚には見えない!

ところで、シリア人は水牛を知っているのかなあ。イラクには水牛いたけどシリアにはいるのかなあと思ってググってみると面白い記事を見つけた。
https://www.middleeasteye.net/features/where-they-no-longer-roam-syrias-disappearing-water-buffalo

水牛は、普通の牛より空腹にも耐え、乳を出す量も多いらしい。水牛のミルクから作ったゲマルと呼ばれるバターというか生クリームはとてもおいしくて蜂蜜や、ナツメヤシのシロップと一緒に食す。イラクでも南部バスラの湿地帯でよく見かけた。

シリアでもハマという町の北部は、オロンティス川が流れ、水牛の放牧が盛んだったらしい。しかし、2011年の内戦が始まると川を挟んで、アサド政権と反体制派が激しい戦いを繰り広げる。この地域にいた水牛は600頭から200頭に減った。戦闘が激化して、避難するために水牛を置き去りにし、飢え死したり、食肉用として屠殺されたり、実際に空爆や銃撃戦で水牛が被弾して亡くなった牛もいる。

この記事は2017年に書かれており、今はこの地域は完全に政府軍が支配している。牛飼いたちは、また水牛の放牧を始めたのだろうか? 水牛を追い求めてまたシリアに行きたくなった。水牛のベコはきっと戦争とコロナで疲弊したシリアに福をもたらすはずだ!

さらに調べていくと2004年にシリアで発行された水牛の切手が出てきた。私がシリアで働いていたのは1994年から96年だったが、もちろんその当時はインターネットなんかなかった。電話すらアパートに引くことはできず、国際電話をかけるのには電話局に行って、とてもめんどくさい手続きをしなければならず、一度もそういうのは使ったことがなかった。日本には手紙をよく書いた。切手はというとアサド大統領(当時はバッシャールの父のハーフェズ)の肖像画。値段が違うと色違いになるだけ。ベロンと独裁者をなめるのはどうも気が引けるし、苦い味がするに違いない。しかし、それ以外の選択肢はないからひたすらべろんべろんとなめ続けた。民主主義がないというのはつまりそういうことなのだ。

そのあと1997年からパレスチナで5年間暮らしたが、当時は、パレスチナ自治政府ができて、初めてパレスチナの切手ができたというニュースで沸いていた。切手はというとアラファト議長。ベロンとなめると甘かった。民主主義は置いておいて、彼岸のパレスチナ切手だから苦い筈はない。そしてイラクに行くと今度は、サダム・フセイン切手。さすがにイラク戦争のころはインターネットでの通信ができるようになり、切手はお土産に売ってただけでなめる必要はなかったが相当苦そうな感じ。

この水牛切手が発行された2004年といえば、シリアはすでにバッシャール大統領に代わっていたが、バッシャール大統領は当初は、自身を偶像崇拝の対象にはしたくないというタイプだった。そしてインターネットの通信がシリアでも主流になりつつあったので、バッシャール切手は作られなかったのだと思う。2011年の内戦をしぶとく生き抜いたバッシャールは、立派な独裁者になっていて、先日シリアに行くと2000シリアポンド紙幣にバッシャール大統領の肖像画が刷り込まれていた。まあ、お札はなめる必要がないので救われるのだが。
ともかく、これからは、水牛のベコが活躍するので乞うご期待ということで。

しもた屋之噺(221)

杉山洋一

月末までに書きあげようと思っていた新曲は未だ仕上がらず。この場に及んであろうことか、昨日一昨日は眩暈にやられて、30時間ほど昏々と寝込んでしまいました。関係者のみなさんには、ただただ申し訳ない思いに駆られています。
本日イタリアの死亡者総数は70人。新感染者数は593人。ロンバルディア州知事は、これなら6月3日以降ロンバルディア州を完全に開放可能だろうと話しています。現在イタリアの確認されている感染者総数は231732人。そのうち快復者は150604人で64パーセント。死亡者総数は33142人で14.3パーセント。現在の患者総数は47986人で20.7パーセントと書かれています。

5月某日 ミラノ自宅
明日からイタリア開放への一歩が始まる。15人までの制限つきながら、禁止されていた葬式がようやく再開。
初めてスクリャービンの自作自演で2番ソナタを聴く。聴いてみたかった演奏に思いがけず近くて、愕いた。特に声部は整理されないから、むしろ雑然とした印象すら与えるかもしれない。ただ、それぞれの音が一つの空間に同等にきらめき、漂い、主張しながら、感情には流されない。聴かせたいものを提示するために音があり、感情発露の手段ではない。
1969年の北イエメン国歌を、誤って新国歌で作り、一から作り直し。イタリア一日の死亡者数は174人まで減少。総計28884人の死亡。快復者81654人で17242人が入院中。

5月某日 ミラノ自宅
封鎖解除2日目。朝五時半、二か月ぶりにナポリ広場まで歩く。この時間は人通りもなく、今までと変わった印象はない。敢えて言えば、使用禁止だった24時間営業の自動販売機が使われていたことくらいか。パン屋より先に足を延ばしたのが2か月ぶりで、遠出を禁じられていた子供が、冒険心につられてちょっと遠回りするような新鮮さは味わうことができた。
7時半にパン屋に出向き、封鎖が解けて何か変わったか尋ねるが、やはり今日のところは余り違いはないと言う。「未だみんな怖いんでしょう」。日本政府は非常事態宣言延長を発表した。

朝10時から夜8時半までズームを使って授業。いつも教室で教えていても十分疲れるものを、オンラインで教えれば、教師も学生も困憊は倍増する。朝5時過ぎから作曲したが、困憊しきった夜はほとんど机に向かえない。オンラインでの授業はおそらく秋以降も続くだろうと聞いた。
6月以降許可される予定の限られた教室の使用は、指揮や室内楽のレッスンなど、どうしても対面でなければ出来ない課程に宛がう必要があって、教室もそれぞれ広さによって入れる人数が厳しく制限されている。一番大きい講堂ですら同時に入れるのは最大10人で、何時もレッスンや授業に使う109番教室は最大5人というから、指揮の個人レッスンは伴奏ピアニスト2人入れても何とか使用可能だが、15人、20人と学生が集う耳の訓練の授業など、現在の状況では到底教室では行えない。

学校のマッシモとズームで話す。現在の状況は、深い霧の中、船乗りが目視で恐る恐る進んでいるようなもの。来年以降のことなんて想像も出来ない、と笑った。とにかく今年のカリキュラムを片付けなければならない。指揮レッスン補講は9月後半文字通り毎日入れてやりくりし、来年度の始業も一ケ月遅らせる運びだと聞いた。

5月某日 ミラノ自宅
無限に並列された情報に塗れていると、選ばれた言葉や音の方が、ずっと心の深い部分に沁み通るのを改めて実感する。言葉や音は感情表現の手段として発達してきたが、古来それは不完全なままであって、言わば四捨五入された表現とすらよべるものであった。
かかる端数が切り捨てられた大雑把な表現だからこそ、伝える内容に幅が生まれ奥行きが広がり、それらの歪さが豊かな表現を生み出して、我々に強い印象を残すのだろう。

戦後、コンピュータ開発が進み、大雑把だった素材が悉く現実に肉薄するようになり、人間の表現能力、判断能力を超えるようにもなったが、それは四捨五入の時代、読み手や聴き手が無意識に補っていた、人間本来の想像力すら侵食しつつあるのかもしれない。
形にして録音を残す意義、後世に資料を残す責について思いを巡らす。消費とは何か。今まで消費と効率ばかりが評価基準に充てられてはいなかったか。
ここよりもう少し郊外にあるチスリアーノで、血清実験開始。今日は195人が亡くなり、1225人が快復した。

5月某日 ミラノ自宅
美恵さんへのメール。
「イタリアに予定調和は皆無ですが、各人が毎日の人生を大なり小なり発明しつつ生きぬいてきていて、肝が据わっているかもしれません。政府を信じてもいないし、自国を持ち上げる気風もないけれど、他の欧州諸国より優れた文化を育ててきた妙な自尊心もあって、不思議な国です。昔から列強のヨーロッパ諸国から植民地扱いされてきているから、強かなところもあり、結局他国を信じていない」。

そんなイタリアが事もあろうにCovid最初の感染拡大国となり、急遽防疫体制を仕立て、欧州から援助も得られぬまま、孤立無援で対応を迫られた。その後、結果的にイタリアが作った防疫体制を各国が倣い、それを下敷きに各国が対応に当たった。有事で何より重要なのは、潤沢な資金だとイタリアの誰もが痛感させられた。本日クレモナの死亡者は0人で、73日ぶりだそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝4時半、家のすぐ傍で、保線車両が大きな汽笛を鳴らした。封鎖解放に併せ保線作業を進めているのだろうか。
朝5時過ぎ、ナポリ広場に向かって歩いていて、身体の強張りを不思議におもう。数か月間の思考の強張りが身体にまで影響しているのかもしれない。この時間、鳥たちの囀りが賑やかで、全方角から燦燦と降り注ぎ、人間より余程知能に長けているように聴こえる。我々が進歩と信じてきたことは、著しい退化の一途ではなかったのか。ふと疑心暗鬼が頭をもたげる。

フランクフルトよりAさん帰国。空港での検査は陰性だったが、暫く空港周辺のホテルを借りたとメッセージが届く。
「思い出すと辛くなるんです。色々とよい経験をしたのに、よくわからない怒りがこみあげてきたりして。何とも言えない気持ちです。誰が悪いわけでもないし」。
イタリアの不法滞在者をこの機会に正規滞在者に認定し、アスパラガスやイチゴの収穫に借り出す試案をベッラノーバ農林政策大臣提出。不可視だった不法滞在者をゲットーから解放し、健康管理をすることこそ、イタリア国民全体の安全に繋がるという。
イギリスの死亡者数がイタリアを上回ったが、それでもイタリア国内で1444人もの新感染者。369人の死亡者と8014人の快復者。

5月某日 ミラノ自宅
月。赤く巨大な月。早朝歩いていると、目の前で月が沈んでゆく。月も燃え尽きるようにして沈んでゆく。庭の階段の下に、燕が巣を作ろうとしている。
朝パン屋に出かけると、このところ、以前より街に人が溢れていて怖いという。毎日日がな一日家で仕事をしていると変化を感じない。家人にはサティのVexationsを全世界とズームで繋いで一日がかりで演奏しようとの誘いが届いた。Aさんからは2回目の検査も陰性と連絡が届く。記憶に蓋をして溢れる思いを堰き止めていると言う。
イタリアは今日一日で243人が亡くなり、総計30201人に達した。イギリスに次ぎ、3万人を超える犠牲者を数える。

5月某日 ミラノ自宅
ニグアルダ病院のベルガモーニ先生とやり取りをし、小児科・小児脳神経科が担当している社会的有用性の非営利団体あてに日本のAAR難民を助ける会から寄付金1万ユーロが届けられる運びとなる。柳瀬房子さんからの有難いご提案を押し頂いた。
ニグアルダ病院に寄付する、と言っても、受付先は何ヶ所かあって、そのどこにするかを何度か相談した上で、結局寄付金の使用用途が確認し易く、covidで治療に支障をきたしている子供たちの話を伺い、息子もお世話になった小児脳神経科へ直接寄付を決めた。Covidのため病院で受け入れられなくなった、遠隔治療を強いられる家庭への支援器具等も含まれている。
深山さんより新しいCDが送られてきた。彼女と音とを真空の空間が繋いでいて、音が発せられる瞬間まで、彼女の感情は無為に音を歪ませない。

5月某日 ミラノ自宅
現在のところ、まったく使う必要のない公共交通機関だが、今後はバスや路面電車に乗る際、手袋をしなければいけない。使い捨てゴム手袋をスーパーや薬局で探すが、全く見当たらない。息子が通っていた小学校前の文房具店が思いがけず開いていて、A4コピー紙を購入した。「どうなるのかね」。久しぶりに女店主と話す。「とにかく仕事しないとね。先ずは学校が開いてくれないことにはね」。

もう何年も指揮伴奏を担当してくれているマルコに女児が誕生し、写真が送られてきた。不思議に、自分が最初に息子を抱いて撮った写真や、家人の写真にも似ている。母親は出産の大仕事を終えて、顔つきが似るのも分かるが、父親の姿もどことなく似るのは面白い。小さすぎる赤ん坊に少し戸惑い、初めて抱くと、これでいいのか、という表情になるのが初々しい。
友人より日伊便6月欠航決定の知らせ。「今朝延期のメッセージを見て、気持ちが崩れ落ちました。メッセージには、ほぼ世界全土の長距離便キャンセルが書いてあり、事態の深刻さが示されていました」。153人が亡くなった。封鎖後最も低い死亡者数という。

5月某日 ミラノ自宅
誰もが少しずつ精神を病んできている気がする。子供の頃から、時として無性に叫びたくなることがあったのを思い出す。ベッラノーバ大臣が不法就労者を正規化する法案を成立させ、涙ながらに発表。朝歩きながら、何箇月も全く人と触れ合っていないことに気付く。当然ながら、釣銭一つ手を介してやりとりしていない。2月には、アメリカにいたジョンのお母さんがCovidで亡くなっていた。
ベルガモでは墓地が開いた。ウクライナの国歌を書いている最中、2014年スラヴャンスク紛争で命を落としたイタリア人報道写真家アンドレア・ロッケルリの記事が新聞で目に留まり、ルワンダの国歌を書いているとき、フェリシアン・カブガがパリで逮捕と知る。偶然に違いないが、これらの出来事が日常とこれほど近しいとは、全く気付いていなかった。

レプブリカ紙、ピッコロ劇場演劇アカデミー所長インタビュー。
今回の事態についてアカデミアは、来年度の大学初等課程に相当する三年コースを特例として一年増やし、そのうち半期は本年度分の捕捉に充て、残りの半期は続く上級課程に等しい準備期間として充実させると言う。授業料の問題や教師の補充さえ解決できれば、理想的な方法には違いない。
古来、演劇は幾度となく伝染病を乗り越えてきた。だから今回どんな状況で置かれても、きっと演劇は未来に残ると確信し、より深く踏み込み、充実した授業計画を立てたと語る。何かを信じている。

ストラヴィンスキーは迫りくるスペイン風邪流行の中「兵士の物語」を書いた。彼自身もスペイン風邪で床に臥したのち、ディアギレフの依頼で「プルチネルラ」を書き、結果的にそれが彼の新古典時代を切り拓いた。しかしこの古典回帰は、本当にディアギレフだけが切っ掛けだったのか。第一次世界大戦や感染症で荒廃した世界は無関係だったのか。無意識であれ、何か顧みる思いがそこには生まれなかったのか。今後、我々がどうなってゆくのか興味がある。
94人の死亡者。そして2月以来初めての500人以下の新感染者数。

5月某日 ミラノ自宅
2月、家人が自分で開けたシャンパンの蓋を、誤って自分の眼に命中させた。翌日どうも調子が変だと言うので、二人で救急病院に出かけ順番を待っていて、不安に駆られた家人から、結婚して一番幸福だった思い出を尋ねられた。
家人曰く、息子の出産だと言う。暫く考えて、自分には、息子が退院した時が一番幸せだったと気が付いた。退院した日そのものの記憶は曖昧だが、その前後の日々をまとめて、幸福を噛みしめていた。窓を開けると、小さなトカゲが頭を傾げ、こちらをじっと見つめていたが、暫くして逃げてしまった。

家人より「お父さんがすべて間違っている。あのままミラノにいれば無駄なお金も使わず、離れて暮らす必要もなかった」との息子の言葉を聞き、妙に嬉しい。
結果的に彼がそう思える状態こそ、この不自由な日常で最良の選択だったと思う。漸く自らの選択に納得することができた。今回の事態に限っては「何もこの必要はなかった」と云われる程度で丁度良い。

5か月ぶりにミラノ大学の前まで散髪に出かける。ナポリ広場より先へ出掛けるのは4か月ぶりだ。
マスクをつけて自転車を漕ぐと息苦しく、急いではいけない。人通りはほぼ前と同じに見える。もっと感動があるかと思ったが、不思議なもので、全て夢のようにも見える。
車の通りも前と変わらず、抜け落ちたこの数か月の実感が湧かない。バスや地下鉄を使えば違うのかもしれないが、一人で自転車を漕いでいる限りでは分からない。

今も自分の精神状態が以前の通りに戻ったとも思えないが、少なくとも2月から5月の半ばまでは、特に緊張を強いられていたのはわかる。鏡に映る自分の姿が老けたように感じるのは、白髪が目立つからだけなのか。ところで一日中、あちらこちらで教会の鐘がひっきりなしに鳴っているのは何故だろう。

何年も連絡が取れなくなっていた母の姉の消息が思いがけなくわかる。残念ながら、叔母は2年前に既に他界していた。
こうして書き出しながら、頭の中を空にしてゆく、頭の中の要素を少しずつ減らしてゆく。すると必要なものが漸く見えてくる。

5月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めて間もなくだったから、もう25年近く前、当時ライプツィヒに留学していた同期のピアノの学生と二人でベルガモの街を訪れた。彼がライプツィヒをそろそろ終えるから、とイタリアを訪問したような記憶もあるが、定かではない。

初めてベルガモを訪れ、どのようにして丘の上の旧市街まで着いたのかも、今となっては思い出せない。ただ覚えているのは、コルレオーネ礼拝堂の荘厳なだんだら模様のファサドと、その左隣、聖母大聖堂(サンタマリア・マッジョーレ)の翼廊口に鎮座する、二頭の赤獅子像のみなのは何故だろう。印象的な赤味を帯びたヴェローナ石で彫られた獅子たちは、長年の手垢でてかりを帯びていて、1353年ジョヴァンニ・ダ・カンピオーネの作だと言う。なるほど、当代一の彫刻家の作だから、印象に残ったのかも知れない。
その時、日本の神社の境内の狛犬に似ているのが不思議だったのと、古い微かな記憶の奥で、小学校三年生終わりの自分が、狛犬の上で遊ぶ小学三年生の自分が写りこんだ、日に焼けたモノクロのスチール写真を思い出していた。

この写真は、代々木八幡神社の境内で、大原れいこさんが写真家の人と一緒に番組用に撮ってくださったもので、恐らく今も町田の実家のどこかに残っている。
当時、母がマッシュルームカット風に髪を切り揃えてくれていたから、狛犬に跨り、その長めの髪を垂らして、愉快そうに斜め下に視点を落としていた覚えがある。
何十年も経って沢井さんと野坂先生の演奏会に大原さんが駆けつけて下さったとき、初めて紹介した息子は、ちょうど同じ歳頃だった。彼女の記憶はそのころの洋一くんで止まっていたから、何度となく息子に向かって「洋一くん」と声を掛けては、「あらごめんなさい、また間違えちゃった」と無邪気に笑っていらした。

どういう経緯で、大原さんと今井さんの間で「子供の情景」のアイデアが持ち上がったのかよく分からないが、ともかく大原さんから頼まれた「子供の情景」を書いているとき、左半身が麻痺した息子と二人で、ニグアルダ病院のよく冷房の効いた病室から、暑く気怠そうな外の風景をぼんやり眺めていた。

大原さんと最後にお会いしたのは、表参道の路地裏にある彼女の行きつけの蕎麦屋だった。岡村さんと三人でささやかに彼女の誕生日をお祝いした。道すがら、すっかり元気になった息子が、この夏アイルランドに英語研修に行くと張り切っていると話すと、彼女もアイルランドがとても好きなこと、オハラという名字がアイルランドにあって親近感を覚えてね、などと、嬉しそうに話していらした。

あれから、ほんの短い電話だけは何度か通じたけれど、殆ど会話らしい会話もできぬまま、先日届いた訃報に言葉を失った。
「考えれば考えるほど寂しくなります。どうしてでしょうね。天国にいらっしゃるはずなのに。遠いんでしょうかね」。そんなことを岡村さんに愚痴ったりした。
今朝、荒木さんから「子供の情景」のヴィデオがインターネットに載せられていると便りを頂戴して早速拝見した。最後に大原さんと演奏会でお会いした時の記録だった。

5月某日 ミラノ自宅
三善先生から頂いた端書を棚に飾り、毎日何となしに眺める。ざくっとした太めの筆感、しっかりとした指先で、じっと筆重をかけ、ねじこむように書かれた筆跡を眺めると、無意識に背筋が伸びる。
軽井沢から送られてきた端書だが、裏面には瀬戸内海の風景画が描かれていて、何故だろうと思う。すると、何の気なしに階下に足が向かい、気が付くと寝室の書棚から詩画集「いきてる」を手に取っていた。三善先生が詩を寄せ、雨田光弘先生が絵を描かれたもので、町田とミラノと一冊ずつとってある。
夜明け、ふらふらと病院に吸い寄せられるようにして思いがけず立ち会った祖父の臨終のように、自分の意志とは関係なく、誰かに呼ばれるようにぼんやり手に取っただけだが、ふと函に書かれた先生の題字に目を落とすと、突然涙が溢れた。
「いきてる」と先生の声が聞こえた。
何年も開けていなかったから、蝋ひき紙にくるまれた布表紙の本を出すのに苦労したが、目にした途端、年甲斐もなく号泣した。この数カ月身体に溜まっていたものが突然噴出したように、誰もいないのを幸いに声を上げて泣き、木の机の涙の染みを腕で拭いつつ日記を書く。

いきてる 三善晃 1986年

こないだ おかしかったな
        いもうと

ふたりでけんか  してたら
とうちゃんが  おこったろ
なにしてる  って

いきてる  と  おれ

いきしてる  と  おまえ


とうちゃん  ぽかんとしてたな

         それから

そりゃ  すばらしい  がんばれ

         だとよ

ひとりでいると 
 みんながいる

みんながいると 
 じぶんがいる

なにもないとき 
 ぜんぶがある
    みたい

おれが ぜんぶだ
 なにもないから

—-

ここで
ながいこと おまえを
まっていた   のは

おまえがいないことは
なになのか  を

おれにわからせるのに
どれだけひつようだ  と
おまえがかんがえたのか  を

かんがえるため  だったのさ

—(中略)

あそうぼうぜ みんなと

あそびのはじめは
だれもえらくない

    あそぶと
えらいやつと
えらくないやつが
   できるけど

それだけさ

あしたはあした
  はじめから

おまえが なけば
おまえのなかのおれは
たいがい なく

みんなが わらえば
みんなのなかのおれは
たいがい おこる

おれは しねない
  いそがしくて
  ややこしくて

   ずいぶん
いじわるしたな
   おまえに
いじめたな
   おまえを
けっこう たのしく

おれのしたことで
おぼえているのは
それだけだ ほんと

 だから おれが
 ごめん いったら
それだけよそれだけよ
 いみ あるのは

 それ
 いつか いう

いきてるか
 と おれがきいたら
いきしてるか
 と おれにきいてくれ
      いもうと


いもうと

あき
はなみずきのめが
らいねんのはるを
だきしめている いま

(5月29日ミラノにて)

コロナ蟄居

冨岡三智

5/25の全都道府県の緊急事態宣言の解除を受けて、また状況が変わる。先月号で「4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった」と書いたけれど、残りの1校が6月1日から対面授業に決まった。この大学は医大で必修科目が多いため、オンライン授業も当面(最短で5月末まで)という予定だったのだ。さて、来月はどんな状況になっているだろう…。

閑話休題。

この緊急事態宣言下での家籠り生活が長くなってきた頃、昔の武士にとって蟄居閉門が刑罰になるという意味が分かったという内容のツイートを見かけて、なるほどと思う。家にこもるのがわりと好きで落ち着いていると先月書いたけれど、少し気疲れがたまってきて、最近それがあまり抜けなくなってきた。人に自由に会ったり話しかけたりできないのも拘束感を覚えるものなのだ。これが蟄居生活というものか…。6月からは週に1コマだけだが通勤が発生する。もう1セメスターの半分は過ぎたから、今さらの通勤に少しめんどくささも感じているけれど、気分が晴れるかもしれない。

ちあう、ちあう

イリナ・グリゴレ

ヴァルター・ベンヤミンのエッセイを読み始めると、2歳の娘は私の手から本を取って、ページをめくり始めた。翻訳することについて読むところだったが、彼女の動きに集中している顔を夢中になって観察し続けた。最近では、本棚からいろんな本を出して読むふりをしている。「これはすごい」というリアクションをしたり、ずっと文字を見続ける時もあったり、写真だけ見て本を床に置いたりする。絵本を渡すと「ちあう、ちあう」(違う)と大きな声で言って、邪魔しないようにとアピールする。彼女にとっては文字と言葉は、日本語であっても英語であっても大人とは違うものだ。目で写真を撮っているように、一枚、一枚のページを見ている。ベンヤミンがいう理想的な翻訳に近いかもしれない。彼女にとって読むことはまだ言語化することではないので、すべて違う、すべて同じような言葉が「見える」。

子供が新しい言葉を作る能力はすごい。長女もそうだった。いまだになにを意味するのかわからない言葉がたくさんある。例えば「シャバデイ」という言葉を長女は1歳半から使っているが、まだ意味を掴めていない。次女も5月に「モモイ」という言葉をずっと使っていたが「鯉のぼり」のことを指していたことがはっきりした。こうしてみると人間は幼い時からイゾラドかもしれない。たくさんの習慣と言葉が心の中にこもり、通訳と解釈は常に難しくなる。

『悲しき熱帯』では、先住民たちが自分の身を綺麗な花とビーズを使って飾るシーンが私には印象的だった。母親になって自分の娘たちが同じ行動をするのを見た。次女は素裸になって過ごすことに加えて、飲み物と食べものをもらうときに一つの儀式を通さないとなにも始まらない。それは「クラ」に似ているともいえる。「クラ」とはトロブリアンド諸島で行われる交易のこと。娘は牛乳を欲しがっているが、最初にコップを渡そうとすると、「ちあう」と言って、受け取ろうとしない。大体三回ぐらいこの動作を繰り返し、最終的に満足した顔でもらって飲んでいる。

まだ解釈できない習慣がたくさんあるなか、踊りと歌が大好きな娘たちをみて、21世紀の人類学のことを考えてしまう。人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押し付けることのできない生き物の本質の現れを探る。例えば、日本語で翻訳されても翻訳しきれない本、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの『千のプラトー』、一つの全体としての身体を翻訳しきれない。翻訳をするのではなく、「一つの言語」から「一つの言語」へではなく、子供の感覚に戻るといいかもしれない、いつか、お互いに言葉だけではなく、イメージなど、もっと様々なコミュニケーションができるかもしれない。『不思議の国のアリス』のティーパーティーを思い出してみよう。参加者はお互いに話し合っているけれど、お互いになにを喋っているかわからない。言葉だけで足りないのだ。

娘たちを観察して思った。もしかたら人間とは「イヤイヤ期」がまだ終わってないのではないか? 昔見た『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』という映画では、たくさん詰まった言いきれない言葉が溢れるまでのパフォーマンスが描かれていた。最後は主人公が川に落ちて子供のように泣いているシーンだった。人間の身体に詰まっている感覚、感動、愛情の塊は「言葉」だけでは伝えにくい。私たちの日常の中では、「言いつくせないもの」でお互いの「コミュニケーション」の壁を破けない日々を生きている。

「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいらっしゃった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「分かち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子どもも「笑う」こととか、踊ることを分かち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

ベンヤミンの言葉も翻訳されて、解釈され続けている。彼が「アウラ」と呼ぶものは非常に興味深い。なぜ「アウラ」という言葉を選んだのか、少し分かる気がする。彼の遊び心が現れている。「アウラ」は、あるイメージを直接的に読んでいる側に伝える。彼の書き方は非常にパフォーマティブだ。この意味でベンヤミンは「言葉」から「言葉」にではなく、「言葉」から「イメージ」への道を提案したのだ。

そういえば祖母に久しぶりに会った時、最近みた夢について家族で語り合った。皆の夢のイメージがリアルすぎて、祖母の家の小さな部屋にいくつものプロジェクターがあって、それらが投影されているような気がしていた。

仙台ネイティブのつぶやき(54)今日も塗り、明日も塗る

西大立目祥子

 4月の初め頃、軒並み中止に追い込まれていく新聞下段のコンサート情報を眺めていたら、小さな記事が目に入った。
 「第60回東日本伝統工芸展」とあって「東京・日本橋三越本店で開催予定でしたが中止します」の一文。もう工芸展までだめなんだ…と思いながら記事に目を戻して、おっと思った。「写真は、朝日新聞社賞の伴野崇さん(長野県佐久穂町)「乾漆合子『残照』」」と記され、卵を寝せて下を切ったような赤い漆塗りの蓋付き容れ物がカラー写真で紹介されている。伴野くんだ!彼は私の若い友人なのだ。

 確か数年前にも同じ工芸展で同じ朝日新聞社賞を受賞していた。年末に「作家によるうるしおわんうつわ展」という展示会が、池袋の西武アート・フォーラムで開かれ、出品するという案内をもらったまま、連絡もせず気にになっていた。がんばっているんだなあ。おととし、人間国宝である師匠の小森邦衛のもとから年季明けで独立し、輪島から故郷の長野に戻って工房を構えたところだった。このタイミングでの受賞は、きっと励みになるはずだ。
 何年かぶりで電話をしておめでとうというと、変わらない口ぶりで「そうですね、独立して受賞できて、よかったかな…そうなんです、なぜか前と同じ朝日新聞社賞で。載ってるよと知らせてくれた人がいて、自分もそれから新聞を買いにいって」などとぼそぼそと話す。浮き足立つこともなく、いつも静かな水面が胸の内にあるような感じだ。

 伴野くんと初めて会ったのはもう15、6年も前。仙台で幕末からつくられてきたという仙台箪笥の取材のために「門間箪笥店」という箪笥づくりをする工房を訪ねたときのことだった。仙台箪笥は、指物と塗りと金具という3つの職人技がなければ完成しない。表の店舗にしか入ったことのなかった私は、このとき初めて奥の工房まで足を踏み入れることができ、古めかしい木造の工房の中で鋸を巧みに引くベテラン指物師や床に座って黙々と塗りを続ける若手塗師や女性塗師の姿を見ることができた。その中に伴野くんもいたのだった。うつむいて絶え間なく手を動かしあまり喋らない。職人さんの中では際立って若く20歳を過ぎたくらい、まだ少年っぽさが残る、目の涼やかな若者という印象だった。

 そのあと何回か会ううち、高校中退のあと、ものを作る仕事がしたい、箪笥はどうだろうと考えて全国の箪笥産地を訪ね歩き、門間箪笥店がいいと仙台にやってきたのだと聞いた。確か当時、伴野くんはやけに頑丈なつくりの黒い自転車─仙台ではかつて米の運搬に使われていたことから運搬車と呼ばれている─に乗っていて、足元はいつも下駄だったような。朝8時から働き4時半過ぎに仕事を終えると、急ぎ市立高校の2部に通うのだった。えらいね、というと、淡々とした口調で「でも、昔の人はみんなこうだったと思いますよ」という。真面目で、静かなのだけれど芯棒のようなものが一本通っていて、昔の青年はこうだったのかなぁと会うたび思わされた。「明治とか大正とかに生まれた方がよかったんじゃないの、生まれる時代を間違ったのかも」とつい口に出し、はははと笑いあったような記憶がある。

 知り合ってしばらくして、私は伴野くんと、その同僚でちょっと年上の指物師の阿部くんに呼び出された。門間箪笥店の近くの喫茶店に行くと2人は隅の席に窮屈そうに並んで座っていて、あいさつがすむと思いつめたような表情で「仙台箪笥を伝承する会をつくるので協力してほしい」というのだった。聞けば、伝統的な技術を受け継いで見える仙台箪笥も、その形、材料は明治期とはずいぶん違っている。一度、昔の素材と工法で一棹製作して原点に立ち戻り、人とモノのつき合い方を問いたいという。その後、2人は自治体の助成金を獲得するために審査会のプレゼンテーションに臨み、箪笥研究では第一人者の小泉和子さんに原稿の依頼をし、冊子を制作の費用を捻出しようと広告とりに歩いたりもして、「仙台箪笥復活祭」をやってのけた。1年近く準備にかけたのではなかったろうか。いま振り返れば、ファストファッションのような安い使い捨ての暮らし方が広がる中で、世代をこえて使われるような伝統的な箪笥をつくり続けることへの若い人ならではのひりひりするような危機感があったのだと思う。

 この会の代表としてあれこれ考え、人に会ううちに伴野くんは変わっていったに違いない。あるとき「輪島の漆芸研修所に行って勉強し直します」と聞かされた。箪笥は堅牢さを追求しながら大きな面を均一に塗るような仕事だけれど、もっとたくさんの漆芸の技法を学んで繊細な仕事を極めたいという気持ちになったのだろう。 
 居酒屋を貸し切ったお別れ会には、30人か40人かとにかく大勢の人が集まり門出を祝った。私と伴野くんとのつきあいは限られたものだったし、暮らしぶりもよくわからなかったのだけれど、10年に満たない仙台在住の間にずいぶんと友だちをつくり、いろんな人に親しまれていたんだなあと、親戚のおばさんのような気持ちで人の輪の中にいる伴野くんをながめた。

 何かいい餞別はないだろうかと思案して、ああ、そうだと思いついたのは、宮城県北、鳴子温泉に残っている澤口悟一(1882〜1961)が製作した「猩猩の大皿」を見せることだった。この町出身の澤口は漆芸の研究に生涯を捧げた人で、集大成として昭和8年に著した『日本漆工の研究』は日本学士院賞を受賞した。東京美術学校時代、夏の休暇で帰省するたびに製作したというのが、直径120センチの見る人を圧倒するようなこの大皿である。結局在学中には仕上がらなかったというエピソードが残されている。鳴子には澤口の弟子となり、いまも塗師として活躍する小野寺公夫さんもいるから、その話も聞かせてやりたい。がんばれよの気持ちで、私の仕事のときに車に乗せて連れて行った。

 石川県立輪島漆芸研修所で5年、さらに小森邦衛の弟子となって4年。その間、どんな思いで何をつくり、どこをめざしてきたのかは私にはわからない。でも、作品展のパンフレットや工芸展のHPに掲載されている作品をみれば、細やかな目と腕を持つ自立した作家になったことが伝わってくる。私にはとうてい見えないものを見て、想像もできない道に分け入っているのだと思う。昨年暮れに送ってくれたパンフレットに載っていたポートレートはきびしい大人の顔だった。

 一度、人から譲り受けた2段重ねの弁当箱を輪島に送り修理を頼んだことがある。傷んではいたのだけれど、はげ落ちた漆の下はしっかりと麻布でまいてあるので、手入れをすればよみがえるかな、と思ったのだった。1年以上がたって戻ってきた弁当箱は見違えるようだった。漆の盛り方、蓋の縁の処理などに勉強ぶりがうかがえた。お節を詰めたり雛祭りの料理を盛ったり、伴野くんの顔を思い浮かべながら大切に使っている。ていねいに手をかけてつくったものを使うときは、蓋の開け閉めにしても使い終わって洗うにしても、使い手の扱いもおのずとやさしくなることを教えられる。

 伴野くんに限らず、これから塗師たちはどんな道を歩んでいくのだろうか。精進、献身…そんなことばを身の内に構えとしてつくられなければ、続けられない仕事だろう。見るたびに美しいと感じられ使用にも耐える暮らしの道具をつくる仕事でありながら、連綿とつながってきた技術をつぎの塗師へと手渡す使命も負う。考えれば考えるほど、かけることばが思いつかない。今日も塗り、明日も塗る。それ以外に道はないことを誰よりも知っているのは、彼ら自身なのだから。

 ところで、伴野くんは最近結婚した。おめでとう。よかったなあ。私は祝福しながら、やっぱり親戚のおばさんみたいにどこかほっとした気持ちでいる。彼の中のいつも静かな水面にも、ときおり楽し気な水しぶきが立っているだろうか。 

みね子のモダン本

璃葉

実家からもどる際、祖母のみね子が所有していた本をいくつかもらってきた。
明治・大正期の作家の初版本を昭和中期に復刻したもので、そこそこ貴重なものなのかもしれない。神保町の古本屋街でも同じものをたまに見かけることがあったが、そのたびに実家の畳部屋の隅に置いてある、みね子の古びた書棚が頭に浮かぶので、もはや私の脳内では“みね子の本”という位置づけでしかなかった。
実家整理中のいま、飾りのように並んでいるその本たちをなんとなく放っておけず、勢いで東京行きの段ボールに仕舞ったのだった。

東京の自宅アパートに戻り、段ボールからみね子の本を取り出す。
本はどれも二重函仕様で、本体はグラシン紙に包まれていた。グラシン紙はとても繊細ですぐに破けてしまう。でもこの薄くて脆い紙のおかげで、色褪せることなく良い状態に保たれているのだ。触るたびにぱりぱり鳴る乾いた音は嫌いじゃない。
慎重にグラシン紙をはずすと、表紙はずいぶん派手な朱色だった。ページも小口もヤケどころか汚れもなく、真っ白と言っていいほど綺麗で、自分が生まれたときにはすでにあった本であるのに、もしかするとほとんど読まれていなかったのかもしれない。汚してしまわないように、丁寧に扱わなければと再び慎重に函に戻すが、一冊一冊確認するたび、どうしても読み始めてしまう。
部屋いっぱいに雨の気配がたちこめる深夜2時、名だたる作家たちの文章に、さっそくページをめくる手がとまらない。

製本かい摘みましては (154)

四釜裕子

広辞苑を買った。3月末にいきなりテレワークが申し渡されて数日後、ひと月くらいで終わる感じではないし図書館も閉まったし、うちには広辞苑がないのでなんだか急に心細くなり、せっかくだから近くの本屋で買おうと出かけたら閉まっていて、悔しいけどネットで買った。翌々日、配送屋さんがピンポンを鳴らして「重たいものです」と届けてくれた。ここ最近はお互いのために「ボックス置きでお願いしまーす」と言うわけだけれども、生ものです、とか、大きいものです、とか、言ってくれるのだ。いつもありがとうございます。

前にあった広辞苑はその昔、高津駅前の新刊書店横の小道を入ってラーメン屋の隣の古本屋で函なしカバーなしを買ったのだったが、まだ営業しておられるだろうか。2年前に郷土史家の鈴木穆(あつし)さんを高津に訪ねたとき、落馬打撲とか腎盂腎炎とか急性難聴とかで何度もお世話になった病院が駅前をすっかり飲み込んでいてびっくりした。駅前の府中街道を右に数分、大山街道の交差点にあった名物店(骨董屋というかガラクタ屋というか目の前を通るバスやダンプぎりぎりに掲げるディスプレイと裸電球が絶妙)もなくなっていた。この店のことは写真家の鬼海弘雄さんが『東京夢譚』の「第13話 アルミの急須と愛の証」に書いている。しかしちょっと離れると以前のままの家並みもあって、当時の私は鈴木さんをはじめ近隣のひとと親しくしていたわけでもないのに、思い出すままに話すうちにこの町に懐かしく迎えられたような気になるのはいい気なものだ。鈴木さんが「タウンニュース」高津区版の創刊(1996.5.23)から22年9か月、1085回連載した「高津物語」は、『高津物語(上・中・下)』としてまとまっている。

さてその広辞苑は数年前の引越しで処分していた。第七版が出た2018年には自宅で紙の辞書を引くことはなくなっていたので買っていない。充電さえできているスマホがあれば、いつでもどこでも誰かと話をしているときですら、なんでもだいたい調べて分かった気になれる夢のような暮らしだ。しかし分からないことがあまりにもさっと分かるのから、そもそもその程度の分かる・分からないはどうでもいいんじゃないかとか、分かる・分からないにたいした違いはないんじゃないかとか、調べてるつもりが調べられてるだけだよって検索のむなしさにフッと気が遠くなる。それはたぶん、答えが一瞬で目の前に出るという登場のしかたにも問題がある。パッとあらわれるということはパッと消えるということで、実際なにもかもほとんどパッと消えている。

辞書で引いたところでパッと消えるのは経験的に分かっている。だけど、辞書は引くもの、調べるものというよりは読むものだなと今は実感できていて、だからそれはパッと消えてもいいんじゃない、とも思える。いまだ広辞苑に「新村出編」とある理由を聞かれた岩波書店辞典編集部の平木靖成さんは、〈国語辞典でありながら百科事典も兼ねて一冊本を作るというコンセプトからずれたら『広辞苑』とは言えないので、そのベースを新村先生が作ったという記念として将来もはずせないものだと思います〉(ブクログ通信 2017.11.30)と言っていた。姉に初めて辞書の使い方を教わった日を思い出す。姉の赤い国語辞典を借りて何か言葉を引いたのだけれど、説明に書いてあることがまた分からないのであった。すると姉が「それをまた辞書で引くんだよ」と言う。あっちをめくりこっちをめくりすればいつか分からないことがなくなるということだった。すごいと思った。ただし、それは辞書ではなくて教えてくれた姉がすごいと思ったというのがかわいいところ。しかしあの異様な驚きがこのタイミングで蘇ったのは意味があるかもしれない。

広辞苑のつくりをじっくり見てみる。外函にうっすら浮かび上がるのはオーロラの写真か。辞書本体と付録の冊子も入ったこの函ごと全部で3.3kg。本体の厚みは8cmある。表紙カバーの紙はごく淡いクリーム色で、全体にマットな黒を引いて文字と岩波書店の種まく人のマークを紙色に抜いてある。表紙のクロスは、はなだ色と言っていいのかな。背に銀箔でタイトルなど。そして、実は今回初めて気付いたことがある。背に、安井曾太郎による白鷺に葦とさざなみ(かな?)の絵柄が浮き出ているのだ。背の凸凹には気付いていたけど、使い古してノリが浮いた跡とばかり思って気にしてじっくり見たことがなかった。見返しは灰色。扉は、表紙カバーの紙色に近い淡いクリーム色で、見返しの紙に近い灰色と錆色の2色で枯れ木立ち風の絵とタイトルがある。

本文紙は扉に比べると少し赤みがある。刊行時に特に話題になった「ぬめり感」を確かめてみる。自分の指と紙の関係のぬめぬめもさることながら、この薄い紙どうしの関係におけるぬめぬめがすごいと感じる。実は今、いっときのトイレットペーパー不足により紙問屋の店頭でようやく買った一枚仕立てでかたく巻いてあるタイプを使っていて、なかなか気に入っているのだけれど残り8分の1くらいになると巻きがうまくはがれてこなくなるのだ。トイレットペーパーよりずいぶん薄い広辞苑専用の本文紙も抄紙後は巨大トイレットペーパー状になっていたわけで、ひとロールどれだけの重さになるのか、それがみなすっとむけるとはなんてすごいことだろうと、思うのであった。

広辞苑の本文紙が特注品である理由も刊行時に話題になった。製本の機械が厚み8cmまでしかできないので、より多くの項目を入れるためには紙を薄くするしかない。開発に5年。結果、第六版から1万項目追加で140ページ増えても厚みは8cmにおさまった。第七版の140ページで5mm弱あるから、そうとう薄くなったと考えていい。薄いと透けるが、それではまずい。不透明度を高めるために「酸化チタンがまぶされた」という表現を当時のニュースで読んだ。開発した王子エフテックスのサイトを見ると、不透明度を保つポイントの一つは〈紙の中に填料を留める技術〉。流れ出ないように定着するということだ。それと、通常は抄紙の際に上から下の一方向に脱水するのを両側から行うなどして、鉱物である填料が偏らないようにするそうだ。版元がこだわるぬめり感(静電気で指にまとわりついたり、次のページが一緒にめくれたりせず、快適にページをめくっていける絶妙な触感)は、特別なコーティング材のたまものらしい。

5月25日は1955年の初版の発売日で、「広辞苑の日」として毎年誕生日を祝っているそうだ。昨年、DNPプラザ(DNP=大日本印刷株式会社。初版から秀英体で広辞苑を印刷)で開かれた「広辞苑大学」では、初版1冊分の清刷(組版を印刷したものを撮影して5分の3に縮小したものを製版としてオフセット印刷。片面印刷なので5冊に分けてある)や、コピー用紙で作った「広辞苑のコピー本」を展示したり、刷り出しで缶バッジを作ったりしたようだ。今年は静かに誕生日を迎えたのかな。遅ればせながら、7度の全身改造を経た65歳に羨みと敬意を表しつつ、第七版に記された装丁に関わる表記のいくつかをここに抜き書きしてみます。

『広辞苑 第七版』岩波書店

扉裏)
装幀 安井曾太郎

p1618)
せいほん【製本】原稿・画稿・印刷物・白紙などを糸・針金・接着剤などで綴じて表紙をつけ、小冊子・書籍などに形づくること。和装本(和綴じ)・洋装本(洋綴じ)に大別→装丁(図)

p1695)
そうてい【装丁・装釘・装幀】(本来は、装(よそお)い訂(さだ)める意の「装訂」が正しい用字。「幀」は字音タウで掛物の意)書物を綴じて表紙などをつけること。また、製本の仕上装飾すなわち表紙・見返し・扉・カバーなどの体裁から製本材料の選択までを含めて、書物の形式面の調和美をつくり上げる技術。また、その意匠。装本。
*付されたイラスト〔装丁〕には「角革・平(ひら)・角・地(罫下)・ちり・しおり・耳・背・溝・平の出・みきり・天・小口・扉・花ぎれ・のど・見返し・カバー・帯紙・遊び紙・見返しの遊び」が記される。

p1699)
そうほん【装本】本の表装。装丁。
ぞうほん【造本】書物の印刷・製本・装丁、また、用紙・材料などの製作技術面に関する設計とその作業。

p2569)
ブック【book】(略)―・デザイン【~ design】本の、装丁から本文の書体まで全般にわたるデザイン。(略)

p3185)
後記
(略)
 装丁は初版以来、安井曾太郎氏の手になるものである。外函の写真はInmagine123RF株式会社のお世話になった。(略)
 大日本印刷およびDNPメディア・アートの方々にはコンピューターを駆使した編集資料の作成と組版・印刷において、王子エフテックスの方々にはより薄く高品質の本文用紙の開発・抄造において、牧製本印刷・松岳社の方々には堅牢で使いやすい造本において、多大なるご尽力をいただいた。
(略)

奥付裏)
本文用紙 王子エフテックス株式会社
表紙用クロース ダイニック株式会社
見返し・カバー用紙 特種東海製紙株式会社
本文製版 株式会社DNPメディア・アート
本文印刷 大日本印刷株式会社
扉・函印刷 株式会社精興社
製函 株式会社加藤製函所
製本 牧製本印刷株式会社

マスクドットコム★2020

北村周一

ほんのりとマスクの表に色づくは神の絵すがたはたまた黴か
 
煩雑な経路をたどりゆくゆくは届くのであろう配給マスク
 
舌の根も乾かぬうちにあらたなるウソが飛びだす マスクを伝い
 
かの総統の手口にまねぶ男ありて一に恫喝二に布マスク
 
嘘と狡とマスク二枚が束ねられ 民をあざむく手口の暗さ
 
ほんとうのことは言わない(言わせない)マスクつけても嘘は飛びちる
 
減らず口かくすためある愛用のガーゼ・マスクはいつも新品
 
マスク越しに交わす挨拶ぎこちなくじゃあまたねとはいえない死角
 
目には目を口には口をほころばせマスクしててもあすは満月
 
いろいろのマスクさまざまにあることもちょっとうれしいこのよのじじつ
 
薄っぺらなコトバゆき交う初夏の カメラ止まればマスク脱ぐかれ
 
マスクの声てぶくろの手に交わりはことば少なにレジを離りぬ
 
顔の上の白いマスクに護られて足に蹴散らすさくら花びら
 
粛粛とマスク購う人つける人脱ぐ人ありてそを拾う人
 
捨てマスク顔のかたちにひらきしを風が舞い上ぐ天までのぼれ
 
マスクから目鼻耳くち脱ぐように両のてのひら浄めいるなり

山本久土がいい!

若松恵子

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、ライブハウスが営業できない。
ライブハウスを回って直接音楽を届けることをしていたミュージシャンは全く仕事ができなくなってしまった。文字通り、手の届く距離で唄っていた、その魅力に支えられていた仕事が全くできなくなって、どうしたものかというまま4月、5月が終わる。

山本久土(ひさと)は、PHEWがボーカルを担当するMOST、遠藤ミチロウとのMJQ、羊歯明神のギタリストで、自身もギター1本で歌う。MJQでも羊歯明神でも、1本のギターで分厚いサウンドを作り出していて、リードギターもセカンドギターも、ベースも1人でやってのける、ギタリストとしての凄さがまずあったのだけれど、ミチロウが亡くなった後は覚悟が決まったのか、歌にも磨きがかかった感じだ。率直に自分らしい歌い方で、ミチロウの曲が歌い継がれていることに魅力を感じる。

演奏することは、収入の面だけでなく、自分の生活の軸としても必要なことなのだろう。ライブハウスの協力で、無観客ライブの配信をしていて、これがなかなか良い。
ラモーンズみたいな髪型(前髪がうっとうしく伸びていて、目を覆い隠している。早く床屋に行きなさい!と叱られる髪型)で、ギターをかき鳴らし、歌う。
配信でがまんしておこう、というレベルではなく、配信でも十分いいのだ。
画面のこちらから拍手を送りながら見ている。
こんな時だから歌いたい歌、歌われるべき歌が演奏されている。
先日は、高校生の時以来だと言って、RCサクセションの「あきれて物も言えない」がカバーされた。

どっかのヤマ師が オレが死んでるって言ったってさ
よく言うぜ あの野郎よく言うぜ
あきれて物も言えない

ところが おエラ方 それで血迷ったか
次の週には 香典が届いた
前の土曜日にガンバローって乾杯したばかりなのに

オイラ その香典集めてこうして遊んでるってワケさ
ますます 好き勝手な事ができる
さあ オマエに何を買ってやろうか

ヤマ師が 大手を振って 歩いてる世の中さ
汗だくになってやるよりも 死んでる方がまだマシだぜ
「あきれて物も言えない」(作詞・作曲 忌野清志郎)

この曲を今、選んで歌う山本久土はいかしてると思う。

ゴジラの逆襲(晩年通信 その11)

室謙二

 私は科学少年であった。
 鉱石ラジオと、星座早見盤の少年であった。
 読むものは「子供の科学」に「初歩のラジオ」(いずれも誠文堂新光社)、それと「模型とラジオ」(科学教材社)かな。
 科学少年という言葉が、今でも一般に使われているのだろうか?
 使われていたとしても、私が子供だったころ、1950年代の中ごろとは違うだろう。あの当時、少年にとっては科学が万能の時代だった。科学が世界を変える、科学が世界を救うはずだった。鉱石ラジオ少年は、いま風に言えばテック少年だが、その「未来の科学」に参加していたのである。
 鉱石が高周波を低周波に検波して聞こえるようにする「鉱石ラジオ」が、少年にとっては大変なテクノロジーであった、といっても単純なもので、部品数はいくつかしかない。全部が目に見える形で触ることができた。いまのテックと違って、自分で作ることもできた。鉱石ラジオには、電源(電池など)は必要ない。しかしまずアンテナが必要だ。木に登って電線を引っ掛けてアンテナとした。次はアースである。庭の土を掘って水を注ぎ込み、そこに金属片を差し込む。それにつないだ電線を、アースとして鉱石ラジオにつなぐ。ドロンコである
 このアンテナとアースがないと、かの鳴くような音のラジオさえ聞こえない。イヤホーンは、耳に差し込むタイプのクリスタル・イヤホーンだった。
 エナメル線を買ってきて、紙の筒にコイルを巻く。雑誌に何回巻くとか全部書いてある。コイルに並列にコンデンサーをつなぐ。並列と直列のつなぎ方がわからない人は、困ったなあ、でも説明しない。コンデンサーがなにかも説明しないけど、これがバリコンでなくて固定の値のものだと、コイルからタップを出したり、表面をけずって電線で触ってコイルの値(インダクタ)を変えないと、周波数を変えられないね。周波数の仕組みがなんだって?ああ、絶望的だ。
 こういう単語がわからない人には、全部が「ギリシャ語」であろう。という言い方は英語で、It’s Greek to Meで、日本語だとチンプンカンプでわからない、という意味だ。だけど続ける。

宇宙競争がスゴイ

 わからない人がいる反面、私なんかこういう昔の「テック」の話をするとうれしくなる。ああいう時代があったのだなあ。
 バリコンてなに?バリアブル(可変)コンデンサーのことで、言葉で説明するのが難しいので写真を添付した。もっともこのバリコンは古典的なもので、もう使っていないだろうね。今ではもっと小さくなって、金属の間にポリエステルをはさんでポリバリになった。それに対応して、写真の古いバリコンは、素朴に空気バリコンと呼ばれていた。
 子どもたちにとって、科学が万能に思えたのは、ソ連が一九五七年の冷戦時代に最初の人工衛星(スプートニク)打ち上げて、世界中が驚き、アメリカはソ連に先を起こされて大騒ぎになったからでもある。一九五八年にはアメリカでNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立された。アメリカの子供の科学教育・数学教育が大きく立ち遅れているというので、新数学(New Math)カリキュラムが始まる。ずっとあとで、数学者・人工知能の専門家のシーモア・パパート(MIT)さんと仕事をしたとき、この新数学カリキュラムが教育現場をどのように混乱させたか教えてくれた。それまでは、アメリカの女子は数学はやらなくてもよろしい、「家庭科」をやっていないさい、だったそうだ。日本の女の子は受験勉強で、男子と対抗して難しい数学を勉強している。と言ったら、パパートさんは驚いていた。
 ソ連とアメリカの間で宇宙競争がはじまった時に、日本の子供はそれを見て「わー、スゴイなあ」ということになったのである。というわけで、バリコンの模型ラジオ少年は、ボール紙で筒を作り、両端にレンズをいれた手製望遠鏡と星座早見盤の宇宙少年にもなった。

 光年という単位にも驚かされた。
 光が飛ぶ、移動するのに、時間がかかるということも信じられなかった。しかし科学は、光の移動には時間がかかるという。そしてその光が一年間飛ぶ距離が「光年」という単位だと知ったときは、うーん。それは想像を絶する距離だ。
 Googleの光年のページによれば、光が太陽から地球まで飛んでくるのに八分かかる、太陽系にもっとも近い恒星は、太陽から四光年の距離だそうだ。わが銀河系の直径は十万光年で、アンドロメダ銀河までは250万光年だそうだ。つまり私たちがいま見ているアンドロメダ銀河は、250万年以前のモノ(光)である。地球から観測可能な宇宙のはてまでは457億光年である。宇宙少年の私は、こういう数字を知って、夜空を見上げていたのである。
 その宇宙に向かって、ソ連とアメリカのロケットが飛び出す。と言ってもまだ宇宙の手前でウロウロしているにすぎない。いま地球からもっとも遠くにある、人間が作ったもの(ボイジャー一号)が、地球から一光年の距離まで行くには一万8000年かかるというのだから。観測できる宇宙の端までボイジャーが飛ぶには、一万8000千年の457億倍かかる。
 片手に鉱石ラジオをもち、片手に自作の望遠鏡をもっていた私は、科学はスゴイなあと思っていた。鉱石ラジオは蚊の鳴くような音をかなで、夜空を見上げれば、457億光年が広がっていたのである。

ゴジラの登場

 ところがそこに、ゴジラが登場する。
 人間の作った都市と、人間が使う科学を破壊する。口から火炎のような白熱光・放射線を発するのである。スプートニクとかアメリカのへなちょこ人工衛星など問題ではない。人間の文化を破壊する怪物である。
 もっとも最初のゴジラ映画は、スプートニク(1957年)以前の1954年に始まっている。1955年に第二作の「ゴジラの逆襲」、七年後の1962年に、三作目「キングコング対ゴジラ」で日米対決となる。科学万能の科学少年は、科学に立ち向かうゴジラに唖然としたが、バンザイ、ゴジラも頑張れであった。
 ゴジラ映画の直接の引き金は、第五福竜丸事件であった。1954年のアメリカのビキニ諸島での核実験のときに、アメリカの指定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸は放射性降下物「死の灰」を浴びて半年後に無線長だった久保山愛吉が死亡、大事件となった。
 ゴジラはジュラ紀(一億五千万年ほど前)の生き物であったが、海底洞窟で生きていたのである。アメリカの核実験で洞窟が破壊され、放射能で性格も変化して獰猛になり、口より白熱光=放射熱線を発するようになった。この怪物が東京にやってくる。破壊につぐ破壊である。1954年のゴジラ攻撃は、アメリカ軍による東京・大阪への民家への無差別爆撃、長崎・広島へ核攻撃の九年後の出来事だ、都市の破壊のシーンは、当然おおくの人びとに戦争による被害を思い出させたであろう。
 しかし今回は、それに対して科学で対応する。水中の生物をすべて破壊する化学物質を発明した科学者が、それを使ってゴジラを殺す。同時にその科学者は、発明に関するすべの資料を破棄して、それを発明した自分自身をも殺して、地上からその化学物質の危険性を消し去る。
 ゴジラは、科学によって殺されるのだが、同時にこの映画は、科学というものがどれほど危険であるかも伝えようとする。何十年ぶりにインターネットで、オリジナルの「ゴジラ」を見たがよくできている。感心した。

 いまはコロナの時代である。ところがコロナは、まだ科学でコントロールできないらしい。
 ワクチンもなく、治療法も確立されていない。
 でもコロナが、科学によってコントロールされる時期はやってくる。
 ゴジラは科学(核実験)に怒って立ち上がったが、科学によって殺されてしまった。コロナも科学によって殺されるだろうが、だけどゴジラもコロナも、また必ずやってくる。
 二作目の映画「ゴジラの逆襲」(1955年)があるので、すぐ見ないといけない。昔の科学少年は、いまだに科学少年(科学老年)でもあるが、ゴジラに共感をよせる科学批判老年でもある。

新しい目覚め

笠井瑞丈

私には二人の兄がいます
長男は写真家
次男はオイリュトミスト
三男私はダンスをやってます

三人集まってお酒なんかを飲み交わす
よく喧嘩に発展することもありますが
そんなに悪い兄弟関係ではありません

次男とはエレキギターを弾くという共通の趣味もあり
そして家も近いとういうこともあり
二人でたまにジャムセッションをしたりもします

彼は日本の高校を卒表してから
ドイツのオイリュトミーシューレに行き
オイリュトミーを学んで日本に帰国しました
今は学校でオイリュトミーを教えています

そして彼の奥さんというのは私がダンスを始めた頃からの古い友人で
私は彼より先に奥さんとは知り合いでした
まさかその後結婚するとは当時思ってもいなかったので
人と人の出会いは不思議なものだ

彼の奥さんはもともとはダンスをしていて
自分のグループも持って活動していました
その後オイリュトミーの勉強も始め
今はダンスそしてオイリュトミー
二つの分野で活動をしています

そして私の奥さんもダンスをしています
そして彼女もオイリュトミーを学び
二つの分野で活動をしています

こんなに身近に舞台活動をしている人が
三人もいるとはこもまた不思議なものだ

そして父も舞台を生業としているので
父を含めると一家五人が舞台人です

父とは仕事をする事はありますが
兄夫婦とは今まで一度もありません

こんなに近くいるのに共に作品作りをした事は一度もありません

作品を作ろうと思うには
二つのきっかけがあります
一つは誰かに依頼されて作品を作り始める場合
一つは自発的に自分から作品を作ろうと決意する場合です

どちらの場合も嬉しい事です

でも

二つの性質には違いがあります
外から始まりを作ること
中から始まりを作ろこと

私は何か新しいダンス作品を自発的に作ろうと思うきっかけは
街でばったり昔の友人に会った時に得る感覚と同じようなもので
この感覚が生まれた時に新しい作品を作ろうと決意します

この感覚はとても私は好きです
この時にダンスをする喜びを感じます
何かが頭の中で泡のように膨らんでいき
作品を作ろうと思う瞬間に出会うのです

これは長い眠りから覚めるのと同じで
時に数年眠り続けることもあります

新しい目覚め

2020年7月31日金曜日
2020年8月7日金曜日

『世界の終わりに四つ矢を放つ』
神楽坂セッションハウス
構成 演出/笠井瑞丈
出演 振付/笠井瑞丈 笠井禮示 上村なおか 浅見裕子 笠井叡

新しい作品を発表します

どうぞよろしくお願いします

187 汚職

藤井貞和

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰ってきません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたはこころに従いました。

むずかしい時代になると、
けがれた手で書いて、
もっとだめにしました。

汚れた言葉を遠慮せよ、
だれもが父に言いました。

怒りで汚れたこころを、
ぼくはうたいますか。


(おとうさん、50年が経ちましたね。だめなぼくは50年、自粛に明け暮れてきました。)

オンライン授業

植松眞人

 非常勤講師をしている大学のオンライン授業を担当することになった。新型インフルエンザが世界中で大流行してから一年がたった。
 すでに世界はそんな感染症の流行などすっかり忘れいてるけれど、いまだに世界地図の片隅にある名前も知らない国で、急に集団感染があったり、国内でもふいに有名人の感染が報道されたりする。ただ、すでにワクチンが開発されているので、以前のようにテレビの報道も恐怖心を煽るようなことはなく、淡々としたものにとどまっている。
 パンデミックと言われる大流行は、世界中の経済活動を停止させて、私たちの生活を一変させた。本来なら、そのままじっと息をひそめて感染症が感染する先をなくしてしまうのが賢明なのだろうと思うけれど、世界中の首脳陣はその道を選ばず、感染症を抱えながらも経済活動を再開する道を選んだ。お金こそがこの世界の血液なのだということをみんなが再確認し、お金の前には誰もが黙り込んで通勤電車に乗り込むしかなかったのだ。
 しかし、自宅で仕事をすることが実は可能なのだと知ってしまった人たちは、朝の通勤電車に無自覚に乗っているわけではなかった。虎視眈々と会社組織に属しながらも、テレワークを再開するための根回しを始めていた。
 私が働く大学というところは、パンデミックの間、オンライン授業という新しい道を見つけることで、学生からの授業料返還要求を最低限に抑えることができた。オンラインだけれど授業はちゃんとやっている、という事実には学生も世間も、学校も被害者なのに頑張ってくれている、ということが伝わったのだった。
 同時にオンラインなら学校の施設をほとんど使わずに、学校のブランドだけで新しい商売を始められるのだということに気がついたのだった。いま、私が担当しているオンライン授業はいわゆる大学生のためのものではなく、社会人に向けた一般教養の講座だった。これまで「社会人のための大学講座」として開講していたものをパンデミック時に整えたオンライン授業のインフラで行おうという商売だ。今回のウイルスは高齢者にこそ感染しやすいらしいという情報もあり、高齢者をあまり外に出したくない、という家族にもアピールしたらしくどの講座もすぐに満員になってしまうらしい。私が担当する講座は「メディアと社会」という不要不急を絵に描いたような講座なのだが、それでも半期の一度の募集はすぐに二十人の定員一杯になり、半年間脱落者がほとんどいないらしい。
 この講座も元々は大学の一室で直接対面で行っていた講座だが、その時よりも人気が出て、そのおかげで私の首もギリギリで繋がっていると言ってもいいだろう。オンライン授業はやりにくいとか、文句を言っている場合ではないのである。むしろ、ありがたい。そして、回数を重ねていると、だんだんオンラインでのやり取りも面白くなって来たのである。
 オンライン授業の面白さは、一人一人の受講者との距離がほぼ同じだということかもしれない。距離的にも参加者が小さな格子状のマス目の画面の中に一人ずつ並び、誰かが発言するとその画面が大きく表示される。声が小さいから印象に残らない、ということもない。表情でアピールされなくても、キーボードのボタンを押すとその人に発言権がいく。そんな今までにない感覚が面白い。そう思い始めると、私はオンライン授業にはもっとたくさんの可能性があるのではないかと思い始めた。
 ある日、受講生の一人が映っている一マスが大きく揺れた。大丈夫ですか、と声をかけるとそこに映っていた年配の女性が、スマホが倒れたんです、と答えた。最近、パソコンを持っていなくてスマホで参加している受講者が多いとは聞いていたので、なるほど、と私は言って淡々と授業を進めた。しかし、ふと思ったのだ。メディアと社会などという講座をやっているのなら、例えば、それぞれの受講者が発信してくるような内容も面白いかも知れない、と。そう思うといても立ってもいられなくなり、私は先ほど画面を大きくゆらした女性に、オンライン上から呼びかけた。
「いま、家の中ですか?」
 私がそう聞くと、女性は少し驚いた様子だったが、
「はい、そうです」と答えた。
「ちなみに、あなたのスマホもメディアのひとつですね」
「どういうことでしょう」
「いま、あなたはこちらからの情報を受け取っているのだと思いますが、私からするとあなたの映像という情報を発信されているわけですから」
「なるほど」
 女性がそう答えて笑うと、その周囲のマス目の中からも一斉に受講生たちが笑いかけてきた。
「例えば、あなたの部屋から見える窓の外の景色を見せてもらえますか」
 私が言うと、女性は少しだけ手間取ったあと、窓の外を映した。青い空が見えた。私がいる大学の部屋にも小さな窓があり、青い空が見えていた。ああ、空は繋がっているのだなあと思った。すると、他の何人かの受講生も窓の外の空を映し始めた。パソコンのカメラを空に向けたり、なかにはパソコンからスマホに切り換えてわざわざ空を映す人もいた。受講生は二十人程度なのだが、そのうち、私のデスクトップのパソコンにある二十のマス目に様々な色の空の映像が並んだ。
「ああ、メディアと社会ですね」
 私はそうつぶやいていた。
 そうつぶやいてから、こんな叙情的なものに流されていてはいけないと気持ちを引き締めてみようとしたのだが、その弾みに私は涙を流していた。一人だけ、デスクトップのモニターのなかに顔を映していた私が泣いていた。青空に囲まれながら泣いている私はとても美しかった。(了)

楽園

越川道夫

「いや、世界は残る。…失われるのは、ぼくらのほうだ」
           エドワード・アビー『砂の楽園』
 
家と仕事場を往復して引き籠る生活をつづけている。決まった道を通り、決まった道を帰ってくる。誰が決めたわけでもないのに。このような日々の前は、少しはいつもと違う道を通って、とか、少し遠回りをして、とか考えたはずなのに、それをするのもすっかり億劫になっている自分に気付く。それでもと自分を励ましながら遠回りをしてみれば、塀のわずかな隙間という隙間からドクダミが顔を出し、花の咲く頃は壮観だった古い家は跡形もなく取り壊されて、そこは更地になっている。あんなに茂っていたドクダミもすっかり抜かれ、庭木も根こそぎ倒され、家であったはずの瓦礫の間に横たわっている。テニスコート脇の路肩の土が剥き出しになったところにアザミが覆い茂っていて、それを見るのを毎年楽しみにしていたのだが、そこも何の工事が始まるのかすっかり白い塀で囲われ踏み荒らされてしまった。街路樹はばっさり切られ、どういうわけか切り口がコンクリートで固められている。川岸の草むらを、草刈機が唸り声をあげて刈り払っていく。
 
なんだか痛々しい気持ちになってしまった。
ある時、借家の小さな庭をひと夏伸ばし放題に伸ばしたことがあった。植えたものも自然に生えてくるものも。ヘクソカズラやヤブカラシ、ゴーヤと言った蔓の類は庭木を覆い尽くし、その下で隠花植物たちが繁茂した。蝶がその上を飛び、ヤモリやヒキガエル、ニホンカナヘビが徘徊する。そんな庭の姿は、なんというか「楽園」だった。そうとしか言いようがない。
 
卒業した中学校の昇降口の脇に大銀杏があった。「あった」と書いたのだから、今はもう「ない」。その大銀杏は、太平洋戦争の前、その場所に高等女学校があった時からあった、と祖母に聞いた。祖母はその女学校に通っていた。校舎は焼けたが、樹は戦災を奇跡的に免れ、女学校だった場所に新制中学校ができても、樹はそこにあった。父や叔父叔母もその樹のある学校に通った。わたしがその中学校に通った頃は、大銀杏は昇降口の脇にあり、生徒はその樹に迎えられるようにして通学した。校舎は、どう考えても樹を避けるようにして建てられていた。大銀杏はその校舎に通う子供たちを見守るようだった。それからずいぶん時が経ち、近年、その中学校が小中一貫校になることになって全面的に校舎が建て替えることになった。しかし、もう人々が樹を避けることはなかったのだ。大銀杏は伐られ校舎は建てられた。
 
2015年に奄美で映画の撮影をしていた。9月の奄美は、本土では聞くことができない、キュアンキュアンというようなオオシマゼミの声で溢れかえっていた。奄美に育った島尾伸三さんが、幼い頃夏に外で友達と話していて、蝉の声があまりに大きくて友達の声が聞こえなくなることがありましたよ、と話してくれた。その蝉の声をマヤ(島尾さんの妹)はとても怖がっていました、とも。
そんなオオシマゼミの声の中で、私たちは撮影した。ラブシーンの撮影の最中、奄美の固有種のカエルが鳴いた。なんというか、ゲロゲロではなく、ブヒッというような声で。甘いラブシーンの中で突然響くその声は笑ってしまうような、ラブシーンの興を削ぐような声だったけれど、わたしたちはその声をそのままにした。やはり夜の撮影でカメラのレンズを一瞬、照明に寄ってきた巨大な蛾が覆ってしまった。さすがにNGになったのだが、そのことに南の島で育った老優は激しく怒った。これが島だ。本土で撮ってるんじゃないんだ。なぜ今のがNGなんだ。
音の仕上げをするダビングルームでも、わたしは何度か声を荒げた。なぜドラマの都合で、人間の勝手な都合でカエルや蝉を鳴かせたり、その声を消したりするのか、と。蝉は蝉の都合で鳴く。カエルはカエルの都合で鳴く。あの島で、何を聴いてきたのか。映画の撮影中、ヒロインが夜の縁側で島の唄を歌い始めると、森の闇の奥でコノハズクが鳴き始めた。一頻り歌い、鳥は鳴き続け、歌い終わるとコノハズクも鳴き止んだ。バラバラに有るものが一瞬唱和した、そんな瞬間もあったのだ。
 
夜、雑木林の横を通って仕事場から帰る。
その雑木林を抜けたところには縄文時代の遺跡があって、この雑木林がその時代ずっと続く林だということが分かる。夜になると樹樹は一層鬱蒼として見える。風もないのに波打ち、ざわめいて私語をしている。
彼らは彼らとして、そこに在る、と思った。
枝と枝の闇からコサギがこちらを見つめている。

音楽の気象と感染力

高橋悠治

コロナ・ウィルスの見えないはたらきのなかで 音楽のかたちが変わていくだろうか オーケストラやオペラのような多くの人の集まりは 疫病のときにはできないといって オンライン会議システム ZOOM でバラバラの空間とずれた時間をあわせて コンサートの代用にするというレベルではない もっと大きな変化が起こるのか 

世界にひろがる感染症のあと 今のような社会がそのままで 以前の姿にもどるのか そうでなければ ファシズムや 相互監視の息苦しい社会になるのか その兆しはじゅうぶん見えているが 方向はそれひとつではないだろう 混乱がつづくにしても いまの社会はいずれは崩壊して 予想をこえたかたちが現れてくるのだろうか

音楽を見えないはたらきと言ってしまえば これもウィルスのように感染力をもっている 楽譜や演奏の動画はその仮の現れで うごき 変化する振動は そのたびにかたちを変え はたらきも変わる

音のうごきを組織するのが いままでの演奏論であり 作曲論だった うごこうとする意志が 動きを作り その瞬間 音がはじまる その動きを制御している時間が音の長さになり リズムは数えられ 音符として見えるかたちで組み合わされるが 音符は音のはじまる瞬間と持続を管理する手段で 楽譜を通して 作曲し演奏する能力がある人間が 音楽を使うことができる そこに社会的な意味が生まれるなら その意味は いまの社会を管理しているエリートの意志にしたがっているとも言えるだろう

鳥が鳴き声で自分の領域を主張するように 人間の音楽も意識しないでも 社会を支配する者たちの意志を伝えてしまう 

と書いていれば 書いたことばが論理を組み立てて かってにうごいていくだろう ことばを意味や論理の支配から自由にすることは 無意味な音や文字の組み合わせにもどさなくても できるかもしれない 世界を映すだけでなく まだない世界を夢みる 意識にしばられない組み合わせが 浮かんでくるかもしれない

音楽でも 20世紀の実験とはちがう さまざまなかたち というか まだかたちにならない断片を とぎれとぎれに 撒き散らしておくほうが いいのかもしれない

ティム・インゴルドの区別を借りれば 音をつらねる線の物語から 響きという痕跡へ 意志をもった発音から 耳元に囁きかける 途切れがちの記憶の表面 その気象学へ