新しい言葉

笠井瑞丈

言葉を書く
言葉を発る

私にとっては
避けることが
出来るなら
避けたいと
思うことの
一つです

人前で何かを発言する
何かを言葉に残す事は
発した言葉
綴った言葉
永遠に時間の中に溶け
空間の中を彷徨い続け
残ってしまう

出来ることなら
そんな責任は負いたくない

そんなこともあり
わたしは小中高
学級委員やほか
人前に出る行為
発言しなければいけない
立場にはならないように
いつも注意してきました

だから踊ることは
喋る必要が無いので
物書きや役者をやるより
自分には都合が良かった

そんな私に水牛通信に
毎月なんでもいいので
何か書きませんかと
お話を頂いた時

なんで私なんかに
執筆のお誘いが来たのだろうと
正直びっくりした

でも

苦手なことをやってみようと
書き始めることにした

毎月15日過ぎたあたりから
今月は何について書こうかと
構想を練って
20日過ぎから
少しづつ
少しづつ
書き始める

いいリズムで書ける時と
全く言葉が進まない時と

やはりコンディションはあるものだ
今月は全くもっていいリズムではない

進まない
困っている
締め切りは明日

苦しみながら
何かを生み出すのは
踊りの作品を作るのと同じだ

今回はこのくらいにしよう
また苦しみはやってくる

新しい言葉を体得しよう

188 記号論

藤井貞和

がっこうのうしろはがけになっています。
わたくしたちはていこうできませんでした。
澄子がまっさきにがけから落ちていったのです。
よう子がそのあとを追うみたいにして、
ずるずる見えなくなりました。
ひろしは自分から落ちたみたいでした。
弓子とひろみとは手と手とを取りあって落ちました。
邦雄はそのばにたおれてうごきませんでした。
あとはだれが落ちたのかよくわからなくなりました。
けっきょく、全校で不明が33名、負傷83名、
逮捕者は42名でした。
お昼までに女生徒8名が釈放されました。
わたくしたちは未成年者ですから、
新聞ではみなAとかGとか、記号で呼ばれます。おわり
 
(思想の初版をひらくと、記号のおわり。きっとどこかで待っている、見者にはそれが見える。)

うれしくて笑い出しそう(晩年通信 その12)

室謙二

 そのころはB29爆撃機が飛んできても、それに対抗する戦闘機はもうなかったのだね。高射砲も爆撃で破壊されていた。B29はゆうゆうと飛んできて、木造建築を焼き払う焼夷弾を落としていった。
 私の父親は、鉄筋コンクリートの江戸川アパートの中庭に出て、B29が飛んでいる空を見上げていたらしい。
 空に爆弾が振りまかれて落ちてくる。その一つが、父親の立っているところに向かって落ちてきた。父親は江戸川アパート四組の入り口に飛び込む。爆発がおこり、入口階段の石壁を焼き焦がし、一階の我が家の窓を破壊して、積んであった本の一部に火がついた。父親は火のついた本に、どんどんと水をかける。こうやって父親が大事にしていた英語の本は、水浸しになった。
 これは敗戦の年、1945年(昭和20年)の5月のことだっただろう。すでに東京は、三月の大空襲で焼けて平らになっていた。鉄筋コンクリート六階建ての江戸川アパートは、その焼け野原に建っていたのである。

 焼夷弾は、我が家の窓の下にあった鶏小屋を直撃した。そして三羽のニワトリは、跡形もなく消滅した。ニワトリにはそれぞれ名前がついていて、オス鶏の名前は権兵衛でみんなに愛されていた。だが鶏たちが直撃弾によって跡形もなくなり、食糧難のおり大切な関白質であったタマゴを、食べることができなくなる。
 その爆撃で庭に開いた穴を、私は覚えている。私が生まれたのは1946年の1月だから、爆撃の八ヶ月あとであとだが、穴は何年も埋められることはなかった。そしてその横にまた新しい鶏小屋が立てられて、鶏たちが毎朝わたしたちにタンパク源を供給してくれていた。まだ温かなタマゴを取りに行くのが、私の朝の仕事であった。

アメリカに来たのね

 私には十二歳年上の兄と、十六歳年上の姉がいる。爆撃の時、兄は学童疎開で東京にいなかったが、姉は工場に働きに行かされて、軍需品を作っていた。学校の授業はもうなかった。5月の空襲のとき、父親は娘は工場への爆撃で死んだと思った。軍需工場はいつも狙われていた。そんなところに、軍部は十代中頃の娘を働きに出す。しかしその工場への爆撃はなく生き延びたのである。
 何十年もあとに、私は姉と一緒にハワイに遊びに行った。姉はフラダンスとウクレレをやっていて、ケンちゃんいっしょにハワイに行こうと私をさそった。連れて行ってくれ、ということだった。
 ホノルル空港で、乗り換え便を待ってベンチに座っていると、「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」とうれしそうにいった。彼女の上に爆弾を振りまいていた、敵国アメリカについにやってきた、ということだった。
「ケンちゃん、お姉さんは怖くて怖くてね、B29の爆音が遠くから聞こえてくるでしょ。最初のころは高い高度だったけど、最後のころは低い高度で爆弾を落とす。音を立てて落ちてくる。それが本当に怖いのよ」と言っていた。
 姉さんの友人の一人は、B29の護衛についてきた戦闘機が急降下してきて、それに狙い撃ちされたらしい。操縦席のパイロットの顔をが見えたとのこと。パイロットにもその女学生の顔が見えたのか?
 パッパッパと地面に弾丸があたったが、彼女には当たらなかった。
 2001年5月の、アルカイダのアメリカへの自爆攻撃テロのとき、姉さんはビルが崩れ落ちる映像をテレビで見て、気持ちが悪くなり吐いてしまった。B29による自分たちへの爆撃を思い出したのである。十代の娘にとっては、空襲は、思い出すと吐いてしまうぐらい、恐ろしい体験だったのである。
 無差別の絨毯爆撃(Carptet bombing)であった。絨毯をひくように、地上に爆弾を落としていく。工場とか港とか軍需拠点と、普通の人びとの暮らしの場を区別しない。おおくの非戦闘員が死ぬことは、アメリカはわかっていた。それが戦争の政治であった。しかし爆弾の雨の中にいた娘にとっては、アメリカがどうのこうの、日本がどうのこうのではなく、ただ恐怖以外のなにものでもなかった。

うれしくて笑い出しそう

 「だからね、戦争が敗戦で終わった時は、もううれしくし笑い出しそうだったわ」
 彼女はすでに戦争が敗戦で終わることを、父親から聞いて知っていたのである。父親は、敵国語の英語は教えなくていいと、高校教師の仕事をやめさせらて、NHK海外放送部門で働いていた。同じ高校が戦争が終わると、英語教師として戻ってきてくれと懇願したらしい。父親は不愉快なので戻らなかった。
 家族は、戦争が終わることを知っていた。
 女学校でみんなが集められて、天皇の放送を聞いたのよ。そしてみんなが泣き出した。だけど私は、もううれしくてね。これで死なないですんだ、と思ったの。アメリカ軍が来たら、若い女性は強姦されるという脅かしがあったけど、英語で放送を聞き、英語を読める父親は、そんなことはないよ、と言っていたから。  
「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」と姉が言うとき、そこには思いがこもっている。ケンちゃん、私の子供の時の記憶は、ずっと戦争だったのよ。日本が中国で盧溝橋事件を起こしたのは1937年(昭和12年)で七歳、真珠湾攻撃のときは11歳で、敗戦は15歳だった。ああ戦争が全部終わったということね。
 父親も早く戦争が終わってほしいと思っていて、それは敗戦であると知っていた。そう家族にも言っていた。姉さんは、そんなこと外で言ったら、特高警察がやってきて父親が逮捕されることを知っていた。だから学校では鬼畜アメリカであっても、知らん顔をしていたのである。二重生活だった。よくあんな危険なことを15歳の娘に教えた、と大人になってから言っていた。
 父親はアメリカが勝ち、日本が負けることは戦争中から受け入れることができた。しかし父親は、アメリカが大都市に対して行った無差別の絨毯爆撃については、決して許さないと言っていた。あれだけ非戦闘員を殺したのは、戦争犯罪だと思っていた。無差別爆撃によって日本の降伏が早まって、多くの人が死なずにすんだというアメリカの言い分を、父親はけっして認めなかった。
 3月の夜間空襲では、十万人の民間人が焼け死んだのであった。木造建築を取り囲むように焼夷弾を落として火事を作れば、多くの人が焼け死ぬことをアメリカ軍は知っていただろう。

8月15日がやってくる

 8月15日がやってくる。しかしその敗戦の日の意味も、いまやすっかり薄れてきている。私は75年前のその日を、母親のお腹の中で経験した。
 妊娠した母親は、お腹の中の子供と自分の体のための食べ物を、戦争末期と敗戦直後で十分に手に入れることができなかった。「私たちには栄養のある食べ物がなかったので、ケンジは私のお腹の中で、内側から私を食べながら育っていったのよ」と笑いながら何度も言っていた。母親は、私と息子のお前はひとつの体なのだよ、と言いたかったらしい。
 毎年やってくる8月15日は、アメリカでは日本ほとんど大きなものではない。もっとも一度だけ、1995年の戦争終結50周年記念、というのが大きかった。新聞は特別記事をのせ、テレビも数日にわたり特別番組を作った。それをアメリカ人の妻と一緒に読み、テレビ番組を見て、私たちが敵同士だったことを思い出した。
 いつもはそんなことは、考えたこともない。不思議なものね、私たちは敵同士だったのよ、と言い合ってわらった。

コロナと育児

西荻なな

今年の1月末に子どもが生まれた。病院を退院すると同時に世の中が新型コロナで騒がしくなってきた。しばらくは慣れない育児に明け暮れ、昼も夜もない授乳とおむつ替えの日々に慣れるのに精一杯だったが、産後の肥立ちの1ヶ月を過ぎ、さてそろそろ外に出られるようになるかな、という頃に緊急事態宣言が発せられ、とうとうそのまま外に出られなくなってしまった。でも、子どもの成長は目覚ましく、見ていて飽きない。ニュースを見て感染者数が増えてゆく事態に不安を覚えながらも、私だけでなく誰もが外に出られなくなってしまったことが不思議で仕方なかった。育児とは、細切れな、それまでの連続的な時間軸とは別の時間軸に突入してゆくことだと体感しているけれども、プライベートな変化が世の中の時空のエアポケット化と連動していたことになんとも言えない感慨を覚えている。育児をする日々が、コロナの日常と軌を一にしていた。子育てがちょうど落ち着き始めてきた4ヶ月目以降の、育児日記を抜き書きしてみる。

◯月×日(生後110日)
昨日は、大変な1日だった。朝起きて授乳したあとに急に右胸にしこりが出てきたのに気づき、痛みを感じたと思うと、胸があっという間に岩のようになりかけた。文字通り岩のようである。7時間もぶっ通しで子どもが寝ていたからだろうか。ハーブティーを飲む、マッサージをする、搾乳をするなど自分でできる対処をあれこれとやってみるけれど、改善の兆しがなさそうで、これは母乳外来に行くしかないと腹をくくる。明らかに母乳マッサージなど濃厚接触であるのだから、それだけは避けたいと思って、乳腺炎になる一歩手前の状態にありながら、自己流でやり過ごしてきたのだが、どうも今回はそれでは乗り切れなさそうだ。産院に電話すると、受付可能なのは最短で明々後日ということで、他の助産院に行くことを勧められる。早いうちに他でやってもらうのがいいです、いま乳腺症が流行っていて、と同じ流派の助産院を紹介された。電話をするとやはり、いま具合悪い人が多くてね、とのこと。梅雨シーズンが近づいて湿気が高いのも悪さするんだろう、コロナのストレスだってあるに違いない。状況を伺うと、前後の人とは時間を少しあけているから、安心してきてくださいという。確かにコロナの感染者数もピーク時よりは減ってきている。今ならば前よりもリスクは低いだろうし、それより何よりこの状況を放っておいたら大変なことになりそうだ。子どもは夫に任せて身一つで行くことに。外出は買い物以外では久しぶりだ。

助産院に着いてさっそくベッドに横たわると、助産師さんは透明のフェイスシールドをつけている。私はマスク。しこりのできている原因を即座に見破って、母乳マッサージを始めてくれた。乳腺炎というよりも、乳管の詰まりのようだ。母乳の生成される量と子どもが飲んでくれる量との兼ね合いで、生成量の方が多いと母乳が滞留して乳管の詰まりが引き起こされるらしい。授乳に慣れてきたころにこそこういうことが起こりがちなのですよ、とアドバイスをもらい、牛蒡の漢方薬をいただいて帰宅する。胸のしこりが落ち着いたのはありがたい限りだが、濃厚接触をしたには違いないので、急いで帰ってシャワーを浴びた。

今日はそれにしても、子どもが急成長を見せてくれた。朝の時点で体重は6400gあまり。お昼前くらいにお布団の端っこの方に仰向けでゴロンとしているのを確認してちょっと目を離したすきに、なんと寝ていた布団の上ではなく、フローリングに腹這いになっている。しかも、あーうー、と元気に声を出している。うむむ、これはさっきの姿勢から考えるに、つまり私が見ないあいだに一人で寝返りをしたということだ。なんと〜、その瞬間を見られなかったのが残念だけど、今日は「寝返り記念日」だ。数日前から寝返りをしたいという姿勢は見せていたし、なにかの弾みで出来ちゃったのかしら。まだ4か月に満たないというのに、成長目覚ましいことだ。

◯月×日(生後116日)
コロナ感染者数が着実に減り、肌寒い雨のお天気にようやく終止符が打たれた昨日、バギーに初めて敏さんをのせて近くの公園までお散歩に行くことにした。座る姿勢も基本的に好きなのか、初めてなのに実に堂々としたもの。足なんて投げ出して、ちょっとオラオラなくらいの雰囲気だ。バギーを押して動き始めると大人しく時々笑みを浮かべている。久しぶりのお散歩が抱っこ紐じゃなくて外が自分の目でしっかり見えるのは嬉しかったんじゃないかな。ここのところ、目の前の世界が急に着実に広がっているはずで、私が実に久しぶりの自転車散歩から帰ったあと、面白いくらいにくるくると寝返りを続けた。思えばその日の朝もそうだったけれど、段差を利用してまぐれ的にできちゃった、ではなくて完璧にコツをつかんで連続技を決めている。よくよく見てみると、片足をもう片方の足にクロスさせて、胸の前で両手をあわせて、体をくるりとひっくり返す遠心力の助けとしている。ちょうどフィギュア選手が空中で回転するときのように。それに付随して、自分の右手と左手をあわせて握ることもできるようになっていた。すごい! どこでそんなコツを体得したんだろう。本人も嬉しいのか、とにかく暇さえあればコロコロくるくるしていて、ちょっと目を離した隙に床に落ちてたりするのであぶないあぶない。お風呂上がりに薬を塗っていてうつ伏せ姿勢にしたときにもゴロンとしそうだし、お洋服を着せるときにもゴロンとしたそうだ。運動量がそんなわけで半端ないのでお腹もよく空くようで、よく飲み、よく成長をしていて、授乳で子どもの身体を左右反転させるのも一仕事。私の腰は悲鳴をあげていて、一昨日にはとうとう鍼に出かけてきたのだった。どうやらほぼぎっくり腰だったらしく、肩首も鉄板のよう、一度ではほぐれきらないらしかったのでまた行かなければならない。コロナのさなか、濃厚接触のきわみゆえにやっぱりまだ気が気でない。でも昨日は再び乳腺炎の危機を感じたのだから、徹底的に身体のケアをしなければならない。藁にもすがる思いで出かけた近所の漢方薬局で虚血ですから、血を補うケアをしておかないと後々大変ですよ、と言われてたしかにその通りだとオイスターの錠剤を買った。朝のうちはまだ元気でも、授乳を繰り返して夕方、子どもをお風呂に入れる頃には身体の前半分が前方に引っ張られるようなクラッとした疲労に襲われるので、貧血っぽさがあるんだと思う。母乳をあげるつど、鉄と亜鉛が抜けてゆくのだからそれも当然か。私が日に日にげっそりしてゆく傍ら、子どもは日に日にぷっくり。ほっぺも落ちそうなら、手首のあたりと太ものあたりがムチムチである。背中の湿疹がはかばかしくないのがやや気がかりだけど、毎日ご機嫌に健やかに成長していて、どんどん喋れる感じになっていて楽しい日々であることだ。

◯月×日(生後119日)
ここ数日、完全に寝返りをマスターしたと思ったら、それでは飽き足りず、ずり這いに突入しつつある。おもに朝、夕食時、ちょうど1日2回くらいのタイミングでその旺盛な運動欲がむくむくと身をもたげてくるのか、くるくるっとしたかと思うと、今度は、うーっあーっと声を出しながら懸命に前に進もうとする。リビングに敷いているベビー布団の端っこに手がかかると、リーチ! という感じで危ないので目が離せない。昨日だったか、ちょっと床に軽くごつんとなって大泣きをしていた。でもまったく懲りる様子がない。もうこのへんにしとこうよ、ほら危ないから、と言ってこちらが止めに入ると、むしろ泣いてもっとやりたいと訴えてくる。4カ月を前にずり這い。このすべてを先取りしてゆくかんじはどうしたことだろう。誰に似たのかしら。運動量が増えるということはすなわちいつも腹ペコということなのだから、授乳をしている私は休みなしで応戦しなければならない。次善の策として、ゆらゆらひとりでに揺れるバウンサー(という椅子)に乗せてみても、わりとすぐに身をよじりはじめる。もっと僕は動きたいの! と言わんばかりだ。今日授乳をするのに子を横抱きにしてみると、こんなにがっちりしてたかしら、と驚いた。見た目はムチムチなのに、思いのほか筋肉質だ。そんなわけでエネルギーを持て余し気味のようなので、今日もお昼どきにベビーカーで散歩。コロナで家にこもりがちだったけれども、最近は近所の公園に少しずつでも脚を伸ばすようになった。ベビーカーに乗ると不思議と足を投げ出して、態度は大きいのだけれど、すっと大人しくなる。多分外に行く刺激があるんだろうなあ。もう家にいるだけでは飽き足りなくなってきた。3回ほど行き交うベビーカーに乗る赤ちゃんをちらりと見たけれど、我が子は白い。白さが際立っていることに気づく。一方で体重は昨日くらいから急カーブを描き6800グラムを超えて、4カ月を前に7キロ台が見えてきた。昨日、一昨日は授乳をしてもしても足りないようで、文字通りずっと授乳をしていたけれど、今日になってやや落ち着きを得たのは助かった。授乳ペースが少しでも落ち着くとこちらも余裕ができるので、ホッとお茶を飲んで一息つけたりする。でも日々食欲は変動があってなかなか読み難いものだ。

○月×日(生後128日)
髪が抜けて、朝も夕もそこかしこに抜ける髪の毛の存在を感じている。授乳をするつど抜けるようだ。このままのペースでは早晩禿げてしまうのではないかと、日に日に薄くなりゆく髪の毛の行方が心配でならないが、子どもは日々面白いくらいぷくぷくしてゆく。数十分のお昼寝から目覚めても、あらまた成長したかしらと思うこともあり、なんとなくここ数日、膝下が長くなったと昨日気がついた。

予防接種も3回目となる今日。予防接種の日はコロナ対策も考えながら外出準備をしたり、何かとバタバタしてしまうのだが、子どもは朝4時くらいにぶりぶりぶりっといつものように豪快な音とともにウンチをした。夫がオムツ替えをして眠りに二人で戻ろうとすると、程なくしてまたもやウンチ。2回目のオムツ替えを見届けることなく私は眠りにおちた。ここのところ夜中の授乳が眠くて眠くて、朝方はやたらと夢を見ている。断片的に夢が次から次へとやってくる。起きても夢の中なのか現実なのか判然としないことも多い。朝方のオムツ替えでひときわ眠気の覚めない今朝、お天気は完全に夏日なようなので、小児科には徒歩ではなくタクシーで行くことにした。家を出る前に再びウンチ、慌ててオムツ替えをして準備万端だ。ベビーカーに乗せて配車アプリでタクシーを呼び、自宅前で待つ。車が来るまで5分と表示される。タクシーが眼前にやってきたその瞬間、ぶりぶりぶりーっと音がする。あら、さっきも家を出る少し前にオムツを替えたばかりだが?

帰宅するまでもうオムツ替えの心配はいらぬと思ったのに。到着して予防接種の前にお肌の確認。透き通るように白いですね、と先生。乳児湿疹に悩まされた数ヶ月、お薬をがんばって塗った甲斐があった。4カ月検診はコロナ対策ゆえ区が見送った旨を伝えると、股関節脱臼がないかどうか、チェックしてくれるそうだ。しかし、それにはオムツのオープンが必要だった! 先生、実は先ほどウンチをしてしまいまして(まだオムツを替えてないのですが)、と伝えたけれど、意に介さずオープン! 股関節は正常で何もなくてよかったのだが、本当にウンチに彩られた日だった。予防接種も無事に終え、夜、お風呂上がりに体重をはかると7160g。ベッドに寝かせて夫婦で会話をしていると、おしゃべりに加わりたいのか笑顔でたくさん声を出しはじめる。あーうーあーうー。合唱のようになってなんとも愛らしい。

◯月×日(生後144日)
昨日は私と母、妹の女3人で吉祥寺を散歩した。妹と会うのは3月の連休以来だから、もう3ヶ月ぶりくらいになる。妹との対面は久しぶりだったけれど、子どもはまだ人見知りをするでもなく(マスクをしたままで、子どもにしてみれば人見知りも何もないのだろうか)、土曜日のすっかり平常モードになったと思われる吉祥寺の人混みを抜けて、小さな公園に向かった。あちらこちらにお昼時の行列があって驚いたけれど、公園に到着して人心地ついた。買ったサンドイッチを広げてさてランチ、という頃には子どもはバギーの上でお昼寝を始めている。とてもいい子だ。大人のペースに合わせてくれるかのようだ。途中で目を覚ましてお腹が空いた感じだったので、その場で授乳ケープをして授乳。昔はもっと公共の空間で授乳をする人を見たような気がしているけれど、この頃はすっかり授乳室で授乳するということになっているのかしらね、と母。授乳ケープがあれば私自身は外で授乳することも気にならないけれど、むしろ周りにいる人がどう感じるのだろう、という方が気がかりかもしれない。 

帰り際、ちょっとその辺の喫茶店でコーヒーでも、と思ったけれど、東急百貨店あたりは混雑がすごかったのでそのまま帰ってお茶することに。帰宅してエネルギーを補給すると、子どもはいつものようにくるくると寝返りを始めた。かと思うと、お尻をキュッと持ち上げてさらに前に進もうと果敢に挑んでいる。その場で両足をバタバタと強く蹴って両手も遠くに伸ばして腹這いになる。けれど思ったように前進できないのか、悔し泣きを続けては、あーうー、と元気に声を出してトライし続けていた。そんな子どもを見ながら大人はおやつタイムで椅子に腰掛けておしゃべりを始めた。途中から僕も混ぜてくれ、と訴えたので膝上に乗せてあげると、手元のテーブルクロスの質感を楽しみはじめた。そういえば最近は布団を敷いているゴザに手を伸ばして、がりがりがり、っとゴザの質感を楽しんでいるけれども、それと同じ要領で新しい素材が目の前に来ると研究に余念がない。食卓に向かってちょこんと座った姿勢でテーブルクロスの質感を両手の全部の指を使って確かめ始めると、その様はまるでピアノを弾いてるかのようだった。大人も楽しくなってしまって途中でジャズをかけ始めると、リズムを完璧に捉えているような身振りで、大人もリズム隊として手拍子で参加した。このワンシーンはかなりおかしかった! 兎にも角にも指先でいろんな質感を楽しむのがここ最近のブームで、今日新たに存在を発見していたのが紙だ。手にもってくしゃくしゃっと丸めで楽しんでいる。お昼すぎには風で揺れる窓辺のカーテンと戯れてもいた。こうなったらもっといろんな素材を教えてあげたくなる。

◯月×日(生後149日)
この4.5日ほど、子どもが夜中に起きすぎである。授乳のために夜中起きる回数はせいぜい2回ほどだったのに、2-3時間間隔で起きては授乳をしていて、新生児の頃に逆戻り状態だ。あまりに授乳回数が多いので、大人のベッドの真ん中に置いているベッドインベッドに子どもを戻したかどうか、あやふやなまま眠りに落ちてしまう。大人が子どもに覆い被さって窒息してしまう、というケースもないではないのだから、気が気でない。あまりに授乳が頻回になっているため、この前は夢の中でも授乳をしていた。そして起きても授乳をする。どちらが現実なのだかわからなくなる。そうやって意識が朦朧とするだけでなく、実際に身体がきつく、今朝は胃痛で起きる始末だった。昼は昼でだいぶ頻回授乳、毎日身体をはっている自覚だけはある。もう5ヶ月近くになり、どの育児書にも授乳間隔は空いて楽になってくる、とあるのだが、それは我が子には当てはまらないようだ。どうしたものかとあれこれ読んでみると、子どもの昼寝時間が決定的に足りないことに気づいた。新生児の頃から眠るのがどうも下手な傾向にある。今の月齢だと、平均的には1日に3ー4回昼寝をするらしい。朝、昼、夕と。泣いてはお腹が空いているのだろうと授乳を始めていたが、うち何回かは眠くて眠れなくて泣いているのだなあ。お散歩も朝夕二回、できるだけ連れて行くようにしているけれども、この梅雨のシーズンで難しいことも。でも本当はもう少し長い時間外に出してあげていたら、リズムができてちゃんとお昼寝もできるのだろうか。

そういえば昨日、いつものようにお風呂上がりの授乳をして、さてこれから入眠ですよ、というタイミングで、子どもが私の人差し指をしっかと握り、こちらの眼をじっと見て、あーうーあーうー、と5分間くらいしゃべり続けた。あまりに真摯な眼差しに、これはきっと何かを伝えたいんだと思ってびっくりして、あれこれと訊いてみた。「私がヘトヘトでちょっとイライラしてたからかな、ごめんね」「元気出してと言ってるのかな」などなど、向こうのおしゃべりに応答するように話しかけてみる。それでも止むことなく、まっすぐな目で、あーうーあーうー、と言い続けたまま、やがてそのまま目を閉じて寝てしまった。まるでETのようだった。ETの造形はこの頃の子どもとの対話にあるんじゃないかと思ったくらいだ。こちらの心情を察していたかのよう。疲れてしまったかな、ごめんね、僕はもう今日は寝るね、と言っていたように思った。昨日今日と、私がちょっとささくれだっていたことと無関係でない気がしてならない。

コロナ貧困ものがたり

さとうまき

自分で言うのもなんだが、僕はいつも最先端を走っている。イラク戦争では、まさに前線で命からがら働いてきたし、福島原発事故では、放射能のせい?で家庭が崩壊して妻子に逃げられた。そして、コロナは。

一年前に失業してから、仕事がない。失業保険で暮らしていたが、そろそろ失業保険も切れかけたころ、前妻から電話があった。北海道にいたムスコが転校したばかりで、友達ができる前にコロナで学校が休みになった。STAY HOMEしていた息子は母親との関係にも行き詰まり部屋から出てこなくなったらしい。暫く東京で預かってほしいといわれたのだ。

急を要するらしく、ともかく慌てて北海道に迎えに行ったものの、息子とは年に3日ほどしか会わないから、どう扱っていいかわからない。児童相談所とか、片っ端から電話した。「いうこと聞かない場合は、どうしたらいいんですか? 殴っていいんですか?」
そういう風に言うと大概は、親身になってくれる。

最初は、ただ、家に帰らせて! と泣いていたムスコも打ち解けてきた。僕は、何とか仕事をせねばならず、夜間学校で職業訓練を受けることになった。昼には出かけて行って、夜の10時ころに家に帰ってくる。

ムスコは先日11歳になったのだが、成長期でよく食うのだ。なんと一か月に5キロも増えているし、ぐんぐんと大きくなっているのがわかる。当然食費がかさむので、近所の子ども食堂がお弁当を届けてくれたりして、何とか食いつないでいるありさまだ。優しい人たちがいるもんだ。しかし、偏食も激しく、僕が作ったおかずの肉だけ食ったりとかするもんだから、僕も自信がなくなり、仕方なく残り物を食うから、こっちまで太ってしまう。

学校の帰りに西友によるとちょうどお弁当が半額になっていたりするのでこれはありがたいのだ。ところが息子ときたら賞味期限にはクソまじめときている。半額の納豆巻を買っておいて、翌朝食べさせそうとしたら、
「酸っぱい味がする」
「すしだから酸っぱいでしょう」
「賞味期限一時間切れている」
「それくらい、大丈夫だって。」
「くさいんですけど」
「納豆だからくさいんだよ」

結局息子は納豆巻には一切手を付けなかった。
「あのさあ、生活厳しいんだからさあ、賞味期限ぎりぎりのものを狙うっていうテクニックわかってほしいんだけど」
僕は納豆は嫌いなので、結局食わずに捨てることになった。結局これでますます食費がかさむ。

すでに、息子と暮らし始めて2か月だ。それでも、最底辺の毛の生えたような貧困生活を楽しんでいる。コロナで似たように生活の苦しい仲間もいるから。

ところで最近シリアに、アメリカが、「シーザー・シリア市民保護法」と呼ばれる経済制裁を課した。人権侵害を繰り返すアサド政権を窮地に追い込むのが目的だが、シリアでは現地通貨が暴落し、コロナの影響もあり、経済活動が成り立っていない。今彼らに必要なのは仕事をして普通に暮らすこと。

アメリカ曰く、人道支援に関しては制裁の対象ではないらしいが、そんな支援にどっぷりつかるような暮らしは好まないだろう。なぜなら、援助関係者が偉そうにふるまって、一部の心無いNGOなんぞは、戦争産業の一部と化して暴利をむさぼる。ローカルスタッフとして雇われた暁には、普通に働いている人の(いや、普通に働けない者がもうあふれているわけで)何倍もの給料をもらって、偉そうに食料を配われたんじゃたまらん。

その構造は、日本でも同じだ。給付金をめぐって、電通はやりたい放題。コロナ禍でたとえ世界が封鎖されようが、我々、庶民は世界とつながっていく。息子は、「お金には価値がない。価値なんてこの世界にはないんだ」ってぶつぶつ言っている。コロナを強く生き抜いてもらいたいもんだ。

落首または自粛のすすめ

北村周一

(アベさんから)このひとことが効いている(バレやしないさ)黙っていれば

トンネルに出口入口あることも巡りめぐって潤う自民

トンネルを掘るに長けたる代理店電通それはべんりな仲間

自重自愛自制自活自助自足自恣自棄自大自己責任大

自粛自戒自衛自警自画自賛自公自堕落自浄力皆無

つかいすてマスクを干すを日課とし缶詰め料理に舌つづみ打つ

としとると笑わぬことの多くなり目じりを下げてそれを繕う

民族を煽るアイテム愛国にして暴力に右ひだりあらず

うそがうそを掻き消す手口それさえも打ち消すように国会終わる

サ協とはサービスデザイン推進協議会の略にしてカタカナ表記がいかにも胡散臭い

ニチギンもエヌ・エイチ・ケイもデンツーもわが意の儘に恐いものなし

トンネルの闇のくらきに安倍かわの蜜をもとめて群がるアリは

ときを超えよみがえり来たる悪行のあれこれ そうだ祖父はあの人

嘘のうえに嘘をかさねてしらじらとなにを嘯くマスクの声に

くらぐらとマスクに浮かぶくちさきの動くをみれば「民度」が知れる

民の声に耳傾けることもなく騙るうそぶく「民度がちがう」

子会社を通り抜けゆくそれだけで利潤を生むをトンネルという

トンネルをひとつ抜けゆくそのたびに利潤を得るを癒着ともいう

絶対的かずをたのみに直走る権力にみる躓きの石

視聴率も支持率もまた権力のちからの証し 人気がすべて 

支持率がすべての君にぶらさがる数の論理は信仰に近し

意に添わぬものは排除の論理にて 死んだふりして逃げのびる蟲

わるさしたらお仕置きをする約束のそれをみのがす上級のひと

悪行のかずかず代々に至るまで紐付けられてわたしは小舟

ぬけ目なく民をとりこむ為政者の独り善がりなゆうべの声は

隠蔽と虚偽と改竄てんこもりの恐怖政治に目詰まりは見ず

看板から「自由」と「民主」は剥がれ落ち無能無策は歯止めかからず

ノンシャランと息吐くように嘘をつく だまされやすき民を狙って

背景にシュプレヒコールの声のこし今日の内閣委員会中継おわる

王さまはハダカですよと告げるべき声なき声はハッシュタグより

とどのつまりあの「手口」に学べということか オキテ破りのならず者らよ

番犬をマクラにねむる飼い主のユメもふくらむサクラ記念日

猫を殺したかもしれない。

植松眞人

 当時の市役所の駐車場は、まだゲートなどもなく用事のある市民なら誰もが自由に利用できるようになっていた。時間の制限もなかったので、駐車場を持たない人たちがマイカーの駐車場として、車を停めるということもあった。
 今となっては信じられないだろうけれど、一九八〇年頃はまだ軽自動車を購入するときに車庫証明を必要としていなかったと記憶している。青空駐車という言葉がまた日常的に使われていて、
「どこに車を停めているの」
「いや、お金がないから青空駐車だよ」
という会話が成立していた。
 もちろん、軽自動車よりも大きなサイズの乗用車には購入時に車庫証明を取ることが義務づけられていた。しかし、僕は親をだますようにして初めての車を手に入れた時には家に駐車場はなく、隣町に住む祖母の家の庭を車庫として申請していたのである。そのため、実際に住んでいる自宅には駐車場はなく、近所の神社の駐車場やこの出来たばかりの市役所の駐車場に勝手に車をとめてしのいでいた。
 このやり方は「車庫飛ばし」と呼ばれていて、厳密には違法だった。しかし、普通にみんながやっていて、中古車販売店の営業マンも「飛ばせる車庫があれば、私が手続きしますよ」と言ってくれて、僕は車を手に入れたのだった。
 まだ二十歳になったばかりの僕は車を運転することが楽しくて仕方がなかった。無茶なスピードを出したり、激しく山道を攻めたり、ということにはまったく興味はなかったが、ただ自分でハンドルを握ってアクセルを踏むという行為が楽しかった。窓を開けて、風を受けながら車を走らせることが楽しくて仕方がなかった。
 二十代の初め頃、僕は映画やドラマの撮影現場で助監督や制作進行をしていた。職場である京都の撮影所やテレビ局のスタジオに行く時には、いつもマイカーだった。サンキューセールの目玉商品として売られていた三十九万円の日産バイオレットという地味な乗用車は、サスペンションがへたり気味だったが、そんなことはまったく気にならなかった。
 その日も深夜、確か零時を少し回ったあたりに、僕は市役所の駐車場に車を滑り込ませた。市役所がこの場所に作られた頃は、深夜に車を停めている人など誰もいなかったが、次第に自由に車を停めておけるということが知られてくると深夜にもそこそこの数の車が停められるようになった。自分でも身勝手に使っていながら、入口にゲートが付けられ出入りが制限されるようになるのも時間の問題だと僕は思った。
 その日は、朝から細かな撮影が続き、気疲れしていた僕は帰り道の高速のインターチェンジで温かなうどんを食べたあと、とても強い眠気に襲われていた。それでも、煙草を吸い、ガムを噛みながらなんとか市役所まで帰ってきた。いつもの場所に軽トラックが停められていたので、少し入口側のいつもは停めない場所に車をバックで駐車させた。上着を羽織り、荷物を持って車の外に出ると、寒くて息が白くなった。車のキーを閉じるのに手間取って、一度鍵を落としたりしている時に、ニャアニャアという猫の声が聞こえた。猫の声は激しく数回聞こえた後、消えた。僕はしばらく耳をすませていたのだが、猫の声は聞こえなかった。どこで鳴いていたんだろう、と思いながら僕は家に帰ろうと車を離れた。すると、またニャアという声が聞こえた。さっきよりも激しく、大きく、とても近くから聞こえた気がした。僕は車の奥の方から聞こえた気がして、自分の車の周りをくるりと見てまわった。猫は見つからなかった。僕はどこだろうと思いながら、仕事の疲れもあって猫を見つけることを諦めて、帰ろうとした。するとまた、猫の声がする。僕は荷物を置いて、ニャアという声がする方に歩いて行く。僕の車の後ろの方だ。何もいない。僕は膝をついて、車のリアタイヤのすき間から車体の下をのぞき込んだ。ニャアという鋭い声がして、何か黒い塊が見えた。駐車場の街灯がアスファルトを照らし、その反射した光が黒い塊をうっすらと浮かびあがらせた。黒い猫だった。ニャアと鳴いた瞬間に大きな口を開けているのが見えて、真っ赤な口が見えた気がした。
 僕はその表情に気圧されて立ち上がった。自分が寝ていた場所に僕が急に車を止めたので怒っているのだろうと思った。犬猫がもともと得意ではなかったので、その怒ったような表情と声が怖くて、僕はその場を離れた。いったん顔を見られたからか、猫はさっきまでよりも激しく鳴き始めた。
 僕はときどき車を振り返りながらも駐車場を出て自宅への道を急いだ。猫の声は次第に聞こえなくなり、一つ目の角を曲がるとただ夜の静寂だけがあった。その時、僕にはふいにさっきの猫の映像が浮かんだ。あの猫は大きな声で鳴くときに真っ赤な口の中を見せていたような気がする。しかし、猫の口のなかというのは普通、真っ赤だっただろうか、と僕は考えた。実際に猫を飼ったことがなかったので、考えてもはっきりとはわからなかった。そして、もう一つ疑問が浮かんできた。なぜあの猫は怒りながらも僕の車の下から逃げ出さなかったのだろう。
 僕は疲れた頭で、そんなことを考えていた。考えながら、ひとつの答えが見えた。僕は猫を自分の車で轢いてしまったのかもしれない。空いた駐車場のスペースで、安心して眠りこけているところに、僕が車を滑り込ませて、あの黒猫を引いてしまったのかもしれない。そんな思いが一瞬浮かんできた。だからこそ、あの猫はその場から動かず、ただ口をあけてニャアニャアと声をあげていたのではなかったのか。そして、動けないほどの怪我をしていたからこそ、口の中に血が溢れていたのではなかったのか。
 僕が自宅にたどり着いたころには、この考えは確信のようなものに変わっていた。しかし、僕は疲れていた。そして、何よりも怖かった。猫を殺してしまったかもしれない、という考えがとても怖かった。駐車場は暗すぎて何もかもがはっきりとは見えなかった。けれど、轢いてかもしれない、という手ざわりのようなものが、ふいに見上げた空と見下ろしたアスファルトの間から、粒子のように僕の掌に降り積もり、消えることはなかった。寒さをしのぐように、手を擦り合わせながら息を吹きかけると、その感覚はますます強くなった。きっと僕が猫を轢いてしまったという事実は、確実ではなくても、まったくの虚実でもないという妙な感覚になった。
 その夜、僕は風呂にも入らずぐっすりと寝てしまい、昼前に起きたときにはすっかり、そのことを忘れてしまっていた。もう一度思い出したのは、昼過ぎに市役所の駐車場に向かった時だった。そして、僕は昨日の夜とは違い、あれはきっと猫がただ居場所を奪われそうになって怒っていただけだと考えようとしていた。駐車場に行ったら、決して車体の下などのぞき込まず、そのままエンジンを掛け、そのまま立ち去ろう。僕はそう心に決めて駐車場に向かった。
 市役所の駐車場に到着すると、これまでには見たことがない光景があった。警察官が一人と、役所の職員が一人。二人の男が駐車場で車を出し入れしようとするドライバーに声をかけていたのだ。僕はこれまでの違法駐車をとがめられるのではないかと思い緊張した。しかし、仕事があるので車を出さないわけにはいかなかった。できるだけ平静を装って警察官と職員が立っている出入り口を通過しようとした。すると、職員が僕に声をかけてきた。四十過ぎくらいの温厚そうな男性だった。それほど高くはないけれど、ちゃんとしたスーツを着ていた。
「申し訳ありません。この駐車場はいつもご利用ですか?」
 職員はそう聞いた。
「はい。わりと」
「そうですか」
 と今度は警察官が答えた。
「実は、来月からこの駐車場が有料になるんです」
「ああ、そうなんですね」
「で、ちょっとだけ利用状況を調査していまして」
 と今度はまた職員が声をかけてきた。
「今回のご利用時間はどの程度でしたでしょうか」
 そう聞かれて僕はほんの少しだけ考えて、
「そうですね。住民票を取ってきただけなので、三十分くらいかな」
 そういうと、職員がメモを取り、二人は僕に頭を下げて、ご苦労様でした、と言った。僕も二人に軽く頭を下げると、ご苦労様でした、と声をかけた。
 僕は二人から離れて、昨夜、自分の車を止めた場所を眼で探し、そこに向かって真っ直ぐに歩いた。運転席のドアを開け、乗り込み、エンジンを掛けて前を見ると、二人のうち警官だけが僕を見ていた。僕はゆっくりと車を出した。二人から離れた方の出入り口に向かうためにすぐに左折した。すると、助手席の窓の向こうにさっきまで自分が車を停めていた場所が見えた。僕はその場所をじっと見た。特に昨夜猫が鳴いていたはずの場所を見つめた。アクセルを緩めて、僕はブレーキを踏んだ。そこには何もなかった。黒い猫の死骸も肉片のようなものも、血だまりのような物もなにもなかった。僕はハンドルを握ったまま、長いため息をついた。運転席側の窓をコツコツと叩く音がした。さっきの警察官が立っていた。僕が窓を少し開けると、彼は笑顔を浮かべながら、どうかしましたか?と聞いた。僕は、いえ大丈夫です、と答えて窓を閉じた。ゆっくりとアクセルを踏み入れ、少しずついかにも普段から安全運転をしているかのような慎重な運転で、僕は駐車場の出口を通りかかった。バックミラーのなかで、警察官も市役所の職員も頭を下げていた。
 僕は駐車場の外を出て、バス通りに車を進めながら、昨日見たことは僕の思い違いで、ただ猫が怒っていただけなのだと思った。その証拠に猫の死骸も血だまりの後もなかったじゃないか。そう思うととても気分が軽くなった。
 しかし、あれから三十年以上の月日が流れたのだが、「あの時、猫を轢き殺したのかも知れない」という思いが僕の中から消え去ってしまうことがない。(了)

インドネシアの公共料金支払いの思い出

冨岡三智

6/16の記事で、インドネシアのモスク評議会は、金曜集団礼拝の時間を携帯電話の番号が偶数か奇数かによって分けることを推奨したとあった。この偶数か奇数かでグループ分けするというのがいかにもインドネシアで、留学していた時の水道料金の支払いのことを思い出した。というわけで、今回は留学中の各種料金の支払いに関する思い出。

私がスラカルタ市(人口約50万人の都市)に留学/調査で住んだのは3回(①1996~1998年、②2000~2003年、③2006~2007年)。いずれも市役所の裏のカンプンバルという地域で、電気、水道、固定電話のある家を借りていた。実は、2019年に『水牛』で4回、当時住んでいた各家について書いている。私が住んでいた当時、この町の中心部でも固定電話のある貸家はあまりなかったし、井戸しかない貸家もあったので、割と贅沢したわけである。

①1996~1998年(5月初めまで)

この時、大家さんはすでにスマトラ島に引っ越しており、私は請求書(名義は大家さん)が家に届いたら自分で支払いに行くように言われていた。水道代は毎月7~20日の間にパサール・ルギ(ルギ市場)近くにある水道局に支払いに行った。ただし、いま水道局は移転して、別の機関がこの建物に入っている。水道局の受付時間は月~木曜日が8:00~13:00、金曜日は8:00~11:00。しかし、15日以降は7:30から開くというメモがある。これは、20日近くになると支払いが混むためである。ちなみに、金曜の昼にはイスラムの集団礼拝があるので、役所や学校は11時で終わる。段取りだが、家に届いた請求書を受付で渡すと番号札をくれるので、あとは番号が呼ばれるのを待つ。会計窓口は2つあり、奇数と偶数に分かれている。各窓口が交互に10~20人ずつ位一度に番号を呼ぶので、呼ばれた方の窓口に行くが、そこから先は早い者勝ちになり、窓口を奇数と偶数に分ける意味があるようにも思えない。日本のように、受け付け順に「〇番さん、x番窓口へ~」と呼ぶ方が公平な気がするのだが…。ここでの支払いはだいたい1時間以上かかり、いつも非効率なやり方だと思っていたものだ。

余談だが、この水道局の前には当時、牛の駅?駐留場?があった。荷物やレンガなどを運ぶのに、当時はまだ牛車も使われていて、ここに待機していたのである。今から思うと、ルギ市場に仕入れに来る人が利用していたのかもしれない。

次に、電気代の支払いは指定銀行に毎月10~20日の間に行く。受付は月~金曜の8:30~13:00。指定銀行の1つが舞踊の師匠の家から比較的近いので、いつもレッスンの前か後に行ったが、ほとんど待ったことがない。

電話代は、我が家から徒歩圏内にある中央電話局に支払いに行く。毎月1~20日の支払いで、月~木曜日は8:00~13:30、金曜日は11:30までだがお祈りで一時中断したのち13:30まで受付。やはり待ち時間は長く、1時間くらいかかったように思う。ここでは受付番号ではなく人名(請求書にある大家さんの名前)で呼ばれたと記憶している。

②2000~2003年

この時は同じ町内に大家さんが住んでいて事務所もあるので、その事務所に支払いに行っていた。大家さんは電気、水道、電話代すべてを口座引き落としにしていたので、全部の引き落としが済んでから合計金額を事務所に支払いに来てくれという話だった。というわけで、この間はどういう状況だったのか分からない。

③2006~2007年

再び、公共料金の支払いを自分ですることになる。①の留学を終えて帰国直後、スハルト大統領は退陣し、インドネシアは民主化された。その後、状況はいつの間にか変わっていた。水道料金は徒歩圏内にある中央郵便局で支払うことができるようになっていたのである。郵便物を出すカウンターの数が減って、代わりに公共料金の支払いカウンターができていた。また、支払いとは関係ないが、局内の壁に有料広告を出せるようになっていたのも大きな変化だ。1996年に日本からダルマブダヤ(関西のガムラン音楽団体、私も所属していた)が公演に来た時、私はポスターを掲示させてもらったのだが、実はその時は無料だったのである。内心、有料でないことに驚いたくらいだ。民主化により、サービスを高め、稼げる体質目指して方向転換したのだろう。②の時期にはすでにそうなっていたのだろうか…。

電気料金は電力公社で支払うようになっていた。ここも徒歩圏内にあるが、①の時期にはまだその場所で支払いはできなかったはずである。建物が新しくなり、中に入ると受付番号の自動発行機が据えられ、日本並みに便利になったなあと感じたものだ。

電話料金の支払いについては、どういうわけか記憶がない。ただ、この1年間で各種支払いに自分で行ったのは最初の1月だけだった。2019年7月号にも書いたけれど、隣に住む元・ベチャ(人力車)引きのおじいさんから申し出られたこともあり、代行を頼むことにしたのである。以前のように延々待つことはないだろうけれど、やはり毎月支払いに回るのはめんどくさいと思ってお願いした。

あれから10年以上経ったけれど、この間に公共料金支払いはさらに便利になったのだろうか?建物や職員の働きぶりは変わっただろうか。ちょっと気になっている。

6月のビートルズ

若松恵子

残念ながら、ビートルズと出会った!と思える鮮烈な体験は無い。「ヘイ・ジュード」は吉永小百合が出ていたドラマ「花は花嫁」の主題歌だったし、「シー・ラブズ・ユー」はエドウィンのコマーシャルで知った。

14歳のころに繰り返し聞いていたのは、ビートルズに大きな影響を受けた日本のバンド「チューリップ」だった。ビートルズみたいなチューリップの曲を、原曲より前に好きになってしまったのだ。アビイロードのB面の最後のメドレーを聞くと今でも胸がいっぱいになるけれど、これまでところどころ聞いてきたのがビートルズだった。

今年の4月28日に片岡義男さんの新刊『彼らを書く』(光文社)が出版された。最初の彼らであるビートルズのDVDを取り寄せて休日ごとに家で見ている。リンゴスターがフューチャーされた映画「That’ll Be The Day」から始まり、「エドサリバンショウ」、エドサリバンショウに出演するビートルズを追いかける3人のファンの女の子たちのコメディ「抱きしめたい」、ハンブルグに出かける前までのジョンレノンを描いた「NOWHERE BOY」、ハンブルグ時代を描いた「BACK BEAT」、初めてのアメリカツアーのドキュメンタリー「THE FIRST U.S VISIT」と見ていって、ビートルズと出会いなおした気がした。

劇映画とドキュメンタリーと混在しているのだけれど、どの作品にもビートルズというもののエッセンスがあって、それらの作品を重ねて見ることでビートルズの存在がより身近なものになった。エドサリバンショウに至るまでの道のりを知ってから見ると、輝くような笑顔で演奏する彼らの姿は、また違った印象にうつる。

『彼らを書く』に紹介されている作品は、さりげないけれど、ビートルズを良く描けているものばかりなのではないかと思う。本の帯に「DVD31作品のなかに、いまも彼らはいる」とあるけれど、その通りだ。

今日は6月30日。夜になっても雨を含んだ生暖かい風が強く吹いている。1966年6月29日に、珍しく関東を直撃した台風の影響で10時間遅れてビートルズは羽田空港に着いた。来日公演の映像を残念ながらまだ見ることができていない。でも、今年の私の6月は、ビートルズの6月になった。

仙台ネイティブのつぶやき(55)鳩の家は、どこ?

西大立目祥子

 庭で、真っ白な鳩が動けなくなっていたことがあった。迷い鳩に違いない。草木の中で、ほとんど歩くこともせずじっとしている。しばらくようすを見ていたのだけれど、何時間がたっても一向に飛び立つ気配はない。どこか傷めているのだろうか。日は暮れるし、このままでは猫やカラスに襲われるんじゃないか、と心配になった。
 保護しようと思ったものの、捕獲に役に立ちそうなのは洗濯カゴだけ。そうーっと近づいて上から静かにカゴをかぶせたら、あっけないほど簡単に捕まえることができた。

 家の中で観察すると、血が出ているとか翼がぶら下がっているとか、外傷はなかった。よく見ると、細いピンク色の足に、銀色の鑑札をつけている。暴れもしないので、抱いて鑑札に目を凝らすと「03-××××-××××」と刻んである。もしや東京03の電話番号ではないのか。思いきって電話をすると、中高年と思われる男性が出た。

私「もしもし、あのーどちら様でしょうか?」
男性「はぁ? どちら様ですか?」
と、おかしなあいさつのあと、「仙台からかけているのですが、庭で白い鳩が飛べなくなっていて…」というと、男性は「また、仙台でだめだったか」と話し、こう続けた。
「数日前に岩手の花巻から出発する鳩レースに出したんです。とうに東京に戻ってもいいのに、帰ってこないので心配していたんですよ。仙台上空は越えるのが難しいんです。そこでいつも何羽かが脱落しましてね」。

 純白の鳩はレース鳩だったのだ。
 岩手を下り、北上川を越え、宮城県北のおだやかな丘陵地を飛び、広大な水田地帯を順調に通過しても、仙台に入ったとたんあちこちから飛んでくる電波で鳩の頭脳は撹乱されてしまうのだろうか。でも、なぜうちの庭に? 思い当たるのは北側300メートルの近さに標高60メートルほどの緑濃い丘陵地があること、そしてうちの庭には何本か樹木が茂り小さな池があることだ。もしかすると、丘陵地の頂上に大きな3基のテレビ塔があることが障害になったのかもしれないし、そこをねぐらにする鳶に襲われたのかもしれない。不時着しようとして、上空から光る水辺が目に入ったのだろうか。

「どうしたらいいですか?」とたずねると、男性は「お手数ですが、日通の鳩便をよんで、それに乗せてください、着払いで」といった。鳩便なんてものがあるのか。住所を聞いて驚いた。「東京都新宿区信濃町」。そんな都心でレース鳩を育てている人がいるなんて。
 翌日、電話をすると日通のお兄さんが鳩便の段ボールを持ってきた。ちょうどバレーボールが入るくらいの大きさで空気穴がついている。中に入れても鳩は静かで、フタをされトラックで運ばれていった。無事に着いたのだろう。数日すると、男性からクッキーが送られてきた。お礼の電話をすると、男性は「あれは友人から譲り受けた大事な鳩でしてね」といい、少し鳩レースのことを話してくれた。日本中に夢中になって鳩を訓練し、レースをめざす男たちがいることを初めて知った。今日も東北の上空を、鳩たちは帰りたい一心で住処をめざし飛んでいるのかもしれない。

 鳩といえば、野生のキジ鳩も動けなくなって庭に避難していたことがある。数日、物置で保護していたのだけれど、これもまた飛び立つ気配をみせないので、仙台市の動物園に電話をしてみた。「野生の鳩なら引き取ります」といわれ連れていくことにした。いったいどうやって運んでいったのだったか。覚えているのは、事務棟の階段を上がっているときに、飛べないはずの鳩が急に暴れて逃げようとしたことだ。人に飼われているか、自然の中で生きているのかで、生きものはまったく違う行動をする。

 それにしても鳥はどうやって水辺を感知するのだろうか。数十メートルの上空からでも見つけられるのは、目のよさなのか、匂いによるのか。命をつなぐために、人には想像もつかないような力を働かせて鳥は舞い降りてくる。このごろは定期的に、シジュウカラが水を飲みにくる。春はカッコウが毎日のように通り道にしていた。隣の敷地の桜の花びらの蜜を吸ってお腹いっぱいになると池のまわりで過ごし、どこかへ飛んでいく。ずいぶん前のことになるが、池で金魚を飼っていた頃は、光る魚を狙ってか、大きなサギが下りてきて驚かされたこともあった。

 小さいし汚いし、ドブのような池である。それでも、春になるといつのまにかアメンボが動き、夏にはヤブ蚊がわいて、それを狙うトンボがくる。トンボはここを産卵の場所にしているようで、夏はハグロトンボもシオカラトンボもヤンマも寄ってきた。去年はメダカを20匹ほど放したら、だめになったかに見えて春になったらどこにひそんでいたのか、数倍の数となって現れ、すいすい泳ぎ回っている。水中生物もいるし、くさむらにはカナヘビもいるから、目のいい鳥は、それをめざとく狙って舞い降りて下りてくるのだろう。

 水辺のまわりの生きものの循環。たったこれだけの水たまりが、見えない微生物を育て虫を集め、高く飛ぶ鳥にまでその存在を知らせて、生きもの図鑑のような大きな世界をつくりあげているのだ。水ってすごいなぁと、ながめるたびに小学生のように感嘆する。
 まぁ、待っていても、レース鳩はあれから一度も訪れてはくれないけど。

製本かい摘みましては(155)

四釜裕子

窓辺の本が、けぶるような雨をぬって射し込む光を表紙カバーの銀に集めてきれいだ。小さく並ぶ銀のポツポツはこの本に登場する350冊の〈美しい本〉のタイトルで、漢字は濃く、かなと○は薄く、雨だれのように光って流れ込んでくる。タイトルは、表紙カバーの裏に続いてカバーを外した表紙にも続く。色合いもすごくいい。臼田捷治さんの『〈美しい本〉の文化誌 装幀百十年の系譜』(Book&Design)だ。
箔押しを担当したコスモテック社の方の「note」によると、繊細な文字の表現と、印刷と箔押しの位置合わせが難しかったそうだ。紙は「アングルカラー」のきぬ白、四六判130キロ。ストライプ模様のテクスチャーがあって、その凹凸に左右されることなく箔を押しとどめるための接着剤選びにも苦心されたようだ。そういうことを何ひとつ知ることなく銀の雨だれに見とれたのは、閉じこもりが始まってまもなくの春の雨が続いたころだ。今夜の雨は梅雨前線によるもので、時折吹きつける強風のために窓を開けておくことができず蒸している。

大きくみて、装画家や版画家が表紙絵だけを担った時代から、グラフィックデザイナーが本文の組にいたるまで尽くした時代、そして現在と、日本における洋装本の装幀文化史はたった110年ということにも改めて驚く。さまざまな立場の人が残した装幀にまつわる言葉をたっぷり引用しながら、臼田さんは350の〈美しい本〉について細かく言及する。膨大な数の人名書名社名に羅列感はなく、読んでまずなめらかだ。カラー写真が添えてあるのはごく一部。全て見られたらもちろんサイコーだけど、読み物としての物足りなさを少しも感じない。字数ミニマムを極めた〈美しい本〉への賛辞には妖艶さすら漂う。三島由紀夫が『聖セバスチァンの殉教』(編集・装幀 雲野良平)について語った話のあとはこうだ。《生き物を菰の上から育て上げるのと類するような手間暇と愛情を惜しみなく注いだ本書が理想の美本の代表格であったろうと推測する由縁である》(p216)。

冒頭の口絵16ページにはこんな言葉が添えられている。「時代を隔てたふたりによる〈共作〉」「象徴詩と近代詩へのしつらい」「『装幀は要するに女房役であって、内容をうまくおさめて行くと云う仕事……』」「独自の世界を究めた昭和の名匠ふたり」「詩人装幀の系譜の清新な流れ」「世界的な創造者による稀有な結実」「画家による仕事の新次元」「本文組を起点とする新しい歴史と東西の造本言語の融合と」「プレモダンの劇を鮮烈にかたちにする」「著者自装と九〇年代〈美本〉の白眉」「〈美の使徒〉への至上のオマージュ」「〈版〉の重みと版画家が紡ぐ物語」「確かな感触を取り戻すチャレンジ」。それぞれどんな本が並んでいるかはページをめくってのお楽しみ。

第4章「装幀は紙に始まり紙に終わる 書籍のもとをなす〈用紙〉へのまなざし」から第5章「〈装幀家なしの装幀〉の脈流 著者自身、詩人、文化人、画家、編集者による実践の行方」への流れが特にいい。時代時代で装幀のメインストリームに立つ職種やムードがあるわけだけど、そういうのに任せっきり、あるいは任せられっきりなのにがっかりする臼田さんの姿がときどき現れる。こういうとき、人の側ではなく本の側からしゃべっているように感じる。《装幀が〈素人〉にも開かれ、門外漢がもっと口出しできるような状況が再び来てもよいのではないだろうか》(p157)と言っているのも、〈素人〉擁護でも〈玄人〉批判でもなく、本たちの窮屈の声に聞こえる。

自装は〈素人〉装幀の代表と言っていいのだろう。1920~30年代ころの自装本は《とくに専門のブックデザイン界からの評価はきわめて低》(p164 )く、古臭いと思われているそうだ。どう言われようが私は好きなのでかまわないが、あの時代の自装本が華やかだったのは《出版界にもそれを受け入れる度量があった》からともあるので、一般読者には分からぬ装幀界の窮屈があるのかもしれない。
大庭みな子の『寂兮寥兮(かたちもなく)』や永井荷風の『来訪者』に触れたあとには、《……その自装本の巧拙をうんぬんしても始まらない。いかに等身大の自分自身を出すか、に尽きるだろう。余計な気取りも背伸びも無用。自然体で臨めばよいことをふたりの実践は示している》(p170)と書く。高度成長期以降を代表する編集者装幀の名人としてあげた、萬玉邦夫、雲野良平、藤田三男について述べたあとはこうだ。

《……渡辺一夫の装幀について串田孫一がそれを余儀だとか専門家級だとか枠づけすることが無益であることを的確に指摘したように、三人の装幀術を玄人はだしだとか、あるいはセミプロ級の仕事だとかといったレッテルを貼ることには慎重でありたい。安易にすぎる〈地勢図〉への落し込みになるからだ。三者の仕事は現在の支配的なブックデザイン作法に照らすと、突き刺さるように鋭角的な洗練度には物足りなさがあるかもしれない。が、そうした比較に意味はないだろう。(略)ブックデザイナーにとっては装幀の仕事ひとつひとつはワン・オブ・ゼン。それに対して編集者のそれは、言ってみればワン・オブ・ワンである。この違いは小さくないはずだ》(p218)。

ここに垣間見えるのも本の側でしゃべる臼田さんだ。本書のタイトルすらそう見えてきて、これは〈美しい本〉の自叙伝なのかなとも思う。いちおう言っておくが、ワン・オブ・ワンの装幀をしている装幀家にももちろん言及しておられる。

北原白秋は、自装した第2歌集『思ひ出』の前書きに「こうしてこの小さな抒情小曲集を今はただ家を失ったわが肉親にたった一つの贈物としたい為めに」「而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思って、拙いながら自分の意匠通りに装幀」したと書いたそうだ(p157)。志茂太郎の「ツキつめて行けば、紙と印刷だけで本は成り立つ」(p140)にならい勝手に言ってみるならば、ツキつめて行けば装幀は、それを運ぶため、届けるため、手渡すための包みと思う。
本の表紙が、装幀する人や手がけた人、売る人のギャラリーとなり本屋やネットに鼻息荒く並ぶことへの居心地の悪さがある。装幀には本という商品のパッケージの役割があると言うならば、手に取らせる陳列のためばかりでなく、手渡しする包みとしての思いは浮かばないものなのだろうか。臼田さんの「ワン・オブ・ワン」に、本屋の平台の前でときおりひとりごちるセリフが重なる。

彼らには、それが分かる。

越川道夫

得体の知れない苛立ちと息苦しさの中で日々が過ぎ去ってしまった。それでも、まだ梅雨入りの報せが届かない頃は、近くの神社の境内にある菩提樹の花が満開になり、それを毎日のように見上げに行った。細切れの睡眠が続き、何かを漠然と待ち続けているような日々の中で、今月は菩提樹の花に救われるのかもしれない、などと思っていたのだ。しかし、私は何を待っているのだろう?
この春は、私の周りに限って言えば、蝶やトンボを見かけることが少ないように思う。そこここで行われた工事のせいで、彼らの棲息している場所が壊されてしまったのかもしれない。借家の庭にある柿の木が、植木屋にひどく切られてしまったことがあった。裸の木。そうなってしまうとまた実がなるまでに3年かかった。一度壊してしまえば、修復されるまでに時間がかかる。かかるのだけれど、また修復されるところが自然というものの凄みなのかもしれない、廃屋を緑が覆い、やがてその建物を壊し飲み込んでしまうように。
 
映画の撮影をしていると、こういうことがある。例えば、奄美の島で撮影をしていた時、芝居のテストが終わり、スタッフが忙しく照明などの準備をする。多くの人々が動く。やっと準備が整い、本番に行きましょうか、ということになるのだが、人々が慌ただしく動いたその場所は一見そうは見えなくても、踏み荒らされ、その準備の騒めきが消えていない。消えていないどころか、場所は落ち着きなく震えている。言ってしまえば、そこは登場人物たちが暮らす島の場所でも何でもなくなってしまっているのだ。それは、「奄美」に限らない、「いわき」でも、「長島」でも、どこでもそうだった。言ってしまえば、場所は怯え、どこでもない、ただ怯えた空間がそこにはあった。助監督が、じゃあ、カメラを回しましょう、と言う。しかし、これでは何も写りはしない。スケジュールが立て込んでいるので焦る気持ちはあるのだが、ちょっと待って欲しい、とみんなに頼む。この場所が落ち着き始め、その「場所」であるのを取り戻すのをジッと待つのだ。俳優たちもスタッフもスタンバイのまま、待つ。誰も動いてはいけない。動けば、また同じことだ。待っていると、場所はだんだんその「場所」であることを取り戻していく。どこでもない怯えた空間が、その「場所」に、「島」に戻っていく。鳥が鳴き始める。蝶やトンボが戻ってくる。もういいかい、と「場所」と会話をしながら、それを待っている。
 
いつもならば、仕事場への途中で、とまっている蝶やトンボを素手で捕まえる。一心に花の蜜を吸っている蝶に静かに近づき、人差し指と中指をそっと蝶の羽の横に差し出し、羽をなるべく傷つけないようにゆっくりと挟むのだ。モンシロチョウでもアゲハチョウでも、トンボでも。もちろん、すぐ離すのだけれど。経験的な物言いで申し訳ないが、私と蝶やトンボのリズムが調和していると感じられる時には、慌てて指を挟まなくても、Vの字にした指の間にいる蝶はジッとしていて逃げることはない。調和していない時、例えば私の胸の内が騒ついていたりすると、ちょっと動いただけでも蝶やトンボは飛び去っていってしまう。仕事に向かう数分の間、そんなふうに虫たちに遊んでもらいながら、その日の自分の状態を確かめていたのだろうと思う。数は少ないながらも、今年も試し見てはいるのだが、一度もできたことがない。ただの一度も。私の胸の内は、いま随分と乱れ、騒ついているらしい。彼らには、それが分かる。

透明袋に入っていた金魚

イリナ・グリゴレ

18歳になった頃の自分を思い出すと、今でも理解できないことがたくさんある。高校時代は同級生たちと離れて過ごした気がする。いつも自分と周りの子との距離をとって生きていた。人のことより本が好きだったから。ちょうどそのときガブリエル・ガルシア=マルケスの小説とロルカの詩集を友達の母親から借りて繰り返し読んでいた。授業中もずっと読んで、家に帰っても、夜遅くまで読んで、朝起きたらまた読み続ける。

すると、読めば読むほど自分の言葉を失う現象に気づかされた。たとえば、文学の授業では読んだ本について分析したり、説明したり、クラスの前で議論するが、私はそれが一切できなかった。読んでいるうちにトランスのような状態になって、ただただ本の世界に入ってしまう。今にしてみれば、高校生にしか体験できないことを味わえなかったし、周りとのコミュニケーションもうまくいかなかった。高校を卒業する直前に同じクラスにいた子から「あなたと友達になりたかったがどうにもならなかった」といわれた時などは、初めてその子を見た気がして、自分の冷たさにびっくりした。私はこんな冷たい人ではないはずだと思ったが、周りから見ればそうだったに違いない。

あのころから、自分は周りの世界にとても敏感だった。住んでいた団地のドアから入る光、匂い、音の影響を受けすぎたのか、微細な感覚の持ち主だった。本の影響もあった。映画もたくさん見ていたから身体感覚は何倍も鋭くなって不思議な夢を見続けるという感覚が続いていた。自分の内面の世界にとても疲れていたので、周りとの交流に興味がないというより、余裕がなかった。私の見た目もすごかった。当時はあまり個性が認められなかったが、私だけはジプシーに憧れていたので、ジプシーの女性のファッションを真似て、長い、色鮮やかなスカートに髪の毛をいつも二つに分けて三つ編みにしていた。エミール・クストリッツァの映画をいつも見ていたが、いくら映画を見てもそれについて話す相手がいなかったので、自分の頭の中でいろんなシーンを見直して楽しんでいた。どうやって自分を表現したらいいのか、まだ検討していた途中で、一人ぼっちだった。自分の家族と周りにアートに興味がある人はほとんどいなかった。感じていたことを表現する方法は見つからないままだった。

18歳の誕生日を迎えた時、父は私は望んでいたビデオカメラを買ってきてくれた。カメラといっても、古いVHSのカメラなので、撮った映像をどうやって編集するのかわからない。撮りっぱなしのテープをどこかにおいておくだけだった。今のようにどこでもなんでも映像が取れたら、私も自分の表現の道をもっと磨いていたはずだ。やっと、今の時代はあの時に私が望んでいた世界になってきた。どこでも映像を撮れる。すぐ編集できるし、自由に表現できるからだ。

ルーマニアの社会主義の独裁政治に台無しにされた後の地方の小さな町で生きた私を思い出すと、あまりにも可哀そうに思う。ポスト社会主義を生きる自分がいたことに対して複雑な気持ちになる。チャウシェスクの独裁時代を生きていた私の親と比べてまだましだとは思っても、やはり、あのくらい、ねばねばしたトランジションの時代を思い出すと気持ちが悪くなる。まず父の働いている工場が潰れた。新しい仕事をするようになると、ビジネスができる人とできない人の差がものすごくできて、いろんな意味で貧しかった。これでもミドルクラスだ。団地の前のゴミ置き場で食べ物を探す小さな子供たちを毎日団地の窓から見ていた。これって、資本主義だと思いながら、なにもしてあげられないままただただ見ていた。小学校の先生だった母のクラスにそんな子がたくさんいて、ごみ集会所の前で目を合わせると「先生、他の子に言わないでください」と可哀そうな声で言った。母は一生懸命私たちの小さくなった服を集めて、生徒たちにあげていた。町という人の集まりとはこういう格差を生み出す場所なのだ。

18歳の誕生日の過ごし方も個性的だった。町から離れたところ、周りになにもない畑の真ん中に一本の大きな樫の木があるのを知っていたので、あの木の下で一人ワインを飲みたいと親に言った。父は私を連れていってくれて、私がワインを飲み終わるまで何かの儀式のように車の中で待っていた。あの木のようにまっすぐに、なにがあっても一人で自分の道を進もう、という願いからだったのだが、周りの友達はどの子も18歳の誕生日にはパーティーをやっていたので、私の行いは白い目で見られた。

あの日にもらったVHSのカメラで様々な映像を撮った。編集できる機会がなかったので、自分で撮ったイメージを見ることができず、どこかにしまってあった。とてもシュールな映画を撮り始めたことを、なんとなく覚えている。生きた金魚を水が入った透明のプラスチック製容器に入れ、同じ高校の同級生の男子友達に、団地と工場だらけの町を歩かせるという映像だった。今にしてみれば、とても不思議なもので、なぜあの時その映像を撮りたかったのもわからない。日本に来てしばらくして、共通の友達から連絡があった。彼がひどい交通事故で亡くなったという不幸な知らせだった。涙がとまらなかった。

彼と交わした言葉より、あの日ずっと魂のように金魚を手にとって団地と工場だらけの町を歩いている映像が私の頭から離れない。私が最初に撮った映像はそれだったので、彼が今はこの世にいないとは思い難い。彼はあの映像のなかにずっといる。彼の身体がもう存在しなくても、私と彼しか知らない映像の中にいるので、時空間を通して彼は永遠にいる。こうしてみると、映像とはすごい力がある気がする。

今の時代は映像を誰でも、どこでも撮れるので、この強大アーカイブが様々な時空間で残される。私も最近では毎日のように動画を撮りたくなる。動いているイメージは生きていると感じるからだ。ものと人間の本質が現れている気がする。カメラは私の身体の一部になっている。私はこの世界をもっと詳しく、細かく見たい。カメラは私の観察の助けになる気もする。なんとなく、世界はいい方向に向かっていると感じる時もある。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』という映画を久しぶりに見た。世界の終わりがくるので自分の家族を7年の間、家に閉じ込める男性の話がある。ある女性聖人が近くに生きていたイタリアの温泉街で、男性はろうそくの火が消えないまま温泉を渡ったら世界が救われると信じて何度もやろうとしていたが周りから止められた。彼はイカれた人間だと思われているが、本質として世界を助けようとした。彼はイエスの言葉をよく理解し、一人で自分を救うということはできない、周りの人を一緒に救わないと世界は救われないと信じていたのだ。タルコフスキー監督自身、映像は祈りだと言いながら映画を作っていた。彼は思想家なのだ。『ノスタルジア』のメッセージは明らかだ、人類を救うには種のように小さくても信念が必要だ。

最近見た夢の中で、私がある古い建物の階段を上がっていたら、誰かが突然私の手を取って上まで上がるのを手伝ってくれた。

18歳の時の自分に戻れるとしたら、私と友達になろうとした子の話を聞いて、一緒に何か楽しいことをし、一緒に笑うだろう。今の時代では100歳まで生きると言われるので、私は18歳でやりたくて出来なかったことを60歳頃からやる。たとえば、人とともに本格的に踊り始めるし、人とともに映画を作る。これからは、自分の身体が透明になるまで世界に開いていく。

しもた屋之噺(222)

杉山洋一

今年は一体どういう年なのでしょうか。一ケ月前に、現在世界が覆われている状況を想像できたでしょうか。Covid-19確認感染者数は28日日本時間21時の時点で1011万1,639人。死亡者数は50万1874人と発表されています。一分後にサイトを読込みしなおすと、既に感染者数が1増えていました。
BLMはこの一ケ月で想像も絶するほどのうねりを見せ、ジョージ・ワシントン像が倒され、ウィンストン・チャーチル像や奴隷解放の父リンカーン像まで落書きされ、アメリカ、ヨーロッパに限らず、アジアにまでBMLは広がっています。
経済の建直しを迫られる各国に、Covid第二波が始まりつつあるともいわれます。東京の新感染者数は高止まりとも言われていますが、再封鎖して経済を止める余裕はないでしょう。日本は非常に危険だった3月から現在までをやり過ごして来れたのですから、このまま何も起こらないことを祈っています。
音楽界も少しずつ再開し始めていますが、一度失敗すれば、それを取戻すのにどれだけの労力がかかるか想像もつかず、本当に少しずつ試しているようです。
数値上ではイタリアは随分収まってきたように見えます。来月、世界が一体どのような変化を見せているのか、想像するのも少し怖い気がします。
少し前まで、皆の笑顔と再会するまで、あとほんの少しかと思った時期もありましたが、また世界が違うエネルギーに引き摺り込まれて、皆の表情から柔和な笑顔が消えてゆきそうなのが不安です。

・・・

6月某日 ミラノ自宅
今日からイタリアは往来が自由になる。が、殆ど生活に変化はない。
母より孔雀サボテンの深紅の花の写真が送られきた。
「久しぶりに大輪が咲きました。孔雀サボテン、本当は此れが10輪も咲くはずでしたが、鉢を落として割ってしまい、蕾は2個だけ生き残りました。でも今年は家にいましたから、大輪を咲かせてくれました」。
眺めるほどに惹きこまれる。放射状に並んだ花弁の中心から、まるで落ちゆく花火の光跡に見えるのが雄蕊だろう。複数の放物線がはらはらはかなく落ちてゆく。夜空に大輪を浮かび上がらせる花火のようだ。花弁の沈むような紅に、雄蕊と雌蕊は、光加減なのか、黄金色に耀いてみえ、時間が止まる。
昨日朝テレビをつけると、マッタレルラ大統領が、人気のないローマのヴィットリオ・エマヌエレ記念廟で、一人、故国壇に建国記念の花輪を手向けていた。大統領が歩を進める傍らで、弔礼ラッパが一人寂しく吹かれ、頭上を9機の空軍機が三色旗を空に描いて飛び去った。
平年なら、記念廟が聳えるヴェネチア広場には見物客が犇めき、数人一斉にラッパを吹きならす。今年は全てが静謐のもと執り行われていた。
それからマッタレルラ大統領は、ヨーロッパCovid発端の地となったコドーニョの墓地に向かい、入口の壁に嵌め込まれた目新しい「イタリア共和国大統領 Covid-19に斃れたものの追憶に 2020年6月2日」と刻まれた大理石碑に、改めて追悼の花輪を捧げた。
「互助そして寛容の精神に、専門職の誇りに、忍耐に、規則の順守に、わたしたちはこの手で触れました。事あるたび、わたしたちは国家の意味と利他主義をあらためて発見しました。わたしたちは苦難の絶頂を前にして、共和国の真実の顔を見出しました。そして今、この掛け替えのない財産を無に帰することなど、どうして出来ましょうか。何よりまず、わたしたちはこの数週間の間にウィルスに斃れた、医師や看護師、医療関係者のみなさんを思い起こさなければなりません。どんな困難にあっても、この絆こそがこれからもわたしたちをより力強く結びつけてくれるに違いありません」。
カリアリの劇場オーケストラでリハーサル再開。ソーシャルディスタンスを保ち、仕切りを立てて演奏しているから、オーケストラも大変だろう。スタジオ録音のように、指揮者もブース毎の音の整理が先決になる。各セクション毎にそれぞれの呼吸や感覚に任せていたものを、否が応でも指揮で併せざるを得ない。東京アラート発令。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロとナディアの姿を玄関の向こうに認める。家族間の往来封鎖も解けて、早速隣に住むアリーチェの娘を迎えにきたようだ。サンドロが満面の笑顔で「おお、何箇月ぶりだろう」と嬉しそうに声を上げると、2歳になるマリアンナが「おじいちゃん、おばあちゃん」と叫んで、駈け寄った。
サンドロが思わず抱きあげようとすると、「キスは駄目ですよ」と隣からナディアが悪戯っぽくい声をかけた。ナディアは先日定年を迎えるまで、ニグアルダ病院放射線科の医師だったから、サンドロの健康管理には細心の留意を怠らない。恨めしそうにナディアを見るサンドロの姿が子供のようで微笑ましい。

192名が死亡した2009年7月5日ウルムチ騒乱までの新疆ウイグル自治区弾圧の流れ、最近高まる抗議活動の発端の一つ、2011年3月のチベット僧侶の焼身自殺から現在まで、そして2019年の香港夏の抗議活動についても、「自画像」に含めることを決める。

戦争、紛争と弾圧との線引きが素人には難しく、数ケ月悩んできた。当事者ではないからわからないし、陪審員を気取るつもりは毛頭ないが、中国各地の問題は、紛争ではなく一方的弾圧に見える。当初、作品には戦争、紛争のみ収録すると決めていたが、こんな曲を書くことも金輪際ないだろうから、後悔したくなくて結局入れることにした。
紛争であれ弾圧であれ、双方言い分はあるに違いない。アジア解放と大東亜共栄を実現すべく日本軍はアジアで戦争する、本気でそう信じて戦った兵士は多数いたに違いない。
息子がイタリアの小学校に通っていた頃、仲の良かった級友のアドリアンに、「お前のこと好きだけど、日本はフィリピンに昔酷いことをしたんだって。お母さん言ってた」と言われ、どういうことか息子に問い質された。戦争とはそういうことだ。

6月某日 ミラノ自宅
マッタレルラは「国家を再発見した」と言ったが、では国家とは何か。
複数国家間で国民に決定的憎悪を植付けるのは、市民、国民レヴェルでは容易ではない。インターネットが進んだ今日ですら、最初の一歩は、市民レヴェルではなく何らかの煽動が介在あってこそ、踏み出せるのではないだろうか。
例えどこかの国家を恨んでも、国家と市民は全く別だ。そこには善人も悪人もいて、自分と気の合うものも合わないものもいる。悪人も気の合わない連中も、国家ではない。
国家として殺戮に参加しても、裁かれることはないかも知れないが、殺める相手を国家ではなく一市民と認識した瞬間から、自らの脳裏には殺人として記憶に刻まれ、途轍もない懊悩に苛まれる。
酷い薬物中毒下で判断不能にされていても、ほんの一瞬でも正気に戻れば、以後一生絶望に打ちのめされるに違いない。今日、世界各地に多数捨て置かれた過去の少年兵たちの記憶を、誰が癒やせると言うのか。

6月某日 ミラノ自宅
シリア国歌を書いている最中に、さとうまきさんのコラムを読んだのは、 毎月のことだから偶然とは呼べないのかもしれないが、ちょうど香港の州歌を書いていて、香港の国歌条例が成立したのを知ったときには、少し気味が悪かった。現在、香港では中国国歌「義勇軍行進曲」を侮辱するのは禁止されている。
2019年香港デモの部分で、香港記念歌「香港に栄光あれ」を使用したが、以前の西沙諸島、南沙諸島紛争に於いては「義勇軍行進曲」を素材とした。
チベット州歌を書いていると、日本のチベット難民と知合ったためか、無意識に感情を籠めそうになる。聴こえない筈のものを、無理に目立たせようとしていることに気が付き、自らを諫める。各旋律を認識させる目的で書き始めたのではなかった。

3月以降、外食、出前、惣菜など一切食べていない。一日三食全て作り、一人で食べるのは、人生初の経験。以前は街の閉鎖で出来なかったが、閉鎖が解除されても、帰国まで病気に罹るわけにいかなくて、気が付けば自炊が続く。

6月某日 ミラノ自宅
帰国前に更新する身分証明書の写真を撮りに出ると、家の前で、車で駆け付けた川本さん御一家と会う。どうしているかと心配して、買ったばかりのキムチと日本米を届けて下さった。ありがたいことだ。ご家族みなさんお元気と伺い安堵する。
作曲終盤、強弱を書き込んでいくと、音が途端に瑞々しくなる。つい音楽的に音を置きたくなるが、感情に流された音は、大抵翌日消去することになる。そうした音には信念がなく、信頼されていないから、身体に纏わりついてくる。
ウルムチ7.5騒乱を書足す。流れで書きそうになる度、消しては顧みている。

6月某日 ミラノ自宅
日記を書留める時間もない。朝3時半に起きて作曲をして、7時過ぎにナポリ広場まで歩きパンと新聞を買って帰る。それから日がな一日作曲。
マリゼッラとメールのやりとり。
「あれから元気にやっていますか。今や欠かせない習慣みたいになったけれど、フランコに宜しくお祝いを伝えてください」
「いつも心遣い有難う。お陰様でわたしも元気。わたしにとっても、今日はフランコを思い出す特別な一日です。いつも思い出しているけれど。あなたもどうか元気で。もうすぐミラノでの一人暮らし日々も終わるわね」
「未だミラノです。漸くオーケストラを書き終えられそう。くれぐれもよろしくお伝えください。今年はヴェローナに花を届けられそうもないから」
「あなたの曲が完成して嬉しいです。どうか日本の演奏会が実現しますように。わたしも何時ヴェローナに会いに出かけられるか、わからないわ。電車に乗るのは未だこわいもの。でもフランコにはよく言っておくから心配しないで」。

6月某日 ミラノ自宅
リコルディのマルコから「Prom」について連絡があり、直後にティートからも電話がかかる。11月ティートがドナトーニ曲再演を考えていて、どれがよいか相談を受ける。電話を切った途端、今度はパオロから「最後の夜」の再演に手を貸してほしいと連絡が入る。まるで皆が彼の誕生日を待っていたかのようで、不思議な心地。
歿後20年。生前、自分が顧みられるのは歿後5年くらいのものだ、10年でも凄い、などと笑って話していたから、20年経ってこうして話題に上るのは、本人はきっと大喜びしている。

日本のSさんより電話あり、この春、封鎖下のミラノで邦人芸術家Aさんが自死されたと聞く。思いつめてアパートから飛び降りた。
街全体が重苦しい空気に圧し潰されそうだったあの頃、誰でもそうなる可能性はあったのかもしれない。
ダヴィデより「diventa pi? chiara quando ridi(微笑めばより澄んでゆく)」の楽譜を送ってくれとメッセージが届く。昨年失った娘がそこにいると言う。
大学研究科終わりに書いた曲だが、していることは現在と大差ない気もする。無意識に同じ場所へ戻って来ていたのか。昔は確信ないまま音を置いていたものが、煩悩も消え媚びる意味も感じなくなって、裡に沸々していたものが、吐露されるようになったのか。向学心の欠落か。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」作曲の過程で取上げたリベリアについて思い出す。
解放された黒人奴隷のアフリカ帰還計画に基づき、1822年初めてアメリカからの帰還者が入植をはじめた。
1847年アメリア合衆国憲法を手本に憲法を制定し、リベリアは建国された。
解放奴隷の入植者、アメリコ・ライべリアンは、同じ黒人の先住民族を差別弾圧し、労働力としてゴム農園で奴隷同様にあしらい、1931年には国際連合から告発されている。
1980年、先住民族出身者によるクーデターで、アメリコ・ライべリアンの大統領は暗殺されると、今度は別の部族出身者が先住民族出身の新独裁者に攻撃を加えるようになった。こうしてリベリアの凄惨で長大な内戦が始まった。
1989-97年の第一次内戦で40万人から62万人が、99-2003年の第二次内戦で15万人から30万人が死亡したと言われる。
リベリアでは、現在でもアフリカ系住民以外投票権を持てないはずだが、黒人が黒人を支配し、互いに怨恨を重ねてきた歴史は、内戦後漸く落着きを見せつつある。併しながら、これだけの命を失った国力は、簡単には戻らないだろう。単に黒人がアフリカに帰れば幸せに暮らせるわけではない。物事を単純化しなければ理解できなくなったのは、我々が思考を放棄しつつある証左かもしれぬ。

ここ数日、ジョージアでアントニオ・スミスが警察に誤認逮捕され手首を骨折したり、ボルチモアのOuzo Bayで、マルシア・グラントと9歳の息子がレストランから拒否されるさまが、インターネットで伝播されている。特に彼女の9歳の息子が唇を噛みしめ屈辱に耐える姿は正視できない。
人口比率が大幅に逆転し、早晩黒人が白人を統制する立場になったとき、黒人が白人を対等の友人として受け止めてくれることを切に祈る。

6月某日 ミラノ自宅
69年から現在に至る紛争地域を巡る「自画像」では、ソマリアやジブチ、エリトリア、リビアの国歌を複数用いる必要があった。言うまでもなく、この半世紀に繰返し戦禍に見舞われた地域で、これら三国及びエチオピアが、第二次世界大戦までイタリア植民地だった。
殊に、1885年から1941年までイタリア統治下にあったエリトリアのアズマーラは「アフリカのローマ」と喩えられ、特に美しい街と仄聞する。未来派建築、ファシズム建築傑作の宝庫で、近年ユネスコ世界遺産に登録され、ミラノ工科大が修復に携わる。
未来派建築は昔から大好きだったから、1938年ジュゼッペ・ペタッツィが設計した飛行機形「Fiat Tagliero」が現在も無事に残っていると知った時には、すっかり興奮した。ファシズム期文化遺産のなかでは、音楽や文学、絵画と比べても、建築は傑出している。これだけ芸術品の名に相応しい建築物の犇めく街はイタリアにも皆無だから、ただ羨ましい。
アズマーラ人はイタリア植民地文化を現在まで受継ぎ、バールでエスプレッソを啜り、アニス酒を舐め、オリーブ油を胡麻油で、小麦をヒヨコ豆粉で代用し、美味しそうな植民地風イタリア・エリトリア料理を食べる。
アズマーラには、最大級のイタリア人学校があって、伊語話者は現在も一定数残っている。ムッソリーニがエチオピア戦線を始めるまでは、イタリア人とエリトリア人は平和的に共存していたとも読んだ。
エリトリア難民は1974年のエチオピアクーデター以降急増し、93年のエリトリア独立戦争後彼らの多くはエリトリアに帰国したが、今度はエリトリアの独裁体制に耐えきれず、イタリアに戻ったものも多いそうだ。
現在イタリアには9000人余りのエリトリア人が暮らし、そのコミュニティの中心はローマとミラノにある。リビアやジブチから船でイタリアを目指したものも多いが、エリトリアを出国できず国境で処刑されるもの多し、とある。

それとは別に、イタリア人とエリトリア人の間に生まれたイタリア系エリトリア人も数多い。
当初入植者として平和に暮らしていたイタリア人と現地人との間に生まれた子供は、80年間に少なくとも15000人にのぼるが、その実、彼らイタリア人の殆どはイタリアで既に結婚しており、本国に妻を残してきたものばかりだった。
そのため、「イタリア系アフリカ人の血統を保護する」という理由をつけ、ムッソリーニは、dqala=混血児と蔑まされた子供たちが父姓を名乗るのを禁じる法律を施行した。本国のイタリア人の血統を重んじたのだ。
その結果、6年前の統計でさえ、未だ300人以上のイタリア国籍申請がアズマーラで滞っていて、認められた国籍申請は現在まで80人足らずと言う。
エリトリアに限らず、イタリア本国に引揚げたアフリカ系イタリア人は確かに多く、良く知っている音楽家仲間にも一人いる。周りは全く気にしていなかったが、暫く前に苗字をイタリア風に改名して、愕いた覚えがある。
彼は特に打楽器奏者だから、アフリカ風の名前なら一層格が上がる気すらしたけれど、それは他人の勝手な言い分であって、本人は複雑な過去を引き摺って生きてきたに違いない。

6月某日 ミラノ自宅
離れていても毎日電話するような関係ではないが、週に一回ほど富山に滞在している息子から電話がかかる。そんな時、息子は決まって伊語で話しかけてくる。日本に滞在していて、伊語も自身のレゾンデートルの一部と気が付いたのだろうか。単語が出て来ないと繰返していて、随分変わったと思う。以前は伊語など絶対話さないと拒絶していた。
イタリアで「中国人」とか「你好」と揶揄われるのが、堪えられなかったようだ。そんな事かと笑いたくなるが、思春期の息子にはさぞ辛かったのだろう。
確かに幾度となく「中国人!」と声をかけられた経験はあるが、こう罵られる中国人を可哀想とこそ思えども、こちらは中国人ではないので、何時の間にか何とも思わなくなっていた。
人種差別は悪だろうが、差別や偏見を持たぬ人間など、どれだけいるのか。自分だって、きっと無意識に人種差別や偏見に参加しているに違いない。せめても他人に向けて言葉を発する前に、今一度顧みる努力を惜しまずに、成るべく美しい言葉を選びたい。

早朝散歩の折、二三日に一度、トルストイ通りのキオスクに立寄っては「レプーブリカ」新聞を買って読むのが日課なのだが、今朝は、ファンファンの封鎖下武漢日記「Wu-han」を購った。報道されない市民生活や政府への不信が赤裸々に綴られている。封鎖期間をミラノで過ごした人間にとって、自らの数ケ月と重なる部分も多々あって、胸が締め付けられる。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」の楽譜データを送付。
3月初めに家族とノヴァラへ向かった際、夜半、宿から友人宅に泊まっていた家人とメッセージのやりとりをして、このままミラノに残り未曽有の経験と対峙した方が、納得できる作曲が出来ると励まされたのを思い出す。
学校の仕事もミラノで闘病を続けていた留学生も含め、家人がそう言ってくれなければ、残ることはできなかった。不安定な状況下で、半年に亙って息子の面倒を一人でみて貰い、感謝に堪えない。
謝意は息子に対しても等しく抱く。家人を支えるよう繰返してきたが、今度会う時には、以前より格段に逞しくなっていると確信している。
毎朝3時や2時半に目を覚まし、5時半くらいまで作曲をしてから、無人の街を暫く歩き、授業や試験がなければ1日作曲を続け、22時くらいには困憊して眠り込む。そんな生活をしていると、身体が文字通り空洞になるほど、感覚が鋭敏になってゆく。
メルセデスから連絡あり。ミラノの成長学研究所(Auxologico di Milano)で血清検査を受けてきたという。結果は陰性。

6月某日 ミラノ自宅
学校から通知が届いた。6月15日より、漸次校内使用を許可してゆくとのこと。尤も、校内の使用は年度末の実技試験が中心で、恐らく室内楽の補講なども行われるのだろう。
務めている音楽院は、ミラノ市立学校というミラノに四つある大学資格の専門学校の一つで、音楽(クラシック・ジャズ)、語学(翻訳・通訳)、舞台(演劇・ダンス)、映画とそれぞれ別組織から成り立っている。
それら四校を取りまとめている財団より、先日の遠隔授業に関するアンケートの結果が送られてきた。興味深いので書き出しておく。各学校は2月24日から遠隔授業を開始している。
全校併せて144名の教師より回答あり。
そのうち73%が今回初めて遠隔授業に携わった。
そのうち58%が理論実地の混成授業。32%が実地授業、10%が理論授業を行った。
それら遠隔授業のうち、65%がヴィデオ会議形式の集団授業、17%がヴィデオ会議形式の個人授業、9%がそれらの混合、3%が資料の共有によるもの、3%が授業実施が不可能、3%が録画、録音を使って行われた。
遠隔授業に際して、33%がスカイプ使用、同じく33%がZoom使用。17%がMicrosoft Teams、2%がWebex、同じく2%がWhat’s app 1%がGoogle meetを使用した。音楽の教師のうち13%は複数の方式を採用していた。
そのうち54%の教師が、遠隔授業は有効と回答。そのうち38%はどちらかと言えば有効、15%は有効と回答。語学校の教師のうち70%有効と回答したのに比べ、映画43%、舞台36%に留まった。
全体の62%の教師が、遠隔授業方法について、何らかの訓練、サポートが有効と回答。そこには語学の68%、音楽の57%の教師が含まれる。
全体の53%の教師が、covid終息後、遠隔授業継続は不可能と回答。しかし語学の62%は継続可能と回答。
全体の71%の教師は、今回の経験に学生は満足していると回答。そのうち59%はどちらかと言えば満足している、12%は明らかに満足していると回答。しかし、肯定的回答は、映画では57%、舞台では46%に留まった。
自由記入欄には、学生側の通信事情の難しさや、人間的な相互の関係構築の困難、精神的、肉体的、視覚的な疲労、教師の準備量の増加など、否定的な意見として挙げられているのに対し、より密な学生との関係構築の可能性、学生が各自より責任意識をもって参加、資料共有などの簡略化、移動省略によるストレス軽減、環境への負担軽減、授業時間の柔軟対応の可能性、他国からの参加の可能性など肯定的な意見も挙げられている。
今後の可能性については、学生に等しくデバイスを供与し、アプリケーションなどの無償使用許可を与えること。独自のシステムの構築。授業外の準備に対する給与保証。

6月某日 ミラノ自宅
あれだけ沢山の音を書いて、曲に書き込めた思いは、せいぜい一つくらいではないだろうか。その一つが確かに演奏者や聴き手に伝えられれば、それ以上の幸せはないが、きっと難しいことだろう。
悲しみと怒りと恐怖。或いは、連帯感に対して、身体の芯に燻る感動や使命感の自覚、足を踏み出すために必要な自己肯定感や、それに対する喜びに近い感情の混交だろうか。
言葉として表現不可能な、混沌、混濁した何か。

長い間RFIのアフリカ関連の番組を愛聴していたから、今回これらの国々の歴史をより深く知る機会にもなった。誰とも会わずどこにも出かけず、家に籠っていただけだが、各地を探訪する心地すら味わえたのも、きっと寂しさを半減させてくれたに違いない。

各国の国歌に触れられたのも大きな喜びだった。初めてソ連邦アルメニア国歌を聴いたときは、端麗で愕いたが、アラム・ハチャトリアン作曲と知り納得した。ハチャトリアンは1942年にコルホーズを舞台にガイーヌを書き、その2年後ガイーヌ三幕の主題を基にこの国歌を書いたのは、ソ連邦賛美の意味もあっただろう。

各国歌それぞれに思い入れはあるが、戦時中に使用されていなかったため「自画像」には使用しなかった現ラオス国歌の旋律も、ソ連邦アルメニアやグレナダの国歌と同じように壮大で美しい旋律だ。
ビルマ国歌から素材を作るため、ずいぶん時間をかけた。往々にして軍事政権が行進曲風旋律を国歌に制定する傾向にあるなか、ビルマ国歌は個性的な前奏を伴い、不思議な魅力をもつ。
複数の国にまたがるカシミール地方のように、独立を目的として独自のスローガン歌を持ることもあった。やはり音楽は力を生み、協調を助けるのだろう。

日本帰国前に片付けなければいけない厄介で、地下鉄に乗ってセストの会計士事務所に出かける。
「車内のソーシャルディスタンスがとれない場合、次の電車をお待ちください」。一駅ごとに煩いほど車内アナウンスが入るが、既に乗りこんた乗客に向かって説教しても仕方がない。車内はある程度混んでいる。座席は隣り合って座らないよう、ステッカーが貼られている。
音楽院の院長選挙の結果、マルチェッロが圧倒的多数で院長に選出された。ジストニアが悪化する前まで、彼には指揮レッスン伴奏など随分世話になっていたから、早速お祝いを書き送る。

6月某日 ミラノ自宅
出発前に体調を崩したら困ると、必要以上に神経質になっていたのか、朝目が覚めると頭が重い。心配しながらナポリ広場まで歩く。日本に戻れば、暫く外出もできない。
歩いているうち気が紛れたのか元気になり、帰国前最後の機会と通っていた焙煎屋に顔を出した。2月以来の再会を喜び、何時ものようにコーヒーを呷ると、実に美味であった。
帰宅後、意を決して芝を刈り、気掛りだった雑木を軒並み切倒す。食卓前に聳えていた雑木は、気が付けば高さ3、4メートルにまで育っていた。

6月某日 東京行機中
朝6時半にタクシーを呼び、久しぶりにミラノの街を出た。とてもよく晴れていて、目の前に未だ雪を頂く雄大なアルプスが広がっていて、思わず歓声を上げた。
ミラノのタクシー運転手は併せて5000人ほどだそうだが、市民は未だ以前のように移動せず、特に夜間の利用客はほぼ皆無で、以前は夜間働いていた運転手も日中勤務に変わったため、現在全く仕事にならないと言う。
一ケ月も家に籠っていると、感覚もおかしくなってくる。ニュースを見れば気分が沈むので、最近はテレビも見なくなったそうだ。
SF小説が好きでよく読むが、我々はSFの世界を超えた状況を生きていて、本当に信じ難い、と繰返した。
週末の早朝だからか、道はとても空いていた。間もなく到着した半年ぶりのマルペンサ空港は、入場可能なゲートが2箇所のみに限定されており、全員検温を受けるようになっている。
早朝だからか、店は軒並み閉まっていて、人も少なく、がらんとしている。アリタリア便は未だ日本へ飛んでいないので、ルフトハンザ便でフランクフルトを経由して戻る。
朝食を摂ろうと喫茶店に入るが、外食は3月初旬以来初めてだから、妙な心地がする。
食後は水と新聞を買い、人混みを避けて時間を潰した。飛行機に乗り込むまで落ち着かず、緊張していたが、こんな思いは本当に初めてだった。
フランクフルトまでは、機体も小さくほぼ満席でよく揺れたが、深く眠り込んでいたからよく覚えていない。ヨーロッパ人が揃ってマスクをしているさまは、奇矯で愉快ですらあった。今後はこの姿が当たり前になってゆくのか。
眼下にフランクフルトの街が見えてくると、こうして外国へ来られたことが信じられず、感慨深い思いに駆られる。
フランクフルト空港に着くと、自由な往来が許可されているヨーロッパ便ターミナルは人も多く活気がある。様々な言語が飛び交う賑々しい風景に、懐かしさを禁じ得ない。少々怖い反面、嬉しくもある。
パスポートコントロールを抜け、ヨーロッパ圏外への航空便ターミナルに足を踏み入れた途端、まるで休止中のターミナルに間違って足を踏みいれたのかと思うほど、人の気配がすっかり失せて、店舗も全て閉まっている。
イタリアよりドイツは開放が進んでいると想像していたから意外だったし、不気味なほど殺風景な光景は、封鎖下のミラノの風景を彷彿とさせた。
羽田便は空いていた。隣の席は空席で、全体を見渡してもせいぜい2割か1割程度しか埋まっていないようだ。これで満席なのかどうか分からないが、Covidの厄介を除けば、機内は快適である。
乗客はそれぞれゴム手袋をつけたり、思い思いに自衛策を講じている。長時間のフライトだから当然だろう。靴を脱ぐ客はあまり見かけなかった。このような状況下で、働いている客室乗務員には、頭が下がる。
機中すっかり「武漢」を読み耽った。「無人の武漢の街は思いがけなく美しく」との下りに、数か月前、久しぶりに訪れたミラノをマンカが形容した言葉を思い出した。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝、羽田空港に着くと、先ずゲートに全員が集められた。日本人のみ30人ほど。揃って海外在住者のようだが、当然だろう。外国人の姿が皆無なのは、乗客は日本人のみだったからのか、それとも外国人は別のゲートに集められているのか、政府が外国人入国を制限しているからか。
機内で予め書き込んだ問診票を検疫官に確認してもらい、順番にPCR検査を受け、別のホールで待機する。近隣のホテルに移動するためには、検査の結果が出るまでホールに留まる必要があるが、公共交通機関を使わなければ、迎えが到着した時点で帰宅が許可される。早朝だったためか、思いがけず全ての手続きが迅速に進んだのは意外だった。
ホールを出てトランクを引取りにゆくと、全てのトランクが名前ごとに並べてあり、一つ一つに手書きの感謝のメッセージが貼ってある。日本人らしい心遣いに感銘を受ける。
予約してあったcovid対応ハイヤーで自宅に戻り、すぐに風呂を使って休んだ。家族が富山に行っていなければ自宅には帰宅できなかったので、有難い。
夕刻、家人が手配しておいてくれた食材宅配が届く。大根、ズッキーニ、玉ねぎ、小松菜、サラダ菜、プチトマトなどの野菜に、牛乳、卵、納豆など。今はこんなものも宅配できるのかと愕きつつ深謝。ドイツ、スペインの一部地域が封鎖されたと読む。

6月某日 三軒茶屋自宅
普段から和食を作るのは家人で、調理下手のせいもあるが、米はつい食べ過ぎて身体が重くなるので、家にある食材でパスタを作る。結局この方が炭水化物を総じて減らせるとこの数か月の経験で分かった。
解凍した桜エビを食べきらずに残しておき、小松菜一把とズッキーニ、大根少々に併せてパスタを作る。イタリアの大根をパスタに入れようとは思わないが、日本産は甘くて柔らかいのでズッキーニとの相性もよく、桜エビの出汁がよく絡む。
夜、先に帰国していたAさんより久しぶりにメッセージ。すっかり元気になり、イタリアの遠隔授業に参加するようになったと聞き、とても嬉しい。
国際通貨基金の経済予測発表。イタリアは前回発表時より大幅に悪化し−12.8%。日本は− 5.8%。イタリア各新聞に、IMF「壊滅的経済予測発表」の文言躍る。

6月某日 三軒茶屋自宅
6月のイタリアCovid推移新感染者数178-318-321-177-270-197-280-283-202-379-393-346-338-303-210-329-333-251-262-224-218-122-296-175 etc.
国内死亡者数60-55-71-85-72-53-65-79-71-53-78-44-26-34-43-66-47-49-24-23-18-31-34-8 etc.
ロンバルディア州死亡者数19-12-29-29-27-21-32-15-32-25-31-23-21-8-9-14-36-18-23-13-3-6-7-22 etc.月別致死率推移
3月1日3.15%-4月1日16.96%-4月21日18.52%-5月1日18.12%-6月1日18.12%-6月25日17.78%
数値でしか表せない人間の命とは何だろう。むしろ、数字は複雑な人生を歩み、人生がたくさん詰まった人間すらも表現できるもの、と考えるべきかも知れない。

ナポリの南、カゼルタ州のモンドラゴーネ、ボローニャ近郊、ジェノヴァ、ピエモンテの北にあるオッソラで新しい集団感染発生。新感染者数ではローマのあるラツィオ州がロンバルディアを超えた。ロンバルディアより早く全面解除された他州で、再感染が始まった。
東京都の新感染者数も55-48-54と続く。検疫所よりPCR検査陰性との連絡あり。引き続き自宅待機を続けるようにとのこと。
マリでデモ激化のニュース。写真でしか知らない、トンブクトゥやジェンヌの壮麗なモスクを思い出す。北朝鮮が対韓国軍事演習の可能性、中印国境紛争再燃。黒人差別問題だけでなく、書ききれなかったさまざまな世界の綻びがより広がってゆく。
目の前の小学校校庭では子供たちが歓声を上げ、体育の授業をやっている。イタリアでは学校は封鎖が続いていたから、久しぶりに聞く子供たちの声に感動する。

6月某日 三軒茶屋自宅
「ウスティカの悲劇」より40年。
1980年6月27日の20時59分、南伊ウスティカ島沖で81人搭乗のイタヴィア機が、不詳の二機の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落。
本来同時刻にリビアのカダフィが同海域を飛行するはずだったが、北太平洋条約機構軍の監視を察して早々にカダフィは引返した。イタヴィア機はこのカダフィ搭乗機と誤認されたと言われる。
裁判で証言するはずだった関係者が全員、揃って裁判直前に謎の自死を遂げ、真相は未だに明らかになっていない。
近海で訓練をしていたのが、唯一フランス艦のみだったため、イタリアではフランス軍の誤爆と考える市民が多いが、フランスは当然一切認めていない。81人の命と引き換えに、第三次世界大戦開始が、水際で回避されたとも言われる。
その三年後の1983年の9月1日、ソ連防空軍によって、領空を侵犯した大韓航空機が宗谷沖で撃墜され269人が死亡した。世界のどこでも冷戦の緊張がはりつめていた。
北大西洋条約機構のなかで、イタリアだけ国内の共産党勢力が突出していて、疎ましいことも多々あったのだろう。その名残は現在の一帯一路、果ては今日のCovidまで連綿と繋がる。
近代まで欧州の支配階級だった英仏独と、イタリアはどこかで一線を画している。昨年8月、追悼の作曲コンクールに指揮で参加した1980年8月2日のボローニャ駅爆破テロとウスティカの悲劇も密接に繋がっていると言われるが、どちらも真相は明らかになることはないだろう。左派テロとも、右派テロとも言われるが、巻き添えになるのは何の関わりもない我々市民に他ならない。
当時はそんな時代だったとも思うが、マレーシア航空がウクライナのドネツクで誤爆され298人も亡くなったのは、今からわずか6年前のことだ。
本日イタリアの新感染者数174人。死亡者22人。


(6月30日 三軒茶屋にて)

「出口の町」

管啓次郎

さびた橋をわたってゆくといい
電柱が樹木に変身中だ
垂直と水平がどこでも戦っている
また窓の不安がつづく
水路が心にひび割れさせる
あれはセイタカアワダチソウなのそうなの?
この風景こそ人の世のキワだ
そして終わりはいつでもやってくる
居住が無くなって土地にシメナワが張られる
だが土の下は1kmはあるはずだ
掘ってゆくつもりなら根気よく
決算を裏返して否定するのか
用水路は潜在的には奔放な大河
車がランダムな方向に逃げてゆく
また終わった、途切れた道が
明るい墓にぽつんと立つ女は白い服を着て
空は鏡のように曇っている
五色の吹き流しで苗床を守れ
どんなに守っても空にさらされている
雲の美しさ、美しい重さ
幽霊のように十字架が立っている
幽霊のように鳥たちが舞っている
土は山脈
もぐらは見えない
この先で直進するか左折か
水の光にふるふると脅かされている
ビニールハウスほど恐いものはない
つづく窓の恐ろしさ
区画された天国の扉
舗装なき道が川のように流れて
住宅を岸壁に変える
巨大なプレートが翼のようだ
おかげで川が生気を取り戻した
生気を与えることで生気が湧いてくる
この道には舗装がない
木々もすっかり裸になって
美しく瘦せている
葉のない枝が空をかきむしる
空に読めない文字を篆刻するのだ
古墳のような丘があって
聖域を定義しなおしているらしい
遊ぶ子は神々か、踊るのか、泣くのか
枯草が海のように荒れている
道のすぐ脇の通行不可能
突然に西洋が現われた
どこにもない西洋の亡霊だ
「暴戻」という言葉は使ったことがないな
人間はみんなそれだ
それが得意なのだ
人が占有した空虚が道路なら
私が花を咲かせましょうと樹木がいう
夕方の光がルートインを燃やし
すでに闇にある水を怒らせる
その家の住人は知りません
空が重いから必ず右へゆけ
「れ」の命令を守れ
霊は死にません組に投票しましょう
命がカナトコのように重い
水のように重くて運べない
氷のようにすべってほしい
ペイント屋の手前で花が道を守る
この道路もやはり誰も通らない
まるで牢屋のようにフェンスがつづく
この小川は渡るなと鎖がいう
重機(ローラー車)がぽつんと待っている
サッポロビールを飲みにゆこうよ
ほら、その先の紫の花を曲がってください
江戸切り蕎麦のそばに変な屋根がある
またニセの西洋
ここにホンモノは何もない
すべては既視の光景だったが
歩いていると
どんどん見慣れないものになってゆく
SALVAGEというが何を救うんだ
頬にエンボスされたタイトルの光
アスファルトが水の皮膜におおわれて
その奥の小さな部屋に住むのはきみだ
「住宅」と書かれた軽乗用車
水田の中を曲がってゆきな
整った白い箱に住む人々もいる
あの片流れの屋根を見ていると
どうにも苦しくなる
広すぎる駐車場に車はいない
草が飛んで戻ってきた
水の層を避けて生きるのか
かまぼこ型の孔があいた建物や
丸い木に守られた家がある
山は遠いか、気配は近いか
車たちが集まり出口は見つからない
家が問題だ家の屋根が
区画のゆがんだ水田
壊している/放置された建物の構造
光が棄権する
危険な角度において太陽を避けようと
塀際を歩く
一本の電線の下をゆく
誰も着ない洋服を由麻はどうする
樹木が頭髪のように刈られて
むきだしの地面を見ている
下着姿の女
2/4は軽乗用車、窓は黒い
アパートの窓が観客席のように多いな
スリットになった窓は機械山羊の目
白い砂利をばらまきながら
太陽光発電を支援している
ここまで来たら住めないでしょうというくらい
ブロック塀の中は森に戻った
クリスがクスリのアオキに通うため
地面に道ができました
もう作物はできない
水たまりは湖のように広がる
使われない車に青いシーツをかけておく
過去十年のうちに塀が倒れてしまった
それも緑の反乱だ、遠くが明るい
雲は厚いが夕方の光がやってきた
影を連れて
小さな人が歩く姿が光の刷毛で
暗い緑にさらりと描かれている
道が終わった
道が道を回避する
鳥が飛んで道を回復する
その先では亜熱帯を制作中
棕櫚が泣きながら灰色に抵抗する
この道を使ってはいけないこのアスファルトを
標識が三角形の白い顔をして
さびしそうに笑っている
高架があるときその下で何かが途絶えた
行き場がなくもう出口もない
だんだん写真に映らなくなってきた
もうこの絵を見ているだけでいいよ
そこで出てそこを走ると
THE SPORTS AUTHORITY があり
TOYS ‘R’ USがある(Rは鏡文字)
荒れる海のような中央分離帯だ
命を預けたくないので
病院のまえは必ず迂回する
ここにも奇妙な西洋パティスリあり
とても人が住める気温でない夏だ
温度や湿度というより雲の色だ
灰色だ、人を拒絶している
鳥獣や霊を歓迎している
そしてまた濡れた路面があって
草が勇気のように湧いてくる
側溝にかぶせた網目の蓋が
心を割る
それから非常に場違いなigrejaがあった
ポルトガル語の祈りが聞える
不法投棄された石の群れが
血を流しているように見えるだろう
そこからゆっくりカーヴする道は
誰も住まない充満した町
あの街路樹はなんといったっけ
桐生に海はないのに競艇場があるのか
そこに広大無辺な無料駐車場あり
森を作るつもりか雨上がりの地面では
緑の予感がゆれる
そして整地された廃屋(まだ人が住んでいる)
そしてピュアな恋愛ホテルの裏は墓場
突然出現する朝鮮飯店で
しゃぶしゃぶでも食べようかな
スロープありて軽が並びし夕方を
そのまま絵にしたわけだ
この道はもう使わないので
植物たちに返そう
アスファルトも自由に割ってください
マグマを割るように
この広場なら水たまりでいいです
車はおとなしくお尻をむけている
この季節にはツツジ咲き
できそこないのアメリカのようだ
その証拠にはごらんあちらに
自由の女神が立っている
手前には「土」がつまれて
(さくらっ子? もぐらっ子?)
さらに地面に孔が開いている
いらないものは高架道路下で回収します
ここにきみの心や
誰であれ死体を捨てないでください
その先にぽつんと立つ新建材住宅は
もうじき太陽からも捨てられそうだ
そうなったらさようなら
さようなら
すべてが救われて
出口はまだない


(吉江淳写真集「出口の町」全3冊の観察から)

梅雨の日々

高橋悠治

人間が地球の隅々まで入り込んで そこにいた動物たちを追い出し 草木を切り倒しているうちに バクテリアやウィルスをお返しにもらうことは これからもなくならないだろう だからといって 閉じこもって暮らすのは 長続きしない 人間はじっといてはいられない動物で さまよい歩くほうが向いている と言いたくもなる

6月は毎日のように出歩いていた 小さな店がならぶ通りや 裏の小径 大通りは人気がなく 大きな店は閉まっていた

録音が二つ 声とピアノのために書いた曲を波多野睦美と フローラン・シュミットの連弾やダリウス・ミヨーの朗読とピアノの曲を青柳いづみこと 知らない音楽で 自分では選ばないような曲に出会うと それが自然にできる他人の手がふしぎに見える

それが終わって 7月のリサイタルの練習にもどると 手が まるでちがう動きかたに とまどってしまう 1966年にはじめてアメリカに行った時に出会い それから何年かつきあっていたポール千原の音楽 近藤譲を通じて知ったリンダ・カトリン・スミスの曲(井上郷子が2013年日本初演している)

ポールの『サヨナラ』という ベートーヴェンの『告別』ソナタと美空ひばりの『リンゴ追分』が聞こえる曲で終わるので プログラムの最初に『告別』を置いてみた 引退公演だと思うひともいて それもいいかもしれないが 生活のためには まだピアノを弾いているだろう それでも 大きなホールではもうリサイタルはできないだろうし しない感じがする リサイタルというかたちよりは その前からある 何人かの合奏やソロの入り混じったかたちのほうがおもしろいだろうし まだ知られていない可能性があるかもしれない

小さな曲を作る機会はまだある 長い曲は 他人の時間を使って作られる オーケストラや合唱は それぞれちがう人たちをひとつにまとめようとする 反対に まとまろうとするものを散らし 続こうとするフレーズを邪魔して 隙間をいれる サティやモンポウのように短い曲 ヴェーベルンの結晶のようにまとまって閉じていない 言いさしのように 先が見通せない曲がった道のように 断片のように 途切れとぎれて いつか聞こえなくなる音楽 そう思っていても 終わったところで 終わった感じができてしまう これをどうしたらよいのか