イエメン人のコーヒー売り

さとうまき

6月に、青年海外協力隊でエジプトに行っていた愛媛の大川理恵さんから相談を受けた。難民申請中のイエメン人がいて、出産を控えているんだけどお金がなくて病院に行けないから自宅で出産したいって言っているらしい。それは大変だということで、さっそく様子を見に行く。難民認定されなくとも、出産の費用は、市がいくらか出してくれるそうだが、日本語がわからないと本当にもらえるのか、不安だらけなのもうなずける。

イエメンと聞くと僕は特別な思いがある。1994年に協力隊でイエメンに派遣され、一か月くらい首都サナアで暮らしたことがあったからだ。実は、当時も内戦で、外出は制限されていて、気が付くと空爆、スカッドミサイルが飛んできたり、そこらで銃撃戦が始まって、軍用機に載せられ、ジプチの難民キャンプに収容されたことがあった。それ以来イエメンには行けていないので特別な思い入れがある。

イエメンは、2015年から、内戦が激しくなり、「世界最悪の人道危機」と呼ばれている。

あれ、「世界最悪」って、シリア内戦ではなかったけ? 「世界最悪」詐欺じゃないかと思って、調べてみると、シリアは「今世紀最悪」という風に使い分けているらしい。

にしても、シリアに比べてイエメンは忘れられている。日本のNGOもイエメンで活動しているという話はほとんど聞かないし、難民申請しているイエメン人は、シリア人に比べて冷遇されている感が否めない。

大川さんは、いらなくなったベビー用品とかを集めていたが、「イエメンといえばモカ・コヒーだ」と言ってイエメン産のコーヒーを見つけてきて販売して収益を支援に回すことを考えた。赤ちゃんは8月に無事に生まれて出産お祝い金も10万円を渡すことができた。これからも、コーヒー販売を続けていくというからたくましい。

モカ・コーヒーは、もともとイエメンのモカ地方が起源らしいが、日本で買えるのは、安値のエチオピア産とブラジル産のブレンドがほとんどのようだ。

というのも、イエメンには、カートと呼ばれる覚醒作用のある葉っぱがあり、こいつをくちゃくちゃ噛み続けてカエルのように頬っぺたが膨らませて、そこにため込んで、またくちゃくちゃやっているうちに気持ちよくなってくるらしい。そいつはかなり高価で売れるので、コーヒー農家は、カートを栽培するようになってしまったので、コーヒー産業はすたれてしまったのである。

大川さんが見つけてきたのが、大分のイエメン人が直接イエメンから輸入しているという。やり手のビジネスマンかなと思いきや、2014年に大学留学のために来日したターリックさんが、内戦が激しくなって故国に帰れなくなり、イエメンの復興にイエメン起源のコーヒーで貢献したいと立ち上げた。「支援ではなく、いいものを飲んでほしい」という素朴な好青年で日本語も堪能だ。

何が大変かというと、コーヒー農家は、現在フーシ派が支配している地域にあり、港は、敵対するハーディ政権が抑えている。荷物を運ぶのにいくつかのチェックポイントがあったりで苦労は尽きない。加えて、UAE とサウジの空爆。僕はよくエミレーツを使ってドバイ経由でイラクやらシリアに通っているが、UAEが戦争をしている国というイメージは想像しがたい。

イエメンのコーヒーを売ろうと張り切っているものの、イエメンのことをほとんど知らないのが現状。これじゃいかんと勉強会をしようということなったのだ。
第一回目は、ターリックさんに来てもらうことに。こうご期待。

「イエメン珈琲を飲んで、平和を考えよう」
10月4日(日曜日)20:00-
Zoom にてオンライン開催
1000円でイエメン珈琲付き
申し込みはこちらから➡https://saveyeyemenbabies.peatix.com/

191 草の原

藤井貞和

(うき身 世にやがて消えなば、たづねても
草の原をば問はじとや 思ふ)

沽(う)らんかな、沽らんかな。 伯夷・叔斉は、
旧悪を念わず。 あしたに
道を聞かば、思い
邪(よこしま)なしと曰うべし。 仁に志さば、
悪(にく)まるることなし。
已みなん、已みなん、今の政に従う者は殆(あやう)し。
かならずや聖か。 ああ、
天はわれをほろぼせり。 その
鬼(き)にして祭るは諂(へつら)うなり。
択んで仁に処らず、いずくんぞ知るを得ん。 己れを知ること、
莫(な)きを患えず、みずから、
辱むることなかれ。
たのしみ亦、そのなかにあり。 子(し)、
釣して綱せず。 弋(よく)して、
宿(ねぐら)を射ることなし。
天、徳をわれになせり。
喪に臨んで哀しまずんば、
君子よ、「器」ならず。 詩、
三百を誦するも、己れの、
能なきを患えよ。 過てば則ち改むるに、
憚ること勿れ。
乱邦には居らず、
後れ死す者、この文にあずかることを得ざらん。
薄氷を履むがごとしと、
ともに詩を言うべきなり。
甚だしいかな、われの衰えたるや、
知らざるを知らずとせよ。 鳳鳥、至らず。 河(か)は
図(と)をいださず。 厩(うまや)、
焼けたりとも、人を損えりやと。 詩は以て
興すべく、以て観るべく、
黙してこれを識(しる)し、
ふるきは温めて

(言葉遊び。ときどき「言葉遊び」のたびに非難される。詩はもっと真面目にやれ、藤井さん、って。万葉にだって平安時代和歌にだって、だいじな要素なのにね。「うきみよにやかてきえなはたつねてもくさのはらをはとはしとやおもふ」を行頭に置いてある。『論語』とはかんけいありません。歌は『源氏物語』の朧月夜さん、ごめん。ミスマッチを非難かくごで。「草の原」は墓原。)

製本かい摘みましては(157)

四釜裕子

自分としてはものすごくおもしろくてこれを誰かにしゃべりたい。しかし一番しゃべりたい相手はきっとたぶんそれをただおもしろいと済ますことはできないだろう。どうするか。でも言っちゃいました。笑ってはくれたけど本心はどうだったのか。と言いますのは……。

お待ちかねの冊子が届いた。版元直送、しっかり梱包。分厚くてころっとしてお弁当箱みたい。高さ50ミリはあろうかというアルマイトの。そんな弁当食ったことないけど。開けて早々目が釘付け。50ミリはあろうかという背の白色の表紙カバーが、めくれてる!? めくれた端っこが少々もりあがっていて、5ミリ前後の幅で表紙の背がのぞき見えている。という、そんな感じの空押しがほどこされている。実際、やわい本の背に人差し指かなんかを引っ掛けて乱暴に棚から抜き出せばそうなるような、最初からそんな古着をまとった倒錯のデザイン。凝ってる。

表紙はしかしのぞき見えていた白色ではなく、いわゆるフランスの伝統色のフランボワーズあたりの赤系だった。はずした表紙カバーの裏を見ると、なんと背の天側の端に懐紙をくわえて軽くついたようなフランボワーズ色の口紅のあとがある。シワの具合もほどよくて色っぽいわと思うも、花ぎれの銀色が刃物を思わせ、しおりひものフランボワーズ色は筋を描いてしたたる血のようで生唾を飲み込む。ただならぬ装丁にいそいそと銀色の本扉を開くのであった。

その衝撃に誘われるまま、〈液体ガラスの皮をむく〉なんて一編さえもぴったりだと思いながら一度読み通したところで、表紙カバーと帯を掛け直してまじまじと見る。カバーの端っこのほんのちょっとの微妙な位置。裏に刷られた唇のシワが表の空押しの柄にぴったりで、ぴったりで、ん? これ、ただのつぶれだわ。版元からうちに来るまでのどこかで受けた打撲痕、表紙の丸背のチリの部分が内側にきれいに折れて、フランボワーズ色が向かいの紙にうつるほどの強力な一撃をくらった。

そうか、そうか、そうだよねぇ、そうだよなあ……。だけれども、そういう装丁に見えたのだ。そう見えるような本なのだ。本が本なら即返品してただろう。だけどこれは返すつもりも文句を言うつもりもない。返品交換はむしろごめんだ。もうしわけないと言われるのもまっぴらごめんだ。だからどうかそっとしておいてください。だからこの話はここでおしまいにします。それにしても完璧だ。打撲痕は幅広の背の最上部に横書きされた文字にかぶることなく、いかにもぴったりのバランスで柄を描いている。Poems for なる文字群が、「やれるもんならやってみろ」と一撃を威嚇したかと思わんばかりだ。こんなことってあるんだな。ようこそここへ。クッククック。

団地ラボラトリー

イリナ・グリゴレ

小学生のころ、ソビエト連邦のドキュメンタリーで見たシーンを何度も再現しようとしていた。映画の中では特別の能力を持っている子供がソビエトのラボラトリーで観察されていた。科学者のチームが寝ているとき身体は浮かぶという現象がみられるため脳の電波などを詳しく調べていた。人の能力と可能性、脳の中の使っていない部分についての話だったが、当時の私はあのラボラトリーのイメージをみた瞬間とても懐かしく思った。なぜか、私もあの子と共感して、住んでいたコンクリートの団地がラボラトリーそのものだと思い始めたから。

あの夜から毎晩のように寝る前に身体が浮かぶ練習をし始めた。まずは目を閉じてベッドで横になる。家族が寝付いたあとの静かな時間だったから、自分の心臓の音がはっきり聞こえる。20代の時大手術を2回したあとでいうならば、全身麻酔から覚めて起きるとき聞こえる音は、機械につながっている自分の心臓の音そのものなのだ。この音は自然だ。生きるというサインなのだ。でも、あのとき身体はとても重くて、全然浮かばないのだった。

身体が動かない、無のような状態。そして、最初は手が上に勝手にゆっくり、ゆっくり上がり始める。自分は意識しているが、自分で動かしていないという状態だ。戻そうとしても戻らない。上のほうに誰か透明人間がいて、引っ張っている。心臓の音はものすごく大きく聞こえる。瀬戸内海の豊島にあるボルタンスキーの「心臓のアーカイブ」という美術館を訪ねた時、あの時の感覚を思い出した。私の心臓が聞こえるだけではなく、誰の心臓なのかよくわからないが誰かの心臓が聞こえる。次はもう片方の手が上に上がろうとしている。

自分の身体と周りのものとの距離がない状態だ。浮かぶ感覚が少し把握できて楽しくてしかたがなかった。宇宙飛行士の感覚を味わっているようだった。ベッドに横になったまま足だけ浮かぶ状態は、身体のパーツがバラバラになったようだった。皮膚でつながっているけれど、バラバラに浮かび始める。足の筋肉がピリピリするような感覚があるると、足の片方が上にゆっくり上がり始める。普通ならすごく不自然な状態なのに、腕と足は上に浮かんでいる。でも私にとって苦痛ではなく、逆にこうやってバラバラに感じる身体は自由になった気がした。時間はどのぐらいたったのか、どこにいるのかわからなくなる。暗い中、見えるのは自分の肌だけだったが、透明になり始めたと感じた。

さまざまな想像しはじめる。寒いのでラボラトリーのテーブルの上で私は大きなカエルになった。意識を戻すと、片方の足しか浮かんでなかったのが、もう片方も浮かび始める。ゆっくりと。今度は自分の胸に重さを感じる。足と腕を上に刺したまま、胴体だけベッドの上に残っている。ここから何時間かの作業が始まる。腕と足は違う世界に入ったまだ。胴体は胸のあたりが重くて全然浮かばない。何度試してみても0.1ミリも動かない。結局、諦めて寝る。悔しい。

昼の間はクシシュトフ・キェシロフスキの『デカローグ』にも出ている元社会主義共和国の地方都市の雰囲気を生きる。人と人はすれ違うが、お互いのドラマを知らないまま、すれ違う身体同士は同じ空間を生きている。夜になると私は自分だけの小さなラボラトリーに戻る。しかし、毎晩同じことが起きる。胴体は全然浮かばない。

高校に上がるまで、あきらめずにこの「研究」を続けたが、ある日、答えが見つかった。その日、モンシロチョウが私の腕に止まっていた。晴れた秋の日に団地から解放されて、祖父母の庭に座って遊んでいたとき、弱って飛ぶことのできない蝶が私の腕に止まった。初めて蝶を触る感覚だったのでびっくりして、私の腕の上を歩く蝶を何時間も観察した。蝶は私の手のひらで死んだ。その時、私の身体が浮かばない理由が分かった。人間の心臓が重いからだ。蝶や虫のように軽くなれないのだ。閉じ込められた空間で浮かぶことができない。人間が周りの背景を見る目と視線は限られている。違う側面と虫メガネを通したように世界を見ればいい、とその時に思った。ジョン・ミューアがいうとおり、自然を身体全身で見ることができる、目だけではなく。あの団地に閉じ込められたからだと分かった。結局のところ、社会主義という実験では、人間は自然の一部だと扱われてはいなかった。

思い返すと、あの団地で自分の脳の可能性をもっと訓練すれば、私もグリゴリー・ペレルマンのように天才数学者になれたかもしれない。数学が得意な父はお酒を飲みながら、一生懸命に数学を教えてくれたが、私の脳の可能性はそこにはなかった。詩を読むことが好きだったのだ。世界を表現する方法は一つだけとは限らないと思って、浮かぶ実験をやめた。

「現在、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)の労働者階級向け高層マンションで、慎重に報道陣を避けつつ母親と暮らしているペレルマン氏は、自分たちソビエト連邦時代の学生は、非常に幼い時から抽象的な言葉で考える方法を学ぶことによって、優れた能力を開発した、と語った。「赤ん坊は、生まれた直後から経験を積み始める。腕や足を鍛えられるなら、頭脳だって鍛えられないわけがない」

ペレルマン氏は、小学校のクラスで「解けない問題」に出会ったことはなかったそうだ。ところがあるとき、聖書の中の逸話でキリストが水の上を歩くことが出来たのはなぜかと問われ、答えに窮したという。「沈まずに水の上を徒歩で渡るためには、どの程度の速度で歩かなければならないか、解決しなくてはならなくなったんだ」

https://www.afpbb.com/articles/-/2797490


アジアのごはん(105)しば漬食べたい

森下ヒバリ

「しば漬食べたい・・」先日、ムラセさんちのボブが(ってだれやねん)、しば漬けを仕込んだ、毎年彼が仕込んでいるという話を聞き、それ以来ヒバリの頭の中で「しば漬食べたい・・」というフレーズが現れては消え、現れては消えしていた。

しば漬けというのは、赤ムラサキ色に染まった、コリコリしたナスやキュウリの漬物である。「しば漬食べたい・・」というのは90年代初めのフジッコ「漬け物百選」のテレビCMのフレーズだが、コンビニに駆けつけても、売っているのは添加物たっぷりの甘ったるい即席調味漬のものばかり。添加物のない昔ながらの漬物をコンビニやスーパーマーケットで見つけるのは至難の業だ。

しば漬は自分で作れるのか・・しば漬は複雑な工程なので漬物屋さんでしか作れないものと思っていた。ふだん料理をしないボブが作れるのであるなら、ヒバリにも作れるかもしれない。あの赤ムラサキ色は赤シソから出る色であろう。うう、もう、とっくに赤シソの季節は終わっているなあ・・あ、あれがあるじゃないかっ。

先日、九州の菊之助さん謹製のカボス果汁入り赤シソジュースを購入していたのである。菊之助さんのシソジュースは砂糖が入っておらず甘くないのだ。

「ふ~む」青い葉っぱのシソもあるし、これを合わせれば作れるんじゃないか。念のためしば漬けの作り方をネットで調べてみると、白ごはんドットコムには正統な赤シソを使う方法と、青いシソに梅干しを漬けたときに出る赤梅酢を加えて作る方法が載っていた。なるほどね、赤梅酢は、梅を漬けるときに赤シソを入れてできるものだしね。今回は甘くない塩入りシソジュースと青いシソの葉で作ってみよう。

作って見ると、キュウリとナスは水分が多いというのを実感する。漬けるとすぐに水が上がって来るからだ。1日置いて、出た水気を捨て、軽く絞ってから甘くないシソジュースとみりんを加える。そして、また重しをして2~3日漬ける・・できました!

「・・うまい」。色はほのかなピンク色だが、味はまさにしば漬。あっさりとしていて、いうならば、しば漬の浅漬けかもしれないが、野菜のおいしさが堪能できる。赤しその風味にショウガの辛みとミョウガの香りがアクセント、カリカリとしたキュウリとナスの歯ごたえ、ほのかな甘みとさわやかな酸っぱ味が絶妙である。おいしくできたので、急にしば漬に対する興味がわいてきた。

愛用している60年前に出版された料理本「つけもの」(婦人画報社刊 酒井佐和子著)をひもとくと、京都の変わった漬物、と書いてある。しば漬は京都の漬物だったのだ。佐和子先生は、しば漬にはあまり愛着がないようで、古漬けや塩漬けの野菜に赤シソの塩漬けを刻んで混ぜろ、とそっけなくいう。さらに梅干し漬の赤シソを取り出して絞って刻んでまぜてもいいと。むむ?

京都のしば漬の老舗のHPには、しば漬は平清盛の娘の建礼門院徳子が京都大原の寂光院に暮らした時にこの鄙の里の赤シソで漬けた漬物を気に入り、紫色の葉(赤シソ)で作ることから、紫葉(しば)漬と名付けたという伝承が紹介されている。寂光院のある京都大原には美味しいちりめん赤シソが古くから栽培されていて、その赤シソがしば漬を生んだのである、と。

「聞き書き京都の食事」(農文協刊)は、明治から昭和初期の地域の食文化が、じっさいに暮らして料理を作っていた古老からの聞き取りからまとめられた本である。そこには京都の北東の上賀茂、大原地区が古くからの農業地域で、京の町の食を支えていたことが書かれていた。そこの農家で、出盛りにたくさん余ったナス、キュウリやミョウガを赤シソで漬けこんだのがしば漬である。じっくりとひと月ほど乳酸発酵させて酸味を出す、と。なるほど、しば漬は、山盛り取れた夏野菜の売れ残ったものを活かすためにうまく考えられた漬け物のようである。

「つけもの」の佐和子先生のしば漬の記述は、どうも古くなった漬物の再利用のように読める。梅干し漬に入れたもみしそを再利用しても作れるし、しば漬は、京都の始末料理的な気配がぷんぷんする。あまりがちな梅干し漬のもみしそをたくさん消費できるからね。

梅漬けを赤く染め、しその香りを移すという役目を終えたもみしそは、そのまま食べてもあまりおいしくはないので、うちではいつも余ってしまう。残ったもみしそを乾燥させてゆかりを作ったりはするが、そんなに消費できない。大きな声では言えないが捨てていたこともある。最近はゆかりが大好きな友人にもみしそを軽く乾燥させてから(ゆかりに仕上げるのは大変なので)、差し上げているのだが。

しぶちん・・いや、始末が大好きな京都人が、残ったもみしそをほかすとは到底思えない。季節の余りものを上手に生かす、工夫から生まれた京都の漬物、しば漬。もったいないから始まったかもしれないしば漬。それがこんなにおいしいのだから、何も言うことはありませ~ん。よし、次は梅干し漬けのもみしそで漬けてみようっと。

〈梅酢ともみしそで作る簡単しば漬〉
1 ナス、キュウリ合わせて500gぐらい。ミョウガ4~5個ぐらい。ショウガ50gぐらい
青しその葉があれば細かく刻んで塩で揉んで汁を捨て(アクを出して)から少し加えると香りがいい。本漬けの時、カボスの果汁を加えてもさわやか。
2 ナスは半分に切って縦に5ミリぐらいの厚さで切る、キュウリは1センチ弱ぐらいの輪切りにする。ミョウガは4~6つ割りまたは細切り、ショウガは薄くスライスし細切りにする。10gの塩で揉んで重しをして下漬する。
3 1日置くと水が上がって来るので、水気を絞って、野菜の1割ぐらいの量のもみしそを刻んで加え、赤梅酢とみりんを各大匙2加える。再び重しをして2~3日常温で漬けて乳酸発酵させれば出来上がり。
4 重しをはずして冷蔵庫で保存する。刻んで食べてもおいしい。
*下漬の水を捨てて本漬けするのがおいしく作るポイント。こんなにと思うほど水分が出るが、えぐみもあるので捨てます。もみしそは、梅漬けに使った後のものでなくても、市販の塩で揉んである袋入りのものがあればそれでも。塩分が多いので入れ過ぎ注意。

バスのなかで本が読めなくなったら終わり。

植松眞人

 いつものバスに乗り、容子はいつもの二人がけシートの奥に腰を下ろした。都心から自宅近くのバス停まで、これから三十分近くこの席に座っていく。よほど疲れていない限り、容子はこの席で小説を読む。大好きな小説家の新刊が出たときには単行本を読み、読みたい新刊がないときには若い頃に読んだ文庫本を本棚から引っ張り出してくることもある。どちらにしても、仕事帰りのバスの中で読むのは楽しみのための小説だけだ。間違っても仕事に必要な資料を読んだり、上司から預かったレポートの数字を確認するようなことはない。
 このバスに乗るようになってもうどのくらいになるだろう。高校まではすべてが自宅の近くに揃っていたので、バスに乗るのは月に一度程度、家族で都心に遊びに行く時だけだった。大学の四年間は実家を離れ、叔母の家に下宿させてもらっていたので毎日自転車を使っていた。社会人になってからはいきなり関西への配属を命じられて、社宅から会社まで毎日歩いて通っていた。いま思うと歩いて通える場所にないと寝る暇がなくなるほど忙しい毎日だった。
 容子が実家に帰ってきたのは父が亡くなって一年ほどした頃だった。その頃、容子は最初に勤めた会社の同僚との結婚生活に失敗して、新しい仕事を探していた。毎年毎年、盆と正月には一緒に容子の実家に顔を出していた夫が、盆も正月も立て続けに顔を見せないことで母は容子の結婚生活の変化を感じ取っていたらしい。電話では単刀直入に質問されてしまい、容子は素直に答えた。
 すると母は、「それじゃ、こっちへ帰ってこない?」とまるで小学生に「晩ご飯だから帰ってきなさい」とでもいうようにするりと言ったのだったのだった。容子も「そうしようかな」と言って、母との二人暮らしがあっさりと決まった。
 実家で母と暮らし始めた頃に、母は冗談めかしてこんなことを言ったことがある。
「あんたと、二人でここで暮らすのが夢だったのよ」
 容子は驚いて、母を見た。
「夢ってどういうこと?」
 容子が聞くと母は笑った。
「だって、お母さん、お父さんのこと嫌いだったのよ」
「嫌いだった?」
 父が亡くなったときにも、あんなに泣いてたじゃない、と言おうとする容子を母は制した。
「あんたが言いたいことはわかるわよ。あんなに仲よさそうだったのにってことでしょ」
 容子は真顔で母を見つめる。
「大嫌いじゃないのよ。少し嫌いって感じかな。で、好きなところもたくさんあるの」
「ややこしいなあ」
「そう、ややこしいのよ。そのややこしいのが歳をとるにつれてもっともっとややこしくなって、時々顔をみるのも嫌になるのよ。もちろん、そんなときも笑ってるけど」
 母はそう言うと笑い出した。
「だから、この家で一緒に住むのがお父さんじゃなくて容子とだったら気兼ねなく楽しいだろうなって思ってたのよね」
容子は母の話を聞きながら、なんとなく思い当たる節があった。そもそも父は杓子定規な細かい性格で、おおらかな母とは意見の合わないことが多々あった。それでも、性格が違うからこそうまくいくこともあったはずで、今になって母が一緒に住みたかったと言い出したのは意外だった。
「でも、本当はもう一人一緒のはずだったのよ」
 面を食らっている容子に母は続けた。
「もう一人って誰よ」
「孫よ。あんたの娘。あんたが結婚して娘を産んで、娘のおむつが取れる前に離婚してシングルマザーになって、お父さんが亡くなったあとの実家に戻ってきて、三人で暮らすのが夢だったのよ」
「なにそれ。子どもなんていないし、女の子ってことまで決めってるし」
「だから、あくまでも夢なのよ。私の妄想」
 バスが大きく揺れた。珍しく本を開いたまま物思いにふけっていたことに気付いて、容子は本を閉じた。そういえば、私が本ばかり読んでいるのも、母に似たのかもしれないと思う。母は若い頃、小学校の先生をしていて、容子に読み聞かせをするのもうまかった。感情移入する一人芝居のような読み聞かせではなく、NHKのアナウンサーのような優しく温かな上手な読み聞かせだった。
 母が夢だと言っていた私との二人暮らしは二十年で終わった。容子がちょうど五十歳の時に母は七十八歳で亡くなった。いま容子は実家で一人で暮らしている。あれは母が六十半ばくらいの頃だっただろうか。こんなことを言ったのだった。
「あんた、バスの中で本読める?」
「読めるわよ。仕事とプライベートのスイッチを切り替えるのよ。バスの中の読書で」
「私もそうなの。都心のデパートに買い物とか行くでしょ。で、この辺にないような大きな本屋さんで大好きな作家の新刊を買って、帰りのバスで最初の何ページかを読むのが幸せなのよ」
 母はそう言うと、本当に嬉しそうに笑った。そして、その後、少し寂しそうな表情になった。
「だけどね、最近辛いのよ」
「なにが」
「本を読むのが…。根気がなくなったなあというのは前からあったの。若い頃は何時間でも夢中で読めたのよ。それこそ、大好きな作家の本なんて夕方が読み始めて明け方までずっと読み続けたりして」
「そんなの私だって同じよ。五十歳を過ぎてから、三十分も読むと肩がこっちゃう」
「でも、最近は根気だけじゃなくて、もう目がかすんじゃって。特にバスの中じゃ本を読みたくても読めないのよ」
「どんな感じになるの?」
「例えば字をじっと見てるでしょ。すると漢字と漢字の間のひらがなが漢字の影みたいにみえちゃって。もうね。読んでられないの」
そう言って、母は寂しそうに視線を落とした。
「家の中なら読めるんでしょ」
「うん。読める。だけど、バスの中で本を読めなくなったらおしまいだなあって。なんだか落ち込んじゃって」
 容子には母の言っていることがなんとなくわかるのだった。容子自身も母と暮らすようになってから、掃除が好きな母の掃除が、以前よりも雑になり、見逃しているゴミを見つけたりするとたまらなく悲しくなり、ふいに涙を流してしまったりすることがあった。そしてそれは、おそらく自分自身にもそんな日がすぐにやってくるだろう、という怖さでもあるのかもしれない。また、母が理想とした孫娘のいる生活を実現してやれるタイムリミットをとっくに過ぎてしまった自分自身の老いを見せつけられているからなのかもしれない。
 容子はしばらく目を閉じて、目頭を押さえた。そして、もう一度本の開いて、ぼんやりと文字の列を追い始めた。ひらがなが漢字の影のように見えることはなかったけれど、少しだけ漢字がその強さを潜めってひらがなに近づいているようにも思えたし、逆にひらがながその強さを増して漢字に近づいているようにも思えた。
 母の言う通りかもしれない。目がかすむとか、集中力が続かないということではなく、仕事帰りのバスの中でぼんやりと本を読むこともできなくなったら、それは愛する人を亡くしたり、仕事ができなくなるということよりもさりげなく、そして、取り返しが付かないほどの喪失なのかもしれない。
 バスはまた大きく揺れた。次の角を曲がれば私がたった一人で住む、父と母が建てた家が見えてくる。(了)

プレスリーが出ない、プレスリー映画

若松恵子

今年の4月に出版された片岡義男さんの『彼らを書く』に紹介されている映像を、順番に手に入れて、楽しんでいる。ザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、エルヴィス・プレスリーというロック史に燦然と輝く「彼ら」と再会しなおす体験となっている。

夏には、エルヴィス・プレスリーの章にたどり着いた。エルヴィス、今まで誤解していてごめんなさい!という感じだ。誰かが物まねしていた、ラスベガスの白いジャンプスーツのエルヴィスを、エルヴィスだと思っていたなんて。もったいない事だった。

エルヴィスが最初に映画に出演した「ラブ・ミー・テンダー」、「さまよう青春」、「監獄ロック」と見ていくと、映画の中の歌うシーンで輝いているエルヴィスに会うことができる。どの作品も孤独に生きる青年が歌の才能を見出されて成功していく単純なストーリーだが、彼そのままが出ているような、素直な演技に好感を持った。物まねみたいに大げさでコテコテな人ではないのだ。練習して身につけたダンスではなくて、自由にノッたらこうなりましたという体の動きも良かった。パラりと垂れるリーゼントがかっこよかった。ポマードで固まった髪ではなかったのだ。

ラスベガスのショーの直前の時間からさかのぼってエルヴィスの生涯を紹介する「ザ・シンガー」を見た後、歌う彼の姿をもっと見たくて、『彼らを書く』には紹介されていないけれど「ジス・イズ・エルヴィス」、「’68 カムバック」、「エルヴィス・オン・ステージ」を見た。片岡義男さんのエルヴィスは、入隊するまでのエルヴィスのようだけれど、映画から音楽の世界に戻ってきた、最後までステージに立ち続けたエルヴィスも良い。

そんな風に、だいぶ彼のことが分かってきた頃に見た、エルヴィス本人が出ない2本の映画がとても心に残った。立て続けに見たせいもあるかもしれないけれど、この2本が呼応し合って、今でもかすかに残響している。

『彼らを書く』には、本人が出ない映画がわりと紹介されていて、そこが片岡さんらしくて面白いなと思う部分でもあるのだけれど、「グレイスランド」と「ハートブレイクホテル」は本当に不思議な映画で、この本で紹介されていなければ見ることが無かっただろうと思う。(最後に紹介されているアルゼンチン映画「ザ・ラスト・エルビス(英題)」はどうしても入手できなくて見ることができていない。これが最高だったのになーと言われたら悔しいのだが)

「ハートブレイクホテル」は、1972年の設定で1988年に制作された映画。ツアー中のエルヴィスが、母親を元気づけるために高校生の息子に誘拐されて、その家族と数日を一緒に過ごすというファンタジーだ。エルヴィスなんて時代遅れだと思っていた息子といっしょに過ごすうちに、互いに理解し合い、父親みたいな役目を果たしたり、ロックバンドの先輩として歌い方を指南することになるというストーリー。エルヴィス自身もそんな時間の中でエルヴィスを取り戻したと言って去っていく。「あの頃の自分を取り戻したい母親と、ほんのいっときであれ1957年当時に戻れたエルヴィスとの、共通した到達点というファンタジーがここにある。」と片岡さんは書いていている。映画作者は、ツアー中にもし、こんな心温まるエピソードがあったら、というところからこの物語を発想したのだろうか。青年に拉致されても、その理由を理解したらこんな風に過ごしたかもしれない、そんなやさしい人としてエルヴィスを理解していたからこそ、このような物語を発想することになったのかもしれない。若者世代からエルヴィスは死んだと言われているような70年代に、でも、エルヴィスはロックンロールを共通項に若者にも受け入れられるんだよというファンタジーをエルヴィスのために作ったように思った。たぶん若い映画作者からのエルヴィスへの贈り物だ。

「グレイスランド」は、エルヴィスと名乗る男性を、ヒッチハイクで乗せることになった青年が、その男に助けられて傷ついた人生から再生していくという物語だ。彼はエルヴィスの物まねがうまい人なのか、それとも、ついにエルヴィスと名乗るまでになってしまった熱烈なファンなのか?謎のまま物語は進む。そして終わり近くなって、どうやら、彼は天使になって、今でも色んな人を助けている、エルヴィスその人自身なのだという事が分かってくる。エルヴィスに似ていないままで、エルヴィスなるもののエッセンスを表現したハーヴェイ・カイテルが良い。同じような意味で、マリリンモンローを演じたブリジット・フォンダも良かった。ハーヴェイ・カイテル演じる男が、物まねショーのような舞台でエルヴィスの歌を歌って、精根尽き果てて舞台袖に倒れ込んでしまうシーンがある。天使になったエルヴィスは、その気になれば歌だって歌えるのだけれど、それにはずいぶん魂をすり減らしてしまうというエピソードのようで、ちょっと悲しい。

けれど、この映画によって、エルヴィスは天使に姿を変えて、今でも多くの人を助けている。そう思う事ができてば、エルヴィスの早すぎる死も悲しい出来事ではなくなるのだと思った。

ポワローと過ごす日々

福島亮

急に寒くなってきた。昨夜寝る前に気温を調べると、11℃だった。ミラベルの季節は終わってしまった。こんな寒い夜、恋しくなるのはポワローである。

ポワロー。どれだけ探し求めたことだろう。高校生の頃読んだ、三善晃氏の料理本『オトコ、料理につきる』(文春文庫、1990年)の中で初めて出会った時のことは今でも忘れない。文庫本をお持ちの方は、148頁を開いてみてほしい。「スープ・ヴィシソワーズは女王の味」という見出しで、何やらあでやかな料理が紹介されている。材料を引用しておくと、次の通り。

材料(1人分)
じゃがいも 大1個、ポワロー(ぽろねぎ) じゃがいもと同量、バター 大さじ2、生クリームと牛乳 1カップ、ほかにヴイヨン・キューブ、塩、胡椒

ポワローを除けば、なんてことない材料である。問題はポワローなのだ。「ポワロー(ぽろねぎ)」って何だ? そう思った。残念ながら実家近くのスーパーでは、ポワローは見つけられなかった。それ以来、ずっと気になっていた。「ねぎ」というからには、葱なのだろう。でもどんな葱なのか。高校を出て、上京し、沼袋に住んだ。でも、せっかく東京に出てきたのに、やっぱりポワローは見当たらなかった。たぶん、他のことに浮かれて、熱心に探さなかったからだ。探し物は、案外近くにあるものなのに。

そのポワローが急に身近になったのは、フランスに来てからである。『オトコ、料理につきる』で初めて知ってから、たどり着くまでに10年もかかったのだ。最初の出会いは感動的だった。近所のスーパーに行くと、下仁田葱のようなたくましい葱が3本200円くらいで売っている。ポワローだ、とひと目で直感した。そして、それはポワローだった。以来、寒くなるとポワローが恋しくなり、求めてしまう。

ポワローはフランス語の呼び名で、英語ではリーキというらしい。どっちも何だかかっこいい名前である。姿は下仁田葱だが、いわゆる葱っぽいにおいはまったくしない。長さは60センチくらいだろうか。上半分は緑で、下半分は真っ白。一番下には、短く刈り込まれた体毛のような根が控えめに、でもちょっと大胆に生え、密集している。緑の葉っぱの部分は、変な喩えだけれどもチューリップの葉っぱくらいのかたさで、葉の構造も下仁田葱のように袋状にはなっていない。下の方は、まあ、葱である。これといって特徴はない。だけれども、日本でよく売っている葱よりは、随分と太くてどっしりしている。太さは、そう、ラップの芯くらいだろうか。どっしり、すべすべしていて、愛嬌がある。

このポワローを上と下とに分け、上の部分の柔らかそうなところと、下の白い部分を茹で、フレンチドレッシングをかけて食べると、ポワローの甘さとドレッシングの酸味が手を取り合い、本当においしい。隙間なく詰まった葉と葉の間は、とろりとした甘い汁で潤んでいて、シャキシャキとした歯触りと甘さの両方を楽しむことができる。茹でただけでもおいしいけれども、僕がもっとも好きなのは、鶏肉とポワローを煮込んだ料理である。皮付きの鶏肉を買ってきて、塩胡椒を少し多めにふり、皮面を下にしてしっかりと焼く。そこに適当な大きさにぶつ切りにしたポワローを加え、さっと炒めてから、適当なスープを注いでポワローがちょっと透き通るまで煮込む。ポワローのシャキシャキとした甘さと、鶏肉のさらりとした脂がよく合う。適当にこしらえたものなので、特に名前はない。ポワローが手に入る間は、一週間に一回くらいはこれを作る。玉ねぎやニンニクを入れてパワフルにしてもいいし、人参やじゃがいもを入れてポトフみたいにしてもいい。この前などは、スープを思い切り少なめにして、煮るのと焼くのの中間くらいにし、食べるとき、鶏肉の皮にイチジクのジャムを少しだけ乗っけた。この場合、鶏肉には少し強め目に塩をし、皮面がカリッとなるまでしっかりと焼いておいた方が良いようだ。鶏肉の塩味に、イチジクの甘さがよく合い、付け合わせのポワローがまた優しい甘みを与えてくれてとてもおいしかった。これは昔レストランでアルバイトをしていたときに鴨にオレンジソースをかけていたのを思い出し、試しに冷蔵庫の中にあったイチジクのジャムで応用したものである。当然のことながら、ジャムは欲張ってはいけない。あくまで隠し味としてちょっとだけつける。

寒くなってくると、ポワローが恋しくなる。そうなると、もう我慢はできないのだ。気がつけば、ポワローの白くすべすべした肌に、冷たい包丁を突き立てている。

坂本さん

笠井瑞丈

最近よくまたピアノを弾く

仕事で疲れて帰っても
飲んで酔って帰っても

電気を薄暗くし
ピアノの椅子に座り
坂本龍一さんになりきって
戦場のメリークリスマスの
和音を鳴らしてみる

猫背で弾くあの姿が
妙にカッコよく見えた
後に知ったのですが
あるインタビューで
語っているのですが
あの猫背の弾き方は
グールドを意識して

私がピアノを始めたきっかけは
もう20年くらい前のことですが
クリスマスの日にとある歌番組で
坂本龍一さんが海の上の特設ステージで
戦場のメリークリスマスを弾いているのを
見たのがきかっけでした

そこから坂本龍一さんの大ファンになりました

その時の衝撃はすごいものでした
そこからこれを弾きたいと思い
ピアノを始めました

当時は楽譜も出ておらず
知り合いのピアニストに
譜面起こしをしてもらい
毎日ひたすら練習しました

それまで
譜面も読んだことも
ありませんでした

独学で始めたので
毎日毎日譜面と
にらめっこをして
動かない指を動かし

ちょっとずつ
ちょっとずつ

練習する日々

戦場のメリークリスマスは♭が5つの曲で
超初心者が始めるには指使いも譜面を読むのも
すごい苦労した思いがあります

弾き続け
弾き続け

少しづつ音楽の輪郭が現れてくる
もう何回このフレーズを弾いただろう

家族の人には

また弾いてるのと

何度
何度

言われ

そしてまた

何度
何度

確かに毎日強制的聞かされる方は
たまったもんじゃなかっただろう

そんなこんなで私のピアノとの出会いが始まりました

コロナ

三橋圭介

コロナ。ウィルスであることは知っている。その防御の仕方も知っている。テレビやニュース記事など、いろいろな解説者や専門家たちが入れ替わり立ち替わり、ウィルスの歴史やそれが何か、どうすべきかなどを語ってくれる。生活を脅かすものに、ことばがその亀裂を埋めていく。コロナ禍、医療崩壊、緊急事態宣言、クラスター、3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、パンデミック、不要不急、ステイホーム、ロックダウン、アベノマスク…。最低限の実生活はマスクをし、あまり人に近づかず、手を洗うということだけ。それだけなのにことばだけが釈明・解釈を要求されて電波のなかを飛び交っている。世界のバランスを取るためのアンバランス。そしてアベノマスク、釈明むなしい無用の長物。

緊急事態宣言となって、アントニオーニの映画を真剣に見た。英語のシナリオを手に入れ、そこにいろいろ書き込んでいく。解釈をしようと思っているわけではなく、逆に解釈から逃れようとする何かを捉えること、それは実際に見ること以外にない「直接性。いいかえるなら映画にある非物語的な隙間を見定める作業。人間関係、都市などの風景、時間の停滞など、意味するものからずれて逃れていく。カメラワークと編集による意味の断片化と中断(繰り返し)。それはアントニオーニの現実という世界への距離感であるだろう。ソーシャルディスタンス。

オンライン授業。パソコン画面に学生の顔が並ぶ。学校にいかなくていい。約往復2時間の短縮。自分の部屋で事足りる。学生も東京ではなく、地方の実家から授業を受けていたりする。海外もありだ。対面で25人くらいの授業なら1人くらいは居眠りしていてもおかしくない。だがウェブカメラの前ではそんなことはない。カメラという視線の欲望が学生を縛る(欲望の前で化粧をする子もいたな)。これはこれであり。大学というものも少しずつ形を変えていくのだろう。ステイホーム。

サントリーサマーフェスティバル(3つのオーケストラコンサート)。全体的にリミックス的な引用と多層性が耳につく。ポストモダンと呼ばれた90年代の新しい傾向の1つは多様式的なリミックスだった。DJリミックスがその代表例だろう。そのなかで高橋悠治の「鳥も使いか」は身体論も含めその最先端だった。それから30年たってアイヴス的な出会い、ベートーヴェン脱構築、いくつかのパターンの組み合わせ、引用の織物など、この流れは続いている。3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、出会い方の距離はまちまちである。ステイホームと叫べども、帰るべき家はどこにもない。

コンサート。観客だけでなく、舞台上もさまざまな試みがなされている。伝統的な配置は崩れ、ソーシャルディスタンスの配置と響きがが新しい。コロナがこの新しい響きを創造したのだろうか。高橋悠治の「鳥も使いか」と「オルフィカ」はコロナ的な編成の音楽として鳴り響いた。特に「鳥も使いか」は通常のオーケストラの編成から距離をおいた配置が効果的だった。オリジナルはユーピック・システムを使った電子音と三弦の作品。高田和子とステレオ2チャンネルで聴いたことがあるが、本来は音が空間を飛びかうような作品をイメージしていたのだろう。「鳥も使いか」と「オルフィカ」はある意味よく似た作品だった。2つはソーシャルディスタンスによってあるべき姿となって濃厚接触を果たした。

猫。オンライン授業で家にいることが多かった。あいつは「おやつちょうだい」と粘るようになった。もう授業だしめんどうなのであげる。「ラッキー!」。これで味をしめた。がんばればもらえる。この繰り返し。いつしか「ちょっとふとったんちゃう?」。コロおナか、なかなかにして不用心。

白楽駅に行く途中、横断歩道の向こう側に「すき家」がある。大学でポストモダンを説明するときに必ずこの名前が登場する。多様式主義の宝庫なのだ。カレーと牛丼を足してカレ牛。うな丼と牛丼でうな牛。どれも食べたことはないし、今後も食べる予定はない。今日ひとつ発見した。横濱オム牛カレー。オムレツと牛丼とカレーがごはんの同一平面上にきれいに配置される。3密クラスター。もはや味ではない組み合わせのパズルだが、そのアイデンティティを保証しているのは「すき家(は)」という主語のみである。次は何が濃厚接触を果たすだろうか、けっこう楽しみである。

ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報

冨岡三智

『水牛』2003年3月号~4月号に「ジャワでの舞踊公演」という記事を寄稿した。残念ながら記事が古すぎて、『水牛』バックナンバーにはないのだが、この公演を主宰したジョコ・トゥトゥコ氏が9月28日13:30に亡くなったという報せがその日の夕方にインドネシアから入って、私はまだ頭が混乱している。トゥトゥコ氏(本当はジョコ氏と呼ばれていたのだが、私の師匠のジョコ女史と間違えそうなので、ここではトゥトゥコ氏とする)、は私の宮廷舞踊の師のジョコ女史の息子だ。スラバヤの国立教育大で舞踊を教えていた。私が国立芸術大学スラカルタ校に2回目の留学(2000年~2003年)をした時、トゥトゥコ氏はちょうど2000年から開校した同芸大大学院1期生として入学して(この当時は、大学院入学者のほとんどは現役の大学教諭であった)実家にいたので、それで師匠の家や芸大大学院のイベントでよく顔を合わせていた。そして、芸大大学院の修了制作の舞踊公演で、私もトゥトゥコ氏の振り付けた作品の踊り手の1人に選ばれた。その時の女性舞踊家は4人で、私以外は私と一緒にジョコ女史に宮廷舞踊を習っていた芸大教員たちだ。そのうちの2人はトゥトゥコ氏と一緒に大学院に入っていた。この時のトゥトゥコ氏の修了制作は、祖父の宮廷舞踊家クスモケソウォ~母の舞踊家・指導者ジョコ・スハルジョ女史~ジョコ・トゥトゥコ氏の3代に渡るジャワ舞踊の系譜をテーマにしていた。私の出た作品以外に、クスモケソウォの作品がその弟子(ジャワ舞踊界の大御所である)たちによって踊られ、観客もクスモケソウォの弟子たちが集まった。半年くらいの時間をかけた練習は私にとってとても大きな経験になっただけでなく、トゥトゥコ氏がインタビューに行くときに私も連れて行ってもらい、多くのことを学ばせてもらっていたのだ。

たまたま今年の2月、このトゥトゥコ氏の公演に出演した舞踊家の1人から連絡があった。公演出演者がもらった記録映像(VCD)が壊れてしまったが、再コピーしてもらえないか、トゥトゥコ氏に聞いてほしいと私に依頼してきたのだ。それで連絡を取ったところ、やはりマスターは残っていなかった。が、私が撮影させてもらっていたリハーサルの映像をyoutubeにアップさせてもらえることになった。というわけで関係者には喜んでもらえたのだが…。そんなやりとりがあり、8月の独立記念日にも色々メールでやり取りしていたのに…。自分がうかうか生きている間に、何の恩返しもできないうちに、お世話になった人に早々と先立たれてしまうのはつらい。

しもた屋之噺(224)

杉山洋一

今月は、前半二週間を息子と二人で自宅待機しながら過ごし、後半二週間は、それぞれ毎日学校に出かけて過ごしていました。後半はあまりに家事に忙殺されて、まだ頭もぼうっとしています。月末、家人も東京から戻ってきて、現在彼女が自宅待機中です。久しぶりに家族三人そろったミラノ生活です。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアの新感染者数1397人は先週に比べ38パーセント増加。死亡者数10人。ICU は11人増。ベルルスコーニ陽性発表。昨日川村さんが届けて下さった洋菓子が美味で、どこのものかと思いきや、数年前に亡くなったフランコが好きだったプリニオ通り13番のCorcelliで驚く。日本から戻ってすぐ、フランコから贈られてきたようで嬉しい。未だ自宅待機中で家にいるので、庭の芝を刈る。心配したほど雑草は伸びていなかった。先月末に茅ヶ崎南湖の西運寺を訪れたとき、祖父の墓石を訪れた瞬間、綺麗な明るい緑色の小さなバッタが飛び出してきたのを思い出す。余りに突然で、少し不思議だった。

9月某日 ミラノ自宅
父子二人で自宅待機中。息子は朝8時15分から日本人学校の授業をズームで受けている。彼が1歳のクリスマスに庭に植えた松が6メートルほどに育っているのが、自分のことのように嬉しく誇らしいようだ。彼曰く、ミラノは生まれ育った街で、東京は親戚がいる街として認識しているらしい。スーパーの宅配で食材を購入し、二人で静かに暮らしているが、食事をいつも潤沢に準備出来るとまではいかず、どうしても新鮮な青野菜など直ぐに食べきってしまう。半年一人で巣籠していた経験を活かし、何とかやりくりしている。息子は、夕食時になると決まって、3月、彼が日本へ戻る前に比べ、運河の向こうのアパート群に灯る明かりがすっかり少なくなっていて恐い、と繰返しているが、言われてみればそんな気もする。夏季休暇から、未だ人々が戻っていないのかもしれない。この自宅待機期間に、毎日少しずつでもスカイプで町田の実家に連絡している。

9月某日 ミラノ自宅
西川さんより連絡あり。現在の状況を鑑みて、1月の高橋悠治作品演奏会は、合唱を使わない方向でどうするか、早急に検討を進めることとなった。
「フォノジェーヌ」の総譜がNHKから見つかったので、有馬純寿さんにお願いして残された録音から電子音のみを取り出していただき、テープと12楽器の演奏による蘇演を可能か考えている。「たまをぎ」再構成を1月までに仕上げるのは難しいのではないかと思っていたので、少し猶予が与えられて正直ほっとした。
オーケストラは少しずつ再開しているけれど、合唱やオペラの関係者は、未だに大変なご苦労を強いられている。
1月、安江さんの企画で演奏するブソッティの「肉の断片」を読む。工藤あかねさんと松平敬さんの声と、日野原さんのピアノ、そして安江さんの打楽器によって、演奏可能な部分、そして楽譜として魅力的な部分を拾い上げてゆく。

9月某日 ミラノ自宅
息子はアレルギーが酷く、昨夜は抗ヒスタミン薬を飲んで寝た。雨田先生がお亡くなりになった、と加藤君より連絡をいただく。7月に先生とお電話で話せたこと、コロナ禍の始まる直前の今年の年始にお目にかかれたこと、せめても本当に良かったと思う。光弘先生にお電話すると、彼女が弾いていた作品を聴くと、彼女に会える、音楽を通じて彼女に会えるから、音楽家で良かったと仰る。一緒に弾いた録音からチェロの音だけを消して、彼女のピアノに合わせてチェロを弾きたい、一緒に弾く時は何時も彼女が引張ってくれていた。そんなお話を伺って感動している。
高校から学生生活の終わるまで、本当に家族のように可愛がっていただいた。毎年大晦日の夕食は決まって雨田家にお邪魔し、ご馳走と光弘先生の福井のおろし蕎麦に舌鼓を打って、年が越した夜半、実家に戻るのが恒例だった。
垣ケ原さんよりお便りをいただく。先月の拙作を聴き、三善先生の音楽の精神を思い出されたという。恐れ多いけれど、本当に有難いお言葉だった。恩師の足元にも及ばないが、反戦三部作の影響は間違いなくあるだろう。階下で息子が熱心に「革命」を練習している。

9月某日 ミラノ自宅
湯浅先生と玲奈さんとズーム。湯浅先生の新作「軌跡」のグラフは思いの外進んでいて、ほぼ完成に近い。オーケストラ譜は玲奈さんでさえ知らない間に随分沢山書き上げられていて、ズーム越しに、二人で歓声をあげる。細かく書き込まれた動きも多く、音楽の精神の強さに大いに感銘を受ける。ともかく先生はお元気そうな様子で本当に嬉しい。今までと違うことをしたいんだ、と力強く仰っていらした。ついこの間まで、湯浅先生とズームでお話しするとは考えたこともなかったが、時代の進化を思う。
東京のK先生と電話で話す。1年以上ご無沙汰しているうち、先生の緑内障が悪化して、障碍者手帳を受取っていた。病院は治療には熱心だが、障碍者の補助器具やリハビリなどの相談には殆どのってもらえないのだそうだ。今回のコロナ禍で、視覚障碍者のための補助器具専門店も休業が多かったり、第一、現在の状況では気軽に出歩けなかったりして、実に不便だという。

9月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わり、今日から父子共に学校通いが始まる。朝5時に起きて、以前のようにナポリ広場まで歩くが、二週間殆ど身体を使っていなかったので、歩いている自分の身体に、まるで力が入らない。張りがなく、体力がすっかり落ちている。
昨晩の残りのソースでパスタを作り、サラダを足した父子二人分の弁当を詰め、残りを朝食にして、半年ぶりに学校へ出掛ける。校門は閉まっていて、一人ずつ呼び鈴を鳴らして入れてもらい、アクリル板を立てた受付で体温を測って校内に入る。校内はがらんとして殆ど人気がない。

半年ぶりに会う生徒もピアニストの二人も元気そうだ。窓を開け放って充分換気はしているので、それぞれ離れて座っているピアニスト二人と指揮台の学生は、苦しければ、マスクは外しても構わないことになった。こちらはレッスンをして、話す立場なので、マスクはつけている。
苦しければ、という話だったのだが、ピアニストからすると、指揮する学生の顔半分がマスクで隠れるのは、それ自体心地良くないらしい。表情が半分以上見えないので、演奏しづらいのだと言う。今は未だ暖かいので構わないが、これから寒くなってきたとき、どのような対応をしなければならないのか、まるで想像できない。

半年間実際の指揮もできず、黙々と貯めてきた研鑽の成果への意気込みからか、単に感覚が未だ戻ってきていないのか、最初のレッスンは誰もが少し空回りしていたのが、いじらしくも見えた。昼食は中庭の木陰に置かれたベンチで食べる。自宅待機が解けたばかりで街の様子も分からず、外食は無意識に避けてしまう。特に肉を食べないためか、弁当を持参するのは思いの外便利でもあると気が付いた。
ただ、体力が落ちている上に、学校で10人教えて家に戻ると、体力と精神力と集中力を使い果たし、すっかり困憊しているので、暫く何も出来ない。

9月某日 ミラノ自宅
息子に懇願されて、橋のたもとのピザ屋へ出掛け、以前のように、マルゲリータ地に、焼いた玉ねぎと野菜を載せてもらったピザとキノットを持ち帰った。
ピザ職人もレジ係も以前のままだったが、いつも5、6人は屯っていた配達員は、一人しかいなかったし、ピザが出来るまで10分くらい店内で待っている間、一度も注文の電話もかかってこなかった。それどころか、後から入ってきた恰幅の良い目つきのするどい男とピザ職人が、店の端で何やらこそこそ話し込んでいて、不動産屋に店を売りに出してもらっているように見えた。持ち帰って家で久しぶりに食べたピザは、以前のような喜びにあふれた味ではなくて、何とも悲しい雰囲気が漂っていたのは、恐らく気のせいだろう。ただ、以前よりずっと大きなサイズになっていたけれど、生地に張りがなく食材も新鮮ではなかった。
間違いなく、Covidが彼らを経営不振に貶めたに違いない。入口脇に堆く積まれたままの、持ち帰りピザ用段ボール箱が物悲しさを誘う。

9月某日 ミラノ自宅
今まで溜まっている補講をこなすため、今月は学校には月曜から土曜まで毎日通う。月、水、金と指揮科の生徒を教え、火、木、土と映画音楽作曲科の生徒に、指揮の手ほどきのセミナーをした。この映画音楽作曲科の生徒たちが思いがけなく音楽的で、教えていてもなかなか面白い。映画音楽の作曲が専門だけあって、音楽から映像を想像するのが得意なのだろう、シューマンの「子供の情景」をそれぞれに情景を想像してもらってから振らせてみると、想像する前に振った音とまるで違う豊かな響きがする。
第3曲の「追いかけっこ」は、1930年代、ファシズム時代のイタリアのどこか片田舎の広場で、季節は夏。少し日が落ちかかった午後の日差しのもと、小学生くらいの子供たちが楽しそうに「追いかけっこ」をしている、とか、12曲の「ねむりにつくこども」は、冷たい冬の夜、打ちひしがれた10歳くらいの孤児が、うつろな目をして、道行く人に物乞いをしている。空腹で仕方がない。雪も降っているかもしれない。道行く人は誰もこの男の子に気が付かない。男の子は、微かに幸せな夢を見て、また目を覚まし、悲しい現実を見る、といった具合に自分で話した後で振ると、音がまるで変化する。これは何故だろう。聴いている側の錯覚なのかとも思うが、明らかに音が変化するのは間違いない。
学生たちは一日6時間の3日間のセミナーを受けるために、地方からミラノにやってきて、1週間だけ滞在して、また地方に戻ってゆく。このセミナー以外は、12月末まで全て遠隔授業になってしまった。だから、セミナーが終わるころ、学生たちはそれぞれの別れを惜しんでいる様子が伝わってきた。セミナーの後も、外のベンチに座って、ずいぶん話し込んでいた。学生たちからの最後の挨拶は「先生もどうぞ良いクリスマスを!良いお年をお迎えください!」。
学校内で許されているレッスンは、指揮科と室内楽と実地試験だけなので、相変わらず学校中がらんとしていて、寂しいとも、物悲しいとも、何とも超現実的な時間を過ごしている心地。

9月某日 ミラノ自宅
こちらは毎日学校なので、今まで息子をノヴァラまで付き添っていたのも、一人で行かせることにする。人混みの多いミラノの中心部を避けながら、出来るだけ簡単にノヴァラに行けるような経路を教え、電車の切符と弁当を持たせて送り出した。Covidが心配ではあるが、無事にレッスンを受けて帰ってきたので、一安心した。ノヴァラで会った知人によれば、一人でノヴァラまでやってきたんだ、と得意げだったと言う。
パリ経由で無事に家人もミラノに戻って来た。3月に東京に戻ったときには、6人ほどで一緒に東京行きのフライトに乗って帰ったが、ミラノに戻る便がいつまでも再開されないので、結局彼らは一人ひとり別の経路でミラノに戻ってくることになった。その最後が家人であった。
誰もがそれぞれ3月初めよりずっと逞しくなったような気がする。それぞれの思いを胸に過ごしてきた半年間は、単純ではなかったはずだが、これからの人生に大きな意味をもたらす時間になったに違いない。
フランスの感染状況悪化により、フランス経由でイタリア入国する場合も、フライト72時間以内のPCR検査が義務化され、家人も慌てて東京でPCR検査をやっていた。

9月某日 ミラノ自宅
コモの隣、カントゥーの田舎から、ボーノがレッスンにやってきた。自宅の裏で拾ってきた栗を山ほどビニール袋につめて持ってきてくれた。
3月来ミラノに来たのも、街に出たのすら初めてで、マスクは恐くて外せないという。ミラノには自分で車を運転してやってきたそうだ。
一日の死亡者は19人。このところ20人前後の死亡者が続いている。新感染者数は1851人でICUは9人増。昨日のCPR検査数15379人。
イタリア政府は10月31日期限のCovidの非常事態宣言期間を1月末日まで延期する案について、具体的に検討を始めた。

むかし住んでいた家

仲宗根浩

旧盆、お迎えの日に家でだらだらしていると、子供の学校からバスが15時運休のため午後に帰宅させるとメールが来る。台風が近づいている。勤め先のホームページを見ると18時で営業をやめるとの記載。これは今日出勤しなくてよさそう、とおもいながらなおだらだらしていると、14時過ぎに電話が入る。台風対策のためできるだけ早く来てほしいと上長が言う。わたしはエッセンシャル・ワーカー、行かねばならぬ。いつものバックに着替えてを詰め、業務用靴といっしょにビニール袋に入れ濡れてもいい格好、長靴でビニール袋を抱え駐車場へ向かう。なかなかの風が吹く。出勤してはみたもののそんなに特別にすることなく閉店作業をして帰宅。夜中に久しぶりに建物に風の塊があたるのを感じる。

ここ数か月、いろいろあり毎週病院に通っているようなかんじ。原因不明の咳だったり、労災だったりで。労災の払い戻し手続きで二ヶ月もかかったり、保険の証明の書類をもらうためだったり。デジタルになったらこういう手間はなくなるのか?

中秋の名月の前日、今月ふたつめの葬式があり、知人の手術あり、親族危篤の状況ひとあり、と色々メールやlineが来る。再放送された沖縄題材の番組を見て1970年頃の生活していた家が映像で出ているのを確認する。基地の街が一番栄えていた頃、不安があふれていた頃。

赤い空が広がる(晩年通信 その13)

室謙二

 窓から見ると、赤い空が空全体にひろがっていた。
 日が登ると東の空が赤くなり、日が沈む時、西の空が赤くなる。これは「自然」のこと。ところが朝から昼へと何時間も、空を見回すと全体に赤色、というより濃いピンクである。凄まじいことになった。SF的世界だと思った。
 十一月十六日、東京の六倍の面積が燃える北カリフォルニアの山火事の影響であった。妻のNancyは、凄いわね、Mars(火星)に来たみたい。私は木星(Jupitier)かもしれないと勝手なことを言っている。どうなっているのか?と二人とも驚いている。
 雨が降らないこととグローバル・ウォーミングで、森林が乾燥している。それで何箇所から同時に山火事が始まる。灰が上空に登り、ただよい、それに太陽光線があたり赤くなる。光線の青色は吸収されてしまう。灰は少しずつ落ちてきて、我が家の二階デッキのイスとテーブル、パラソルを白くする。こんな大火事は、歴史的なことらしい。
 赤い空のサンフランシスコの写真を日本の友人に送ったら、「不謹慎ですが、非常にきれいな絵画を見るようで印象的です」との返事が来た。ショパンのピアノ音楽だなあ、美しいけど凄まじいのである。

 そして若いときに読んだSF小説を思い出した。
 細部は忘れてしまったが、全く別の天体に一人でいる。ちょうどこんな赤い世界が広がっていて、ひとりでたたずんでいた。植物も動物もない。生き物は自分だけ。自然の驚異のあとに、私だけが生き残ったのか、どこからか一人でここに来て永遠に住むのか分からない。私はただ呆然としている。
 この赤い空は、というてい、いつものカリフォルニアの空とは思えない。
 そこだけ見ていると、別の天体ではないかと思う。自然というのは、恐ろしいものだ。ふだんはその存在に気が付かないのだが、突然に事を起こす。

 メキシコシティから南へ

 Nancyの息子のTが、まだメキシコシティでアメリカの新聞の仕事をしていたころだから、三〇年ぐらいまえのことだ。遊びに行ったら、皆既日食(Total eclipse)を見に行こうと言う。Eclipseねえ、私たちは何も期待していなかった。そんなものがメキシコであるとも知らなかった。ともかくメキシコシティを出て、南に走ったのである。
 何時間も走り、日食の時間が近づいてくる。もうこの辺だと、部分日食ではなくて皆既日食が見えるはずだよ、と言って車を止めた。ハイウェイのそばに、広い原っぱがあって、あそこにしよう。とのことだが、本当は、いったい何をするのか?
 Tは、ススで黒くなった小さなガラスを渡してくれた。用意万端。
 原っぱに寝っ転がって、黒いガラスごしに太陽を見る。
 しばらくすると、太陽が欠け始めた。
 太陽はどんどんと欠けてきて、少しずつ暗くなる。日食である。ついに、太陽と月が重なった。太陽が黒い円形になった。
 皆既日食が始まる。
 何も期待していなかったので、ともかく驚いた。
 黒い太陽の周りに、揺れ動くコロナが見える。
 犬があちこちで吠え始めた。
 犬も驚いたのである。
 人間と違って、犬は皆既日食が始まるなんて知らない。突然に世界が暗くなり、太陽が奇妙な形になって輝いている。おどろきあわてて、興奮して吠え始め、それを聞いて、太陽を見て、別の犬が吠える。
 ハイウェイを走るクルマは、いっせいにライトを点灯した。
 これは凄い。何がなんだか分からないが、凄いのである。
 山火事の影響で赤くなったカリフォルニアの空を見て、太陽に月が重なり、暗くなりコロナが輝く。それを思い出した。
 「自然」は、いつもは気がつかない。ただそこにあるから。
 しかし突然に、自然は自分を主張する。
 空は真っ赤になって、動かない。あるいは、太陽が欠けて、コロナが輝く。

 八方ふさがりダブルパンチ

 私たちは「老人」というものになった。
 私は七四歳で、妻は七七歳である。
 すると、色んなことを経験するものだ。
 体は弱くなるし、記憶も途切れてくる。
 孫が何人もいて、「おじいちゃん」と私のことを言う。
 おじいちゃんねえ、ついこの間、私は少年とか青年だったのだが。
 死がどんどんと近くなってくる。まあしょうがない。
 そして今回は、日食ではなくて、コロナ・ウィルスである。
 日食は、自然発生であった。中国から始まったコロナ・ウィルスは、動物から人間に移ったものだが、それが自然発生だというか人工的な発生というか、意見の分かれるところ。もっとも人間社会は「自然発生」なのだから、人工だって自然なのだから、コロナだって自然である。
 コロナだからマスクをせよ、他人とは六フィート(二メートル弱)離れること。外から帰ってきたら、手を洗う。ゴシゴシと、石鹸を使って最低二十秒間。いや三十秒だ、とか。
 老人とか病気を持っている人間は、外出禁止。危険だ、と脅かされている。
 妻のNancyは、まだガンのキモセラピーをやっている。これでコロナにとりつかれた大変だ。
 それで私たちは、もう何ヶ月も家に閉じこもっている。
 コロナと山火事のダブルパンチである。
 すでにコロナの外出禁止で、そのうえ山火事の空気悪化だから外出はするな。まどを締めて家に閉じこもる。八方ふさがり。妻はキモセラピーだし私は偏頭痛とあって、ダブルパンチでいいことはない。ということもない。
 Nanami Muroがいるだろ。と言ってもロシアはソチだから、Skypeでしか会えない。
 二歳半の孫娘は、ロシア語と英語と日本語を一緒にカタコトで話す。
 彼女の写真をパソコンに貼り付けて、さてこの文章を書いた。
 前回の連載は、そんなエネルギーもなく、書くのをスキップしたのです。
 八方ふさがりとコロナののダブルパンチでも、いまは少しは気分も良くなった。
 火事の写真とビデオを見てください。ひどいものだ。
 いい日も悪い日もある。
 山火事も私たちも。

二〇二〇年九月一六日、カリフォルニアの山火事

二〇二〇年九月一六日、昼間のサンフランシスコ
https://www.youtube.com/watch?v=x_m9TUP_t_Y

追記。
加藤ケイジにこの文章を送ったら、ムンクのことを書いてきた。
ムンクの絵「さけぶ」の背景の赤い空は、インドネシアのクラカトア島の大噴火の火山灰がヨーロッパまで運ばれてきて、それに太陽光線があたって赤くなったのを描いたそうです。ムンクの日記に、書いてあるとか。1883年です。

スリランカカレーの味わいかた

高橋悠治

一つの物語を構成することなく いくつかの曲線が独自に動いている空間を作ってみる

同じ楽器がかたまらず 遠く離れて 異質な楽器は隣合わせに配置する

それぞれの響き さまざまな組み合わせ 短いフレーズを崩して混ぜ合わせる フレーズは戻るたびに姿を変える

これがスリランカカレーの味わいかた

安定した低音の上になく 和声も対位法も ヘテロフォニーや 長いメロディもなく どこからか浮かび上がり どこともなくさまよい いつともしれず消えてゆく