新・エリック・サティ作品集ができるまで(1)

服部玲治

きっかけは過去の録音の再発売だった。
2016年、作曲家生誕150年となる年を記念して、わたしは悠治さんが過去にDENONレーベルへ残したサティの作品群を再発売することを企画した。
3歳の時、母親に導かれ水牛楽団のコンサートに行き、カセットテープで水牛のアルバムを何度となく聞いていたわたしにとって、高橋悠治という名は常にとおくにあって燦然と輝く存在だった。
そしてサティ。小学生の時分、CMで「エリック・サティの音楽のように」というナレーションとともに流れてきたジムノペディのメロディに魅了され、当時上梓されたばかりの秋山邦晴「エリック・サティ覚え書」をクリスマスプレゼントに親へせがみ、何度も読みふけって以来このかた、わたしにとってはクラシック作曲家の一番星なのである。
レコード会社に勤めてまだ10年に満たないキャリアのわたしにとって、サティのアルバムの制作に携わることができるのは悲願のひとつだった。そしてましてや、悠治さんの音源にかかわることができるなんて。
その存在を知ってからずっと、孤高の哲人のイメージを抱き続けていた悠治さんに、再発売の許可を求め、はじめて連絡をとるのは、ぴんと張り詰めた緊張感をともなった。タイプする指に汗をにじませながら、思い切って送信ボタンを押す。
「いまなお色あせぬこのアルバムを末永く、そして今の若い世代の人々にも届けたいと願って企画しました」
そんな言葉を添えて。
 
返事はほどなくやってきた。再発は、どうぞご自由に、そんなニュアンスの短いメール。それでも、返事が来たこと自体が、なにか止まった時間が動き出すかのように感じられたのを今でもありありと覚えている。すぐに再返信をするにあたり、わたしは欲がでた。
ひょっとして、悠治さんと、サティの新しい録音はできないか。
2004年に発売された「ゴールドベルク変奏曲」の悠治さんの再録音を思い出していた。1976年の旧録音を愛聴していた身としては、この新録音の演奏の大きな変化に釘付けとなった。まるで一転倒立のような、重力から解き放たれたような揺らぎに衝撃すら覚えたのだ。
サティも、80年前後の録音のころとは、大きく変化したものが現われるに違いない。
つたなくも、提案をまとめメールをしたため、意を決して送ると翌日には返信。
「サティをもう一度出すのは、おもしろいかもしれません」

しもた屋之噺(229)

杉山洋一

どういう理由かわからないのですが、夜中の0時の時報とともに、外で花火が盛んに打ちあがっています。今日がロンバルディアがイエローゾーン最後の週末で、変異種感染が進んで来週からまたオレンジゾーンに戻るため、飲食店の店内飲食が禁止になる前の、最後の夜だからかもしれません。
今から一カ月前、ロンバルディア州のフォンターナ知事が「皆さんの努力のお陰で感染をここまで減少させられました。イエローゾーンになることが決定しました」と嬉しそうに話していたのが、遠い昔のようです。ワクチン接種が進み、世界が安心して生活を営めるようになるのを、切に祈るばかりです。
 
  …
 
2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はイエローゾーンになる。久しぶりに飲食店での店内飲食が18時まで許可されて、市をまたぐ州内の移動が自由。22時から5時までの夜間外出禁止令は続行される。美術館は再開されるが、演奏会や劇場の閉鎖は継続されるそうだ。10月末に劇場が閉鎖以降、聴衆を入れた演奏会は未だ再開されない。当初閉鎖は一ケ月、二週間の時点で状況を鑑みて開放を検討と話していたが、三カ月過ぎても変わらない。世界中でストリーミングの情報量だけが膨大に増えてゆく。イタリア新感染者数7925人。陽性率5.5%。死亡者329人。
 
2月某日 ミラノ自宅
小野さんから、表紙に「冥界のへそ」と書かれた楽譜があると伺い、内容を悠治さんに確認していただくと、違う時期の試作のコピーだった。アルトーの詩の朗読と、軋り音サンプル録音の変形を併せたテープ音楽が「冥界のへそ」で、それとともに「フレーズを書いた数枚の楽譜を低音楽器群に演奏させたもの」が「アントナン・アルトーへの窓」だと言う。だから、本来「冥界のへそ」の楽譜そのものもあるはずがないのかも知れない。悠治さんより、「冥界のへそ」の京都での録音が存在するらしいと伺ったので調べてみたい。作曲者本人にすれば別段興味もない話に違いないが、作曲は完成して世に問われた時点で、作者の手を離れて社会性を手にするともいえる。イタリア新感染者数13189人。陽性率4.7%。死亡者476人。
 
2月某日 ミラノ自宅
父が85歳になった。大層矍鑠としていて、自分の父親ながらただ感嘆し深謝している。
夕方ミラが連絡をしてきて、今日は運河地域の先でボランティア活動だから、帰りに寄ると言う。これから毎週、運河の向かいのルドヴィコ・イル・モーロ通りの外れで、滞在許可に問題を抱える外国人の相談窓口を担当すると言う。
以前からアムネスティ・インターナショナルとも親しかったから、その関係だろう。シリンで使っていたピアノの下敷きも持って来てくれる。
必要とあらば彼らに弁護士を紹介し通訳もし、病院に付き添ったりもする。ここ数年、熱心にアラビア語を勉強していたのはこのためだったのか。こうした事情があるから、優先的に明日最初のワクチン接種を受けるのよ、とガッツポーズ。イタリア新感染者数10630人。陽性率3.9%。死亡者422人。
 
2月某日 ミラノ自宅
Covid19のミラノ変異種発見のニュース。ミラノ大研究グループの発表によると、ウィルスはスパイクタンパクからではなく、ORF6タンパクから侵入する特徴があるそうだ。現在のところワクチン効果に影響なしと読んで安堵する。
イタリアの感染者の5分の1はイギリス変異種が占めるようになり、この変異種をvarianteと呼んでいるが、この言葉を初めて聞いたとき、思わず中世写本の異本を思い出した。
当初は書士や修道士の意志が介在していたのか知らないが、繰返されるたびに少しずつ変化を来し、何時しか当初の姿はみる影もなくなる。文化や文明も変わらない。ウィルスも一つの文化なのか。
2021年であっても、止められない変化も予測できない未来も昔と同じ。イタリア新感染者数15146人。陽性率5.1%。死亡者391 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
武満賞を受賞し中国に戻った王君から、三週間の隔離機関が漸く終わったと連絡をもらった直後、「今しがた、ひどいニュースを見ました。ご家族は日本にいらっしゃいますよね。皆さん地震は大丈夫でしたか。心から心配しています」とメールをもらう。
授業をしていて知らなかったので、慌ててニュースを付け、日本にも連絡して無事を確認したが、酷く慌てたことは言うまでもない。
王君は2008年中国を襲った大地震で家を失い、家族中が大変な思いしたので、到底他人事とは思えなかったと言う。イタリア新感染者数13532人。陽性率4.6%。死亡者311人。
 
2月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わったところでTから連絡をもらい、モンツァ近郊のオレーノまでイラリアの墓参にでかける。近所のサンクリスト―フォロ駅からサロンノ行の近郊電車に乗って、自宅脇を通り過ぎモンツァまで40分ほど。久しぶりに車窓から眺める風景は、この数年で思いの外変化していた。
ポルタ・ロマーナ駅やセスト駅の広大なヤードは、長年放置されて草生す鄙びた佇まいが魅力だったが、都市再生計画なのか、きれいに剝がされた錆びたレールばかりが、一所に山積みになっていた。久しぶりにモンツァを訪ねると、完成したばかりの真新しい出口階段にTが立っていた。
彼はスイスで椿姫を準備していたが、ドレスリハーサルを終えたところで劇場は閉鎖され、11月に延期になったと言う。春にはロシアで仕事があるが、この調子ではどうだか、と溜息をついた。
オレーノに着くころには寒も緩み、青空が広がっていて、背の高い梢にかこまれた集合墓地は、年季の入った漆喰の外壁からして、随分古い墓地のよう。温かい日差しに深緑の芝が映えていて、心地よい。
門を過ぎると、まず墓石に彫像などを誂えた記念墓地群がならび、その奥、剥げかけた古いレンガ造りの門の先に一般墓地がみえた。
その門をくぐってすぐ左手空地の一番手前に、未だ墓石もない、真新しく掘り起こされた墓があって、賑々しく春の花がたくさん供えられていた。
鉢植えにしようかとも思ったが、結局供花は切り花にしてよかった。鉢植えは沢山供えられていたし、供えられていた供花は少し萎れかけていた。盛り土された墓に立つ、小さなイラリアの近影は、思いがけず昔のままだった。
隣でTは涙ぐんでいたが、当然だろう。イラリアの後、彼の父親の容体が急変し、ごく普通の70歳だった容姿が、二週間ほどで100歳のようにすっかり老け込んだと話した。
今は一時でも多く傍にいてやりたいと話す。せめても自分の演奏会のヴィデオを見せてやっているんだ、と辛そうに話した。「普通の演奏会じゃ詰まらないだろうから、オペラものを選んでね」。
裁判官だった彼らの父と最後に話し込んだのは、朝の通勤列車でミラノに向かうときだった。Tの活躍ぶりを目を細めて話し、イラリアの将来も大層愉しみにしていた。イラリアの墓参はもちろんだが、長く会えなかったTの顔も見たかった。帰りの電車に乗った途端に空が曇り出し雨粒もこぼれてきた。家に着くころには、すっかり凍える真冬の陽気に戻っていた。
イタリア新感染者数10386人。陽性率3.8%。死亡者336 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
五十路を過ぎ、益々自らの無知に唖然とする機会が多くなった。若いころは、無知の事実にすら気付かず過ごしていたに違いない。
マルトゥッチの楽譜を読みはじめて、想像していたドイツ純粋音楽的などとはまるで違う、明らかにイタリア的な作曲家だと瞠目する。譜面の印象だけを見れば、ブラームスなどより、寧ろ   ヴェルディが近いとも思う。単に、オペラではないだけだ。ドナトーニにも近い譜面の書き方だと思う。
イタリアにはイタリアらしさが明確にあって、生真面目で観念的ではない音楽観がその礎にある。観念的でないだけ分かりやすい筈だが、どうにも弾きにくい箇所が散見されるのは、楽器が鳴りにくい調性のせいか、彼自身がピアニストで、ピアノ奏者的な音の運びをするからだろうか。そんなところもドナトーニに似ていると独り言ちた。
イタリア新感染者数12074人。陽性率4.1%。死亡者369 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
昨年、イタリア、ロンバルディア州のコドーニョでCovid19の患者第一号が確認されて一年になる。1年前、薬局に貼られていた「マスク売切」のステッカーは、現在はワクチン接種の手引きにとって代わられている。
一周年記念式典のためインタビューを受けた市民のなかには、毎朝、無事に一日が過ぎるようまず神に祈る、と答える男性もいた。ヨーロッパのCovidはあの時から一気に顕在化し、人々をなぎ倒してゆきながら、誰にも想像できなかった一年が過ぎた。
16日から、イエローゾーンのロンバルディア州の一部が限定的にレッドゾーンになり、都市封鎖が決まった。ボッラーテのように、どこも大都市とは呼べない小さな市町村だ。これら全て変異種の感染拡大によるもの。イタリア新感染者数15479人。陽性率4.8%。死亡者353人。
 
2月某日 ミラノ自宅
般若さんのためのヴィオラ曲は、讃美歌「Shall we gather at the River 河のほとりであいましょう」とグレゴリア聖歌「De profundis clamavi ad te深き淵よりあなたへ叫ぶ」に基づく。上野で般若さんとお会いしたとき見えていた風景を、どう音にできるか。イラリアの誕生日に彼女の名前で書いた音列を書き終わったのは偶然だが、それが46回の繰返しで、この日イラリアは46歳を迎えるはずだったのも偶然か。イタリア新感染者数13314人。陽性率4.4%。死亡者356人。
 
2月某日 ミラノ自宅
ヴィオラのマリアから連絡あり。昨年演奏するはずだった「子供の情景」を、5月初めにノヴァラで演奏するとのこと。彼女の住むピエモンテ州は、希望すれば教員は誰でもワクチン接種が受けられるので、早速もう一回目をやってきたの、と嬉しそうに話す。2週間後には二回目の呼出しがあると言う。ロンバルディアも暫くしたら出来るわよ、と声が明るい。
「演奏家が感情を込めて弾くのを肯定する反面、作曲で一切感情は込めないと強調するのに理由はあるのか」と山根さんから質問を受け、しばし考える。
イタリアで一番苦労した部分だからに違いない。ドナトーニから音の裏には何もないと言われても、何年も理解できなかった。
指揮を勉強するようになって、同じ壁にぶつかった。音楽は感情を込めて演奏するものには違いないが、音符そのものは感情をもたない単なる記号と理解するのに、長い時間が必要だった。
先日、浦部君が書き上げたばかりのオーケストラ曲を見せてくれたが、立派に自分の言葉を話すようになったことに大変感心した。昨年見せてもらった久保君のチェロの独奏曲からも同じ感銘を受けた。二人の音楽には、明らかにイタリアで過ごし、それぞれが自問自答しながら過ごした、真摯で誠実な時間が刻印されている。
ところで、浦部君や他の学生の指揮を見ながら、ある感覚をどう説明すべきか思案してきたが、先日ベネデットのレッスンの際、思い切って音が聴こえた後に拍を入れるよう指示してみて、漸く少し腑に落ちる。言われた本人は訳が分からず当惑していたが、今までの説明の中では最も具体的で本質に近い表現だと思う。
音に触れながら振るよう指示してみたり、表現を変えながら同じ感覚を伝えてきたが、音の質量と重量が重力によって落下するなかで、着地直前まで拍を打たずに我慢するのはとても勇気が要る。しかし落ちきる前に音に触れてしまうと音楽が上滑りし、運動がいたずらに消費される。
子供のころ落下傘花火が好きだったが、音はゆっくり落下する落下傘花火に似ている。
イタリア新感染者数20499人。陽性率6.3%。死亡者253人。この新感染者数は元旦以来だと言う。死亡者数が減少し、新感染者数が増えてゆく。変異種が新しい波を起しかけているのだろうか。
 
2月某日 ミラノ自宅 
カリフォルニアのロジャー・レイノルズからメールが届く。悠治さんのCDをとても喜んでくれて、写真嫌いの悠治さんのポートレート写真が撮れただけでも凄い、昔の思い出が、次から次へと頭に浮かんでくるね、とある。
ヤニス・クセナキスとフランソワーズにユージが紹介してくれたエオンタ初演の際、金管楽器奏者が各パート一人ずつでは吹ききれずに、ブーレーズが二人ずつに増やして交代で奏させざるを得なかった逸話などが綴られていて、添付された彼のテキストには、悠治さんがサンフランシスコ音楽院でピアノ教師をしていた時には、悠治さんが余りにも易々と弾け過ぎて、目の前の学生がなぜ黒鍵のエチュードが弾けないのか理解できなかった話や、カリフォルニア大サンディエゴ校で自作を指揮しながらリハーサルする様子にも触れている。
それによると、演奏を始めるや否や、2小節めトロンボーンは遅れています、3小節目のクラリネットは音程が高すぎます、と言った調子で、静けさのなかで、何時間もかけて出来るまでリハーサルが続けられ、それは宗教儀式のようだったそうだ。。

これは、サンディエゴで悠治さん指揮で演奏された「和幣・ニキテ」の練習風景に違いない。ニキテは儀式でこそないも知れないが、宗教儀式に近いから、あながちレイノルズの指摘は間違っていない。
現在の悠治さんのリハーサル風景とはまるで違うけれど、少し想像できる気もする。確かに「あえかな光」の練習風景は、静けさに包まれていたし、訥々と悠治さんが各所の響きを確認してゆく姿は、儀式のようでもあった。
 
スタンフォード大のベンジャミン・ベイツから連絡あり。「歌垣」CDを図書館に入れてくれるとのこと。
ロンバルディア州の感染は拡大し、来週からまたオレンジゾーンに戻り、飲食店は持ち帰りのみ。演奏会開催など夢のまた夢。イタリア新感染者数18916人。陽性率5.9%。死亡者280人。

2月28日ミラノにて

⾼橋のふたつの側⾯

ピーター・バート

2枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサートのライヴ録⾳

⾼橋悠治の第1の側⾯は、1960年代の⾼橋である(そしておそらく、⻄洋のある世代の者は今もその印象をもっている)。つまり、作曲家で現代⾳楽における輝かしいヴィルトゥオーソであり、「鍵盤楽器に課された前代未聞の要求を、ものの⾒事に弾きこなし」(ロジャー・レイノルズ)、「演奏不可能」な前衛的複雑さをもつ作品をこともなげに演奏する⼈。「1961年にクセナキスの《ヘルマ》の楽譜を受け取り、1 ⽇1ページ、多くて1時間くらい練習し、1ヶ⽉で準備した」*という⾼橋は、ベルリンでクセナキスに作曲を学び、⾳節の多い単語をタイトルにした、厳格に決められた構造をもつ挑戦的な作品を書いた。「密度、持続、動きのパターン、リズムは確率計算から」書かれた《メタテーシス Ⅰ》(1968)、「ピッチと時間感覚は確⽴計算」によって書かれた《クロマモルフⅠ》(1964)、「18世紀の数学者レオンハルト・オイラーによる⼀筆書きの数学理論」に基づく《オペレーション・オイラー》(1968)がそうした作品である。“Six Stoicheia”という欧⽂タイトルをもつ《6つの要素》(1964)(“Stoicheia”とは、ギリシャ語の数学者エウクレイデス[ユークリッド]の著書『原本』の意であり、「ステップ」もしくは「要素」の意)は、複雑なポリリズムとマイクロトーンのある、恐ろしく演奏が難しい曲である。《ローザス》(1975)は、「ステンドグラスの薔薇窓純正律の⾳階を短7度で4回積み重ねた⾳階 調⼦外れに感じられる」と⾼橋が述べる作品。クセナキスのもとで学んでいた時期について、「ベルリンには、アラン・ダニエルーによる⽐較⾳楽学研究所があった。よくそこで本を読んだり、⾳楽を聞いたり、インドやイランの⾳楽家に会った」*と⾼橋は述べているように、すでに次なる⾼橋、すなわちもうひとつの側⾯である、第2の⾼橋へ移⾏する予兆がある。このCD に収録されている1960年代後半と1970年代の作品には、そうした第2の肖像がみえる。作曲にあたり「CDC6400コンピュータを⽤いた」という《般若波羅蜜多》(1968)は、録⾳済の3層にライヴ演奏を重ねることで実現される。テキストは般若⼼経の原⽂であるサンスクリット語からの抜粋。《和幣(ニキテ)》(1971)も、「⼿順は機械化され、コンピューターにかけられ、数秒間で完了した」というコンピュータを⽤いた作品であるとともに、「ニキテ(和幣)は⿇や紙のふきながしで、異教の祭で霊をよびおこすためにつかわれる」ものであり、さらには「⾳の構造よりも⼈の関係を重視する」。《歌垣》(1971)というタイトルは、「春(秋)分に⾏われる古代⽇本の祭り」からきている。「ペアを組むが⽇の出前に別れる運命にある男⼥が集い、グループ間で交換する歌」を反映したピアノとオーケストラが掛け合う作品。

そして時は流れ、⾼橋は急激に政治的な出来事へ積極的に関与するようになり、「ヨーロッパの⾳楽は極度に発展し、いまや⽅向を変えるときがきた」と、⻄洋の前衛に幻滅する時代がくる。そのこと⾃体が政治的な背景を持つ問題だった。「20世紀⾳楽は、いままでに獲得したもの上に、特殊な⾳⾊や奏法、複雑なうごきを付け加えただけだった。“あれもこれも”という消費の加速のはてには、⾳楽の死が待っている」。つまり20世紀の⾳楽は「17世紀以降に始まる植⺠地主義と奴隷制に⽀えられた貪欲な⽂明の表現」*であり、⾔いかえれば、政治と関連し他の⽂化に強い影響を与えていた。「アジア・アフリカ、ラテンアメリカは、経済的・政治的・軍事的に、帝国主義・新植⺠地主義の⾷いものにされている。⽂化や芸術の領域も例外ではない」。しかし、抵抗運動もあった。「⺠衆の声は強く、するどい。それは抑圧に負けないだけでなく、すすんで敵を攻撃しようという姿勢をもつ。(中略)アジア⼤陸、半島、島々の⺠衆の歌声は、こうした特徴をもっている」。もちろん東洋のすべてではないとして、続けて⾼橋は、アジア半島および島々のなかで「アメリカによって温存され、助⼿役をつとめながら勢⼒をのばした」と⽇本の帝国主義的態度について記す。ここで⽇本の伝統⾳楽は例外になるのだろうか?答えはNoである。というのも、「⽇本の伝統⾳楽は、さまざまなアジアの要素を取り⼊れている」*からだ。これは伝統的なマルクス主義の“国際主義”に反することだろうか。それとも新しい主義のもとにある“汎アジア”的なナショナリズムだろうか。それも答えはNoである。「固有の⽂化価値の再⽣は排外的⺠族主義ではなく、さまざまな伝統の相互学習によって、鎖国状態から脱出することを必要とする」。むしろ必要なのは、「⺠衆の側に⽴ったもう⼀つの国際主義」なのだ。

そしてこの2枚のCDには、今80歳代を⽣きる第2番の⾼橋(1938年⽣まれ)の肖像が収録されている。初期の⾼橋作品の所在はわからなくなっている。つまり1960年代の楽譜は出版社のカタログから削除されている(したがって、初期の作品を演奏し録⾳するためには熱⼼な学者による国際的な探偵のような調査が必要となる)。著作権はコピーレフトとされ、スコアはオンラインで無料で⼊⼿できるhttp://suigyu.com/yuji_takahashi/。“楽譜”というのは、そもそも疑わしいものなのだ。「⾳楽はもはや楽譜として固定された構築物ではない。⾳を聞いたり、楽器に触れたりする演奏をとおしてなりたつという、⾳楽の原点に帰るものである」*。そこでは⾳を出すという物理的な⾏為が優先される。「⼿や指、息で楽器に触れたとき、⾳は⽣まれる」*と⾼橋はいう。あるいは、《さ》(1999)の作曲家の⾔葉にあるように、「唇、左⼿のバルブ、ベルに⼊れた右⼿の組み合わせ」で⾳が鳴る。⾼橋は、国際的なコンサートという場を放棄した。しかしその代わりに、特定の演奏家のために作品を書いた。ロシアのチェリスト、ウラジーミル・トンハーのために書いた《⽯》(1993)、オーストリアのアンサンブルのために書いた(しかし、所望された写真を作曲家が送らなかったために委嘱が取り消されたという)《タラとシシャモのため》(2015)、「楽譜を送ったがその後依頼者とは⾳信不通」になったという《散ったフクシアの花》(2010)。東洋の⾳楽、演奏の実践、儀式からの影響による作品もある。《さ》はそのひとつ。「古代⽇本語で“さ”という⾳は、霊的なものに満たされた状態をあらわしていた。(中略)この⾳楽は、ホルンという楽器にその記憶をとりもどさせるための、⼼をこめた儀礼だと、考えてくれてもいい」と作曲家は記している。とはいえ、⾼橋の⽬が⽇本に向けられ、排他的になったのではない。ほかの⽂化からの影響もあることが「もうひとつの国際主義」を物語っている(たしかに⾼橋が百科事典的に多⾔語を読むことができることを証明している)。《散ったフクシアの花》は、ダイアン・ディ・プリマによる俳句4⾸、《タラとシシャモのため》はヴォルフガング・ボルヒェルトの詩「灯台」、《あえかな光》(2018)はウィリアム・イェイツの詩「⾁体の秋」(1898)による作品であり、また《⽯》はオシップ・マンデリシュタームの詩「沈黙」の⼀節を演奏前に朗読する、といった指⽰がある。

「⾼橋は、鍵盤楽器の優れた演奏家であり、作品解釈にきわめて鋭敏な感性をもち、それまで考えられなかった⼿法を必要とする創作を次々とこなした若きヴィルトゥオーソの時代から、持ち前のキャラクターや理知的な探求⼼を失うことなく、⾃⾝の主義主張を満たす選択をして⼈⽣を歩んできた」(ロジャー・レイノルズ)。しかし、このCDに収録された演奏でとくに印象的なことは、あらゆることが継続しているということである。「きく者の興味をおこさせるが、⼼にうったえることはしない」と述べていた頃と同じように、今⽇の⾼橋の⾳楽は妥協を許す余地はなく、⾏者のような厳しさがあり、ストイックである。そして1960年代と同じように今も、パフォーマンスに重点がおかれている。「演奏する者がいてこそ⾳楽がある。演奏とは、物理的な⾏為でもある(中略)⾳を作るとは、⾳に触れ、⾳を聴くことを通して外界を探ることを意味する」*。若きヴィルトゥオーソだった⾼橋は、1960年代にそれを知っていた。このCDでは、⾼橋からみたら⼆世代後になるヴィルトゥオーソたちが演奏している。若い彼らは、⾼橋の初期の作品にみられる⼿、指、息といった感覚に彼ら⾃⾝の神経を集中させながら、若い⾼橋の感覚も若い各々の感覚も即座にとらえたことが前⾯にでている演奏をしている。2 枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサート――いや、究極的には唯⼀である⾼橋という存在がこの2 枚のCD には収められている。
(訳・⼩野光⼦)

訳注)⽂中の引⽤は、楽譜やプログラムに掲載された作曲家の⾔葉、および下記の書籍から。
『ことばをもって⾳をたちきれ』(晶⽂社、1974)
『⾳楽のおしえ』(晶⽂社、1976)
『たたかう⾳楽』(晶⽂社、1978)
Yūji Takahashi (with Jack Body), ʻWie eine rollende Welle: Yūji Takahashi in Gesprächʼ, MusikTexte 59
(June 1995)
*のつく引⽤は、英⽂からの和訳、およびドイツ語からの重訳。

Das Kapital

管啓次郎

 1
トリーアの町を歩いていると
ポルタネグラのそばでカルリートに会った
アンデス山脈出身のフォルクローレ歌手
最近はこの付近で歌っていることが多い
でも今日は浮かない顔をしている
どうしたの、カルリート、今日は一人?
聞くと相棒の二人兄弟は兄が病気になり
かれらが仲間と本拠地にしている
アムステルダムに帰ったそうだ
カルリートはひとり残された
彼はトリーアを離れるつもりはないので
ギターの単独弾き語りでしばらくやってみるという
英語のロックやフォーク
ポルトガル語のボサノヴァ数曲
「メヒコ・リンド」などラテンアメリカ他国の歌
フランス語のシャンソンのスタンダード曲
イタリア語の “Volare, cantare…”
ぜんぶ合わせれば優に100曲にはなるので
場がもたないということはない
いま考えているのは
お客の中に一緒に歌ってくれる人がいれば
そしてその人がある水準以上にうまければ
短期(1日〜1週間?)の相棒として
一緒にbuskingを試みるということ
「きびしそうだが、ともかくやってみるよ」
ぼくは、よかったらお昼でも食べようかと彼を誘い
ぼくらは中国料理店に入った
そこから話は思いがけない方向に進んだ
食べ終わって
金属製のポットに入ったお茶を飲みながら
ぼくは初めてカルリートの背景を知った
彼はペルーの山岳地帯少数民族出身だが
中学生のころに首都リマに出てそこで育った
それから大学に進学し
奨学金を得て
ここトリーア大学に来た
だったら学生なの、とぼくは尋ねた
「一応ね。博士論文を書くつもりだったが
そこで足踏みして。どうしようかと迷っている。
でも歌はずっとうたっていたよ」
研究分野は?
「社会学、というか開発研究。でもかなり行き詰まった」
それはなぜ?
「開発のすべてが、ヨーロッパが作り出した近代に
巻き込まれてゆくことだとはっきりしているから。
かれらの市場で、かれらのやり方で
かれらに利益を与えながら
生存を図るしかない。
でもその大きな構図の中で何を語っても
そこに自分の道はない
パチャママ(大地母神)の道はない」
ヨーロッパ近代が行きついた場所が
現代のグローバル化された資本主義だから?
「そういうこと。巨大な、逃げ場のない網の目。
そしてこのシステム自体が、大地を離脱し
大地のすべてを収奪している
人々を蟻のように
海に追い落としながら」
このあとの数日、ぼくは何度かにわたって
カルリートの話を聞いた
資本主義を構成するいくつかの原則について
カルリートが話してくれたことを
ここにまとめてみることにしよう。

 2
資本主義とは何かって?
ひとことでいえば
それは「資本」に対する信仰さ
資本というものがあって
それがその本性にしたがってふるまうのを
人はただ諦め切ったかのように
傍観する
仕方がないと信じこまされることを含めて
大きくいって3つの原則が
資本主義を支えているだろうね
まず1、「資本は無目的」
それをどこにふりむけてもいい
資本家が投資に成功すれば
それに見合った取り分が生じる
ここに誰も疑いをはさまないわけさ
まるでお金が利子を生むことが
この世の第二の自然であるかのように
貨幣が見せる至高の単性生殖こそ
資本の永遠の目的
自己増殖という目的
ついで2、「あらゆるものは商品になりうる」
所有者がいて欲しがる者がいるかぎり
けれどもあらゆる価格は
じつは無根拠
それを決めるのは
小さな交渉の積み重ねでしかない
商品になるのは物
人、労働、サービス、貨幣、情報
なんでも
歌、踊り、芸能、文学
なんでも
そのものがなぜその値段になるのか
誰にも本当のところはいえない
その価格がある時点から次の時点までのあいだに
だいたいいくらくらい上昇するかを予想できれば
その予想自体が売買の対象になりうる
このことにも誰も疑いをさしはさまない
最後に3、「人は好きなだけ商品を買える」
お金という無色透明なものが用意できるなら
きみは好きなだけ商品を買える
現物の量的制限以外そこには歯止めがない
それで人は必要をはるかに超えて
買うこと買い集めること自体を
目的にしたりもする
そもそも「もの」とは何かにつかれた
気持ち悪いものでもあったはずだが
ここに大きなトリックがある
売買すること自体が
物を洗うんだ
(いわゆるマネーロンダリングも
この性格を利用している、貨幣もまた
商品なのだから)
つまりね、売買は起源を消す
商品は来歴を失い
記憶をリセットされる
作られた神話が貼りつけられ
収まりのいい他所ゆき顔をしても
商品を構成する物質たちはもう
二度と声をあげることがない
商品の中の商品というべき
貨幣の沈黙をまねるだけ。

ざっとこうした原則によって
私たちの世界は支配されている
文化を超え言語を超えて、これ以外の
合意のあり方を私たちはまだ
作り出せずにいる
でもこんなことのどこが
当然だといえるのか
資本の意志だけが支配を貫徹すれば
ゆきつくところは惑星いちめんの死
息も絶え絶えになった地球で
残された者は泣きながら石を積む
貨幣とはさびしい発明だ
数を指標とする欲望の代替物だ
目当てのない欲望をひとつにとりまとめ
人をそのマリオネットとする
ついで、遊ぶ貨幣が資本の始まり
あらゆる剰余を吸収して
この世を幻想の海に投げこむ
幻想は幻想としてどこまでも肥大し
物的限界にぶつかるまでは
速度をゆるめることすら知らない
そのとき
心はどこに行った?
幻がかたちをとった
根をもたずに地上に浮かぶ森に迷いつつ
絶望的に笑いながら私たちは
私たちを住まわせる商品の森に
火をつける。

(初出「びーぐる」47号を全面改稿)

寒空の下で

璃葉

いつからか、冬の曇り空が好きになった。
晴れの日よりも冬ならではの尖った空気をはっきり感じ取れる。
この寒空の下でウイスキーを飲むのもいい。土や草のような香りを一層強く味わえるから。

その日は特別に寒かった。陽の暖かさが届かないほど、空は分厚い雲に覆われていた。
夕方が近づくにつれて、さらに容赦なく冷たくなっていく。
そんな日に屋外で、グラスに注いだモルトウイスキーをゆっくり体に循環させる。
自分のペースで、香りや味をしっかり確かめながら。

ウイスキー狂いの友人たちがやってきて、とっておきのボトルを持ってきてくれる。
数人でシェアをして、その恐ろしい美味さに驚く。日はとっくに暮れてさらに冷たい風が吹き荒んでいるにも関わらず、
深みのあるモルトの味にみんな夢中である。土や草花、スパイスやフルーツの甘み。まろやかで、水のように飲めてしまう。
一人が突然、「地球を飲んでいるようだ」と呟いた。こんな天気の日に外で飲んでいるからかもしれない。
ふだん浮かばないことばがぽつぽつと出てくるようだった。
ああ、そうだね、その通りだ、とみんな深く頷き、引き続きグラスを傾けた。

水牛的読書日記(3)「牛」と「らば」と「烏」、生きのびるうつくしいものたち

アサノタカオ

 「女こそ牛なれ」

 歌人の与謝野晶子がそう書いたのは、1911年、明治・大正の「新しい女」たちが集った雑誌『青鞜』創刊号の巻頭詩、「そぞろごと」でのことだった。「水牛的読書日記」なる文章をつづる自分にとって、見過ごすことのできないことばである。
 「そぞろごと」において、「山の動く日来(きた)る」「すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」などの強烈なメッセージを次々に繰り出し、同時代の女性たちの自由と自立を鼓舞した晶子は、「元始、女性は太陽であった」と訴えて青鞜社を立ち上げた評論家、平塚らいてうの先輩にあたる。晶子もまた、婦人参政権など女性問題について数多くの評論を執筆した。

 「女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業についたりすると、女子特有の美しい性情である「女らしさ」というものを失って……よろしくないというのです。
 私は第一に問いたい。その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。」

 2018年のこの国では、東京医科大学など複数の大学医学部が入試において女子受験生らを一律減点するなど不正に扱ってきた事実が明らかにされ、性差別・性暴力に対する抗議と怒りの声が高まった。いまから100年以上前の晶子の問いかけは、とりわけ教育における男女差別の問題をいち早く指摘した点など、現代でも通用する鋭さをもつ。
 しかしその女性論は、今日的な視点から読むと、社会背景をめぐる慎重な考察を抜きにして個人主義的な自助を強調するきらいがあり、素直にうなずけない箇所もある。そして太平洋戦争時には、かつて「君死にたまふことなかれ」と反戦を歌った彼女の思想は、心情的な戦争協力へと傾いた。
 しかし、読者としていつも心がけていることがある。先達の言論に関しては批判すべきは批判しつつ、けれど高をくくってあっさり退けることはしたくない、ということ。「山だ!」「おなごだ!」「目を覚ませ!」「動け!」「太陽だ!」「進め! 進め!」と吠え、体制派の男たちから糾弾されてもなおひるまずに吠えた胆力によって、まだ名付けられていないフェミニズムを拓いた彼女らの功績を決して過小評価すべきではないとも思う。歴史の声に、耳をすませたい。受け取るべきバトンが、きっとあるはずだ。
 さて、「女こそ牛なれ」を含む与謝野晶子の詩の一連は以下の通りである。

  「鞭を忘るな」と
  ツアラツストラは云ひけり。
  女こそ牛なれ、また羊なれ。
  附け足して我は云はまし。
  「野に放てよ。」
 
 「また羊なれ」と続くのだから、ここでいう「牛」は先々月に紹介したあの「孤独な、連帯する、動じない水牛」(エドゥアール・グリッサン)の思想とは異なるものだろう。鞭打たれ、こき使われ、飼い慣らされる「家畜」といったところか。
 鞭を忘れない主人は、女嫌いの男たちである。封建的家父長主義に隷属させられ、自己が自己でないものにつながれる「牛」であり「羊」である女たちの「ゴルディウスの結び目」を晶子は詩によって一刀両断し、「男女平等主義」と「人類無階級的連帯責任主義」に向けてわれらを解放しよう、と呼びかける。
 さあ、女を、自分自身を野に放ちなさい。精神の自由へと超えていきなさい。砂漠のような荒地でおたけびをあげる誇り高い野牛のヴィジョンに、晶子は女性解放の未来を透視した。

  * **

 「この世のらば」

 ゾラ・ニール・ハーストンの小説『彼らの目は神を見ていた』(松本昇訳、新宿書房)の中で、かつて奴隷だった老婆が語ることばである。ハーストンは1891年生まれ、アフリカ系アメリカ人の女性作家の先駆者、ちなみに与謝野晶子や平塚らいてうの同時代人だ。
 1920〜30年代のニューヨークで起こった黒人文化運動「ハーレム・ルネッサンス」の渦中を彼女は生き、小説のみならず人類学や民俗学の仕事も残し、やがて人びとの記憶から消えていった。白人社会の人種差別に抵抗した運動家や作家、男たちの名前は「レジェンド」として後世に伝えられたにもかかわらず。
 1970年代に入って彼女の再評価のきっかけをつくったのが、『カラーパープル』(柳沢由実子訳、集英社文庫)で知られる後輩の黒人作家、アリス・ウォーカーだった。ハーストンの著作は、いまから20年以上前のことだが、大学生の時代に熱心に読んだことがある。ちょうどその頃、新宿書房から作品集の翻訳が次々に刊行されたのだ。
 そして興味を惹かれて読んだアリス・ウォーカーのエッセイ(『母の庭を探して』[荒このみ訳、東京書籍])を通じて、彼女たちが亡きハーストンの本の復刊を企画するかたわら、フロリダでこの忘れられた作家の足跡を探して墓石のない墓所を発見し、お金を出し合って新しいお墓を建てたということも知った。思い起こすたびに、胸の熱くなる文学史上のエピソードだ。
 
 「黒人であり女であるとは、この世でもっとも低い場所に押しこまれていることなのだ、白人から圧迫され、黒人の男たちから圧迫され、つまり黒人であるということは「この世のらば」であるということだ……。「この世のらば」という表現は、いまでも黒人の女たちに共感をもって使われている。繰り返しこの言葉が発せられるのをわたしは聞いた。……
 けれども、なんとしなやかな「らば」たちであることか。いのちの力をあふれさせた、うつくしい「らば」たちであることか。彼女らのしなやかさと力強さと美しさの源泉は何か。」

 ハーストンのことばを引きながら、こう語るのは『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』(岩波文庫)における藤本和子さんだった。あいかわらず藤本さんの著作をこつこつと読み続けているわけだが、先月取り上げた『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』の前作にあたるこの本もまた、本当にすばらしい。
 タイトルにあるように聞き書きの本だから、主人公は語り手の黒人女性たちで、聞き役に徹する著者の声が舞台にあがることはあまりない。
 だが『塩を食う女たち』には、「生きのびることの意味——はじめに」という、やや長めの藤本さんによる序文が収録されていて、聞き書きをする自己の内にある問いについて省察している。歴史的な苦難の中で、人間らしさを失わず生きのびるとはどういうことなのか。女であるとは、黒人であるとはどういうことなのか。知るだけでなく、自分は何を学ぼうとしているのか。
 聞き書き家としての藤本さんの「耳」は、出会った一人ひとりの黒人女性たちによるほかならぬ個人の語りを、個人の語りとして尊重しながら、その中で集団的な歴史がなにごとかを語りだすあり方に注意を向けている。
 「声」の個体発生は、系統発生を繰り返す。いまここで黒人女性たちが発する喜びや悲しみは、単に個人的な感情を吐露するものではない。それはきっと彼女の母親たち、祖母たち、共同体の無数の祖(おや)たちがかつて経験した喜び、悲しみを、凝縮した形で一から語り直し、生き直していることばである。語り手は「代弁者」として、声のバトンを運んでいるだけ。
 「けれども、なんとしなやかな「らば」たちであることか。いのちの力をあふれさせた、うつくしい「らば」たちであることか」。黒人女性たちの語りの中で、生きのびることをめぐる個人の意志と集団の意志がふと重なる瞬間を、藤本さんは「うつくしい」と表現しているのだと思う。そんなふうに、ぼくは理解している。
 『塩を食う女たち』を読みながら、聞き書きをする藤本さんの背中越しに、たとえばユーニス・ロックハート=モス、39歳の「強さや勇気」「しなやかなところ」があるひとりの黒人女性の体験談に耳をすませる。
 彼女は西アフリカ、ゴレ島へと旅をした。セネガル、ダカールの先にあるちいさな島。それは、「ルーツ」への回帰の旅だった。フェリー乗り場で、針金のように細い体のアフリカ人の女が大きな薪の束を頭に乗せて運んでいるのを見かけたユーニスは、自分でも試してみたいと思ったが、薪の束を持ち上げることすらできない。その場にいた、大きな体の白人の男にも持ち上げるよう頼んでみたが、できなかった。
 そのとき、ユーニスの心にある「理解」が訪れた。アフリカ人は無力なのではない。黒人の祖先は、白人社会で言われるような愚か者でも怠け者でもない。逆に特別にすぐれているからこそ、大西洋の中間航路を横断する海の旅と奴隷の時代と解放後の歴史を生きのびることができたのだ、と。「それなら、あたしもきっとすぐれているのだ。個人としても」。
 その後、ユーニスはアフリカの内陸部、ニジェールあたりの砂漠を旅したようだ。あたりには、牛の死体がごろごろ転がっていた。この不毛の地を自分は無事に横断できるのだろうか、強く感情を揺さぶられたまま、旅するユーニスはこんなことを思う。

 「あの牛にもできなかったことじゃないか、あたしにできるわけがあるのだろうかって。」

 またしても「牛」である。生きとし生けるものたちが、砂漠という過酷な自然環境の中で生きのびることの厳しさに、ユーニスの「いのち」の記憶はおののいたのだろう。けれども、アフリカの大地で自己に生きるための古く新しい道を見いだし、誇り高い精神の野牛となり、「新しい女」として生まれ変わった彼女は、精神の砂漠をたしかに渡りきった。文庫本のページを閉じて、そんな思いをかみしめた。

  ***
 
 「今年は『青鞜』創刊から110年、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の刊行から120年。節目の年です」

 信濃毎日新聞文化部の記者、河原千春さんがそう教えてくれた。河原さんは同紙で、長野出身の女性史研究家もろさわようこさんに関する連載「夢に翔ぶ——もろさわようこ94歳の青春」、そして「いま、もろさわようこ」を執筆している。粘り強い取材と調査にもとづく力作の記事なので、関心のある人はバックナンバーを探してぜひ読んでほしい。
 さて、今回なぜ与謝野晶子の話からはじめたのかといえば、目下、晶子の評論集を制作中だからだ。それは、もろさわようこさんが編集と解説を担当し、1970年に出版された『激動の中を行く』を再編集した本で、新版は晶子の「女性論」のベストセレクションと言える内容になっている。河原さんにも編集の協力をしてもらい、現在96歳のもろさわさんから、新しい序文の原稿もいただいた。世紀の時間を宿した文のたたずまいに一読、背筋がぴしっとのびた。
 もろさわさんは、1970年代前後より在野の立場で女性史の研究と著作活動をおこない、やがて東京ではないローカルを拠点にして交流施設「歴史を拓くはじめの家」を長野・沖縄・高知に開設している。芯の通った思想と行動のひとで、電話で打ち合わせをした際に聞いた凛とした声の調子からも、そのことを感じた。「平塚先生がおっしゃっていましたが……」などと、歴史上の人物との出会いを懐かしそうに語っていた。
 「おんな」という用語を手掛かりにして人間の歴史の中に「自由・自立・連帯」のヴィジョンを探求するもろさわさんのことばも、未来の世代に伝えたいと願うバトンのひとつである。
 「彼女らの語り声は、わたしたちの背の向こうで、いつか声を与えよと待っている日本の女達の生を掘り起こし、彼女らの名を回復しようとする私たち自身に力を貸してくれるかもしれない」。北米の黒人女性の聞書集の冒頭に藤本和子さんが記したメッセージを心の片隅におきながら、『おんな・部落・沖縄』(未来社)や『南米こころの細道』(ドメス出版)など、出会いを求め、辺地を旅するもろさわさんの著作を読み返している。
 「私が書き残さなければ、女性達の本当の姿が浮かび上がらない使命感ですよ」と信濃毎日新聞の連載記事で、もろさわさんは河原さんに答えていた(2019年2月27日)。
 デビュー作『おんなの歴史——愛のすがたと家庭のかたち』の旧版(合同出版)の巻頭には、もろさわさん自身が若き日に山深い故郷からの旅立ちの決意とともに記した一篇の詩が掲載されている。

  烏よ
  風は梢の緑をうら返すだけなのに
  お前はなぜそんなに騒ぐのか

 女たちの書物の中に、精神の「牛」がいて、精神の「らば」がいて、精神の「烏」がいる。声が聞こえる。隷属の結び目をみずから断ち切った、自己を生きる誇り高き野のものたちの。主人に飼い慣らされることも、「わきまえる」こともしないものたちの。詩は、こうつづく。「声たてている烏よ/お前は知っていたのか/ひとりの女の質素な心が/生きる傷(いた)みに堪えながら/それでもなお生きることを喜ぼうとして……」
 「お前はなぜそんなに騒ぐのか」。歴史を生きのびてきたうつくしいものたちが時を告げる集団的な声に、女性史研究家としての出発の日、もろさわさんもまた耳を澄ましていたのだ。

リボンちゃん初めて死んだ

イリナ・グリゴレ

リボンちゃんとは家で飼っていた金魚だ。長女の初めてのペットだった。昨年の秋に保育園でいろいろあって元気を出すためにペットを飼うことにした。大人とはいつもこうだ。人間関係の寂しさから人間じゃないものに逃げたくなる。私の場合は植物をたくさん集めて増やす。それでも枯れるときあるからその時には悪いことしたと違和感が残ったまま、また新しい植物を買ってしまう。ペットも死んだら新しく買えばいい、と人間は勝手なものだ。でも交換できない命がある。ほとんどの生き物の場合はそうだ。飼っていた金魚はあまりにも個性的で、ユニークだったので、同じような金魚には二度と会えない。名前は長女がつけた。真っ白いミックスランチュウで頭のてっぺんに赤いリボンのような模様がついていたからだ。女の子に相応しい。デザインしてもこんなにかわいくできないかもしれない。でもミックスランチュウということは、人間によって勝手に作られていたということだ。ランチュウと金魚、様々な種類の物を混ぜる、遺伝子組み換えの植物、品種改良、今の時代だとたくさんある。自然のままと呼べるものが少なくなっているだろう。

金魚のリボンちゃんは、娘たちに愛されて、短いけれどいい一生を送ったと思う。今のスーパーで売っている鳥肉の鶏と同じだ。三か月の間に大きくなるのではなく、たったの一か月で普通の金魚の何倍にもなった。毎日食べすぎぐらい元気にワンちゃんのように餌を求めていた。そして食べる時は、映画で見たアマゾンのピラニアのように、一瞬のうちに獲物がお腹の中に。そのお腹は爆発する、リボンちゃんはどんどん動けなくなった。

死んだ日の朝は非常に寒かった。飼い始めてから四か月がたっていた。北国の二月は生き物にとって一番辛い。室内で育てている植物も半分が枯れ始める。日が伸びて、昼間は少しお日様も見えているのに、夜と昼の温度差が大きく、人間も植物もすべての生き物が苦しい。その日は健康記念日だった。何かを感じて朝の四時前に起きて下に降りた。裸足で階段を踏むと氷の上を歩くみたい。室温は四度しかなかった。四時にストーブのタイマーがついていたが五分前だったので思わずつけた。でも寒い。水槽に近づくと動いていなかった。それはそうだよ、寒いのだ。

私も二度寝する。八時に子供は先に起きて、いつも通りリボンちゃんの水槽の近くに行った。なにも聞こえないから大丈夫と安心した。「動いている」と子供たちの声が聞こえたから。休みの日に夫はいつも水を変える。30分後に降りて水槽を見た。だれも気付かなかったが生きているように死んでいた。丸い、太っている身体がポンプの泡に乗っていた。死ぬと軽くなるのだ。太りすぎてすごく重かっただろうが、命が亡くなると泡に浮くぐらい軽い。でも泳いでいるようにも見えるから、本当にわからないぐらい静かな死だった。私が言うしかない。長女は大泣きした。家族のメンバーがなくなるのと同じ気持ち。夫は手に取って確認した。夫の手の平と同じぐらい大きく見えた。「こんなに丸いのだ」と一言いう。皆が悲しい。先ほどまで一緒にいた命はどこ行ってしまったのか、明らかに命があった時とない時とは違っていた。お魚には瞼がないから本当にはわからないが、なんとなく目が違うのだ。

その時長女が泣きながら言った一言が感動的だった。「リボンちゃんは可哀そうだ、初めて死んだ」。五歳の子供が生き物の死と向き合う姿勢はこんなに素晴らしい。生き物はいつか死ぬが、そのとおり「初めて死ぬ」のだ。何回も死ぬことはできないのだ。もしも二回目があったなら、一回目の経験を活かすことができるのに。娘の声のニュアンスはそれを示していた。深いのだ。この死は初めてだったから次は大丈夫ということもあるが、「初めて」を最後まで残せるというのも生き物だからこそできること。この体験をとおして次にいくことができる。次があるということだ。長女の言葉は仙人のようだ。「可哀そう」というのは初めてなにかを体験することに対して、まだ分からないことがたくさんある段階にいるからで、これから少しずつわかるようになる。

夫が庭に埋めた。建国記念日がリボンちゃんの命日になった。そのあと海の方に出て魚屋でお刺身を買おうとした。海が荒れていたので、いいものはなかった。子供の時にたくさんの生き物の墓を作っていたことを思い出した。死んでいる生き物を見つけるたびに、家の裏に埋める。家の裏にカモミールのお花で飾た小さなお墓がいっぱいある日もあった。小さな枝で十字の形を作って、お葬式を考えながら一日中遊んでいた。子供のほうがよくわかっている。死には儀礼が必要なのだ。

村の子供たちとは、お葬式だけでなく結婚式や雨ごいもやっていた。結婚式では、花や家から盗みだした様々な布でお嫁さんとお婿さんの役の子供を飾り、行列の後ろには鍋と棒で音楽を作って近所を回る。音楽担当の子はなかなかセンスがよく、声と鍋の音でみんなはトランス状態になる感じだった。この音楽を作る兄弟は当時もう二十代だったはずで、障害を抱えていた。こういう想像の儀礼という遊びの時だけは、子供と一緒になって、差別もなく平等だった。普段は道端に一日中座って、道を歩いている人にあいさつするだけなので、男の子に怒鳴りつけられて、虐められることがあった。が、結婚式ごっこの時は、彼らは音楽担当の立場を得て、幸せそうな顔で歌を歌った。あのときの雰囲気はフェリーニの映画のシーンのようだった。

雨ごいの儀礼は暑い夏の日の遊びだ。これは女の子だけで行う儀礼ごっこ。見たことはないが、皆で考えて、泥で人形を作り、人形と自分たちの頭に花を飾り、地面を強く叩くステップを踏み、乾いた埃を飛ばして長く踊り続ける。すると一時間後に必ず嵐のような雨が降り始めた。笑いながら家に戻って、雨が上がるとまた外に出て、村中にできた水溜まりを裸足で歩いて、泥水を楽しんた。たまにだれかが瓶の欠片を足で踏んでケガをするが、その血も必要な犠牲だといって遊びをやめる。

リボンちゃんが「初めて死んだ」次の日、水槽があったところがあまりにも空っぽで寂しそうだったから花を活けてみた。リボンちゃんと同じ、鮮やかな花を買った。紫とピンクのスイートピーとピンクのチューリップ。写真も飾ろうと思う。死んだ時に「提灯みたいだった」と夫が言った。何日か後、友達と弘前公園の雪祭りを見た。雪のなかで光るロウソクを見て、頭の中で「これはリボンちゃんの葬式だ、こんなに人が集まっている」と感じた。命を失ったものはこういう綺麗な葬式をやればいい。金魚ねぷたがたくさん飾ってあるところに来て、娘に「見てごらん、リボンちゃんは金魚ねぷたになって光っているよ」と言ったら、嬉しくてたまらないという表情をした。「リボンちゃんは綺麗だ」と娘が言い、一緒に写真を撮った。初めて死んだリボンちゃんは、なかなかのパフォーマンスを見せてくれたようで、初めてだと思わないぐらいだった。

死はいつか皆に初めてやってくるが、深く考えると自分の中でなかなか納得できない部分がある。私の場合は初めてではなく三回目ぐらいになるのかと思う時がある。私は三人分の命を背負っている気がするから。ルーマニアの暗い歴史、チャウシェスク政権下でたくさんの中絶が行われた。あの時の雰囲気をよく表す『4か月、3週間と2日』というクリスティアン・ムンジウ監督の映画がある。カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を取った映画だが、違法中絶の話が中心になっている。妊娠4か月、3週間と2日の時だ。ルーマニアではよくあった話で、私の母もそうだった。しかも二回も。当時の女性の選択肢や経済状況など様々な理由があったのだろうが、はじめて父からそれを聞かされた時、倒れそうになった。「あなたと弟を育てるために、しかたなかった、皆やっていたから恐ろしい」。うん、社会主義が恐ろしい。私と弟が大きくなるために犠牲になった命があったなんて。お母さんはそれについて喋らない。自分が弱かった、自でそれを許したことにたいして聞けない。「二人とも男の子だった」と父に泣きながら言われた。「性別が分かるまで大きかった、私が育つため、私だったかもしれない、私の代わりにどうぞ、今どこにいる、いつももっと兄弟ほしかったのに、ひどい、私が代わりになっていい」との思いが頭に浮かぶけれど、知りたくない事実にたいしてなにも言い返せない状態だった。当時の社会の圧迫感を感じる。これは消せないものだ。私の身体に二人の命を誘いたいぐらい、私の身体を借りていいから。お葬式もなかっただろうが、リボンちゃんみたいな金魚ねぷたにもなれない。

娘は三歳のとき「ママを選んだ」と言ってくれた。「大きなスクリーンショットでみた。美人で、踊っていた」と突然言われた。スクリーンで見るのか。娘に選ばれたのか。五味太郎の絵本『ウサギはやっぱり』の「ピンクうさぎがでました」と読むと「ママだ」という娘たち。「いつも踊っているから」ママに似ているという。ピンクうさぎでよかった、私。でも、自分の中には、あと二人分のうさぎがいるはず。二人の分の人生も生きることにした。なに色だったのかな。「オレンジうさぎ」と「むらさきうさぎ」と「みどりうさぎ」が絵本ではピンクうさぎの次だからきっとこんな感じだったに違いない。弟はオレンジうさぎにそっくりだ。むらさきうさぎとみどりうさぎに会いたかった。

 

ロミオとジュリエット(晩年通信 その19)

室謙二

 犬は飼ったことがないが、ネコは飼ったことがある。
 私が覚えている最初のネコは、ロミオとジュリエットというカップルで、私はロミーとジュリーと呼んでいた。
 ロミーは乱暴なネコで、ちょっかいを出そうとすると、私を睨みつけて歯を見せる。もっと遊ぼうとすると、爪で引っ掻いてきたり噛みついてくる。ジュリーの方はよく覚えていないんだ。
 最初のネコと乱暴な付き合いだったので、二十年ぐらい前までは、私はネコを時々乱暴に扱う。すると友人家族に怒られる。私の子供の頃、1950年代日本での飼い主と飼いネコの付き合いは、今のネコ好きとネコとの優しい付き合いとは違って、けっこう緊張感のあるものだった。
 食料が余っている時代ではなかったから、ネコに行く食べ物はあまりものだったり少量だったり。人間が食べたくないもの(古かったり、汚かったり)だった。ネコだってそんなものは嫌だろうが、食料がない時代だから、ネコもお腹がすいている。
 あの時代、ペットショップで買った、ネコ用の食料なんかありません。だからネコの方も、すきがあればテーブルの上の食べ物を盗んで逃げる。

  ネコといっしょに飲み食べる

 アメリカに来てから聞いた話で、家族全員が旅行に行くので、ペットの世話に人に泊まってもらったとのこと。冷蔵庫の中のものはなんでも食べていい、というので食べかけの缶詰を食べたらしい。なかなかおいしいよ、と帰ってきた家族に言ったら、ネコの食べ物だったとのことだ。
 それなら、私も一度食べてみようと試した。一口食べてみたけど、あれは人間にも食べられるものだね。

 京都のほんやら堂を、みんなで作ったばかりの頃、東京からやってきたときに二階に泊まっていた。ほんやら堂に出入りしているネコが、夜中に私の寝床に入ってくる。ネコは好きだけど、うるさいんだ。
 追い出しても、寝ているところにニャーとやってくる。私は酔っ払っていたので、寝る前に飲んでいたウィスキーを少量、ほんの少量だよ、ネコの口の中に注いだら、ネコは「ぎゃー」と、爪を立てて飛び上がって。走り去った。
 ひどいことをしたものだ。でも次の日は平気な顔をして、またやってきた。
 あれは虐待だね。だけど子供のころネコと、とっつき合い、爪で引っ掻かれたり歯で噛まれて血が出たり、との乱暴な関係だったので、その感じがその時まで続いていた。今みたいに、おネコ様との優しい関係ではないのです。

 三十年ぐらい前からなあ、もっと前かもしれない、ソラノ通りにあるフライ釣りの店に行ったら、小さなネコがいた。オーナーの奥さんのネコの子供で、誰かもらってくれないかと置いている。そのネコが好きになった。ネコの方も、私を気に入ったみたい。妻のNancyに電話をして、「ねえネコを飼わない」と言ったら、彼女もその気になった。
 これが何十年ぶりかのネコで、ゴロー(五郎、吾郎)と名付けた。私たちには二人合わせて4人の息子がいるので、5人目の息子(五郎)です。それに迷いの世界を超えた悟ったネコになってくれよ、という意味の吾郎(ゴロー)でもあった、ところが、これが悟りとは正反対の、徹底的馬鹿ネコだった。だからいっそう愛した。

  結局、噛まれて死んだ

 ゴローは、二階の窓が開いている時に、窓の枠に座って外を見るが好きだった。ところが窓が閉まっていてもガラスで外が見えるので、勢いよく床を走ってきて、窓の枠に飛び上がる。そして頭をガラスに打ちつける。床に落ちて転がり、しまったとばかり、私を見上げる。オイオイ大丈夫か?
 ゴローは雷の音が嫌いで、雷が鳴ると怖がって床を走り回って、それからベットの下に入り震えて出てこない。雨が降ってきて雷音が響く。
 雷は怖いらしいが、隣の犬は怖くない。その大きな犬と喧嘩をするのだ。犬と喧嘩する猫なんて初めてだ。まずは塀越しで、吠えられたり唸り返したり。犬はついに塀の下を掘って我が家に入り、ネコを追いかけて、ゴローは物置きの建物の上に飛び上がって逃れた。
 だけどその前にお腹を噛まれて、何針も縫うケガ。犬の飼い主がすまながって、何百ドルかの治療代を出してくれたけど、あれはゴローの方が悪い。
 そして最後には、その隣の犬に咬み殺されてしまった。死んだ体を運んで、ペットショップで手続きをした。葬式をしてもらった。犬の飼い主にお金も出すと言われたのだけど、馬鹿ゴローが犬を挑発したのを知っていたので、自分たちで出したよ。

  最後のネコ

 ゴローから何代かネコを飼った。
 でも、もうネコはいない。いまネコを飼えば、きっと私たちより長生きするだろう。ネコを後に残して、私たちは死ねないよ。だから近所の散歩の時に、近所ネコと友だちになっている。それが私の楽しみ。
 Nancyと散歩しても、私のところだけに寄ってくる。不思議だね。私にはたくさんネコ友だちがいるんだ。本当はネコを飼いたいのだけど、それで我慢している。
 ペットショップでネコの食べ物を買って、歩きながら与えて仲良しになろうと思ったが、飼い主は自分のネコの食べ物に注意を払っているだろうからやめなさい。とNancyに言われて我慢している。
 ゴローが隣の家の犬に殺されてしまった後は、エミコだった。隣近所の掲示板で飼い主を探していると言うので、その家に行ったらかわいかったので貰った。母ネコの名前がエミーだったかな、それでエミコという名前にした。
 この子が亡くなった後に、クッキーを、これも近所から貰った。
 これが最後のネコだね。

  中に入れてほしい、と言う。

 クッキーはまだ若いのに、ヘルニアで足が痛くなって素早く歩けなくなった。それで外ネコだったが、家の中に入れてくれ、と言う。
 ネコを飼うときに、まずは内ネコとして飼いたい。外ネコにすると、外で喧嘩したり、他の動物に噛まれたり、自動車にはねられたり、外ネコの命は内ネコの半分なのだそうだ。
 長生きしてほしいので飼いネコは内ネコにしたいのだけど、どうしても出て行きたがる。隙があると外に出て行ってしまう。と言っても、隣近所の庭ぐらいまでで、時には小さな通りの向こう側まで行ってしまこともあるが、ちゃんと食事に戻ってくる。
 かつては、隣とその隣の家の床下を住処とするタヌキ(Possum)一家がいて、タヌキは乱暴な動物なんだよ。小さなネコなんか、噛み殺してしまうかもしれない。そのタヌキ一家が、クルマがビュンビュン走るテレグラフ通りを悠々と歩いていて、ここはバークレーなので、人が降りてきてタヌキさま一家のためにクルマを止めて歩かせる。もうあのタヌキ一家はいないなあ。そういう動物は、我が家の周りにはいなくなる。何年か前にどこからかタヌキが一匹、我が家の裏庭に迷い込んできた。あれが最後だね。

 最後のネコのクッキーは、足が悪くなった。ネコ病院に連れて行くとヘルニアだそうだ。痛がるのでクスリをあげたかなあ。手術も必要だと言われたが、かわいそうだけどほっておいた。
 クッキーはずっと外で遊んで、食事だけ帰ってくるネコだったが、ヘルニアが悪くなって家に入れてくれと言うようになった。ずっと外ネコだったので、寄生虫とかノミとかダニがついているかもしれない。だから家に入れたくなくて、段ボール箱にタオルを入れて二階のデッキに置いて、そこがクッキーの住処になった。
 でも体が弱ってきて、家に入れてよと鳴く。
 私がドアを開けて外に出るときに、足元から家の中に入り込む。
 ダメだよ、と外に押し出す。
 クッキーは体が痛いので、ゆっくりと二階デッキの階段を裏庭に降りていった。それがこのネコを見た最後だった。

 クッキーが食事に帰ってこないので、何日も近所を探した。「クッキー、クッキー」と呼びながら、近所の家の床下を覗き込んだり。でも見つからなかった。
 体が弱っていたから、病気で床下で死んで、タヌキに食べられてしまったのかもしれない。かわいそうなことをしたなあ。
 あれ以来、ネコとの別れが悲しいので、ネコは飼っていない。
 今になれば私の方が先に死ぬだろうから、後に残したくないのでネコは飼っていない。

万華鏡物語(9)春が来るのに

長谷部千彩

 喫茶店にいる。窓際の席でコーヒーを飲みながら、この原稿を書いている。ガラス窓の向こうの空は明るい。気温は低いが、来週から三月だ。
 この文章がひとの目に触れる頃、この店は閉店している。十年以上通い続けたけれど、営業日は残すところあと三日。コロナ禍とは無関係。テナント契約の問題だ。
 ジャズが流れていること。テーブルが四角く広いこと。天板が厚く、書きものをするのにちょうどいい高さだということ。店内の真ん中に一本の通路。その両側に、ボックスシートの車両のように向き合ったベンチスタイルの椅子が並ぶ。後ろの席との仕切りも兼ねた椅子の背凭れは高く、他の客が視界に入らないため、自分たちの話に集中できるのが何よりありがたかった。
 仕事の打ち合わせはもちろん、私用でひとに会うのにも、私が指定するのはもっぱらこの店。ひとりで本を読むためにも訪れたし、ここで原稿を書くことも多かった。週に四回、訪れることもあったのだから、常連客と名乗っても許されるだろう。

 私が数人の知人と運営するウェブマガジンは六年を数えるが、そのもととなるアイディアを口にしたのは、まさにいま座っているこの席で。耳を傾けていた女性編集者は「やりましょうよ!」と即答してくれた。
 それ以来、チームのミーティングもずっとここで行ってきた。本業の仕事の合間を縫って集まるこの場所は、私たちにとって部室のようなもの。各テーブルにひとつずつ置かれた紫のシェードの小さなランプ、その電源コードはテーブルの下に伸びていて、作業が長引き、持参したノートPCのバッテリー量が心細くなると、天板の下に頭を突っ込み、ランプのコンセントを抜いて自機のACアダプターを繋いだ。
 夏のアイスコーヒー。秋のミルクティー。冬のココア。東京の最も美しい季節がやって来るというのに、私たちはこれからいったいどこを根城にすればいいのか。

 もうひとつ、この喫茶店を贔屓にしていた理由がある。それは、飲み物を供される器だ。例えばいま、キーボードを打つ手の脇には、エインズレイのカップが置かれている。この店では有名な陶磁器ブランドのカップを何種類も揃えていて、今日はどんなカップで運ばれてくるのか、洋食器好きの私には、それが小さな楽しみだった。

 スターバックスやブルーボトル、ドトールコーヒーや上島珈琲。チェーン展開するコーヒーショップは街を覆うように増えていく。休憩するなら、お喋りするなら、他の店でも大丈夫。ましてやここは東京、素敵なカフェなら星の数ほど存在する。けれど、落ち着いて考え事ができ、落ち着いて本を読み、落ち着いて文章が書ける喫茶店を見つけるのは、なかなか難しい。神経質な私には。

 居心地のいい店を見つけるまで、区立図書館に通ってみようかとも思う。そこへは飲み物を持ち込めるだろうか。キーボードを叩くパチパチという音は、周りの迷惑にならないだろうか。その席のそばに窓はあるだろうか。その窓からは、何が見えるのだろう。
 この店が面した広場には、クリスマスが近づくと、巨大なクリスタルのオブジェが設置される。パリにアパルトマンを借りて暮らした二年間を除き、私は、毎年、その煌めきを窓の外に眺めながら、ひとときを過ごした。特別な思い入れはなかったけれど、次の冬、私が同じ時間を持つことはない、そう思うと奇妙な気分に襲われる。
 在るものが消え、消えた後、何食わぬ顔でまた何かが現れる――そのことに慣れ切っているはずなのに、もはや何の疑問も抱かぬほど、都会に長く住み続け、年を取ったというのに、なぜだろう、この先もずっとこの店に通い続けるような気がしていたのだ。
 ここで待ち合わせた人々の顔が次々と浮かぶ。私の中のひとつの時代が終わる。それは大袈裟な表現だろうか。感傷だと笑われるだろうか。

 もしも、行き場が見つからなかったら、どうしよう。テーブルの下、投げ出した脚。私は、キーボードを打つ手を止める。頬杖をつく。四角く広いテーブル。天板の厚み。ベンチシート。私好みのカップとコーヒー。小さな音で流れるジャズ。ガラス窓の向こうの青空。そのときは、自分で喫茶店を開けばいいのかな。そんな考えが頭をよぎる。私は夢想に耽る。

アレッポのこそどろ

さとうまき

シリア内戦からまもなく10年になる。今何がいちばんたいへんかというとアメリカが課している経済制裁だ。

国際社会は、内戦が始まると、ともかく「父親の時代から独裁」を続けるアサド大統領の退陣を求め、1)大統領や側近の資産凍結、2)反体制派の支援、3)逃げてきた難民の支援、4)アサド政権崩壊後の復興支援を掲げた。

ところが、反体制派のリーダーがこれまた食わせ物だったこと。ロシアとイランがアサド側についたこと。そして何よりも、イスラム国が割り込んできて、主役を奪ってしまったこともあり、シリア革命はしりすぼみになってしまった。現在は、国土の大半は、アサド政権の支配下に置かれ、ロシア軍や、アメリカ軍、トルコ軍が駐留して治安は安定してきている。

しかし、欧米諸国は、アサド大統領の人権蹂躙を問題視し、アサド退陣なくして、復興支援はないとし、アメリカは、昨年の6月には、議会で決議された経済制裁を始めた。このアメリカの経済制裁は、結構えぐい。対象となるのは
特定の団体や産業との取引やサービス等の提供を行った個人・団体
特定の地域の復興に関係する契約を締結した個人・団体
つまり、アメリカ人だけでなくて、僕が、シリアと取引したとしたら、日本での銀行口座が差し押さえられ、もちろんアメリカには入国できなくなり、国際実業家に転身した僕としては、生命がたたれるというわけなのだ。

とあるシリア人から、「今シリアポンドが暴落しているから、投資するのはチャンスですよ」と。フォーシーズンホテルは無理でもシャームホテルくらいなら買収しようかと考えていたところだったのでこれはショックだ。

ただ、やはり、このアメリカの制裁が足かせになっている。実際、シリア国内では大変なことになっていて、公務員、例えば学校の先生の給料は一か月40ドル、国軍は15ドル程度しかもらえないらしい。ガソリンも不足、電気も停電が続いて、灯油もなく寒い冬を過ごしている。もう、アサドを支持する人もしない人も、疲れ切っているらしい。

国外のシリア難民たちは、国際社会が約束したほどの支援が受けられているのかというと、570万人もの難民がいて国連も財政が厳しいようだ。難民たちもそう仕事に就けるわけでもないのだが、皮肉なことに難民支援の国際NGOで働くと600ドルから2000ドルほど給料をもらえる。シリア国内にとどまるよりは、この手の仕事につければラッキーなのだ。

こういう一部の裕福になった難民は、ヨーロッパを目指した。ブローカーに一人3000ドルほど払えば、今度はヨーロッパの市民になれる。彼らのシリア国内への送金によって、どうにか食いつないでいるというのが現状らしい。しかし、家族や親せきが海外にいなければ、仕送りもなく生活はどん底である。

2月15日は、国際小児がんの日である。シリアのBASMAは、小児がんの子どもたちを支援するNGOで、2月中は小児がんの子どもたちへの支援金を集めるキャンペーンを実施していた。シリアの会社8社がキャンペーンに賛同していて、ビスケットやツナ缶、パスタ、ハーブティ、ミルクなどの商品を買うと、いくらかはBASMAを通して小児がんの支援になるそうだ。

BASMAには、日本からお金を送ることはできないのだが、親戚や友人への生活費などの送金は制裁の対象にはならない。そこで実業家の僕が考えたのは、友人のシリア人に生活費を送り、これらの商品を片っ端から購入して、結果的に小児がんの子どもたちを救おうという「砂漠のお買い物」作戦。

実は、いま、治療が必要な子どもたち3名に仕送りをしているのだが、彼らにも声をかけて商品を買わせた。本当に彼らの生活は厳しい。アレッポのサラーフ君10歳は、お父さんが内戦に巻き込まれて行方不明になっている。お母さんが気丈に育てているが、周りから援助を受けるしかすべがない。お母さんは、とてもフレンドリーに連絡してくれて、サラーフの写真や動画を頻繁に送ってくれる。僕らは治療費しか出していないが、栄養を取らないとがんにまけてしまうので、月5000円は食費に回してもらうことにした。すると、こんなものを食べたとか、食材の値段を教えてくれたりと頻繁に情報をくれるので楽しい。なんと、年末には泥棒が入って、絨毯を盗んでいったらしく、踏んだり蹴ったりだ。サラーフ君の家には、絨毯くらいしか盗むものがなかったのだろう。

今回10000円で、買い物をしてほしい。これはBASMAの支援になるからと説明すると、お母さんがとっても張り切っている。やはり、人の役に立つというのは、誰でもうれしいのである。「5000円分でミルク、ツナ缶、ビスケット、ハーブティ、石鹸をかったわ」という報告があり、サラーフ君がおいしそうにビスケットをかじっている写真が届いた。リストには、8社があり5つまで見つけたそう。
「あと3つ探してみるわ」
「いや、無理して全種類買わなくてもいいから、牛乳とか一番必要なものにして!」と伝えてもらったつもりだったが、最後の一社は下着メーカーで、送られてきた写真はどうも矯正下着とか、ピンクのパンツとかで、5000円だった! 半分は下着代かい! まあ、いいか。おかあちゃんもたまにはこういうので贅沢してもらうということで。ともかく、下着泥棒に入られないように願うばかりだ。

えーと、実業家に転身した僕の取り分は? アメリカの経済制裁がなければ、矯正下着でも輸入して儲けるのになあ。

(一部話を誇張しています)

長男の立場

北村周一

 長子偏愛されをり暑き庭園の地(つち)ふかく根の溶けゆくダリア  塚本邦雄

ちょうなん【長男】最初に生まれた男の子。長子。総領。嫡男。
辞書を引けば、こんなふうに出てくるが、もうお馴染みのことばだから、それほど注意しなくても、ああそうだよねって、納得してしまうんだよね、きっと、たぶん、やっぱり・・・。

同じく、塚本作品から、
 父とわれ稀になごみて頒(わか)ち読む新聞のすみの海底地震

長男とかぎらなくても、父と子のあいだには、怖れというか、隔たりというか、特にオトコの子には、なんらかの(得もいわれぬ)空間(空気)が存在する。

同じく、塚本作品から、
 うす暗くして眩しけれ父と腕触る満開の蝙蝠傘(こうもり)の中

つづいて、岡井隆作品からふたつ、
 風道に紅顔童子立てりけり髪を率(ひき)ゐて佇(た)てりけるかも
 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて

  * *

つらつらと思い出すまま、塚本さんと、岡井さんの短歌をいくつか引用してみたけれど、現在目の前で起きている事件は、なんとも不可解でおぞましい。

 軽いノリで
 父の話芸を
 真似ることも
 別人格とう
 語彙の貧しさ
~父は「令和おじさん」とも呼ばれていた

 父母の期待
 一身に受け
 まなび舎に
 男子つどえば
 長男ばかり
~次男三男は、数が少ない

 左を見て
 右見て前に
 進まんに
 手取り足取り
 父がみちびく
~まずは秘書官になりなさい

 無職子の
 長子溺愛
 その父が
 授けたまいし
 総務のオキテ
~コネがすべて

 長男の
 立場たびたび
 悪用し
 歪められたる
 国家の大事
~恐怖政治のゆくえ

 棄てられて
 はじめて気づく
 人格の
 それより暗き
 血のいろの濃さ
~蔓延る二世議員たち

 これ以上
 ぼくの時間を
 奪わないでと
 いいたげに
 終わる会見
~説明責任果たさぬ人ら

 歳取ると
 そとを見ること
 多くして
 テレビの函も
 窓べのごとし
~国会中継をさぼるNHK

釣り堀の端 その二

植松眞人

 その日、耕助は営業時間の三十分ほど前に釣り堀に到着した。入口の脇に自転車を停めて掘っ立て小屋のような事務所へ顔を出すと汗だくの三浦がスマホを見ていた。
「おはようございます」
 三浦の元気だけれどあまり気持ちの入っていない挨拶が、耕助は嫌いではなかった。大学を出て新卒採用で東京の会社に勤めたとき角度まで決められて大きな声で挨拶をしろとよく怒られたことを思い出す。決められた角度まで腰を折り、大きな声で「おはようございます」と叫ぶように言っていても、教育担当を任された二年上の先輩は許さなかった。「気持ちが入っていない」と何度も挨拶を繰り返されたのだった。馬鹿馬鹿しくなって適当な挨拶を繰り返すと、尻を蹴られた。蹴り返してやろうかと思ったが、なぜか笑ってしまったのだが、笑っている耕助を見て先輩は何も言わなくなった。
「おはよう。気が抜けてていいねえ」
 耕助が言うと、三浦は笑いながら
「抜けてませんよ。こんなに気合い入ってるのに」
 と笑って返した。
「昨日、俺が出てから何人くらいきた?」
「昨日はいつもの高橋さんだけですよ」
「高橋さんすごいなあ。ここ二ヵ月くらい皆勤ですよ」
「ありがたい、ありがたい。あ、今日も来たよ」
 耕助の声で三浦が釣り堀の入口を見ると、常連の高橋が自前の竿を持って現れた。
「おはようさん」
 高橋が事務所に声をかける。いつものことなので高橋は事務所に寄ることもなくそのまま釣り堀の定位置に向かう。高橋のいつもの場所は事務所から一番遠く隣の家庭菜園に一番近いところだ。ここだと家庭菜園と釣り堀を隔てるフェンスを背負って吊ることになり、後ろを誰も通らないので煩わしくないのだ。それに、釣りに飽きてくると高橋は家庭菜園にやってくる主婦たちと談笑にふけるのである。定年まで大手事務機メーカーでインストラクターをやっていた高橋は話題が豊富で主婦たちも話すのを楽しみにしているようだ。いつか、三浦が「高橋さん、魚釣りに来てるのか主婦釣りに来てるのかわかりませんね」と笑って話していたことがあった。
 高橋の来場と同時になし崩しに営業開始となった釣り堀を、耕助は久しぶりにゆっくりと歩いてみた。そして、高橋の隣に小さな木箱を置くと椅子代わりに座った。
「お、めずらしいね。耕助くんが釣り糸垂れるなんて」
「この店ついで一年くらい経つのに、一度も釣ったことないんですよ」
「いつもはどこで釣ってるの?」
 高橋が嬉しそうに聞く。
「いや、釣りなんてやったことないんです」
 耕助が言うと、高橋はもっと驚いた顔になる。
「釣りもしたことないのに、釣り堀を継いだの?そりゃすごいや」
 高橋があまりに驚くので、耕助は面白くなって笑ってしまう。
「今日は、高橋さんに釣りを教えてもらおうと思って」
「いいよ。じっくり教えてあげるよ。でも、不思議なもんだよ。おれは、耕助くんのおじいちゃんに釣りを習ったんだよ」
 今度は耕助が驚く番だ。
「そうだったんですか」
「うん。定年してさ。何して良いか分からなかったから、毎日この辺散歩してたんだよ。そしたら、耕助くんのじいちゃんが『毎日目の前通って行くなら、一回くらい釣ってみろ』って」
「強引だなあ」
「強引なんだよ。で、釣りなんて知らないって言ったら、教えてやるって言い出してね」
 そう言うと、高橋は耕助の手から釣り竿を受け取り、仕掛けを確認し始めた。耕助はそんな高橋の手元を見ながら、会ったこともない祖父のことを想像してみるのだった。しかし、目の前の高橋を見ながらだと、どうしても頭のなかの祖父の顔が高橋にしかならず苦笑するのだった。
 事務所の窓から二人を眺めていた三浦が後からやってきた美幸に笑いかけて、
「あの二人、仲よさそうですねえ」
 と声をかける。
 耕助と三浦の二人分の弁当を作ってきた美幸が、ほんとうだ、と声をあげる。そして、窓の外からは見えない角度で、そっと三浦の背中に掌を当てる。三浦は振り返って、美幸に笑いかけるが、美幸は窓の外の耕助と高橋を見つめたままで笑っている。(つづく)

ワヤン(影絵)の思い出

冨岡三智

そういえば、ここでインドネシアのワヤン(影絵)について書いたことがない。私は特にワヤンの愛好家でもないが、ジャワの舞踊や文化を知る上では見ておいた方が良いと思っていたので、留学中や留学前から機会があれば見に行った。と言っても、ワヤンの村祭りのような雰囲気が好きなだけで、内容や言葉についてはあまり勉強しなかったが…。というわけで、今回はインドネシアで見たワヤンのうち印象深いものについて書いてみよう。

●1994年3月22日(火) アノムスロトの家で見たワヤン
 まだ留学前、2週間ほどスラカルタに行った時のこと、有名なダラン(影絵奏者)のアノムスロトが毎月(ジャワ暦で35日毎)自宅でワヤンをやっていると宿の人が教えてくれて、見に行った。当時はどういう趣旨でやっているものか全然知らなかったが、かなり後になって、アノムスロトが後進への指導のためルギの水曜日(彼の誕生曜日)になる夜に自宅でワヤンをしていたと知った。今調べると、その日はルギの水曜日になる夜なので、その一環だったのだろう。私が見た時の演目はブロトセノ(キャラクター名)の話だった。見に来ていた人の多くはワヤン好きの近隣の人という感じだった。子供もいたし、私の隣には不倫カップルと思しき中年の男女もいて、女性が男性に膝枕してもらって見ていたのを覚えている。突然行った私も入れてもらえ、絨毯敷きの床に座って一晩見た。全然意味は分からなかったが、一晩のワヤンてどういうものだろう…という好奇心だけで、頑張って見た気がする。

●1996年5月16日 仏教のワヤン
 スラカルタ王宮のシティヒンギルという空間で見る。仏教の祭日であるワイサックを祝うイベントで、ワヤンの前に仏教徒の大学生たちによる仏教テーマの舞踊が上演された。ダランはテジョ何とかという人。何枚か撮った写真を見る限り、ワヤンの人形などは普通のワヤンと同じだったようだ。

●1998年2月20日 ルワタン・ヌガラ
 ルワタン・ヌガラとは国家的な災厄を祓う儀礼という意味。このワヤンについては、『水牛』2008年3月号「スハルト大統領の芸術」で紹介したことがある。当時のインドネシアはアジア通貨危機に端を発する経済危機に見舞われ、また、スハルト長期政権に対する人々の批判も高まっていた。その時期に、スハルト大統領は全国各地で(確か50ヶ所くらい)ルワタンと称してして「ロモ・タンバック」という演目を上演させた。これは『ラーマヤナ』物語の中で、ラーマがアルンコ国に渡るためにサルの援軍の助けを借りて川を堰とめるという内容である。スハルトはクジャウィン(ジャワ神秘主義)の師から自身はラーマに当たるとされていたため、この国家的災厄をラーマたる自分自身の手で乗り切ることを示す意図があったのだろうと感じられる。スラカルタではグドゥン・ワニタ(婦人会館)で、女性の女性問題担当国務大臣を迎えて上演された。ダランは3人、演奏は芸大で、有名どころの歌手がズラーッと並んだ。ワヤンの導入部ではスカテン(ジャワ王家のイスラム行事で演奏される音楽)をアレンジした壮大な曲が演奏された。

●2000年10月28日 ワヤン・ゲドグ
 ブンガワン・ソロ・フェアというイベントの一環としてマンクヌガラン王宮で上演される。ダランはバンバン・スワルノで、彼は同王家付きのワヤン・ゲドグのダランであり、芸大教員でもある。演目はパンジ物語を題材とする『ジョコ・ブルウォ』。ワヤン・ゲドグというのはパンジ物語やダマルウラン物語を題材とする演目群である。現在ではワヤン(影絵)やワヤン・オラン(舞踊劇)の演目のほとんどはマハーバーラタ物語で、私もパンジ物語の演目を見たのはこの時しかない。当初の話では2時間短縮版ということだったが、4時間以上の上演だった。実は、ワヤン・ゲドグではグンディン・タル(影絵開始前に上演される曲)として宮廷舞踊『スリンピ・スカルセ』で使われる一連の曲が演奏される。

●2000年大晦日 ミレニアム・ワヤン
 2001年は1000年に一度のミレニアム・イヤーというわけで、スラカルタにあるタマン・ブダヤ(州立芸術センター)のプンドポ(伝統的なオープンなホール、儀礼用)ではいつもとは違う特別のワヤンがあった。一晩のワヤンなのだが、夜中の0時に一時中断して、各公認宗教の長たちが集まって祈りを捧げ、続いて詩人のレンドラが登場してガムラン音楽をバックに詩を朗誦した。この音楽を担当したのはデデッ・ワハユディだが、ワヤンのようにレンドラを登場させるイメージで音楽をつけたとのこと。そして、ワヤンのダランはトリストゥティ。実はこの人、1965年9月30日事件(共産党によるクーデター未遂事件と公称される)で投獄されて14年間島流しとなり、釈放後の20年間も活動ができなかったが、スハルト退陣により1999年からダランとして再活動できるようになったという人である。スハルトはこの事件をきっかけに頭角を現し、30年余の軍事独裁政権を敷いた。今調べたところでは、トリストゥティはスカルノ大統領の尊敬を受けてしばしば招聘されていたが、共産党とは関係がなかったという。ところで、このミレニアムという概念はそもそもキリスト教のものだが、当時のインドネシアではこれまでのスハルト時代の終焉と自由の時代の到来に対する希望が託されていたように思う。

●2001年1月20日 クリスマスのワヤン・ワハユ
 インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のプンドポで見る。年が改まったがクリスマスに付随するイベント。ワヤン・ワハユはキリスト教の聖書を題材にしたワヤンのこと。ダランは同芸大教員のスボノで、彼はクリスチャン。芸大と隣の3月11日大学(=UNS)のクリスチャンの集まりが主催だったが、上演の最後にキリスト教関係の催しでの上演承ります~!と宣伝していたことが印象に残っている。

●2002年3月31日 集団ルワタン
 ウォノギリ県にあるガジャ・ムンクルという人造湖畔にある観光施設で行われた集団厄払いのワヤンである。地元の若い人に伝統文化に触れてもらうため、また観光誘致用に行われたもので、集団ルワタン以外にマンクヌガラン王家による宝物巡行や、人々が家宝にしているクリス(剣)のお清めサービスが行われた。ちなみにマンクヌガラン王家が協力しているのは、ウォノギリが元々同王家の領地だから。ルワタンの方だが、キ・ワルシノというルワタンができる家系のダランによって行われた。厄除けされる人たち(自治体に参加申し込みをする)の人数が多いという以外は普通のルワタンと同じで、多くの供物を用意して昼間に行われ、時間も長くはない。ダランは祭司としてルワタン用のワヤン演目を上演し、最後にマントラを唱えて、厄払いを受ける人たちの髪に順次鋏を入れていく。ここではその髪を白い布に包み、湖に沈めて儀式は終了した。私がワヤンのために遠出をしたのはこの時だけで、ダランと懇意な知人に一緒に行ってもらった。

●2007年8月26日 ジャカルタ新知事を迎えてのワヤン
 ジャカルタ市政62周年&ジャカルタ知事選挙の成功を祝してのワヤンで、新ジャカルタ知事(ファウジ・ボウォ)と副知事を主賓として開催されたワヤン。ダランはマンタップ、演目は「Sesaji Raja Suya」と記録にある。王への捧げものという感じの意味のようで、新知事を祝福するにふさわしい演目に見える。実はこの日、私はジャカルタ芸術大学でたまたまスリンピの公演をしていた(私自身のプロジェクト)。スラカルタの芸大教員3人と上演したのだが、私がジャカルタに来ることを知った人からこの公演にVIPとして招待されたのである。その人とはこの公演の少し前の8月16日夜に放映されたトーク番組『キック・アンディ』に出演した時に知り合った(番組収録は8月1日)。というわけで、私は公演が夕方に終わって共演者を駅に送ってからワヤン会場に直行した(開始ぎりぎりに滑り込み)。一応、新知事とも握手をしたのだが、夜の12時頃から新聞社での取材があったので、11時過ぎに会場を抜けた。

踊りとダンス

笠井瑞丈

この前ある席で

私はダンスだけど
あなたのは踊りだ

そのような会話から

踊りとダンスの違いについて
議論になりました

それ以降

踊りとダンスについて考える

私は今まで自分の事を

踊りと言う時もあれば
ダンスと言う時もありました

今まであまりその辺を意識して
考えたことがありませんでした

言葉の違いだけと言えば
それだけの違いだけかもしれません

しかし

そこには大きな違いがあると思い
色々と自分なりに考えてみました

私の考える踊りとダンス

『踊り』はカラダという言葉に結びつき
『ダンス』は動きという言葉に結びつく

このような違いが二つの言葉にあるのではないか

そう考えると

踊りたいと思う

むもーままめ(4)アラビアの女の巻

工藤あかね

 アラビアを旅していた時のことだ。私は列車のボックス席に座り、開けはなたれた車窓の向こうに広がる金色の大地を眺めていた。ときおり強い風が吹いて、乳白色のカーテンがねじれたり、ひらひらと不規則にはためくように、砂ぼこりが勝手気ままに舞いおどっているのを見て、美しいと思った。

 車内は聞き慣れぬ言語で満ち溢れている。声のトーンだけでは、彼らが怒っているのか、それとも楽しんでいるのか、私には皆目見当がつかない。ひとことも言葉がわからないというのに、不思議と心は落ち着いている。おそらく不安な気持ちよりも、誰も私を知る人がいない国にいる、という気楽さのほうが優っていたのだろう。

 私の座るボックス席は4人がけだったが、私はとなりの座席に荷物を置いて、ゆったりと座った。はす向かいには、もうひとり乗客が座っていた。一見して華やかな女性だと思った。とはいえ、顔かたちが見えたわけではない。頭から足先までを覆うように濃い紫色の衣服を身に纏い、肌がちらちらと見えるのは手首から先と、足指のみだ。光沢のある滑らかな手肌は、黄金のブレスレットといくつもの豪奢な指環で飾られている。俯き加減の顔はすっぽりとベールに覆われて、目のあたりだけが深い影になっている。用心深く、身を屈めるような姿勢だが、時おりベールや裾の乱れを正す指先はきれいにそろっていて、仕草のひとつひとつに気品が見え隠れしている。敵に追われ、身分を隠して逃げている高貴な人のようだ、と私は思った。

 車内を物色するようにして通路を歩いてくる男がいる。男は肩越しに右へ左へと目をぎらつかせながら、ボックス席にどんな人々が陣取っているかを瞬時に判断して、興味がないとみるや軽く鼻息を立てて、次の一歩を踏み出している。私は、気が気ではなくなった。斜め前に座っている高貴な女性は、もしかするとあの男に追われているのではないか。

 男は確実にこちらへと近づいてくる。そして私たちのボックスの横で立ち止まると、射たれたような顔つきで固まった。今しがたまでギラついていた目つきが、みるみるうちにいやらしく、柔和なものに変わる。太い眉毛を目からクッと離して、あの高貴な女性の耳元に何かを囁きはじめた。
「やめて…」
私は心の中で叫んだ。くだんの女性は頑として男と目を合わせようとしない。男は身を低くかがめて、女性の顔の周りにまとわりつき始める。私はその気色の悪いやり取りを見ているだけで、何もできずにいた。

「誰かこの方を助けて。」
心の中で強く訴えながら立ち上がって車内を見回すと、鮮やかな青い布を頭から巻きつけた女性がこちらへ近づいてきた。青い服の女性は、男にまとわりつかれて身じろぎしている紫色の女性を一瞥してから、流暢な英語で私をなだめるように言った。
「この国では、男と目を合わせると処罰されるのよ。彼女は目をそらし続けるのが上手だから、きっと女優ね。私たちのように普通の女はこうしているわ」

 青い服の女性はいったん私に背を向けると、頭からベールをはずし、ゆっくりと向き直った。目もとが異様に妖しい光を放っているのでよく見ると、両目ともトパーズ色の義眼が嵌まっている。
「コンタクトレンズと同じよ。慣れると取り外しも楽でいいわよ。こちらからはちゃんと見える上に、私がどこを見ているかは、外からはわからない。」
 青い服の女性はさらに、肩から背中にかけて服をはだけてみせた。背中には、無数のみみず腫れや切り傷のあとが、痛々しく残っている。
「もう二度とこうならないために。あなたも…気をつけて良い旅を。」
 そして青い服の女性は、ゆっくりと口角をあげて、寂しげに微笑んだのだった。
 
……いつか見た、夢の話である。

今年は話題の音楽を通ぶっているかもしれない

三橋圭介

最近、オーディオ・インターフェイスを使って24bitのハイレゾをAmazon Music HDで聴いている。以前DTM用に買ったインターフェイスが16bitだったので、ハイレゾ用に買い換えた。ポップスからジャズ、クラシック、現代音楽までほんとうにたくさんある(民族音楽はあまりない)。ハイレゾ音源もかなりの数があるが、最低限CDの音質(16bit)なので、どれをきいても音質は保証されている。この環境があればCDを買う必要はほとんどない。小学生の頃、お金をためて買った最初のレコードはたしかエンニオ・モリコーネだった。それからピアノのレッスン用と偽りながら買ってもらったりもした。そうやって少しずつ集めたレコードは何度も聴いたし、選択にもこだわりがあった。そしてなにより財産だった。CDの時代にはいっても同じだ。いまおそらく数千枚ものCDがある。クラシック、現代音楽、ジャズ、ポップス、民族音楽と分けているが、それを探し出す前にAmazon を検索すれば探している音源が簡単に出てくる(ただ民族音楽はほとんどない)。しかも一月2000円程度なのでCD一枚分にすぎない。物だったものがデーター情報になったが、Web上のどこかにあるだけで所有することもない。画期的なことだ、と簡単にいうことはできない。だが本もそうだが、物が多くなりすぎた。配信なるものが生活システムにすでに組み込まれ、私自身その一部をなしているのだとすれば、これを否定することもできない。今年は話題の音楽を通ぶっているかもしれない。

時々、テレビで

若松恵子

ニュース番組は、人を脅かしてばかりで嫌になる。その日の最初のニュースが、あおり運転で逮捕された人の、フロントガラス越しのすごい形相だった時には、いいかげんうんざりした。社会にとって、切実なニュースがそんなものなわけがない。どうして加速度的にこんな事になってしまったのか。朝の支度をしながらや、夕食後のひと時にテレビをつけているのが癖になっていて、もうこんな風にテレビをつけているのはやめようと何度も思う。

けれど、時々、テレビからはっとする映像が届くこともある。
この前、タモリが司会をしているミュージックステーションという音楽番組で、竹原ピストルが歌うのを見た。アメイジング・グレイスのメロディに勝手に歌詞をつけたもので、カバーとも言えないのだと前置きして歌ったその1曲に、心が揺さぶられた。

ミジンコみたいに小さくなって、あなたの頭によじ登り、あなたの白髪を黒く染めたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたの掌によじ登り、あなたの生命線を長く伸ばしたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたのおなかの中に入り、刺し違えてもいいから、あなたのがんをぶっ殺したい

正確ではないが、記憶の限りではこんな歌詞をギターを弾きながらひとり歌ったのだった。誰か、身近な大切な人への祈りである事はすぐに伝わった。声は、そのまま心の形だった。3分くらいの短い持ち時間の中で、ひとりの歌い手が自分の存在を全て注ぎ込んで歌うのを見た。

朝出かける前のつかの間に、イッセー尾形がブラジルから日本に移住した人たちを描いた一人芝居を上演したというニュースを見た。宮藤官九郎の脚本で、ブラジルからの移民の人たちが多く住む団地で上演されたという。日本のゴミの分別が細かすぎて、よく間違えて叱られてしまうなど、日本に来ての彼らの苦労話が「そういう事あるある」とユーモアたっぷりに描かれる。そしてクライマックスは、団地のベンチで孤独死をした高齢の男性の、実話に基づく物語が、イッセー尾形のひとり芝居で語られていく。彼は日本に来て不幸だったのか、ひとりぼっちだったのか。救いを求めて、彼はひとりぼっちじゃなかったという虚構が演じられる。

団地の広場のようなところで上演される一人芝居を見るブラジルの人たちは一緒に笑い、一緒に泣いていた。日常会話に苦労しない程度には日本語が上達した彼らだと思うけれど、心の深いところで分かり合うには、言語ではなく演劇という肉体による言葉が最適だったのだろう。

インタビューを受けるイッセー尾形は舞台上のように饒舌には語らないけれど。ブラジルから日本に来た人たちへの、日本人としての歓迎の気持、遠い旅へのねぎらいの気持を持って演じたのではないかと思った。役を離れている時の彼はジャブジャブ洗って洗いざらしになってしまったような顔をしていてカッコ良かった。ほんの小さなカケラでも、心を打たれる人がいれば、何万人という単位での影響力があるのがテレビだ。時々テレビでそんな、閃くカケラをつかむことがある。

製本かい摘みましては(160)

四釜裕子

〈山麓生活をはじめた主な動機は、天の高みへの憧れからだったが、おもいがけなくも、赤ら顔の詐欺師が、天ならぬ地界への扉を、こんこんと叩いてぼくを導いた。急がば回れ、足もとからこそ鳥が立つ〉。

2月に刊行された画家でエッセイストの渡辺隆次さんの画文集『森の天界図像 わがイコン 胞子紋』(大日本絵画)の冒頭にあることばだ。「詐欺師」とあるが、イギリスではキツネタケケをそんなふうに呼ぶらしい。渡辺さんが八ヶ岳界隈で採取したキノコの胞子紋を組み込んだ新旧の作品に、書き下ろしのエッセイ一編と、これまで発表されたエッセイの中から抜粋したことばが編んである。机上に開いてそれらの絵をのぞき込んでいると、文様が眼球のように浮かび上がってきたりヘルメットマンが疾走したり。天を映す湖面に吸い込まれそうになって我に返るのと似たこんな状態に誘われるのは、ぴったりと気持ちよく開く「コデックス装」で仕立てられたことにもよるだろう。

コデックス装とは本の背がむき出しになった糸かがり並製本で、普通ならこのあと背に寒冷紗などをはって補強してから表紙をつけて断裁し、さらに表紙カバーをつけて完成となる。ところが中身を糸でかがってノリで固めたところでおしまいにするという、言わば「途中の状態」がコデックス装だ。これを選ぶ一番の理由は、手でおさえなくてもすべてのページがよく開いて、絵や写真がノドでくわれないこと。背に何もはらないと強度が心配されてきたけれど、接着剤の質や技術の向上でもはや問題にならないところまで来ているのだろう。『森の天界図像』の場合は二つ折りした厚めの紙が表と裏の表紙となり、黒地に銀で胞子紋が刷られ、そこに表紙カバーがかけてある。ブックデザインは上田浩子さん。

コデックス装という呼び名を私は2010年に刊行が始まった林望さんの『謹訳源氏物語』で初めて聞いた。改めて見るとこう書いてある。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です〉。

この方法は『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁 2005)などのようにそれまでにもなされてきたし、林さんが書いておられるように「綴葉装」のいわば仲間だし、おおまかに言って目新しいものではなかった。しかしあまりにも糸かがり本が減っている世の中にあってそれをウリにするわけだから珍しいし、なにより「コデックス」+「装」という、ピンとこない名付けながら由緒ありげで響きがよく、これがその後の流行に大きく貢献したんじゃないかと思っている。しかしなんでコデックス装なんだろう。

2013年に『謹訳源氏物語』全10巻が完結したあと、日本豆本協会会長の田中栞さんがブログ「田中栞日記」でこのことに触れていた。〈この言葉、語感は良いのだが「コデックス」というのが冊子全般を示して背表紙の有無とは関係がないために、この形態の製本構造のイメージにストレートに結びつかないという難点があった〉。田中さんはこの形態を示すものとして、〈「背表紙がない造本形態」であるとわかる言葉にするべき〉として、〈雉虎堂の八嶋浅海さん発案で「バックレス製本」という言葉が作られた〉。さらに林望さんとやりとりする機会を得て、〈「無背装(むはいそう)」という語はどうか、という新たな提案を受けた〉そうである。背表紙のないものが多い和本で背を包んである形態を指す「包背装(ほうはいそう)」という語があり、それに対する「無背装」として、〈これはなかなか良い用語であると思う〉。当時も今も読んでなるほどなあと思う。

「デザインのひきだし41 製本大図鑑」(2020)にもコデックス装はもちろん出ている。やはり製本会社が背固めに使うノリを工夫するなどして、ノートとして使っても壊れないほどの強度を実現しているようだ。人気についてはこう書いてある。〈製本途中のような無骨な感じがいいと思う人が多いせいか、ここ10年ほどでかなり使われることが多くなった製本。本誌で初めて取り上げたとき(12年ほど前)は、「コデックス装」といっても通じない場合も多かったくらいだが、今ではどこの製本会社でも「コデックス装」で通じるほどメジャーになった〉。

2008年ころにはすでにこの名称が使われていたということになろうか。また、見た目や雰囲気としての流行もあることがわかる。「デザインのひきだし41」には背に寒冷紗を巻いた「クロス・コデックス装」も出ている。〈名前が特になかったので本誌編集部が便宜上そう呼んでいる名前なだけなのだが〉とのことだけれども、「デザインのひきだし」のお墨付きだからここに間違いなく名前を得て誕生したと言っていい。

背がむき出しになった製本ということでいうと「スケルトン製本」なるものもあった。こちらは糸でかがるのではなく、無線綴じやあじろ綴じの背にPUR(ノリの一種)を塗る。不透明で白っぽいEVA系ホットメルトに比べて透明度が高いPURを使うのがミソで、篠原紙工さんが名称も含めて考案したそうだ。「ノリではるだけでしょ?」と思うことなかれ。ノリを塗布しても〈この状態で製本機から取り出せず、またそのままだと糊の表面も平滑にならないため、一度、PURが接着しない加工を施した仮の表紙をつけて製本し、製本機から出てきたところでその表紙を剥がす〉。これで初めて、きれいな背になるという。なるほど――。

思い起こせば、紙をもっと手軽に綴じて本にしたい、正確に言うと、ノリの扱いが苦手なのでノリを使わずに本のかたちにするにはどうしたらいいだろうと、「糸だけ製本」と称して試していたのは2004年のこと。大きめの紙を折り、その折り山も同じ糸でかがって表と裏の表紙にすることに落ち着いたのだが、これもいわゆるコデックス装ですっきり気持ちよくページが開く。「楽譜にもよいのでは?」と採用してくださったのが八巻美恵さん。これが『高橋悠治ソングブック』(水牛 私家版 限定100部 2008)の製本のお手伝いにつながった。

『高橋悠治ソングブック』の最初の曲は「ぼくは12歳」(岡真史 詩)の「みちでバッタリ」。私が初めて聞いたのは矢野顕子さんバージョンだった。〈そして両方とも/知らんかおで/とおりすぎたヨ/でもぼくにとって♪〉のあとすぐのジャン♪が、怖かったんだよなあ……。そのくせ街でことさらに誰とでも知らんかおですれ違うのが気持ちよかったのだった。

196 金メダルをメキシコ湾の湖へ沈める

藤井貞和

みずうみのな、底にはむかしの親たちの墓の村があってよ、
わしら運転手のはこぶ移転の通知には宛て名が書かれておる、それを、
ゆらゆら藻のかたちして出てくる腕二本へわたすのや。
そのとき、ぎゅっと腹をにぎってくるのが不快で、
ふと気をとられたら、もうわしらは霧のなかよ、
道路の枯らし剤を食いあててバンパーがこぼれる。
ちりぢりになるわしらのタクシーがみずうみに残骸をさらしてよ、
日にあびるボデーのかがやきには思わず感心しちまうほどよ。
町のな、蟻の巣から出て湖上に走りつづけて、
わしらの抽選付きの乗車カードで銅メダルでも銀メダルでも買えるんやから、
なつかしいパンのかたちのそいつと思ってくれていい、
わしらの言い伝えではたましい状のまるいかたちとも称しているわ。
遠い少数の人に宛ててはがきに歌を書くわ、
死んだばあさんに呼びかけてよ、
ぎゅっとなにをにぎってくる世間話や、
みずうみにはすきまがあって身体がものとものとの「あいだ」にこすられて、
わからんうちにしばられるという話をして、
きみらに聞かせる散るタクシーの歌、
聞きながらなにが移転とそのまえとによってわしらの残骸に、
わずかな変化がこもるか、いうこと、
いとおしさの心のちがいが生じるかということよ。
火は蟻のかたちをしていてこっちが巣から覗くまぶしい朝日に思う、
優勝はきみのためにある、むかしの金メダルの伝説はほんとうで、
きらりと光るそいつがみずにゆれて沈みながら、
叫んだというはなし。さあもう行くで、
わしらのタクシーはみずうみを一回りして来にゃ稼ぎにならん。


(観光客をな、わしらのしごとは湖へあんないするんや。ゆうひが出払って、朝日を待たないで、深夜の太陽がな、あの岬からのぼる。祈りを忘れたら、あかん。祈りの詞は教えられん。でもな、教えたる。あんたは研究のために、こんな、地球のうらまできたのや。研究して、研究して、研究して、それでも足りなかったら祈れ。滅んでも、滅んでも、滅んでも、隕石のひとつを持って帰れ。わしらの一九六四年の、東京でな、あの隕石が金メダルや、キラキラしてる。一九七二年のぎゃくさつで、わしらの故郷はもうないんや。おぼえてる神話はないで。無事にお帰り。)

思い通りにならない

高橋悠治

まだ終わらないコロナ騒ぎのなかで 昨年録音したCDが続けて発売された 波多野睦美の「ねむれない夜」 青柳いづみこの「物語」「高橋悠治ピアノリサイタル とりどりの幻想 白昼夢 夜の想い 記憶と再会」 

それから台湾のピアニストJulia Hsu のための「夢蝶 Dream Butterfly」(2017) と低音デュオ(松平敬と橋本晋也)のための「ぼうふらに掴まって」2018) (川田絢音の詩)を含むOpen Space 43 に続いて こちらが Craig Pepples の「Example1」を弾き Julia Hsu が 「遇見・歧路・迷宮 Encounter Crossroad Labyrinth」を弾いてくれた Open. Space 44 そして Roger Turner と2019年に静岡の青嶋ホールで即興演奏の記録 Yuji Takahashi + Roger Turner imaszok 03 がこれから出るらしい

栃尾克樹とのシューベルト「冬の旅」のことは書いたかな アカデミー賞をもらったという記事を読んで どこのアカデミーかと思ったら「レコード芸術」の賞だった

なにかがうまくいったと思えるとき こんなはずではなかった これではないと思いながら 仏教でdukkha (苦と訳されるが むしろ思い通りにならない状態か)というのはこれか いるべき場所もなく 行く先も定まらずに 何を待つともしれず 待っている状態 

日本では自主規制とか自己責任というようなことばで ロックダウンではなく 拘束社会を作れる 21世紀型の「自発的隷属」とも言えるだろうが どこかはっきりしない違いがある この風土のなかにいて 過去が造り上げた檻の外に出るのは いっそうむつかしいのかもしれない

数学や論理 分類や分析から離れて 身体の感覚から音楽を創ろうと思ったのが1970年代だった もう半世紀前になる それから東南アジアや 日本をふくむ東北アジアの伝統音楽を観察しながら だんだん20世紀現代音楽の風潮から離れて あれこれの小さな探りをくりかえし さらに うごこうとする前の一瞬のためらいで 思っていた方向やリズムとはちがうものに変わってしまう そこから崩れる感じ 外れて逸れ それに気を取られて さらにずれていく 隙間の空間 そこに垣間見る風景 この不安定な状態を保つのはやさしくない 気がつくと しっかり押さえて 止まっている それでも止まっているように見える内側でうごいているなにか 

うごいているときは逆に でこぼこ道をすべったり跳ね上がったり傾いたりしながら どこへともなく風景が移っていく

昨年4月23日にオフ・ガーディアンで読んだローズマリー・フレイの「パンデミックから全体主義への7歩の道」  は パンデミックの緊急事態宣言からあいまいな情報を伝えながら 全員を孤立化させ スマホによる位置測定とワクチン接種で 監視社会を作りあげるプロセスが書かれていた 分子生物学者から医療問題のフリー・ジャーナリストになった人の予測は 今振り返ると 当たっていた この先どうなるのか そもそも「先」があるのか 世界は暗い