『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー

 1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 3 「森」の生活

 4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

日本のみなさんへ スラチャイ・ジャンティマトン

 ぼくの国は、東南アジアの中のちっぽけな国だ。ちっぽけだというのは面積のことばかりではない。大多数の国民の暮らしむき、それに国際社会での威信ということも含めてのことだ。世界地図か地球儀の上でながめれば、もっと小さな国があることも確かだけれど、さらに大きな国ぐにと比べれば、ほんの小さな点にすぎないようなものだ。タイ国の主権者であるタイ人ほどにタイをよく知っている人ならば、この国がこの不確実な時代の問題を山ほどかかえていると、言うことだろう。

 問題……問題。ラテンアメリカ、中東、アフリカ、ヨーロッパ、東南アジア、いずこといえど問題のないところはない。どの神さまもまだ解決してくれたことがない、生きのびるための問題、民衆の生活の向上の問題である。よくいうではないか、生きているかぎり問題があり、問題があるからこそ生きているのだ、と。学んで、考えて、答えを探しださねばならない。よりよい生活をうるためには、すすんで考え、すすんで行動し、すすんで死を賭し、すすんで闘う。生まれながらにして貧困と負債の軛《くびき》につながれ、何らかの圧力のもとにおかれることに満足する者はいない。闘って、闘って、生きることへの光を見いださねばならない。たとえそれがささやかな光であっても、暗闇よりはましだ。

 ぼくの国は、昼より夜の方が長くて、女が男より多い。壁や牢獄が次々に生まれてくる。うす汚ないねずみの大群が人間を喰いものにしている。毎日路傍で死んでいく犬がいても、その死体や悪臭を気にかける人もいない。コンクリートのビル街や、バス停、歩道橋を飾っているのは乞食だ。街を一歩出れば、そこは貧しい農民たちでいっぱいだ。そして日々、子供たちが、大人たちから貧困を学び受け継ぐために生まれてくる。一方で、ある者たちは、生まれながらにして何もせずに巨万の富に恵まれているのだ。
 ぼくの国にはいい道路が沢山ある。日本の車の人気は大変なもので、どこでも手に入るほどだ。車ばかりではない。どっちを向いても、日本の商品ばかりだ。一見したところ、ぼくの国は大変な金持で、世界中を買いとることもできそうに見える。けれども違うのだ。ぼくにはよく分っている。ぼくの国には何もない。ただ世界の趨勢に合わせて、奢侈にふるまうのが好きなだけなのだ。
 摩詞不思議な話がぼくの国には沢山ある。法の番人が殺人者で、悪人が社会的地位を得る。あこぎな連中だけがけたはずれて金持だ。巨大なダムから送られてくる高圧電線は、農民の頭の上を素通りする。貧しい農村には電気を使うチャンスはない(彼らは灯油ランプを使っている)。電気は、都市の大きなホテルや、金持や外国人のためにあるバー、ナイト・クラブ、それに日本や台湾、アメリカ資本の工場などに送られてくるのだ。
 この国では、金さえあればほしいものが何でも手に入る。飲物、料理、女。女たちは現在、輸出品目の最たるものだ。金を払うだけで、彼女たちはいつでもあなたの首に腕を巻きつけてくるだろう。ぼくはこのような女たちと知りあったことがある。本当は彼女たちも普通の人聞なのだ、他の人たちと同じように、もっといい生活を求めているだけの。けれども、生きていくための必然が、彼女たちに、いくばくでもない円やドルで、肉体と魂を売り渡さざるをえなくさせている。
 このような人たちは、どこから大量にやって来るのか。ぼくは以前書いたことがある。農民の息子、娘たちは、水飢饉で破産した村むらからやって来て、「男たちは生きるために労働を売り、女たちは食うために身体を売る」と。鉄道の駅やバスターミナルに行けば、ぼくらの故郷イサーン(東北)から職を求めて出て来た人びとが、ゴロゴロ横になっているのに出くわす。ぼくは彼らを責めようとは思わない。はじめてバンコクに出て来たときのぼく自身も、現在の彼らとほとんど変わるところがなかったからである。

 農村について語るならば、まずぼくら(カラワンのメンバー)が、農村で生まれ、農村から出て来たのだ、ということを知ってもらわねばならない。田舎の人間が都会で教育を続けることを熱望するのは、現代という時代の風俗なのだ。どの親も、子供たちが旦那衆と呼ばれる身分になって、両親祖父母たちが営んできた苦しい生活を一転して、楽な生活がおくれるようにしてくれることを望んでいる。そしてさらに、知識と教養を身につけて、田舎の人びとを助けてくれるように、とも。
 ぼくらは、都会に出て教育を受けるということは果した。ただし第一の願望、人の上にたつ旦那衆になるという点ではまったく望みはない。何故ならば、人は誰も、人の主人となるべく生まれてくるのではない、と思うからだ。だからぼくらは、この不公平な社会を痛烈に叩く。貧しいか豊かであるかにかかわらず、人としての存在は平等であるという意識から、ぼくらは、あらゆる権力を断固否定する。
 第二の願望については、もちろんぼくらは自分たちの田舎のために、何か手助けになりたいと願っている。けれどもぼくらだけでは、何もなしえないだろう。ただひとつできること、それはぼくらが以前からなじんできたこと、彼らのために歌をうたうことだ。この歌声が、お互いに理解し合い、助け合うことを呼びかける声となることを願って。そうでなければ、今までにたびたび起こった想像もつかないような流血の惨事がまた起きるだろう。そのたびにぼくらは悲しむ。
 いずれにせよぼくらにできることはあまり多くはない。ぼくらの親兄弟たちは、今でも貧しいままだ。たとえぼくらがロビン・フッドや盗賊ジェシー・ジェームズになったとしても、歌をうたい続けていくこと以外にできることは少ない……いずれかの日に生命が尽きるまで。ぼくらは農村が将来よくなることを願っている。生活レベル、教育、保健衛生、国の福祉政策などすべてにおいて。
 事実は、田舎の人間は、この世の中の多くの人びとが理解しているような愚鈍でも、野蛮人でもない、ということである。彼らにも裕福な人びとと同様、頭脳があり考えがある。ただ違うのはチャンスと生まれだけなのだ。
 彼らは文字が読めないかもしれない。電気のスイッチが使えないかもしれない。水洗トイレの使い方が分らないかもしれない。テレビがつけられないかもしれない。けれども魚をとる、獣を射とめる、田や畑を作るという作業での彼らを、誰が愚鈍と呼べるのだろうか。
 人はそれぞれ違った生まれ方をして、違った育ち方をするのだ。けれどもぼくの国では、農村について学ぼうという姿勢がなかった。そればかりか、農民を価値のない低い身分と蔑んできた。
 ぼくらは農村で生まれ、農村で育った。そして困難な状況のもとで教育を受けた。何故なら、それは必死の思いで求めなければ得られないものだからだ。こうした生活の中で学んだことは、教室で学んだことより大きかった。ぼくらは一九七三年のタイ民衆の闘争の中から生まれ育ったのだ。それは驚嘆に価する闘争だった、ぼくの生涯にとって、最も大きな意味のある。現在、この運動の血を受け継いだ者たちは、あらゆるところに散らばっている。困難な時を経て、生気に満ちあふれ、かつ苦渋をかみしめながら……。

 ぼくらは、この世界のどこからであっても、正義を求める歌声を愛する。現代は、あたりまえの人びとが声をあげる時代だ。彼ら自身の言葉、彼ら自身の言語で、正義を愛する世界の兄弟たちが聴いて考えてくれるように。信じこませようとさそいかけるどんな宣伝文句にも、ぼくらの生き方を左右されてはならない。
 ぼくらは、現代という時代が不可避的に浸透した純農村地帯の出身だ。生まれついて出逢ったのがこのような社会だった。ぼくらは保守主義者でもないし、エレクトロニクスの申し子でもない。ぼくらはぼくら自身であるにすぎない……機械が巨大な捻り声をあげている時代に、牛車を駆って進む第三世界の貧民のキャラバン。近代化した世界にはお慶び申し上げる。すべてのことが人類の利益と幸せにつながるように。貧しい国ぐにから多くを得ている方々にもお慶び申し上げる。もしもまだ足りないと思われるなら、残念至極だと申し上げたい……。

一九八二年十二月二十四日


晶文社 1983年7月15日発行  





本棚にもどるトップページにもどる