『スラチャイ・ジャンティマトン短編集』 荘司和子訳

目次    


「ドクアライゴマイルー」序文

何の花だ?

孤独

路傍の放浪者

孤独


「50サタン(1960年代当時1バーツ18円で50サタンは9円)ならある」
小柄で色の白い男が言う。
「気にするな、金なら俺が持っている。来いよ」と、年長らしき男は言う。
「そりゃあ、ありがたい」
小柄な男はかすかに顔をほころばせる。

2人の男が歩道に立ち止まってぐずぐずしている。歳が上らしい男は髪を短く刈っていて皮膚は赤銅色に日焼けしている。眉が濃くて太い。瞳は酒と睡眠不足のせいでにごっている。彼は鼻の下に立派な口ひげをたくわえていて、しょっちゅうそれを撫でるのがくせになっている。大学生の使う教科書のような本を1冊抱えているが、表紙はインクやペンキですっかり汚れてしまっている。

もうひとりは慢性的に苦労を背負い込んでいるといった風情で、表情も態度も双つの眼の色も乾ききっていて冴えない。年齢は19歳になったばかりである。くるくるとカールした長い髪はちょうど彼のこころの中がそうであるようにこんがらがっている。

小柄な男は手をズボンのポケットに突っ込んで2つのコインをチャラチャラと鳴らすと軽く口笛を吹いた。

一台のバスがまっしぐらに走ってきて通りしなに一陣の風を巻き起こして行った。2人が立っている歩道の足元にまでその振動が伝わってくる。バスが走り去った後の道路はまたがらんとした空間にもどり2人は楽に道路を横切った。
午後のこんな時間は朝や夕方と比べて人も車もほとんど通らないのが常である。
彼らが入ろうとしている喫茶店でさえ同様だ。

店内には2、3人の客しかいなかったので、2人はいちばんお気に入りのコーナーに席をとることができた。彼らはこのコーナーのうちとけた雰囲気になじんでいてここに坐っているのが好きだ。そう、この時間帯のこの店は彼らの休息するところなのだった。彼らはほとんど毎日やってきた。ひとりで来る日もあれば、2人そろって来る日もある。そして何時間もすわっている。彼らの注文するものはコンデンスミルク入りのホットコーヒーとお湯割コンデンスミルクだった。

2人の身なりと言えばどちらも薄汚くて似たようなスタイルをしている。彼らは親しい友人なのだった。

少年がミルクコーヒーとお湯割コンデンスミルクを運んできて、彼らのテーブルに置くとにこやかに尋ねる。
「煙草はいかがですか?」
「4本もらうよ、マッチもだ」と、年上の方が注文する。
そして2人はお互いに笑顔を向け合う。すると小柄な男が小さい声で話し始めた。

「知ってるかい? ぼくがどうして毎日この店に来るかって」
「知ってるさ。君は俺に、もう2、3回も話したじゃないか。なんでまた訊くのさ。ほんとのとこナイちゃんけっこう綺麗だよな。大人になってきたら余計綺麗になった。去年はまだ身体がちっちゃくて痩せこけてたぜ」
「ん。。」
とつぶやきながら小柄な男はこの店を切り盛りしている若い女性のほうを指差す。彼女は華人で色が白くて彼のような若者にとってはどうしたって綺麗で可愛いのである。
「やめてよ、聞こえちゃったらてれるじゃないか」
小柄な男は小声でささやく。
彼らは再び笑顔になると、そろってコップをとりあげて飲み物を啜った。

客の何人かが出て行くとまた別の客が入ってくる。男子学生と女子学生のカップルが入ってきて一番奥のテーブルまで進んでそこに席をとると深刻な表情で何かひそひそと話し始めた。と、また静まり返ってしまった。頭上の時計が同じリズムで休みなく時を刻んでいる。ミルクコーヒーとお湯割コンデンスミルクからはまだ湯気が立ち上っていて2人の男の顎のあたりにただよっている。大柄な男がまたひげを撫でている。小柄な男の方は俯いてずっと黙ったままでいる。と、口を開いてこう言った。

「孤独癖ってやつはなかなかつらいものがある」
「ん。。」ともうひとりはまだひげを撫でている。
「どうしたらこいつから解放されるのかなぁ」
相手はひげを撫でるのをやめるとこんどはため息をついた。
「誰だって同じさ。君の孤独感がどれほど大きいかってことはあるにしても。ぼくだって感じてる。人間皆それぞれに孤独なのさ」
「一日中誰とも口をきかなかったってことあるかい? はなしたいという気はあるのにだよ」
「あるよ」
「夕方の空をずっと眺めているってことあるかい? 現在のバンコクでだ」
「あるさ。好きなんだ、眺めてるのが。スタディしたいのさ」
彼は「学ぶ」という語を英語で言うのがくせになってしまっている。

「孤独癖が身について以来。。学校を辞めちゃって友だちがいなくなって以来。。そう、バンコクに来てぶらぶらしているようになってからっていうもの、ぼくはまともに月を仰いだことがないんだ。早朝の太陽を見たこともない。今日は下弦なのか上弦なのかだってわからない。暦を見もしない。田舎の学校に通っていたころとは違ってしまったんだ。楽しくって最高にしあわせだった子どものころとさ」
「ん。。」
「ぼくは今根無し草だ。王宮前広場を1日に何周も歩いてしまう。タマリンドの木陰が憩いの場だ。ときには易者とはなしがしてみたくなったり、体重計の番をしている子ども(注・1回いくらかで通る人の体重を量る)に声をかけてみたくなったりする。けれども何もはなさない。こんな風になったときもあるよ」
「う〜ん、続けろよ」

小柄な男は首を横に振ってからコップをとりあげ飲み物を啜った。それからもう1本の煙草に火をつけるとゆっくりと煙を吐き出し、店の外の方を見やった。学校帰りの生徒たちの一団が店の前で立ち停まって話をしているところである。
ほがらかにきゃあきゃあいう笑い声が聞こえてくる。彼はため息をついてまた視線を店内に移した。中国系の若い女はコンロの前で仕事に没頭していて、彼が見つめているのも気づかない。公務員が2人入ってくるなり買ってきた飯を食べ始める。ラジオからはちょうど彼の好きな歌が流れてきた。いつもなら曲に合わせて自分もハミングしてしまう彼だったが、そんな気分は既になかった。

「1万バーツもあったら何をしたい?」と、彼は訊く。
大柄な方の男はひげを撫でるをのやめて笑った。
「毎日酒飲んでなくなるまで飲むな。乞食にも分けてやらなきゃ。徳が積めるだろ。それからバーでもクラブでも行って思いっきり遊ぶんだな」
「芸術家って酒の強いやつが多いな」
「誰だって?」
「アーティストだよ」
「誰だ?」
「アーティスト」と、彼は発音が正しいのか自信がなくなったかのように小さな声になってまた言った。

ラジオの歌声が静けさを破るように寂寥感の中に闖入してくると、彼は突き出した顔をしきりとこすって言った。
「田舎が懐かしいなぁ。ぼくは子どものころのことがいまだに忘れられないんだ」
「俺もだ。あんな風なままでいられたらなぁ」と、大きい方。それから2人は互いの視線を合わせた。掛け時計が休みなく正確にリズムを刻む音がしている。少年は熟練した手つきで料理を運んでいる。バスが片側に緑色の塀が続く道路を走り去って行った。夕方ともなると人びとは誰も彼もひたすら家路を急いでいる。店の前では靴修理屋が小さな柄の金づちを振り上げて釘を打とうとしているところだ。靴の持ち主がその前に立ってじりじりして待っている。

大学から学生たちがぞろぞろ出てきた。大きな紙を筒状に巻いたものを抱えている者もいれば絵の具箱を抱えている者もいる。何冊もの本をだらしなく抱えていて見苦しいのもいる。時計を見ると4時をまわっている。日差しが傾きはじめると涼風がそよよと店内にまで入ってくるようになった。

大きい方は最後の1本の煙を深く吸い込むと、見るともなくぼんやりと外を見やった。小柄な方は靴の底でタバコの火を消すとそのまま俯いてセメントの床を見つめていた。

「空がようやくぼくら好みの鮮明さになってきたな。朝の空はぼくらにとっちゃ濁っているもんな」と、大きい方の男は飲み仲間といるときのセリフをつぶやいた。
「酒の匂いが漂ってきた。ぞくぞくしちゃうよな」
「けど今夜は断酒するしかないぞ。銭がないもんな」
「なんでぼくら、年がら年中貧乏なんだろうな」と、小柄な男は声を震わせる。
「食うものもあったりなかったり。そのくせ金が入るとすぐ酒を飲んじゃう」と、こんどは腹立たしげにテーブルを叩いた。

大きい方の男は何も言わず相変らずひげを撫ででいる。それからタバコの煙を続けて強く吐き出した。小さい方は俯いたまま穴のあいてしまったズック靴を見つめていた。

店内は次第に客がふえてあちこちから楽しげに笑う声が聞こえてくる。酒を注文してもうすっかり盛り上がっているところもある。大柄な男はひげをなでる手を止め酒を横目で見やると苦しげに唾を飲み込んだ。小柄な男はくるくるカールした髪に手をやり2、3回掻いがやはりじっと俯いたままだった。それまでのつらい過去をじっと思い起こしていたのだった。ふと顔を手で撫でたがまだひたすら耐えているように黙していた。そして、やがて、涙が両眼から流れ出ているのだった。。。

「姉さん、あの人また泣いてるよぉ」
少年はひそひそと姉に告げた。若い女は2人の方にちらっと視線を向けただけですぐまた仕事を続けた。





(1968年、スラチャイのごく初期の作品)






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