風が吹く理由(7)心音

長谷部千彩

窓の外の景色にiPhoneのカメラを向け、録画のボタンを押す。波打つ海はインクブルーの濃淡で水面に網目の模様を作り、生命を持った何かのようにもこもこと隆起と沈降を繰り返す。まるで芋虫の背の動き。
遊覧船は波を割って進む。窓の下では、白い引き波が激しい飛沫をあげている。秋の日暮れは早い。西日が波頭に当たり乱反射する様子を眺めていると、私にはそれが小さな妖精が忙しく踊っている姿にも見えてきて、また、硬い床に、ぶつかるように触れるバレリーナのトウシューズのつま先のことも連想され、加えて、金色の何かが粉々に砕け散る、正確には砕け散り続けているようにも思われた。

ボタンを再度押し、録画を終え、小さなディスプレイで動画を再生してみると、船は思ったよりも速い速度を保っているらしい。目で見るよりも、波の動きも光の動きもずっと早く、コマ落としのフィルムのようだった。
エンジンの音。振動。顔をあげて、再び窓の外を眺めると、水面から頭をのぞかせた岩の上で、鳥が数羽、休んでいる。あれは何と言う鳥なのだろう。カモメ。ウミネコ。私にはその違いがわからない。
水平線。今日は一日よく晴れていた。私は心の中で、なんて綺麗なのだろう、と呟く。空も綺麗。海も綺麗。陽の光も綺麗。素晴らしい。そして、私はひどく暗い気持ちになるのだった。

もう慣れている。いつものことだ。こうして東京を離れ、自然の中に身を置くと、私はそこで目にする世界に圧倒され、感嘆の声をあげるのに、同時に強烈な疎外感に苛まれる。部外者として突き飛ばされたような、鼻先でバタンと扉を閉められたような気持ち。そんな時、慌てて辺りを見回すと、大抵、人々は安らぎを覚えたような表情をしていて、それがさらに私の孤独感に追い打ちをかけるのだった。

人間の誰にとっても、自然は安らげるものとして存在しているのだろうか。自然を前にすると、寄る辺ない気持ちになるのは私だけだろうか。母なる大地という言葉があるけれど、もちろんどんな意味で使われているのかもわかっているけれど、最も身近な土はベランダに並べた植木鉢の中にあり、私にとって地面とはアスファルトで覆われた道である。アスファルトの上を革の靴で歩く暮らし。靴の底がすり減ったら、修理に持って行く暮らし。歩く時には、カッ、カッ、カッというヒールが鳴らす小さな音。それが私にとって歩く音。大地と私が作る音。

船着き場が近づいてくる。とても綺麗だった。楽しかった。本当に美しい。そこまでは言える。誰にでも言える。誰もが頷く。私たち一緒ね。同じように感じているのね。だけど私には続きがあるのだ。
―でもその美しさを懐かしく思う記憶が私にはないの。
眩しいのにずっと見ていた波間の光。だけど私の頭の中には別の光が点滅していた。誰に話したらいいのだろう。そもそも私と同じような気持ちであの赤い光を眺めている人はいるのだろうか。街の灯りを受けて暗くなりきれない東京の空に浮かぶ高層ビルのシルエット。その輪郭を示しながら、ゆっくり静かに誰の心を招くでもなく毎晩同じリズムで明滅するあの光。

―あれはね、航空障害灯という名前なんですって。
それは、私が生きた年月の中の多くの時間、私の視界に当たり前にあったもの。私の記憶と現実をきつく結びつけて留めているもの。私はそれを目にする時、自分がいるべき場所にいると感じる。海や山を観ている時のような居心地の悪さは感じない。子供の頃から好きだったもの、寄り添っていたもののそばにいる気持ち。
―私、ほっとするのよ、あの光を観ていると。
昔、一度だけそのことを話したことがある。窓ガラスに手をあてて。
私の好きなあの光は、ゆっくり光るの。
心音みたいにゆっくり光るの。