アジアのごはん(17)タイの市場猫

森下ヒバリ

しばらくタイに行ってきた。帰国の日の朝、少し早起きして近所の市場に行く。タイカレーのペーストやトウガラシを荒くすり潰したナムプリックなどの生ものの調味料、生のトウガラシなどを買うためである。これらを買って帰らないと、次にタイに来るまでの日本での食生活が寂しくなるので、眠い目をこすりながら市場へ行く。早いと言ってもだいたい8時すぎまでに行けば、カレーペースト売りの店はまだ開いている。

バンコクの定宿はプラトゥーナムという地域にある。表通りの空気は大変悪い。プラトゥーナム市場は安い衣料品市場が有名だが、通りを挟んで衣料品市場の向かいに大きな生鮮市場が、昔はあった。今では借地期限が切れて、代わりに特色のない安直なショッピングプラザとコンドミニアムが建っている。

生鮮市場は規模を縮小して、元の市場の裏手の方に引越し、今に至っている。タイではごくふつうの、野菜や乾物、肉や魚、調味料などを売る市場だ。タイでは、いわゆる八百屋、肉屋、魚屋という独立した生鮮食品の専門店は町にはほとんどなく、そういう店は市場にまとまって入っている。生鮮食品を買うには、市場に行くことになる。

市場は朝市、一日中、夜市とあり、夜市は惣菜や、簡単な食事の店の市。一日中というのは、人がたくさん住んでいる地域に多く、需要にあわせて生鮮食品、惣菜、食事屋台が朝から晩まで開いている。朝市は生鮮市場だ。体育館の壁がなくて屋根だけのような建物の下に小さなブースがひしめき合っている。

プラトゥーナム市場は朝市であり、昼間に行くとガラーンとしている。もっとも朝の8時過ぎに行っても、店はまだかなり開いてはいるのだが、みんなすでに一仕事終えてフヌケのような状態である。深夜や早朝から店開きしているのだから仕方がないが、商品の後に座っているはずの売り子の姿がない、よく見ると横で寝ている。よくよく見ると、その横で猫も寝ている、といった状態である。

どういうわけか、この市場には猫がやたらと多い。朝でも通路を自由に歩いているし、昼間のガラーンとした市場ではたくさんの猫が昼寝している。猫たちのお気に入りスペースは、肉屋のブースだ。肉屋はブースを白いプラスチックの板や、タイルで貼っていてその上に直接、塊りの肉や豚の頭なんかを並べて売る。商売が終われば、そのブースを水で洗っておしまい。そしてきれいになった(でもすごく肉臭い)そのブースの上で、次は猫たちがごろごろと寝るのである。あんまりたくさん寝ているので、まるで生猫売り場だ。猫たちは実に実に幸せそうな顔をして寝ている。腹を出しているヤツまでいる。まさに至福。肉の匂いに包まれて。人間には生臭いとしか思えないけど。もちろん肉屋が飼っている猫わけではない。

マレーシアのペナンの裏通りでは、食堂の裏口から追い出され、包丁を投げつけられて飛ぶように逃げていく猫の姿があった。あの猫に比べてこのプラトゥーナム市場の猫たちのなんと幸せな姿。ちなみに、この猫たちはノラなのか飼い猫なのかというと、たしかに残り物のエサをもらっている気配もあるが、半ノラ、といったところか。市場猫、というのが一番あっているようである。ネズミ対策にいいのだろう。

とにかく、この昼間の、頭がぼうっとするような暑さのときに市場を通りかかると、肉屋ブースで猫が何匹も寝ているのが見えて、思わず頬がゆるんでしまう。脱力。

ちょうど去年の秋、タイから日本に戻った2日後にタイでクーデターが起きた。今回は4ヶ月たって1月末にまたタイに戻ってきたのだが、街の雰囲気はかなり変わっていた。クーデター前のタイは、タクシン首相(当時)支持派と反タクシン派とに国民が二つに分かれて対立していた状態であった。それをなんとか一つにしたのが「国王への愛」ということなのだが、暫定政府はおおむね国民の支持を受けてはいるものの、なかなか経済政策、南部テロ対策に有効な手が打てず、苦渋している。

さらに近年のタイの経済発展を演出したタクシン元首相の置き土産とも言うべき問題が次々に発生。新しく開港したスワナプーム空港では手抜き工事で誘導路が陥没、亀裂が入り、かなり危険な状態になって莫大な修理費はかかるわ、開港してみたらすぐに需要に追いつかなくなることが判明してあわてて閉鎖したドンムアン空港をまた開港せざるをえなくなった。数日前の報道では、空港の大手免税店キングパワーが不正に空港内の店の敷地を拡大し、その上法外に安く使用料金を契約していたことなどが判明し、空港公団から訴えられていた。

今回はじめてスワナプーム空港に着いたとき、規模は大きいのに、やたらと免税店スペースが大きく、イミグレーションや到着ロビーが狭くて、使いにくいったらない。一体どういう設計だと呆れたのだが、やっぱり・・。
さらに、タクシン元首相の系列会社が買収していたiTVというテレビ局がタクシン系列になって以来、国との放送権の契約料金がこれまた法外に安くされてきていたことが発覚し、現政府はその間の正規の料金を払うようiTVに求めたが、罰金を含めて200億バーツに上る額はとても払いきれるものではなく、あわや開局ならぬ解局に追い込まれた。テレビでは毎日iTVのアナウンサーやレポーターたちが泣きながら、iTVを助けて! とアピールをしていたが、そういう情緒的な問題じゃないんじゃないの、とやっぱり呆れた。

結局、iTVは解散にはならず、機材や組織にはお金がかかっているので、有効に使うことになり、政府管轄のニュース番組主体の局になって存続することになった。社員たちは泣いて喜んでいたが、もともとの、ムチャクチャなやり方をちゃんと反省したのかいな、と心配になった。

iTVは、じつは元々はアラブの報道局アルジャジーラに刺激されて出来た独立系の自由な立場のニュース報道局であった。ところが、タクシンが首相になると、さかんに不正や疑惑を報道したものだから、タクシンが怒って、あっさり買収してしまったのである。タクシン系列になると、一転してタクシン寄り報道姿勢になり、さらにタクシンに都合のよいように事実を歪曲した報道まで行い始めた。(たとえば反タクシン集会に集まった人の数を実際の10分の1ぐらいに報道したり、反タクシン派の人物を誹謗中傷したり、などなど)ニュースよりも娯楽番組中心の放送になったが、そうなると国との放送権契約が高くなるのだが、なぜか報道中心用の安い契約料のままに据え置かれていたというわけである。

タクシン元首相は、在任中に新空港の滑走路の安全性の問題について何度も取りざたされたが、「一切問題なし」と問題を隠蔽したままだった。手抜き工事が行われた背景には当然、工事受注のために莫大な賄賂が贈られ、その分を工事費から差し引いて造った、ということが考えられる。そういえばまだあった。格安国内航空会社のエア・アジアもタクシン系列だったが、ここも空港使用料を法外に安くしてもらっていた。ふう。

タクシン・バブルがはじけて、その実態がつぎつぎに暴きだされて、タイにいる間、テレビや新聞を読むたびに、呆れる毎日だったのだが、当のタイ人たちはというと、(もちろん一部の人間は問題にしたり、まだタクシン支持の人もいるにはいるが)市場の肉屋で寝る猫のごとく、タクシンは追放されて問題は終わったし、いいんじゃないの? とのんびり過ごしているようである。クーデターをイベントのように楽しんでいた人も多かったようだし。いや、まあ、それがこの国の気質といってしまえばおしまいなのだが、そういうのもまあ、いいかなと思ってしまうほど、もうタイでは暑さが本格化してきた。真夏である。気温が38度や39度では、怒ろうと思っても、猫のようにどうでもよくなって、ふにゃふにゃとネムくなってしまうのである。