メキシコ便り(29)チリ

金野広美

エクアドルからメキシコに帰り1週間、今度は再度、チリ、ボリビアと旅するために出発しました。夜11時5分の飛行機でサンチアゴ・デ・チリへ。翌朝8時すぎに着き、ホテルに直行。少し休んだあと、いまではビクトル・ハラ・スタジアムから国立競技場に異動になったルイスに会うためでかけました。当初私はビクトル・ハラはここ国立競技場で死んだものと思い込んでいたので、過去2回のサンチアゴ訪問時に2回も来ているので、慣れた道です。

ルイスは相変わらずのやさしい微笑みで迎えてくれました。1年3ヶ月ぶりの再会です。いろいろたまった話をいっぱいして、彼は国立競技場の中を案内してくれました。やはりここも1973年の軍事クーデターの時に3000人余りが閉じ込められた場所です。今は改装工事中でグランドの中までは入ることができませんでしたが、スタジアムの中には小さな部屋がたくさんあり、ここも刑務所代わりになったと説明してくれました。

通りかかるルイスの友人たちにもひとりひとり私を紹介してくれ、彼の上司の部屋では1時間余りも話しこんでしまいました。そして、チリではどこに行きたいかを尋ねてくれ、私がパブロ・ネルーダの家や、ワインのボデガ(ワイナリー)などに行きたいというとネットでいろいろ調べてくれました。そんなルイスが教えてくれたボデガに予約の電話をいれ翌朝でかけました。

チリワインは日本でも多く輸入されていて、フランスワインなら5000円はするところが1000円くらいで買えます。「この値段でこの味なら結構、結構」というわけでなかなかの人気ですが、その中でも有名なコンチャ・イ・トーロのボデガにいきました。

サンチアゴから27キロ、バスで約1時間かかりました。入り口で7ドルと15ドルの見学コースがあるといわれ、4種類のワインとそれにあったチーズが食べられるという15ドルのコースにしました。でも日本だとお酒の工場見学は試飲をさせてくれて、おまけにタダなのになーと思いながらもお金を払って中に入りました。

社主の大邸宅の庭やブドウ畑、樽によってそれぞれの温度管理がされている倉庫などを見学したあと、ソムリエのサロメさんがワインの味わい方を4種類のワインを飲み比べながら解説してくれました。グラスを傾けたり、回したりしながら色や香りをまず楽しんでから飲むというものですが、今までワインをそんな風に優雅に飲んだことはない私は、それなりにその作法と、チーズをはじめとする料理との相性の話はなかなか繊細な話でおもしろかったのですが、こちらのスーパーで700円位で売られているワインを少し飲むだけで15ドルはやっぱり高いと思ってしまいました。しかし、それにもかかわらずここは予約が必要なほど観光客がひきもきらないのです。

そのあとぶらぶら庭を散歩していると「そこから先へは立ち入り禁止です」と警備員に言われました。そこで彼と少し話をし、ここで飲んだワインや、観光客の多さ、見学費用の高さなどについての感想を言うと、彼は小声で「この会社はあまりに有名になってしまったので、密かに商標を別の会社に売っているのだよ」といいました。そして、「本当に安くておいしいのはね」といって別の会社の銘柄を教えてくれました。ここで働いているにもかかわらず、私のような外国人観光客にこんな話をするなんて、きっと会社は儲けているにもかかわらず、従業員には安い給料しか払っていないのだろうな、などと思いながら豪華な大邸宅と広大な庭のあるボデガをあとにしました。

次の日はイスラ・ネグラにある、詩人、パブロ・ネルーダの家に行きました。太平洋を望む高台にその家は建っていました。ここも観光客がいっぱいで予約がなければ入れないといわれました。しかし、「せっかく日本からはるばる来たのだから入らせて欲しい」と頼むと「他の人には内緒にしてね」と受付の女性が特別に入れてくれました。

海をこよなく愛したというネルーダの家はまるで船室のようにつくってあり、ドアもトイレもとても小さく、大きなネルーダはさぞかし窮屈に行き来したのではないかと思いました。友人だったアジェンデ大統領とお茶を飲んだという客間は、海と庭に面する2面が大きなガラスになっていてとても明るく、さぞかし話しがはずんだのではないかと思います。また、たくさんある部屋には彼の膨大な美術品のコレクションなどが所せましと並べられ、まるで彼の家は海に浮かぶ美術館のようでした。

1973年9月11日、ネルーダがガンで療養中にチリでは軍部によるクーデターが起きました。アジェンデ大統領が死んだあと、家に軍部が乱入、蔵書や調度品を破壊しました。そのため彼は急に容態が悪くなり病院に行く途中、軍部に車から引きずりだされ亡くなりました。アジェンデの連合政府に協力した彼もやはり、ビクトル・ハラと同じようにクーデターにより殺されたのだと私は思います。

次の日、パタゴニアの入り口にあたるプエルト・モンに行くため8時の夜行バスに乗りました。サンチャゴから1024キロ、約13時間かかります。朝9時に着きましたが、めちゃくちゃ寒くて、あわててて上着を2枚重ね着しました。バスのターミナル近くに宿をとりさっそくツアーを申し込みました。1日目は近くの湖や火山、牧場、川などを回り、2日目はチロエ島という島を巡るのです。しかし降り出した雨でオソルノ火山は全く見えず、美しいはずのジャンキウエ湖の水は暗く激しく波打ち、ひたすら寒くてゆっくり外で観光している気になれず、早くバスに戻りたいと思うばかりでした。

このようにさんざんな初日でしたが次の日はきれいに晴れ、チロエ島に行きました。ここはアレルセという木を薄く切り、赤や黄色、緑など、色とりどりに塗り魚の鱗のように外壁に貼り付けた家が多く、とてもかわいらしい街です。道路はカミーノ・アマリージョ(黄色の道)と呼ばれチャカイという黄色の花が道路の両側と草原一面に咲いています。そしてここは魚がとてもおいしいところで、昼食に食べたあふれるばかりの貝のスープ、蒸したメルルーサは絶品でした。でも味つけがうすく、これに醤油があればいうことなしだったのですが・・・・。

それにしても春だというのにこの寒さ。私はがまんできずに毛糸のマフラーを買ってしまいました。行く先々のみやげ物屋には観光客の気持ちを見透かしたようにいろいろな毛糸製品が売られています。他のツアーの人たちも次々カーディガンなどを買い込み、どんどん太っていきました。

次の日、どうしてもオソルノ火山が見たくて初日と同じツアーに申し込みましたが、約束の時間の15分前にバスターミナルに行ったにもかかわらず、すでにツアーバスは出発してしまっていました。旅行会社の担当者も困惑していろいろ運転手と連絡を取っていましたが、結局どうしようもなく、当初の10倍出せばタクシーで連れていくというのですが、そんなに出せるわけはなく、私一人で路線バスを使っていくことにしました。

この日は空も晴れ上がりオソルノ火山がきれいに見えました。頂上に雪をかぶったこの火山は富士山そっくりで、湖のかなたにこれを見たときは、まるで富士五湖から富士山をみているのではと錯覚したほどです。広い緑の草原には牛や馬が放牧され、桜や菊、藤の花が咲き乱れ、カエデの木や、まるで北山杉のような林まで現れては、なんだか日本を見ているみたいで、娘や息子、父や母はいまごろどうしているかなあ、などいつもはあまり思い出すこともない家族がちょっぴり懐かしくなりました。

日本へのノスタルジーを感じてしまったあくる日、サンチャゴとの中間あたりにあるテムコという町に移動しました。ここはチリの先住民マプーチェが多く住むところです。彼らが住んでいた先祖伝来の土地をチリ政府が材木会社に売ってしまい、今なお、政府と衝突が続いています。3ヶ月前にもデモ隊と警察が衝突し、32歳のマプーチェの男性が亡くなったということでした。

私のガイドブックにはテムコの情報は何もなかったのですが、行けば何とかなるだろうと行くことにしました。マプーチェの民芸品を売っていた店で、ここからバスで45分のインペリアルという街にマプーチェが多く住んでいるということを聞き、行ってみました。そして、ここで銀細工の小さな店を出している純粋のマプーチェのセフリーノ・チェウケコーイさん(52歳)にいろいろ話を聞くことができました。

マプーチェは現在チリとアルゼンチンにまたがって住んでいますが、チリには50万人が住み、主に農業で暮らしを立てています。そしていくつかの家族で共同体を形成しています。彼のコミュニティー、ソト・カルフケオは18家族が所属しそのリーダーには4人の妻がいるということでした。セフリーノさんに「うらやましい?」と聞くと無言で照れたように笑っていました。女性は平均8人の子供を産み、家事をし、子供を育て、美しい織物をつくります。それにしてもどこのインディヘナの女性も同じように重労働ですね。私など2人しか育てていないので、その苦労は想像がつきにくく、本当に頭が下がります。

セフリーノさんは若いころは出稼ぎで南米各地を点々として働いていたそうですが、6年前にこの店を出し、古くから伝わるマプーチェの銀細工の首飾りや指輪を作って生計を立てているそうです。なかなか美しかったので私も素敵なデザインの指輪を買いました。いまでは別れて暮らしているという彼の家族の話しなどをしてくれたあと、最後に彼が「いろいろ苦労はしたけれど、私はマプーチェとして生まれてよかったです」と静かに語った言葉がとても印象的でした。

次の日サンチャゴにもどり、ルイスとまた会いました。そして彼との「今度チリに来たときにはビクトル・ハラの『耕す者への祈り』を原語で歌う」という約束を果たすべく、彼の現在の勤務地である国立競技場の多くの人が閉じ込められていたという部屋の前で歌いました。彼はにこやかに、そして小声で一緒に歌ってくれました。そして、私がビクトル・ハラ・スタジアムでも歌いたいというと、自分は行けないけれど、話をとおしておいてあげると言ってくれ、明日スタジアムを訪ねるよう言いました。

次の日は土曜日で、ほとんど従業員はいなかったのですが、1年3ヶ月前、ルイスと一緒に私の日本語の「耕す者への祈り」を聞いていたというクラウディオがいて迎えてくれました。そして「話はルイスから聞いているので是非歌ってください」と言ってくれ、ハラの絵が掲げてあるスタジアムに案内してくれました。私はハラとここで亡くなった人たちに敬意を払うため、ゆっくりおじぎをしてから心をこめて歌いました。スタジアムの構造がよかったのか、私の声はとてもよく響きました。ここでもクラウディオが小さな声で一緒に歌ってくれました。そして歌い終わったあと、彼は少し涙ぐんでいるようでした。何度も何度もすばらしいといって、私の手をとり、そして抱擁してくれました。私も胸がつまってきて、知らず知らずのうちに涙がでてきてしまいました。

私がこの歌に出会ってから30年以上が過ぎましたが、今やっと原語で、そしてビクトル・ハラの死んだ場所で歌うことができました。思えば私はこの日を迎えるためにスペイン語という言葉に長年こだわり続け、この年になってからでもなんとかものにするまではと若者たちの背中を見ながらがんばれたのではないのだろうか、という気が今ではしています。ビクトル・ハラが亡くなって36年。しかし私の中ではハラはずっと伝説とともに生きつづけていました。そしてとうとう彼の最期の場所まで私を引き寄せたのです。私は「耕す者への祈り」をビクトル・ハラに捧げるため歌いました。

   沈黙の瞳によみがえれアンデス   すべての息吹きわきいずるふるさと
   ぶどうの房も輝く稲も       耕す我らの実りであれ
   立ち上がれこの大地に       命かけ身をおこせよ
   山も川もその手ににぎれ      耕す君の手に守るときは今
   嵐の中に咲く花のように      貧しさに生きるきょうだいよ
   いざその手に銃をとれ       種まく手に武器をとれ
   奪われてはならぬ我らの祖国    正義と平等の耕す者の国
   抱きあい進め 死を恐れず     耕す者よ 立ち上がれ アーメン アーメン