犬狼詩集

管啓次郎

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「三景に兎あり」という言葉を夢で見たがさっぱり理解できなかった
英語教師としては名詞と動詞だけで書けと教えている
コーヒーのまずさが驚くほど新鮮だった
日曜の日没を川越しに悲しい気持ちで見ている
肌が褐色に灼けることを生まれ変わりの実現のように感じた
魚たちの汚染を抜きにして詩を書くことに意味はあるのか
「?」という文字を書いてから「褐」だったと気づいた
心が文字を去るとき新しい文字が生まれる
蜂蜜のしずく越しに社会主義の遺産が見えた
公園の塀に二人の少女がすわり黄昏を観察する
高い二本の塔を空中の通路でむすび円卓を載せ回転させてみた
相撲取りのような中国産のシャーペイが何頭も番犬として飼われている
茹で卵をいくつ食えるかという競走で小学生に完敗した
舗道の敷石がはずれて中世の砂浜が顔をのぞかせる
時計の歯車を加工して耳から下げてみた
ミントとセージを摘んで水に入れたが飲んでも全然うまくない

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窓ガラスがゆっくりと流れて窓枠の下に溜まっていった
白黒のまだらのカラスが公園の地面を歩いている
工事現場の足場の下を小さな犬が吠えながら通っていった
雲が二層に分かれ低い雲がすごい速さで飛んでいる
雲と犬と樹木にしか詩を感じられない年だった
岩は空間だ、ロックは空間だ、どちらも空間を埋める
自分が見る夢は論理的すぎて笑えると友人がいっていた
まるで道端のホットドッグ屋のようにガソリンを売っている
狼が戦火を逃れて半島から移住した
時空を隔てればそれだけで事実も詩に変わる
読みたいと思うページだけを切り取り何度でも読む男がいた
「自由な日」という名で労働奉仕を強いる社会もある
目を半ばつぶりながら「眠くない」と痩せ我慢していた
飛行機の遅れを精神的な危機にむすびつけるのは単なる悪習だ
執務、執筆、執行のすべてをゼロ地点に戻したかった
来年こそは七月に「八月踊り」を見にいこう

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視線という名のもとに目から矢を飛ばしていた
イスタンブールにヨーロッパを感じることをヨーロッパ人が否定する
絵はがきのコレクションがあるから美術館には行かないと医者がいった
絵を見るのは恐ろしいことなので私はほとんど見ない
台所に水滴ひとつ落ちていないスイスが疎ましかった
白いTシャツにケチャップのしみが飛ぶ国に帰りたくてたまらない
教会の入口まで来てこの服装ではだめだと引き返した
「新しい交通法規が出たよ」と映画館で冊子を売りつける子がいる
魂を小さな硬貨に宿らせることを試みた
教会を見えない建築として再設計する建築家たちだ
時計職人である以上正確でない思考は我慢できなかった
ひとつの谷に別の透明な谷がかぶされた気がする
深い峡谷までロバの列車とともに下りて行った
伝統的なすべてのismに反対するismを買う
どれほど空虚な言葉だって「未来」ほどそれほどひどくはなかった
島の深夜にヤシガニのがさごそという音を聞く楽しさ

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音声はあまりに冗長なのでそれを聴くより文字を知りたかった
この言葉を覚えるにつれて目がだんだん青くなっている
顔は人によって手にあったり尻にあったりした
犬を窓として世界を学ぶことがないとは確かにいえない
単純な作業としてオリーヴの植樹と釘打を選ぶことができた
朝の水面は青く午後おそく水面も雷雨に変わる
語と語の連結が可能なのに心にはそれがなかった
その秘境には絶対に行けないよ、でも携帯電話が通じる
ぼくの手が近づきすぎたとき凍ったように虫が身を硬くした
螺旋階段を下りる自分を自分が追いどこまでも下りてゆく
バナナを皮のまま焼くときれいに熟した色になった
探検家と金魚すくいとどちらがよりペシミストなんだ
永遠を語るのは勝手だが病から自由になれなかった
水脈がどこにも見えない、とうもろこしがすべて枯れた夏
客の来ないタクシー乗り場で運転手が二十人も昼寝をしていた
街路樹の枝から落ちて子供が泣いている

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鏡を一度も作品に出したことのない小説家だった
鏡を文字で書けるならそれは一種の呪術だ
犬の痛みと鏡の痛みを比べて泣く泣く鏡を割った
青空に明るい月が上り鏡という隠喩を見失う
女友達の瞳を鏡としてピアスを直す少女がいた
心を鏡と呼んでもそこには何も映らない
きみの秘密はと訊かれた子が筆箱を開けて鏡を見せた
猫と猫を鏡により増殖させても二匹以上には増えない
表面の凸凹があるスケールより細かくなると人にとって鏡が生じる
ある種の罪悪感が鏡として表現されるのはなぜか
鏡をもって金銭的な解決策を模索する時代だった
返してくださいといって円い鏡を四角く切り取る
人生にとっての鏡としてトルストイを読む哲学者がいた
心臓の位置に鏡のタトゥーをして後は偶然にまかせる
ランス・アームストロングが激突して鏡が粉々に砕けた
割れば割るだけ鏡が増えて渡り鳥を迷わせる

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小さな王朝のリロケーションをめぐって論争が続いていた
脳がなく皮膚だけで判断する動物の知性は肌にある
陥没する乳首にふれてそれを隆起させた
地名が世界の衣裳としてナヴィゲーションを指示する
写真撮影が事件を公式にし歌がその雰囲気を記憶した
自分自身のbecomingのために役立つTシャツを探しにいこう
聖母被聖天の教会を過ぎたあたりから空爆の臭いがしてきた
河があまりに曲がって空では雲が迷う
揚げた魚の酢漬けをパンにはさんで昼食にした
都市は墓地の連続体だというので歩きながら何度も十字を切る
粉末のコーヒーを頼んだら熱いミルクで溶いてきた
民族衣裳はきわめて洗練された裸体だそうだ
空は青、シャツも青、窓はターコイズ・ブルーだった
眼球そのものが縞模様なので風景がストライプにしか見えない
TRGとは何かの交通機関かと思ったら広場のことだった
「余計者!」という声が響く教会で帰農を議論する